Deprecated : Function get_magic_quotes_gpc() is deprecated in /home/thewaterducts/www/php/waterducts/imta/req/util.php on line 270
『Lunatic Kitchen2』 作者: pnp
これと言った切掛けも無しに、鴉天狗の姫海棠はたてが目を覚ました。冬がすっかり深まってきている頃であった。天狗達の居住地となっている妖怪の山の高まった地点にあるはたての住まいには、優れた暖房設備など設えられていない為、この季節となれば昼夜問わず非常に冷え込む。布団の中に仕込んでおいた湯たんぽの中の湯は、遠の昔に冷め切っていて、今や快眠を阻害する障害物にしかなっていない。
自身の体温でのみ温もりを得ている布団の中で一度大きく息を吐いた後、はたては時計に目をやった。三本ある針の内、一本が『6』を差しているのが分かった。秒針ではないのは、針の大きさを見れば一目瞭然であった。
まだ六時。夜更かしを久しぶりに断ち切って寝た甲斐があった――俄かに躍った心であったが、その幸せのステップはすぐに止まってしまう。残念ながら、『6』を差していたのは長針であったのだ。短針はそろそろ『11』へ到達しようかと言う地点で間誤付いている。寝惚け眼の呼び寄せた幸せな勘違いに、はたては落胆を禁じ得ず、もう一度布団の中で息を吐いた。そのまましばらく、布団の中でボーっと横になっていたが、これ以上貴重な時間を無下にする訳にはいかないと、心中で「いち、にのさん」と唱え、勢いよく体を起こした。そして、布団の傍に置いてあった靴下を履き、衣桁に掛けてある、お世辞にも洒落ているとは言えない褞袍を一枚引っ掛けて、外へ出た。
室内がそもそも酷い寒さであったのだから、外は余計に酷い有様である。褞袍一枚ではとても太刀打ちできていないようで、歯の奥をがちがち鳴らしながら、彼女は山内のある場所へ向かった。彼女が向かっている場所と言うのは、天狗達の居住地帯のおよそ中心部である。山の側面にぽっかりと開いている入口から細い通路を歩いて行くと、はたての向かっている中心部である広場が豁然と広がる。同胞全体へ向けた連絡事項を掲載する大きな掲示板――この存在が、この広場の主たる役目である。この他にも、憩いの場や、待ち合わせなんかにも使われることがあるが、やはりここに天狗達が集まるのは、この掲示板に用事があってのことである場合が多数を占める。
はたてはあまり他者と濃密な交友関係を築いていないので、憩いや待ち合わせにこの場所を使うことは滅多に無い。連絡事項は見落とすと問題になりかねないので、ほぼ毎日、この場所に赴き、掲示板に目を通している。この日、はたてが広場へ向かったのも、やはりこの掲示板へ用事があったからである。重要な連絡事項が無いかどうかを確認する意もあったが、それより大切な用件があって、彼女は掲示板へ足を運んでいる。
掲示板を眼路に捉えたはたては、俄かに歩みを速めた。広場にいる妖怪の姿は疎らである。これが朝であれば、掲示板周りは押し合い圧し合いしていたことであろうとはたては考える。そして「寝坊して良かった」と、冗談半分に自分の失態を正当化した。
いくら重要な連絡事項を知らせる掲示板とは言え、この場所がそれ程の盛況に包まれることは無い。しかし月に一度、この広場が天狗でごった返すことがある。『新聞大会』の結果発表の日である。
天狗達の中には個人で新聞を書いている者がいる。新聞と言っても、彼、彼女らの作る新聞はゴシップ雑誌の気質が強い。幻想郷に住まうあらゆる生命体達に纏わる面映ゆい噂話から、全く無根拠な世界滅亡説まで――とにかく各々が好き勝手に新聞を書いている。崇高で健全なジャーナリスト精神を貫き通して新聞を書いている者など滅多にいない。社会情勢を慨嘆するようなものも時たま存在するが、あまり読者受けがあまりよくない為、新聞が売れなくなってしまうので、書かれることはほとんど無い。また、幻想郷に蔓延る不正を暴くとか、知られざる真実を知らせたいとか、そんなことを安易に書いたりすると、常識外れの能力を持つ輩の幻想郷では、どんな制裁を喰らわされるか分かったものではないので、やはりほぼ書かれることは無い。
では、天狗達が新聞を書く最大の理由とは何か。それは言わずもがな、定期的に行われるこの『新聞大会』で上位入賞することである。とにかく大量の新聞を刷って、売って消化し、ランキングの上位に名を残す――これが天狗の新聞記者の本命である。
書いた新聞を印刷する枚数を予め提示しておき、その消化数でランクを競い合う。参加者が多ければ多い程、その新聞の総量は膨大なものになる。そうなると、新聞の内容は似たり寄ったりになる上に、読者もそれ程多くの新聞を求め無くなるので、競争は苛烈を極める。新参記者が早々にランクに割り込むことなどまず不可能と言っていい。長く新聞を書いて来た先行者には『信頼』と『実績』と言う、一筋縄には生み出せない強みが存在しているのである。
はたてはまだ若いので、仲間内には『新参』と判定されている。はたてもそれを否定はしていないが、いかにも劣っていると言う風な烙印を押されているような気がして、あまり快くは思っていない。早く有名な記者として名を馳せたい――はたてはずっとそう願いながら新聞を書いている。
がらがらの掲示板の真ん前に辿り着くと、すぐに新聞大会の結果が記載された縦長の紙に目をやり、眼球だけを上から下へと動かしていく。名前に『姫』の文字を冠しているのは、妖怪の山で彼女だけであるので、『姫』の文字を懸命に探す。姫、姫、姫――心中で何度も唱えながら。
ようやく『姫』の文字を見つけた頃には、縦長の紙の中腹さえ過ぎていた。下から見上げて行った方がよっぽど早く見つかる位置に『姫海棠はたて』の名があった。その刹那、心臓を直接肘で小突かれたような衝撃が胸に奔った。信じられない、と言った様子で、何度も見直してみるのだが、言わずもがな、『姫海棠はたて』の文字は少しも変化しない。
今回書いた新聞は、それなりに自信のある出来であった。加えて、いつもより沢山売ることができたと言う手応えもあった。上位入賞には程遠いことは分かり切っていたことだが、まさかこれ程にまで下位に座することになろうとは思ってもいなかった。それ故に、はたての受けた衝撃はあまりにも大きかった。過剰な期待を抱いていた自分がとても惨めに思えた。浮かれていた自分を客観的な視点で見る妄想をして、この上ない程の恥じらいを感じた。
寝間着の上に引っ掛けた褞袍を着直し、はたては重たい足取りで、とぼとぼと自身の住居への帰路を辿り始めた。山内を吹き抜けた冬の風は、広場へ向かっている最中よりも遥かに冷たく感じられたが、その脚が暖を求めて歩みを速めると言うことは、遂に無かった。
ようやく住まいへと帰ったはたては、いろんなことを考えるのが億劫になり、再び布団の中へと飛び込んだ。寝不足が祟って、目覚めて間もないと言うのに、彼女は再び全てを忘れさせてくれる心地よい暗闇へと身を委ねた。
そうやって自堕落な時間が過ぎて行き、次に彼女が目を覚ました時、もう外は日が暮れかけていた。増々はたては落胆してしまった。今日はもう何もしたくない――などと考え、大きなため息を吐いたが、何かする時間が残されていないと言った方が正しいであろう。
このむしゃくしゃした気分を転換する為に、酒を飲もうとはたては決めた。大人数でではない。一人で、気ままに。こういう気分の時に行く店は決めている。しかし、今日は新聞大会の結果発表の日。打ち上げと称し、多くの同胞達がその店へ行くことは火を見るより明らかであったので、店が空く真夜中まで、はたては自身の居に籠り、相変わらず自堕落に、無益に時間に費やしていた。
はたての行こうと決めている酒屋と言うのは、森の傍に設えられている屋台である。この屋台を営んでいるのは、ミスティア・ローレライと呼ばれる妖怪である。夜雀と言う妖怪に属する彼女は、一人で屋台を営んでいる。人間、妖怪を問わず、この屋台にはいろんな客が訪れる。
この日も沢山の客を相手に、一人で屋台を切り盛りしていた。時間も忘れて業務に打ち込んでいて、気が付いたら日付が変わろうとしている頃となっていた。この頃になると客人も疎らになる。少し早いが、そろそろ店を閉めようか、と思ったその時、深まり切った夜の闇から、一人分の足音が聞こえてきた。片付けを始めようとした手を止め、ミスティアが闇へと目を凝らす。
闇からひょっこり姿を現したのは、幾度か出会ったことのある天狗であった。長い髪をリボンで二つに分けているその髪型は、二本の尾を持つ化け猫を思わせる。安っぽいパーカーを羽織っているが、とてもこの夜の冷気を防ぎ切れているようには、ミスティアには見えなかった。きっとこれしか着るものが無いのだろうと察した。
客人は無言のまま、屋台のカウンター席に腰を降ろした。
「いらっしゃいませ」
ミスティアが言ったが、返事は無かった。
この客人が酷く気落ちしていることを、ミスティアは一目で見抜いた。長い客商売の中で培われた観察眼の賜物である。しょぼしょぼとした目は、カウンターの上で組んでいる自身の手から離れることが無い。軽く『へ』の字を描いて閉じられた口元が、不機嫌を如実に表している。雑踏の中に身を投じることが嫌だから、こんな真夜中を狙い澄まして来店したのであろう。……ミスティアはここまで察した。
「ご注文は?」
ミスティアが問うと、
「お任せしてもいい?」
客人――姫海棠はたてはようやく開口した。憮然とした面持ち。おまけに口調に覇気は無い。
「畏まりました」
これは重症だ……内心苦笑いしながら、ミスティアは鰻を焼き始めた。
鰻と酒を提供されても、はたては相変わらず沈んだ表情でそれらを飲み食いした。そんな顔で自慢の鰻を食されては、ミスティアもあまりいい気分はしない。
「お疲れのようですね」
ミスティアが穏やかな口調で語りかけると、はたてが聊か驚いた様子で顔を上げた。
「そう見える?」
はたてが問い返す。
「とても」
言下にミスティアが言う。はたては苦笑を浮かべ、少し勿体ぶったため息を漏らした後、この物腰のいい夜雀の女将に対し、常日頃から感じている様々な苦労を話して聞かせた。彼女の日常には、愚痴を零すような相手や機会もあまり無かったと見えて、次々と放たれる愚痴はどこかたどたどしく、垢抜けていない節が感じられ、ミスティアは何だか微笑ましい気分になっていた。
ミスティアが傾聴の体勢に入ったのを確信した上に、酒が入った影響もあって、はたては段々と饒舌になって行った。初めは自身を卑下するような、自虐的な愚痴が多かったのに、段々と周囲の気に食わないものに当たり散らすような物言いになってきた。この傾向は、別にはたてに限ったことではなかったので、ミスティアは特に何も気にしないで、はたての愚痴を聞いて「うん」とか「ええ」とか当たり障りのない返事をしていた。こう言う場合はとにかく聴いてやることが重要なのである。
加熱して行く愚痴の中で、はたてが不意にこんなことを言った。
「あなたはいいわね。こんな立派な屋台を持って、沢山のお客さんに愛されて」
「それ程でも」
ミスティアは淡泊な口調でこう返す。はたての愚痴は止まらない。
「いいなあ、いいなあ。それに比べて私なんて。私の新聞なんて……」
言下に大きなため息を吐いて机に突っ伏し、くどくどと経を唱えるように自分の不幸を語るはたて。何を言っているのか正確に聞き取ることはできなかったが「心中お察しします」と、ミスティアはいい加減な返事をしておいた。
不幸の経を唱え終えた所でいきなり顔を上げ、コップの中に入っていた酒を呷り、一呼吸置いた所で、はたてはそう言えば……と続けた。
「あなたは料理店も営んでいるのだっけ?」
「ええ」
ミスティアが首を縦に振ると、はたてはまたも「いいなあ」と、心底羨ましそうに言う。
主に野生動物と、低級な妖怪が生活の拠点としている深い森がある。漂う瘴気に当てられた影響で、およそこの世の一部とは思えない独特の世界を形成している魔法の森とは異なる、純粋な森林である。まともな草木が生えていて、まともな花が咲いていて、新鮮な空気に包まれていて、非常に暮らしやすい。但し、人間が足を踏み入れるには少々リスキーな場所である。それでも、森に生える食用のキノコや木の実、若しくは野生動物の肉などを求めて、人間がこの森へ立ち入ることも多々ある。今、二人がいる屋台も、その森の付近に設けられている。
そんな自然な姿を今も尚保っている森の一角に、一風変わった場所がある。そこは、一帯の木と言う木が伐採されていて、広々とした円形の更地となっている。その更地のど真ん中に、木製の家屋が建てられているのである。その作りはかなり粗雑で、野性味溢れる外観となっているが、家屋としての機能は十二分に備わっている。それもその筈、この家屋は地底に住まう粗暴な鬼達が、酒に酔った状態でわいわいがやがやと作ったものである。丁寧になど出来る訳がなかったのだ。
入口の扉の前には短い階段がある。それを昇って、この家屋の唯一の出入り口である扉を開き、屋内へ入ると、まず正面に受付用の卓があり、卓の向こう側には厨房とスタッフルームを兼ねた部屋がある。
右手は壁。左手には広々とした長方形の部屋があって、そこには数個のテーブルと椅子が置かれている。
何となく想像して頂けたであろうか。この建物こそ、まさにミスティアの料理店なのである。
元来、ミスティアは『焼き鳥撲滅』を謳って、鰻と酒を提供する屋台を営んでいた。それで得た資金で、気まぐれにこんな料理店を始めたのである。勿論、この料理店でも鳥肉料理は一切提供していない。
ミスティアの料理の腕前は、浴びる程など愚か、それこそ泳げる程に酒を飲む鬼達が一番分かっていた。彼女の焼く鰻で飲んだ酒の量など、もはや測定するなど不可能である。わざわざ地底から注文をしに行く程の御執心ぶりである。客商売は信頼が重要と知っているミスティアも、愚直に大量の鰻を地底へ運んで行ったものだ。
そんな優秀な屋台の女将さんが、酔った鬼達の前で気まぐれに「料理店とかやってみたいな」とぼやいた。それを聞いた鬼達はお安い御用だと、酔った勢いをそのままにあれこれ話し合い、わらわらと地上へ繰り出し、数日で今の店舗を完成させてしまった。作って貰ったのであればやるしかあるまいと、ミスティアは細々と、この家屋で料理店を始めたのである。
「そっちの方も大繁盛なんでしょう?」
妬けた口調ではたてが問うと、
「そう思います?」
ミスティアはにっこりと微笑んでこう答えた。
「違うの?」
はたてが急に身を乗り出した。悲しきかな、幸福に囲まれて生きていそうなこの夜雀の少女の日常の中に『粗』を見出せかけたことが、はたてにささやかな勇気と喜びを与えたのである。
「違うんですよ、これが」
ミスティアは事も無げに言ってのけた。はたての表情が驚きと喜びに満ち、俄かに明るくなる。はたては何も言っていないが、その目は期待と興奮に満ちている。
「店はあるんですけどね。なかなかお客さんに来てもらえないです」
『ミスティアの住まいに近い場所に建てる』と言うのを考慮した結果、立地条件が森の中とあまりにも悪くなった所為で、集客率は非常に悪い。妖怪は金を持つ必要があまり無いので、店へ来ても飲食ができないことが多い。無駄話だけして帰って行くことなら多々ある。野生動物の偶発的来店は時々あるが、当然のことながら、そう言った客が金を払って食事をすることなど絶対に無い。余った野菜などを食べさせてやることが時々ある程度だ。それ故に商売相手は人間にならざるを得ないのだが、前述した通りこの森は人間には少々危険な土地であるので、人間の客は無に等しい。そもそも、この店の存在を知らない、若しくは、家屋の存在は知っていても何をしているのか知らない人間が多い。
「そっか、そうなんだ……。あなた程の人にも、失敗はあるものなのねえ」
ミスティアにそんな話を聞かされたはたては、感慨深げに、そして、どこか嬉しげに、腕を組んでうんうんと頷いた。ミスティアは、アハハと小さく笑った後、
「まあ、元々大繁盛なんて予想して始めたお店じゃないので、売れなくてもどうということは無いのですけど」
こう付け加えた。事実を口にしただけでであったが、はたてはこの一言を負け惜しみと捉えたようである。まだ嬉しそうに腕を組んでいる。どこか勝ち誇ったような顔をしているのは、こう言った『不幸の只中』では自分の方が数段先輩だ、と言う悲しい自尊心によるものであろう。
ミスティアも、自身が抱える『問題児』のことを思い出し、聊か辟易してしまったようである。売れなくてもどうということはないと言っても、維持費などでそれなりに金が掛かるのである。しかし、手放すには少々惜しい店舗ではあるので、なかなか踏ん切りがつかないのである。
「せめて、いろんな人にお店のことを知って貰えればいいんですけどねぇ」
洗い物をしながら、ミスティアはこんなことを言った。
ミスティアは窮乏をそれ程気にしていないであることが面白くないらしいはたては「ふーん」と、無感動に生返事をし、新たに注文した酒をちびちびとやりながら、何の気無しにミスティアの言葉を頭の中で巡らせていた。
その瞬間、不意にあることを閃いた。やけに勢いを付けて酒の入ったコップをカウンターに置く。ごつんと音がし、驚いたミスティアがはたての方を向き直した。どうしたのです――ミスティアは目でそう訴えかけた。それが通じたのか、はたはずいと身を乗り出し、甲高い声を上げた。
「ねえ、あなた、料理店の宣伝をしたいのね!?」
突拍子も無くはたてにこう問われ、ミスティアは口に手を宛がい、うーんと唸って宙を仰ぎ見て思考を巡らせた後、
「そういうことになりますね」
こう返事した。すると、はたては目をキラキラと輝かせて、
「それなら、私の新聞で宣伝してみない?」
こんな提案をした。ミスティアは「はあ」と、理解できているような、できていないような曖昧な返事を、小首を傾げながら漏らした。はたての目にその仕草は、唐突に示したこの提案の詳細の説明を促しているように見えたので、はたてはくどくどと説明を始めた。仮にミスティアにそんな気が無いように見えたとしても、酔って気分が大きくなっている今のはたてであれば、この突然降って来たアイデアを語り出していたことであろう。
「私の新聞の一部で、あなたの料理店を宣伝するの。あなたは、私の新聞の一部を使うのに相応しい広告料を支払う。こうすれば、あなたは料理店のことを私の新聞を通して多くの人に知って貰える。私はあなたから支払われる広告料で、より良質な新聞を書くことができると言う訳よ。どう? 私にもあなたにも損は無いと思わない?」
したり顔のはたて。ミスティアはまたも顎に手をやって宙を見やっている。どうやら思慮を巡らせている様子である。しばらくそうやって虚空を眺めていたが、ふと思い付いたようにこう問うた。
「あなたの新聞の知名度がとても気になるのですが」
なるほど、尤もな質問だ――はたては胸中で唸った。
はたては先程、ミスティアに対して「あなたにも私にも損は無い」と説明したが、腹の底ではこうは思っていない。彼女の書く新聞はそれ程大した知名度を有していない。新聞大会で上位に食い込んでいくような優良な新聞であれば、目にして貰える機会も多いであろうが、残念ながらはたての書く新聞は、下から数えた方が早く見つかる位置にある弱小な不人気新聞である。そんな新聞に広告を載せる為に金を払うなど、ドブに金を捨てるようなものである。不本意ではあるがこのことは、新聞を書いている張本人たるはたてが一番よく分かっている。
しかし、この度契約を持ちかけた相手は夜雀だ。種族としては、天狗と比べて力も知力も劣る。恐らく外界の繁栄ぶりなんかには無頓着であろうから、少し進歩した駆け引きやら戦略やらの概念さえ頭に無い可能性が高い。おまけに妖怪の山からは程遠い森に住んでいるから、新聞大会の結果なんてものは愚か、そう言った大会の存在など知らないであろう。もしかしたら、この屋台へ飲みにくる天狗達が、新聞大会のことをぽろりと漏らしていることもあるかもしれないが、夜雀の記憶能力の低さはあまりにも有名である。それならば、自分の書く新聞『花果子年報』が、現在どのような立ち位置にあるかどうかも、この夜雀は知らない筈。知ってもすぐに忘れてくれる――はたてはこう考えた。
『こいつなら騙し通せるかもしれない。損を隠して金をふんだくれるかもしれない』
売れない新聞記者の生活の困窮ぶりは相当なものだ。残念なことだが、情熱や野心だけでは飯は食ってはいけないのである。売れっ子になれば助成金なんかも工面して貰えることがあるが、散々説明して来た通り、彼女にそんな力は無い。技術的な面でも劣る上に、金銭的にも不利とくれば、新聞大会の上位に食い込んでいける新聞を作るなど夢のまた夢である。しかし、金銭的な不利を取っ払うことができる可能性に、今、はたては巡り会っているのである。同業者のいないニッチな業種で、駆け引きや競争を知らずに過ごして来た、世間知らずな妖怪の経営者――絵に描いたような、絶好のカモである。
不人気の新聞に広告など出しても損だと分かれば誰も契約など結んでくれないであろうし、後から気付かれてしまえば早々に契約を打ち切られてしまうであろう。しかし、この夜雀は、そう言った駆け引きなんかには疎そうだと、はたては見た。
広告欄を作れば、新聞を書くスペースは狭まる。好きなことを書けなくなるかもしれない。だが、そうすることで、広告費と言うそれなりの『副収入』が得られるのは、貧乏記者のはたてにはあまりにも大きいメリットである。
少々懐疑的な眼差しこちらを見ているミスティアに対し、はたては胸をトンと叩いて見せた。
「そこは安心して貰って大丈夫。それなりに新聞は書き続けて来たわ。それに私、仲間内の新聞大会のランキングに入っているのよ」
下から数えた方が早いような順位だけど――この事実は脳裏に過らせることすらしなかった。
はたてにそう言われても、まだミスティアは迷いあぐねているような面持ちであった。ここではたては自分の強みである、豊かな語彙と美しく巧みな文章構成力を駆使し、ミスティアを言葉巧みに説得した。そんじょそこらの妖怪にはおよそ理解できないであろう語なんかも時々交えたこの説得は、どこか詐欺的な色をちらつかせている。
はたての熱の籠った説得が終わると、ミスティアはうーんと唸った後、
「……まあ、お互いに得するのなら、いいかもしれないですね」
穏やかな笑みを称えてこう漏らした。はたての瞳の輝きが増す。
「じゃあ、契約成立ってこと!?」
身を乗り出したはたてに、ミスティアはこくりと頷いて見せた。
「ええ。よろしくお願いします」
良い返事を貰えたはたては、羞恥も厭わぬ様子で、子どものように無邪気に飛んで跳ねて、少しばかり黒い喜びを体現した。ミスティアはそれを見て、穏やかな笑みを湛えるばかりであった。
はたては「感謝の印に」と言ってもう一杯酒を頼んだ。それをあっと言う間に呷ると、中身の侘しい蝦蟇口から代金を支払い、明日、新聞に載せる為の写真を撮りに店に訪問すると言う旨を、ミスティアに告げた。ミスティアもこれを了解した。段取りが済んだ所で、はたては屋台を後にした。
太陽の光に満ち溢れるにはまだまだ遠い時間である。暖かな光を持たない夜の闇に覆われた帰り道は、身を切るような寒気を湛えている。しかし、はたての脚は、翼は、それはそれはよく動いた。ぴゅうぴゅうと音を立てながら吹き付ける冷風さえ、まさにどこ吹く風と言った具合であった。陰鬱極まりない始まり方をした今日と言う一日を忘れる為に訪れた酒屋であったが、思わぬ収穫を手に入れたと、はたてはこの上なく上機嫌であった。
翌日、はたては昨日とは打って変わって、至極まともな時間に目を覚ました。明らかに寝不足な上に、若干二日酔いの気まである、かなり辛い朝であった。しかし頭は、そして体は、自分で驚いてしまう程によく動いた。忙しなく身なりを整え、昨日より少し高価な防寒具を身に纏うと、すぐに外へ出た。
相変わらず外は厳しい寒さに見舞われている。山は特に寒気が激しい。昨晩よりはまともな防寒具を羽織っているにも関わらず、相変わらず身を切るような寒さを感じ、はたては身を振るわせた。
もうちょっと着込もうか……等と、住まいの前で思案していると、
「あら、はたて? こんな時間からお出掛けですか?」
不意に横から声を掛けられた。はたてがそちらに目をやると、見知った鴉天狗が、随分暖かそうな格好で自分の方へ向かって歩いて来るのが見えた。
「文」
射命丸文――はたてと同じ、新聞記者である。同業者ではあるが、はたてとは『タイプ』が異なる。必要以上に動かないで効率的にネタを探している――と自負している――はたてに対して、文はとにかく幻想郷中を飛び回ってスクープを見つけ出す行動派である。どちらがいいとは一概には言えないが、とりあえず記者としての腕は文の方が数段上である。
「こんなに寒い日にあなたが動くなんて、珍しいですね。もしや大事件が?」
「違うわ。ちょっとした野暮用よ」
広告の為の取材へ行く、と言うのは、今は伏せておいた。いずれ知られることであるから、言う必要も無いと思えた。
文もそれ以上はたてに言及することは無く、代わりにからからと笑って、こんなことを言う。
「あんまりぼやぼやしていると、また新聞大会、残念な結果になりますよ?」
これを聞いて、はたては聊か憤慨した。
「また、とは失礼ね! ちょっと今回は調子が悪かっただけよ!」
はたてはムキになって言い返したのだが、
「そうですか、そうですか」
文には暖簾に腕押しである。
軽い冗談を兼ねて発破をかけたつもりであったのだが、文の意に反して、はたてはすっかり機嫌を悪くしてしまった。申し訳無さを感じた文は、
「最近、妖怪や妖精がいなくなる事例が増えているらしいんですよねえ。はたて、外出の際は十分気を付けて」
自分が調査してみている事件をそれとなくちらつかせて、罪滅ぼしとした。
しかし、はたての機嫌はそう簡単には直らなかった。苛々を募らせたまま、昨日ミスティアに教えて貰った、森の中にある彼女の料理店を目指して、山を後にした。
昨晩訪れた屋台の背後に鬱蒼と広がっていた森の奥に、ミスティアの料理店はある。屋台の合った場所に、はたては降り立った。ミスティアが立地の悪さのことを言っていたことを思い出し、人間気分で歩いて店へ行ってみようと決めたのである。
ほんの数時間前に訪れていた森であったが、陽光に照らされ、青々と生い茂る樹木や草花が明るみに出てみると、さんざめく生命力が視覚にやかましく感じられて、全く別の場所であるような印象をはたてに与えてきた。
しかし、いざ森の中へ踏み入ってみると、ひしめき合う木の葉の作り出す日陰の影響で終始鬱蒼としていた。その上、地面は所々ぬかるんでいる所為で靴は湿るし、霜の降りた草花は容赦なく衣服を濡らしてくる。
ようやくミスティアの料理店を見つけた頃には、服も靴もすっかり湿り切っていて、只でさえ厳しい寒さが余計に増長されており、店舗への到着の喜びと感動が薄まり切ってしまった。
歯の奥をがちがちと言わせながら短い階段を上り、扉を開いて入店する。扉に付けられたみかん程の大きさの鈴がりぃんと澄んだ音を奏でる。
店の中は木の香りに満ちていて、獣道を通って来たはたては、聊か心が安らいだ。……が、それも『初めての来店』が齎したほんの僅かな感動であった。数秒後には「どうせ店を出たって周りは森なのだから木の香りなんて間に合っているじゃないか」と、はたては心中で毒づいた。
