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『空言プラネタリウム』 作者: pnp

空言プラネタリウム

作品集: 1 投稿日時: 2011/12/05 10:20:55 更新日時: 2012/01/11 20:56:04 評価: 19/32 POINT: 2220 Rate: 14.48
 寅丸星は、豪雨に煙る森林を、雨宿りの為に駆け込んだ洞穴から眺めていた。
今に木の葉を穿つのではないかと言う猛烈な勢いで落ちてくる雨滴が、ばらばらと小気味よいを奏でている。
しかし今の星は、そんな音に風情を感じてなどいられる心情ではなかった。命蓮寺へ帰った後のことを考えると、そんな楽しい気分でいられなくなるのである。
 この豪雨は容易に予測することができた。と言うよりも、『予測されていた』と言った方が正しい。
 彼女の部下として日夜働いている鼠の妖怪ナズーリンが、星の外出に際し、わざわざ傘を持って門前まで見送りに来てくれたのだから。
ところが星は、その傘を受け取ることを拒んだ。彼女が出掛ける頃は、まだ空に浮かぶ雲も疎らであった。夕陽に赤く染められた空が美しいとさえ思えたくらいだ。そういう景色が、彼女を安心させてしまったのである。
こんなに晴れているから大丈夫でしょう――こう告げた時の慌てふためき、当惑するナズーリンを思い出し、星は微笑ましいような、申し訳ないような気持ちになった。
傘の持参を断ってからも、ナズーリンはあれこれ説明して、どうにか星に傘を持たせようとしていたのだが、口論における勝ち目の薄さを感じた星が強引に話を打ち切って、さっさと出掛けてしまったのだ。
これだけ部下が気遣ってくれたにも関わらず傘を受け取らなかった理由は、荷物は少ない方がいいと思ったとか、我を貫き通したとか――とにかく大した理由ではない。ほんの気まぐれであった。
 星はそのまま振り返ることなく目的地へ向かったので知る由もないが、門前で一人残され立ち尽くしているナズーリンの顔からは、困惑や憐憫の意を感じることができた。
心の底から主人の動向の意図が分からなかったのであろう、ナズーリンはぶつくさ悪態を付きながら、また寺の中へ戻って行った。
 そんな一件を挟み、そしてこの大雨である。星が暗澹たる気分で雨宿りしているのにも頷けて貰えるるであろう。
一たび彼女が命蓮寺へ帰ったらば、まず初めにナズーリンの御小言が飛んでくる。おまけにこの一件は今後しばらくの間、事あるごとに引き合いに出され、語られることであろう。
封獣ぬえと雲居一輪は、ナズーリンの小言に悪乗りしてくるであろうと星は察した。悪戯を生業にしている節のあるぬえはともかく、一輪は根はまじめながら、意外と茶目っ気と悪戯心がある。
聖白蓮と村紗水蜜はどうだろう――と、ここまで考えて、これ以上は考えるのが面倒であったし、あまりにも不毛なので、星はこのことを考えるのを止めた。
 洞窟の外を改めて見たが、雨脚はちっとも衰える素振りを見せない。寧ろ強まってきている気さえした。
どうして傘を持って来なかったんだろう。どうしてあんなに意固地になって自分の考えを押し通したんだろう――自分のことながら、よく分からなかった。

 もう少し雨脚が弱まってくれるのを待ってみようと決めて、立ったまま壁に凭れかかり、ふぅとまたため息をついた直後、
「にゃあ」
 足元から不意にこんな鳴き声が聞こえた。
 驚いて足元へ目線を落としてみると、洞窟の闇に溶け込むような黒色の猫が一匹、脚に擦り寄ってきているではないか。
星は特にやることもないので、ボーっとその猫を見やっていた。すると、猫もじぃっとして動かないで、星の瞳を覗き返してきた。
当然のことながら洞窟には灯りなどなく、星もまた灯りとなりえるものを持っていない。それ故に、闇に順応した今の目を持ってしても、その闇と同じ色をしている猫の全貌を確認するのは極めて困難だ。
あまりにも自然に、猫の黒色が闇に溶け込んでいるので、まるで闇を見て、闇に見返されているような感覚さえ覚える。
深淵を除く時、深淵も何とやら――かの有名な言葉が現実となっている、なんて星が考えていると。
 猫がぱっと動き、更に洞窟の奥へと歩を進めた。奥へ行けば当然闇の黒色は濃くなる。一瞬にして星は猫を見失ってしまった。
それでも星はその闇の中から猫を見つけ出す為に、じっとそちらを眺めてみた。一見すると何も無い、ただの真っ暗闇の空間でしかない洞窟の奥を目を凝らして眺めていた。
 しかし次の瞬間、突如として、闇の中に一人の少女がまるで植物のように地面から“生えて”きた。……常識的に考えて、少女が地面から生えてくるなんてことはあり得ないのだが、星にはどうしても地面から生えて来たようにしか見えなかった。
 猫の目よりも目をまん丸くして、星はその生えてきた少女を見やる。
これだけ非現実的な事が起きても、闇は相変わらず洞窟に蔓延っているので、全貌を細かく見ることはできないのだが、どうにか髪は赤色で二本のお下げがあると言う確認できた。それから、衣服はやはり黒色で、ワンピースドレスであることを、やっとの思いで確認した。
元猫、現少女は事も無げにうーんと背伸びをした後、欠伸を一つかいた。生理的な原因で目尻から零れた涙の滴を人差し指で拭った後、少女は星を見てふふんと不敵に微笑んだ。
「どうもお姉さん。雨宿り? それとも逢引か何か?」
 やはり何を気にする様子もなく話しかけて来た少女に、星は幾らかたじろいだ後、
「雨宿りです」
 こう返事をした。少女はそっかそっかと頷いた後、少し間を置いて、
「じゃあお姉さんは人間な訳だ」
 こんなことを言う。星は何故、と尋ね、首を傾げて見せる。少女はまたふふんと不敵に笑って見せて、
「雨宿りってことは風邪が怖いんだろう? 風邪を恐れるなんて人間の証だ。普通、妖怪は風邪なんて恐れないもの」
 こんな風な持論を展開した。星はなるほど、と呟いた。勿論、星は人間ではない。妖怪である。だが、少女の言い分がそれとなく正論であるような気がしたので、こう返事をした訳である。
少女は持論に肯定的な意を示されたことを誇らしく思ったようで、えへんと胸を張る。いかにも少女らしい容姿の割には立派な胸を持っているが、星には闇の所為でよく見えていない。
 その自慢げな態度も束の間、今度は奇異の眼差しを星へ向けて口を開いた。
「しかしお姉さん、人間なのに妖怪の私を恐れないとは、なかなか肝が据わっていらっしゃる。目の前で変身まで見せてあげたのに。そういう強い人、あたいは好きだなあ。是非持って帰りたい」
 喋り始めは奇怪なものを見るような目であったのに、言い終える頃にはまた笑顔が戻ってきている。忙しい子だと、星は思った。
 少女の発言から、この少女は地面から生えてきたのではなく、先ほどの黒猫が変身したのだと察した。猫と少女の背丈の差は歴然としている。その差が、あたかも彼女が地面から生えてきたかのように見せたのであろう。
「残念ですが……私は人間ではありません」
「ありゃ? お姉さんも妖怪?」
 言下に少女が言う。少々驚いている様子だ。とんとん拍子で進む会話に、星はついていくのが少し大変であった。
「ええ。寅の妖怪です。寅丸星と言います。毘沙門天……の代理をやっています」
「毘沙門天の代理? お姉さんったら神様なんだ! あたい随分立派な人とお話してたんだなあ」
「立派だなんて、そんな」
 少女の言葉を星は否定しようとしたが、当の少女はそれさえ許さない速度で次々に言葉を紡いでいく。
「因みにあたいは火焔猫燐と言う。見ての通り、化け猫さ」
 見ての通り、と言われてようやく、星は彼女の頭からぴんと飛び出る猫の耳を確認した。
「名前が長いからお燐って呼んでおくれ。……いや、呼んで下さい?」
「そ、そんなに畏まらなくていいですよ」
「そっか。じゃあ遠慮なく普通に喋らせてもらうよ、毘沙門天さん!」
 燐は屈託なく笑った。星は特に自分の地位に固執していることはないので、燐が如何なる態度であっても気にすることはなかった。
 しかし――と燐はぼやき、また神妙な顔をしながら星の周りをぐるぐる歩き、いろんな角度から彼女を見回し出し、
「妖怪らしさの欠片も無いね」
 遠慮も無さげにこう言い放った。いくら神様を代理していると言えども、星は生粋の妖怪なのだ。だから少しくらいは言葉を選んでくれてもいいのに、と思ったが、口に出すことはなかった。
「あはは……職務上、仕方がないのです」
「妖気を隠すのも上手。こんなに近くにいて全然気付けなかったくらいなんだから」
「きっと修行の賜物でしょう」
「修行ねえ。じゃあ、その体も?」
 燐はぱっぱと、星の体のいろんな部分を指差して問う。
「牙や爪は使わなければ衰えるかもしれないけど、耳や尻尾はいくらなんでもねえ。どうやって隠しているの?」
「容姿、容姿はですね……容姿は……」

――容姿は。容姿は?
 星は次なる言葉を失った。
自分が今のような容姿に至ったルーツが、どうしても頭に浮かんでこないのである。そもそも、今まで考えてみたこともなかった。
この姿は、自分が生まれた時から授かっているものだと、何の根拠も無しに信じ込んで来たからだ。
何か答えようとし、しかし言葉が一切出て来ず、口を少しだけ開けたまま、空っぽになってしまった自分の頭の中を何者かの視点で見ているような感覚に陥っていると、


「おや! 雨脚弱まったんじゃない?」
 素っ頓狂な燐の声が聞こえ、星は意識を取り戻した。
潜水してから水面へ出ると、息苦しさから解放されてしばらくは呼吸に徹するのと同じように、星が完全に現実に戻るのにも少々時間がかかった。
「毘沙門天さん、雨上がったよ。いや、正確にはまだ小雨だけど。帰るなら今がチャンスじゃないかい? ……ところでどうして雨宿りなんてしてたの? そんなに風邪が嫌なの?」
 燐の言葉が、尚も星の現実への回帰に貢献した。二度目の問い掛けで、ようやく星は事態を把握した。
彼女の言葉通り、視界を煙らせていた大雨は一気に減勢し、しとどに濡れた森林が、洞窟の入り口の形に縁取られて、美しい絵画のように目に映る。
「雨宿りは、その、何と言いましょうかね……」
 星は律義に燐の質問に答えようとしてみたが、しかしなかなか言葉が出てこない。雨と言えば雨宿り、と言った具合の、刹那的な思考であったのであろう。
たどたどしく、返答にもなってないような言葉をぶつくさ喋っている星に痺れを切らした燐は、
「ああん、じれったい! もういいよ、やんごとなき理由があったんだね! よし、分かった。だから早くお帰りよ」
 こう言って強引に話を打ち切った。
星は、自身の低すぎる応対能力を少々恥じながら、こくこくと頷いた。
「そ、そうですね……急いで帰ります」
「うん、御達者で!」
 ぽん、と燐が星の背中を叩いた。その手が生み出した勢いを殺すことなく洞窟から駈け出した星に、燐は尚も大きな声でエールを送っていた。
どう言った訳か一連の動作にやたら勇気付けられた星は、意味も無く頑張って帰路を駆け抜けた。



 走り始めと比べればすっかり減速してしまったものの、結局一度も脚を休めること無く、彼女は帰路を駆け抜けていた。何をそんなにがんばっているのだと、自分で自分を嗤ってやった。
 見慣れた寺――命蓮寺の門にぽんと手を触れた所で、ようやく脚を休めた。慣れない運動から解放された脚はすぐさま休息を要求し、これ以上は頑として動かぬぞと言わんばかりに使い物にならなくなってしまった。
走っている最中に豪雨が再来し、星はずぶ濡れになってしまった。汗と雨とが混じった透明の滴がぱたぱたと髪の先や服の袖から滴っている。
 門を開き、少々ふらつきながら母屋へ向かう。弾む呼吸を整えようと努めてみたが、全く収拾が付かない。
 がららと母屋の玄関の扉を開け、玄関に入ると、すぐさま履物を脱ぎ捨て、風呂場へ向かう。服から水滴が落ちて廊下を汚しているのに途中から気付いていたが、対処できるような余裕はなく、見て見ぬふりをした。
 玄関扉を開く音を聞いたのであろう、ナズーリンが駆け付けて来た。
その手にしっかりと大きめのタオルを持っている所から、主人がずぶ濡れで帰ってくることを予測しており、前もってきちんと準備をしていたことが窺える。
ただ、星は疲労の影響で、そんな彼女の気遣いに気付くことも、礼を言うこともしなかったが。
「ご主人様! どうされたんです?」
 やけに呼吸を荒げている星に只ならぬものを感じたナズーリンは、驚いた口調で問うた。星はただただ首を横に振り、
「走って帰ってみただけですよ」
 息も絶え絶えこう答えた。ナズーリンは、理解はしたが納得はいかぬような表情を見せた。『どうしてそんなことを』と問うのは止めておいた。明瞭な答えが返って来るような気がしなかったからである。
 呼吸を荒げながら歩く星に、タオルを持って着いて歩くナズーリン。二人の様相はまるでマラソンを走り切った選手と、それに付き添うパートナーのようだ。
星の歩いた後ろに水滴が点々と落ち、軌跡を描いているのに気付き、ナズーリンは少しだけ辟易した。
 結局タオルを受け取ることなく、星は風呂場へ辿り着いた。
「ナズーリン、着替えをお願いできますか」
「畏まりました。夕ご飯は……」
「お願いします」
 そう言い残し、星は風呂場へ消えて行った。


 さっと体を清め、早々に星は風呂場から出た。
脱衣所の床に大きめのタオルと寝間着と下着が用意されている。ナズーリンが用意したものである。
それを身に着ける前に、星はふと、洗面台の上に壁に掛けられている鏡を見やった。大きめの鏡である。前に立てば、上半身は容易く鏡に映り込む程の大きさを持っている。
ぬえや水蜜がどうしてもと言うので、渋々白蓮が承諾して、最近になって香霖堂で購入したものであった。
星はこの鏡の購入を熱望していた訳ではないし、一体何に使うのか甚だ疑問であった。購入前からその調子であった為、購入後も寝癖の有無の確認程度にしか使ったことがなかった。
その寝癖の有無さえ、部屋の卓に置いている小さな鏡で済ませる日が多い。
 今日、この瞬間、初めて星は、全裸のまま、この鏡の前に立ってみた。
ろくすっぽ拭いていない体の表面にはいくつもの水滴がある。しっぽり濡れた金色の髪が、照らされた体が、天井の灯りに照らされてつやつやと光っている。
「一体何を考えているんだ」と問うてみたくなるくらい、鏡の中の自分はきょとんとしている。
控えめに膨らんだ乳房。先ほど暗い洞窟で出会った少女の方がよっぽど立派なものを持っていたのではないかと思えた。――闇の中であったから正確なことは彼女にはよく分からなかったが。
 洞窟で出会った化け猫を思い出した瞬間、星はこの鏡の前に立ってみるに至った切っ掛けとなった少女の言葉を思い出してみた。

――妖怪らしさの欠片も無いね。

 すっと、自身の左手を鎖骨辺りに持って行った。
そして全ての指先を自身の肌に押し当て、ぐっと力を込め、肌の上を滑らせてやる。
右胸の上を通り、二つの胸の間に手が行き、そのまま左胸の下方へと手を動かす。
手が通った軌跡は、ない。傷一つついていない。彼女の指先――爪には、肉を切る力はなかった。
「寅の妖怪です」
 口に出してみて、自分のことながら違和感を覚えた。本当に、寅の妖怪たる面影が一つも見当たらない。
――どうしてこんな体になったのだっけ。
 記憶を遡る。遡る。遡る――。しかしやはり、行きつく先は、虚空であった。空っぽ。手掛かりは愚か、現実さえそこにはない。視界は真っ白で、意識の有無さえはっきりしなくなるのである。




「ご主人様」
 横から声が聞こえ、星ははっとしてそちらを見やった。
怪訝そうな顔をしたナズーリンがいた。
「あの……早く服を着ないと、風邪を引いてしまいますよ?」
 ナズーリンはこう言ったが、実際は鏡の前で全裸のままボーっとしている星のことを不審に思っていた。
 大して拭かずにいた髪から滴り落ちる水滴が、足元に小さな小さな水たまりを形成している所から察するに、かなりの時間をそうして過ごしていたようである。
「そ、そうですね」
 少しばかり顔を赤らめ、慌てて星は濡れた体を拭き始めた。風邪など少しも怖くないのだが。



*


 翌日、前の夜に降った雨が嘘であったかのように、幻想郷は快晴に見舞われた。
大地は大量の雨水を吸収したお陰で至る所がぬかるんでいる。濡れそぼった草木に陽の光が当たり、キラキラと輝いている。光と水。全ての植物が喜びに溢れているように見える。
 雨の痕跡が残る森林沿いの道を、星は歩いていた。買い出しに訪れた人里からの帰り道である。
 ずぶ濡れになりながらも走って帰って来たと言う奇行にナズーリンは、帰宅直後は星の身を案じていろいろ気遣いをしていた。
しかし、特に星に何か悪いことやおかしなことがあった訳ではないと知ってからは、洞窟の中で星が予想した通り、小言の嵐が来訪することとなった。
おまけに事情が事情であったから、周囲の誰もその嵐から星を擁護してやることができず、彼女の心はナズーリンの小言の嵐に蹂躙され、深刻な爪痕を残してしまうこととなった。
だから翌日、罪滅ぼしの様な気持ちで、星はナズーリンに任せられていた買い出しの任を受け持ったのである。
初めはナズーリンは断ろうとしていたのだが、彼女自身昨夜は言いすぎたと感じているのか、関係の修復の意を込め、これを承諾した。
星は自責の念に駆られていたからこういう行動をとったのであって、ナズーリンが心配していたような小言による憤りなんかは感じていない。
 すっかり筋肉痛になっている脚を懸命に動かし、帰路を辿る。所々にある水溜りを飄々と避けながら歩いていた時であった。

 ふと彼女は視界の片隅に、黒い影を見た気がした。ただの影ではない。見覚えのあるものだ。だからこそ彼女は、一瞬にしてそれに気をとられたのだ。
反射的に横を見やる。片足のつま先が水溜りの中へ入った。履物に泥水が浸透するが、そんなこと意に介さない。
 見間違いではなかった。木陰の下に、影と同じような色をした猫が一匹、じっとこちらを窺っているではないか。
見覚えのある赤いリボン。普通の野良猫とは違う知性を感じる眼差しや物腰――星は確信した。
「お燐?」
 問うてみると、猫はさっと森林の茂みの中へ隠れて行ってしまった。
肯定か否定かは知らないが、星は慌ててそれを追って、森へ飛び込んだ。
 昨日の雨の影響で、地面から出でる膝くらいまでの草丈の植物も、肩くらいまでの高さの小さめの木も、巨木から垂れさがる蔓も、雨水で濡れている。
一歩進む度に星の服は、履物は、じっとりと濡れる。しかしやはりそんなことは意に介さないで、星は歩みを止めずに森の中へ進んでいく。
偶然出会えたあの妖怪に、何となくもう一度出会いたかったのである。
「お燐!」
 鬱蒼とした森の中で、もう一度名前を呼んでみる。
その場に立ち止まって、彼女のおおよその居場所を掴もうと周囲を窺っていると、

「にゃあ」

 背後から声がした。星は即座に振り返る。
すると、目と鼻の先に燐が立っていた。まさかこれほど近くにいるとは思っておらず、星は悲鳴を上げて尻餅をついた。臀部がすっかり雨水で濡れてしまった。
燐は意地悪そうにけらけら笑った後、星に手を差し伸べた。
「ごめんごめん、こんなに驚くとは思わなかったよ」
 星は少しだけ顔を赤くし、燐の手を掴んで立ち上がった。衣服に着いた細かい草をぱっぱと払い落す。そこでようやく、衣類がじっとりと濡れていることに気が付いた。
しかしばつが悪いので、それを口に出すことは無かった。
「しかし、まさか森の中まで追ってくるとは思わなかった。一体どうしたって言うんだい?」
 燐に問われたが、星も明確な答えを持っておらず、返事に窮した。
だが何か言わねば不審がられるかと、散々悩んだ挙句、
「見掛けたので、声をかけようかなと思ったのです」
 こう言った。その返答に燐は再び意地悪そうな笑みを浮かべる。
「それだけの為にそんなに衣服を汚したの?」
「いいんですよ、これくらい。なんてことありません」
 口ではそう言う星であったが、多分に水を吸い、肌にぺたりとくっ付いてくる薄手の衣服はかなりの不快感であった。
気にしていない体を装ってみてはいるが、燐には星の心情などお見通しのようで、妙に演技がかった白々しい調子の声で「そっかそっか」と言い、数度首を縦に振った。
いくら鈍感な星でも、燐が自分をバカにしていることに気付き、「本当に平気ですってば」と重ねて言ったが、燐が調子を変えることは無かった。
 そんな具合に星をからかうのにも飽きたらしい燐は一呼吸置いて笑うのを止めた後、星が手に持っている袋を見て問うた。
「買い物の帰りだったの?」
 問われた星はあっと声を上げる。寂々たる森にはおよそ不似合いな甲高い声。近くにいた野鳥が驚いて飛び去って行った。
燐を追うのに必死になりすぎていて、本来の用事を忘れていたのだ。
「あんまり道草食ってる場合じゃなかった」
 慌てて星は周囲を見回した。そして生い茂る木々の隙間に強い陽光を見つけることができ、ほっと胸を撫で下ろした。それほど奥深くまで踏み入っていないことに気付けたからだ。
「何だか頼りない神様だねえ……」
 さすがの燐も、星のこの失態には呆れ気味である。
「代理ですよ」
 星は言下に弁明するが、燐の耳には届いていない。
「まあ、うちの空も同じようなもんかなあ」
 燐は何の気なしにこう言った。
 空とは燐と同じ住まいで生活をしている地獄鴉のことである。
山にいる神様から神の力を与えられて以来、以前とは比べ物にならない程の強大な力を手に入れ、ある種不穏な空気を漂わせたことさえあった。
ただ、素体が素体であるが故に、幻想郷に革命を齎すと実しやかに囁かれている絶大な力と、神と同等の立派な地位を得た今も、そんな力や地位を持つ強大な妖怪らしからぬ少々愚鈍な一面も見せる。
そういう所が星と重なり合う節があり、自然と想起されたのであった。
 聞き慣れない言葉が耳に入り、今度は星が口を開く。
「うつほ、とは?」
「あたいと一緒に住んでる妖怪だよ。あなたと同じ……ではないか。とにかく、空も神様の力を持ってる」
「へえ。ご立派なのですね」
「立派、かなあ? なんか得たと言うより、掴まされたって感じだよ」
 口では不満げにこんなことを言っている燐だが、立派な友人を持っていることが誇らしいようで、聞いてもいない空のことをべらべらと星に語り始めた。
星は微笑ましげに、表裏の感じられ無い燐の表情を見ながら、忙しく語られる見知らぬ妖怪の自慢話に耳を傾けていた。
――この後、存外見知らぬ妖怪ではなかったことを知ることになるのだが。

 燐の語りが終わる頃を見計らい、星が次なる質問を投げかけた。
「ところで、お燐はどこにお住まいなのです?」
「うん? あたいは地霊殿ってとこに住んでるよ」
「……地霊殿?」
 星の心臓が一度だけ、一際大きく脈を打った。訪れた記憶はないが、この建物の名前に確かに聞き覚えがあったのだ。
おまけに、彼女はそこにあまりいいイメージを抱いていない。だからこそ彼女は今この瞬間、腹の底に鉛が溜まっていく様な不快感に襲われているのだから。
必死に少し前の記憶を掘り返して、『地霊殿』と言うワードを聞いた時のことを思い出そうとしていたが、徒労に終わることとなる。
燐がすぐに説明を加えたからだ。
「地霊殿は地底の管理を任されている御殿なんだよ」
 この説明を聞いた瞬間、星は頭を縫い針が貫いて通って行くかのような、か細い痛みを覚えた。
燐はその後も、地上の建物より洒落ているだとか、いろんな動物を飼っているとか、様々なことを喋っていたが、星の脳はそれらをまともに受け取りはしなかった。
今この瞬間聞こえている燐の声を遮って、いつか聞いた仲間達の声が、脳内で響き渡っていたからだ。
『ずっと地底に封印されていた』
『地底には地霊殿と言う場所があって……』
『ある日突然噴き出した間欠泉に乗じて脱出を……』
 長らく離れ離れになっていた仲間達が、ついこの間まで封印されていた場所――燐は、その忌むべき地に住まう妖怪だと言うのである。
 星が聞いた話では、仲間達は偶発的な要因を利用した、非合法的な手段で地上へ逃げ出して来たということであった。
故に、地底の住民が仲間達の所業をよく思っていないことは想像に難くない。加えて燐は、その地の管理を行う御殿の妖怪だと言う。
――もしも仲間達の居所が知られてしまったら?
 燐の物腰は決して悪くない。寧ろ、しかつめらし過ぎず、馴れ馴れし過ぎない、非常に付き合いやすい妖怪だという印象さえある。
だが、それはそれ、これはこれ。自分が彼女らに不利益を齎す存在だと知っても、燐は牙を剥かないと言う保証はどこにもない。
瞬く間に目の前の少女が、凶兆を連れて来た化け猫へと変貌してしまい、星は恐怖すると同時に、悲哀を感じた。
「……と、こんな感じの場所さ」
 星に燐の言葉は一切聞こえていなかったが、燐が言葉を噤んだことで森林らしい静寂が戻って来、それを受けて星もまた身に降り掛かって来た絶望の影を振り払うことができ、我に返った。
なるべく心持を覚られぬよう努めながら、燐の顔を見つめ返す。
前述したように、星に話はほとんど聞こえていなかったが、
「そうなんですか」
 適当な返事をしておいた。無言はあまりにも不自然と感じたからだ。
燐はうん、と頷いた後、
「星はどこに住んでるの?」
 こう問うた。自分の住まいの紹介をしたから、次は相手の番――この質問は至極自然なものであると言えよう。
 星は返答に窮した。律義に答えたら仲間を失いかねない、と。
しかし、住まいはどこかと聞かれて答えられない者はなかなか存在しない。このまま閉口を貫くのは明らかに不自然だ。
言葉にもなっていない言葉をもごもごと口の中で転がし、茶を濁していると――。
「神様ってことは神社かどっか?」
 燐が先走って回答を出した。星はしめたと首を何度も縦に振る。「そう、そんな感じです」と何とか言葉も出すことができた。
「やっぱりそうだよね。うーん、あたいはそういう所は苦手かなー。でも博麗神社はなかなか居心地よかったね。妖怪神社と化してるからかな」
 お喋りな燐は、自ら話の腰を折ってしまった。星は心底安堵した。当面の危機は避けられた、と。

「すみません、そろそろ私、帰らないと」
 この場から逃れる為に星がそう言うと、
「そっか、買い物の帰りだったね」
 燐は特に引き留めることもなく、星の帰還を許した。
これ以上あんな息が詰まる様な思いはしたくないと、星は別れの挨拶もそこそこ先ほどの小道へ帰ろうと歩み出す。
数歩だけ歩いたその時、後ろから燐がこんなことを言うのだ。
「そうだ! ねえ、星。今から家へ帰るんでしょ? 今からお邪魔しちゃって平気かな!?」
 星は驚いて後ろを振り返る。
「私の家に、今?」
「うん」
「それは、ちょっと……」
「忙しい?」
「そういう訳ではないのですが」
 そういうことにしておけばいいじゃないか! ご丁寧にも事実を口にしている自分を心中で罵る星。
「じゃあいいじゃないか。見るだけでもいいよ」
「いや、しかし、その……あんまりみだりに妖怪が出入りすると言うのも、ちょっと……」
 こう言いながら星は、命蓮寺の何者も受け入れる体制を思い出して、嘘を付いてしまったと自責の念に駆られていた。
「あたいと星の仲じゃないか〜」
 燐はそんなことを知る由も無いので、けらけら笑っていた。先ほどまでは堅過ぎず柔らか過ぎない物腰であったのに、ここへ来てやや馴れ馴れしさを強めてきた。
さすがは猫と言ったところか、マイペースで、自身の欲求の充足の為とあらばひらりと態度を翻す――星は感銘を受けていた。
それでもめげずに、星はあれこれ言って燐を説得しようとしたが、燐もまた口が上手い。星如きでは太刀打ちできる相手ではなかった。
口では勝てない――言い争っている間に星は悟った。先日ナズーリンと傘の所持で口論をしたばかりであった。あの時も星は勝てぬと悟って逃亡を選んだ。
どうしてこうも苦手な口論ばかりしなくてはならないんだと、星は泣きそうな気持ちになってしまった。
 同時に彼女は多いに絶望した。このままでは燐に自分の居所が、そして、地底から不正に脱した仲間達の居場所が知られてしまう、と。
止むを得ず星は、一大決心をした。
「分かりました、分かりました! では、こうしましょう!」
 大声でこう言い、先ずは勝てる見込みの無い口論に終止符を打つ。燐もぴたりと閉口し、首を傾げる。
「ここは幻想郷らしく、弾幕勝負で決めましょう」
 星はそう言い、買い物袋を木の枝に引っ掛けた。戦闘態勢に入ったのだ。買い物袋など下げていては、弾幕勝負などできる筈がない。
 燐はきょとんとし星を見つめていたが、しばらくするとにんまりと笑い、
「そうきたか、毘沙門天!」
 こう言い、戦いの構えを見せる。星の突発的な提案を呑んだのである。
星は買い物しに行った先で弾幕勝負をすることなど想定していなかったので、弾幕勝負の際はいつも持っている宝塔を持っていない。
果たして宝塔を持たない自分がどれほど戦えるのか――自分のことながらさっぱり分からなかったが、少なくとも口論よりは勝機を見い出せた。
「私が勝ったら、燐は大人しくお家へ帰りなさい」
「了解、了解」
「それで、私が負けたら……」
「あー、待って! もしもあたいが勝ったらさ!」
「?」
「星が地霊殿へ遊びに来てよ!」
「……はい?」



*



 地底へ続く洞窟は、入口の付近はほぼ縦穴となっている。しばらく垂直に近い急な道をしばらく下へ降りて行くと急に平行な道となる。
だから普通の人間が地底へ降りるのは非常に困難なのだが、妖怪はほとんどの者が飛べるので、垂直の穴も下降が容易である。飛ぶのは体に負担を掛けるが、律義に歩くよりはよっぽど楽である。
穴を降り切ったら横穴となる。そこから橋を渡り、鬼の住まう旧都を抜ける。すると地霊殿に辿り着けるようになっている。
 今時新たに地底の仲間入りをする者などほとんどいない。同じように、地底を“卒業”し、地上へ出ることを許される者もほとんどいない。
妖怪の出入り――『入る』者がほとんどであったが――の激しかった頃は、出入り口付近に住まう妖怪が、急な坂を下るのを手伝ったりもしていたが、今はすっかりお役無用となってしまっている。
 入口には立て札があり、この穴は地底への入口で、みだりに近寄ったり踏み入ったりしてはいけないと言った旨の文が書き記されている。
 その立て札の前には今、火焔猫燐が立っていて、きょろきょろと周囲を見回している。彼女は人――正しくは妖怪を、詳細を言えば毘沙門天代理の寅の妖怪を、全貌を明かせば寅丸星を待っていた。
星が提案した、誰の家に遊びに行くとか行かないとかを決める弾幕勝負は、燐の勝利で幕を閉じた。
忌み嫌われた妖怪の集う地底に住まうこの化け猫は、宝塔を持たない星には手に余る相手であったらしい。
 しばらくして星が地底の入口付近に姿を現した。それを見つけた燐が、ぴょんぴょんと跳ねながら手を振る。星は買い物袋を寺に置いて来たことですっかり軽くなった手を振って返した。反対の手にはお土産のお菓子をぶら下げている。
燐は待っていた様子であったから、悪いことをしたなと、星は少し足を速めた。
「お待たせしました」
 燐の元へ到着すると同時に星が言う。
「いいよいいよ。思ったより早かった」
 そんなことを言う燐の目線は、星の手にぶら下がっているお土産に注がれている。視線に気付き、星はさっとそれを渡した。
「これ、つまらないものですが」
「あら、まあ。これはこれは、ご丁寧にどうもありがとうございます」
 先ほどまで随分親しげな口調で会話していた間柄なのに、いきなりこんなに恭しく振る舞われても不自然なだけである。
だが、その燐の態度が却って星を安心させた。
もしかしたら、燐は自分の素性を全部知っていて、その上で自分に接近し、仲間達を地底に連れ戻そうとしているのではないか――などと星は考えたりもした。
しかし、燐の仕草に陰りや表裏は感じられない。少なくとも、星はそう思えた。
ボロを出さないように用心しなくては。仲間の秘密は守らなくては――遂に地底に足を踏み入れることとなった直前、星は自分に言い聞かせた。
妙に緊張した面持ちの星に、燐はいささか怪訝さを感じたが、特に何も言及せず、住み慣れた地底に新しい友人を招き入れた。
 心の中で行われた星の誓いなど、地霊殿の主を前には何の意味もなさないことを、彼女はこの時知る由もなかった。


