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『産廃創想話例大祭『adoration』』 作者: pnp
俎上の腕に包丁を落とす。柔らかな肉も、堅硬な骨も一緒くたに断つことができた。生温かい血が迸り、私の手を、顔を穢す。べたついていて気持ちが悪い。衣服もすっかり血に染まってしまった。どれだけ洗ってみても、もう赤黒い染みを完全に取り去ることはできない。そのことを嘆いたのは、いつ頃の話であっただろうか。
随分と冷酷な生き物へと様変わりしてしまったものだと、我ながら思う。
誰にでも慈しみの精神を持って接していた――なんて傲慢な考えは無いが、流石にこんな残酷なことをやっていることに躊躇していた時期もあった。今では特に何も感じなくなってしまっている。
それなりに長い生の中で、私はいろんな人や妖怪に出会い、時に愛され、時に憎まれ、時に頼られた。周囲の――あの方の、と言った方がよりしっくりくるか――期待に答えたいとあれこれと思考錯誤を繰り返している内に、私は大きく変化した。何かの為に生きることの楽しさ……そんなものを知ったのだ。
それ故に、夜の幻想郷を徘徊する妖怪をとっ捕まえて、死なない程度に殴打して昏倒させ、その腕を、脚を、臓腑を切り分け、料理して食うと言う、常人は愚か、妖怪にだって理解できないであろう所業をやっている今の自分に、若干罪悪感を覚えている。折角、みんなが信頼してくれているのに、私はなんて惨たらしいことをしているのだろう、と。
だが、嫌悪感は無い。と言うより、先程述べた通り、そう言った感情はいつの間にか無くなっていたのだ。いつ失くしたかは知らない。慣れたのだろうか。それとも、この血の雨など物ともしないで生きる私こそ、本当の私なのだろうか。いずれにしろ、自慢にならない。
生きる者の肉を貪るだけならありふれた妖怪だってできるが、わざわざ調理して食い殺しているのは、きっと今尚変化と膨張を続けている幻想郷でも私だけだと思うし、これからもそうそう現れないだろう。
仕方の無いことなのだ。あのひと――正確にはヒトではないが――を私の元へ繋ぎ止めておくには、きっとこうするしかないのだ。
あの女さえいなければ――何度そう思っただろう。
しかし、その問題の女を葬るのでは、私の望みは叶わない。あの人にとって、あの女は無くてはならない存在だから。お望みとあらば、私が取って代わってあげたいのだが、あの人はきっと、そんなことは望まない。私も、あいつも生きている世界こそ、あの人が一番好きな世界なのだ。
だからこそ私は、あの女を越える必要がある。
もしかしたら、本当は既に越えているのかもしれない。
――しかし、楽観は良くない。あの女は非力なふりをして、その実とても優秀なのだ。私だってそれなりの能力を持っていると言う自信があるが、あの女を見くびってはいけない。
そんな訳で私は今日も包丁を振るう。
鮮血と臓腑の織り成す耐え難い臭気と、聞くに堪えない断末魔ばかりが支配する闇の中から、あの人を私に繋ぎ止めておける最高の持成しの術を探り当てるのだ。
長らくこの包丁を使っているが、この包丁は、私の私利私欲の充足の為に血で染まることをどう思っているのだろう。初めの頃は、欲望の充足を望む当人たる私でさえ嫌悪し、嘔吐し、泣き崩れていたものだ。他人の陰惨な気持ちを満たす為の道具として使われているこの包丁は、一体どんな気持ちなのだろう。
……他人を満たすと言うことに於いては、私も同じではないか。私はあの人を満足させて私のことを想い続けて貰いたいが為に、こんな風な血生臭い割烹を続けているのだから。
ため息ばかりが漏れてくる。
私は料理が好きな筈なのだが、最近はどうも料理中にため息ばかり吐いている。
何事も真摯に向き合い過ぎると、苦痛が勝ってくる。だけど、ぼちぼちやっていたのでは私の悲願は達成されない。そんな生易しいものじゃない。私の相手は――化け物みたいな奴だから。いや、実際化け物か。かわいいふりして。
