苦いカフェオレ

　少女は、ガラス越しに月を眺めた。
ガラス製の小さな可愛らしい丸テーブルの上に広げられている物は、小難しい文章がずらずらと並べられた資料。
スパイラルノートが二冊。振るだけで芯が出てくる便利なシャープペンシルが二本。消しゴム二つと、それが生み出したカス。
「マリさん」
　他者の声が聞こえ、月を眺めていた少女はびくりと肩を震わせて、視線を月から背後へと移した。
マグカップ二つを盆に載せた、友人が立っていた。視線が合うと、不思議そうな表情を見せつつ、小首を傾げた。
「どうしたの？　何かあるの？」
　マリと呼ばれた少女は、首を横に振った。
「いや。月が見えただけ」
　言われてマリの友人も、ガラス越しに月を見た。
確かに月が見えているが、それだけであった。
「それがどうかしたの」
「なんか、不思議な気分になったの」
「どんな」
「うーん、何と言うか……」
　彼女自身が言っている通り、本当に不思議な気分だった。
一体、この気分の原因が何であるのか、マリ自身理解できていない。
それでも、友人の問いに律義に答えようと苦悶し、苦し紛れに出した答えは、これだった。
「あの月は、本物じゃない気がするって」
「……？？」
「あ、いや、あはは。何でもないんだ。忘れて忘れて。ほら、明日からテストじゃん！　単位ギリギリでしょ、がんばらなくちゃ！」
　マリは少し赤面しつつ、そう言って取り繕った。
しかし、マリのこの不思議な一面は、今に始まった事ではない。以前から少し変わった子だと思っていた。
それを改めて思い知らされた――友人にとっては、その程度の出来事だった。
「不思議ちゃんだなぁ」
　友人は微笑んで呟いた。マリは一層顔を赤くし、短めに切られた金色の髪をぽりぽりと掻いた。
　盆の上のマグカップを、友人はそっとテーブルに置いた。マリは中を覗く。
　渦巻くミルク。漂う甘い香り。中にはカフェオレが入っていた。



*



　十八個目のキャンディが口の中で溶け切った所で、遂に魔理沙はペンを投げた。
巨大で可愛げのない木製のテーブルの上に散乱している、蚯蚓が這ったような文字が綴られている紙に、投げられたペンの墨が一文字を描いた。
只でさえ理解し難い文面に、意味を持たない線が一本書き足され、更に意味深さに拍車を掛けた。
しかし、そんな線は魔理沙自身、どうでもよかった。
分からない者が読めば一見して意味不明だし、反対に分かる者が読んでも、結局意味など無いからだ。例えではない。本当に無意味なのだ。
語り尽くされた魔法の基礎的な知識、あるいは支離滅裂で滅茶苦茶で出鱈目な魔法に関する論文を、汚い文字で読める程度の紙切れに、一体どんな意味があると言うのか。
　古ぼけた木製の椅子の背凭れに凭れかかり、見飽きた天井をぼうっと眺める。蜘蛛の巣が増えている事に気付いた。
口の中に残っていた、キャンディの持っていた檸檬の風味を、舌で舐め直して楽しむ。しかしそれはあっという間に消えていき、すぐに口の中には何も無くなってしまった。
　天井を見ていても仕方が無いので、次に時計を見てみた。短針は3を指している。
しかし、窓から見える外は真っ暗。曇り空が月光を遮断し、その暗闇を助長させている。
それもその筈、現在の時刻は午前三時。普通の人間なら眠っている時間だ。起きている者は夜行性の生き物や妖怪くらいなものだ。
　時刻など知っても意味がない。約束など無いし、明日日中にやるべき事がある訳でもない。そう思い、時計から視線を外し、すぐ横の鏡を見た。
目の下の隈がいつの間にやら、驚くほど大きくなっていた。少し痩せた気もした。
そもそも、鏡を見たのはいつ以来だったろうか、それすらよく思い出せない。
　鏡の前にはマグカップが置いてあった。縁が少しだけ欠けている。
中を覗くと、あったのは小さな銀色のスプーンと、茶色いシミ。カフェオレを飲んで、そのままだったのだ。
　眼球がしょぼんで行くような、不快な感覚に囚われた。眠たい合図だ。
しかし、魔理沙に眠っている暇などない。人間の一生は妖怪と違って、至極短いのだ。
妖怪が跋扈する幻想郷で人間が功績を残すには、並々ならぬ努力が必要だと分かっている。それを分かっているのに、眠ってなどいられるものか。
　すっかり耐性のついたカフェインを摂取して眠気を吹き飛ばそうと、魔理沙はマグカップを手に取って席を立ち、台所へ向かった。
　ふらふらと覚束ない足取りで台所へ辿り着くと、まずはマグカップを洗う事にした。
ほぼ一定のタイミングで途切れてしまう視界をどうにか繋ぎ合せて、蛇口を捻って、水を出して、スポンジを手にとって――