 陽気な土蜘蛛に天井から熱烈な歓迎の辞を受けて、星は精一杯愛想笑いを浮かべてそれに応えた。
釣瓶落としの怪が鬼火で道を照らした。鬼火は確かに誘導灯の役割を果たしてくれたものの、青白い光が揺らめく妖気むんむんの肌寒い地底の道は、星にとってはひたすらに薄気味悪いものであった。
ようやく坂を下り終えると、橋姫の管理する橋を渡る。睨むような、訝しむような緑色の瞳を、星は長らく直視することができず、ぺこりと会釈してそそくさと通り抜けた。
進むに連れて寒さは増したが、やかましさが増し、体感温度は寧ろ上がったような印象を受けながら、星は燐の先導を受けながら歩く。
旧都と呼ばれる場所には粗略な屋台や酒店がずらりと並んでいて、地上でも滅多に無い盛況に包まれている。大勢の鬼達が人目も時間も気にしない様子で酒なんかを飲み交わしている。
「鬼に絡まれると面倒だ」と燐は歩みを速めたのだが、思っていた以上に明るい雰囲気に包まれている地底に呆気に取られていた星は、一瞬燐を見失いそうになった。
ほんの一瞬だけのことで、すぐに彼女を見つけられたが、その瞬く間だけ生じた絶望感を、星はしばらく忘れられそうになかった。
 地霊殿は旧都と違い、地底の閑静な地域にずっしりと佇んでいた。肌寒さは少々緩和された。灼熱地獄に近づいたお陰である。
 地霊殿は、地上でもまだ珍しい西洋風の外観を持っている。星は吸血鬼の住まう館を想起し、こちらの方が私の好みだな――などと考えていた。
 燐に誘われて中へ入ると、大きなステンドグラスが目に飛び込んできた。初めて見るステンドグラスに、星は心を奪われてしまった。
だから「さとり様を呼んで来るから、ここで待っててね」と言う燐の言葉に、返事ともつかない返事をし、相も変わらずそのステンドグラスを見やっていた。
 玄関ホールを出た燐が扉を閉める音で、ようやく星は我に帰り、慌てて周囲を見回した。
燐はいなかったが、何となく耳に入って来たような気がする「待っていろ」と言う指示を思い出し、その場に立って燐を待つ。
耳を澄ませてみると、どこからともなくいろんな動物の甲高い鳴き声が聞こえてくる。その上に、ゴォォと言う、地鳴りのような音も聞こえる。
その二つが組み合わさって、意外や意外、耳に心地よい環境音となっている。
折角ステンドグラスの捕縛から脱することができたのに、お次はその交響に捕らわれた所為で、星はこの御殿の主の登場に気付くのが遅れてしまった。
「こんにちは」
 不意に声を掛けられ、星の心臓は口から飛び出すのではないかと思える程に跳び上がった。
その驚きは表情にもよく表れていたらしく、地霊殿の主、古明地さとりは、怪訝な表情を見せた。さとりの後ろに付いて来ていた燐も主と同じような表情を見せている。
「どうかされました?」
 さとりが小首を傾げて問うたが、
「い、いえ、あの」
 不測の事態への咄嗟の応対が苦手な星は、言い訳らしい言い訳もできず、ひたすらどもってしまった。さとりの後ろで燐がくすくすと笑っているが、そんなことを確認する余裕は星にはない。
 しかし、さとりとのコミュニケーションに言葉など不要である。さとりは心が読める、覚妖怪なのだから。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。……ここの全てが珍しいのですね?」
 星の心を読み、彼女の考えていることを察する。この心を読む能力を不快に思われないように言葉を選んで、星に優しく語りかける。
「ええ、まあ。地底は初めてですから」
 地底は初めて――こう言った瞬間、星は仲間達のことを思い出した。仲間達は皆、地底を経験済みであったからだ。
みんなこの付近に住んでいたんだろうか――こんなことを考えてしまった。勿論、さとりはそれを“見”逃さない。
 星の心を読んでいたさとりは、それはそれは驚いた。その驚きを表に出すことはしなかったが。
何せ、不法に地底を脱して今もまだ帰ってきていない妖怪達の仲間を、信頼しているペットが「新しい友達です」と我が家に連れて来たのだから。
燐から客人を招いた話を聞いた時、手柄を立てるとか、そう言った下心は一切なかった。本当に、普通の知人として、星をこの御殿に招いたらしかった。
この不思議な巡り合わせが生み出した怪しい笑いを、接客用の笑顔に隠しながら、
「どうぞこちらへ」
 客人を客間へ案内する為に、右手側の壁の大きな扉の方へ手を差し出しながらさとりが歩き出した。
星はあたふたとさとりの案内の通りに扉の方へ歩み寄る。燐もさとりに付いて一緒に歩き出したのだが、
「お燐。ちょっと私の部屋で待っててもらえるかしら」
 振り返り、燐にこう指示を出した。星を地霊殿に招いたのは他ならぬ自分である為、席を外すのは少しばかり躊躇われた燐であったが、さとりの指示なら致し方あるまいと、二つ返事でそれに従う。
「星! 用事終わったらすぐに行くから!」
 そう告げるや否や、燐は瞬く間に黒猫に姿を変え、矢のように走り去って行った。
燐を見送ったさとりは振り返り、星を客室へ入れる。
 客室は広々とした洋室になっていて、壁や天井に多くの電灯が掛けられている。ここが地底であると言うことを忘れてしまう明るさだ。きっと努めて明るく装飾したのであろう、と星は思った。
さとりに言われ、ソファに腰を降ろす。このソファがまた高級品であるようで、体が深く沈みこんでいく。ソファに慣れていない星など、バランスを崩して背もたれに倒れ込んでしまった程だ。
そんな星の様子を見てさとりがくすくすと笑い、星は慌てて姿勢を直し、顔を赤くして俯いた。
 それからさとりは、ここで待っていてくれと言い残し、客間を後にした。
 一人部屋に残された星は周囲を見回した後、ソファから立ち上がった。体がソファに沈み込んでおり、立ち上がるのにも少々手こずった。
さとりか燐が帰ってくるまで暇を潰そうと、壁に掛けてある絵なんかを眺めていた。絵の良さや価値はさっぱり分からなかったが。


 客間に星を残したまま、燐を待たせている私室へ戻るや否や、
「遅いですよ、さとり様!」
 甲高い燐の声がさとりの耳を劈いた。大袈裟に耳を塞いで見せ、やかましいと言う意思表示を見せたが、燐は続け様にあれこれと主に文句を言っている。
一体、星の何がここまで燐を惹きつけているのかは、さとりにはさっぱり分からなかった。ネコ科だから気が合う――と言う仮説が浮かんだが、正しさを確認しようと口にすることはなかった。
「お燐、少し落ち着きなさい」
 さとりが冷淡な口調でこう言うと、燐は煮沸の最中に火を止められた湯のようにぴたりと黙り込んだ。
さとりのこの冷淡な口調はまじめな話をする合図だ。言いたいことは多々あったが、あまり図に乗ると後が怖いのである。
「何でしょうか?」
 燐が恐々と尋ねる。これに対する返事はなかなか来ず、さとりは探る様な目つきで燐を見つめながら、部屋の中をゆっくりと歩き出した。何かを考えているように燐には見えた。
やましいことなど無い――と燐は自負していたが、意外と自分の記憶は当てにならないものである。都合の悪い記憶を無意識の内に改変していることや、自然と忘れてしまっていることだってある。
それに何より、さとりと面と向かって対峙し、猛烈な不安感を抱いている今この瞬間が、自分の心中に一物あることを如実に物語っているではないか――とも燐は考える。
確かに悪戯や悪事など、妖怪故に日常茶飯事だが、さとりの気分を害するようなことはしないように心がけている。……筈であった。
だが、燐の一挙手一投足がさとりにとって愉快か不愉快かはさとり自身が決めることであり、燐の判断と全く相違が無いなんてことは無い。
 なかなか次なる言葉を発しないさとり。時間に比例して燐の不安感はどんどん増していく。背筋を冷たい嫌な汗がすぅっと滑り落ちて行った。
 それを号砲としたかのようなタイミングで、さとりがようやく口を開いた。
「一体、何のつもりであの子を連れて来たのかしら?」
 燐は面食らった。「あの子」とは恐らく星のことであろうと予測はできていたが、「何のつもり」と言う一文が妙に心に引っかかったのだ。
――星が何だと言うのだろうか?
燐にとって星は、地上の洞窟で偶然知り合った毘沙門天代理の寅の妖怪であると言うだけのことの筈であったからだ。
「な、何のつもり、とは? 星とは偶然知り合ったんですよ。雨宿りの最中に」
「それで?」
「それでって……それで、今日また偶然出会って、それから弾幕勝負して、私が勝ったから、星が地霊殿へ来てくれることになったんです」
「本当に? 嘘は無い?」
「それはさとり様が一番よく分かっていらっしゃる筈です」
 燐はさとりの胸辺りでぶら下がっている赤い眼球を模ったオブジェクト――第三の眼を見やって言う。
こう言われてさとりは「まあね」と呟き、次いで小さなため息をついた。
「あなたは本当に何も知らないでいるのね」
 言葉と一緒に燐へ向けられた、さとりの憐憫たる眼差し。燐は困惑する他なく、
「はあ」
 間の抜けた声で、返事とも取れぬ返事をする。
もはや隠す必要もないと、さとりは客間のある方向をちらりと見やり、言う。
「あの妖怪、命蓮寺に住んでいるみたいよ」
「え?」
「舟幽霊、入道使い、鼠の妖怪。あいつらの仲間よ、あの寅の妖怪は」
 燐の顔色がさぁっと青色に変わって行く。体はさとりの方を向いているが、その目はさとりを見ていない。――いや、何も見えていない。
 さとりが列挙した三名の妖怪は、先ほど述べた通り、この地底を不正に出て行った妖怪達である。星はその仲間だと言うのである。
こう言われてみれば、星に住まいを聞いた時のどことなくぎこちない態度にも頷ける。
 心など読まずとも燐の狼狽は一目瞭然であった。それ故に、燐は実に純粋な気持ちをもって星を我が家に招いたことを、さとりは確信する。
目を白黒させている燐を見ている内に、さとりの悪戯心に火が付いた。悟られぬ程度に薄く笑んだ後、
「さて、どうしたものかしら」
 意味深な言葉を呟いてみると、案の定燐が猛烈な勢いで食い付いてきた。
「あっ、あの、さとり様? 星は確かに舟幽霊らの仲間かもしれませんが、そんなに悪い奴ではなくてですね」
「一見するとそうね。けれどもしかしたら仲間の為に地底へ潜り込んで来たのかもしれない」
「そんなことありませんよ! そんな疑心があるなら、さとり様、心を読んでみればいいじゃないですか!」
「お燐。あの星と言う妖怪は、毘沙門天代理だから素性を隠しているのでしょう? あの容姿に加えて、ほとんど感じられない程に隠蔽された妖気――遂に覚妖怪を欺く者が現れたのかもしれないわ」
「そ、そんな……」
 折角できた面白そうな知人と、まさかこんな形で決別しなくてはならないなんて――燐は普段信じてもいない運命とやらを心中で呪ってみた。
 燐の表情が悲しみに侵食され始め、さすがにさとりも少々良心が痛んだ。
だがそれよりも、本気で悲しんでいる燐を見ているのが面白かったようで、しばらくして堪え切れなくなったようにふっと笑みを零した。
「安心なさい、お燐。別にあの子を使って何かしようなんて考えていないわ」
 これを聞いた燐は、俄かに表情を明るくした。しかし安心し切れていないのが顔色から窺える。それは、知慮に富むさとりへの警戒の念故のものであろう。
相変わらず信用され切っていないのが少しばかり悲しくもあったが、私情で方針を覆すようなことはしなかった。
「だけど、このことを少しでいいから意識しながら、あの妖怪とは付き合うのよ」
「分かりました、分かりました」
 こくこくと首を縦に振る燐。さとりもうんと一度だけ頷き、
「それじゃあ、客間で待たせているから、早く行きなさい」
 さとりが言うと、燐は失礼しますと早口に言うとすぐさま踵を返した。扉を開けると即座に猫の姿になり、小さな体で扉を押して閉めた後、この部屋へ来た時と同じようにものすごい速度で客間へ向かって走って行った。


 燐がさとりの私室で衝撃の事実を聞かされている間、星は壁の絵画と真剣に向き合っていた。燐によって乱暴に開け放たれた扉の轟音にびくりと体を震わせ、目をまん丸くして扉の方を見やった。
「なぁんだ、お燐ですか」
 星が安堵した口調で呟く。見知らぬ場所で一人取り残されたことがたまらなく不安だったのである。付き合いは短かれど、今の星が一番気兼ねなく話せるのは燐だ。その燐が戻って来たことで、星はひどく安心できたようであった。
とりあえず燐は、先ほどさとりに言われた事の確認をしてみることにした。事実であれそうでなかれ、燐の気持ちに変化など生じる筈もなかったが。
「星。あんたは命蓮寺って寺が住まいなの?」
 適当な表現が思い浮かばず、単刀直入な質問を投げかけてしまったが、これを聞いた瞬間の星の顔ときたら、絶望感やら恐怖感やらで瞬く間に真っ青になってしまった。嘘が苦手なんだな、と燐は思った。
星は手をあたふたと動かし、しかしその瞳は燐を見据えたまま、
「そ、そう、なんです。私は命蓮寺で神様代理を任されていて……仲間の者達がこの地底で大変お世話になったそうで……隠すつもりはなかったんです! ただ言う機会を逃したと言うか……」
 下手糞な弁解を始めた。燐は黙ってその弁解に耳を傾ける。彼女の意図を問うと言うより、聞いていて楽しいと言うのが最大の理由である。
星の口下手はここ数日の間で遺憾なく発揮され続けてきたから、今更彼女の話術の質など説明をするまでもないであろう。
言葉を重ねれば重ねる程に言っていることは支離滅裂になっていき、終いには同じことを延々繰り返すだけの内容となってしまっていた。
次第に、訳の分からないことを言っていることに自分でも気付き始め、遂に星の口から次なる言葉が出てこなくなった。客間がしんと静まりかえった。
 その静寂を、燐がげらげら笑って破壊した。星は面食らった様子で燐を見やる。
一しきり笑った後、燐がはぁ、と息をついて言葉を紡ぐ。
「さっきあんたが何を言ってるのかは全然理解できなかったけど……安心しておくれ、さとり様は命蓮寺の連中に手出しすることはないって」
「本当ですか?」
「きっとね」
 どこまで事実なのかは知りようもなかったが、一先ず星は燐の言葉を信じ、安堵のため息を漏らした。
次いで、はてと首を傾げて尋ねる。
「……ところで、どうして私の住まいのことを知っているんです?」
「さとり様は他人の心を読むことができるから」
「心を!?」
 心底驚いている星の様子から、燐は、彼女がさとりの能力のことを知らなかったことを察した。
「お寺で地底の話とかはしなかったの?」
 燐が問う。
「少しくらいはしましたけど……あまり他人の嫌な過去を暴くことはやめようと、暗黙の了解みたいなものがありまして。あのお寺にはいろんな過去を持った妖怪がやってきますから。聖……あ、聖と言うのはお寺の一番偉い人のことです。聖は昔から多くの人間や妖怪と接して来ましたから、あまり他人の過去を詮索しすぎるのが好きではないらしいのです。相手が話す以上のことを、こちらが突っ込むべきではないと」
「だから地底の様子の話はしなかったのね」
「そうです」
「ってことは、あの舟幽霊らにとって、ここで暮らしてた頃は嫌な思い出と言う訳かぁ。ちょっと心外」
「……申し訳ないです」
「別に星が謝ることじゃないよ」
 燐は笑った。


 こんな具合の雑談で互いの心中に居座っていた蟠りを取っ払った後、燐が先導して地霊殿内を歩いて回ることとなった。
地底へ遊びに来ると言っても、そこは狭い世界である。地霊殿内にある物は限られているし、旧都に繰り出してみても酒や肴を飲み食いできる以外、面白いことなどほとんどない。
退屈だからみんな暇つぶしに弾幕勝負をする。それが地底の妖怪の強さにも繋がっている――と燐は説明した。
 地霊殿は地底に存在する建造物の中では群を抜いて巨大である。初めは今ほど大きくなかったが、さとりがいろんなペットを飼い始めて行く中で増築の必要に迫られ、その都度鬼達がそれを受け持って来た。
鬼達による力強く、そして出鱈目な増築が繰り返された結果、歪で粗雑で、しかし広大で頑丈な、常識に囚われない構造の御殿が完成した。
以前起きた地震で地底も多いに揺れたが、地霊殿はびくともしなかったと言う。
 星は燐の後ろにくっ付いて、彼女の案内を受けながら地霊殿内を歩いて回ったが、鬼達の豪快な増築のお陰であろう、さっぱり構造が頭に入って来ない。
それでも建物の様相を呈しているのだから、鬼達にそう言った技術があることは分かった。まじめに作ればもっと住みよい御殿になるのであろうが、鬼達はそれをしようとしないのである。
 長い廊下を歩いていると、沢山の怨霊や動物と擦れ違う。初め、星は怨霊を恐れており、擦れ違う怨霊を大きく避けて歩くその姿を燐がいちいち笑っていた。
動物は猫や犬と言ったありふれたものから、狐や狼など少々珍しいものもちらほら確認できた。
「動物が多いんですね」
 星がぽつんと呟くと、燐は少し後ろを振り返りながら、
「さとり様は心が読めるから、動物の気持ちもよく分かる。だから動物に好かれるんだ」
「なるほど。しかし、こんなに一杯いる意味はあるんですか?」
「地霊殿の運営に役立ってくれているんだよ。地底そのものや、さとり様の妖気に当てられて、みんな少しおかしいからね」
「運営……家事とかできるんですか?」
「そうそう。お掃除したり、お洗濯したり、こいし様の遊び相手になったり――こいし様って言うのは、さとり様の妹ね」
 家事をする猫――星はすぐに猫の手も借りたいと言う言葉を思い浮かべた。
「あたいだって前はあの子らみたいに、この廊下をうろついてる猫だったよ? まー、今も猫にはなれるけど。“これ”はようやく手に入れた人の姿なのさ」
 これ、と言ってくるりと後ろを振り返り、自身の頬を抓って見せる燐。星は微笑んだ。燐もまた同じように微笑み、またくるりと前を向き直し、

「星だって昔は虎だったんだろう?」

 何の気なしにこう問うた。星の笑顔が少しだけ歪んだ。前を向いて歩いている燐にそれは見えなかったが。
「そう……でしょうね」
 なんとか返した歯切れの悪い返事。
「でしょうねって……自分自身のことでしょう」
 燐が少し振り返って言う。星は少し歪んだ笑顔をそのままに言う。
「実は私、その……幼少の頃の記憶が、全然無くてですね……」
 これを聞いた燐ははっと目を見開き、歩みを止めた。それに合わせて星も止まる。
燐はばつの悪そうな顔をした後、目を伏せた。聞いてはならないことを聞いてしまったことを悔いているのである。
お次は星が後悔する番だ。自身のつまらない身の上話など、今するべきことではなかったと、自身の軽率さを恥じた。
「す、すみません。下らない話を……」
 星が慌てて頭を下げる。燐は首を横に振ってそれを制止する。
「いやいや、あたいが悪かったよ。ごめんよ」
 そう言い、くるりと踵を返して歩き出した。空気はずんと重くなってしまったが、置いてきぼりを喰らうと迷ってしまいそうであったので、星は燐に続かざるを得なかった。
 無言のままひたすら廊下を歩く二人。その最中にも、いろんな怨霊や動物と擦れ違った。
この擦れ違う者達には一体どんな過去が秘められているのだろう、などと星が考えていると、
「ねえ、星」
 燐が急に声を掛けてきて、星は慌てて、視線を燐へ戻す。
「はい?」
「答えにくいことかもしれないけど、聞いていい?」
「どうぞ」
「その……どうして昔の記憶がないの?」
 一応言葉は選んだのであろうが、なかなか単刀直入な質問であった。
星はすぐには答えられなかった。言葉が浮かばないのではなく、答える決心までに時間が掛かったのだ。
大胆な質問の後にやってきたこの長い沈黙はさすがの燐も堪えたようで、ちらりと後ろを向いて、
「答えたくなかったら答えなくていいよ」
 と早口に付け加えた。星は気遣われていることが気になるようで、「いえ」と小さく返した切り、またも言葉を失ってしまった。
再び訪れた沈黙。それを打開したのは、やはり燐であった。
「ちょっと酷い質問かもしれないけど、星のことをもうちょっと詳しく知りたいなって思ってさぁ」
 明るい口調でこう言う。暗澹たる雰囲気を少しでも和らげようと言う思いが、この口調には込められている。
星はそれでもしばらく悩んでいたが、やがて決心したように、一度深呼吸し、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「私と聖は、ずっと昔から一緒にいるんです。私を毘沙門天の代理として生きて行くよう言ってくれたのも、聖なのです」
「どうして毘沙門天代理に?」
「聖がお寺に毘沙門天様を呼ぼうとしたのですが、妖怪が怖がってしまうのと、相手方が忙しいと言う理由で、代理を立てようということになったらしいのです」
「それで星が代理になった訳ね」
 ええ――と言って頷いた後、またしばらく星は頭の中で言葉を整理し、自身のタイミングで静かに語り出す。
「私の記憶が残っている、その一番最初から、聖はいます。……私の記憶は、聖から始まっているようなものなのです」
「どういうこと?」
「昔住んでいたお寺は山にあったのですが、私はその山で不慮の事故に遭ったらしくて……」
「……その時記憶を失ったと」
 燐の推測に、星は小さく「はい」と答えた。
「目覚めると私は一切の記憶を失っていました。そんな私を導いてくれたのが聖でした。私の名前や、幼少の頃からお寺のあった山に住んでいたと言ったことなどを教えてくれました。それのみならず、毘沙門天代理となる機会まで与えてくれたのです」
「与えてくれたって言っても、タダじゃないんだろう? 修行ってのも大変だったろうに」
「そうですけど、一切合財失くしてしまっていた私にとっては、本当に心強くて……」
 こう語った星の口元は自然と緩みを帯び、同時に胸が一杯になって、次なる言葉が閊えてしまったらしく、またも沈黙が降りて来た。
ただ、この沈黙に先ほどのような重苦しさはなく、どこか朗らかで、燐まで微笑んでしまいそうになるような、幸せな静けさであった。
「ですから、寅の妖怪なのに耳も尻尾も無い理由は、私にも分からないんです。記憶を失ってしまいましたから」
「なるほどねぇ」
 燐にもさとりと言う先導者がいる。だから、星の気持ちがよく分かるのである。先導してくれる者の存在とは、実に心強いものなのである。
 それからも星は、白蓮と自分の思い出話を燐に語って聞かせた。
どちらかと言えば聞くより話す方が好きな燐であるが、いつになく饒舌な星を見ていると横やりを入れるのが憚られ、今回ばかりは聞くことに徹した。


 数分の間、星は絶え間なく喋り続けていたが、廊下の末端への到達と共に、その語りも終了することとなる。
話の区切りのいいところで、燐は見えてきた大きな扉を指差した。
「あそこが中庭だよ」
 そう言うと星も語るのを止め、そちらを見やる。遠巻きに見ても大きな扉は、前に立つと一層大きくなって、目の前にどんと聳え立った。
燐が扉を開け、先に中庭と呼ばれる場所へ足を踏み入れる。星がそれを追う。
扉の向こうに広がっている光景は、星が『中庭』という言葉を聞いて想像する、花や草木の植えられた緑豊かな光景とはおよそかけ離れていた。
至る所がひび割れた地面には大小様々な岩が点々と居座っており、花など愚か、雑草すら見られない。宙を火の粉が舞い、過ごしやすいとは言い難い熱気に包まれている。
鳥の囀りに代わって地鳴りが低く鳴り響き、時々爆音まで聞こえてくる。
凄惨たる様相の中庭を呆然と見やる星の背を、燐がぽんと叩いた。
「何ボーっとしてるんだい?」
「ああ、いえ。想像してた中庭と違ったものですから」
「残念ながら草や花なんてものは生えないよ。お日様が見えないしね。……まあ、紛い物の太陽ならいるけどさ」
「紛い物の太陽?」
「うん。これから会いに行くよ」
 そう言いながら、燐は荒れ果てた中庭を歩み出した。星がそれに続くが、早速ひび割れに足を引っ掛けて転びそうになり、燐に笑われた。
 中庭と銘打たれた地は、星の目にはだだっ広い荒野にしか映らない。煌びやかな地霊殿の内装からは想像もつかないくらい、殺風景で何も無い荒野――火焔地獄跡の名は伊達ではない。
 歩を進めていくにつれ、地鳴りや爆音は大きさを増し、一帯を包み込む熱気も強まっていく。
燐はすっかり慣れているようで、汗が滴り落ちて来ようとも物ともせず、あれこれ話をしながら歩いているが、星も同じようにとはいけない。
夏の暑さとは全く異なる熱気――さながら、燃え盛る炎に少しずつ近づいて行っているような強烈な熱に当てられ、眩暈さえ感じていた。
しかし、気丈と言うのか、遠慮深いと言うのか、自身の体調の変化を告げることなく、懸命に燐の後に着いて歩いた。
『紛い物の太陽』こと地獄鴉の霊烏路空の元へ辿り着く道の半ばくらいまで来た時、
「星、大丈夫?」
 ようやく燐が星の体調を気遣って問うた。
以前、二人の人間がここを訪れたが、火焔地獄跡の熱気などどこ吹く風と言わんばかりに大暴れしていた。
それ故に、この環境が尋常でないものであると言う意識がすっかり抜け落ちていたのだ。あの二人がかなりおかしな人間であっただけであって、この地は極地と言っても過言でない環境であるのだ。
 燐の気遣いに、星はこくりと頷いて見せる。滝のように流れる汗が、頭の動きに合わせて飛び散った。
「少し暑いですが、大丈夫ですよ」
「あんまり大丈夫そうに見えないけど」
 燐は困ったようにそう言った。星は何も言い返せなかった。つらいのは事実であったからである。
元来た道と、地獄鴉のいる方角を交互に数度見比べた後、
「うーん。ここまで来させて悪かったけど、今日は戻ろうか」
 星の状態を見て、こう決断した。
「お燐がそう言うのなら、そうしましょう」
 と星は息も絶え絶え呟いた。本当は一刻も早くこの灼熱の大地から抜け出したくて堪らなかったのだが。
「この先には、ほら、さっき言っただろう、霊烏路空って言う地獄鴉がいるんだ。まあ、いつでも地霊殿にいるし、無理して今会わなくても大丈夫だよ」
「空さんはこんな所にいるんですか……ご立派ですね」
 こんな暑さを物ともしない空に、星は感銘を受けた。
「次来る時はしっかり準備をして会いに行こうね」
「あはは……まるで登山ですね」
 妖怪一人に会うのになんて仰々しいと星が笑うと、
「一応あいつは神様だしねぇ。会うのが少し大変なくらいが神様らしくていいのかも」
 燐も苦笑を浮かべてこう言った。
星は薄く笑んだ。これ以上、軽口を叩いてみせる余裕は無かった。この灼熱地獄を抜け出せると言う安堵感からか、眩暈や吐き気が一層激しくなっていたからである。


 中庭を出て廊下へ戻る。地鳴りも爆音もすっかり遠くなり、地底元来の静けさが舞い戻って来た。先刻までがあまりに騒々しかった故に、静寂は一層強調される。
どうにか無事に極地を抜け出せたと、星は安堵と一緒に妙な達成感を感じ、大きく長いため息をついた。
それを見た燐は中庭への扉を施錠しながらくすくすと笑った。
「やっぱり苦しかったんだ?」
 星は苦笑いを浮かべて、問いへの答えとした。
 施錠を終えると、燐も星と同じように、大きく長いため息をついた。その後、くんくんと鼻を動かした。
「汗くさいな」
 燐が言うと、星が慌てて一歩退いた。
「す、すみません。暑いのは苦手でして……」
「いや、お互いにね。別に星だけがってことはないよ」
 燐はそう断った後、一緒に風呂へ入ろうと提案した。燐自身が汗だらけのままで過ごしたいとは思わなかったのもあったし、どうせこの御殿の中でやれることなどそう沢山ある訳ではないから、暇を弄ぶには丁度いいと考えたのである。
生真面目な性格が祟ったのか、それとも羞恥から来る抵抗感であろうか、星は迷惑だとか着替えが無いなどと言った理由でこれを断ろうとしたが、汚れたままでいるのは嫌であったし、何より散々言って来た通り、口論は苦手であったので、結局は風呂へ入ることとなった。
洗って干しておけばすぐに乾くし、乾くまでは服を貸すからと、着替えの心配も全く無用であった。


 地霊殿の浴場は思いの外小ぢんまりとしていて、星は少しばかり拍子抜けしてしまった。
湯を被ることもせず、自分と燐が入ったらもう二人くらいしか入れないであろう浴槽を眺めていると、燐も浴場へ入って来た。星が振り返る。
お下げを解いた燐を見るのは初めてであった為、新鮮味が強かった。はっとするほど美しい赤色の長い髪と、丁寧に体に巻かれた白色のバスタオルの色彩が妙に上品さを醸し出している。
「ん? お風呂がそんなに珍しい?」
 小首を傾げる燐。彼女の姿に見惚れていた星はすぐに返事をすることができなかった。
少々不自然な無言の間を置いた後、
「住んでいる者は多いのに、思いの外お風呂は小さいんだなと思って」
 取って付けたように言う。
「動物達は一人じゃお風呂に入れないからねぇ。実質浴槽を使うのは私の他には三人しかいないんだ」
 その三人の名は具体的に出されなかったが、ここの当主たる古明地さとりと、その妹。それから先ほど出会い損ねた地獄鴉の三名であろう、と星は察した。
 湯桶と風呂椅子を渡すと、燐は先に星を蛇口に近い所へ座らせて、蛇口の使い方を説明した。
「この赤い丸が付いているのからはお湯が出て、青い丸の方からは水が出る。お湯はすごく熱いから、ちゃんと水で薄めて使うんだよ」
「はあ」
「けちけちしなくていいよ。地底じゃお湯なんてそう珍しいもんでもないから」
 湯を沸かす炎は間に合っているからね――こう付け加え、少し自慢げに笑った。
 使い慣れない石鹸などは妙に香しく、そして高価な物に感じられた。
思わず「この石鹸は高級なものなんですか?」などと問うてみてしまったくらいである。
「別にそんなに珍しいものじゃないと思うよ」と言う燐の返答に、星は聊か驚いてみたりした。
 その後、背中を洗い合ったり、壮絶なバスタオル剥がし合戦を繰り広げたり、両手を組んで水を飛ばす方法を星が燐へ伝授したり……普段よりも幾らか騒々しい入浴となった。
 二人で競うように湯船に浸かっていた結果、両者とものぼせる寸前にまで陥った。猫科故に、本来あまり水や風呂は得意でないのである。
少し危うい足取りで、二人で脱衣所に出る。燐がタオルを団扇のようにして自分を仰ぎ出した。星も倣ってそうしようとしたが、そこで壁に掛けてある鏡が目に入った。そして、昨晩のことを少しだけ思い出してみた。
黙りこくって鏡を見つめている星に、燐はにやにやしながら問う。
「何だい、自分の体に見惚れてるの?」
「ち、違いますよ!」
 長い入浴で赤くなった顔をまた少し余計に赤くして星が否定した。それきり、意識的に鏡を見ないようしたので、昨日のことを考えることはなかった。


 風呂から出ると、洗われた星の服が物干し場と指定されている場所に干されていた。
この熱気ならそう乾くまでに時間はかからないと燐が言うので、服が乾くまで星はこの御殿にいることにした。
乾くまでは、少しサイズが小さいが、先ほど会うことができなかった地獄鴉の服を借りて場を凌いだ。着慣れない形の服に、終始落ち着かない様子であった。
因みに服を洗ったのは地霊殿に住まう動物達であった。衣類を洗濯するのに長けた動物達を厳選したと、さとりも燐も自信満々であった。
それを聞かされた星は大そう驚き、しかし果たしてその洗濯技術は如何ほどのものなのだろうかと、少々懐疑的にならざるを得なかった。
無理もない。猫や狼を並べられて「洗濯が上手な子達です」と紹介されて、はいそうですかと二つ返事を返せる者は、いくら幻想郷と言えどそう沢山はいない。
勿論、さとりはその疑心を難なく読み取って、
「うちの動物達は皆優秀ですから、安心して下さい」
 と、愛する動物達の能力に太鼓判を押した。星は申し訳なさを感じ、何度も頭を下げた。
 その後も、広い御殿を燐の先導で紹介を受けた。中庭の様な地獄の様相を呈した場所はなく、心底星は安心していた。
 探検にも似た御殿の案内を終えると、燐の私室で茶と菓子を嗜んだ。茶も菓子も非常に美味であった。
ただ、燐の私室は骸骨が沢山置いてあったり、死んだ魚の様な目をした妖精――呪精と言う――が部屋の隅に何人も寄り添ってじーっと二人を見てきたりしたものだから、星はどうしても落ち着くことができなかった。

