まくろきゆめ 〜幻想郷と霊夢と黒と〜 いつものように境内で掃除をしていたら、突然に幻想郷の空が『真っ黒』になった。 暗くなったわけではない。夜になったわけでもない。そもそも夜の空の黒とは質が違った。 それは、真に黒だった。星も月もない。 いや、時刻は朝だったはずだ。かといって日食でもない。 奇妙な事にいるはずの太陽は隠れている。しかし周囲は見渡せる。 そのお陰で、より奇妙なものを見る事ができた。できてしまった。 向こうのほうの景色にも黒が広がっていたのだ。 それは山を谷を呑み、徐々にこちらへ近づいているようだった。 「これはどういうこと?」 境内の掃除をしながら、いると思う方向へ声をかけた。 「残念。私はこちらですわ」 すると、全然見当違いの方向から返事があった。 そいつは空間に隙間を開けて、金の髪と紫のドレスの目立つ姿を現した。 「紫」 私――博麗霊夢は、眼前に浮かんでいる妖怪・八雲紫に問う。 「コレは何?」 「黒よ」 質問に最小限の応えが返ってきた。黒いのは分かっている。 「黒?」 「そう。終わりの黒」 終わりとはまた穏やかではない。 「そのうちこの幻想郷全土があれに覆われるわ。終わりよ。もう何もする必要はないの」 さらりと何を言うんだこの妖怪は。巫山戯ていると調伏するわ――― --------------------------------------------------------------------------------------  「 なにも する ひつようは ない 」 -------------------------------------------------------------------------------------- そう。何もしなくていい。 「神社には人払いの結界を敷いたわ。逃げてくる者は来ないわよ多分」 逃げてくるって、何がどうなって――― --------------------------------------------------------------------------------------  「 これは いへん では ない 」 -------------------------------------------------------------------------------------- そう。これは。異変ではない。 「ええ。だからそのまま掃除でもして過ごしなさい。さようなら」 紫はそういうとさっさと隙間に消えてしまった。 掃除でもしていよう。そうしよう。 どれだけの時間、そうしていただろうか。 どんどん迫ってくる黒が神社の麓まで達しようかというところで、見慣れた白黒が飛んできた。 人払いの結界を敷いたと紫が言っていたが、なんだ。来るではないか。 来訪者の顔には明らかに疲労と焦燥が浮かんでいる。 荒い息を強引に整えると、彼女――霧雨魔理沙は口を開いた。 こちらを…見たこともない凄みのある目つきで睨みながら。 「みんな、みんな消えちまった」 開口一番がそれだった。 「神霊廟も、命蓮寺も、地底も、妖怪の山も、天界も、永遠亭も、白玉楼も、紅魔館も……全て」 「ここに来ようとしても来れなかった。何なんだ一体…」 それは、紫のせいだろう。 「あちこち回って、全部なくなって、やっと此処には入れたと思ったら!」 語尾が急に強くなった。目つきが鋭くなる。 「なにをやっているんだ!おまえは!」 怒声だった。とてもやかましい。 「何を…って?」 「何をじゃない!異変だろうこれは!」 何を言っているのか。コレは異変ではない。だから動く必要はない。 「これは――異変ではないからよ。私は動くつもりはないわ」 そう。これは異変ではない。何もする必要はない。 幻想にまどろんでいたものが現実に還る時が来た。終わりの時が来た。それだけのこと。 「守矢神社も!香霖堂も!太陽の畑も!魔法の森も!竹林も!霧の湖も!――人里まで!」 魔理沙は強い怒気が込められた叫びを繰り返す。 「みんなみんないなくなった。それでもこれが異変ではないだと!?」 石畳の上をかつかつと大またに歩いてくる。