その日の夜。 人里に出かけ、魔理沙を見たかどうか聞いて回ったアリスだったが、結局、何の手がかりも得られなかった。 青年が、人里の隅の方に住んでいたこと、仕事以外の人付き合いを積極的にしていなかったため、 “彼の存在を意識していない人間”がほとんどだったことが影響していたのだろう。 頼りない三日月が照らし出す、幻想郷の人里の片隅に佇む民家で。 青年と魔理沙は、ベッドに寝転がったまま、真夜中の語らいを楽しんでいた。 「……君は、どうして僕を嫌わないんだ?」 「ん? ……そう言われても、答えようがないなぁ」 「不幸だと、思ったことは無いのかい」 「幸せかって聞かれてもわからないけど、不幸ではないよ」 「……逃げようと、思ったことは無いのか」 「あはは、今夜は質問が多いなあ。  怖いと思わなくなってからは、それもない。  ……なんかさ、私が逃げたら、お前、壊れちゃいそうだし」 そう言ってけらけらと笑う魔理沙の髪を、青年が優しく撫でる。 魔理沙は心地良さげに目を閉じると、青年にその華奢な身体を寄せた。 「……なんで、こんなことをする僕を気遣う?」 「……わかんないよ」 「そうか」 青年に抱きしめられて、頬を紅潮させる魔理沙。 その時、彼女はようやく――自身が、青年に恋心を抱いているのかもしれない――と、 “推測”できたのだった。 「ずっと、このままでもいいかもしれないな」 ぼんやりとした頭で、魔理沙は呟く。 青年は、何も答えなかった。 ふたたび、朝が訪れる。 今日も青年は、魔理沙を拘束してから仕事へと出かけて行った。 魔理沙はもう、それに対して何の疑問も抱くことは無い。 ただ、逃げる意思の無い小鳥の逃亡を恐れる青年が、哀れに思えるだけだ。 退屈だな、などと呑気に考えて、ベッドに寝転ぶ彼女は、ふと、 ベッドのすぐ横に取りつけられた、鍵付きの小窓に気配を感じて、なんとか身を起こした。 風に揺れる艶やかな紫色の髪。雪のように白い肌。眠たげな、しかし綺麗に澄んだ暗い紫色の瞳。 見紛うことなど、あり得ない。 彼女は、小窓の外でふんわりと浮かんでいるであろう、紅魔館の大図書館に住まう知識人の名を叫ぶ。 「パチュリー!」 「……しばらくぶりね、魔理沙」 「どうして、ここがわかったんだ?」 「ずっと、あなたを探していた。でも、人里は思いつかなかったわ。  悪魔の館に住まう私だもの、人間たちはあまり私と話をしたがらない。  だから、しらみつぶしに人里を見てまわって、ここにたどり着いた」 「……そっか……ごめん……」 「何言ってるのよ」 どこか照れくさそうに笑うパチュリー。 屈託のないその表情を見て、今まで忘れかけていた“罪悪感”が、魔理沙の胸に込み上げる。 しばらくは沈黙を守ったが――そのうち、耐えきれなくなったのか、彼女は口を開いた。 「パチュリー……私は……此処に居て……幸せだったのかもしれない」 「そう、もしよければ、詳しく聞かせて」 「……ここにいる……男のこと……好きなのかもしれない。  ずっと優しくて……危害を加えられたことなんか一度だってなくて……  でも、でも、パチュリーは、心配してくれてっ……なのに……私、は、幸せで……」 言葉に詰まる魔理沙。 パチュリーは、自身の恋が破れたことを悟った。 けれど、彼女は涙を見せまいとして――。 優しい苦笑を浮かべて、魔理沙に言った。 「人間って馬鹿なのね。幸せであることに、罪悪感なんか感じるものじゃないわ。  ……あなたは、あなたが幸せになれると思える道を選びなさい」 「ありがとう、パチュリー。  他に私を探している奴がいたら、心配いらない、って伝えてくれないか」 「ええ。……あなたの幸せを願うわ」 それだけ言うと、パチュリーはその場を去った。 空中を漂うようにして飛行する。冷たい涙が流れ落ちる。 それを拭おうともせずに、彼女はただ空を翔けた。 