――0――
優しいね。
――手が迫る。
嬉しいね。
――赤い手だ。
楽しいね。
――穢い手だ。
愉しいね。
――いいや違う。
たのしいね。
――綺麗な手だ。
タノシイネ。
――繊細で白い手だ。
赤黒い涙を染み込ませて重くなった真綿が、私の首を縛り上がる。
ずるりと首が落ちた先は竹の空洞で、伽藍とした空間には青白くのっぺりとした顔が浮かんでいた。
痛みに耐えかねて叫び声を上げようにも声帯はとうの昔に灰と化し、すでに私の半分が砂塵となって消えていた。
唐突に、思う。
これは夢なのだ、と。
早く起きないと。
早く起きないと……思うのに、身体が動かない。
こんな夢、見ていたくなんか無いのに、私の身体は硬直して鉛のように重かった。
手が迫る。
手が迫る。
手が迫って、迫って、迫って――
『起きろ!』
「おやすみ」
――消えていく。
誘夢の蝶
――1――
温かい日差し、頬に添えられた手。
薄く目を開くと、そこには私の友達の顔があった。
心配そうに眉を寄せた友達――慧音の姿が。
「あれ? あ、私、は」
「魘されていたぞ。妹紅」
慧音が姿勢を正したのを機に、身体を起こす。
家具もなにも最低限の部屋、私の家。
そこに、何故か慧音が居て私を起こしてくれたことまでは、わかった。
「魘されていたって?」
「うーん、うーん、と魘されていたんだ。まぁ、覚えていないならそれに越したことはない」
慧音にそう告げられて、首を捻る。
けれど同時に、夢なんて覚えていないものだと思い直しす。
私がそう自分一人で納得していると、慧音は立ち上がって台所の方へ歩き始めた。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないだろう」
その後ろ姿に声をかけると、慧音がゆっくりと振り返って苦笑した。
「私が作らないと、直ぐに食事を抜こうとする」
「あー……ご馳走様です」
私としては、ご飯なんて食べなくても良いと思っている。
けれど慧音は私に“人間らしい”生活を送って欲しいと願っていて、時折こうして食事を作りに来てくれた。
私の為に時間を使わなくても、いいのに。
そう思わないと言ったら、きっと嘘になる。
けれど私は、きっと最期まで言えないんだろうな、とも思う。
この時間に、幸福を感じているのだから。
「妹紅、火を熾すのを手伝ってくれ」
「うん、今行くよ」
慧音の隣に並び立って、火を熾す。
指先から零れる灯火は、赤く、揺らめいていた。
いつもと変わらない、日常。
平穏で充実した毎日。
きっと私にとっては短い日々となるのだろうけれど、この一瞬は確かに“幸福”だった。
けれど、胸の奥で、何かが疼く。
魘されていた――その言葉が、何故だかいつまでも私の脳裏にこびりついていた。
――2――
朝食を終えると、慧音が寺子屋へ向かう。
朝早くから来てくれて、昼のおにぎりまで作って。
そんな苦労を負う必要は無いと、普段から言っているのに。
「暇になったなぁ」
前ならば。
無限の時を復讐心の中で生きてきた、あの頃なら。
退屈など覚えはしなかったというのに。
「こんな時は――」
立ち上がって、さっさと家を出る。
家の外には竹林が広がっていて、ここではよく人が迷う。
そんな人間達を案内することもあるから、積極的に竹林を歩き回ることにしている。
私自身はそんなに人間が好きな訳ではないのだけれど、迷ったあげく妖怪に喰われでもしたら、人里を護っている慧音に申し訳が立たない。
助けられる“命”は助けよう――なんて、私らしくはないのだけれど。
そんなことを考えながら歩いていると、竹林の中に屋台が見えた。
私が焼き鳥屋をしていると聞いて、事あるごとに絡んでくる妖怪。
夜雀の妖怪、ミスティア・ローレライだ。
何度“本当に焼き鳥屋”をやっている訳ではないと伝えても、さっさと忘れてしまう。
だから私は、面倒事になる前に、さっさとこの場を離れたかった。
「あれ? あなたはっ!」
「うぁ、遅かったか……」
足早に去ろうとした背中に、声をかけられる。
あっさりと捕まってしまう辺り、私も勘が鈍ってきたみたいだ。
平穏な日常の中、戦う力が鈍っていく……それはそれで、いいのかも知れない。
「妹紅でしょ? 寄っていく? 酔っていく、でもいいけれど」
「へ?」
けれど、彼女から聞こえた言葉は、予想外のものだった。
雀の羽をぱたぱたと動かしながら、私を手招きするミスティア。
私を嫌っていた筈なんだけれど……悪いものでも食べたのかな?
