権力者は祟りを畏れていた。寺を建て善行を重ねたのに、
祟りは雨のように降りしきる。それも仕様がない、ウィルスだったのだ。
――東方永夜抄:No.197 藤原「滅罪寺院傷」
〜 Stage T 〜
男は洞窟を進んでいた。
細く長い隘路だった。底さえ窺えぬ大空洞には、さながらねじ穴のようならせん状の通路が刻まれている。その溝の上を、男は一団を引き連れて歩いていた。闇は無数の足音さえも丸ごと飲み込んでいく。細く糸を引いた隊列は、彼に孤独な行軍を促す"荷物"であった。
ひんやりと湿った風の吹きすさぶ大空洞をどれほど歩いたのか、男はふと立ち止まり、にこやかに会釈する。よく整ってはいたが、目はさほど笑っていない。礼を向けられたキスメはこくりと首だけで返す。彼女は口下手であった。その人間とは随分と古くからの付き合いだというのに。
「ヤマメ様はいらっしゃいますか?」
邪険を気にするそぶりもなく、彼は丁寧な口調で問いかける。中年というにはまだ若々しい、やや小太り気味の男だった。仕立てのよい織物に身を包み、上品な物腰を纏わせながら、いつも被っているハンチン帽をそろりと頭から外す。作り込みすぎたような立ち振舞いは、しかし不快感を催す類のものではない。しっかりと地に根を張った礼節だ。
それでもキスメがこの"人間"を好きになれなかったのは、練り上げられたしぐさの裏にどことなく粘っこい、ぬらりとしたものを感じたからだろう。確かに表情の合間――ごくごく時たまだが――下卑たものを臭わせることがあった。だが致し方ない面もある。彼に流れる血の半分は妖なのだから。でなければこんな仕事は勤まらない。
「……こっちです」
無愛想なキスメの案内に、男と後ろの一団は無言のまま続く。キスメに失礼にならないよう尋ねただけで、彼も道程は端から承知しているのだろう。事実この男より大空洞に詳しい者は、少なくとも地上にはいない。地底と地上の門が閉ざされ、二つの世界が完全に断絶してから数百年。今もここを行き来しているのは彼くらいで、他は蟲すら飛んでこない有様だ。地上に住む者の多くは地下に棲む妖怪のことなどとうに忘れてしまっているのかもしれない。
切り立った岩道をしばらく進むと、横手に大きな穴が見えた。底冷えするような闇の中、その一角だけは仄かな光を照らしている。
「ヤマメちゃん。いつもの人だよ。食糧持ってきたって……」
キスメとしては大きめな声に、少し遅れてひょっこりと顔が飛び出す。まだ幼げだが、気風のいい面立ちをしていた。
「おうおう。配送ご苦労様。」
*
黒谷ヤマメは洞穴に居を構えている。旧都の外、橋を渡った先にある洞穴だ。別に深い意味はない。土蜘蛛としてそっちの方が落ち着くから、それだけだ。橋の内側に住まう旧都の連中も、そんなヤマメの好みはよく理解している。その程度でいちいち目くじらを立てたりはしない。もっとも人気者である彼女が離れて暮らすことを残念がる向きはあったらしいが。
その代わり、彼女には一つ大事な仕事があった。外から来る"食糧"を受け取る役である。
「また少ないねえ。これじゃいつも通り喧嘩だよ。」
「へぇ、申し訳ありません。」
忌み嫌われた力を持つとされた人外が、怨霊の監督と引き換えに築き上げた旧地獄の妖怪社会。そんな追放者の隠遁地にも、今ではそれなりに陽気で楽しい日々の営みがあった。少なくともヤマメをはじめとした地下の住人達になんら不満はない。呑んで騒いで喧嘩して……本能に従った、古の妖らしい生き方だ。それでも全てが満ち足りた、とまではさすがにいかない。とりわけ頭を悩ませていたのが、食べ物――特に人間の確保だった。
ぺこぺこ頭を下げる小太りの男にも、つらつら愚痴を零す妖怪少女にも真剣さはない。取るに足りない世間話を男と交わしつつ、ヤマメは男が引っ張ってきた"荷物"を数え上げていく。頭から麻布を被せられた人間共を。みな両手を縄で縛られ、数珠繋ぎのように一列に並べられていた。五人おきに一つ結び目があるのは数えやすくする為だろう。そう、それは間違いなく"物"なのだ。
半妖の男は簡単な書類を小さな土蜘蛛へと渡す。ヤマメはそれにざっと目を通し、やっぱり少ないねぇと同じ愚痴を垂れる。遠慮のないはすっぱな口ぶりは、あどけない風貌に似合わぬ芯の強さを感じさせた。
胸元から巾着袋を取り出し、逆さにして振る。金粒がヤマメの掌にぱらぱらと散った。適当な大きさのを2,3粒見繕うと、男の手にそれを転がす。「毎度どうも」の声とともに彼はまた深々と頭を下げた。これが男の実入りというわけだ。彼みたいな半妖が、外でそれなりに生きていこうと思えばこんな仕事に手を染めでもするしかない。妖怪にはできず、かといって人間は絶対にやりたがらない仕事を。
客観的に見て彼は成功した部類の半端者と言えただろう。こうして仕立ての利いた羽織を着込み、洗練された物腰で商いをこなせるのも、その出自を思えば十分な敬意が払われてしかるべき立身出世だ。人と妖がすっかり疎遠となった近年の幻想郷では、それはある種奇跡に等しい。
鹿威しみたいに礼を繰り返す男をどうにか帰らせ、ヤマメは"荷"の内訳を確認する作業に入る。半妖からもらったリストと照らし合わせていくのだ。そして橋の向こうまでこれを運び、鬼――土蜘蛛にとっては親分格だ――に渡すまでが彼女の仕事となる。
「キスメ、赤札は8つでいいかね?」
「うん。あと、黒が4つ」
書類を持ったキスメに確認を取りつつ、ヤマメは"食糧"に下げられた荷札をチェックしていく。ここに来る食糧の仕入れ先は、大きく分けて4つある。一つは外から――地下の連中からすれば「外の外」か――引っ張ってきたもの。彼らには白い札がぶら下がっている。一方青い札がついたのは、姥捨て、間引き、口減らしといった幻想郷「内」の人間。だが幻想郷の人間は青札だけではない。例えば罪人。以前は里から追放して妖怪に喰われるままにしていたのだが、下手に生き残る連中が出てきたので地下に流すことになったのだ。彼らは赤い札で区別され、どう喰っても――踊り食いから丸焼きまで――いいことになっている。そしてもう一つが黒札、病人だった。
手慣れた様子でヤマメは黒札の数を確認する。病によっては肉が痩せるので妖怪達には敬遠されがちな黒札だが、病気を操ることが出来る彼女にとっては特段忌避の対象ではない。
「ありゃ、5つあるぞ?」ヤマメはひょっこりと顔を上げる。「なんだい。あいつまたヘマやらかしたかね。」
キスメをもう一度問いただすも、書類には確かに4と書いてある。詳しく中身を見れば女が3、男が1だ。なのに黒い札がついた男は2つ。1つは年寄り。ヤマメは能力を使って中に巣くう病原菌を見定める。見えてきたのは結核菌、さすればこれは名簿の通り。であればおかしいのはもう一方、まだ若く見える男だ。
ヤマメは仕方なくそいつの頭に被さっていた麻袋をひん剥く。出てきたのはぼんやりと白く輝く、細面だった。
「……天女様ですか?」
最初に言ったのはそれだった。要らぬ手間にむくれ面だったヤマメも、瞬間真顔になる。見立てどおり年は20を過ぎたあたり。見とれるほどの造りではないが、人のよさそうな顔立ちだった。線の細い髪は青みがかった黒で、薔薇色に濡れた唇は女のよう。しかしその一方で、とろんと光の弱い瞳や石のような無表情、奥から滲み出る生気のなさ――そんなものがせっかくの魅力を曇らせてもいた。
出会い頭に見つめられながら、そんなことを言われたヤマメの心中はおそらく困惑だけだったのだろう。しばしぽかんと口を半開きにしていた彼女は、突如くくくと笑いをかみ殺す。向かいの少女の破顔に、今度は男がぎょっと目をむく。
「ははっ――」ようやくヤマメは落ち着いた。「ったく、天女様はよくできてたね。まあいいや。残念ながらここは天国なんかじゃないよ。地獄の入口。あんたはこれからあの世に行くため、あたし等の腹を満たすのさ。」
「腹を、でございますか?」
「そ、妖怪の腹をね」
ヤマメはちゃっちゃと説き伏せた。こういう時ははっきり告げてやるのが一番だと思っていたからだ。
口を噤んだ男に、再び麻布を被せようとする。"餌"と長い間喋ったりするのは双方にとって得策ではないと、彼女は長年の経験からよく知っていた。
しかしそれは阻まれる。伸びるヤマメの手を、男がひらりとかいくぐったのだ。余計なことを思い出したかと嘆息しかけた彼女へ、男は心から申し訳なさ気に呟いた。
「おやめ、下さい……私なぞに触ると、穢れが伝染りますゆえ。」
そして麻布をひったくって自分から被ろうとした。これにはヤマメもいささか驚いたのだろう、再び麻布をひったくり返す。
「だめです。私の付けていたものなど触りますと、貴女様にまで穢れが――」
「ああ、もしかしてあんた……」
言動に思い当たる節があったのだろう。まじまじと男の顔を、臓腑の内に棲む病原菌を見定める。軽く頷き、ヤマメは男の言動の意味を理解した。
「なるほど、"らい"か。」
男は何も言わない。肯定と少女は取った。ヤマメは引き締めていた表情を崩す。
「はっ、ほんとにさ、人間はよくわからんよ。"らい"なんてたいした病気じゃないってのに。」
「いけません」近づこうとするヤマメに男は後ずさる。「貴女様のようなお美しい方に私の穢れを伝染しとうございません。」
これにはヤマメも再び固まらざるを得なかった。さらっと告げられたその言葉に反応できなかったのだ。なぜだか心臓が跳ねる。急に窟内の温度が上がった気がした。
「……ばっ、バカ何言ってんだい……」
そのまま口を真一文字にして押し黙る。男は不思議そうに正面の少女を見つめたまま。どうかしたのかと心配したキスメも近寄ってくる。ヤマメは荒っぽくうなじを掻き上げると、苛立たしげに吐き捨てた。
「ああもうめんどくさい!」
そして男に身を寄せる。今度は有無を言わさず。押し返そうとする彼の肩を掴んで、頭を引き寄せて、そして口づけした。
「えっ……」
丁度二人の足元まで来ていたキスメもこれには声を失ってしまった。男も何が起きたのかわからず、なすがままに受け止めるだけ。接吻はどれだけ続いたのか、ヤマメの中ではたいした時間ではなかった。
「はいよ。治った治った」
つっけんどんな態度で、男の肩をトンと突いて押し剥がす。そしてぷいと顔をそらした。事情が飲み込めず呆然とする男。ヤマメはそっぽを向いたまま、説明を並べ立てていく。込み上げるものを逃がす為、やたらめったら口を動かし続けているだけにも見えた。
「あんたの中のらい菌はみんな吸い取ったよ。これで黒札は4だ。ったくもう……」説明の最中も手は忙しなくうなじをさすり続けていた。「らいなんてね、感染力は弱いわ潜伏期間は長いわ毒性だって低いわと、あたしら病原菌の間じゃとんだ間抜け扱いされてるってのに、ほんと一体何をそんなに怖がってんだか。他にもっと怖いもんがあんだろうさ。天然痘とか狂犬病とか、黒死病だってそうだね。最近じゃ他にも色々と――」
「ありがとう、ございます」
そんな当てもない独白は、男の一言によって終わりを告げる。頭と膝がつくのではないかと思うほど深々と頭を下げた彼は、そのまま頬をほころばせる。澄み切った、しかし無色の笑みだった。
「かつて光明皇后様はらい者の膿を吸い出し、我々の業を払おうとして下さったと伝え聞いたことがありますが……まさか同じことをして下さる方がおられるとは……」
もう一度こうべを垂れる。そしてヤマメの指先を両手でそっと包み、恭しく額を寄せた。
「本当に、これほどの慈悲を掛けて頂いたことはありません。死ぬ前に貴女様のような方とお会いできて、何と感謝すればよいか……」
多分、これがいけなかったのだ。病を統べる能力――そんな人から忌み嫌われるだけの力に捧げられた心からの賛辞が、触れるだけで爛れると恐れられた自分の指を愛しむその無垢な感触が、ヤマメを狂わせてしまったのだ。
それがどんな結末を迎えるかなど、本当は彼女にだって勘付けたはずなのだから。
■ ■ ■
伊吹萃香は千鳥足で洞窟を上っていた。昨夜の酒がよかったのか、単に癖なのか、鼻唄交じりにふらふらと。小さな旋律が洞窟に反響して膨らんでいく。鉛色に塗れた細道をしばし進むと、ぼんやりと光を零す洞穴が見えた。
「おぉ、キスメじゃん。元気かね?」
「はい。こんにちは……」
入口前でゆらゆら浮かんでいたキスメに、萃香は上機嫌で声を掛ける。キスメはやはり照れた様子で、しかしぺこりと頭を下げる。萃香も赤ら顔を緩ませて、キスメの頭を撫でた。
「ヤマメはいる?」
「はい、ヤマメちゃんなら……」
そうキスメが言いかけた時、萃香の耳に珍しいものが届いた。引かれでもするようにそっちを振り向く。キスメは慌てたそぶりで萃香の注意を惹き戻そうとする。しかし彼女の必死の努力は目に見える形にはなってくれなかったようだ。
両の手をわたわたさせながら言葉にならぬ声を漏らすキスメを放って、萃香は音の方へ向かう。それは唄、しかし先ほどの萃香とは比較にならぬくらいよく通った、懐かしい者の響きだった。
よしや思へば何事も
(仕方ないことです、思えば何事も)
報いの罪によも洩れじ
(前世に犯した罪の報いから洩れることはないでしょう。)
身はなほ牛の小車の
(我が身はやはり恨めしく、牛車のように巡り巡って)
廻り廻り来て何時までも
(またこの世に帰り、いつまで同じように苦しむのでしょうか。)
妄執を晴らし給へや
(この迷いの心を晴らしてください。)
妄執を晴らし給へや
(どうかこの迷いの心を晴らしてください。)
そこで一息入れた男に、萃香は小さく拍手を送る。謡うに夢中だった彼は、ふいの聴衆に気付き得なかったらしい。驚きふためく歌い手に、萃香はさっきより少しだけ酒気の抜けた顔で笑いかける。
「お見事。いい声だ」
「……そんな」
「謡曲とはまた懐かしい。『野宮』だね」
小岩に腰掛けていた男の横に、萃香もひょいと腰掛ける。そしてへへへと人懐っこく笑う。本能だった。人間とこうして話すなんて、鬼である彼女からすれば本当に懐かしいことだったのだから。
「すみません」男はまた頭を下げる。「何の唄だかはよく知らないのです。見よう見まねで覚えただけでして。」
「ほう、なら余計たいしたもんじゃんか。」
「唄の意味さえ知らぬ有様で。お恥ずかしい限りです」
「別に謝るこたぁない」と萃香は返す。知らぬならそのままの方がいいだろうとも思った。「まあ、橋姫の前じゃ謡わないことだね」と冗談交じりに付け足して、萃香は腰につけた瓢箪を呷る。
男は戸惑いがちに横に腰掛けていた。彼より頭一つほど小柄な、ヤマメと変わらぬぐらいの背丈をした少女は、しかしたいそう威厳のある佇まいをしている。己の業を伝染してしまわぬかと要らぬ不安に駆られた男も、思わず口に出すのを躊躇ったほど。それはやはり鬼という種族が生来併せ持つ性質なのだろう。
しばし並んでいた人と鬼に、足音が迫ってくる。キスメを連れ立ち息を切らしながら走ってきたのはヤマメであった。
「おう、悪いね急かしちゃって」
「いえ、そんなことないですけど。あの、えと……萃香様、これにはですね、ちょいと事情がありまして……」
挨拶もそこそこに、ヤマメは弁明を切り出す。もっともその"事情"とやらを訊かれても、彼女は答えられなかっただろう。しかし萃香とてそこらへんの道理はよく弁えている。愉快げに酒を滑らせてから、にかっと訳知り顔をつくる。
「そう気ぃ揉むなって。卸の途中で一匹二匹数が合わなくなるなんて、よくあることさ。つまみ食いとか、まぁその他もろもろの意味で美味しく頂いちまうとかでねー」
「いや、だからそんな大層なもんじゃなくてですね……」
「照れんなよー初心じゃあるまいし」真っ赤なヤマメを肴に、萃香はまた酒をかっ食らう。「攫った人間をつい見初めちまう――あたしらだって上にいた時ぁそんなのよくあったもんさ。土蜘蛛だってそうだろ?」
「いや、確かにまあそんなこともあったかもしれないですけど、こいつはただ……」
狼狽しきったヤマメを見て、萃香はまたからからと笑う。こんな彼女はめったに見れるものではない、そう思ったからだ。
普段のヤマメは勝気な女丈夫で通っていたし、実際そうと言って差し支えなかった。見た目の未成熟さと反比例するかのような姉御肌で、人付き合いも竹を割ったよう。それは誰とでもすぐ打ち解けてしまう快活さとも繋がっている。面倒見のいい男勝りの性格でありながら、今みたいに少女っぽいそぶりを時たま覗かせたりもするとくれば、旧都の連中に人気があるのも頷けよう。
「ま、なんだっていいさ」萃香はふっと表情を柔らげる。「卸の勘定が気になるってんなら勇儀あたりに言っときゃ平気だよ。なぁに、別にんなことで文句言う奴いないって。せいぜいあんたに熱上げてるアホたれどもがよよと枕を濡らすくらいのもんじゃないかな?」
「もう……萃香様!」
「なんだいはっきりしないねぇ、じゃあ私が攫っちゃうぜー」
ふざけ半分に男に抱きついた萃香。それまでずっと困ったふうに俯いていた彼がおずおずと声を上げた。
「いけませんお嬢様。業病に蝕まれたこの体に触れるなど、恐ろしいことにございます……」
ふざけていた鬼も、さすがに手を止める。ヤマメは「あぁ……」と天を仰いでいた。狐につままれたような顔で、しばし上から下まで男を眺めていた萃香は、なにやら合点がいったのか大声で笑い飛ばす。
「あっはっは、なるほど業病とは。これまた懐かしい響きだ。"らい"ってわけか。」
「申し訳ございません。最初に申し伝えておけば、お嬢様に不快な思いをさせず済んだものを。」
とびきり恭しく、男は頭を下げる。萃香はそれにあまり注意を払わず、ヤマメの方に視線を遣った。向こうは苦々しげな顔をつくったまま。
「菌は払ったんですが、どうもわかってないみたいで……」
「まあしゃあないね」
ぴょんと、萃香は飛び降りる。岩に腰掛けたままの男へ、代わりにヤマメがせかせかと近づく。
「みっともないとこ見せんじゃないよまったく……」
「黒谷様。あのお嬢様大丈夫でしょうか。あんなことを――」
「ああもう……ばかっ!」
男を引っ張り降ろして、小突くヤマメ。そのやり取りを萃香は満足げに観賞していた。横にいたキスメとなにやら含みのある視線を交わし、延々と愚痴を零し続けるヤマメを呼び止める。このままだといくら待っても終わらなそうに見えたからだ。
「そうだ、ここ来た目的を忘れるとこだった。ヤマメ、実はちょいと手伝って欲しいことがあんだけどさ」
「え、あっはい! 何でしょうか萃香様。」
慌てて振り返るヤマメに軽く頷きかけてから、萃香は続ける。
「実は地霊殿の増改築をすることになったんだ。ほら、前直したのって確か100年くらい前だろ。しかもさとりの奴またペット増やしたらしくてねぇ。方々にゃ声掛けてんだけど、あんたがいれば色々助かるってんでさ。」
「あ、ああはい。それなら喜んでお手伝いさせていただきます。」
「悪いねぇ。じゃあ明後日くらいから着工すんじゃないかなーって感じなんで、来れる時に地霊殿まで来とくれ。」
確かに萃香の言うとおり、ヤマメは建築を得意にしている。鬼も元より大工仕事は十八番だが、細かい所の話となると土蜘蛛の方がずっと上手だ。彼女はこういう面でも皆から信頼を得ていた。
手早く用件だけ済ませた萃香は、またにやけ面に戻る。
「それじゃ退散するとするか。邪魔しちゃ悪いしねー キスメ、あんたも長居しちゃ悪いよ。一緒に来るかえ?」
「萃香様!」
「おうそうだ」声をひっくり返すヤマメを笑いすかして、彼女は男に視線を向ける。「お前さん、名前なんてんだい? 聞きそびれるとこだったよ。」
「名前は……すみません。覚えていません」
か細い声だった。上気したヤマメにも、へらへら笑っていた萃香にもまとめて冷や水をかけるような声。男は控えめな愛想笑いを浮かべたまま。それ以外の表情を忘れてしまったかのように。
「覚えていない」という言葉にどれだけの意味が含まれているのかと、萃香は馳せる。いやおそらくこの地底に住まう者であれば、誰とてその含みを理解できたのだろう。
萃香はしっかりと笑顔を造り直す。少しだけ乾いた、しかし優しい笑みを。
「そっか。それならそれで構いやしないさ。じゃあ色男、次来た時にゃまたさっきの唄聞かせておくれ。今度は頭っからね。」
僕は知っている。妖怪達は、
人間にそう思わせとけば平和に暮らせるという事を。
妖怪は人間よりずっと平和で現実的だという事を。
――蓬莱人形 5.東方怪奇談
〜 Stage U 〜
地底には"朝"がない。太陽がないのだから当たり前である。だからヤマメが寝床から体を持ち上げたのが何時であったか、それは彼女にもわからない。朝がなければ夜もまたないのだ。
とりあえずいつもと同じくらいの時間睡眠をとったはずと思いながら、ヤマメは目を開ける。ひんやりと、それでいてじめっとした風が洞穴をかき混ぜていた。下ろしていた金色の髪がかすかに靡く。風が岩肌にぶつかる音――笛の音にも似て彼女は好きだった。しかしここしばらくは違う。別の音が混じるのだ。
「またかい……」
ひとりごち、身を起こす。ヤマメの住処は手のような形をしていた。掌にあたる広めの空洞から、5つの小さな小空洞が枝分かれして延びている。掌の部分を居間に充て、指のところをそれぞれ寝室や物置、"食糧"庫なんかに充てている。「人さし指」の小部屋から一旦居間へ出たヤマメ。居間にはありふれた調度品が並んでいて、そこが洞穴とは思えないほど。異音は「薬指」の穴からだ。
そのまま乗り込むつもりだったが、褥から上がったままの格好で行くのはどうも気が引けた。タンスからリボンといつもの服を引っ張り出し、身支度を整える。卓袱台の前で寝起きの間抜け面を何度か叩いてから、結わえた髪をもう一度直し、ヤマメは問題の小部屋へと入っていった。
「朝から精が出るね、まったくさ」
皮肉たっぷりの挨拶に男も気付いたらしい。一心不乱に唱えていた念仏を止め、正座のまま振り返る。彼女は眉をひそめながら、深々と礼を向ける男の前にしゃがみこむ。
「頼むから朝っぱらは勘弁しとくれ。念仏なんざで目覚めるのはぞっとしないよ。」
「ご迷惑なのは承知しております。ただ、私の業を払うにはこれしかないのです。」
揺らぎのない面差しで告げてくる。ヤマメはそれ以上言う気が失せてしまった。悟ったような、死んだような顔に一体どんな言葉なら染み込むのかと瞬間慄然としてしまって。
起きている時間のほとんどを、彼は祈りの時間に充てていた。自らが患った"らい"という病は、前世になした悪業の結果だと骨の髄まで叩き込まれていたこの男は、ただ己が業を払うことのみが、自分の残り"僅かな"命に――もっとも"らい"のみで死に至ることはないのだが――科せられた使命と信じて疑わなかった。それこそ愚直なまでに。
目眩に似たものを覚えたヤマメ、その苦悶の表情を彼は己が業の深さへ向けられたものと受け取ったのだろう。自分を慮ってくれる妖怪への感謝で胸を一杯にしながら、また機械のように頭を下げる。
「明日からは外で行うことにします。黒谷様に失礼があっては善行となりえないでしょう。」
「……冷えるだろ。ばか」
と言いながら側に転がっていた布切れを男に被せる。最初にここへ来た時から変わらず薄手の麻着1枚で、草履一つ履こうとしない。重たい溜息を吐いたヤマメに、男は小さくお辞儀を返す。とても行儀のいい、虚ろな礼だった。
「今日から、しばらく旧都へ通わなくちゃいけなくてさ。キスメは来てくれるけど、あんたも迷惑かけないで大人しくしてるんだよ。こないだみたいに勝手に外出て唄なんか謡ったりすんじゃないよ。」
「へぇ。わかりました」
「その、まぁ気が向いたらさ、土産ぐらいは買ってきてやるから……」
そこで言い淀む。すっかり俯いてしまった女に、男は不思議そうな視線を返すだけ。地面へ眼を突き刺したまま、ヤマメは無言で色の失せた男の足をさすり続けていた。
■ ■ ■
「おうヤマメ、いらっしゃいいっらっしゃい」
少し遅れて地霊殿に到着したヤマメをまず迎えたのは、笑顔の火焔猫燐だった。
「ああ、ごめんよお燐。ちょっと遅れちまって」
「何言ってんだい。礼言わなきゃならないのはこっち。」
ヤマメの謝罪を軽く流しながら、燐はひょいひょいと助っ人を中へ案内していく。地霊殿のペットの中でも頭抜けた実力を持ち、また頭もよく切れた彼女は今回の工事の監督役を任されていた。
「どれくらい集まってるんだい?」と訊いたヤマメに、
「うーん鬼は勇儀が集めてくれたみたいで結構いる。あと一輪と雲山が来てくれてるよ。力仕事には困んないね。」
と燐は返す。廊下は薄暗く、なのにステンドグラスの極彩色が目に眩しい。この採光も直せばいいのになと、ヤマメは常々思っていた。
中央玄関から右手に入り、複雑に入り組んだ通路を進む。つぎはぎで増改築したせいで歪みきった導線も、この屋敷の不安感を増幅させる理由の一つだろう。それは家主そのものだ。根はいい奴なのに、積み重なった歪みが彼女を不気味なものに見せている、多分それだけなのだ。
一番奥の扉を開ける。分かりやすい"工事中"の注意書きを抜けると、とびきり威勢のいい声がヤマメを迎えた。
「おう、ヤマメ来てくれたのかい!」
声の主は星熊勇儀。みっしりと肉がつまった腕を振り、満面の笑みでヤマメの来訪を迎える。頭に巻いたいかにもな感じの捻りはちまきが、逆に彼女の正直さをよく表していた。
勇儀の声に、取り巻きの鬼達も喝采を上げた。さすが人気者と言ったところだろうか。歓迎の声が続々と押し寄せる。たまらず横にいた伊吹萃香が「手ぇ休めんな!」とどやしつける。そうも言いながら彼女もやはりうれしいのだろう、自分の背丈を優に超える資材を片手に、ヤマメへひょいと手を振って応える。
「すみません皆様、遅れてしまいまして」
「だーかーらー無理言って来てもらってんのはこっちだって。ねえ勇儀?」
と横から燐。勇儀も「そうそう」と続きかけたが、後ろの怒号にかき消された。
「だから、結局これはどこ持っていけばいいのよ!?」
「うにゅー えっと、どこだっけ?」
見ればやりとりの主は雲居一輪と霊烏路空のようだ。雲山ともども腕いっぱいの資材を抱えながら、首をひねる空にあきれ顔の様子である。
地霊殿のペットの中ではそこそこ強く、人型にも変化できた空であったが、なんせ元が下賎な地獄鴉である。力にも限度があったし、何より致命的に頭が鈍かった。
溜息を吐きながら二人の元に駆け寄った燐は、空に預けたはずの指示を一輪に説明し直す。そして横で頭を掻く友人へお決まりの愚痴を垂れるのであった。こういう二人のやり取りも、またここの連中にはお馴染みだった。
「こんちは一輪。」その隙にヤマメは一輪と挨拶を交わす。「なんか大変そうで」
「ああおはよう。ヤマメもあんな遠くからわざわざご苦労様ね。」
「慣れてっから。それよか村紗は来てないの?」
「村紗は店の仕込み。どうせ終わったらこいつらがどっと押し寄せて来るんだから、多めにやっとかないとねって」
「はいじゃー皆さんちゅうもーく!」
雑談をしていた二人の脇をするりと縫って、燐はいつの間にか場の中心に陣取っていた。わざとらしく咳払いをいれてから本題へと戻る。
「では改めまして皆さま、本日はようこそおいでくださいました。旧都を代表する暇人達が一堂に会してくださり、あたいとしても感謝感激雨霰でござりまする。毎世紀恒例の地霊殿改築計画でどうぞ健全な汗を流していって下さいまし。ちったぁ精神の方も健全になるかもしんないですからね。」
やんやと合いの手が入る。十分盛り上がったところで燐は続けた。
「まあ冗談は置いといて、作業としてはいつも通りってことで。細かい設計なんかはヤマメにやってもらうし、現場監督は勇儀に任せてあっからそこんとこよろしく。屋敷の備品とかで分からないことがあったら遠慮なくあたいに訊いてね。間違ってもこの鴉には訊かないように。ちぃとも信用できないんだこれが。」
むくれる空にまた笑いが飛ぶ。こんな具合に志気を高めるのが燐の主な仕事である。だからこう言って締めればよい。
「じゃあちゃっちゃと片付けちまおうか。当ったり前だけど、終わったら打ち上げやっからちゃんと余力残しといてね!」
■ ■ ■
その日の工事は滞りなく終わった。むしろ予定より早く進んだくらいだ。適当な連中ばかりと言えどみな腕は立つ。この後のニンジンに釣られただけかもしれないが。
「じゃ、かんぱーい!!」
燐のお囃子に、連中は今日一番の声で続く。ここは旧都の住人にも馴染みの店、古びた木造りの酒場だった。船の面影をところどころ残した内装は地底には不釣合いな代物にも映ったが、客の品のなさに反してなかなか洒落ても見えた。
「焼きトカゲお待ち!」
弾けた声の主は村紗水蜜、酒場「聖輦船」の女将だ。ぎっしりと席を埋めた呑んだくれ共の喚き声に負けぬ、張りのある声だった。作った料理を投げでもするようにぽんぽんと卓に並べつつ、続々と舞い込む注文にも倍の勢いで応えていく。
一輪や雲山とともに地底に封印されて数百年、彼らもすっかり旧都の一員だった。飛倉と一緒に封印された船――聖白蓮からもらった第二の"体"――も、今では使える船室を用いて店と寝床に充てている。
「大丈夫村紗、手伝うわよ?」
「何言ってんの。一輪はもう今日散々働いたんだから呑んでなさいよ。つうかぬえ、お前はサボんな!」
カウンターに座る一輪をたしなめつつ、村紗は卓のど真ん中で酒をかっくらう封獣ぬえをどやしつけた。そのまま襟首をつかんで調理場まで引っ張っていく。
「何すんだよ村紗! せっかく盛り上がってきたとこだってのに。」
「あんたは盛り上がんなくて結構。店の仕事手伝う代わりに居候させてやってんだ。ほら早くこれ運ぶ。」
自称平安最強の妖怪も、村紗の剣幕にはなす術なく押し切られてしまうらしい。ぶつくさと何事か呟きながら給仕の仕事に戻るぬえ。
いつ頃からか、この正体不明は村紗達と一緒に、この船へ腰を落ち着けていた。根無し草そのままの暮らしを送っていた彼女にしては珍しい気紛れと言えたかもしれない。まあそれでも性根は変わらないようで、10分もしないうちにまた仕事をほっぽって酒を呷り出すのだろうが。
大盛り上がりのテーブル席を横目に、ヤマメはカウンター席でちびちびやっていた。元来つきあいが悪いわけではない。天狗と伍するくらいのうわばみだし、興に乗ると唄い出すのが常で、それを楽しみにする者もいるくらいなのだから。いつもと違うそぶりに、すっかりできあがっていた萃香がふらふらと横に座る。
「どした、あんまり進んでないじゃん?」
「あ、ああ……すみません」
萃香の酌に、ヤマメは慌てた様子で相伴する。舐めるように口に含み、必要以上に舌で転がし喉へと滑らせる。そしてようやく話を切り出した。
「あの……ここいらに履き物屋ってありますか?」
「履き物?」向かいの調理場で串を打っていた村紗がさっと引き取る。「それならこの先の路地を入った所にあるけど?」
恐縮げに頷くヤマメ。そこまで至ってようやくへべれけの鬼も勘付いたらしい。萃香は先日のしたり顔に戻った。
「ははーん。そっかそっか……どうも酒が進んでないと思ったら、良人のことで頭がいっぱいだったってわけか。ふーん……」
「いえ、ですからあいつはそういうんじゃなくて――」
「え! ヤマメ彼氏できたの!?」
すかさず食いついたのは村紗だった。一際通る声に馬鹿騒ぎしていた連中もぴたりと止まる。あるいは言葉の内容が衝撃的過ぎたせいかもしれないが。一同の視線が残らず小柄なヤマメへと集まる。向けられた方はもう耳まで真っ赤にして俯くだけ。それはどう見ても"イエス"だった。
しじまの下りた酒場がたちまちにして蜂の巣をつついた騒ぎとなる。女連中が「どんな奴?」とヤマメを囲む一方で、「俺のヤマメちゃんが……」「そんな、嘘だ!!」「畜生、神も仏もいやしねぇ!!」と悲鳴をあげる男連中。終いには本当に泣き出す奴まで出てくる始末だ。半分は酒の勢いだと思いたいが。
貝になったヤマメの隣で萃香が得々と解説を始める。
「なんとそれが人間。ほらこないだ"食糧"が届いたろ? あれよあれ」
どよめく酒場。ヤマメ親衛隊は「よりによって人間かよこんちくしょう!」と地団太踏んでいる。今度は勇儀が不思議そうな顔で寄ってきた。
「でもこないだもらった"食糧"は数も中身も合ってたろう?」
「それが、あいつまたリストを書き間違えてたみたいでして……はい」
ヤマメはようやくこれだけ搾り出す。勇儀も一応納得はしたらしい。しかし村紗はまだ満足してなかった。一段と乙女らしく顔を輝かせ、カウンターを飛び越えんばかりの勢いで問いを繰り出す。
「で、どんな人なの?」
「それがびっくり。優男さ。」
答えたのは萃香。またもテーブルに居並ぶむさ苦しい男性陣から悲鳴が上がる。彼女は気にせず続けた。
「"らい"みたいでね。何でも治したら「私の光明皇后様にござりまする」とか言われちゃったみたいで――」
「もう堪忍してくださいよ萃香様!!」
「はっはっは! そりゃいい。洒落たくどき文句だ!」
勇儀も高笑いで返す。後ろの一座も笑ったが、男自体には興味なさげでもあった。今は旧都の男衆をことごとく袖にしてきたヤマメの色恋沙汰の方が重大だったのだ。だから"らい"という言葉に関心を寄せる者はなかったし、実際病気のことをちゃんと聞かされたとしても、彼らには大した意味を持たなかったろう。
「そっかあ」ただ一人、村紗を除いては。「"らい"か、懐かしいね一輪」
「え? ああ、そうね……」
生返事しか返せなかった一輪。しかし村紗は構わず続ける。何か遠くのものを見ているふうでもあった。
「寺にいた頃は、よく"らい"の人とかの面倒みたりとかしたなぁ……その彼氏さん、目は見えるの?」
「うんにゃ、そんな悪くなかったよ」萃香が問いを引き取る。「まだ発症してから日も浅いんだろ。指や顔も別に崩れちゃいなかったよ。」
「あら、それならよかったじゃない。早めに治療できたんだ。」
自分のことみたいに安堵する村紗に、ヤマメはなんと返すべきか一瞬迷う。"治療"できたんだろうか――そうふと疑問に思ったからだ。
「うん、そだね」だから煮えきらない返事しか出なかった。「菌は除いたからね。もう、これ以上悪くなったりはしないわな、うん。……いや、ちょっとお礼したいって思っただけなんだよ。何でか感謝されちまってね、こんなけったいな力持ってる妖怪にそんなこと言う人間初めてだったから……だからさ、別にたいした意味じゃなくて、ただまともな格好させて、普通に暮らせるくらいにはしてやろうかなって、ついなんとなくさ……」
「ああ、だから草履か」
村紗は合点がいったふうに小さくはにかむ。またしおらしく下を向いたヤマメの後ろでは、彼女を祝福する盛大な乾杯が起こっていた。
■ ■ ■
「いやぁ呑んだ呑んだ」