右手には壁。正面は清算所があり、その奥には白色のレースの帳が掛けてある通用口がある。スタッフルームか何かであろうとはたては察した。左手には客室があり、沢山のテーブルと椅子が置かれている。その椅子の一つに妖怪が座っていて、はたての方を向いている。扉の開閉時に鳴った鈴の音で、人の来訪に気付いたのであろう。テーブルの上には大きめの皿。先程までトーストが置かれていたと見えて、皿の上には大量のパンの屑が散乱している。皿の傍にはコーヒーカップがあるが、中にはぬるくなったココアが入れてある。
はたてはしばし唖然として、その客室と、客席に座っている妖怪――ミスティア・ローレライを見やっていた。ミスティアは昨晩会っている時と何も変わっていないので何も驚くべきことはない。彼女が驚いているのは、彼女を取り巻いている環境である。ミスティアは確かに昨日、料理店の方は大して流行っていないと言っていたが、店の閑散具合が想像以上であり、はたては思わず立ち尽くしてしまったのである。
ミスティアは、そんなはたての心情を察したように、穏やかな笑みを浮かべ、
「おはようございます。ね? 言った通り、ガラガラでしょう」
こんな自虐を含んだ挨拶をした。
「いや、そんな」
はたては即座にこう答えたが、思わず声を上ずらせてしまった。あまりの閑散具合に驚いているなどと言うことは心の内に隠しておくべきであろうに、その動揺を表に出してしまい、聊かはたては焦った。しかし、ミスティアは嫌な顔一つしない。相変わらず穏やかに笑っている。
「今日は特に酷い。人っ子一人……人の方が稀か。妖怪っ子一人も来やしませんわ」
そう言った後、ミスティアはココアを一気に飲み干して、皿とカップを持って席を立った。
「こちらへどうぞ」
そう言い、はたてがスタッフルームと認識した部屋へ入って行くミスティア。誘いを受けたはたては「失礼します」と小声で添えて、ミスティアを追ってレースの帳を潜った。
その部屋は厨房であった。
帳を潜り切った地点に立って厨房を見渡すと、横に広い長方形であることが分かる。
部屋の真ん中には、無骨で大きなスチール製の大きな台。収納機能も有しているようで、幾つもの扉が備えてある。機能性は高いが、洒落っ気は微塵にも無く、まさに調理用と言った感じの台である。
横の壁には棚が掛けてあって、鍋やフライパン、まな板に包丁等、雑多な調理器具が所狭しと並べられている。
奥には水道やガスレンジ、冷蔵庫が設えてある。電気やガスに水なんかを、どうやって供給しているのか、はたてにはさっぱり分からなかった。
境界線を越えて、厨房へ踏み入って、部屋を見回す。水道などとは反対側――即ち、入口側の壁際には、所々錆付いたり、塗装が剥がれ落ちたりしている、年季の入った鼠色のロッカーが置かれている。「どうして厨房にこんなものが」と、はたてが訝しげな眼差しをロッカーに送っていると、
「これの中にはエプロンなどを入れているんです」
と、ミスティアがロッカーを開けて中を見せてくれた。この厨房は、スタッフルームを兼ねた空間となっているのである。
ロッカーの中にはシンプルな白色のものや、デニムでできた濃紺のものなど、様々なエプロンが入っているのだが、ロッカーがそんな有様なものだから、愛嬌は著しく減じられている。
壁はタイルだが、床と天井は灰色の石質。床には金属製で網目状の溝蓋が丁寧に奔っていることから、排水溝があることが分かる。天井には裸電球がぶら下がっているが、それでも部屋は暗々としていて、おまけに四方八方が石でできているものだから、温もりなんてものとは無縁で、非常に寒々しい。この店へ来る道すがら、すっかり濡れてしまったはたてには少々厳しいものがあった。
思わずはたてが身を震わせた。この震えは言わずもがな、低い体感温度が齎したものであるが、そればかりが原因だとは言い切れない。外観や客室は木で出来ていてなかなか洒落ていたと言うのに、どう言った訳か厨房だけが、どこか陰鬱な気分を呼び寄せる造りになっている。レースの白い帳を潜っただけであるのに、まるで別世界に迷い込んでしまったかのような明暗の急転ぶりに、はたては薄気味悪さを覚えてしまっていたのである。
「厨房は、なんだか暗いのね……」
思わずはたてはこう呟いてしまった。それを聞いたミスティアは、くすりと笑った。
「いろんな事情があって、こうなったのですよ」
「事情って?」
何の気無しにはたてが問うたが、
「それは秘密です」
ミスティアは笑みを保ったままこうあしらった。きっと金銭的な問題で、こういう簡素で機能的な作りにせざるを得なかったのであろうとはたては自己解決し、それ以上このことについて言及しなかった。
真ん中の台の傍にパイプ椅子を開いて置き、ミスティアははたてにそれを勧めた。勧められるがまま、はたてはその椅子に座り、次いで出された茶で喉を潤し、冷えた体を温めた。その後、携えて来た肩掛け鞄から自作の『契約書』なるものを取り出し、ミスティアに署名を促した。後々、「契約なんてしていない」などと白を切られる等の面倒事が起きた時の為に、一応作っておいたのである。妖怪相手の商売だから、はたても一応警戒しているのである。しかし、果たしてこの契約書がどれほどの効力を持っているのかは定かではない。ミスティアは契約内容を確認すると、それに署名した。簡素な礼を言いながら、はたてはその契約書を大事に封筒に仕舞い込み、鞄に入れた。
「さて。それじゃあ、新聞に載せる為の写真を撮って……それから、このお店のPRをお願いできるかしら」
そう言いながらはたては、横線で区切られている紙とペンを取り出し、紙の余白に『PR』と記すと、ミスティアの前に差し出した。
しかし、
「ぴーあーる?」
ミスティアは首を傾げた。意味が分かっていないのである。はたては少し言い淀んだ後、
「このお店のいい所とか、売り文句とか……そういうものを考えて欲しいの」
「ああ、なるほど」
ミスティアは何度も頷きながら、ペンを手にとり、虚空を眺めて思案を始めた。どうやら、考え事をすると宙を仰ぎ見る癖があるようである。
「私、ここでコレを考えておきます。はたてさんは、お好きに写真を撮っていてください」
「そう。じゃあ、そうするわ」
はたてはそう言うと席を立った。去り際、
「撮らないでほしいものとか、そういうものは?」
こう問うと、ミスティアは少し考えた後、ピッと、ある一点を指差した。指先にあるのは、大きな冷蔵庫。
「冷蔵庫の中は見ないで欲しいです」
思ってもいなかった場所を指定されたはたては、
「普通は見ないわよ、そんな所……」
思わずこうぼやいた。ミスティアはアハハと小さく笑い、頭を掻いた。
ミスティアを厨房に残し、はたては新聞に使えそうな写真を撮った。客室と外観が主な写真となった。あらかた写真を撮り終えた後、実際にミスティアが作った料理の写真も撮るべきかと思い、それを願い出に厨房へ戻った。
厨房に戻ってみると、ミスティアはまだ難しい顔をしたまま、紙を睨んでいた。
「書けた?」
はたてが問うと、ミスティアはぱっと顔を上げ、はいともいいえとも受け止められる、曖昧な表情を見せた。
「一応、書けたと言えば、書けたのでしょうか」
言葉の上でまで曖昧である。はたてはミスティアの傍に歩み寄り、紙を覗き込んだ。灯りが少ない暗い部屋だが、裸電球の直下であるので、書かれた字を読むことは容易であった。
お世辞にも上手とは言えない字で、いろんなことが書いてあった。総合すると、『他では絶対に味わえない』と言う点を強調していることが分かった。随分と強気な姿勢だなとはたては思ったが、自分勝手な輩の多い妖怪ならばおよそこんなものかと割り切った。
屋台の鰻が非常に美味であることははたても知っているが、料理の腕がどの程度かははたても知らない。それを知る必要性と言う上でも、やはり一度、ミスティアの料理を味わっておくべきだとはたては考えた。誇大広告は非難の原因になる。そればかりは絶対に御免であった。
「料理は得意……よね?」
一応、はたては問うておいた。
「当たり前じゃないですか」
聊か憤然しているようなミスティアの声。
「それじゃあ、料理の写真を撮りたいから、料理を作って貰えるかしら?」
「いいですけど、お代は払って貰いますよ?」
「バカにしているの? そのつもりよ。朝食もまだだし」
今度ははたてが憤る番となった。
それでは、とミスティアは椅子から立ち上がり、パイプ椅子を畳んで壁に立てかけると、ロッカーからデニムのエプロンを取り出した。器用にエプロンを着用しながら、はたてに言う。
「すみません、厨房から出て貰えますか?」
「何故?」
はたてが言下に聞き返す。
「調理風景を真似されたくないものですから……あれです、企業秘密と言うことで」
ミスティアは穏やかな口調で説明した。が、はたては少し不愉快そうに顔を顰めた。
「これから契約する関係なのに? 調理風景だって広告には使えるし……」
「守れないのであれば」
ミスティアがはたての言葉を遮った。夜雀如きに発言権を中途移譲するなど、天狗にはあるまじき行為であるように感じられる。だが、今のミスティアのぞっとする程冷淡な口調は、尋常でない威圧感と不気味さが含まれていた。まるで口が凍り付いて二の句を告げなくなってしまったかのように、はたては言葉を失ってしまった。
「今回のお話は無かったことにして頂きます」
「な……!」
なんて横暴な――! 俄かに生じた怒りの炎が、口を閉ざした氷を溶かした。食って掛かろうとしたはたてであったが、またも思わず口を噤んでしまった。ミスティアの冷然たる眼差しと、平行に閉ざされた口。それが織り成す無感動な面持ち。これが、これ以上の口答えを許さなかった。今度は本能的な問題であった。これ以上、問題を大きくするべきではないと、はたては直観的に察した。
「わ、分かったわよ」
止むを得ずはたてが折れると、ミスティアの表情が綻んだ。
「では、客席でお待ち下さい。完成しましたら持って行きますから。サンドイッチはお好きですか?」
「ええ。待ってるわ」
はたては頷き、そそくさと厨房を後にした。
あれ程頑なに厨房へ残ることを拒否されるとは思わず、はたては料理を待っている間、釈然としない気分であった。職人とはああいう堅物ばかりなのかしら、などと言った思慮を巡らせていた。
しかし、程無くして提供されたサンドイッチを堪能してからは、そう言った不愉快は全部吹き飛んでしまった。所謂カツサンドと呼ばれるものであったのだが、なるほど、『他では絶対に味わえない』とは言ったものだと、先程までの憤然たる思いはどこへやら、はたては完全にミスティアの料理の腕に魅了されていた。久しぶりに食したまともな朝食があまりにも高品質であったものだから、明日からまたいつもの不味い朝食へ戻らねばならないのが、とても億劫に感じられた。
少々値は張ったが、それでもはたては満足であった。それ程、ミスティアの作ったサンドイッチは美味であったのである。
「御馳走様」
はたてが軽く頭を下げて言うと、
「お粗末様でした」
ミスティアは満足げな笑みを浮かべ、深々と礼を返した。
「それじゃあ、広告の方は私に任せて。新聞が完成したら、広告料を徴収にくるから。金額は、契約書に記した通りね」
「分かりました。がんばってください」
ミスティアの声援にはたては軽く手を上げることで応えると、くるりと方向を変えて帰って行った。その姿が完全に見えなくなるまで、ミスティアは店先に立ってはたてを見送った。
見送りが済むと、ミスティアは大きく息を吐いた後、小走りに厨房へ向かった。水道の上部に掛けてある布巾を手に取り、水で濡らす。よく水を絞って落とすと、上機嫌そうに口笛を吹きながら、部屋の真ん中に置かれた銀色のスチール製の台に向かった。そして、台の上に散布されている夥しい量の血を、口笛をそのままに丁寧に拭き取り始めた。上手く拭き取れずに薄く伸びた真紅の鮮血は、銀一色のけばけばしい台に、グロテスクで妖しい輝きを齎す。
時間を掛けて血を拭き取り終えると、布巾を洗い、壁に掛けた。点々と赤色を得た布巾をまじまじと見やり、「捨てるべきかなあ」とぼやいたが、結局そのままにして、ミスティアは水道を離れた。
次に向かったのは冷蔵庫である。これまた無骨な作りになっていて、取っ手の黒色意外は全部銀色となっている。その取っ手の黒色の塗装も所々禿げていて白色になっているので、その年季の入り様が尋常でないことが窺える。
その草臥れた取っ手に手をやり、少し開きの悪くなった扉を開け放つ。冷蔵庫内の明りが漏れて、暗々しい部屋が俄かに薄明るくなった。同時に庫内の冷気も容赦なくミスティアにぶつかって来た。季節は冬。おまけに石と鉄に包囲されている寒々しい作りの部屋である。ミスティアもこの冷気には耐え兼ねて、ぶるりと身を震わせた。
冷蔵庫内を改め、ミスティアは顔を顰めた。
「さすがに、そろそろ足りなくなるかな」
物憂げにそう言うと、冷蔵庫の扉を閉めた。ポケットに入れられているビン類が、がしゃんと音を立てた。薄明かりが失われ、部屋はまた陰鬱な暗がりを取り戻した。
*
山内にある新聞の印刷を行える一角から、姫海棠はたてが姿を現した。その腕の中には大量の新聞。全てはたてが新しく作ったものである。
はたては一度印刷所を振り返って、フンとどこか憎々しげに鼻を鳴らした。印刷する枚数や新聞の内容確認の係を担当していた白狼天狗の態度が気に食わなかったのである。
今度の新聞の一面を飾ったのは、山の麓の樹海で起こった、厄神と妖精集団の一悶着である。血で血を洗うような凄惨で重大な事件ではない上に、何とも間抜けで微笑ましい出来事であり、記事にしやすかったので、この事件とも言えぬ事件を選んだ。
一応、新聞にも査定が存在する。合否は係の天狗に一任されているので、基本的には無いに等しいが、形式上は査定が行われている。
同じような新聞を何枚も見ることになる天狗は、それはそれは退屈そうにはたての新聞を流し読みしていたが、新聞の右側の下部でピタリと目が止まった。次いで何やら怪しげに眼を細め、挙句の果てには、訝しげな面持ちではたての顔を覗き込んでくる有様だ。
何故そのような顔をされてしまったのか――新聞の製作者たるはたてはすぐに理解できた。印刷係の天狗が目を止めたのは、新設した広告欄に間違い無かった。
他人の商売を宣伝している新聞など、一度だって作られたことが無かったのだ。新聞とは、『幻想郷で起きたいろんな出来事を読者に伝えるもの』と言うのが常識である。だから、広告付きの新聞などと言う物は間違いなく非常識であり、おかしなものとして天狗の目に映ったのである。
しかし、内容としては全く問題が無いので、印刷を断ることは無かった。無かったのだが、
「あの、この内容で本当によろしいのですか?」
憐憫たる口調でこんなことを問われてしまった。
自作の新聞を、完成する前から遠回しに扱き下ろされたような気がしたはたては、憤然たる思いを隠そうともせず、
「いいわよ! 何か問題でもあるって言うの!?」
金切り声を上げた。白狼天狗と言う種は、天狗の中では下っ端だ。位の高い鴉天狗を怒らせては後々面倒だと、しどろもどろになりながらはたての言葉を否定し、軽い謝辞を述べ、印刷を行った。はたてはそれを乱暴な手つきで受け取り、頬を膨らませながら印刷所を後にした――と言うのが事の次第である。
何はともあれ、今までにない全く新しい新聞を作り上げたはたては、先ずは完成報告をと、ミスティアの料理店に足を運んだ。
相変わらず閑静で賑わいの無い料理店。それでいて、扉に供えられている鈴は、開閉の度に非常に澄んだいい音を奏でるものだから、暗溶していくその音の空しさが際立ってしまう。
店内では、乱立する樹木の葉擦れの音さえ聞こえなくなる為、静寂はいよいよ深いものとなる。人々の笑い声が響く筈の施設が、闃寂の世界を作り上げている。そのギャップに聊か薄気味悪さを感じ、思わずはたては息を潜めてしまった程だ。
「ミスティア、いる? 私よ。はたて。新聞、できたんだけど」
はたてが声を張ってみる。
しばらくして、厨房兼スタッフルームからがちゃがちゃと金属音が聞こえた。調理器具の手入れでもしているのかな……等と考えながら、はたては扉を潜った地点に突っ立って、そちらを見やっていた。しばらくすると音が止み、程無くして白いレースの帳を潜って、ミスティアが姿を現した。クリーム色を基調とした地味なエプロンを着用している。
「どうも、こんにちは」
「ええ。こんにちは。新聞、できたよ」
はたてが持ってきた新聞を掲げて見せる。ミスティアは「わぁ」と感嘆の声を上げ、パンと音を鳴らしながら、胸の前で手を合わせた。
「昼食は食べましたか?」
ミスティアが問う。はたては首を横に振った。
「まだ。ここで食べようと思って」
「それはありがたいことです」
ミスティアは客席の一か所をはたてに勧め、彼女もそれに従って席に座った。
メニューの小さな冊子を開いて、ミートソーススパゲティとコーヒーを注文した。横に記されている値段は、はたての寒々しい蝦蟇口に少々無理を強いることとなるであろうが、どうせ広告費と言う副収入が得られるのだから……と、割り切った。それ程にはたては、この店の食事の味が気になっているのである。
相変わらずミスティアは、厨房には入って来るなと念を押した。天狗と言う生き物を――否、新聞記者と言う者を、信頼し切っていない様子が見受けられる。天狗達の傍若無人な態度が裏目に出た瞬間と言える。
メニューに目を通したり、はたての能力である念写を使って暇を潰したりしていたら、待ち時間はあっと言う間であった。少女一人が食べるには少々多い印象を受ける、小山のようなスパゲティが運ばれてきた。はたては目を点にして小山を見やり、次いでミスティアを見やる。『ちょっと多くない?』瞳で訴えかけたが、ミスティアは穏やかに笑って、
「コーヒーは食後にお持ちしますね。では、ごゆっくりどうぞ」
こう言った切り、厨房へと引っ込んでしまった。はたての無言の叫びが伝わっていたかどうかは分からない。しかし、ミスティアが何と答えても、はたての心情に変化は無かったことであろう。元々小食の気があるはたてには、目の前に置かれたスパゲティはあまりにも過量である。だが、出されたからには食べ切らなくてはいけないと、はたては健気な想いを込めて決意を固め、この麺の小山を崩しに掛かった。
食べ始める前は絶望と苦難が付き纏う長い戦いになるであろうと思っていたのだが、始まってみると段々とそれが勘違いであったことに気付く。正確には、量が多いのは事実であり、そう容易に食べ切ることはできないのだが、それを苦としない味付けが施されている――つまり、食べること自体が苦にならないのである。はたて自身が信じられない程に、食事は滞ること無く進んだ。
呆気無く崩れた麺の山。過量な麺が全て胃に収まり、はたての腹は不自然に膨らんでいる。腹ははち切れそうで苦しかったが、それを加味しても、このスパゲティを賞味できたことが幸せで、それでいて誇らしくもあった。こんなに美味しいものを、みんな知らないで生きているなんて――そんな気分であった。
絶品の余韻に浸っていると、ミスティアが厨房から姿を現した。
「あら、もう食べ切っちゃったのですか?」
目を丸くするミスティア。はたては軽く手を上げて応えた。
「では、コーヒーを用意しますね」
そう言うと、再びミスティアは厨房へ再び戻って行き、程無くしてコーヒーを持ってやって来た。コーヒーについては、これと言った感動は芽生えない、普通のコーヒーであった。
コーヒーを啜りながら、はたてが完成した新聞を一部、ミスティアに手渡した。ミスティアは、ここへはたてが来てすぐに上げた時と同じような感嘆の声を上げ、黙々と新聞を見始めた。目の動きから、記事にはこれっぽっちも興味が無く、自分の店の広告ばかりを気にしているのが窺える。ちゃんと私が書いた記事も読んで欲しい、とは思ったが、腹の中が麺に侵食されているお陰で、口を開くのが大義であったし、新聞の楽しみ方は人それぞれだとはたては認識しているので、口出しすることはなかった。
忙しく動き回っていたミスティアの目が、ある一角でピタリと止まった。件のいけ好かない印刷係の白狼天狗とほぼ同じ目線である。直後、ミスティアがどこか照れ臭そうに顔をにやけさせた。喜びを隠し切れていない様子である。
はたてには申し訳無い話であるが、ミスティアは新聞と言うメディアに全く興味が無い。長ったらしい文字の羅列など読みたいとも思わない。彼女にとって新聞などと言うものは本来、少しの面白味も感じないし、興味も生じない、不毛の大地なのだ。そんな退屈な紙上にぽつねんと置かれた、自店の広告――それは彼女にとっては、まるで、殺風景な不毛の大地に咲いた、一輪限りの可憐な花を思わせるのである。喜びは一入なのだ。あまりにもミスティアが嬉しそうなものだから、はたてまで釣られて笑んでしまう有様であった。
「私、こんなこと書いていましたっけ?」
突如としてミスティアが質疑を投げかけた。
「え? ……ああ」
ミスティアの急な質問の意味がすぐに分からず、はたては一瞬ぽかんとして思慮を巡らせていたが、ややあって質問の意味を理解し、おもむろに開口した。
「PRのことね? あなたが書いてくれたことを私なりに纏めて、私が書かせて貰ったわ。こちらの都合で。申し訳無かったわね」
はたてが軽い謝辞を含めた説明を加える。詳細については『こちらの都合』と茶を濁しているが、実際のことを言うと、ミスティアに書いて貰ったPRの数々は、広告に使うにはあまりにも稚拙であったので、はたてが代わりに彼女の意図を汲んで考え、書いたのである。隠し立てせずに事の次第を説明すると、相手の気分を害しかねないと判断し、はたてはそれを黙っていたが、ミスティアがそれに言及することはなく、素直に了承した。嫌な顔一つしないで、心底嬉しそうに広告を眺めている。
「広告の大きさなんかに意見は無い?」
はたてが問うと、ミスティアはぶんぶんと頭を振った。
「いえいえ、そんなこと。ある筈が無いじゃないですか」
「それじゃあ、こう言う形で広告を掲載していくわ。今月末に広告料を取りに来るからね」
「分かりました」
はたては一気にコーヒーを飲み切って、蝦蟇口から食事の代金を取り出して、ミスティアに手渡すと、容量を遥かに超えた量の食物が入って膨らんだ腹を苦しげに摩りながら、店を後にした。
りぃん、りぃんと、澄み切った鈴の音が鳴り響き、暗溶していく。再び元来の静寂を取り戻したひと気の無い料理店の中で、ミスティアはもう一度、自身の店の広告を見やり、一人で小さな笑い声を上げた。
翌日、妖怪の山は小さなどよめきに包まれていた。姫海棠はたてにとってそのどよめきに囲まれて過ごすのはあまりにも居心地が悪く、不愉快であったので、目覚めて三十分も経たない内に、彼女は逃げるように山を出た。
何となく察しがつくであろう。姫海棠はたての作った前人未到の『広告付き新聞』が、遂に発刊され、販売された。この全く新しい新聞の是非を、天狗達が三々五々議論しているのである。
ほとんど全員が否定的である。と言うのも、天狗の新聞記者達は、とかく真新しい手法を取り入れたり、一人出しゃばった真似をしたりすることを嫌い、封殺しようとするのである。歳を重ねた者程、その傾向が強い。今までやってきた手法が通用しなくなるのが嫌なのであろう。とかく、誰もが変化を嫌う。おまけに、それを実行したのが若造のはたてであったものだから、余計に始末が悪い。
「新聞とは情報を提供するものであり、他者の商いを宣伝する媒体ではない。その新聞の主成分たる情報を記す部分を割いてまで他人の商いを宣伝するなど、新聞記者の風上にも置けない。ましてや、それで広告料などと言うものをふんだくり、私腹を肥やすとは言語道断。新聞の品位を著しく貶める行為である」……新聞記者の古株はこう激憤する。
年若い記者の天狗達は上の年代の天狗の言うそれに逆らう訳にはいかないし、それ以上に新聞大会で下位にどうにか名を乗せるようなはたて如きに出し抜かれたことが悔しくて堪らないので、こうやって足並みを揃えてはたてを非難しているのである。
騒ぎを聞き付けた、剣と盾を携えて哨戒任務に当たっている白狼天狗の少女が「元々お前達の新聞に品位もへったくれもあったものか」と、誰にも聞こえないような声で、同僚の天狗とぼやいていた。この少女の意見は尤もである。実のところ十中八九の者がそう思っているし、はたての斬新な手口に衝撃を受けている。だからこそ先駆者となれなかったことが悔しくて堪らないのである。
以前も記したが、『崇高で健全なジャーナリスト精神を貫き通して新聞を書いている者など滅多にいない』のである。紙面に書かれるのはゴシップの気の強い記事ばかりで、その親しみやすさこそが天狗の新聞の売りと言える。こんな時ばかりさもまともな新聞を書いている、と主張するのは少々卑怯である。だが、こういった状況では数の暴力が猛威を振るう。たちまちはたては悪者扱いされてしまった。
さて、作った新聞を持って山を飛び出した、戦犯たる姫海棠はたては、これからこの問題の新聞を売って回ろうと思っていた。寄って集って口汚く非難されてしまったものの、はたては折れるどころか、寧ろ燃えていた。ここで私が新聞の常識を覆してやるのだと、使命感染みた思いさえ抱いていた。不安が無い訳ではない。多くの敵を作ってしまうことであろう。しかし、新聞大会上位入賞と言う長らく追い続けて来た夢が、ほんのすぐ傍までやって来ていることを実感していた。
「この機を逃す訳にはいかない……」
はたてはそう口に出すことで、自身を奮い立たせた。大量の新聞を入れた肩掛け鞄の紐をぎゅっと握り締め、新聞を売るべく人里へ向かった。空に点々と浮かぶ黒雲は、どこか不穏な空気を孕んでいるような印象を与えた。
その日から、はたては連日、自身の新聞である『花果子念報』を売り歩いて回った。目にものを見せてやる――鏡中でめらめらと燃え滾る怨恨と自尊の炎が、彼女を突き動かしていた。
ミスティアの料理店が新聞に広告を出しておよそ一月が過ぎた日、幻想郷は空に雲一つ無い快晴であった。そこで燦々と輝く太陽が惜しみなく陽光を送り届けているお陰で、この日の幻想郷は、どこか落ち着くことができない程の明るさに包まれている。それ程に明るい今日であるが、冬の寒気はまだ幻想郷に居座り続ける様子で、快晴の元であっても酷く冷え込んでいる。無駄を一切省いた清々し過ぎる青空が、寧ろ寒々しくも見える。
「こんなに晴れてるのに、すごく寒いね」
テーブルを拭いているミスティア・ローレライに向けられた幼い声。ミスティアは振り返って頷いた。
「まだ冬は終わりそうに無いですね」
こう返すと、声を掛けた妖精は口を尖らせて、この容赦の無い寒気にあれこれと文句を言っていた。粗方愚痴った所で、ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲み切って席を立ち、ポケットに入れていたなけなしの小遣いをミスティアに手渡した。
「確かに受け取りました」
ミスティアが言うと、妖精は「御馳走様」と元気に言い残し、森の奥の料理店を後にした。
あまりこの料理店へ来ないタイプの客人であったことから、ミスティアはふと広告のことを思い出し、それに関連して、そろそろはたてが広告料の徴収に訪れる頃合いであろうと考えた。
そう思うや否や、出入り口の鈴が揺れた。溶け切っていない砂糖の粒が底の方に溜まっているコーヒーカップをトレイに乗せようとしていたミスティアは、鈴の音を聞き、反射的に出入り口を見た。現れた客人は見知った人物であった。
「おはようございます、はたてさん」
ミスティアは愛想良く返事をしたのだが、はたての方はと言うと、とにかく沈み切った表情である。放たれた「おはよう」は、覇気も張りも無く、この寂々たる店内であるから聞こえたと言っても過言でないような声であった。ここから一歩外に出れば、葉擦れの音に掻き消されていたことであろう。
また、新たな苦難にぶち当たったのであろうか、などとミスティアは考えながら、