「ねぇあなた、私のことを覚えて――」
「――ちょ、ちょっと、掘り返すのやめてよ! 恥ずかしいじゃない」
私の言葉を遮って、ミスティアが頬を赤くする。
意味がわからずに首を傾げると、彼女は胡乱げに私を見た。
「何度言っても覚えられなかった、なんて、恥ずかしいじゃない」
『結局、覚えたのは最期の最期。ごめんね、妹紅』
ミスティアの言葉に、首を捻る。
私の中で、彼女の言葉に小さな違和感がこびりついた。
けれど、それも、束の間。ミスティアの細められた目で、我に返る。
「弄る気ね。この変態」
「そんなつもり……変態って何よ?!」
ミスティアは、大きくため息を吐くと、私に胡乱げな眼差しを向ける。
そんな視線を受ける謂われはないのだけれど……ぬぅ。
「なんにしても、今日は良いよ」
「残念だけど、まぁ無理にとは言えないからさ。気が向いたら来てよ」
「うん、わかったよ」
ミスティアに手を振り、別れる。
さて、彼女はこんな性格だっただろうか。
物覚えは良く、無理強いもせず、笑顔が柔らかい。
営業スマイルってやつかな……それはそれで、嫌かも。
竹林の中は、迷いやすい。
けれど長年ここに住んでいると、迷わなくもなってくる。
竹が私を覚え、私が竹を覚える独特な感覚。
私はこれが、好きだった。
竹林の奥に進むと、大きな屋敷が見え始める。
そこが今日の私の目的地で、暇つぶしの場所。
私と永遠に殺し合う、月の姫――輝夜の暮らす、永遠亭だ。
時折、私はここに病人やけが人を運び込む。
竹林で迷うものの大半は、永遠亭に薬を求める者達とそこから帰る者達だからだ。
「おーい、誰かいるー?」
門戸を叩いて、声を上げる。
そうしてから僅かに待つと、永遠亭の門が開かれた。
「あれ? 妹紅じゃない」
「鈴仙……輝夜は居る?」
扉から顔を出した鈴仙は、私を見てきょとんと首を傾げる。
それから直ぐに頷いて、私を中に招いてくれた。
簡単に屋敷を踏み込ませる理由は、簡単だ。
ようは、永遠亭を燃やされるのは困るということなのだから。
「貴女たち、姫様に妹紅が来たってお伝えしてきて」
『はい! れーせんさまっ』
少し考えている間に、鈴仙が兎妖怪たちに指示を出し終えていた。
妖怪になったばかりでまだ幼稚さが残る彼女たちは、しかし鈴仙の命令に従って同じ方向に走り去った。
「いつの間に妖怪兎を手なずけたの?」
「……悔しいけど、てゐに協力して貰ったのよ」
『こんなんになる前に、てゐに聞いておけば良かった――なんてね』
鈴仙は、悔しげにそう零す。
てゐはよく鈴仙に悪戯をしているし、やっぱり聞くとなると気に入らない部分もあったのだろう。
すごく相性が良いコンビだとは、思うのだけれど。
「そのてゐは?」
「縁側でお茶飲んでるわ」
「はは、お婆ちゃんじゃない」
内面はいつまでも少女だと思っていたのに、いつの間にやらずいぶんと貫禄を得たようだ。
ちょっとだけ、そんなてゐも見てみたい、かもしれない。
いや、うん、やっぱり気持ち悪いかも。
「気持ち悪いって顔に出てるわよ」
「あ」
かけられた声に、視線を移す。
玄関先で話し込んでいた私の、視線の奥。
廊下の先からてゐが歩いてきたのだ。
「私だってたまにはのんびりしたくなるの。こーはいも出来たし」
『鈴仙ちゃんと、もっとのんびりしておけばよかった。後悔なんて、するもんじゃないね』
てゐが視線を向けると、鈴仙は気まずげに目を逸らす。
すっかり“先輩後輩”の関係が出来上がって居るみたいで、私はそんな二人の光景に、ほんの少しだけ笑った。
「れーせんさま、姫様が奥でお待ちしておりますっ」
「あ、うん。ありがとうね」
「はいっ」
兎の妖怪が、鈴仙からあめ玉を受け取って走りさる。
その後ろ姿は人間の子供そのもので、まるで永遠亭が一つの家族のようにも思える。
「私はこれから鈴仙ちゃんと、今後の課題について話さなきゃいけないから」
