霊夢は不思議に思った。
こうして何の気なしに霊夢を訪ねることが多い紫だが、今日はなんだか様子が違う。
疑問の答えを得る間を待たずに、紫は霊夢に話し始めた。
「なぜ、幻想郷はここにあるのでしょう」
「はい?」
霊夢はおもわず聞き返した。
「幻想は女性の顎ヒゲにあり、山の根元にあり、魚の吐息にもあるわ。幻想はどこにでもある。ではなぜ、わざわざ幻想郷はここにあるのかしらね」
紫は、トントンと、指の先で机をタップする。
要領を得ない話に霊夢は首をひねった。いつだって彼女の話は判断に苦しむ。
紫はゆっくりと口を開いた。
「極端な話、人の頭の中にだって幻想は存在できる」
そう嘯いて、紫は霊夢の瞳を覗きこんだ。
「分かり易いようにいってあげるとね。幻想郷がなぜ日本という国の、この地域に、物理的に存在しているのかというと」
紫は説明を続けた。
「答えは簡単。お隣さんがいるからよ」
そして朗らかに笑った。
「住み分けてるの」
霊夢からしてみたら初耳だった。
紫の補足によると、幻想郷のような箱庭の楽園はこの地球上の様々な場所に点在しているそうだ。
誰の命令という訳ではない。それぞれの地域には紫のような管理人がいて、それぞれの領土を守っているらしい。
なかには幻想郷に原理が近い土地もあるが、住人や特有の世界観は千差万別だという。それこそ管理者の趣向次第だ。
「みんな好き勝手に世界を創っているのよ。そもそも、幻想郷のような楽園がひとつしか存在できない、しない、と考えるのは短絡的なことだわ。この地球上にはどれほどの生き物がいると思って?」
と言われれば霊夢にもそんな気がした。
ちなみに一番近いお隣さんは現実郷というところらしい。売れ残ったペットやわざと壊した避妊具など、生々しいものが辿り着く場所だ。
行きたくはない。
「で、本題は?」
霊夢が出し抜けに聞くと、とたんに紫は渋い顔をした。
回り道をする会話の妙が、霊夢のあけすけさの前には台無しだった。
「ほら、だから、私ってもう幻想郷が長いじゃない。この前、管理者同士の会合に行ったら、みんな郷の雰囲気を新しくしてたみたいでね。特に私はここ二千年くらい顔を出してなかったから、友達にも、まだ紫は『忘れられたモノ』なんか集めてるの?なんて笑われたわ」
話も後半部分になると、紫は言いづらそうに口を濁らせた。
「私、恥ずかしい思いしちゃって」
霊夢はため息をついた。
仔細は省かれているが、紫はその集まりとやらで大方、幻想郷を古い古いとバカにされたのだろう。
古いのは当たり前だ。古いものが集まる、それが幻想郷なのだから。
紫はそれを見返してやりたいと思っているのだ。
「これ」
紫は派手に色がついた雑誌を取り出した。
結構な厚さだ。
紫はもじもじしながら言った。
「最近はまってるのよ」
「へぇ」
「ちょっと、幻想郷の雰囲気を変えたいの」
霊夢はいぶかしんだ。
「で、この雑誌に載ってる絵物語を見本にしようってこと?」
「察しがいいわね。さすが霊夢よ」
雑誌には英国の言葉で飛翔を意味する単語がでかでかとプリントされていた。
紫は言った。
「トリコっぽくしよう」
そういうことになった。
用件を伝え終えた紫はうきうき顔ではしゃいでいた。
霊夢はそんな紫に、用が済んだなら早く帰れと言いたげに、シッシッと手で払った。
基本的に幻想郷がどう変わろうと、博麗のやることは、あるがままなのだ。外見が変わろうと本質が同じならどうでもよい。
スキマを開きながら紫は最後に霊夢へ振り返った。
「あ、そうそう、ひとつ忘れていたわ」
「なによ?」
「だからもう、博麗は廃止」
「は?」
「いただきます」
ぞぶり
────
「あなたは食べてもいい人類?」
少女は質問を口にした。
だが、見目幼い女から出たのは答えを求めての問いではない。
この妖怪は同様の質問の後、すでに何百という人間を食い殺していた。
だが獲物は怯えながらもどこか楽しげな様子だった。
傷を負った人間はただの、反撃の手段さえなさそうな、つまらない人間であるにも関わらず。
人間は笑った。
そして反対に聞き返した。
「お前は食べてもいい妖怪?」
その問いには、時代が答える。
そう、たとえば、この世の中には信じられない美味さの食べ物がある。
曰く、見ただけでよだれが止まらない、全身が最上級の霜降り肉の人間がいるという。
一年中が旬の、完熟した果実のような妖怪がおり、その身は濃縮した甘味のえもいわれぬ芳香を放っている。
誰にも知られない境内には、一度食べれば全身が歓喜に踊り、感涙と唾液に顔を汚さなければならないくらいの珠玉の肉をもった神がおわすという。
とろける様な口当たりの亡霊、それが無限に湧き出る不思議な門があるという。
深遠の森の向こうには、最高の歯ごたえと食感の、ぷりっぷりに身が詰まった吸血鬼や魔女の成る館があるという。
人は……。いや、人は、妖怪は、神は、亡霊は、妖精は、美味いモノを探し求める。
もはや種族の垣根はない。スペルカードルールは姿を消し、人里への不可侵条約も消え去った。
逆に人里にも、彼らの成長を妨げるような壁は消えてしまった。
幻想郷は大波乱に陥る。この地は互いで互いの肉を食らい合う地獄の坩堝となった。
しかしそこにあるのは狂気や苦痛ではなく歓喜。単純に、美味いモノを食べたいという未知への欲求が彼らの体を突き動かす。
そう、今はまさに、大グルメ時代!!
年かさの広葉樹が幾重にも重なり合う魔法の森。
木々の重なりは延々と地上を覆い尽くして、地平線さえぼやけた凹凸に姿を変えている。
日の光が地表に届くことはなく、奥深い木々の絨毯は陽光を周囲に散らしていった。
魔法の森は、どんな場所にでも地層類が蔓延るのだが、それはこうして常に太陽の光が遮断されるためだった。
遮られた光は微弱な緑光になって地面に降り注ぐため、森の中はいつも薄暗かった。
魔法の森に太陽はない。
昼は暗緑色の絵の具が世界を染みで塗りつぶし、そしてそれさえも終わってしまえば完全な闇夜が待っている。
夕闇の帳が地上に下りる頃から、まるで憑かれたように妖怪たちが獲物を求めてさ迷いだすがこの地だった。
その暗闇の下、ひとつの快活な生き物が地に蹲ってなにやら作業に没頭していた。
細い腕を器用に振るい、肩まで地面に突っ込むと、ぼそっとした音と共に地面から何かを掘り返す。
せわしなく動きまわり、乱れた息遣いが聞こえてきた。
危険な森の中、ごそごそと小さな背中がゆれている。
その生き物に掘り返された何かは、一塊の泥のようだった。
微細な腕の動きと指使いが採取した塊から土を神経質に取り除いた。生き物はまたしても作業に戻る。
ひとしきり地面を掘りつくすと、またごそごそ音を立てて場所を移動し、今度は倒れた木の洞に腕が突き入れられる。
一連の作業は、朽木や地面に巧妙に潜んだ、森の恵みである茸を採取するためのものだった。
迷いないその手腕は熟練を感じさせる。わずか一刻ほどで小さな背中についた葛篭は山盛りの茸で埋めつくされた。
それは、かつて誰もが知る少女だった。
周囲に溶け込んだかのような黒い衣装は森のたたずまいにすっかり同化している。
全身を余すことなく覆う真っ黒なローブは、まるで迫る脅威に怯えて闇にその身を混じらせようとしているかのようだった。
泥にまみれながらも、普通の魔法使いだった少女は満足げに息をつく。
自慢の帽子の代わりとなったフードをつまみあげると、すっかり汚れた髪が顔を出した。
金色のブロンドには茶色い土だらけだ。
一通りの茸採集を終えた魔理沙は帰路につくことにした。
背中の重みに人知れず顔がほころぶ。
これなら一週間は食べても尽きることはないだろう。
食べきれない分を干せば、市の物と交換ができ、夏の向けての生活を楽にすることができる。
「ふぅ…」
事の起こりは季節を三つほどまたいで前に遡る。
幻想郷という地は龍神なる神との契約によってその平穏と機能を約束されている。
その契約内容が大幅に変化したのが去年の夏ごろ。あれは暑い夏の日のことだった。
今にして振り返ればまるで白昼夢のような出来事で、にわかには信じられないといった気持ちが未だにある。
異変に振り回されるのが幻想郷に生きる者の運命なのだろうか。
なんでこんなことになったんだろうなぁ、と魔理沙は思案した。
魔理沙は玉の汗を拭い、湿気で蒸された胡乱な頭で思い出してみた。
幻想郷を包む変化はゆるやかだが確実に進行し、その変化が実際に体で実感できるようになったのはわずか半年ほど前だった。
魔理沙が研究していた魔法学はしだいに力を失くし最期には完全に消えてしまった。
驚くべきことに、本来の意味での魔力が消失してしまったのだ。弾幕を張ることはもちろん、飛行もできなくなり、魔理沙の自活に足る能力を欠如した。
何しろ、遊びにしろ実生活にしろ生活を大きく支えていた魔法行使ができなくなってしまった。これには絶望した。
この症状が自分だけではなく、幻想郷全体で起こっていることだと知ったとき、魔理沙は初めて魔法使いをやめる覚悟を決めた。
その後一切の能力を失った魔理沙が独力で生計をたてられるはずがなく、またこの影響は霧雨魔理沙という人物の幻想郷での失墜も意味していた。
しかし、魔理沙には寄るべき身内がいない。
今日までなんとか死なずにすんでいるのは幸運の他に、当人の努力、そして魔理沙の少女らしからぬ経験の豊富さによるところが大きい。最も良い要因として、魔法使いだった時期から多くのフィールドワークに出ていたことが彼女の生命をつないだ。
それ以来魔理沙は変わることなく魔法の森に住み続けている。
服はみすぼらしくなり、ブロンドは薄汚れ、手や足は筋張って、かつての目立ちたがりで勝気な少女の影は薄い。
家も修繕できず、ほとんどその日の食べ物をその日に探す乞食ような生活が続いている。
それすら食べられない季節には飢餓と孤独に悲鳴をあげていた。
誰にも頼れず苦しい思いをしながら、しかしその目の輝きだけは以前の生活を取り戻そうと淡い希望を夢見ている。
誰もそれを責めることはできない。すべては幻想郷のルールが変わってしまったせいだからだ。
だが弱肉強食というルールはその上にすら歴然と横たわり、今日までの魔理沙に降りかかる不幸を助長していた。
それでも魔理沙が人里に戻らないのは意地であり、これまで積み上げてきた人間としての誇りである。また、魔法の代わりにできた新しい趣味のためだった。
「あ、いたいたー」
空の色が青から赤に変わった頃、家路を急ぐ魔理沙の上から声が降ってきた。
「タイミングよかったわね」
烏天狗の文はそう言って魔理沙の前に降り立った。
普段と変わらぬ、白いシャツに黒いスカートの正装。頭には帽子が飾られている。この妖怪の見た目は変わらないままだ。
それを見た魔理沙は聞こえないように小さく舌打ちした。
「これはこれは魔理沙さん。こんにちわ。今日はどうしてこんなところに?」
「どうしてって。魔法の森に住んでる私がこの森にいたって何の不思議もないだろ」
「あはは、それもそうですね。一本取られました」
文は笑った。
文は取り留めのない話題を軽やかに話す。なんてことはない世間話だ。
魔理沙は会話が一通り終わると、罰の悪い顔のままその場を去ろうとした。
快活な彼女はどこへ消えたのやら、今の魔理沙はまるで、とにかく人と関わりたくないようだった。
事実、移動する手段に欠いた彼女は、かつての友人たちにはあまり顔を合わせていない。
「おや、それはなんですか。ずいぶんたくさんあるみたいですが」
文は魔理沙が背負った葛篭に目を向けていた。
ぴたりと、魔理沙は止まった。
「なんでもいいだろ。もう行くぞ」
「いえいえ、真実を見守る記者として興味が惹かれます」
どうやら久しぶりに会った幻想郷の住人は、魔理沙自身より、その背中に背負った籠の中身の方に興味があるようだった。
分かっているくせに、と心中で漏らす。
魔理沙はまとわりつく文を無視してきびすを返した。
「ねえ魔理沙さん。実は私困ってるんですよ」
「葛篭の中身は茸だ。もう消えてくれ」
「へぇ、そうだったんですか。いやぁ魔理沙さんは素晴らしく茸狩りが美味いんですねぇ。ぜひご教授願いたいです」
魔理沙は早足で歩く。しかし文はそれ以上の速度で後ろをついて回った。
泥だらけの腕を振って、出来る限り通りにくい道を選んでいく。
「お恥ずかしいことに私は食料集めがたいへん不得意でして、今夜仲間からもらえるはずの配給さえ危ういんですよ」
「そうかよ、ご苦労さん。私には関係ない」
「その点魔理沙さんは、一人ではとても食べ切れない量の茸を取るなんてすごいですね。どうするんです、それ?」
「どうもこうも、私の採ったものだ。私の勝手だろ」
「ところで人間と妖怪って助け合うべきだと思いませんか」
文の狙いが茸を無心することだとすぐに分かったが、魔理沙もおいそれと渡すわけにはいかなかった。
今の幻想郷で食料がどれほど重要な意味を持つのかお互い知らないわけではないのだ。
だいいちこうして文が魔理沙の食料を付けねらうのは一度や二度のことではなかった。
しばらく文が回りくどい会話を続けようとしていたが、魔理沙は次第に口を開くのも億劫になってきた。
だがあるとき、それまでの親しげな文の雰囲気が一変した。
「めんどくせえ…」
魔理沙はぞっとした。
そしてそのぶっきらぼうな口調に驚いて振り返った。
「お前、何を」
これみよがしにつぶやいた文の瞳はすでに敵意混じりだった。
次の瞬間、細い腕が魔理沙の腹を打った。
魔理沙は急に襲った痛みに咳き込み、地面にひざをつく。
顔を見上げれば冷たい目をしてこちらを睨む一匹の烏天狗がいた。
魔理沙は驚きに目を見開いた。
「……なに、すんだよ」
「次、舐めた口きいてみな」
とつぜん視界が回転して、天地が逆転した。
苦痛の呻きをあげる暇もなく、魔理沙は地に這いつくばる。
土の味がした。拭った手に血がついている。
「まだ分からないんだ。アンタの頭って腐ってんの?」