そうこうしている内に、今日も今日とて、不味い料理が完成してしまった。
昨日よりもひどい味な気がする。一口食べただけでもういらなくなる。
だけど作ったからには食べなくてはいけない。それが作った者の責任、食材と化した命への敬意。――こんなことを私が気にするのは少し馬鹿らしいけど、そう言う所から気を付けて行くべきだろうと言う心がけだ。
周りには誰もいない。私一人だ。こんな場面、まさか誰かに見られる訳にもいかない。
血だらけの俎板の上で、童の忘れ物の毬みたいに無造作に転がっている生首の双眸が、じっとこっちを見ている気がした。やめてほしい。すごく居心地悪い。
それにしてもこの料理は酷い味だ。胸焼けがする。同時に心が荒むようだ。私の中身をめちゃくちゃに蹂躙してしまう。
苛々する。
ああ、もう、こっちを見るな。こっちを。見るな。見るな。見るな――。
思わず包丁を投げてしまった。こんな使われ方をするために生み出されたものではないであろうに。
生首の眉間に刺さって、血が噴き出し、床が汚れた。
ああ、苛々する。
荒んだ心のまま適当に料理の後片付けをし、厨房を出て、そこにあるベッドで私は眠った。
*
お客様に愛されて何年目かは、もう私の記憶には無いが、とにかく結構長い間、私ミスティア・ローレライの鰻屋台は愛されている。
事の始まりは焼き鳥廃絶の為の対抗勢力として始めた屋台であったが、次第にそういうことを抜きにしても、人間にも妖怪にも好評の鰻屋台となった。
始業は夜である。昼間から酒を飲んでいる者なんて、地底を脱してふらふらと毎日遊んでいる小鬼くらいだ。
客とより密接な関係になりつつある最近では、客と一緒に酒を飲むことがある。元々私は酒が強い方ではないから、あんまり飲んでしまうと意識が朦朧としてしまい、商売どころでは無くなってしまうから、なるべく控えてはいる。だが、天狗や河童の強引さと言ったら、私がへべれけになって商売する状態じゃなくして、代金をちょろまかそうと言う魂胆さえ感じられる程だ。
実際、そう言う気持ちも多分にあるのであろう。妖怪とは、そう言う生き物だから。
それに、酒を飲んだ日の翌日は、大体ひどく体がだるい。こういうこともあるから、あまり酒は飲みたくないのだ。
この日も、ちょっとおかしな人間に天狗、それに他の妖怪と、沢山の客が屋台を訪れてくれた。
忙しさのピークを越して少し落ち着いた所で、馴染みの鴉天狗が酔っ払った声で私を呼んだ。
「ミスティアさん、ミスティアさん、ちょっとこっちへいらっしゃい」
あまりいい予感がしないから、行きたくない。しかし、客商売ではあまり客を不快にさせてはいけない。
「はい、何でしょう?」
不快感は声に表れていないだろうか――こう言う場面ではいつも少し心配なのである。
しかし相手は酔っ払い。そんな細部にまで意識は向いていないかもしれない。――あくまで憶測、若しくは願望だが。
「まあ、とりあえずこれをお飲みなさい」
やっぱり酒を勧めてきた。断ると余計に面倒なことになるので、体に酒が急速に巡らないよう、少しずつ飲む。
「あなた程麗しい妖怪が、こんな屋台を一人で経営なんて、感動的ですねえ」
この鴉天狗――射命丸文は、酔っ払うといつもこんなことを言う。言葉遣いまでいつもほとんど同じだ。
「しかし、夜には気を付けた方がいいですよ?」
「夜雀の私に夜に気を付けろ、ですって?」
随分軽く見られたものだと、私は些かムッとしてしまって、無礼を承知でこう答えた。
しかし射命丸文は特に何を気にした様子もなく、何やらおどろおどろしい声でこんなことを言う。
「最近、いろんな妖怪が夜な夜な行方不明になってしまうと言う異変が起きているんですよ」
きっと話に不気味さを演出したかったのであろうが、演技染みた声色の所為で冗談にしか聞こえない。
「はあ」
まぬけな声が出てしまった。