「ああ、うん。それなら一人で行ってるよ」
げんなりとした表情の鈴仙と、心なしかイキイキとしているてゐ。
そんな二人を置いて、私は永遠亭の奥へと歩き出した。
永遠亭の廊下、立ち並ぶ襖には竹林の模様が描かれている。
隔ててもなお竹で満たされた空間に、私は僅かだが目眩を覚えた。
あの“なよ竹のお姫様”は、実のところ竹好きなのだ。
永遠亭の一番奥。
そこが、輝夜の自室だ。
殺し合いに飽きたときなどは、時折、ここでくだらない会話をしていた。
……ということは、今日は殺し合いはしないということか。身体、動かしたかったんだけど。
「妹紅じゃない」
「うん?」
――今日は良く、意識の外から声をかけられる。
そんな風に思いながら振り向くと、そこには永琳が居た。
彼女から私に声をかけてくるのは、珍しいように思える。
永遠亭のメンバー以外には、さほど興味がないようにも見ていたから。
「ちょうど良かったわ。前から言っておきたいことがあったの」
「前から?」
「そう。輝夜の部屋に行くんでしょ? だったら、その前にね」
家を壊すなとでも言いたいのだろうか。
それは私だけではなく、輝夜にも一緒に言うべきな気がする。
「――ありがとう」
また、予想外の言葉だ。
私が普段、“言わないだろう”と思っていた、言葉だ。
微笑みを携えて頭を下げる永琳に、私はまた、違和感を覚える。
歯車が、噛み合わないような。
「どういう意味?」
「永遠を生きるのは退屈だわ。だから、その時を彩らせてくれる存在が必要なの」
頭を上げた永琳は、何時もの彼女だった。
何も変わらない、冷静でどこか胡散臭い彼女だった。
「都合が良い存在ってこと?」
「そうね。でも、それだけじゃないわ」
どういうことなのだろうと、首を傾げる。
今日だけで傾げすぎて、首がそちらに固定されてしまいそうな気さえしてきた。
「あなたのおかげで、永遠亭に明るい炎が灯る。だから、ありがとう」
『私も輝夜も、あなたには本当に感謝していたの。もっと早く、云っておけば良かったわね』
永琳はそれきり告げると、踵を返して走り去る。
そうして耳まで真っ赤にした彼女を、私はただ、見送ることしかできなかった。
伸ばした手を広げて、それからだらんと落とす。どうにも、感情の行き場がない。
「なに、クサイこと言ってるのよ、もう」
結局私は、彼女が去った空間で、それだけ呟いた。
私のおかげで、なんて、そんな風に考えたことはなかった。
けれど……ううん、どうにも、やり場のない気持ちが渦巻いて、離れない。
表面上だけでも気持ちを振り切って、今度こそ輝夜の部屋の前に立つ。
一際綺麗な襖で、描かれた竹の内の一本が、光り輝いていた。
「ふぅ……入るよ、輝夜」
襖を開けて、中に入る。
広々とした部屋、円い窓の前。
長く滑らかな黒髪と、綺麗な着物。
何もかもが、私とは正反対の蓬莱人。
「あら、妹紅」
「暇つぶしに来た」
「ふふ、そうなの? 正直ね」
口元を隠して、くすりと微笑む。
余裕ぶった態度が気に入らなくて、座布団にどかっと座り込んでも、輝夜は変わらず微笑んでいた。
「囲碁でもやる? 将棋、チェス、トランプ、花札、何でもあるわよ?」
「殺し合いが無いみたいだけど?」
私がそう呟くと、輝夜はただ「そうね」とだけ呟いた。
口元に浮かんだ笑みは、柔らかくもどこか儚い。
「それじゃあ、囲碁ね」
さっさと碁盤を用意してしまったから、適当に順番を決めて碁を打つ。
こんなにのほほんとする気は無かったのに、私は“今日の”永遠亭の空気に引っ張り込まれていた。
鹿威しの音。
兎妖怪の声。
お茶の香り。
静かな空気。
互いに無言で碁盤を眺める中、輝夜がそっと口を開く。
私の方を見ずに、目を伏せて、儚く。
「……もう、殺し合いは止めにしない?」
「え?」
