片付けられないティーセットがそのままになったテーブルから、紅茶の残り香が僅かに漂っている。 乾燥した日ならすぐ消えてしまうだろうそれがあるのは、きっと空が泣いているからだろう。 そこで談笑していただろう人影は今そこになく、声と物音は別の部屋にあった。 ベッドの上に腰掛けているのは魔理沙。その傍らには彼女のいつもの黒白装束が畳まれている。 「こんなものかしら」 そしてその魔理沙の襟元から手を離すのはアリス。 魔理沙の色彩はいつものものではない。赤と白。レースとフリルはいつもより多い。 持参したものではない。アリスの所有する別の服を着ている。 それを着せたのはアリスであって。 「似合ってる」 「そうか?」 傍らの鏡をちらと見た魔理沙と違って、その顔には笑みが燈っていた。 タイが少しゆるい気がするが、魔理沙は無視した。 それよりも、鏡に映った自分の姿が、灯かりの不足のせいか、微妙に生気なく見えるほうが気がかりだ。 「動きづらそうな服だよな。お前を見てるといつも思うんだけど」 不平を言えば 「動き方が粗雑だからよ。家の中でくらい我慢したら」 なんでもないような答えが来る。 悪いとは言わない。可愛い服は嫌いではない。 しかし何か居心地が悪かった。 「だからそんな顔しないで。もっと笑ったほうが可愛いわよ」 薄暗い部屋の中で、アリスの微笑みは微妙に判別しづらいが、白い手が何か別のものを掴んでいるのはよくわかる。 「それから、これ」 「?」 それはリボンだった。 袖にもリボン、オーバーニーソックスの裾にもリボン。ついでに髪留めも。 いずれも赤く、まるでそこが出血しているかのように細長かった。 そして今度のリボンも。 「何処に付けるんだ、これ以上」 「首」 「首?」 言うが早いか魔理沙の後頭部へ手を回し、するりと首にリボンを巻きつけるアリスの白い手。 苦痛も違和感もない。すこし窮屈なくらい。だが冷たい手のほうは、どうも慣れなかった。 「チョーカー」 「首輪のつもりかと思った」 「首輪でもいいんだけれど」 慣れた手つきで結び終わり、チョーカーを巻かれた首からは、やはり血が漏れているかのように見える。 まるで外で降りそそぐ雨のように、自分の身体からも血液が漏れでて止まらないかのようだ。 魔理沙は尋ねる。 「着せ替えて楽しいのか」 アリスは尋ね返す。 「楽しくない?」 湿った服を換えてくれると、最初にアリスはそう言った。 そのかわりに着せ替えごっこをさせてくれ、というなら素直にそういえばいいものを。 そこまで考えて魔理沙は思い直す。アリスは素直にそう言えるような奴でもないか、と。 「楽しくないワケじゃないけどな」 目を細めてアリスの顔を眺める。口元の楽しそうな歪みがどうなるか見るために。 「人形扱いされてるみたいで好きじゃない」 やっぱり消えた。 「その服、嫌だった?」 「暑い」 「そう?」 「私は妖怪でも人形でもなく人間だからな。湿ってる日は特に」 「……そーか」 それはアリスに相互理解が欠けているのではない、というフォローのつもりだったのだが、アリスはそう受け取らなかったらしい。 「そーか」 どさりと、アリスの身体がベッドに倒れ伏す。 「痛ッ」 腕が魔理沙の胴を巻き込んで、二人はベッドに共に横倒しになっていた。 「いきなり何だよ」 「魔理沙が喜ぶと思ったのに」 そのときのアリスの眼は冷たい色をしていた。 魔理沙の肩にかけられている手と同じくらいには。 「嘘だろ」 「嘘じゃない」 「じゃあチョーカーは何のつもりだよ」 魔理沙は己の首に巻かれたリボン結びを解く。 するりと抜けて魔理沙の首を離れたそれは血液というよりは蛭のように見えた。 「服も、これも、魔法で私を拘束するのに使えるだろ」 「……そんなつもりで私が」 アリスの手が魔理沙の背中に回される。 「そんなつもりで魔理沙に接するわけないじゃない」 冷たい手が魔理沙を抱く。 冷たい頬が魔理沙の側頭部を撫でる。 「……」 冷たいアリスの腹部を、魔理沙の膝が蹴り上げた。 「ッ!?」 二発目 「が……ハっ!?」 魔理沙はアリスを押しのけて、言った。 「ごめんな」 その時のアリスの眼をどう言い表せばいいのか、魔理沙にはよくわからなかった。 驚いているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、恥じているのか、悔やんでいるのか、憎悪しているのか。 その全部が一度に。人間にできる眼ではない、直感的にそう感じた。 目を逸らして言い放つ。 「私は人間だから」 アリスの着せた服を脱いで、自分の服に着替えなおす。 白い肌が露になるが、それはアリスのそれほど白くない。 ピンク色の、別の言い方をすれば赤みがかった、血の通った色だ。 「……あぁ、そうなんだ」 アリスはその色が途轍もなく恋しかった。 自分にも人形にもない色が。 魔理沙はその色が必要だった。 アリスにも人形にもない色が。 「やっぱり私じゃダメなんだ」 「ごめん」 魔理沙の背中を見ながら、アリスは何か言おうとしたのだが、言葉にならなかった。 それを口にしたら全て終わってしまうように感じられた。 片付けられないティーセットがそのままになったテーブルから漂っていた、紅茶の残り香はもうない。 乾燥した日ならすぐ消えてしまうだろうそれがあったのは、きっと空が泣いていたからだろう。 そこで談笑していた人影は今そこになく、声は別の部屋にあった。 ベッドの上に倒れ伏しているのはアリス。傍らに誰がいるでもない。そこにはもう、彼女の押し殺した嗚咽しかなかった。 end