蹴られた。そう理解するまでに、痛みが何度も体を走った。
背後では魔理沙の背中から今まで集めた茸がバラバラに散乱していた。
文は足をゆっくりと上げ、その内ひとつを踏みつぶす。
そして侮蔑の目で言葉をつむいだ。
「さっさと拾えよ」
文の言動には有無を言わせぬ迫力があった。
「お前…」
いきなり凶行だ。怒りがわきあがり、魔理沙は文を睨み返そうとした。
こんなとき、普通の魔法使い霧雨魔理沙はどうするのか。
かつての魔理沙ならこうしただろう。すぐさま勝気な表情で文に向かい合い、袖からスペルカードを引き抜いて言うのだ。
弾幕勝負に勝ったらくれてやる、と。
お得意の口上でスペルカードを宣言し、魔力のままに敵を倒して颯爽と去っていく。
それが魔理沙だったはずだ。いや、それ以前に、文がこんな粗暴を態度を取ること自体がありえなかった。
あやや、なんて口癖を言ってから、茸が欲しければ得意の丸秘報道ネタで魔理沙をゆすっていたかもしれない。
それを絶妙の弁舌で小粋に切り返す魔理沙。そんな光景は驚くほど簡単に幻視できる。
今の魔理沙も内心では同じ振る舞いをしようとしているのかもしれないし、そうしたいのかもしれない。
もし、未だに、魔力なんていうものがこの世の中にあらばの話だったが。
そして何度目かの蹴りが丸めた背中に降ってきたとき、もう魔理沙にあるのは恐怖だけだった。
魔理沙はどうにか立ち上がろうとしたが、顔は真っ青に血の気がひいて、膝が震え、足より先に心が折れて、とても立ち上がれなかった。
文は近くに生えた樹木を蹴りつける。すると、まるで鉄槌で叩いたように幹がへし折れていた。
「人間風情が調子に乗ってんじゃねえよ。ねえ、なんでアンタがいま生きてるか分かる?私が殺さないでやってるからよ。別に夕飯はアンタの肉でもいんだけど」
文がそういうと、魔理沙は必死に首を横に振った。
夢中で地面に散らばった茸を拾い集める。
ようやく全て葛篭に入れたとき、魔理沙の目の前に腕が差し出される。
その意図に気づき、魔理沙の顔からさらに血の気が引いた。
「ぜ、全部……?」
驚きを声に出した魔理沙は、再び文の冷たい目を見ると、あわてて、言葉の後ろに敬語をつけた。
「すいません。でも、全部取られたら私の食べるものが」
「お詫び、だろ?」
魔理沙は下を俯きぼそぼそと口を開けた。
「えっとそれは…けど、この前も、いつも、半分以上あげてるし」
「黙れよ」
文が軽く腕を振り上げた。
魔理沙は怯えて、とっさに葛篭を自分の前に差し出して盾にした。
文は目をつぶって震える少女に満足すると、拳を開いて葛篭が奪い取った。
葛篭の中身を確認すると、文は顔をニヤつかせた。
「運がいいわ。こんなところに茸が落ちてるなんて」
それきり文は魔理沙に興味をなくしてしまったかのように茸を取り出して指でいじっている。
心の内では、魔理沙が居心地が悪く怯えているのを楽しんでる風だった。
「あとさ、この前ここで拾った茸に不味いの混ざってたのよね。仲間に食わせて恥かいたわ。どうしてやろうかしら」
さもどうでもいいことのように、文はつぶやいた。
その言葉に魔理沙は何の反応も返すことができなかった。
どうにか沈黙を破るため、冷や汗をかきながら魔理沙は顔をあげた。
「その中にある、茶色くて傘の広い茸」
「これか?」
「ああ。そ、それです」
「これがどうした?」
「その茸だけは早く食べた方がいいです」
魔理沙は再び文に目を向けられると、視線をそらして自信なさげに続けた。
「魔法の森でしかとれない茸です。早く食べないと味が劣化してしまうので。その、採取してからかなり早くが、好ましいです。珍しくて、時々しか取れない種類の茸ですから……はい。えっと…生で食べると、ものすごく美味しいんです」
文の手にある茸を見つめた。
「へぇ、これがねぇ」
いびつな傘をもった茸には白い襞が入り、表面がねとりと輝いていた。
「え、えへへ…。ですから食べるならお一人で…」
魔理沙の媚びた表情を見るでもなく、文は薄ら笑いを浮かべた。
表情が内心を物語っていた。
くだらない天狗仲間に分ける必要はないか。
これは一人で頂くとしよう。
「アンタもなかなか分かってきたじゃない」
文の機嫌が直り、魔理沙は窮地を脱したことに安堵を浮かべた様子だった。
「今度からは美味いのだけ集めな。あと、人間風情が天狗の事情に口を挟むんじゃないよ」
文は一番不味そうな茸をひとつだけ魔理沙に投げつけると、爆発的な勢いで飛び去った。
周囲の枝が風にゆれ、舞い上がったつむじ風が森にざわめきを作り出す。
傷だらけの少女の周りには今しがた集めた茸が無残に転がっていた。
強張った体をほぐして、魔理沙はようやく動き出す。全身が痛みを訴えていた。
魔理沙は周囲で一番高い木に登ると、手を額につけて遠方を眺めた。
いた。一直線に妖怪の山に向かっている。
日が暮れる前のこの時間は、人間の目が利く最後の時刻で、しかも妖怪だろうと直行直帰の夕餉の帰宅時だ。
そのため文が魔法の森から一直線で飛ぶ可能性が高い今日が勝負の時だった。
遠くなっていく黒い影を見つめていると、しばらくして、魔理沙はその方角へと駆けていった。
────
ティーカップには可愛らしい花柄が生い茂っていた。
控えめに注がれたダージリンの澄んだ琥珀から穏やかな香りが立ち昇る。
卓上にかけられたテーブルクロスの図案は本物の花畑のようにテーブルを演出していた。
机の上には切りかけのフェルト、針と糸、裁縫道具一式が広がっており、作りかけの人形が自分の顔に宝石の瞳をいれられるのを、まだかまだかと待ちわびている。
そこかしこにちらばった素材を押しのけながらアリスは人形の腕に糸を通す。
「ううむ…。上手くいかないわね」
裁縫針が指をついた。
眼鏡をはずして机の上に置くと、アリスは紅茶に口付けて一息ついた。
アリスは目を瞑り紅茶の香りを楽しむ。
さあもう一仕事と、精気を回復したところで外から聞き覚えのある乱暴な足音が聞こえてきた。
「あら、来客ね」
玄関から音がして、アリスのいるリビングまでまっすぐに足音が進んで来る。
「ただいまー!」
ドアが勢いよく開かれ、汚れた少女が元気よく入ってきた。
全身泥まみれだが、実にほがらかな顔をした魔理沙は、足取り軽くアリスのところまで寄ってくる。
その背中には大きな荷物を背負われていた。
喜びを露にしている理由はその大荷物だろう。後ろ手には、器用に麻縄で縛り上げられた人間が一人かつがれている。
アリスはすっかり事情を飲み込んだ。
たいていはそうなのだが、この横暴な少女がかわいらしくなるのは、苦労して大きな獲物を捕獲したときで、その時の笑顔ときたらまるで世界一のマシュマロみたいにふわふわと甘く輝いていた。
年ごろの少女は、普段の雑な印象をこのときばかりと成りを潜め、フェアリーテイルを思わせる本来の風貌の魅力を存分に発揮するのだ。
背中のお土産をどすんと床に置くと、返事くらいしてほしいな、そう言ってテーブルについた魔理沙は満面の笑みをうかべた。
「いらっしゃい」
アリスは気取らずに挨拶した。
答える代わりに、魔理沙はアリスの飲みかけ紅茶をぐいと飲み干す。
「あ、こら」
「それより見てくれよ」
魔理沙は自慢げに床に転がる文に目線を移した。表情は喜びをおさえきれずニヤニヤと自然に頬が緩んでいる。
確かに魔理沙のその容貌からは柔らかな印象が落ちている。かつてより髪の色艶も少々小汚くなっただろう。だがそれこそはこの少女がこの時代にきっちりと適合した証だった。
そしてこの笑顔は、弾幕勝負で勝ったときなんかよりもずっと充実して輝いているようで、心のそこから湧く深い感情をどうにか抑えようと奮闘しているようだ。
「あら、いつぞやの天狗じゃない」
白目をむき、あんぐりと開いた口からは涎だか粘液だか分からないものが垂れている。
文はすでに呼吸が止まっていた。
アリスが感心していると、魔理沙は悠々と功績を語り始めた。
「烏天狗って食材はけっこう手間がかかるからな。ずる賢くて骨のある…まあ、捕獲レベルは15くらいだ」
「あきれた。よく付き合ったわね。もう三ヶ月近くもでしょ?」
「そうそう。これまでにささげた茸もバカにならないくらい多い」
魔理沙は苦笑する。
そしてむず痒そうに鼻を掻いた。
「これが烏天狗ってのは強いのもそうだが、狡猾だから、信じさせるのに苦労した。わざと見つかり易いように採集したり、かっぱらい易いように同じ場所をうろついたり。不用意に仕留め損なうと妖怪の山を敵に回すしな」
ほんとに苦心したのだろう。魔理沙の顔には自嘲めいた疲労がにじみ出ていた。
ぺらぺらと喋りだす魔理沙がこうして不躾にアリス宅を訪れるのはそう珍しいことではない。
アリスはそんな苦労話に耳を傾けつつも、すでにこれからするだろうの作業の想像に意識を移していた。
「大事なことは労力を惜しまないことだな。これは、っていう食材を見つけたら、何ヶ月だって辛抱強く耐えて時間と気長に付き合ってやる。必ず労力以上の喜びが帰ってくる、それが私の原動力さ」
「ご立派ね」
うれしさのあまり饒舌になる魔理沙に、アリスはあきれたようにため息をついた。
「頼むぜアリスシェフ」
「仕方ないわね。こんなところに住むような森の中の変わり者で…」
アリスは席を立った。
「料理ができるのなんて、私ぐらいのものだもの」
アリスは食材を持ち込むたびに同じような台詞を言う。
それを知っている魔理沙は、お決まりの言葉を聞いてうれしそうに笑う。
なんだかんだで、アリスもこの時間が楽しみなのだ。
「最高の料理にしてくれよ」
「まかせなさい」
アリスはキッチンに向かった。
「田舎住まいの都会派さん」
「うっさい」
魔理沙が森の汚れを洗い流している間、アリスはキッチンで下準備を始めていた。
さてここで、アリスは魔理沙について思う。
霧雨魔理沙。彼女は人里の依頼を通さずフリーで活動する狩人だ。
目当てが紙幣ではなく獲物を食べることだと考えると、単なる美食屋ともいえるだろう。
実際彼女の腕はたいしたもので、烏天狗なんて人里の高級料理店でも出せないくらいの最高級の食肉だ。
しかも天然モノ。これは何倍も価値があるし効用もすごい。
魔理沙の手に入れてきた烏天狗はその中でも極上に近く、売れば相応の額になるだろう。
身のしまりから 肉の質まで おいそれと口にできる食材ではない。
もちろん、本人には売る気など一切ないのだが。
食べたいものを捕える。それが魔理沙だ。
舌の欲求のためなら、手間を惜しまない姿勢。力無き人間の長期に渡るノッキング技術──かねてからの疑問だったのだがこれは騙し討ちや暗殺の類とでも呼ぶべきで仮死技術ではないのだが……彼女がそう言い張るのでそう呼んでいる──を駆使して獲物を捕獲するやり方。
ほんとに彼女の功績はたいしたものだった。
二人の関係はそこそこ長いのだが、こうして運んでくる食材は狩りのプロ顔負けのものが多い。
とはいえ捕った食材を里に卸したりはしていないので、彼女のちょっとした実力と成果を知る者はこの界隈でもごく小数に限られた。
めっきり調理の才能のない魔理沙はもっぱら捕獲が専門で、調理はアリスに一任している。
というより必要以上の報酬を請求せずなおかつこんな危険な森に住み続けている専属コックなど探そうにもアリスしかいなかった。
アリスのほうも時々魔理沙がとってくる最高の食材にご同伴預かれるなら調理の手間などなんでもなかった。
素早い烏天狗はアリスにさえ捕獲できるか分からない。
弾幕ごっこで泥棒なんぞしてた時分には甘ったれた少女だったが、よくもここまで成長したものだとアリスは感慨深く思う。
やはり勝負事は生き死にをかけてこそ人に成長を促す。
魔理沙の頑張りへの敬意と、せめてそれに見合う調理は施さなければというアリスのプライドが、ある種の良い関係を今日までの二人に生み出している。
これがパートナーとかコンビと呼ぶべきものなのかもしれない。
等々は思っていても実際口には出さないアリスだった。
「まーだーかよー」
「暇ならあんたが汚した廊下を掃除してなさい。泥だらけであがったせいで家が無茶苦茶よ」
アリスは文の死体から服を剥ぎ、水で丹念に洗いながら言った。
といっても茸の毒で仮死状態にあるだけだ。
後ろ手の魔理沙はシャワー上がりのさっぱりした格好で、調理をするアリスの様子を背中から眺めていた。
キッチンにある小さな椅子が、アリスが調理をするときの魔理沙の定位置だった。
「何か調理の希望はある?」
「シェフのおまかせで頼む」
「分かったわ。まあたくさんあるし」
聞いておいて何だが、アリスはすでに今回のメニューを考えてた。
やはり良い食材が手に入ったのだから、素材の味が生きる最もシンプルな料理がいいだろう。
味付けは塩。
焼き方はソテーだ。
巨大なキッチンに無理やり文を乗せると、アリスは牛刀を手に取った。
細い首筋に包丁をいれると血が流れ出した。
アリスは心臓より傷口が低くなるように、文の足を組ませて、流し台に置いた。
血は後日使うかもしれないので、皿にとっておく。
「香り付けに何か使いたいんだけど持ってない?」
「散らばっちゃったからこれだけだがな」
魔理沙がポケットをがさごそと漁る。
ごろんと、丸い茸が転がった。
「これはトリュフね」
アリスはさっそく数個のトリュフを軽く水洗いした。
ここから先はグルメ時代にふさわしい料理の幕開けとなる。
普通、食肉というものは熟成させるために血抜きして日をおく必要がある。
しかし、このレベルの天狗肉の場合、体の細胞が生きている今この瞬間に食べるのが最も良い選択となる。
これが大グルメ時代最大の喜びだ。鮮度のために発展したのが仮死技術だった。
アリスは巨大なキッチンの上に乗った天狗のやわらかなお尻に包丁を走らせた。
裸の肢体が眼前に横たわる。白目を剥いた文はぴくりとも動かなかった。
瑞々しい皮膚の弾力が指に返ってきた。文のきめ細かな肌に赤い線がすっと引かれる。