ご機嫌で前を行く萃香、すぐ後ろにはヤマメと勇儀がいる。確かによく呑んだ。終いには村紗の店にあった酒が底をついてしまったのだから。仕方なく別の店へ繰り出した連中の誘いを振り切って、彼女たちは旧都の表通りを歩いている。
「呑んだ呑んだ」と言いながら絶えず伊吹瓢を呷る萃香に苦笑いを向ける二人。ヤマメの手には帰りに買った草履と一張羅が抱かれていた。買い物に付き合うと言い出した萃香に、どこか危なっかしさを覚えた勇儀が同行したのだ。
鬼の頭目クラス二人にもっか時の人が抜けた二次会メンバーはさぞ意気消沈と思いきや、変わらず陽気に繁華街へ繰り出していった。そんなもので落ち込むようじゃここではやってられないのだろう。
「ヤマメも無事買えてよかったじゃん。旦那様へのプレゼント」
右へ左へと寄れつつ、萃香はヤマメを冷やかし続ける。ヤマメも反論するのに疲れたのか、「はいはいそうですね」と適当に流す。気のおけないやりとりに勇儀も楽しそうだった。一見すれば。
「勇儀もなに黙ってんのさー ありゃ、もしかして妬いてる?」
口調は同じまま勇儀に話を振る萃香。長年の間柄だ、妙だなと気取ったのだろう。さっきから話題に乗らず、後ろから視線を投げてるだけの友人は確かにらしくなかった。
「んなことあるかい」勇儀の声にはやはり迷いが見えた。「のろけ話聞いてたら酔いが醒めちまったのさ。今日はもう帰るよ。」
「あんだよ、もう一杯行こうぜー」
萃香の誘いを勇儀は無言でいなす。もう大通りは終点。旧都の外れに架かる橋のすぐ側まで来ていた。その手前の路地を入った所に並ぶ長屋が、勇儀の寝床だ。
「じゃあヤマメお休み。今日は苦労かけたね。暇があったらでいいからさ、またいつでも顔出しとくれ。」
「いえいえ。明日も行きますので。」
「そっか。うん。じゃ良人にもよろしく」
「もう、勇儀様までのっかんないで下さいよ!」
笑いめかすヤマメにやはり勇儀も笑って返す。いつも通り裏のない、でも無理に造ったような笑みだった。
「じゃああたしも帰るかー」
「今日はいろいろありがとうございました。」
「礼言われるようなことなんてしてないさ」頭を下げてくるヤマメに照れる萃香。「じゃあ旦那さんによろしく。邪魔になんない時にでもまた顔見に行くよ。」
それだけ残して萃香は霧になった。彼女がどこに住んでいるのか、ヤマメもよく知らない。そういう生き方しかできない性分だった。
一人だけになったヤマメ、草履と羽織を胸に抱えながら橋まで至る。酒が程良く残っていたのか、鼻歌でも漏れそうな気分だった。弾むように歩を進めていた彼女へ声がかけられる。甲高い、どことなく耳障りな音色だった。それは欄干に一人もたれていた少女から。
「楽しそうね。妬ましい」
金髪に尖った耳。鼻筋の通った白面。異国風の端正な面立ちを醜く歪ませて、水橋パルスィはお決まりの挨拶で迎える。言われる方も慣れているのだろう、ヤマメは人当たりのいい笑顔のまま答える。
「ああ、パルスィか。またなんか気に障っちまったかい?」
「別に。行きはもっと辛気くさい顔してたのに、まあずいぶんと上機嫌じゃない? 酒が入ればたちまち元通りってわけだ。単純だこと」
眉を顰め、パルスィはせせら笑うように語を継ぐ。ヤマメはちょっとだけ溜息を吐いてから、この口さがない守人に言った。
「じゃあ次は一緒にどうかね? 誰も嫌がりゃしないよ。」
「冗談。あいつ等と仲良く酒盛りだなんて、考えただけで反吐がでるわ」
首だけ横に回して唾を吐くパルスィ、飛沫はまっ暗い川面に消えた。
二人は別に仲が悪いわけではない。パルスィはこういうふうにしか話せない、そう理解してしまえばヤマメは特に気にならなかった。旧都の賑やかな連中も同じふうに考えているのだろう。誰とでもこんな調子のパルスィだが、毛嫌いしてる奴はあまりいない。
それはしごく当然のことだ。地上を捨てた嫌われ者が肩寄せ合って生きてる以上、陽気な連中だけが暮らしてるわけではない。パルスィみたいな人嫌いもわんさといる。そんな連中とは干渉しすぎず、向こうから来る時だけ迎える、そんな決まりが暗黙の了解としてあった。
パルスィみたいな連中からしてもそれでいいと考えている。ちゃんと距離を保ってくれればこっちから文句を付けたりはしない。それがこの地下で生きる者の知恵なのだ。
「ま、幸せだってんならたっぷり妬んでやりますわ」
「そりゃどうも。じゃあお休み。」
首をすくめるヤマメに渋い顔だけ造るパルスィ。別れてからしばし狭い道を進む。住処の洞穴は橋からさして離れていないところにある。
「まだ起きてたのかい?」
ぼんやりとした灯りの残る洞内に、男はこじんまりと腰掛けていた。ヤマメの声に口を噤み、しずしずと振り返る。念仏の残響がほこらに吸い込まれていく。
「ああ、お帰りなさいませ」
にこりと返される。ヤマメはもう見ていられなくなった。赤ら顔のまま、しかし酔いがすっかり醒めてしまったことに気付いて、たまらず口を開く。
「ほら、腹減ったろ」と包みをぞんざいに投げる。「魚。そんな旨かないけど、それなら喰えると思ってさ。」
中身を開く。地底湖で穫れる魚を焼いたものだった。旧都でもあまり出回っていない品だったが、村紗が包んでくれたのだ。
「わざわざ食事など、そんな滅相もない。黒谷様の食べ残しもありましたでしょう。」
「あれは人肉だよ。お前みたいなのが喰っていいもんじゃない」
「人の肉は"らい"に効くと、以前聞いたことがあります。」
「……ばか」
必要以上につっけんどんな口調になっていることに気づいて、ヤマメは少し唇を噛む。男は遠慮気味な様子のまま、魚に口を付けだした。ヤマメは鼻をすすってにじり寄る。
「ああ、ほら後これ」
串をついばむ男へ、ヤマメは草履と羽織を突き出す。彼は目を白黒させるばかり。
「出掛けに言ったろう? 服と履き物。女と同じ屋根の下で暮らしてるんだ。身だしなみくらいはちゃんとしとくもんだよ。」
そう言われても、男は手を伸ばさない。ただしげしげと、しかしどこかおっかなびっくりな様子で突き出された物を眺め回すだけ。そして
「よろしいのですか?」
と訊いてきた。ヤマメは口をへの字に曲げて
「何がだよ?」
と訊き返す。男はうつむき加減のまま答えた。
「黒谷様からこのようなものなど……申し訳が立ちません」
「何言ってんだい」ヤマメは苛立ちを隠さなかった。「お前に何をくれてやろうと、あたしの勝手だろ。大人しく着ろよ」
「……へえ」
かなりの間を挟んで、男はやっとこさ包みを受け取った。ようやく息ができると安堵しかけたヤマメ、その手に伸びた男の指が軽く触れる。あの時以来の感触は、びっくりするほど冷たくて、いくら自分の熱を伝えようと全て吸い尽くされてしまいそうなほど。ヤマメはいっそう慌てふためいてしまった。素早く手を引っ込め、突っぱねた口調で呟く。
「ったく……お前だって冷えるだろ? 今だってそうだ。せめて布の一つでも巻いとけばいいのに――」
「ああ、お気になさらないで下さいまし」男の声は平坦なままだった。「私、手足の先の感覚があまりないのです」
またかい、とヤマメは思った。卑怯だと感じることもあった。調子を変えず、世間話でもするみたいな口ぶりでこういうことを言ってくる男にだ。まだ泣き言やら恨み言を並べてくれた方がマシだとさえ思ってしまう。
「そうじゃないだろ」だからヤマメはくっきりとした声で告げた。「寒そうなあんたを見てるとね、こっちまで冷えてきちまうんだよ。だからさ……もう少し考えとくれ。」
言葉が途切れた。男は目を伏せ黙りこくったまま。ヤマメは拳一つほどの間を置いて、彼の横にちょこんと身を添わせる。酔いどれの四肢はこれ以上動くことを拒絶しているかのよう。放り出されたままになった男の手に、女はなんとなしに指だけ近づける。触れるのは、憚られた。
「ねえあんた。こないだの唄、萃香様に聞かせてたやつ、あれ謡ってくれないかい?」
「あれでございますか……?」
「や、かね?」
男はまた口をつぐむ。ヤマメは横でしなだれたまま。頭だけを彼の方へ傾け、じっと答えを待つだけ。男は大きく息を吸う。せり上がった肩とヤマメの結わえ髪は、かすかに触れたか触れないか。
露打ち払ひ 訪われし我も その人も
(露を払って、あの人に訪ねられた私も、また私を訪ねてきたあの人も)
ただ夢の夜と 経りゆく跡なるに
(今や夢の世とばかりに時は過ぎ、朽ちた跡が残るだけとなってしまいました。)
誰松虫の音は りんりんとして
(誰を待ってか、松虫がりんりんと鳴き、)
風茫々たる
(風が空しく茫々と吹いている)
野の宮の夜すがら 懐かしや
(この野々宮の夜もすがらは、懐かしく思われます。)
素晴らしい人間ですね。君からも学ぶ物があります。いや、学ぶ物がない人間なんて居なかったかしら……
――東方神霊廟:豊聡耳神子
〜 Stage V 〜
雲居一輪は重いまぶたを持ち上げた。あまり酒を呑まないように心がけていたのに、昨日は珍しく呑みすぎた。寝室から水場へとだるいままの足を引きずる。古い板張りの船内だったが、床が軋んだり抜けたりということは一度もない。それだけこの船を造った者の法力が強かったのだろう。後ろの雲山に見守られながら、目を瞑っても歩けるくらいの廊下道、ふらつく頭に響いたのは聞きなれた声だった。
それは水場へ行く途中に据えられた扉から。一輪は邪気のない苦笑いを浮かべ、戸に手を掛ける。開けていいのかと、すんでで迷ったのは事実だった。それでも彼女は戸を引き、声を掛けた。
「おはよう村紗」
「ああ、おはよう一輪。起こしちゃった?」
正座のままくるりと首だけ向けてきたのは村紗水蜜。質素な部屋は4畳ほど。奥にはこじんまりした仏壇が置かれている。あるものといえばそれくらい。先ほどまで彼女が唱えていた念仏の残響が、聖輦船に染み込んでいく。
「また朝から精がでるわね」
かぶりを小さく揺らしながら、一輪は村紗の横へ座った。そして手を合わせる。飾りの一つもない質素な仏壇には、毘沙門天の像と蓮の造花がひっそりと添えられていた。
久しぶりだなと、一輪はふと思う。地底へ降りてから、こんなふうに手を合わせ念仏を唱えることを彼女はぴたりと止めてしまった。一輪が帰依した毘沙門天へ、いや聖白蓮へ祈りを捧げることを。
もちろん敬い慕う気持ちが萎えてしまったのではない。ただどうしても辛くなってしまうのだ。抹香の匂いを嗅ぐと思い出してしまうから。あの時の幸せを、救えなかった後悔を。
「なんか久しぶりだね。一輪と一緒に朝のお勤めするのって。」
「そうね。でも今日はずいぶん早いじゃない?」
村紗は照れたようにはにかむ。彼女は一輪とは違い、毎朝白蓮への祈りを欠かさなかった。やらないとなんか気持ち悪くってさ――村紗はいつもそう笑い飛ばした。それは強がりなんだろうと、一輪はいつも思う。
それでも彼女は村紗を心から尊敬していた。きっと自分は逃げているだけ――そう思っていたからだ。それに比べたら毎朝欠かさず姐さんと向き合おうとしている村紗の方が、ずっと立派だと考えていたのである。
「なんか色々思い出して懐かしくなっちゃって。そんで寝付けなくてさ、だからつい」
口を噤んだままの一輪を横に置いたまま、村紗はとつとつと語り始める。仄かな幸福感を漂わせながら。
「ほら、昨日聞いたじゃん。ヤマメが"らい"の人と付き合ってるって話。あたしらも昔聖とさ、らいとかいろんな病気にかかって野宿してた人お寺に運んで、あれこれお世話したよね。」
一輪は無言で頷く。当然だろう。彼女とてあの頃の暮らしを忘れるはずがない。
現し世で苦しむ人々の救済から目を背け、寺院にこもり始めていた当時の仏教に抗うように、白蓮は見捨てられた人々を積極的に寺へ招き入れ、助けた妖怪ともども暮らしていた。その中には"らい"や天然痘といった風土病に苦しみ、あげく村を追い出されたような人も大勢いた。
「体拭いてさ、一緒にご飯作って食べて、人間と一つ屋根の下なんて最初はびっくりし通しだったけど、楽しかったなあ……」
村紗や一輪、白蓮に帰依していた妖怪達も彼らの世話を手伝った。みな最初は妖怪であることを隠していたが、しばらく暮らすうちにそういうことはあまり気にならなくなっていった。人扱いをされなかった人間と、忌むべき敵だった妖怪。両者にはその時確かな絆が生まれたのだと、命蓮寺の信徒達は確かに信じていた。そう思っていた。
「ええ。そうね、楽しかった」
でも、一輪は村紗のように思い出に浸れない。白蓮の行いを中央の施政者どもに密告したのは誰でもない、そうやって手を差し伸べたはずの"人間"だったのだから。
もう一度、彼女は深く手を合わせる。一瞬心に吹き上がった汚泥を払うため。判ってはいるのだ。あの男と白蓮の過去には何の関係もない。むしろ真に白蓮を慕うならば、村紗のように振舞えるならば、ヤマメと男の祝福を祝うべきなのだということも。
「姐さんも喜んでるでしょうね。あんたみたいな子を弟子に持てて」
「そんなことないよ。一輪の方がずっと頑張ってた。それに私みたいなろくでなしがいたせいで、聖は余計誤解されちゃったんだから。」
でも、それでも心が淀んでしまう自分がいる。一輪はそれをなによりも恥じた。恨んでなんかいない。思い出に浸りたくなかったのだ。追憶に沈んでしまいたくなかったのだ。あの、幸せだった日々を。
■ ■ ■
その日の工事もすこぶる順調に終了した。人手が増えたこともあったのかもしれない。今日は新たに村紗とぬえが加わった。昨日酒が先に底をついたせいで、仕込みせずとも何とかなるだろうという話だった。鬼あたりは肴にほとんど手を付けずドカ呑みすることが多いといえ、昨日は特にひどかった。ヤマメの話が知らずうちに杯を進ませたのだろう。
「けどさ、ぬえ、あんたってほんとサボってばっかだね。」
自分の店へと戻る道すがら、村紗の無邪気な声が大通りに弾けた。往来を賑わす仕事終わりの一団は、なかなか壮観な行列を成している。村紗のすぐ前を飛ぶぬえは、不機嫌さそのままむくれっ面を向ける。
「へんだ。何が悲しくてこの私があんなくんだらない作業やんなきゃならないのさ」
「暇そうにぶらぶらしてたから連れてきてあげたんじゃないの。感謝されたいくらいだわ。」
ぴしゃりと村紗に言われる。横では鬼たちが笑っていた。
「まあまあ。せっかく手伝ってもらったお礼ってことで、今日はあんたの分特別にあたいが持つよ。それでいいだろ?」
すっと脇からフォローを入れる燐。思わぬ申し出にぬえもまんざらではなさそうだ。これで人手が増えるのなら安いもんだと、腹の中でほくそ笑んでたのは燐の方だが。
「つってもさ村紗」もう機嫌を直したぬえが調子よく話題を振った。「私のことさんざんサボり魔呼ばわりしてるけど、他の連中だってたいして働いてないじゃん。くっちゃべってばっかでさ。」
「みんなは口も動かしてるけど手も動かしてんの」
「どうだか」ぬえはぴょいと宙に舞った。「どいつもこいつもヤマメの話ばっか。よくそんなに飽きないもんだ。」
確かにこの妖怪の言うとおり、作業をしているさなかも連中の話題はヤマメで持ちきりだった。なんせ暇を潰せるネタに日々飢えている地底の妖怪共だ、この手の話が広がるのもとびきり早い。
事実この日ヤマメが作業のため旧都へ降り立った頃には、すれ違う顔なじみに尽く件の話題を振られるようになっていたのだからたまらない。しかも残念なことに、往来から降り注ぐ冷やかしをくぐり抜けようやく地霊殿に潜り込んだとしても、扱いは変わらないときている。
「なんかすまないね。色々騒がしちまってさ」
と、一つ後ろを歩いていたヤマメがぽつり。少しばかり神妙な声に並び歩いていた萃香が
「なに言ってんだい。すまないことあるか。みんな楽しんでんだよ。」
と押し返す。こちらもちょっと真剣味が混じった声だった。
「そうそう」村紗も続く。「この天邪鬼がケチつけたいだけなんだから、気にしない気にしない。」
しんがり近くでそのやり取りを見ていた一輪からは、彼女達の表情は窺えない。なぜだか無意識的に動きかけた口を今度は勇儀が遮る。
「お前ら、そうぬえばっかりをからかうもんじゃないよ。少しは大目に見てやんな。」
一輪は驚いてしまう。そんなことを勇儀が言うなんて思ってもなかった。そして何よりその口調に、妙な親近感を覚えたのだ。
「ま、ぬえもあんまなじってやんなよ。この前も言ったけどさ。」
と、返す刀でもう一方も窘めてくる勇儀に、ぬえも
「……へん、わぁってるよ」
とむくれる。しばし行列から熱が失せたように思えた。口数が減った連中を後ろから見ていた一輪、そんな彼女にすっと寄ってきたのは誰あろうヤマメであった。
「ねえ一輪、いいかな……?」
「えっ、ああ……何?」
話しかけられるとも思わず、一輪は慌てて体勢を整える。見ればヤマメの表情はただならぬ色を帯びていた。幸福なのか、苦痛なのか。満足なのか、不満なのか――いずれにしても煩い悩む面差しに他ならない。
「薬屋で、どっかお勧めのところないかな? 神経の薬が欲しいんだけど」
「薬? ええと……ちょっとよく判らないけど……」あたふたする一輪に、雲山が救いの手を差し伸べる「え? あ、そうなの雲山? えと……雲山が言うにはここから反対側に行ったところに良い漢方屋があるらしいわ。よく噂を聞くって。」
「そう……向こうか。うん、ありがと。参考になった。雲山もありがとう。」
そしてお辞儀を返してくる。明るい、けど重々しい笑みを浮かべて。一輪の胸がくっと締め付けられる。
ヤマメが突如打ち上げへの参加を辞退し、往来にせわしなく溶けていったのはそれからすぐのことであった。
■ ■ ■
「かんぱーい!」
打ち上げはその日も盛況であった。ヤマメが抜けたことを残念がる声は多かったが、酒が一度入ってしまえばそんな考えもたちまちすっ飛んでしまうのが地底の妖怪達である。燐の音頭に続いて、荒くれ共の呑みっぷりは地獄の釜ごと飲み干すのではという勢いだった。給仕にあくせくしていた村紗や一輪も、途中からは匙を投げてしまったほど。
この宴においても、肴の中心はヤマメだった。むしろ本人がいない分いっそう遠慮のタガが外れていたと言っていい。昨日の恨み節の続きから、思いっきり品のないネタまでと、酒を潤滑油に話題は止めどなく流れていく。行き着くところまで行ったところで、話はお決まりの方向へと流れた――昔話である。
俺はこんな人間を攫っただの、睦び合っただの、添い遂げただの、終いにはヤったヤらないだの……まあ要するにそんな類の自慢合戦だ。ヤマメの話が彼らの琴線に響いたのはたぶんこういうところもあったに違いない。やはり妖怪は人間なしでは生きられないのだ。それが本質的に襲い退治されるという歪な関係でしかなかったしても、彼らにとってそれ以上の宝はないのである。
「ったくあのクソ忌々しい頼政の野郎、今度地獄で会ったら同じ目に遭わせてやんないと気が済まん!!」
ぬえが毎度おなじみの口上をまくし立てていた頃、カウンターには酔い潰れた者、テーブル席のノリについていけぬ者、後はちょっと一休みしたい者なんかが並んでいた。萃香もそんな一人。頬杖をつきながら、馬鹿騒ぎするのん兵衛どもを呆れた目つきで眺めていた。
「ったく元気だねえ……よくまあ飽きないもんだ。」
「いいじゃないか。あいつららしくて。」
と返したのはすぐ横に陣取る勇儀。きつめの焼酎を生身のままグイと流し込む。調理場に立つ村紗が苦笑交じりに応える。
「でも、最近はこうやって集まる機会も減ってましたしね。」
「そもそも集まるネタがなかったんだよ。毎年工事やったらどうだい?」
「うーん。そりゃさすがにさとり様許してくんないだろうなぁ……」
適当な思い付きを口にする萃香に、燐は頭を掻き掻き口ごもる。横ではすっかり酔いつぶれた空が突っ伏していた。
「まあ工事よか、今回はヤマメでしょうよ」燐は空を介抱しながら話題を逸らす。「あんなネタ出されたらみんな食いついちゃいますって。あれがなかったら打ち上げだってここまで盛り上がったかどうか。」
「すごいよねー 今朝も買出しに行ったら市場もその話ばっかだったもん。ねえ一輪?」
すかさずのっかった村紗、一輪は彼女の呼びかけに咄嗟に対応できなかった。
「あ、ああそうね……確かにどこもかしこもそればっかりね今は」
「いいじゃん」萃香も上機嫌で続く。「みんな何だかんだ言ってもああいうのが懐かしいのさ。あたしも久々に上にいた頃のこと思い出したし。」
そしてにかっと笑って勇儀に顔を向ける。向こうは愛想笑いを返してくるだけ。一輪は瞬間この鬼を覆った懊悩を見逃さなかった。
何か言わねばと開きかけた口を、また遮られる。今度は村紗だった。
「そうですよ。あたしもここんとこよく昔のことが頭に浮かぶんです。そういえば聖も言ってたなあって。いつか人と妖怪が、一緒に手を繋いで暮らせる日が来るんだよって。私まだ信じてるんですよ。こんな地底の片隅でかっこつけたって何にもなんないけど、でもいつだってそう思ってます。いつかそんな日が来るって。」
はにかみながら、しかし少しだけ湿りけの感じさせる声だった。萃香も勇儀も、そして燐でさえも無言のまま小さく微笑み返す。それしかできなかった。何度も何度も、自身に言い聞かせるように頷く村紗、その横で一輪はまた胸を淀ませる。
「でもあたしら鬼のやり方なんて所詮襲って攫うだけだからね。向こうにとっちゃたまったもんじゃなかったのかもしれない。あんたが世話になったっていう尼さんの言ってることとは、全然違うのかもよ。」
勇儀が茶化す。場の空気を変えるための自嘲だったのだろう。けれど村紗は引かなかった。悲痛さすら覚えるくらい。
「そんなことないです。確かに奪ったり殺したりは拙かったかもしれない。私だって昔は馬鹿なことした。でも鬼も私たちも、最初はただ人間と遊びかった、構って貰いたかっただけだったんじゃないでしょうか。だからいつか、もっと別の付き合い方だってできるようになるじゃないかって思いたいんです。今までのいがみ合うだけの関係じゃなくて、もっと仲良くもできるんじゃないかなあって。夢みたいなもんですけどね……」
そこが同じ酒場かと思うほど、カウンター席はしんみりした空気になった。萃香でさえも睫毛を伏せる。一輪は咄嗟に村紗の手を取った。取られた方はまどろみから醒めたようにはっとまばたきを繰り返す。
「ふぁい!! あたしもそう思ひます!!」
空気を破ったのは酔っ払いの大声。空だった。テーブル席でどんちゃん騒ぎしていた連中までもがぎょっとして彼女の方を向く。跳ね上がった空は呂律の回らないまま高らかに宣言した。
「あたひもいつかもっともぉーっと強ーくなっへ、さとりしゃまをお守りしましゅ!! そりぇでさとりしゃまが安心して外にでりゃりぇりゅようになって、こひししゃまも毎日帰ってくるようになったら、みんなで毎日一緒にご飯食べて、いっぱいお話ひて、そりぇで……うにゅ……」
だが、最後まで言い切る前に電池が切れたらしい。そのままへなへなと、腰から崩れ落ちた。たまらず横にいた燐が抱きかかえる。
「ほらおくう! 立てって、寝んな!……あぁダメだこりゃ。もう何やってんだろねこの馬鹿は。すまないねぇみんな水差しちまって。」
一瞬あっけにとられていた酔っ払いたちも、ことの顛末にとびっきりの笑い声を取り戻した。燐は心底すまなそうに頭を掻きながら、空を肩に担ぐ。どうやら潮時らしい。燐に代わって座の真ん中に立った勇儀が、締めの音頭を取った。
「ほらちったぁ黙れお前ら! ……ま、丁度いい頃合さ。今日はここいらで一旦お開きにってことにしようや。じゃあまた宜しく頼むよ!」
■ ■ ■
工事終わりの連中が酒池肉林の大騒ぎをしていた頃、ヤマメは一人帰途を急いでいた。大通りではなく裏の路地を隠れるようにして。細い裏通りは複雑に入り組んでいたが、何せここは勝手知ったる旧都、ヤマメからすれば自分の庭も同然だ。すいすいと抜けて行く。
今日も胸には大事そうに包みが抱えられていた。両の手を胸元でしっかと合わせながら、ヤマメはあぜ道を跳ねるようにして駆ける。こんなルートを選んだのはあまり人目につきたくなかったからだ。さっきからすれ違う度に声を掛けられる。祝福だったり、質問攻めだったり、冷やかしだったりと様々だったが、いずれにしても相手されるのはこそばゆいものがあった。それにも増して余計なことに時間をとられたくなかった。彼女は少しでも早く戻りたいと思っていた。なぜかは判らないが、そうしなければという義務感すらあった。
長屋の小道を抜け、ようやく大通りの突き当たりまでたどり着く。橋はもう目と鼻の先だ。
「あらずいぶんとお急ぎねぇ」
そして橋には今日も彼女がいる。パルスィは口元を波打たせながらヤマメを迎えた。
「よう、パルスィ」
ヤマメは少し遅れて返事する。相変わらず橋の真ん中に背を預け、話し相手と目を合わせぬパルスィ。急ぎ足で渡ろうとするヤマメの背へ、独り言みたいな言い方で声を投げる。
「そういえば聞いたわよ。男ができたんですって?」
ヤマメはぎくりとした。よりによって一番知られたくない奴の耳にまで届いてしまったと。男に捨てられ嫉妬に狂った挙句、妖にまで身をやつした女――何言われるかわかったもんじゃない。
「どおりで。最近機嫌がいいわけだ」
「そんなんじゃないよ。ただあいつは――」
「昨日も今日も包み抱えてまぁ……物で気を引こうってわけか。ふふっ。いじましいことで」
話し相手の胸元を流し見るパルスィ。ヤマメは視線から包みを守るように身を捩る。
「だから違うっつてんだろ。ただ、『ありがとう』なんて言われちまったから、なんか礼しなきゃって思っただけなんだよ……そんなん言われたことなかったし……それに、こっちの話聞かないでいじいじいててさ、もう治ったって言ってんのに……ああいうのが嫌いなんだあたしは。そんだけ」
ヤマメの声はすっかりしどろもどろしていた。パルスィはくすくすと忍び笑いを返すだけ。下手にからかわれるよりよっぽど恥ずかしかった。舌打ちだけ残し、嫌みな橋姫の元からさっさと立ち去ろうとしたヤマメに、また声が飛ぶ。パルスィはこちらに真っ直ぐ顔を向けていた。
「ま、夢を見るのは勝手だけど、ほどほどにしておいた方がいいんじゃない? 夢はいつか醒める。身の程は弁えないとねぇ」
欄干に背をもたれたまま、だらりと首を後ろへ垂らし、どろっとした緑眼を光らせ、薄笑いのまま続ける。ヤマメは慄然を覚えずにはいられなかった。
「所詮わたしらは半端者。この橋の向こうで生きていいのはクズだけよ。クズが夢なんか見たって毒にしかならないわ。せいぜい気をつけなさい。自分が焼かれないようにね」
*
橋から住処まで戻るには少し時間を要してしまった。柔らかな光を宿した洞穴の手前にはキスメがいる。
「お帰りヤマメちゃん。今日は早いね」
「……ああ、キスメか。ごめんよ留守番させちゃって。」
ふよふよと飛びながら、キスメは人懐っこい笑みを寄せてくる。くすんでいたヤマメの表情も少しだけ元の輝きを戻した。大方橋姫の毒に中てられてしまったんだろう――ヤマメは小さく首を振る。
特段誰か当てがあるわけでもないのだが、念のためとヤマメはキスメに番を頼んでいた。ここに来そうなのといえば例の半妖くらいで、わざわざ旧都からここまで襲いに来る妖怪なんざいるはずもない。そんな要るか要らないかも判らない番を、キスメは快く引き受けてくれた。彼女は留守を任された別の意味を勘付いていたのかもしれない。
「あの人は、今日も外には出てないよ」
「ああ、そっか。ならいいんだ。」
報告をくれたキスメの頭を、ヤマメはぽんぽんと撫でる。手にあった小さな紙袋が、キスメにも見えた。
「お土産?」
「ああ、ごめん。これキスメのじゃないんだ。」
「判ってるよ」とキスメ。向こうは何と言い繕えばいいか困っているよう。キスメとしてはこれ以上の贈り物はない。幸せそうなヤマメを見ていられれば、もう十分だった。
「じゃあ、わたし帰るね」だからキスメは自分から切り出す。「また、明日」
返事も待たず飛んでいってしまった友人に手だけ振って、ヤマメは洞穴の中に入る。居間では男が身を横たえていた。音を立ててしまったかと、ヤマメは身を固める。そして先ほど以上にそろりそろりと歩を進める。昨日やった羽織を掛け布団にして寝息を立てる男。足は素足のままだ。
起こさないように近づき、ヤマメは寝顔だけを覗きみる。こうやって顔をまじまじと見たのは初めて会ったとき以来だったかもしれない。改めて見ると思っていた以上に幼げな面立ちをしている。毒にも薬にもならない、真っ白な顔。漂白されていろいろなものが抜け落ちてしまったような顔色だ。なだらかな頬に生毛が見える。寝息のリズムで上下を繰り返しながら、仄暗い洞窟の光を受けて柔毛がなびく。一体これのどこに業があるのかと、それはそれは無邪気な寝姿で。
時間にすれば一分ほど、しかしずいぶんと長いこと見ていた気がして、ヤマメはたまらず身を離す。土方仕事でずいぶんと体が汚れていたことを思い出した。着替えようかと思ったが、ここで脱ぐのは気が引けて、奥の小部屋へ引っ込もうとする。リボンに手を掛けながら身を起こしたところで、寝ていた男がもぞもぞと動き出した。
「ぅ……あ、黒谷様ですか……?」
「あ! ああ起きたのかいあんた」
心臓が飛び出んばかりの勢いでヤマメは振り返る。寝ぼけ眼をこすりながら、こちらをまじまじと見てくる男。髪からリボンを外しかけていたことに気付いて、彼女ははだけた後ろ髪を慌てて手で覆い隠す。
「ああ、申し訳ありません……こんなものまで掛けて頂いて。」
と、上に被せられた羽織りを剥がしながら、男はのっそりと座りなおす。まだ目が開ききってないのか、ぼやけた視線は珍しくこちらへ据え置かれたままだ。ヤマメの方がそらしてしまった。
「ああ、何かお気に障る……?」
「ち、違うの! ただちょうど着替えをしようと思ってたとこで――」
「あ、何かお手伝いが必要で――」
「ばかっ!」
替えの服を持ってヤマメは奥へとすっ飛んで行ってしまった。そしてさっさと着替えを済ませる。これだけ忙しない着替えもそうなかったろう。いそいそと部屋に戻ってくると、男は隅の方で縮こまるように座っていた。
「ほれそんなとこで何やってんだい」卓袱台についたヤマメの口調は元のそっけないものだった。「こっち来なよ。茶淹れっから」
「いえ、私は――」
「はいはい飲むんだね。ったく……」
有無を言わさず二人分の茶が淹れられた。ヤマメのはすかいに置かれた湯のみに、男はおずおずと近づく。そして一礼してから取った。卓袱台に二人、湯気だけが鉛色の壁面を曇らせる。
ヤマメは切り出す機会を失ってしまった。卓袱台の真ん中には買ってきた包みが転がったままだ。切欠を探っているうちに、湯呑みの中身が尽きてしまった。うなじの毛をそわそわと掻き上げながら間を持たせる彼女に、やはり居心地悪そうだった男が声を掛ける。
「あの黒谷様、そちらの包みは?」
「ああこれかい!?」これ幸いと、ヤマメはまくし立てる。「薬買ってきたんだ。神経痛によく効くそうだよ。ほら、お前がこないだ足の感覚がとか何とか言い出すもんだからさ……これが一番だって薬屋のオヤジも太鼓判でね。」
「と言いますと……大風子油にございますか?」
「あんな気休めなんかじゃないよ。すぐ完璧にってわけにゃいかないけども、続けてりゃ今よりかはずっと感覚も戻ってくだろうからさ。だから――」
「そんな、無理にございます……」
身振り手振りで効能を謳っていたヤマメに浴びせられたのは、そんな言葉だった。必死で造っていた明るい顔が翳る。
「薬では、この身の業を払うことなど叶わぬでしょう。黒谷様の心遣いはありがたいですが……」
「だから違うって言ってんだろ! お願いだから判っとくれ。お前のそれと前世のなんたらは何の関係もない。そんなのは坊さんのいい加減な屁理屈で――」
「黒谷様。やはり私は人ではないのでしょうか?」
俯いていた視線が、すっとヤマメの方を向く。物憂い、底のない瞳だった。出掛かった言葉が潰される。瞬間たまらない罪悪感が彼女を襲った。
「ち、違う。そんなわけ――」
「しかし薬によって身を清めねば、私は喰えるようにもならないのでしょう?」
男が初めて感情を込めて唱えた言葉だったのかもしれない。ヤマメは何かが砕けていくような音を感じた。
「まだ清めが足りぬと仰られるのなら、この薬も飲みます。私とて叶うなら一刻でも早く黒谷様の血肉となり、この業から抜け出たい。ただ、それによって黒谷様まで穢してしまうのであれば、私は――」
凄まじい音。男にそれ以上続けさせるのを遮る。卓袱台を思いっきり叩いたヤマメ、手元にあった湯呑みが転げ落ちてぱりんと割れた。男に投げ付けてやりたかった罵倒は、口から出てくるはずもなかった。
「畜生!!」
押し留められた感情に顔を歪めながら、ヤマメは洞穴を飛び出していった。
■ ■ ■
「ほれ、着いたよおくう」
燐は片の手で部屋のドアを開ける。白木でできた、ごくごくありふれた洋風のドアだ。空の部屋に何か特別なものはない。何処で拾ってきたんだか、キラキラ光る石みたいなものが棚に転がっているくらいだ。据えられた簡素なつくりのベッドに、担いできた部屋の主を転がす。空は発育がよかった。背丈も大きく、手足もすらりと長い。目鼻立ちもすっと通っていて、同性の燐から見ても中々に惹かれる容貌をしていた。もっとも頭の中身はえらく子供っぽいのだが。
むにゃむにゃと何事か呟いている空をベッドにちゃんと寝かせ、側にあったシーツを被せてやる。二人は古い付き合いだった。ここが"旧"地獄となる前、まだ碌に人型にもなれない頃からの。特にここが地獄跡地になってからは番なんざ碌すっぽやることがないから、一緒につるんで遊んでる時間の方がよっぽど長い。それでも燐が順調に力をつけ、火車として旧地獄の怨霊を統率する大役を主人から仰せつかった一方で、空は変わらず死肉を漁って、とうに冷えた灼熱地獄の火を見張るだけと、随分と差は開いてしまった。今回の改築工事みたいな仕事でも、空が役に立ったことなんてない。それでも燐は彼女と組むことを止めなかった。
幸せそうに寝息を立てる空を見ながら、燐はベッドの横に腰掛ける。さっきの言葉が頭を過ぎっていたのだ。空の宣言――馬鹿丸出しの、酔っ払いの戯言。でもあれは彼女の、いや地霊殿のペット全員の願いだ。主人と一緒に楽しく暮らすこと――それを素直に口に出来る彼女を、嫌いになれるわけもなかった。
「さとり……様」
寝言を垂れる空の額を撫でて、燐は部屋を後にする。まだ仕事が残っていたから。一番大事で、楽しみで、そして大嫌いな仕事が。
*
燐はドアをノックする。チークでできた、ずしりと重い扉を。返事を待たず真鍮のノブを回す。覚悟を決めて。
「こい……ああ、なんだ貴女か。」
「失礼します。さとり様」
ふいに開いたドアに驚いたのか、古明地さとりは普段の細目を少しばかり丸くする。燐は深々と礼をしてからドアを閉めた。