 そんな具合に過ごしている内に、洗った服が乾いた。加えて、時間も時間だからそろそろ帰ると言う旨を、星が燐とさとりの二人に告げた。
燐はもう少しいてもいいじゃないかと名残惜しげであったが、「向こうの都合もある」とさとりに制され、渋々食い下がった。
風呂に入れて貰ったり、服を洗って貰ったりといろいろな手間をかけさせたことや、過去に仲間がこの地底世界で過ごしていたことまで含め、星はこれでもかと言う程の礼を言った。
なかなか言い終わらないので、燐が強引に話を終わらせた程だ。
 ようやく礼を言い終え、地上へ帰ろうと踵を返した所で、さとりが出口まで付き添うといいと提案し、燐がこれを受け持った。
星は例によって一人で大丈夫だと言ったのだが、出口へ到達するまでに必ず通る旧都は面倒くさい連中が多いからと、さとりも燐の付き添いを強く推した。そこまで言ってくれるのであればと、星もその好意を享受した。
先日、部下の気遣いを蔑ろにして大失敗した教訓が思い起こされたのである。
幸い、旧都で飲んだくれている鬼達に呼び止められるようなこともなく、星は出口の縦穴へ到着することができた。
「本当に今日はありがとうございました」
 星が再び礼を言う。
「もう散々聞かされたからいいんだってば」
 燐は苦笑を浮かべてこう言う。そして次の瞬間にはぱっと明るい笑顔を浮かべ、
「今度は私が星の所へ」
 と提案したが、
「……それはちょっと厳しいものがあるかな?」
 すぐにまた声のトーンを落とした。相変わらずの抑揚の激しさに、今度は星が苦笑を浮かべる。
「そうですね。こればかりは、残念ながら」
「仕方が無いなぁ。それじゃあ、またのお越しをお待ちしているよ」
 中途半端な丁寧語で、有無のはっきりしない次の約束を勝手に取り決めた燐。しかし、星も悪い気はしておらず、
「ええ。近々」
 こう言い残し、地上と地底を結ぶ長い縦穴を上がって行った。
背後から燐が見送りの辞を叫んだ。狭い縦穴で声は幾重にも反響し、その大きさに星は思わず肩を竦めてしまった。




 星が地底から地上へ上がった頃には、もう日が傾きかけていた。
思っていた以上に外が暗くなり始めていたことに、星は心底驚いた。地底からは太陽が見えない所為で本来の時間が分かりにくいのである。
火焔地獄の上で過ごしていた所為であろうか、夜の闇に覆われた地上はやけに寒々しく感じた。ぶるりと身震いをした後、星は足早に寺へと足を向けた。

 寺へ着いて一番初めに出会ったのは部下のナズーリンであった。
ご主人様が私用でこんなに遅くまで出掛けているとは珍しい、驚いた様子で言った。
どこへ行っていたのかと言う問いには正確には答えず、茶を濁しておいた。地底へ行っていただなんて言えたものではない。
ナズーリンは少しばかり懐疑的な眼差しを向けていたが、しつこく言及するような野暮ったいことはしなかった。
 その後は誰とも会うこともなく、星は自身の私室に到着した。
彼女の私室は他の者のそれよりも少しだけ広めになっている。毘沙門天代理と言う地位からくるものであるらしいが、彼女自身は自覚に欠けているので、優遇処置の必要性に疑問を感じている。
 すぐさまベッドへ飛び込んで、俯せのまま首だけを左に曲げて、大きなため息を一つついた。
慣れない所へ行った精神的負担に、寒暖の差が場所で激しいと言う一風変わった環境下で歩き回ったことによる肉体的負担が合わさり、相当な疲労が溜まってしまったらしい。
楽しい一時ではあったが、それと疲労は別物である。楽しくても、疲れるものは疲れるのだ。
服の袖が鼻の近くへ到達しており、普段とは全く異なる衣料用洗剤の香りが鼻孔を擽る。とてもいい香りであった。
動物達が懸命に服を洗っている所を想像してみて、微笑ましい気分に浸っている内に、次第に星は微睡んで行き、気付かぬ内に眠りこけてしまっていた。

 彼女が目を覚ましたのは夕食の直前のことである。食事の時間になっても食堂に集まって来ない星の様子をナズーリンが見に来たのが切っ掛けとなる。
 扉を開けると、案の定眠りこけていた自身の主人に、ナズーリンは聊かの呆れを感じるのを禁じ得なかった。
掛け布団を掛けることもせず、すっかり眠りこけている主人の肩を揺する。
「ご主人様、起きて下さい。夕食の時間です」
 星はあっさりと目覚めた。真っ暗な外が見える窓とナズーリンを見比べ、しばらくボーっとした後、
「これはこれは、失礼しました」
 やっとこう言い、ベッドを降りた。
「こんな時間に眠って、夜眠れなくなってしまいますよ」
 ナズーリンが言ったが、星は欠伸を一つかいた後、首を横に振った。
「大丈夫ですよ。なんだかとても疲れているんです。きっと今夜は快眠です」
 嬉しそうに星は言ったが、それは果たしていいことなのか悪いことなのか判断しかね、ナズーリンは答えに窮した。
 これ以上みんなを待たせては迷惑ですから急ぎましょう、と星がいい、足早に食堂へ向かい出し、ナズーリンがそれに続いた。

 食堂には既にこの寺で生活をしている全員が集まっていた。
古くからの仲間である雲居一輪、村紗水蜜。それから最近になって生活を共にし始めた封獣ぬえに、幽谷響子。そして、この多くの仲間の中心に立つ魔法使い、聖白蓮。
「遅れてしまってすみません」
 軽い謝罪をしながら食堂へ入って来た星を見て、ぬえがはすっぱな声を上げた。
「星、寝てたのね!」
「はあ、どうしてそれが?」
「寝癖、寝癖!」
 そう言いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべたぬえが、自身の頭の右部分を抑えて見せる。
星はそれに倣い頭に触ってみるが、
「逆よ、逆」
 水蜜に指摘された。すぐさま反対側に触れてみると、ぬえの言う通り、髪がびよんと撥ねているようであった。
星は顔を顰めて手で軽く髪を梳いてみたが、徒労に終わった。
ぬえは相変わらず笑っていたし、加えて一輪までくすくすと笑い始めたので、星は俄かに向かっ腹を立て、
「もういいですよ。どうせ後でお風呂に入りますし」
 それ以上寝癖を直そうとせずに、指定の席へ座った。
 夕食を終えると、星は誰よりも早く浴場へ向かった。
気にしない風を装ってはいたが、やはり身だしなみは気になるのである。長年に渡る毘沙門天代理としての生活が植え付けた癖のようなものである。
 地霊殿で風呂を借りた後であったので、湯船に浸かることはせず、軽く身体を流して上がった。
とにかく疲れていたので、早く眠りたかったのである。

 寝間着に着換え、脱いだ服を部屋の壁に掛けると、星は再びベッドへ飛び込んだ。
振り返ってみれば、随分いろんなことがあった一日であったと思えてきた。
森の中で燐と再会したのと、火焔地獄跡を歩いてふらふらになっていたのが同じ一日であったことが不思議に思えてくる。
 そんな風にいろんなことを振り返っている内に、すぐに星は微睡んできた。
自然と瞼が閉じ、何かの弾みにはっと見開き、しかしまた閉じて行き――そんなことを繰り返していると、コンコンと、誰かが部屋の扉を叩いた。
大して大きな音ではないが、眠気は一気に吹っ飛んで、星は状態を起こした。
「どうぞ」
 星が言うと、扉はすぐに開かれた。廊下の灯りが暗い部屋に入り込み、光の筋が出来上がった。
「あら、暗い……。もう寝るつもりだった?」
 こう尋ねて来たのは村紗水蜜。この寺の前身、もといもう一つの姿である空を飛ぶ船『聖輦船』の船長の役を担っている。
「何の用です?」
「暇潰しのつもりだったんだけど、迷惑だった?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 星は起き出して、部屋の灯りを付けた。水蜜は微笑んで「ありがとう」と一言。人の好意は素直に受け取る率直な性格なのである。
 まるで決まり事であるかのように、水蜜は部屋の中にあった椅子に腰かけた。星はベッドに座った。
「今日はずっと外出していたのね」
「ええ」
「どこへ行っていたの?」
 ほとんど一日中寺を外していた上に、帰りも随分と遅く、加えて妙に疲れている様子であるので、何処で何をしていたか、普段の星を知っている者ほど気になるのである。
しかし、星はその詳細を言うことはできない。仲間が不本意ながら過ごしていた地底世界へ遊びに行っていた、とは言えないのである。
「それは、まあ、秘密です」
 上手な言い訳もできないし、嘘をついて後々ボロが出ることを恐れ、星はこう言っておいた。
帰宅直後に問うてきたナズーリンはこれで食い下がってくれたが、水蜜は同じようにはいかない。好奇心を抑え切れぬようで、少しばかり妖しげに目を細めて、尚も尋ねる。
「口では言えないようなことをしていたの?」
 尚も尋ねる水蜜。妙な言い回しに驚いた星は、首と手を大袈裟に振って否定の意を露わにした。
「とんでもない。知り合いの家へお邪魔させて頂いただけです」
「知り合いって?」
「その……偶然知り合った妖怪です。昨日の、大雨の帰り道の途中、雨宿りをした時に」
「それはまた運命的な。……あ、もしかして、男性の方?」
「な、何を言うのです! 女の子ですよ!」
「あら、そう? あんまり頑なだから色恋沙汰だと思ったわ」
 ほほほ、と白々しい上品さを含んだ笑い声を上げる水蜜。口頭では星の言い分を信じた風を装っているが、心中ではまだ密かに星の色恋沙汰を疑っている。
「そんなに直隠しにされると真相が気になるのよ」
「そうだとしても教えられません」
「ねえ、お願い。誰にも言わないから、ね?」
「何を言われても教えませんよ。水蜜にだって、言いたくないことの一つや二つはあるでしょう?」
「そうですよ、ムラサ」
 二者間の会話に急に入り込んで来た三人目の声。驚いて二人はほとんど同時に部屋の入口に目をやる。
少しだけ開かれた扉の向こうには、聖白蓮が立っていた。
ほとんど二人の会話を盗み聞きしていたようなものなのに、部屋に入る時は律義に「失礼します」と言うところが、実に生真面目な白蓮らしいと言える。
「誰にも言いたくないことはあるものです。無理に言及しては、星がかわいそうではありませんか」
 白蓮は穏やか口調でこう諭すのだが、水蜜は口を尖らせた。
「何よ聖ったら、いかにも正義の使者ぶっちゃって。盗み聞きしてたのだから、聖も星の秘密が気になってたんでしょ」
「あら、私は本当に盗み聞きしていた悪い妖怪を追い払ってあげただけですよ?」
 微笑む白蓮。そして僅かに開かせておいた扉を瞥見する。すると廊下で三人分の足音がばたばたと鳴り響いた。白蓮の言う“悪い妖怪”達だ。一度退けられたのに、懲りずにまたやって来ていたらしい。
足音が過ぎ去った後、部屋に沈黙が降りて来た。しばらくしてから、油断も隙もないと星が苦笑を浮かべながら呟いた。
本当ですね――と同意を示した後、白蓮がこう続けた。
「星、お友達ができたのですか?」
「友達、と言えるのでしょうか。まだ知り合ったばかりで」
「家に呼ばれたんでしょう。立派な友達よ」
 水蜜がこうフォローした。
「どうしてその方を私たちに紹介できないのかは分かりませんが、決心がついたら是非紹介してくださいね」
「ええ、考えておきます」
「そうだ、その人に直接ここへ来て貰えばいいじゃない」
 水蜜がこう提案した。
「いや、それもちょっと……」
 星は困惑した表情でこう言ったが、
「ねえ、聖。これすごくいい考えじゃない?」
 水蜜はそれを無視して白蓮に同意を求めた。白蓮はと言うと微笑みを湛えて、
「ムラサったら、星が寺にいないのが寂しいのね」
 こんな風に茶化した。手痛いしっぺ返しを喰らった水蜜は、ほのかに顔を赤らめ、ふいとそっぽを向いた。
 白蓮はそんな水蜜を見て一層笑みを深め、そのまま星の方を見る。
「しかし、星。あなたはこの寺に祀られている毘沙門天様なのですから……過度な外出は控えて下さいね」
「はい。それは承知しています」
 星は凛然と頷いて見せる。急に声質や態度が一変した星に少しばかり驚き、水蜜が星を瞥見する。
「これからも、よろしくお願いしますよ」
 白蓮はこう言った。星はゆっくりと、白蓮の言葉を噛みしめるようにもう一度頷いて見せた。



*



 今と昔では神様の在り方は大きく変化している。
山の上に神社ごと幻想郷へ入り込んで来た神様の「信仰と親交は同種である」という言葉が表す通り、今や神様は随分と身近で親しみ易いものへと変貌したのである。
それは、多かれ少なかれ神様の品位や品格を落とす物とも受け止められるであろう。その代わり、神様の業務の内容は今までよりも遥かに楽で自由なものとなった。
畏怖の対象として見られたい神様はともかく、信仰を得ることを主目的としている者にとって、今の傾向は非常にありがたいものであるらしい。
その緩い空気に、星も甘んじていた。今の彼女に課せられているのは、とりあえず寺にいるということのみとなっている。信仰に熱心な人間が来た時の為である。
彼女が毘沙門天そのものではないことも影響しているが、その日常は極めて自由なものである。ただ、その中途半端な自由が、却ってストレスになったり、不自由を生み出したりすることもある。
 地霊殿へ招かれてから五日が過ぎた。星は五日間毎日、いるのかいないのかもはっきりしない参拝客を待っていた。
その最中、何度か燐のことを思い出してみることがあった。
近々会う約束をして別れた……ような気がしていた。またのお越しをお待ちしているよ――ええ。近々――この一連のやり取りは、次の約束と捉えても差し支えないであろうと星は思っていた。
しかし、星が自ら地底へ赴くことは何となく憚れた。地底世界との軋轢は思ったより存在していなかったものの、それでも地底は仲間達が封印されていた地だからだ。それに、急に邪魔しても迷惑であろうと言う気もしていた。
故に、この五日間の内に何度か外へ出る機会はあったが、地底へ行くことは無かった。約束を取り付けるだけでもいいから行こうかと思ったこともあったが、前述したような理由で結局行かず仕舞いであった。
前のように外出中に偶然燐と出会うことを期待して、そこらを漫ろ歩きしている自分が、酷く滑稽に思えた。
 六日目となるこの日は、朝からずっと寺に籠り、書物を読んで過ごしていた。時々書物の内容とは全く関係の無いことなんかを考えたりしながら。
 そんな風に星が過ごしている最中、寺の門付近では幽谷響子がいつも通り掃き掃除を行っていた。
能率や掃除の質はさて置き、率先して、しかも毎日掃除をしていると言うのは、妖怪には珍しい善行と言えるであろう。
調子外れの鼻歌なんか交えて、自由気ままに掃除をしていると、
「にゃあ」
 猫の声が聞こえた。
 地面へ目をやっていた響子はおやと顔を上げ、周囲を見回す。鳴き声の主は塀の上にいた。黒猫である。じっと響子を見つめている。響子もじっと黒猫を見つめ返す。
見知らぬ猫に妙な対抗心を燃やし、先に目を逸らしては負けだと意固地になって猫と睨み合っている内に、響子はあることに気付いた。
なんとこの黒猫、尻尾が二本生えているのである。
「やだ、まさか化け猫?」
 ただの野良猫ならばよかったのだが、凶兆の象徴たる化け猫となれば話は違うと、響子は塀へ近寄り、箒で猫を追い払おうとした。
「さあ、ほら、あっちへ行きなさい」
 穏やかな口調で言いながら猫を追い払おうとするが、猫は器用に箒を避けて、尚も響子をまじまじと見つめるばかりである。逃げる素振りなど全く見せない。
さすがは化け猫、一筋縄ではいかないなと響子は心密かに感心しながらも、長々とこの場所に座らせる訳にはいかぬと懸命に撃退を試みた。
一方猫は逃げるどころか、寧ろ響子を弄ぶように飄々と迫り来る箒を避け続けていた。さすがの響子も癇に障り始めたか、手付きが乱暴になってくる。
響子の平静が乱れたその瞬間、隙ありと言わんばかりに猫がぱっと塀を飛び出した。猫特有の素晴らしい跳躍力。響子の頭上を易々と超えて綺麗に着地すると、脇目も振らずに寺の中へ駆け込んでいった。
「あっ、こら、待ちなさい!」
 響子は叫んだが、当然猫は待ってなどくれない。
化け猫の俊敏性は生半可なものではない。追い付ける筈もなかったのだが、あんな不吉なモノを寺の中に入れておくのは許されないと、響子は箒を放り、慌てて猫を追った。

 さて、寺の中へ入った猫は、その柔軟性や矮躯を存分に発揮し、できるだけ人目に付かないよう心がけて行動した。
隠れられそうな物陰を瞬時に見つけ出し、こそこそと隠れながら、目的の人物を探す。この猫のお目当ては、この寺に住まう毘沙門天代理の寅の妖怪。
恐らくあなたは、大体察しは付いているであろう――この化け猫は火焔猫燐に他ならない。
どうせ妖怪だらけの寺なのだから、人の姿で正門から堂々と入っても特に問題は無い。しかし、過去の軋轢からあまり歓迎されないであろうし、それは相手方にとっても、燐にとっても愉快なことではない。おまけに星に迷惑がかかる。
だがこの猫の姿なら、そもそも隠れるのが容易だし、仮に姿を見られても忌わしき地底世界を統べる地霊殿に住んでいた火車だとは思われないであろう、と言う算段である。
事実、幻想郷では尻尾が二本の化け猫などそう珍しいものではない。しかし、燐は化け猫にしてはあまりにも強力である。頭隠して尻隠さずと言った面が払拭し切れない。
 初めて入った命蓮寺に心を弾ませながら、しかし羽目を外すことなく慎重に星を探す。
自分を探しに外から追って来た山彦をやり過ごしたり、死んでるのに生きている不思議な少女を物陰から興味深げに観察したりしながら、どんどん奥へと進んでいく。
どこの辺りに星がいるのかは見当が付かなかったので、行き当たりばったりで出鱈目に進んでいた。
すると、何と言う幸福な偶然であろうか、燐はあっさりと星を発見してしまったのである。
星は、表紙だけ見ても燐には何が何やらさっぱり分からない書物を読んでいた。本を読む星の目はとろんとしている。眠たいんだな、と燐は察し、目を覚まさせてやろうと決めた。
隠れることを止め、全力で廊下を走り、星が読んでいる書物が置かれている机に飛び乗った。
 急に黒色の塊が視界にどんと現れ、星はそれはそれは驚いた。驚き過ぎて声を出すことさえできなかった。眠気は一瞬にして吹っ飛んだ。燐の作戦は大成功である。
 動揺が収まった頃、ようやく星は現状を理解した。黒猫――そこから連想したのは燐であった。その連想した知人の一風変わった姿と、現実に突如現れたこの黒猫の姿が合致したので、
「お燐!?」
 場を弁えずにこんな声を上げてしまった。失態であったことは自分ですぐに気付き、慌てて口を塞いだ。
そして、前足の付け根の部分を持って猫の姿をした燐を抱き、耳元に口を近づけて、声を潜めてこう問うた。
「お燐、ですよね?」
 猫の姿の燐は言葉を持たないが、人語の理解はできる。こくりと頷いて見せた。猫と会話している自分を客観的な視点で想像し、星はかなりの薄気味悪さを感じた。
「どうしてここへ」
 と問おうとしたその瞬間、
「あら? 星さん、その化け猫捕まえたんですか!」
 突如として響子の声が響いた。星はまたも必要以上に驚いて、開けっぱなしの廊下へ通ずる扉の方を見やる。
「あんなに素早い猫を……すごいですね」
 響子は別に星を軽蔑していることはないが、まさか星がこの猫を捕まえられるとは思っておらず、感慨深げな眼差しを送っている。
星はあははと作り笑いを浮かべ、
「近い種族故の親近感が齎した幸運、と言ったところでしょうか」
 取って付けたようにこんな言い訳をした。
響子は少々腑に落ちない様子であったが、何にせよ不幸を運びかねない危険因子を排除できたと安心した。
私が外へ逃がしておきましょうかと響子は気を利かせたが、星はそれをきっぱりと断った。特にそれについて言及することなく、響子は途中であった掃除へと戻って行った。
 一先ず星は、こんな所へいてはいけないと、燐を抱いたまま寺の裏へと移動した。


 人気の少ない寺の裏へ燐を放ると、すぐさま燐は人の姿に変化した。
うーんと背伸びをし、
「何だか最近はこっちの姿の方が過ごしやすい感じがする」
 と呑気なことを言う。
星は怒ったような、困ったような口調で燐に説教を垂れ始めた。
「こんな無茶をするなんて! 見つけたのが響子だからよかったものの!」
「あの掃除してた妖怪、響子って言うんだ? 地底にいた頃にはまだいなかったよね?」
 説教などどこ吹く風と、燐は相変わらずこんな調子である。
「響子は最近になってこのお寺に……ああ、そんなことよりも! いいですか、一輪などは妖気を感じやすいんです! あなたのその化け猫にそぐわない妖気に彼女が感付いてご覧なさい、ちょっとやそっとじゃ帰して貰えませんよ!」
「なんと、それは怖い」
 ちっとも恐れなど含まれていない燐の口調。星は糠に釘だと、それ以上説教をする気が失せてしまった。
「とにかく、次からこういうことは無いようにしてくださいね。本当に、もう」
「あたいは入る前から二度はやらないって決めてたよ」
 燐はやはり悪びれた様子もなく、カラカラと笑う。よほど隠密行動に自信があるらしい。
「それで、お燐。ここへ何をしに来たのです」
 燐への説教を打ち切って、聞けずにいた質問を投げかける。冷静になって考えてみれば、何となく予想はできたのだが。
「別に。退屈だったから来てみただけよ。お寺がどんな所か見たてみたくてさー」
 星がおよそ予想した通りの回答が返って来た。星の寿命を縮めるような危険極まりないこの度の潜入は、燐にとって暇潰しでしかなかったのである。
暇潰しに寿命を縮められては堪ったものではないと星は少しばかり憤りを感じた。しかし、丁度自分も燐に用事があったことを思い出し、この小さな憤りはすぐに彼方へと消え去っていった。
幼児とは言わずもがな、次に地霊殿へ行く約束を取り付けると言うものだ。
「そうだ、お燐」
「はいはい?」
 まだ何か小言を言ってくるつもりか、とでも言いたげな、少々ふてたような燐の返事。
「近々、もう一度地霊殿へ行く……と約束していましたよね?」
 頭の上にある猫の耳がピンと天を突くように立ち上がる。やさぐれた風を装っていた目がぱっと見開かれた。
「お暇が貰えたのかい!?」
 燐が問う。星はピンと立てた人差し指を鼻の前へ持ってきて「しー」と囁き、「声が大きい」と燐に伝える。
それを見た燐は忽ち猫の耳を低くし、星と同じ動作をして、周囲を素早く見まわした。
声を潜めたまま、二人は尚も会話を続ける。
「それほど多忙な訳ではないんですよ、私は。二日後、お邪魔したいと思っていたのですが、そちらの都合は?」
「平気平気! 地底の妖怪なんて、ほとんど遊ぶ為に生きてるようなもんだよ。毎日お祭りだよ」
 無理にでも約束を取り付けようと、燐は大胆に嘘をついた。
「では、二日後の……いつ頃行けば」
「いつでもいいよ! 朝から来てもいい」
 星の言葉を遮って燐が言う。また少し声が大きくなっていたので、星は声量を抑えるよう手振りで指示すると、燐はさっと口を抑えて肩をすくめた。
またきょろきょろと周囲を見回した後、星の耳元でこう囁いた。
「ね、今度さ、うちでご飯食べよう? 夕ご飯」
「食事、ですか?」
「こいし様も空も、あんたが来たって話をしたら興味津津でね」
「それは嬉しいです。しかし、それならば話をするだけでも構わないのでは」
「ああん、もう! こういう好意は素直に受け取る!」
 思うがままに声を出すことができないもどかしさを表情やら動作やらで発散させながら燐が言う。
その珍妙な動作やら何やらに少しばかり星は圧倒されたが、やがて気を取り直し、心底嬉しそうな笑みを浮かべて、こくりと縦に首を振り、
「分かりました、御馳走になります。では、夕方からお邪魔させていただきますね」
 星がこう言うや否や、
「そうこなくっちゃ!」
 寂々たる空気を燐が一息にぶち壊した。星が沈静を促したが、今度は燐は従わない。
「二日後の夕方から来るんだね! 待ってるからね! あたいこれでも料理が得意なんだよ、死体の扱いには慣れてるイコール食材の扱いに慣れてるって言うか――」
「お燐、お燐、静かになさい」
 どうにか燐を宥めすかすと、星は地底に訪れる正確な時間を明言した。燐はうんうんと何度も頷いて見せた。その時間を頭に叩き込むように。
「よし、この時間ね! 待ってるからね! 絶対来てね! 絶対だからね!」
 一息にこう言い終えると、瞬く間に猫の姿に変身した。そして一度ウインクして見せてから、矢のように去って行った。
しばらく、燐が駆けて行った方を見たまま突っ立っていた星であったが、季節の変わり目を感じさせる冷たい風に吹かれ、我に返った。
ぶるりと身を震わせ、足早に自室へと戻る。その足取りはやけに軽く、寺の中で擦れ違った水蜜に少し怪訝そうな眼差しを向けられた程だ。
しかし、星はそんなこと厭わなかった。それ以上の幸福を得ていたから。


*


 この二日間、星はそれはそれは上機嫌に過ごしていた。あまりにも機嫌がいいので、周りにいた者達が不審ささえ感じていた程だ。
一体何が星をこんなにも上機嫌にさせているのか。命蓮寺にいる誰もが気になったし、実際に誰もが少なくとも一度、彼女に直接問うていた。
しかし彼女は「知り合いと遊ぶ約束をした」と、当たり障りの無い回答を繰り返していた。それだけのことでここまで上機嫌になるものかと周囲は疑っていたが、詳細は言わない。
無理もない。地底へ遊びに行くなどとは、散々言って来たように、過去の一件があるから口が裂けても言えないのだ。
「まさかあの黒猫が福を招いたのかしら」と言う響子のあまりにも鋭い戯言に一瞬ひやりとしたが、響子は真剣にそんなことを考えている訳ではなかったのであった。
 約束の日の前の晩はまるで遠足を翌日に控えた子どものようになかなか寝付けないでいて、布団の中で輾転反側していた。
当日の朝は寝不足も厭わず妙に高揚しており、ナズーリンなど心因性、器質性の両面から疾病を疑ってみた程であった。
無論、星は身体のどこにも異常は無く、ぴんぴんしている。精神面に至っては、普段よりも寧ろ生気や活力にが満ち溢れているほどであった。
 朝の内に、白蓮に今日の夕方に外出する、夕食は出先で頂くと言う旨を伝えた。
日中行う、神の代理としての務めの最中は随分時計を気にしており、集中力など無に等しい状態であった。
昼食も間食もそこそこに、とにかく夕方をひたすら待ち続けている――誰の目にもそう映った。
 そして、一刻千秋の思いで待ち続けていた夕方となると、少し早く務めを終え、朝の内に用意していた手荷物を持って寺を飛び出して行った。
しかし、あまりにも急いでいた彼女は、物陰で光る三組の眼光に気付くことができていなかった。
二日前から続いていたあまりにも奇怪な星の様子に、ぬえや水蜜、響子と言った者達が感化されない訳がない。どうにか真相を突き止めてやろうと、星が出掛ける時が訪れるのを、彼女らもまた今か今かと待ち望んでいたのだ。
努めて隠密行動に徹していた訳でもないのに、結局星はこの監視の目を見破れずに出掛けてしまった。
言うまでもなく、この三人は星がどこへ行くかを知らない。知らないからこそ、彼女を尾行し、全貌を知ろうとしているのだから。
「美味しい物食べに行くんだ」とか「逢引だ」とか「修行、もとい合宿の類では」とか、好き勝手な妄想を吐露し合う三人。
まさか、かの忌わしき地である地底世界に居を構える友達の所へ行くだなんて、誰も思っていない。
 頃合いを見計らい、さあ尾行開始だと、歩を一歩進めたその瞬間。
ぬえの服の襟首にぐっと力が入り、続いてひょいと体が持ち上がった。
驚いて後ろを見てみれば、とびきりの笑顔を浮かべる白蓮と一輪、それから一輪の操る入道、雲山がいた。雲山の大きな手が、ぬえの襟首を掴み、その矮躯を軽々と持ち上げている。
「あんまり野暮なことするものではありませんよ、お三方」
 白蓮が言う。ぬえは雲山の手から逃れようと空中でじたばたもがいているばかり。水蜜と響子は、とりあえずえへへと苦笑いを浮かべておいた。
「一輪! あんたは分かってくれると思ったのに! この裏切り者!」
 空中にぶら下げられているぬえは、相も変わらずじたばたと手足をばたつかせながらこんなことを叫んだが、一輪はそんな面罵はどこ吹く風と行った具合で、
「私はこそこそ人の後をつけるような下品な真似はしませんよ」
 と、努めて上品に笑って見せた。ぬえの悪戯に悪乗りすることはあれど、度の過ぎた行為はしない。節度を守るこの態度は、いかにも一輪らしいと言える。
 こうして星は寸での所で、守らねばならない秘密を守り切って、地底へ続く縦穴へ辿り着くことができたのであった。


 当初頭の中で予定していた時間よりも少し早めに寺を出た上に、今の星の気分が気分なものだから意図せず歩みは早まって、彼女はかなり早く縦穴に到着した。
しかし、この気遣いは決して無駄にはならなかった。なんと、燐が縦穴の前で待っていたのだ。
それを遠巻きに確認した星は心底驚いて、もともと速めに動かしていた脚を更に速く動かし、半ば駆け寄るように燐の元へ辿り着いた。
「やあ、やあ、星! お久しぶりだね」
 たった二日前に会ったばかりだが、言われてみればとても懐かしい感じがした。それくらい、二人はお互いにこの約束を心待ちにしていたようだ。
「お燐、もしかして待っていてくれたんですか?」
「まあね。星のことだから、余裕を持って早く来てくれるか、盛大に遅刻するかのどっちかだと思ってさ。勘を張って前者を選んだら、見事的中だよ」
 自慢げに胸を張ってみせる燐。遅刻の可能性も考えられていたことを知って、星は少しばかり複雑な心境であったが、燐が迎えに来てくれていたことはとても嬉しく、また心強くもあった。
鬼達がバカ騒ぎしているあの旧都を、一人で抜けることになるかもしれないと言う不安がずっと付き纏っていたのだ。
「立ち話もなんだからさ、早く行こうよ」
 そう言って燐は星の手を引いて歩き出した。星は急に動かされたことで少しだけバランスを崩したが、何とか持ちこたえ、燐に引かれるままに地底世界へ進み始めた。
 長い縦穴を降りる。付近で暮らしているらしい土蜘蛛の少女が「またあんたか」と声を掛けて来た。
 橋を渡る時、橋姫の少女がやはり羨ましげな、妬ましげな眼差しを向けて来た。
 旧都を抜ける。ここは前来た時と何ら変わらぬ喧騒に包まれていた。一人で来なくてよかったと、星は胸を撫で下ろした。
 そういった場所を越え、地霊殿に辿り着いた。二度目だからであろうか、その道は以前より短めに感じた。

「ただいま帰りました」
 と言う燐の元気な声が、地霊殿のエントランスに響く。その後、
「お邪魔します」
 と言う星の控え目な声が続いた。その語尾は、大きな玄関扉の閉まる音にかき消されてしまい、燐にすら届いていない。
 燐はうーんと唸りながら顎に手をやり、これからのことについてぶつくさ呟きながら考え始めた。
「食事の準備はまだ早い」「こいし様はどこだ」「空はまだお勤め中かな」「二度目だし知り合いだから客室行かなくていいよな」
 御殿の規則と現状を照らし合わせているらしい。星には何を言っているのかよく聞こえなかったし、聞く必要もないと思っていたので、特に傾聴することなく、前と同じようにエントランスにある見事なステンドグラスを見上げていた。
 しばらくして燐は器用にぱちんと指を鳴らした。それを号砲としたかのように、星は視線をステンドグラスから燐に戻した。
「とりあえず、その荷物を私の部屋に置こう」
 そう言って燐は、星が肩に掛けている鞄を指差した。言われて星は、はっと思い出したように、鞄の中からお土産のお菓子を取り出した。
「そうでした。これ、つまらないものですが」
 燐は驚いたような表情を見せた。
「あらあら、まあまあ、これはこれは。度々ありがとうね。あ、そうそう、この前くれたお菓子、こいし様がいたく気に入ってたよ」
「そうですか。それはよかった」
「もしかしたらこれからは知らぬ間にお寺のお菓子が食べられてるかも知れないねぇ」
「え? どういうことです?」
 星が問うたが、燐はにやにやと笑んで「秘密」と一言。更に、さっさと星を私室に案内することでそれ以上の質問を退けた。