輝夜が、私に直接そう申し出る。
そんな未来を考えたことがなかったからこそ、私は言葉に詰まった。
「私ね。妹紅と、こうしてのんびりと碁を打ったり、お茶をしたりして過ごしたいの」
『妹紅。私はあなたと……そうね、もっと遊びたかったわ。静かに、のんびりと』
それは、どうすればいいのかわからない。
お父様のことで恨み続け、それだけが永遠を生きる原動力だった。
壊れて人形のようになってしまえば、楽になれたのだとしても。
それでも私は、恨み続けることが目的で、ただそれだけの為に生きてきた。
「我が儘なのは承知している。けれどね、私は――あなたと、友達になりたいなって、ね」
『こうなるまえに言いたかったのだけれど――私はあなたのこと、けっこう好きよ』
言われて、考える。
私は輝夜のことを、どう思っているんだろう。
恨んでいて、そうして今まで生きてきた。
でも幻想郷に来て、それから――慧音に、出逢えて。
「返事は? まぁ、どうせ無限にあるのだから、いくらでも待ってあげるけどね」
『返事を聞けるときに、言いたかった。きっとそれが、私の長い生の“心残り”になるのでしょうね』
輝夜の言葉に、どうしたらいいかわからなくなる。
でも、慧音が居て、輝夜たちも居て、それでも幸福を得られるのだとしたら――。
「保留でも、いい?」
――それでも。
胸の内側をがりがりと引っ掻く違和感に、私は首を振る。
輝夜はそんな私に、ただ、「そう」とだけ微笑んだ。
罪悪感。
胸の痛み。
良心の呵責。
脳裏を走る苦しみ。
ただ見せられた世界に対して、俯くことしかできない。
それが私はどうにも嫌で、ただギリッと奥歯を噛みしめた。
――記憶との差違
――情報の修正
――部分改編、修正
――展開準備
――改編完了、続行
――3――
違和感を抱えたまま、永遠亭を後にする。
振り返った永遠亭は普段と何一つ変わらなくて、私の中の違和感を薄くした。
もしかしたら、気のせいなのかも知れない。全部私の考えすぎで、みんなの言葉は真実なのかも知れない。
そう考えると、僅かにではあるけれど、心が軽くなった。
「まだ、こんな時間なんだ」
太陽は中天。
落ちもせず昇りもしない日差しが、私に時間を教えてくれた。
まだ真っ昼間だ。おにぎりでも食べながら、移動しよう。
「お、鮭か。山で獲ったのかな?」
空を飛びながら、おにぎりを口にする。
そうすると、そのどこか懐かしい味に、心が和らいだ。
うん。慧音に会いに行こう。そうすれば、もっと軽くなる。
竹林を超えて、そんなに遠くない場所。
鳥に抜かされる程度の速さで飛翔して、人里前の街道に降り立った。
それから地蔵に手を合わせて、ゆっくりと歩いて行く。
「寺子屋は……っと」
賑やかな人里。
その奥に進んで、やがて足を止める。
昼までで終わりなのか、子供たちは既に帰ってしまったみたいだ。
子供に元気を貰うのも、悪くはないと思っていたんだけど。
「慧音ー、いるー?」
声をかけながら、寺子屋の敷居を跨ぐ。
子供のいない寺子屋はがらんとしていて、寂しげだ。
慧音の家は、寺子屋の離れにある。
裏手から回り込んで真っ直ぐ進むと、質素な屋敷が見えた。
私ほどではないけれど、慧音も家に無駄な調度品を置きたがらない。
門を一回二回と叩くと、そのまま少し待つ。
おにぎりはとうに食べ終わり、手ぶらになってしまった。
本の一冊でも、持ってくれば良かった。
「……と、遅れてすまない」
ぼんやりと立っていると、慧音が扉を開けて出て来た。
髪が所々跳ねているし、寝ていたのだろうか。
「昼寝?」
「ぐ……こうも日が暖かくては、な」
慧音はそう、頬を掻く。
私はというと、慧音に言われて初めて今日の気温が高いことに気がついていた。
どうにも違和感の連続で、天気なんて気にする暇がなかったから。
「まぁ、ほら、いいから入れ!」