可哀想だとか、そういった感情は浮かんでこない。
確かに昔は顔見知りだった。でも道徳とか倫理観なんて無視、無視。
アリスは計画的にいれられた赤い線を引きはがした。
するとまるで桃の薄皮のようにお尻の皮が剥ける。
皮膚の下からは肉付きのいい赤肉が顔をのぞかせた。
アリスは天狗の体の構造を記憶から引っぱりだし、丁寧に包丁で尻肉を切り出した。
四角く抉られた肉の断面からはちぎれた血管と神経が見えはじめた。
切り出しされたブロックは美しい白色のまだら模様がかかっていて、目の覚めるような霜降り肉だった。
続いて、ふとももの裏側からも同様に肉を切り出す。鮮血が包丁とまな板を滴った。
「いつ見てもアリスの料理の手際はすごいな」
「ありがと」
アリスは包丁を丹念に洗ったあと、綺麗に見えるように肉の厚さを揃える。
厚手の天狗肉は3cm以上になった。
これは少女なら人体の中でも最大の部位で、肉特有の味を楽しむという点では一番贅沢な切り分け方だった。
肉に薄く包丁を引き、適量の塩をもみ込む。
馴染んだらついに火にかける時だ。残った文はこの際放置だ。
「うおぉ。すごいな…」
「ほんと…。ちょっと感動したわ」
魔理沙は目を見開いてつぶやいた。
気づけば、思わず魔理沙は立ち上がっていた。
捕獲した文はまさに最高の天狗だ。
デンと、置かれてみれば分かるその迫力。まな板の上の天狗肉は赤と白の芸術品だった。
幾重にも積もり重なった工芸品のような霜降り。
そこからは生のままでもシロップのような濃厚な肉汁がにじみ出ている。
やわらかい肉に触れると、まるでゴムのような弾力がありながら、指に吸い付くように柔軟でしっとりとしている。
近くまで寄った魔理沙は腰を抜かせた。
驚くべきはその香りだ。本能を打ち抜く原始的な肉の香気と、大風や、雷雨の日を彷彿とさせる濃密な自然の香気を発している。
最高の天狗肉。これは、いったい、どんな味がするんだ。
魔理沙とアリスは目配せだけで通じあった。
「すぐに…」
「ええ。席についてなさい」
まずはフライパンにさっとあぶらをひく。
フライパンが熱したら、いよいよ天狗の肉を出番だ。
肉厚のステーキを指でつまみ、端から順に降ろしていく。
霜が降りた豊かな赤身肉が 熱い鉄板のうえで踊った。
準備は整った。火力を強くし、胡椒を一振り。一斉にあぶらが弾け、心地よいソテーのオーケストラが始まる。
肉汁が次から次へとフライパンへ洪水となってあふれでた。長年の経験から、さらに塩を一振りとハーブを加えて、水気をとばす。
表面にスープが浮かぶ。アリスは最高の機会を待ちかまえた。
アリスはフライパンをおおきく振った。
ポンッと、肉が宙を舞ってひっくりかえる。裏返し成功だ。
反対の面は火力をおさえてじっくり熱する。さらに待ち構えていたようにスライスしたトリュフを投下する。
茸の濃密な森の香りが、部屋中に一気に広がった。
魔理沙は身を乗り出した。
「はやく、してくれ。まだできないのかよ…!」
「わかってる。私だって……ジュル…」
内側に最高のレアを残したソテーが完成しつつあった。
料理し、焼きながらもアリスの口から涎が出ていた。
「食いたい食いたい食いたい食いたい!」
魔理沙の叫びを背中で聞きながら、アリスはフライパンにブランデーを放った。
肉の脂とアルコールで一気に火が燃え上がる。素晴らしい香りが嵐となって室内を吹き荒した。
オレンジ色の光が二人の少女の顔を照らす。ソテーに焼き色がついた。
タイミングを逃さずアリスは肉を二等分して皿へと移しかえる。最後にゆでたてのブロッコリーとジャガイモ。ステーキバターを添えて、付け合せのアップルソースを横に置く。
「もう我慢できない。食うぞアリス」
「早く、テーブルにもっていきなさい」
二人は席につき手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
魔理沙は大きく口をあけた。
フォークに突き刺した肉が顔の前にせまってくる。
魔理沙はむしゃり、と一口かじりとる。
もむ。
モグ。モグ。
舌の上を旨みが電流になって走った。油だ。甘い。
噛むたびにどんどんと芳醇な旨みが広がっていく。
美味い。甘い。濃厚だ。何度も、何度も、嬉しくて咀嚼する。
絶妙な塩加減。焼き加減。
魔理沙はすぐさまフォークをつかって、二口、三口と、肉をたいらげる。
「うまいっ…。これ、すご…さいこう…っ!」
魔理沙の顔から鼻水がしたたった。
「うぐっ…もぐ。ごくっ…はぁぁ。もう、あぁ!」
魔理沙は叫びそうになった。
噛めば噛むほど、終わらない深い脂の旨みが舌で激しく暴れた。
「はぁ…はぁ。うまっ…うぐっ、あふっ、あふ」
喉のつかえた肉を必死に水で流し込む。
一秒も惜しいと、魔理沙は再びフォークで肉を突き刺して口に放り込んだ。
「くはぁぁ。もう最高、さいっこう!!」
魔理沙は喜びで顔をしわくちゃにしながら最後の一口を咀嚼する。
口の中の旨みが消えないうちに緑の野菜をかっこむ。こりこりとした触感が楽しむ。
汗で顔中が湿っていた。
それを服の袖でおおきく拭うと、盛大に息をつき、魔理沙は椅子に深くもたれかかった。目の前ではまだアリスがすごい勢いで肉にナイフを突き刺してる。
「はぁー。これだから捕獲はやめらんない」
魔理沙は至福の表情を浮かべた。頬がほの赤く染まり、全身がお湯に浸かったようにほかほかと暖かい。
500gがまるで前菜ような勢いで平らげた。
「旨み、香り、肉質は口の中でほどける様だったし、まったく手が止まらない。いくらでもたべられそうだ。全然飽きない」
満点の栄養を秘めた食物が魔理沙の胃の中で消化され始めると、ある種の特別な反応が始まった。
「おっ。おっ?」
充実感がお腹を満たすと共に、魔理沙は高揚を感じていた。
すると、魔理沙の座るテーブルを中心として、ほのかな白い光が室内を照らした。
光源はなんと魔理沙自身だった。
彼女の全身、正確には皮膚から、やわらかな光が放たれているのだ。
魔理沙は椅子からたちあがった。
「やった」
両手の握りこぶしでガッツポーズをする。
「光るってことは細胞レベルがあがったんだ。天狗さまさまだぜ!」
やっと食器を置いたアリスはナプキンで口を拭いながら、魔理沙の奇抜な様相に目を見開いた。
錯覚ではない。魔理沙は本当に光り輝いていた。彼女の身には人間では考えられないような現象を起こっている。
アリスは魔理沙と違い五体が光に包まれるようなことはなかったが、自分自身の右手をギュッと強く握りこんで呟いた。
「ほんと、天狗の肉は優秀な食材だったようね。おいしすぎるわ」
「だろ、だろ?このために生きてるって感じするよな」
魔理沙は声高に繰り返した。
「ごめんなさい。目がまぶしい。それ、光の量は調整できないのかしら」
「ああ、悪い。ええっと……。うーん。なんとかならないかな。ていうか私自身も何も見えないし、これ。力を抜いて……おっ、できた」
あっけらかんとした魔理沙から光が消えた。
魔理沙は感覚の具合を確かめる。要領をつかんだのか、まるで電灯のスイッチのように体から点滅が繰り返された。
自分の体で遊び終わると、魔理沙は舌なめずりをしながら空になった皿を見た。
「さ、次食べよ。次」
「ダメよ。効能がありすぎて、一度に取りすぎると毒になる」
魔理沙はアリスをねぶるように睨み付ける。
お腹には苦しいくらいの満腹感があったが気持ちとしてはまだまだ食べたい。
「こんな美味いもん我慢する方がどうにかなっちまうさ」
「せっかく食べたのに全部吐くつもり?」
「そりゃそうだが」
「どんなに早くても一日一食よ。吐かなくても下すわ」
「仕方ない。冷蔵できない分は干すか。こんないい肉なのに勿体ない」
「いや売りなさいよ」
売り手がつけば五、六年は遊んで暮らせる肉だ。
腹の満腹感をかかえた魔理沙はすぐに床についた。
さすがに疲労があってか、魔理沙はアリス宅に用意されたベッドに横たわると、泥のように眠ってしまった。
次の日の朝、案の定重たい腹と共に魔理沙は目が覚めた。
最高の天狗肉を受け入れるには魔理沙の腹は少々要領不足だったらしく、未だに腹の中身を引きずっている。
それでも全身には精気がみなぎりまるで生まれ変わったかのように晴れ晴れしい気分だった。
朝は昨日の天狗肉を精肉した際に出たあまりで、おじやを作ってくれた。
これがもう馬鹿みたいに美味かった。輝く白米に埋まったそぼろの旨味が種々の野菜と混じりあい、舌を存分に侵略してくれる。
空のお盆の前で手を合わせた。
「里に噂があるんだ。どうやら今の時期じゃなきゃ手に入らない最高のフルーツがあるらしくて」
そう言ったときにはすでに外出用の洋服に袖を通していた。
「そういうわけで」
ニカッと笑った魔理沙はさっそくナップザックを背負ってでかけていった。
「いってくる!」
太陽のような笑顔を生みだす、この捕獲と食事のライフワークこそが、今の魔理沙を形作るすべてだ。
魔法の代わりに魔理沙が得た喜びは、昔日のそれに負けてはいないのかもしれない。
魔理沙を見送ったアリスは、さっそく文の肉を本格的に解体するために、下ごしらえの調理場に向かった。
これから何週間かの間、彼女とこの素晴らしい食材を賞味する日々が続くだろう。
しかし、巨大な扉を開き、天狗の肉を吊るした倉庫に入ると、そこにあるべき死体が消えていた。
「あらら」
息絶えているものと思って料理台の上に放置していたのが災いしたようだ。
派手に散らかった血の跡は調理場を通って倉庫の裏口へと続いていた。
あらかじめ血抜きをして、両足を落としておいたというのに、恐るべき生命力だ。
「キッチンの食材が食べ荒されている。…それに、これは飛んだわね」
これでは追えない。
「うかつだったわ。魔理沙ったら毒の致死量を見誤ったわね」
こうなると面倒だ。手負いの獣は警戒の度合いが桁違いになる。
キッチンをくまなく調べると落とした文の両手がどこにもなかった。両足はきつく縛り上げておいたのが功を奏したのか、そもそも重くて運べなかったのか、天井から血を滴らせて吊るされている。
アリスは残念がった。
一気に食べる量が減ってしまった。魔理沙はたいそう落ち込むだろう。何ヶ月もかけたのに、食べられるのは足だけなんて。
アリスはキッチンの壁の前に立った。
それ以前に、獲物から相当な恨みを買ったので下手すればこちらが殺されかねない。
「まあ、私は大丈夫なんだけど。魔理沙が心配ね」
アリスは指を壁に這わせた。そこには血文字で"殺す"と書かれていた。
まるで致命傷を負った文の執念が滲んでいるようなシンプルな言葉だった。
道中、烏天狗のしぐれ煮お弁当を頬張りながら里への道は約三里。
川の水で口などすすぎながら、里の入り口に魔理沙が着いたのはその日の深夜だった。
次の日は朝一番に里をブラついた。
空気を楽しみ、肌で感じ、物見遊山がてら、最近の噂話などに耳を挟む。
里が以前と変わったところといえば、その規模だろう。
豊富な食材と栄養状態のせいで人口は順調に増えた。当然土地も広くなった。また人里と妖怪の里の垣根が薄くなったせいで、来年の春ごろには半妖の子供たち、なんてのも多く見られるようになるんじゃないか、という話だ。
では広くなった分の土地はどこからきたのかというと、いつの間にか地面の面積が拡大してたんだというから適当なものだ。
この辺りの曖昧さは幻想郷の時代から変わらないらしい。
だが目に見えて一番顕著なのは、飲食店の数が爆発的に増えたところだろうか。
魔理沙は定期的に人里に訪れる。
それは主に情報収集のためだった。
魔理沙は獲物を仕留めることにかけてはかなりの自信がある。
しかし、フットワークは非常に軽い魔理沙でも、多くの食材の場所を独力で把握するのは不可能だった。
粋がろうと魔理沙はただの人間。対策がなく猛獣たちの住処に踏み込めば確実な死が待っている。
こうした情報収集は土地勘のために欠かせないのだった。
特に魔理沙は難易度が高く、誰もが匙をなげた食材の噂なんかを見つけると俄然やる気が出てきた。
「頼もう!」
妙に意気込んだ声を聞いて魔理沙はつい吹き出してしまった。
今どきこんな入店のやり方は絵巻物でも聞いたことがない。
魔理沙は薄暗い茶屋の片隅に腰掛けていた。ちょうど顔見知りの人間と食材の捕獲方法などについて語り合っていたところだ。
ここは一見すれば普通の食事処だが、集まるのは狩人、博徒や里の事情通など、慧音に説教をされてもグウの音もでないならず者ばかりだ。
今や里ではグルメな高級食材が一大市場をなしており、拙いながらもここで相場の賭けが始まっている。
今夜集まった中でまともな商売をしているのは場所を貸してくれた茶屋の店主くらいだろう。
そして、今まさに暖簾をくぐった少女も、そういった一般人なのかもしれない。
何故、と言えば、こうして彼女の振る舞いを見ている限り、とても里の裏社会に通じているとは到底思えない。
「店主殿はいますか」
少女の登場に客が静まり返った。
顔には陰がなく、淡い緑の衣装は年ごろの女の子そのものの装いだ。
日本刀を腰に巻いた出で立ちは本来警戒をよぶべきなのだが、むしろ、あまりに不相応なサイズの刀を身につけているため、彼女の格好は演劇衣装のように陳腐で馬鹿らしく見えた。
場違い。
魔理沙の印象だ。恐らく他の客も一様にそう思っただろう。
魂魄妖夢を見かけたのは実際いつ以来のことだろう。
魔理沙はどことなく、懐かしい気持ちが蘇った。
「店主殿はいますか」
妖夢は繰り返した。
声の質は未だに年若く、一層別世界から迷い込んだかのような印象を受ける。
誰もが返事せずに、目だけで帰るよう促していた。
妖夢は横合いから聞こえる囁き声を無視して、ズンズンと勝手場へ進んだ。
「え、ええ。私がそうですが」
「よかった」
「とにかくお座りください。何かお飲みになりますか」
「いえ結構」
人のよさそうな店主の顔が戸惑いに満ちた。
最初は必ず一杯のはずだ。それが場所代であり店に来たものの義務。