「入る時は声を掛けなさいと言っているのに……ああ、なるほど。『それじゃ入れてもらえるか判らないじゃないですか』か。ふふっ」
自嘲と共に読んでいた本をテーブルに置く。そしてだらしなく体を預けていたソファーから立ち上がり、身を正しながら書斎机へと歩み寄る。ぺたぺたと、スリッパの音だけが部屋に響いた。
「……大丈夫です。ちゃんと食事は取りましたから」
燐の心配を先読みして、さとりは放り投げるように言った。陰鬱な面立ちにひどく華奢な体。複雑に波打つ薄紫の髪は互いに絡みもつれ合いながら、方々に角を作っている。第三の目から伸びるコードが、そんな彼女ごと縛り上げるように周りを囲っていた。
燐はどう切り出したものかと目をうろうろさせる。廊下を飾るステンドグラスの極彩色とは打って変わって、ここには頼りない光を漏らすランプがいくつかあるだけ。部屋を覆う薄いピンクの壁紙は、長いこと模様替えをしていないせいかすっかり色褪せていた。一歩一歩、確認するように前へと進む燐。テーブルにあった読み止しの本が、開いたままの格好で彼女をせせら笑っているふうにも思えた。
「……気になりますか、その本が。」
心中で狼狽するペットへ含み笑いしつつ、さとりは伏し目がちのまま声を掛ける。燐はぎくりと顔を上げた。
「いや、ええと……何読ん――」
「イザヤ書ですよ。暇だったもので。読みたければどうぞ。」
「ああそりゃいいですねぇ」と適当に相槌を打ちながら、燐はその本を拾い上げる。ぶっちゃけ聖書に興味なんて露ほどもなかったが、言った勢いで小脇に抱えた。当然その心持も見えてしまうのだろう、気だるそうな顔を見せるさとり。燐は目一杯の愛嬌で口を開こうとする。
「えと、今日の作業ですが――」
「……なるほど」さとりはそれを無配慮に遮った。「本日もしごく順調と。よく判りました。酒代についてはこちらの経費で落としておきますから気にしなくても平気ですよ。必要な分を金庫から持って行きなさい。」
燐は心が濁ってしまうのを我慢できなかった。主人との会話はいつもこんな感じである。言おうと思ったことを先取りして読まれ、一方的に返されて終わり。味気ないことこの上ない。
嫌な思いをしたことはあっても、嫌いだと思ったことはもちろんない。さとりは恩人だ。でも、いやだからこそ話したいと思っていた。ちゃんと声に出して、こんなかび臭い部屋の中でじゃなくて、もっと広いところでみんなと一緒に。
さとりが部屋に篭りがちになったのは、いつ頃からだったろうか。確実に言えるのは妹の古明地こいしが瞳を閉ざし、めったに家に寄り付かなくなったのと軌を一にしていた――まあつまりはそれが原因なのだろう。元からの出不精がいっそうひどくなった。今ではペットの管理もペットに任せ、仕事も全部任せ切り。今回の改築工事にしても、一度として協力者達の前に姿を現そうとしなかった。
「……そんなに恐がられると私も悲しいですね」自嘲めかしながらさとりは独りごちる。「さ、もういいでしょう。今日はご苦労様でした。」
「あの、さとり様」
燐はそれ以上言わない。言わずとも伝わってしまうから。三つの瞳で彼女をねめ回したさとりは、一際大きな溜息を吐く。
「……そういうのは好きでないと、貴女も知っているでしょう? それに私が行ったら彼らも楽しめない。場の空気を悪くするだけです。」
「そんなこと、ないです。さとり様だって――」
「結構です。さ、早く寝なさい。明日も早いのでしょう」
じろりと見据えてくるさとりに、燐はすっかり竦みあがってしまう。あの眼だけはどうしても慣れることができなかった。半ば逃げ帰るように部屋を後にする。血が出るまで噛みしめられた唇は、どうしようもないほど無様な自分への罰だったのかもしれない。
■ ■ ■
燐が地霊殿に戻ったころ、萃香と勇儀は二次会に繰り出していた。他の連中とは途中で別れ、今日は少し大人しめの店に二人きりだ。騒ぐのが何より好きな地獄の妖怪達といえ、たまにはこうしてしんみり呑みたい時もあるのだろう。それでもこのとびきり陽気な鬼二人にしては珍しい選択だったかもしれない。ここへ行こうと誘ったのは勇儀であった。
「で、なんなんだい?」
とりあえず一斗ほどかっ食らってから、萃香は向かい合う勇儀へ顔を寄せた。気付いていないわけがなかったのだろう。今日の彼女はどう見てもおかしかった。色とりどりの酒瓶の向こうで、勇儀は一つ大きな息を吐く。そして残っていた酒を一気に喉へ滑らせる。中々口を割らなかった。
「はん。天下の星熊勇儀様がどうしたってんだい? しけた顔しちゃってさ」
そんな勇儀をじっと見上げながら、頬杖付いて悪態を吐く萃香。ずいぶん変わったもんだと思った。たぶん地下へ潜ってからだ。自由を求めてここまで下りて来たっていうのに、却ってこんな顔を見ることが多くなった気がする。四天王だか頭目だか知らないが、細かいことに遠慮を回すのは萃香の趣味ではなかった。
「あんたさっき言ったね、萃香」勇儀はようやく口を開いた。「地上に居た時のこと思い出したって。またえらく楽しそうにさ」
「ああ言ったさ」萃香の返しは早かった。「勇儀だってそうだろ?」
「さあね。もう忘れちまったよ」
煮え切らない言葉。萃香は自棄気味に酒を呷った。勇儀は伸びをする。ちんやらやってる自分にいい加減嫌気がさしたのかもしれない。いじけたような面で、彼女はテーブルを爪でコツコツと叩く。
「こんなとこまで来ちまったけどさ、やっぱしあん頃のあたしらこそ鬼だよ。人を襲って、攫って、退治される。他にあるかい?」
「そうやってきたから愛想付かされたんだろ? 結局楽しんでたのはあたしらだけ。あっちは楽しくもなんともなかったってことさ。」
「言いたいことがわかんないね。こんな与太話じゃいいかげん酒は呑めないよ?」
どんと、萃香は杯をテーブルに叩き付けた。酒瓶が震える。「そりゃ言えてる」と吐き捨てる勇儀。
「言いたいことは簡単だよ。鬼と人が仲違いしたのと同じ。みんながみんな萃香みたいに考えてるわけじゃない。上にいた頃なんざ思い出したくもない、人間なんざ金輪際顔も見たくないって思ってる奴ぁ、ここにはわんさといるってことさ」
そしてちらと横目であたりを確認してから、身を乗り出して耳打ちする。
「赤河童は知ってるだろ?」
はん、と萃香は鼻で笑う。知らないわけがない。旧都で知らない方が珍しいだろう。河童と人のハーフ。どちらからも煙たがれ、そしてすべてを拒絶し地下へ潜った少女――河城みとり。そして勇儀があれこれ気に掛けていることもよく知っていた。どうもお節介が過ぎるのだ、彼女は。
「山にいた頃は四天王とまで畏れられたあの"力の勇儀様"が河童程度にビビッてひそひそ話たぁ、鬼もチンケになったもんだ。涙も出ないよ。」
「さっき言ったろう? あの河童だけだったらいくらでもやりようはある。けどここにいるのは多かれ少なかれ似たようなのばっかだ。表には顔出してこないだけでね。」
だからこうしてつまらないことに気を揉んだりする。旧都のごたごたを治めるのは確かに鬼の務めだ。それは大勢の妖怪達を旧地獄まで引っ張ってきた彼らの責任でもある。そうは判っていても、有象無象の声に遠慮して好き勝手できないのは萃香の望むところではない。勇儀はそういうところに神経質すぎる――彼女はそう思っていた。
「今じゃ右も左もヤマメヤマメ、旧都は何処もかしこもその話題で持ちきりだ。この分じゃあ近いうちにああした手合いの耳にも入るだろさ。そしたらどうなる?」
「めんどくさいね。いいじゃないか。誰もが知ってる人気者に色恋沙汰があった。それがたまたま人間だった。それだけだろ? その程度でケチつけてくる奴なんざぶっ飛ばしゃいい」
「別に反対してんじゃない。あたしだってヤマメが楽しそうにしてんのは嬉しい。だからこそ、少しそっとしといてやんなよって言ってんだ。」
勇儀はあまりに真っ正直すぎた。鬼である萃香でさえそう思っていた。どんな奴の声でも無碍にしたりはしない。必ず言い分は聞き、最大限応じようとする。それは皆から頼られる理由でもあったが、萃香からすれば不満でもあった。もっと泰然自若としていればいいのにと。
「……へん」萃香は赤ら面をしかめる。「来るんじゃなかったよ。酒が不味くなった。」
「あたしはもっと苦い酒を呑みたくないだけさ」
「うっせえ」と萃香は席を立つ。勇儀は目を外したまま。
「勇儀。さっき言ったね。楽しんでたのはあたしらだけって。」
「……ああ、言ったさ」
「あたしは信じてるよ。いつか人間は思いつく。あたしらも、あいつらもみんな一緒に楽しめるようなやり方を。だってそうじゃなきゃおかしいじゃないか。あたしらを知恵比べで負かした人間達がさ、それくらいのこと思いつけないはずがないじゃないか。
そう。同じだよ、村紗の奴と。あたしも絶対に諦めない。また前みたいに人間と酒が呑める日が来る。だからね、何があろうとヤマメとあの人間を引き裂かせなんかしない。それだけは誓う。」
■ ■ ■
村紗たちはようやく店の片づけを終えた。まあよく飲み食いしたものだと感心する。酒瓶だけで山ができた。
「じゃあ村紗。これ外に出しておくわね。」
「ああうん。ありがとう一輪」
一輪がてんこ盛りの酒瓶を片付けに行く。雲山の手を借りても余るほどだ。食器を洗い終え、ごみもまとめ終えた。台拭きを済ませたぬえも洗い場に戻ってくる。
「ああ、ありがとぬえ」
「ありがとう」なんて言葉が飛んでくると、ぬえは一切予想してなかったらしい。雑巾を持った手を後ろでさっと組んで身をくねらす。
「べっ別にそんなたいしたことやってないだろ!」
「あんたが仕事してるの今日初めて見たから。」
「……うっせ!」
それこそ洗い場に顔を突っ込むくらいの勢いで雑巾をすすぐぬえに、村紗は腰掛けたまま笑う。二人はたいぶ前からこういう間柄だった。ぬえが特定の誰かに懐くなんてそれこそ滅多にないと知っていれば、これでもかなりの昵懇と見なせたろう。
「村紗が働きすぎなんだよ。妖怪ってのは本来もっと自由気ままに馬鹿やって暮らすもんだ。朝っぱらから念仏なんて、あたしらのやることじゃないよ。」
「いいでしょ別に。癖になっちゃっててやらないと落ち着かないのよ。」
「……もう忘れちまいなって」
聞こえるか聞こえないかくらいの呟きだった。それでも言ってしまったことを後悔したのだろう、ぬえはしょげたような顔で唇を突き出す。村紗ははぐらかすように笑い飛ばした。
「ふふっ……お気遣いはありがたいけど、ちょっと自信ないわね。だって聖は恩人だもの。忘れるなんてなぁ」
「へん。地縛霊ってのはめんどうなもんだ」ぬえも軽妙な調子を造る。「ごみ出しはやっとくよ。もう寝な。明日も早いんだろ?」
「……そう、いいの?」
足元にあったごみ袋をひったくられ、村紗は半ば強引に追い払われた。柔らかな笑みだけ残して村紗はぬえの言に従う。
村紗は今の暮らしを幸せだと思っていた。少なくとも船を沈めて憂さを晴らすしかなかったあの日々に比べれば、ずっと全うな生き方だ。そしてそんな日々を噛みしめる度、白蓮への感謝の念が湧いてくる。悪夢に溺れていた自分を救い出してくれたのは誰でもない、あの人なのだから。
部屋に真っ直ぐ戻るはずだった。しかし自室へ向かうにはどうしてもあそこを通らねばならない。余計なことを考えていたからなんだろうか。抹香の匂いに村紗は逆らえなかった。
即席の拝殿は村紗と一輪、雲山の三人でこしらえたものだった。"あの人"を偲ばせるものは蓮の花――出店で買った造花だけ。それ以上のものを置く気にはならなかった。一輪は思い出したくなかったから。でも村紗の考えは違う。だってそれじゃあ供養するみたいになってしまうと思ったから。死人を弔うみたいになってしまうから。
線香を焚いて、毘沙門天の像に手を合わせる。長い時間に思えた。目を瞑ったまま村紗は呟く。彼方へ語りかけるように。
「今日はね、さとりのところで工事の手伝いをしてきたよ。その後みんなで飲んで騒いで……ああごめんなさい。またお酒呑んじゃったな私。
ヤマメは今日も楽しそうでした。最近ね、あの子を見る度に昔教わったことを思い出すんだ。人間と妖怪は一緒に手を携え生きていける――本当にその通りだね。ヤマメだってさ、ただ病気を操れるってだけで別に悪い奴でもなんでもないんだ。ううん、とってもいい奴だよ。いろんな妖怪達が毎日仲良く肩寄せあって暮らしてる。こんなとこまで落とされたっていうのに、みんな陽気で良い奴ばっかだ。だから、人間とだって仲良くできないわけがない。
だから私は今でも信じてます。いつかそんな日が来るって。ぬえの奴はあんなこと言ってたけど、私は忘れたりなんかしない。絶対にまた会えるよね。だって間違ってなんかなかったんだもん。だからまた、あの頃みたいに一緒に暮らせるようになるって、私信じて待ってるから。だから、ね、聖……あたし頑張るから。ひじ……」
くすんだ板張りに雫が落ちた。それは、止まらなかった。
「だから、だからね聖……ひじ……ひじり、ひじりぃ……」
崩れ落ちた友人の嗚咽を、扉の向こうで一輪は聞いていた。仕事を終えて、部屋に戻ろうとしていた彼女の耳に届かないはずがなかった。拳を握り、立ち竦むしかできぬまま。こうやって"思い出して"しまう危うさに、薄々は勘付いていたはずなのに。
だから一輪は気付けなかった。その声を聞いていたのは、彼女と雲山だけではなかったことに。
あーやだねー、妬み嫉みで生きてる奴って気持ち悪くて
でもまあ、こういう奴のお陰で新聞記事が面白くなるんだよね。
みんな見下せるから喜ばれるんだろなー
――ダブルスポイラー:姫海棠はたて
〜 Stage W 〜
地底から星月は見えない。当たり前であるが困り所でもある。何日経ったかが判らないのだ。妖怪は星の位置と月の傾きという昔ながらのやり方で年月を知る。だから地底で生活していると、そういう感覚にめっぽう疎くなる。言ってしまえば一週間も一年も百年も、ここの住人にとってはさして変わりがないのである。
「行ってらっしゃい」
キスメの呼びかけに、ヤマメは軽く頷いて見せた。小さくなっていく友人を見送ったキスメは、洞穴に戻る。
キスメもまた橋の外側に住まう地底の妖怪だ。穴みたいな狭っ苦しいところに隠れ潜んでいた方が釣瓶落としとして過ごしやすかった。元より内気な質だ。旧都の姦しさは離れた所から見ている分には好きだったが、混じってどうこうするのはあまり得意でない。
緑髪を釣瓶からちょろりと覗かせて、キスメは入口あたりに落ち着く。その後ろ、部屋の端っこには男がいる。キスメはちらと後ろへ目を遣る。元から陰鬱げな風貌が、物陰に隠れていっそう暗く見えた。
もう何日こういう関係が続いているのか、キスメはヤマメが帰ってくるまで、洞穴で男と二人きりの時間を過ごしていた。番を任された最大の目的とは、この人間が間違えて下へ行かないよう見張ることにあったのだから当然ではある。それでも会話めいたものはほとんどない。双方とも話好きではないのは仕方ないとして、話そうという動機付けがそもそもなかった。キスメはこの男を悪い奴ではないと理解していたが、だからといって仲良くしたいとも思わなかった。
キスメが抱いていた彼への評価とは要するに、「こいつのことをヤマメちゃんが気に入っている」という一点に集約できたのかもしれない。男がヤマメを喜ばせているのならば、自分も彼のことを好きでいよう――そういうものだったのだろう。言い換えれれば、キスメはそれほどまでにあの土蜘蛛の少女を大切に思っていた。自分とは違う快活な性格――憧れに似たものもあったのかもしれない。
だから、今の男をキスメはあまり好きになれなかった。
「――なんで、見送ってあげないの?」
外を見たままキスメはぼそりと呟く。それが自分に向けられたものだと男が気付くのに、しばしの時間を要した。
「え、わたくしがでございますか?」
「他に誰もいないでしょ」
ぶっきらぼうな返事がすぐさま返ってくる。男はしょげたように頭を掻いた。
あの晩以降、ヤマメと男はほとんど会話を交わさなくなっていた。同じ洞穴で寝食を共にしているというのに、別々に暮らしているかのよう。目も合わさず、なのに互いが互いの邪魔をしまいと始終気を回している。ヤマメが何か買ってくることもなくなっていた。一番息が詰まる思いをしていたのは、二人を側で見ていたキスメだったのかもしれない。
「……怒らせてしまったのかもしれません。」
「謝ったの? ちゃんと」
問い詰めるキスメの調子は鋭い。後姿だけで苛立ちが伝わってくる。
「よく判らないのです。どうしてか。やはりこの業が故なのでしょうか」
「またそれ?」
キスメは許せなかった。どこか他人事にも聞こえる男の喋り方が。何もかもが干からびたせいで、無差別な優しさだけで動いているこの男が。
キスメも地上にいた頃、何度かこういう類の人間を見てきた。ぱっと見愛想はいい。人懐っこく微笑みを浮かべ、わけ隔てなく礼儀を尽くす。でもそれは心からではないのだ。いや、もう心なんてものはないと言った方が正しい。虐げられ踏み潰され、情なんてものの無意味さをこっぴどく味わわされて、最後には抜け殻だけになってしまったような奴。
人と妖の境界、生と死の境界で、なおかろうじて身を持たせているとたまにそうなるらしい。そうなってしまうとたとえ妖怪を前にしても、今わの際まであの透明な笑みを絶やさないのだ。
キスメはそんな手合いを何人も喰ってきた。だからどうしようもなくやるせなかったのだ。よりによってヤマメの見初めた相手がそんな奴であったことを。
「なんで履かないの?」振り向いてじろりと睨む。「ヤマメちゃんがくれた草履。なんで羽織り着てあげないの?」
言葉通り、男は薄っぺらい麻の着物一枚だった。ここへ運ばれて来た時とまったく同じ格好。キスメは顔をぷいと背ける。
「あの薬、飲んだの?」
「いえ、もう必要ないかと……」
「最低」
そして浮き上がり、ふよふよと穴の外に出た。一刻も早くこいつから離れたいという感情を隠そうともせず。正座したまま、土下座の直前みたいに男は両手を膝に突き立てる。綺麗なままの羽織と草履を横に置いたまま。
*
「これはどうも、キスメ様」
外へ飛び出したキスメに向かっていきなり声が掛けられる。振り向くとそこにも男。ただしこっちは例の半妖だ。いつも通り"食糧"をずらりと引き連れて、小太りの体をいっそう小さく縮こめている。こっちも別の意味で好きになれないとは言え、あっちの男よりかはましだろうか――キスメは表情を造り直しながら応じる。
「こんちは……」
「いつもお世話になっております」男は愛想よく笑いながら帽子を取る。「それで、ヤマメ様は……」
「ヤマメちゃんは、今いないんだ。下でちょっと仕事を頼まれてて。だから私が受け取る」
「ああ……そうにございますか。承知いたしました。」
少しの逡巡を置いて、半妖は首肯する。言葉とは裏腹にひどく残念がっているふうに見えて、キスメはあまり良い気持ちはしなかった。よどみない手つきで書類を取り出すと、キスメに手渡す。彼女も要領はわかっているのだろう、手慣れた様子で数と中身を確認していく。
「ところでキスメ様」代金を受け取りながら、半妖の男は矢庭に尋ねた。「先ほど洞穴から話し声が聞こえましたが、どなたかいらっしゃるのですか?」
この地獄耳めとキスメは腹の中で毒づく。出来るだけあいつのことは知られない方がいい――そんなヤマメの言葉を思い出しながら、彼女はむすりとした顔つきのまま答えを放り返す。
「いないよ……気のせいでしょ」
「そうですか」こちらは聞き分けよく頬をほころばせる。「いえ、てっきりヤマメ様かと思っていたものですから。失礼致しました。」
何度もぺこぺこ頭を下げながら帰っていく半妖を見送って、キスメは一旦洞穴へ戻る。らいの男はさっき見た時とまったく同じ姿勢のまま。微塵も動いていないふうに見える。キスメは侮蔑の色を隠さぬまま、至極簡潔に告げた。
「じゃ、"荷物"を下まで運んでくるから……ここから出ないでよ」
■ ■ ■
地霊殿の改装工事は佳境を迎えていた。組み上げである。
鬼達の大工仕事は釘を一切使わない。いわゆる「宮大工」の――正確に言えば鬼達が古来より編み出し人間にも教えてやった――やり方だ。だから一分の隙間もない繊細な組み手を彫り出すのも彼らにとってはごくごく当たり前の作業である。とは言っても、地底で手に入るありあわせの木材で十分な強度を持たせるには、鬼としてもかなりの技量がいる。ヤマメの力が特に必要となるのは、まさしくこの工程なのだ。
「ええと、じゃあ次はこれいこうか」
図面とにらめっこしつつ、ヤマメは次々と指示を飛ばす。形も材質も違う木が続々と運び上げられ、完璧な角度と大きさに削り出された組み手が鬼の力ですとんと嵌る。壮麗な和様建築はアールヌーボー様式の洋館である地霊殿にはあまり似つかわしくないようにも思えたが、その和洋折衷ぶりが妙なまとまりを描いてもいた。
一連の作業は、必然的にヤマメを場の中心に置くことを強いた。全員が彼女の指示の元、動く必要があったからである。自然と彼女へ投げられる声も増えたが、こちらはあまり気乗りしない様子でそれに応じていた。ヤマメとしては到底そんな気分になれなかったのである。組み上げに集中したいのもあったし、何より今は例の話題に触れられたくなかった。
どうしようもなくやるせなかったのは確かだったが、だからと言って愛想を尽かしたとかそういう気持ちは微塵もなかった。早くあの男と話さねばとさえ思っていた。そう思っていたのにできなかったのは、たぶん惰性が故だ。きっかけを失ったまま一日、二日と過ぎるうちにどう話しかけたらいいかとんと判らなくなってしまった。何か言えばいいだけのことなのに足が竦むほどの高いハードルとなってしまう。地下に降りてくる前に起きた妖怪同士の馬鹿馬鹿しい内輪もめをなぜか思い出して、ヤマメは心底嫌気がさした。
あいつはどうなのだろう――無益な共同生活で考えるのはそのことばかり。あの男は、沈黙の時間をも淡々と受け入れてるふうに見えた。眉一つ動かさずただじっとうずくまる日々。何かが訪れるのを待っているのか、それすら諦めてしまったのか。その顔からはように窺い知れなかった。
現場の空気は陽気だった。普段と比べれば張り詰めた空気が漂っていた気もしたが、それは作業が作業だったからだろう。ただ変化を探すとすれば、ヤマメに元気がないことを途中から気取り始めた連中が、必要以上に明るく振舞おうと頑張っていたこと、くらいであろうか。
「にゃはは、久しぶりに見たけど立派なもんだ。」
ヤマメのすぐ側に添い並ぶ燐が、感嘆の声を上げる。彼女もまた普段以上に場を盛り上げようとしていた一人である。この面子の中では力仕事に長けた方ではないし、こうも複雑な作業となると素人の彼女にはさっぱりだ。愛想でも振りまいてるのが一番と考えたのだろう。
「じゃあ次は、村紗と萃香様の持ってるやつです。」
「よしきた!」
「いやぁヤマメがいるとやっぱ段違いだねぇ」
そして梁の上で組み上げをしている鬼たちや村紗も、ヤマメの違和感に薄々勘付いていた。座の中心にいるからこそ余計目立ってしまうのかもしれない。だから彼女達も出来る限り声を掛けようと努めていた。
「で、雲山。その木を隣にお願い。どう一輪、少し傾いてる?」
「うーん、ほんのちょっと右に寄ってるかな。大丈夫なのヤマメ?」
「ああ、それでいい。そっちは乾くと余計縮むから。」
そんな気遣いなど知らぬとばかりに、ヤマメは作業に専心していた。一輪へ指を立て問題なしと告げる彼女に、告げられた方も言葉少なだ。ただ一人、一輪だけはヤマメへ特段注意を払っていないふうだった。いやそれどころではない。この入道遣いは、今もこうしてヤマメと普段通り受け答えしているように見えるが、どこかよそよそしい感じが抜けなかった。まるで作業上ヤマメと会話せざるを得ないから会話しているだけで、できればそうしたくないと、そんな感じで。
ついでに言えば今日はぬえがいなかった。村紗たちが目を醒ました頃にはもう姿はなく、街で見かけた者もない。もっとも村紗たちは、さして珍しいことでないと気にしていないようだったが。実際彼女がいないくらいでは作業進行に差し障りはなかったようで、気付けば木組みも完成を迎えようとしていた。
「じゃこれが最後だね。」
「お願いします」
勇儀が持っていた木材をはめ込む。少しだけ洋風仕立てにアレンジされた、見事な日本家屋が姿を現した。
思わず一同から拍手と歓声が上がる。作業していた当人たちもこういう仕上がりになるとは知らずにいたのだろう。まだ漆喰塗りや煉瓦積みが残っているというのに、思わず見入ってしまう出来だった。
「いやーすごいすごい!」
燐は無意識にヤマメへ握手を求めていた。こちらは照れた感じで俯いていたが、しばらくしてその手を取る。周囲にいた作業員もそれに続く。下へ降りてきた萃香がヤマメの肩をぽんと叩く。ようやく彼女にも笑みがこぼれた。
「やったね」今度は村紗がヤマメの手を取る。「いやかっこいいなあ。これみんな頭の中で考えちゃうんでしょ?」
「ん、そうなのかな……」とぎこちなくヤマメは返す。「まあ慣れみたいなもんで、別に端から全部自分で考えてるわけじゃないし……」
「でもイメージはできちゃうんでしょ。こんな形。すごいなあ。うんすごいすごい」
村紗はくるくると回って感情を示す。それは普段の彼女からしても大げさな喜びようだった。ヤマメはぽりぽりとこめかみを掻きながら照れ隠しをするだけ。それもまた普段の彼女にしては卑屈が過ぎた。少なくとも作業台から下に戻ってきた一輪にはそう見えた。
「これで一山越えられたよ」燐も改めて労いの言葉を掛ける。「後は細かいとこだけ。いや助かったよヤマメ」
「いやぁあたしは別に……」
「なんだい謙遜ばっかしちゃってぇ。それとも男ができたから貞淑な女でも目指してんのかい?」
燐の冷やかしに皆も声を上げて笑う。さばさばとした顔つきで受け止めていたヤマメ、そんな彼女に村紗は寄り添うように近づいた。
「そうそう、ヤマメこれ」と言って包みを取り出す。「ほらこないだの魚。なかなか市に出ないもんだからさ、もうめんどくさいやってんで、こないだそこらへんで暇してた連中連れて釣ってきちゃった」
「へぇ釣りたぁ楽しそうだ」燐も乗っかる。「よかったじゃんヤマメ」
言葉通り包みの中にはたくさんの魚。いつだか村紗が焼いて持たせてくれたあの魚だ。
「そんな、悪いって」ヤマメはますます表情を固くする。
「なに言ってんの」村紗は笑って流す。「人間がまともに食べられるもんなんて、あんまないでしょここいらじゃ。遠慮しないで持ってきなって」
「そうそう」燐も笑いめかす。「ぐずぐずしてると泥棒猫や食い意地張った鴉につまみ食いされちまうよ」
そしてお構いなしに胸へ押しつける。されるがままに引き取ったヤマメ、正面には頬をほころばす村紗がいる。身が刻まれる思いがした。手には山盛りの魚。自分なんかがこれを受け取ることに、ヤマメはたまらない惨めさを覚えた。自分がこの魚を男のところへもっていく様を想像して、凄絶な罪深さを覚えた。
「――やっぱいいや」だから包みを押し返してしまう。口の中を苦味で一杯にして。「悪いけど、貰えないよ。」
まさかこうなると思わず、村紗も目を丸くしたまま包みを取る。隣にいた燐も、いやそこにいた誰もが村紗と同じことを思ったに違いない。だから気付き得なかった。ただ一人の例外に。
バシィンッ!!
「調子のんな!! 人の気も知らないで!!」
丸くなっていた一同の目が、さらに丸くなった。平手打ち――放ったのはいつの間にか3人の所まで近づいていた一輪。乾いた破裂音がヤマメの頬で爆ぜる。
村紗も燐も、遠巻きで見ていた連中も、あまりに突然のことに反応できなかった。歯を食いしばった一輪は、今にも雫がこぼれそうな瞳できっとヤマメを睨みながら、もう一度掌を振るおうとする。しかしそれは一瞬遅かった。
パシィィン!!
「っ!」
「黙れクソ坊主!! 貴様らのせいだろ!!」
今度はヤマメの平手だった。先手の勢いそのまま左を向いていた一輪の顔が、その一撃で逆へ吹っ飛ぶ。左の頬を真っ赤に腫らしながら、しかしヤマメの瞳もまた何がしかに潤んでいた。元の位置に戻った一輪の顔には憤激が吹き荒れるまま。修羅の面をしたヤマメとの睨みあいは、そのまま行けば壮絶な殴り合いになるに違いなかった。一輪はまた手を振り上げる。
「――っ、なんだよ! 離せっ!!」
しかしすんでで止められる。一輪は羽交い絞めにあっていた。
「離せっ! 雲山、なにすんだ、離せよぉっ!!」
雲山はその命令に従わなかった。巨木より太い腕で、暴れる一輪を引き剥がす。もがけどもがけど、彼女は呑まれていくだけ。思わぬ横槍に我に返ったヤマメを、続けて萃香が引っ張る。こちらは抵抗しなかった。ただ呆然と、自分の為したことを反芻するだけ。恐る恐る、彼女の目は横に動く。怯えた目で立ちすくむ村紗がいた。萃香の声が耳に届く。けど何を言っているかわからない。他にも何人か近づいて来る気配がする。瞬間何かが弾けた。
振り払い押し飛ばし、ヤマメは逃げたのだ。走った。わけもわからず、ただみんなから離れたくて。
■ ■ ■
男は、久しぶりに一人だった。
地下に降りてからは、常に誰かが側にいた。キスメの時もあったが、ヤマメの時が一番多く感じた。こういう暮らしは果たして以前にあっただろうか?――彼は少しだけ考えて止める。思い出せそうにはなかったから。
彼も当然謝らねばと思っていた。思ってはいたが、何を謝ればいいのか皆目判らなかった。もちろん悪いのは自分だ。しかし、何が悪いのかが判らない。そんな状態で謝ってもヤマメを余計傷つけるだけだろうと思い止まっているうちに、時間だけが過ぎてしまった。キスメに言われるまでもない。確かに最低だ。
置き場のない身を揺すりながら、外を覗いては戻るの繰り返し。なぜこんなそわそわしているのか、彼自身が理解できない。あの日死ねるとヤマメから聞かされ歓喜に震えた胸は、今や悶えてばかりだ。こういう苦痛をもう味わわなくてすむ、そう思っていたのに。
これで一体何度目か、男は洞穴の入口へ歩を進める。穴を出た先は細い道があるだけで、数歩先は奈落だ。鈍い光さえ呑み込みそうな底なしの空間から、轟々と風が吹き上がる。確かに人の目で下手にうろつけば命の保証はない。
今度も何ら収穫なく、中に戻りかけた時だった。男の下に"それ"が近づいてきたのは。
「……?」
黒い靄にも見えた。闇の中でもいっそう目立つ、蠢く黒だった。もし別の者がそれを見ていたなら、もっと違ったふうに見えたかもしれない。おぞましい怪物にもなれただろう。だが彼の中にそういった類の恐怖はもうなかった。
「どちらさまでございますか?」
洞穴から何歩か出て、男は靄に声を掛ける。世間話のような口ぶりだった。"靄"も動揺を隠せない。仕様がなかった。彼が黒の内に見ていたのは、黒い服を着た単なる少女だったのだから。
「何か、御用でしょうか?」
遠慮がちに、男はもう一度尋ねた。背丈は小柄で華奢な体躯。けれど右の背には鎌のような赤い翼、左の背には槍のような青い尾がそれぞれ3本ずつあるのを見れば、彼女が人でないことは明らかだった。まさか自分の術が効かないとは露ほども思っていなかったぬえは、投げられた問いに答えを返せなかった。呆然とする彼女へ、男は心配そうに近づく。
「あの……大丈夫ですか?」
「うるせぇ! 寄るな!」
三度目の問いで、ようやくぬえは意識を取り戻した。こちらを覗いてくる男を振り払って後ろへ跳ねる。彼は眉一つ動かさずそれを眺めていた。
「お前だね、ヤマメの良人ってのは」
喧嘩腰で切り出したぬえに、今度は男が固まる。想像だにしない言葉が出てきたから。
「良人?」
「ごまかそうたってそうはいかないよ。人間風情が!」
ぬえの口ぶりには余裕がない。敵意むき出しの視線に射抜かれても、人間の方には一切の動揺が窺えない。彼女はたまらないやり辛さを覚えていた。だが口を休めるわけにはいかない。
「とっとと出てけ。邪魔なんだよ。帰れ!」
刺股を横に一閃、ぬえは猛る。名も知らぬ妖怪から投げられた完全な拒否にも、彼は落ち着いた物腰を崩さない。慣れていると言った方が適切か。
「お前のせいでな……お前のせいで思い出さなくてもいいこと思い出しちまった奴がいるんだ。ほじくられたくない所をほじくられて、誰も見てないところで一人泣いてんだ。全部お前のせいなんだよ。お前がここに来さえしなけりゃ――」
「……申し訳ありません」男の口調は平らだった。「私の業で、また人様にご迷惑を――」
「んなことどうでもいい」ぬえはいっそう強い口調で遮る。「お前が"らい"かどうかなんざ、あたしらにゃどうだっていいことだ。"らい"じゃなくたってあいつはきっと思い出しただろうさ。ここはな、人間様が居ていい場所じゃない。人間なんかとはもう関わりたくないんだ。だから、とっとと帰れ!!」
「帰る場所など、ありません」
少しだけ感情を孕ませた声にも思えた。ぬえは顔を後ろへ引く。糸を流すように、男の声は平坦に出される。
「喰ってくださると言って下さったのです。だから、私はそれを待っているだけなのです。それともやはり、私は食べるに値しない存在でしょうか」
「ぐ、ぬ、ちが……そういうこと言ってんじゃない……」
ぬえの脳裏にふっとヤマメの顔が浮かんだ。彼女は顔を背けながら呻く。
「……殺して喰うつもりはない。だから、もう姿を見せないでくれ」
「……わかりました」
今度は気の抜けた返事だった。今しがた感情を滲ませてしまったことへの罪悪感すら帯びた声。しばし沈黙が舞い降りる。風の音だけがひどく喧しい。
男の胸には何かもやもやしたものが残っていた。こうしたやり取りには慣れ切っていたはずなのに、何か違う気がしたのだ。
「その方に会って謝罪することはできませんでしょうか?」
だから何でこんなことを口走ったのか自分でもよく判らなかった。ぬえも当然驚く。奥歯を軋ませながら
「させるわけないだろ!!」
と叫んだ。あまりの剣幕に男は目を瞑って下を向く。彼が再び目を開いた時には、少女の姿はもう消えていた。
彼は慌てて辺りを探す。何故かは知らない。ただ、言い忘れたことがあった気がした。探す範囲が無意識のうちに広がっていく。もう洞穴からは遠く離れ、大空洞の通路も終わりが見えていた。夢中になっていた彼を我に返したのは、視界の先に浮かぶぼんやりとした光と、橋から届く唄声。
思ひ知らずや世の中の 情は人のためならず
(思い知れ。情けは人の為だけになるのではない。)
われ人のためつらければ われ人のためつらければ
(誰かに辛くあたるならば、私が辛い思いをしているのならば)
必ず身にも報ふなり
(必ずお前の身にもその報いが降るのだ。)
何を歎くぞ葛の葉の
(お前が何を嘆くという?)