「何かお飲み物でも?」
こう問うた。はたては相変わらず、病に冒された老体が放つような声色で「紅茶」とぶっきらぼうに告げると、とぼとぼと歩いて、最寄りの客席に崩れ落ちるように腰を降ろし、ため息を吐いた後、黙りこくってしまった。とにかく、胸中の悲しみや苦しみを体現化したくて堪らない、と言った様子である。演技染みた印象さえ受ける。
早急に厨房へ向かい、紅茶を用意する。ついでに、ロッカーに入れておいた広告料を入れた小さな巾着袋を取り出して厨房を出る。紅茶をはたての前へそっと置いて、次いで彼女の向かいの席に、ミスティアが腰を降ろした。
「お疲れのようですね」
いつか屋台で掛けた言葉と同じ語を囁く。
「疲れか……疲れてるのかなあ。それは別に気になんないけど。ちょっといろいろあってね」
勿体ぶった様子のはたて。新聞が大成功を収めて仕事量が激増し、慣れない激務で疲労困憊……と言う明るい見方もできたが、この様子ではどうやらそうではないみたいだと、ミスティアは察した。
ミスティアが改めて何かあったのかと問い質すより先に、はたてが開口した。
「さっき妖精がこの料理店から出て行ったけど……あれはお客さん?」
「ええ」
ミスティアは首を縦に振る。
「どう? 広告の効果は?」
「取り留めた変化は無いです」
「そう」
はたては苦笑した。その表情には、どこか安堵したような表情が見て取れる。
「はたてさんはどうです?」
「私も全然よ。新聞の売れ行きに変化は無いわ」
「まあ。それはお気の毒に」
典型的な労いの言葉を添えて、広告料の入った巾着袋をテーブルの上へ置く。
「今月の広告料です。どうぞお収めください」
はたては紅茶で軽く喉を潤した後、巾着を開けて中の金銭を数える。契約書に記した額と同じ金銭が入っていることを確認すると、「確かに」と添え、その金を持参した小さな封筒へ流し込んだ。
ミスティアが空っぽになった巾着袋を着衣のポケットにしまい込んだ直後、はたてが開口した。
「広告付きの新聞ってね、私が初めて作ったのよ」
ミスティアが俄かに目を輝かせた。
「ああ、やっぱり。あんまり見た記憶が無かったものですから、何となくそうかなって思ってました。……私の記憶力はあまり当てになりませんけど」
付け加えられた自虐に作り笑いを浮かべてやった後、はたてはまた沈痛な面持ちに戻り、自身に降り掛かった不幸を訥々と語り出した。
「広告付きの新聞ね、みんなに非難されたわ。情報を記すスペースを使って広告を出すなんて、そんなの新聞じゃない……ってね。だけど、私は新聞を出した。あなたとの契約のこともあるし、私はこのやり方に間違いなんて無いって信じてたし。この新聞が売れたら、きっとみんなこういう新聞の在り方を認めてくれると思ったから」
「それで、結果は?」
「そりゃァ、もう……無残なものよ」
口元を釣り上げ、ククッと自虐的で情けない笑声を漏らすはたて。一度紅茶を啜って一息ついた後、言葉を紡ぐ。
「今度はみんなが私を笑うのよ。珍妙な真似をしてみてこの様か、一人でおかしなことをするからこういうことになるんだ、ってね。恥ずかしいやら悔しいやらで、もう山にいるのも嫌になっちゃって。だからこうして朝早くから、あなたの元へ訪れたって訳」
身の上話をぶちまけてみて、余計に惨めな気分になったと同時に、涙をせき止めていた堤防が遂に決壊を起こしたようで、はたては静かに泣き始めた。寂々たる料理店の中に響くは、はたての嗚咽のみ。ミスティアは惻隠の情を覚えながら、肩を震わせながら涙を流すはたてを見つめていた。
「でも、まあ、まだ始まって一月です。これから何かが変わって行くかもしれません。それに、あなたには私からの広告料があるではありませんか。それを使ってよりよい新聞を作れば、きっといろんなことがいい方向へ進んで行く筈ですよ」
気休め程度にしかならないかと思いながらも、ミスティアはこう言い、はたてを励ました。
瞬く間に多くの敵を作ってしまったはたてに、この夜雀の拙い励ましがどれ程心強く感じられたことか。何度も何度も首を縦に振り、洟を啜り、ようやく絞り出した「ありがとう」の声は震え切っていて、もはや言語とも取れぬ有様であった。
紅茶を飲み終えると、代金を支払い、はたては料理店を発った。紅茶のものとはまるで違う、言い知れぬ温もりを持って行く寒空の路は、それ程苦には感じられなかった。
*
ミスティアの営む人気の無い料理店は、夕方を待たずして終わってしまう。夜から始まる、本業である鰻屋台の準備を始める為である。
この鰻屋台は料理店とは打って変わって、連日盛況である。ここでの稼ぎがあるお陰で、ミスティアは料理店を存続させることができ、その上はたての不人気な新聞に広告など打つことができるのである。
この屋台は人にも妖怪にも人気があるが、この日は妖怪が主な客となっていた。妖怪は人よりも幾らか酒に強い傾向がある為、妖怪の客が多い日は自然と職務は激化する。この日も例に漏れず、ミスティアは目の回るような多忙さの中を一人で行ったり来たりしていた。
次第に忙しさはピークが過ぎて、ミスティアに心身ともに余裕が生まれ始めた。その頃を見計らうようにして、ある一人の客人が訪れた。常連と言っても差し支えない。ミスティアの見知った顔である。
「相変わらず時間の調整がお上手ですね」
カウンター席に座った客人にミスティアが言うと、その客人はにんまりと笑って見せた。
「情報管理は新聞記者の基礎ですから。……あれ? 前にもこんな会話しませんでしたっけ?」
「きっと私が忘れているんですね」
ミスティアが苦笑しながらこんなことを言うと、客人――鴉天狗の射命丸文はゲラゲラと哄笑した。
「相変わらずドジな女将さんだこと。よくそれでお店を切り盛りできますね」
「覚えておくべきことは覚えているんですよ。覚えておかなくていいことは忘れて、より必要な情報に、この小さな脳みそのスペースを譲るのです」
自身のこめかみの部分をこつこつと叩いて微笑むミスティア。
「あなた、そんな器用なことができるんですか?」
「勿論です」
外界で世界的に著名な推理小説の主人公のような、極めて高度な頭の使い方をしているのだと豪語するミスティアに、文は軽い嘲弄の意を含んだ哄笑をぶつける。ミスティアは「まるで信じていない」と頬を膨らませている。哄笑は長らく続いたが、
「どうぞ」
急にミスティアが飲食物を提供したことで、哄笑はピタリと止んでしまった。所謂『いつもの』である。常連客が先ず初めに何を頼むかをミスティアはしっかり覚えているのである。現に今こうして文が注文をするよりも先に、飲食物を提供しているではないか。文は難しい顔をして、提供された酒と鰻を見て、うむむと唸り出した。
「強ち嘘ではないのかもしれませんね」
「そうでしょう、そうでしょう」
誇らしげに胸を張るミスティア。
文は鰻を齧り、酒を呷った後、しかし――と続けた。
「やっぱり少し信頼性に欠きますね、あなたは。知らず知らずのうちに、誰かにコロっと騙されたりしてそうです。しかも、騙されていることに気付いていない、いつまでも気付かないと」
神妙な面持ちで言う文に、ミスティアは苦笑いを浮かべて言う。
「誰かに騙されているって……その誰かって、一体どんな人です?」
「別に具体的に誰と言うことはありませんよ。例え話です」
「あっ、もしかしてはたてさんの悪口ですか?」
突然挙げられた同胞の名前。文は心底驚いて、飲んでいた酒を噴き出しそうになった。苦しげにごほごほと咳をしながら、
「ど、どうしてはたての名が出てくるのです!」
金切り声を上げた。しかし、屋台を取り囲む喧騒の中では、その声はさほど目立ったものにはならなかったらしい。別段多くの者に誰に気付かれることも無く、雑多な喚き声に混じり合い、提灯の放つ橙色の灯りが及ばぬ闇夜へと溶けて消えて行った。
金切り声を聞いた唯一無二の人物であるミスティアは、先程自分が笑われた分を取り返すように、文をからからと笑ってやりながら言う。
「花果子念報の方で広告を出させて貰っている身なもので」
「ああ、そう言えばそうでしたね」
失念していたようなふりをしているが、そのことを忘れていた訳では無いのは、はたての名が出て来た時の異様な驚きようから一目瞭然である。はたての境遇を知っているからこそ、文はあまり彼女の話をしたくないのである。
「折角作った斬新な新聞がぼろ糞に言われたって嘆いていましたよ。おまけにさほど売れなかったから笑い者にまでなってしまったと」
文の心など知る由も無いとでも言わんばかりの調子でミスティアが言った。文からすれば少々耳と心に痛い話である。
「私はそれ程、あのやり方が悪いことだとは思っていません」
聞いてもいないのに自己正当へ奔る辺りが、文の揺らぐ心を如実に表していると言えよう。
「あら、そうなんですか? はたてさんはみんなが私を目の敵すると言った様な口ぶりでしたが」
ミスティアは聞かされたことをそのまま疑問として放っただけであり、そう言う意図は全く無かったのだが、文にはこの一言が皮肉に聞こえてしまったようで、少々目つきが厳しくなった。
「そうならざるを得ないのですよ。お偉方がそう言う方向で話をするのですから。組織の中で上手く生きるには、我を折らねばならないことだってあるんです」
「なるほど。大変なんですね。ああ、夜雀でよかった」
おどけた口調でミスティアは言ったが、文の表情は晴れない。卓に肘を付いて、口の前で手を組み、虚空の一点を睨むようにして見つめている。好敵手の擁護と自ら保身――この狭間で、彼女は揺れに揺れているのである。
「もしも、はたてさんの新聞が――いえ、広告付きの新聞が売れたら」
ミスティアが唐突に開口した。文は弾かれるように顔を上げる。
「広告付きの新聞は当たり前になるんでしょうか?」
鰻を焼いているミスティアは、文の方を向かずに問うた。文は再び厳しい顔つきに戻り、質問の答えをまじめに思案し出した。その答えが出るよりも先に、屋台の外れにある席で酒を飲み交わしている妖怪達に鰻を持って行った為、ミスティアはしばし文の前を離れた。その離席の間に文は質問の答えに辿り着いたようで、ミスティアが戻って来て早々に開口した。
「売れてもすぐに変化することは無いと思います。皆――特に記者の古株は、変化を嫌いますから」
「では、長らく続けば?」
「それが主流になってくると、私は思っています」
文は落ち着いた口調でそう言った。ミスティアはなるほど、などと小声でぼそぼそと呟いていたが、また唐突に質問をした。
「しかし、はたてさんの新聞って、組織の体質に変化を齎す程売れてるんですか?」
「……はたてには悪いけど、はっきり言ってそこまでの影響力は無いわね」
文はこう言おうと口を開いたが、寸での所で言葉を胸中に押し戻した。相手ははたての新聞に広告を載せている人物だ。はたての新聞の不人気ぶりを知らせることは、彼女に迷惑が掛かってしまう。
「はたてはまだ若いし、新聞を作り始めたばかりだから……今よりは寧ろこれからが脅威になりそうだと思っています」
咄嗟に出て来た代替の言葉であったが、それ程心外な言葉と言う訳でもなかった。はたてはいずれ脅威になりうると、文は真剣に考えている。お互いにそういう存在になろうと約束し合った仲でもあったのも原因だ。
「なるほど。新聞と共に進化が期待できるんですね。私、実はすごい人と契約しちゃったのかも」
文の言葉を愚直に受け取った様子で、ミスティアは嬉しそうに微笑む。文は「そんな感じです」と、曖昧な返事をすることで、現状については濁しておいた。
ミスティアはその笑顔を保ったまま、しばらく鼻歌なんて交えながら仕事に従事していたのだが、
「しかし」
閃いたように開口した。仕事をする夜雀の傍らで飲酒に徹していた文も思わずその手を止め、顔を上げる。ミスティアは文の顔をじっと見据えてこう言った。
「そうやって真新しくて若い芽を摘もうとするあなた方の体勢は、あまり感心できたものではありませんね」
文は不愉快そうに眉を顰める。
「先程も言いましたが、『仕方が無い』んですよ。所詮不文律は言っても、足並みを乱すような行為は褒められたものではない。はたてだって、少し考えればこうなることは予測できたでしょう。広告を掲載する為に記事にする部分を削っているのは紛れも無い事実です。新聞としての低質化は避けられない。こんなこと、いくらあの子が若いからって気付かない筈がない。荒波を立てない為に妥協すると言う選択肢はあったのです」
語気も荒々しく文が持論を展開したが、ミスティアは何食わぬ顔でいる。
「自業自得である、と?」
「ある程度は。出る杭は打たれると言うでしょう」
「なるほど、分かりました。出過ぎた口を利いてしまって申し訳ありませんでした。どうぞ、お詫びの印に」
そう言ってミスティアは、小皿に大量の鰻の骨でできたお菓子を入れて差し出した。文は気分悪げに、出された詫びの品を次々と口に運んだ。
「文さんは、それ程はたてさんの戦略を悪いことだとは思っていないんですよね?」
「そうですよ」
言下に、ぶっきらぼうな調子で文が答える。もうはたての話は止めてくれ、と言った気持ちが見え見えである。
「悪いことだとは思わないけど、偉い方々の監視の目もあるので、大っぴらに擁護はできないと?」
「……情けない話ですが、そういうことになります」
言い終え、文は悔しげに唇を噛んだ。はたてを見捨てている自分への憤りからくる行動なのか、夜雀に図星を突かれ続けて傷付いたプライドの痛みを堪えているだけなのか――本人でさえ、一体どちらなのか判断がつかない有様である。
広告掲載の契約者と言う立場を利用し、根掘り葉掘り聞き出してみて楽しんでいたミスティアであったが、これ以上話をすると文を激憤させることになりかねないので、自重を選んだ。
「早く新聞への広告掲載が当たり前の時代になるといいですね。そうすれば、はたてさんも、記者の皆さんも、一同に幸せになれると言うのに」
新聞の在り方が変化した将来を虚空に浮かび上がらせ、目視している――そんな具合の、どこか儚げでおっとりとした口調でミスティアは言い、以降、今日は一切はたての話はしないと心に決め、業務に従事し出した。
「そうね。早く、そう言う時代が来ればいい」
物憂げな文の声は、どうにか夜雀の耳へ届いた程度に小さなものであった。
文との会話から、僅かながらミスティアのはたての見方が変化していた。しかし、彼女が再びはたてと出会ったのはおよそ一ヶ月も後のことであった。一度くらい屋台の方へ来てもいいのにとミスティアは思ったが、すぐに考えを改めた。彼女の屋台は天狗達の拠り所となっている。今や侮蔑と嘲笑の的になっているはたてが、何が面白くて憎たらしい同胞の溜まり場へなどやってくるものか。きっと良質な新聞を書く為に、幻想郷中を奔走しているのであろう、とミスティアは結論付けた。
二月も時間が経過すれば季節も変化していくものである。残寒の厳しい冬と春の境目に、幻想郷はいた。今年の冬は昨年と比べ暖かく、極めて雪が少なかった。その理由は冬の権化たる妖怪の心の持ちように起因しているが、件の妖怪はその詳細を頑として語らない――天狗の新聞は一斉にこう報じた。
ミスティアは前と同じ巾着袋に広告料を入れて、自身の料理店の客席に座ってはたてを待っていた。相変わらず店内は閑散としている。広告の効果は微塵にも感じられない。無感動な表情で、広告料の入った巾着袋を持ち上げ、テーブルに落とす。こんな作業を繰り返して時間を潰していた。落とす度に中に詰まっている硬貨がやかましい金属音を立てた。
「これが、お金の重みかぁ」
不意に、抑揚の無い声でミスティアはこう呟いた。
その直後、出入り口の鈴が澄んだ音を奏でた。ミスティアがおもむろに振り返ると、
「久しぶり」
そこには、姫海棠はたてがいた。首には地味な色遣いのマフラー。鼻の先を赤く、荒れた呼吸も、放った言葉も若干の震えを帯びている。そんな彼女を見ていると、嫌でも寒さを感じてしまう。
「お久しぶりです」
ミスティアは巾着袋をなるべく相手に見えないように持ち、席を立った。
「コーヒーでも?」
「ええ。お願い」
「畏まりました。どうぞ、お掛けになってお待ち下さい」
ミスティアはそう言い残して厨房へ向かい、程無くしてコーヒーを持って戻って来た。コーヒーと一緒に、広告料の入った巾着袋をはたてに差し出す。
「どうぞ」
二重の意味を秘めた一言。はたてはコーヒーよりも先に巾着袋の中身を確認した。全額入っていることを確認すると、中身の硬貨を全て封筒の中へ流し込み、無意味に巾着袋を折り畳んで、会釈を交えながらミスティアに返却した。そして、すぐにコーヒーを啜った。予想以上に熱かったようで、聊か狼狽している。以前の様な暗澹たる心持でいないことは瞭然であった。
「新聞の方の具合は如何です?」
ミスティアが向かい側の席へ座って問うと、はたては目を輝かせた。
「ええ。いい感じ。新聞大会の順位が少しだけ上へ行ったわ。ほんの少しだけね」
「そうですか。おめでとうございます」
ミスティアが微笑みを湛えて言う。はたては照れ臭そうに、しかし心底嬉しそうに微笑んだ後、再び熱々のコーヒーと格闘を始めた。
しばらく黙ってその様子を眺めていたミスティアであったが、不意に開口した。
「はたてさん。お話があるのです」
はたてはコーヒーカップをソーサーに置き、首を傾げる。
「何?」
「広告についてなんですけどね」
ミスティアは言葉を選ぶように宙を仰ぎ、そこで一度言葉を止めた。刹那、はたてが聊かドキリとしてしまったのは無理も無いことである。それなりの額の広告料をふんだくっているにも関わらず、料理店は前述した通りの惨状である。『広告にはそれ程の力が無い。私は一体何の為に、料金を払ってまで広告を掲載して貰っているのか分からなくなった』……ミスティアがこう考えるのは至極当然と言えるであろう。そしてそう考えた者が次に行う行動はただ一つ、契約の解除、広告の取り止めである。だが、はたては広告料がどうしても欲しかった。これの有無が製作活動の苦楽に多大な影響を及ぼすことは、この二月で痛い程に感じていた。
どうにか引き留めなくては。例え、この夜雀を欺く形になろうとも――はたては何か言おうとしたが、それよりも先にミスティアが発言した。
「私、いいこと思い付いたんです」
「え?」
予想に反したミスティアの一言。勝手に頭の中で話を進めてしまっていた自分に、はたては聊か羞恥を覚えた。
「新聞は読んで貰えているようなのに、私の店はご覧の通りでしょう?」
「ああ、でも、これからもう少したくさん売れて行くと思うの。そうなれば……」
はたては聊か慌てた様子でこう言ったのだが、
「広告だけじゃ、ここを訪れて貰うことはできないって思ったんです」
ミスティアははたての言葉を無視し、言葉を紡いだ。その強引さから、夜雀の只ならぬ決意を感じ取ったはたては、黙って相手の言葉に耳を傾け始めた。
「だからですね、広告に値引き券の効果を付けたらどうかって考えたんですよ」
「値引き券?」
はたてが問い返す。ミスティアは頷き、説明をする。
「広告を切り取ってこの店へ持ってきてくれたら、設定した額だけ食事を値引きする、と言うものです。そうすれば、あなたの新聞を見て、この店へ足を運んでくれる人が増えると思うんですよ。私の料理店で得をするのは言うまでもないですし、新聞を買い、ここで食事をすると言うことを前提にすれば、あなたの新聞の値段も落ちることになる……こう考えることもできませんか?」
「なるほどね」
はたては難しい顔をして、急速に冷めつつあるコーヒーに目を落とした。様々な打算がはたての脳内を駆け巡っていた。
この料理店はまだ広く幻想郷に知られていないが、知られればそれなりに流行すると、はたては確信している。ここの料理の美味さは絶対的なものであるからだ。流行したとして、その店の値引き券を手に入れられる唯一の手段が花果子念報になったとしたら――。
「いい手かも知れないわね」
はたてがぽつんと呟く。ミスティアが目を輝かせた。
「それでは」
「いいわ。やってみましょう」
ふと、広告を掲載した新聞を売り出して猛反発を受けた苦しみが想起された。広告の次は値引き券か――同胞の声が容易に想像できた。しかし、はたてはそれを振り切った。新しい新聞の在り方を示すのだと心中で何度も自分に言い聞かせ、自らを鼓舞した。
コーヒーを飲み切ってから、値引き額について話し合い、それが終わると早急に店を後にして、山内の自身の住まいへ戻ったはたては、早速値引き券のデザインを思案し始めた。その最中、期待と不安がぐちゃぐちゃに入り混じり、腹の底はずしりとした、嫌な感じの重みを湛えていた。それでも作業を止めなかったのは、はたてがこの全く新しい戦略に盲信と言っても差し支えない期待を寄せていたからである。
「負ける筈が無い。上手くいかない訳が無い」
口にして自分に言い聞かせる。何度も何度も心臓が、脳みそが、戦慄いてぶるりと震えた。時折視界が一瞬真っ白になったりもした。
広告のデザインを終えると、勢いをそのままに新聞の執筆まで始めた。手が、筆が、止まることを知らないように動いた。付き纏う大いなる不安を、それと同等の期待が齎す勢いで振り切っているような感覚であった。暴走する期待にしがみ付きたいが為に。いつまでも、どこまでも追って来る不安から逃げ切らんが為に――強迫めいた心持で、気が触れたように、はたては新聞を書き上げた。
荒れ狂う嵐の如し、猛烈な勢いでもって書かれた新しい花果子念報は、『嵐』と表現した通りの混沌と混乱を天狗達に与えた。その混迷極まる山内に飛び交う怒号、そしてその場を支配する騒めきは、二月程前、はたてが新聞に広告を掲載した時とは比較にならない程に大きなものであった。新聞作りに携われない天狗達の精神まで穢しかねない程である。
「広告に加えて、値引きの券などと言う物を付随させるとは!」
こう言った具合の、異口同音の批判の声が上がる。これまた斬新で、それでいて効果的であろうから、出し抜かれたことが悔しい者も、純粋に一人の若造が身勝手なことをやってのけたことが気に入らない古株も、やはり一緒くたになってはたてを批判した。そして同時に『この広告の料理店には行ってはいけない』と言う新たな不文律が、新聞記者である天狗達の間で誕生した。
はたてを陥れる為に、寄って集ってミスティアの料理店自体を攻撃し、民衆を扇動すると言う戦法も考えられたが、天狗達はそれを行わなかった。何故なら、記者の天狗全員が、ミスティアの営む鰻屋台で定期的に派手な飲み食いをしているからである。拠り所を自らの手で陥落させることは、どうしてもできなかった。
はたては批判から逃れる為に、なるべく妖怪の山を離れて過ごした。就寝時等、止むを得ず戻って来た時の同胞達の視線は、それはそれは刺々しく、はたての体に突き刺さった。しかし、彼女は内心ほくそ笑んでいた。今に見ていろ。目にものを見せてやるんだから。古いやり方しかできないお前たちと私は違う。私の方がより優れていることを証明してやるんだから――と。
執念に駆られたはたては、以前にも増して精力的に新聞を売って回った。勿論、細やかながら料理店の宣伝も欠かさない。夜雀の料理店の成功は、自分の新聞の成功に直結していると、信じて疑っていなかったからである。
騒然たる雰囲気を引き摺りながら、あっと言う間に一月の時が流れた。
この頃には、残寒はほとんど駆逐され、白色の衣服を身に纏った大型の妖精がやかましく喚き立てながら空を舞い出した――春の到来である。
妖怪の山の、掲示板のある広場に、一人の白狼天狗の少女がやってきた。新聞記者の天狗の間で論争が起こる度に、傍目からそれを見て密かに嘲笑していた、哨戒任務を主とする天狗である。連絡事項の有無を確認しにここへやって来たようだ。微睡みを誘う春の陽気が猛威を振るうのにはまだ少し時期が早いが、彼女は既にかなり眠たげな表情をしている。
本来の要件をこなすついでに、彼女は新聞大会の結果にも目を通した。以前は全く気にも留めていなかったが、近頃は一人の若い天狗が出しゃばった真似をしていると言うことで、記者の天狗達が連日揉めているので、聊か興味が湧いたのである。
眠たげな眼が、上から下へすーっと降りて行く。縦長の結果発表の紙に書かれた天狗の名を改めているのである。
その目が中程へ行くよりも早く、ぴたりと止まった。次いで眠たげな目が俄かに見開かれ、直後に少女はげらげらと笑い、哨戒任務の為に居座っている切り岸へと駆け戻って行った。切り岸には同僚の天狗がいる。「眠たい」と不機嫌さを隠そうともせずにぼやき続けていた彼女が、大笑いして戻って来たのに、その同僚の天狗は聊か驚いている様子である。
「ちょっと、どうしたの?」
少女は大いに笑った後、腹を抱えて言った。
「新聞大会の結果、見た? あれだけ姫海棠に文句言ってた奴ら、みんなあいつに食われてるの!」
これを聞いた同僚の天狗も堪え切れず吹き出して、どれどれと言いながら掲示板の方へ駆けて行った。そして、同じような哄笑を上げながら、切り岸へと戻って来た。
妖怪の山に嘲笑めいた笑い声が響いていたまさにその頃、ミスティアの料理店は、開業以来初と言っていい、不慣れな賑わいに支配されていた。客数自体はそれ程多くはないのだが、妖精が三名程来店しているので、客数に不相応なやかましさに見舞われているのである。この妖精の他に、妖怪と妖精に囲まれて不安と緊張で硬くなっている人間の男性客が二人いる。いつ食われるか分からないと言った様子で、周囲を睨み付けるように見やっており、彼らの周辺の空気だけ異常にピリピリとしている。肩に担がれている猟銃に添えられた手は、入店直後から一度も銃を離れていない。
いずれの客も、新聞を読んで来店した者である。妖精は仲間に来店したことを自慢したい一心で、開店前から扉の前に立っていた。まだまだ残寒は厳しく、おまけに早朝の森とくればそれなりに冷え込んでいたであろうに、妖精らは平気な顔をして開店を待っていた。子どもは風の子、とは言ったものである。
一方人間の方は、妖精らの入店のすぐ後に訪れた。彼らの真の目的は、所謂『監視』である。屋台を開いている妖怪の営む料理店とは言え、やはり幾何かの不安があったのであろう。一応、営業形態や店の雰囲気、料理の内容などの健全さを確認しに訪れたのである。
両団体も、食事をするとすぐに帰って行った。妖精らはあれこれ騒ぎ立てながら、人間らは相変わらず黙ったまま。対極的な態度で帰って行った客らであるが、共通していたことがある。それは、食事を口にした途端、大きな感動を覚えていたことである。ミスティアの料理は人間にもウケがよかったようである。
今までに無かった来客に、ミスティアも聊か良い兆しを感じていた。
「値引きの効果は覿面ね」
独り言を呟くや否や、
「おはようっ!」
蹴破られたかのような勢いで、出入り口の扉が開け放たれた。この衝撃には、扉に備え付けられている鈴もどこか粗暴な音色を奏でざるを得ず、がらんがらんとけたたましく鳴り響いた。
ミスティアははっと出入り口を見やった。視線をそちらへ向けた頃には、来訪した姫海棠はたては歩幅三つ分程度にまで近付いてきており、ミスティアが挨拶を返すまでもなく、呆気にとられているこの夜雀に飛び付き、抱き締めた。
「やったわ、やったわよ、ミスティア!」
先程帰って行った妖精三人にも匹敵するようなやかましさを成す甲高い声。おまけに抱き付かれているものだから、発声地点が耳に程近く、ミスティアは刹那的な頭痛を覚えた。
「落ち着いて、はたてさん。おはようございます。とりあえず放してください。皿が落ちてしまいます」