 相変わらず燐の私室には、眠たいような目の妖精がいた。しかし今日は前のように一か所に固まっておらず、ふわふわと部屋中を揺曳している。
宙を舞う埃のように、気ままに浮かんではいるものの、やはりその眼差しは、見慣れぬ客人である星に注がれている。全員瞳が半開きで、口を噤んでいるので、何を考えているのかは皆目見当が付かない。
さして広くない部屋の中で、あらゆる方向から見つめられていると言う状況に立たされている星の居心地の悪さは、筆に尽くし難いものがある。
一体どの個体に目を向ければいいのか分からず、星は落ち着きなくあちこちを見回していた。すると、燐がからからと笑った。
「呪精と言うんだ。私の可愛い……部下、なのかな?」
「この子らは戦うんですか?」
「勿論。おまけに死ぬことがない。戦死を恐れない、恐れる必要の無い優秀な奴らさ」
 そう言うと燐は、近くに浮いていた呪精を一匹捕まえて、自慢げに星に見せつけた。一応、呪精は人語が理解できるようで、燐に褒めてもらったことを誇るように、腰に両手をやって見せた。ただ、相変わらず目は眠たげで、表情に変化はない。
星はその仕草に少し癒されながら、死なない戦士に関連し、寺の裏の墓地にいるキョンシーのことなんかを思い出していた。
 食事の時間まではまだ間があるからと、燐と星はこの部屋で雑談を始めた。
呪精舞う火車の私室で雑談を交わすことに、星は初めこそ多少抵抗を感じていたものの、呪精自体は言葉を持たぬこと、あまり頭は良くないから聞いたことなどすぐ忘れてしまうことなどを燐に教えられ、少しは落ち着いて話ができるようになった。
あれこれと、取り留めの無い雑談で盛り上がっている、その最中。
急に外の廊下から、ばたばたと言う足音が聞こえて来た。星はおやと、背後の扉を振り返る。燐もその動作でようやく足音に気付いたようであった。だが、特にその様子に変化はない。足音の主に見当がついているのである。
 ばん、と勢いよく開かれた扉の先に立っていた少女は、星の見知らぬ子であった。胸元の眼を模ったオブジェクトには見覚えがあったが、記憶にある同形の物とは少し様子が違った。色と状態が違うのである。
しかし、そのオブジェクトがあるからこそ、星もこの少女の正体に目星を付けることができた。
 勢いよく入室して来た少女は星を見るや否や、
「燐! この前言っていた神様はこの妖怪?」
 こう問うた。燐はこくりと頷いて、
「そうですよ、こいし様」
 少しわざとらしく少女の名前を呼んで、少女より発せられたその言葉を肯定した。
二人の子のやり取りを経て、星はこの少女が、地霊殿の主である古明地さとりの妹、古明地こいしであることを確信した。
あまりお姉さんと似ていないんだな、などと思いながら、燐と会話するこいしの姿をまじまじと見ていると、急にこいしが自分の方を向いた為、目が合った。
不意に目が合ってしまい、星は少し驚いた様子を見せた後、慌てて取り繕って、
「初めまして。寅丸星と申します」
 簡素な自己紹介をした。こいしはそれを受け愛想よく笑みながら、同じように簡素な自己紹介を返した。
そして、今度はこいしが、星の全身を眺め始めた。星のように隙を突いたものでなく、目の前で、堂々と。少し変わった子なんだな――これが、星がこいしに抱いた第一印象となった。
「あまり寅っぽくないのねえ」
 しばらく他人の体をじろじろと眺めて、出した感想がこれである。おまけにその口調には隠し切れぬ程の失望の色があった。
いかに地霊殿が小規模な動物園の如し様相を呈していると言えど、寅などと言う珍しい動物はまだ飼っていない。
まだ見たことの無い動物、地霊殿にいない動物――正確にはその動物を原形とする妖怪――が見れると、こいしは期待に胸を膨らませていたのだが、星の容姿は寅とはおよそかけ離れたものであったから、この落胆ぶりらしい。
 星は別に悪いことはしていないが、申し訳なさで心が一杯になり、言葉を失ってしまったが、燐は傍でけらけらと笑って、
「これも神様の努めの一つなんだそうですよ」
 こう言って、微力ながら星をフォローした。
「神様だから寅であってはならないの?」
「そうなんです。人間に妖怪であることを知られてはならないんです。……正確には代理なんですけどね」
 これ以上こいしを失望させたくない、若しくはこれ以上見損なわれたくないと言う意思の表れであろうか、彼女のお決まりの言葉の『毘沙門天“代理”である』と言うことを告げる一言は、酷く小さな声であった。
神様と言う色眼鏡を通して、もう一度こいしは星をまじまじと見つめた。
「お空と違って賢そうね」
 間を置いてこんなことを呟いた。星はまだ空の愛称を知らなかったので、燐がすぐさま、「お空ってのは空の愛称のこと」と付け加えた。
「それは、恐縮です」
 まだ空という妖怪は見たことがなかったので、星にはこう言うのが精一杯であった。
 その後、こいしも加わって雑談が再開した。こいしの質問責めに、星はたじろぎながらも真摯に答え続けた。
 そうこうしている間に食事の支度をしなければならない時間となり、燐が席を立った。人手が足りないからと言う理由でこいしにも援助を頼み、こいしはこれを快く了承した。
私も何か手伝おうかと星は自ら問うたが、燐は首を横に振って、
「お客さんに面倒事を手伝わせる訳にはいかないし……それに、あんたはあんまり料理得意そうじゃないしね」
 こんなことを言うものだから、星は聊か憤然たる気持ちが芽生え、余計に手伝いたい気持ちが強くなったが、結局は燐に言い包められ、一人で燐の私室に残った。
 燐もこいしもいなくなり、部屋の中はしんと静まり返った。揺曳していた呪精の一人がふよふよと星に近づき、その肩に腰を降ろした。野鳥が肩に乗るより軽いのではないか、と思えるような軽さであった。

 話相手がいなくなり、あっと言う間に退屈になってしまった。暇を潰す為に失礼でない程度に燐の部屋を見回し始めた。
すると不意に、部屋の出入り口の扉を誰かが叩いた。
「どうぞ」
 反射的に星はこう答えたが、果たして他人の部屋に、部屋主の許可なく他者を招き入れていいものかと俄かに疑問を抱いたが、その自問自答が終わるより先に、扉が開かれた。
入って来たのはさとりであった。星を見るや否や、薄く笑んだ。
「安心してください。お燐はそんなことでは怒りませんから」
 星の心を読んだらしかった。星は「はあ」と素っ気無い返事をしておいた。
「お燐が張り切っているものですから……今日はあの子に一任することにしました」
 付近を飛んでいる呪精の頭を撫でながらさとりが言う。星は「燐は料理が得意なのか」などと言った当たり障りのない質問を返したりして、会話を続けた。
しばらくは星による、地霊殿での生活のことや、地底世界の世相なんかの質問で話が進んでいた。
しかし、そう言った無難な話の種は次第に尽きてしまった。やがて二者間の話題は、もう少し深みに嵌まったような――踏み入ってはならない領域と、そうでない領域の狭間へ到達した。
「さとりさんは、いつから地底へ?」
「随分昔……と言うか、地底世界ができてから、ずっとね。その間、この世界の管理を任されてきたのだから」
 こんな類の質問が続いた。この間に、こいしの閉じた第三の瞳に纏わる話も、自然とさとりの口から語られた。
それを聴いた星は、あまり愉快でないことを話題にしてしまったことを詫びた。しかし、さとりは気にしないでいいと、微笑みを湛えて言う。
それから、すぐにこいしを話題から遠ざけ、こんな質問をした。
「あなたは寅の妖怪なのよね?」
「はい」
「あまり寅らしい容姿をしていないのは、やはり神様の代役を務めているから?」
「そうです」
「耳や尻尾さえ無いみたいだけど……一体どうやって隠しているの?」
「これは、私も詳しいことは知らないのですが……」
 この言葉に続ける形で、星は自分と白蓮と出会いについて語って聞かせた。いつか燐に語った時と同じように。
全容を聞かされたさとりは、なるほど、と相槌を打ち、次にこう問うた。
「子どもの頃の記憶が無いのですか?」
「そうなんです」
「全く何も無いんですか?」
「無いです」
 言下に星が言う。
さとりは少しだけ怪訝な表情を浮かべて、更に問う。
「本当に、全く無い?」
「ええ」
 妙に返事が素っ気無いなと、さとりは若干の不自然さを覚えながら、尚も問い続けた。
「何か一つでいいので、思い出せないですか?」
「いいえ」
「何でもいいんですよ?」
 ここで、星の返事が止まってしまった。何も言わない。閉口し、黙ったまま、さとりを見やるばかりなのである。
「……星さん?」
 さとりの怪訝な表情はいよいよ深まるばかり。面と向かってそんな表情を作っているのに、星はやはり何も言わないでいる。
雑談に際してさとりは、なるべく能力を使わないように心がけているが、この時ばかりは不審に思い、星の心を覗いてみた。
その瞬間、さとりは客の前であるにも関わらず、驚きを隠し通すことができず、はっと目を見開いた。そして、星の目を見やる。その表情は、何か恐ろしいものを見るような目つきであった。
無礼は承知であったが、それほどさとりは、心を読むことで見えたものに驚愕していたのである。
 さとりまで言葉を失い、二者とも黙ってお互いを見やっていると言う、不可解な状況に陥った。
――その実、星は、さとりの表情など全く見ていなかった……否、何も目に映っていなかったのだが。



「星、ご飯の準備ができたよ!」
 さとりと星の間に生じていた不自然な静寂を、燐の陽気な声が打ち破った。完全な不意打ちであった。私室であるから遠慮も礼儀も無視して扉を開け放ったのだ。
その瞬間、星が弾かれるようにびくりと体を震わせ、ぱっと扉を振り返った。そしてぎこちない笑みを浮かべて、
「そうですか」
 と、どうにか返事をした。まるで居眠りの最中に起こされた者のような素振りであった。
次いで燐はさとりに目をやって、聊か驚いた表情を見せた。まさか私室で星と雑談しているとは思っていなかったようである。
「ありゃ、さとり様もここにいたんですね」
「ええ。勝手にお邪魔してごめんなさいね」
「いえいえ。とんでもございません。あ、私はお空を呼んできますから、さとり様、星と食堂で待っていて下さい」
「分かりました。御苦労様です」
 労いの言葉への返事もそこそこに、燐は気忙しく私室を去って行った。
 燐を視線だけで見送った後、さとりはすぐさま星の様子を見てみた。その顔つきは、何でもない風を装っているが、第三の眼は欺けない。
彼女は、つい先ほどの自分自身に、異常性を感じていたのである。


 その晩の地霊殿の食事は、それはそれは豪華なものであった。
こいしを以って言わせると、誰かの誕生日に匹敵するほどの豪勢な夕食であるらしい。
その証拠に、『客人が来るから今晩は御馳走』ということを忘れていた霊烏路空は、食卓に広げられた料理の数々に驚き、そして目を輝かせていた。
ここでようやく星は空と会うことができ、自己紹介を交わし合った。空は物忘れが酷いようで、燐に掻い摘んで説明されていた星の情報を一切忘れていた。
 夕食は燐の部屋にいた呪精や、その他の動物なんかも数体交えて、とても騒々しいものとなった。
こいしと空が競うように食事にがっついたので、うるさくなるのは必然であった。客人の前なのに行儀が悪いと、さとりが再三注意したが、二人とも聞く耳を持たなかった。
 命蓮寺の食卓も決して寂々たるものと言う訳ではないが、ここまでうるさくはならない。星はおかしさを堪え切れなかった。
 食事にがっついていた二人がある程度落ち着くと、今度は雑談に花を咲かせた。
ようやく地霊殿に住まう主要な四名が一堂に会したので、今までなかったくらいに話は弾んだ。
 その最中、さとりはちょくちょく星の表情や心中の様子を窺ってみたものの、取り立てて留意しておくような変異は何一つ無かった。

 食後に茶を飲み、それも終えると、星は例によって何度も何度も礼を言い、地底を後にした。
二度目だから一人で帰れると、今回もまた燐の同行を断った。後片付けが大変だからと、今回ばかりは燐もそれに甘んじた。
 星が地霊殿を去った後、燐は大きくため息をついて、片付けがんばるぞと声を上げ、自身を鼓舞した。
残念ながら、準備を手伝ってくれたこいしは片付けまでは手伝ってくれない。端から想定していたことなので、特に何も思うことなど無かったのだが。
代わり、と言っては失礼であるが、さとりは片付けを手伝ってくれた。
主の手を煩わせる訳にはいかないと燐は断ったが、準備の際は楽をさせて貰ったからと、さとりは燐と片付けを始めた。
 流し台に並んで皿を洗っている最中、さとりは不意にこんなことを燐に問うた。
「お燐。あなた、星の幼少期のことを知っているかしら?」
 燐はこくりと頷いて答えた。
「記憶を失っているのでしょう? 知っていますよ。聞きましたから」
 少しだけ口調が自慢げなのは、彼女の秘密に既に精通していることを誇っているのであろう。
しかし、さとりは首を横に振る。
「そのことじゃなくて……いや、そのことなのだけど。何か一つでも、少しでもいいから、彼女の幼少期の話が知りたいのよ」
「何か一つでも、ですか。しかし、失くしてるものは語れないでしょうし、私らは聞けないですよ」
「そうよね」
「星の記憶がどうかしたんですか?」
 少しばかり付き合いの長い自分でさえ知らない星の領域に思いを巡らせているさとりに不穏な空気を感じた燐が、聊か猜疑的な心情で問う。
さとりは少し言い淀んでいたが、決心したように口を開いた。
「あの子、自分の幼少期の話になるとね」
「はあ」
「何も考えていないのよ。……陳腐な表現だけど、心が空っぽだったの」
 燐の皿を洗う手が止まった。さとりは思慮を巡らせている時特有の険しい顔つきのまま手を動かしているが、同じところを行き来するばかりで、皿を洗えているとはとても言い難い。
「何も考えていない……」
 長ったらしい静寂の後、ようやく燐が、絞り出すようにこの言葉を反芻した。
さとりは深く頷いて見せ、言葉を続ける。
「どんなことでもいいから思い出してみてとしつこく迫ったのだけど、彼女は何も思い出せなかった。……いいえ、思い出そうとすらしていなかった、と言った方が正しいのかしら」
 どうしてそんなことになるのか、燐には皆目見当がつかなかったが、それが普通のことでないことは、何となく察することができた。
完全に皿洗いの手が止まっていることに気付き、慌てて作業を再開させたが、頭の中はさとりに言われたことで一杯であった。
「本当に、記憶を失ったのかしら」
 ぽつんとさとりが呟いた。燐は何も言わないで、黙々と作業を続けた。


*


 墨を塗りたくったように暗い夜道を一人歩きながら、星はこの度の外出の反省をしていた。
同じ失敗を繰り返さないよう、自身の動向を省みて、次に役立てるのである。
 彼女自身としては、今回は概ね万点であった。
地霊殿に住まう主要な人物らといろんな話ができたし、以前、風呂や衣類を借りると言ったような迷惑もかけていない。
食事は御馳走になったが、今回の目的がそれであったので、これについては反省の必要はないと判断した。
 一つだけ気掛かりであったのは、燐が食事の準備ができたと告げに来る直前のことであった。
いつの間にか星は――本当に気付かない内に、視界が真っ暗になって、さとりの話にろくすっぽ耳も貸さず、ボーっと突っ立っていたのである。
一体全体、どうしてあんな態度を取ってしまったのか分からなかった。あの瞬間の自分の状態に。他の誰よりも驚いていた自信があるくらい、予期せぬ異変であった。
以前もこれほど重度ではないものの、似たような状態に陥ったことがある――星はすぐに目星を付けた。燐と初めて出会った日だ。雨宿りの為に飛び込んだ洞窟の中。そして、鏡の前だ。
そして驚くべきことに、あの時も幼少期の頃の思い出について、思慮を巡らせていた。洞窟の中で燐に問われた。問われたことを鏡の前で、一糸纏わぬ姿で考え込んでいた。
――これを単なる偶然と呼ぶべきであろうか?
 俄かに体が震えてしまったのは、吹き付けて来た冷たい風の所為ばかりではない。言い知れぬ恐怖と不安を感じたのだ。
 同時に彼女は、今までろくに考えても来なかった自分の幼少期のことが、少しだけ気になりだした。
しかし、無い物をあれこれ考えたところで仕方が無い。ここは、詳しそうな者に聞いてみるべきであろうと思い、命蓮寺へ向かう足を少しだけ速めた。


 命蓮寺の傍の母屋に到着すると、やはりナズーリンが出迎えて来た。
「随分遅かったですね」
 そう言われて時刻を尋ねてみれば、二十三時を回っていると知らされ、星は心底驚いた。地底にいると相変わらず時間の感覚が狂ってしまうのだ。
「浦島太郎の気分ですよ」
 こんな冗談を飛ばしてやると、ナズーリンは「何を大袈裟な」と苦笑を漏らした。
 響子は毎朝早いので、この時間となればとっくに眠っている。今日は珍しく一輪も水蜜も床に就いたらしかった。
今、寺にいて起きている者は、星の帰宅を待っていたナズーリンと、私室の卓に向かって筆を走らせている白蓮の三名。
ぬえは夜遊びが過ぎるようで、まだ帰って来ていない。しかし、彼女にはよくあることなので、二人とも特に気にしていない様子である。
 わざわざ自分の帰宅を待っていてくれたことに星は礼を言った。
「気に病むことはありませんよ」
 と、ナズーリンははにかむ。こうでも言ってやらねば、いちいちこの寅の妖怪はこのことを引き摺りかねないからである。
度重なる星の礼が押し寄せる前に話を終わらせると、ナズーリンも私室に引っ込んで行った。
 起きている者が僅かとなり、母屋はしんと静まり返った。星は、白蓮の部屋のある方へ体を向けた。その表情に、僅かだが、緊張が奔る。
 以前、燐との会話で話題に上ったように、この寺では過去に触れること禁忌とする暗黙の了解がある。星は今日、それを破ろうと言うのだ。
自分の幼少期について、白蓮に聞こうと思ったのである。腹の底がずしんと重くなるのを感じた。
そんな不文律が存在しなくとも、なるべくこんなことは隠密にしておきたいのは事実であった。自身の好奇心や勝手な不安感で、仲間達の気分まで害することは無い――こう思っていた。
ならば、実質、相談者と被相談者しかいない今この時が好機であることは間違いない。
まるで何者かに操作されたかのように、お膳立てが整っている――薄気味悪ささえ感じた程だ。
 善は急げ。思い立ったが吉日――そんな言葉を自分に言い聞かせ、星は白蓮の私室へ向かった。


 暗い廊下に、細い光の筋がある。白蓮の部屋の扉から漏れている灯りだ。まだ消灯していないのである。
隣室では他者が眠っている。迷惑にならぬよう、そっと扉を、二度叩く。
「失礼します。……聖、まだ起きていますか?」
 夜の闇は自然と声をくぐもらせる。声は届いただろうか――発した星自身が心配になる程小さな声であったが、
「星? どうかしたのですか?」
 扉の向こうから声が返って来た。気付かれないようにほっと胸を撫で下ろして、星が言葉を続ける。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 ここまで言って、星は次なる言葉に、一瞬だけ詰まってしまった。少しばかり不自然な間を開けた後、
「相談があるのですが今大丈夫ですか?」
 早口にこう付け足した。
 返事の声が聞こえるよりも先に、扉が開いた。きぃと言う、木製の戸ならではの小気味良い音。漏れ出してくる淡い光。
その先に、微笑む白蓮がいた。
「どうぞ」
 穏やかな白蓮の声。控え目な夜光。慣れ親しんだ香り――星には、この部屋を形成する何もかもが、温かく、そして優しく感じられた。


 母屋は全体的に明るい雰囲気に包まれている。仏教徒である白蓮の意向と、ぬえや響子などの若い者の好みが折衷しているのだ。
しかし各々の私室は、部屋主が好き勝手に装飾できる。そして白蓮の部屋は全体的に質素で、どこか抹香臭さが漂う。やはり白蓮にとって落ち着く空間とは、こう言う空間なのであろう。
 少し躊躇いがちに、星が部屋へ踏み入る。白蓮の部屋はどう言った訳か、入室に少々の緊張が走るのである。これについて、仲間達の意見は賛否両論であった。
 白蓮に薦められ、置かれた座布団の上に正座する。白蓮はもう一枚座布団を起き、星に向かい合う形で座する。
ふぅ、と一息ついた後、真っ直ぐ星を見やる。
「相談とは何ですか?」
 自分の過去について聞きたい――決心したからこの部屋に来た筈であったが、いざ相談事とは何かと問われてみると、緊張は一入だ。
星は咄嗟に口を開いたが、声が伴わない。出掛かった言葉は喉の奥から先へ進む寸での所で、再び腹の底へと引っ込んでいってしまった。
一度、星は閉口してしまった。このおかしな挙動を白蓮はどう思っているのだろうかと、伏し目がちに目の前の聖人の様子を見る。
白蓮に変化はなかった。相変わらず真っ直ぐに星を見やっている。
相手は真摯な態度でいてくれているのだから、こちらも誠意ある態度をとらなくてはと、星は自分で自分を急かした。その結果、
「私の記憶が無くなる前のことなのです」
 あれこれ考えて、寄り道している心の余裕は無くなってしまった。聞きたいことを一息の元に、端的に言い放った。
白蓮は面食らった様子であったが、それでも視線を外さない。
禁忌を自ら持ち出したことを謝することも、こんなことが気になった由縁も、全部考えてここへ赴いたのに、結局、星は本題を伝えた後、言葉が続かなかった。
折り曲げた脚の上に乗せた握り拳にぐっと力が入る。その手の内は手汗でぐっしょりと濡れている。
 無言のまま時ばかりが過ぎて行く。この無言が、星には苦痛であり、疑問でもあった。
――どうして聖は何も言ってくれないのだろうか? まだ、私の言葉に先があると思っているのだろうか?
しかし、これほどの沈黙を挟んでからあれこれ説明や補足をするのは気が引けて、星は何も言えずにいた。
そうして無言のまま時を過ごしていると、白蓮がようやく口を開いた。
「どうして、自分の昔のことを知りたくなったのです?」
 尤もな質問だ、と星は思った。何の脈絡もなく、意識的に皆が避けて通って来た話題に触れようとしているのだから。
白蓮の口調は真剣そのものだ。自分もそれに見合う理由を述べなくては――星は訥々と語り始めた。
「最近出会った友人や、その親類の方との会話の中で、私の過去が口の端に上ることが数度ありました。それに私は何も答えられなかった。……記憶を喪失しているので答えられないのは当然です。しかし、何も、何も思い出せなかったのです」
 語尾は強調され、そして、微かに震えていた。震えを強引に封殺しようとして、声が大きくなった。闃寂たる寺の夜には似つかわしくない、怒号の淵をよろよろと往くような悲痛な声が響き渡る。
「思い出すどころか、どうでしょう? 私は、まるで意識を失ったような状態になるのです。例外無く。視界には何も映らなくて、何もかもが遠く聞こえて……!」
「星、落ち着いて」
 興奮する星を白蓮が宥めるが、効果は薄い。
「ただ記憶を失くしているだけなら、まだいいのです。諦めます。ですが、こんなのはどう考えてもおかしいではありませんか。どうして私は過去を思い返せないのですか? 向き合うことさえできないのはどうして? 私に何があったのですか!?」
 星の双眸から涙が零れ、頬を伝い、顎の先から手の甲へぱたぱたと落ちて行く。更に強い力で握り締められた拳はぶるぶると震え、手の骨格が隆々と表れてきた。彼女は比較的痩せ型であるから、余計に骨の形が鮮明に見えた。
 心の底に滓のように溜まっていたものを全て吐き出すことができた為であろうか、星は幾らか落ち着いた。涙まで止めることはできなかったが。
 まるで、静寂が生命を得て、再び白蓮の私室を巣と定めて戻って舞い降りて来たかのように、重苦しい静けさが再度二人を包んだ。時折聞こえる星の嗚咽のお陰で無音とまではいかなかったが、そんな痛ましい音は無い方がよっぽどましである。
星は自分の言動を少しだけ恥じていた。白蓮を悪者のように仕立て上げて怒鳴り散らしてしまったのだから。
だが、それを反省する心の余裕はない。それほど彼女は、得体の知れぬ自身の特性に、恐れおののき、苦しんでいるのだ。
 しばらく続いた静寂を、ようやく白蓮が打ち破った。しかし、それで解決することは、あまりにも少なかった。
「――申し訳ありませんが、星」
 不意に発せられた白蓮の声。俯いて泣きじゃくっていた星はぱっと顔を上げる。開口一番に謝罪の辞。夢も希望も無い。
「私は、あなたの全てを知っている訳ではないのです」
 星は一度洟をすすった後、間を置いてこくりと頷いた。不本意な答えではある。だが、先を続けて欲しい――伝わり切ったかどうか不明であったが、そう言った意図を含んだ頷きであった。
「あなたが寺のある山に住んでいて、最も人格ある妖怪であることは、おぼろげながら知っていました。しかし、それはもう今のように成長し切ったあなたの話。幼少の頃のことは、残念ですが……」
 今度は白蓮が伏し目がちになった。
あなたがそんな顔しないでください、不安になるではありませんか――出掛かった言葉を噛み殺し、別の言葉を投げかける。
「では、記憶を失う前は……?」
「先ほども言った通り、山に住まう妖怪で、最も人格のある妖怪であったことは知っています。しかし、その頃の私達は、それほど親交があった訳ではなかったのです。あなたが記憶を失ったあの日、この寺に担ぎ込まれるまでは、私達はお互いに、一妖怪、一人間でしかなかったのです」
「……それでは……」
「私も、あなたの過去は持っていないのです」
 白蓮がきゅっと唇を噛んだ。
「お力になれず、申し訳ありません」


*


 陰鬱な朝であった。体は金属の塊でも埋め込まれたかのようにずしりと重く感じられ、脳みその皺を縫い針で撫でられているようなひりひりとした痛みが頭を駆け巡る。
『幸せが逃げて行く』と言う迷信の存在を知りながらも、一つ、また一つとため息が漏れていく。
これらが、前日の夜更かしが祟って表れたものでないことは、星自身がよく分かっていた。
 出所不明の激情に任せて白蓮に八つ当たり半分に怒鳴り散らしてしまった。その上、胸中に生じた靄を取り払うことは叶わなかった。
興奮の影響で床に就いてもなかなか寝付けず、布団の中で実の無い思慮を巡らせていた。
そんな夜を過ごしたのにいつも通りの時間に目覚め、寝不足の体に鞭を打ってのそのそと起き出し、この日初めに出会ったのは白蓮であった。その気まずさと言ったら、筆舌に尽くし難いものであった。
 働かない頭を無理に働かせようとしてみるもやはりそれは無理な話で、私室に籠ってぼんやりと本を読んだり、居眠りしたりしていたら、いつの間にか昼前になっていた。
 喉の渇きを癒そうと食堂へ行ってみると、随分遅く目覚めたらしいぬえが、寝惚け眼のままパンを食んでいた。パンのカスがぼろぼろとテーブルに落ちているのだが、そんなこと気にするなど愚か、気付くことすら無さそうな状態である。
普段からあっちへこっちへ跳ねている癖のある長い髪が、寝癖でより多方向へと跳梁している。
「おはようございます、ぬえ」
 星が背後から挨拶すると、ぬえが徐に振り返り、
「星かあ。おはよう」
「随分遅い朝ごはんですね」
「ブランチよ、ブランチ。お洒落でしょ」
「……物は言い様ですね」
「本当にね」
 張りの無い声でそう言うと、また振り返ってもそもそとパンを食み始めた。両手で楕円形のパンを持つ姿はリスを彷彿とさせる可愛さがあるが、口の動きが鈍重なので、小動物にはなりきれていない。
本当はまだ寝ていたかったのに誰かに起こされたのだな、と星は察した。
起こしたのは誰だろう――などと考えていると、食堂の奥から繋がる台所から、盆を持った水蜜が現れた。盆の上には朝食を半分くらいの量にしたものが載せられている。どうやらぬえの給仕係を担っているらしい。
水蜜は少々不機嫌そうであったので、彼女がぬえを叩き起こし、こうして食事の準備をしているのだろうと察した。
 水蜜が星に気付いた。
「どうしたの?」
「ああ、いえ。水を飲みに来ただけですよ」
 声を掛けられ、星は本来の用事を済まそうと、いそいそと台所へ向かう。後ろで水蜜らの諍いの声が聞こえた。

 適当なコップに水を入れ、一気に飲み干す。少し零れて胸元が濡れたが、気にすることはなかった。
渇きは潤せたが、気分は晴れることはなかった。胸中の靄を一挙に流してしまわんとばかりにもう一杯水を飲んだ。無論、蟠りは消えることはなかった。
ならばもう一杯――自棄を起こしたみたいな気持ちでもう一回、コップを水で満たしてみた。だが、コップ二杯分の水を入れた腹がたぷんと波打ち、それを拒否した。
ぼんやりと、並々水の注がれたコップを見やっていると、
「……星?」
 背後から声を掛けられた。少しだけ驚いたのだが、やけに落ち着き払って後ろを振り返ることができた。
そこにいたのは水蜜だ。ぬえとの諍いを終え、水仕事をしに戻ってきたのである。
「どうしたの、ボーっとして」
 水に満たされたコップと、水蜜を見比べる。
 水蜜は舟幽霊である。昔――まだ人間として生きていた頃、不慮の海難事故に遭い、その命を落としてしまった。
未練故に長らく海から離れられず、通りかかった数多の船を海底に沈めることで、妖怪としての力をつけていたが、白蓮の施しによって呪われた海を捨てることができた。
この程度の経緯ならば、寺の者は誰でも知っている。しかし、やはりその詳細は語られることなく、今まで過ごして来た。過去を暴くことは禁忌だからである。
――ムラサは、自分の過去を知っているのであろうか?
 ふと、星の脳裏をそんな疑問が過った。もしかしたらみんな忘れてしまうものなのかもしれない――それは推測と言うより、願望に近いものであった。
みんな忘れているなら、自分がおかしい訳ではないことが証明される。このことを気に病む必要など無くなる。
「ねえ、ムラサ」
 気付けば星は口を開いていた。水蜜は首を傾げて見せた。
「あなたは……自分の過去を知っているのですか?」
「え?」
 質問の意味は理解できたが、意図が全く分からず、水蜜は面食らった表情を見せた。
そもそも、この寺では他人の過去に必要以上に触れることはよしとしなかった筈だ――思わず水蜜は、この寺の規則を脳内で暗唱してみてしまった。
星の言葉が途切れたので、水蜜が恐る恐る尋ねた。
「過去、って言うと?」
「海にいた時のこと」
「――!」
 水蜜の表情が凍りついた。身の毛がよだつ思いがした。
星の表情にふざけた様子は無い。――寧ろふざけてこんなことを尋ねてきたら、水蜜はいくらか星に幻滅していたことであろう。
問うてきた星が真剣そのものであるが故に、茶化してはぐらかすことが憚られる。しかし、あまり口に出して説明したくないことなのは確かである。
水蜜は星に恐怖さえ感じていた。星の意図が全く分からない――慣れ親しんだ者の姿を模った、未知なるモノを相手取って話をしているような、得体の知れぬ恐怖感があった。
 すぐには返事ができず、しばらく黙り込んでいたが、星が退く気配が見られないので、もう一度おずおずと口を開いた。
「どうして、そんなことを聞くの?」
 長い静寂に終止符を打つべく放たれたこの一言は、微かに声が震えていた。
 その不安と恐怖に侵された声が、星を我に帰した。
ハッと目を見開いた星は、ぶんぶんと首を横に振り、
「すみません! ……な、何でもないのです、忘れて下さい!」
 遮二無二謝った。その猛然たる謝罪は、やはりどこか強迫性を含んでおり、水蜜も首を縦に振らざるを得なかった。
コップの水を全部捨てると、洗うこともせずにコップを流し台に起き、水蜜を押し退けるようにして、星は台所を出て行った。
あっと言う間に姿を消した星の方を見やる水蜜の双眸は、微かにうるんでいた。