普段の彼女らしくない乱暴さだ。 などと思っている間にすぐ目の前まで魔理沙が迫ってきた。 見つめていると、彼女の両腕が勢いよく上がったのが見えた。 ぐっ。 「ふざけるなッ!」 ――これまで、何度かこうして絞めつけられたことはある。 ある時は妖怪退治の悪足掻きで。 ある時は勝手に怨んできた人間の手で。 本当に何度も、何度もあった。 だが、彼女に締められたのは…はじめてだ。 今、魔理沙の白い指が、私の首を絞めている。 しかし力は半端にしか入っていないので苦しくもなんともない。 そんな震えた指で何をされようと怖くもなんともない。 そういう目で見てやると、魔理沙は自分が咄嗟に犯した行為に気付いたのだろう。 馬鹿のようにハッとなった表情をして、指を緩めた。 そうこうしている間に、天地を覆う黒が、先に魔理沙が来た階段を上って境内にまでやってきた。 きっと幻想郷を粗方呑み込んだのだろう。鳥居の向こうにはもう何も見えない。黒だ。黒がある。 かつて私たちが幻想郷と読んだ場所は、遂にここ博麗神社のみとなったのだ。 その光景を魔理沙は背中越しに見つめた。金色の瞳が怯えているのが見えた。 恐らく彼女は各地を飛び回って先ほど口にしてきた場所を全て見てきたに違いない。 次いでそれらが尽く呑まれていく様を見届けてきたのだろう。 此処に来ようにも(紫の結界のせいで)来れず、その分余計に彼方此方を回ったはずだ。 彼女の事だ。きっと何とかしようと足掻いたに違いない。ヒトを助けようと奔走したに違いない。 しかし結果は目の前にある。いるのは、魔理沙ただ一人だ。 詰まるところ、結局誰一人救えずに単身でここまで逃げてきたのだ。 帽子も箒も無くして来たぐらいだ。この日のこれまでの時間の中で、多くを失ったのだろう。 その、自分一人だけになってしまった少女は、自分の首に手をかけながらまだ何か言ってくる。 それは怨嗟だった。この日ただの一人も訪れなかった神社に、誰一人の断末魔も届かなかった地に、 これまでの消失を一身に背負った魔理沙の声が響く。 「なんでお前は動かない!どうしてここで掃除などし続けている!どうして!どうして――」 「―――どうしてお前は、そんな顔をしていられるんだっ!?」 ……魔理沙の言う"そんな顔"がどんな顔をしているのか。分からない。 姿見ならば社務所に…と思いながら背後を見る。 黒は神社を半分呑んでいた。魔理沙が小さく悲鳴を上げるのが聴こえた。 そのまま、自分の首から手を放してその場にへたり込んでしまった。 まるで力尽きたと言わんばかりに。 いよいよ行き場がなくなった。自分も。この子も。 「なんでだ。なんでこうなっちまったんだ…」 声からは先ほどまでの激情はすっかりなりを潜めてしまっていた。 「この間も、ここで皆と宴会をやったじゃないか…」 そう。つい一昨日だ。色んな人妖を交えてここで宴会を開いた。 いつも通りの馬鹿騒ぎ。いつも通りの賑やかな雰囲気。いつも通りの穏やかさ。 それが…今や全てが嘘であったかの如き静謐さである。 星空は黒。神社からの眺めも黒。黒。黒。何もかもが黒。 これが白だったらさぞ目に悪かった事だろう。それだけマシだと感じた。 その黒は、自分を中心に狭まってくるようだ。周囲の木も草も石も全て自分を中心に消えていく。 理由は分からないが、幻想郷を呑む黒だ。大結界や境界と繋がりでもあるのだろう。 この黒に呑まれたものが何処へ行くのか。分からない。 死ぬのか。それともどこかへ送られるのか。それともただ消え去るのみなのか。 紫が最後に来た時に聞いてみればよかったと今さらになって思った。 隙間へ消えていった彼女はどうなっただろう。考えてみたが出ぬ答えを模索しても無駄なので止めた。 仮に死ぬのだとして、自分は業が深すぎて天国にも地獄にも逝けぬと閻魔が言っていた気がする。 業と言われても何が引っかかっているのか皆目見当が付かないから困りものだ。 単なる言いがかりと思っていたが、本気っぽかったから本当なのかも知れない。 まあその時はその時なのでその時になって考えればいいや、という結論に達した。 