先刻の客が残して行った皿を片づけている最中であったミスティアが言うと、はたては素直にそれに従い、妙に軽快な足取りでミスティアから離れた。割と冷ややかな対応であったが、そんな事はどこ吹く風と、はたては嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。彼女の身上を知っている者が、今のその表情を見たらば、彼女が一体何をこんなにも喜んでいるのか、大体察しがついてしまうものである。ミスティアもそれに漏れなかった。
「新聞、売れたんですね?」
ミスティアの問いに、はたてははっきりと、大きく、首を縦に振って見せた。
「新聞を書き始めて以来、初の快挙よ。真ん中よりも上に名前が載ったわ」
「今までは真ん中より下に載ってたんですか」
それなりに売れていると言う話はどうなった――と言う一言は飲み込んでおいた。はたても完全に舞い上がっていて、自分がミスティアにどんな説明をして今の広告の契約を取り交わしたかになど、意識が向いていない様子である。
「がんばって売って回ったのよ。あなたの料理店の宣伝も含めながら。みんなあなたの料理店に興味を抱いてくれていたと思うわ」
「そうですか」
「客に変化は?」
「少しだけ増えたような印象があります」
「そう。それはよかった!」
心底嬉しそうに、はたては言った。
その後、いつも通りミスティアは広告料を支払い、はたてはこの料理店で食事をし、それを終えると代金を支払い、すぐに席を立った。出入り口の扉の取っ手に手を掛けた時、はたては不意に立ち止まり、顔だけを後ろにいるミスティアに向け、
「今後とも、どうぞよろしく」
こう言った。ミスティアは笑顔を作り、手を振ってそれに応えて見せた。はたては薄く笑んだ。
扉が開かれた。入りの時とは違い、鈴は優しく澄んだ音色を響かせる。死の季節たる冬から、新しい命が所狭しとさんざめく春へと邁進する幻想郷の空は、その命一つ一つを受け入れてみせると言わんばかりに、とにかく余計なものが省かれており、広々と、青色に澄み渡っている。冷たいながらも爽やかな風。燦々と降り注ぐ陽光。鈴の音の余韻――世界を構成する何もかもが、はたての心模様とは真反対の、喜びと希望に満ち溢れていた。
「ああ、やっぱりダメだ」
努めて明るく振る舞ってみた数分前の自分を思い返してみると、羞恥を通り越して、自分のことながら憐憫たる情が催された。唯一の味方の前ではせめて明るく振る舞おう、と意識しての行動であったが――身の丈に合わない真似はするもんじゃないなと、はたては改めて思い知った。猛然と押し寄せて来た虚しさに、寒気の影響とは関係の無い震えが一つ。
自然と溢れて来た涙を拭うこともせず、居場所を求め、はたてはようやく安寧の地を離れるべく歩み出した。
*
はたての吉報を聞いてから数日後、ミスティアはいつもと変わらぬ様子で屋台を切り盛りしていた。その日は客足が穏やかで、ゆとりのある夜であった。客の目を盗んでミスティア自身も少し酒を入れてみたりしながら、気ままに屋台の世話を焼いていると、満員まで後一名と言う状態であったカウンター席を、遂に埋める客が現れた。射命丸文である。
「いらっしゃいませ。……いつものでよろしいです?」
文はもう見知った客である。注文する品はおおよそ見当がついている。だが、文の表情があまりにも険しく、只ならぬ気配を感じ取ったので、もしかしたらいつもとは異なる気分でここを訪れているのかもしれないと気を利かせてみたのであった。
「ええ。いつもの通りでお願いします」
気遣いは徒労に終わってしまったが、ミスティアは気に留めることもなく、文の『いつもの』の準備に取り掛かる。
ややあって用意されたそれを、文は飢えた獣のような勢いでもって平らげ始めた。隣席の客が聊か辟易してしまう程の勢いである。ミスティアに何か話しかけることも無い。やさぐれているのが一目瞭然であった。
次第に酔いが回り始めたのか、文は見知らぬ隣席の客に絡み始めた。どこに住んでいるのかとか、『文々。新聞』を知っているかとか、そんなことを問うてみたり、新聞記者の苦労なんかを、回らぬ呂律で説いて聞かせたり――すっかり居心地の悪くなったその隣席の客は、さっさと金を払って帰って行ってしまった。その隣の客も、またその隣の者も、自分にその矛先が向けられては堪ったものではないと、次々に席を立った。
僅か数分で、満員であったカウンター席は一気に閑散としてしまった。残っているのは、真ん中の席に移動した文のみである。
「まったくもう。営業妨害ですか?」
ミスティアが聊か困った様子で問う。
「あなたと二人きりでお話がしたいのですから、仕方が無いでしょう」
言下に文が言う。口調はしっかりとしている。先程までの泥酔状態が、客を追っ払う為の演技であったことが分かる。ミスティアはそれとなく、文の演技に気付いていた。口調が演技がかっているとかそういうことでなく、ただ単に、文が酔い潰れるには早すぎると思っただけのことであるが。
「話とは?」
ミスティアが問うと、文はぐっと身を乗り出した。
「どうやらはたてと一山当てたようですね」
「何だ、そのことですか。……ええ。お陰様で。私もよくして貰ってます」
ミスティアは無感動にそう告げる。あまりこの話題には乗り気でない様子である。
「あの値引き券の制度、はたてが考えたのですか?」
「いいえ、提案したのは私。はたてさんが了承し、実行したところ、大成功しました」
淡々とミスティアが事実を告げる。文はそれきり黙ってしまった。
ややあって今度はミスティアが問うた。
「はたてさん、お元気です?」
この質問を聞くや否や、文はギロリとミスティアを睨みつけた。しかし、ミスティアはそんな威圧はどこ吹く風と言った調子で、業務をこなしている。そんな調子のまま、離れた場所のテーブル席の客へ酒や食べ物を運びに行った。文は彼女の姿を、眼球を動かすことで追える範囲一杯まで追った後、手元のグラスに目を戻した。そして忌々しげに、しかしどこかもどかしげに舌打ちを打って、グラスの中の酒を呷った。口に入らず零れた酒が顎を越え、首を伝い、衣類を湿らせた。冬の寒さが細々と執念深く居座っている今では、そんな僅かな湿り気も寒気を催してしまう。しかし、今の文はそんなことを気にする心情ではない。寒さなど酒で跳ね除けてしまおうと言う、どこかやけくそな考えが浮かんで来て、小走りで戻って来たミスティアに随分乱暴な口調で酒を要求した。
「荒れてますねぇ」
苦笑を浮かべながらミスティアが言うと、
「誰の所為ですか」
文が毒づいた。
「私の所為なんですか?」
ミスティアが首を傾げる。文は不機嫌そうな目をして閉口してしまった。そうとも言えるし、そうでないとも言える――どちらか決めかねている様子である。ミスティアが酒を差し出すと、思慮を巡らせるのも面倒だとでも言わんばかりの勢いでそれを呷った。その勢いを殺すことなく、先程から彼女を荒れさせている、心の底に溜まりに溜まった滓をぶちまけ出した。
「そうですよ。あなたの所為でもあるし、私の所為でもありますよ」
「はあ。あなたが荒れてるの、ご自分の所為なんですか」
「私の話じゃない! はたての話ですよ!」
金切り声を上げられても、そんな文の頭の中だけで起こった話題の転換などミスティアが知る由も無いのだが、気を悪くさせると話して貰えることも話して貰えないと危惧し、「これは失礼しました」と平謝りしておいた。しかし、文もそもそもこの胸中の蟠りを誰かに吐露して解消したくて堪らないので、ミスティアがそんなに気を遣わなくても、勝手に話し始めたことであろう。
「あなたははたてと広告掲載で契約しているのですから、はたての新聞については知っていますね?」
「ええ。すごくよく売れたんですよね? 喜んでいましたよ、数日前」
「喜んでいた!? あなた、はたてが喜んでいると思っているんですか?」
文は嘲るような声色で言う。ミスティアが平然と頷いて見せると、今度はくつくつと笑い出した。憤然たる思いを、努めて沈静化させるように。
「ああ、そうか。あの子、喜べる相手がこんな夜雀しかいないから」
文ははたてに対して憐憫たる情を催したようで、哀れむような、蔑むような、くぐもった笑い声を一人で上げている。ミスティアは眉を顰める。
「まさか、余計に敵が増えちゃったとか?」
「そのまさかですよ。あなたの編み出した素晴らしい新戦略のお陰でね」
皮肉っぽく文が言う。しかしミスティアは「なるほど」と呑気な返事で、その皮肉を一蹴した。はたての現状など対岸の火事と言った様子のミスティアの様子に、文は増々憤りを募らせていく。
「非難の嵐ですよ。夜雀に記者の魂を売り払ったとか、もはやお前の書いているものは新聞でなくて広告ではないかとか……」
「それはお気の毒に。でも、だからって私に怒りの矛先を向けられても困ります。やるかやらないかは、はたてさんにお任せしたんですから」
ミスティアが言うと、文は言葉に詰まり、やはり不機嫌そうに黙り込んでしまった。その隙に、ミスティアは更に畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「はたてさんがかわいそうだとお思いの様子ですが、そう思うのなら、あなたが護ってあげればいいのに」
「それができれば、こんな風にお酒など飲んでいませんよ」
自虐的な笑みを浮かべる文を、ミスティアはしばらくの間、黙って見やっていた。焦げる寸での所で鰻を焼いていたことを思い出し、少々慌てた様子で網から上げ、忙しなげにそれを遠くにいる客の元へ運んで行った。
やはり小走りに戻って来た所で、また別の客が代金を支払いにカウンターを訪れた。それに対応し終え、帰って行く客を見送り、一息ついた後、ミスティアがぽつんと呟いた。
「はたてさんが非難の的となっているのは、一人で出しゃばった真似をしたことが原因なんでしょうね」
急に話題を振られたことに、文は聊か驚いたらしく、手元に落としていた視線を一気に上げて、
「そうなりますね。恐らく」
短くこう返答した。返答を聞いたミスティアは、ふっと小さく息を吐いた。
「彼女のやり方が一般化されれば、そんな悲しみを負うこともなくなりましょうね」
「ええ」
ミスティアの勿体ぶった調子に疑心を覚えた文は、言葉の中に隠された意図を読み取ろうと、睨むようにミスティアを見やっていた。その最中、不意にミスティアも文を見やったので、二人の視線が真正面からぶつかった。夜雀の視線に、文は聊か戦慄を覚えた。それは、彼女の知っている、穏やかで、呑気な女将の視線とは違っていたから。人外の者が活気付く、世にも恐ろしい幻想郷の夜を生き抜いてきた、一妖怪の鋭い眼光があった。夜の闇の中で燦然と輝くその瞳の光に捕えられ、文はしばし頭も働かせられぬまま呆然としつつ、目の前の夜雀を見据えていた。屋台を取り巻いていた雑踏が、神隠しにでも遭ったかのように、いつの間にか消えていた。
「仲間を――」
耳に入って来た夜雀の声。ようやく文は我に返った。同時に、雑踏もどこからともなく戻って来た。
「仲間を作ればいいんではないでしょうか」
「仲間?」
文が問う。ミスティアは頷いて見せ、言葉を紡ぐ。
「広告付きの新聞を当たり前とする為には、もっと広告付きの新聞が増えて行く必要がある。数が増えれば、由緒とか、伝統とか、そんなものに構っていられる人だって少なくなるのではありませんか?」
「それはそうですが……」
「あなたがその礎となればいいではありませんか。はたてさんが不憫に思えるのでしょう?」
ミスティアにこう言われて、文は悔しげに唇を噛んだ。確かに、はたての境遇を何とかしてやりたいと言う気持ちはあるが、文にもそれ程の権力や地位がある訳ではない。そんな彼女がはたてを擁護してみても、彼女の生活には何の意味も無いことなのである。はたてと良好な関係を築くよりも、組織の中で荒波を立てず、堅実に生活していくことの方が、残酷なことながら、よっぽど有意義で価値のある行動と言える。
打算で動いた結果、好敵手及び友人を見捨てている――滅茶苦茶に切り傷を刻み込まれた自尊心は、苦し紛れに自己正当を図った。
「私一人が何かした所で、何が変わりましょうか」
「変わらないかもしれない。しかし変わるかもしれない。少なくとも今のままでは、絶対にはたてさんは可哀想なままですよ?」
「それに、どこと契約をしろと言うのです? ……あなたには申し訳無いのですけど、はたてを非難する者達は結託し、暗黙的な不買行動まで起こしています。広告先の人にも迷惑が掛かるかもしれません」
「あら。普段は傍若無人に振る舞っているのに、こんな時は随分と他人思いなお利口さんなんですね」
ミスティアはあからさまな嘲笑を浮かべた。言い返す言葉も無く、文は閉口した。文句のついでに愚痴を零しにここへ来た筈が、夜雀如きに言い包められてしまい、その所為で胸中の滓は余計に堆積し、文の心は余計に不安定な状態を持ってぐらぐらと揺れていた。コップに並々と注がれている酒が、重々しい枷のように思えた。すぐにでもここを飛び去りたい気分なのに、酒が自分を屋台に繋ぎ止めている――。
しばらくの間、一体何が楽しいのか、ミスティアは鼻歌など交えながら、淡々と自分の仕事をこなしていたが、またも不意に開口した。
「私など如何です?」
言葉の意味をすぐに理解できなかったようで、文がきょとんとしてミスティアを見やる。気ままな夜雀は自身の胸に重ねた両手をやり、背から生えている翼をふわりと動かして見せた。蛾と認識された経験もある夜雀の少女の翼は、お世辞にも美しいとは言えぬ様相である。だが、穏やかな笑みを湛えた顔に、懸命に屋台を営む姿から溢れる母性――そんな要素が、翼を開いた彼女の姿を、やけに荘厳で端然たるもののように錯覚させる。夜雀とはこんなに立派な妖怪であったろうかと、文は自分の目を疑った。
「私、とは?」
ようやく文が問う。
「この屋台の広告を載せるなど如何ですか、と言うことです」
平然と言ってのけたミスティア。ぎょっとして、文が声を上げた。
「し、しかしあなたは、はたてと!」
「はたてさんは料理店。あなたが契約するのは屋台です。どちらも私が営んでいると言うだけですよ。問題など何も無いではありませんか」
言下にミスティアはこう言い、文の反論を一蹴した。
文は肘を卓に付き、頭を抱えながら唸った。酒の影響で頭がストライキを起こし、上手く働かない。働かない頭ながら必死にいろんなことを考えていた。
この屋台は宣伝などしなくとも、それなりの知名度を持っている。しかし、広告を打つことで、より人々の記憶に留まって、商いの機会が増えて行くことが予想される。酒を飲める場所は、何もこの屋台だけと言う訳ではない。人里に行けば、人間の営む居酒屋なんかがちらほらと存在する。一応彼女の屋台も、それらとの競争する立場にあるのだから、この屋台を人々の記憶に焼き付け、来店の可能性を増すことは、何も不思議なことではない。ミスティアが広告を打つメリットはある。
では、自分にとってのメリットは何だろう――文は考えてみた。
天狗は割といろんな者達から恐れられている節がある。その畏怖こそ、天狗が幻想郷で傍若無人に振る舞える最大の要因である。ところが、新聞に限らず、天狗が客商売を行う上ではそれこそが大きなネックになっている。『天狗は恐ろしいもの』と認識している人間達は、なかなか天狗に寄り付いて来ないのだ。
では、人からも妖怪からも支持を得ている、この屋台の広告を掲載したら。僅かながら印象の変化に期待できると、文は考えた。
広告付きの新聞を作れば、仲間の反感を喰らってしまうことは必至である。はたてに次ぐ異端児――異端児どころか、非難轟々のはたてを忌避しておきながら、こんな戦略に打って出れば、文は『裏切り者』などと称されるかもしれない。はたてよりも酷いことになる可能性もある。
しかし同時に、同胞達の扇情に繋がる期待ができる。非難の的が一人から二人に増えることで、安心感を覚える者が出てくるかもしれない。そう言った者が増えて行ってくれれば、非難の的が増え、そのリスクを分散できる。それが連鎖していき、いつか数が逆転した暁には、『正義』ははたて達に翻る。そもそも、若き同胞のほとんどが、はたてのやり方を心の奥底では支持しているのだ。潜在的な仲間は多数存在するから、『革命』は絵空事などでは、決して無い。仮に完全な『革命』などできなくとも、はたての苦しみの軽減には繋がる筈だ――。
思考の海から脱した文が、おもむろにミスティアを見やる。ミスティアはずっと、思慮を巡らせる文を眺めていたようで、文が顔を上げて目が合うと、にっこりと笑んだ。先程の錯覚的に見えた荘厳たる容姿に、今まさに浮かべている、黒々とした闇を湛えた笑み――ミスティアの提案は、もはや『高が夜雀の戯言』と笑って済ますことのできない程の重みを得ていた。
「はたてを救えるでしょうか?」
文が問う。ミスティアは肩を竦めた。
「どうでしょうね。まあ、可能性はあると思います。何もしないよりは」
嘘でもいいから『救える』とはっきり言えばいいのに――文は心中で毒づいた。結局この夜雀は、文の新聞に自店の広告を載せられようとも載せられずとも、どっちだっていいのである。この軽率で飄然とした態度こそ、夜雀の浮かべる笑みに纏わり付く闇を如実に表していると言える。その闇の中で一体何をしようとしているのか、文には至極見当がつかなかった。
文はごくりと生唾を飲み込むと、
「後日、商談にお伺いしてよろしいですか?」
こう問うた。勿論です――と、相変わらずどこか怪しげな笑みを湛え、ミスティアは即答した。
約束を取り付けると、文はさっさと飲食代を払い、逃げるように屋台を後にした。
後日商談に窺うと文は言ったが、実際に来たのは数日が経過してからのことであった。ああは言ってみたものの、やはり心の迷いがあったようだ。帰ってから、迫害を受けて精神的に完全に参っているはたてを見掛けたことも、商談の決断を遅らせる要因となった。
今やはたては完全に孤立無援の状態で、相当な疑心暗鬼に駆られている。目に映るほとんどの者を敵として見ている。当然のことながら、文もそれの例に漏れない。おずおずと文は声を掛けてみたのだが、雨を降らせることはない、どんよりと曇った空のように濁った双眸でじろりと文に一瞥くれた後、ややあってようやくにべも無く「何」と返事をするような有様である。知り合った頃のような快活さは完全に失われていた。話しかけてみた文自身、特に話題など持っている訳では無かったし、それ以上に、デスぺレートを引き起こしているはたてに圧倒されてしまった所為で、咄嗟に気の利いた会話さえ起こせなかった。言葉を失って突っ立っている文よりも先に、はたてが先に言葉を放った。
「私に話しかけない方がいいんじゃない? 変な勘違いが起きちゃうかもよ」
言い切った後に付け加えられた自虐的な笑みが、文の心を抉った。はたては文の言葉も待たずに踵を返し、自宅の方へと向かって歩いて行ってしまった。
この一件が、文を大いに怖がらせたし、同時に使命感めいた感情を湧き起こさせた。このままはたてを放ってはおけない、はたてを救わなければいけない、と。
文がミスティアの元を訪れたのは朝の内のことであった。天狗達の目を盗んで、こっそりと件の料理店へ足を運んだ。料理店はぼちぼち賑わっていた。妖精、妖怪の客が主であった。やはり、人間には少々行きづらい立地であるらしかった。
客の前ではあまり商談はするべきではないからと、ミスティアは文を客席で待たせ、厨房兼スタッフルームへと消えていった。ややあって「準備ができました」と、文を清算所の奥の部屋へと招き入れた。
冷蔵庫、水道、ガスレンジ、スチール製の銀の台、不似合いな縦長長方形のロッカー――はたてが契約の為にここを訪れた時と、何ら変わらない佇まいである。
自作の契約書を提示すると、ミスティアは「わあ、懐かしい」と微笑んだ。はたてと契約を交わした頃のことを思い出したらしかった。契約料ははたてとの契約よりも若干低めに設定されていて、「本当にこの額でいいんですか?」とミスティアが念入りに確認を行った。文は首を縦に振った。彼女はもはや、金の為にこの契約を交わすのではないのだから。
「値引き券を付けようと思います。『切り取ったら使える』と言う一文を加えて、この紙に書いてある通りの額を、広告の一部に明記しておいて下さい」
そう言い、ミスティアは文にメモ用紙を渡した。屋台で使える値引き券の、値引き額を書いたものである。文はそれを懇切丁寧に、自身の愛用しているネタ帳に閉じ込んだ。
商談は滞りなく進行し、何の諍いも拗れもなく終了した。かくして、文の作る『文々。新聞』に、ミスティアの鰻屋台の広告が掲載されることとなった。
「どうぞよろしくお願いします」
恭しくお辞儀をするミスティアに、文は若干の不信感を抱きつつ、お辞儀を返した。数日前の夜のような、凛然としていて、何もかもを見透かしているような態度を取られてからこんな風な対応をされても、文には怪しさしか感じられなかった。しかし、今の夜雀はごく自然な面持ちで、普段通りの微弱な愚鈍さを持っているように見える。
広告付きの新聞のレイアウトを思案しつつ、文は帰路を辿った。
帰って行く文の背中を見送りながら、ミスティアは穏やかに笑んでいた。
「何もかもが変わることを、心から祈っていますよ」
ぽつんと呟くと、踵を返して、店へと戻って行った。
このミスティアの呟きはすぐに現実のものとなる。それ程日を待たずして、遂に文の新聞に、ミスティアの屋台の広告が掲載された。はたてと言う憐憫たる先駆者の姿を見て来た文は、その新聞を世に知らしめる日を迎えようとしている夜に、数度の悪夢に魘され、目を覚ました。変革の為、友人の為……等と言い聞かせ自分を鼓舞しつつも、やはり心の奥底では、自身へ飛ばされるのであろう非難と中傷の霰を恐れてしまっている。夜の内なら販売を中断することも可能であったであろうが、文はそれをしなかった。変革の為、そして友人の為に。
文の新しい新聞を印刷した係の天狗は、はたての時とは異なる驚きに見舞われた。はたてが非難の的になり、迫害を受けていることは、山内の天狗で知らぬ者などいない程だ。それこそ、天狗達を統べる首領、天魔の耳にも届いていて、下らないことで同胞間の関係を悪くしないようにと注意を呼び掛けてはいるものの、暖簾に腕押しである。権力者の一声だけでは、組織内の人間関係の拗れなんかはそう簡単に修復されないのである。文は、それ程の非難を受けているはたてに追随しようとしているのである。係の天狗が驚かない方が不自然である。
「本当にこの内容でいいのですか?」
はたての時以上に、念に念を込めた声色で訪ねる。文は平静を装ってそれに頷いて見せた。
かくして発行された新生『文々。新聞』。白昼の元で流布して行ったその内容が天狗達に知られたのは、驚くべきことに夕方を待たずしてのことであった。文の新聞の変異を嗅ぎ取った天狗が吹聴したのである。その噂は、幻想郷のそこいらを吹き荒ぶ肌寒い初春の風よりも速く山内を駆け巡り、噂を耳にした者に多大な衝撃を与えて回った。文を裏切り者と称して激憤する者。この新聞の変化を追い風と見て、細やかながら変革の始まりを感じ始めた者。蚊帳の外から記者達を観察し、文の一手で増々混乱が極まったことに快哉を上げる者。念頭に置いておかねばならない面倒事が増えたと嘆く者――衝撃は皆同一に大きく、そして重たいものであるが、それが齎す感情は人それぞれであったようである。
新聞を売り終えて山へ帰って来た頃には、すっかり文の新聞の内容は山内に浸透していた。昨日まで文と親しくしていた年配の天狗も、同僚も、後輩も、対応の仕方に変化が生じたのを、文はひしひしと感じていた。主に、年配の者は激憤し、同僚は困惑し、後輩は畏怖と羨望が入り混じったような態度で接して来た。まるで別の世界へ来たかのような感覚。想像以上の気味悪さと恐ろしさを感じていた。
今の文はどの層とも話をしたい気分ではなかったので、全てを適当にあしらって、自身の住まいへと歩を進めた。その道すがら、偶然にも姫海棠はたてと出くわした。どこか放心したような、光の薄い双眸を持って、自身の居から姿を現した所であった。
「はたて!」
文は思わず立ち止り、声を掛ける。はたてはその声にぴくりと反応し、妙に素早い動きで首だけを動かし、文の方を見やる。次の瞬間、無感動であった面持ちが、瞬く間に変化した。その面持ちを一目見れば、文の身勝手な行動に怒りを露わにしている天狗達とは比肩できない程の激憤の念を抱いていることが、恐らく誰にでも分かることであろう。
怒りで顔を鬼神のように歪ませたはたてを見た途端、文は当惑してしまった。一方はたては、その憤りを糧にしたかのような素早い動きで、歩幅八つ分くらいはあったであろう文との距離を一気に詰めてきた。棒立ち状態の文の胸倉を引っ掴み、随分としどろもどろしながら金切り声を上げた。
「こ、このっ、このっ……大馬鹿野郎ッ!」
こう発声しても、はたては煮え切らない様子であった。と言うのも、開口一番に放った『大馬鹿野郎』と言う語は、彼女の抱く激憤を半分も表すことができていないのである。冷静さを欠いている為、自慢にしていた豊富な語彙も、今は頭の片隅に追いやられ、役目をじっと待っている状態である。
文は増々困惑した。胸倉を掴まれたまま何か言おうとしたものの、それよりも先に、またもはたてが開口した。
「あれだけ私を非難しておいて、あんたも結局広告を使うのねぇ? 成功するって分かった途端に、自分のしてきたことは全部無視してッ! いけしゃあしゃあとよくもあんな真似ができたものだわ……!」
文は、周囲のはたてへの非難を、肯定とも否定とも取れぬ、なあなあの態度をとって、今までをやり過ごして来た。流れに身を任せてはたてを非難するようなことは決して無かった。しかし残念なことに、今のはたての心情からすれば、山の天狗は皆敵なのである。文もその例に漏れない。自分の斬新な手法を口汚く非難していた者が、のうのうとその手段を使ってきた――はたての胸中には、もはや変革だとか、そういう野望は無い。新戦略を享受できないステレオタイプな愚者達の頂点に、その新戦略を持って立ち、見下してやる。……こんな歪みに歪んだ夢こそが、今のはたての原動力である。同志が欲しいとか、そんな祈りはとっくに消えて果てていたのである。
怒りを爆発させるはたての手に力が込められていく。ぶるぶると震えるその手からは殺意さえ感じられる。文が聞き取れたはたての言葉は初めのもののみであった。以降は、まるで耳が利かなくなったかのように、何も聞こえなくなっていた。無音の世界に佇みつつとも、はたてが口をし切りに動かしているので、彼女が何かを喋っているのが分かった。喋る彼女の形相は相変わらず鬼神の様に恐ろしいものであったので、まだ自分に文句を言い続けていると察せられた。
そうこうしている内に、締め付けられていた首元が一気に解放感を得た。はたてがようやく、胸倉から手を離したのである。即座に文は開口した。
「違うのですよ、はたて。私は、ただ」
しかし、文の必死の弁明の句を、はたての握り拳が暴力的かつ強引に中断させた。『引き籠り』などと文に小馬鹿にされていた時期があった程に、自身の住まいに籠る傾向がはたてにはあるから、それ程優れた運動能力を持ち合わせている訳ではない。だが、一切防御手段を取らず、不意に頬をぶん殴られれば、相手がいかにひ弱であろうとも、それなりの衝撃と痛みが感じられた。おまけに、今のはたては聊かの殺意さえ秘めている。憎悪の対象へ放たれたはたての痛恨の一撃は、文の意識を一瞬遠のかせる程の威力を持っていた。
殴られた文はその場に尻餅をついた。口の端からたらりと血が流れる。同時に、鉄の臭いが口内に充満する。殴られた方の頬を手で押さえながら、呆然とはたてを見上げてみる。はたての表情からは微塵の罪悪感も見出せない。寧ろ、こんなものではまだまだ足りないと言う風な態度さえ見受けられた。