ここのルールもなんのその。全てを無視して妖夢は勘定台に座り込んだ。というより、知らないだけなのかもしれない。
「店主殿。腕の立つ人物を探しております」
妖夢の唐突な発言に、店主は渋い顔をした。
「あのー、と仰いますと…」
「依頼です。誰かいないのですか?」
妖夢は自信に満ちた表情で店主を見つめていたが、反対の店主はといえば、射すくめられたように静止している。
手ぬぐいの掛かった善良そうな丸い顔で、何を言おうかと口ごもっている様子だった。
「お客さん、一体何を言ってるんです」
「ここは違法なことを依頼をする窓口なんでしょう?」
「誰に何を聞いたか知らないが、悪いことは言わないからお帰りなさい」
妖夢の発言ひとつひとつに賭場の空気が冷えていく。
魔理沙はなんだか逆に面白くなってしまった。
こうした阿呆はときどき店を訪れる。そして遠くないうちに放り出されるのだ。
しばらくして、いい加減に店主が困り果てた頃、案の定、空気を読まない少女の周りを愛想笑いさえしない魔理沙の同業者が取り囲んだ。
「お嬢さん。食材の依頼なら俺たちが受けよう」
「なんと。ありがたいです」
「とりあえず、席を立ってくれ、な?」
数人の男女に囲まれて妖夢が席を離れていく。
「この子は何も知らない素人だ。あまり手ひどくしないでやってくれ」
「店主殿。心配無用です」
人のいい店主相手に、妖夢は不敵に笑った。
ああ、何も分かってない。
店中の人間が向こう見ずな少女の行く末に多少の同情と、嫌らしい笑みを浮かべた。
何も、ここが違法なことを取り扱う窓口じゃないとは言わない。だが、物事にはやり方というものがあるのだ。
特にこういった場所では口が軽いのは嫌われる。ああいう空気を読まない輩は大抵シメられる。
魔理沙も少しだけ妖夢が可哀想だと思ったが、どうせここで助けてもまた元の木阿弥だ。
うまくすればこれは苦くもいい経験になるかもしれない。これが最初にこういった世界に入り込む試金石になるわけだ。
魔理沙はひとまず妖夢のことを頭から締め出して、同業者との会談に戻った。
下手をしてスペルカードルール時代の友人がこんなことで死ぬのも何なので、後で様子を見にいくつもりだが。
「それ本当か…!サンキュー。じゃあ私はもう行く」
「ああ、確かに聞いた話だ。心当たりがあるのか?」
「どうだかな。とにかく、またな」
魔理沙は農夫の田吾作だか与作だかに別れを告げると足早に席を立った。
魔理沙はいつも食材の情報をもらう代わりにいくつかの特別な食材を捕獲する方法を教えていた。
最近広がっている噂話の要点をすぐさま聞き出すと、さっそく店を後にする。
思い立ったら即行動が魔理沙のスタンスだ。
桜、と聞いてピンと来た。
そもそもが今回のフルーツの噂。発端はとある伝説のスキマ美食屋に由来する。
彼女が気まぐれに里を訪れ、たった一枝分についた極上の果物を卸して、こうポツリとこぼしたそうだ。
『今年は人間界じゃ取れないうまぁいサクランボが生るんじゃわい。ほしければ死後の世界にいくことじゃなぁ』
『まさに天に召されるような味じゃて。へ、へへ……と、ところであっしにもその酒ぇ分けてくれませんかねぇ?手がふるえて怖くてこわくて』
プルプルする婆さんが卸したサクランボは赤い宝石と称され市場の話題を掻っ攫った。
サクランボはすぐさま一粒一千万という破格の値段をついて、里の大富豪や紅魔館が買い取っていったそうだ。
噂の元が元だけに信憑性はある。
幻想郷で桜といえばどの桜を想像するだろう。
里の人間や縁のない妖怪たちは、街道から山肌にいたるまでの様々な桜の木の中から一番立派なものを思い浮かべるかもしれない。
だが、魔理沙にとって幻想郷の桜といえばひとつだった。
冥界に存在する咲くことのない大桜。
死後の世界に存在するという噂からも裏づけが取れる。
そして、あの銀髪の少女、魂魄妖夢が白玉楼付きの庭師であることを知る人間は意外なほど少ないのだ。
これは、チャンスだ。魔理沙だけがその事実を知っていて、他の人間を出し抜ける。
店の路地裏に駆け参じた魔理沙が見たのは、予想だにしない光景だった。
ずるずると地面に沈み込んでいるのは妖夢を仕置きしようとした賭場の人間たちだ。
妖夢は刀を抜いており、幾人かは血を流して倒れている。この状況が表す事実は明らかだった。
最後になったヤクザ者が妖夢に打ちかかっている。
肉太の斧が妖夢を真正面から切り裂き、頭蓋を二つに割った。
だが妖夢は、どんな妙技か、まるで最初から存在しなかったかのようにそれをすり抜け、返す刀で男の胴を薙いだ。
「なんですか。つまらない連中ですね。まるで弱い」
「あちゃあ」
魔理沙が顔をしかめて額に手をやった。
「やばい。やばいって」
絶叫が響き渡る中、魔理沙は冷静に事態の不味さを把握した。
妖夢が倒したのは里の中でも中々の実力のある美食屋たちだった。正直、魔理沙だって真っ向勝負じゃやられる危険がある。
しかしそんなことはどうでもいい。妖夢の腕が多少立つくらいの事はこの際は捨て置こう。
問題は、妖夢は賭場のルールを破って仕置きされるどころか逆に咎めた連中を殺してしまったことだ。それも恐らく、取り立てた理由もなしに。
これを横暴と言わずしてなんというだろう。
いま地面に転がってる連中はたいした人物じゃないが、それでも妖夢は店内で罰せられても仕方ない粗暴な振る舞いをしていた。
これで妖夢は賭場の人間たちに完全に的にかけられただろう。
妖夢の半身半霊の肉を珍しいと食われかねない。
魔理沙は腹をくくった。
このまま妖夢を役場に突き出して事なきを得るか。それとも、食材に大きく近づくチャンスを掴むべきか。
冥界に詳しい彼女の協力は喉から手が出るほど欲しい。
幸い、何らかの依頼を携えて里に降りてきたようだし、交換条件としてこちらの要求を飲ませるのは容易いだろう。
保身と野心。両者をはかりにかけてみたとき、常に安全より食欲と挑戦が勝るのが魔理沙の性質だった。
「おおっ、魔理沙さんじゃないですか。お久しぶりです」
「いいから来い」
魔理沙は妖夢の手を取ると、狭い路地から走り出した。
いずれバレることとはいえ、できるだけ見られる人間は少ないほうがいい。
あせった魔理沙に手をひかれて不思議そうな顔をした妖夢が後に続いていく。
こうして魔理沙は伝説の食材『反魂サクランボ』の捕獲と、西行寺幽々子の救出という二つの依頼を受けることとなった。
Menu1 『反魂サクランボ』
人里から北へ五里。なだらかな盆地である幻想郷ではほぼすべての場所から妖怪の山が見えた。
この山は初夏でも残雪が残るほど標高が高い。泥地から高地まで様々な環境が分布するこの地ではかつてにも増して大型の生物が跋扈している。
そして魑魅魍魎の住まう山の最奥には妖怪どもの巣があった。
荒れた岩肌の地面に年頃の少女が横たわっている。
その周囲には飛散した血液と食い荒らされた獣の死体が散らばっており、尋常ではない雰囲気が漂っていた。
その赤い血の内の何割が少女の失血によるものだろうか。ときより響く絶叫と共に少女は地面をのた打ち回った。
岩肌には経年劣化によるほか、明らかに生き物に抉られた深い爪痕が刻まれている。
この傷を彫ったのが少女であるならば、はたしてどれほどの怪力をもってすればそれは為されるのだろう。
少女には特異な点が二つあった。
まず最初に、その少女は両足を消失していた。まるで刃物で断ぜられたように太股のあたりで綺麗に両足が切断されている。
さらに両手の付け根には、まるで両腕があとから付け足したかかのように、肩と腕のつなぎ目のあたりに赤い線が走っていた。
「あァの糞人間があぁァ」
狂乱の呪詛が吐き出される。
痛みに耐え切れず叫び声をあげると、その度に鮮血が喉から飛び散った。
咳き込み、喀血が染み込んだ地面を天狗の少女は殴りつける。
衝撃で岩が砕け地面に罅が入った。
「クズの分際で私に楯突きやがって。内臓引き摺りだしてグチャグチャに踏み潰してやる」
少女は鬼の相貌でしわがれた声を張り上げる。
岸壁の洞窟は瀑布の絶壁に存在していた。鳥類しか入り込めないような断崖絶壁を垂直に上ると、全体の七割近い高さにポッカリ開いた穴が在る。
そこは多くの天狗たちの住処になっていた。
絶叫が反響する奥の間は薄暗い。
姿こそ見えないものの、多くの影がのたうつ少女を見つめていた。
「畜生が畜生が畜生が…」
全身を襲う壮絶な痛みに、少女は歯を食いしばって繰り言をした。憎しみが心をやきつけ、痛みが体を焼いた。
抜けきらない毒が臓腑を侵しており、絶え間ない嘔吐が喉を締め付ける。
「ヒヒ。射命丸が五月蝿く囀ってるよ」
苦しむさなかに、どこからともなく声が聞こえてきた。
「折角河童につけて貰った腕が取れそうじゃないか」
「暴れてるねぇ。あの様子じゃ死にはしまい」
痛みで失神しそうな中、頭に直接響くような声が耳朶を打った。
朦朧とした意識の最中で文はぼんやりと気がついた。
ああ、この声色は、嘲笑だなぁと。
そう気がつくと、文はいくらか意識を持ち直す。
なんとか耳を澄ませたが、洞窟内では声が反響し合って、音の出所は定かではなかった。
「めずらしいねぇ。あの文が」
「そうさ。哨戒が見つけてやらねば死んでいた」
先ほどとは別人の声が聞こえてきた。
文が悶絶を繰り返して、それらの言葉を否定できないでいると、次第にそれは大きくなっていった。
最後にはこれほどいたのか、と思うほど、声は声と相談を始めた。
それらすべては確実に文に聞こえるような、かと言って直接語りかけるほどではない大きさで語り合われた。
「相手はどんなやつなんだ」
「烏天狗を食らうんだから相当な妖怪さね」
「いいや、なんでも人間の小娘に騙し合いで負けたらしい。無様だねぇ」
「そりゃあ見っとも無い。天狗の恥さらしだ」
「しかも、たいしたヤクモ細胞すらもっていない小娘に」
「わしらだったら生きてられんな」
「死に目を損ねたねぇ」
「いやぁ、まったく全く。情けなや情けなや」
「うるせえ」
怒気を滲ませて文は叫んだ。
「おぉ、こわいこわい」
「食われたらかなわん。退散するより他はない」
囁くような声は忍び笑いと共に消えていった。
文は両の目をグッと閉じて、歯を食いしばった。
両手が燃えるような痛みを発する。
自分の足が消失しているのを思い出すと、再び文の中に激しい怒りが生まれた。
文は無我夢中で金切り声をあげた。
文に食われかけたことへの恐怖はない。むしろ、より大きな憤怒の感情がそれを塗りつぶした。
たとえ絶望の内に息の根を止めたとしても気がすまない。
先ほどの天狗の言う通りだ。たかが小娘にへし折られた風評は戻らない。
何百年と築いてきた文の地位は限りなく地べたに近づいた。
幾度気絶と覚醒を繰り返しただろう。
いつのまにか、一つの強烈な気配がここに近づいてきていることに気がついた。
文はこの正体に知っている。
その人物が現れる常として、先ほどまで自分を嘲笑していた鼻高天狗や烏天狗たち木っ端は消え去っていた。
徐々に聞こえてくる重い足音に、すでに血の気を失った文の顔が土色にまで変わった。
いつからそこにいたのか、さながら修験者のような影が地を這い蹲る文の前に立っている。
文は眼前の巨大な天狗に驚愕の声をあげた。
ひび割れた顔面は石像を思わせる。全身から立ち昇る強靭な圧力がまるで巨石の存在感を男に与えていた。
「ぁ…!スター……ジュ…。あ……間違えた!」
文はあわてて言い直す。
「大天狗様!」
大天狗と呼ばれた巨躯の天狗は、文の醜態など見えてないかのように口を開いた。
「我等天狗は飛脚が生業。いずれ幻想郷の遍く食材を管理せねばならん。分かるな射命丸」
「も、もちろんです」
「多くを付き従えるには相応の格が必要となる」
大天狗の重い口調には異論など挟めるはずがなかった。
文は震えながら大天狗を見上げた。
「…はい。食材の輸送と管理こそが我等の使命…。そうすればいずれ鬼を…」
文は無音の悲鳴をあげた。
「口に出すな」
巨体にしていかなる俊敏か。無音の内に、巨大な手の平が文の口を塞いでいた。
「この野心決してを悟られまいぞ」
「は、はい」
我こそは妖怪の頂点であるという自負と、数百年に渡る野心が焼け付いた鉄のように今の天狗たちを焦がしている。
天狗こそ、この時代と王道たる者、というのが現在の全天狗共通の見解だった。
文の目の前におわす鞍馬天狗といえば、かの牛若丸である源義経に修行をつけた天狗として有名である。
この天狗は外の人間の伝承にも乗るほど、それこそ天魔に近い存在だった。
その登場の意味するところは一つ。つまり、文を処分しようということだ。
全ての天狗の悲願である鬼への下克上。文はその野望にケチをつけたのだった。
いわんや、人間の、それも能力を持たない少女に負けたとあれば、その汚名は計り知れない。
文はなま唾を飲み込んだ。
だが予想に反して、文を掴んだ手はいとも簡単に離された。
「失敗は許さん」
背を向けて巨大な影は去っていく。
文は仰向けになりながら、まるで壊れたポンプのように呼吸を繰り返す。
緊張とストレスが全身を襲い、震えながら嘔吐した。
「ぐぞが…」
天狗社会は秩序立った強烈な縦社会だ。
被害を被れば仲間は真っ先に助けてくれる。
だが、天狗の名に傷をつけ、天狗社会の恥だと思われればあっさりと切り捨てられることになる。
これまでの後ろ盾をいっぺんに敵に回すことになる。
いや、殺されるならまだしも、天狗社会でヘマをやらかした者がたどり着くあの暗くて狭い部屋へ入れられるかもしれない。
女であることしか求められないあの地獄へ。
一度の失敗で処罰されなかったのはひとえにスペルカードルール時代の文の活躍があったからだろうと文は推察した。
上の位の天狗が出現したのは暗に次のチャンスがないことを示しているのだろう。
文はしばらく茫然自失と時を過ごした。
「足……。私の足…」
一匹の烏天狗が地を這いながら瀑布の袂へ向かう。