恨みはさらに尽きすまじ 恨みはさらに尽きすまじ
(私の恨みは尽きはしない。私の恨みは、決して尽きはしない。)
知らずうちに、背中に冷たいものが走っていることに気付く。それは男の知っている唄に似ていたが、響くものが段違いだった。切々と、しかし心までどす黒い情念を粘つかせ、息継ぎの間にさえ恨みを込めて謡いあげる調子は、ぞっとするほど聞く者の心を掴んだ。それはそうだろう。嫉妬に狂った女の悲哀を、彼女以上に上手く謡える者などいるはずもない。
「あら、誰かと思えば噂の色男じゃない?」
唄を止め、パルスィは立ち尽くす男に声を掛ける。誘惑と拒絶がない交ぜになった口ぶりだった。軽く目だけを向けながら、含み笑いを一つ。いつも通り欄干にもたれながら、橋の手前に立つ男に近づこうともしない。そして近づけさせようともしない。
彼はいっそう恐る恐る尋ねる。
「お嬢様、ここを誰か通っていきませんでしたか? まだ幼げな、黒い服を召した妖怪の少女です。」
「さぁ、知らないわねぇ」パルスィはことさらに語尾を延ばす。「なぁに、もう別の女の尻を追っかけてるの? さすが色男、あぁ妬ましい妬ましい」
「左様でございますか……そちらが、旧都ですか?」
嘲弄などなかったふうに、男は問い続ける。橋の向こうからはかすかに喧騒が響く。――黒谷様や、その泣かせてしまったという方もあちらにいるのだろうか、そんな思いが一瞬彼の脳裏を過ぎる。
「――行きたいのかしら?」
欄干に身を絡めるような格好をしながら、パルスィは馴れ馴れしく問い返す。誘うような音色だった。彼は押し黙る。行ってはならぬことは判っていたし、行ける身でもないと思っていたから。
「別にいいわよ」
心中の逡巡を見透かして、パルスィは囁きかける。男の顔が持ち上がったのを横目で見届けてから、橋の守人は先を続ける。
「橋姫としての私見を言わせてもらえば、ここを渡るためには一つ資格が要る。鬼どもはそんなの見境なく招き入れてるみたいだけどね。至って単純な条件よ。もう光に憧れないこと――それだけ。見たところ、貴方には十分その資格がある。あっちで遊び呆けてる馬鹿どもなんかよりずっとね。」
そして小馬鹿にしたような面を造って、旧都の煌きを親指で差し示す。
「しかし、私は業病の身です。ああしたところに赴くなど――」
「そう。それよそれ」パルスィはくつくつと忍び笑いをした。「貴方に巣食っているのは"らい"なんてチンケな病原菌じゃない。本当に壊れているのは心。だからこそ貴方はこの世界にふさわしい。忌み嫌われた者たちの楽園にね。歓迎するわ。少なくとも私はそんな貴方を。」
そう言って手招きする。にこやかな微笑みを湛えながら。見ただけで男はぞっとした。
「ふふっ」後ずさる男に、パルスィはまた卑しい空笑いを投げる。「冗談よ冗談。まったく妬ましいこと。早く帰んなさい。あんた自体は嫌いじゃない、けれどあんたは周りを照らしてしまうわ。それは旧都に住まう者には毒。二度とここには近づかないことね。あんたが放ってる光は、こちらの世界にはふさわしくない。」
「なぜ、でしょうか……」
男は思わずそう声に出していた。パルスィは薄笑いで続きを促す。
「先ほどのお嬢様も、貴方様もそうです。なぜそんな言い方をなさるのでしょうか?」
そう、彼はなんとなく理解した。さっきから胸を騒がせていたものの正体を。ぬえ、そしてパルスィの言葉にあった違和感に。「帰れ」「近づくな」――そんな言葉はいくらでも浴びせられてきた。でも彼女達の言葉は違う。何かが根本的に。それがどうしても腑に落ちなかった。
「それは、私達がどうしようもなく卑しいクズだから、じゃない?」
笑みを絶やさず、彼女はさらりと答えた。そして言葉を失ったままの男に優しく告げる。
「さ、本当にお帰んなさい。こんなところでお喋りしてたなんて知れたらヤマメに妬まれ返されてしまう。女の好し悪しくらいは、ちゃんと見分けられるようにしておくものよ。」
*
彼はとぼとぼと、洞穴まで戻ってきた。二人の妖怪から告げられたことの意味が、上手く整理できずにいた。まとまりのない雑念を頭の中で捏ね繰り回していたら、洞穴まで戻っていた、そんな感じだった。
ぼんやりと、力ない灯りの中へ彼は足を踏み入れる。中には誰かいた。
「あ、ああ! あんたかい」
ヤマメだった。どこかですれ違ったのだろうか。彼女はあわてて身を繕おうとする。卓袱台に預けていた身を持ち上げ、慌てて目元を拭う。そして
「ったくどこ行ってたのさ?」
と、どやしつける。もっともそぞろな声であまり迫力もなかったが。生返事しか返さない男に、しかしヤマメもあれこれ詮索しようとしない。そんな元気はなかったのか、帰ってきた直後はいてくれなくて逆に助かったと思っていたのか。必死でこしらえた勝気な表情も、よく見ればまぶたは腫れ、目は赤い。男も居辛さを感じて、奥の小部屋に逃げ込もうとした。
「あのさ……ちょっと側にいて、くれないかな……」
愕然とした。初めて聞いた弱音だった。振り返る。ヤマメは卓袱台で俯いたまま。
「少しだけで、いいからさ。お前さんの顔、見てたいんだ」
「いけません」
すっと、強い言葉が飛び出た。男は再び前を向く。
「ここを経とうかと思います……」
ほとんど呻くように漏らした。ヤマメの顔は、彼からは見えない。
「え……?」
「こちらにいても迷惑をかけるだけ、であればそれがよいかと――」
男の手に柔らかいものが触れた。ヤマメは訊く。
「行くって、何処に?」
「地上へ。当てもありませんが、森でもうろついていればそのうち妖怪にでも――」
そこで突き飛ばされる。ほとんど感覚のない足に代わって、背中が岩の冷たさを受ける。仰向けになった彼の目に映ったのは、怒りと涙に染まった少女だった。
「なんでだよ!?」
「食べてくださらないからです!」
男も叫んだ。一瞬声を詰まらせたヤマメ、しかし次の漏れたのはなぜか哂い声。そして下劣に顔を歪めた。
「ああ、ああそうかい! 喰えばいいんだろっ……」
男はとっさに目を瞑る。瞬間走った忌避感は喰われることへの本能的な恐怖か、はたまたそんなヤマメを見てしまったからなのか。服を引きちぎる音。しかし痛みも、噛みつかれる感触もやってこない。代わりに覚えたのは下半身をまさぐるくすぐったい感触。恐る恐る目を開ける。
「黒谷様、何を?」
「何って、んんっ……わかんだろ?」
ヤマメは男のへそに舌を這わせていた。むき出しになった陰茎を指でさすりながら、死にそうな顔でこちらに媚を振る。彼は瞬間逃げようとした。しかしヤマメの足はしっかと男の体に絡みつき離さない。
「ダメです! 黒谷様、お止めください!!」
「うるさい! どう喰おうとあたしの勝手だろうが! んっ……そう、いい子だ。おとなしくしてりゃいいんだよ」
すっとヤマメの上体が男の顔へ伸びる。指で乳首を撫で回し、薄汚い笑みを載せた唇が堅く閉ざされた唇へ迫る。向き合った両の顔は今にも泣きそうで。
「な、いいだろ?」ひどく下品な囁きだった。「ちゃんと好い思いはさせてやるからさ。ね、だから……」
「断種、なのです……」
絞り出された声に、ヤマメの誘惑は勝てなかった。男は今度こそ涙を流しながら、迫った少女の唇から顔を背ける。
「昔、手術で輸精管を切りました……だからもう、そんなことは……」
上にあったヤマメから、力が抜ける。男はうろたえきった女からもがき出た。破れた麻着を抑えながらすすり泣く様は、どちらが少女かわからないほどで。
「できる、だろ……」ヤマメは涙を堪え切れなかった。「勃ちはするし、感覚はあんだろ!? なあ? それすらさせてもらえないってのかよ!!」
彼女は何に向かって吼えたのか。ただそれは岩を揺らすだけに終わった。あらん限りの力で拳を落とす。床がひしゃげた。
「いらないんだよ! あんたが気持ちよくなって、喜んでくれれば……私は他に何も要らないんだよ!! それを、なんで、なんで……」
そして崩れ落ちた。男は抱き上げることもできたかもしれない。でも、彼も彼女と同じことを思っていた。もう相手に触れることは赦されないと。
「すみません……無理です」
■ ■ ■
ヤマメと一輪が悶着を起こした後、地霊殿に残された連中の惨めさといったらなかった。普段陽気な連中が暗い顔をするとこんな酷いことになるのかと、誰もが自分達にうんざりしてしまう有様。ある者は消沈し、ある者は無力感に苛まれ、またある者はやり場のない怒りを抱えながら、彼らは三々五々に散っていった。無言のまま。
片一方の当事者である一輪はしばらく興奮状態から醒めずにいたが、半刻も経つとようやく自分の行いを冷静に振り返れるまでに落ち着いたらしい。元々道理は弁えている。青ざめながら、周囲の空気に押し潰されそうに突っ立つ彼女、しかしそれを責めようとする者は誰一人いなかった。
それ以上に悲惨だったのは村紗だった。一番の友人、古くから一緒に辛苦を乗り越えてきた一輪が、あんな狼藉沙汰に出たことを、そしてそれを一番近くで見ているしかできなかった自分自身を未だ受け入れられないふうだった。見かねた燐が――彼女もまた必要以上の罪悪感に駆られていたのだが――泊まっていけと誘ったが、村紗はそれを辞退した。結局彼女達と雲山は聖輦船へ戻ることにしたのである。それでも燐と空は心配で付いて行った。勇儀も同行したかったが、萃香もまた酷い凹みようだったので、そちらで手一杯であった。
「ホントに大丈夫かい?」戸口で燐はしつこく食い下がる。「なんならあたい泊まってくよ? 飯ぐらいだったら作れるからさ……」
「大丈夫だって」村紗は無理に明るい声で返す。「そんな深刻になることじゃないから。雲山もいるし。少し休めば何とかなるって。今日は早めに寝るよ。打ち上げできなくてごめんね。」
「何言ってんだい……」
嘆息する燐。横ではしょげた顔をした空が突っ立っている。
「……じゃ。ああ、もしヤマメに会ったらゴメンって言っておいて……」
それだけ告げ、村紗は無理に笑って二人を帰した。
戸を閉め、店に戻る。隅の方では一輪が身を埋めるようにして椅子に腰掛けている。あれ以来彼女は一言も喋らずにいた。村紗は体中の空気をすべて入れ換えるくらいの深呼吸をする。そして雲山と目配せした。こんなときこそ、自分が頑張らねばと気を入れ直して。
「一輪。なんか飲まない?」
調理場に立つと、奥の棚をごそごそやり出した。答えは返ってこない。それでも村紗は瓶を二つ出す。水の入ったのと、とびきり上物の酒をそれぞれ一本。
やはり一輪の反応はない。村紗は彼女の向かいに腰掛ける。結局水の入った瓶を選ぶと、両方のコップに注ぐ。一応自分の分を握りはした村紗だったが、しかし彼女も口をつけるまでは至れない。
「なんか、ごめんね」
組んだ足を組み直す。とりあえず謝った村紗だったが、先のことを考えて言ったわけでもない。だから続く言葉は当然誰の口からも出てこない。重い空気に呑まれかけた部屋に、思わぬ来訪者がくる。
「あっ……みんな帰ってたのか……」
戸をがらりと引いて飛び込んできたのはぬえだった。こちらもまたひどく意気消沈している。柄にもなく落ち込んだ様子は、村紗に口を開くきっかけを与える。
「もーぬえったら、あんたどこ行ってたのよ?」
「ん……べっ、別にいいだろどこだって」
「ははーん。さてはまた喧嘩でも吹っかけて負けてきたんでしょ。そんな顔してるし。」
「違わい。負けてなんか……」
渋い顔で口を割ろうとしないぬえに、村紗は質問を浴びせ続ける。何とかしていつもの調子を取り戻そうと懸命になっているのがありありとしていて。だからそんな彼女をこれ以上見ているのはもう無理だった。
「やめてよ……」
村紗の明朗さが破られる。声の主は一輪。久方ぶりの言葉は、張り裂けそうなくらいの痛みを帯びていた。
「あ、ああごめんちょっとふざけすぎちゃった――」
「だからそうやって無理に明るくするの、もうやめてよ!!」
一輪は憤然と立ち上がる。また涙に掻き暮れながら。詰め寄られた村紗は、あの時と同じ怯えた顔で後ずさる。
「え、あ、一輪落ちつぃ……」
「もう見てらんないのよ。そうやって一人で抱え込んで、あいつらの前で明るく振舞ってるの、見てられないのよ!!」
「そ、そんなことない――」
「とぼけないで! 聞いちゃったのよ……こないだあんたがあの部屋で、姐さんのこと呼びながら、泣いてるの……」
今度は村紗の顔が青く染まった。開きかけた口は固く閉じ、眼差しは帽子に隠れる。ぬえも目を伏せた。
「あんたがあの人間の話聞いて楽しそうにしてる度、ヤマメの力になりたいってあれこれ頑張ってる度、あの泣き顔が目に浮かんだ。あいつらが楽しそうにすればするほど、あんたがそれに応えようとすればするほど、私には悲しんでるようにしか見えなかったのよ!」
一輪の絶叫に、今度は村紗も引かなかった。せり上がった目元には光るものが浮かんでいる。
「……なにそれ」同じくらいの憤激を滲ませ彼女は低く言った。「なに、じゃああんたヤマメやあの男の人が不幸になれば、私が幸せになるとでも思ってんの? みんなが悲しめば私が楽になれるとでも思ってるわけ? 見損なわないで。一輪のしたことはみんなを傷つけただけじゃない。聖だって、そんなの絶対に――」
「だからそれを止めろって言ってんのがなんで判んないのよ!! 口開けば聖、聖、聖……他にないわけ!?」
「ないわよ! あるわけがないでしょ!! 一輪だって、そうでしょ……見ないふりしてるだけで、ほんとはあんただって――」
「――やめて、よ」
ポツリと呟いたのはぬえだった。一輪と村紗の袖を引っ張りながら、両親の喧嘩に心を痛める子のような体をして。一瞬火花が走った二人の視線が、たちまちひしゃげる。
「やめよ。そんなのあんたららしくないよ。二人が喧嘩してるのなんか、見たくないよ……」
あのへそ曲がりがこんな真摯な吐露を漏らすなんて、一輪はおろか村紗さえ夢にも思わなかった。唇を結んで下を向くぬえ、こんなに小さかったのかと一輪は思う。
無音が舞い戻った店内に、再び来訪者が迫る。帰ったはずの、燐だった。
「ねぇ、ヤマメ来てないかい!?」
いろんなものをすっ飛ばして切り出した問いは、悲痛に沈んでいた彼らの意識さえ揺り起こすもの。燐もさすがに中の状況を察し、申し訳なさそうな顔をする。しかし依然として表情は切羽詰っていた。三人の反応を見てここにはいないことを悟った彼女は、一言だけ残しまた飛び出していった。
「どっかいっちまったらしいんだ。もし見かけたらそん時は頼んだよ!」
それが一輪の耳に入るか入らないか、村紗はもう駆け出していた。止めようと伸ばした手もすり抜けて、ぬえの制止にも耳を傾けず。扉が跳ね開く音だけが残る中、一輪は上げた腕を乱暴に振り下げた。
「あたしだって、判ってるわよ……」
■ ■ ■
ヤマメが消えたことを皆に知らせたのはキスメだった。あの半妖から預かった荷物を下へ届け、洞穴まで戻ってきた。それがあの決裂から少し経った後。床を穿った跡と、はだけた男の衣服を見て、最初キスメは彼の身を案じた。留守中誰かに襲われたのかと。しかし男の口から出てきたのは予想だにしない顛末。決定的な決裂の後、ヤマメは彼を置いて洞穴を飛び出していった。そして彼は少女を追わなかった。
キスメは事の次第を聞くや否や、友人と同じように彼を放って飛び出した。旧都に降り、知る者手当たり次第に訊き回り探し回った。話は瞬く間に飛び火し、捜索者の輪はねずみ算式に広がっていった。にもかかわらず、彼女の行方は知れずにいたのだ。
今キスメはヤマメの住処へ戻り、目の前の人間を睨みつけている。それこそありったけの憤怒を込めて。いつも着ていた麻の着物を破られてしまった男は、ヤマメからもらった一張羅に袖を通し、居心地悪そうにその視線を浴びている。その視線に応えるだけの言葉も力も、彼にはなかった。そしてキスメの方もまた、彼に視線以上のものを投げ付けてやる気持ちになれなかった。
しかし対峙は終われない。彼女は訊かねばならないことがあったし、彼には説明すべきことがあったから。
「何があったの?」
心底嫌そうにキスメは切り出す。男も嫌悪感を一杯にして独り言のように漏らす。
「言い争いを……しました」
曖昧きわまる返答だった。キスメは訊かなければよかったと思った。そんなこと訊かずとも判る。直前まで二人で居たという証言に、この状況――穿たれた床、びりびりに破けた男の麻着――言わずとてもやったのはヤマメだろう。ヤマメの消息をつかむ手がかりが欲しいといえ、友人の醜態は聞きたくなかった。それでもキスメがこの男と会話めいたことができたのは、ここに至ってもヤマメのことを悪く言わなかったからだろう。
「こないだも喧嘩したって言ったよね。なんで喧嘩したの?」
彼は言葉に詰まる。キスメの考えていた通り、彼は先ほどの逢瀬を口にしたくないと思っていた。麗しい理由からではない。体に、過去に触れられた不快感。そしてそれを遥かに上回る空しさが彼の心に吹き荒れていて、上手く言葉にできずにいたからだ。
「――私は、黒谷様の何なのでしょうか?」
キスメは男を見る。彼もキスメを見た。
「あんたは、あんたはどう思ってるの?」
「私は……食糧です。『良人』なんかではない。あの方に……求められる故もありません。なのに、なぜ……」
「本気で言ってるの?」
当てもなく呻いていた彼の眼前にはキスメが立っていた。明らかな失望を携えて。
「そう、黒谷様にも言いました。食べて欲しいと、叶わぬなら地上へ帰してくれないかと。でも――」
「ははっ……じゃあ喰ってやるよ。」
先ほど聞いたのと同じ哂い声、言葉。しかし語調はまったく異なる。今度のは迷いがなかった。
自分よりずっと小さかったはずの釣瓶落としは、彼の予想を遥かに上回る力を宿していた。あっという間に押し倒される。釣瓶ごと上にのしかかられて、そこからずいと這い出して来たのは、妖怪の顔をしたキスメだった。
「知らないわけじゃないよね? 釣瓶落としは凶暴な妖怪なんだよ。しかもとび切り悪食な」
腕を掴み、舌を這わせ、小さく食んだ。痛みが走る。血が少女の唇を染めた。口角から垂れた朱の一筋は、キスメの白襦袢を妖艶に飾る。
指が男を這う。肩から腋、胸、喉仏、そして顎を伝って唇まで。どこかを通るごとに彼女は爪で軽く傷を付ける。そして舐め取るのだ。先に付いた血を。業で穢れていると散々言っていたその液体を、たいそう旨そうに。指のなぞる感覚が脳へ伝うたび、男は不快感に身を捩る。
「ふふっ……どう、痛い? これからもっと、もっと痛くなるよ。さあ、あんたの願いは私が叶えてあげる。大人しくくたばりな」
首をぐっと押さえ込まれ、血で塗れた唇が迫る。男はまた目を背けた。顔をしかめ、迫る少女から少しでも遠ざかろうと。首筋に歯が触れる。ピクンと震えた。
「はっ……何やってんだろうな私……」
しかし、それ以上は進まなかった。代わりに首元から漏れたのは自嘲と自己卑下。
「キスメ、様……?」
「嫌、でしょ……?」
男はそろそろと目を開く。キスメは喉笛に唇を沿わせたまま。表情は窺えなかった。
「あたしに喰われるのは、嫌でしょ? ヤマメちゃん以外は嫌でしょ? それと同じなんだよ。ヤマメちゃんもね、あんたじゃなきゃダメなんだよ。」
男から離れる。そして促す。行けと。
「……何故ですか」男は問うた。問わずにいられなかった。「貴方様も、あの妖怪達も、そして黒谷様も……何故、どうして私なぞに生きろと、希望を与えようとなさるのですか?」
「あげる希望なんか、私達は持ってない」キスメは目をそらさず答える。「ヤマメちゃんを照らしたのは貴方。だから、二度と自分のこと"食糧"だなんて言わないで。ヤマメちゃんを、もう悲しませないで」
最後の告白は切々とした言い方だった。男は立ち上がる。まだ判らない。自分がそんなものだとは思えない。でも一つだけ強く思った――謝らねばと。
「すみません。出かけてきます」
「これ。忘れ物。」
キスメは男に放り投げる。あの草履だった。
「ちゃんと履いて。それで行って」
男は受け取る。足に嵌めて、しっかりと頷く。キスメの笑みを受け取って。そして駆ける。狭い隘路を、切り立った岩道を突き進む。らせん状の道をぐるぐると。橋はもう目の前。そこで彼は出会ってしまうのだ――"彼"と。
「ああ、そういうことか……」
通路を塞いでいたのは、あの半妖だった。
■ ■ ■
村紗は息も絶え絶えで走り続けていた。もう滅茶苦茶だった。どこを探したかも覚えていない。何度同じところを見て回ったか、何度同じ奴に同じことを尋ねたか、自分でも判らない有様。鬼も彼女を止めるくらいの形相だった。それでも村紗は探すのをやめない。気付けば随分と下の方まで来ていた。
「ヤマメっ!! ヤマメいないの!?」
そこは川原であった。パルスィのいる橋からだいぶ下流に行ったところ、地底湖に流れ込む手前の辺りだ。旧都の妖怪も何かの用事がなければ、まずここまでは降りてこない。静寂と物悲しさに包まれた場所だった。緩やかな音を立て流れていく水面、川べりには草一つ生えず、水も小石も等しく黒に染まった世界。それでも水だけは仄暗い輝きを纏っているように見える。或いは村紗にだけ、そう見えたのだろうか。
平らかな水源に悲痛な呼び掛けだけが響く。声が川面に溶け、小石を踏み鳴らす音に邪魔されても彼女は叫ぶのを止めない。こうなったのは全て自分のせいだと、己に鞭打ち続けて。
その思いが故だろうか、船幽霊の直感だろうか。村紗は見逃さなかった。川べりにあった小さな影を。
「ヤマメ?」
声を掛けられた人影は、ぎょっと顔を上げたふうに感じられた。なにせまったく視界は利かない。それでも村紗は影の方へと迷いなく迫る。影は声を返さない。無言のまま、石と水のしじまに隠れるようにうずくまっているだけ。影の真向かいで、村紗はじっと待つ。せせらぎが優しく鼓膜を揺すっていた。
「最低のことした」
ようやく影が喋った。ヤマメの声だった。吐露が指していたのは誰だったのか。きっと様々な顔が混じっていたのだろう。もう誰が誰かもわからなくなるほど。
「私の、せいなんだ」
村紗も喋る。しゃがみ込む。ふっと息が漏れた。
「あたしがみっともないとこ見せちゃったから、こんな訳のわかんないことになっちゃった」そこで自嘲が一つ。「あー情けないなー はっ……うん。だから、一輪は悪くないんだよ。」
「それは、判ってるよ。あの子は悪くない」
曇った言い方だった。村紗は帽子を取って、上を仰ぐ。真っ黒い岩しか見えなかった。
「あんたも悪くない」
間を置いてヤマメは言い足す。村紗は軽く頭を振った。
「ヤマメも悪くないよ。だから、帰ろう?」
「会わす顔がないよ」
「謝ればいいじゃない? 一輪にも謝らせないと。」
「あたしさ、あいつにも、酷いことしたんだ……」
伸ばしかけた手が止まる。でも村紗は躊躇わなかった。
「じゃあ一緒に行こう。あたしも謝るよ。」
「村紗が謝ることなんて、ないじゃないか」
「だったら紹介してよ。ヤマメの彼氏」
そして手を握る。弱々しい感触。村紗はぎゅっと力をこめる。ようやく握り返してきてくれた。安堵する。
水の匂いを村紗は感じた。川から立ち上る水気が、むっと芳香を立てるのを。それはかつて嗅ぎたくなくとも嗅がねばならなかった海の潮臭さとは違う。淡水独特の、澄んだ香りだ。いいものだなと思った。何かが溶けていくように感じられた。
腰を上げる。ヤマメの手を引いて、そして彼女も立ち上がる。ここから光の射すところにまで辿りつく頃には、きっといつもの顔に戻っているだろうと村紗は信じた。早く顔が見たいなとさえ。
「さ、行こ」
手を握ったまま、村紗は前へと進む。小石を踏むしゃりしゃりという音がせせらぎに混じる。少しだけの重さを伝え、繋いだ手の先にいるヤマメも動き出す。
簡単なことなのだと、村紗は改めて思う。仲直りするなんて、本当はなんでもないことなのだ。どう在ろうとすれ違いは起きる。宿世は時に気紛れを見せる。でも、みんな本当は分かり合えるはずなのだと彼女は信じていた。皆が懸命に生きているからすれ違うだけで、だからこそ気付けるはずなのだと。
それは楽天的に過ぎたかもしれない。でも信じることはできる。そう信じるなと、誰が彼女に言えたであろうか。
■ ■ ■
半妖の男が洞窟へ引き返してきたのは、どうしても腑に落ちないことがあったからだ。
キスメが言っていた「誰もいない」という言葉に、拭いがたい違和感があった。確かに声を聞いたのだ。聞き間違えるはずもない。それにキスメの言い方も気になった。普段からそっけない態度で、好かれていないことは明白だったが、あの時はそれとは異なる声色だった。なんだかひっくり返った、白々しい調子だったのだ。彼はそうした機微を察するのに長けていた。それはそうだろう。身に付かぬはずがない。彼もまた周囲からの冷たい視線の下、生きてきたのだから。
ヤマメだと、最初は思っていた。とうとうここまで嫌われたかと絶望したのだ。もう長い付き合いだった。単なる好感以上の感情を抱いてもいた。でも向こうに仕事上の関係を越え出る感情がないのもよく判っている。だとしてもだ、顔さえ見せてくれないという応対は一人の男を打ちのめすのに十分でもある。確かめずにいられなかった。それでこんなところをうろうろしていたのである。
だが、出くわした人物は彼の予想を上回った。それは男。覚えていた――人間の、らい病の、「黒札」だったはずの男。それが今すかした一張羅を着て、草履を履いて、いけしゃあしゃあと自分の前に立っている。半妖の男はすべてを了解した。彼は自身が定めた結論に向かって、全ての状況を収束させたのである。
「何やってる貴様……?」
あの丁重な物腰も、貼り付けた笑顔もうっちゃって、半妖は男として問う。もう一人の男は怯んだように目を伏せた。貧相な、青っちろい顔をした優男。女々しいそぶりはいっそう腹立たしさを募らせる。
「なんで餌がそんな格好してこんなとこうろついてる?」
「お願いです。通して頂けませんか?」
でも、こっちの男も譲れなかった。もう下を向いてはいけないのだと得心してしまっていた。だから顔を持ち上げる。正面から見据えて、決然と告げた。それが相手に余計火を灯すことになるとも思わず。
「あんだこの野郎その口の利き方は!?」
半妖は詰め寄る。病み上がりが見せたほんのささやかな成長は、彼にとって驕り高ぶった勝利宣言としか映らなかった。あの洞穴で、あの黒谷ヤマメと、一緒に暮らしているんだぜ俺は――そう笑われているようにしか。
優男は譲らない。できる限り礼を失しないように、だが毅然たる物腰で請う。
「お願いいたします。急がねばならぬ用があるのです。だから、通してください。」
「黙りやがれっ!!」
そうだ、こんなのおかしいのだ――半妖は何度も頭の中で反芻した――あっちゃならない、こんな死に損ないが、自分と対等の立場で口を聞くなぞ、あり得るわけがない。ひたすら蔑まれ、それでも追従し、ようやく袖を通すことのできたこの羽織、それよりずっとずっと上物をこんならい病人ごときが着ていいはずないだろう? あの女を物にするだなんて、そんなことが許されていいわけがないじゃないか!
「ふざけやがって! どうやってヤマメ様に取り入りやがった、このカッタイ野郎がっ!!」
羽織の襟を絞り上げ、華奢な男をねじ伏せる。馬乗りになりながら、全体重を乗せて相手の胸を押す。身につけた上等な服を、破らんばかりの力で捻り上げながら。
「あ゛……ゃ、離し……」
「黙れ、黙りやがれ!! ずっと狙ってたんだ……あの女はオレのもんだ! それをてめぇなんかに、クソッ、ふざけんな! ああ? どうやった! どうやって誑かしやがった!! これも貢がせたんだろうがっ! ええ? 病気で同情でも買ったのかこの種無しがっ!!」
「ああ゛っ!!」
優男は声にならぬ咆哮を上げる。その腕からは出るはずもない力で、圧し掛かる小太りを弾き飛ばす。半妖は無様にすっころがった。ほこりまみれの羽織――ヤマメからの贈り物を直そうともせず、"らい"の男は駆け出そうとする。彼女の元へ。
「逃がすかっ!」
うつ伏せの半妖は駆け出そうとする足を掴んだ。優男はつんのめって転倒する。草履が脱げた。
「――もう、ヤったのか?」
一番の剣幕で、半妖は訊く。生臭い劣情と、惨めな劣等感と、ありったけの嫉妬をこめて。
「あの女とヤったのか? ヤったんだろうな? あんないい女と同じ床で暮らしてて、ヤらねぇわけがねぇもんなぁ! ああ畜生! 畜生がっ!!」
「返せっ!」
だが、らいの男はそんな呻きなど耳に入ってなかった。彼が見ていたのは、目の前の男に奪われた草履だけ。無我夢中で飛びかかった。体格差など関係ない。あれだけは、絶対に無くしてはいけない。そんなことであの人に会うことは赦されない。
「るせぇ!」
もう恥も外聞もかなぐり捨てて、半妖は四肢振り乱ししがみつく男を払おうとする。仕立てた羽織はよれよれ、帽子も足元で埃を被っていた。口から飛沫を撒き、もみくちゃになりながら、ようやく彼は相手を引き剥がす。
同時に、手に引っかかっていた草履が宙を舞った。
「――っ!!」
押し倒されながらも、"らい"の男はそれを見逃さなかった。彼は目の前の男には目もくれず、草履を掴もうと飛んだ。
掴んだ。安堵する。
けれど彼の足元に、地面はなかった。
半妖の男は、その瞬間をよく見ていなかったのかもしれない。夢中で振り払った相手が、あさっての方向へ飛び跳ねたのは横目で見えた。ただ、次の瞬間はよく覚えていない。気付いたら相手の姿が見えなくなっていた。そして、もう二度と姿を現すことはなかった。
暗い、鉛色の隘路に一人残される。先ほどの応酬が嘘のように、風の音がごうごうと響くだけ。意識が戻るごとに彼を苛んだのは恐怖だった。何に対してかは判らない、底から込み上がる絶対的な恐怖。思わず腰が抜け、その場によろめいた。よくよく見れば眼前には切り立った崖がある。足場は悪く、風は強く、光は射さない。吸い込まれそうになる錯覚に、彼は襲われた。一杯に体を満たしていた恐怖が溢れ出す。彼は落ちていた帽子を掴むと、這々の体でその場から逃げ出したのであった。
■ ■ ■
最初に見つけたのはパルスィだった。
いつも通り橋の上に佇んでいた彼女は、すぐ近くに何かが落ちた音を聞いた。そして珍しく橋を離れ、確認しに行った。まるで最初からそうなることを予期していたみたいに。
橋の近くを通りがかった勇儀に伝えた。萃香が駆けつけ、ヤマメを捜索していた残りの連中も残らず現場に集まった。勇儀も、燐も、空も、工事に参加していた他の連中も、噂だけで聞いていた住人達も、その時初めて男の姿を見たのである。
そして川から橋のたもとまで戻ってきた村紗とヤマメが最初に見たのも、その群集だった。
村紗も初めて男を見た。首の骨が折れただけ、綺麗な顔をしていた。白く、滑らかに透き通った肌には傷一つない。片方だけ脱げた草履を胸にしっかと抱いたまま、それは本当にただ眠っているようで。あまりに美しくて、涙さえも出なかった。ただカクンと、膝を折っただけ。それは他の連中も同じであった。皆呆然と、同じところを見ながらバラバラに立ち竦むしかできなかった。
だから、男の側にいたのはヤマメ一人。ふらふらと、幽霊みたいに近寄った彼女は、棒立ちのままやはり動かない。群集に向けた背は、旧都のうすぼんやりとした光の中に溶けてしまいそう。それでも声を掛けようとする者はいなかった。近寄ることも。それ以上二人に手出しすることは赦されなかった。
ヤマメは男の顔を覗きみる。安堵に満ちた、柔らかな表情をしていた。こんなにも朗らかな面立ちを、彼女はようやく見ることができた。それはヤマメがずっと見たかった顔に他ならなかった。
「……ごめん、一人にしてくれないかな」
視線の先から漏れた声。消え入りそうな音は、しかしそこにいたすべての者の耳に届いた。ヤマメの声は不思議なくらいさっぱりしていて、艶があった。
「――ほら、聞こえなかったの?」
ぱんと手を叩く音。パルスィだった。欄干にもたれたまま、しかし告げる言葉は並々ならぬ迫力を帯びていた。
「橋姫として命じるわ。全員早く橋を渡りなさい。」
その意味を察した者から、一人二人と橋を渡る。あちらの世界へ帰って行く。
そして最後に橋姫自身が橋を去り、残ったのは女一人だけ。
女はひざまずく。男を抱えて、謝った。何度も何度も。壊れたように。
そして彼女は顔を寄せ、艶やかな男の唇に唇を沿わす。最初に会った時以来の唇は、とてもとても冷たくて、それ以上触れるのを躊躇うほど。
けれどヤマメは心を決める。噛み千切って、何度も何度も咀嚼して、そしてこくりと飲み込んだ。涙の味しかしなかった。
それでも口に運び続ける。せめて彼の願いを叶えようと。それだけはしなければならないと。夢中で、泣きながら、貪り続けた。
私達にとって、人間は襲う対象でしかありませんからね
――書籍版東方文花帖:射命丸文
〜 Intermission 〜
「失礼致しますお師匠様」
恭しげな礼儀を携え、因幡てゐはそろりと戸を引いた。戸自体に物々しさはない。しかし中にはピンと張りつめた、一種冷たさすら感じる空気が充満していた。
「――何?」
部屋の主、八意永琳は簡潔に返す。椅子から腰を上げぬまま、来訪者へ視線を向けることすらない。机に面した窓から降る月光に照らされて、結わえた銀髪がいっそう妖しく光っていた。
「ああ、御忙しかったですか?」
「構わないわ。用件は?」
とは言いつつも永琳の視線は机から離れない。机上には陰陽道で用いる式盤と望遠鏡。片手には六分儀を持ち、もう片の手でなにやら精緻な計算を解いている。てゐは下ろしていた面を戻し、そろりと一歩前に進む。解いている算術はおよそ彼女の理解が及ぶものでもないし、またそうしようという気もない。何の為にやっているかが判っていれば十分だ。
「実はさっき迷い人を竹林で拾ったんですよ。それが"らい"でしてね。」
「それならそっちの棚に薬が入ってるから――」
「いえいえ、そういうことじゃございやせんで」望遠鏡を覗いたまま指だけを棚へ向ける永琳を、てゐはいっそう慇懃な口ぶりで遮る。「"らい"なんざ、大穴牟遅(おおなむち)様の薬でも簡単に治せますよ。わざわざ天つ神様のお知恵を拝借するほどのことでもございません。でしょう?」
永琳の手が止む。徹頭徹尾へりくだったようでいて、どこか小馬鹿にしたような言い方。ふっと息を漏らし、ようやく顔をてゐへと向ける。こちらはにっと笑って机まで歩み寄った。無言のまま促された席にひょいと腰掛け、そこでようやく「ありがとうございます」の声。こういう人を食ったようなてゐの態度を、月の頭脳はどこか気に入っていた。
ひっそりと薄暗い部屋だった。壁を見回せば、窓以外にはぐるりと薬棚が並んでいる。液体が入った薬瓶と、生薬が入った桐箱。青に染まった室内で、棚の品々は宝玉のように色とりどりの光を纏う。部屋の主以外にはその価値すらわからない品々ではあるものの。
「珈琲でいい?」と永琳。
「これは申し訳ない」とてゐ。
机の隅に据え置かれたコーヒーメーカーは、永琳が一から作ったものらしい。アルコールランプの青い炎が、白い湯気をふつふつと立ち上らせる。月光にそぼ濡れる机上。二人の怜悧な面差しに青白い光はよく映えた。
「月のご様子はどんな具合で?」
てゐは白々しく尋ねる。永琳もそ知らぬ顔で答えた。
「少し落ち着いたかしらね。アポロが撤退して6年。ソユーズも月には立てず、スカイラブもようやく堕ちた。もうこれで諦めてくれればいいんだけど。」
そして細かい計算式が書き込まれた紙を、てゐへちらつかせる。丁重な身振りで閲覧を断る地上の兎に、月の民も最初から判っていたかのように収めた。
アポロ計画が始まってから、永琳は月への警戒をいっそう高めるようにしていた。月が地上に攻め墜とされるやもと案じていたわけではない。無用な火の粉がこちらまで飛んできて欲しくなかっただけだ。愛弟子である綿月も、今頃は月でそれなりの要職に就いているはず。事態が徒に膠着を深めれば、永琳や輝夜の復権を望む声が出てこないとは断言できない。さっさと終わって欲しい――それが彼女の偽りない考えだった。
それも1973年の17号を最後にアポロ計画が頓挫し、つい三月ほど前にスカイラブが大気圏に再突入したことでようやく一段落がついたように思えた。穢れた人間共は宙への憧れを捨てぬだろうが、その憧憬の対象はもはや月ではなくなるだろう。ならば好きにさせておけばよい。
「そらようござんした。あいつもこれで落ち着いてくれりゃあいいんですけどね」
「"あの子"はまだ落ち着かない?」
青々とした部屋に、ふわりと香ばしい薫りがたゆたう。褐色の液体が注がれたコップを永琳はてゐへと差し出した。軽くお辞儀だけしてから、彼女は遠慮も見せず淹れたての珈琲を啜る。ようやく辺りに熱が戻った気がした。
「まだですねえ。部屋に閉じ篭ったまま、愛想の悪さったらこりゃひどいもんで。ありゃ絶対あたしらのこと見下してますね。他の兎達も非難轟々ですよ」
「まあ脱走兵ですもの。塞ぎこむのは仕方ないわ。あの子からしたらここは蛮地になるわけだし」
月から兎が堕ちてきたのはもう10年ほど前だったか。名は「レイセン」、どうやら綿月とも面識はあるらしい。体の傷は癒えたが、心の傷は残ったまま。薬を使えばと永琳も考えないわけではなかったが、あまり頼りすぎるのもどうかという考えもあった。永琳とは幾らか会話をするようになったものの――輝夜は何故かまだ無理らしいが――、てゐの説明を聞く限り地上の兎に心を開くにはもうしばらく時間が掛かりそうである。
「――で、そろそろ用件を聞かせてもらってもいいかしら?」
「用件はお伝えしたとおりですよ。迷い人を確保したってのを報告に上がった次第で」
「天つ神の力は要らないんでしょ? だったら報告するまでもないじゃない。それとも今まで貴女が私たちに隠れてこそこそやってたこと、洗いざらい報告してくれる気にでもなったの?」
珈琲片手に先ほどのお返しをする永琳に、てゐもわざとらしく額を叩いて「こりゃ参った」ととぼける。青みがかった笑みを浮かべる永琳へ、てゐはさっきの下手から刺すやり方で攻め込む。
「いえいえ。その"らい"の奴なんですがね。一応看病しようかと思ったんですが『早く殺してくれ』の一点張りなもんで、要望通り絞めることにしたんです。それがたった今済んだんで、こちらにお伺いした次第でして。」
へっへっへと、へつらうような笑みを挟むてゐ。永琳は小さくほくそ笑む。向こうの手が見えたのだろう。てゐは見透かされたのを承知で続ける。
「そこで、是非どうかと思いましてね。みんなで"すき焼き"でもつつきながらお月見なんてのは」
そこまで言い終え、珈琲を一口。カップに遮られ互いの視線が切れる。相手に考えさせる間を持たせる為に。
永琳も顔をてゐから外し、窓へと視線を移す。遥か遠くに月があった。この穢れた地に堕り立ってどれほど経ったろうか――永琳はまだ"それ"を口にしたことはなかった。
「でも、何故今になって?」月を見上げたまま永琳は問う。「確かに人が迷い込んできたのは久しぶりだけど、最近はそういう"お誘い"もめっきり絶えてたじゃない。"あの子"が来たから?」
「さっきお伝えしたでしょう?」てゐは愉快そうに混ぜ返す。「今日迷い込んできたのは"らい"だって。」
月にあった永琳の眼差しがすっと正面の兎へ戻る。この賢者を以ってしても、今しがたの言葉の含意を図りきれなかった。てゐは平然としたそぶりで腰掛けている。戸惑いは永琳の無知故ではなかったろう。彼女に地を這って生きる妖の嗜好など、判るはずもないのだから。
てゐはへらへらと、薄笑いを浮かべながら永琳を眺め回していた。その愛くるしい見た目がなければ醜悪にさえ映ったほど。やんごとなき方を手玉に取れた喜びか、向かいの表情から得られた確かな感触が為か――確かに笑みをこぼしたくなる理由はあまたあったのだろうが。
永琳はてゐが待ちわびた通りの問いを投げる。
「よく判らないわね。"らい"が誘う理由になるの?」
「そりゃもちろん」てゐは間を置かず答える。「"らい"にかかった奴の肉はとびきり旨いんです。妖怪には大人気なんですよ。」
二人は同じタイミングで珈琲に口をつける。てゐは永琳の言葉を待とうとはしなかった。
「妖が人を襲う時って、出来るだけ怖がらせてから仕留めるんです。なんでか判ります? そうすると肉の味がよくなるんですよ。あたしら妖怪は、別にただ肉が食いたいから人を喰ってるんじゃない。恐怖や嫌悪、絶望みたいな、精神的な"えぐみ"こそ味わいたいんです。それが肉にたまらない深みと甘みを加えてくれる。それがなきゃ人肉なんざ、大して旨いもんじゃないですしね。」
そこでひひひと空笑いが入る。永琳は無言のまま続きを促す。
「ところが"らい"を患った奴ってのは、その旨みをたっぷり腹に溜め込んでるんですよ。そりゃそうでしょう。だって溜まってるのはそいつが生きてた時に覚えた絶望だけじゃあない。そいつが周りの人間共から浴びせられ続けた憎悪、嫌悪、畏怖、呪詛――そんなものが筋の一本一本にまで染み込んでる。その味ときたらもう、普通の人間なんかたぁ比較にならない。」
てゐは身をくねらせ悶える。くすりと笑ったのは永琳だった。
「本当によく判らないわね、大地に這いつくばって生きてる連中の考えることって。らい菌なんてたいした病原菌じゃない。死への恐怖を増幅させるという点ではもっとふさわしい病がいくらでもある。天然痘やインフルエンザ、マラリアにペスト、破傷風やコレラなんかもそうかしら。どれもが有史以来幾千万、幾億もの人命を奪ってきた。それこそ人の歴史を捻じ曲げた大量殺人犯と喩えても言い過ぎでないくらいにね。"らい"なんて、本来そういった菌と比較するのもおこがましいというのに。」
「最高の恐怖ってのは死ぬことじゃないですからね」てゐは指をピンと立てる。「生き続けなきゃいけないことでしょう。"死んだ"も同然の扱いを受けながらね。お師匠様ならよくお分かりでしょう?」
蓬莱人は愛好を崩した。話の結論としては悪くない。残った珈琲を飲み干し、永琳は立ち上がった。てゐも椅子から跳ね降りる。傍目には無邪気そのものなしぐさで。
「ま、せっかくだからお相伴に預かってみましょうか。甘美な地上の汚穢(おえ)ってやつを」
「そうそう。何事も経験ってのが大事ですぜお師匠様」
永琳は首をすくめる。頭の後ろで手を組みながら付き従うてゐ。部屋を出たところで、思い出したふうに彼女は声を上げた。
「あ、そうそう。人気の理由ってもう一個あるんです。」
「あらそうなの」
「肉質が変わんないんです。結核やマラリアあたりだと肉が痩せちまうんですが、"らい"はそういうのがあんまりない。ま、なんだかんだ言っても喰うんだから、そっちも大事な要素ってのは確かですし。皮さえ剥いちまえば、肉は"健常者"と変わりませんので、どうかご安心を。」
「それは当然でしょ?」
首だけをこちらへ向けて、永琳は驕慢な冷笑を浮かべた。
「私たちから見ればどちらも穢れた存在でしかないもの。」
まあ、妖怪っていうだけで悪いんじゃん?