 星は寺を出て、適当な道で漫ろ歩きを始めた。
どんな静かな場所にいようとも、結局過去について考えることはできない。どっぷりと踏み込んだ途端に、体の機能が停止してしまうからである。
どうしても独力では胸中に鎮座する蟠りは取り払うことなどできない。だが、水蜜に随分失礼なことを問うてしまった上に、昨晩の白蓮の一件もある。寺に居たいと言う気分にはなれなかった。
 何とかして気晴らしがしたい――と星は思った。一時でいいから、この懊悩から逃れたいと心の底から思った。
いつぞやにナズーリンが言った「趣味の一つや二つくらいは持っていた方がいい」という言葉が思い起こされた。彼女はこれと言ってのめり込めるものを持っていなかったのである。
残念ながら宝塔を持っていないので、弾幕勝負をしようと言う気にもなれない。そうなると、夢中になれることなど無くなってしまうのである。
 外気はひんやりと冷たかった。じっとしていると冷たさが身に染みるので、努めてよろよろとした歩調で漫ろ歩きをした。その最中、
「地霊殿へ行きたい」
 ふいに心に生じた言葉がそのまま言葉となって、口から漏れ出て来た。彼女は地底世界を求めていたのだ。
 自分をこんな気持ちにした発端も、突き詰めてみれば地霊殿なのだが、それでも鬱蒼とした寺にいるよりは幾らかましであるように感じた。
あの粗雑な喧騒なら。美麗で広大な御殿なら。現実から逃避することだってできるような気がした。自分の日常からより遠い所へ逃げれば、心が幾らか休まるのでは、と思ったのだ。
 地底世界へ通ずる縦穴のある方角へ体を向けてみる。偶さかそこを通った風は、追い風となる形で吹き抜けて行った。ほら、奔放な風まで地底へ行こうと私の背中を押しているじゃないか――感傷的な心はこんな戯言を生み出した。

 自然とその足は、地底世界へ向かって動き出していた。吹き荒ぶ追い風の後押しを受け、自然とその歩調は速まる。
 縦穴に飛び込んで、慎重に下へ下へと降りて行く。今回は特に何者と会うこともなく、横穴の領域へと到達した。
橋姫はいつでも橋を見守っているので、出会わざるを得なかった。
連日のように地底を訪ねてくる寅の妖怪を見やり、聊か不審げな表情を見せて来た。美しい緑色の瞳がきっと吊り上がり、そして細まる。
「またあなたなのね」
 声を掛けられ、星は少しだけ驚き、挨拶をした。
「どうも、こんにちは」
「地底になんてかぶれない方がいいのに」
 挨拶を返すこともなく橋姫は言い、少し横にずれ、橋を渡らせた。星は会釈し、足早に地霊殿へ向かった。
 昼でもやはり旧都はやかましい。だが、向こうは星のことなどいちいち記憶していないようで、いつでも初対面のような反応をしてくる者がほとんどだ。
稀に覚えている者がおり、「あの妖怪はこの前もいただろ。物覚えの悪い奴だな」と言った嘲弄が飛び交い、それを機に酒の呑み比べが始まり――とにかく、いつも通りの調子であった。

 鬼達の喧騒が消えた時。それが、地底世界の奥地に勃然と聳え立つ地霊殿に近づいている証だ。今の星にとってこの静寂はなかなか居心地のいいものであった。
 見慣れた西洋風の建造物の前に立ち、その全貌を見上げる。微かな地鳴りの音が耳に心地よい重低音となって聞こえてくる。
今日も空が、あの火焔地獄跡で膨大な熱を生み出しているのだろう――御殿の中で営まれている、地上とは一風変わった生活を思い、星はぶるりと体を震わせた。
やはりここは非現実だ――そう思った。確かに、元は地獄であった場所であり、日常とはかけ離れた地であることは確かである。
 来客用のチャイムを鳴らす。外には聞こえない仕様なので、中でどんな音が鳴っているのか、星は全く知らない。来客など本来ほとんどないのである。
誰かが出てくるまでの時間の中で、手ぶらで来たのは流石にまずかったかと悔んだ。なにぶん突発的な行動であったから、そこまで頭が回らなかったというのが事実である。
そもそもアポイントメント無しで突然他人の家へ遊びに行くこと自体、星にとっては常識外れな行動であったのだが、今の彼女の精神状態はそんな信条を守り切れる程マトモではなかった。
 いろんな落ち度を心中で正当化し続けていると、玄関扉が開いた。
扉の先にいたのは、古明地さとりであった。少しだけ開いた扉と、壁の隙間から外の様子を窺って、僅かに眉を顰めた。
「星?」
 ほんの半日前に別れた妖怪がまたも自宅を訪ねてきて、さすがに不審さを感じたらしい。
「さとりさん、こんにちは」
「ええ。こんにちは」
 その生じた不審さを、あからさまに表情や言葉に出すことはしなかった。
 扉を完全に開け、次いで第三の眼を手で抑え込む。相手の心を読まないよう配慮しているのである。
「どうしたのです?」
「どうした、と言われると、特に用事は無いのですが……退屈だったと言うか、何というか」
 しどろもどろになって星が言うと、さとりは微かに笑んだ。
「つまり暇潰しですね? 神様なのに、意外と御暇が多いのね」
「所詮代理ですから」
「御謙遜を」
 当たり障りの無い雑談を展開した後、星の方から燐の所在を問うた。やはり彼女の、地底世界における一番の拠り所は燐であった。
「お燐ですか。お燐は……」
 そこまで言うと、さとりは急に難しい顔をして黙り込んでしまった。しばらくそうした後、
「……いたかしら。まだ帰っていないかしら」
 ぼそりとこう呟いた。
「様子を見て来ます。一先ず、こちらへどうぞ」
 さとりに案内されたのは、初めてここへ来た時と同じ応接間。部屋はあの時と何ら変わらぬ様相であった。星を応接間に残し、さとりは燐を探しに部屋を出て行った。
 あの時と同じ、一人で退屈な時を過ごしていた。散々見た絵画をもう一度眺めたり、意味もなく家具を撫でたりして時間を潰した。
この待ち時間の中で、燐がいなかったら返ろうと決めた。無駄足であったことになるが、いい退屈凌ぎにはなったと、やたらと前向きな思考でいられた。
絵画も見飽き、家具もおよそ全て素人目に鑑定して遊び終え、いよいよやることがなくなり、もう一度ソファに腰を降ろして数分後、さとりが戻って来た。手には紅茶入りのティーポットと、二組のティーカップ。
「お燐はまだ帰っていませんでした。ですが、直に帰って来ることでしょう。それまで、お茶でもどうですか?」
「これはこれは、申し訳ないです」
 星は立ちあがって頭を下げた。さとりはクスリと微笑んで、そんなに畏まらなくても、と少々戸惑い気味に言った。
 紅茶がカップに注がれる。寺では緑茶ばかり飲んでいる星は、紅茶のことは一切分からないが、部屋を満たした紅茶のいい香りに、思わず忽然とした。
「どうぞ」
 さとりに紅茶を差し出されると、再び星は礼を言った。さとりのカップにも紅茶が注がれたのを確認すると、「それでは、いただきます」と言い、そっと紅茶を啜った。
飲み慣れたものではないが、非常に美味しい紅茶であることが、星にも分かった。
 何もかもが、寺とは違う――寺が嫌いな訳ではないが、こういう場所での生活も、悪くは無いかもしれないなどと星は考えた。
仲間達は、恐らく経緯の所為であろう、地底世界を悪し様に批判し続けていたから、星の地底世界へ対する心象は決していいものではなかった。
しかし、実際に来てみたらばどうだろう。この世界の極一部しか見ていないことを加味して考えても、少なくとも彼女の考えていた世界とは程遠い世界が出来上がっていた。
 さとりの持つ能力のことも忘れてそんなことを考えていたら、さとりが不意にくすくすと笑った。
「地底へお引っ越しですか?」
「え? ……あっ」
 こう言われてようやく、星はさとりの能力を思い出し、ほのかに顔を赤らめた。
ほのかに赤みを帯びた星の顔を見やり、さとりは尚も微笑んで言葉を紡ぐ。
「いいですよ。ここへお住まいになられては? 動物の扱いには慣れています。それに、お燐に次ぐ優秀な妖怪が増えるとあらば、私は大歓迎です」
「い、いえ。嬉しいですが、遠慮しておきます……」
 星は苦笑いしてこう答え、恥ずかしさを紛らわすように紅茶を飲むことに専念した。
そのお陰か、先にカップが空になったのは星であった。少しばかり猫舌の気がある星にしてはかなり努力した方であろう。舌がひりひりと痛むのを感じていた。
「もう一杯如何です?」
 さとりが問う。
「あ、はい。それでは。お願いし……」
 空のカップを差し出した星の視界が、ぐらりと揺れた。次いで、目に映る全てのものがぼやけ、霞み出した。
手は、そして指は、カップを持つことさえ満足にできないくらいに力が抜けてしまった。割ってしまったら大変だ――そんなことを思った。
見る見る内に意識が遠のいて行くのを感じた。寝不足のまま本を読んでいて、うっかり居眠りしてしまう時と、同じ感覚であった。
身を乗り出した状態でいた星は、このままではテーブルに倒れ込んでしまうと、咄嗟にソファの背もたれに身を投げ出した。
脱力する星を、ソファが優しく受け止めた。元々高級で柔らかかったソファであったが、今はその何倍にも柔らかく感じられた。体とソファが一体になる様な錯覚さえ覚えた程だ。
 星の視界は、あれよあれよと言う間に黒色に侵食されていく。その視界に最後まで映っていたさとりは、何の表情もなく、眠りゆく寅の妖怪を見やっていた。



 その日の晩、命蓮寺に星の姿は無かった。それが命蓮寺の空気を少し変質させたのは無理もない。
あの生真面目な寅の妖怪が、誰に何の伝言を言付けることもなくふらりと姿を消し、結局日が変わっても帰って来なかったからだ。
「星だって子どもじゃないんだしさ。たまにはこういうこともあるんじゃない?」
 こんな具合に楽天的な態度で構えているぬえであったが、心の中では星の身を案じていた。
謹厳実直であるが故に悪い奴にころっと騙されて、事件や面倒事に巻き込まれているのではないか、などと考えていた。
 言葉の上では放任的な風を装ってみても、結局心を支配する感情はそれとなく表面に表れてしまうようで、ぬえの軽口も雰囲気を和らげる効果を発揮することはなかった。
ぬえの言葉を肯定する者も否定する者もおらず、また沈痛たる静寂が一同を包み込んだ。居心地の悪さを感じたぬえが、少しだけ椅子を動かした。その音が妙に大きく、場に響き渡る。
「探しに行くべきなのでしょうか」
 静寂を打ち破り、ナズーリンがぽつんと呟いた。
やはり、すぐに何か答える者はおらず、しばらく静寂は続いたが、
「そこまでする必要はないでしょう。ぬえも言った通り、星は子どもじゃないんだから」
 一輪がこう言った。
「心配するばかりじゃ仕方がないわ。ここは星を信じましょう」
「信じましょうって……なんだか物々しい言い様ね」
 言下に、響子が苦笑を交えて言う。すると一輪は響子の方を向き、ふっと微笑んで見せた。
「それもそうですね。星だって立派な神様。善いこと悪いことの分別くらいはついているでしょう」
 帰って来てから、遅くなった理由を聞けばいい。明日も早いし、今日は寝ることにしましょう――白蓮の鶴の一声で今宵の星の待ち受けは終わりとなり、一同はぞろぞろと私室へと帰って行った。
 ぶつくさと小言とも気遣いともとれぬ言葉を呟いているナズーリン。一輪と響子に挟まれて、不埒な妄想を働かせて笑っているぬえ。それらの者達の背を追う形で、白蓮も私室へ向かったが、ふと足を止めた。
振り返ってみると、遠くを見るような目で門のある方を見やっている水蜜がいた。物憂げな表情――白蓮はすぐに、水蜜の変化にも気付いた。
「ムラサ」
 声をかけると、水蜜は酷く驚いた様子で振り返った。
「な、何です?」
「星が心配なのは分かりますが……そんなに気に病むと、あなたの身が持ちませんよ」
 穏やかな口調で白蓮はこう諭したのだが、水蜜の表情は少しも晴れない。
水蜜のことだから、軽口の一つや二つ、叩いてみせてくれてもいいくらいなのに――白蓮はそんなことを思い、
「何かあったのですか?」
 こう問うてみた。しかし、水蜜は黙って首を横に振り、否定の意を示した。
喧嘩か何かだろうか、と白蓮は思いを巡らせてみたが、どれも憶測の域を越えない。無理に口を割らせるのは可哀想だと思い、早く休むようにと告げ、その場を去った。
 水蜜もそれからすぐに私室の寝床に潜り込んだのだが、眠れる筈もなく、輾転反側しながら漠然とした不安と格闘していた。
昼間、星が水蜜に投げ掛けたあの質問が、頭の中で木霊するのである。

『あなたは……自分の過去を知っているのですか?』

 質問の意図を星は言っていない。謎を秘めたままどこかへ行ってしまい、そして帰って来ていない。
今まで誰もが避けて通って来た過去と言う領域――彼女はそこに踏み込んできた。
これまでに無い兆候を見せたことが、どうしようもなく水蜜を不安にしたのである。
努めてぎゅっと目を瞑り、眠ろうとするのだが、やはり微睡みは遥か遠い場所にあった。眠ろうとする一方で、耳を欹て、母屋の扉を開く音が聞こえてくる瞬間を今か今かと待ち続けていた。
 結局彼女が眠れたのは、それからおよそ二時間程後の事であった。




 普段よりも若干遅れて、幽谷響子は境内の掃除をしていた。
眠るのが遅かったせいであろう、ずっと生あくびを繰り返している。
その最中、一際大きなあくびをかいた。つつと涙の滴が頬を伝う。それを人差し指で擦り取り、とろんした瞳を門の方へやると。
「……あら? お客さんかしら?」
 見知らぬ者が二人いた。一人は桃色の髪の少女。もう一人は赤い髪から猫の耳が飛び出している少女。後者の方が背が高い。
桃色の髪の方は、寝不足なのか、そういう目つきなのか、とにかくじとっとした目つきをしている。
一方赤い髪の方は、緊張しているような、悲しげなような、そんな表情でいる。
「おはようございます」
 一先ず響子が挨拶をする。
「おはようございます」
 客人二人の声が重なった。その気配から二人とも妖怪であることを悟った。――猫の耳を持つ方は初見で人間でないと判断できたのだ。
桃色の髪の少女が響子の前で立ち止まり、寺と母屋を交互に見比べた後、
「聖白蓮はいるかしら?」
 こう問うた。
 人間にも妖怪にも優しい白蓮を、妖怪が訪ねてくることはちっとも珍しいことではない。
条件反射的に、響子は白蓮の居所を教えた。
「白蓮ならきっと今は母屋の方に」
 そう言って母屋を指差した。
「呼んで来ましょうか?」
 おまけにこんなサービスまで付けてしまった有様だ。
「いいえ。自分で行くからいいわ。ありがとう」
 桃色の髪の少女はそう言うと、母屋の方へ向かって歩き出した。
 それと全く同時に、朝食を食べ終えたぬえが、響子でもからかって遊んでやるかと勇んで母屋から外へ出て来た。
その時必然的に、ぬえは桃色の髪の少女らを見ることになったのだが、それを見た瞬間、まるでこの世の終わりの様な表情をして見せた。
ぬえのその表情を見た響子は、思わずぞくりと鳥肌を立ててしまった程だ。
「さ、さ、覚妖怪ッ!?」
 ぬえは一歩退いた。桃色の髪の少女――古明地さとり――も、その後ろに付き添って歩いていた赤い髪の少女――火焔猫燐――も、ぬえを見てやはり驚いていた。
「まあ、鵺? あなたもここにいたのね」
 表情や言葉こそ驚いているが、さとりの口調は冷然たるものであった。
その態度がどうしようもなく癇に障った上に、不正に逃げ出した地底世界の主が、右腕たる妖怪を引っ提げて姿を現したことへの動揺から、ぬえの口調は天井知らずで荒々しくなった。
「地底の妖怪のあんたが一体全体何の用!? 言っとくけど私は地底なんかに戻らないからね! ここにいる妖怪、全員あんたの所へなんて戻すもんか!」
 さとりは鬱陶しげに眉を顰める。
「朝からうるさいわね。あなたに用はないわよ。私達が用事があるのは聖白蓮だけだから」
「白蓮!? ああ、根本から叩こうって腹ね!? 行かせないわよ!」
「仲間を全員地底に戻せなんて話をしに来たんじゃないの。……そうしたいなら戻って来てもいいけど。とにかく、あなたに用はないの」
 立ちはだかるぬえを押し退けて母屋に入ったさとり。相手に戦意が無いとなると、ぬえも手を出し辛いらしく、憎いような、悔しいような、しかし地底への帰還を命ずる用ではないと知り安心したような、複雑な心境で二人を見送った。
 外の喧騒を聞いて、一輪が玄関で待ちかまえていた。
「姐さんに用事なのね?」
「ええ」
「こちらへどうぞ」
 一輪は冷静に、さとりを白蓮の私室へと案内し出した。
「理解ある者は接していて気分がいいし、物事がスムーズに進んでいいわね」と、玄関先のぬえに聞こえるように言い放った後、一輪を追った。


 一輪は二人を白蓮の私室へ案内し、中にいる白蓮に客人のことを説明して、さっさと引っ込んだ。なるべく、さとりらと接したくないと言う意識の表れである。
さとりもその方が都合がよかったので、それについて言及することはなく、
「案内ありがとう」
 と、去って行く一輪に告げた。燐も黙って頭を下げた。一輪はそっと会釈だけし、さっさと姿を消した。
 さて、という一言と共に、さとりが白蓮の私室の扉を見やる。
扉をノックすると、すぐに扉の向こうから「はい。どうぞ」と聞こえた。
一輪が説明をしていたから、あまり快くない来客であると言うことも承知しているであろう――さとりはそう決めてかかり、名乗ることもせずに扉を開いた。
「失礼します」
 扉を開けると、白蓮は座布団の上に鎮座し、客人を出迎えていた。既に二つの座布団が置かれている。
さとりを見据えるその表情は凛然としていて、少し威圧的な印象を覚えた。とてつもない嫌われようだと、さとりは内心苦笑しつつ、自分と燐の簡単な自己紹介をし、薦められた座布団へ座した。
 しばらく、さとりと白蓮はじっと見合うばかりであった。お互いに何も喋り出そうとしない。燐はと言うと、ほとんど我儘でさとりに付いて来たようなものであったので、僭越な真似はできない。きゅっと口を噤んでいる。
 ピリピリとした空気を孕んだ静寂を破ったのは白蓮であった。
「今日は、どう言ったご用件で?」
 但し破れたのは静寂だけであり、白蓮とさとりの間でばちばちと火花が生ずるような、この上ない程の険悪な雰囲気は少しも崩れていない。
 さとりは横目で燐を見た。燐もその視線に気付き、黙ったままこくりと頷いた。
それに対してさとりは何のアクションも見せず、視線を白蓮へ戻した。そして一度息を吐くと、真っ直ぐに白蓮を見やり、言い放った。
「単刀直入に申し上げます」
「はい」
「今日は、寅丸星を地底へ招きたいと言う旨を伝えに、ここへ参りました」



*



 布団の中で、星は眠っていた。温かい布団であった。私室のものとは比べ物にならないくらい、高価な布団だ。
最近は冷え込みが厳しくなってきたから、これ程温かい布団は至宝のように思えた。
鳥の囀りが聞こえたが、視界は暗いままであった。きっと起きる時間なのだろうと思ったが、あまりにも布団が温かいので、自然と起きるのを拒んだ。
もう少し寝かせてください――誰に言うでもなく、彼女は呟いた。
 呟くや否や、ばんと大きな音を立てて、私室の扉が開く音がした。ノックをしないと言うことは、ぬえか水蜜か、どちらかだろうと、やはり視界は暗いまま、星は思った。
もう少し開け方ってものがあるでしょう――星は言ったが、どうやら入って来た者には聞こえなかったようだ。
おまけに、意外や意外、聞こえて来たのはその二人のどちらの声でもなかった。
「朝ですよ。もう起きなさい」
 聞き覚えのあるような、無いような声であった。毎日聞いている気もするし、ずっと昔に聞いてそれっきりなような気もした。
もう少し寝ていたいです――星はありのままを口にした。
すると、その聞き覚えのあるような無いような声が、再び聞こえて来た。
「起きなさいったら。起きない悪い子には、こうですよ」
 困ったような、怒ったような声がして、次の瞬間、星の頭に、燃えるような痛みが奔った。脳天から人差し指、中指、薬指の三本の指の分だけ、右へずれた辺りの位置である。
内部ではない。外部だ。頭を沿うようにして、激しい痛みが生じている。
 冷たい空気から暖かい布団で身を守っていると言う、この上なく幸せである筈の状況は一変し、地獄へと変貌した。
分かりました、起きますから――そう言ったのだが、何故か視界は暗いまま。動くこともできない。目を開けようとしても開いてくれないし、動こうとしても体が動いてくれないのである。
 頭の痛みは続いている。逃げ出したいのに、起きられない、動けないせいで逃げられない。
痛い痛い、どうして目覚められない――こんな風に嘆いていると、同じく三本の指の分、左にずれた辺りにまで痛みが生じた。
 いよいよ気が気でなくなってきた星は、あらん限りの力を込めて叫んだ。
痛い、痛い、お願い、止めて――と。こうすれば誰かに聞こえるかもしれないと思ったのだ。一度も現在地の様子を見ていないのに、ここは寺であると勝手に思い込んでいた。
そう思える由縁でもあるのか……今の彼女に、そんなことを考える余裕はない。
 いくら叫んでも助けは来ないし、痛みも引かない。
「まだ起きないんですね」
 困った風が消え、怒りだけが残ったような声がそう言った。
何故であろう、その怒りに浸透した声色は、前の声より幾らか聞き覚えがあった。
「これならどうでしょう」
 言うや否や、今度は腰と尻と中間に位置する部分に猛烈な痛みが生じた。これまた内部でなく、表面だ。
 三つの激痛に攻め立てられ、星の口はもう絶叫と泣き声以外のものは吐き出せなくなっていた。
気が狂いそうな苦しみの中、星は考えた。
――どうして、なんで、おかしい、おかしいだろうこんな痛みは、絶対におかしい。ありえない。だって、だって、だって――


 そこには今、何も無い筈なのに。




『寅の妖怪です』

『妖怪らしさの欠片も無いね』

『星だって昔は虎だったんだろう?』

『あまり寅っぽくないのねえ』

『あなたは寅の妖怪なのよね?』



『おはよう、寅丸星』


『ねえ、神様になりたくありませんか?』



*



 弾かれたように目を見開いた星の目に飛び込んできたのは、全く見知らぬ天井。
額から足の裏まで、じっとりと汗で湿っている。季節は冬になろうとしていて、寒さが厳しくなってきた頃なのに、この異様な温さは何なのだと、星は疑問を抱いた。
すぐにそれは解決できた。地霊殿を訪れていたことを思い出したのだ。火焔地獄跡に建てられたこの建物は、寒さとはおよそ無縁なのである。それに加えて、彼女を包み込んでいる柔らかい寝具――これも影響したことであろう。
こう言った過剰な耐寒だけが汗の原因であれば、それは幸せなことであったのだが、そうではないことは、何やら恐ろしく嫌な夢を見ていた星自身が一番よく分かっている。
すぐに起き上がることも、額の汗を拭うこともできず、天井を見上げて呆然としていた。
夢の続きのように、頭の二か所と、腰と尻の中間が痛むような錯覚を覚えた。
こんなところ、痛む筈が無いのだ。何故なら、痛む箇所には、何も無い――彼女は寅の耳も、尻尾も無いのだから。

「大丈夫?」
 不意に声を掛けられ、星がゆっくりと横を見やる。古明地こいしが椅子に座り、これと言った表情も無く、星を見やっていた。
この微動を切っ掛けにして、星は首だけを動かして、できる限り部屋を見回してみた。すると、こいしが口を挟んだ。
「お姉ちゃんとお燐はお出掛けしてる。お空はお仕事中」
 まるで心でも読んだかのような、的確な一言であった。星は燐を探して、部屋を見回したのだ。
地霊殿に自分がいるとあらば、きっと傍にお燐がいてくれる――そう信じて疑っていなかった。しかし残念ながら燐はここにはいなかった。
 夢の内容を鮮明に覚えている所為であろう、酷い恐怖感があった。暴れ回っている心臓の音がうるさく耳の奥で響いている。
 上体を起こし、恐る恐る、その昔、寅の耳のあった場所へ手をやる。やはり、そこには何も無い。
その様子を、こいしは黙って見つめている。どう見ても、星のこの動作は奇行の類だ。それにも関わらず、こいしはそれを笑うことも訝しむこともしなかった。ただただ、見つめていた。
 頭に乗せられていた手から力が抜け、どさりと掛け布団の上に落ちる。ふんわりと柔らかく盛り上がっている布団に手が沈んでいく。
「夢を見ていたのね?」
 またも心を見透かしたかのようなこいしの声が突然投げ掛けられた。星はゆっくりとそちらを向く。こいしの表情が変わっていた。哀れむような顔をしている。
――どうして私が夢を見ていたと分かるのですか?
 意味深なこいしの表情のお陰で、この問いかけは寸での所で胸中へ引っ込んでいった。
静寂を保たれた部屋にこいしの声が響く。
「好奇心充足の為、そして、愛猫の我儘の為……姉妹揃って無礼を働いたことを、姉妹を代表して謝ります。本当にごめんなさい」
 慇懃たる謝辞を述べると、こいしは帽子を取り、深々と頭を下げた。姉であるさとりと異なり、妹の方はあまり落ち着きの無い人物だと思っていただけに、この謝罪に星は聊か面食らった。
何も言わないでじっとこいしを見つめていると、こいしは頭を上げ、帽子を傍にあるテーブルに置き、またも黙りこくってしまった。
表情は相変わらず憐憫たる意を表しているが、その中に先ほどの謝辞の通りの、自責の念が垣間見える。意識的にきゅっと噤まれた口が、泣くのを堪える子どもの様な、幼稚な愛嬌を漂わせている。
 向こうからは何も語ることは無いのならばと、星が質疑の為、すぅ、と小さく息を吸った。
 夢を見ていることがどうして分かったのか――など、どうでもよくなっていた。こいしの口ぶりから、何となく察することができた。
『好奇心充足と、愛猫の我儘の為、姉妹揃って働いた無礼』の影響なのであろうと。
あんな奇怪で恐ろしい夢を見せてくれた張本人が目の前にいるのならば――あの夢は何なのか問うてみる方がよっぽど建設的だと、星は考えた。
「あの夢は、何なのです?」
 微かに声が震えてしまったのは、それほど恐ろしい夢であったと言う証明に他ならない。少し思い出してみるだけで、またありもしない寅の耳や尻尾が痛みそうであった。
 こいしはこくりと頷いて見せ、口を開く。
「あの夢は、あなたの記憶」
「私の記憶」
 星が反芻し、こいしが頷いて見せる。
「無意識に押し込められ、その上眠らされて、長い間封印され続けて来た記憶。今は眠りから覚めた……と言うか、私が覚ましたんだけど、そのお陰で、記憶が夢と言う形で表れたのね」
 いまいち分からない、と言う意思を表情のみで伝えてみると、こいしは少し宙を見やって言葉を選び出した。
しかし、適した言葉が見つからなかったか、伝達が難しいかのどちらかと見え、困ったように唸った後、
「難しいことはナシで言ってしまうとね」
 説明を一切省いて、いきなり核心を鷲掴みにしてきた。一応、星の心の準備の時間として、数秒の間を開けると言う気遣いを見せてはいた。
「あなたが耳と尻尾を失くした時の記憶なのよ」
「え……?」
「記憶喪失だと言われてたらしいけど、それは間違い……嘘、かな? どっちか分からないけどとにかくそのどっちかで」
「嘘って、ちょ、ちょっと」
 星が口を挟んだが、こいしは強引に話を続けた。
「あなたの耳と尻尾を失った瞬間の記憶は、ずーっと無意識の中であなたに眠らされていたのよ。それは、寅丸星にとってすごく都合の悪い記憶だから」
 理路整然か否かの判別すらできない不可解な話を続けてきたこいしにたじたじの星であったが、ここでようやく、彼女の会話に際立ったおかしさを見出した。
――それは、寅丸星にとってすごく都合の悪い記憶だから。
 どうして彼女はいちいち、自分の名前を付けたのだろう? あなたとか、そう言う代名詞を使わないのか?
論理で勝てぬから文法について揚げ足を取っているような感じが否めなかったがとにかくそこが星には気になって仕方が無かった。
――それとも、そこでわざわざ名前を用いたことは、大きな意味を持っているのか?
 星は意識していなかったが、彼女はこのおかしな文章を受けて、怪訝な目つきでこいしを見ていた。
その表情から、こいしは何となく、星の言わんとしていることを察したらしい。
どうして『あなた』と言わなかったのか――彼女は第三の眼を閉じたから、心は読めない。しかし、曲がりなりにも覚妖怪。人の心を見透かすのはお手の物であった。
「寅丸星。あなたはね」
 こいしが、やけに真剣な声でこう言い放った。その言葉の凄みに、星は思わず口を噤む。
今まで見せたことがないような凛然とした態度で佇むこいし。僅かに開かれた桃色の唇が、動くのを躊躇うように、細かに震えている。
しかし、決心したかのように、その唇を湿らせて、大きく息を吸い、しかし物々しい吸気の動作にしては厳かな声で――こいしは言った。
「本当は、寅丸星なんて名前じゃないの。名前なんて持たない、幼い寅の妖怪だったのよ」