重心が変わったことにより飛行がおぼつかず、縦横無尽に空を舞っていた天狗は飛び立つことすらできなかった。
崖からまるで落ちるように空を滑空する。
頭をよぎるのは自分の両足。
こんな体では魔法の森を踏破することなどできはしない。
日数がたって腐ってしまえばいくら強壮な天狗とはいえ元に繋ぎなおすことは不可能となる。
そうでなくても、すでに食べられていて残っていないということは容易に予測できた。
「取り戻せない。食われるだと。私が、人間風情に」
その光景を、自分の足が調理され、刻まれてあの人間の口に入っていく姿を想像すると腹わたが煮えくり返った。
虚ろだった瞳に怒りが宿る。
「新しい足が必要だ」
後日、妖怪の山から一匹の烏天狗の死体が見つかった。
年のころは少女。烏天狗の文と非常に似た体型をしていた。
死体の顔には苦痛の色はなく、ただ驚愕の表情が浮かんでいる。
また、住居に争った形跡はなく、背後から一突きで心臓を貫かれたことからも顔見知りの仕業と見て間違いない。
残された烏天狗の遺体からは綺麗に両足が失われていた。
ほたてェ…。
季節は春。さわやかな風が吹く中、二人の少女はどこまでもひろがる街道のうえにいた。
「魔理沙さん、随分と背が伸びましたね」
「別にそんなに変わっちゃいないだろ」
「そうですか?」
「うん」
前回会ってから一年以上経っただろうか。
あれから魔理沙は妖夢の仕出かしたことの重大さを教えようと必死に彼女を諭した。
しかし本人は妙に納得しかねるというか、先に手を出したのが先方ということもあり、頑固な態度を崩そうとしない。
妖夢からすれば不条理だが、世間様の常識を踏み外すと下手をこく率が高い。
結局日が落ちるまで掛かって説得したところ、今後人里では無茶な立ち回りはしないという約束を取り付けた。
妖夢は根が素直なのもあって、納得というよりこちらの必死さを認めてくれたようだ。
約束すれば守るのが妖夢だと分かっていたので、その点は安心だった。
説得が途中からほとんど思い出話などにすり替わっていた。二人とも会うのは久しぶりで、一言話す度に次の話題を話したくなる。
お互いに、かつての幻想郷を縦横無尽に駆け回った掛け値なしの貴重な存在だった。
しかしこうして話せば、斬れば分かるという妖夢の姿勢は前と変わっていなかった。むしろ前より強くなっているくらいだ。
今の時代となっては間違っていない思想なのだから恐ろしい。
軽い睡眠を済ませた二人は、一先ずの野宿の後、種々のことなど置いておいて、朝食をとったり、休憩がてらお喋りに興じていた。
早々に人里を離れた二人は白玉楼に向かうため歩みを進めている。
しばらくぶりの再会に気持ちがはずみ、生活の変化など、やはり自然と口数は豊かになった。
特に身近に起きた変化は二人とも話題が尽きることはない。
冥界の幽霊は生態が大きく変わり──幽霊なのに生態!──かつての死者の園はまるで別世界になったようだ。
反対に、魔理沙も魔法の森から魔法の部分がすっぽり消えてしまった奇妙な話などを語ってやった。例えば、ウォールウィスプは今やホタルだ。
魔理沙は妖夢を見つめ、得心して微笑んだ。
「身長ねぇ…。なんだ、それ妖夢のことじゃないか。ほんとうに大きくなったな。自分のことを言って欲しかったのか」
「あはは……いえ、それはですね」
「背丈もそうだが顔も少し大人っぽくなったみたいだな」
妖夢の顔に朱がさした。並んで歩くと、頭一つ分は魔理沙より高い。
少し見上げがちに魔理沙は妖夢を見た。
「腕と足だってこんなに太くなって」
「それは喜べないです…」
「失敬」
妖夢がげっそりと落とした肩には剣を振るうための筋肉がしっかりついていた。
会わない間の成長。でも性格は変わってないみたいだ。
魔理沙はなんとなくうれしくなって妖夢に笑いかけた。
「いいなぁ。私なんかまだ成長期きてないんだ。髪と爪しか伸びん」
「そんな。私だってまだまだ未熟者ですよ」
二刻ほどは楽な街道が続き、二人は話に興じ続けた。魔理沙が気になる話題をふれば、妖夢がそれに答える。
向こうも会話に飢えていたらしく、楽しげな声が尽きることはない。
興味があれば、すぐに質問に答える立場は逆になった。
時間はいくらあっても足りないように思えた。
やはり同年代の子とのお喋りは楽しい。
なんとなくお互いに、腹の中でぼんやり抱えていた不信感が薄くなっていくようだった。
「そういえばお前、あの白いやつはどうしたんだ?」
「はい。半霊は消えてしまったのでこの成長は二人分なのかも知れません」
「そうなのか。半分だった栄養が全部にお前に行くようになったからかもな。将来ナイスバディになりそうだ」
「そ、そうでしょうか?」
「いや。マッチョって意味で」
「…」
妖夢は眉をひそめた。魔理沙は両手を合わせて謝る。
気を悪くしないで欲しい。魔理沙のささやかな嫉妬心が口を悪くしただけだ。
「で、本題なんだが」
魔理沙は気を締め直す。あまり時間があるわけでもない。
魔理沙が真剣な目をすると、それに合わせて妖夢の口がすぐに引き結ばれた。
「はい。今回魔理沙さんにお願いしたい依頼なんですが。それは……幽々子様を助けて欲しいんです」
妖夢は気張った表情のまま続けた。
「と言うと……何をすればいいんだ?」
「ご説明します。幽々子様は今、病床に臥せてらします」
妖夢は顔を上げた。
「実は先ほど申し上げた幽霊のこととも関係があるのですが、これをご覧になれば分かるはずです」
「これは…」
先行する妖夢は足を止めた。
その前方には巨大な木の根が幾重にも重なって地面を貫いていた。
妖夢は遥か上空を見上げて言葉を吐き出した。
「はい。冥界への入り口です」
魔理沙はつられて首を上に向ける。
どこまでも続く巨大な根が絡み合い、上空に向かい、ついに視界の端から切れてしまった。
おかしな光景だ。これを巨木だとするならば、どこまでいっても枝や葉どころか、幹さえ見えてこない。
一瞬、これは根っこだけの植物なのかという馬鹿な考えも浮かんでくるほどだった。
「これは実は西行妖の大桜なのです。かつて天界の下あたりに浮かんでいた冥界の大地は、今や巨大な桜の木々の根に支えられています。今では妖怪の山の上空を越えずとも、こうして徒歩で死後の世界を目指すことができるようになりました」
妖夢は腰の剣を背中に差しなおした。
「とりあえず登りましょう」
「え!?の、のぼ、登れるのかこれ?」
「他にどうやって上まで行けとおっしゃるんですか?」
魔理沙は遥かな頂上を見上げた。
「私は飛べませんからね。上には幽霊がいます。それを見ていただければ、すっかり事情を飲み込んでもらえると思います」
「そ、そうか…しかしなぁ、登山の準備なんてしてないし」
「え…。魔理沙さん……登れないんですか?」
妖夢は心底不思議そうに尋ねる。
「いや、登れないことはないんだろうが…」
上を見てもたどり着くべき終わりが見えない。木の根は時折絡み合い、ほぼ垂直になっているところすらあった。
さながら陸の孤島とでも言ったものか、大地が浮かぶ壮大な光景は天界を彷彿とさせた。
そこで魔理沙は気がついた。そう、きっと妖夢は選ばれた側の人間なんだ。
それもかなり優秀な体質を持った人物であるに違いない。
このグルメ時代には二種類の生き物がいる。
片方は豊富なヤクモ細胞を持ち、生物の活動レベルが高い生き物たちだ。彼らは特殊な能力や屈強な体を備えている。
そしてもう一方は魔理沙のような普通に限りなく近い人間だ。
後者の人間は決して生き物としての進化を成し得ないというわけではないのだが、前者の者に比べて多大な投資を必要とするのだった。
魔理沙は暗い感情の篭った目を妖夢に向けた。
妖夢の自信の根元には頑強な体という資本があるのだろう。
結局、空を飛べなくなってから高所恐怖症なんだと、もっともらしい理由をつけて魔理沙は妖夢に背負ってもらうことになった。
八十度以上の急斜面を命綱なしで登っていく光景は、ただただ圧巻といえた。
「これは幽霊なのか?」
「正確には違います。そもそも、すでに冥界に幽霊や亡霊というような、死後の魂は一人もいないのですよ」
魔理沙は目の前をふよふよと漂う白いおたまじゃくしを前に戸惑った。
冥界へと到達し、緑の草木と春風の舞う大地には、やはり以前のようにたくさんの白い人魂たちが点々と浮かんでいた。
よく知る幽霊とそう違わないように見えるが、触れてみれば違いが一目で──そう、触れられるのだ、これらの魂は──魔理沙は人魂を掴んだ右手を持て余した。
「えと…何から説明したらいいのか迷いますが…」
妖夢がやり場なく目線をさ迷わせていたので、魔理沙は横から助けをいれた。
「妖夢。この人魂の以前との相違点をあげてくれ」
「えっと、まず、触れられます。あと体温が少し高いです。水に入れると浮いてきます。最大の違いは…壁抜けができないところでしょうか」
「…他には?」
「あ、あと食べられます。味はまったくないですが」
妖夢はさらりと抜き差しならないこと言ってのけた。
すぐさま魔理沙は考察を始めた。しばらく戸惑っている妖夢だったが、魔理沙の沈黙に耐えかねて、ひとりでに話の続きを始めた。
「ここには本物の幽霊や死人が住んでいるわけではありません。そういう意味では、すでにここは冥界ではないのかもしれません。彼らは生きてるんです。非常に、特殊な生き物になってしまいましたが…。死者達が姿もそのままで、そっくり生物に置き換わったみたいですね。たとえば魔理沙さんの手にある人魂……みたいなものは、体が空気より軽いものでできた袋みたいな生き物です。よく観察すると内臓が透けて見えるはずですよ。たぶん、空気の中にある何かを食べて生きてるんじゃないかなあ…と」
魔理沙の手から人魂がするりと抜けだした。
この不可思議な生き物の表面はすべて丈夫な皮で覆われてる。かと思えば、まるで霧のように手からすべり落ちていった。
その瞬間の人魂はまるで霧や霞のようだ。魔理沙は確かに見たその光景に目を疑った。
「細胞間の膜が特殊な構造で、ガスみたいに不定形なんです。掴まれて逃げられないと悟ると、そういう風に体を空気に溶かすみたいです。もっとも、長時間そうしていると体を保てないらしく、いつもは固形のままなんですが」
妖夢は右から左に聞き流すような態度の魔理沙に、親切に解説を挟んでくれた。
手から逃げた人魂を目で追って、魔理沙は小さく頷いた。
「ふむ。見た目はクラゲみたいだな。妖夢の親戚か?」
「…いやな言い方しないでください」
「なんにしても不思議な生き物だ。というかすごく学術的探求意欲をくすぐる代物だな」
人魂は風に吹かれて飛んでいってしまった。空気中を漂って生活しているのだろうか。
妖夢は調子を取り戻しながら言った。
「幽々子様は亡霊であらせられます」
声色にはいくらかの躊躇があったが、言わんとすることが分かるくらいには明瞭な口調だ。
未だに人魂に心をひかれながらも魔理沙はすぐさま理解した。
「分かったぞ。ということは、幽々子も今はこんな状態だということか」
「はい。この際、幽霊と亡霊の差は些細なことです。どちらも同じような生き物ですから」
ここで妖夢は口をよどませた。若干の沈黙が降りる。
なるほど。魔理沙自身から魔力が消えたように、他の者たちの体質にも多かれ少なかれ変化があったようだ。
その中でも幽々子はかなり異質な変化を遂げたと言えるだろう。元々その存在自体が殆ど百パーセント幻想の力に依存していたのだ。質量がないという馬鹿げた体質の連中が亡霊だった。
体に起こった変化はもはや別種の生き物に進化といっても過言ではない。今の人魂がいい例だ。心身ともに非常に不安定になっていても不思議はないだろう。
魔理沙は無理をさせずに、妖夢が続きを語ってくれるのを静かに待った。
「……幽々子様にもこの変化は起こりました。ですが、そこらの人魂が変わるようにはいかなかったんです。どうやら、幽々子様が完全な一個の生き物になるためには何かが足りないようなのです。そして、いまにも体が弱って消えてしまいそうな状態が、もう何ヶ月も……」
はたして得られた答えは予想と少し違った。
「体質が変化したショックで体調を崩したんじゃなく、体質の変化自体がうまくいってないのか」
「はい。その通りです」
妖夢は悲しげな声色で続けた。
「もはや一刻の猶予もないんです。幽々子様は私の全てです。どうか、依頼を受けて幽々子様を救ってください。報酬は如何様にでも。白玉楼にある財産でも、冥界の庭にある食材でも、好きにして頂いて結構です」
妖夢は真剣な顔で頭を下げた。その様子は、頭のてっぺんが地面につかんとするほどだ。
「どうぞ宜しくお願いいたします。霧雨魔理沙様」
魔理沙はぽかんとして、とりあえず頭はあげてくれと身振りした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
ここまできて、この話のおかしな点に、魔理沙は慌てた。
「今の話を聞く限り、この依頼は永遠亭とか、医療機関に担ぎ込んだ方が賢明に聞こえるぞ」
魔理沙には医学の心得などない。ましてや亡霊の病理など知ろうはずがない。
幽霊ってものを未だによく理解してないが、とても自分に解決できることだとは思えなかった。
「確か昨晩聞いた依頼の大筋では、西行妖の根元まで妖夢自身を護衛する、そういうことだったはずだ。大体、私は幽霊の医者じゃないんだ。別に幽々子を助けるのはやぶさかじゃないけど。けど、それ以前の問題じゃないか」
というよりそもそも、この間の抜けた庭師の依頼は、またなんぞを捕獲してくれ、というなものだと思っていた。
あの食い意地が張った主人に困難な食材の調達を要求され、ほとほと困った挙句、食材に詳しい私と出会ったものだと。
私は食材の捕獲を手伝う代わりにこの冥界の庭を先導してもらう予定だった。
幽々子の生死に関わるような、重大な、かつ面倒な事に関わる心の準備ができていなかった。