はたては紅潮し、怒りに肩を震わせながら文を睨みつけていたが、はっと何かを思い付いたように真正面を見やった。その時の彼女の視界には、もはや文など映っていない。変わり果ててしまったはたて、差し伸べるのが遅すぎた救いの手、残酷すぎる現実――そう言ったものの教授がつらすぎると、静かにボロボロと涙を流している文なんて、そこらの石ころも同然であった。
何も言わずに、はたては文の傍らを駆け抜けて、切り岸から空へと飛び立った。目指すは、ミスティア・ローレライの元である。この夕暮れの淵、彼女は一体どこにいるんだ――思案したが見当がつかず、はたては舌打ちを打った。そこで、虱潰しに探して行こうと、先ずは馴染みの料理店へ翼を向けた。夜から始める屋台の準備をする為、夕方を待たず閉まってしまう料理店であるが、はたてにとって、ミスティアの居場所と言えばあの料理店であった。勢いに身を任せて飛び立った為、着衣が薄く、夕刻間際の初春の空はとても肌寒く感じられたが、それに構っている場合ではないと、はたては空路を急いだ。
料理店の前に降り立ったはたては、飛翔の惰性でこけつまろびつ、すぐさまその料理店の扉に手を掛けた。ノブを回そうとしてみたが、動かない。何度試しても無駄であった。もうここにはいないのかと思いつつも、乱暴に扉を叩き、ミスティアの名を叫んだ。
不在であるなら、ここで喚き散らしても無意味であったのだが、偶然にも、ミスティアはここにいた。扉の向こうで解錠に伴う快い金属音が鳴り、はたてが手を煩わせることなく、扉が開いた。
僅かに開けた扉と壁の隙間に手をやり、一気に扉を全開し、店内へ入ったはたては、即座にミスティアの胸倉を引っ掴み、猛然と壁に押しやった。聊か苦しげにミスティアが顔を歪ませたが、次の瞬間には不快そうな双眸ではたてをじろりと睨んだ。
「何か用ですか」
ミスティアが抑揚の無い声で言う。
「あなた、文と広告掲載の契約を交わしたわね?」
「はあ。それが何か」
悪びれた様子が一切無いミスティアに、はたては憤然の炎を更に燃え滾らせる。
「何か、じゃないわ。どうしてあんな勝手な真似を!」
「私だってお金を稼ぎたいですもの。あなたとの契約で、広告を打つことの重要性や、その効果を実感しました。だからあの屋台でも同じように広告を打って、もっと私の屋台を知って貰って、集客率を上げよう……そう考えたまでですよ。何をそんなに怒っているのです?」
はたては悔しげに歯ぎしりをした。ミスティアの言う通りである。彼女には彼女の商売がある。そもそも、屋台の経営とはたての存在は何の関係も無いのである。
はたては乱暴にミスティアを解放した。少々よろけたが、すぐに体勢を立て直したミスティアは、身に着けていたデニム生地のエプロンのズレを直し、憤然たる吐息を漏らし、はたてを見やる。怒りの矛先を向ける対象を失ってしまったはたては、居た堪れない様子でその場に立ち尽くし、無意味に呼吸を荒げ、終いにはカリカリと音を立てながら手の指の爪を噛み始めた。しばらくそうしていたが、結局、夜雀に八つ当たりしても解決することなど無いと判断したはたては、無言のまま、ふらふらとした歩調で料理店を後にした。ミスティアも何も言わないで、その背中を見送った。
はたてが外に出るや否や、扉の向こうから施錠の音がした。言い知れぬ疎外感を感じたはたてであったが、冷やかなミスティアの行動に辟易して振り返ってみることも、文句を言うこともしなかった。ただただ、孤独であると同時に孤高の存在となっていた自分の失墜の兆しに恐れ戦き、暗澹たる未来に阻喪せざるを得なかった。
文の新聞は、はたてのものよりも良質かどうかはさておき、人気である。新聞大会では毎回はたてよりも上に、その名を刻んでいる。とは言っても、全体で見れば文もそれ程人気のある新聞を書いている訳ではないのだが、少なくともはたてよりは一枚上手であることは明白である。そんな文に、広告を掲載することでようやく追随できていたと言うのに、文までその手法を取り入れてしまった。篠突く雨の如し非難を浴びながらもようやく埋めた差が再び開かれてしまう。おまけに文は、はたてのやり方を一度たりとも擁護したことが無かった。声高に非難していたことも無いのだが、そもそも、はたてから見れば非難する者も傍観者も同じようなものである。そんな彼女が広告を掲載したことが、どうしてもはたては納得がいかなかったのである。
怒りの炎はすっかり鎮火してしまい、残った燃えかすは惨めさとなって胸中に居座った。忘れた頃に燃え上がってくれそうな残り火さえも望めぬ、どす黒い我楽多である。
非難の的が増えた。私への攻撃の手が鈍るかもしれない――のろのろと行く帰路の最中、不意にはたてはこんな考えを思い付いた。それは、文がはたての心を少しでも楽にできるかもしれないと言う、一縷の望みを託した考えと全く同じであった。
しかし、その考えに到達したはたてが感じたのは、この上ない劣等感であった。今になって私は道連れを求めているのか。結局私は、他人の写真を写す『念写』の能力が表す通り、一人じゃ何もできない愚図なのか――激憤の炎を鎮火してお役無用となった悔し涙が、とめどなく双眸から溢れ出て来た。
ミスティアの祈った通り――その形はどうであれ――、文の新しい新聞は確実に『激変』を齎したのであった。その変化を如実に表している出来事は、新聞大会の結果発表の日に起こった。文の新聞が変貌を遂げてから、初の新聞大会の結果発表である。
妖怪の山はこれまでに無かった、異様などよめきに包まれていた。はたてが新聞に広告を掲載した時とも、値引き券など付随させた時とも、そんなはたてが大会で大きく順位を上げた時とも異なっている。
まず、このどよめきの下地となっているのは、多くの者の憤然たる思いである。暗黙的な不正を使って新聞大会で猛威を振るっている者が二名もいることを嘆き、怒っているのである。しかし前述した通り、怒れる者達の言う『不正』とは、所詮不文律の域を越えないものである。それを自分達でも分かっているからこそ、余計に腹立たしいらしく、声を大きくして、広告を使っている二名――姫海棠はたてと射命丸文を非難しているのである。
文の狙い通り、そして、はたての考えた通り、非難の的が二つに増えたことで、二人の非難に関するリスクな負担は若干減じた。しかし、二人の心は、ほんの少しも晴れ晴れとすることは無かった。
文は、はたてがそんなことを望んでいなかったことを、これ以上無いと言ってもいい程陰惨なやり取りから知ってしまった。はたては劣等感のお陰で、文が身を呈して齎してくれたこのリスクの緩和が余計に癪に障った。
それに加えて、はたてには不幸が続く。文の新聞の順位が、新聞大会ではたてを大きく追い抜いてしまったのである。元来、夜雀の鰻屋台は人気の店であった。そこで使える値引き券を付随させた広告を載せた新聞が発売とくれば、売れぬ道理が無かったのである。元々、文の作る新聞それ自身が持っていたそれなりの人気も相まって、新聞は飛ぶように売れた。――今の文の心情からすれば『売れてしまった』とする方が正しい。
さて、新聞への広告掲載の先駆者たるはたてはと言うと、順位は伸ばしつつも、文には遠く及ばない結果となってしまった。彼女はこれまで、周囲からの厳しい非難――中には罵詈雑言と表現できそうなものまであった――を浴びても、涙を堪えて毅然とした態度で立ち振る舞い、自分のやり方を決して曲げることなく、頂点に君臨することだけを夢見て来た。強い意志を持ち続ける意味も込めて、周囲の者達を見下している節さえあった。『時代に合わせて柔軟な対応ができないお前たちが最も愚かなのだ』と。そう言う態度が余計に敵を作って来たが、その態度が虚勢などでは決して無いことは、徐々に上がって来ていた新聞大会の順位が物語っていた。
その矢先に、この度の『文々。新聞』の快進撃である。今の今まではたてを非難する側に立っていた筈の文の抜け駆けには、周囲の者達も聊か憤りを感じたが、後発の文がはたてを追い抜いたことで、忽ち文は『裏切り者』の烙印を取り消されて、周囲を見下し、いい気になっていたはたての鼻っ面を見事に圧し折って見せた『英雄』として賞賛を受けたのである。逆にはたては、先駆者の余剰を手にしながらも、出遅れた文にしてやられたことを嘲笑される羽目となってしまった。山内ではたてと通り縋る天狗達の表情からは侮蔑の念は消え、嘲弄の念が取って代わった。そんな同胞達の顔を見る度、はたては発散しようもない憤怒と羞恥に駆られ、その身を熱く滾らせた。
この恨みは新聞で晴らすしかない――そう思い、ペンを握ってはみたのだが、憤怒と怨恨のフィルターを通して見る自作の文章は、尽く稚拙な駄文にしか映らない。こんなんじゃ勝てない、こんなんじゃ勝てない、こんなんじゃ、こんなんじゃ――書いては捨てて、また書いては丸めて放り、また書いてみては破る……こんなことを幾度も繰り返した。紙もインクもタダではない。時間さえも資産の一つだ。連日それらを無駄に消費しては、決まり事のように愛用の枕をびっしょりと濡らした。
新聞を書くことさえできなくなってから三日後。偶さか陽が昇るよりも早く目覚めたはたては、ふとミスティアの所へ広告料を貰いに行くことを忘れていたことを思い出した。三日間、新聞を書いていないが、先月分の広告料は貰いに行かねばと思い、のろのろと支度をし、自身の居を後にした。目覚めている天狗は寝ずの番を任された白狼天狗くらいのものであったので、人目を気にすることなく出掛けることができた。
春はすっかり深まった。朝の空はまだ若干の肌寒さは感じられるものの、快適の域に達しつつある。しかし、はたての心はやはり、雨が降りそうな空の様にどんよりと曇っていて、春の穏やかな陽気など少しもありがたみを感じられなかった。
この時間であれば、夜雀の料理店は開店前である。しかし、開店の準備をしているミスティアがいる筈だと、はたては出入り口の扉のノブに手をやる。すんなりとノブは回った。そのまま扉を開く。開店前だからであろう、鈴の音はしなかった。
「ミスティア、いる?」
はたてが入店早々開口すると、清算所の奥からミスティアが出て来た。白色のシンプルなエプロンをしている。
「おはようございます。お久しぶりです」
こう言われてはたては、この夜雀と最後に会ったのは、どうして文と広告掲載の契約を取り交わしたのだと難癖をつけに行ったあの日以来であったと言うことに気付いた。そう考えると、少し居心地の悪さが感じられたが、ミスティアが気にしている様子が見られないので、自分も気にしないで振る舞うことに決めた。
「おはよう。久しぶりね。広告料、貰いに来たわ」
「なかなか来ないなぁと思っていたところでしたよ」
ミスティアは薄く笑むと、「お掛けになってお待ち下さい」と客席の方へ手をやって見せ、再び厨房とスタッフルームを兼ね備えた部屋へと引っ込んで行った。言われるがまま、はたては、客席の一つに腰を降ろす。少なくとも以前よりは潤っているであろうに、内装に寸分の変化も見られない。何の気無しにメニューの冊子を開いてみたが、やはり変化は無かった。
「お待たせしました」
やや距離を置いた地点から飛んで来た夜雀のあどけない声。はたてはメニューを閉じ、そちらを見やる。広告料は前と同じ巾着袋に入れられているらしい。ミスティアが一歩進む毎に、中の硬貨がちゃりちゃりと音を鳴らした。空いた片方の手には盆を持っており、その上には湯気を立てている湯呑が二つ。どうやらお茶を淹れたらしかった。
「どうぞ」
広告料よりも先にお茶を差し出すミスティア。はたては眉を顰めた。
「頼んだ訳じゃないから、お金払わないわよ?」
「分かっていますよ」
言下に夜雀が言う。『金は払わない』と言うのに『分かっている』とは、何だかあまり気分がいいものではないな、などとはたては考えながら、その茶を啜った。結果、夜雀はコーヒーよりもお茶を淹れる方が上手いと言うことを知った。
次いで差し出された巾着袋。はたては湯呑を置き、中の金銭を確認し、持って来た封筒へ移した。その後、また無言のまま、出された茶を啜った。
ミスティアははたての向かいの席へ座り、同じように無言のまま、両手で包み込むように湯呑を持って茶を啜っていたが、不意に湯呑を置き、開口した。
「はたてさん。大事なお話があります」
熱い茶が咽喉を通り抜けて行くのを感じながらボーっとしていたはたては、聊か驚いたようにミスティアの方を見やった。
「何?」
「……大変、申し上げ辛いことなのですが」
少し目を伏せながら、そして口籠りつつミスティアは言い、一度そこで言葉を区切った。しかし、意を決したようにはたてを真っ直ぐ見やり、今度ははっきりとした口調で言う。
「あなたとの広告の契約を切らせて頂きたい、と考えました」
はたては、ミスティアの言った言葉をすぐに理解することができなかった。と言うのも、その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、脳天を腐れた木槌でぶん殴られたかのような衝撃に見舞われ、しばし呆然としてしまったのである。頭はぐらつき、思慮を巡らせることさえ困難な状態になった。玉砕した木槌の破片がぱらぱらと目の前を散るかのように、視界には正体不明の閃光が幾つも奔った。
「どうして」
喋ろうと言う意思など、はたてには存在していなかった。これだけは聞いておかなくてはいけない――本能がそう判断し、その一言を口から漏れ出させていた。しかし、この一言がはたてを我に帰した。
「どうしてよ!? 急に、そんな……」
はたてはテーブルをばんと叩いて立ちあがり、身を乗り出してミスティアに問う。ミスティアはぺこりと頭を下げ、その説明を行う。
「広告料とこの店の収益が割に合わないのが理由です。お客さんは前よりは増えましたが……やはり、少々苦しいのです」
妖精の客が激増したが、妖精らは安い飲料などしか頼まない。妖怪の客は来ることそのものが稀。少しばかり裕福な人間が食事をしてくれるのが一番ありがたいのだが、やはり立地条件が悪いのが影響しているのであろう、人間の客は思った程来てくれない――唖然としているはたてに、ミスティアは更にこう付け加えた。
文に追い抜かれはしたが、ようやく広告掲載、及び値引き券の付随と言う戦略が軌道に乗って来た頃である。これで広告を取り止めなどしたら、順位の降下は避けられない。料理店の値引き券を目当てに新聞を購入している者は確実に存在しているからである。
また、同胞からどんな揶揄、嘲弄を飛ばされるか分かったものではない。一人出しゃばった真似をし、後発の者に追い抜かれ、おまけに結局その戦略を放棄したとなれば、どんな嘲りを受けるか分かったものではない。
これ以上の精神的負担に、はたては耐えられる気がしなかった。だから、目を潤わせながらミスティアに泣き付くのである。
「困るわ、困るわそんなの! やっと希望が見えてきた頃なのよ? 私、まだまだこれからなのに……」
「希望が見えて来た、とは言いますけどね、はたてさん」
ミスティアは困ったような表情を浮かべている。だが、開口して放たれたその声色は、双眸から零れる涙が凍りつかんばかりの冷然さであった。
「あなたこの三日間、新聞書いてないでしょう? 三日間、いくら探しても、あなたの新聞が見つからなかったですよ?」
「! それは……」
弁明のしようがなく、はたては閉口してしまった。
「こちらはちゃんとお金を払っている。それなのに、あなたは義務を怠った。これでは払っている広告料があまりにも無駄です。さっきも言いましたが、私は結構切羽詰まっているのですよ。それに、義務を怠るような者と契約している、と言う触れ込みが出回ったらどうするのです? 私の店の信用にまで支障をきたす恐れがある。そういうことを理解しているのですか? 私は、あなたの為だけにこの契約をした訳ではないんですよ、はたてさん?」
冷酷に、そして淡々と、ミスティアが胸中の滓をぶちまける。はたては恐怖していた。高が夜雀と見下していた妖怪が、もっと恐ろしい、別の生き物のように感じられた。――おかしい、私は優位に立っていた筈だ。それなのに、どうして、いつの間にか私が下に、いつの間にか、立場が逆転してしまっているじゃないか……!
夜雀如きに揺さぶられて溜まるものかとはたては自身を鼓舞し、真っ直ぐにミスティアを見やった。威嚇するようなその目つきを見、ミスティアも受けて立とうと言わんばかりに、はたての目を見据える。
「落ち着いて考えなさい、ミスティア」
「私は落ち着いてますよ」
にべもなくミスティアは言う。はたては怯むことなく言葉を紡ぐ。
「広告を取り止めるってことは、値引き券の発行も滞ると言うことよ」
「そうなりますね。それが何か?」
「値引き券ありきになりつつあるこの店が、あれ無しで存続できると思う?」
値引きが出来なくなると言うことは、相対的にこの店の料理が高額になると言うことだ。一度値引きのうま味を覚えた者が、それがなくなって尚ここへ来店すると思うのか、とはたては言うのである。
ミスティアはしばらく考えるように宙を見やっていたが、その内くつくつと笑い出した。この状況のどこに笑う要素があるのかと、寧ろはたての方が焦燥してしまった。しばらくそうやって笑った後、大きなため息を吐いて笑いを止めた。笑いの惰性から抜け出せないミスティアと、嘲笑の余韻に恐れ戦いているはたて、両者とも何も言わない時が流れたが、ややあってミスティアが開口した。
「本当にいいモノはですね、はたてさん」
ここでミスティアは一度言葉を区切り、薄い嘲笑を浮かべて、先を続ける。
「少しくらい高くなったって、いろんな人が求めてくれるものだと思うんですよ。本当にいいモノは、の話ですよ?」
やけに『本当にいいモノ』の部分を強調してくるミスティアに、はたては勝手に激昂した。ミスティアが実際にそう口にした事実は無いのだが、はたてには彼女の言葉は、自分の新聞のことを指しているように感じられたのである。
「それは一体どう意味よ」
「言葉通りの意味です。値引きを止めても一度ここへ来てくれた方々はもう一度ここへ来てくれる。だから値引き券など無くてもいい、と言う意味です」
ミスティアは自身の料理に絶対的な自身を持っているのである。はたても、その自身が虚勢などでは決してないことが分かる。ミスティアの作る料理は、尋常で無い程に美味い。我が身を持ってそれを経験しているはたては、爆発寸前の憤懣を抱きつつも、ぐうの字も出すことができなくなってしまった。きっとここは広告を止めても平常通り経営をしていくのであろう。
敵わない――はたては直感した。目の前にいる夜雀に、自分は敵わないと。争える立場に自身が無いと悟るや否や、胸中の激憤は消え失せて、代わって去来したのは恐れであった。
「お、お願い。ミスティア」
先程までの威勢は消え、はたてはすっかり縮こまってしまった。
「あなたがいないとダメなの」
屈辱も何も無かった。彼女にはもはや、この夜雀に縋る道しか残されていなかったのである。
「私は、あなたがいないと……」
この言葉を聞いた夜雀は、無邪気な笑顔を浮かべた。本当に、悪びれた様子など全く無い、純粋な笑顔であった。
「それでは、はたてさん」
明るい声でミスティアは言い、はたての頬を伝う涙の一滴を長い爪で掬い取った。はたてが顔を上げる。相変わらず、無邪気な笑顔を浮かべたまま、ミスティアが囁く。
「もう一つ、新たな戦略に手を貸して欲しいのです」
*
妖怪の山から飛んで来た一人の天狗――胸の膨らみから女性であることが分かる――が、人里の一角にそっと降り立った。その手の中には大量の新聞がある。この天狗もまた、はたてや文と同じ、新聞記者をやっている天狗なのである。眠気を誘う穏やかな春の陽気を受ける面をなるべく増やそうと言うかのように、天狗はうんと大きく伸びをした。長い髪が春風に颯爽と靡いた。
すっかり新聞が売りやすい気候になった、等と考えながら、彼女は人里の中心部まで歩けある。なるべく他の記者と競合しない時間帯を狙って彼女はこの人里へ訪れたつもりであったのだが、
「新聞はいかがですかー?」
段々と近づいて来た人里の中心部からは、こんな声が聞こえて来た。その途端、彼女は思わず自身の耳を疑った。いくら競合者がいないであろう時間帯を狙ったとは言っても、その精度が絶対ではないことくらい弁えている。だから、新聞を売っている者が一人や二人いたところで、別段驚くことは無い。彼女が驚いたのは、新聞を売る者の存在ではなく、売る者の声である。彼女は日々、記者の同胞とあれこれ愚痴を零し合ったり、ごく稀に共闘してみたりと、それなりに他の新聞記者と交流している。だが、今聞こえている商いの声は、彼女の記憶の中にある記者達の声の、何れにも一致しないのである。
不審に思った彼女は、その歩を速めた。目的地にはすぐに到着した。そこで彼女の目に飛び込んできたのは、熱心に新聞らしき紙類を売る為に声を張り上げている、天狗ならざる妖怪の姿。眼窩から目玉が飛び出て地面へ落ちてしまうのではないかと言う程に、彼女は眼を見開いて、そのあどけなさの残る売り子の後ろ姿を眺めていた。
ややあって我に帰ると、足早にその新聞を売っている妖怪の元へ駆け寄って、
「ちょっと、あなた!」
声を掛けた。「新聞はいかがですか」の声が半ばで止まり、売り子の妖怪がくるりと振り返り、天狗の顔を見やる。この妖怪が見知った者であったものだから、天狗は増々驚愕の念を増さねばならないこととなった。
「夜雀!」
懸命に新聞を売っていたのは、夜雀のミスティア・ローレライ。この夜雀もまた、自分に声を掛けてきた天狗を屋台で度々見たことがあったので、親しげな笑みを浮かべた。
「あっ、これはどうも。こんにちは」
悪びれた様子も、慌てる様子も無く、ミスティアは呑気にご挨拶。天狗もそのペースに呑まれ、思わず挨拶を返してしまった。すぐに挨拶などしている場合ではないと、天狗は一人頭を振り、ミスティアに質問を投げかける。
「あなたはここで何をしているの」
「新聞を売っているんですよ。あなたも一部、いかがです?」
そう言ってミスティアは新聞を一部、天狗に差し出した。天狗は「結構よ」と即答する。他者の書いた新聞を、記者たる天狗が買うことなど滅多に無いことを、ミスティアは知らないのである。
しかし、差し出された新聞に一瞥くれた天狗の目が、またも大きく見開かれた。思わずミスティアの手から新聞を引っ手繰り、穴が開くほど一点を凝視している。彼女が見ているその一点とは、新聞の題名である。そこにははっきりと『花果子念報』と記されているではないか。紛うこと無く、これは姫海棠はたての新聞であった。
「どうしてはたての新聞を!」
激情に任せて放った一言は少々説明不足な感じが否めなかったが、当事者たるミスティアには、彼女が言わんとしたことが、先程の一言だけで伝わったようである。
「はたてさん、体の調子が悪くて新聞を売れないと言われて。私、彼女の新聞で広告を載せて貰っているでしょう? 宣伝ができないのは私にとっても損ですから、こうして空いた時間で新聞売りをお手伝いさせてもらっているんです」
ミスティアはニコニコと笑みながら言う。天狗は呆れと憤りの入り混じった感情を胸中で渦巻かせながら、その視線を題名から広告へと移した。いずれの感情もはたてに向けられたものである。ミスティアを責めたり、恨んだりする理由は、天狗達には無い。
広告欄には、店で作られた料理であろう写真の上に、いかにもはたてが考えそうな宣伝文が綴られている。その傍には値引き券についての簡素な概要説明が書かれている。相変わらず、非難轟々の手法で上手くやっているようだと、天狗は苛立たしいのか、感慨深いのか、判断しかねる気持ちになりながら、小さくため息を吐いて新聞を閉じ、それをミスティアに返却した。
「要りませんか? 私のお店の値引き券付きですよ」
と、受け取りながらミスティアは問うてきたが、やはり彼女は「要らない」と言い切った。少々憮然としたような面持ちで、ミスティアは肩を落とした。
「はたて、体の調子が悪いの?」
天狗が問うと、ミスティアはきょとんとした表情を見せ、背の高い天狗の顔を見上げながら首を傾げた。
「ご存知なかったです?」
「あんまりあの子とは喋らないからねぇ。最近は特に」
平然と天狗が言ってのける。最近は特に喋らない――その理由をミスティアは知っているので、言及することはしなかった。
「それじゃ、私はそろそろ新聞売りに戻ります」
ミスティアはこう言い、会話を打ち切った。しかし、天狗も同じ用件でこの人里を訪れていたので、結局二人はしばらくの間、競い合うようにして、その場で新聞売りに没頭していた。夜雀と天狗が新聞売りで小競り合いをしている様はなかなか珍しいものであり、物珍しさで人が見物に来たお陰で、若干だが、両者とも新聞の売り上げが伸びた。
そんな具合に、ミスティアらが新聞売りを楽しんでいる頃。少々暴力的な春風に見舞われている妖怪の山の一角に、憮然とした面持ちで、ある場所へ赴いている天狗がいた。名前は射命丸文。彼女が向かっているのは、姫海棠はたての居である。
先日、自分がとった行動について聊かながらも弁明する間さえ無く、激昂したはたてに頬をぶん殴られた。それきりはたてとは、話をしていないなど愚か、その姿さえ一度も見ていない。
理不尽だ、と言う思いはあったが、あの殴打は受けて当然であると言う気持ちもあった。寄らば大樹の陰と言った具合の立ち振る舞いで、自身へ非難の炎が燃え移ることを恐れて、彼女の斬新な手法を一切擁護することもなく、安全圏から一人苦しむはたてを傍観していた。それにも関わらず、いけしゃあしゃあと夜雀と広告掲載の契約を交わし、大成を収めてしまった。広告掲載がはたてのみに与えられた特権と言う訳では決して無いが、後ろめたい気持ちは確実に存在していたし、順位の上昇にも素直に喜ぶことができなかった。おまけに、全く予期していなかった結果であるが、はたてが非難に加えて嘲笑の的になってしまったことへも責任を感じていた。だから文はこの日、謝辞と自分の考えとをはたてに伝えておこうと思い、はたての住まいを訪れたのである。そう簡単には許されないとは分かっていたが、結果がどうであれ、とにかく伝えておかなくてはいけないと思っていた。
天狗達の居が連なる山内の一角。生物の気配は自分自身意外には無く、山を吹き抜ける風が我が物面して一帯にぴゅうぴゅうと音を響かせている。風に弄ばれた小石が、文の履物にぶつかった。文はそれを号砲として利用した。岩壁に設えられた木製の扉を叩く。純粋な風の音のみが支配していた空間に響く、乾き切った木を叩く音。自分だけの世界に瑕を付けられたことに臍を曲げた風が、この場を立ち去ってしまったかのように、風の音が止んだ。途端に世界は無音となった。――文がこんな具合に感じたのは、緊張の所為に他ならない。
「誰?」
無音の世界に、待ち侘びた声。しかしその声はあまりにも冷然としていて、春の陽気はどこへやら、文は聊かの寒気を覚えた。
「はたて、今大丈夫ですか? 私です。文です」
逡巡しながらの名乗りは、少しだけ不自然なものとなってしまった。
「話があるのです。少しお時間を頂けますか?」
しばらく無言の時が流れた。文は心臓を高鳴らせながらはたての返事を待っていたのだが、
「帰って」
素っ気無い返事が聞こえて来た途端、一際大きく心臓が脈動した。
文は縋る様な思いで言葉を重ねる。こんな悶々とした気持ちで過ごすのはどうしても嫌であったから。
「お願いです、ほんの少しだけでいいですから。私に弁明の機会を……」
「帰れって言ってるでしょう!」
金切り声が言葉を遮った。文は逡巡した。このまま強引に約束を取り付けては、余計に関係が拗れてしまうのではないかと。そうなってしまったら本末転倒である。
どうやら対面は無理そうだと、文は判断した。仕方無しに、扉の前に立ったまま、自身の思いを吐露した。