そう言えばあの閻魔はこのザナドゥ(楽園)が消えたらどうするのだろう。再就職でもするのだろうか。 まさか死後の世界すらこの黒に呑まれたのだろうか。だとすると死人には少々気の毒かもしれない。 死んだ後にまた消えるなんて自分でもちょっと嫌だと思ったからだ。 ……ふと、ここまで色々と考えている自分に疑問を抱いた。 いつもなら面倒な事はなるべく考えないようにしているのに、今になってこの心中はどういうことだ。 さっき魔理沙にこれは異変ではないと告げたが、今現在の自分の心は確かに異変であった。 人には怖がったり慌てたりすると、妙に饒舌になる人がいる性格の者がいる。これを当てはめてみるなら、 どうにもならない現状を前にして、自分の中にも少しだけ恐怖が鎌首をもたげているのかも知れない。 魔理沙は自分の足元で項垂れている。 一昨日どころか昨日まで元気だった少女は風船にように萎みきっている。 それだけの絶望を味わってきたのだろう。自分がこうして掃除をしている最中に。 掃除。そうだ。もうそんな必要はないのだった。 何気なく続けていた掃除が不意に無駄なものに思えてきた。箒ももう必要ないではないか。 そう考えるとこれは邪魔だ…と思い、さっきまで石畳の上を舐めていた箒を放ってみる。 使い慣れた箒は、黒に呑まれて見えなくなった。それを自分だけが見届けた。 残ったのは自分と、傍にいる魔法使いと、大体六畳間ほどにまで狭まった空間だけ。 その空間も少しずつ狭まってきている。せっかちなものだ。 立ちんぼも疲れてきたのでその場に座る。 へたり込んでいる魔理沙と変わらぬ高さになったが、彼女は反応しない。 直に座った石畳の上は、硬い。尻が抗議してくるのを感じながら、 どうせなら縁側を選べばよかったと後悔した。 それなら茶を飲みながら待てたのに、どうして自分は箒を取って掃除なんぞしていたのか。 ここは自嘲するところなのかも知れない。しかしどうにもそんな気にはなれなかった。 黒が遂に石畳を平らげ、その上に載る自分と魔理沙の足元を塗り始める。 「あ……ひっ」 完全に塞ぎ込んでいた魔理沙の視界にも、黒が映ったのだろう。情けない悲鳴が漏れた。 幼子のように怯えて飛び退りかけて、飛ぶ先がないと悟るや、身を縮こまらせた。 しかし黒は無遠慮だ。小さくしたその身にも容赦なく黒が来る。また悲鳴が上がる。 見ている自分の肌にも、黒が移った。靴を、足を、服を、黒が染めていく。 不思議と何も感じない。熱くも寒くもない。痒くも痛くもない。硬くも軟らかくもない。 ただただ黒が迫ってくる。その事実だけが感じられる。 尻越しに伝わっていた石畳の感触が、消えた。足の感覚も先からなくなっていく。 そういえば空気はどうなるのだろう? 先ほど首を絞められたばかりでなんだが、窒息するのは御免被りたい。 いよいよ下半身が塗り潰されんとしたところで、魔理沙がこちらに抱きついてきた。 半ば倒れ込んでくるに近いそれを、避ける空間も避けるつもりもないので黙って受け止める。 ぎゅっと…確かな感触と温もりが伝わってくる。もっとも、腰から下は無反応なのだが。 金色の髪がすぐ傍にあった。若干高さが足りず、魔理沙の顔は自分の胸の位置にあった。 足が満足に使えなかったので無理もない。かく言う自分も足が動かない。 座って正解だった。これで倒れたら頭から黒に突っ込んで終わっていた。それはあまりに格好悪い。 「――あ、あああ…」 胸の中で魔理沙が怯えきっている。身体も小刻みに震えていた。 背中に回ってきた腕が締め付けてくる。 どれも今までの彼女からは考えがたい行動だった。 いよいよ最後が近づいてくる。 「こ、こわい……霊夢……」 ここに来て、漸く魔理沙が私の名前を呼んだ。 「……れいむ……」 震えきった声で、呼んだ。 何もする必要はない。 これは異変ではない。 --------------------------------------------------------------------------------------  「 なにも する ひつようは ない じきに きえる それも おまえも 」 -------------------------------------------------------------------------------------- 五月蝿い。