「あはは、うん、お邪魔するね」
顔を赤くした慧音に促されて、家に上がる。
廊下を進んで、左手。そこに客間がある。
けれど慧音が招いてくれるのは、廊下の奥。慧音の自室だ。
「妹紅から訊ねてくるなんて、珍しいじゃないか」
慧音はそう言いながら、私の前に湯飲みを置いた。
一口啜ると、香りの良い苦みが鼻孔をくすぐる。
玉露だろうか。こんなに良いものを出させてしまったのは、申し訳ない。
「ちょっと、ね」
「悩みか?」
間髪入れずに、聞いてくる。
慧音には、いつまで経っても敵わない。
それが少しだけ――嬉しかった。
「悩みがあるなら、話して欲しい。これは私の我が儘だ」
「慧音……」
「だから気負わず、話してしまえばいい」
慧音にそう告げられて、頷く。
私が胸を張って友達と言えるのは、きっと慧音だけだ。
他の人は、どこか、違う。
「実は、ね」
朝、慧音と別れた後からのこと。
竹林で出会ったミスティア、永遠亭の鈴仙とてゐ。
明らかに違和感を覚えた、永琳と――輝夜。
私はそのことを、慧音に全て話した。
「ふむ……考えすぎだと、思うぞ」
慧音は眉を顰めて、頷きながらそう告げる。
「この平和な世の中だ。誰も彼もが幸福を望み出すのにそう時間はかからないだろうと思っていた」
妖怪も人も関わらず、幸福を望める世界。
確かにそれは、夢物語のような話だ。
それが実現可能だと言われれば、納得できるかも知れない。
「でもさ」
それでも、私は。
違和感に塗れた世界で、どう生きていけばいいのか、わからなかった。
「やっぱり、おかしいと思う」
湯飲みを置いて、そう宣言する。
慧音に向かって言っても仕方がないのは、わかってる。
でもそれだけは、言わなければ気が済まなかった。
目を伏せて、自分の言葉を噛みしめる。
慧音は真っ向からぶつかってくれる人だ。
だから私も、彼女に堂々と質問をして、それを慧音の言葉で返してもらいたかった。
「頑固だな……考え方が変わった、とは思えないか? 今が、幸福なんだろう?」
「相談して置いて悪いな、とは思うけれど、でも――」
目を開けて、それから慧音を改めて見る。
彼女は私の言葉に対して俯いていて、その表情が窺えなくて。
――受け入れて、お願いだから。ねぇ、妹紅。
その瞳が不意に、瞬いた。
「これでは、幸福ではないのか?」
『私は大丈夫。だからどうか、幸福に――』
そう零す慧音に、違和感を覚える。
まるで、慧音が別のモノになってしまったかのような、違和感。
空気が重く。
息が苦しく。
眼球が乾き。
汗が頬を伝い。
胸が締め付けられて、ぐるぐると、気持ち悪さが疼く。
――修正、緊急処置開始
「いたっ」
慧音が私を、押し倒す。
いったいいつの間に私の傍まで来ていたのか、全然、わからなかった。
顔も、身体も、匂いも、慧音のモノ。
なのに、その気配は。
慧音が纏う空気だけは、異質なものだった。
「なぁ、幸福なんだろう? だったら、それに身を委ねてしまえばいい」
「慧、音……?」
慧音が笑う。
たのしそうに、愉しそうに、楽しそうに、笑う。
「慧音、どうしたのッ?」
「幸福なんだろう? 不幸じゃないんだろう? だったらそれでいいじゃないか」
白い手が、私の頬を撫でる。
慧音の身体がだんだんと、だんだんと、だんだんと霞んで見えなくなっていく。
「怖いことは何もないよ。ここにおまえを傷つけるものは何もない」
「ぁ」
どこかで、歯車が軋む音がした。
ぎりぎり、ぎりぎりと、私の身体を蝕む音。
「妹紅が望むなら、ずっと一緒に居よう。寺子屋だって辞めても良い。だから――」
だから。
だから、慧音に、身を委ねる?
「そ、んなのは、違う!!」
慧音の身体をはじき飛ばして、大きく後ろに下がる。
見上げた先にいるのは、確かに慧音だ。笑顔の、慧音だ。
けれど彼女は違う。
私の“友達”の――上白沢慧音じゃない!