――東方星蓮船:博麗霊夢
〜 Stage X 〜
地底には天気がない。晴れや曇りもないし、雨が降ることもない。うだるような暑い日が訪れることもないし、寒波が襲ってくることもない。それは過ごし易くもあるが、物足りなくもあろう。
特に地下の住人たちは雨に焦がれた。地下水は豊富なので水に困ることはない。彼らは水が欲しいわけではないのだ。しとしとと地を濡らす長雨の静けさ、或いはすべてを吹き流す嵐の爽快感、そして雨上がりの芳しい空気――そんなものが時折り無性に恋しくなる。ちょうど今の旧都のように。
あの事故が起きてから、幾日か経っていた。もっとも住人たちの感覚ではだいぶ前のことだった気がしていたが。そう思いたかったのだろう。あの件に関しては、少なくともおおっぴらなところで口にするのはタブーとなっていた。不幸な話など、ここで生きていくのに一番不要なものだ。
もちろん過去のことにしたい者がいれば、そうしたくない者もいる。見た目は平静を取り戻したようでも、一つ皮を剥いで中を覗けばまったく違うものが見える。例えば伊吹萃香がそうだった。
「よっ。キスメ、久しぶり」
萃香は洞穴を訪れていた。ここに来るのは久しぶりだ。みな避けていた。冷たさではなく思いやりの故に。
「どうも、お久しぶりです……」
キスメは小声で挨拶する。昔からの引っ込み思案、だがそれ以上に傷悴した声だった。萃香は愛好を崩して彼女を励まそうとする。いつもの威勢がなかったのはむしろ萃香だったけれど。
「ヤマメには、会えるかね?」
「あ、はい。えと……」
キスメは口ごもる。今この鬼を中に通すべきか、彼女は悩んだ。会えるか会えないかと訊かれれば、答えは簡単――会えるだ。
「あら、萃香様ですか?」
キスメが戸惑っているうちに気付かれてしまったようだ。後ろから返事が届く。とてもしとやかな、しかしピンと張った力強い声だった。たじろいだのは萃香だ。
「あ、ああ……ごめんよヤマメ。邪魔して……」
「いえいえ。お久しぶりです。立ち話もなんですから、宜しければ中へ」
*
萃香は唖然としていた。久方ぶりに見た黒谷ヤマメは、彼女の予想とまったく異なる面差しをしていた。
「お茶でも淹れましょうか。」
「あ、いやいいよ!」
いわれるがまま洞穴に入った萃香、茶の勧めを慌てて辞退する。それでもヤマメは控えめにふふと笑うだけ。手はもう給仕に動いていた。なんだか客の方が気を遣い通しである。小さくしわぶいてから、萃香は改めて家主へ視線を送る。風貌に変化はない。朽葉色の髪に大きなリボンをつけて、海老茶色の衣装を纏っている。肌艶もよく、瞳も綺麗に澄んでいる。少し疲れているふうにも見えるが、落ち込んでいる様子はない。快活そのもの。ただ前と少しばかり印象の違うところもあった。
「お待たせしました」
「あ、ああありがと……」
そっと茶碗が差し出される。萃香はどぎまぎしてしまった。そう、なんだか随分柔らかくなったふうに見えたのだ。前は振舞いにももっと威勢のよさが立っていたから、角が取れた感じと言えばいいだろうか。卓袱台のはすかいに腰掛けるヤマメを萃香は盗み見る。以前と同じく愛想のいい顔つきをして、茶碗に口をつけてはいる。しかし茶を茶をすする合間合間に漏れる吐息がやたら物侘しげな響きで、それがいつもの愛嬌にじわりと影を落とすのだ。なんだか不思議と艶かしく、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうしぐさ――何やってんだしっかりとしろあたしと、萃香はかぶりをぶんぶん振った。
「お茶、なんかおかしかったですか?」
ヤマメは申し訳なさげに訊いてくる。「違う違う!」と顔を後ろに引いて全否定した萃香に、はにかみ返すヤマメ。それは元と同じ風貌で、萃香はやっと息が吐けた。――別に不思議がることじゃあない。まだ引きずってるだけなんだろうと思い直して。
「あいつに手、合わせてもいいかな?」
「……それなら、あちらの部屋に」
とヤマメが指差したのは、右から二番目――「薬指」の穴倉だった。軽く頷いて萃香はそちらへ向かう。中には何もなく、台の上に掌ほどの骨壷が一個載っているだけ。線香すらない。そういや花がいるんだったなと、萃香は自分の気の利かなさに呆れる。もっとも地下に咲いてる花なんて、地霊殿の刺々しい薔薇くらいしか思いつかなかったが。
軽く拝んで、すぐ居間へと戻った。一人ぼんやりと佇むヤマメはどこか虚ろにも見えて、また萃香の胸を打つ。
「悪いね。花でも持ってくりゃよかった。」
「いえ、わざわざありがとうございます」
目だけで礼をするヤマメ。やはり変わってしまったように感じた。萃香は改めて口をぐっと結び、軽く咳払いしてから口を切った。
「あれから、少しずつだけど尋ね歩いてはいるんだ。」
そこでちらと相手の反応を確認する。反応次第では引っ込めようかとも思って。視線に気付いたヤマメは、軽く頷いて続きを求める。
「あの時、ここに来た奴がいなかったか。キスメと別れた後、あいつに会った奴がいないかってね。」
そう、あの悲劇を忘れられずにいた奴は、萃香みたいに下手人探しに躍起になっていた。これは殺しだ、あの男は誰かに突き飛ばされたんだと、そう考えてる輩は多かった。表には出ないところで、やれあいつが怪しいとか、あいつを橋の近くで見たとか、あいつはヤマメに惚れてたとか、そんな愚にもつかない当て推量が交わされていた。中には探偵めいたことを実際にやっている奴まで――萃香もその一人か。
もちろんこの鬼のこと、下世話な興味で首を突っ込んでいるのではない。彼女は必要以上に責任を感じていた。旧都の連中が男のことを知るきっかけを作ってしまったのは自分、噂が広がるのを放っておいたのも自分、ヤマメがいなくなった時、一輪との件がショックで碌に手を貸せなかった自分――全部が自分のせいに思えた。だから何かしたい、いやせねばと思っていたのだ。
「まだ話ができてない奴がいるんだ。確認だけでもと思ってるんだが、みんな口が重くてね。けど――」
「そんな、いいですよ。」ヤマメはふっと笑みをこぼす。「あれは事故だったんです。大方橋まで行こうとして足でも滑らせたんでしょう。馬鹿な奴ですよ。あんだけ外へ行くなって口を酸っぱくして言っといたのに。」
そっけない調子で飛び出た言葉に、萃香は面食らう。ヤマメは湯呑みを両手で抱えたまま首をすくめておどけてみせる。そして困惑する相手に気付いて「ああ、すみません」とぽつり。萃香は手の置き場を求めるように後ろ髪を掻き回す。
「でも、草履がかたっぽだけ脱げてたのはおかしいだろう? 羽織だって変によれてたし、それに……」そこで一方的にまくし立てている自分に気付く。「あ……ああごめん。またヤマメの気持ち考えないで、あたし一人……ごめん勝手なことばっか言って。」
「そんなことはありません。こうやって心配してもらえるだけで十分ですよ。あいつぁ、幸せもんですね。死んでも気に掛けてもらえるなんて。」
と言ってヤマメは茶を飲み干した。組んだ指の上で溜息を一つ。頬を少し緩ませて、遠くをあった目を静かに落とす。
「ちょいと、上せちまってたんでしょうね」自嘲混じりに口を開く。「パルスィの奴が前に言ってた通りですよ。寝ぼけて夢でも見てたんです、きっと。初めてだったんですよ。こんな嫌われもんにああ言ってくれた人。だからなんですかねぇ、生娘みたいに周りが見えなくなっちまって……ふふっ
でももう大丈夫。目も醒めて、今じゃきれいさっぱり。何とも思っちゃいませんから。だからあんまり気になさらないで下さい。」
萃香は言葉を掛けられなかった。「そうか」と付き合ってしまえば良かったのかもしれない。一緒に笑って水に流してやれれば良かったのかもしれない。でも彼女は鬼だった。嘘が吐けない、どうしようもなく正直な。そしてどうしようもなく相手の嘘に敏感な。
頬を引っ掻きながら萃香は立ち上がる。
「お帰りですか?」
「ああ。邪魔したね」
「またいつでもいらして下さい」
愛想良くヤマメはお辞儀する。手だけ挙げて萃香は洞穴を後にした。あの笑顔を、気丈な振舞いをしっかりとまぶたに焼き付けて。やはり何もしないで放っておくなんかできなかった。向こうが望んでないとしても、あの強がりをそのまま受け入れることなんかできない――そう胸に誓って。
「お帰りですか?」
出てすぐのところでキスメに呼び止められる。こっちはわかりやすいくらいに悄然としていた。
「ああ、また来るよ」
「……萃香様は、あれが殺しだと思ってますか?」
萃香の言葉とはなんら関係なく、キスメは思ったままに問いかけた。訊かずにいられなかったことを。萃香は少し言いづらそうに
「わからない」と正直な思いを述べる。「そうかもしれないし、事故かもしれない。だから調べたいんだ。ちゃんと」
「私も、容疑者なんですよね?」
萃香も薄々は覚悟していた。そういうことを言われるんだろうと。現状確認できている内、あの男と一番最後に別れたのが、このキスメだ。事実旧都では彼女を疑う声もあった。つまりこういうことなのだ。萃香がやろうとしているのは。気のおけない知り合いを残らず疑ってかかるという、残酷で最低な。
「別に、誰かがやったって思ってるわけじゃないんだ」だから萃香は精一杯の曖昧さで自分をごまかす。「みんながやったんじゃないって判れば、それでいいんだ。嫌だろ? やったやらないで疑心暗鬼になって、ギスギスすんの。それだけさ。キスメがやったなんて、あたしは思ってない。」
ぽんぽんと小柄な釣瓶落としの頭を撫でて、萃香はそこを去った。キスメは姿が見えなくなるまで、そこでじっと小柄な鬼の後ろ姿を見続けていた。やはり悲しそうに。
*
形にならぬ想念と戦っている内に、萃香は橋までたどり着いていた。そこにはいつも通り彼女が立っている。
「お帰りなさいませ萃香様。如何でした? ヤマメの具合は」
水橋パルスィは萃香へそう尋ねた。言葉だけは丁寧に、しかし節々に侮蔑を織り交ぜた言い回しで。萃香は唾をぺっと吐く。今の心持ちでは、到底この橋姫とやり合う気分にはなれない。
「やせ我慢してたようにしか見えなかった。これでいいかい? 今はあんたと話したくない。」
「それは失礼しました。でも――」欄干に寄っかかったまま、通り過ぎようとする萃香にもはっきりと届く声量で呟く。「そちらこそ私に訊きたいことがおありなんじゃ? なんせ私第一発見者なんだから。ふふっ」
立ち止まり、嫌みな橋姫をギロリと睨む。鬼の威嚇などどこ吹く風、睨まれた方は涼しげに笑うだけ。
「まあ怖い。天下の伊吹萃香様からそんな眼で見られるなんて。私も偉くなったものねぇ、自分が妬ましいわ。」
「黙りやがれ」
舌打ちが飛ぶ。パルスィは恍惚とそれを受ける。妬み嫉みが彼女の生きる糧とすれば、今の時間は甘味そのものだったろう。
「お前が橋を離れてあそこまで人襲いに行くたぁ思えないね。橋に魂縛り付けられた哀れな妖怪なんぞがさ。」
「"哀れ"ってのは仰るとおりですが、別にここから離れると死ぬってわけじゃありませんの。他に行きたい場所がないだけですわ。"誠実さ"に魂を縛り付けられた哀れな鬼さん?」
まるで自分にわざと疑いが向くように、パルスィは言を繋ぐ。そうやって論(あげつら)おうとしていたのだろう。萃香の欺瞞を。言われた方はもう彼女に構おうとはしなかった。橋を渡りきる。待ち人がいた。
「萃香、ここにいたのかい」
星熊勇儀だった。萃香はまた表情をこわばらせる。一番会いたくないのに会ったと言わんばかりに。
「……なんか用かい?」と儀礼上尋ねた萃香に、「もうやめときな」と予想通りの答えが来る。心底嫌そうな顔で、彼女は勇儀を睨み上げた。勇儀はどっしりとそれを受ける。
「みんなうんざりしてんだ。痛くもない腹の探り合いなんかやってさ。そんなの何になる? もう引きな萃香。ほっといてやるんだ。」
「その"みんな"ってのは誰のことだい?」
と萃香。山吹の髪を苛立たしげに振りながら、絶対に相手と目を合わせようとしない。勇儀もまた視線を落としたまま。
「みんなはみんなさ。あんたみたいにうじうじしてない連中だよ。」
「はっ、まさかここまで愛想尽かすことになるたぁ思わなかったね」萃香は吐き捨てる。「勇儀、お前とはもう縁切りだ。見損なったよ。もう二度とあたしの前に顔見せんな。次のこのこ姿現したら、そのへつらい面ぶっ飛ばすよ」
「認めな」突っ切ろうとする萃香に前に勇儀は立ちはだかる。「あんたのそれはヤマメを救わない。自己満足にもならないだろうさ。誰も喜びゃしない。やめとくんだ。」
「ぬかせ腑抜けが」
それを押し退けて萃香は進む。勇儀は手は出さなかった。長い付き合い、判ってはいたのだ。こんな説得が意味をなす奴じゃないことは。萃香はあまりに真っ正直が過ぎると、勇儀は常々思っていた。こうと決めたことは絶対に曲げない。自分の信念に背く振舞いができない。その不器用さは時として"鬼"という存在原則すら曲げてしまうほど。
でもやはり勇儀も鬼だ。自分で嫌になるくらい。だから萃香が霧になって消えてしまうまで、彼女は声を掛け続けるのをやめなかった。
■ ■ ■
霊烏路空はいつも申し訳ないと思っていた。
木組みだけ済んだ新棟に、彼女は火炎猫燐といた。中から見ても本当によくできている。空は思わず感嘆の声を上げそうになった。もし今が平穏無事な、いつも通りの旧地獄であったなら、きっと彼女は飛び回って喜びを表しただろう。
でもそんなことはしない。ここで止まったままの工事を、そして横に居る友人の顔をみれば、彼女だってしてはならないと思う。
「さて、どうしたもんかね」
燐は溜息混じりに独りごちる。どうしようもないことをわかった上での言葉だ。空は横でしょげるくらいしかできない。
彼女は皆から馬鹿だ馬鹿だとからかわれているが、こうやって他人を慮ることはできる。と言うより記憶力に難があるだけで、心の機微を察する繊細さはしっかりと持ち合わせているのだ。だからいつも申し訳ないと思っている。みんなの役に立てない自分の無力さに。
自分がごくありふれた地獄鴉で、力も知能も大してないことを空はよく判っていた。馬鹿だなんだとからかわれてニコニコしている裏で、私ってダメだなあといつも落ち込んでいる。もう少し自分が強かったらお燐の力になれるし、さとり様も喜んでくれるのに、と。
彼女には夢があった。いつかとびきり強くなって、この地底を明るく照らすのだという。岩でできた暗いだけの天蓋なんか一掃して、みんなにまた星空を見せてあげるのだ。みんなの頭上に光を降り注ぐ太陽みたいな存在になるのだ、と――そんなことを言うたびに燐は腹を抱えて大笑いしたが、彼女はいつか叶うと無邪気に信じている。それくらいは許されて然るべきだろう。下賎な地獄鴉だって神様に願掛けする権利くらいある。
「さとり様にお願いしてみる?」
「それしかないわな」
唇を突き出し答える燐。空の提案は彼女も前から考えてたことだ。別段目新しいわけでもない。ただ何をお願いするのかを、彼女はなかなか思いつけずにいた。
工事を一旦中断するか、いっそ完全に中止とするか、再度呼びかけてみるか――伺いを立てるならこんなものだろうか。最後のはないと思った。そんなことが出来る空気じゃない。でも空はそう思ってなかった。
「さとり様がみんなに『仲直りしなさい』って言ったらさ、また続き始められないかな?」
あまりに無邪気が過ぎるアイデアだ。あたいらの主人は神様じゃないっての――そう燐は心で呟く。でもそうやってさとりを信じ切れない自分が情けなくも思う。もう逃げてられないなと、彼女は覚悟を決めた。
「わったよ。じゃあそうやって頼んでみよっか。おくうも一緒に来る?」
「うん。行きたい」
「あいよ」
二人並んで新棟を後にする。行きたいと言ったのは空だが、そう言わせたのは燐だ。一緒にいてほしかった。一人きりでさとりと対峙し願を立てるのは、彼女にはできそうになかった。知恵なんてつけるもんじゃない――さとりに会えるとうきうきしている空を見ていると、燐はいつもそう思う。
黒みがかったチークのドアをノックする。今度はちゃんと挨拶した。
「失礼します。あたいとおくうです。」
「どうぞ」
ドア越しから小さな声。待ちきれないといった感じで空が開けた。
「なんですか?」
部屋の中はいつも通り。ソファーに腰掛けている主人も前と同じ。そう、さとりは何も知らなかった。この黒く重いドアの外で起きていることは、今の彼女にはないと同義だった。だからようやく知ったわけだ。燐の心を読んで、旧地獄が今どうなっているのかを。
「こんにちはさとり様。お久しぶりです。」
愛嬌たっぷりにお辞儀する空を無視して、さとりは三つの目で燐の心を覗き込む。そして大方の事情を察した。
「……なるほど。人間が、ですか。まったく余計なことを持ち込む……」
「さとり様、そんな言い方は――」
「……まあいいです」燐の反論をさとりは無慈悲に遮る。「そういうことならば工事は無理でしょう。そうですね、木組みだけできているのならば、あそこは倉庫に充てましょう。たまっている家財道具を全部移せば、空く部屋も出てきますね?」
「あ、はい。だったら――」
「……ええ。家財のリストを作って、後で持ってきてください。荷物を動かすだけならうちのペット達にやらせても問題ないでしょう。お燐、お願いできますか?」
「はい……」と、燐は消え入りそうな声で答える。これで議題は解決、万事終了というわけだ。心を読む時間を入れて正味3分掛かったかどうか。
「で、ですねさとり様……」
しかし燐もこのままおめおめと帰るわけにはいかない。さとりの眼差しに立ち向わんと声を上げる。
「……お断りします」
しかし主人はにべもない。燐はすぐ下を向いてしまった。
「あの、さとり様。実はお願いがあるんです。みんなに――」
「……ええ判りますよおくう。貴女の言いたいことは」懇願する空を、さとりはまた遮る。「でもそれは私の務めではないのです。私が任されているのは怨霊の管理監督だけ。旧都のいざこざを解決するのは鬼の仕事です。私には一切関係のないことなのですよ。ね、お燐?」
「あっ、いや、まぁ……一応そういう決め事にはなってるんですが……」
さとりは空への反駁に燐を巻き込む。残酷な仕打ちに、彼女は目を反らしたまま口ごもるしかできなかった。
正確に言えば、さとりの言葉は無邪気な地獄鴉に向けられたものではなかった。頭の回る燐はそのことをよく理解していた、だから余計言い淀んだのだろう。さとりが拒絶したのは空の提案だけではない。燐が心に秘めていた願いも、また切り捨てたのだ――犯人探しを終わらせていただけませんか、という。
燐は萃香と違って、あれが事件か事故かという点にはあまり関心がなかった。そんなことは今さらなんにもならない。自分にも、たぶんヤマメにとっても。もちろん事件と言い立てたい奴の気持ちも判る。あれをそのまま受け入れて消化しろというのは無理な注文だ。でもそれで旧都の空気が悪くなるのはもっと嫌だった。
実際燐は危ぶんでいた。表面上でこそ平穏を取り戻しているが、きな臭い空気は隠しきれていない。昨日もヤマメにぞっこんだったどこぞの馬鹿が、酒の席で死んだ男を笑いの種にした奴をぶん殴ったなんてことがあった。そんな状況だ。いつ何がきっかけで爆発したって全然不思議じゃない。特にここは荒くれどもの集まり。火がついたらどうなるか、考えるだけで怖かった。
でもさとりはそんなことに一切関わりたくないと言う。確かに荒事を治めるのは鬼がやることだ。でも今はその鬼が一番危なっかしい。さとり様なら――と燐は思っていたのだ。みんなの心の中を見てもらえば、疑いは全部晴れる。もし本当に万が一あの男を突き飛ばした外道がいたとしても、絶対に言い逃れなんかできない。どっちにしても丸く収まる――そんな縋るような願いは、口にすら出させてもらえなかった。
「で、でもさとり様――」
「さ、二人とももう行きなさい」めげずに声を上げる空を、さとりは相手にもしなかった。「工事を手伝ってくださった方にも、一応中止の旨と労いの言葉を伝えておく必要はあるでしょう。お願いできますね。」
「判りました。たださとり様、一つだけ……」
そして今日の燐もめげなかった。一つ閃いたのだ。空がいたからかもしれない。続きを読んださとりは、陰気な顔をさらに顰める。そして珍しく黙考してから、とつとつと告げた。
「……『竣工式をやらせてください』ですか。まあ、いいでしょう。あまり羽目を外しすぎないで下さいね。」
「ありがとうございます、さとり様」
*
最後に一礼して、燐と空は部屋を後にした。安堵の息を漏らす火車の隣で、地獄鴉は少し落ち込んだ様子だ。
「ごめんねお燐。やっぱあたし役に立てなかったね……」
「んなことあるかい」燐は全力で否定する。「おくうがいてよかったよ。」
友人の慰めに少しだけ微笑む空。その頭をぽんぽんと叩いてから、燐はまず自分の部屋に一旦戻ることにした。一番の大仕事は竣工式のセッティングだが、とりあえず大事に取り掛かる前に家財道具のリスト作成を片付けておきたかった。引っ付いてきた空と廊下を進みながら、二人は取りとめもなく会話を交わす。
「ねえお燐、『しゅんこーしき』って何?」
「ああ、建物が建ったのをお祝いするんだよ。ホントはお祓いとか色々儀式やんだけど、まぁ今回のは要するにいつもの宴会みたいなもんさ」燐は一度立ち止まり、くるりと空へ顔を向ける。「つまりさ、みんなで仲直りパーティーやろうってこと。ヤマメも、一輪も村紗も、キスメも鬼たちも……もう誰が来たっていいさね。一杯呑んで騒げばさ、ちったぁ気も晴れんじゃないかなって」
「ああ……うん。そだね。それいいね。」
空も燐の意図を理解して顔をほころばせる。友人の素直な賛同に、燐も自然と笑みがこぼれる。
実際出来るかどうかはまだ確信が持てない。一体何人集まってくれるのか、想像すらできなかった。何よりヤマメと聖輦船の連中が来てくれなければ、この企画は成り立たないのと同じ。でもさとりにやると宣言した以上、もう後には引けない。
「じゃあさ、あたいはヤマメのとこに行って工事のことと宴会のこと言いに行く。おくうは、とりあえず一輪のとこに行ってくんないか?」
「うん、わかった。工事はおしまいになって、その代わりに『竣工式』やるって言えばいいんだね。」
「忘れんなよ」と燐はこずく。空は「またバカにして」とむくれてみせる。それでも彼女は嬉しかった。燐から仕事を任されて、力になれることが。燐もその心持ちには気付いていたのだろう。ずっと昔からの腐れ縁だ。主人のような力が無くともそれくらいは判る。ようやく緊張感が解けた頃、二人は燐の部屋の前にまで来ていた。
燐の部屋はよく片付いていた。蒐集家らしく細々したものが至るところに飾られてはいるものの、その割に雑然とした感じはない。死臭には満ちていたが。
友人が事務仕事をぱっぱとこなすのを後ろで見ていた空は、ふと見覚えのないものを見つけた。
「ねえお燐、これ何?」
それは本だった。この部屋ではあまり見ない物。空の注意を引いたのは、たぶん金縁の装丁がとても細やかで美しかったからだろう。燐も慌てて思い出した。これでは友人を馬鹿にできない。
「いっけね」
舌打ちを漏らしながら、テーブルに置きっぱなしにしていた本を取る。ぱらぱらと当てもなくめくってはみたがすぐ閉じた。彼女はあまり活字が好きではない。
「これ、さとり様に借りたんだよ。返すの忘れてた……」
「え、さとり様のなの?」
と、興味津々の空。燐から本を掠め取ってまじまじと見つめる。
「おくう、それ本だよ。字が書いてあんだよ。光もんじゃないよ?」
「うにゅー またバカにしてるでしょ?」空は唇を尖らせる。「何の本? 面白かった?」
空は矢継ぎ早に尋ねた。もっとも本当に内容を知りたかったわけではないのだろう。大好きな主人がどんなものを読んでいるのかを知りたかったのだ。燐はばつの悪そうな顔で
「にゃはは……実は読んでないんだ。聖書のなんだからしいんだけど、あたいにはよく分かんなくて……」
と、正直に答える。まあ流れで借りただけで、特に読みたかったわけでもないから仕方ない。「ふーん」と空。そして何を血迷ったかこう言った。
「じゃああたしに貸してよ。読んだらお燐に何書いてあったか教えてあげる!」
しばしぽかんと呆れ顔をしていた燐は、やがてその表情のまま頷く。大切そうに本を抱えながら、本当に真面目な顔してそんなことを言うのだ。茶化す気も失せてしまう。
「へぇへぇ、どんぞお好きに……飽きたらちゃんとさとり様に返すんだよ」
■ ■ ■
空は燐から借りた本をぱらぱらとめくりながら往来を歩いていた。誰でも経験はあろうが、こうやって歩くのはたいそう危ない。特に本など読みなれてない空にとってはなおさら。すれ違う人と何度もぶつかりかけた。元より背も高めで、翼も大きい。それが道の真ん中をふらふらしていたら、ぶつかってくれと言っているようなものだ。
往来の雰囲気に、特段変わりはない。やくざ者の街らしい活気もあり、威勢のいい声も飛び交っている。顔馴染みが往来でばったり出くわして道の真ん中でくっちゃべってたり、ばあさんの妖怪がだれかれ構わず声を掛けてたりもする。そもそも行き交う連中の大体が馴染みの間柄だ。歩いてれば自然と挨拶も飛ぶ。そんな古ぼけた町並みの雰囲気が、旧都には色濃く残っていた。だから空が危なっかしい足取りで歩いてても、みんな「地霊殿とこの鴉じゃないかい、気ぃつけな」とたしなめるか、せいぜい不釣合いに小難しい本を読んでることを冷やかすくらいのものだ。
燐の予想通り、空はさっぱり読めなかった。内容が分かる分からない以前の問題で、難しい字が出てくると詰まってしまう。昔に書かれた本なのか、言い回しも古めかしくてとっつきにくい。首を捻りながら本に顔を突っ込んでいたら、道さえも外れてしまった。
「うにゅ? ここどこだっけ?」
空が意識を本の外へ戻すと、やけに閑散とした通りにいた。人通りもなく、空気も重い。どうやら裏通りに入ってしまったらしい。一旦本を閉じ、空は辺りをきょろきょろ見回す。
「えーと、どっち行ったらいいのかな?」
「おくう大丈夫?」
後ろから呼ぶ声。空は一瞬戸惑ってしまった。それくらい久しく聞いてなかった声だったのだ。
「こいし様!?」
「迷子になっちゃったのね」
立っていたのは古明地こいし、さとりの妹――瞳を閉ざした覚。以来無意識の世界に沈み、誰にも気付かれず辺りを徘徊する日々を送っている。だからこうしてペットの前に姿を現すのさえも久しぶりのことだった。地霊殿にいるのかいないのか、そもそもこの地底にいるのかいないのかすら誰も知らない。嫌われることすらない嫌われ者だ。
こいしは顔面に貼り付けたような笑みを湛えながら空を見上げる。こちらは久しぶりに出てきた家族に喜びを隠せない。ずっと小柄なこいしに夢中で抱きついた。
「わぁ、ホントにこいし様だ。うれしい!」
「えへへー久しぶりだねぇ」
にこにこと、帽子を取ってこいしも応える。そして頭を撫でてやる。
「お燐もさとり様も喜びますよ。さあ帰りましょう。」
「ダメだよおくう、思い出して。お使いしてたんでしょ?」
「あ、いけない」と空。話をそらされたことにも気づかないペットの手を、こいしは取る。
「聖輦船に行くんです」空は得意げに説明を始める。「そこで、工事が中止になったって伝えて、それから、えと……しゅ、しょ……あれなんだっけ?」
「『竣工式』でしょ?」
知っていたかのようにさらりと訂正するこいし。「それですそれ!」と空は歓声を上げる。時たま何でも知ってるような言動をするもう一人の主人を、空はかねがねすごいと思っていた。
そのまま先導され、空は見覚えのある通りの手前まで戻ってきた。久しぶり――いやこうしてこいしと並んで歩くなんて、空には初めての体験だったかもしれない。鼻歌交じりで後ろを進みながら、彼女は訊いた。
「こいし様は今何してるんですか?」
「うーん、しばらく暇してたけど、最近は色々面白いからね。こっちで遊んでるよ。」
「そうなんですか」意思の伝達ができているのか怪しいまま、二人の会話は続く。「今度、うちでパーティーやるんですよ! こいし様も来てください!」
「どうかなあ。その日は忙しくなりそうだから。行けるかわかんないや」
「……うにゅぅ、そうですか……残念です」
たちまちにしてしょげ返るペットに、こいしは振り返って微笑みかける。
「おくう、さっきからずっと読んでたそれなぁに?」
「ああこれですか?」こちらはまた表情を一変させる。「お燐に借りたんです。元はさとり様の本らしくて」
「へぇ、お姉ちゃんの?」こちらは最初からずっと笑ったまま。「ちょっと見せて」
「一生懸命読んでたんですけどなんかよく分かんなくて……こいし様はわかります?」
「イザヤ書だね。旧約聖書だ」
すっすとページをめくりながら、こいしはさらりと答える。空は羨望の眼差しで主人を仰いだ。
「そう、それです! お燐も聖書とかなんとか言ってました。こいし様は読んだことあるんですか?」
「うーん、結構昔にね。」
「どんなお話なんですか?」
食い入るように空は尋ねる。こいしは軽くおどけたような格好をつくってからそれに答えた。
「最初はね、自分の住処を追われた人間達の恨みつらみが書いてある。自分達の故郷を奪った連中は必ず報いを受ける、私たちはいつか必ず救われるんだって、そんなことが延々と。後ろの方にはかわいそうな男がいつか降臨するだろうっていう預言が書いてあるのよ。」
「かわいそう?」
「うんそう。そいつはね、自分が死ねばみんなは心を入れ替えて真理を悟ってくれるだろうと信じて十字架に掛けられるの。これで世界は今より平和に、良いものになるだろうって信じて。でも残念ながらそうはならなかった。2000年経っても何も変わらない。いやむしろ逆ね。後継者達は彼の言葉を使って悪逆の限りを尽くしたの。多くの者がその男の言葉を胸に斃れ、血と涙を流した。最期まで彼の正しさを信じながらね。そんなお話」
「うにゅー」
はっきり言って説明の半分も、空は判らなかった。でもなんとなく一つだけ気取ったことがある。
「なんか、悲しいお話なんですね。」
「そう。とっても悲しいお話。そんなものよ」
そっかと空は思う。それだったらあんまり読みたくはない。悲しい話は彼女の好みでない。でも、さとりがそんな話を読んでたのかと思うと少し申し訳なく思った。
「これ、お姉ちゃんに返すんだよね?」と矢庭に尋ねるこいし。
「え、ああはい! そうです。」
「ふぅん……そっか、じゃあ」こいしは路端に落ちていた紙切れを拾うと、小さく折って開いていたページにぽんと投げ込む。「これ栞ね。あたしからって言っておいて。お姉ちゃんへのメッセージ」
そして本を閉じ空に返す。返された方はちょっと嬉しくなった。妹から姉へのメッセージ――きっとさとり様喜ぶだろうなと思いながら。
「はい! 言っておきます。」
「ありがと。おくうはいい子だね」
また頭を撫でてやる。夢見心地の空が目を開いた時には、頭上にあった手もろとも、彼女の姿は見えなくなっていた。
■ ■ ■
その頃、聖輦船には伊吹萃香が訪れていた。物々しい顔つきをして店のまん真ん中にそびえ立つ。険しい顔を伏せる村紗水蜜を正面に置いて。
「やっぱ、そんな顔されちまうんだね」
しばしの対峙、先に自嘲を漏らしたのは萃香。村紗も申し訳ないと思ったのだろう。無理に笑顔をひねり出す。
「そんなことないです……」一旦言葉が切れた。「でも、しばらくは難しいかもしれません。話訊くのは」
萃香は小鼻を掻く。村紗は酒の入ったコップを目の前のテーブルに置いて、そこへ腰掛けるよう客人に促した。
萃香が面会を求めたのは雲居一輪だった。当然だろう。もしあの事件の容疑者を一人上げろと言われれば、多くの人が彼女を指差したはずだ。直前にヤマメへ平手打ちを見舞い、あわや取っ組み合いの喧嘩になりかけた張本人なのだから。実際旧都には公言している者すらいた――やったのは一輪に違いないと。
そんな彼女が外を大手で闊歩できるはずもない。あの日以来一輪は外に出なかった。村紗が止めたのもあったし、何より彼女自身ひどいショックを受けていた。自分のせいだと感じてしまったのかもしれない。男の死と地霊殿での悶着に関連性などあるはずもないことは、少し考えれば誰だって判ることなのに。
「あんたがヤマメを探しに店を飛び出した時、あの子は店に残ってたんだよね?」
沈黙に耐えきれなかったのか、萃香はこぼすように言った。
「ええ。ぬえと一緒に。あの子もそう言ってました。」
「んで、ぬえはどこに?」
「すみません、またどっか行ってて……」
封獣ぬえも、あまり表に姿を見せなくなっていた。元からどこで何をしているのか分からない奴だったが、今は極力誰とも――とりわけ村紗と――顔を合わさぬよう、こそこそしている様子が窺えた。もっとも、だからといって彼女を疑う向きはほとんどない。それはそうだろう。彼女と男に接点なぞあるわけがないと、誰もが見なしていたのだから。
萃香は渋い顔のまま供されたコップに口をつける。こないだの打ち上げで呑んだのと同じ酒なのに、えらく苦く感じられた。呑み切る気にならず、飲み止しのままコップを置く。と、奥の扉が開いた。
「――やっぱり、萃香さんですか」
同時に届いたのは一輪の声。萃香が姿を見届けた時には、もう村紗が彼女の元へ駆け寄っていた。
「一輪、なんで、大丈夫なの?」
「平気」行く手を遮る村紗を丁寧に横へずらして、一輪は萃香へ視線を遣る。「どうも、ご心配掛けました。顔も見せないで……いろいろ気を揉ませてしまいましたね。」
「別にいいんだよ」萃香も立ち上がった。「元気そうでよかった」
萃香の言葉にふっと苦笑をもらしながら、一輪はテーブルまで進み、先ほど村紗のいた席につく。萃香の目にもやはり少しやつれたふうに見受けられた。頭巾越しに垣間見える面立ちにしても血色がよくないし、足の運びもどことなくぎこちない。
「今日は、私を召し取りに?」
開口一番そんなことを言う一輪に、「一輪!」とたしなめる村紗。萃香は「いいよ」と村紗をなだめ、弱々しい入道遣いをじっと見据える。向こうは訊かれずとも用件を察していたのだろう、俯いたまま話し始めた。
「あの時分は、雲山とぬえと一緒に店にいました。お燐の奴に言われたんです。ここに来るかもしれないって。だから番を」
「なるほど……」
村紗から聞いてた通りの内容だ。萃香はずっと相手の目を見ていた。眼差しは虚ろだが、動揺はない。嘘は吐いてないなと思った。それと同時に、こんな値踏みを知り合いにしている自分に吐き気がした。
「ま、こんな話信じちゃくれないんでしょうけどね」
厳しい顔つきの萃香へ一輪は放り投げるように呟く。また村紗が制止したが、部屋の空気には勝てなかった。どちらの羸弱(るいじゃく)した声も弱ってた萃香の胸にはえらく堪えた。
「違うよ」たまらず呻き声が漏れる。どちらが尋問しているのか判らなかった。「あたしはそういうことがしたいんじゃない。あんたはやってないよ。それを確かめたかっただけだ。」
「私だって言い訳する気はありません」一輪も呻く。「責められるのは当然ですもの。私のせいで全部おかしくなったんですから。あんなことしなければ……」
「やめて一輪」
我慢できなかったのだろう、村紗がすがりつく。気づけば一番悄然としていたのは彼女だった。肩に添えられた手を握り返し、一輪は懺悔するみたいな口調で鬼へ告げた。
「私、まだ謝ってないんです。それが一番情けなくて。」
萃香も口を真一文字にして目を伏せる。一輪はさらさらと、川のように言葉を紡いでいく。
「別に外へ出て何か言われる分にはいいんです。けど、ヤマメには会える気がしない。一番最初に会わなきゃいけないのはあの子なのに。でもなんて謝ればいいのか……」
「さっき、会ってきたよ」萃香は聞いているだけの自分に耐えられなかった。「元気、そうだったよ。見たところね。」
それでも嘘を吐ききれない自分に、苦笑すら出てこない。萃香の言葉に、一輪は少しだけ表情を柔らかくする。
「それは……よかったです」
「一輪、もうやめよ」
今度は両の肩を抱きかかえて、村紗は懇願する。一輪もこれ以上友人の気遣いを無碍にはできなかった。目を瞑り、一つ頷き返す。萃香も忍びなかったのだろう。おもむろに立ち上がる。
「ありがとう。よく判ったよ。迷惑かけたね」
「そんなことないです。来てくれてありがとうございました。」
頭を下げる一輪に、萃香は手だけ振って応える。
「あ、待って下さい。お見送りします。」
と村紗。一輪に「平気?」と訊くも、答えは当然「平気」の一言。萃香と一緒に店を出る村紗を見送ってから、一輪は頭巾を外しながら奥の扉まで戻る。
「――また立ち聞きしてたの?」
扉の向こうでぎくりと跳ねる気配がした。一輪は容赦なく戸を開く。小さく立ち竦むぬえがいた。
「ち、違くて……これはただ偶然」
「……これじゃあの時と同じね。村紗の時と。」
その言葉に、ぬえはいっそう身を縮め込める。一輪は肩をぽんと叩いてやった。