呆れが高じて漏れてしまった私のこの気抜けした声を、文は放心の予兆や恐怖による硬直が齎したものと捉えてしまったのか、更に演技臭さを増して、言葉を紡ぐ。
「しかも恐ろしいことに、いなくなった妖怪は死体さえ出てこないんですよ! 博麗霊夢、東風谷早苗は夜に妖怪退治の類など一切していないし、仮に退治するにしても大それたことを仕出かしていない限り消滅まで追い込むことはありえないと関与を真っ向から否定! 一体平穏な幻想郷に何が起きているのか――」
流石は新聞記者。幻想郷で起きていることに敏感だ。
「妖怪ばかりが狙われているんですか?」
「そうなんです。人間の被害者は今のところゼロです。こういう事件の被害者は人間であるべきですのにねえ」
妖怪がターゲットとなれば、私も標的となる可能性がある。しかし、こういう恐ろしい事件の話を聞かされても、大抵の者は「まさか自分が狙われるなんてことは無いだろう」と無根拠に考えてしまうものだ。
私は、何となく気をつけなくてはと思いつつも、一体何をどんな風に気を付ければいいのか分からないから、やはり彼女の忠告はあまり心に残らない。
「どうして死体が出ないんでしょうね」
何の気なしに私が聞くと、文は急に神妙な顔をして、先程見せていた白々しい演技を止めて、豪く真面目な口吻になった。
「そう、不思議なんですよねえ。死体が出ない。痕跡すら無い。しかし妖怪は確実にいなくなっているんです。死体をどう言う風に処理しているのでしょう。埋葬しているのでしょうか。だけどそんな手間のかかることして何のメリットが? それとも火葬。いやいや、火の無い所に煙は立たぬ――火があるなら煙は立ちますよね」
「食べてる、とか?」
ひどく酸鼻な横やりを入れたのは、姫海棠はたて。射命丸文と同じく、鴉天狗で新聞記者だ。『ネンシャ』とか言う不思議な能力を持っているが、どんな能力かはよく覚えていない。
彼女の能力についてなど、今はどうでもいい。問題は、彼女の発言のおぞましさだ。
「食べる……?」
私は思わず肩を震わせてしまった。
料理に従事する私にとって、妖怪を料理して殺すなんてあまり想像したくないことだからだ。
途端に文がヒュウと口笛を一つ。
「あれ、ミスティアさん、恐れているのですか?」
はたても悪乗りしたようにくつくつと笑い、
「毎日鰻を捌いている癖に」
「鰻と妖怪とでは全然違う生き物でしょう」
私は口を尖らせる。軽く見られた感じがして、何だか気に食わなかったから。
しかし、天狗と言う生き物は大抵こんな感じである。高圧的で、威圧的で、人を小馬鹿にしている節がある。きっとそれは、彼女らがこの幻想郷で絶大な力を持っているが故の自信からくるものなのであろう。
私は料理の話から話題を切り替えようとした。これ以上貶められても、気分が悪いばかりでちっとも楽しくない。
「犯人も分からないんですか?」
「さっぱりです。そもそも、そういうことを調べるのは私達の仕事ではありませんし」
文はつまらなそうに言う。はたても同意するように頷いた。役立たずな連中である。
「だけど」
文が言葉を続ける。
「多分妖怪の仕業じゃないかなと思いますよ。何せ被害者が妖怪ばかりですから。人間にゃァ妖怪はそう易々と殺せませんて」
「死んだって決まった訳ではないでしょうに」
はたてが口を挟む。確かに、さっきから死体死体と文は繰り返し言い続けてきたが、その死体さえ見つかっていないのならば、死んでいるかどうかさえ分からないのが本当の所だ。
「人間って可能性もあるかもよ? 手間暇かけて見つからないよう工作するなんて、人間のやりそうなことじゃない。それに、行方不明者に人間がいないって言う点もね。同族殺しは気が引けるでしょう」
はたての持論もなかなか納得がいく。
文は「うーん」とか「ううむ」とか、賢しらそうに唸っていたが、酒が回った頭ではなかなか考え事も覚束ないようで、思考を止めてしまった。
「そんな小難しいことは一時捨て置いて、飲みましょう! さあ、ミスティアさん、あなたも」
