澄み切った青空を仰いで、普通の魔法使い、霧雨魔理沙はため息を吐いた。 ――楽園の素敵な巫女、博麗霊夢が、ぱんぱん、と、事もなさげに手をはたき合わせる。 それから、破れた赤いリボンをさりげなくほどいて、 傷のある両腕を破れた白色の袖に隠し、後ろで組んだ。 傷付いた箒を小脇に抱え、所々破れてしまった白黒エプロンドレスの土をはたき落して、 静かに立ち上がると、魔理沙は生気のない表情で苦笑して見せた。 3戦ほど行った弾幕ごっこは、いつもと同じく、霊夢が勝利した。 「完敗だぜ、霊夢」 「私は、博麗の巫女だもの……力を失っては、いけないのよ」 苦笑しながら、霊夢は額に滲んだ汗を拭う。 「そうか」 「お茶、出すわよ。――毎度のことながら、お茶が先の方がいいと思うんだけどね」 「いや、今日は遠慮しとくよ」 室内へ戻ろうとした霊夢を制して、魔理沙はくるりと踵を返す。 珍しいわね、と、霊夢が怪訝な表情を浮かべた。 もっと研究したいんだ、とだけ言って、魔理沙は振り返りもせずに、空の彼方へ消えて行った。 「……」 ぼんやりと、何事かを考えるようなそぶりを見せるが、それも僅か数秒程度のこと。 霊夢はひとり苦笑すると、一人分のお茶を入れ始めた。 先ほどまでは澄み渡っていた青空。 堂々と輝く眩しい太陽に、どこからかやって来た雲が迫っていた。 「……う……ちくしょう……」 魔法の森の奥深くに佇む自宅にて、魔理沙はひとり泣き濡れていた。 霊夢とは、何戦も重ねた。 戦闘中も、霊夢のスペルカード、通常弾幕、行動パターンなど、 ありとあらゆることを研究しながら、常に全力で戦った。 負けるそのたびに、戦闘を頭の中でリピート再生し、敗因および自身の弱点を突きとめ、 それを克服すべく、魔法の研究に勤しみ、スペルカードおよび通常弾幕の開発、改善をした。 飛行速度や反応速度を高めるために、魔導書を盗むようなそぶりを見せて、 時間を操るメイドやら、紅魔館の知識人やら、紅い悪魔に喧嘩を売り、戦闘したこともある。 時折地下室へ乗り込んで、命をかけて悪魔の妹に挑んだことさえある。 少々手荒ともいえる方法で修業を積み、霊夢に挑むそのたびに、負けた。 普通の人間である彼女には、過酷と言っても過言ではない“修行”をすることで、 力を付けて霊夢に挑んだどころで、霊夢はそれに合わせて、魔理沙以上の力を発揮する。 どれだけ努力しようとも、それは変わらない。 魔理沙は結局、霊夢の底なしの実力、底なしの強さを思い知らされただけに終わったのだ。 「……なんで、勝てないんだっ……!」 押し殺したような声で呟いた彼女の瞳に、バスケット一杯に盛られたキノコが映る。 新たな魔法を編み出すための実験用に集めた、魔法の森のキノコだ。 その中に一つ、奇妙なキノコを発見して、魔理沙は眉をひそめる。 (なんか、嫌な感じのキノコだなぁ……なんだっけ、これ) 手にとって観察することで、彼女は、過去に本で読んだ、そのキノコに関する説明を思いだす。 (……魔法の森にのみ生息する、それ特有の魔力を蓄えたキノコ……  たしか、幻覚を見せるんだっけ……外の世界の、ヘロイン、とか言うのとよく似てる、とか……  これ、なんて名前のキノコだったかな……まあ、いいか) 陶酔感および多幸感をもたらすキノコだが、 中毒患者となった者に与える影響は生半可なものではない。 キノコに関しては、紅魔館の知識人以上のプロと言える彼女は、無論、それを知っていた。 ――けれど、今日の霊夢との対戦から、過去のことを思い出してしまい、 どんよりと暗い気分になっていた彼女は、陶酔感、という甘い響きを思い出し、 “それ”に手を出してしまった。 「……!」 