「どうして逃げるんだ? 幸福だろう?」
「そうだね。誰もが優しい世界は、きっと満たされている」
悩むことはなく。
苦しむことはなく。
飽きることはなく。
悲しむことさえもなく。
「なら」
「でも」
でもきっとその場所に、幸福なんか無い。
「ミスティアも、鈴仙も、てゐも、永琳も、輝夜も」
みんながみんな、誰かの都合の良いように動く。
歩んできた歴史も、自分たちの心も、全部無かったことにして。
ただただ、優しさだけを煮詰めた世界。
「それから慧音、あなただってそうだよ。私の為と嘯いて、自分の夢を捨てる」
「わかってくれ妹紅、それは妹紅のために」
「私の為に? 私の為に――人形にでもなるの?」
――修正不可、負荷軽減開始
寺子屋の教師として働くのは、慧音の夢だった。
願い努力し叶ったそれを捨てて、私が喜ぶ。
慧音が、そんな風に考えるはずがない。
――エラー、ワードを追加、修正
「人形のような存在を望んでいるんじゃない」
「妹紅、妹紅、それ以上はダメだ、妹紅、モコウ、モコウ」
「私は、こんな“おぞましい世界”を望んでいるんじゃないッ!!」
――エラー、修正失敗、負荷軽減へ完全移行
慧音が、私の言葉に身体を揺らす。
両手で己の身体を抱き締めながらも、その顔には笑顔が張り付いていた。
――修正、接続一時遮断、保留
「結局それを、選んでしまうのか」
「私が好きなのは、ほんとうの“慧音”だから」
――ワードを追加、保存、解凍準備
慧音が、ギリッと歯を噛みしめる。
顔には笑顔を張り付けたまま、私に手を伸ばした。
――エラーコード修正、一時排出へ移行
「触るなッ!」
「妹紅、ダメだ、モコウ、不幸になる不幸になる不幸になる」
――暴走状態へ移行、対象に一時離脱を催促
慧音の顔から血の気が引いて、でもその瞳は真っ赤に充血し始める。
やがて目尻から血の涙がこぼれ落ちて、畳の上でどろりと広がった。
――ワード追加完了、カウントダウン開始、10
「不幸になる、あは、だから、モコウひモコはウモあはコウひモコウふモコあウモひはコウ」
――9
突進してきた慧音を、避ける。
そのまま焔をぶつけ……ようとして、止める。
彼女の形をしたものを、殺したくはなかった。
――8
「いなくならない不幸にしない幸福にしよう夢のような檻にない自由のような」
「私は、あなたとは一緒に居られないんだ」
――7
一瞥して、慧音から離れて走る。
彼女の自室から出て来ると、周囲には白い光が満ち始めていた。
――6
私がもしあの時慧音を望んでいれば、世界はそのまま続いたのかも知れない。
それこそ、永遠に。
――5
「モコウダメだモコウダメだモコウ駄目だモコウ駄目だそれいじょうイクナ妹紅ッ」
――4
慧音の声を振り切って、走る。
走って、走って、走って――光の中へ、飛び込んだ。
崩れて消えていく世界の中、私は最後にもう一度だけ振り返る。
――3
笑顔の仮面を張り付けた、慧音の皮を被ったそれ。
半ばから消え去った身体を支えながら、彼女は最期に、呟いた。
――2
「また、だめだった。次はもっと――うまく」
――1
頭にこびりつく言葉。
それを最後に――私の意識が、途切れた。
――0――シャットダウン
『幸福で、あって欲しい』
『この願い方は間違っている』
『そんなことはわかっているし』
『私は所詮、お前の手による模造品に過ぎない』
『けれども、いやだからこそ、幸せになって欲しいのだ』
『その地獄のような世界ではなく、私たちの世界で』
――4――
――再起動、準備開始
――目が、醒める。
今度こそ、私は夢の内容を覚えていた。
奇妙な悪夢よりもずっと現実的で、おぞましい悪夢を。
身体を起こして、ふと、枕元に転がる瓶に気がつく。
持ち上げてラベルを読んでみて――大きく、脱力した。
「胡蝶夢丸・改――また、怪しげな」
改良版ということだろうか。
胡蝶夢丸ナイトメアで失敗しているというのに、考えの読めない医者だ。
考えてみればそうだ。永琳も輝夜も、あんなしおらしい態度をとるタマじゃない。