「私の行動であなたが怒るのは無理も無いことだと思います。ですが、私は決して、私利私欲の為だけに、ミスティアさんと屋台の広告掲載の契約を交わした訳ではないのです。あなたの斬新な手法が、少しでも早く、私達の中で当たり前になることを祈っていたのです。そうすれば、あなたへの非難も解消されるであろうと、そう思ったから……」
はたてからは何の返事も無い。聞いているのか聞いていないのかさえ判断が付かない。狙い澄ましたかのように吹き抜けた風が、空しさと物淋しさを増長させる。文は俯いてふっと小さく息を吐き、再び顔を上げて、言葉を紡ぐ。
「私を許してくれるのであれば、どうか、顔を見せて下さい。待っていますから」
文はそう言い切ると、見えもしないのに深く一礼し、その場を足早に去って行った。
文の声は、居の中の布団の上で、壁を背にして蹲っていたはたてに終始聞こえていた。聞こえてはいたが、彼女の頭は残念ながら、文の言葉を逐一理解しようと言う自助努力は、ほんの少しだって行っていない。左耳から入った文の声は、右耳からするりと抜けて行って、真っ暗な部屋の闇に飲み込まれて消え果てただけであった。文の謝辞は、無駄であったのである。
はたてが今、もう少しまともな精神状態でいたのであれば、先程の文の言葉ははたてに大いなる勇気を与え、彼女を元気付け、いつかお互いに誓い合った『ライバル同士』と言う関係を再構築し、良き新聞記者として二人で邁進して行けたかもしれない。何故なら、怒るのも、努めて独りでいるのも、それなりのエネルギーが必要なのだ。怒り続けていれば、独りでい続けていれば、やがて疲れてしまうのである。そしてはたては今、既に疲れ切っている。肉体的にも精神的にも疲労困憊である。ペンすら握れぬ、紙さえ摘まめぬ、零れたインクも拭い取れぬ……そんな状態にある。疲れて、疲れて、疲れて、もう死にそうなのである。
死の淵をよたよたと、危なっかしい足取りで歩く彼女が足を滑らせたその時、逝ってはならないと手を差し伸べているものと、彼女の早すぎる死を催促しているもの。それが同一のものであるから、はたては余計に複雑な気分に陥っている。
目覚めの無いと思える眠りに陥り掛けたその刹那、決まって彼女の右腕の、肩の少し先に、救いの雷光が奔ってくれる。ビリリとしたその痛覚は、幾度となく彼女に不快で苦痛な覚醒を齎してくれた。それがあるお陰で彼女は今こうして、暗い部屋の中で、額に脂汗を浮かべ、全身に冷たく嫌な汗を纏いながら、ほのかに呼吸を荒げ、二の腕の中程から先を奪われた右腕の断面に、左手でガーゼを押し当てて生きていられているのである。思い出すだけで生気が失せてしまうような出血は収まったのは分かったが、完全に血が止まったかどうかは、この暗がりの中では確認ができない。灯りを点けて確認してみる気は起きなかった。もう一度あの惨たらしい断面など見ようものなら、気を確かにしていられる自信が無かった。
私の右腕は一体誰の胃袋に収まるのだろう――暗がりの中、はたてはそればかりを気に掛かけていた。夜雀の提案した新しい戦略とは、『特別食』の提供である。一日の内で提供する数に限りを存在させた至高の一品。その材料こそ、姫海棠はたての身体の一部であった。ミスティアははたてに、契約の継続を望むのならば身体の一部を差し出せと要求したのである。
無論、はたては猛烈に反対した。そんな残虐なことをする必要性を感じなかった。豚なり牛なりで、今まで通り料理を作ればいいじゃないかと怒鳴り散らした。
天狗の肉が美味いのか不味いのか――そんなことは、生まれてこの方同胞を食ってみたことの無いはたてが知る筈がない。そんな美味い不味いも分からぬ料理の為に「あなたの体の一部を捧げてください」などと言われてもそう易々と首を立てに触れる筈が無い。否、仮に美味いと知っていたとしても、正常な神経を持っている者であれば嫌だと答えるであろう。そして、はたては至極まともな神経を持っていたので、首を横に振ったのである。あまりに突拍子も無く、そして常軌を逸した提案にはたては愕然としてしまい、それに潜む狂気性、猟奇性、異常性なんかを、すっかり度外視してしまっていた。今になって考えてみれば、ミスティアは気が狂っているとしか思えて来ない。
「そうですか。それでは仕方がありませんね。今まで本当にありがとうございました」
こう告げたミスティアの冷淡極まりない口調を、不愉快そうに細められた双眸を思い出してみるだけで、はたては背筋が凍るような感覚に囚われてしまう。食われる為に生れてきた養豚場の豚にだって、この時の夜雀の表情を見せてやることは困難であろう。
この冷酷な夜雀は、自身の提案が受理されなかったその瞬間、席を立ち、清算所の奥の部屋へ向かって歩いて行った。はたてはすぐさま後を追った。なんとか説得しなくてはいけないと思ったからだ。酷く慌てて立ち上がった所為で椅子が倒れた。
ミスティアにどんな説得をしたのか、はたては詳細には覚えていない。夜雀相手に、酷く無様に懇願を繰り返していたことだけは記憶している。言葉遣いが丁寧になっていた感覚まである。天狗らしからぬ頭の低さ――同胞に知られたら、一生ものの生き恥となるであろうことは想像に難くない。
ミスティアは厨房とスタッフルームを兼ねた部屋へ入ると、不似合いなロッカーを開け、戸の裏側に貼ってあった、一枚の紙切れを手に取った。はたてとの契約書である。はたてが行うべき業務と、得る権利。それに対してミスティアが払う料金や、新聞への発言権について――そんなことがつらつらと綴られた契約書を手に取り、彼女はガスレンジの方へ歩を進めた。その間もはたてはあれこれ言って妥協点を模索していたが、ミスティアは聞く耳持たずと言った風であった。
つまみを一捻りすると、円形の火が灯る。その円形の炎に、ミスティアが契約書を近づけようとするのである。紛れも無くそれは、契約の破棄を表していた。理不尽ではあるが、契約書が無いのであれば、互いの関係は真っ新なものになってしまう。
はたては泣いて喚いて、ミスティアを制止した。その頃には、四つの角の一つが燻られて黒ずんでいた。
「分かった、分かったわ。言う通りにするから」
なんて軽率な一言であっただろうと、はたては自身の言動を悔いている。失敗や苦難にはここ最近はよく巡り合っていたが、その中でも特に、この決断はあまりにも愚かであったと認識している。しかし、自身の大成を支える大黒柱の崩壊を食い止めるにはやむを得なかったとも言える。妖怪の治癒力を持ってすれば、欠損した身体の一部はいずれ再生するのだから、一瞬の激痛に耐えるだけで輝かしい未来を手に入れられるのだ。……前言を撤回するべきであろうか。こんなことを考える時点で、はたての神経がまともであるとはとても言い難い。
一度吐いた言葉はもう元の場所には戻れない。はたての胸中を抜け出したこの一言は、真っ直ぐにミスティアの耳孔へと向かって飛んで行った。これを聞いたミスティアは、にっこりとほほ笑んだ。
「その御返事を待っていました」
事の次第が決まると、ミスティアは着々と準備を始めた。すべらかな材質のまな板に、砥石、沢山の湿らせた布巾、大きな皿、そして救急箱――これら全てを、部屋の中央に置いてあるスチール製の台へ置く。横長長方形のこの部屋、それの『縦の辺』に当たる壁際に掛けてあったパイプ椅子を開くと台の傍に置き、「そこへお掛けになって」とはたてに一声かける。はたては生きた心地のしないまま、ぎくしゃくとした動きでその椅子にすとんと腰を落とした。
パイプ椅子の傍にある戸棚を開くと、果たしてそんなに使い分ける場面が存在するのかとはたてが疑問を抱いてしまう程の種類、数の刃物がズラリと連なっていて、まるで自身を売るかのように、粗末な裸電球の光を懸命に反射してキラキラと輝いていた。はたては思わずそこから目を逸らす。病気の予防接種を恐れる子どもが、注射針を見ないようにするのと同じような感覚である。
恐怖に震えているはたての背後で、ミスティアは口笛など嘯きつつ、がしゃがしゃと音を鳴らしながら刃物の選別を始めた。メロディはどことなく軽快で明るい雰囲気のものであった。その口笛が止んだと思ったら、「キミはこの前使ったよね?」とか「最近アナタは寂しそう」とか、刃物達に優しく語り掛け始めるのである。まるでぬいぐるみと戯れる女児の様相である。とても正気の沙汰とは思えず、はたては余計に震えを強くした。
数ある刃物の中から選ばれた本日のパートナーは、はたての肘から指先程までの刃渡りを持つ大型のものであった。しっかりと手入れが施されているのは、その輝きから一目瞭然である。
「リラックスして下さいね」
砥石で軽く刃を研ぎつつ、ミスティアは言った。はたてはぶるぶると震えながら、こくこくと頷いて見せるしか無かった。リラックスなんてできるものか――と言う言葉は意識せず飲み込んでいた。刃物を持った狂人相手に毒づく勇気など、はたてには無い。
その作業が終わると、ミスティアは「よし」とやけに張り切った調子で言い、
「それじゃあ、まな板に好きな方の腕を載せて。手首が天井を向くようにして。肘までしっかりまな板に付けて下さい」
こう指示した。はたては泣く泣く言われた通りに右腕を載せた。――後々、ここでの自身の行動はまるで思慮が足りていなかったと後悔することになる。自然と利き腕たる右腕を載せてしまったので、新聞作りがかなり大変な作業となってしまった。
大腿どこの辺りを切るかを目算する為、ミスティアが刃を二の腕の中程にピタリと触れさせてきた。冷たい刃の感触を、普段とは比べ物にならない程鋭敏な感度を持って感じたはたては、思わずびくりと身を竦ませた。その時、恐る恐るミスティアの顔を見たのだが、その表情に動揺や緊張、恐怖や罪悪感の色など微塵にも無かった。大好きな料理に打ち込むいたいけな少女の明るい面持ちだけが、そこに存在していた。
「やっぱり、痛いの?」
あまりにも普段通りの面持ちでいるミスティアを見ていて、感覚が鈍ってしまったはたては、嗚咽混じりにこんなことを問うた。もしかしたら自分が思っている程、今から夜雀が行おうとしている行動は残虐なものではないのではないか……そんな期待がほんの微かに存在していた。
ミスティアはきょとんとした表情を見せ、言った。
「そんなの当たり前じゃないですか」
これ以上の愚問もあったものではない――そんなことを言いたげな表情を一瞬見せた後、ミスティアが大きく深呼吸をした。
「では、断ちますよ。意識をしっかり持って。切った途端にショック死してしまったとか、気を失ったとかは勘弁願いしますよ。処置が面倒ですから。深呼吸、深呼吸。リラックスが重要です。あっ、そうそう。絶対に避けないで下さいね。不用意に動いたり護身したりすると、余計に苦しくなりますよ。必ず一撃で切断して差し上げますから」
諸注意を淡々と口にしたミスティア。はたては嗚咽を漏らしながら首を縦に振る。自分が腕を切断されようとしているなんて、とても現実味が無く、今感じている、見えている、聞こえている、香る、全ての要素は幻なのではないかなどと考えていた。
「じゃ、切りまーす。いっせーの……」
そんなおめでたい現実逃避の影響であろう。ミスティアの明るい調子の音頭はやけに遠く聞こえた。
ドン、と言う重低音が静寂極まる厨房内に木霊した。刹那を挟んで、はたての白くしなやかな腕を駆け抜けるは、荒々しく暴力的な電流の如し激痛。
次の瞬間、鮮血と絶叫が迸る。すっかり短くなった自身の右腕に手をやり、狂ったように泣き叫びながら、はたてはその場を転げ回った。激痛にのたうち回りつつ、塗料では再現不可能な赤色をぶちまける。身を捩らせる度に、溢れ出る血が床に幾何学的な模様を描く。鼓動に合わせてその量は変化する――この一連の動作に、羞恥や躊躇、美意識や自尊心などと言ったものの入り込む余地は一切無い。全てが無意識、全てが本能的。最高に生物的で、最高に自然的な動作を持って床に描かれる赤色の幾何学模様は、前衛的な芸術とも捉えることができるかもしれない。
はたてが身を呈して床に描いている赤い模様が、本当に芸術的価値を有しているのかはさておき、ミスティアはとにかく、ぎゃんぎゃん喚きながらたうち回っているはたてに酷く憤慨した。
「ちょっと! 床を血で汚さないでください! 掃除大変なんですから!」
そう言うミスティアは、台を汚した血を、予め容易していた布巾で拭き取っている最中であった。
叱責を受けたはたては、徐々に泣き声の声量を落とし、ひぃひぃと苦しげな嗚咽を漏らしつつも、ミスティアの言うことに従い、何とか立ち上がって、次いで崩れ落ちるように椅子に腰かけた。
ミスティアの許可も得ず、台の上のガーゼを引っ掴み、夢中でそれを傷口に押し当てた。白いガーゼはあれよあれよという間に赤色に侵食されていく。その最中、切り落とされた自分の腕が皿に移動させられているのを見て、はたては吐き気を催した。
「はい、お疲れ様でした。では、次の新聞には特別食のことを加筆しておいてくださいね。それから、この食材のことは、絶対に誰にも内緒です。もしも特別食の詳細がバレてしまった場合、例えあなたが身に覚えが無くても、私はあなたを殺しに行きます。刺し違えてでも。ですから、くれぐれも他言はしないようお願いします。感付かれるのもダメです。いいですね?」
ミスティアの冷然たる口調に聊かの恐怖も感じなかったのは、生命が危機に瀕している証であったのかもしれなかった。はたてはとろんとした表情でこくこくと首を縦に振った。
その後、包帯を傷口に巻き、ロッカーの中に入れてあったサイズの合わないコートを羽織ることで傷を隠し、料理店を出ようとしたその時、はたては重大な見落としに気付く。
「そうだ、新聞……」
蚊の鳴く様な声であったが、わざわざ店先まで見送りに行こうとしていたミスティアの耳には届いた。要領を得ない一言であったが、ミスティアは瞬時にはたてが言わんとしたことを察知した。
「そんな姿では、新聞を売れませんね」
ミスティアは渋面を作って唸った。はたてが今の姿のままで新聞など売り回ったら、彼女の異変に気付かれてしまうし、極度の出血や激痛で意識が朦朧としているはたては、早急に自宅へ帰って横になりたいようで、苦悶の表情御浮かべながら喘ぎ、壁に寄り掛かっている。応急処置と呼ぶのもおこがましく感じられる程の雑さで傷口に巻いた包帯は、既に血で真っ赤に汚れている。
仕方なくミスティアは、完成した新聞をここにもって来てくれれば、今回は私が代わりに売って回ると約束した。幸い、今日配る新聞は既に完成していて、はたては持ち歩いていたので、その新聞の山を客席に投げるようにして置くと、はたてはすぐさま料理店を出て、人目を憚るようにして帰路を辿った。
誰に会うこともなく居に辿り着き、随分長い間、どうにか意識を繋ぎ止めていた。意識を継続させるために何かしようと、約束の特別食に関する広告のデザインなどしようとしてみたが、ペンを握ることさえままならなかった。結局彼女は、リズムよく訪れる激痛でその都度意識を戻しながら居の中で過ごしていた。そこへ文が声をかけてきたが、この姿を見られてはならなかったし、話などする体力的、精神的余裕も無かったので追い返した。……これが彼女の身に起きた出来事の始終である。
当然のことかも知れないが、座っても横になっても、気分はちっとも良くならない。多すぎる出血の所為であろうと思ったはたては、何とかして血を作らなければと思い立ち、冷蔵庫――マジックアイテムの技術を応用している物――を開いた。はぁはぁと苦しげに呼吸をしながら、使い慣れない左手で中を探る。元々さして中身の無い冷蔵庫である。血肉になりえるものを、探すのは容易であるが、発見には少々時間が掛かった。
左手が柔らかく平べったい物に触れた。はたてはそれが何であるかを素早く察知し、それを掴んで引っ張り出す。引いて行く手に当たった苺ジャムの瓶が、バターの容器が、目薬が、ごとごとと音を立てながら地面に落ちたが、いちいち元の場所へ戻している余裕は無かった。取り出したのは数枚のハムの切れ端。サランラップと言う便利な外界の道具に包められている。
はたては食べ物に関する知識はさほど無かったが、肉は食われた後どうなるかくらいは、おぼろげに知っていた。それ程量は無いが、それでも微量ながら血肉になる筈だと、はたては慣れない手つきで包装を解き、中身である肉のスライスを口に運んだ。軽い塩味。次いで肉そのものの味が口の中に充満する。今食んでいるそれが、自身の体を構成する一部になる様を想像しながら咀嚼していた。
『肉を食っている』と言うことに関連し、彼女は切り落とされた自分の腕がどのように調理されるかを考えてしまった。――腕一本丸ごと豪快に焼き上げられるのか? 適当な大きさに切り分けてサイコロステーキでも作るのか? そもそも焼くのか? 煮込むかもしれない。蒸すかもしれない。燻製にするかもしれない。もしかしたら薄くスライスして……。
刹那、猛烈な吐き気がはたてを襲う。思えば、彼女が噛んで飲み込んだハムの一枚だって、生物を切り分けて作った加工食品なのだ。普段は気にも留めなかったその行為が、我が身に降りかかってきたことで、やけに残虐な行為に思えた。
堪え切れず、食ったばかりのものを床にぶちまけた。起きてからろくなものを食っていない、吐瀉物の内容は胃液が主である。だが、先程食ったハムはしっかりと形を残し、はたての目の前へ姿を現した。はたてが二十八本の歯でずたずたにした、平べったい、不自然な形の肉の塊。――これも生物であったものなんだ。そして、私の腕は……。
間もなく訪れた二度目の胃液の奔流が、容赦なくはたての喉を焼いた。
嫌という程苦しみ抜いて、ようやく迎えた翌日の朝。苦悶と共に過ごした夜に快適さなど一つも無かったし、何度も悪夢を見て目覚めた。しかし、体調の方は、少なくとも先日よりは快適であった。これもひとえに、妖怪の持つ驚異的な治癒能力のお陰であろう。昨日床にぶちまけた吐瀉物を拭き取って、そのままにしてしまっていた布巾から酷い異臭が感じられた。その異臭でまたもはたては吐き気を催しかけ、慌てて布巾をゴミ箱にぶち込んだ。
ミスティアに借りたコートを引っ掛けたまま眠っていた。傷の具合はどうなのかが酷く気になった。痛みは全く無かったし、そこに腕がある様な感じはするものの、動かすことはできないと言う、全く不可思議な状態であったから、余計に関心がそちらに向いてしまうのである。一方で、あんな傷をもう一度見るのは恐ろしいと言う思いもあった。だが、やはり見なくてはいけないと決心した。
まず、部屋の電気を付ける。暗くて分からなかったが、冷蔵庫や壁なんかに、僅かながら血の跡があった。ふらふらしていたから、その時に擦れて付いてしまったものであろう。
コートを脱ぐと、やけに短い自身の右腕が表れた。脇腹へも到達できない位置にある腕の先端には、赤黒い乾いた血が付いた包帯がぐるぐると巻かれている。所々白色も残していて、その斑模様が一層薄気味悪く感じられ、陰惨な雰囲気を醸し出している。
左手でその包帯を外しに掛かったが、巻き方が雑な上に、おかしな結び方をされているものだから、左手一本ではどうすることもできない。思案した挙句はたては、机のペン立てに差してあるハサミを持ち出し、慎重に包帯を切り始めた。傷口に数度、冷たいハサミがぶつかり、あの世にも恐ろしい体験が想起され、はたてはその度身を震わせ、涙を零した。
包帯を剥がすのに必要な部分だけ切り取ると、はたてはいよいよ包帯を剥がしに掛かった。固まった血がべりべりと音を立てて傷口から離れる度、ぴりりとした痛みが奔った。腕を切断されると言うこの上ない程の痛みを経験しても尚、こんな些細な傷の痛みはやはり苦しいものであった。痛みに慣れなど無いのである。心も同じである。どんなに罵倒され、非難され、嘲笑されても、それが悲しくなくなることなんて、はたてには一度も無かったのだから。
赤と白の斑模様の装飾を取り去って現れたはたての腕は、もう再生が始まっているらしく、中途半端に出来上がった骨がちょこんと肉から飛び出していた。はたてはその生々しい傷口を直視し続けることができず早々に目を逸らしたが、生物の手によって切断された傷口には見えない程に美しい傷である。刃物の性能、そしてミスティアの技量――双方が織り成した至高の業と言えよう。
はたてはやっとの思いで雑多な住まいの中で包帯を見つけ、苦心しつつ巻き直した。物憂げにその真新しい包帯を見やった後、左腕で涙を拭うと、ペンを握った。ミスティアとの約束を守らなくてはいけないと、新聞を書き始めたのである。昼過ぎに新聞を書き終えると、片腕が無いことを悟られない工夫をして印刷所へ行き、新聞を大量に印刷すると、またも人目を憚りつつミスティアの元へと飛んだ。
料理店には定休日の看板が吊るされていた。しかし、ノブを回すと扉はすんなりと開いた。
「こんにちは」
腕を切られたのが昨日の今日であるから、挨拶をしたその口調には少し恐れが含まれている。
声を聞き付けたミスティアが、いつも通り、厨房から姿を現した。
「あら、はたてさん」
ミスティアは驚いたような表情を見せた。はたては軽く礼をし、
「昨日は、どうも」
と告げた。新聞を売って回ったことか、腕を上手に切って見せたことか、どちらなのかミスティアは判断に迷ったが、とりあえず「どういたしまして」と返事をした。
「これ、今日の分。私は、もうちょっと、腕を治すのに時間がかかりそうだから」
要点だけを淡々と告げ、作りたての新聞の山をミスティアに手渡す。ミスティアはそれを受け取ると、すぐに清算所の卓の上に移動させ、一枚をまじまじと見やった。特別食開始のアナウンスがしっかり書かれていることを確認すると、満足げに頷いた。
「では、今日も私が売っておきますね。……そうだ、昨日の売り上げをお渡ししましょう」
思い出したように言うとミスティアは、清算所の奥の部屋へと消えて行った。すぐに戻って来たミスティアから、昨日の新聞の売り上げを受け取ると、はたては何も言わずに山内の自身の居へと戻った。
まだじくじくといやらしく痛む右腕を庇いながら布団に横になり、傷付き過ぎている体を休める。眠ろうにも右腕の痛みが、もう少しの所で届きそうな微睡みを遠ざけてしまう。退屈で、何の楽しみも無い時間ばかりが過ぎて行く。普段ならばどれ程売れるかと言う期待と不安が入り混じった心持で、自慢の新聞を売り回っている頃であろうに、今日は自分の新聞を別の者が売っている。自作の新聞が侵食されて行っている感じがして、はたては情けなさよりも恐怖を覚えた。このままずるずると進んで行けば、『花果子念報』の主導権は、いずれ完全に夜雀に渡ってしまうのではないか、と。
この虚構の栄誉を全て放り出して、昔の様な、あまり人気が無く、しかしやりたいようにやっていた頃の花果子念報を取り戻すと言う選択肢も存在した。だが、なかなかはたてはその踏ん切りをつけることができなかった。想像を絶する虐使を強いられながらも、彼女は虚栄を掴み続けようとした。今は虚ろなそれが、いつか実態を伴うことを無根拠に信じて。
翌日もはたては、新聞の販売をミスティアに丸投げすることにした。この傷が癒えるまでは人ごみに赴くことは止そうと思った。隠そうと思えば、服でも着込めばいくらでも隠すことはできる。だが、万が一この大きな傷を誰かに見られ、それについて言及された時、真実を庇いながら上手い言い訳をするなど、とてもできる気がしなかった。口が滑ってミスティアの蛮行を暴露してしまったら。そして、それが何らかの形でミスティアの耳に入ったら――はたては身震いした。
ミスティアはもしもこのことが知られたら「刺し違えてでも殺す」と言って聞かせてきた。嘘だとは思えなかった。躊躇も無く他人の腕の一本を切り落としてしまうあの夜雀ならば、本当に殺しに来るであろうと、はたては確信していた。
朝からこんな具合の陰鬱な考え事をしてしまい、はたてはすっかり気が滅入ってしまった。作っておいた新聞の束を愛用の肩掛け鞄に放り込み、ミスティアの元へ向かう。すっかり春は深まって、空さえも暖気に包まれていたが、落とされた右腕を隠す為にいろんな服を着込んで出掛けたので、春らしからぬ暑気に喘ぎながらの空路であった。
料理店の前に到着すると、重たい足取りで短い階段を上り、扉を開く。開店前なので鈴の音は無かったが、扉の開閉の音を聞き付けたミスティアが、厨房から姿を現した。若草色のエプロンを身に付けたミスティアがぱたぱたと軽快な足音を鳴らしながら現れた。
「おはようございます。お早いですね」
やはりミスティアは、先日の残虐非道な行いなどまるで気にしていない様子ではたてに語り掛けてきた。はたては一先ず、無言、無表情のまま軽く礼を返した。
「今日も私が新聞をお売りした方がいいですかね?」
ミスティアが問い掛ける。はたてはやはり無感動のまま、首を縦に振る。あまりにも素っ気無いはたての態度が聊か気になったようで、ミスティアは少し眉を顰めた。腕を切り落としてくれた相手には一体どう対応するのが最善なのだろう……などとはたては考えていたが、相手が急にあることを思い出したような表情を見せたので、思考はそこで中断された。
「そうだ、昨日の新聞の売り上げを持って来ますね」
そう言って踵を返し、白い帳を潜って姿を消したミスティア。壁と揺れる帳との間から、ちらりと薄暗い厨房が見えた。その光景を見た時はたての脳裏に、ふとここへ来たばかりの時のことが過った。無骨な銀色のスチール製の台の上で契約書を書いたこと。その後、ここのPRを考えて貰っている間に写真を撮ったのだ。撮ってほしくない場所などはあるかと言う問いに、彼女は『冷蔵庫の中は見ないで欲しい』と言っていたこと……そんなことを思い出した、その刹那であった。はたての心臓が破裂せんばかりに、一発だけ大きく脈動した。
クイズやパズルなんかで手詰まりな状態に陥った時、ある瞬間に突然ぱっと打開策を見出せることがある。それは、閃いた本人も不思議なくらい突然降って来るものである。はたては今まさに、その感覚を味わっていた。しかし、クイズやパズルなんかと違い、その唐突な発見に喜びなんてものは無い。ただただ残虐かつ陰惨なばかりで、その思考を編み出した自分が恐ろしく感じた。
切っ掛けは、初めてここを訪れた時のことを想起したこと。白いレースの帳を潜った先で見まわした厨房とスタッフルーム兼ねた部屋。奥の壁にはガスレンジに水道、そして件の、中身を見るのはご法度の謎多き冷蔵庫。
どうして冷蔵庫の中を見てはならないのか、当時はたては深く考えてみることもしなかった。中の状態が雑だから恥ずかしいのであろう……この程度の所で思考を止めていた。
更にその後、朝食たるサンドイッチを注文した際、調理風景を見ようとしたら、夜雀が夜雀らしからぬ凄みを利かせてそれを抑止した。契約の破棄と言う手法で脅して来た程であった。食に関する技術なんかの伝播を防ぐ為のものであろうと、はたては解釈していた。
次いではたては、――あまり思い出したくないのだが――右腕の切断のことを思い出す。薄暗く、飾り気の無い部屋の真ん中で、まるで見事なホールケーキを切り分けるかのような明るく軽々しい勢いで、すんなりと夜雀ははたての腕を切り落としてしまった。その証拠に、はたての右腕は今、存在していない。恐らく誰かに食われたのであろう――そう考えるとまた吐き気が押し寄せてきてしまった。
一連の動作は、全てが迅速であった。あまりにも突然に、そしてあっさりと腕は落とされた。はたてが契約続行の代償として、右腕を食材として提供することを了承した後の準備もかなり素早いものであったし、実際に切り落とすのも一撃の元で行われた。
「手慣れすぎてる」
当事者として感じたことから導き出したことを一人でぼそりと呟いてみて、はたてはまた身震いした。――夜雀がああいう形で誰かの腕を切り落としたのは、私が初めてではないのではないか? 今まで何度も切り落としてきて、私はその一端に過ぎないのではないか?