そう言って文はまたも私に酒を差し出して来た。
「いや、これ以上飲むと業務に支障が」
「私の酒が飲めないと言うのですか!」
はたても軽く宥めてくれてはいるが、あまりしつこくした時の文の面倒くささを知っているからであろう、何だか歯切れの悪い物言いである。
宥めれば宥める程、文の暴走は加速していく。何やら聞き取りづらい言葉を喚きながら、手当たり次第に物を投げて来る。
「文さん、他のお客さんに迷惑ですから」
現に周囲の客は奇異の眼差しをこちらに向けている。
しかし、この鴉天狗はちっとも聞く耳を持たない。
「何を生意気な!」
文が手を振り上げた。私は途端に委縮し、目を瞑ってしまったのだが――予期された衝撃と熱は、いつまで経ってもやって来ない。
眼を開けてみると、紅い悪魔と揶揄される吸血鬼が、文を制止してくれていた。
「レミリアさん」
急速に心の中が安心感で満たされていくのを感じた。
吸血鬼――名前をレミリア・スカーレットと言う――は、後ろから振り上げられた鴉天狗の手を抑えていた。
「ほら、うるさいわよ、天狗」
「レミリアさん」
吸血鬼程の者に目を付けられては、流石の鴉天狗も恐れをなしたか、それとも制止されて落ち着きを取り戻したのか、妙にしおらしくなった。
冷静さを取り戻した隙を突くように、はたてが素早く勘定を済ませ、文を連れて屋台を出て行った。これ以上、迷惑行為をされてもフォローが大変だから、早めに退散したかったのだと思う。
あっと言う間に人気の無くなったカウンター席に、レミリアさんが座った。傍には彼女の従者である十六夜咲夜と言う人間もいる。
私とレミリアさんは、夜の明けない異変で初めて互いを知ったのだが、その後、この屋台で会う度に、次第に親睦を深めて行った。
吸血鬼と言う強力な存在が、夜雀風情の私に一体どんな魅力を感じたのかは不明だが、レミリアさんは私に妙に優しくしてくれる。
一度理由を聞いたこともあるが、何だか含みのある、意味深な言葉を連ねられ、結局茶を濁されてしまった。
私もレミリアさんのことが好きだ。
良くして貰っているから――と言うだけでなく、彼女の幼いながらも気品のある振る舞いや、夜をこよなく愛する姿勢や態度などに惹かれる。
尊敬、畏怖、敬愛――そのどれにも属さない、もっと特別な感情を、私は彼女に抱いている。
そして、彼女もそれとなく、そんな気持ちを私に対して抱いている。……ような気がしている。
「おかしな客の対処も楽じゃないわねぇ」
闇夜に紛れて次第にその姿を消して行く鴉天狗二名の後ろ姿を見ながら、レミリアさんは言う。
「まあ、今に始まったことではありませんし、もう慣れたと言いましょうか……」
私に言える愚痴はこの程度のものだ。悪し様に客を罵る訳にはいかないのである。
これを聞いたレミリアさんは、ふっと微笑んだ。
「優しいのね」
褒められているのか、嗤われているのか、この人の言葉はどうも判断が難しい。私は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
レミリアさんは閉店間際まで屋台にいた。
遍く妖怪は基本的に夜に強い性質を持っているが、吸血鬼はそれが特に顕著だ。日光を浴びると気化して消滅してしまうと言う、生粋の夜行性生物なのである。それ故に夜には非常に強く、夜更かし常習犯の妖怪さえもうんざりし始めても、この吸血鬼は大抵平気な顔をしている。
「そう言えばこの前、メイド服を一着あげたけど、あれは着ないの?」
他の客もいるのに、平然とこんなことを聞いてくる。貰ったのは事実だから仕方が無いのだが。因みに、その貰ったメイド服は何処へしまったのか分からなくて行方不明である。
客が次々と帰路に就き始める。
私はそれを適度に見送りながら、撤収の準備を進めるのだが、レミリアさんはじっとこの退屈な作業を眺めている。普段は一人で黙々とやる作業であるが故に、こうして他人の目があると、何だか調子が狂ってしまう。