「はぁー、気持ち悪い輝夜だったっ」
立ち上がって、大きく背伸びをする。
胡蝶夢丸をポケットに収め、軽く手櫛で髪を整えて。
そうしてから、家を出る。
「慧音に会いに行こうかな……ああいやでも、先にこれか」
胡蝶夢丸、改良版。
これについて、まずは永琳に聞きに行かないとならない。
もやもやした気持ちのまま慧音に会いに行くのも、嫌だし。
ああ、でも大丈夫かな。
こんな状態で輝夜に会ったら、何時もよりも殺し合いに力が入っちゃうかも。
ここのところ私の勝率の方が、ずっと上だし。
竹林を歩いて、足を止める。
少し気になって道を外してみた。
妙に物覚えの良いミスティアを見てしまったから、彼女の顔も見たくなったから。
夢の中でこんなミスティアを見たんだってからかってやるのも、良いかもしれない。
例えそれで機嫌を損ねても、どうせ歌っている最中に忘れるだろう。
「えーと……あれ? 確かこのあた、り、に?」
視線の先に転がる、屋台。
いいや、違う。屋台“だった”ものだ。
車輪はなく。
屋根は外れ。
ヤツメウナギの暖簾が、掠れた文字を浮かべている。
「っ」
慌てて駆け寄って屋台のようなものに触れると、手の中でぼろりと崩れた。
うち捨てられてそれから何があったのか、木が完全に腐っている。
竹林は日陰が多いし、雨に晒されて乾燥させなかったら腐ったりもするだろう。
ミスティアが、壊れた屋台を放置していた?
新調したのかも知れないし、まだ、判断できない。
「てゐ、てゐや鈴仙たちなら、なにか知っているかも知れない」
竹林を、走る。
心なしか、普段よりも鬱蒼としているような気がする。
私の知らない所で、何かが変わってしまったような、そんな――違和感がする。
竹はこんなにも、伸びていただろうか。
――輝夜との殺し合いで、定期的に燃やしているのに。
走って。
――胸騒ぎが。
走って。
――胸が痛んで。
走って。
――強く締め付けられて。
走って。
――目を逸らそうと、必死に……。
「ぇ」
そうして私は、足を止めた。
永遠亭があったはずの場所。
そこに広がるのは――“廃墟”だった。
腐り落ちた壁。
割れた窓硝子。
荒れ放題の庭。
“永遠”を冠する不滅の屋敷が、“死”んでいた。
「そ、んな」
もう何年も人の踏み込んだ跡のない、腐った地。
その空間に、どうしようもない不安を覚える。
「慧音っ」
踵を返して、走る。
飛べばいいと気がついたのは、途中からで。
背中に炎の翼をつけて、全速力で飛行した。
竹林から、永遠亭から逃げるように、まっすぐまっすぐまっすぐッ!!
そんなはずがない。
――手が見える。
そんなはずがない。
――白い手だ。
そんなはずがない。
――いいや、違う。
そんなはずがないッ。
――赤く濡れた、穢い手だ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!」
叫んで、叫んで、喉を嗄らすほどに叫んで。
それから私は、人里近くの空で、止まった。
「うそ、嘘だよ、こんなのッ」
廃墟だった。
確かにそこは人里だったはずなのに、廃墟だった。
家々はボロボロで、道の真ん中に木が生えていて、動物が住んでいて。
「慧音、慧音ッ!」
腐り落ちた寺子屋。
その裏手から、真っ直ぐ。
回り込んだ先にある、廃屋。
そこに、躊躇わずに飛び込んだ。
「慧音!」
――客間に姿は無い。
「慧音!」
――自室の壁は落ち。
「返事、してよっ!」
――寝室は、風雨に晒されていた。
慧音は、慧音はどこへ行った?
私を置いて、一人にして、いったい――――ぁ。
裏口から出て、ほんの数歩先。
寺子屋の裏、彼女の屋敷の更に裏。
そこに建てられた――慰霊の祠。
「ぁ、ぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁあああぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!」
思い出した。
思い出したッ。
全部全部全部――――思い出したッ!!