知ったことか。八雲藍。 --------------------------------------------------------------------------------------  「 ……… ……… ……… 」 -------------------------------------------------------------------------------------- 静かになった。気付かれないと思ったか、莫迦。 見ていられない。金色の髪を撫でながら、口を開く。 「だいじょうぶ」 魔理沙が、はっとなってこちら正面から見つめる。 「………えっ?」 目に溜まった大粒の涙が頬を伝っていく。 ぐしゃぐしゃに濡れた顔は本当に子どものようにしか見えなかった。 それを見て、言いたい事を言った。 「私も、ちょっと怖い」 「……………」 魔理沙は、無言で頭を胸に埋めてきた。 この娘はこんなに臆病だっただろうか。いや、照れ隠しなのかもしれない。 ぎゅっと抱きしめてみる。顔は見えないが。表情は分かった。 少しだけ、微笑んでくれているのが、視えた。 ―――やがて、黒が彼女を覆い尽くした。 感触も、温もりも、消えた。黒になった。 ほぼ同時に抱いていた腕の感触が消えた。 背中に回されていた魔理沙の腕の感触も消える。黒が、近づいてくる。 それでも放したりはしないつもりだった。 もし放してしまえば、この子がどこに行ってしまうか分かったものではない。 もう掴んでいる感触など微塵もないが、このまま黒いのにしてやられるのも癪だ。 なので、思うだけ思って、やるだけやってやる事にした。 黒は、首へ、顎へ、耳へ、舌へ、鼻へ、来る。くる。くる。 視界は黒。本当の真っ黒。何も聴こえない。息も苦しくない。不思議だ。 あ。あー。今何となく黒に埋まった。 うまったとおもう。 あー あたまがまわんなあい あー あ ――― ――――― ――――――――――――――――――――――――― ――――――――…―――――……――――――――……――――――――――…………… …………………………………………………………………………………………………………… …………………………………………………… ………………………… …………… …… -------------------------------------------------------------------------------------- 「紫様、幻想郷のイレースが完了しました」 「ん。ご苦労様」 「これより自動処理で一帯を外界と同期させ、通常空間に戻します」 「そう」 「しかし…本当にコレで宜しかったので?博麗霊夢まで消してしまって?」 「貴女は全てを消去した後にそれを聞くの?随分と残酷なのね」 「! ……失礼、しました」 「用を成さない巫女も、私の手を離れて暴走する幻想郷も、必要ないわ」 「………は」 「次はもっと巧くやりましょう。そうね。外界から神を招く時には気をつけないと――  あんな郷では、招くことも、できない……」 「紫様」 「……ん?なあに?」 「紫様は、あの地を、幻想郷を…愛しておられると思っておりました」 「愛しているわ」 「では、何故―――」 「貴女が考える必要はないのよ。藍」 「………」 「自分は考えずともよいと分かっているから、実行できた。そうでしょう?藍」 「……………」 「今日は、もう結構よ。部屋に戻りなさい」 「…は」 (…………) (愛しているから、幻想郷を愛しているから、消すこともできるのですか) (作って、消して、また作って、そこに貴女は……何を求めているのですか) (誰を……お探しなのですか) (私には、分かりません) (ですが、私は紫様の式ですから――――) 「お供いたします。貴女が、私を必要として下さる限り―――――」                              〜完〜