「あのぅ、何か御用でも?」
ややあって、私は彼女に声を掛ける。
何となく、彼女が考えていることは分かっている。分かっていながら、純粋な無知を装って話し掛けるのは、自分の中の浅ましさやあざとさが感じられて、少しばかり居心地が悪い。
「私の考えなんてお見通しの癖に」
レミリアさんは悪戯っぽく笑って言う。
まさにその通り。私はあなたの考えを理解している。それどころか、私はその思考を求めているのである。
「館で待っているから」
レミリアさんはそう言い残し、夜の闇の中へと溶け込むように消えて行った。本当に闇の似合う方である。
逸る心は仕事を随分雑にした。代償として、仕事は随分早く終えることができた。
仕事用の和服から、着慣れている普段着に着替えて、私はレミリアさんの住まう洋館――紅魔館へ急いだ。
紅魔館は洋風の館である。外から見た姿はそれ程大きな建物ではないのだが、中は無駄と言っても差し支え無い程に広い。
流石にこんな真夜中まで門前に番を立たせていることはなく、人気が無い。辺り一帯に目立った物が無い広々とした平地にぽつねんと建てられているこの館の周りは妙に物淋しい。
格子状の門を押すと、すんなり開いてくれた。
そのまま直進して玄関の大きな扉を開く。
目の前に広がるのは、全体的に紅を基調とした広いエントランスホールである。見上げれば煌びやかなシャンデリア――流石にこんな真夜中は消灯しているけれど――、見回せば多くの絵画や扉、足元に視線を落とせば柔らかな紅い絨毯。生きる世界が違うとはこういうことを言うのであろう。
私は玄関扉を閉めて、広いエントランスにぽつんと突っ立っていた。と言うのも、この館の内装は先程言った通り、外観に反して異常な程広い。――これはレミリアさんの従者である十六夜咲夜の力によるものであるらしい。それ程複雑な原理ではないのかもしれないが、私はよく理解できないし、別に理解できた所でどうなるでもない。
迷宮の様相を呈しているこの館の構造を、私のような鳥頭が完全に把握できる筈もない。だから私は、案内が来るまで、ここで立ち止まることを余儀なくされてしまうのである。時々この館を訪れることがあるが、これはいつものことである。
しばらく待っていたら、案の定、十六夜咲夜がやってきた。
「いらっしゃい」
「どうも」
形式的な挨拶を交わす。
こうして二人きりで面と向かい合う度に思うのだが、この人間は私のことをあまり好いていないような感じがする。根拠は無い。直接言われたことも、そんな感じのことを言われたことも、無い。無いのだが、何となくそう思う。……そもそも、妖怪を好く人間の方が稀か。
「こちらへどうぞ」
いつも通り、十六夜咲夜の案内が始まる。行先は分かり切っている。レミリアさんの私室だ。
彼女に会う為にこの館を訪れたのはもうかなり前からのことである。いい加減、私も彼女の私室の場所くらい覚えるべきなのだが、どうも上手くいかない。
館内は昼夜問わずひどく暗い。吸血鬼が日光に弱い所為である。日光を遮る為に、館内の窓と言う窓に紅色のカーテンが掛けてあるのだ。私も吸血鬼と同じように夜に偏向した妖怪なので、この四六時中闇に閉ざされている空間は非常に心地いい。
十六夜咲夜の持つ手燭が放つ光だけを頼りに、廊下を進んで行く。見失うようなへまはしない。闇の中ならば、何者よりもよく周りを見渡せると言う自信を、私は持っている。
正味十分ほど歩いた頃、人間がある扉の前で歩みを止めた。その頃には、私の中に、どこの扉に入り、どの廊下を歩き、どこをどう曲がったか――と言う情報は一切忘れ去られている。
そもそも、進んでも進んでも同じような光景が連続するこの館がよくない。もっと変化に富めば、私の様な奴でも構造を多少は理解できるであろうに。
十六夜咲夜が、立ち止まった地点の扉をノックする。
「失礼します。お嬢様、夜雀を連れてきました」
レミリアさんの返事は私には聞こえなかったが、咲夜が扉を開き、中を手で示したので、私は誘われるままに室内へ入る。