もっとも、意図せず互いの目的地が被ったのだけは手間がはぶけたのだが。
ここにきて、とたんに魂魄妖夢なる人物が不鮮明になり始めた。
同時に、依頼人としての彼女を評価する魔理沙の冷静な計算がようやく働き始めた。
本来会ってすぐそうするべきだったが、知り合いであればできるだけ損得の秤には乗せたくなかった。
魔理沙が思う一番重要なもの。人からの捕獲依頼を考えるときに、最も大事なのはその信頼性だ。
元手が金子ではなく命である魔理沙とって、リスクをとって旨みを狙うような商売人のやり方は選べない。
これまでだって夢のような報酬より、顔の見える依頼人を選んできた。
さて魂魄妖夢は信頼に足る人物だっただろうか。
見た目こそ自分と年の頃も近いが、実際の年齢など知る由もない。
実は100歳を越える老獪さで、自分の命を付けねらってないとも限らない。そこまでいかなくても、いざという時には、魔理沙の命を犠牲にすることを選ぶかもしれない。それは命懸けの行程を踏破する上で致命傷だ。
かつてならこれほど深く不信の根を下ろす必要はなかっただろう。
だが博麗神社の宴会で彼女と会ってから、時間がたち過ぎてしまった。それは、不信を警戒に変えてしまうほどの時間だ。
魔理沙がこの世界を生き抜いてきた時間に、妖夢は何を見て、何を感じていたのだろう。
日本刀を腰に差してその手で何を斬ってきたのだろう。そう、この剣客は油断ならない相手だ。
その事を十分に自覚しなければならない。
魔理沙はしっかりと気を引き締めなおす。
だが、と魔理沙は再び思考を俯瞰した。
目的はどうであれ、魔理沙とて今更依頼に断りを入れるのは抵抗がある。
採ったサクランボを市場に卸すことによって、里で大立ち回りを演じた妖夢の凶行を許してもらおうという算段もあった。
それに魔理沙が妖夢と共に行動しているのは里で噂になっているだろう。
そろそろサクランボの捕獲のための第一陣が動き出していてもおかしくない。
なんだかんだ魔理沙が知っているのだ。他の美食屋も情報を掴んでいると考えるべきだった。
とにかく、妖夢の話は聞いておくべきだろう。
そう結論付けた魔理沙の心情を読んだかのように、妖夢は言葉をつむいだ。
「西行妖に成るサクランボ。ご存知ですね」
魔理沙は目を見開いた。
妖夢は静かな瞳で魔理沙を見据えている。
あまりに真剣な表情に魔理沙は気圧された。
「…それが今回の報酬ってわけか」
魔理沙は頭を掻いた。
ふー、と深く息を吐き、自分を落ち着かせてから尋ねた。
「とりあえず、いくつか聞きたいことがある」
魔理沙はなるべく大事な疑問から口にした。
「ご了承いただけましたか」
「いや、違うんだが。とにかく、なんで私なんだ」
「数々の異変を解決した功績をお持ちだからです。霊夢さんと同じ実戦経験をしてきた貴方ならきっと冥界を踏破できる」
「霊夢か…。しばらく会ってないな。それに、いや私は西行妖まで一度しか行ったことがないし…」
一人でそんなことできるか分からないから、お前を利用してるんだ。
魔理沙はそんな言葉を飲み込んだ。
遠くに霞む冥界へ目をやりながら、魔理沙はつぶやいた。
「私がサクランボを欲してるのは単純に食べたいからだ。だが妖夢、お前がなぜ」
「……」
「幽々子のことと関係があるのか?」
表情に苦渋を滲ませて、妖夢は静かに首を縦に振った。
妖夢は振り返り、歩みを進める。
魔理沙はそれきり質問をやめて黙ってその背中に続いた。
そこから目的地までは約一日。
道中では依頼の話などせずに、日常のお喋りで盛り上がる二人に戻っていた。
魔理沙は白玉楼に案内された。
半ばの猛獣を妖夢は難なく切り倒し、魔理沙は獣避けの臭いで追い払っていた。
小石の敷かれた景観は過ぎる日と変わらず、屋敷にかかる霞は遠方を淡く霧散させて、不思議な雰囲気を作り出している。
侘しさと孤愁を漂わせるこの庭は、初めて来た時にも随分広く感じたものだ。
この広大な空間の渡り廊下を歩くにつれ、今も二人しか人間が住んでいないのはいかにも奇妙なことに思える。
亡霊の令嬢は屋敷の離れに横たわってた。
「幽々子、痩せたな。けど、相変わらず綺麗だと思うよ」
魔理沙は布団に仰向けで眠る幽々子をじっと見つめた。
まるで春の陽気にうたた寝しているようなあどけない表情の幽々子には病による苦痛の陰はなかった。
しかし頬が大きくこけており、肌の色が失われている。このことが彼女の体調を深刻に物語っていた。
ともすれば、このまま息を止めてしまいそうなほど安らかな寝顔を見て、魔理沙は老衰という死に方を想起した。
「寝たきりです」
妖夢は魔理沙の隣に座った。
「一日の内で覚醒するのは一刻もありません。最近はその間ですら曖昧なことが多いです」
「……そうか」
幽々子は普段の頭巾のようなものは被っておらず、淡い桜色の髪が布団にしなだれている。
浅く、薄い呼吸音が聞こえる。喉を通った風の音は頼りなかった。
魔理沙がどう思ったかは察しているだろう。
しかし妖夢は表情を微動だにさせず、ずっと幽々子の顔を覗いている。
その内、妖夢は静かに幽々子の手を取った。
寝巻きがはだけ、だらんとした白い腕がだらしなく妖夢の手に垂れた。
「失礼します」
妖夢は幽々子の布団をズラした。
布団の上で体が硬直してしまわないように、足を掴み、間接を曲げて姿勢を変える。
最後に床ずれを直すと、妖夢は綺麗に揃えられた髪の毛に手を置いて、数度さすった。
されるがままの痩せたか細い女が、かつて天真爛漫にこの従者を率いていたなど想像し難い。
妖夢の腕にはいくつもの傷が刻まれている。
彼女も一人ここで時を過ごして来たのだろう。
すべてが終わると、妖夢は魔理沙の隣へと戻り、静かな表情で淡々と言った。
「魔理沙さんのおっしゃった西行妖の実。真名を『反魂サクランボ』と言います」
魔理沙は顔をあげて、名前を反芻した。
「反魂の…。魂が蘇るサラクランボか。なるほど冥界らしい」
それまでは感傷的だった魔理沙の顔が、すこし引き締まった。
「私は噂を追ってここまできただけだからな。実際、そのサクランボについて詳しくは知らないんだ。教えてくれるか」
妖夢は頷いた。
「文字通り黄泉の国を出でて、現世に生き返るほど美味い、という話ですが。私にも詳しいことは定かではありません。ただ……」
妖夢は一息おいて続けた。
「名前の通り、反魂蝶のように光り輝きを放つ果実だそうです。味はえもいわれぬものだとか。あまりの美味さに、食った者は、生者であればたちまち死に、死んでいればたまらずに生き返るそうです。暗闇ですら自ら眩き周囲を照らすそうですね」
七色の光を放つ宝石が頭に思い浮かぶ。
それが何個も何個もたわわに実っているのだ。
「ほう、ほう。そりゃいい。文字通り死ぬほど美味いってか」
魔理沙は口の端を吊り上げた。
「美味いってのも最高にそそるが。光り輝くそれは、私の体に最高にマッチしそうな食材だな」
魔理沙は声を上げた。
口からよだれが垂れてきそうだ。想像を超える食材の予感に胸が高鳴る。
「だが…」
不意に、その顔に陰が差す。
「それでも、はたしてそれを捕ってきたところで、いや私はいいんだが…」
「なんでしょう」
見ると、妖夢の表情はとても真剣で、何かを一途に信じているようだった。
その意図が分からない魔理沙ではなかったから、その顔にひどく悲しいものが見えてしまった。
「なあ妖夢」
たしかに、亡霊に冥界の食材を与えれば、復活のきざしになりそうだ、一見そう見える。
「はい」
昔からこの半人前の剣士は努力のピントがズレがちだった。
だからこんな予想ははずれて欲しいと願いつつも、どこか魔理沙にはもう確証があった。
彼女が求めているもの。彼女が見出した解決策。
魔理沙が半ばあきらめ気味に確かめようとした矢先、妖夢の方から切り出してくれた。
「私はこの実を差し上げれば、必ずや幽々子様が元にお戻りになると信じております」
妖夢には一点の曇りもなかった。
それはなんとも愚直で誠実な答えだった。
「なぁ、妖夢。それはな…」
魔理沙は、やはり、と顔を俯けた。
魔理沙はこの手の人間を何度か見たことがある。
不治の病。癒えない傷。その恐怖を高級な食材で払拭しようと躍起になる末期患者は腐るほどいる。
魔理沙はそんな連中もいくらか相手にしてきた。
グルメ時代は魔法の時代ではない。しっかり効くという理屈があって、初めて病魔に食材は打ち勝てるのだ。
どんな病気かも分からない患者に、どんな効用があるかも分からない食材を与えても、下手すれば症状は悪化しかねない。
妖夢にとって災いしたのは、この馴染み深い冥界の大桜に伝説の食材が成ったことだ。まさに彼女にとって青天の霹靂だったのだろう。
その純真な性根から、奇跡にすがってしまうのも仕方ない。
それは神仏に望みを託す信者のような気持ちだ。
だがしかし、神は人を救うためにいたが、食材は人を救うためにあるのではないのだ。
反魂のサクランボがどんなに素晴らしい食材とはいえ、未知の病を得た者を癒せるとは限らないのだ。
魔理沙がどう言ったものかと頭を悩ませていると、妖夢が落ち着いた声で語りかけてきた。
「私がこれを欲するのは、ちゃんとした理屈があってのことなのです」
「ほう。言ってみてくれ妖夢」
この後、延々と辛気臭い話をされると思っていただけに、妖夢の冷静な口調は少し意外だった。
「以前、私が起こした春の異変を覚えていますか?」
「ああ」
魔理沙は皮肉げな口元を作った。
「だが、ありゃお前がやったってより、幽々子がやらかしたもんだぜ?」
「私が春を集めて幻想郷を冬にしたのだから、私が起こしたと言えると思います」
「…まあその辺は良いとして」
はい、と妖夢から小気味良い返事があがる。
「倉庫の古い文献にはこうありました」
妖夢は懐から巻物を取り出した。
「桜の下には、誰かが埋まっています」
煤けて崩れかけた紙面には墨で文字が画かれていた。
「桜の下には誰かが埋まっている。それが西行寺家に継がれている伝承です。私にはどうもこれが縁ある話だという気がしてならないのです」
「どういうことだ?」
「あの時もそうだったのですが、幽々子様は桜の下に眠る誰かの存在を強く意識していました。西行妖を満開にし、その方を復活させようとしたのが、春雪異変の全貌です」
魔理沙はそんな事件背景は知らなかった。
異変を解決するだけで、その原因にはさして興味がなかった。
「十中八九、そこに眠るのは幽々子様ご自身の血縁の者でしょう」
「春雪異変がどういう話かは分かった。だが、何故そう言える」
「亡霊は生前の縁がある者に魅かれます。それは幽々子様ほどのお方でも変わりません」
意味もなく現世をさ迷うのが幽霊。
過去への未練で留まるのが亡霊だ。
妖夢は問いかけた。
「…魔理沙さん。私の半霊、覚えていますよね」
魔理沙は妖夢を見た。
あの白い影がないとまるきり人間の少女のようだった。
魔理沙は肯定を意味して頷く。
妖夢の表情には、推測の続きがあった。
「私と半霊は一心同体でした。半霊は私を必要とし、私も半霊を必要としていた」
語る妖夢の瞳には懐かしさが浮かぶ。
「どちらかが長時間離れていればお互いに心身の均衡を保てません。彼女はもはや私と混じりあい性質を同じくしましたが、元は一つのものでした」
所作なさげなその姿には、確かに欠けているものがある気がした。
その場所にかつてあったのが半霊なのだろう。
「随分悩んだ末、私は一つの結論にたどり着きました」
しかしそれも一瞬。すぐにまた、妖夢は緊迫した表情に戻る。
「幽々子様は私と同種の存在なのではないかと。つまり、私にとっての半霊が、今も桜の下に眠る誰かにとっての、幽々子様なのではないのかと。私たちのよく知る慣れ親しんだ幽々子様には、まぎれもない実体があって、普段の幽々子様は、その方にとっての半霊なのではないか、そう思えてならないのです」
そして何時もの彼女らしい真剣さで言った。
魔理沙は妖夢の言葉を反芻する。
幽々子は幽霊だ。だとすれば、人間の頃があったのは当然だと言える。
たとえば妖夢の場合は、肉体も半霊もちょうど表裏一体であり、それは人間でいう肉体と魂の関係に似ていた。
幽々子にだって、霊体に対する肉があるべきなのだ。
「待て、いや、どういうことだ。幽々子も半人半霊だったってことか?」
魔理沙は尋ねた。
もし幽々子もそんな生き物の一つだとしたら、今もその片割れは西行妖の下にあるのだ。
妖夢はちょっと驚いたように瞬きをしてから口を開いた。
「そうではありません。私が思うにその方とは、生前の幽々子様なのです」
魔理沙はゆっくりと口を湿らせた。
「ますます分からんが…」
眉をひそめた魔理沙に妖夢は続けた。
「私たちは今までてっきり幽々子様のご遺体が、長い時を経て消失していると思い込んでいたのです。それが、どういうわけかそうではなかった。ご遺体は今も現存しているのです」
冷たい地面の中で延々と眠り続ける死体。百年。二百年。千年。魔理沙はそんな人間を幻視した。
「………要するに、幽々子の死体が、桜の木の下にあるってことか」
魔理沙が出した答えに、少し満足げな頷きが返ってきた。
ようやく、魔理沙にも話が少し見えてきた。
妖夢の口から結論が語られる。
「……幽々子様は恐らく、亡霊と実体の二つに別れてらっしゃるのです。それが、一つになれず消滅しようとしている。そう、この時代で生きていくためにはどうしても実体と幽体の両方の要素が必要なようなのです。ちょうど今の私が以前、半霊と混じり合って、体調を持ち直したように」
恐らく、幻想の力が消えてしまった今、幽霊や亡霊は単体では存在できなくなってしまったのだろう。
さながら科学が妖怪を否定し、存在をかき消してしまったように、グルメ時代の到来が超自然的な現象を消し去ろうとしているのだ。
「幽々子様の肉体と同化している西行妖についた実ならば、この不足を埋めてくれると思っています」