　ガチャン！

　指からするりと抜けて落ちたマグカップが大きな音と共に砕け散った。
意識しない内に真っ暗になっていた魔理沙の視界が一瞬で光を取り戻す。慌てて目をやった先には、砕けて散ったマグカップの破片。
　片づけてしまおうと、群れなす破片へと手を伸ばす。
　その瞬間、人差し指の先にぴりりとした痛みが走った。そこへ目をやると、綺麗に切れ目が付いていて、やがてじんわりと血が溢れてきた。
血は人差し指を通って、掌へと伝っていく。血の軌跡がやけに幻想的に目に映る。
　血を舐め取ってみたが、すぐにまた血が溢れてきた。
「勘弁してくれ……」
　傷の処理も、破片の片付けも面倒くさくなって、魔理沙は死んだようにその場に倒れた。



*



　何の気なしに、魔理沙は博麗神社に顔を出した。
特に理由なんてない、と自分では思い込んでいたが、実の所誰かに慰めてほしかったのだ。
全く捗らない、一つも進展しない魔法の研究。この辛さを誰かに知って貰ってほしかった。
　不健康極まりない魔理沙の顔を見て、霊夢は顔をしかめた。
「ひっどい顔ねぇ」
「只の寝不足。いつもの事だよ」
「いつもに増して酷いわよ」
　霊夢はそう言い、傍に置いた湯呑に手を伸ばした。
湯呑を見て、昨夜――それとも今朝だろうか――割れたマグカップの事を思い出した。
あれは誕生日の贈り物と言う事で、霊夢がくれたものだった。
「霊夢、すまんな」
「何が？」
「お前がくれたカップ、割っちまった」
「……どうかしたの？」
「眠いまま洗ってたら、落としちゃって。気に入ってたんだがなぁ」
　苦笑いする魔理沙。しかし霊夢は、表情を険しくしてしまった。
湯呑をそっと置き、俯き加減で呟いた。
「もう、止めたら？」

　霊夢の一言に、魔理沙は眉をひそめた。
「何？」
「魔法の研究。止めればって言ってるの」
「なんでだよ」
「成果が無いからよ」
　少し酷であるかもしれないが、霊夢は本心を魔理沙に打ち明ける事にした。
それが魔理沙の為になると思えたし、何より霊夢は、昔の魔理沙が好きだった。
　強者に囲まれすぎて感覚が鈍ってしまい、華奢な体に鞭を打ってその距離を詰めようと全てを捨てて努力をしている魔理沙よりも、
カップ一つ贈っただけで、羨ましくなるほど幸せそうな笑顔を見せてくれた魔理沙が恋しかったから。
「もうそんな生活を始めてどれくらい経つのよ。時間を掛けてる割には、何も得てないじゃない」
「まだ努力が足んないだけさ。きっとこれから――」
「それだって希望でしかないんでしょう？」
　魔理沙の言葉を遮り、霊夢は声を荒げる。
「どんなにやったって、無理なものは無理なの。もういい加減に諦めなさい。あんたは、パチュリーや白蓮とは違うんだから」
「違わない」
「いいえ、違うわ。時代も、種族も、性格だって」
「違わないッ！！」
　今度は魔理沙が霊夢の言葉を遮った。
「私だってやれるさ。いいや、やってみせる！」
「……っ。馬鹿馬鹿しいって思わないの！？　あんな化け物を相手取って競争なんて！　勝てる訳ないでしょうが！」
「お前は奴らを圧倒してる。私だってお前と同じ人間だ。私にできない理由なんてない！」
「私はあんたと違うの！　一緒にするな！」
　霊夢には悪意も、挑発する気持ちもなかった。
博麗の巫女として特殊な教育を受けてきた彼女が、魔理沙と違うのは当然の事だったからだ。
　だが魔理沙からすれば、霊夢の一言は挑発や嘲笑以外の何物でもなかった。
「ああ、そうか！　そうだな、いいなお前は！　私と違って出来が良くて！」
　寝不足による体の気怠さからくる苛々に身を任せ、魔理沙も訳の分からない事を叫び返した。
その後、霊夢が呼び止めるのも、言っている事も全て無視して、魔理沙は自宅へ戻って行った。

　蹴破るかの如くに扉を開け、乱暴に箒を投げつけ、無意味に轟音を立てて椅子を引っ張り、どんとその椅子に座った。
ぐずぐずと泣きながら、魔理沙はペンを握った。
「やってやる……やって……！」
　本当は気付いていたのだ。
自分の限界に到達しつつある事も。霊夢と自分は違うのだと言う事も。この努力に大した意味なんて無い事も。
　だが、だからと言ってこれを止めてしまえば、自分に残る物がなくなってしまう。
自分は一体、この世界の何なのか。
幻想郷と言うパズルのピースの一つなのか。自分が無くたって、パズルは完成してしまうのではないか。
　余計な思考を止め、魔理沙は台所へ向かった。
砕けたマグカップから目をそらし、代わりのマグカップにカフェオレを入れる。眠る暇なんてない。起きてなくちゃいけない、と。
渦巻くミルク。甘い香り。柔らかく優しげな薄い茶色。