そう、彼女は知ってしまっていた。ぬえがあの日村紗の嗚咽を盗み聞いてしまったことも、なんとかしたいとの一心であの男の下へ行ったことも。
もちろん最初から、ではない。告白されたのはちょうど問題の時間、ヤマメがいなくなり、村紗が飛び出していった後だった。あの時、一輪も村紗を追ってヤマメを探しに出ようとした。それをこの正体不明の少女に止められたのだ。聞いてほしいことがあると。そして全てを告げられた。 村紗にあんな悲しい思いをしてほしくなくて、あの男を追い返そうとしたことを。そして訊かれた。ヤマメがいなくなったのは、自分のせいだろうかと。
その時点では、一輪はぬえが心配するほどこの事件を大きく捉えていなかった。やったことは一つ謝れば済むような些細なこと、向こうも判ってくれるはず。それにヤマメの失踪とも直接関係はないように思える。男に対するぬえの失礼に腹を立てているならば、すぐにこちらへ向かってくるはずだ。そうでないなら何か別の理由があると考えるのが自然だと。
そして何よりこのへそ曲がりが心の内でどんなに村紗のことを大切に思っていたのかを知って、一輪は嬉しささえ覚えた。人はその行いが他人のものである時に、はじめて冷静な評価を下せるのかもしれない。
でも一輪の読みは崩れた。全ては変わってしまったのだ。あの男が死んだことによって、何もかも。
「やっぱり、私が『帰れ』なんて言ったせいなのかな……」
ぬえはぽつりと漏らす。一輪はもう我慢できず、この小柄な大妖怪を胸に抱き寄せた。
「そんなわけない。あんたが橋の向こうへ行ったのはヤマメがいなくなるよりずっと前でしょ。関係ない。」
「でも、その頃にはもう死んでたのかもしんないじゃん……」
震えるぬえを、ぎゅっと抱きしめる。何とかしなければと思った。こいつを、絶対に助けなければと。きっと誰も信じてくれない。あの男の下に行き、「帰れ」と脅したなんてことが知られれば、絶対に彼女がスケープゴートにされる。動機も経緯も関係ない。一輪が今どんな弁護をしたところで、鼻であしらわれるだけだろう。何度考えを巡らせてみても、彼女の脳裏には血生臭い結末しか浮かばなかった。
だとしても、見捨てるわけにはいかない。たとえどうなろうとも、絶対にこの子を助けねばと。
*
「なんか、すみませんでした。」
村紗は萃香に頭を下げていた。一輪がぬえを励ましていたのと同じ頃である。一輪を放っておく怖さ以上に、この鬼にいらぬ誤解をして欲しくないと思っていた。萃香もその心持ちはよく判った。だから先に切り出す。
「あんたらは悪くないさ。こっちこそ嫌な思いさせたね。大丈夫、一輪は関係ないよ。あたしが保証する。」
「他の奴らは、どう思ってるんでしょうか……?」
胸元で帽子を握り締めながら、村紗はずっと訊きたかったことを問う。萃香は思わずひきつった。こういう時に嘘を吐けない性分は辛い。
「まあ、そう思ってる奴もいる……」
帽子を握る強さが、自然と増す。くしゃりと布が潰れる音を浴びせられながら、萃香は青ざめた村紗へ思いつく精一杯の言葉を落とす。
「大丈夫。そいつらはあたしがなんとかする。判ってくれるさ。あの子がそんなことするわけない。そんな奴じゃないってことは、みんな知ってるさ」
ふと、萃香は勇儀のことを思いだした――自分が今この娘に言った「なんとかすべき"そいつら"」とは、果たして誰のことだろうか。まさしく勇儀から何度も警告を受けていた自分なんじゃないか、と。いったい自分は何やってんだろうと彼女は呆れる。偉そうな啖呵を切って捜査に乗り出したってのに、これじゃああいつの言った通りだな、と。
「もしぬえを見かけたら教えとくれ」
それでも萃香は足を止める気はなかった。誓ったのだ。自分はヤマメとあの男との仲を引き裂かせはしないと――そうやって懸命に己を奮い立たせて、そしてある意味欺いて。
「あいつの話も聞いときたいんだ。もう誰かを疑いたくないからね。」
*
萃香と別れ、村紗は星蓮船の手前まで戻ってきた。戸口にはもう何日か掛けっぱなしの「本日定休日」の札が寂しく揺れている。
萃香のことを信じていないわけではなかった。たぶん判ってくれたと。でも消えない不安。何に怯えているのだろうと村紗は思う。よく考えれば旧都にいる妖怪はたいてい顔見知りだ。どんな奴らかも大体分かってる。ガラはよくないが、どれも良い奴ばかりだ。ちゃんと襟を開いて話せば判ってくれる、なのにどうして足が竦むのだろうと。
深い溜息とともに中へ戻ろうとしたその時、村紗は思わぬ者と出くわす。
「きゃっ!」
ふいに裏手から飛び出してきた人影とぶつかったのだ。影の主は空。彼女もろくに前を見てなかったらしく、尻餅をついたまま目を白黒させている。
「え、あ、ああごめん……」
と空は開口一番謝る。ひどく動揺して、心ここにあらずといった様子だ。村紗も慌てて手を差し伸べる。
「あ、大丈夫よ。おくうこそ怪我してない?」
「う、うん……あたしは大丈夫……」
その手を取らずに飛び上がった空。視線は地面を向いたままだ。らしくない姿に村紗は不思議に思う。
「でもなんか顔青いよ。平気? 水でも飲んでく?」
「ううん! いい……お仕事あるし……」
やはり目を合わせず、しかし空は思い出したようにまくし立てた。
「えと、あの……ああそう! こないだの工事、うちでやってた工事なんだけど、もう止めるんだって。さとり様があれでいいって……」
「そう、そっか……」
「で、それでね!」残念そうな顔を隠せない村紗を置いて空は一方的に用件を伝える。「えっと、ああそう。それでね、『竣工式』っていうのをやるんだって。なんかよくわかんないけど要するに宴会みたいな奴で、今までお手伝いしてくれた人をみんな呼んで、呑もうってお燐が。」
「え……?」
「でねでね、村紗にも来て欲しくて。もちろん一輪にも雲山にも、ぬえにも。お燐は今ヤマメのところに行って、おんなじお願いしに行ってるんだ。みんな招待して、それで久しぶりに楽しく騒げたらな、って……」
もじもじと、どう言ったらいいのか判らぬまま必死に繋いだお誘いの言葉を、村紗はしっかりと受け止めた。たどたどしい説明は逆に彼女の胸を深く打った。そして一輪の吐露を思い出さずにはいられなかったのである――ヤマメに謝りたい、という。
「うん。わかった。行くよ」村紗は即答した。「とっても良いと思う。一輪もきっと喜ぶよ。うん、行くわ。絶対に行くね。」
何度も何度も、自分自身に言い聞かせるような受諾の言。動揺していた空も、その時ばかりはぱぁっと顔を明るくする。
「うん。よかった。お燐も喜ぶと思う。じゃあそう言っとくね。」
「うん。ありがとうおくう。」
と言って村紗は深々と頭を下げる。空は恐縮するばかり。
「あ……いやそんな」
「ううん。うれしかったの。だから、ね」顔を上げて、照れたふうに笑い掛けた。「そうだ。あがっていかない? 一輪にも今の話直接伝えてあげて。きっとおくうの話聞いたらあの子喜ぶわ。だから――」
「いや、いい。いいよ!」空はまた顔をひきつらせる。「あの、私まだすることあるから。宴会のことみんなにお知らせしなきゃいけないから、だから、ごめん!」
と言いながら、脱兎のごとく飛び立っていく。それは急いでいるというより、本当に逃げるようであった。
■ ■ ■
キスメは当てもなく洞穴の前をうろついていた。
どこに身を置けばいいか悩む日々が続いていた。ヤマメの側にいなくては――それが一方の考えであった。支えになってあげたいだなんて自惚れてたわけじゃない。ただ見ているとたまらない危うさを感じて、独りにはできなかった。一見すれば落ち着きを取り戻したふうも思えるが、一番近くにいたキスメは全くそう思っていなかった。
確かに火葬をすませた頃が一番酷い顔をしていた。魂が抜けてしまったのでは思うほど、面立ちからは感情がずり落ち、能面がぼんやりと一点を凝視するだけ。そしてずっと骨壺を抱え離そうとしない。まるでこれが抜け落ちた魂の代わりだとでも言うかのように。
そんな執着は、今では影も形も失せている。以前の愛想の良さが全身にみなぎり、キスメにも気さくに話しかけてくる。こざっぱりした口ぶりも帰ってきた。「薬指」の部屋に置かれた骨壺に寄り添うこともほとんどない。そして二言目には「なんであんな奴に夢中になってたんだろうねぇ」と口癖のように漏らすのだ。
でも、キスメは違うと思っていた。上手くは言えない。でも、なんだか年をとったふうに感じたのだ。前は年頃の少女らしいところがもっとあったのに、そういうものが失せぐっと女らしくなった気がした。身なりも立ち振る舞いも変わらないのに、時折り背中からむっと色香が匂い立つ。それがぞっとするくらい怖かった。
そう、いつか豹変するのではないかと彼女は恐れていたのだ。あのヤマメの中には別のヤマメがいて、それが蛹の羽化みたいにある日突然自分の前に飛び出してくるのではないかと。そして、真っ赤に歪んだ顔で「あんたのせいだ!!」と痛罵されるのではないかと。
だから一方では、キスメはヤマメの側にいたくなかった。その二律背反の結果が入り口前でうろうろする今の彼女だ。
「あ、あの……」
キスメの耳に声が届いた。低い、ひどく震えた声。でも聞き慣れたものだ。声だけで誰かは判った。キスメは音源へと体を向ける。
「ああ……こんにちは。配達ご苦労様です」
あの、半妖の男だった。
*
この洞穴へたどり着くまでの間に、この小太りを抉った煩悶とは一体いかほどのものであったろうか。明らかに言えることは、キスメが今日見出した彼は、一見した限りそれまでとさして変わりなく思えたということだ。でも細かく見ればやはり違っている。これでもかというくらい作り込まれていた所作は所々ぼろが出ていたし、いつもは仕立ての利いた羽織もしわが目立った。綺麗に剃っていた髭も今日は剃り残しがあるのか、表情に青黒さが残る。よくよく見れば帽子も前のと違っている。キスメが最初に覚えた印象は、「なんだか薄汚くなったな」だった。
もっとも彼女はそのことにさしたる注意を払わなかった。この男が変わったように見えるのは自分のせいだと理解していたのだ。
「ヤマメちゃん、呼んできますね……」
男の返事も待たずキスメは洞穴にすっ飛んでいく。キスメが早かったというより、男の動きが鈍かったと言うべきか。口をあわあわさせて、伸ばしかけた手も縮んで落ちる。許されるのなら後ろにある"荷物"を全部その場に打ち棄てて、あの時と同じく天上の光めがけ這い出したに違いないと思わせるほど。しかしこれは彼の勤めであり義務だ。他に彼が就くことを許される仕事があろうか。
「おう、待たせたね。」
張りのある声。さんざん耳にした、あの恋焦がれた響き。彼は戦慄を隠せない。恐る恐る顔を上げる。次の瞬間全てが終わることも覚悟に入れて。そして驚愕した。
「何だ、どうしたい?」
そこにあった顔は"黒谷ヤマメ"に他ならなかった。彼がここに来る前幾度も頭の中で振り払った女ではなかったのである。思わず呆然としてしまう――なぜ、"黒谷ヤマメ"が自分の前にいるのだろうかと。
「なんだか恥ずかしいね。そんなにじっと見つめられるとさ。」
ヤマメの声で彼はようやく己を取り戻す。一体いつやったのか、この半妖は彼女にいつもの書類を手渡していたらしい。手慣れた様子で見るべきところだけをチェックしながら、ヤマメは男の狼狽を茶化す。裏など一切感じない、粋を感じさせる口ぶりで。
「あ、は、あと……ああすみません」
「珍しいね。ボサっとしてさ。熱でもあんのかい?」
ごくありふれた世間話だった。背中に抜ける冷や汗に凍えながら、男は必死に言葉を吐く。
「いや、そんなことは……」
「ちょい見せてみ?」
と言ってヤマメは男の肩をつかむ。そして引き寄せようとする。中に巣食う病原菌を見てやろうと。迫る唇がいやに艶めかしく感ぜられた。
「け、結構です!」
男はあわてて払いのける。向こうは軽くびっくりしたが、すぐさまふふっと笑いめかす。ただいつもの老婆心から体の調子を見てやろうと思っただけ、前も一度やったことがあるのに何恥ずかしがってやがんだい、と。怪訝そうに視線を送りながら、ヤマメは取引に戻る。
「ん。了解した。少し増えたね。いいこった。」
「あ、ありがとうございます……」
キスメにリストを渡し、ヤマメは「そう畏まんな」と軽く笑い飛ばす。男は全身が粟立つのを隠すので精一杯。ぞっとするほどの心配りと、そしてあまりに寂びたしぐさが目の前にあった。
うろ覚えみたいな礼だけ残して、男は踵を返す。一刻も早くここから立ち去ろうと。しかし遁走を願う彼の切なる思いは叶わない。
「――あ、そうだお前さん」
呼び止める声。ヤマメの声。地獄の鬼でもこんな残忍なやり方はしないだろうというタイミングでの呼びかけ。男は振り向かなければならなかった。
「一つ頼まれて欲しいことがあるんだけどさ。いいかな」
後ろにあったのはやはりいつもの愛想を纏った黒谷ヤマメ。そろりと頷く。そうしかできない。
「実はさ、こないだここいらで人間が死んでね。いやなに、そっからすっころげて死んじまっただけなんだが、まあ野晒しにすんのもなんだからってんでさ、一応燃して納骨までは済ましたんだよ。でさ、そういうの引き取ってくれる奴いないかね。坊さんでもなんでも、ちゃんと供養してくれそうな奴。」
ここで精神が瓦解しなかった彼を称える声は、あってしかるべきだろう。この依頼の最中、いやその前段階から彼がぎりぎり徳俵の上で踏みとどまっていられたのは、すなわちこの半妖が今まで生き抜くことができた強さの裏返しなのだ。誰からも疎まれる血に生まれ、一切が省みられることのない辛酸に耐え抜いてきたからこそできる。
彼はここに来て初めて、しっかりとした意識の下ヤマメの顔を見た。そしてようやく相違点に気づいた。この仕事について以来、ずっとヤマメを憧れの目で見てきた彼だからこそ判る。彼女は、前見た時とは比較にならぬくらい魅惑的な女性になっていた。以前はまだ咲いてなかったのだ。蕾のような少女はそれで一つの魅力を纏っているが、色づきほころんだ今のヤマメは、かつて彼が惚れた"黒谷ヤマメ"の記憶を霧散させるほどの存在となっていたのである。それこそ慄き膝を折りたくなるほどに。
ふっと柔和に頬をほころばせた女の前で、動かし方が分からなくなりつつあった口を必死に動かしながら、彼は言った。
「そ、それなら……里に一人先生がいらっしゃいます。は、半獣の方ですが、人間からの信頼も篤うございますので……たぶんお引き受けして下さるかと……」
「先生ってのは医者?」
「い、いえ……寺子屋を営んでいるとかで。物事の道理を、よ、よく弁えた方にございます。確か白澤だったとかで、歴史に精通しておると……」
ヤマメはふむと唸る。後ろ髪を掻き上げながらしばし思案にふける。持ち上がった朽葉色の毛が白いうなじにぱらりと落ちた。男の意識が遠のきかける。
「よし判った」持ち上げた表情を崩す。「確かにそいつなら大丈夫そうだ。事情を話しといてくれるかい?」
「え、ええもちろん……」
「そんで、そんならついでにその白澤先生に調べてほしいことがあんだけど。いや大したことじゃないからさ――」
白状してしまえばよかったのかもしれない。そんな理性的な呼びかけを打ち消したのは、あるいは男としての本能だったのか。彼の一部は間違いなくこのヤマメに見とれていた。
死んだ男に関する説明――とうに彼も知っている身の上――を聞き終え、帰途につく半妖の男。ありとあらゆる感情に引き裂かれた背中を、ヤマメは何も知らず見送る。愁いを帯びた、優しい笑みで。
「……返しちゃう、の?」
いっそうの驚愕を帯びた声が漏れたのは、男が豆粒くらいになった頃。一連のやりとりをずっと横で聞いていたキスメは、釣瓶からずり落ちるのではというほどのおぼつかない足取りで、ヤマメに詰め寄った。
「返すって、骨壺のことかい?」
「あ、ぅ……うん」
ヤマメは軽らかに、キスメは切実に。それ以上の言葉を忘れてしまった釣瓶落としに、土蜘蛛の少女はふっと笑みを投げる。
「だって、ここに置いてたってしょうがないじゃないか。あいつはしょせん上の人間。死んだ後くらいは空見させてやってもいいんじゃないかってね。」
目一杯のところで堪えていたキスメも、もう我慢できなかった。彼女も気付いてしまったのだ。目の前にある笑顔、どこかで見覚えがあるとずっと思っていた笑み。ようやく判った。それは死んだ男の笑みと同じ。穏やかで、無害で、何にも向けられていないあの顔だった。
「あたしの、せいなんだ……」
だから呻いた。耐え切れず、キスメは懺悔する。それで何かが変わるならと。
「あの時、あの人を外に出したのはあたしなの……行けって、ヤマメちゃんに謝ってこいって、あたしが、あたしがあんなこと言わなければ――」
「もういいよ、キスメ」
肩をしゃくらせ、ぼろぼろと頬をぬらす彼女を、ヤマメはそっと抱く。ぽんぽんと背を叩き、頬を寄せる。懺悔は、届かない。
「いいんだって。あんたのせいなわけない。あいつが勝手に落ちたんだ。それだけだよ。」
「でも、だって、そんな、それじゃあだめだよ。ねえ、ヤマメちゃん……泣こうよ。怒ってよ。あたしを恨んでよ……今のままじゃヤマメちゃんが――」
「まったくわかんないよ」笑い声にもならない息が漏れた。「あんたも、萃香様も……みんな自分が悪いって顔してる。そんなわけないってのに」
なおも泣きじゃくるキスメの頭を撫でながら、ヤマメはおもむろに顔を離す。洒脱な笑みはそのままに。
「ほら、顔拭いて。そんなんじゃ見てるこっちが滅入っちまうよ」そして虚空を流し見ながら呟いた。「終わったんだよ。未練なんかない、とまで言ったらカッコつけすぎかもしんなけどね。でも終わったことなんだ。だからそれでいいじゃないか。」
キスメはまだ諦めていなかった。ヤマメとは違って。何か言おうとする。心に届くように。しかしヤマメの注意はそらされた。
「お、またお客さんかい?」
横を向いて立ち上がってしまう。キスメの言葉にならない声は打ち消された。無力さだけを味わいながら、彼女は袖に下がる他なかったのだ。
*
新たな客は燐だった。家主の呼びかけにも彼女は腰が引けたまま。キスメの涙も見えたが、そうでなくとも会わせる顔がなかった。やはり彼女も責任を感じていたのだ。一輪とヤマメがやりあった時、彼女も村紗と並んで側にいた。あの時調子いいこと言って事態を複雑にしたとも思っていたし、現場監督として何もできず立ち竦んでしまったことも許せなかった。だからこそ主人であるさとりを引っ張り出そうと考えていたのだが、それもさとりの目を見ると怖気づいてしまう有様。さっきだって空がいたから何とかなったようなものだ。これでヤマメに断られたら目も当てられない。気負いすぎと言っていいくらいの覚悟を携えて、燐はここへ来ることを選んだのだ。
それがこの間の悪さ。燐は居たたまれぬ様子で頬を引っ掻く。
「あ、いや……なんかヘマったっぽいね……」と呻く燐に、「んなことぁないさ」と返すヤマメ。間を置かず訊いた。「今日は何の用だい?」
燐も少なからず驚いていた。目の前の土蜘蛛は、嘘みたいに変化がない。いや、むしろ前よりずっと話しやすくなったと思えた。砕けた印象があったのだ。でもだらしなく弛緩した雰囲気はない。どこかにピンと張った気位がある。なんとなく馴染みやすい波長になった気がした。
「あの、えっとね」燐は意を決する。「実は、地霊殿の改装工事。ずっと手伝ってもらってたやつ。あれ終了ってことになったんだ。さとり様がね、もうあれでいいって。」
「ホントかい?」ヤマメは意外そうだった。「でもありゃまだ骨組みやっただけだぜ? 住もうにも住めないだろ。」
「あそこは蔵にしたらどうかって。そんで、使ってない荷物をみんな移して、部屋に空きを作りゃなんとかなるだろうってね。倉庫だったらちょっと手直しすればあれでも十分だし、そんくらいならあたいらでもできるし。地下じゃ雨もないからね。却って風通しが良くなんじゃないかな。」
知らずうちに軽口を叩く余裕さえ燐には生まれていた。愛想笑いを返すヤマメ。妙に力の抜けた笑みだった。燐はまたドキリとする。
「ま、そういうことならいいんだけどね。荷物移すのは平気かい? なんなら――」
「あ、ああいいんだ! そんなん大した仕事じゃないし……」なぜか喉が引き攣った。たまらずしわぶく「えっと、でさ。こっから本題なんだけど、『竣工式』しよっかなって思ってんだ。ほら、なんかこのままだと締りが悪いだろ? だから、ヤマメもどうかな……」
燐は限界とばかりに俯いてしまった。お下げにちらちらと手を伸ばしながら、叱られた子どもみたいにヤマメの方を覗きみる。向こうにとっては少々意外な提案だったのだろうか、唇に指を一つ乗せて思案をめぐらす。見ていると吸い込まれてしまいそうで、燐は身を持たさんとひたすら口を動かす。
「えっとさ、当たり前だけどみんなも呼ぼうと思ってて。萃香も勇儀も、それに……一輪とか村紗もね。今もおくうが旧都廻って呼びかけてる。」
「……へぇ、そりゃすごいね。」
「多分みんなも来てくれるさ。あの馬鹿がちゃんと伝えられるかの方が心配だぁね。」
空の話をしていると自然と落ち着きを取り戻せる自分に気付く。情けないなと自嘲しつつ、燐は改めてヤマメに視線を向ける。こちらはずっと変わらぬそぶり。婀娜(あだ)な身のこなしだ。吐息のような笑みと共に、ヤマメは言った。
「あいよ、そういうことなら喜んでお邪魔させてもらうよ。」
「そりゃよかった」燐もほっと息を吐いた。「みんなも喜ぶよ。きっと。うん」
「ああそうだ。キスメの奴も連れってっていいかね?」
とヤマメ。指で友人のいる先を指さし、顔を寄せて耳打ちする。燐はなぜかどぎまぎした。
「どうもあれ以来元気がなくてさ。景気づけにはいいんじゃないかと思って。ダメかね?」
「いや、そんな、ダメってこたぁないよ。じゃんじゃん来てもらって構わないんだけどさ。いや、でも……」
そこで燐は完全に詰まってしまう。訳が判らなかったのだ。今一番元気をつけてもらいたいのはヤマメ。みんなが心配してるのもヤマメだ。なのに当人はそんなものが必要かという顔をして、落ち込む友人に気を掛けている。燐には奇怪にすら映った。自身に降り懸かったはずの痛ましい出来事を、まるで他人事のように受け流しているこの少女のことが。
「でも?」と小首を傾げるヤマメ。
「いや! 別にどうぞ。どんどん、来て下さい……」となぜか丁寧語になる燐。
ヤマメはふふと笑う。ひどく淑やかで、小粋な音色だった。燐の本能が慄く。最初「何も変わってない」なんて思ったのはとんだ見立て違いだったと悟った。痙攣しそうになる顔を何とか持たせつつ、燐は愛想笑いを返す。そして出来合いの挨拶だけ放り捨て、そこから去っていった。
■ ■ ■
大空洞の方でそんなやり取りが交わされていた時も、萃香は方々を駆けずり回っていた。
空しさは募るばかりだ。まだ話が取れていない連中の先を訪ねては、当日の行動を訊く。それの繰り返し。皆言葉には出さずとも、疑われたことに心外そうな顔をする。その度に「確認してるだけだから」とそれっぽいことを言ってごまかす。本当にごまかそうとしてるのは自分自身なんだと気付きつつ、自分が何をしたいのかも見失いながら、なおもがき進むことを止めようとしない。進むごとに勇儀の言葉が彼女の心に圧し掛かる。足取りもそれにつれて重さを増すばかり。でも、止めるつもりは毛頭なかった。そういう不器用なやり方しか、彼女はできないから。
聴取の手は次第に深くまで伸びていく。めったに人前に出てこない奴。或いは人間嫌いを公言している奴、そして人妖の区別なく全てを疎む者へと。当然であった。人間と妖怪が良い関係を築くことを怨めしく思うとすれば、名も無き彼らがもっとも疑わしい。彼らを訝る声は、ある意味で一輪へと向けられた眼差し以上に苛烈と言えた。向こうが付き合いを厭う以上、そしる調子を憚る必要もない。
そういった連中から、萃香は一人一人話を聞いていく。当然いい顔をされるわけがない。剥き出しの敵意で迎えられることも一度や二度ではなかった。それでもある時は威を以って、またある時は懇切丁寧に説明を施して、或いは情に訴えて説き伏せていく。骨の折れる作業だった。力業で何とかなるものでもない。萃香の苦手な仕事だ。でも、手練手管を弄してなんとか信頼めいたものを作り上げてしまうと、後は意外と話せるものだった。それこそ毎晩一緒に飲み明かしてる連中と大差ないと思えるほど。誰だって腹に似たような思いは抱えているものだ。
徒労感に全身を浮かべつつ、萃香は次の目的地へ向かう。できれば会いたくない相手だった。それは同時に一番疑わしい相手であることも意味している。萃香が歩くのは閑散とした通り。つい先ほど空が迷い込んだ裏道でもある。旧都の中でも一番人けがなく、とびきり危険な区画だ。この身に次の瞬間何が起こったとしても、別段おかしくない場所。その突き当たりにあいつは居る。進むことも、戻ることもできない行き止まりで、近づく者全てへ接近"禁止"を命じながら。
「いるんだろう? 出てきなよ」
「……ったく」
呼ばれた方は、術を解く。"誰か居ると知覚することを禁ずる"術を。姿は萃香の横から。血を塗りこめたような赤と、全ての色を拒絶する白。胸に飾られた錠はすっかり錆び付き、鍵を差し込むことすらできそうにない。傲然たる様子で足を組むその振舞いからは、本来上司にあたる鬼への敬意など微塵も感じられない。
「鬼ってのは本当に自分勝手だ。約束は守れと言うくせに、こっちが言った約束は平気で破る。」
「いちいちうるさいね。あんたを匿ってやってんのはその鬼だよ。河城みとり?」
萃香も遠慮ない調子で、河城みとりに言葉を浴びせる。人と河童二つの血を引く、忌み嫌われた赤河童へと。みとりは嫌悪しかない表情に露骨な嘲笑を混ぜる。
「匿ってやる、誰も近寄らせないと偉そうな口叩きながら、平気な面して寄ってくるのも鬼だがね」
「好きにさせてやってんだ。最低限の呼びかけにはきちんと応じるくらいの義理を見せてほしいもんだがね。」
「はっ、誰が貴様らの決めた掟など守る? 好き勝手に掟をつくり、従わねばその言い様。結局貴様らもあいつらと同じさ。さ、引き返すか、息するのを"禁止"してもらいたいか、今なら好きな方を選ばせてやる。とっとと消えな」
萃香はぺっと唾を吐く。みとりの挑発が虚勢でないことはもちろん知っている。あらゆるものを禁止する程度の能力――それは彼女がその気になれば、相手の生命活動を止めることも造作ないということだ。それは鬼とても御することが容易でないほどの力である。怨念は妖怪を強くするのだ。時として危険なほど。
「一つ訊きたいことがある。それだけだ。訊いたら帰る。それ以上関わるつもりはない。」
「それだけ? ははっ、それだけときたか。いやぁ優しいねぇ……いい加減にしないと金輪際その口を開くの禁止するよ。」
向けられるのは憎悪の念だけだ。旧都に下りてきても、みとりは他者を怨み、自らを呪うことしかできなかった。半妖として生まれ、どちらからも蔑まれ、結果みとりは世界全てに呪詛を撒きながらここへやってきた。だからこそ今回の騒動において、彼女は逆の意味で注目を受けてきたと言っていい。果たしてあの赤河童はヤマメを許すのか、と。
「先日、ここで人間が死んだ。大空洞の崖から落ちてね。」
「そりゃぁめでたいね」せせら笑うみとり。「確か土蜘蛛の情夫だろ? 知らないとでも思ってんのかい? 貴様らが無駄にでかい声で騒ぐもんだからこっちまで聞こえてきてしようがないんだよ。」
そこで萃香は一息入れる。相手の眼は盛る怨嗟に塗り込められていたが、たばかりの気配は見えない。いや、みとりは嘘やごまかしなど言わないだろう。もし彼女がやったのならば、逆に誇らしげに自慢してくるに違いない――彼女の剣幕を前に、萃香はそんなことすら思っていた。
きな臭くなった場の空気を冷まそうと、小さな鬼はなるたけ穏便に告げる。
「なら話は早いよ。あんたも関係ないんだね。」
「いかにもその通り、殺ったのはあたしだよ。って言えば満足かね?」
けけけと嗤って、顔をべちゃべちゃにひん曲げるみとり。たった今思いついたことを適当に並べ立てているという口ぶりをこれ見よがしに造りながら、叩きつけるように言を続けていく。
「人間と妖怪が仲良くしてるのは気に食わない。だから行きたくもない橋の向こうまでわざわざ足運んで、何の力も無い人間なんぞをちんたら追っかけまわした挙句、直に首を落とすこともせず崖から突き飛ばした。こういう返事が欲しいのかね? だったら今言ってやったよ。良かったねぇお嬢ちゃん? 満足したらクソして寝な。」
「そろそろ薄汚い口を閉じとくんだね。あたしは勇儀と違って気が長くないよ。」
「けっ、そりゃ怖いこって。じゃあ『ごめんなさぁいあたし殺しちゃったのぉん』って涙の一つでも流しときゃ信じてくれんのかな、ええ?」
埒が明かないと萃香は思った。だがそう思ったのはみとりもだったのだろう。心底嫌そうに顔をへし曲げてから舌打ちを垂れる。ようやくちゃんと取り合う気になったらしい。
「はっ下らない……ちったぁその酒粕みたいな脳みそ使いなよ鬼。あたしがやるわけないだろう?」
「なんだい、いきなししおらしくなってさ、今までで一番嘘臭いよ?」
萃香はまだかっかしていたようだ。蔑みの色を潜ませながら、みとりは続ける。
「別にあたしなんざを信じろっつってんじゃない。あんたの盟友だったら信用できんだろ? それで十分だってことさ」
「盟友?」
「今自分で言ったろうが。いつもあたしに要りもしないちょっかい出してくるあのクソ忌々しい鬼さ。」
萃香の顔に一瞬動揺が走る。みとりがその隙を逃そうはずもない。たっぷりの嘲りを捏ね混ぜながら噛み付いてくるみとりは、もはや楽しそうでもあった。
「勇儀の奴が、なんだってんだい?」
「はっ……はははっ!! なんだい聞いてないって顔だね。へっ、鬼同士の絆なんてのも所詮そんなもんか。こいつぁ傑作だね」
「もったいぶってんじゃないよ。言いたいことがあんなら早く言いな!」
憤懣の情を体中から漏らす萃香を少しでもじらつかせたくて、みとりはにたにたと嗤っているだけの時間を増やす。舌打ちが三回飛んで来たところで、頃合と踏んだ。
「あいつが言ってきたのさ。『お願いだから見逃してやってくれ』ってね。連中のことがあたしの耳に届いてすぐの頃、もちろんまだくたばっちゃいない時さ。あの鬼が、あたしに頭下げて言ったんだぜ? 『悪気があってやってんじゃない。お前にゃ絶対に迷惑かけさせないし、橋も渡らせないから』とかなんとか……あんまりにくんだらないからもう忘れたがね。へっ、殊勝なもんだあんたの友達は。あんたと違ってさぁ」
「勇儀が……そんなことを?」
萃香は驚きを隠し切れなかった。目の前の半河童におちょくられていることもまったく気にならぬほど。そして否応無く思い出す。ヤマメと男の話が広がり出していた頃、二人きりの酒場で彼女に釘を刺されていたことを。でもあれは自分へ向けた単なるお節介だと思っていた。まさか、あれと同じことを旧都の連中みんなに説いてただなんて、それもみとりみたいな日陰者にまで言い回っていたなんて、夢にも思ってなかった。
「それも一度じゃない。三度は来たかね。あの分じゃ他のクソどもにもみんな同じだけ言ってんだろうさ。とんだお人よしだ。だから言ってやったよ。とっとと失せやがれってね」
「待て! じゃあてめぇやっぱ――」
「はっ、本当に人の話を聞かない野郎だ。さっき言ったろう? あたしが何よりも嫌いなのはね、こっちが寄ってくんなっつってんのにちょろちょろ寄ってくるあんたらみたいなド腐れだけだよ。こっちの見えないところで誰が乳繰り合ってようが知ったことか。そんくらいの不文律はね、鬼にいちいち言われなくてもこちとら守ってんだ。わかったかい?」
みとりは勝ち誇ったふうに萃香を見下ろす。そしてまた痙攣じみた嗤いを吐いて、相手を睨んだ。もう十分だろう?――そんなことを含ませた眼差しで。
「……わかったよ。すまない、邪魔したね。」
「よく分かってんじゃないか。あんたがやってることは邪魔にしかなんないってさ。」
それだけ言い捨てみとりは消えていった。一人取り残されたまま、今しがたの激烈な罵り合いが嘘のように、通りにはうら寂しい風が吹いている。どこへぶつけていいか検討もつかぬ拳を下へ振り落とす。ぶんと虚空を切って、何か手ごたえが残るはずもなく。足元にあった小石を思い切り蹴飛ばして、萃香は行き止まりを引っ返した。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。勇儀が、自分の知らないところで危なっかしそうな奴を説得しに回っていた――確かに冷静に思い返してみればそういう奴だ。大事なことほど相談しない。自分で勝手にやってしまう。と言うより萃香自身がその「危なっかしい奴」の一人だったんだろう。だからサシで酒場に連れて行かれて、あんなこと吹き込まれたわけだ。たいした見立てだと、萃香は思わず笑ってしまった。そんな勇儀を一度でも"役立たず"と断じた自分が、これ以上ないほど惨めだった。
気が萎えてしまった。ヤマメを助けるとか何とか言う以前に、自分にはそんな力がないんだと思い知らされた気がした。いじけた子供のような顔をして、姦しい表通りまで戻る。いつもは気分を高揚させる雑踏の喧騒も、なんだか邪魔臭く感じるだけ。隠れるように狭い路地へと潜り込む萃香。彼女と出会ってしまうのは、そんな臆病心が故だった。
「あ、萃香さん……」
こんなところで声を掛けられるとは思ってなかったのだろう。萃香は億劫そうに顔を上げる。立っていたのは空だった。
「あんだ。さとりんとこの鴉か。どうしたいこんなところで?」
「あ、はい……ええと……」
萃香は怪訝そうに空を見遣る。陽気さが取り得のこの地獄鴉には珍しく、表情はひどく青ざめていた。目を向けてきた萃香にも、うろうろと視線と彷徨わせるだけ。自身への苛立ちがあてもなく表に出てしまっただろう、萃香はきつめの調子で空を正した。
「どしたい? そんな顔してあんたらしくもない。迷子かい?」
「えと、違うんです。ああそうだ!」空は思い出したように声を張り上げる。「工事がお終いになったんです。うちを広くする工事。それで、萃香さんみたいに手伝ってくれた人にお礼を言いたくて、えと、その……しゅ……んと『なんとかしき』だったよね……あれなんだっけ?」
「竣工式、かい?」
「ああ、はい! それです……」
萃香は溜息を吐く。なんだか毒気が抜かれてしまった。そう捉えればこの記憶力のなさも、ちゃんと役に立っているのだろう。答えを思い出せたことに一瞬明るい顔を見せた空であったが、すぐさまがくりと肩を落とす。教えてくれたのが言伝の相手では何の意味もなかろう。
「その、宴会みたいなのやるんだそうです。ヤマメとか、一輪とか村紗とか、勇儀さんなんかも呼んでみんなで仲直りしようってお燐が。」
「……ああ、なるほどね」
萃香の受け答えはそっけない。空の口から出てきた名前は、どれも今萃香が会いたくない奴ばかりだ。しかし告げた方はそんな事情など知る由もない。お誘いに浮かぬ顔の萃香を申し訳なさげに覗き見しながら、空は答えを待った。
「うん……悪いけどあたしはよしとくよ。なんか行き辛いしね」
「そんなことないです。どんな人にでも楽しんでもらって、来て良かったって思ってもらえるよう頑張ります。だから――」
「ごめん。そう言ってくれるのは嬉しいけど、やっぱ無理かな……」
萃香はこめかみをぽりぽりと掻く。偽らざる気持ちだったのだろう。でも、それは無垢な空には淋しすぎる答えだった。
「やっぱり私って、役に立たないのかな……」
だからこう呻いてしまう。これも偽りない気持ち。萃香はしまったと自分に舌を打ちながら、何とか取り繕おうとする。
「んにゃ。まあ確かにあんたの友達と比べたら仕事はうまくないかもしれない。でも、あんたがにこにこしてるとそれだけで救われるって奴はいるだろうさ。だからちゃんと役に立ってるよ。」
――あたしと違ってね。そう心の中で付け足した。空は微妙な表情のまま。嘘がつけない鬼の下手な励ましはさしたる効をもたらさなかったのかもしれない。
迷っていた。なにか一つでも役に立ちたいと、ただひたすら願っていた。だからこそ困り果てていた。さっき聞いてしまった"あれ"は果たして誰かに益をもたらす話なのか、空には判別がつかなかった。目の前には萃香がいる。この鬼が今無力感に打ちのめされていることなど、空は知らない。だから尋ねようと思った。単に相談してみようと思って。要するに彼女は萃香を信頼していたのだ、この鬼なら何とかしてくれると。萃香の自意識とは真逆に。
「あの……一ついいでしょうか?」
並々ならぬ口調に、くすんでいた萃香もまともな顔色を取り戻す。空はそれを見て安心した。そして、告げた。
「実はさっき、聖輦船に行った時、聞いちゃったんです。ぬえが、あの男の人のところへ行ってたって……」
貴方は……本当は私と同じ考えを持っているのでは無いですか?