瞬間、魔理沙の身体を、これまでに味わったことの無いような快感が駆け巡る。 それから、強烈な安堵感と、幸福感。 かつてないほどの最高の快楽に酔いしれながら、魔理沙は夢を見た。 現実かと錯覚してしまうほどに良く出来た、幸せな夢を見た。 綺麗な紫色の空に、淡い翡翠色の半月が浮かんでいる。 博麗神社の境内にて、魔理沙と霊夢は弾幕ごっこをしていた。 軽く軽く、思い通りに空を翔けることのできる身体に気を良くして、魔理沙は箒を放り投げる。 ずっとずっと動きやすくなって、魔理沙はもっともっと強くなった。 彼女の星弾や丸型光弾、スパークと名付けた光線があたりを埋め尽くす。 霊夢の攻撃など、放つそばから相殺されてゆく。 あっという間に地面に倒れ伏した霊夢を嘲笑い、霊夢の持っていたお祓い棒で2・3発はたいてみる。 無様に呻いて、霊夢は悔しげに泣き濡れた。 ――まだまだ! 十分に手加減して、霊夢に光弾を当てると、霊夢は必死に身体を起こして立ち上がった。 どんなに本気を出しても、霊夢が魔理沙に勝つことはできなくて。 魔理沙は愉悦に酔いしれて、何度も何度も霊夢に攻撃を仕掛ける。 何度も何度も、霊夢を光弾で撃ちすえる。 かつての自身のように、情けなさのあまり泣き濡れる霊夢を満足げに見つめながら。 愉快愉快、と魔理沙は哂う。 「なんとか命は助かったわ。  私の薬で、禁断症状を抑え、精神の安定を図ることは可能よ。  あ、依存性は無いから安心して。  でも――錯乱状態は、死ぬまで、根深い精神障害として残るわよ」 ――永遠亭の医務室にて、魔理沙はぐったりと、死んだように眠っていた。 天才薬師の薬が効いているせいか、うなされている様子は無い。 薬師――八意永琳の言葉に、霊夢は、そう、と言ったきりだった。 あの日から1ヶ月、霧雨魔理沙は、キノコの虜となり、中毒患者となってしまった。 巫女の勘が働いた頃には、時すでに遅く、魔理沙はもう命も危うい状態で。 霊夢が永遠亭に運び込まなければ、魔理沙はとうに死していただろう。 「……今は、入院患者も多いから……  その、錯乱状態に陥った患者というのは、なにをするかわからない。  入院となれば、24時間拘束は必至、それに今は、心のケアまでする余裕もない。  ……どうする?」 しばしの、間をおいて。 霊夢はうつむいたまま、答える。 「……私が、面倒をみる……」 罪悪感からの、決断だった。 雨が、降っていた。 青空を覆い隠す雲は厚く低く垂れていて、雨はまだまだ止みそうもない。 それは、境内で緑茶を淹れる霊夢にとって、救いだった。 青空を見ると、あの日を思い出してしまうから。 青空を見ると、親友とともに空を翔けたいという、叶わぬ願いが強まるから。 あの日、彼女が選択を間違えなければ、魔理沙は救われていたのだ。 「魔理沙っ……魔理沙、ごめんなさいっ……」 可愛らしい、大きな瞳を朱に染めて、霊夢は孤独に泣き濡れる。 あの、魔理沙が緑茶を「いらない」と言って、言葉少なに帰って行った日。 霊夢は、魔理沙が自身に抱いている、劣等感や嫉妬心と言った類の暗い感情が、 溢れそうになっていることを、魔理沙の様子から悟っていた。 また、魔理沙の実力が日に日に大きく上がっていることも痛感していた。 霊夢は、努力を重ね、自分に追い付こうとしている魔理沙に焦りを感じ、 ここのところ、誰にも悟られぬよう、こっそりと、いままでは無縁だった“修行”を始め、続けていた。 そうしてあの日、霊夢はぎりぎりの状態で勝利した。 絶望したような表情の魔理沙を見て、それを告げようかとも思った。 けれど、霊夢の中にある小さな歪みが、プライドが、それを止めてしまった。 『努力とは無縁の天才巫女』 そう評されて、霊夢は、小さな優越感を抱いていた。 