*




　くしゃり。
大量の紙を、小さな手で握り潰せるだけ握り潰す。不可解な文字が大きく歪んで、更に歪な形になる。
どうでもよかった。何せその大量の紙は、彼女が数日掛けて完成させたゴミだったから。
　ゴミの海に頭を預け、彼女は大きく息をついた。
　霊夢の言う通りだった。
成果が無い。何も生み出せない。無駄なのだ。
馬鹿馬鹿しかった。勝てる訳がなかった。霊夢とは違った。
　そうだと認識させられても、魔理沙は止まる訳にはいかなかった。止まりたくなかった。
「かふぇおれ……飲まなくちゃ……」
　マグカップを手に取った。
カフェオレが乾いて底にこびり付き、茶色いシミとなっている。
以前見た光景だと、働かない頭でぼんやりと考えた。
　のろのろと台所へ向かい、水を出す。
　以前割ってしまったマグカップがそのままで放置してある。
　カフェオレを淹れようと台所に行って、マグカップを割って、それを片付けようとして、指を切った。
その時の血の赤色が、妙に綺麗だったのを思い出した。
「――」
　破片の一つを手にとって、人差し指で一文字を描く。
ぴりりとした痛みの後、鮮やかな血が溢れだした。綺麗だった。
――これだけ綺麗なら、もっと量があれば、もっと綺麗なのではないか。
　そう思った魔理沙は、果物ナイフを手に取った。



*



　永遠亭で寝かされている魔理沙を、霊夢は黙って覗きこんでいた。
穏やかな寝息を立てる魔理沙の左腕の手首には、包帯が巻かれている。
　ぎゅっと、霊夢は握り拳を作った。友人一人救えない自分の非力さが歯痒かった。
そんな彼女の背を、八雲紫は静かに見守っていた。彼女が偶然、手首を切った魔理沙を見つけなかったら、大事になっていた事だろう。
　魔理沙はいずれ目を覚ますであろう。そして、友人水入らずで、お互いの苦悩を打ち明ければいい。
そう思い紫は、部屋を出ようとした。しかし。
「紫」
　霊夢がそれを呼び止めた。
「頼みがあるの」




　霊夢が紫に頼んだのは、魔理沙を幻想郷から出してやる事だった。
そしてその為に、彼女の記憶の一部を消しさって欲しいとも言った。
「もう二度と、あんな無茶をしないようにして欲しいの」
　紫は表情を変えずに問うた。
「そうするときっと、あなたの事も忘れてしまうわよ」
「構わない」
　霊夢は即答した。
「私と言う存在が魔理沙を苦しめているなら、私の事なんて忘れて、外の世界で幸せになって欲しい」
「……そう」
　紫は頷き、眠っている魔理沙の横に立った。
そして、そっと魔理沙の頭に手を差し出す。記憶を司る脳を、能力で弄る。
魔理沙を苦しめる全ての記憶を、要因を、選定して消し去って行く。
　作業の最中、紫は独り言のように呟いた。
「人格と言うのは、その人が交流してきた人間との記憶によって作られるらしいわ」
「……」
「その記憶を消しているのだから、きっと目が覚めた魔理沙は、もはや別人よ」
　言い終えるとほぼ同時に、紫はそっと手を離した。
そして無言で、スキマに入って部屋を後にした。

　見慣れた魔理沙の顔を、霊夢はもう一度覗きこむ。
「さようなら、魔理沙」
　呟いた数秒後、マリサがゆっくりと目を開けた。
霊夢と目が合うと、静かに口を開いた。
「こ、こんにちは……すみません、どちら様でしょうか？」





　紫が能力で備え付けた学力と、偽装した履歴書のおかげで、魔理沙は外界ですんなり学校へ入学した。
そして何も知らぬまま、外界で生きる少女、“マリ”として生き始めた。



*



　渦巻くミルク。漂う甘い香り。中にはカフェオレが入っていた。
　マリは首を傾げた。
「どしたの？」
　友人も首を傾げる。
マリはじっと、カップの中のカフェオレを眺めていた。
そして、カップを盆の上に戻した。
「ごめん。淹れてくれてなんだけど、これいいや」
「えー？　何でよ」
「なんて言うか……」
　適した言葉が見当たらないので、そのまま心に浮かんだ言葉を呟いた。

「私は、これを見ちゃいけない気がするんだ」