数週間ぶりにレミリアさんの私室に立ち入る。調度品や家具の配置、明度、芳香――記憶の片隅に残っている部屋の有様と、何一つ変わりが無い。
レミリアさんはベッドの上に腹ばいになって、小難しげな本を読んでいる。翼を解放させる為に背中を大きく開けさせているキャミソールが、容姿不相応な色気を放っている。
「そんな所で見てばかりいないで、こっちへいらっしゃい」
高貴さと幼さと艶っぽさを綯い交ぜにした笑みを湛えて、レミリアさんが手招きしてきた。だぶついた襟首から覗けそうで覗けない未成熟な胸……それを想像するだけで、頭の中身が原形を失ってしまう程掻き混ぜられるような感覚に襲われてしまう。
しかし、劣情に身を任せてばかりいては、私ばかりが獣のようで、浅ましいではないか――おかしな対抗意識を燃やした私は、少々勿体ぶった足取りでベッドへ歩み寄る。
レミリアさんに勧められ、ベッドに腰を降ろした。柔らかいベッドだ。きっと高級品なのだろう。
途端に、屋台営業で蓄積された疲労感が、体の奥底からじんわりと染み出してくるのを感じた。
やはり、体は正直だ。
ついさっきまでは、夜這いの誘いに興奮して、疲労疲弊など何のそのと身体を動かしていた癖に、肉体を休ませられる環境を感知するや否や、馬鹿正直に疲労感を思い出させてきた。
思わず私はため息を漏らしてしまう。途端にレミリアさんの不快そうな声。
「やめてよ、ため息なんて」
私もすぐに自分の失態に気付いた。こういう詰めの甘さが、日々の商いにも影響が出て来ることもありうる。
「すみません。何だか、急にすごく疲れてしまって」
私なりに、慇懃に謝ったが、レミリアさんはそれ程気にしていない様子である。私が疲れていようと、そうでなかろうと、結局この吸血鬼は、自身の欲求を満たす為に私を弄ぶのであろう。
そして私も、身体的に如何なる状態であっても、最終的にはその行為に身を溺れさせてしまうのだ。
この夜の営みも以前と比べれば遥かに慣れてきてはいるが、未だに事前は聊か緊張する。
相手を焦らす意も含めて、私がベッドの上で間誤付いていると、レミリアさんはこんな話題を私に投げ掛けてきた。
「今日、ちらりと聞いたんだけど、最近夜な夜な妖怪が襲われて姿を消しているって?」
「はあ、鴉天狗の連中もそんなこと言っていましたね」
客との雑談は覚えていないことがほとんどであるが、この妖怪失踪の話は、姫海棠はたての薄気味悪い横槍のお陰であろうか、妙に記憶に残っている。
「死体が見つからないんですって」
聞いた話をそのまま付け加える。
「どうして?」
当然の返答である。知らない、分からない、一説には食い殺しているとか――記憶に新しい対話の内容を訥々と語る。レミリアさんは、興味があるのか無いのか、判断しかねる様子で私の話を聞いている。
粗方話し終えても、その態度は続いていた。
「あなたも気を付けなさいね」
レミリアさんまで鴉天狗と同じことを言う。
「鴉天狗と言い、あなたと言い、一体全体私を何だと思っているんです。夜の雀と書いて夜雀ですよ? 宵闇の中で何者かに遅れを取るなんて――」
こんなことを言っている最中、急にレミリアさんが私の手を引いた。
あまりに急なことなので驚きこそすれ、悲鳴を上げることさえ叶わない。現状把握もままならないでいて、気が付いた頃には私はベッドの上に仰向けに寝かされていて、上からレミリアさんがおっ被さって来ていた。
レミリアさんはまた、件の貴く、稚く、艶めかしい笑みを湛えている。――今はやや幼さが強いか。
「偉そうなことを言った傍からこの様?」
そう言って噛み殺したような笑声を漏らす。私は何だかひどく恥かしくなった。
「何、平気よ。あなたの危機は、私がきっと護ってあげるからね」
「本当ですか?」
「本当よ。あなたに仇成す総てを闇に葬ってみせるわ」
そう言い終えた途端、レミリアさんが私の唇を奪った。これでは喋れない。
葬る?
私に仇成す総てを?