妖夢は静かに、自らの体に目を落としていた。
その消失の波から逃れるためには、どうやら人間でもなく幽霊でもない生き物に変質しないとならないようだ。
「ふむ…」
魔理沙は深く考え込んだ。
にわかにうつむくと、フードが目深く降りてきて視界が暗く閉ざされた。
かつて魔法の森には魔力のみで動く生命があった。その姿はもう見ることはできないが、代わりに、発光する細胞を備えた昆虫が生まれた。
それはかつて森にいた普通の昆虫であり、ウォールウィスプの交じり合った結果そうなったようだった。
いつだって進化は二つのものが混ざり合って生じる。さながら雄と雌のように。
だが妖夢の話は整合性こそ悪くはないが、根拠に乏しかった。曖昧だった。
妖夢に感じていた不信感こそ今は完全に晴れたが、逆に話の信憑性が怪しくなった。
無論、この場に及んで妖夢が打算で物事を頼んでるとは考えられない。幽々子がやせ細っているのは本当のことだし、まず第一に、この剣士が手ごわいっていうのと同じくらい、自分の主人を出しに使うことはないだろうということを確信している。
一分、二分と時間が過ぎていった。
やがて長く感じられた沈黙は、始まったときと同じく、小さな呟きで幕を閉じた。
「確かに……自縛霊のくせに、幽々子には未練があるように見えなかった。死体が拘束されてたと考えれば理屈には合うが…」
魔理沙は重々しく口を開く
いつのまにか、聞く妖夢の白い肌には汗が滲んでいた。
「突拍子もない話だな。私は信じられん」
魔理沙は声に力を込めてきっぱりと断じた。
「そう……ですか」
「ああ、悪いがな」
実際は悪びれた顔もせず魔理沙は言った。
絵物語の望みにはかけられない。魔理沙の少女時代は、文字通り魔法が消えたときに空想を終えた。
妖夢は消え入りそうな返事をした。膝に乗る拳がギュッと握られる。
魔理沙はそんな態度に気後れすることなく、はっきりとした口調で続けた。
「だが、そうだとすると……整理しよう。仮にお前の言う説が正しくて、ここにいる幽々子が、お前の言う、桜の下に眠る幽々子自身の亡霊だったとして」
魔理沙は息をつく。
「混ざり合ってしまったら、別の人間になっちゃうんじゃないか? いや、下手すれば人格が消えるかもしれん。ちょうど、今、お前の横にいた半霊が跡形もなく消えて、お前だけがここにいるみたいに」
おびえているかのように見えた妖夢が、不潔な虫でも跳ね除けるみたいに、即座に声を張り上げた。
「それは違います!私には半霊の完全な記憶があります!」
妖夢は腰を持ち上げた。
魔理沙は、妖夢の口調の強さに多少驚いた。
内容以上にその剣幕が、この事は、半人半霊という種族の尊厳に関わることなのだと理解させた。
「そうなのか?」
「は、はい。彼女は消えてなどいません」
強張った顔のまま、妖夢は振り切るように魔理沙を見つめた。
「それに私は何があろうとも、幽々子様はお変わりにならず共にいてくれると信じております」
若葉色の瞳には強い意志が宿っている。
だがそれが魔理沙の心を突き崩すことはなかった。
「魔理沙さん。私は……」
「…あぁ」
「私だって、突拍子もないことだとは分かっているんです」
腰に刺したままの日本刀が震えている。
「幽々子様は、助かろうとしないんです」
正座を崩さなかった妖夢は、初めて精気が抜けたように、首をダランと地面に垂れた。
「世を儚んで、これも定めと、消えることに自ずから抵抗をやめたんです」
「それで、あんまりに幽々子が可哀想ってことか?」
「…ひどい言い方をする人ですね」
「ああ。だが、悪いがな、妖夢。残酷に聞こえるかもしれないが。死にたいってやつを止めるのはできないんだよ」
そうじゃなければ、深慮遠謀な幽々子は一人でも西行妖に向かい、目的物を手に入れたに違いない。
「私は賛同できないな」
魔理沙は嫌悪感をそのまま吐き出した。
「正直な、妖夢。私は自分から生きたくない、なんて言うやつ死ねばいいと思ってる」
その言葉に妖夢は目を見開いた。
「色んなヤツが死ぬのを見てきたけどな」
言葉と共に、勢いよく畳が跳ねた。
魔理沙の首元に白刃が詰め寄った。
「取り消してください魔理沙さん」
「おい、落ち着け妖夢」
「知った風な口を聞かないでください。幽々子様は死なせません」
追い詰められた妖夢は刀を抜いた。
ここまでされて、魔理沙も黙ってられなくなった。
「立派な従者なら主人の意思を尊重してやるべきだろ?」
魔理沙は臆さなかった。
妖夢にとって幽々子は可愛くてしょうがないに違いない。
そして、こんな痩せ細って不憫に違いない。
「私にな、幽々子を同情させようって言ったって無理な話だ」
「それは……違うんです!そうじゃないんです」
妖夢は張り詰めた表情で叫んだ。
「違うんです!私は…」
「何が違うって言うんだよ。死にたいやつは死なせてやれよ」
首にかかった日本刀など見えてないかのように魔理沙は言った。
死にたいと願うやつが嫌々生き続けることは、どんな生き物に対しても失礼だ。
多くの生死を見てきた魔理沙には、死にたい、なんてひどく贅沢なことに聞こえた。
自分が感情的になっていると分かっていながら、魔理沙は口を閉じていられなかった。
「私だって…!」
妖夢は感情で全身を震わせながらも言った。
「私、だって……幽々子様が消えたいと仰るなら…。私は、受け入れようとしました」
妖夢の、怒っているような、泣いているような顔をした。
「幽々子様がお隠れになるなら、それに殉死しよう。そう思っていました」
口調から、妖夢は本気で言っているのだとが感じ取れた。
「でも…」
妖夢は呟く。
人はそう簡単には死ねないのだ。
「幽々子様がいなくなるって思ったとき、この上なく無為な気持ちになったんです。痩せ衰えていく幽々子様をみていると、それと同じで、私自身の気力や生きる意義のみたいなものも、ぜんぶ枯れてくみたいでした」
妖夢が握る刀に、ギュッと力が篭る。
「きっと私は、こんな気持ちを引きずりながら、陰鬱に生きていくんです。それが、どうしても我慢できない」
悲痛に歪んだ妖夢の顔を見ながら、魔理沙は思った。
妖夢が選ぼうとしたのは、大事なものを失くした悲しみから逃れるための逃避的な自殺だ。
だが実際の死、なんてのは、その絶望をたっぷりと味わって、もう十分、もうたくさんだ。
そういう風になってからじゃないと訪れない。
誰しも苦しみから逃れることはできないのだ。
「なぁ、妖夢…。何も死ぬことはないだろ…そんな」
「…分かってるんです。幽々子様はご自身を嫌ってることくらい」
その憂鬱の徴候が、今の妖夢にも影となって現れている。
「けど何もせずに、近しい人が死んでくのを待てるほど……私はそんなに、大人になれないんです」
妖夢の顔から段々と怒りが引き始める。
「同情なんかじゃない。これは貴方をお可哀想と思う気持ちじゃないんです」
そして、後悔と悲しみの部分だけが、色濃く残った。
「ごめんなさい。これは、私のためなの。ごめんなさい、幽々子様。私の身勝手なんです。貴方を失いたくないんです。寝たきりになった貴方を見て、もうどうしていいのか分からなくて。たとえ後で、叱られることになっても、嫌われても、ただ、元気でいて欲しいだけなんです」
魔理沙を追い詰めていた妖夢の顔に見えるのはむしろ、窮地に立たされたかのような弱い人間の表情だった。
どれほど悩んだのだろう。ふと気づくと、銀髪の下には、疲れ切って、もうどうしていいか分からなくなってしまった少女がいた。
「ごめんなさい」
妖夢は、刀を取り落とした。
そして涙で汚れた顔を、妖夢は腕で拭った。
気が萎えてから、生き長らえる人生の苦痛を知っているだろうか。
魔理沙の脳裏には魔法を失った少女が映っていた。
ひとり部屋の隅で泣いている。孤独な夜に怯え、何もできずに震えている。
すべての拠り所だった大切な魔法の光が、徐々に小さくなって消えていく。
そこから救ってくれたのははたして誰だったか。同じ魔法使いの少女がそうしてくれた気がする。
「なあ、妖夢…」
魔理沙には幸いグルメという生き甲斐ができた。
だが、魔法使いであった頃のあの素晴らしき光景は未だに心に刻み込まれている。
そして一生涯、消えることはないのだろう。
顔を覆って、妖夢は泣き続けた。
大事なものを失うのが悲しくて、ただ空虚に叫び、嘆き続ける。
その姿が、かつての一人の少女に重なった。
湿っぽい空間は長くは続かなかった。
今度の沈黙も、少し落ち着いた妖夢から破られた。
「ごめんなさい、魔理沙さん。変なこと、言ってしまいました」
妖夢は言いながら鼻をすすった。
言葉は途切れ途切れになり、顔はひどく汚れている。
「もうっ、ご迷惑おかけして、本当に。私は」
おどけて笑おうとしているのだろう。確かに表情はぎこちない笑みを浮かべている。
しかし、妖夢の声は惨めにかすれたままだった。
魔理沙は、そんな妖夢に、静かに語りかけた。
これから妖夢は、ずっと幽々子のことを想いながら生きていくのだろうか。
少女時代に失くした幻想を偲びながら、時々思い出して泣いて、それを死ぬまで抱えていくのか。
いや、まだ、妖夢の原風景は、取り戻せるところにある。
妖夢の中で、懐かしい幻想郷時代は未だ失われてないんだ。
たとえばそれは、魔理沙にとっていつかの異変の思い出のようだった。
今も鮮明に思い出せる。いつだって心の奥に染みついている。打ち上げた弾幕の花火の彩り。全てが終わったあとの、楽しい宴会。
ちょっと悔しくて泣いて、すごく楽しくて挑み続けた日々。
「はっきり言って、私は別にお前の説が丸々正しいとも思えんし。100%で幽々子が治るなんて思っちゃいない」
「はい…」
これは魔理沙の胸ひとつだった。
「けど推論でも、よくここまでたどりついたと思う」
泣き濡らす妖夢を見ていると、妙に居心地が悪かったのだが、それ以上に何か暖かい心持ちになっていた。
魔理沙は、大切な魔法を失くした少女に再びプレゼントを与えるように、ひとつの優しいことを決めた。
「飯を、さ」
魔理沙は障子の外を見た。
「飯はどうしてる?」
「…は?」
「妖夢、ここに住んでて食事ってどうしてるんだ」
妖夢は初めきょとんとして、次に恨みがましい視線で魔理沙を見た。
「そんなこと、近くに住む獣や人魂を狩って……あの、魔理沙さん。私、真面目な話をしてると思ったんですが…」
「わ、わかってるよ!」
魔理沙は焦って弁解した。
「いや、な。私は魔法の森に住んでるんだが…」
魔理沙はそわそわとしながら呟く。
「これは色んな食材が豊富にいる魔法の森を拠点にしたかったからなんだ」
妖夢は不可解な顔をした。
魔理沙は妖夢のきつい視線を受けたのと、これから言うことの気恥ずかしさに、顔が火照るようだった。
「それでさ。依頼の報酬の話なんだが……」
と、ここまで言ったところで、少し場の雰囲気が変わるのを感じた。
「今日見てみたけど、この冥界には色んな珍しい生き物がいるな、と思って。当然私はそういうものを見つけたら、食ってみたくなった。だから、ちょっと困ってるんだが……」
そして頬をかいて、目線をさ迷わせた。
「ここいらで私の獲物を料理してくれるやつはいないのかな」
いや、困ったと、魔理沙は呟いた。我ながら回りくどい。そう思いながらも、魔理沙はこっそり妖夢の方を盗み見た。
その表情が、悲しみから驚きに変わっていた。
早口になるのを感じながら、魔理沙は続きを口にした。
「私は料理が下手だからな。そういうことができるやつを探してるんだ。それで、お前は普段、ここで獲物を仕留めて調理してるわけだろ?」
「は…は、はい!」
「そうか、よかった」
勢いよく返事が返ってきた。
「だからな、私は、白玉楼を拠点にして、食材の捕獲をしてみたいんだ。それで食べてみたい。報酬はそれだけさ。なに、部屋を一室貸してくれるだけでいい。それだけ。簡単だろう」
魔理沙は言い切った。
ちょっと緊張しながらも、これが素晴らしい提案で、対価はささやかな要求であることを妖夢に伝えようとした。
「…それで今回の依頼は、手伝ってやるよ」
はたして反応はどうなんだろうか。そんな気持ちの魔理沙は、若干の間に耐え切れず、大げさな手振りを収め、静かに座り込んだ。
いくら魔理沙とて、何も無償で妖夢に協力できるわけじゃない。
魔理沙はちょっとした空間をここに借りて狩りができればいい、確かに要求はそれだけだ。
しかし、魔理沙には見たい景色があったのだ。
この地のどこかに、幻想郷の懐かしい光景が少し残った場所があったら、それはとても素敵なことだと思った。
「んで…さ。私はそこで美味い料理を食うんだ。」
魔理沙は本心からの言葉を紡いだ。
「お前らが元通り二人でここで暮らす光景でも、見ながらな」
そう言って魔理沙は笑った。
今度の沈黙は、比較的、早くに破られた。
「魔理沙さん…」
妖夢はごく小さな声を発した。
それは確かに聞こえることは分かるのだが、独り言と言ってもいいほど、誰に向けられたものでもない微妙な大きさのものだった。
延々と、妖夢は顔を俯かせている。
妖夢はそのままの姿で、二言目を発した。
「魔理沙、さん……」
妖夢の体が小刻みにふるえだした。
しかし当の魔理沙は、そんな様子には気づくことができず、妖夢の返答を慎重に待っている。
「ど、どう…だ?」
妖夢の不審な様子に、私は少し格好をつけすぎたのかもしれない、魔理沙がそう思い始めた時だ。
不意に、妖夢の目が見開かれた。
「あ、あ……ありがとうございます!」
大きな声で妖夢は頭を床に下げた。
なんだ、と思う暇もなく、魔理沙は畳に押し倒された。
後頭部に衝撃を感じて、初めて自分が誰かの腕の中にいることが分かった。
「いだだ……!」
次に見えたのは妖夢の胸元だった。
「魔理沙さん!」
「うぉあ、やめろって」
妖夢はちょうど、愛情深い親子がそうするかのように、魔理沙を胸に抱きしめていた。
「魔理沙さん、ありがとうございます!」
「ちょ、痛い、いたいってマジで」