――/――
一番最初は、鈴仙だった。
月の兎だった彼女は、地上の穢れによって寿命が減っていた。
いくら永琳が名医でも、寿命だけはどうにもならなかった。
彼女がこの世を去ったとき、同時期に、巫女や魔法使い、人間達が死んでいった。
二番目は、てゐだった。
鈴仙が居なくなってから元気を失い、やがてやつれていった。
食事も摂らなくなり、日柄一日ぼぅっとしていることが増え、やがて鈴仙と同じように死んだ。
彼女もまた、寿命だったのだと、聞いた。
兎たちが永遠亭から去り、輝夜と永琳が残された。
そんな時だった――慧音の、訃報を聞いたのは。
突然の嵐の日だった。
雨で地盤が弛み、土砂崩れが起こったそうだ。
山に仕事に出ていた男たちが心配になり、慧音が彼らを助けに行った。
見つけたはいいが、仕事を見せるためにと連れてきた彼の子供が、迷い込んだままだったそうだ。
そこまでは、生き残った男の話――
――ここから先は、生き残った少年の話。
迷い込んだ彼は、運悪く木の根に足を取られて転んでしまった。
身動き取れずに震えていたところに、土砂崩れが襲いかかった。
助けに来ていた慧音はそれを見つけ、身を挺して少年を助けた。
慧音らしい、最期だったと聞いた。
土砂で頭を強く打ち、息も絶え絶えながら少年を抱き締め庇い。
私が雨雲を吹き飛ばして辿りつき、助け出した頃には。
慧音は、息をしていなかった。
それからのことは、よく覚えていない。
無為に毎日を過ごして、死にたいと願っても死ねず、仕方がないから心を壊して。
それから、確か、輝夜と永琳が来たんだ。
『罪が恩赦になって、月に帰ることになったの』
『もう聞こえていないのでしょうけれど、私はあなたのこと、けっこう気に入っていたのよ』
『だから、ね。正直、今のあなたは見ていられない。どうせ、聞こえてないのでしょうけれど』
聞こえてはいた。
見ることだって、していた。
けれど私は、耳を塞いで目を閉じていた。
『……姫のお相手をしてくれたこと、感謝しているわ』
『一緒につれていくことは出来ない。だから、せめて、これを』
『胡蝶夢丸・改。製法も置いていくから、それを飲みなさい』
『そうすれば、永遠に夢の世界で、望んだ世界で生きていくことが出来るから』
ああ、そうか。
一度じゃ、駄目なんだ。
何度も飲んで理想に近づけなきゃ、駄目なんだ。
そんな風に気がついたことさえ、私は――忘れていた。
――/――
枕元に胡蝶夢丸が置いてあった、理由。
そんなものは、たった一つ。
私が自分で飲んだから、そこにあったんだ。
それはなんて、滑稽なことだろう。
私は自身で選んだ癖に、夢をうち捨ててしまったのだから。
「もう一度、夢を見よう」
足りなかったから、駄目だったんだ。
何度も何度もやって、結果を調整していかないとならないんだ。
あの夢の世界で、永遠に生きていく為に。
「あ、は、あはは、なんて」
瓶を手に取り、蓋を開ける。
掌の上に落ちた丸薬は、極彩色をしていた。
「なんて、無様」
今度は、慧音の祠の前で。
次があったら、余計なことまで思い出さないように。
「今からそっちへ行くね、慧音」
終焉の世界で。
幸福な、夢を見よう――。
――再起動、準備完了
――保存データ、解凍完了
――展開準備開始、起動ワードを入力
――誰にも邪魔されない、美しい夢を。
――誰にも侵されない、私だけの夢を
――起動ワード、インプット完了
――バックナンバー1084、バグ修正完了
――“胡蝶の夢”ナンバー1085
――展開
――開始
――了――
途中にいなくなった連中の台詞が隠されてるのは、胡蝶夢丸改の成分の中に
彼女らの残留思念みたいなものも組み込んであるからなのかな? えーりんならそういうこともできそうな気がする。
偽者の世界を否定したところで、真実の辛さに耐えることもできず……薬が切れるまでこれを繰り返すんだろうか、そしてその後は……?
目が覚めたら、一人ぼっちの空しいセカイ。
早く!! 早く!!
よく喚く兎だ。
流浪の私に案内など不要だが。
憎まれ役は程よく意地悪で、愛しい人はちょっとそっけない位が良いかな。
満たされない、満たしてはならない、幸せなセカイを望む。
碌な結果にはならないだろうが。
その夢自体が自分だけじゃなく、みんなの夢がかなっている世界を夢想していたことが切ない