それじゃあ、レミリアさん、是非とも殺してほしい人間がいるんです。
あいつはきっと私に仇成す存在です。
だけど、きっとあなたには殺せないでしょう。
唇が離れて行った。薄明かりに照らされて微かに見えた唾液の一糸は、まるで絹のような美しさを秘めている。
私はもう、この段階で随分陶然としていたのだが、目の前で妖しげに微笑んでいる吸血鬼の少女にはまだまだ余裕がありそうだ。さすがレミリアさん。強い。
お次はどんな風に私を弄んでくれるのか……きゅっと下唇を噛んで身構えていたのだが――レミリアさんはベッドサイドにひょいと降りてしまった。
「服、脱いじゃいなさいな」
言われるがままに、私は服を脱ぐ。逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと。
レミリアさんは、ワイングラスと酒の入った瓶を持って戻ってきた。血の様に赤い酒である。ワインと言うものなのだろうか。私にはよく分からない。しかし、この人はどこまで赤色が好きなんだろう。
無言で酒瓶を差し出してきた。飲む? ――瞳がそう物語っている。
私は首を横に振った。酒はそれ程好きじゃないし、飲み慣れていないこの手の酒は尚更忌避したくなる。
レミリアさんはつまらなそうに顔を顰めると、グラスに一杯酒を注いで、一気に煽った。口の端からたらりと一滴、酒が滴る。薄い血の様だ。吸血鬼の彼女だから、余計にそんな風に見えてしまう。
度数の強い酒なのだろうか。ほんのりと、彼女の顔色に赤色が表れた。
まだ足りないのか、更にもう一杯、レミリアさんは酒を煽る。私はぼんやりと、その姿を見ていたのだが――
不意に、レミリアさんが飛び掛かってきた。
ろくに抵抗もできず――そんな意思、端から無かったが――、またも私はベッドに仰向けに倒された。
そのままレミリアさんは、私に口づけをしてきたのだが、キスと一緒に酒が流れ込んできた。先程煽った酒を、そのまま口の中に残していたようなのだ。
懸想の相手の唾液の混じった赤色の液体――そんな風に考えると、何だかそれはもう酒などではなく、もっと別の、妖しい薬のようなものに思えてきてしまう。
現に、私の意識は一気に混濁へと向かった。元々、とてつもないアルコール度数の酒だったのかもしれない。喉、胸、そして腹が焼けるような感覚を覚え、次いで顔がかぁっと熱くなった。――顔の熱は、酒の所為ばかりとも言えない。
ぼーっとする。レミリアさんはまだ私の目の前でくすくすと笑っている。なんと妖艶なのだろう。魅力的過ぎる。しかし、その容姿はまだまだあどけない。そんなギャップを持った生物が、この世のどこを探せばいるものか。きっと、レミリアさんだけだ。
「寝ながらお酒なんて、行儀が悪い」
やっと私はこんなことを言った。呂律が回らない。
レミリアさんは少し驚いた様子だ。
「まあ。あなたまで咲夜みたいなこと言うのね」
咲夜? 十六夜咲夜か。
あなたは十六夜咲夜にもこんなことをしたのか。……いや、しているのか?