何故そんなことをする必要があるか。これは単純明快、食う為としか考えられない。ここは料理店なのだから。
つまり、この料理店の料理は、そういうモノを材料として扱って経営をしているのではないか――こう考えずにはいられなかった。たまに見た客人が食っていた料理も、はたてが食べたサンドイッチの中身も。全て、牛や豚なんかではなく、妖怪や人間でできているのではあるまいか。
調理風景を写真に撮ることを拒んだのは、食材の異常性が知れてしまうから。そして、中を見ないで欲しいと言ったあの冷蔵庫の中には――。
「お待たせしました」
頭の中を支配していた、血生臭く陰惨な幻影が、夜雀の声を聞くや否や瞬く間に消し飛んで行った。はたてはびくりと体を震わせ、厨房から戻って来たミスティアの方を向く。何やら妙に驚いているはたてをじっと眺めていたミスティアは、ややあってくすりと笑った。
「すごい汗ですね」
言われてはたては、自分が尋常でない汗をかいていることに気付く。
「厚着してるから」
何とかこう答えたが、この汗が衣類の所為ばかりでないことは、はたてだけが知っていた。売上金を受け取ると、はたては逃げるように料理店を出た。「忙しいから」と言って、ミスティアは外まで見送りに来なかったが、寧ろはたてにはそれがありがたく感じられた。
薄明るい森の中。春の風に煽られてがさがさと葉擦れの音を奏でる木々。刻一刻とその形を変化させる影は、巨大な魔物の手のように見え、今にも自身を取って喰らってくるのでは――こんな妄想を掻き立てる。
はたてはおずおずと振り返り、こんな森の奥に鎮座する夜雀の料理店を見やった。地底の鬼達の行き過ぎた気遣いによって、最悪の立地条件で建てられたと言う経緯が、この建造物にはある。しかし、今のはたてには、かの禁断の料理を隠す為に、わざわざこんな所に建てたようにしか思えなかった。心の持ち様で、世界はこんなにも違って見えてしまう。
途端にこの森自体が恐ろしく感じられ、はたてはまたも逃げるような気持ちに後押しされながら、妖怪の山にある自身の住まいへ急いだ。
山に降り立っても恐怖の生み出す焦燥は消えず、はたては走って自身の住まいへと向かう。腕の無い右の袖がバタバタと翻っているが、そんなことは厭わない。周囲に何者かの気配は感じなかったから、気にすることもあるまい――そう思っていた矢先であった。
連なっている天狗達の住まいである扉の一つが開いた。はたては驚き、慌てて脚を止めた――これが災いを齎した。はたては、転んでしまったのだ。
扉から出て来た射命丸文が、転んでいるはたてに目が行ってしまうのは至極当然と言えよう。
「あら、はたて?」
文は心底驚いたように目を見開いた。早朝から自宅前で、心を覆う靄の原因となっている友人が転んでいると言うだけでもなかなか不自然で稀なケースであろうが、文の関心はそういう方向へは向かなかった。そんなことよりも遥かに際立った不自然が、その見開かられた目に、嫌でも飛び込んできたのだから。
たちまち驚愕の表情は消え、恐怖と戦慄の二色に彩られた。文がおずおずと口を開く。
「は、はたて? あなた、その、右の腕……えっ?」
感じている不自然さをいざ口にしてみると、その異常性、非現実性が実感でき、文は見えている現実を疑り始めた。
萎れ切った花のように地面にふにゃりと横たわっている自身の衣類の右袖に一瞥くれたはたては、悔しげに歯を食い縛ると、左手と脚の力を使って立ち上がり、何も言わずに帰路を駆け出した。文は当然、それを追いかける。
『知られた』ことによってはたての心に生じたのは羞恥と恐怖。新聞大会の為に腕を切って夜雀に献上しました――心の中で弁明してみて、はたては思わず口元を釣り上げた。涙も零れてきた。新聞大会など、聊かの正当化にも繋がらない。こんな行為は異常でしかない。
そして、夜雀との約束が想起された。如何なる形であっても、料理の秘密が知られたら殺しに行く――。文が黙っていてくれるとは、どうしてもはたてには思えなかった。今の彼女にとって、世界の全ては敵なのだから。文も例外では無い。虚構の栄華で調子付いていた弱小新聞の為に、言葉通り『身を捧げた』愚かな同胞……これ程面白いものもこの世に少ないであろう。それを経て夜雀は自分の失態を知り、刺し違えても殺しに掛かる――もはや、希望もへったくれもあったものではない。何もかもを投げ出したい気分に陥った。
住まいの扉を開け放ち、中へ駆け込み、すぐさま扉を閉めようとしたが、寸での所ではたてに追い付いた文の手がそれを阻止した。
「はたて、待ちなさい! その手は何です? 何があったのです!?」
文が問うが、はたては聞く耳を持たない。
「あんたには関係無い! 放っておいて!」
二人の諍いの声を聞いた天狗達が、朝から一体何事かと、次々自身の住まいから出て来た。あっと言う間にはたての住まいは同胞達の注目の的となってしまった。はたてはこれ以上、自身の腕の異変を同胞に知られる訳にはいかないと、力づくで文を追い返そうとする。文は、先程からはたてが見せている様子から、あまり事態を大きくするべきではないと判断した。そこで、少々強引であるが、扉を蹴飛ばしてはたてをのけぞらせ、その隙に彼女の部屋と飛び込んだ。蹴られた扉が顔にぶつかったはたては、鼻っ面を抑えて呻くばかり。入って来た者を追い返すような力が自分に備わっていないことを認識しているのである。
はたての部屋は真っ暗であった。これでは埒が明かないと、文は付近の壁にある灯りを点けた。明るくなった部屋の全貌を見た文は、戦慄せざるを得なかった。床に、壁に、布団に、赤黒い斑点や一本線が描かれているのである。絵具やインクの色で無いことは一目で分かった。どう見ても鮮やかさに欠けているのである。文だって新聞記者だ。色材の出す色には慣れている。
では、正確には、その反転や一本線は何で描かれているのか――それは、はたての右腕の異変を経た今の文の意識で考えれば、嫌でも『血』と言う結論を導き出してしまう。そして実際、それに間違いは無かった。
文はごくりと生唾を飲み込み、先ず、背後にある扉を少し開き、外の様子を見た。相変わらず、野次馬の同胞が、聊か緊張した面持ちではたての住まいを見やっている。文は困ったような笑みを浮かべ、野次馬達に告げる。
「朝からお騒がせしてすみません。私事ですから、ちょっと盗み聞きは止めて頂きたい」
そう告げ、扉を閉め、施錠をし、くるりとはたての方を振り返る。
はたては床に鳶座りで座り込み、ぐずぐずと泣いていた。見られてしまったものは仕方が無い、と言った具合で、再生半ばの右腕を隠そうともしない。残っている左手で、とめどなく溢れて来る涙を懸命に拭いながら、嗚咽と吃逆を繰り返している。文は惻隠の情を抱きつつ、そっとはたてに歩み寄る。
その身に、枕が投げ付けられた。痛みなど皆無であるが、その抵抗は文の足を止めるには十分な威力を秘めていた。
「あんたのせいなんだから」
震える声ではたてが言う。文は下唇を噛みながらそこに佇み、はたての言葉を聞き入れる。今のはたての言葉は、紛うこと無く、彼女の本音であると思えたから。
「あんたがあんな真似をしなければ、こんなことにならなくて済んだんだから!」
枕の次は丸めた紙屑が放られた。はたてのこれは八つ当たりのようなものである。自身を出し抜いて成功の道を歩み出した文への嫉妬と私怨。そして、虚栄にしがみ付く彼女を襲った不幸と苦痛――これらを一緒くたにして、文へぶつけて発散しようとしているのである。
その後もはたては、「あんたのせいだ」と繰り返しながら、身の回りにあるいろんなものを投げ続けた。ペン立て、肌着、本、プラスチックのコップ――そう言った物が次々放られては、文に当たったり、当たらなかったりしながら、どさどさと地面へ落ちて行く。嗚咽、吃逆、呪詛、落下音。これらの音ばかりが、静かな部屋の中に響いていた。その残響はとてつもなく空しく、そして同時に痛ましく――はたては自ら、投擲の手を止めた。自身の行為があまりにも虚しく感じられた為である。
最後の落下音は、彼女の左腕が奏でた。床に投げ出された涙塗れの左手はぶるぶると震えながら握り拳を作っている。その手をそんな風にさせているのは、私怨と自戒から来る自重の念である。遂にはたては、自分自身さえも信じられなくなってしまった。
砲火の終焉を察した文が、再びはたてに近づく。その最中、はたてからの抵抗は一切無く、難なくはたての傍まで辿り付けた。そっとその場にしゃがみ込み、はたてと目線を合わせようとした。はたては俯いていて、文に一瞥くれようともしない。
「はたて、教えて下さい。その右腕はどうしたのです? 何があってそんなひどいことに」
「新聞の為よ」
文の言葉を半ば遮るようにして、はたてが言う。その口調はやけにはっきりとしていて、同時にどこか嘲笑の色も感じられた。
唐突で、しかも予想だにしなかったはたての返答に、文は返事の言葉を失い、思わず首を傾げた。はたては相変わらず俯いているので文の動作を見てはいないが、そのまま訥々と、自身の身に起きた一連の悍ましい出来事を語って聞かせた。どうせこの右腕を見られてしまったのだから、どれ程暴露してしまおうと事態は変わらない――そんな思いで、何もかもを語って聞かせた。
語り終えたはたては、偉業を成し遂げたかのように、はぁと大きく息を吐き、顔を上げた。物憂げに虚空を見据える泣き腫らした眼に僅かに吊り上がった口元――それらが成すはたての表情は、酷く安堵している様に見える。一人ぼっちで苦悩し、苦戦を続けてきたうら若き新聞記者がようやく安息を手にしたかのである。もう苦しむことはない。いずれ全てが終わるのだから――諦めとも捉えられる、虚無的な安息である。しかし、それが今のはたてにはとてつもなく心地の良いものであった。胸中に堆積し続けて来た滓を、ようやく吐き出すことができたのだから。
何もかもを聞いた文は、自責の念やら、はたてへの惻隠の情やら、夜雀への憤りやらで、胸が一杯になった。しばらく無言のまま、抜け殻のようになって薄く笑んでいるはたてを見やっていたが、溜まらずその身を抱き寄せた。はたてが僅かに目を見開く。
「長らくあなたを苦しめてしまったことを、あなたがこんな状態になるまで何もできなかったことも……本当に申し訳なく思っています」
そのままの姿勢で文が言う。
「そう」
はたての返事はあまりにも素っ気無い。
「はたて。提案があるのです」
「何?」
「昔のやり方に、一緒に戻りませんか?」
「いっしょ……?」
孤立無援の戦いを続けて来たはたては、この言葉に強く反応した。文はこくりと頷き、言葉を紡ぐ。
「ミスティアとの広告の契約を二人で止めて、新聞の質だけで比べ合う日々に戻るのですよ」
「だけど、そしたら、私たちの新聞は……」
「ええ。きっと大会での順位は降格するでしょう。だけど、以前と同じ状態でがんばれるようになります。あなたの戦略が認められる時代は必ずやってきます。それまではまだ、以前のように、地道に泥臭くやっていけばいいではありませんか」
言い終えた所で、文が抱く力をより強くする。治り掛けの右腕の真ん中から飛び出ている骨が文の体の一点を押す。骨の先が何かに触れたことを感じ取ったはたては、思わずぴくんと体を震わせた。その一瞬の動作に呼応したように、文が更に言葉を重ねる。
「こんな思いをしてまで意思を貫くことなどありません。こんな不幸せな思いのまま、良い新聞など書けるものですか」
醜い傷痕を晒しているはたての右腕を、文がそっと撫でる。はたての双眸から再び涙が溢れ出した。
「……できるかなぁ」
はたてがぽつんと呟く。文はふっと微笑み、何度も頷いて見せた。
「勿論できますとも。簡単です。広告掲載と言う新しい戦略をやってのけたあなたですから。過去を踏襲することなど、造作も無いことですよ」
「本当にそう思う?」
「過去を掘り返すのはあなたの専売特許ではありませんか。ねえ、念写使いさん?」
砕けた口調で文がこう言うと、はたてはいよいよ堪えることができなくなって、周囲への迷惑なんかを省みず、声を上げて泣いた。はたての気が済むまで、文はじっとその体を抱き締め続けた。
はたてが落ち着くと、文はようやく体を離した。そして、肩に手をやり、二人で一緒に、前の体勢に戻ろうと誓い合った。はたては何度も首を縦に振った。もう恐ろしい目に遭う嫌であったし、自身の理解者を裏切るような真似をするのも気が引けたからである。それでも文は念入りに、はたての誓いを確認した。その都度、はたては誠実な答えを出した。それからはたては文に、自身の取ったいろんな行動を公言しないで欲しい、と言う旨を伝えた。夜雀に知られると末恐ろしいから――このこともしっかりと伝えた。文はそれを了承した。新聞のネタにすることも、他者に公言することもしないと誓った。
古きを再開する新たな始動を二人で誓い終えると、文ははたての居を後にした。
野次馬に盗み聞きは御免被る、とは言っていたが、やはり中の会話を聞こうと奮闘していた者はちらほらいたようであった。しかし、外にいてどうにか聞こえたのは、感極まったはたてが大泣きした時の泣き声だけで、新聞記者や話の種としては一番重要であろう、はたての波乱万丈の数カ月の話は全く聞くことができなかったらしい。その証拠に、部屋を出て来た文に、数名の野次馬は「どんな話をしていたのか」と尋ねたり、「情報の一部を売ってはくれないか」などとの商談を始めたりしたが、当然のことながら、文はその全てを振り切った。はたてから聞いた話を軽々しく商売や取引に使うつもりが無かったのもあるが、それよりも、彼女は急いていたので、野次馬達と話をする時間が惜しく感じられたのである。
はたての言う、夜雀の狂った料理――材料が彼女らの様な高等な知的生命体であるかもしれないと言う憶測。俄かには信じ難い話であるが、はたての右腕を見れば十中八九が嫌でも信じてしまうことであろう。そして文はその八か九に分類される存在である。彼女ははたての話を全面的に信頼している。
その推測が、以前文が追っていた妖精や妖怪の失踪事件と繋がったのである。失踪した者はいくら探しても結局見つからなかったと言うことが取材の結果分かっている。それはもしや、肉も骨も残らず食われたからではないかと、文は考えたのである。
少し痛い目に遭って貰いましょうか――はたてをあれ程酷い目に遭わせながらのうのうと暮らしている夜雀の顔を想像し、文は胸中で激憤の炎を燃え上がらせていた。
夜。仲間からの飲みの誘いを断り、文は夜雀の料理店を目指して空路を進んだ。黒雲の覆う暗い空であった。一雨降るかもしれないと思ったが、だからと言って彼女が心中に秘めた計画を中断することは無かった。
夜雀の料理の異常性を示す確固たる証拠を手中に収める――それが文の計画である。それで新聞を書いたりするかどうかは、無事に物的証拠を手に入れた後、はたてと話し合って決めるつもりでいた。はたては命を脅かされた為、あまりこのことを広めたがっていないからである。どうなるにせよ、夜雀をこのまま御咎めも無いまま放置しておくことはあまりにも不本意であった。公表しないにせよ、それを仄めかして強請の一つや二つ働いて、はたてへの贖罪でもさせてやらねば、文の気が済まなかったのである。
空路を行く最中、雨が降って来た。初めは疎らであったが、あっと言う間に土砂降りになった。雨滴で空は霞み、視界を遮る。前髪から滴り落ちて来た雨滴が目や口に入って鬱陶しさやら不快さやらを与えて来る。そんな自然の妨害にもめげず、文は目的の料理店へやっと辿り着いた。位置を正確に覚えていなかったのと、視界があまりにも悪かった影響で少々道に迷ったが、まだまだ夜が明けるような時間ではない。文は心を落ち着かせ、料理店の前へ降り立った。
屋台をやっている最中であるから、料理店の方へはいないだろうと高を括っていた。現に生物の気配は無い。篠突く雨が葉や大地を叩く音に、風に弄ばれている木々の葉擦れ。それらの音ばかりが真っ暗闇の中で響き、何やら不吉な雰囲気を醸し出している。
料理店の出入り口である扉の前の階段をゆっくりと登り、ノブに手を掛ける。捻ってみるが、予想通り、扉は開かない。穏便に不法侵入する術は無いものかと思案し、建物の周囲を一周ぐるりと回ってみたりしたが、そんな都合のいいものは存在しなかった。ならば致し方あるまいと、文は扉を蹴破ってしまった。壊れた扉を立てて、申し訳程度のカモフラージュを細工しておき、そっと料理店へ侵入した。
はたての証言と言う色眼鏡を通したお陰であろう、店内は血の香りに満ちているように感じられた。扉には鍵が掛かっていたのだから、中に誰かいる筈が無い……とは思いつつも、狂気と猟奇性に満ちた料理が行われている疑いのある、右も左も判別できないような闇に覆われた建物の中を歩くと言うのは、並みならぬ不安と恐怖が付き纏う。他者の腕を平気で切り落としてしまうようなあの夜雀であれば、防犯の一環として虎挟み等の罠でも拵えていて、掛かった泥棒を食っているのではないか――冗談交じりの思考であった筈が、これがなかなか現実味を帯びていて、文は思わず身震いした。
若干へっぴり腰になりながら、壁に手をやりつつ、文は厨房を目指して歩く。先程も記したが、屋内は右も左も分からない闇に覆われているし、おまけにここへ来たことは一度しか無いので文には地の利が無い。それに加えて罠への疑念が払拭し切れないので、どかどかと進む訳にはどうしてもいかないのである。
清算所の卓は、厨房の入口を見る形で立った時の、向かって右端は開閉式になっていて、持ち上げると左へ折り畳めるようになっている。ミスティアがそうやって厨房へ向かっていたことを思い出した文は、該当する部分を手探りで探し当てた。すぐにそれは見つかった。卓の下部へ手をやり、持ち上げると、すっと一部が持ち上がったのである。
持ち上げると同時に、外でけたたましい轟音と共に雷鳴が奔った。文は心底驚いて、途中まで持ち上げた卓を手放してしまった。卓がまたバタンと音を立てるものだから、それにも驚き、文は思わず飛び退いた。誰が見ている訳でも無いのだが、雷如きに驚いてしまったことに羞恥を感じながら、再び卓の一部を持ち上げ、ようやく厨房へ立ち入ることに成功した。
外から隔絶されている厨房は増々暗さを極めていた。
この部屋を初めて見た時に文が感じた第一印象は、とにかく無骨で寒々しいと言うものであった。冷然たるタイルの壁。ざらつく薄汚れた石質の天井と床は灰色一色。頼り無い橙色の光を放ちながら宙ぶらりんになっている裸電球。部屋の中央に置かれている、機能性だけを追い求めたかのような、銀色の大きなスチール製の台。可愛げのない水場にガスレンジ、そして冷蔵庫――洒落た部分など微塵にも無く、それでいてミスティアの着用していた白いエプロンがとかく愛らしいデザインであったものだから、部屋の無骨さが余計に際立っていた。そんな訳で、文はこの部屋にあまりいい印象を抱いていない。それに追い打ちを掛けるように、はたての右腕の一件である。そろそろこの部屋を処刑場か何かのように思い始めたとしても、何も不自然さは無い。
異常なまでに暗い部屋であった。このままでは埒が明かないと、文は壁に手を這わせて、闇雲に電灯のスイッチを探した。探し求めているものが本当にあるのかさえ分からないままでの行動であったが――何と言う幸運であろうか、彼女はスイッチに手を触れたのである。
パチ、と音がし、天井から吊るされている裸電球が弱々しい光を放つ。弱々しくはあるが、この完璧な闇に瑕を付けただけで、この裸電球は賞賛されるに値する。それ程大きな光ではないが、在るか無いかの差は一目瞭然であった。文の記憶通りの、無骨で寒々しく洒落っ気の無い処刑場のような部屋が明るみに出た。実際に明るくなった部屋を一望してみると、その薄気味悪さは一入であった。部屋に置かれているあらゆるものが灰色と黒色と銀色で構成されているように見えた。裸電球の放つ橙色の光は、この部屋唯一の極彩色なのだが、いかんせん覇気が足りておらず、銀色で反射して寧ろ不気味さを助長しているような印象を受ける。
何はともあれ、部屋の探索は可能になった。文はごくりと生唾を飲み込み、一歩を歩み出した。
確固たる証拠と言えば、やはり忌わしき肉塊を写真に収めることだろう、と文は思った。そんな血生臭いものを撮る為のカメラではないのだが、はたての為と割り切った。
そして、肉塊の置き場所と問われて真っ先に連想されるものは、言わずもがな、冷蔵庫である。冷蔵庫は水場の横にどっしりと構えている。銀のメッキが所々禿げた、文よりも背の高い大型のものである。はたてと同じく、文にもどうやってこの冷蔵庫を動かしているのかは、よく分からなかったが、とにかく駆動はしているが分かった。近づいてみると「ブーン」と家電特有の低い音が聞こえてきたからである。
年季の入り様は表面だけに留まらず、その取っ手にも表れている。黒のメッキが取れ、塗装前の色が見えているのである。三段に分かれていて、上段が最も大きく、観音開きになっている。中段は最も狭く、下段はその中間。上段以外は引き出しになっている。
文は上段の取っ手にもろ手を添えた。そして意を決し、観音開きの扉を一気に開け放つ。
扉の内側に設えられているポケットに入れられた酒瓶や牛乳瓶ががらんと音を立てた。庫内の薄明かりが漏れ、頼り無い裸電球を後押ししたが、焼け石に水であった。雨でずぶ濡れの状態で一緒に漏れだした冷気に晒された文は、一瞬ぶるりと身を震わせた。庫内には、雑多にいろんなものが入っている。それを改めようと、最寄りの小皿に手を掛けた、その瞬間であった。
右の腿に激痛が奔った。脚の力が一気に抜け、文はがくんと、その場にうずくまった。薄明かりを頼りにして損傷部を見れば、鉄串が一本、彼女の履いている短いスカートを太腿に縫い付けているように刺さっているではないか。
痛みに喘ぎ、叫ぶよりも先に事態の把握を優先した所が、文の毅然さを表していると言える。しかし、その毅然さも次の瞬間には絶望と苦痛に歪まされ、儚く消えていくこととなる。第二、第三の鉄串が飛んで来たのだ。二本目は右肩に、三本目は腹に。三か所の激痛のどこをカバーするべきなのかを考える間もなく、第四、第五、第六、第七……結局十本を越える鉄串の雨が文を襲った。刺さることなく冷蔵庫にぶつかり、かぁんと音を立てて地面へ落ちた六本目さえ、文の頬を掠めていたことから、その精密さが窺える。
この六つの激痛に耐えられる程の精神力はさすがに持ち合わせておらず、文はとにかくこの激痛を絶叫することで表現し、そして緩和させようとした。その絶叫の合間に聞こえる、あどけない笑い声。こつ、こつとリズムよく刻まれる足音は段々と文に近づいてきて、目の前で止まった。文が顔を上げる。そこに立っていたのはミスティア・ローレライである。――何と不幸な偶然であろうか。本日の豪雨の影響で屋台を続けることが困難になり、早々とここへ撤収してきたのである。
雨水を滴らせたまま佇み、文を見下ろすその双眸は、この部屋に匹敵する程暗澹としている。もろ手には数本の鉄串。屋台で使っているものであろう。ミスティアはその薄気味悪い闇を湛えた双眸のまま、穏やかに微笑んで首を傾げ、開口する。
「こんばんは、文さん。こんなところで一体何をされているのです?」
口調は明々たるものであった。文は答えられる筈もなく、ただただ憎々しげにミスティアを睨み返す。痛みを堪えながらの抵抗ではこうするのが精一杯であった。視線だけで一体何ができよう、とでも言いたげにくつくつと笑って、夜雀は言葉を続ける。
「私の愛用の冷蔵庫に何か御用です? 忘れ物かなにかですか?」
「そうよ。忘れ物」
侮蔑の念を込めた薄い笑みを浮かべつつ文が言う。するとミスティアは笑みを深めた。
「冷蔵庫に一体何を忘れると言うのです?」
相変わらず明々とした口調でそう言い、文の膝に突き刺さっている鉄串を踏み付けた。膝蓋骨を強引に突き破って、鉄串は文の体の中へ沈み込んで行く。絶叫が舞い戻った。ミスティアはけたけたと笑って、のたうち回る文を見やっていた。しばらくそうして笑った後、ぱちんと指を弾き、こんなことを言った。
「あ、もしかして裏切り者の肉ですか?」
この言葉を聞くや否や、耐え難い苦痛の影響で遠のき掛けていた正気を、文は俄かに取り戻し、ミスティアを睨みつけた。
「やっぱり、あなたは本当にはたての腕を……!」
「あーあ。はたてさん、やっぱり誰かに言っちゃったんだ」
そう言いながらミスティアは、妖怪の山のある方角に物憂げな瞳を投げかける。はたてがどこまで文の意思とそれに準じた行動を把握しているのかミスティアは知らなかったが、ともあれのうのうと幸せに過ごしていると思われるはたての姿を想像してみた。次いで、全身の至る所から血を流している、鉄串塗れの文を見やる。はたては自分の苦しみを誰かに伝えられたことで、さぞや晴れやかな気分で過ごしているであろうとミスティアは察する。対して、はたての秘密を知り、彼女を救わんが為にここへやってきた文の哀れな姿を眺め、またも口元を釣り上げる。希望と絶望――面白い程はっきりとした対比であった。
「まあ、言ってしまったものは仕方ありませんね。然るべき処置を施すまでです」
出掛ける予定でいたのに、当日雨が降ってしまった……そんな具合の呑気な口調。然るべき処置の内容を知っている文は、最悪の未来を想像し、戦慄した。その瞬間、ぶるりと頭の中が震えた。視界は一瞬だけ真っ黒になり、体中がじわりと熱くなった。
膝を穿たれた方の脚は使い物にならないからと、反対の脚で思い切り地面を蹴って跳躍する。目指すは夜雀である。この後自分がどうなろうとも、こいつを殺すしかない――文はそう思った。はたてを守り通すには、そうするしかないと。
跳躍後の着地のこととか、抵抗の術とか、そういうことは一切考えていなかった。猪のように真っ直ぐに、考えも無く猛進した。
*
文と再生を誓い合った翌日、はたては久しぶりに清々しい朝を迎えた。完全に胸中に溜まった滓が抜け切った訳ではないが、今までよりは幾らか心が安らいでいた。様々な重圧や、束縛から解放されたことによる爽快感があった。
文は昨夜の内に、ミスティアとの契約を打ち切りに行くと話をしていた。この日ははたての番である。聊か緊張した。あの夜雀が素直に契約の破棄を承諾するのかどうか不安であった。だが、契約破棄を先に促して来たのは向こうであると言う事実が、はたてに申し訳程度の勇気を与えた。それでも、もう一押し、背中を押してくれるものが欲しい――そう思った彼女の脚は、自然と文の住まいへ向かっていた。勿論、右腕の傷は隠した。山内の同胞の姿はまだ疎らであった。
文の居へ着くと、すぐに扉を叩いた。しかし、返事が無い。もう一度叩いたが、やはり結果は同じであった。これ程やっても返事が無いと言うことは、不在であろうと判断し、はたては空しげに来た道を戻った。
自身の住居へ戻ると、すぐに布団に寝転んだ。本日やらねばならないことの重さに転がされたような感じで、寝転んですぐ、聞く者の気を滅入らせるようなため息を一つ吐いた。そのまま、どうして文はいないのだろうと思慮を巡らせていた。文はまともな商売をしている屋台の方の広告を出しているから、自分と同じような理由で血生臭い出来事に巻き込まれることはありえないと、はたては不吉な予感を払拭した。きっと、新聞のネタ探しや取材なんかで帰って来ていないのだろう――そう結論付けた。
新聞と関連し、はたては昨日、この部屋で文に言われたことを思い出した。
『過去を掘り返すのはあなたの専売特許ではありませんか。ねえ、念写使いさん?』
念写と言うのは、他人が移した写真を、はたての持つケータイで検索し、自分の物にするというものである。以前彼女はこの能力を使って、二番煎じの新聞を量産していた。それでは人気が取れないと知り、彼女も取材やネタ探しに幻想郷中を奔走するようになったのである。
「最近あんまり使ってないな、念写」
ぽつんと呟く。彼女の言った通り、最近はすっかり念写の能力は使われず、埃を被っている。夜雀の所へ行く決心がつくまで、久しぶりに念写で遊んでみよう――そう思い、文は自身のケータイで念写を始めた。
カメラで撮った写真であれば、どんな写真でもケータイで手にすることができる。画質等は全て写真の質に委ねられるので、はたての腕もへったくれもあったものではない。それが有利に働く時もあれば、もっと画質が良ければと臍を噛む思いに駆られることもある。
相変わらず幻想郷には様々な写真があるらしく、その数はとても数え切れたものではない。人里の裕福な家庭が撮影したものであろう、人間が家族であろう者が全員揃って映っている写真。子どもの写真。御見合用のものと推測できる美しい女性の写真。