「……ふふ、魔理沙が無事で良かった」 悲しげでありながら晴れやかな彼女の苦笑が、太陽の光に煌めいていた。 それからは、どこも平和なものだった。 青年と魔理沙は、相変わらず仲が良い。 今までと変わったことと言えば、魔理沙が、“青年に対して恋心を抱いている”ことを自覚したことくらいだ。 紅魔館のお嬢様は、大図書館でパチュリーと読書を楽しみ、小悪魔を交えて談笑している。 パチュリーも元気を取り戻したことで、小悪魔も心配事がなくなって安心しているらしい。 博麗の巫女も、直感でなんとなく色々と悟っているようで、かなり落ち着いている。 時折、小鬼や妖怪の賢者がやって来て、一緒にお茶の時間を楽しんでいるようだ。 妖精たちにいたずらを仕掛けられて怒ることもあるが、それもまた日常の一部である。 しかし――ただ一人、アリス・マーガトロイドだけは、 未だに落ち着かない様子で、魔理沙を探し続けていた。 パチュリーは、アリスの思いを知っていたからこそ、魔理沙は無事であることだけを伝え、放っておいた。 アリス以外はみんな、それぞれの日常を楽しんでいて。 そんな平和は、しばし続いた。 白銀色をしていたはずの月が紅く満ちて、紅魔の吸血鬼お嬢様が、上機嫌に飛翔する真夜中。 その平穏は、あっさりと打ち破られることになる。 「紅い満月、綺麗だな」 「そうだね」 「……あのさ、ちょっと外に出ないか?」 「いいね。真夜中の月見を楽しもうか」 堂々として、闇色の空に輝く満月の力を借りて。 魔理沙は、ついに青年に思いを打ち明けることにした。 気恥ずかしかったが、やはり言わなければならないと考えたのである。 「緑茶を持って行くから、先に行っててくれ」 「いいよ、待ってる。一緒に行きたい」 「……ありがとう」 そんな会話をしているうちに、すぐにキッチンへたどり着いた。 手慣れた様子で、青年は急須にティーパックとお湯を入れ、湯呑みに注いでいった。 コポコポ、という音を、聞くともなしに聞きながら、魔理沙は高鳴る胸を押さえていた。 ――それは、突然のことだった。 一番初めの甲高い音は、きっと、キッチンの窓硝子の割れた音だった。 次に聞こえたのは、急須と湯呑みが床に滑り落ち、砕け散る、不安感をあおる不愉快な音。 それから、金髪をリボンで飾る1体の人形が飛び込んできて――。 その次に続いたのは、赤いカチューシャを着けた、魔理沙の良く知る人形遣い。 「よくもっ、よくも魔理沙をっ!」 叫びながら、アリスは美しい金髪を振り乱し、般若のような表情で、ナイフを投擲する。 至近距離で放たれたそれは、青年の脇腹に刺さり、鮮血を散らした。 なにかしら、術式が組み込まれているのだろう、ナイフはひとりでに抜けて出血を促し、彼の寿命を縮める。 少しばかり離れた位置で見守っていたことがあだとなり、 魔理沙の命を張った特攻は間に合わず、もう1本ばかり、青年の腹にナイフが刺さり、同じように抜ける。 魔理沙は、苦しげにうめく彼に覆いかぶさるようにして、 今まさに投擲されようとしていた3本目のナイフから守った。 「アリスっ……待て……」 「ああ、無事でよかったわ、私以外の誰にもあなたを渡したりなんてしない……  魔理沙、魔理沙、魔理沙……ああ、それにしても憎い……この男が憎い……  さあ、そこをどいて、魔理沙、あなたを苦しめたこの男を、いますぐに抹殺……」 マジックアイテムも箒も持たぬ彼女など、ただの無力な白黒少女に過ぎない。 ゆえに、魔理沙を愛するが故に狂気に染まるアリスを怒らせれば、 魔理沙の命の保証はないと言えた。 ――それでも。 「やめろ! こいつは私を好きだっただけだ! なにもされちゃいない!」 魔理沙は、その身を盾にして、アリスと青年の間に立った。 「魔理沙」 アリスの目が大きく見開かれて、唇は三日月形に歪む。 ひぃ、と情けない悲鳴を漏らす魔理沙だが、青年を見捨てるようなことはしない。 