*



「負の遺産、とでも呼ぶのが正しいのでしょうかね?」
 さとりが冷たい口調で言うが、白蓮は毅然とした態度を崩さない。閉口しているのは、さとりに言葉の続きを促しているからである。
心を読まずとも、さとりはそれを察することができた。仮にそうでなかったとしても、黙るつもりなど毛頭なかったが。
「寅丸星の記憶、思い出――そんな感じのものを見せてもらいました」
「見た、とは?」
 白蓮が問うと、さとりは胸の前にぶら下がっている『第三の眼』を、鈴を鳴らすような手つきで揺らして見せながら説明を加える。
「心を読むことができる眼です。心地悪さを感じると思いますが、どうか辛抱願いします」
 言葉の上では丁寧に警告をしているが、その実彼女に気遣いの念など無かった。
第三の眼があってもなくても、自分が望まれた客人ではないことなど明白であるし、そもそもそんな気遣いをする道理は無いのである。
「さて、話を戻します。先ほども言いました通り、寅丸星の中で眠っていた記憶を拝見しました」
「どのような記憶でしょう?」
「あなたが彼女に『事故で記憶を喪失した』と嘘を付いた、少し前の記憶です」
 言下に言い放たれたこの言葉を受け、白蓮が僅かに動揺の色を見せた。するとさとりは畳み掛けるようにして、
「トラウマ、と言う方が適切なのでしょうね」
 こう付け加えた。
 白蓮は平然たる態度を保とうと努めていたが、心が読めるさとりを前にしては徒労にしかならない。
燐ならば欺けるであろうが、そもそも燐は白蓮を『悪』と信じて疑っていない。白蓮はさとりの言うこと全てに後ろ暗さを感じているであろうと言う心情でここに居座っている。
そんな燐に、動揺を見せようが見せまいが、どうだっていいことなのである。結局、燐の瞳に白蓮は悪者にしか映らない。
「彼女の記憶を探ろうと思ったのは、彼女に昔のことを聞こうとした時でした。幼少期の思い出は無いかと問うと、彼女は何も答えなかった。答えないどころか、思い出すことを止めていた。何も考えていなかった。どうしてか? 思い出したくないからです。折角意識できない場所へ追いやり、眠らせた記憶です。そっとしておきたかったのでしょう。体が勝手に、反射的に思考を止めていたのです。それほど恐ろしい記憶なのです。まあ、あなたはお分かりでしょうけど」
 ここでさとりは一度言葉を区切った。反応を見てみたのである。しかしその間、白蓮は何も言わず、言葉を待っていた。
 しばらくそうしていたが、埒が明かないので、さとりは再び口を開いた。
「彼女の寅の耳と、尻尾を奪ったのは――聖白蓮、あなたですね?」
 真っ直ぐ白蓮を見据え、さとりが問う。どんな言い訳も、通用する筈がない。これが、彼女の“見た”、星の中にあった記憶なのだから。
それが分かっているのか、白蓮は何のいい訳もせず、視線を自身とさとりの間くらいの床に落としている。ただ、肯定も否定もしていない。完全に認めたとは言えないであろう。
「一つ、よろしいですか?」
 不意に白蓮が口を開いた。
「どうぞ」
 さとりが質疑を許可する。
「本人が見れない、意識できない、ええと、眠らされた記憶ですっけ……それをどうやってあなたが、その第三の眼で読んだのです」
「妹の協力を得ました」
 大層つまらない質問をするんだな――あまりにも素早い質疑への応答と、冷淡な口調には、そんな意が込められている印象を受ける。
「私の妹は無意識を操れます。意識できない場所――無意識の中にあった記憶を意識の内へと引っ張り出し、目を覚まし、それを私が読んだのです。紅茶に薬を混ぜて眠らせ、その睡眠中に」
「そうですか。ありがとうございます」
 白蓮は律義に礼を言ったが、さとりはそれに対しては何も言わないで、話を元に戻した。
「あなたが彼女の寅の耳と尻尾を奪ったことは、もう明白です。私はしっかりとこの眼で見たのですから」
 この眼――と言った所で、またも第三の眼を揺らして見せた。
「切り取った理由は言うまでもなく、毘沙門天の代理を務めてくれる妖怪を欲したこと。人間の信仰を得る為のものだと察しました。本物の神様を呼ぶと妖怪が怖がりますから、妖怪で代理を立てた。さて、人間に信仰されるには、妖怪らしさを消す必要がある。しかしそんな苦行や、神様の代理になる為の修行に耐えてくれる妖怪など稀。おまけに神様全盛期の当時は、そんじょそこらの人間や妖怪が気軽に神様になどなれやしない。どうしても、『まともな妖怪』が必要だった」
 今はうちの地獄鴉でさえ神様の力を得られますけどね、とさとりは付け加えた後、はぁ、と息を吐いた。喋り疲れたのであろう。
 息抜きの意を込めて「質問はありますか」と問うたが、白蓮は黙って首を横に振って見せたので、渋面を作ってさとりは話を始めた。
「星は、あなたのいた寺のある山に住んでいた、かなりまともな妖怪だったのですね。きっとまだ年端もいかぬ妖怪の少女だったのでしょう。彼女の視界にあなたの姿は、それはそれは大きく映っていましたから。そんな彼女を呼び出すか何かして、とにかくあなたと彼女は二人きりになった。精力的に妖怪を助けていたらしいあなたです。誘うのは容易であったでしょうね」
 誤りはあるか――挑むような目つきを見せてみたが、何の反応もなかった。さとりは一度下で唇を湿らせ、先を続ける。
「そこであなたは、頭部への殴打で彼女を昏倒させた。それだけで足りなかったので薬まで飲ませて意識を奪おうとしていましたね? そして、彼女の意識が朦朧としている間に耳と尻尾を切り取った」
 こう言われた時、同じように獣の耳と尻尾を持つ燐は、思わずぶるりと身を震わせた。自分がもし同じことをされたらと思うと、背筋が凍るような思いであった。
「痛かったことでしょう。恐ろしかったことでしょう。優しい聖白蓮がどうしてこんなことをするのだと、ひたすら疑問であったことでしょう――並々ならぬ絶望と恐怖に打ちひしがれた彼女は、ここでこの記憶を封じ込めてしまった。決して思い出さないようにした。ここだけ綺麗に切り取って、無意識に追いやってしまったのです。現実逃避みたいなものです」
「……それから?」
 白蓮が先を促したことで、さとりは少々面食らった。これらは全てさとりの推理であり、事実ではないかもしれないのだ。――さとりは絶対的な自信を抱いているが。
しかし白蓮は追い詰められた様子さえ見せず、絵本を読み聞かせて貰っている子どものように、話の続きを催促してくる有様だ。
後に怒涛の反論が待っているのか――さとりは少しだけうんざりとし、意気消沈した。だが、「友人を救いたい」と言う愛しい飼い猫の願いを叶えてやらねばと、すぐに消沈した気を取り戻した。
「これだけ無くなるのなら、まだよかったかもしれない。まだ、ね。しかし、彼女の記憶はごっそりと抜け落ちていて、何一つ思い出すことができない。恐れるべき記憶は耳と尻尾を切られた瞬間だけの筈。なのに、あの子には幼少の記憶が一つも無い。どうしてか――分かりますね?」
 少し勿体ぶって白蓮に質問を投げかけると、白蓮は僅かに――本当にほんのりと口元を吊り上げて、頷いて見せたのだ。
燐は元々喋っていないので当然だが、さとりまで言葉を失った。その魔性の笑みを見た瞬間、脊柱を冷水が流れ抜けたような悪寒を覚え、思わず肌を粟立たせた。
ほんの一瞬、さとりが黙った、その瞬間生じた隙を突くかのように、白蓮が口を開いた。
「分かりますよ。“寅丸星”には、幼少期が存在しないのです」


 次の瞬間、白蓮がさとりの首を引っ掴んだ。その腕はとても女性のものとは思えぬほど太く、所々で図太い神経や血管が体の表面を奔っている。
見るからに強靭なその腕は、当然見せかけだけのものではない。さとりのか細い首の骨を圧し折ってくれようと言わんばかりに、ぎりぎりと首を絞める。
呼吸ができず、さとりは助けを求めることさえできず、必死に空気を求めて口をぱくぱくと動かすばかり。
驚いて立ち上がった燐に、さとりを投げつける。二人とも畳の上に倒れ込んだ。さとりはごほごほと咳き込み、燐はさとりへ対処するべきか、白蓮へ対処するべきか迷い、双方を交互に見比べた。
ほんの一瞬の間に、白蓮は鬼とも渡り合えそうな体を有する巨人のような人間と化していた。身長は二割程も伸び、服は盛り上がる筋肉の影響ではち切れんばかりに張っている。
立ちはだかる彼女を見、燐はひたすらに絶望した。
 そんな鬼のような様相を呈しつつも、白蓮はにっこりと微笑んで見せた。聖人君子のありがたい微笑みも、今や残虐非道な鬼の下衆な笑いにしか見えない。
「この魔法――身体能力を向上させる魔法。これが、彼女に幼少期が存在しない原因です」
 声まで低くなっている。もはや二人には、この聖人が女であることが疑わしく感じられた。
「耳を切り、尻尾を断ち、それらがもう一度生えてこないよう、成長を止める魔法を個別に掛けました。細々していて、すごく大変だったんですよ?」
「……そして、傷ついた幼い寅の妖怪を、その魔法で今の姿まで成長させた……!」
「ご名答」
 掠れるさとりの声と、野太い白蓮の応酬が続く。
「大仕事でした。さすがの私も疲れました。でもがんばりました。私の為に信仰を集めてくれる妖怪誕生には仕方の無いことだと」
「……ああ、そうか、そういうことか! 聖人君子のあんたにも私利、私欲の為に妖怪を助けていた時期があった、そういうことだったのね!」
 心を読んだらしいさとりが怒声を上げる。しかし、白蓮に悪びれた様子は無い。
「幾千の信仰を得る為に一人の妖怪を犠牲にしただけのことです」
「聖人が聞いて呆れるわ」
「何とでも言いなさい」
 さとりの面罵を鼻で笑い飛ばし、白蓮が更に言葉を紡ぐ。だが、交互に放たれる言葉は、しっかりとした会話になっていない。
白蓮の思い出話と、さとりの推理が飛び交う。それらは交わりそうで、しかし各々が好き勝手に発言しているだけのようでもどかしい――まるでDNAの二重螺旋のように伸び続ける。
「成長させ終えても、あの子はまだ眠っていたわ」
「眠っている間にあなたはあの子の髪を切った。長く美しい金色の髪を」
「部屋には大きな鏡があってね。……水蜜らがどうしてもって言うから、最近仕方なく大きな鏡を買ったのだけど、本当はあんなもの置きたくなかったのよ。何かの拍子に、星が本当のことを思い出しちゃいそうで」
「目覚めたあの子の視界に映ったのは、耳も尻尾も、長い髪も無い、成長した自分の姿を写し出している鏡」
「鏡を見て、あの子は目を林檎飴みたいに丸くしていたわ。驚いていたのね。鏡は自分を写す物。なのに、鏡の中の自分は、記憶と全くかけ離れた姿だったんだもの」
「薬が尾を引いて意識がぼんやりとしたまま、鏡の中のおかしな自分を見ているあの子に、あなたは声を掛けた」
「たしかあれは夜の出来事だったわ。だけど、『始まり』の挨拶には一番しっくりくるなと思って……夜なのに、こう言ってあげたのよねぇ」
 ここまで擦れ違い続けて来た二人の会話が――まるで仕組まれていたかのように、重なった。





「おはよう、寅丸星」




*





「……ここであなたは、鏡の中の自分を“寅丸星”であると認識した。この瞬間、“寅丸星”が生まれた。それまでの幼い頃の記憶は、今と辻褄が合わないから自然と捨ててしまったみたい。幼少期の記憶はいくら探してもあなたの中には見つからなかったから。それから白蓮と言う人は、寅丸星になったあなたに、使命を与えたの」
「――ねえ、神様になりたくありませんか?」
 古明地姉妹によって暴かれたらしい真相をこいしの口から知らされた星は、呆然としたまま、ぽつんと呟いた。
こいしは驚いた様子を見せ、すぐに悲しげな顔をし、無言で頷いて見せた。
これより先は、星が一番よく知っている記憶の範囲であった。この時が『寅丸星』誕生の瞬間であり、星の歴史は、ここから始まっているのだから。
 さとりが見て聞かせた、星の記憶に纏わる障害の真相を、語れるだけ語って聞かせたこいしは、それ以上喋ることはしなかった。掛けてやれる言葉など、何もなかった。
 上半身だけを起こしてこいしの話を聞いていた星は、話が終わり、静寂が降りて来た最中で、両手で自身の顔を覆い、深いため息をついた。不思議と涙は出なかった。話の規模が大きすぎて、まるで現実味が無かったのである。
古明地姉妹を疑うと言う道もあった。大好きな白蓮を信じ続けることだって、可能ではあった。だが、彼女はその道を避けた。おぼろげながら胸中に座する忌々しい記憶。無意識の中で眠り続けていて、急にこいしに起こされ、まだ寝惚けている記憶――それが、真実を語っているではないか。
薄っすらと輪郭を見せ始めた記憶と、こいしが語る、さとりが見た過去の話が合致し、段々と星は、過去の一片を取り戻しつつあった。
 顔を覆っていた手をそっと置くと、目を伏せたまま、こいしの方を見ることもせず、独り言のように問うた。
「どうして、私のことを調べようと?」
 初めこいしは、話しかけられていると気付いていなかったようで、物憂げな視線で自身の足元を見つめていた。
声を聞いて数秒後、ようやくそれが自らに投げ掛けられた質疑だと気付き、慌てた様子で顔を上げ、早口に説明をした。
「あなたの様子がおかしいことに気付いたのはお姉ちゃん。それを聞いて、どうしてもあなたを助けたいと聞かなかったのがお燐」
「お燐が……」
「あなた、お燐を尋ねて急にここを訪れたでしょう? あの時、お燐は地霊殿にいたの。でも、お姉ちゃんは嘘をついて、あなたを眠らせて、さっき説明した通りのことをしたの。近い内に調べるつもりでいたのよ」
「私の過去を調べることで、何か得られるものでもあったのですか?」
 星の口ぶりに僅かな刺々しさを感じ、聊かこいしは動揺したが、平静を装って語りかけた。
「もしかしたら私の思い違いかもしれない――ってお姉ちゃんは言ってた。真偽を確かめたいと言う気持ちとか、お燐の願いを聞き入れたい気持ち。それから好奇心の充足。もしかしたら、命蓮寺への外交手段の一つに利用する気持ちも、少しはあったかもしれない」
 これを聞いた星は、くつくつと自虐的な笑みを浮かべた。――どこまでも私は利用される身なのだな、と。
「だけどね」
 こいしが遅れて言葉を付け加える。星は、笑い声さえ止めたものの、泣きそうに笑った顔はそのままで、こいしの方を向いた。
「あなたの過去を知った後で、お姉ちゃんは、あなたを地霊殿へ迎えようって提案したのよ」
「私を……ここへ?」
 面食らっている星。今度はこいしが笑顔を見せた。先ほどの星の笑顔とはまるで違う、幸福に満ちた笑顔を。
「本当の過去を見つめたら、きっとあなたは命蓮寺にはいられなくなってしまう。だからここで住んで貰おうって。地底は訳ありの妖怪が集う地。あなたも訳ありの仲間入りになってしまうけれど……あ、勿論、あなたがそうしたいのならば、ね」
 慌てて修正を加えたこいしの顔はまた少し慌てたものになっていた。
 沸々と湧き出ていた、怒りや悲しみが、一気に減衰した。減衰して、減衰して、減衰して――そのまま生きる気力まで失せてしまいそうであった。
地底へ迎えられたことは嬉しかったが、複雑な気分でもあった。長い時を共に過ごし、そしてこれからも過ごし続けるのだと信じて疑っていなかった仲間達との別れが、目と鼻の先にあるような気がして。
 地上へ残るのか、こちらへ来るのか、それはまだはっきりと決めた訳ではないが――先ずは、真実に辿り着かなくてはいけない。
そう思い星は、ベッドから降りた。こいしが心配そうに支えに入るが、星は礼を言い、その手を振り払った。
「どこへ?」
 こいしが問う。星は手で髪を梳かしながら、
「命蓮寺に帰らなくては」
 素っ気無く答えた。こいしがごくりと生唾を飲み込んだ音が、静かな部屋に響く。
「お姉ちゃんとお燐も命蓮寺に行ったの。あなたの中にあった記憶が本当のものかどうか、確かめる為に」
「そうですか」
 あの悪夢の余韻を、今度は頭の中で感じた。頭の中心で風船が膨らんで頭部を圧迫しているようないやらしい痛みを感じ、思わず足をふらつかせた。
またもこいしが支えに入ろうとしたが、今度は星は事前に手で制した。
「本当に平気なの?」
「大丈夫です」
 星はそう言い、ゆっくりとした歩調で部屋を出た。
 長い廊下を歩み、エントランスホールに出て、玄関扉を開け、外へ出る。
喧騒渦巻く旧都を抜け、居心地の悪い橋を渡り、長い長い縦穴を抜け――外界へ戻った。
太陽は頭のてっぺんまで昇り切っており、燦々と陽光を降り注がせている。快晴であった。星の心模様とは真反対の快晴。
 近づきつつある平穏の終焉をその身に感じながら、星は命蓮寺へ向かって歩み出した。



*


 寺へ帰ると、偶然、買い出しから帰った響子と出くわした。
 星を見つけた響子は目をまん丸くして大きな声で星の名を一度呼んだ後、買ったものの中に鶏卵があることも忘れて、買い物袋をがしゃがしゃ言わせながら星に駆け寄った。
星はと言うと、相変わらず頭痛に苛まれていた上に、遂に諸悪の根源であるかもしれない聖人君子のいる寺へ帰って来てしまったことへの憂鬱から、下手糞な作り笑いを浮かべて見せるのが精一杯であった。
響子は一目で星の異変に気付き、「どこへ行っていたんですか」とか「何してたんですか」とか「風邪でも引いたんですか」とか、返答の隙すら与えない勢いで質問を連発していた。
猪のようなその勢いに、今の星が付いていける筈もなく、質問に一つも答えられないまま、「落ち着いて」と響子を制した。
「聖はどこに?」
 響子の質問には一切答えず、星が質問をした。
「白蓮さんなら、今日はずーっと母屋の私室だと思います。何か妙な客人が来てましてねえ」
「妙な客人?」
「ええ。桃色の髪の目つきの悪い妖怪と、髪の長い化け猫です。そいつら見た途端ぬえは憤慨するし、一輪さんもナズーリンもムラサもだんまり決め込むし。詳細聞いても誰も答えてくれないし、みんな母屋に近づこうとしなくなっちゃうし……。もう、居た堪れないのなんのって。それで私、買い出しに出掛けてたんですよ。一体何なんですか? あいつら。星さん分かります?」
 よほど蚊帳の外に置かれたのがつらかったのであろう。響子はどこか演技がかった口調で、矢継ぎ早に昼間の悲しみを星に訴え切った。
星は「ええ」と短く答え、母屋を睨みつけるように見やった後、
「私は聖に昨日帰れなかったことをお詫びしてきます」
「はあ。でも、まだお客さんいるんじゃないですかね」
「どうでしょう。まあ、どちらにせよ言わなければならないことですし」
 響子は「いいのかなあ」とかなんとかぶつくさと呟きながらも、特に星の行動に干渉することはせずに、皆が引き籠っているお堂の方へ歩いて行った。
その途中、鶏卵を買ったことと、遮二無二星に駆け寄ったことを同時に思い出し、慌てて買い物袋の中身を確認した。
 卵の無事を確認し、安堵している響子の後ろで、星は、自身の長い生の中で最大とも言える緊張と不安を胸に抱き、母屋へ向かって歩を進めた。

 母屋は二階建てで、白蓮の部屋は二回の最も奥にある。寺にいる人員の割に部屋の総数が多いのは、将来を見据えての処置である。
普段から特に騒ぎ立てる者がおらず、母屋は基本的に静かな場所であるが、今は白蓮と星以外、全員がこの建物の中にいないとあり、その静寂に拍車が掛かっているような印象を受けた。
 靴を脱ぎ、玄関を上がる。やましいことなど何も無いのに、まるで自身の存在を他人に知らしめたくないかのように、星はそろそろと廊下を歩む。
階段に差しかかると、窺うように階上を見上げた。何の音もしない。さとりらがまだこの母屋にいるのかどうかは定かでないが、誰かの話し声すら聞こえない。
一段一段、慎重に階段を上って行く。みしみしと軋む音が妙に大きく聞こえた。こんな些細な音さえ、今の星は立てたくないような心情であった。
 階段を上り切った所から前へ伸びている廊下の一番奥の部屋が白蓮の部屋に指定されている。
 涙ながらに、過去を見ることができない自身の異変を訴えたのは、一昨日の夜であることが信じられなかった。
あの不快な記憶を最後に、白蓮とはろくすっぽ話をしていない。そんな状態で、遂に見つけて貰えた忌々しい自分の記憶について話をしなくてはいけないのかと思うと、星は腹の中の臓物をぎゅっと鷲掴みにされるような感覚を覚えてしまった。
 まだ、白蓮が悪と決まった訳ではない。古明地姉妹が間違っている、或いは、何かの陰謀である可能性だって、無くはない――星は自分に言い聞かせる。こんなもの願望でしかなかったが。
藁にも縋る思いの星を、眠りから覚めた記憶が嗤っているような気さえした。『私が見えないのか?』と。
記憶に嗤われるなど、まるで生みの親が子に嗤われるような滑稽さが感じられる。しかし、あの記憶は、ある意味別人のものだ。“寅丸星”の記憶ではない。
 嗤われるのも仕方が無いかもしれないな、と星は自嘲した。とても長い間、本物の記憶を放って、他者の記憶を蓄積してきていたのだから。

 重たい足取りで静かに廊下を歩き、わざと時間を稼いでいたのだが、遂にその悪あがきも終焉を迎えることとなった。
自然と歩みが止まった。体が覚えているのだ。階段を上り切ってからの、白蓮の部屋までの距離を。
 まさか、自分が地底で眠らされている間に母屋の改築が行われた、なんてことはあるまい――そんなことを考えたのは、見慣れた筈の白蓮の私室の扉が、妙に大きく見えたからだ。
何の変哲もない、木製の扉だ。ぬえの私室の扉のような派手な飾りもなければ、響子のように『御用の方はノックをお願いします』と書かれた手製の掛札を掛けている訳でもない。
飾り気も工夫もない、無骨で、寒々しい扉。しかし、その真っ新さが、今は言い知れぬ威圧感となって、星の体を押し戻す。
 だが、退いてはいけない。退いても何も解決しない。
星はありったけの勇気を振り絞り、右手をぐっと握り閉めた。胸元にその手を持って行く。心中で眠り続けていた心中の、まるで手の内へ込めるかのように。
――こん、こん。
 陰惨たる空気を孕んだ母屋の廊下に、どこか調子外れな打音が響く。
 星の心臓は一層激しく脈動する。意図せずして、細かく脚が震えた。
「はい? どなた?」
 白蓮の声が返って来て、星はドキリとした。
落ち着け、落ち着け、落ち着け――心中で自身を鼓舞しつつ、口を開く。
「聖。私です。星です」
 ここで言葉を区切ったが、返事がなかった。星が言葉を紡ぐ。
「昨晩は無断で外泊してしまい、御心配をお掛けしました。……あの、お部屋へ入っても、いいですか? 話があるのです」
 前半と後半で全く繋がりの無い、至極支離滅裂な文章になってしまったが、今の星にそんなことを気にする心の余裕などない。
 返事はすぐには来なかった。星は、陰鬱な静寂の中に身を置かれ、どう言った訳か涙が零れそうな気分に陥っていた。
恐らく覆せないであろう、悍ましい過去。恐らく回避できないであろう、不幸な未来。――それらが織り成し、形成される今。そんなものが、明るく楽しいものである筈がない。
その陰惨たる今へ、星は自ら足を踏み入れようとしているのだ。涙が出ても別におかしなことはない。
 一滴目の涙が零れるか、否かと言うところで。
「どうぞ」
 白蓮の返事が聞こえ、俯いていた星はぱっと顔を上げた。
目尻に溜まった涙を服の裾で拭き取り、一度深呼吸した後、
「失礼します」
 そう言い、扉を開け放った。

 白蓮の部屋は、相変わらず、白蓮の部屋であった。
ほのかに香る線香の匂い。きっちりと並べられた書籍。綺麗に畳まれた布団。積み上げられた座布団。部屋の雰囲気にそぐわないクロゼット。
そして前と同じように、白蓮は既に座布団の上に座して来客を出迎えていた。座布団一枚分の距離を開けて、もう一つ、座布団が置かれている。客人用のものだ。
 事の次第は、白蓮も何となく分かっているだろうと星は察した。こいしの話しによると、さとりと燐は自分を地底へ迎える交渉をしに命蓮寺へ行った、と言うことであったからだ。
しかし、地底からここまでの帰路の間、星がさとりらとばったり鉢合わせることはなかった。
とは言っても、地底へ行く経路などいくらでもあるから、それが違えて出会わなかっただけと言う可能性は十分あるだろうと、大して気にもしなかった。
 一昨日の夜と何も変わり映えのしない部屋に、心持が見る影も無い程変化してしまった二者がいる――不思議な感じがした。
「おかえりなさい」
 まず、白蓮は微笑んで、星の帰宅を労った。
あの記憶の中の白蓮と、目の前にいる白蓮が重なる。とても同じ者とは思えなかった。
「ただいま……です」
 少しおかしな返事をした後、勧められてもいないのに、星は自然と座布団に正座した。礼節がどうとか、そういうことを意識している場合ではないのである。
 座った所で、早速言葉が出てこなくなった。言うことは頭の中で整理してここへ赴いたのに、だ。
「おかえり」「ただいま」 この二言以外、誰も、何も言っていないのに、もう星は胸が一杯になってしまったのである。
事情を知っているであろうに、どうしてそんな普段通りの笑顔を見せられるのか――星にはよく分からなかった。
――この白蓮の余裕は、私があの悍ましい記憶と向き合ったことなど、白蓮にとって取るに足らないことであると言うことを意味しているのか。ならば、私とは彼女にとって、一体何であるのか。信仰収集の為の道具でしかなかった、とでも言うのであろうか。
――それとも、この眠れる記憶などと言うものは正真正銘の紛い物で、そんなものに惑い、狼狽える必要など無いと言う意識の表れであろうか。記憶は偽物。今までと変わる必要など何も無い。平穏無事な生活はこれからも滞りなく進んでいくのだ、と言うものであろうか。

 こんなことをいくら考えても埒が明かないと、次第に星は考えることを止めた。
とにかく、事を進めねばならないと考え、思い切って、自らこう切り出した。
「古明地さとりと言う妖怪が、ここを訪れたと思うのですが」
 声は震えていた。涙を堪えたような声であり、発した星自身が恥ずかしさを感じた。
しかし、この陰惨たる空気の立ち込める部屋では、この涙声がしっくりと合っているのである。それはそれで悲しいことであった。
「ええ。来ました。化け猫の少女と一緒に」
 白蓮はあっけらかんとこう返事をした。事情を知り尽くしていることは明白であった。
「お話は済みましたので、帰ってしまいましたが」
 星はこくりと頷いて見せ、その後またも言葉に詰まった。
今日の白蓮はどことなく意地が悪い。普段こんな調子なら、事情を汲んで、向こうから話を進めてくれるのに――そんな風に感じるのは、やはりあの記憶を介して、白蓮を見る目に変化があるからであろう。
 星は、白蓮が怖かった。あの記憶の所為ばかりではない。懐疑的な心情で相対し、話をすることが怖いのだ。それが例え、長い年月を連れ添い、苦楽を共にしながら生きて来た白蓮であっても。
疑心を抱いて接すれば、途端に友人も仲間も敵に変貌してしまう。いつ、相手が憤慨し、牙を剥いて掛かって来るのか……星はそれが怖くて仕方がなかった。
 だから、変な風に話をはぐらかした。
「さとりさんと、知り合ったのは、燐と知り合ったお陰で……あの、雨の日に、雨宿りしてて、それで……」
「ねえ、星」
 凛然たる白蓮の声に、星の言葉はぴたりと止まった。
「あなたは、そんなことを話す為に、ここへ来た訳ではない筈です」
 白蓮の強い口調に気圧され、星は赤べこみたいにこくりこくりと、何度も頷いて見せた。
そして、半ば脅されたような形になったが、一気に本題へ突入した。
「記憶を見られ……いえ、見て貰えたのです。ずっと、ずぅっと昔の記憶です」
 切り出し方としては説明不足で強引だが、お互いに事情を知っている間柄なので、問題なく意図は伝わった。
 白蓮は返事をしなかったが、僅かに姿勢を正した。緊張が表れている証である。
「その記憶を、さとりさんの妹に語って貰いました。記憶の中の私は、まだ年端も無い妖怪で……」
「あなた自身は、その記憶を見ていないのですか?」
 星の言葉を遮り、白蓮が尋ねる。語りの途中で横やりを入れられ、ペースを乱された星は少し狼狽した後、曖昧に頷いて見せて、
「見た、と言えば見たのですが、酷くおぼろげで……。今も鮮明に思い出すことはできないので、はっきり見たとは言い切れないのが実情です」
 訥々とこう答えた。白蓮は「そう」と短く言い、再び閉口した。
 白蓮の座る座布団と、星の座る座布団。その間にある座布団一個分のスペースに目を落としながら、星が言葉を再開させた。
「その記憶の中の私は、まだ幼くて、今の様な立派な地位はない。……耳と尻尾が、まだあった頃のことです」
 悍ましい記憶の話が段々とより悍ましい部分へと進んでいく。動悸が激しくなった。自然と体が震え始めた。
「その中、その記憶の中で、私は……あ、あなたに。聖に……耳と、尻尾を、切り落とされてしまったのです」
 物語でも読み聞かせるかのような口調で、星はおずおずと語った。
言い終える頃にはその双眸からは涙が溢れ、体は極寒の地にいるかのようにがたがたと震え出していた。
「ねえ、聖。この記憶は、確かなものなのですか? それとも、ただのまやかしなのですか? お願いです、教えてください。本当のことを教えて欲しいのです」
 それ以上の言葉を発することは不可能であった。きっと何か喋ってみたとしても、言語と知覚出来るように空気を震わせることはできない。
 言葉の代わりに嗚咽が漏れ出した。質素な燭台に立たされている蝋燭の炎が、平常でない星の心を表すように、不自然に揺れた。
 まだ昼間であると言うのに、この場は深沈とした夜の闇に囲まれているかのように寂々としている。
その静かな部屋に響くのは星の嗚咽ばかり。以前、この部屋に来た時も、彼女は泣いていた。何かの因果であろうか、ここ最近、この部屋で彼女は泣いてばかりいる。

「星」
 落ち着き払った白蓮の声。
星は少しだけドキリとした後、ずずと洟を啜って、涙を服の袖で拭き取ると、
「は、はいっ」
 上ずった声で返事をして、徐に顔を上げた。
 白蓮は穏やかな笑みを湛えていた。見慣れた笑顔だった。その笑みを崩さないまま、口を開いた。
「私を信じてはくれないのですか?」
 手厳しく、しかし核心に迫る質問であった。星はぶんぶんと首を横に振り、猛烈な勢いで否定の意を表した。
「違います」
 まだ声は上ずっているが、そんなことを気にしている場合ではない。しっかりと自分の意思を伝えねばと、躍起になっていた。
「私は聖を信じたい。あんなことは無かったと思いたいです。不運な事故で記憶を失い、何もかも失くしてしまった私に、あなたが手を差し伸べてくれたのだと、そう思いたいです」
 星はこう言ったつもりであったが、何しろ泣きながらの答弁であったので、所々聞き苦しい箇所が存在した。それでも白蓮は真摯に耳を傾けている。
「しかし、私の中の記憶はそうでないと語っていると……」
「その記憶が偽物かもしれない。あの覚妖怪が、嘘を言っている可能性だってあるじゃない?」
 白蓮はそう言うとゆっくりと立ち上がり、星の右後ろにある本棚へ歩み寄った。こまめに書き綴っている日記帳が収められている本棚である。
星は席を外した白蓮を目で追うこともせず、
「それは、そうなのですが……」
 なんとかそれだけ言うと、また目を伏せて、ぐずぐずと泣き始めた。
 燐と知り合ってから大した日数は経っていない。さとりやこいしなどに至っては、その燐にも及ばぬ程の時間しか過ごしていない。
大して白蓮は長い間、苦楽を共にしてきた仲であり、この度の記憶の話が出る前までは、まるで救世主のような存在であった。
友人と救世主――天秤に掛けて掲げられる方は、もはや言うまでもないだろう。
 しかし覚妖怪によって呼び起こされた記憶の存在が、救世主の盲信を阻害する。どちらも信じたい。どちらも失いたくない――そんな気持ちに、星は板挟みになっているのだ。
 適当な日記を手に取り、ぱらぱらとページを捲り、瞥見しながら、白蓮が言う。
「惑わされてはいけませんよ、星。いくら生真面目なあなただからって、何でもかんでも鵜呑みにしてはいけない。思い込みであなたが“寅丸星”と言う元とは別の存在となって生き、昔の記憶を全て失った、と言うのが通るのなら、今だって思い込みでありもしない記憶を信じている、と言うのも通ってしまうと思いませんか?」
 星は曖昧に首を縦に振っておいた。白蓮の言っていることが正しいのか、正しくないのか、判断する心の余裕がなかったからだ。
白蓮はそれを肯定の意として受け取り、一層穏やかな口調となり、言葉を続ける。
「それじゃあ――もうどちらを信じるかは、瞭然としていますね? こちらも向こうも同じ条件なんですから」
 条件は同じ。しかし付き合って来た長さが違う。だからどうか私を信じてくれ――白蓮はこう言いたいのであろう。
尤もらしい意見だ、と星は漠然と思ったが、しかし素直に頷くことができない。
「ですが……ですが……」
 別段反論する言葉も考えていないのに、星はもごもごとこんなことを言った。
すると、白蓮の口調が一変し、妙に快活な風になった。
「全くもう、星も意固地ですねぇ」
 聖のこんな声を聞くのは久しぶりだ――これまで雰囲気が雰囲気であったから、不意打ち気味に調子を変えられ、星は思わず苦笑いを浮かべていたのだが。

 次の瞬間、頭部に鈍重な衝撃が加わった。
視界に映っていた座布団、畳が二重、三重とぶれて見えた。蝋燭の火に何か被せたかのように視界が暗くなった。そのまま黒一色に染まりそうな勢いであった。
後ろにいる白蓮を振り返ることも、痛みに喘ぐことも、助けを求める為に悲鳴を上げることも出来ず、殴られた衝撃に押されるように、星は俯せになって倒れ込んだ。
割られた頭からだらりと血が流れてきて、頬に紅の線を引く。温かく、そしてぬめりのある血液の感触は、頬でも容易に感じることができた。
「負の遺産、か。強ち間違いでないかもしれないわね」
 後ろで白蓮はこんなことを呟いた。その手に、血の付いた小さな人型の彫像を握り締めながら。本棚の上に置いていたものである。
脚を柄として白蓮に握られている彫像の肩から頭の部分には、星の血が付いている。部屋の中の唯一の光源である蝋燭の炎に照らされ、それはぬめりある輝きを放っている。
 星には白蓮の呟きなど聞こえていなかった。だが、白蓮からすれば、彼女に呟きが聞こえていようがいまいが、どちらでもよかった。
あれ程、都合の悪い記憶をもう一度失くす手助けをしてやったのに、星は一向に信じてくれる様子が無い。今の地位を脅かす危険因子はさっさと排除してしまおう。
さとりらがここへ来たことは、命蓮寺の人員はみんな知っている。ならば、星がいなくなっても、さとりらに連れて行かれて地底へ行った、とでも説明しておけばいい。
どうせ彼女らは地底へ寄り付こうとしないし、仮に地底へ行ってみて星がいなかったとしても、忌々しい記憶が都合のいいように解釈、補正してくれるだろう――そう考えたのである。
 今の白蓮にとって星は、『負の遺産』以外の何物でもなかったのだ。
妖術が失われてしまうことを恐れて妖怪を助けていた頃――私利、私欲の為に妖怪を庇い続けていた頃、人間の信仰を得つつ、妖怪の信仰も損なわない唯一の方法として必要になった、毘沙門天代理の為の妖怪。それが星だ。
思ったほど人間の信仰を得ることができず、期待外れであった。
だが、気付いた頃には妖術の保護は軌道に乗り始め、かつ妖怪の境遇に憐憫さを感じ始めていた頃であった。おかしな情が生じて、白蓮は星を捨てるに捨てられなかった。折角得た妖怪からの信用を損なうような真似をすることはない、と言う思いもあった。
不都合な記憶を胸に秘めているが、何も面倒事を起こさないのならこのまま一緒に過ごすのも悪くはない――なあなあのまま過ごして来た数百年であったが、遂にここで綻びが生じた、と言う訳である。
 俯せに倒れたまま動かない星の頭に、念には念をと、白蓮はもう一発、彫像での一撃を加えた。
 血が飛び散る。彫像は更に赤黒く汚れる。星の綺麗な金色の髪に、白蓮の細くて白い手に紅の斑点が描かれる。
 二度目の衝撃で、いよいよ星の意識は断絶の間際へ達していた。
 彼女の記憶が途切れないままどうにか繋げられていたのは、視界と全く無関係な映像が、頭の中に広がっていたからである。それが酷く気になった。
まるで、衝撃を加えられた瞬間に激痛と一緒に頭へ送り込まれたかのように。若しくは、その殺意を含んだ衝撃が、映像の再生スイッチを押したかのように。
星はその頭の中の映像と、必死に向き合ってみた。視界は今にも暗転して消え入りそうである。こんなにも殺風景な視界の今なら、この記憶を映し出せるかもしれない。投影機は暗い部屋で使う物ではないか――。
まだ覚醒している神経の全てを頭の中の映像へ向ける。