カメラはまだ幻想郷では珍しいものであるので、写真の多くは同胞が撮影したものとなっている。新聞に掲載する為の写真が散見できた。何かの事件の痕跡らしい焼け跡を撮影したものや、悪戯の真っただ中の妖精を激写したもの。不意打ち的な撮影をされたらしい秋の女神が驚いて目を丸くし、レンズを見やっている写真なんかもある。その写真に秘められているのであろう小話や背景なんかを想像して楽しんでいた。……その最中であった。はたてが思わずがんと目を見開き、息を止めてしまった写真が目に飛び込んできたのだ。
背景に見覚えがあった。橙色の光を反射させる銀一色の無骨な台。台の奥の方には灰色の石質の壁があり、その手前にある水場とガスレンジと冷蔵庫までもが映り込んでいる。映ってもいないのに、写真の横も手前も、撮影場所にある唯一の出入り口から出た瞬間の風景さえ想像できる。
いや、そんなことはどうだっていいのだ。はたてにとって、そんな所は重要ではない。問題は、銀の台に乗せられたモノである。
台の上には五つの大小様々な皿がある。色は白を基調とし、時々赤色が点々と落とされている。赤は皿本来の色でないことはすぐに分かる。……仮に皿本来の色であったとしても、皿に盛られている、どう見ても人体にしか見えない肉を一緒に見れば、その赤が滴った血であると認識してしまうことであろう。頭、腕、脚、胴、臓――五つに分けられた人型の生き物が皿に乗せられていて、誰かがそれをカメラに収めているのである。
ケータイを握るはたての手ががたがたと震えた。叫び声など上げようとも思わなかった。声よりも先に涙が出て来た。次いで全身を冷たい汗が覆い尽す。
「あ……文? 文?」
ようやくはたては声を出した。念写で偶さか手にした陰惨な写真に写り込んでいる、好敵手の生首に語り掛ける。勿論、写真は返事などしない。尤もこの様子では、写真でなくとも、彼女の語り掛けた者――射命丸文は、絶対に返事などできないであろうが。
震える指が次なる写真を表示した。同じ“食材”を、別の角度から撮影したものであった。次のものも同様であった。次も同様。次も。また次も……。
もう一度ボタンを押した所で画面から文は消え、端然と佇んでいる聖人の写真が表示された。
弾かれるように布団から跳び起きたはたては、反射的に傷を隠す為にコートを羽織ると、自身の住まいを飛び出した。出したことも無いような速度で空路を行き、夜雀の料理店へ向かった。
昨夜の雨の影響で大地はぬかるんでおり、着地とほぼ同時にはたては盛大に転倒した。水を多分に含んだ泥が大量に付着したが、はたてはそれを厭わず、料理店の入口へ駆け寄る。扉が壊れているようで、外れたドアが雑に立てかけられている。はたてはそれを押し倒した。あの澄んだ音色を奏でていた鈴が完全に潰れた。轟音が静かな森に鳴り響くが、それを聞いた者ははたてを含めて二人だけで、双方ともそんな音を気にすることはなかった。
清算所の卓の端を持ち上げ、白い帳を潜り抜ける。
「文ッ!!」
泣き声にも似た叫びは、密室性の高い厨房で反響できるだけ反響し、そして消えて行った。そこにいたのは、デニムのエプロンを着て、忙しげに床をブラシで磨くミスティア・ローレライの姿。床に洗剤を撒いて掃除をしているのであろう、床の至る所が泡立っている。そして遍く泡はほんのりと赤みが掛かっている。
不吉な赤い泡――その真相は何たるやと問うように、はたてが夜雀を見やると、相手と目が合った。その頬や手は、どこか汚らしい赤色に染まっているではないか。
「あっ、おはようございます。はたてさん」
そんな状態で尚、夜雀は普段通りに挨拶をしたが、もうはたては普段通りを装うことはできなかった。何も普段通りでは無いように見えた。今の彼女にとっては、この部屋の全てが異常で、生きているこの世界の何もかもが狂っていて、一切合財が一夜にして消失したような気分であった。慣れ親しんだ世界は露と消えてしまったような気持ちであった。
「文は?」
双眸からぼろぼろと涙を零しながら、はたてが問う。ミスティアは無言で小首を傾げた。
「とぼけないで! 念写で見たのよ! 文がばらばらになって、この部屋で、皿に盛られて……」
はたてが金切り声を上げながらミスティアの胸倉を掴む。左手のみのそれは、威圧としては少々心許無い。両手があった所で、はたてが相手であれば、夜雀は怯むこともしなかったであろうが。
「念写と言うものが何なのか私は分かりませんが、知っているようなら隠し立てすることはありませんね。彼女は私がさばきました」
「さばいた、ですって……?」
「ええ。不法侵入罪諸々の贖罪として『裁』きました。食材として『捌』かせていただく形で。……あら、私珍しくうまいこと言ったかも」
嬉しそうに微笑むミスティア。それから、カメラが手に入ったので、面白半分で肉塊を撮影してみたと付け加えたのだが、はたてはもうその声を聞いておらず、夜雀の胸倉を掴んでいた手を放し、その場に蹲り、込み上げて来た胃液を床にぶちまけた。顔を顰めて「仕事を増やさないでくださいよ」と毒づくミスティアの口調は、やはりいつも通り、呑気で明々としたものであった。
「それはそうと、はたてさん。あなたは本当に約束を守れない方なんですね?」
赤みがかった泡をブラシに付け、床を磨きながらミスティアが言う。はたては弾かれたように顔を上げる。核心からは外れた物言いであるが、はたてにはそれが何のことかすぐに分かったのである。ブラシで床を擦りながら、顔だけをはたての方へ向け、ミスティアが穏やかに笑み、言葉を紡ぐ。
「あの料理のこと、誰にも言わないって約束したのに。文さん、あなたのこと全部知っていましたよ?」
俄かに正気を取り戻したはたては、がたがたと震えながらその場にぺたりと腰を降ろしてしまった。自身が吐き出した胃液を自身のスカートで拭い取りながら後ずさりする。背には無情に立ちはだかる壁。つるつるのタイルの冷たさは、服を挟んでもありありと感じられた。
「口外しないと言う約束を破った時どうするかは事前にお知らせしておきましたから……お知らせした通りの処置をとらせて頂きます」
そう言うとミスティアは掃除の手を止め、はたてを真正面に見据えた。
いよいよ生きた心地のしなくなってきたはたては、慌てて逃げようとした。機能している左手を使って立ち上がろうとしたのだが、その手は脆くも、ブラシによる渾身の一撃で打ち砕かれた。逃亡を妨げられたことよりもその一撃が齎した痛みがはたてを苦しめる。生じた痛みを鎮めることだけに頭脳は執心し出した。痛みを緩和させようと、そこいらにのさばる野獣よりも醜い声で叫び、その場に蹲る。
ミスティアはブラシを放り、銀の台に置きっ放しであった巨大な刃物を手に取った。その刀身は、はたての腕を切るのに使ったものよりも大型のものである。つい数時間前、不法侵入者たる射命丸文を五つに分解する際、大雑把にその肉を切り分けるのに使ったのもこの刃物である。洗ったばかりであるようでまだその刃には水滴がちらほらと付着しており、その一つ一つが橙の光を反射して輝いている。
手を断たれた時の光景がフラッシュバックしたのであろう、はたては気が触れたように言葉にならぬ言葉を喚き散らしながら白い帳をくぐろうとしたが、寸での所で襟首をミスティアに引っ掴まれた。砕かれた手の激痛を堪えての逃走は、あの少しの所で未遂に終わってしまった。ずるずると部屋へ引き戻されるはたて。藁にも縋る思いで、折れた左手で帳を掴んだが、その内耐えられなくなって手を放した。
はたてを仰向けに寝かせたミスティアは、先ず手持ちの刃物の切っ先を、獲物の大腿に突き立てた。これ以上動き回られても面倒だと思っての処置である。当然のことながらやかましさは増したが、この騒々しさは寧ろミスティアにとっては醍醐味と言える。両方の脚を穿たれたはたては、遂に満足に動くことすらできなくなった。自身の命を奪おうとしている者を目の前にして、仰向けになったまま体勢を変えることさえできない。
ミスティアが立ち位置を変えた。はたての足元に移動し、膝を踏みつけ、動かないながら抵抗を続けている脚の動きを止めた。そして、狙いを定めるように、巨大な刃を内腿にぴたりと宛がった。冷徹な刃の感触を、腕よりも遥かに敏感に、腿は感じ取っている。はたてに出来ることと言えば、ごめんなさいとか、許してとか、典型的な命乞いをすることくらいであった。無論、ミスティアがそれを聞き入れる筈が無い。
巨大な刃が、骨諸共はたての脚を切り落とした。まだ掃除の途中であった泡だらけの床に容赦なく迸る鮮血。その勢いは目を張る物があり、僅かながらあの白い帳にまで到達したものまであり、真っ白だった帳は赤黒い水玉模様に変身した。帳の下部にのみ水玉が描かれている所が、僅かながら洒落て見える。
はたては滅茶苦茶に吠えた。激痛の緩和、死に近づくことへの恐怖の表現、偶さか通り縋るかもしれない救世主への救難信号――様々な意味を込めて、ひたすら絶叫した。だが、彼女の込めた意味の、どれも達成できはしなかった。痛みはちっとも和らがないし、死ぬのはやはり怖いし、救世主も通らない。新たな痛みを齎す二度目の攻撃の準備がなされており、まだ感覚のある脚の内腿にまたもピタリと刃が宛がわれているのを感じた。それ自体も恐ろしいし、また一歩死に近づいている現実もやはり恐ろしい。それでいて、この場にいるのは自分と、災厄を撒く恐るべき夜雀の二人のみ。
二本目の脚を落とされた時、はたては遂に叫ぶ気力すら無くなった。突然寒気を感じ、がたがたと震え出した。傷を隠す為のコートが暑く感じられたような季節であるのに、彼女は寒気を感じ、震えているのである。おかしいのは自分なのか、世界の方なのか、はたてには分からなかった。そんなことを考えている内に左腕まで落とされていた。四肢を奪われて殺される世界だなんて、これのどこがまともなんだ――思わず苦笑いしそうになったが、表情を動かす気力が無かった。
思えば世界がおかしかったから、私はこんな目に遭っているのではないか、とはたては考えた。少し出しゃばった真似をしたくらいで、まるで親の敵のように他人を恨み、妬み、迫害した同胞達。それらから逃れる為に、それらを見返す為に必死に努力して……その努力の延長上に今がある。文字通り粉骨砕身の思いで駆け抜けた日々の果てが、悲しいことながら、今この瞬間である。
巨大な刃物を一先ず銀色の台に置き、ミスティアは「さて」と呟いた。相変わらず、とんでもないことをしでかしているのに、呑気なものである。これからどうするかを思案しているようで、厨房をぐるりと見回していたが、
「文」
足元から聞こえて来た声を聞き、そちらを見た。
はたてが泣いていた。悔しそうに啜り泣いている。報われなかった己の努力を、始まり掛けていた古き良き再出発が叶わなかったことを、死ぬほど悔いている。死ぬ間際までこの子は泣くのかと、ミスティアは聊かではあるが惻隠の情を催した。はたてをこんな目に遭わせたのは彼女自身であるが。
「いいことを教えてあげましょう」
惻隠の情が、夜雀の口を動かす。
「文さんはあなたの為と自分の為、二つの意味でここへ来たのだと思います。あなたの為とは言わずもがな、私があなたの右腕を奪ったことへの私怨。案外友達思いなんですね。自分の為と言うのは、以前あの方、妖怪や妖精の失踪について新聞を書いてたでしょう。あの話とあなたの話が合致したと見て、真相を求めてここへやって来たんだと思います」
言いながらミスティアは忙しく厨房内を駆け回り出した。刃物や鍋を取り出して中央の台に置いたり、気を落ち着かせる為か水を飲んだり、色取り取りのエプロンを選定したり――。その最中にも、夜雀は語り続ける。
「実際、正解なんですよね。恐らく、その妖怪なんかの失踪のほとんどが私の仕業です。死体が見つからないのは全部料理にして出していたからなんですけど。あなたの大好きだったカツサンド、あれも妖精の肉です。美味しかったでしょう。妖精の肉は柔らかいですからね」
話を聞いていて、できれば吐きたい衝動に駆られたが、残念ながらはたてにそんな気力は無い。
「だけど文さん、冷蔵庫を調べてたのは見当違いでした。あんな所には保存しませんわ」
「冷蔵庫、違うの?」
終焉の間際になって、はたては妙な解放感に見舞われ、ミスティアに話掛けていた。ミスティアも気を悪くすることなく、頷いて言い聞かせる。
「そうです。ああいう危なっかしいお肉は全て……」
フライパンの一つを銀の台に乱暴に置いた後、銀の台の引き戸を一つ、重たげに開けて見せた。
「この中なのに入れているんです」
そう言い、ミスティアはその中にある妖精の骸を一つ、持ち上げてみせた。はたての知らぬ妖精であった。下半身がすっかり消えて無くなっている。食われたのであろう。割れた久寿玉の飾りのように、上半身から臓物がちょろりと顔を覗かせている。銀の台の中には文もいるんだろうか、などとはたてが思慮を巡らせていると、ミスティアが大きく息を吐いた。
「姫海棠はたてさん」
急に改まって名前を呼ばれ、はたては何事かと思考を止め、そちらに耳を傾ける。
「今までどうもありがとうございました。あなたの新聞の広告のお陰でこの店には普段よりは多くのお客さんが訪れました。狩りの手間が省けたというものです」
「狩りの、手間?」
戯言のようにはたてが呟く。
「そう。お客様の一部は、この料理店の食材になって頂きました。あなたと契約したのは、お金が欲しかったのもあるんですけど、食材が目当てであったこともまた事実です」
銀の台に置いた小さめの包丁を手に取り、器用にくるくると回しながら投げて、キャッチし、また投げて――そんなことを繰り返しながら、ミスティアは言葉を続ける。
「だって、冷静に考えてもみてくださいな。こんな森の奥でまともな商売なんてできると思います? 無理ですよ。あなただって分かっていたでしょう? 広告だとか味だとか、そういう問題じゃないんです。こんな所にある店に、わんさかお客さんが来る筈が無いんですよ」
分かるわ、とはたては呟く。初めてこの店を訪れた時、なんて酷い立地だと、彼女も辟易したのだ。
「どうせ客も人気も少ないのなら……と思って、今みたいなことをやり始めたんです。実はあなた、ずぅっと前からこの私の料理に加担していたんですよ。あはは。驚きました? 大犯罪人ですね、あなた。死後の世界はつらいものになりましょう。あっ、私を恨むのは止して下さいね。あなたが死ぬのは約束を破った所為なんですからね」
砕けた口調でそう言い切ると、ミスティアは閉口した。
初めてこの店を訪れ、契約書を差し出したあの時、既に契約書の下には、はたてがこれから助長しようとしていた狂い切った料理の哀れな食材達が眠っていたと言うことになる。食材の真上で、新たな食材を生む手助けを約束していたのである。あっちの世界で出会ったらただじゃ済まされないかもしれないな――はたては辟易した。
銀の台に乗せた選定した調理器具を器用にエプロンでくるんだりして持てるだけもつと、ミスティアはガスコンロのスイッチを捻った。円形の火が灯る。白い帳の外に荷物を放ると、帳を外し、コンロの上にかぶせる。その後、その周囲に食用の油をぶちまけた。炎は勢いよく煌々と燃え上がり、薄暗い部屋を明るく照らし出した。ミスティアは出入り口に駆け戻ると、一度立ち止まり、振り返って言った。
「今日でこの料理店は、間抜けな夜雀の不注意による火災で燃え尽きて消えることとなります。私はもっと、誰にも知られないような所で、今の料理を続けて行こうと思います。あなたの広告のお陰で稼がせて貰ったお金、有効に使わせて頂きますよ。本当にありがとうございました、はたてさん。あぁ、そうそう。銀の台の冷蔵庫に文さんがいます。お気力ございましたら、是非探してみてください。あちらも喜ばれると思います。それでは失礼します」
早口にそう言うと、ミスティアは矢のように去って行った。
炎は瞬く間に勢いを増し、部屋の中をどんどん侵食していくのだが、はたては動くことさえできない。しかし、今更死ぬことに対して恐れは無かった。今でもほとんど死んでいるようなものだからである。
文がすぐ近くにいるのが分かっているのに、どうしても近づけないのがもどかしかった。最期の最期まで文に近づくことができなかった――死にゆくはたての唯一の心残りである。好敵手として睨み合い出した頃から、今の今まで、自尊心が裾を引っ張って、どうしても越えることができなかった障壁があった。喜ぶべきか、悲しむべきか、ほんのひと時だけでもそれを越えることができたのは、散々彼女を苦しめた夜雀の存在であった。
ありもしない腕を伸ばしたつもりになって、文のいるらしい銀の台に触れた気になってみた。ありもしない手に、あり得ない文の手が触れた気がした。
こんにちは。49作目が完成しました。
大好きな作品の二作品目です。繋がりはありません。
この話の後にミスティアが1の場所で食堂始めたと言うのも苦しい展開。
48作目を書いたのが今月6日で、翌日から書き始めて今日できました。
この速度はなかなかのものであると、私は思っています。
ゲームが面白くないとSSがよく進みますよね。MH3G、100時間もやりませんでした。
水中戦って誰が得しているのか全然分かんない。
夏にイライラしながらダブルスポイラーをやってたおかげで、
はたてちゃんを起用することができました。よかった。
いらいらしたぶんしっかり働いて貰おうって決めていたもの。
作品についてはブログでごちゃごちゃ言っています。
見てみたい方は是非ブログへお越しください。
ご閲覧、ありがとうございました。
次回は遂に50作目です。どうぞよろしくお願いします。
――――――――――
>>1 ミスティアは夜雀です!!!11 それ以上でも以下でも無いのです。
>>2 読むのに2時間かかるんすね……(全然SSを読まないから必要な時間が分かっていない) 文章褒められると嬉しいです。
>>3 心にいつもラグナロク。 ミスティアは魅力的すぎるので書いてると自然に魅力に溢れる素晴らしい夜雀ちゃんです。この夜雀に原作らしさはございませんが。
>>4 私も大好きです、Lunatic Kitchen。今作で晴れてシリーズ化したので「ルナキチ」と呼んであげてくださいね(はぁと)
>>6 よかった、やっぱり水中戦の必要性に疑問を感じているのは僕だけではなかったのですね……!
>>8 今作はミスティアが無双するのが主目的ですから、ミスティアは負けることなどほぼありえないです。ほぼ。明日は分からない。
>>10 最後の詰めが肝心なのよ。もっと衝撃的な終わり方を模索するべきでしたかねえ。精進いたします。
>>11 おかみすちーはあんまり好きじゃないです。もうお店は焼けて無いのですわ……。
>>12 そんなに出す男気は無いっすわ。
>>13 綺麗な文ちゃん、好かれたようでよかったです。 脱字報告ありがとうございます。
>>14 次書く時はもっと料理や食に重きを置いた物語りを書いて行きたいと、私も思っています。
>>15 私のSSが生物の進化を促したのか……!?
>>16 そういうミスティアを書くSSがこのルナキチなのです。
>>17 ミスティアが素晴らしいので自然とSSが素晴らしくなるのです。今後もがんばります。
>>18 次は数千倍魅せられるようにがんばりますね!!!
>>19 もっと頭おかしいミスティアが書きたい願望があるんですなあ。まだ鬼畜さは足りていない……と思っています。
>>20 流石と言ってもまだ2作目ですけどね……。ともあれいろいろ与えることができたようでよかったっす。
>>21 シリーズ化と言うか、2を書けたのでシリーズになれたよーと言いましょうか。何はともあれ今後もどうぞご期待ください。
>>22 タイトルでおよそ設定も結末もバレてるようなものなので、ばれてる中でいかに楽しい物語を綴るのかがこのSSの魅せどころ。 誤字報告ありがとうございます。
>>24 不気味さや怖さがなかったらこのSS成り立ちませんもの……。
>>25 私もレミリアを使ってこれを書きたいなあとは思っていますし、そういうことを考えながら生活をしています。お楽しみに。いつになるか分かったものではございませんが。
>>27 ありがとうございます。次なるルナキチもがんばります。いつになるか分かりませんけど。
匿名評価5件、ありがとうございます。フリーレスで是非ご感想をお寄せ下さい。
良かった点、悪かった点、両方お待ちしております。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
2
投稿日時:
2012/01/27 03:31:25
更新日時:
2012/02/27 07:28:47
評価:
24/30
POINT:
2570
Rate:
16.74
分類
姫海棠はたて
射命丸文
ミスティア・ローレライ
その他
R-18G
繊細な心情描写の巧みさは産廃作家の中でも特に目を見張らされます。
文とはたての心情描写とは対照的に内面が窺えないのがみすちーに気味の悪さを覚える要因でしょうか。しかし女将なみすちーには可愛らしさを感じる。
不気味と愛らしさの同居が妖怪の真骨頂なんだなと改めて思わされます。
文句のつけようもない、100点です。
pnpさんの描く、禍々しいミスティアはどうしてこうも魅力的なのか。
お客に見せる笑顔の一枚下、そこに潜む狂気が所々で垣間見えて、言い知れぬ恐怖を感じます。
本性を表す前から謎の不気味さがありました。
病んでいくはたてを見ていると、何故か愉悦を覚え、嗜虐心をくすぐられます。
そんな彼女を救いたいと願った文の決断が、完全に裏目になるのが、なんともヤルセないです。
ここまで捻れ・すれ違う文とはたては滅多にお目にかかれません。堪能させて頂きました。
いいですねー、天狗のドロドロの縦社会や狭い幻想郷の狭い思想……
しっかしみすちー強いなぁ。
戦闘力だったら天狗の方が圧倒的なんだろうけど相手の心に隙を作りつつ、必ずホームで戦うみすちー策士。惚れる。
とても引き込まれました。特に八つ裂き文ちゃんに
このミスティアに他のキャラは食われましたね。いろんな意味で。
真のシリアルキラーは、日常にちらりと狂気を見せるのですね。
ひょっとしたらビクついていた人間の猟師さん、勘でヤバイと分かってたんですかね。
非力な夜雀がウタッて、お高くとまった天狗のブンヤさん達が踊らされ……。
飲み屋の女将スキルで、酒の席で相手から情報を得るなど簡単ですし。
ミスティア、さぞや痛快だったでしょうね。
さて、次は何処でお客さんを選ぶ隠れた名店をOPENするのか、楽しみにしています。
客が産廃民だったらはたての手等と知られた方が高額が付きそうだ。
ミスティアがずっと格上な筈の天狗をあっさり仕留めてますが、他の方のコメントで既に言われているように違和感無く読めました。
ミスティアはサディストで嬲るのを楽しんでいるのか、サイコパスで人の苦しみや自己の責任が完全に気にならないのか……
ラストで念写した写真を証拠として用いれば、十分にミスティアを追い込めたのではないか、という点だけがちょっと気になりました。
気が動転して駆けつけるには山から料理店まで距離がありますし、ああなれば自分がミスティアに狙われるのは確実な訳だから恥や外聞どころじゃないでしょうし。
この事件の記事を、広告や割引券は取り入る為の潜入取材だった事にして新聞を書いてミスティアを告発し、自己犠牲を問わない取材を賞賛され、酷評は一掃、同時に新聞大会で念願の勝利を収める。
文は寧ろはたての潜入取材を真に受けて夜雀と普通に契約を結び、挙句に殺されて食われた大間抜けとして、一転して笑い者。
しかし共に喜びを分かち合おうと約束した親友はもう居ない……的な孤独鬱ハッピーエンド展開かと思ったがそんな事は無かったぜ。
引き込まれますね、もう呼び捨てなんてできない。ミスティアさんですね。
とっても素敵なお話でした、乙です。
ちょっといってみたいですね、割引もあればさらにいいですね。いまなら新鮮な天狗肉や妖精が食べられるはず……
食べたいナア
あと、気候の描写がとても参考になりました。冬から春に移り変わって行く季節とはたての心象の重ね合わせ方が読んでて面白かったです。
誤字ではないのですが
>とにかく余計なが省かれており、広々と、青色に澄み渡っている。
の主語が抜けて意味が取れなかったのでここだけ報告します。「色」でしょうか?
魔性の夜雀さんには今後ともクッキング道を邁進して頂きたいものです
できるならば、素材の持ち味を活かした料理の描写を読みたかったものです
烏天狗の引き締まった腿肉なら、定番のローストも好いし、じっくり熟成して燻製にするのも好いし、生に生姜醤油で素材のコリコリした食感を味わうのも好さそうですな
本当に美味しゅう御座いました。合掌
ぜひ今後も貴方の作品とミスティアのさらなる出番をお待ちしております
その辺のホラー作家のキャラの数百倍魅せてくれるぜ!!
ゾクッ……ときたぜぇ………!
最高おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!
はぁ…っはあ…
凄く……鬼畜…で…し た(バタッ
此処には…このkitchenには!
普段人の得られぬ色々が詰まってる!
流石ルナキチ
脱帽で御座いました。
あまり見かけない…と思ってた
でもルナキチを見た
本気で凄いと思った
そして2を見た
シリーズ化と聞いて視界霞んだ
…
これからも頑張って下さい!
実際その通りだったのですが結末に至るまでの過程に魅せられました。
穏やかな一面と狂った一面を併せ持つミスティアが素敵。
妖怪らしいミスティアが見られてほくほく。
シリーズ化ということはまたこんなミスティアが見られるのですね!
楽しみにしています!
最後から二つ目の塊の第一文、『調理器具を「起用」にエプロンでくるんだりして』は「器用」では。
真ん中あたりにも何か誤字があった気がするのですが、読んでいるうちに忘れてしまいました…。
怖い……なんか……怖い…
だが‥だがそれが(イイ)!
良かったです。感情を揺さぶるファクター満載でした!
更なる進化に、慎んで期待させて頂きます!
レミミスとかもいつかお願いします
保身と友情の狭間で葛藤する文と、笑顔の下に隠した狂気と猟奇でじわじわと二人を料理するミスティア。
緻密な描写と絶え間なく続く展開、どれもが非常に素晴らしく、思わず時間も忘れて読みふけってしまいました。
この作品が、救われない者たちの救われない物語に思えただけに、ラストに書かれた一文はとても美しく印象的でした。
次回の『特別食』も期待しております。頑張って下さい!
それくらい面白く、読み耽ってしまう作品でした。
はたてやおかみすちーの持つキャラクターがしっかりと活かされ、さらに細やかな情景描写がリアリズムとなり
はたての身に降り掛かる物語にグイグイと引きこまれていきました。
閉鎖された社会であろう妖怪の山の内情を描いた、というところも、とても興味深く目を引きます。
また、作品を投下する者としての不安なども、そこはかとなく書いてあるように思え、共感を覚えます。
本当に素晴らしい作品でした。
ただ一点だけ、はたての死のシーンに、もう少しだけ「読み応え」のようなものが欲しかった、と個人的に思います。
激動の数カ月を様々な感情に揺り動かされながら、夜雀が産む闇の中を駆け抜けた(待っていたのは絶望でしたが)
主役たる姫海棠はたてだからこそ、死に際は派手に心理描写をして欲しかった…と感じています。
(最も、このシリーズの主役はミスティアだけど)
全体を通して本当に素晴らしい出来で、こんな事言うと何だか重箱の隅をつついている気分…
でも、高いレベルだったからこそ、そこだけが気になってしまった。ご容赦下さい。
しかし「あっさりと死んでしまう」からこそ良いのだ、と感じる部分もあります。
だから、これはきっと好みの問題なのかもしれませんね。
単純にレベルの高い素晴らしい作品であること、僕の気になった点は恐らく人の好みによって評価が分かれること、
こんな面白い作品を投下してくれる作者様の心意気。
そして何よりもこの作品をより多くの方に読んで頂きたい気持ちから、惜しみなく100点を捧げたいと思います。
長文感想はそれだけ感銘を受けたということで、何卒ご容赦下さい。
次の作品も楽しませて頂きます!
力及ばず読みきる事ができませんでした。
でもここまで来て感想書いてるってのがすごいなと思いました。
にしても相変わらずミスティア怖いね。