――東方星蓮船:聖白蓮
〜 Stage Y 〜
いよいよ竣工式の日になった。日にちという観念の薄い地底では、こういう催し事が時間を計る目盛りでもある。最初は突飛な提案と思った招待者たちであったが、日が近づくにつれ懐かしい昂揚感も戻ってきた。それは準備に勤しむ地霊殿のペットにとってもまた同じである。自分の屋敷で宴会なんて、それこそ久しぶりなことだった。だから自然と準備にも熱が入る。まあ準備といっても別に神主を呼んで祝詞を唱えてもらったり、けったいな儀式を執り行ってもらうわけではない。ありふれた宴会の支度だけ。地底に神様などいるわけないのだから。
地下には色々欠けているものがあるが、やはり一番足りないのは光だろう。闇に住まうのが妖怪といえ、光がないのは色々と辛いものがある。ここ地霊殿がステンドグラスで一面覆われているのも、僅かな光を少しでも華やかに、という家主の思いからだった。もっとも眩しすぎる原色の羅列が逆に不気味がられて、主の気遣いは裏目に出ているというのが実際であるが。
色が跋扈する屋敷の中で、さとりの部屋だけはいつも違っていた。空の部屋みたいに殺風景でもないし、燐のように物に埋め尽くされて窒息しかけてる部屋でもない。家具も上物、広さも十分だ。でもそれだけだった。すべてが等しく埃を被った室内は止まったようで、光源も棚と机に据えられた燈のみ。外の光は一切入らない。そんな薄ぼんやりとした空間で、彼女は今日もひっそりと生きている。
さとりには人並み以上の分別も知性もある。だからこんな蟄居生活が何も生み出さないこともよく知っていた。知っていたが、そこから何かしようとは思わなかった。ある意味で彼女は妹より何某かが欠落していた地下生活者であったろう。妹は"覚"でない何かになろうと決意して、実行に移したのだから。たとえそれが間違った選択であったとしても、何もしなかった姉とは違った。
さとりはたまにこんな妄想に耽った――もしかしたらこいしは時々この部屋に来ているのではないかと。誰にも気に留められなくなった妹は、この部屋で誰をも気に留めないよう足掻く姉のことをじっと見ていて、その愚昧さを密かに嗤っているのではないかと。それはある意味傲岸な想像であったが、姉としてあっていい願いでもあった。
大きなチークのドアにノックの音が響く。思わず胸が高鳴ってしまうのに気付いて、さとりは自嘲する。いまだノックを聞くたびにこいしかもと期待してしまうのだ。これは夢が過ぎただろう。
「さとり様、失礼します。」
さとりは安堵した。声は空。ペットだ。ならば迷うことはない。そのままソファーから身を起こす。
「どうぞ」
空は一礼して入室した。さとりも首だけで返す。前回見た時よりは晴れ晴れとした顔をしているなとさとりは瞬間思った。
その読みどおり、空はいつもよりさらにいっそう元気な声でしゃべりだす。
「こんにちはさとり様。お邪魔でしたか?」
「そんなことはありませんよ。……『準備は滞りなく進んでいます』か。それはご苦労様」
けれど元気な声が活躍する機会はあまりない。さとりはまた心を読んで先取りした。別に悪意はない。癖なのだ。覚妖怪として生きていると否が応にもこうなる。会話してると何より自分に嫌気がさしてきて、さっさと会話を終わらせたくなるのだ。
「あの……さとり様。それでですね――」
「行きませんよ。私は」
もう心を読みもしなかった。そうしても胸の目は向かいに立つペットの思いを拾ってしまうわけだが。長いこと他人の心なんて見ていると、悪意には慣れてくる。どれほどの大悪党であっても、完全な狂人であっても「ああそう」と冷静に見られるようになる。相手が虚無なら自分も虚無でいればいいのだ。妹はこれができなかったのかもしれない。
でも空みたいな心の持ち主はいくら経っても慣れようがない。そう、さとり自身へ向けられる剥き出しの好意には。どれだけ突き放して見ようとしても、自分の心がかき乱されてしまうから。
「何度も言っているでしょう。私はそういうのに興味はない。それに招待者も嫌がります。この目が――」
「さとり様。聞いてください」空はきっぱりとさとりを遮った。「お願いです。私の口からちゃんと言わせて下さい。ちゃんと声に出して言いたいんです。是非、ほんのちょっとだけでもいいです、顔を出してください。あと、嫌がられてるなんていうのは間違ってると思います。みんないつも心配してくれてます。さとり様は元気か? ちゃんとやってるか? って。だから大丈夫です。もし誰かがさとり様に失礼なことしたら、私とお燐で守ります。私は弱っちいけど、お燐は強いです。だから、だから安心して来て下さい」
つっかえることなく、空はそこまで一気に言い終えた。有無を言わさぬ勢いだった。当然だ。ずっと、ずっと心の中で練習してきたのだ。彼女と言えど間違えるはずがない。
さとりは圧倒されたように突っ立っていた。鼓膜を直接揺すられることがここまで動揺をもたらすのかと、ぼぅっと、幻でも見ていたような顔をして。そしてそっぽを向いてしまった。空は逃がすまいと主人へ迫る。
「さとり様、あとこれ」
そう言って腕を突き出す。手には本があった。燐に貸したあの本だ。
「あ、えと……ああそうですか。お燐から――」
「そうです。お燐から借りてました。難しくてあんまり読めなかったけど、こいし様にどんなことが書いてあるかは教えてもらいました。」
その言葉に今度こそさとりの表情が瓦解する。本を受け取ろうと出しかけた手が戦慄き止まった。
「こ、こいしが……?」
「悲しい話だって教えてもらいました。それで、こいし様からさとり様にメッセージがあるって。本の間に挟まってる紙がそうだって言ってました。」
そしてしっかりと、主人の両手に本を握らせる。まだ驚愕から冷め切っていないさとりは、されるがままに受け取った。為すべきことをやりきった空は足早にドアまで戻る。万事にソツがなかった。自信を得ていたからだろう。
あの日、意気消沈していた萃香は、彼女の話を聞くや否や顔色を変えてすっ飛んでいった。空に何度もありがとうと言いながら。それは空の宿願だった。誰かの役に立てたという喜びが、おそらく彼女の心に何らかの形で作用したのだ。
「それじゃあ失礼しましたさとり様」空は最後にもう一度礼をした。「宴会、来てくださいね」
その言葉だけ室内に残し、パタンとドアが閉まる。さとりは突如我に返った。胸にあった本と逢瀬でもするかのように見つめ合う。紛れもなくあの本、旧約聖書のイザヤ書だけを抜き出してまとめた小冊子。信じてもいないくせに、なぜか棚に入っていた預言の書だ。
むしるようにページをめくっていく。指の感覚がどこかへ行ってしまって、ちゃんとめくれているかもあやふやなまま。しかし妹が4つ折にして挟んだ栞は、さとりの行為と関係なく居場所を持ち主へ示す。導かれるようにそのページが開いた。さとりは遮二無二なって折り畳まれた紙切れを取る。破るみたいにして開く。白紙だった。裏返し、逆さまにし、もう一度穴の開くほど見ても、そこには何も書かれていない。
一連の行動を通して、さとりは常に興奮と混乱の中にいた。だから置かれた状況を整理できるようになるまではもうしばらくの自失が必要であった。白紙の紙切れとにらめっこしながら、ようやく様々な可能性を酌むに至る。ペット達に担がれたのかもしれないし、よしんば本当にこいしがやったにしても、単にふざけただけかもしれない。過ぎた期待にまた踊り狂ってしまった自分が馬鹿馬鹿しくなって、開きっぱなしだった紙をせかせかと折り畳む。そして同じページに投げ込もうとして、ようやく彼女は気付く。紙が挟んであったページ。そこには爪で大きく丸がしてあった。「ここを読め」――それは間違いなく言伝だった。
この人は主の前に立った。
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
くすんだ薄紅色の部屋に一人笑いが響く。内容は姉へ宛てたものではない。そう、これは見ず知らずの他人へ宛てたメッセージ。旧地獄の住人であれば、このドアの向こうにある世界に生きていれば、絶対に知っていなければならないはずの人物へ捧げられた言葉――こんな回りくどくて嫌みなことをする犯人なんて、さとりには一人しか思い当たらなかった。
「まったく、あの子は本当に意地が悪いわ……」
■ ■ ■
地霊殿には徐々に客が集まっていた。
会場は木組みでできたあの新棟である。ここでやろうと決めたのは燐であった。そのために家財道具を移し代える作業をわざわざ延期させたほどである。やり直すのならここしかない――そう思ったのだ。
壮麗な造りをした木組みの社は会場としても違和感がなかったが、ステンドグラスがない関係で採光に問題があった。準備に注がれた手間の大部分は灯りに関すること。屋敷中から光源になるものをかき集めた。それでも足りず、外から持ってきたりもした。やっとこさ満足な輝きが得られたが、それでも部屋全体とはいかず、隅の方は暗幕を引いたみたいに暗かった。
「ようこそいらっしゃい!」
持ちうる愛嬌を残らずつぎ込んで、燐は訪れる客を出迎えていた。すでに工事に関わった連中のほとんどは集まっている。みな陽気な面持ちであったが、少しばかり芝居がかっても見えた。それは真ん中辺りしか明るくない、舞台みたいな照明も手伝って余計そう感じられたのかもしれない。
最初に来たのは聖輦船の面々だった。これには燐はもちろん、その後に来た連中たちも大いに驚いた。どうやら村紗が率先して引っ張ってきたらしい。招待された側だというのに、彼女は料理の詰まった重箱を両手に抱え、自分から準備の手伝いをかって出たりもした。
一輪も最初入って来た時こそ固い表情だったが、次第に落ち着きを取り戻し、始まる直前にはかすかに笑みさえ浮かぶようになった。村紗が積極的に彼女を手伝いに巻き込んだことが大きかったのだろう。こういう時は動くのが一番だ。燐や他のペットたちもその意図をしっかり汲んだ。
むしろその意味で場の空気に一番馴染んでいなかったのはぬえだったかもしれない。村紗の懇願を交わしきれなかったこの妖怪少女は、準備のさなかも始終隅の薄暗いところで、壁に寄りかかっているのであった。
燐も何度か声を掛けたが、気のない生返事がくるばかり。見かねた村紗が引っ張ってこようとしたが、「放っておいてあげなさいよ」と一輪に止められる。結局彼女は宙ぶらりんのまま、宴会の開始を――或いは終わりを――待っていた。
続いて勇儀が取り巻きの鬼をつれてやってきた。彼女は空から宴会の誘いを受けた後、自分からも方々へ声を掛けていたらしい。傍目には陽気そのもの、会場の所々にできた小グループにせわしなく声を掛けては回っている。燐もその気遣いにはかなり助けられた。
一方で萃香は顔を見せていなかった。何人かの参加者達は挨拶ついでに勇儀へそのことを尋ねてみたりもしたが、彼女は全て笑っていなした。
「ごめんお燐。もう支度終わっちゃった?」
空がさとりの部屋から戻ってきたのはそんな頃である。配膳に追われていた燐は、皿の山を手に走り回っていた最中であった。
「どこ行ってたんだいおくう。ほら、早く手伝っとくれ!」
と、どやしつけて空に皿を預ける燐。空にはさとりのことを言う間も与えられない。仕方なく彼女は言われるまま皿をテーブルへ運ぶ。辺りを見たが、どうやら萃香は来ていない。一抹の不安が彼女を掠める。
でもそれ以上に気懸かりなことがあった。いや空だけではない。燐が必要以上にせわしなく動いていたのも、勇儀がいつも以上におしゃべりに精を出していたのもたぶん同じ理由だったのだろう。――"彼女"が、まだ来ていないのだ。
開始時刻は迫っていた。燐は間違いなく焦っていた。声を掛けに行ったのは自分。空が声を掛けた一輪達はいの一番に来た。いっそう情けなく感じる一方で、そんな引け目を覚えること自体、自分が空をどこかで見下してる証拠なんじゃないかと気づいて益々惨めになる。口の中はパサパサに乾いていた。
だが運命の神様は燐を見捨てはしなかった。もしそんな意地の悪い奴がいればの話だが。
「――ごめん、遅れた。」
ドアはぎいと開く。その声を一番近くで聞いたのは、壁に張り付いていたぬえだった。声が耳に届いたと同時に、彼女は戦慄で顔を真っ白にしながら後ずさる。心ここにあらずで雑談していた招待者たちも残らずドアへと視線と向ける。
ステンドグラスの極光を背に受けながら、ヤマメとキスメが部屋に踏み入る。ヤマメは、笑みを湛えていた。
「や、やぁヤマメ! 待ってたよ!」
最初に声を掛けたのは燐。主催の意地か、以前会っていた経験が生きたか。作業をほっぽって真っ先にヤマメの下へ駆け寄る。ヤマメはすまなそうに睫毛を伏せた。
「悪いねぇ。もう始まっちゃってたかい?」
「も、もうよしとくれよ!」肩をすぱんとはっ叩こうとしたが、指先が軽く触れただけに終わった。「始まってるわけないだろ。呼んだのはこっちなんだ。謝んなって!」
着工日の時と全く同じ会話を交わしつつ、燐は中へ入るよう促す。ヤマメはにこっとはにかんで、横にいたキスメの背をさする。さすられた方は青い顔のまま。
「ごめんねぇ、なんだか気乗りしないみたいでさ。ここへ向かう前も行きたくないって愚図るもんだから。」
「あ、ああそうだったんだね……」
なんとか返事をする燐。しょげきったキスメとそれを母のように宥めるヤマメ、この間の光景を思い出して、燐はまた背筋が寒くなった。
「さ、行こうキスメ」と優しく説くヤマメは、会場の中央で身構えていた参加者たちにも同じく奇異に映った。むろん彼らの想像していた"黒谷ヤマメ"と目の前の少女が全く違っていたからだ。まるでずっとやきもきしていた自分たちが単に悪い夢を見ていただけだったんじゃないかと思うくらい、彼女は何事もなくそこにいた。いや、以前よりずっと"ヤマメらしく"なった気がした。理想があったのである。
キスメの前に身をしゃがませながら懇ろに語り掛ける少女、誰もが身を竦め魅入ってしまう。それでも意を決して近づいた者がいた。勇儀である。
「やあヤマメ、よく来たね」
「勇儀様お久しぶりです。すみません、なかなか顔を出せぬままで……」
「な、何言ってんだい。別に気にしちゃいないよ。」
勇儀はすっかり照れていた。「元気そうでよかった」と何とか笑いかけると、艶やかな微笑が返ってくる。鬼の耳まで赤くなった。
燐と協力して、この鬼はキスメを宥めすかそうとあくせくしだした。少なくともそうしてれば少女と見つめ合わずにすむ。あえぎあえぎ、その間も二人は横の視線が気になって仕方ない。ヤマメはちょこんと身を縮め、しかしどこか悠然たる気品を纏いながら立っていた。
「お、ぬえじゃない。」
ふいにヤマメは振り向いた。視線の先にいたのはぬえ、魔法を掛けられたのように目があった時の体勢で固まる。さっきから引くことも進むこともできず、すぐ横で顔を引きつらせていた彼女は、しかしさらに固まってしまったのだ。
「どうした、そんな隅っこで。またなんかしょうもないネタでも仕込んでんのかい?」
と言いながらヤマメは近づく。汗を垂らしながら身をくねらすぬえは、確かに悪戯がばれた子供に見えないこともなかった。悲鳴を上げかけた彼女に、しかし助けが入る。一輪だった。
「なんだ、ぬえそんなとこにいたの?」
素知らぬそぶりで、手を掴んで引っ張る。そして仕事をさぼっていたという体で注意する。ヤマメから引き離すため。しかしそれは同時に一輪自身がヤマメに近づくことも意味する。
ヤマメは少しだけ表情を引き締めていた。当然一輪の視界にもそれは入る。合間見えたときのことを全く考えてなかったこの入道遣いは、これ以上無視はできぬとそちらへ振り向く。キスメ、燐に勇儀、いやそこにいたすべての者に緊張が走る。
「……ごめんね。」
「ごめん……」
どちらが先は判らなかった。どちらも俯いたまま、しかし先に続けたのはヤマメ。
「本当はもっと早く私の方から行かなきゃいけなかったんだけどさ……すっかり怖気付いちまって。情けない。本当にすまなかった」
「行かなきゃいけなかったのは私の方よ。本当に、何もかもごめんなさい……」
一輪も返す。そして笑みを振り絞る。ぎこちないが、今できる精一杯の笑みを。
「もういいんだ」ヤマメもはにかんで、相手の手を取った。「あたしゃもうなんも気にしちゃいないから。だからこれでおしまいにしよう。」
その言葉で場の空気もようやく和らいだらしい。ここにいた多くの者にとって、その光景は一つの結末であり、区切りであった。勇儀も燐も、重石がとれたように表情を崩す。それは他の参加者たちも同様。自然なざわめきが木組みの社に戻ってくる。
村紗と空もヤマメたちの下へ近寄ってきた。
「よかった、仲直りできたんだね」と空。
「うん、よかった……」村紗も続く。
二人は喜びをそのまま示した。空は宴会をやってよかったと思った。村紗は連れてきてよかったと思った。二人にとってこれ以上の答えはなかったのである。だから、彼女達はヤマメの微妙な変化も肯定的に捉えた。気さくに話しかけてくるヤマメに二人も今まで通りの調子で応える。燐と勇儀もそれを見て安堵した。もう、大丈夫だろうと。
でも一輪は違った。彼女は「おしまいにしよう」というヤマメの言葉に頷ききれなかった。むろんぬえのことが引っかかっていたこともある。でも同じくらいヤマメの顔つきが気になった。何かが違うと彼女も思ったのだ。諦めに染められた面の裏に、まだ残るものがあると、彼女は気取ったのである。
*
「おほん、じゃーみなさーんちゅーもく!」
燐は座の真ん中で声を張り上げた。着工式の時と同じ声色で。まだざわめきが止まぬ一画を思い切りどやしつけてから、改めて咳払いを一つ。
「えー本日はみなさまようこそお集まりいただきました。ご覧のように、ここ皆様がいらっしゃいます地霊殿の新棟も、本日無事完成を迎えることができました。これもひとえに皆様のご尽力があったおかげであります。おほん」
柄でもなく真面目腐ったことを真面目腐った調子で言う燐に、忍び笑いがあがる。燐はたちまちおどけたそぶりを造ってから、祝辞を続ける。
「実はここ、あたいらペット用の大部屋になる予定だったんですが、まさか正倉院はだしの木造倉庫に化けるとは思いませんでした。これもひとえに皆様の手抜き工事の賜でございます。」
今度は声になった笑い。残り半分は囃し立てる歓声。ドアよりの席に腰掛けていたヤマメも、くすくす笑う。場がそれなりに暖かくなったところで、燐はまた口調を変える。
「とまあ冗談はここらへんで。みんな、ほんとにあんがとさん。色々あったけどさ、あたいらにとっちゃこれ以上の出来上がりはないよ。地霊殿一同を代表して、お礼を言いたいと思います。それと、今日こんなふうに宴会やろうって言い出したのはおくうなんだ。まあ、あいつのことだから単純に騒ぎたかっただけかもしんないけど、急で無茶な話にもこうやって足を運んでくれたみんなに、本当に感謝します。」
打って変わって畏まった会釈をする。皆もその時ばかりは騒ぐのを抑えて、幹事の思いに応える。名前を出された空は燐のすぐ横で恐縮するばかり。それは半分は嘘だ。でも嬉しかった。みんなも空に礼を返す。
「さて、じゃあ景気よく乾杯といきたいんだけども、その前に。みんなも知ってると思うけど、こないだあたいらの"仲間"に不幸があった。で、まあこんなの柄じゃないってのはそうなんだけどさ、まぁせっかくの縁だ。黙祷でも捧げようかと思ったんだけど、どうかな?」
参加者にもこの提案を予想していた者はいなかったのだろう。ざわめきがぴたりと止まる。"仲間"というのが誰を指すのか、そこにいた誰もが心の内で理解できた。戸惑っていた面々が、しんみりとした顔となる。座の柔らかな雰囲気がそのまま答えとなった。燐も一つだけ息を入れ、いっそう厳かに言った。
「じゃ、黙祷」
目を瞑る。一秒、頭を垂れる。二秒、三秒。彼らの仄暗いまぶたの裏に浮かんだのはなんであったか。四秒、五秒。目を開く。ほんのりと明るい光が瞳を射す。
「ありがとう」と一言、そして燐はとびきり元気に声を張り上げた。「さあ呑むよ! みんな酒持ったかい?」
目の間にあったグラスを取る。動きの鈍いぬえに一輪が、キスメにヤマメがそれぞれコップを手渡す。暗い面持ちは変わらない彼女達も、今の黙祷は良い方向に働いたようだ。少しだけ顔に光が戻る。これで区切りにしよう、しなければとキスメは頷く。赦されなくとも、今だけは杯を交し、思いに応えようとぬえは決心する。それで全て収まるはずだった。
燐もコップを掲げる。「乾杯!」と言って、呑んで騒げばきっと元に戻る――彼女もそう信じていた。息を吸って、全部吐き出そうとした。
「かんぱ――」
でも、運命の神様は終わらせることを許さないのだ。
燐へ向かっていた視線が一斉にそれる。ドアが開く音だった。こっそり入ってくる、みたいな感じじゃない。それは明らかに妨害を厭わない音。
全員の視線がまたドアの方へ集中する。立っていたのは、伊吹萃香。
「あ……ああ萃香かい! ったくなにやってんだい。遅いもんだから始めちまったよ」
咄嗟にそう声を掛け、場を繕おうとしたのは勇儀。人好きのする笑顔を載せて、ドアの前に立つ萃香へ歩を進める。逆光で見えなかった面持ちがようやく彼女にも窺えた。それは酒気すら忘れた真剣なもの。瞬間まずいと勇儀は思った。しかし萃香は迫る彼女を払いのけて歩く。ただ一点へ。そこしか見ずに。そして止まる。言った。
「こんなところにいたのかい、ぬえ」
それは封獣ぬえの真正面。言われた方はするりと手からコップを落とす。グラスの割れる音と飛び散る酒は、何か致命的な変化が起きたことを告げていた。この世の終わりと言わんばかりの顔で、ぬえは見開いたままの目を萃香に向ける。萃香は確信した。
「あんた、あの日あの男のとこに行ったね? 一輪とそう話してたのを、そこの地獄鴉が聞いてたんだ。教えてもらおうか、あんたなんであそこに行ったんだい? 行って何したんだい? 黙ってんじゃないよ!!」
凄まじい剣幕にぬえは子猫のように身を丸める。萃香は冷静さを失っていた。でなければこんな大がかりなことはやらなかったはずだ。目をそらそうとするぬえを捕まえんと、手を伸ばす。
「待ってください!」
その手を一輪が掴む。いや彼女だけでない。そこにいた誰もが萃香をまず落ち着かせようとした。だから見ていなかったのだ。むしろ"彼女"が詰め寄ったのは、盟友を制止する為と思ってしまったのである。
「――あ゛い゛っ!!」
ぬえの絶叫、しかし皆が驚愕したのはそちらではなかった。目を奪われていたのは、憤激に燃え盛る、一際大きな体躯。
「どういう、ことだい……?」
ぬえの腕を掴み捻りあげ、星熊勇儀は凄む。地核ごと揺らすような低い唸り声に、萃香を宥めに入ろうとした全員の足が一瞬止まる。
「言ったよなぬえ……あいつには手を出すなって、言っといたよなぁっ!!」
「い゛ぎぃっ!!」
悲鳴も骨の弾ける音に掻き消される。掴まれていた手首を粉砕され、哀れな妖怪少女は床にずり落ちる。終わらない。今度は頭を掴みあげる。
「質問してんだよ? ああ? どういうことなんだい!!」
「やめて!!」
一輪は暴挙を鎮めんと叫ぶ。それは勇儀に油を注いだ。
「黙んなっ!!」
もう片の手で払い飛ばす。一輪は羽虫のように地に叩きつけられた。巻き上がる粉塵に、自失していた群集が息を吹き返す。ある者はぬえに憎悪を、またある者は勇儀を止めねばと。掲げられるはずだったコップは次々と地に打ち棄てられて。
「……貴様も知ってたってことか?」勇儀の激情は一輪にも向いた。「こいつがあの男のとこに行ってたの、知ってたんだろうが!!」
一輪は立てない。手加減なしの鬼の一撃は、彼女の肩を易々と砕いた。血反吐を漏らし立つことも叶わぬ中、しかし一輪は鬼の怒号に立ち向かう。
「しってた……わよ……ええ、知ってた」
「ざけんなよっ!! じゃあなんで――」
「言ったらこうなってたからよ!!」
そして負けぬくらいの敵意を込めて見上げる。勇儀も引かない。彼女も完全に自制心を失っていた。
「黙りやがれっ!」
そして蹴り上げる。紙人形みたいに舞い上がる一輪。
「やめてぇっ!!」
今度は村紗。落下する一輪を抱きとめて勇儀を見上げる。涙に濡れた哀願で。
「お前も……知ってたのか?」
しかし勇儀は止まり方を忘れてしまっていた。せめて何か役に立てぬかと願ってやった根回し、それが完全に水泡に帰したと思ってしまった彼女にとって、目に映る者は敵にしか見えなかったのか。怒りと、それ以上の無力感が篭った眼光に村紗は射竦められる。うずくまる二人めがけ振り上げた腕、それを止めたのは雲山。
「――っ!」
そして鬼の一拳を押し返す。本気の鬼と巨大な入道の力比べ。掴んでいたぬえを放り、勇儀はいっそう猛った。
「入道ごときが邪魔するってのかい? ああ!?」
雲山は引かない。押す。しかし元から力が違いすぎる。
「だめよ! 止めなさい、もうやめて雲山!!」
「やめろっ、落ち着け勇儀!!」
一輪と同時に止めに入ったのは萃香。最初入ってきた時の勢いはいずこ、彼女は今や完全にうろたえていた。こんなに怒りを面に出した勇儀は、彼女でさえ見覚えがなかった。みとりに聞かされた話が、今さら走馬灯のように浮かぶ。
「萃香、あんたも邪魔すんのかい!?」
もはや立場は完全に逆転していた。荒ぶる勇儀を、萃香が抑えようとする。会場、いや旧都が破裂する寸前――
「そうだよあたしだよっ!!」
旧地獄ごと揺らすような咆哮に、さすがの鬼も手が止まる。ぬえだった。腕を潰され全身泥まみれで、頬をべちゃべちゃに濡らしながら叫び続ける。
「ああそうだ、あたしがやったんだよ!! そう、あたしが勝手にやったんだ。あの男だろ? 安っぽい麻布着て裸足で歩いてた……へへっ、ちょっと脅かしてやろうと思っただけなんだ。ああそう、そうなんだ。そしたら落っこちて……だから村紗は関係ない。一輪にも嘘吐いてたんだ。そうだよな? 脅かしたことは言ってなかったよな? な、そうだろ?」
村紗の腕の中にいた一輪に向かって、狂ったように繰り返す。そして下衆めいた顔つきをひねり出し、全員へ届くように大声で叫ぶ。
「だから、だからこいつらは関係ない。あたしだけだ。悪いのはあたしだけ。な? だから、だから――」
「そんなの、嘘だよ……」
反論は、薄闇に溶けてしまいそうなか細い声。でも全ての耳を掴んだ。闇の向こうから壇上に上ったのはキスメ。彼女としては信じられないほどの声量で、きっぱりと言い切る。
「皆も見たでしょ? あの人、落ちた時は麻の服なんて着てなかった。着替えたんだ……あの羽織に。前の麻着が破けちゃって。だから着替えさせたんだよ……あたしがあの人と一緒にいた時に……そう、皆がヤマメちゃん探してた時に。断言する。その時はもう新しい羽織着てた。裸足でもない。だって私が草履を渡したんだから。ヤマメちゃんを迎えに行けって、そう言ってあたしが行かせたんだから……あたしのせいで……」
そこまでが限界だった。またキスメは涙に沈む。すすり泣く音が、弱々しい光に照らされた部屋に響く。先ほどまでの怒号が嘘のように、その声だけが。
同じく涙にかき暮れるぬえを村紗が抱き寄せる。猛り狂っていた鬼達は青ざめ立ちすくむ。もしその気になればキスメの証言に食ってかかることはできただろう。それ自体は大した決め手でもない。でもさすがにそこまでやる者はいなかった。それはそうだ。誰もぬえがやったなんて思ってなかったはずなのだから。絶体絶命の友人を庇おうと、咄嗟に吐いた下手な嘘を見破れない奴なんて、ここにいるわけがなかったのだから。
だとしても一度奔出した感情はそう簡単には無くなってくれない。罪悪感と混乱の渦の中で、萃香は思い出したように場の一角を睨む。
「……空、どういうことなんだよ!?」
「ひっ!」
呼ばれた方はびくりと肩を震わせる。一連の騒乱が始まってから、空は飛び交う罵倒を全て自分に向けられたものと感じながら辛苦に耐えていた。実際同じだけの痛みは味わっていたのかもしれない。目に一杯の涙を溜めて、肩をしゃくっていた――そこに萃香の一言だ。もう正気を保っていられなかった。顔を痙攣で凍てつかせ、へなへなと腰を落とす。それでも萃香の、群集の激情はなお行き場を求める。へたれ込む空へ集まる視線、その時もう何度目かの怒号が響いた。
「ざけんじゃないよ!!」
燐だった。憤激の眼で、空を責めた萃香に詰め寄る。
「『どういうことだ』だぁ? てめぇの胸に聞いてみろ! 裏も取んないで探偵面、しくじったら他人のせい。鬼も随分と焼きが回ったもんだね。おい!?」
「っ! 黙りやがれ化け猫風情が!」
「着工式の時も言ったろうが? こいつの言うことそのまんま信用しちゃならないって、ちゃんと言っといたろうが!! それを鵜呑みにして偉そうに乾杯の邪魔しやがったのはどこのどいつだい、ええ!? こいつはな、おくうはバカなりになんか役に立とうって、一生懸命駆けずり回ってたんだ。てめぇらが前みたいに笑えるようにって、ずっと休みもしねぇで準備してたんだ。それを台無しにしやがって……このクソ野郎ぶっ殺してやる!!」
「るせぇやるかこの野郎!!」
「もうやめてよっ!!」
二度目の罵り合いをねじ伏せたのは、村紗の悲鳴。他の者と同じく涙を一杯に溜め、幻滅と悔しさで顔をくしゃくしゃにする様は、まるでそうしなければここで声を上げることは許されないかのよう。
「なんでよ……みんなで仲直りしようって、そういう日だったじゃない……またいつもみたいに宴会すればって、だから皆集まったんでしょ!? じゃあなんでこうなるのよっ!! なんで、なんでみんな、こんな滅茶苦茶に……おかしいよ……」
「――そのくらいにしておきなさい」
不釣合いな声が場を占拠した。不明瞭な、熱のない声。涙も激情もない。しかし沸騰した場を冷やすにはこれくらいが丁度よかったのかもしれない。屋敷での揉め事を収めるのは、屋敷の主人でなければならなかった。
「……まったく、羽目を外しすぎないようにという約束だったでしょう?」
「さとり、様……?」
古明地さとりの登場に、参加者達はそれまで起きていた騒乱など忘れてしまったかのようであった。驚愕に声を漏らした燐に優しく目配せして、彼女はまず何にも先んじて竦みあがった空の下へ行く。
「ほらおくう、もう大丈夫よ。ね?」
「ぁ、ひ……さ、さとり様、さとりさまぁっ……」
体格ではずっと大きな空が、さとりの胸に埋もれる。戦慄く頭を撫でながら、さとりは三つの目を群集へ向ける。