そうなると、“努力”や“修行”が格好悪いことのように思えてきて。 天才巫女、と思わせておきたい、と、そう感じるようになっていた。 そんな小さなプライドと引き換えに、彼女はかけがえのない親友を失った。 “博麗の巫女”としてではなく、自身を一人の人間、“博麗霊夢”として慕い、追いかけて来てくれた親友。 “博麗霊夢”として語らうことが出来た、唯一の人間。 かつての霧雨魔理沙は絶望のあまり壊れ、もうどこにもいない。 「魔理沙、昼食は何が食べたい?」 布団に寝たきりの魔理沙に語りかける。 かすかに首を横に振った。『いらない』という意思表示だ。 ちゃんと食べなきゃ駄目よ、と嗜めて、霊夢は希望をとることを諦め、ひとり台所に立つ。 ――魔理沙、ついでだし、お昼をここで食べっていったらどう? ――いいのか? ――まあ、今から作るところだけど。中華料理とかはどう? ――私は和食派ですわ ――飽きないわねえ。まあ、私も好きだからそれで良しとするか ――どうせなら一緒に作ろうぜ ――そうね、その方が楽しいわ かつての会話を思い出して、霊夢は再び泣き崩れた。 コンコン、と、博麗神社の台所側にある裏口が、遠慮がちにノックされる。 鍵はかけていない。 開いているわ、とだけ答える。 かつての霊夢なら、自身でドアを開けて、訪問者を出迎えていただろう。 「入るわよ。……昼食、持ってきた」 姿を現したのは、紅魔館の知識人、知識と日陰の少女こと、パチュリー・ノーレッジ。 艶やかな髪と同じ色をした瞳を暗く淀ませて、霊夢を見据える。 あくまで自然な動作で目をそらし、礼を言うと、 霊夢は、パチュリーが差し出した風呂敷包みを受け取った。 「……魔理沙の様子は?」 「本当にたまに、錯乱状態に陥るけど、基本的には寝たきりのまま、ぼうっとしてる。  身体ももうまともに動かないし、言葉を発することも難しい。  でも、永琳の薬がだいぶ効いてるから、命の危険は今のところ無いし、禁断症状もない」 「……禁断症状の苦痛が無いのは、せめてもの救いなのでしょうけど……」 「そうね。……その、異変解決は、いま、誰が代行してくれているの?」 何か言いたげなパチュリーの言葉を遮って、霊夢は問う。 パチュリーの言わんとすることが、なんとなく予想できてしまったからだ。 霊夢は、その先の言葉を恐れていたのである。 「……早苗や妖夢、それから咲夜が」 「そう、良かった」 「魔理沙に会いたいのだけれど、大丈夫かしら?」 パチュリーも、先ほど飲み込んだ言葉を、再び吐き出そうとはしない。 魔理沙に会うという目的を果たすために来たのだから、自然と言えば自然だ。 「……ええ、上がって待っていて頂戴、あとからお茶を持っていくわ」 「わかったわ、ありがとう」   布団に寝たきりの魔理沙の前にしゃがみこんで、パチュリーは静かに語りかける。 また泣いているのだろうか、紅白巫女は未だに戻ってこない。 「……魔理沙、私のこと、わかる?」 こくり、と魔理沙は頷いた。 「……ねえ、いま……苦しい?」 今まで幾度ともなく、大図書館で言葉を交わしていたパチュリーは、 魔理沙が霊夢に抱いている劣等感を知っていた。 「……パチュ……リー……」 「何かしら?」 「……わた……し、結局……れい、む……に……勝て、なか……た」 「それでもあなたは、どんどん強くなっていたじゃない。  私にだって、レミィにだって、妹様にだって圧勝することが格段に増えていた」 「……あいて……して、くれて、感謝……してる……  でも、意味、ないんだ……れい、む……霊夢に……勝て、なかった……  ……霊夢の、……そばに、……い、て……辛い、だけだ……」 そう言って、魔理沙は涙を流す。 