 記憶であった。ずっと無意識に追いやっていた、忌々しく、恐ろしい記憶――。
――あの日も、こうして殴り倒されたんだ。


 眠らせていた記憶が、完全に覚醒した。星は、本当の自分を失った日の出来事を、全て思い出したのだ。
 白蓮に呼ばれ、当時の彼女の私室へ案内された。白蓮は妖怪に優しい人間であったから、幼い彼女は何も疑うこともなく、白蓮に付いていった。
部屋で今と同じように、後ろから殴られ、薬を飲まされ、耳と尻尾を切り取られ、その後そのまま気を失ってしまった。
 目が覚めて、鏡に映っている自分を見た。薬の影響でまだ意識はぼんやりとしていた。
――これは誰だろう?
 記憶している自分の姿と、鏡に映る自分の姿が合致せず、しかしその理由が的確に判断できずにいた時、白蓮が声を掛けたのだ。
『おはよう、寅丸星』
 瞬間的に彼女は理解した。鏡の中の妖怪は寅丸星と言う者で、自分はその寅丸星なのだ、と。
そうして彼女は、寅丸星となった。現の姿と合致しない姿の自分が登場する記憶は、ほぼ全てが異分子として闇に葬られた。
密かに残っていたのは、間違っても思い出さないように眠らされていた、白蓮の暴虐の瞬間の記憶のみ。
 その日、その瞬間から、彼女は寅丸星と言う全く別の妖怪として、今の今までを生きて来たのであった。


 何もかもを思い出した瞬間、ショックと恐怖で、星は俄かに意識を取り戻した。
自分の後ろに、あの聖人面してその実残虐非道な人間がいる――恐怖は全ての意識より優勢を得た。何百年と培われた楽しい記憶も、恐怖を前にしては無力であった。
 星は声にもなっていない悲鳴を上げた。獣の咆哮とも言い難い。形容し難い絶叫である。
そして、ばたばたと非効率的に手足を動かして、何とか俯せの状態を脱し、尻餅を付いたまま即座に振り返った。
白蓮はすぐ傍にいた。星が急に奇声を発したので、面食らっている様子であった。
「こ、こっちに来るな!」
 泣きながら星はこんなことを叫び、慌てて後ろへ下がって距離を取ろうとするのだが、すぐに壁に平行して設けられている卓に退路を塞がれた。
そんなものが無かったとしても、この部屋は大した広さを持ち合わせていないので、逃げ回るにはあまりにも不都合だ。
 泣き、喚き、体を震わせる星の様相は、その外見に不相応な幼稚さがあった。
星の体は、白蓮の魔法で無理に大きくされている。元々、彼女はもっと幼い妖怪なのである。それを加味すれば、今の彼女の様子こそ、一番彼女らしい様子と言えるかもしれない。
 白蓮はにんまりと、下賤な笑みを浮かべた。こんなにも妖怪が可愛いと思えたのは久しぶりのことであった。
だが、いくら可愛いからと言って方針を覆すようなことはしない。余計なことを思い出してしまった星を生かしておく訳にはいかないのである。
 場に全く馴染んでいない笑顔が余計に星を恐れさせた。言っても聞かないならばと、卓の上にあるものを手当たり次第に白蓮に投げ付け始めた。
湯呑、ペン、インク、書籍――そんなものがぽんぽんと白蓮の方へ投げつけられていく。
しかし、頭部からの流血で片目が塞がれてしまっている上に、二度の打撃によって若干意識が薄れている為、その命中精度たるや散々なものである。
おまけに、そもそも当たった所で致命傷になりえるものが無いので、白蓮は避けようと言う気さえ起こさず、星ににじり寄って行く。白蓮の足元にいろんなものがばらばらと広げられていく。
 卓に背を向けたまま手探りで投げれそうなものを探し、手当たり次第投げつけていたが、遂に手に何も触れなくなった。星の手が届く範囲に、物が一切無くなってしまったのである。
この状況で後ろを振り返ってみる勇気は、星には無かった。そんな隙を与えることはあまりにも危険だと思ったからである。
だからと言って、この状況から白蓮を退けるにはどうすればいいか、冷静に考える余裕も無い。
弾幕など放って牽制してみた所で勝敗の行方は目に見えている。宝塔を持たない彼女の弾幕戦の力量たるや、地底の化け猫にさえ劣る程度のものなのだ。
では、仮に宝塔を持っていたとしたら、星はこの危機的状況を脱することができるのかと問われれば、これまた首を傾げなければならない。
星の目の前に立つこの偉大なる魔法使いを退けるのはかなり難儀なことなのである。人間でありながら、白蓮は非常に強力な力を持っている。そんじょそこらの妖怪に後れを取ることなど、まずあり得ない。
ただ、尋常でない力を持つ魔法使いでありながらも、彼女の素体は人間である。人ならざる者の持つ、異常な生命力や、目を見張る治癒能力なんかは持ち合わせていない。
弾幕に殺傷性は無いが、星は一応妖怪だ。普通の人間程度なら容易に息の根を止めることが可能であろうが――残念ながら白蓮は身体能力向上の魔法を持つ者で、決して普通ではない。
 部屋を出ることができる唯一の扉は白蓮の背後にある。退路など初めから無いと言っても差し支えない。おまけに効果的な抵抗の術も見つからない。
絶体絶命の星にできることは、一秒でも長く、白蓮の魔の手に捕えられないよう、彼女から遠ざかることであった。

 白蓮の私室は、横長の長方形となっている。片方の長い壁の中央部に出入り口の扉があり、その向かいのもう一方の横長の壁に沿って、これまた横長の卓が置かれている。
入口に立って卓を見た状態から、左手側の縦線に当たる壁には箪笥が置かれており、右手側の壁は押入れとなっている。
それほど広くないが、母屋の個室の中では最も広い部屋になっている。全員で話し合って、白蓮の私室はここにするべきだと決定したのである。
現在の部屋主本人は当時、公平に、均等に、平等にと唱えたのだが、結局周囲の強い要望で、この部屋が私室となった。
 卓に背を向けて尻餅をついている星は、咄嗟に卓に沿って左手の方へ逃げ出した。そちらに行ってもどうせ押入れがあるだけで、逃げ場は無い。
押入れは知っての通り、物をしまう空間である。反対側にある箪笥よりは、収納性に優れている。
中に入って身を隠すことができる、若しくは、ほんの僅かでも白蓮との距離を開くことができる――本能的にそんなことを考えた結果がこの行動であったのかもしれない。
まるで幼子の遊戯に通ずるものがある稚拙な考えではあったが、命を賭している緊迫の場面で、稚拙だなんだとは言っていられないのである。
 ひぃひぃと嗚咽し、呼吸を乱しながら、引手を使わずに襖を開ける。引手まで腕を伸ばす労力、時間さえ惜しかったのだ。
何度か手を滑らせながらも出来るだけ早く開こうとするその様相は、自力で襖を開けようと奮闘する猫を思わせる。
 少々立て付けの悪い襖がよっこらしょと、掛け声でも掛けるかのように、僅かに開いた。暗い押入れの中が少しだけ露わになる。
襖が開くと、星は素早くその隙間に手を入れ、一気に襖を全開しに掛かった。とりあえず中に転がり込んで、白蓮から一寸でも遠ざかりたい――その一心であった。
 がらりと襖を全開させる。そこまでは予定通りであったが、ここで思わぬ誤算が生じた。
押入れの中へ飛び込もうとしたその瞬間起きた収納物の雪崩が星を直撃し、彼女を地面へ強引に押し戻してしまったのである。
まさかあの生真面目な白蓮の部屋の押入れが、容量過多でで暴発寸前だとは予測できなかったであろう。
 この不意打ちに対して叫び声さえ発することができないまま地面へ叩きつけられ、そのまま雪崩れて来た物の下敷きになった星は、無我夢中でこの障害物を払おうともがいたが、次の瞬間、ハッと息を飲んだ。
押入れから雪崩れる物と言えば布団、と言う先入観があったため、その手足が人肌のような感触を感じ取った時、その驚きが数倍にも膨れ上がったのだ。
 押入れから落ちて来たのは二名の妖怪であった。おまけに、どちらも顔見知りの妖怪である。
――お燐? さとりさん?

 火焔猫燐に、古明地さとり――星の過去を暴き、それを不憫に思い、命蓮寺へ物申しに来ていたこの二名の妖怪を、白蓮は『帰った』と言っていた。
星は彼女に言われたことを鵜呑みにしていたが、本当はこんなにも近くにいた……もとい、隠されていた。
ただ単に彼女らが押入れから落ちて来ただけでも相当な驚きであるが、それに加え、二人は傷だらけであったことが、余計に星を混乱させ、恐怖させた。
切創や青痣が体中の至る所に点在し、鼻や口から血を流し、服は所々擦り切れている。星は気付けなかったが、骨折している箇所もある。
まさに満身創痍と言うの相応しい状態のまま、二人はぴくりとも動かない。生死の確認などしている余裕は星にはなかった。
しかし、自分の過去を暴いたことを報告しに来た二人が、切羽詰まった聖の手によってこんな目に遭わされた――と言うのは想像に難くない。
白蓮は今、保身の為なら他人の命を奪うことさえ躊躇しない身となっているのは、星自身が今まさにこの瞬間、経験している。だから、星は二人が死んだのだ、聖に殺されたのだ、と結論付けた。
 折角出来た友人とその主の予想外の登場は、星を増々混迷の極みへと引き摺り込み、平常心を木端微塵にぶち壊し、冷静な判断を阻害した。
「お、お燐……! さとりさん! 起きて、起きて下さい!」
 星は逃げることも身を護ることも忘れて、倒れたまま動かない二人を揺する。だが、二人とも起きる気配が全く無い。
「……どうして、どうしてこんなこと……!」
 聞き取るのも難儀なほど震えた声でそんなことをぼやきながら、尚も二人を揺すり続けていたが、不意にその言葉が途切れた。
白蓮が床に膝を付いていた星の横腹を蹴り上げたのだ。耐え難い激痛と捗らない呼吸に、星の意識が再び白蓮の方へ向いたのだが、もう反抗する意志も気力も尽きていた彼女に出来ることなど、泣き叫ぶくらいのものであった。
 星の髪を掴んで引き摺り、地底の妖怪二名が折り重なるように倒れている場所から引き離す。
そして星を仰向けに寝かせると、白蓮がその上に馬乗りになり、その首根っこを掴んだ。
効果的な呼吸の止め方など心得ていなかったが、得意の身体能力向上の魔法を使って出鱈目に強化した筋力に物を言わせ、強引に星の気管を塞ぐ。
少しでも多くの空気を取り入れようと足掻いているのであろう、星は何度も何度も口を大きく開いているのだが、望む程の量の空気は得られない。
目を見開き、口をぱくぱくと動かしているその様相はまるで金魚のようである。
死の淵に立たされたことで再び娑婆気が起きたようで、今や誰のものか分からない程太くなっている白蓮の手を掴んで首から離そうとするも、力ではやはり敵わない。
 手を退かせられないのなら、退かして貰うしかない――死に際に目覚めた生物の本能が、脳にそう伝令を送る。
効果など無いと分かっていながら、星は命乞いを始めた。
「お願いします、助けて下さい」
 こう言ったつもりでいたが、何しろ息を止められているので、言葉は何やら掠れた呻き声のようなものにしかならず、白蓮には伝わらなかった。
もしも伝わっていた所で、白蓮がこの暴虐を中断する筈もないのだが。
 逃げられない――混濁する意識の中で、星はやっとの思いでこう考えることができた。それは即ち、死に繋がっているのだが、そこまで考えは及ばなかった。
死に際に再燃した執念の炎も段々と沈静化していく。抵抗の術も、足掻く気力も無く、ただただ、意識だけが遠のいて行く。
 徐々に脈動が静まって行く星に対して、白蓮の鼓動は激しさを増していた。
心に引っ掛かり続けていた重荷をようやく処分することができる――こう思ってはいたのだが、内心、自身のこの所業の正しさが見出せず、気が狂いそうな気分であった。今後の活動や展望にも支障を来すかもしれない。
しかし、ここまで過去が暴かれ、それの隠蔽の為にここまでやってしまったのだから、もう仕方が無いと、自身を奮い立たせていた。
笑うべき所ではないであろうに笑みが零れた。さとりに全てを看破されていた時点で彼女の精神も崩壊の間際まで近付いており、それ故に冷静な判断などできなくなっていたのだ。
途中で法界に封印されたりもしたが、それでもこうして再び地上へ出ることができた。何もかもが上手く進んで来た筈であった。それなのに、それが脅かされている。まともな心持でいられる筈が無い。
その結果取った行動がこの通り――不都合な因子全てを闇へ葬り去ると言う、短絡的で単純明快な手法であった。
 星の生命活動の終焉が近いのが、首を掴んでいる手からひしひしと伝わってくる。それに伴い白蓮はより残酷に、残酷に微笑むのである。
「さあ、楽になりなさい。早く死になさい、星。早く、早く……!」
 こいつさえ死ねば、星の過去――自身の汚点――を知る者はいなくなる……白蓮はそう確信していたのだが。


「星ッ!!」
 不意に横から声がし、白蓮は星の首根っこを掴んだままそちらと振り向いた。
折り重なるように倒れていた二名の地底の妖怪――その一方が、なんと起きているではないか。
 火焔猫燐である。白蓮は殺したつもりでいたのだが、気を失っていただけであったらしい。
諍いの中で、三つ編みを作る為に髪を止めていたリボンが一つだけ千切れたと見え、片方は三つ編み、反対側は赤い長髪が解けてばらけていると言う奇妙な髪型になっている。
片目を負傷したのか、それとも頭からの流血が目に入ったのか、片方の目を閉じている。
 白蓮に首を絞められている星を見て、死んだふりをして逃げる機会を窺っていればよかったものを、わざわざ声を上げてしまったのである。
 脚に酷い怪我を負っており、動くのすら躊躇われるような状態であったが、激痛を意地と気力で無理矢理抑え込み、白蓮に飛び掛かった。
「この悪魔め! 星を放せ!」
 満身創痍の体に鞭を打ち、鬼の様な肉体の白蓮を星から引き剥がそうとするが、一筋縄にはいかない。
「邪魔をするな!」
 果敢な攻撃も空しく、まるで飛び回る羽虫を払い除けるみたいに、燐はあっさり白蓮に殴り飛ばされてしまった。
押し込められていた押入れの襖に叩きつけられ、襖に大穴が空いた。すぐにもう一度行こうとしたのだが、体が言うことを聞かない。
 白蓮が燐を殴り飛ばした際、一瞬だけ絞首の手から逃れた星は、潜水から浮上したかのように空気を目一杯吸うことができた。
これが、彼女の生の中で、最後の至福となる。

 再び、首に大きな手が宛がわれた。そしてその手は、前より一層強く、星の首を絞めるのである。
水面に上がった途端にまた水中に押し戻されるような苦しみに対抗する気力は、もう星には無かった。
まるで、それが自然であるかのように。そうなるのが決められていたことのように――星は、抵抗をしなくなった。
『生きよう』と言う気持ちがまるで感じられない星の表情を見て、燐が何やら大声で叫んでいたのだが、もう星には聞こえてもいなかった。
視界は高速で明転暗転を繰り返す。まるで退屈な本を読んでいる最中の居眠りのような感覚だ。居眠りのような心地よさなど、ある筈もなかったが。
――早く終わらせてくれ。
 心中で毒づいた、次の瞬間。
星の視界は、黒のまま戻らなくなった。何も聞こえなくなり、見えなくなり、匂わなくなり、感じなくなった。――星は、死んでしまったのだ。
 星の死は一目瞭然であった。加害者である白蓮は言わずもがな、燐は生業上死体を見慣れている為、一目で星が死んでしまったと分かった。
 白蓮は笑いながら、燐は呆然としたまま、その骸を見やる。

 次の瞬間、星の骸を眩い閃光が包み込んだ。白蓮まで小さく悲鳴を上げ、星の亡骸から遠ざかる。燐も呆気にとられたまま、眩く輝きだした星の骸を見やっていた。
 魔法の受容体である寅丸星が死んだことで、彼女に掛けられていた魔法が効力を失い、解呪され始めたのである。
彼女を長らく騙し、蝕み、縛り続けてきた呪いは、呪いを施した者の手によってその効果を失ったと言うことになる。
 あまりにも眩い光であった。直視していると目がおかしくなりそうであったが、白蓮も、燐も、目を離すことができなかった。
りぃんと、鈴の音のような音が鳴ったと思ったら、がしゃんと、ガラス窓へ投石したような音が挟まれた。妖怪であることを隠す為に部分的――耳や尻尾、爪や牙――に施した強力な魔法が破棄されていく音である。
 これほど大々的な魔法の解呪は、白蓮自身も初めてのことであった。そして今後、一生見ることはないだろうと、漠然と思った。
 暴れ狂う閃光によって、悪しき呪縛が壊されていく――魔法の心得の無い燐の目にはそんな風に映った。
 光が差す。闇に瑕が付く――直に闇が消える。
 暗黒の魔術の中に生み出された哀れな少女の亡骸は光に包まれ、その真の姿を取り戻して行く。
 呪縛と言う名の闇が無くては、星は存在できない。
――寅丸星が、消えようとしているのである。

「しょう――」
 燐がようやく絞り出した声は、がしゃん、と言う、呪縛の壊れる音にかき消された。


 呪縛が――魔術が――闇が消えた。
 闇が去り、光が満ちて、“星”が消えた。



*



 部屋にいた二人はしばし、殺害も逃亡も忘れて、閃光の跡に残った『星であった者』若しくは『星として生きていた者』の亡骸を見やっていた。
 白蓮でさえ、本当の寅の妖怪の姿を正確に記憶できていなかった。記憶よりずっと幼い寅の妖怪を見やり、思わずぞくりと体を震わせた。殺した妖怪があまりにも幼かったので、罪悪感に拍車が掛かったのだ。
 涙、洟、涎――そういったもので顔をぐちゃぐちゃに汚したまま、仰向けで死んでいる寅の妖怪は、人間で言えば初潮を迎えているかどうかの判断さえ付かぬ程の容姿であった。
色気などと言うものとはまるで縁が無い幼げな体の所々が、サイズが全く合わなくなった衣服で見え隠れしている。
尻尾は見えないが、寅の耳は容易に見える。髪が星であった頃の名残を残し、短めになっているので、耳は余計によく見えた。
 退行の瞬間を目の当たりしたからこそ、燐はこれが星であった者だと理解できるが、この妖怪だけをぽんと出され、将来はあの寅丸星になると言われても、少し想像しにくかった。
 燐はそれほど悲しんでいなかった。悲しむことができなかった、と言う方が正しい。
新しい友人であった寅丸星と、同一人物である筈の妖怪の亡骸に、あまりにも相違がありすぎたからである。星が死んだと言う実感がまるで湧かないのである。

「さて」
 少々の沈黙を挟んだ後、不意に白蓮が放った一言で、ようやく燐は我に帰り、白蓮を見やった。
長く連れ添った妖怪をその手で絞め殺しておきながら、白蓮は笑っていた。罪悪感などと言うものはまるで感じられない。
表面上感じられないと言うだけであって、さっきからずっと腹の底に水で溶かした粘土を流し込んだような不快感に囚われていたし、頭の中ではまるで篠突く雨の如く自己正当化の為の言葉が次から次へと降り注いでいる。
白蓮は確実に、自滅の道を歩んでいる。本人はそれに気付くまい、気付くまいと必死になっている。平静を保ちながらも、正常な心の一部を欠損してしまった結果が、今の場に不相応で薄気味悪い微笑みなのである。
「次はあなたの番ですね」
 先ほどの絞殺の感触を身体に馴染ませるように、手を閉じたり開いたりしながら、燐ににじり寄る白蓮。
その瞬間、燐の意識は白蓮の方へ定まった。星がどうだとか、そういうことを考えている場合ではなくなってしまったのだ。
 ゆっくりと、まるで追い詰める過程を楽しんでいるかのような足取りであった白蓮が、不意に速度を上げて燐に突っ込んできた。
星の為に我慢して動かした大きな傷を負っている脚を再び無理矢理動かして、一度はどうにか白蓮の魔の手から逃れることができた。
しかし、もう一度同じように白蓮から逃れてみろと言われても、もはやそれは無理な話であった。
直視するのが躊躇われる程青くなり、腫れ上がっている脚では、そう何度も機敏に動けるものではないのである。
 大穴が空いていた襖が、白蓮の猛進によって完全に破壊されてしまった。知性の欠片も無い力任せの突進は獰猛な野生動物を思わせた。
妖獣はどっちなんだよ――自身の存亡、命運を掛けた今この瞬間に全く似つかわしくないことを考えてしまっているのは、冷静でない証拠であろうか。
 大破した襖の破片や埃なんかで出来た靄の中にゆっくりと佇む白蓮。その猛々しい様相に、思わず燐は身を震わせた。
左手が俯せのまま倒れているさとりに触れた。尻餅を付き、痛む脚を庇いながらずりずりと後ろへ下がると、すぐに卓の末端の傍に置いてある棚に背がぶつかり、無情にも後退を遮った。
永遠に後退できたとしても、とどのつまりは捕獲に次ぐ殺戮、そして絶命であろうが、少しでも距離を置きたいのが現状なのである。
「さあ、もう逃げ場はありません」
 魔法で巨体を手に入れている白蓮の声は相変わらず低い。それなのに口調がいつも通りである為、そのギャップが彼女の異常性を助長している。
 リンゴも容易く握り潰せそうな巨大な手が、再び燐を捕えんと伸ばされた。
体勢的にも、脚の状態から見ても、もう今の燐に白蓮の猿臂からは逃れられない。そう、今の燐には――。

 燐を掴もうとした手は、虚空を握った。
 白蓮は目を見開き、次いでぎりぎりと歯ぎしりをした。
燐が猫に姿を変えたのである。掴む筈だった燐の体は、人型であった時と比べ物にならないほど小さくなり、寸での所で白蓮の魔の手から逃れたのである。
 しかし、現状が打破出来た訳ではない。この姿では、閉め切られている扉を開けることができない。もう一度人に戻って扉を開けて――そんな芸当は、今の自分に残されている体力や気力、相手している者の力量の観点からほぼ不可能と察せられる。
猫のすばしっこさを生かしてこの部屋の中で白蓮から逃げ続け、寺の関係者か誰かがこの部屋を訪れるのを待つと言う手も浮かんだが、脚の痛みがその可能性を潰している。猫の状態であっても、それは燐の体なのである。
結局、この姿でも生きていられるのはそう長い時間ではないだろうと燐は考えた。その短い時の中で、どうにかこの絶体絶命の危機から脱さねば――とは思うものの、それができれば苦労は無い。
 猫の持つすばしっこさや、睨むような目つきは、情緒不安定な白蓮を酷く苛立たせた。その情緒不安の原因である妖怪が元々猫科の動物であったことも、多少ながら影響している。
「私の手を、煩わせるな!」
 絶叫しながら、燐を一撃のままに踏み潰してしまおうと、白蓮が大きく足を上げた。燐は目をまん丸くし、反射的に走り出した。体が小さくなったので、相対的に白蓮が余計に大きく見えたのである。その威圧感、圧迫感たるや、もはや旧都に住まう鬼の比ではない。
素早く動き出して攻撃を避けたまではよかったが、怪我のことをすっかり忘れていて、片方の後ろ脚に激痛が走り、大きくバランスを崩してしまった。
それでもどうにか持ちこたえ、伏しているさとりの体を飛び越えた。その後くるりと振り返り、白蓮の動向を見やる。
 すぐに燐は後悔した。白蓮は避けられてからすぐに自分の方へ向かって来ていたのである。振り返っている場合ではなかったのだ。
毛をぞわわと逆立てて、燐は背後も確認しないですぐさま駈け出した。
脚の痛みや白蓮の脅威に気を取られていて気付いていなかったが、彼女の背後には寅の妖怪の亡骸があった。それに足を引っ掛けそうになったが、なんとか高度は足り、亡骸を飛び越えることはできた。
しかし、その着地に失敗した。と言うより綺麗な着地など、後ろ脚の状態が許さなかった。猫の姿で転んだのはこれが初めてのことであった。
体勢を立て直して走り出すこともできなかった。畳の上で足を滑らせている猫――なかなか滑稽な姿であるが、今の彼女を笑うのはあまりにも失礼だ。
 その隙を白蓮は見逃さなかった。
大きな手が、遂に燐をひしと掴んだ。猫らしい悲鳴を上げる燐。白蓮はげらげらと笑っている。「可愛い猫だ、すぐ楽にしてあげますからね」などと、支離滅裂なことを言いながら。
腕の中で燐はじたばたともがいてみた。小さな口を目一杯開けて噛みつき、自慢の爪で手を引っ掻き、あらん限りの声を上げて抵抗したが、今の白蓮は猫の足掻きなど蚊ほどにも感じていない。
手には引っ掻き傷や歯型がいくつも刻まれていて、血も流れているのだが、効果がまるで無い。
 猫の燐の細い首に白蓮が手をやった。親指に力が加えられ、気道が塞がれる。鳴き声はでなくなり、急速に意識が遠のく。
――あたいも、これまでか。
 星が死に際、どうしてあんなに動こうとしなかったのか、彼女は身を以って思い知った。ここまで絶望的な状況に追いやられては、生きる気と言うのも失せてしまうものらしかった。
あまりに一方的なゲームを投げたくなるように、彼女も、星も、殺される間際に自身の一生を投げてしまった。諦めてしまったのだ。
 視界が暗くなっていくのに、燐は抵抗しようとも思わなかった。もうすぐ楽になれるのなら、もうこのままでいいじゃないか――そんなことを思いながら、不自然に体の力が抜けて行くのを感じていた。
 それ故に、突然自身の小さな身体が地面に投げ出され、呼吸が元通りできるようになった時は、何が起こったのかをすぐに理解できなかった。
絞首から解かれたことで俄かに娑婆気を取り戻した燐は、即座に人の形の姿を変え、これでもかと言う程肺へ空気を取り込んだ。餌に食らい付く飢えた犬さながらの形相であった。

 白蓮は一体どうしたと言うのか――燐は咳き込みながら、白蓮の方を見やる。
 彼女は何やら叫び声をあげながら、自身の後頭部辺りに頻りに手をやって、ぐねぐねと体をくねらせている。
死の淵から紙一重で生還した燐の視界は、現実をしばし離れていたのであろうか、妙にぼやけた。必死に目を凝らし、白蓮の手元を見やる。
すると、黄金の輝きがぼやける視界の中でキラリと輝いた。だが燐は、白蓮の首筋に金などある訳がないと頭を振り、もう一度、その一点を凝視する。
段々と再び現世に馴染んできた視界が、白蓮をうならせている物の正体を、遂に捉えた。
 寅の妖怪である。
 寅丸星の本来の姿である、幼く小さな寅の妖怪が、白蓮の巨大な背中に捕まって、木の幹のように太い彼女の首に噛み付いているのである。
元来の姿を取り戻した彼女の牙や爪は、獰猛な寅そのものであった。暴れ回る白蓮から離れないよう、爪を体に食い込ませている。
牙の突き刺さった首からは夥しい量の血がどぼどぼと溢れ出ている。力任せに彼女を引き剥がすと。首を通る重要な血管を欠損してしまう恐れがあり、白蓮の手を煩わせている。
運よく、そんな箇所に牙が刺さったのではない。寅、及び狩人の本性、本能とでも言うのであろうか――ともかく、身体が覚えていたのである。
 とりあえず危機的状況を脱したことは喜ぶべきことであるし、寅の妖怪――もとい星には感謝せねばならないと燐は思ったが、釈然としないことがあった。
「星、どうして、どうして生きている!?」
 しつこく体に牙や爪を突き立ててくる妖怪を振りほどこうと必死な白蓮が、半ば絶叫するように問うている。だが、星は口が塞がっているので答えることはできない。
白蓮と同じ疑問を燐は抱いていた。星は死んだ。死んだからこそ、魔法の呪縛から解かれ、今の様な姿になっているのだから。
ボーっとしながら考え、燐ははっと胸をつかれた。自分の行動を思い返した。白蓮から逃げる時、彼女は猫の姿で、寅の妖怪の亡骸の上を飛び越えたのだ。
化け猫が死体の上を通る時、その死体は蘇る――彼女は知らず知らずのうちに、寅の妖怪を蘇生させてしまっていたのである。
そのお陰で燐は助かることができたのだが、寅の妖怪に――星に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
生ける屍と化した彼女は、これで死ぬことがなくなった。彼女が次に死ぬのは、体が崩壊するか、能力者たる燐が自ら星の生ける屍としての活動を終わらせてやるか。この二つの内一つとなる。
白蓮に噛み付き、爪を突き立てる“星”の形相は――まさに獣である。自身の陰惨たる過去を知り尽くし、諸悪の根源に口封じの為に殺され、偶さか蘇生し、憎悪の対象たる諸悪の根源が目の前にいるのだ。復讐を考えない者がどこにいよう。
毘沙門天代理として長らく生き、すっかり丸くなっていた頃とは違う。幼いながら血に、そして肉に飢え、それを得る為の武器を持つ、生粋の妖怪少女。
死からさほど時間が経過していないお陰で、生前の記憶を全て継承している。無論、死んだ瞬間も記憶にある。どう言った理由で蘇生したのかは分かっていないが、とにかく尋常でない力の元に再生を遂げたことは理解したらしい。
そして、自分に“死”が無いことも察している。今の彼女に、恐れるものなど何も無いのである。どうせ無傷でこの戦いを終えても、彼女の寿命は体が腐って朽ち果てるまでの短い期間なのだから。
 ようやく白蓮が力任せに、寅の妖怪を振りほどいた。牙の突き立てられていた首に、爪の食い込んでいた背に、それらと同じ程の径の裂傷が刻まれ、噴水の如く血が迸る。
地面に叩きつけられ、背中を強打した妖怪は「ぐっ」と小さく呻いたが、すぐさま起き上がり、白蓮を睨みつける。荒い呼吸の合間に、喉の奥で鳴る密かな唸りが聞こえてくる。
 首や背の痛々しい裂傷を手で抑えつけながら、白蓮が吠えた。
「どうして生きている……! さっき殺した、殺した筈なのに」
 滓となって心の底に溜まり続けていた邪魔な因子を、強引かつ倫理に反するやり方ながら、ようやく除去した筈であったのに、そいつが蘇り、復讐の眼差しを自分に向けている――。
先ほどから心や精神が崩壊の一途を辿っている白蓮に、この非現実的で悍ましい復讐劇はあまりにも刺激が強すぎたらしい。
もう完全に気が狂ってしまったと言ってもいいであろう。言動、表情、挙動、声色――何もかもが、もはや人のものではなくなっている。
 サイズが合わないキャミソール型の下着は少しばかり動き辛そうであるし、見た目としてもいい物ではなかったが、そんなことを恥じている場合ではないと、寅の妖怪は割り切った。
改めて白蓮を睨みつける。その瞳が憎悪の炎で煌々と輝いて見える。
「星……」
 思わず燐が声を掛けると、寅の妖怪はそちらを向いた。
「……いや、星、じゃない?」
「星でいいですよ」
 寅の妖怪は――星は薄く笑んだ。
そして再び、白蓮に飛び掛かって行った。