妖夢が思い切り抱きつくと、魔理沙の体は悲鳴をあげた。
「私、本当に嬉しいです」
感極まった妖夢は満面の笑みで言った。
「私は、今まで本当にどうしたらいいか分からなくて。何度も、つらくて、もうダメかって思いました!」
耳元で、鈴を鳴らすような、妖夢の声が響いた。
「幽々子様はお食事も摂ってくれず、一人では西行妖への道は迷いますし、師匠はあれから帰ってきてませんし…。お恥ずかしい話、泣いてしまった夜も指折り数えるほどあります!」
さり気なく、重要なことが言われた気がする。
しかし魔理沙はそれどころではなかった。
「苦しい…。死ぬって、てか、おまっ、いろいろ汚ねぇ!」
「私、嬉しいです」
「聞けよお前!」
ちょうど魔理沙は床に押し倒された格好になる。
そして眼前には、くしゃっとした顔の妖夢から鼻水が垂れていた。
しかも襟元には、これまでの涙やら、顔の体液がたっぷり付着している。
しかし、当の本人は、そんなことお構いなしに話を続けていた。
「でも、依頼を受けていただいて心が決まりました。私はたとえご迷惑と思われても、幽々子様に生きて欲しいのです」
決意に満ちた笑顔でそんな話をされて、魔理沙は困った。
「落ち着けよ、そして、離せって!」
「今度こそ迷いなく、私は命懸けで西行妖を目指します。見ていてください師匠」
「てか、離して、ください…。息が……でき…」
魔理沙は歯を食いしばった。
本気でやっても、一向に腕から抜け出せない。どれほどの膂力なんだろうか。
「本当に、ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね!」
妖夢は繰り返しお礼を言った。
その言葉を聞いたとき、ビクともしない腕の中でやっと魔理沙は今回の依頼を正式に受けたんだという実感が湧いてきた。
自分勝手に獲物を捕獲している魔理沙だが、こんな人間の本気の感謝を見たときだけは、たまには人の求めで依頼を受けるのも悪くないという気分になる。
少しだけ気恥ずかしいが、嬉しいものだ。
そんな気分の中、酸欠は魔理沙を夢見心地に導いていく。
目がとろんとして失神し始めた頃、妖夢は魔理沙の様子に気づいてくれた。
「ったく、まだ食材をゲットしたわけじゃないんだぞ……」
魔理沙は白玉楼を出て行く道中、ぶつくさと何度目の文句を言っただろう。
「本当に申し訳ありませんでした」
その後ろには、肩を落として萎縮する妖夢が続いた。
「自分を見失うなんて、お恥ずかしい限りです…」
頬を赤くして、妖夢は下を俯く。
相変わらずその体躯には、剣を振るうための良い肉がついていた。
「喜ぶのは幽々子が起きてからにしろよな」
「…はい」
「だいたい私だって春雪異変の時に一度だけ西行妖に辿り着いただけなんだからな。道だってあやふやだし……くそ、髪がめちゃくちゃだ」
魔理沙は飽きることなく、宙に向かって不満をこぼす。
自分より長身の人間をしかりつける目線というのは、どうにも慣れないものだった。
魔理沙はいきなり抱きすくめられて、嬉しい、悲しいというよりはむしろ気恥ずかしく、先ほどから文句ばかりは出るのだが、一向に妖夢の顔を正面からにらみ付けてやるといったような気持ちにはならなかった。
なんであんなに大きく、とか、自分だって良いものを食ってるんだから早く背が伸びてほしい、とか、軽い嫉妬混じりのそのあたりの感情も手伝って、進んで喧嘩を売ってやろうとはいかなかったのだ。
そして足取りの方も快調とは言いがたかった。
さて、背中に乗った大きなリュックは 今回の探索に必要な物一式をそろえてある。
その重さからして、妖夢には魔理沙の約三倍近いものを持ってもらっていて、今しがた胸中にあった身体能力云々の文句を取り下げなければならないあたり、魔理沙は実にしゃくだった。
中身は随分と多く、自宅に寄って取り揃えたのは殆ど全ての探検に使えそうな多量の道具類だった。
理由は簡単だ。冥界の環境が分からない以上全て持っていく他なかった。
妖夢の話から選別した物をそれらに加えて、白玉楼からも持ち出している。
美食屋のご多分に漏れず、妖夢の荷物は食料が大部分を占めており、これは良い身体の素質を持った人物特有の特徴だ。
彼ら彼女らは大量のエネルギーを消費するのだった。
二人は背負ったものの重さでカタツムリのように歩く。
魔理沙はしっかりと地面を踏み抜いて進んだ。
妖夢は息を乱さずに歩いた。
サクランボ。
採集するにしても、たとえば美食屋が獲物を協力して捕獲する時、数の問題がある。
思いのほかそれが少なかった場合、私たちはどんな道を進むのか。
妖夢は幽々子のためにどんな判断を下し、私はどう行動するべきろうか。それは考えるべき大事なことだ。
幸いにして、今の信用の具合から、土壇場で裏切られるということはなさそうだが。
いや、それも分からないものだ。魔理沙と妖夢は生まれ持ったものからして違う生き物なのだ。
首元に薄ら寒いものを感じて、魔理沙の思考が途切れた。
二人は同時に、空を見上げた。
「な、なんだ」
物思いに耽っていた反動か、魔理沙は若干反応が鈍い。
まるで泥の塊のようなものが、自分の少し横に飛び散った。
「ひどい臭いだ。なんだこれは」
すえた感じの腐臭は、まるで肉食の獣の胃袋を裏返して地面にぶちまけたようだ。
グズグズとした白濁色の汚物は粘度が高く、2メートル四方くらいに広がっている。
その中心地点が、音を立て、下に窪んで行くのが見えた。
「なっ…!」
溶けている。
そう理解すると同時に魔理沙は血の気が引いた。
少し場所を誤っていたら、魔理沙はこれを頭から被っていたのだ。
どこからか降ってきた。
魔理沙は上を見上げたが、周囲に高いものなど何もない。
「現れましたね」
「知ってるのか妖夢」
「はい」
妖夢は魔理沙と同じく空を見上げ、青く広がる平面の一角を睨み付けた。
「いました。あそこです。二股の大樹の真上を見てください」
魔理沙は妖夢の目線を追った。
遠くに、空の中に雲の白にまぎれる何かがあった。
いた。
はるか上空。灰色の塊が宙に浮かんでいた。
蝋を固めたようなそれは、よく見ると、人骨と髑髏が交じり合ったクリーム色の風船だった。
表面には骸骨の顔面がいくつも浮かび上がっている。
「こちらの手が届かない上空から、消化液を吐きまくる厄介な猛獣です。不意をつかれて体に被ると全身が溶ける。ああして獲物を探して漂っては、吐瀉物を吐きかけてくるんです」
口調には若干の嫌悪感が伺える。
「人の怨念が集まって腐肉と共に命を得たものと思いますが……下賎な生き物です。飛んでさえいなければ、そう強いわけでもないのですが…」
なるほど、髑髏の口から、よだれのように滴る液体が見える。
こうして見る限り、移動速度は遅いようだし、第一射をはずしたことからさほど運動能力はないようだ。
見た目からお世辞にも知性は高そうじゃない。
魔理沙は呟いた。
「ただ、それだけに…」
魔理沙は周囲を見渡した。
ここは平坦な場所。
身を隠す場所はなく、振り切るための木々の天井もない。
遅いとは言え、そこは天と地を行く者の差。振り切ることは難しいだろう。
旅の途中で徘徊性の肉食獣に追われることになるのは不味い。
「ああいう見た目のやつは経験上、不眠不休な気がするんだよなあ…」
「……は、はい。その通りです。あいつは睡眠を必要としません。よくお分かりになりましたね…」
「まあな」
魔理沙の豊富な経験は獣の性質をすぐに看破した。
「やれないことはないんだが…」
んで、ずっと、こっちのガス欠を待っている。
知能の低さと残忍さは必ずしも比例しない。
なるほど厄介だ。
ここは、しばらく堪えて、無茶をしてでも足で振り切るしかないか。
冥界の半ほどまで進めば広葉樹の天蓋に入ることができる。
もしその前にヤツが地上に降りるタイミングが分かれば仕留められるのだが。
魔理沙は空に浮かぶ骸を仰いだ。
「もしくは撃ち落すか、だな…」
魔理沙の呟きは小さく場に残響した。
虚勢ではない確信が魔理沙の目にはあった。
魔理沙には選択肢がある。貧弱で、耐久力もなく、発光するしか能のない魔理沙の細胞には、唯一他人に誇れる輝きがある。
「一度使えば、しばらくは使用できなくなるのが玉に瑕だが…。まあそもそも……使わなきゃ、宝の持ち腐れだ!」
魔理沙は歯を見せて笑って、右手を天にかざした。
醜い猛獣に照準が向かったところで、ズイと横から妖夢が体を乗り出した。
妖夢は魔理沙と同じものを発想をしていた。
「まかせてください」
自信ありげな言葉が飛び出した。
魔理沙は妖夢をまじまじと見返した。
「…できるのか?」
「はい」
魔理沙は信じることにした。
思えばここは未だ冥界の入り口付近。こんな場所の敵を彼女がいなせない訳がない。
こちらを了解と見て取ると、無言で妖夢は腰の刀に手をあてがった。
両足が横に開いて地をかみ締め、半人前の剣士の雰囲気が重厚に変化した。
「これから私はこの行程で一度として剣を折ることはない。我が主人と師に、誓います」
妖夢の空をにらむ眼差しが、真剣みを帯びだした。
相変わらず、大きな髑髏風船が浮かんでいる。
「猛獣よ。悔しいけど、私にはお前のような巨大な体も、強力な酸も、獲物を探し出す鋭い目もない」
妖夢は、ギチリと刀を鳴らした。
「だから見せてあげましょう、半人半霊の武器を…」
さて、これから彼女とは短い間、相棒になるのだ。
その実力を見るのは命懸けの要分析事項でもあると共に、興味が尽きないことでもある。
「魂魄一刀流、居合い抜きの構え……」
妖夢の鋭い半目が、猛獣を完全な射程に捕らえた。
鞘に収まった剣からまるで巨大な刀身を引き抜くようだ。
実物の刃物の存在感が生まれようとしている。
「フライング……」
盛り上がった筋肉が、力を溜めに溜めて、ついに疾走した。
「ソォォード!」
妖夢は咆哮した。
振りぬいた白楼剣から白いカマイタチが出現する。
高速で駆けていく真空刃が空に浮かぶ髑髏を真っ二つに切り裂いた。
目的を遂げても威力は衰えない。一陣の旋風を纏った衝撃は空の彼方へと消えていった。
切断され二つに分離した肉塊は、哀れにも墜落していった。
剣士の顔が一挙に興奮に染まった。
これからの旅が待ちきれないといった声色が飛び出してきた。
「さあ、行きましょう魔理沙さん。冥界のサクランボ狩りの始まりです!」
溌剌とした姿に、なんだか魔理沙は気持ちが昂ぶりだした。
こいつは、中々とんでもない武器だ。自然を相手取るときに、最も大きな障害となり得るのがその巨大さだ。
だがこの小さな刀は、それこそ、格上の喉元に届き得るような、とんでもないサイズの牙に進化するのだ。
秘めたる可能性の一つを見て、魔理沙も負けじと心が燃えた。
その時、魔理沙の耳が風きり音を捕らえる。
「いや、まだ終わってないぞ妖夢。詰めが甘いな」
魔理沙は皮肉混じりで言った。
指差す先には、窮地が示されていた。
「こいつ…。まだ生きてたか!」
一瞬、唖然としていた妖夢が叫んだ。
落下してきた顔面。骨に白い肉が付着してできた顔。
分断された上部が、今わの際の道連れとばかりにゲロを撒き散らし、回転しながら二人に迫ってくる。
どのような怨念なのか、正確に二人を狙っている。近くまで来ると随分とでかい。
「時速150kmオーバー。全長と消化液の攻撃範囲を考えると……とても避け切れないな。逃げても軌道が変化するみたいだし」
すぐ横で、妖夢が再び刀を構えた。
空間が揺れているかのような断末魔が響いた。
足元から震えが立ち昇ってくる。
魔理沙は光に包まれた。
黄色い輝きに覆われた部分が徐々に少なくなり、次第に、まばゆい閃光は右手だけに押し留められた。
熱が顔を照らす。光分子が一箇所に集積された。指を操れば、五本の白熱した鉄柱がゆらめくようだった。
落下してくる質量が地上の空気を押しのけ、長い金髪が風に棚引いた。
光に照らされたその姿は、まるで黄金から現れた化身のような美しさを醸し出していた。
ちょうど二人にいる場所に降ってきたのは、灰色の、埃にも似た、細かな粉だけだった。
一条のレーザーが、肉を貫いて雲を突き抜いていた。
「さあ行くぜ。私の別荘作り。そして反魂サクランボ狩りツアー。あと、幽々子救出だ」
肉の焼けた臭いが風に乗る。遠方に狙いを猛獣の残骸が落下した。
その額には拳大ほどの穴が開いていた。灰を落としながら魔理沙は歩き出した。
魔理沙と妖夢の二人が冥界随一の難所に差し掛かった同時刻、美食屋の第一陣と、天狗の集団が冥界へと到達した。
その場に辿り着いた全員が、同じ"モノ"に狙いを定めていた。
すなわち、西行妖の実『反魂のサクランボ』。
続く
文字通り、食が全てを制するセカイ!!
そこから膨れ上がる壮大なストーリー!!
弱肉強食とはいかず、弱者は強者を罠に嵌め、その肉を喰らい、強者にのし上がる!!
生憎と元ネタは知らないのですが、生命の元始に基づく、己の持てる能力を駆使して立ち回るストーリーのようですね。
続きを楽しみにしています!!
……って、一発ネタかい!!
絶妙なバランスがすばらしい。一発ネタで終わらせてるのもこの重いような軽いような内容に合っててよかったです。
トリコは如何にも少年漫画の王道っぽいのが好きで読んでますけれども、あの世界なら当然人間とかも食ってなきゃおかしいですよね。
グルメ細胞で強化された人間の肉とかが裏で高額取引されてそう。
トリコの肉に賞金がかかって狙われる的展開も面白そうだけれど、少年誌で食人は多分やれないだろうなぁ。
妖夢のほかには美鈴なんかも強力になってそうですね。料理とかも4000年の歴史で得意そうですし。
サルアさんの以前の作品の絵も。
でも、気分で秩序を変えるような紫なら
魚の骨で死んでもいいなって気になる。
力の弱い人間だが、狡猾さと経験で強者に立ち向かう魔理沙がかっこよかった。
貴方の話に文が出てくると必ずひどい目にあいますね(笑)
あとがきを見て画面の前でこけた。
続き書いてよ〜