パチュリーも、気づけば泣いていた。 「……魔理沙、いま……  あなたは、生きたい? それとも、死にたい?」 たしかな決意を胸に宿して、彼女は問いかける。 「……しにたい」 瞬間、盆と湯呑みが落ち、割れる不愉快な音がして。 パチュリーの肩を、霊夢の針が貫いた。 霊夢も、やはり泣いていて。 先ほどよりもさらに紅く染まった瞳で、パチュリーを睨みつけている。 常人なら逃げ出してしまうであろうその気迫を目の前にして、 パチュリーは怯むどころか、憎悪に染めた眼差しで霊夢を射抜き、 痛む傷口と飛び散る鮮血にはかまうことなく、霊夢の胸倉をつかみ、叫ぶ。 「魔理沙を生かしているのは、あなたのエゴじゃないっ!  魔理沙の思いを知りながら、あなたは、自身がしていることを、語らなかった!  ……隙間妖怪から、聞いたのよ……あなたのために、いままで、誰にも言わなかったと言っていた……    私じゃ、あなたを追うあまり苦しむ魔理沙を救えなかった!  魔理沙を救えるのはあなたしかいなかったのに! あなたは、魔理沙をさらに追い詰めた!  この期に及んで、あなたはまだ霧雨魔理沙を苦しめるのか!  壊れ、変わってしまった魔理沙を、まだ追い詰めるのかっ!  私はあなたを絶対に許さない! 絶対に、絶対に! 絶対に、許さないっ!」   泣き叫んで、彼女は霊夢を突き飛ばした。 霊夢は、背後の柱に頭をしたたかに打ちすえ、小さくうめき、意識を手放してしまう。 パチュリーは無言でそれを見つめていたが、やがて、くるりと魔理沙に向き直る。 雨はまだ、降りやまない。 「……ころして」 「……ええ」 壊れた人形のようになっていた魔理沙が、ここへきて始めて、笑った。 パチュリーも、とめどなく溢れる涙を拭い、優しく微笑んで見せる。 空の果てから、雷鳴が聞こえて。 偽りの光が、一瞬だけ、彼女たちを照らし出す。 「また会いましょう、魔理沙」 「……わたし……地獄、……堕ちる、か……な」 「だとしたら、人殺しの私も一緒に居るわよ」 「……パチュ……リー……は、堕ちて……ほしく、ない」 「それは無理よ、でもね、あなたを救えるのなら、どんな末路が待っていようと、構わない」 「……あり……がとう……ここより、地獄の方が……まだ……」 「私もそう思うわ」 言いながら、すっかり病的に細くなった魔理沙の首に手をかける。 力を込めて、圧迫してゆく。 魔理沙はこと切れるその瞬間まで、笑顔のままだった。 「……霊夢、あなたは生きなさい。  あなたをあなたとして見る者なんて、もうどこにもいないわ。  後悔と絶望に染まりながら、苦しんで生き続けなさい。  それが私の復讐よ」 稲光が、陰鬱な表情のパチュリーを照らし出す。 パチュリーは、用意していた毒薬を含むと、まるで眠りに堕ちるかのように倒れ込み、安らかに逝った。 降りしきる大雨の音と、時折響く雷鳴。 冷たく暗い葬送曲が、幻想郷中に響き渡っていた。 相変わらず、雨は降り止む気配を見せない。 ざあざあという陰鬱な鎮魂歌に支配されて、幻想郷は灰色に染まっている。 それから3日が過ぎて。 異変解決は、もうすっかり、早苗や妖夢、咲夜の役目として定着しており、そこに霊夢の居場所は無かった。 時折、異変解決にひとり出向いてみても、以前のように、人妖と陽気に会話することはかなわなかった。 『たとえお飾りでもね、博麗の巫女は必要なのよ』 妖怪の賢者が、霊夢を生に縛りつけた。 もう二度と帰らない、かけがえのない親友に想いを馳せながら。 力なく漂うようにして、霊夢は今日も孤独に生きている。 雨はあの日から、いまだに降りやまない。 もう、霊夢が晴天を望むことは無いのだけれど。