 多量な出血の影響で少々ふらつき始めた白蓮は、星の襲撃に対応できなかった。
長く伸びた爪が、衣類ごと白蓮の胸元に深い切創を五つ刻み込んだ。
激痛と恐怖と屈辱に身悶え、白蓮が咆哮する。すると、白蓮の体は以前にも増して大きくなった。魔法についてはずぶの素人の燐にも、不適切な量の魔法を掛けているように見えた。
盛り上がった肉体に埋まるようにして傷が収縮し、只の蚯蚓腫れに変化した。星もたまげて目を丸くした。
 振り下ろされた拳は撃鉄のように床を叩いた。畳の一か所が僅かにへこんでしまった。あんな一撃喰らったら一溜まりも無い――燐はぞっと肌を粟立たせた。
死ぬことはないと言えど、肉体を壊されては元も子もないと、星は少しばかり冷静になって白蓮の猛攻を観察し出した。
星を狙って突き出される拳は壁を、棚を、彫像を破壊した。床の至る所がへこみ、卓も半ばで折れた。
冷静さを失い、暴れ回る白蓮には案外隙は多く、星も機会を見計らって反撃に転じてはいるが、相手の肉の壁が分厚すぎて、致命傷を与えることができていない。
 埒が明かない――戦っている星も、固唾を飲んで勝負の行方を見守っている燐も思った。
 そう思った矢先、部屋に劇的な変化が訪れた。
 唯一の出入り口である扉が、開かれたのである。

「……聖?」

 部屋にいた全ての者が開いた扉を見た。何もかもが変わり果てて、地獄の様相を呈している白蓮の私室を見やり、呆然と立ち尽くしているのは、村紗水蜜であった。
 響子に星が帰ったと聞かされ、すぐにでも会いに行こうと思ったが、白蓮に先ず報告するらしいと言う話を聞き、自重していた。
しかし、いつまで経っても星も白蓮も姿を現さない。様子だけでも見に行ってみようかとも考えたが、忌わしい地底の妖怪が訪問していたから、母屋へ行くのは憚れた。
そうやってじっと待機していたが、遂に業を煮やし、「様子を見て来る」と母屋へ繰り出してみた。すると、この喧騒や諍いとは程遠い筈である白蓮の私室が何やら騒がしい。
耳を澄ませてみれば、何だかあまり愉快でない騒々しさであることが容易に分かった。もしやさとりらとの話が拗れているのだろうかと考えた。
ここは退くべきかとも思ったが、中で何が起きているのかを確認する必要性を感じた。そこで、恐る恐る扉を開いてみて――ご覧の有様、と言う訳だ。
 記憶と容姿が違いすぎて誰なのかを疑ってしまう容姿の白蓮に、傷だらけの地底の化け猫。それから、白蓮と対峙する、会ったことがあるような、無いような、見知らぬような、見知ったような、金の髪の妖怪。
水蜜の来訪によって一時停止した戦いの場を見やる水蜜と、金の髪の妖怪の目が合った。
「星……なの?」
 蚊の鳴くような声で水蜜が問う。妖怪は何も言わないで、水蜜を見やっている。
鋭い牙、長い爪、ピンと立った耳に、キャミソール型の下着から除く尻尾――金の髪の妖怪は、彼女の知っている寅丸星とは全く違う存在であった。だが水蜜には、その妖怪が星であるような気がしてならなかった。
髪型が変化していないと言うのも一因だが、その妖怪の醸し出す雰囲気が、どことなく星と似ていたのが大きい。
 この妖怪が星であるとして、どうしてこんな子どもの姿になってしまったのか。そして、何故白蓮と対峙しているのか――水蜜には分からないことだらけであり、しかも自己解決の為の手掛かりは一つも無く、この惨状を呆然と見やることしかできなかった。


 固まっていた空気が突如として流動した。白蓮の絶叫によってである。
星は即座に白蓮の方へと向き直したのだが、その急襲を避け切ることができなかった。
丸太のような腕と、岩石のような拳が突き出されてきた。反射的に腕を前面に出してそれを受けたものの、その衝撃を緩和することはできなかった。
身を護るために出した腕が、あっと言う間に使い物にならなくなってしまった。たった一発の殴打を受けただけである腕が、真っ赤になって腫れ上がった。死なないと言えど、痛みは感じるものなのである。
 あっと言う間に不利に陥ったことを星は自覚していたし、有利になったことを白蓮は理解していた。そうなれば主導権は白蓮のものである。
 数度、拳を突き出す。その全てが宙を切り裂いた。容易に攻撃できない状況に陥って、防戦に徹し始めた星を捉えるのは容易なことではないようである。
水蜜は完全に竦み上がり、戻って助けを呼ぶべきなのか、自分が今体を張ってでもこの戦いを止めるべきなのかの判断に迫られ、しかも決断できず、銅像のように入口に佇んでいた。
彼女は白蓮にも、星にも思い入れがある。どちらが勝って欲しいとか、そんな想いは微塵にも存在しない。どちらが勝っても負けてもいいから、とにかくこの戦いを、両者とも無事なまま終えて欲しいと言う一心であった。……星は既に死んでいる身なので、彼女の願いは叶わないが。
とりあえずこの時は、星が白蓮の攻撃を避け続けていて、どちらも新たな傷を増やすことがなかったので、まだよかったのだが……その直後、戦況が一変する。
 激戦の最中に散らばった、部屋の中にあったもの――壊れた家具の破片、書籍、紙類――の一つに、星が足を滑らせてしまったのだ。
意志とは無関係にぐわんと動く視界――星の驚きようは、ビー玉よりも丸くしている目を見れば一目瞭然だ。
刹那、白蓮がにんまりと笑った。聖人君子の優しげな微笑みとは程遠い、姑息で残酷な感じのする笑みであった。
 仰向けに倒れた星が立ち上がるよりも早く、白蓮がその頬を打ち抜いた。およそ殴打の音とは思えない打音が部屋中に響き、それと同時に鮮血が床を汚した。
星がその殴打の痛みをしっかりと実感するよりも先に、もう片方の頬に同じような衝撃が加わった。意識が遠のいたが、完全に途切れるのは、また異なる頬へ衝撃が加わったことで回避されてしまった。
その後は右、左と殴打が繰り返された。血に紛れ込んで床を転がった歯の白さがやけに強く感じられる。
 凄惨たる光景に水蜜は悲鳴を上げ、泣きそうな声で「もうやめて」と叫び続けたが、戦いに身を投じる二人には全く聞こえていない。
燐は悲鳴こそ上げなかったが、この惨劇を目の当たりにし、言葉を失っていた。旧都で稀に勃発する鬼同士の喧嘩でさえ、こんな血で血を洗うような惨事には至らない。
地上こそ本当の地獄なんじゃないのか――場違いながら、燐は心の中で苦笑していた。
 いくら殴っても今の星は死ぬことがないことを、きっと白蓮は知らないのであろう。血と汗の混じったものを滴らせながら、夢中で星を殴り続けている。
仮に星が殴り殺せる身であったとしたら、彼女はとっくに死んでいるであろうが、それでもきっと白蓮は死体を殴り続けたことであろう。

 燐は、星を助けてやりたいのだが、どうしてやることもできないことにもどかしさを感じていた。
今、背後から白蓮に飛び掛かったところで、一体何ができると言うのか――あの強固な肉体に対して、ひ弱な体付きの自分が行えることなど、何一つ無いように思えてならなかった。
それに、純粋に白蓮が恐ろしかった。いくら不都合な存在と言えど、幼子相手にあんな残虐なことをやってのける白蓮を恐れぬ者など、ほとんどいないであろう。
だからと言って、――容姿が激変してしまったとは言えども――友人である妖怪が黙って殴られ続けているのを見ているの黙って傍観できる程、燐は薄情ではない。
何か使える物はないかと、燐は懸命に周囲を見回した。木片や家具の破片なども多く見られるが、これほど散らかり放題の部屋ならば、何か有益なものがあるのではないかと、鵜の目鷹の目で辺りを見回していた。
だが、焦れば焦るほど、ゴミのようなものばかりが目に入る。何も無い、何も無い――焦燥感は目に映る小さな物全てをゴミに見せてくれた。
 その時であった。
「左手……」
 白蓮の暴虐が続く部屋の中央より向こう側――押入れの方から声がした。燐が驚いてそちらを見ると――
「さとり様!?」
 なんと古明地さとりが、起き上がって燐の方を向いているではないか。
さとりは遠くから燐の心を読み、目を細めた。
「勝手に殺さないで頂戴。少し、起きるのに時間が掛かってしまっただけよ」
 身を護ることに必死で全く気付かなかったが、さとりもまた燐と同じように生きていたのである。
「それよりお燐。左手、卓の上」
 傷が痛むのであまり喋りたくないらしいさとりは、要点だけを簡潔にまとめて燐に指示を出す。
言われた通り、左にある卓の上を見てみると、そこには燭台にたてられた蝋燭が一本、置いてあった。これほど光を放っている物がどうして目に入らなかったのかと、燐は心中で自分を罵った。
 それを見つけるや否や、燐はさとりに指示も仰がないで燭台を手に取って、白蓮に向かって投げつけた。
彼女の傍には星がいるが――そんなことはお構い無し、と言うより、そこまで考えが回らなかった。手っ取り早く脅威を消し去らんと、その後起こりうる全ての害の可能性を省みずにとった行動である。
 白蓮の背中に蝋燭が当たったが、それでも白蓮は星に執心していた。
なかなか絶命しないことを不審に思いつつも、その原因を考える知性は今の彼女にはない。死ぬまで殴るつもりでいるのである。
 火のついた蝋燭は白蓮の背を転がるように、床に向かって落ちて行く。
――まさか、失敗?
 燐の頭の中が真っ白になった。あまりにも軽率すぎたかと、今更自身の行動を呪った。折角主が見つけてくれた強力な武器を無碍に扱ってしまった自分を殺してやりたくなった。


 次の瞬間、小規模な爆発が生じた。
爆心は白蓮の傍であった。いくら強固な肉体の鎧を身に纏っていると言えど、天人の鋼の肉体でもあるまいし、爆発に耐えうる程の強度は誇っていない。所詮は人間の延長である。
爆発の原因は、床に散らばった書籍。魔法使いである白蓮は、幾つかの魔導書を所持していたのである。書籍の中に魔力を封じる為の魔法陣が、蝋燭の火の引火によって崩れ、それが爆発を引き起こしたらしかった。
火薬で起こるそれとは全く異なる爆発に巻き込まれ、白蓮の下半身が血と肉と骨を分かちながら四散した。同時に魔導書は煌々と燃え上がり、周囲の書籍に、家具に、床に引火した。
 何が起きたのか、星を殴り殺すことに全神経を向けていた白蓮に分かる筈もない。目の高さが極端に低くなり、立ち上がれなくなり、腰の辺りに痛いのか痛くないのか判断しかねるような違和感が生じ、ただただ困惑して、罠に引っ掛かった獣のように吼えまくった。
その声が次第に小さくなっていく。叫ぶ気力が薄れて行っていることが信じられない、と言った感じに、白蓮は困惑しながらもうやはり吼え続けていた。
遂に蚊ほどにも鳴けなくなった頃、千切れていた衣類に炎が燃え移り、魔法で若返り、その上不老を得た魅惑の体を、ただの灰塵に帰さんと焼き払い始めた。
そのお陰で白蓮は最期の最期で、人の声を出すことができた。熱い、嫌だ、まだ死にたくない――実に人間らしい悲痛な叫び声は、死ぬ間際まで続いていた。
 声が止んで、その場に残ったのは焼死体のみ。死に伴って魔法の効果は潰えるから、焼死体はきっと老婆のものであろう。だが、ただの灰に老婆も美女も無いと言うのが現状である。


*


 一難去ってまた一難――とは今のような状況を言うのであろう。脅威は死んだ。だが、今度は脅威を見事殺してくれた炎が、この部屋の主を殺して調子付いたかのように、部屋の中で猛威を振い始めた。
魔法の力を借りて大きく成長した炎はあちこちへ燃え移り、あっと言う間にその勢力を拡大してしまったのである。
「今度は火事かい……!」
 小さく毒づきながら燐は炎を避けるようにさとりの元へ駆け寄った。さとりもやはり脚を怪我していた。
長らく妖怪を退治することから遠ざかっていた白蓮は、恐らく妖怪の生命力を侮っていたのであろう。それでも逃げられないようにこうやって脚を傷付けておいているのが、知性に富んでいた彼女らしい判断と言えるであろう。
 星が嫌と言う程殴られる場面を見せられ、間髪入れずに恩人たる白蓮が焼殺され、今度は火事が起きて我が身まで危険が及び出した――水蜜はいろんなことを考えるのが面倒くさくなりつつあった。
呆然とした表情のまま、燃え盛る火炎に身を投じるかのように、ゆっくりと歩み出した。白蓮の後を追えるのなら、それもいいかもしれない……などと考えながら。
その足が炎の海へ足を踏み入れかけた瞬間――炎の向こうから飛び出てきた小さな手が、水蜜の胸を押した。
押された彼女はよろけた末に尻餅をついた。炎の向こうには、寅の妖怪――もとい寅丸星がいた。サイズの合わなくなった服を顔にかぶせているのは、殴打によって酷く変形させられた顔を見られたくないからであろう。
星は完全に炎に取り囲まれている。白蓮が執念で、死に際に炎の形を操ったかのような悪意さえ感じられる。
「ムラサ」
 星がやけに落ち着き払った様子で口を開いた。その声は水蜜が記憶している星の声よりもずっと幼い。その上、衣類を被っている所為で声がくぐもって聞こえるから、全く別の声のようにも聞こえた。
連続して起きた一事一事に翻弄されて半ば放心状態の水蜜は、声に対して返事をすることができなかった。それでも星は言葉を紡ぐ。自身がもはや助かることはないことを察していたから。
仮にこの炎の円陣から逃れたところで、彼女は燐の能力によって、本来あり得ない二度目の生を得て、今ここに立っている。期限はそう遠くない未来である。逃れようが逃れられまいが、彼女はもう長くないのだ。
「早く、燐とさとりさんを連れて、ここを出て」
 少々喋り方に不自然さがあるのは、こっ酷く顔を殴られてうまく口を動かせない為であろう。
「星は……?」
 燃え盛る炎は、別の魔導書を巻き込んだようで、先ほどよりも更に勢力を増大させている。
それにも関わらず水蜜は、助かる命の救助は愚か、自身の避難もそっちのけで、星の身を案じている。
「私はもう、ダメだよ」
「ダメなんかじゃないよ……」
「それに、ねえ。もう、いいんだ」
 止まりそうなオルゴールのように、一言一言、ゆっくりと、心情を掻い摘んで語って聞かせる星。
「疲れた」
 そう言うと星は、炎の陣のど真ん中にどさりと仰向けに倒れ込んで、大の字になった。
ここで星は、自分がここ数日の間に経験したこと、知ってしまったことを、水蜜が何一つ知らないことに気付いたので、仰臥したまま独り言みたいに言った。
「全部、お燐か、さとりさんに聞くといい」
「全部? 全部って? 何を言っているの、星」
 話が全く飲み込めず、水蜜は泣きそうな声で問う。星は少し考えてからこう言った。
「私はね、本当は、星って名前じゃないんだ」
 水蜜は返事をしなかった。
「あなた達の知ってる、寅丸星はね。本来、出会える筈の無い、妖怪だった。ずぅっと、遠くにいてね。どれだけ歩いたって、少しも近づけないくらい、遠くに」
「こんな時に何辛気臭いこと言ってんだよ!」
 横から突如放たれた怒声。水蜜はびくりと体を震わせて、声の飛んで来た方を向いた。燐とさとりがいた。怪我人同士で肩を持ちあって、どうにか移動したらしい。
さとりを出口の付近へ置くと、燐は果敢に炎へ立ち向かおうとした。灼熱地獄と上手に付き合ってる自分が、これしきの炎に怯んでなるものか――強引な理屈で自身を鼓舞してはみたが、魔導書に込められた魔力を燃料に燃え盛る炎は、通常のそれとは全く異なる。
意志が働いているように、何者かが近づくと大きくうねるのである。突っ切るには厚すぎる。どうすることもできず、燐は地団太を踏んだ。
「舟幽霊! あんたこの火を消したりできないのかい!?」
 燐が金切り声を上げる。
「む、無理よ、そんなこと……」
 水蜜は泣きそうなまま首を横に振る。燐はもどかしげに閉口してしまった。
 燐がどうにか星を助け出してやれないかと思案している最中、炎の壁の向こうから笑い声が聞こえてきた。
星が笑っているのだ。声を殺そうとしているが、堪え切れなくなって、声が漏れている。
「な、何がおかしいのさ! 折角助けてやろうってのに、人の努力を茶化すんじゃないよ!」
 燐にまで笑いが伝染した。口を笑せながら言葉で怒りを露わにし、双眸から涙を零した。心は焦燥や悲嘆で一杯であった。
 星は笑いの原因は言わずに、
「お燐、それから、さとりさん。ありがとうございます。どうにか私は、私のままで逝けそうです」
 こんなことを言った。
「……どういたしまして」
 燐は返事をしなかったが、さとりはしっかりと返礼をした。
「ムラサ。どうか、さとりさん達を恨まないで。仲良くしろ、とは言わないけど。……さっきの、掛け合い、結構、いい感じだったよ?」
 ここまで言うと、星は一呼吸置いた。その間、誰も何も言わないで、星の言葉を待ち続けた。
部屋の炎はいよいよ勢いを増す。これ以上部屋にいると、水蜜らまで焼けてしまうのではと思われたが、三者とも逃げることはしなかった。
 ずたぼろの星は喋るのさえ億劫な状態であったのだが、自分の命よりもこの母屋が持たないかと考え、再び静かに語り出した。
急がなくてはと思いつつも、言葉はどこかたどたどしい。彼女は、喋るのが苦手なのだ。
「白蓮はいなくなった。もしかしたら、聖輦船も、消えてしまうかもしれない。だけど、どうか、阻喪しないで、元気に暮らして欲しい。みんなにも、伝えておいて。……ありがとう、と」
 水蜜はうんともすんとも言わなかったし、意志表示をしなかった。ただ、勢いを増す炎に隠れて姿が見えない星を、瞼の裏に焼きつけるように、潤んだ瞳でじぃっと見やっていた。 
「そろそろ危ないわ」
 さとりが囁いた。炎の勢いから見て、逃げなくてはいけないと察したのであろう。
主の進言は耳に届いていたものの、燐はすぐに動くことができなかった。まだ星を助ける術を探していたのである。水蜜も諦めが悪く、なかなかその場を動こうとしない。
さとりは軽く舌打ちをした後、痛む脚を庇い、腑抜けている二人を無理矢理引っ張って、部屋を出た。
部屋を出て、燐は零れた涙を拭い取った。星との決別を受け入れたのである。しかし水蜜は、まるでおもちゃ売り場から引き剥がされる子どもみたいに星の方へ手を伸ばし、あれこれと喚き散らし続けていた。


 あれほど騒々しかった白蓮の部屋には、今や星しかいない。だが、木材などの爆ぜる音が絶えずどこかで鳴っている所為で、静寂と呼ぶ状況には程遠い。
 星は微動だにせず、死――もとい、身体の滅亡の瞬間を待った。
先ほどから自分を取り囲んでいる炎は、ゆっくりではあるが、確実に近づいてきているのが分かる。
そう遠くない内に、この身体は焼き尽くされて、灰に帰すのであろうと、星は考えた。
 どうせ誰もいないから――そう思い、星は被っていた衣服をおもむろに取り払って、炎に投じた。投じた方へ、首を回してみる。
毘沙門天の代理となって以来、綻びが出来れば繕い、それに限界が来れば同じ形の服を作り、ずっと愛用し続けていた装束は、あっと言う間に炎に焼かれて消えた。
服の焼失を見届けると、再び星は天井へ視線を戻した。
右腕を上げて見る。腕の中程は火傷を負っていた。先ほど、茫然自失となった水蜜を我に帰す為に手を出した時に負った火傷らしかった。
 次いで手に目が行ったのだが、改めてまじまじと眺めてみると、驚くほど手が小さい。これが本来の自分の姿だと言うのに、映っている手が自分の物であるような気がまるでしなかった。
仕方の無いことだ。幼少期の記憶は捨て去られてちっとも残っておらず、彼女の記憶のほとんどは、寅丸星の思い出が占めているのだから。

 記憶、と言う言葉に関連し、雑多な思い出が次々と蘇ってきた。白蓮の嘘を信じ込んだ瞬間から、今までの出来事が、次々と。
何も分からないまま毘沙門天の代理となる為に修行を始めたこと。つらいことばかりであったが、何もかも無くなってしまった自分に何かを与えようと毎日必死だったこと。
突然、ナズーリンが部下として付いてくれることになり、随分困惑したこと。白蓮が水蜜を海から解放してやり、大きな空を飛ぶ船を手に入れたこと。
一輪が寺に居付き、白蓮のお眼鏡にかなって仲間入りを果たしたこと。白蓮が封印され、長い間仲間と離れて地上で過ごし、間欠泉と共に水蜜らが帰って来て、白蓮の封印が解かれ、寺を再開し、ぬえが、響子がやってきた。
幻想郷のいろんな妖怪や変わった人間と知り合った。挙句の果てには忌わしき筈の地底世界に住まう妖怪と親睦を深めた。そして、自らの異変に気付いて――。
 これらは全部、本来はあり得ない出会いであった。
仲間達の記憶に刻まれている寅丸星と言う寅の妖怪は、この時代を生きている筈の無い妖怪であるからだ。
 つつと、涙が零れた。白蓮に騙されることなく生きていたら、それ相応の一生と言うものがあったであろうが――この一生が、星は堪らなく素晴らしい物に思えた。
 偽りの自分を生み出してくれた白蓮が、憎くもあり、ありがたくもあった。
長らく彼女を信頼してきた故の、揺るがし難い白蓮への羨望、崇拝の意もある。しかし何よりも、あり得なかった様々な出会いの発端が白蓮であるが故に――今更、彼女を憎み切れなくなった。
自分のことながら甘い考えだと思った。きっと、誰もがそう笑うだろうと思った。

――『私らしい』と、笑ってくれるかな。

 くつくつと悪戯っぽく笑う舟幽霊。からからと快活に笑う化け猫――目を瞑ってみると、二つの笑顔が容易に想像できた。


 次の瞬間、轟音が鳴り響き、体が宙に浮いた。
心地よさなどとは無縁で、硬質な床板の上で仰向けに寝かされたまま宙に放られるような、痛みと不快感があった。
母屋が崩壊したのである。そもそも、魔力性の爆発数発に耐えていたのさえ奇跡と呼ぶに相応しかったのである。

 崩れた床に飲み込まれて行く寅の妖怪。
落ち行く先は、墨の流れ込む湖とでも形容できそうな闇である。
彼女は闇に落ちて行く。光が失せて行く。その身が、闇に沈んで行く。

 その瞬間、彼女の浮遊感がひどく心地よいものになった。
地霊殿の客間のソファよりも、夢に出てきた柔らかい布団よりも。
何かに触れているようで触れていない、柔らかくて、なめらかで――形容し難い感触。それが齎す解放感、浮遊感。


 そんな闇を以ってしても、再び“星”が光り輝くことは、遂に無かった。
 pnpです。ようやく完成、47作目です。

いろいろと大変でした。書くのも、考えるのも。
 しかし長々と書けて、私としては楽しかったです。
お話としては楽しかったでしょうか。
 推敲はしましたが、何かが狂っているかもしれないです。
おかしいところございましたら、ごめんなさい。
(話の構成とか展開とか設定そのものがおかしい などには対処できません)

 タイトルは「くうげん」でなく「そらごと」と読んであげてくださいね。
何だか気に入ったので、少し違和感はあれど、こうタイトルをつけてしまいましたとさ。


 ご観覧ありがとうございました。
 風邪など引かぬようお気をつけてお過ごしください。

--------------------
>2 燐はいい子だと思っております故。

>3 ありがとうございます。がんばりまーす。

>4 どうにか言葉にしてほしい……ッ! 誤字指摘ありがとうございます。

>5 話によって良識あったり鬼畜にしたり、便利ですよ、地底勢。

>6 ありがとうございます。

>7 あなたの298kbのお陰でスパートかけることができました。

>9 なるほど、このSSが私らしさなのですね。記憶に留めておこうと思います。

>10 何か後ろ暗いことの一つや二つくらいあってもいいと思います。白蓮は。

>11 そこまで意識している訳ではありませんが、そう言った感想を持ってもらえることは嬉しいことです。

>14 こうならなくてもいい道もあったのではと不安になった投稿の翌日の夜。あってはならんのです、私の中では。

>15 全てを明らかにする所から結末までが一番ノリノリで書けました。見せ場が上手くできてたようでよかったです。

>18 不明瞭だからこそ、こういう妄想が膨らませられて楽しいのです。水蜜ちゃんは可愛いからヒロインが似合うのですよ、きっと。

>20 きっとまだ限界なんてこんなもんじゃない こんなんじゃない

>21 ありがとうございます。コメント頂けるだけでうれしいものですよ。

>23 何ですその諺は、かっこいい。 ハッピーエンドのようなそうでないようなのは、私も好きです。

>24 なんやかんや聖は人間で、苦労人で、しかも死にたくないーと若返ったりして……狂人の気がありそうで。

>26 猫が死体を跨ぐと死者蘇生するとか、燐自身が死体を操れるとか、そういうことを加味してのものでしたが、無理ありましたかねえ´`

>27 そんなに細かなことを考えて書いていた訳ではないのですが、嬉しい限りです。

匿名採点ありがとうございます。是非、フリーレスでご感想をお寄せください。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/12/05 10:20:55
更新日時:
2012/01/11 20:56:04
評価:
19/32
POINT:
2220
Rate:
14.48
分類
寅丸星
村紗水蜜
聖白蓮
火焔猫燐
古明地さとり
簡易匿名評価
投稿パスワード
POINT
0. 330点 匿名評価 投稿数: 11
2. 100 名無し ■2011/12/05 22:22:34
面白かったです
さとりと燐がいい奴で良かった
星には地底で幸せにいきて欲しかった
3. 100 名無し ■2011/12/05 22:35:47
お燐がいい奴すぎる
今後も貴方の作品楽しみにしています
4. 100 名無し ■2011/12/05 23:44:03
……なんだか言葉に表せません。凄く心に来ます、楽しめました。『彼女』は救われたんですかね。『星』がまた輝くといいんですがね……

ps「あおこが中庭だよ」
こういう言い回しなんですかね?「あそこ」では?
5. 100 筒教信者 ■2011/12/06 00:24:35
グッと来ました。
地霊殿組がいい子でよかった……
6. 100 名無し ■2011/12/06 01:06:07
おもしろかったです
それにしても狂信者は怖いな
これだから宗教家ってやつは信用出来ない
7. 100 NutsIn先任曹長 ■2011/12/06 01:13:39
日の目を見た秘密。
身内の忌まわしい過去を聞こうとした。
辛い事を相手に強いたことを知り、自分を傷付ける。

話して分かる相手のこと。
万事それで上手く行く、筈。

爛々と目を輝かせて、色恋の話をしても良いじゃないか。
暢気に構えていれば良い。

知りたくない、知られたくない事は無理に隠さないほうが良い。
短絡的な行動を取れば、待っているのは、破滅。
9. 100 紅のカリスマ ■2011/12/06 08:09:48
感想が上手く言葉に出来ませぬ・・・が、pnpさんのらしさが出ていて、面白かったです。
10. 100 名無し ■2011/12/06 16:22:18
終始淡々と、陰鬱と、重々しく進む物語に独特の情緒を感じました。
星の人生は幸せなものだったんだろうけど、でもやはりこうなるべきだったと思います。
最後の最後、彼女は何を思ったのか……あと、やっぱ白蓮はこういう生き様&死に様が似合うなあ。
11. 100 名無し ■2011/12/06 20:48:20
寅丸星、もしくは名無しの虎妖怪。とにかく彼女には死んでほしくなかった、幸せになって欲しかった。
読み終わった後に訪れた得も言えぬ気持ち悪さと沈んだ気分がこの作品に対する最大限の敬意かと。
他の方も言ってますが、上げたから落とすというpnpさんのらしさが全開だった作品だと思っています。
感想って難しいですねーこの話を読んでる途中に思ったこと、読み終えた後の最悪で最高の読後感が全く伝わる気がしませんw
では、次回作も期待して待っております
14. 100 名無し ■2011/12/08 21:06:59
無粋なこととは分かりつつも、こうならざるを得なかったのだろうか、と考えさせられてしまいます。
その反面、この終わり方でなくてはならないといった気持ちもあり…。
なんとも御しがたい感情に振り回されてしまいました。

作られた星ではあっても、星として輝けたことに偽りはなかった、と思いたいです。
15. 100 木質 ■2011/12/08 21:57:49
何気ない一言から生まれた小さな疑問が、話が進むごとに徐々に膨らんでいき辿り着いた真実。そして迎えた悲しい結末。
最初から最後までこの寅丸星に言い知れぬ美しさを感じつつ読まさせて頂きました。

全てが明らかになった後の、息もつかせぬ怒濤の展開の連続にワクワクしっぱなしでした。
そして理想のためならどんな犠牲もいとわない聖お姐さんも素敵。
18. 100 んh ■2011/12/11 02:52:10
やっと読み終えました。面白かった
星はなかなか掴みづらい印象があったんですが、この解釈はなるほどと思いました。確かに言われてみればそういう印象あるなと。
「地上こそ本当の地獄なんじゃないのか」っていうお燐の台詞通り、段々地上と地下がひっくり返ってく演出がとても効果的で、華扇の言ってた「地上に住めるのは善人と聖人とそれと大悪党だけだ」を思い出しました。
そしてみなみっちゃんはどうしてこんなにヒロインが似合うのか
20. 100 名無し ■2011/12/13 17:15:09
こうして、pnpさんの栄光記録がまたひとつ刻まれるのだった。
21. 100 名無し ■2011/12/15 10:59:51
小さな疑問から取り返しのつかない事態が起こるなんて誰が想像できようか。

語彙が貧困な自分ではただ良かったとしか言う事が出来ません。
しかし白蓮はこれくらいキチってるのが丁度良いとおもいます。
最後の言葉を水蜜にかける星だとか、星との別れを受け入れられない水蜜とかとても美味しかったです。
さとりとお燐が好きになってしまう素敵なSSでした。
23. 100 名無し ■2011/12/22 03:40:42
空言というタイトルで地底が絡むから、お空が何か鍵を握っているのかと思ったがそんな事は無かったぜ!

好奇心は猫をも殺すと言いますが、今回は猫の好奇心で虎が死んでしまいましたね。正に知らぬが仏。
その場合「寅の妖怪」はずっと記憶に封じられたままで非道を行った聖は生き続けますが、燐の洞窟での疑問さえなければ、彼女は寅丸星として敬愛する(少なくとも現在は本当に)優しく正しい聖と共に生きていけたでしょうに。
色々な偶然のせいで誰も得をしない──悪(聖)は倒れ寅の妖怪は自身を取り戻したのである種ハッピーエンドなのは分って居りますが──結末。大好きです。
出来心で過ちを犯し隠蔽し発覚を恐れ大事にしてしまった聖は最初から最期まで人間らしい人間だった様にも感じて結構好きなキャラしてました。
24. フリーレス 名無し ■2011/12/22 05:08:19
夏休みの宿題が終わらないまま終わってしまった後、
それを簸た隠しにしてきたことがどんどん暴かれてにっちもさっちも行かなくなった。
そんな白蓮の崩壊に対する絶望と迷妄、あと末路に同情を禁じえない。
星としてのの人生と虎の妖怪としての人生、魅力があれども両立できないことが彼女の悲劇だったね。ゆっくり休んでくれることを祈ります
25. 100 名無し ■2011/12/22 05:17:42
↑訂正
>そんな白蓮の崩壊に対する絶望と惑乱、あと末路に同情を禁じえない。
後、点数入れ忘れてました><
26. 90 名無し ■2011/12/23 15:52:39
これほどの名作にいうのもなんだが、星が生き返った理由がちょい無理あったかなあって思います。
お燐そんなすごい能力をたやすく使えるんかいwww みたいな。
27. 100 名無し ■2012/01/10 23:16:52
なんだこれは…と。色々な感情が渦巻いていて上手い感想が思いつきません。

聖の行動は彼女の私的な目的や、妖怪たちの事を考えると長い目で見れば必要悪とも思えるし、星くんも知らなければ幸せなまま居れたのではないかと思ってしまう
その一方でさとりやお燐が友人やペットの力になりたいと思う気持ちも当然のことで、秘密を暴いたのもある意味では正しいのかもしれない。たまたま傘を持っていかなかった故に燐と出会い、全身鏡やらいろんな要素が絡み合って良くない方向に進んでしまったのでしょうか

なんというか、SSはフィクション なんですが、この作品の不条理さと言うか単純に理屈や道徳で「こいつはこうあるべきだった」と言い切る事が出来ない所にリアルを感じてしまいます 運が悪かったんだ、と 複雑すぎる 読後の余韻にどっぷり浸かれる傑作をありがとうございます
氏の作品はどれも練られていて素晴らしいのですが、この作品は創作には必ず多かれ少なかれ存在する「作られた」ような空気が感じられず良い意味で「不自然」で、そこが大好きです
29. フリーレス 名無し ■2013/03/09 12:02:15
凄く面白かったです!
30. 100 名無し ■2013/03/09 12:02:50
100点入れるの忘れてた
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