「魔理沙はその男をかばうの? ねえ、私はどうなるの……?  魔理沙魔理沙魔理沙魔理沙魔理沙魔理沙……私よりもその男をとるの……?  うふふふふふふふっ、いいわ、あなたが私を受け入れてくれるまで、  私はあなたを、無理やりにでも愛し続けてあげるから……」 そう言って、アリスは魔理沙を抱きしめた。 ぞくり、と魔理沙の背筋を、冷たいものが走り抜ける。 とてつもない嫌悪感に襲われる彼女だが、動けば青年の命が脅かされることを理解しているが故に、 アリスの腕から逃れることが出来ずにいるのだ。 「ふふっ……魔理沙は可愛いわね……」 狂った笑みを浮かべるアリスは、気付かない。 青年がまだ、“諦めていないこと”に気づいていない。 ゆらり。 青年が立ち上がる。 その手に握りしめるは、先ほど自身を抉ったアリスのナイフ。 魔理沙を抱きしめ、目を閉じて高揚感に浸るアリスは、青年の動きに気づかない。 何の命令も下されなければ、人形は動かない。 「君に、自由を返そう」 最期の力を振り絞って、青年は、握りしめたナイフでアリスの首をかき切った。 血飛沫が舞って、呆然とした表情のままにアリスは倒れる。 青年も、その場に崩れ落ちる。 「おいっ……しっかりしろ、今、医者を呼びにっ……」 かひゅぅ、かひゅぅと、もはや虫の息のアリスを突き飛ばして、魔理沙は青年を抱き抱えた。 突き飛ばされた拍子に頭を打ち、アリスは完全に攻撃手段を失ったようだ。 しかし、意識はあるのだろう、絶望的な表情で魔理沙と青年を見つめている。 「いらない……もう、死ぬから……魔理沙が、傍に、居てくれないか……」 「でもっ……」 血濡れの腕でしがみつかれて、魔理沙はその場にへたり込む。 青年の願いを聞き入れることにしたらしい。 「……私っ……私はお前が好きだっ……ずっと、一緒に居たいって思ってた……  ずっと、ずっと、大好きだっ……幸せだったんだよ、ずっと、やっと気付いたよ、私、バカだよっ……」 泣きながら、彼女は、華奢な腕で青年を抱きしめる。 青年は、寂しげに、しかし嬉しそうに笑って。 魔理沙の頬に、触れた。 「僕も同じだよ、……嬉しい、な……  今まで、ごめん……君は、きっと……大空を翔けているときが、一番……綺麗だろうな……。  ほんと……に、ごめん、な……ありがと……大好き、だ……魔理沙……」 青年の腕から力が抜けて、落ちる。 彼の命は、いま、此処に消えた。 彼を殺そうとした狂った人形遣いも、絶望を抱えて、惨めに死んだ。 ひとり、その場に残された魔理沙は。 紅い月光と、血だまりに濡れて、いつまでも泣きじゃくるのだった。 それから、1週間が過ぎて。 魔理沙は今日も、箒に乗って気ままに空を翔けている。 時々、博麗神社で霊夢と昼食やお茶の時間を共にして、弾幕ごっこをして、談笑をして帰って行った。 時々、紅魔館の大図書館でパチュリーと読書を楽しんで、弾幕ごっこをして帰って行った。 『君はきっと、空を翔けている時が、一番綺麗だろうな』 青年の最期の言葉は、魔理沙の自殺を思いとどまらせた。 ゆえに、彼女は今日もこうして生きているのだ。 近頃、いつもの調子を取り戻し始めた彼女だが、その悲しみは未だに癒えていない。 パチュリーは、魔理沙に言い寄ろうとはしなかった。 これからも、普通の友人としての付き合いを続けるつもりらしい。 何故そうなさったのですか、という小悪魔の問いに、彼女はこう答えていた。 『死人から恋人を奪うなんて、私には出来ない』 たくさんの優しさに包まれていることを理解していても、心の傷を癒すことはできなくて。 それでも魔理沙は、今日も太陽のように明るく笑うのだ。 めずらしく誰もいない、幻想郷の人里の丘上空で。 霧雨魔理沙は、ひとり涙を流して、スカートの裾を握りしめる。 ――大好きだ、魔理沙 草花を揺らす風の中に、あの優しげな声を聞いた気がして。 魔理沙は涙を拭うと、にっこりと笑って魅せたのだった。