「……なるほど。よくここまでもつれたものだこと。」
これほど多くの心を覗いても、見られることへの嫌悪をさとりは一つとして聞かなかった。深く重い溜息が漏れる。未だショックから覚めやらぬ空にそっと笑いかけて、自分の務めを果たすため立ち上がる。
「まず、本日の無礼を詫びねばなりませんね。お燐とおくうの不手際は私の監督不行き届きですから。せっかくお集まりいただいたのに、皆様には不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありません。」
心から、深く頭を下げた。言葉以上の意味が含まれた謝罪だったのかもしれない。あの部屋に一人きり、それでもさとりは鈍感ではない。何の責任もないと開き直れるほどには。
「……ただこれだけは言っておかねばならないでしょう。皆さんの諍いの原因となったぬえの行動。確かに例の男の下へ行ったのは事実のようです。しかしそれは邪な考えの下ではない。もちろん突き落としてもいません。……ええ、この第三の目に誓って皆さんの前で約束します。」
胸の瞳を指差し、さとりはそう言い切る。皆の心が一斉に萎縮したのを、さとりははっきりと聞いていた。いつ聞いても、こういう声を聞くのは気が滅入る。でもそれは罰なのだろう。ずっと目を背けていた自分への。そう考えれば引く訳にはいかない。さとりは大きくまばたきをして、彼らの想いをしっかり引き受ける。
「……そう、最初から反目する理由などありませんでした。これも断言します。ここにいる皆さんは例外なく同じことを考えている。――『こうなったのは、全部自分のせいだ』とね。
ですから……どうでしょうか。もう、幕を引きましょう。終わりにしましょう。もう、忘れ……やはり、無理ですか……」
テーブルから叩き割る音。椅子を蹴散らしドアをぶち破る音。駆け出していったのはヤマメだった。確かに諍いが始まってから、彼女のことを気に掛ける余裕はなかったから、どんな顔をして一連のやり取りを見ていたのか、誰も知らなかった。さとりが出てきた時も、今飛び出して行く瞬間も、誰も彼女を見なかったのである。ただ一つ、さとりの目を除いては。
「ヤマメちゃん!!」
「お止めなさい」
慌てて後を追おうとするキスメを、さとりは厳しい口調で遮った。結局どうあっても好意を遮ることになるのだなと彼女は自嘲する。これが本当に罰だったとしても、覚妖怪としての宿命でしかなかったとしても、やはりこんな代弁をせねばならないのは辛い役回りだとさとりは思った。
「そっとしておいてあげなさい。判ってあげられるはずです。ヤマメも皆さんと同じことを思っていました――『……全部私のせいだ。本当にすまなかった』と。」
■ ■ ■
ヤマメは自分がどうやって戻ってきたか覚えていなかった。夢中で駆けているうちに彼女の体は洞穴の中に置かれていた。視界が滲んで前も見えない。それでも自分の住処、間取りくらいはわかる。ふらふらと進んだ先は、右から二番目の小洞窟――「薬指」の穴だった。
久しぶりに入った部屋だった。中には湿った風だけ、熱も匂いも無い。どうしてここへ逃げ込んだのか、ヤマメはよく分からなかった。そして分からぬまま、奥に置かれた粗末な台まで這い寄り、骨壷に指を伸ばした。さながらそれに触れれば生き返ることができるという言い伝えでもあるかのように。
落ち着けるはずだったのに、余計に涙が出てきた。でももうそれから手を離すなど想像すらできない。ぐっと胸にかき寄せ、我が子のように抱いた。蹲ったまま咆えた。それはしばらく続いた。どれだけここで泣いていたのか、ようやくヤマメの意識が体に帰ってくる。自分が今どこにいて何をしているのか、知ったのである。
そして背後からの呼びかけが耳に届いたのも丁度その時だった。
「申し訳ない……どなたかいらっしゃるかな……」
居心地の悪そうな声だった。ヤマメの心身が一気に現へと引き戻される。骨壷を置いて、慌てて居間へ飛び出る。鏡の中には酷い顔をした女がいた。必死に涙を拭い、腫れ上がった目蓋を繕い、こわばった頬を叩く。一刻も早く自分を取り戻さねばと。大きく深呼吸して、入口へと向かった。
「ああ、どうもすみません……」
「……これはすみませんでした」客人は泣き腫らしたヤマメを見ていっそう恐縮げになった。「間が悪かった、でしょうか……?」
「そんなことないですよ」その心持を気取ったヤマメはいっそう身を引き締める。「ちょっと寝てたところでして。どちら様ですか?」
「上白沢慧音と申します。先日こちらで亡くなった人間の御遺骨を引き取って欲しいと、半妖の男に頼まれたのですが、ご存知でしょうか?」
「……ええ」少し間を置いて、ヤマメはふっと微笑む。まだこんな笑みもできたのかと思いつつ。「頼んだのは私です。さ、どうぞ」
慧音と名乗った客人は、主人に促されるまま中へと入る。ヤマメが想像していたのよりずっと若い感じだった。紺の装束に、空色の髪。被っている帽子も位の高さを象徴しているよう。どれも程よく手入れされており、つつましげな品を纏っている。一つ一つの立ち振舞いも自然と磨き抜かれた感じで、地底の荒くれ者が見せる礼節とは滲み出てくるものが段違いだった。
半ば形式的に供された茶に恭しく礼を垂れ、慧音はヤマメのはすかいに腰掛けた。青白い面立ちは何ゆえかと探ろうとしたヤマメだったが、未だ頭は動いてくれない。それでもこの重苦しい空気を破るためには何らかのきっかけが必要だとは理解できた。腰を持ち上げ、一旦「薬指」の部屋まで戻る。そして持ってきた陶器の壷を卓袱台の上へ置いた。
「これ、その骨壷です。」
「ああ……わざわざすみません」
慧音は一度手を合わせ、それを手元まで引き寄せる。ヤマメは涙腺を緩めぬように、視線を相手の額に置きながら言う。
「事情はあいつからも聞いてると思いますが、その、"らい"だったんです。」
「ええ、聞きました。……地下の妖怪にも迷惑を掛けてしまったでしょうか?」
少し言い淀んでから、慧音はそう尋ねた。ヤマメは答えに窮する。ついさっき起きたことを思い出しそうになったから。
「んなことないです」だからぶっきらぼうに否定する。「別に、橋の向こうには行ってないですし。」
「本当に申し訳ありません。地上と地底の掟を破ってしまい」
慧音はまた頭を下げる。そういう受け取り方もあるのかと、ヤマメは初めて気付いた。今まで色んな想いを旧都の住人達から受け取ったつもりでいたが、そんなことを懸念する奴は一人もいなかった。
「別に、そんなの気にしてないと思いますよ。で、すみません頼んでたことなんですが……」
答えは返ってこない。ヤマメはおずおずと慧音を見遣る。彼女は、来た時よりいっそう引き攣った顔をしていた。
「……申し訳ない」
もう何度目だったか。慧音はここに来てから謝ってしかいない。口調に苛立ちが混ざるのをヤマメは堪えることができなかった。
「まさか……そんなわけないよな……?」
「本当に、本当に申し訳ない……」
慧音は呻く。また頭を下げながら、もうそれは見飽きた。ヤマメはまた卓袱台を叩いていた。
「なんでっ、なんでだよ……? なんでそんな、『名前』もわかんないっていうのかよ!?」
慧音は言い返すこともできない。固めた拳を膝に置き、骨壺にずっと視線を置いたまま。けれどそれを見ているのにも耐え切れなかったのか、さらに目を伏せ口を開く。
「里の戸籍には、それらしい者はいませんでした。里の歴史は全て見ましたが、出生届にも、寄合の名簿にも一切なく……」
「そんなわけないだろ! じゃあこいつはどこから来たって――」
「外から来たのかもしれません。でなければ里の誰かが彼の生きた記録を完全に抹消したのでしょう……らい病の患者をそうやって隠蔽する人間は、まだいるんです」
「じゃあ、じゃあこいつはどこで生まれたかも判んないのかよ? 親は、親戚は!?」
「らい病人を出したことを口外する家族はいません。そんなことしたら自分達も里から追い出されてしまう。だから訊こうとしても――」
「ふざけんなっ!!」
ヤマメは慧音を押し倒した。帽子が吹き飛び壁に当たる。最後の、ただ唯一の願い、ほんの些細な願い――男の名前を知りたいという願いすら踏み潰されて、ヤマメはありったけの憤激と憎悪で慧音を睨み殺そうとする。でもそれは憚られた。滲んだ瞳にもしっかと映った。ヤマメの下にあった顔は、そうされることを覚悟していた顔だった。
「やってください……」
それだけ漏らした。空色の髪を砂まみれにして、慧音はうっすら笑っているようにも見えた。それはあの面差し――無力感に押し潰されたものが浮かべる無色の優しさだった。振り上げた拳が落ちない。どうあろうと、この面影を傷つけることはヤマメにはできなかった。
「……教師をやっているんです。もう何年も。ずっと里で教えているんです。昔から何度も。らい病は治ると。とても伝染りにくい病気だし、たとえ伝染っても恐くないと。前世の業でもないと。でも、この有様なんですよ……」
慧音の瞳にも光るものがあった。その雫の中に、ヤマメが色々なものを見た。楽しい宴会場になるはずだったあの場所にあった全ての顔、自分の顔、そして――
「当然です。私は、貴女に殴られて当然の存在です。だからお願いします、お好きなように。こうなったのは、私のせいですから……」
慧音の顔は晴れ晴れしているふうにも見えた。ぶるぶると戦慄いていた拳が解ける。そしてだらしなく落ちた。
「もう、いいよ……もうそれはやめとくれ」
慧音から身を離し、壁にもたれかかる。そして落ちた手を顔面に被せる。なぜか嗤いが漏れた。慧音は仰向けのまま、こちらからも自虐めいた嗤い。
「……すみません、身勝手なこと言って」
「……あのさ」ヤマメは慧音の呟きに応えず言った。「やっぱ骨壷、こっちで預かるわ。その分じゃ里にも引き取り手はない、それどころか里で葬れるかも判らないんだろ?」
「ええ、そうですね……無縁塚に葬ろうと、そう思ってました。」
「だろうね……」
また痙攣じみた嗤いが漏れる。もはや涙さえ出てこない自分に気付く。目を掌で覆ったまま、ヤマメはひどく軽い口調で告げた。
「わざわざ来てもらったってのに、とんだ無駄足踏ませちまったね。はっ、ほんと、ほんとごめんよ……ごめん……」
*
慧音は中々帰らなかった。でもヤマメはそれ以上は何の言葉も掛けなかった。掛けようにもなかったのだろう。やがて諦めたように慧音は帰って行った。やはり謝罪の言葉を残して。
もはや感情さえ霧散した部屋には少女と骨壷だけ。風の音さえ聞こえない。おそらく誰かが声を掛けねば、ヤマメは永遠にこのままであっただろう。だから"彼女"は声を掛ける。或いはこの時をずっと待っていたのかもしれない。最初からずっと。
「――お邪魔します」
ふいの声にも、ヤマメの反応は薄い。動いたのは掌の向こうの眼球だけ。たとえ新たな客の目的が彼女の命を奪うことであったとしても、彼女は同じ反応を返したに違いない。来訪者もそういう反応は織り込み済み。自分の家のように卓袱台に腰掛けくつろぐ。彼女にとってこういう居座り方はごく普通のことであったから。
「――誰だい?」
どれだけそんな時間が続いたか、ヤマメはようやく来訪者に問うた。良心が咎めたというより純粋に邪魔だったからだろう。掌のひさしを外す。視線の先にあったのは黄と緑の服を纏った少女。
「ああ、こんばんは」
古明地こいしはふっと笑みを投げる。まるでヤマメが手を外す瞬間を見透かしていたかのようなタイミングで。もう誰の心も見えないというのに。
まったく頭になかった来訪者であることは論を待たない。他者への関心なぞとうに投げ捨てていたヤマメも、さすがに彼女には吸い寄せられた。
「確か……さとりんとこの妹だっけ?」
「そう。覚えててくれて嬉しいよ。こんなふうに誰かと話すこと、めったにないから」
独り言みたいな言い方だった。にこにこ笑っているのに、何に笑っているのかも判らない。いや、そもそも居るのか居ないのかも不確かなほど。その雰囲気は少なくとも今のヤマメにとって気が休まる相手だったに違いない。
「なんか用……?」
「うーん、用があるといえばあるかな」
と言いながら、こいしは卓袱台の上に置きっ放しになっていた骨壷をいじりだす。小さな掌にも収まるくらいの壷は、子どもが転がして遊ぶには丁度いい大きさだ。
「――やめとくれ」
果たしていつ以来か、ヤマメは身を動かす。足と岩が同化したみたいだった。卓袱台までもぞもぞと這い寄ると、こいしから骨壷を取り上げる。そのまま流れで腰掛けた。
「それ、大事なもの?」と無邪気なそぶりで訊くこいし。
「子供が触っていいもんじゃない」とすげなく返すヤマメ。
こいしは間を持たせる。骨壷を掌で抱擁するヤマメを慈しむように見つめながら。そして天使のように微笑み言った。
「お兄さんのこと好き?」
ヤマメはギロリと睨み返す。満面の笑みはひどく醜悪に見えた。
「悪戯にしても悪趣味が過ぎるよ。やめときな」
「あたしね、知ってるの。どうしてあのお兄さんが死んだか。」
ヤマメの話などないように、こいしはそれを告げた。ヤマメの頑なな表情が破れるのを待ち遠しく思いながら。予想通りの顔になった少女に、こいしは優しく頷き掛ける。
「見てたの。ずっと、ずぅっとね」
睦言のように覚妖怪は言う。凍てついたヤマメの微かな反応をいちいち確かめながら、彼女はどこを見るでもなく口上を並べていく。
「ずっと、一番最初から。ここで貴女があの人と会った時から。旧都のみんなのことも全部。そう、まるで小説でも読むかのように、私は貴女たちの喜び、哀しみ、苦しみを遍く見知りし、そして何もしなかった。ただ傍観して、あのお兄さんが崖から落ちる時も一切手出ししなかった。そうやって……ええそうね、楽しんでさえいたのかもしれないわ。」
ずいと、こいしは顔を寄せる。天使の笑顔はそのままに。
「今さらふざけた忠告だろうけど、はっきりいって真相を知ることはお勧めしない。きっと知らないままでいた方がいい。お兄さんがあの時誰といたのか、どうして揉み合いになったのか、何を"守ろう"として崖から落ちたのか。知ってしまったら貴女はきっと後悔する。だから知らない方がいいと思うんだ。私がわざわざしゃしゃり出てきて、こんな話を持ちかけるのだって蛇足でしかないと思うの。だって私がこんなことをするのは、ただ私自身の興味を満たすためだもの。
知りたいの。もし知ってしまったら、貴女はどうするのか。それを見たいだけ。それを見ずに終わってしまうなんて心残りだと、最低で下衆な化け物が己の腹を満たしたいと舌なめずりしてる、それだけなのよ。だってこんなにも他者に興味を持つのは、とても久しぶりなんですもの。
だからね、貴女は私達を怨んだっていい。あの人が落ちていくのをただ側で眺めていた、旧地獄で起きた全ての誤解の経緯を知っているのに、一切手を貸そうとしなかったこの下賎な傍観者達を。全て私達のせいにしてしまえばいい。その報いの受けるだけの仕打ちを私達は貴女達にしてきたんだもの。そしてその骨壷を、思い出を胸に抱いて強く生きてほしいとも願う。でも私は意地悪だから、結局何もしない。外から見てるだけ。選ぶのは貴女。さ、どうする?」
■ ■ ■
水橋パルスィは、今日も橋の上にいる。何があってもそれは変わらない。たとえ地球が今日終わろうと彼女はここに居続けるだろう。それは一種の絶対的安定であった。
いつも通り欄干に体を預け、ただ立っている。足元からは河のせせらぎ。横からは旧都の灯り。少々元気がないように思える。あの時と同じ唄を口ずさみ、見上げるのは分厚い天井。瞬く星も、麗しい月もない。鉛色の岩盤だ。それが唄に乗せた恨みを反響させる。
そして旧都と逆の方角、そこに人影が立っていた。
「パルスィ、いいかな……」
「どうぞ」
ヤマメの方を見ぬまま答える。そういえば前に会ったのはいつだったか。つい一時間ほど前のようにも、数年近く前のようにも思えた。
「一つ、頼まれて欲しいんだけど」
すぐ側までやって来たヤマメはそのまま手を突き出す。パルスィは視線を向けずに受け取る。手渡されたのはちょうど掌に収まるくらいの陶器。
「……いいのかしら?」
「見られたく、ないからね……」
ヤマメは小さく笑う。擦り切れたような声だった。そのままとぼとぼと、元来た道を引き返す。手中の骨壷と見つめ合いながら、パルスィは去らんとする背中へ問いかける。
「あのハクタクの先生さん、とってもいい人なんでしょうね。きっと余計辛い思いするわ。あんたがそんなことしたら。」
「だろうね……」
「あの船幽霊、村紗だっけ? 尼さんの理想を無邪気に信じてる。きっと失望するでしょうね。そんなことしようとしてるあんたに。」
「かもしんないね……」
「あの子だけじゃないわね。キスメも、勇儀も、萃香も、いいえこの旧都にいる連中の誰一人として、あんたがそんなことをするのを望んでいない。」
「そう、かもね……」
「……あんたがそんなことしたら、きっと"こいつ"も悲しむわよ」
パルスィは視線だけを横に向ける。骨壷をまっすぐヤマメへ掲げながら。
「そりゃ、結構なことだ」
ヤマメも振り向く。呪わしい笑顔を浮かべて。
「あいつから愛想を尽かしてくれるんなら、そんな楽なことはないよ」
そしてまた踵を返す。もう振り返ることはなかった。一人きりに戻った橋の上で、パルスィは行き止まりの空に向かって大きな息を吐く。
「――ったく、あんた本当に妬ましいわ。色男」
腕を欄干の外に伸ばす。そして――
「さよなら」
――どぷん
聞こえるか聞こえないかという音は、すぐ鉛色の闇に呑み込まれた。
誰も拒みゃしないから楽しんでおいき
――東方地霊殿:黒谷ヤマメ
〜 Extra Stage 〜
細く暗い隘路を、男は歩いている。
半妖の小太りだ。今日も食糧を引き連れ、一人大空洞を下りる。
どうして自分がこの仕事を続けていられるのか、彼自身も理解できぬところがあった。辞めようと思ったことも一度や二度ではない。でもその度にあの少女の顔がちらついた。ほころび色づきかけた、婀娜な黒谷ヤマメの艶姿が。時間が経つごとにまた会いたいと思った。後ろ髪を引かれるように、もう一度、一目見るだけでいいと。彼が自分の劣情をこれほど憎んだことはない。
道は慣れたものだ。行灯のような光を漏らす洞穴は目の前。今日はキスメの姿がない。
「……失礼します」
喉をつかえさせながら、男は言った。ここに来たことを後悔している自分がいる。でも、義務感めいたものを覚えたのも事実だった。
「おう、いらっしゃい」
黒谷ヤマメの声。出てきた姿に変わりはない。むしろ以前よりすっきりした印象を彼は受けた。
彼女も慣れたものだ。何を言わずともやることはわかっている。男から書類を受け取り、荷と照らし合わせていく。男は言葉が出なかった。品を尽くした所作も、懇切丁寧な口ぶりもどこかへ行ってしまったかのよう。四肢は震えていなかったが、腸の底から戦慄きが噴き上がってくるのをうっすらと感じた。
ヤマメは今男のすぐ隣にいる。唇に指を立てながら、真剣な様子で書類を見ている。横から見ると睫毛が長いことに気付いた。風に揺れてうなじの柔毛がゆらり、ふわり。ほんのりと甘い薫りが男の鼻をくすぐる。
「ん。わかった。間違いないね。」
目を上げて男へにこり。柔らかで枯れた笑みだった。愁いをたっぷりと含んだ、でもなぜか瑞々しい、ぴんと張った笑み。ぞっとする。
「は、はい……では――」
「なんだい、随分とせかせかしてるね」
急いで退散しようとした男を女は呼び止める。
「い、いえ……別に……」
「今日一人でね、暇してんだ。茶でも出すよ」
答えるのが精一杯の男に、軽らかな誘いの言葉が投げられる。それは彼にはいっそうおぞましく聞こえて。やけに挙動不審な男に、女はふっと含みのある笑い。そして手にあった書類を4つ折にして胸元にちょいと挟む。一瞬見えた鎖骨は抜けるように白く、男の目を刺し殺す。
「あっ、あの……」男は何かがはち切れた。「実は、今日でこの仕事から手を引こうかと……」
口にした当人からしても、まったく思っても見ない告白だった。しかし分からなくもない。確かにこれ以上はもう限界だった。
脈絡無く飛び出した言葉にも、女はさして怪訝なそぶりを見せない。むしろその反対。半身の格好で男のすぐ側に身を寄せ、思わしげな顔で何がしかに考え耽る。
「そっか。さみしくなるね……」
ふいに流し目を入れて、女はそんなことを呟く。吐息のように、心からの思慕を薫らせた声で。
「あんたとは、随分と長い付き合いだったからね。次の当てはあるのかい?」
「いえ……隠居でもして静かに暮らそうかな、と……はい」
無音に落ちる。男はぐっと唾を飲んだ。彼は何かを悟ってしまったのかもしれない。何も言わずに踵を返す。視線も向けずに、ここを経とうとする。
「ねぇ、だったらさ……」
そんな男の首に、白い腕がするり。そっと絡みつき、十の指が両の肩を包む。戦慄く男の背を、乳房の柔らかな感触がほだす。
「やっぱりゆっくりしてってよ」
かちかちと、男の奥歯が鳴った。後ろからはリボンを解く、しゅるりという音。女郎花を思わせる黄色の髪がぱらりと落ちて、うなじに帳を落とす。
「できませんそんなこと……」
小刻み揺れる顎の先を、柔細い指がつまむ。そのままくるりと、女の為すがままに振り返った男。目の前には唇があった。上気する艶やかな顔が、誘惑する女の姿があった。そう、男はようやく理解したのだ――ああ、黒谷ヤマメは、"女"になったのだと。
「あたしとじゃ、嫌かい?」
そのまま唇が近づいてくる。そして男が何かを言おうとした唇を塞ぎ、くわえ込んだ。
舌が絡み合う。ずっと彼が恋焦がれた唇は、ひどくひんやりしているようにも感ぜられて。女は執拗に男の口を貪る。舌をねじ込み、唾液を混ぜ合わす。
地獄のような、甘美な口づけ。ようやく女の唇が離れる。とろりとした銀糸が二つの唇を繋いでいた。
再び女の顔が瞳に映る。余りにも哀しげな顔をしていた。理性の鎧の剥ぎ取るほどに。
「だっ、ダメです……やめ、そんな、そんなの絶対に……」
「でも、こっちはこんなになってるじゃない……?」
折り重なった女、男の股間を指で愛撫する。白い指は鳩尾まですぅっと伸び上がり、肩、そして筋張った男の手まで落ちる。手本を見せるように、女は自分の指を男の指に絡め、撫で、しごき、締め付ける。上着のボタンをそろりと外し、持ち上げた指を先ほど見た鎖骨に、そして未だ隠されたままの膨らみの麓へといざなう。最後の一枚を脱がさせる為に。
「いいよ、好きにして……」
■ ■ ■
八雲藍は、朝の見回りを終えて住処まで戻ってきた。結界に目立った揺らぎはない。そういう日は気分も晴れるというものだ。
彼女の心持を映したのでないだろうが、とても過ごしやすい麗らかな日だった。秋肥ゆる霜降の正午。空は高く澄み渡り、刷毛ではいたような鰯雲が蒼穹を彩っている。地平線には色づき始めた木々が競うかのごとく燃え、澄み切った秋の空気に、慎み深い熱を与えてくれるかのよう。朝に葉を包んだ霜も、今は露となり、紅葉に透明な輝きを添えている。
式になる前は宵闇と星空を愛するありふれた妖怪でしかなかった藍だが、こうして主人の補佐を勤めることになると、自然と昼に起きる時間が増えてくる。真昼の月の味を知るにつれ、彼女は光に満ちた世界も同じくらい美しいと思えるようになった。
縁側伝いに広がるパノラマを観賞しながら、廊下に沿って左に曲がる。そこで藍は大いに驚くことになる。
「紫様?」
確かに縁側に腰掛けていたのは八雲紫。まだ太陽がこんな高いところにある時刻、主人が起きて来るのはたいそう珍しいことである。藍は弛緩していた佇まいを整えなおし、紫の前に身を伏せる。
「これは申し訳ありませんでした。まさか起きていらっしゃるとは。」
「いいのよそんな畏まらなくても。」
紫は式に面を上げるよう促す。藍は一つ間を置きそれに従う。視線を上げると、なんともいえぬ表情をした主人がいた。困っているような、諦めているような、愁いに満ちた笑みだ。
藍は嫌な予感がした。紫がこういう顔をしているのは、大抵難題が持ち上がった時だ。藍がしっかり状況を把握したことをこちらも悟ったのだろう、紫は同じ表情のまま、紅葉麗しい虚空に向かって言葉を零す。
「幻想郷は、外の世界で幻想となった存在を全て受け入れなくてはならない。この光り輝く美しい風景も、闇に生きる妖も全て等しく。たとえ絶対に相容れることがない存在同士でも、どちらかを一方的に討ち滅ぼしたりはできない。並存と均衡を目指さねばならない。それって、とてもとても残酷なことだと思うの。」
そして隙間から何かを取り出し、藍に見せた。それは外の世界の新聞。受け取り藍は目を通す。冷たさを含み出した秋の木枯らしを全身に受けながら、紫は静かに告げた。それはやはり彼女には珍しく、感傷に満ちた声だった。
「忙しくなるわ。覚悟しておきなさい」
藍も得心する。澄み切った秋の陽光に照らされた新聞にはひどく誇らしげな論調で、こんな見出しが貼られていた。
1979年10月26日 ○○新聞
『天然痘根絶を宣言 WHO ――体制超えた協力で』
1979年10月26日は、人類が初めて自らの力で、凶悪な伝染病を根絶したことを宣言した日として、歴史に長くとどめられるだろう。
世界保健機構(WHO)は、26日、ケニアの首都ナイロビで天然痘根絶を宣言する。長い間人類の"敵"であり続けた天然痘が、地球上から消滅したことが公式に確認されるのだ。有志以来数千年にわたって人類にとりつき、毎年1000万人の患者と200万人以上の死者を出してきた"業病"を絶滅させたことは医学史上、例をみない快挙である。
……根絶運動に当初から関わってきた××博士によると、天然痘根絶の最大の意義は、「人間がある目的に向かって一致協力すれば、何かができるということを証明したこと」にあるという。「高熱、発疹という顕著な症状があり、人間同士しか感染せず、種痘という効果的な予防策があった」という天然痘の特性が、短期間での根絶に成功した要因であったとは言え、なんといっても「体制や社会習慣の違いを乗り越えて、みんなが協力したこと」が一番の決め手であったという。これについてWHOの幹部は……
■ ■ ■
「あっ……はっ、あはぁん!」
光のない洞穴に、男と女が交わる音が響く。
「んぁっ、ぁはぁ……んっ、んぶっ! そう、んちゅ……もっとぉ……」
信じられぬほどいきり立った怒張を女の秘所に突き立て、男は狂ったように腰を打ち付けていた。分厚い男の肢体に圧し掛かられた少女の体は、潰れてしまいそうなほど。
「いいよぉ……んっ、んちゅ、んはっ、んんぅ! ぷはぁ……もっと、もっとめちゃくちゃにして……? いいのっ、もっと……んふぅっ! 壊れるくらい、突いてぇ」
でも女に戸惑いはない。男の腰に足を絡めながら、しっかりと男のものをくわえ込んだ秘所は、決してそれを離そうとはしない。
女の言葉通り、男はいっそう激しく腰を振る。細い腰が折れてしまいそうなくらい体重をかけ、乳房を握りつぶすように揉みしだく。女は体が裂けるような感覚を味わっていた。きっと本当にそうなって欲しかったのだろう。
「そう、あぁん……あん……ああっ!! そう。んん……んむ、んちゅ……あぁ、もっと、もっと激しくっ!!」
男は女の顔を見れなかった。だって彼女は泣いていたから。細く小さな肢体を冷たい岩に押し付け、一突きごとに腰を浮かし、艶かしい声で誘いながら、けれど涙を流し続けている。
ひどく乱暴に扱われながら、女はなおねっちこく接吻を求めた。首に手を回し、息が続く限り舌を絡めあう。そして唾液を注ぎ込む。怨嗟と絶望と、そして"死の遣い"がたっぷり詰まった、甘い甘い蜜を。
男も女の求めに迷いなく従った。彼はとうに気付いていたのかもしれない。それでも少女の体を貪ることを止めなかった。快楽を求め続け、執拗な口づけを厭わなかった。彼にとってはそれは受け入れるべき罰だったのだろう。そう、これは呪い。お互いがお互いを傷つけあう。
「んぐぅっ、んお゛お゛っ! 出るっ!」
「出してっ、全部出して! 中にぃ!」
二人の体がガクガクと痙攣する。まるで涙に戦慄くように。男の口へ災いの種を注ぎながら、女は胎内に報いの種を受けた。
人情と愛情に満ちたお話でした。
外の世界が捨てたがって捨てるもんが放り込まれるゴミ置き場。
どいつもこいつも見ただけでゴミ箱に放り込みたくなる臭いがして最高でした。
熱病に冒されたかのように、夢中で読みふけってしまいました。
永琳師匠でも地霊の湯でも治せぬ難病に感染した女の物語。
いずれ日の目を見る、地下の暗がりで暮らす者達の物語。
事態を動かす主役にして道化である、疎まれる『員数外』達の物語。
幻想入りした天地人の神々が巻き起こすドタバタに巻き込まれるまでの、ほんのひと時の余興。
無慈悲な祝福を授ける紅白と、下らん妄執を葬る黒白が引っ掻き回すまでの、ほんのひと時の休息。
地底良いとこ、一度はおいで。
いざや、いざや、見に行かん。
ささやかな幸福の後にたっぷりの絶望を味わう事になる半端者など、完成された物語のお邪魔虫でしかない。
害虫は、益虫に駆除されないと。
だが種族を越えた恋はいいものだ
永遠の恐怖を味わうんだと思って、腹がよじれるほど爆笑した俺はたぶんこの話を間違った形で楽しんでしまっていると思います。
口ぶりから「都合悪いものだけ受け入れないこともできるけど私的に幻想郷の流儀に反するから受け入れるよ」みたいな空気を感じた。
そういう考えってかもしれんけど一般の連中にとっては正直迷惑だよなあと。
非常に楽しませて頂きました。力技でなんとかならない事件は良いですね、関係が捩れて歪んで。
過去話ですと全員の身の安全が保障されてしまうので死人や後遺症の残るけが人、発狂者などが出せず、物語が地味になりがちに思いますがしっかり感情を動かされました。
一番好きなのはヤマメ、二番が半妖、三番がパルスィ
一番嫌いなのは勇儀、二番が一輪、三番がらいの男
好きは言うまでもありませんが、嫌いというのはつまり感情が動いたという事ですから、物語を大いに楽しませてくれたという意味でして、読み終わってみればこの6名が好きという事です。
こんなに正直で罪悪感うずまく閉鎖空間。
そりゃ地上の人間連中と騒ぐほうが楽しくもなるんでしょうね
重すぎるように感じてしまい、それが感動を薄れさせていると思いました。
よくまとまった話ではあったので、評価はこのくらいで。