私だけ特別――そんなことは、別に無いのか。
私は努めて快楽を求めることにした。
こんな悲しい気持ちのまま、レミリアさんとまぐわってなどいたくない。
過度な快感で気を失ってしまうのもいい。
不思議な薬に侵されたみたいな今なら、できそうだ。
ああ、考えるな。考えるな。
十六夜咲夜のことなんて――あんな女のことなんて、考えなくていい。
考えても死なせられやしない。殺せもしない。
私にも、あなたにも。
*
私の心は真っ黒だ。最近はそう思えることがよくある。
元々はきっとこんな状態じゃなかったと信じたいけれど、気が付いたら救いようの無い程に、そして自分でも直視できない程に、真っ黒になってしまっていた。
心なんて目に見えないものだが、何となく分かるのだ。その焦土みたいに黒い心の持ち主の私が言うのだから、間違いは無い。
あの女への憎悪を、憤怒を、嫉妬心を糧にして、今宵も私は包丁を振るう。
もうすぐ陽が昇ってきてしまう。少し急ぐべきなのかもしれないと思うが、まさか早朝からここを訪れる者はいないであろう。一体、どんな用事があると言うのか。
今日は妖精を捕まえた。無論、料理の為に。
背丈は妖精にしては大きい。あの忌々しい女より少し小さいくらいだ。緑色の長髪が愛らしく、妖精には珍しく知的な印象を与えて来る。何だか、山の上の神社の巫女みたいだ。
妖精は女の子だ。見れば分かる。服を脱がせてそれは揺るぎないものとなった。このくらいの年代の子は、男も女も体付きにそれほど相違が無い感じがする。食べると言う点において、なんとなく、私は女の子の方が好きだ。男の子よりも美味しそうな感じがするではないか。柔らかそうだ。
しかし、子どもとはとかくうるさいものである。真夜中なのに、先程からぎゃーぎゃーと喚いて止まない。利口そうな顔をしているのに、これではそんじょそこらの頭の悪い妖精と相違無いではないか。
あまりにうるさいので包丁の柄で右腕を小突いてみた。
「あんまり騒ぐと余計にひどい目に遭わせるわよ」
こう言ってはみたが、効果は無い――と言うより、寧ろ逆効果だった。ちょっと強くやりすぎたらしく、腕を折ってしまった。余計に喚き出した。うるさい。苛々する。
このままではこちらの精神状態に異常を来しかねないので、さっさと料理をしてしまうことにする。
今回のメニューはステーキだ。『永遠の発達途上』と言う魅惑の肉体を持つ妖精の体は、甘みと柔らかさに富み、ちょっと濃い目のステーキソースとの相性が抜群に良く、一枚肉をしっかりと堪能できた方が美味しく食べられる。……根拠なんて無い。全部私の想像、妄想、及び願望だ。
しかし、右脚に包丁を入れた時点で、『柔らかい』と言う所見はそれほど間違っていなかったことに気付く。昨日捌いた妖怪とは肉質が全然違う。するりと刃が入って行く。
ただし、やかましさも昨日の妖怪を遥かに凌ぐものである。腕を折っただけであの有様だったのだから、何となく予想はしていたが、やはり実際に絶叫を聞かされると、ひどく不安になる。轟く幼き咆哮に心臓が共振しているような感じがして、いたく不快で、吐き気まで催してくる。
耐え兼ねて私は、食器を洗う為のスポンジを、妖精の口に捻じ込んだ。不快にしてくれた報復として洗剤でも混ぜてやろうかと思ったが、これから食おうとしている者に洗剤を混入させるのはよくないと思って止めた。それに、食べ物で遊んではいけない。罰当たりだ。一体全体、誰に罰を下されるのか、甚だ謎だが。私は神を信じていない。
スポンジのお陰でだいぶ声は抑えられた。これで、異様な絶叫を嗅ぎつけて余計な邪魔が入ることも無いし、私の精神も悪戯に疵付けられずに済む。
手際良く、妖精の体をバラバラにしていく。胸部、二の腕、太腿、脹脛――目ぼしい部分は大体こんなところか。
脚から手を付けて正解だった。なよなよした腕は断つのが驚く程簡単であった。骨はまるで樹木の枝の様にしなやかだ。飛び散る血が白い肌に斑点模様を描く。生々しい。だが、別に美しくは無い。血を見て喜ぶなんて陰惨な趣味は無いのだ。あの人は血が大好きだけど。……ならば、私も血に慣れるべきなのかしら?
血が枯れたのは見ての通りだが、ついでに涙も枯れたようで、妖精は泣き止んだ……と言うか、しゃくり上げるばかりで泣き喚くのを止めてくれた。もううるさくないのかな――口に入れたスポンジを取ってあげてみる。こういう慈悲深い心は、日頃の業務の細やかな気遣いに生きて来る筈だ。
妖精は未だ尚助けを求めているようである。「ちるの」とか言う者の名前を仕切りに呼んでいる。聞き覚えのある名前だ。だからどうと言うことはないのだが。
胸部の切除に取り掛かる。
……この妖精、ほとんど胸が膨らんでいないではないか。胸部は雌しか発達しない希少な肉であると言うのに。幼い方が美味そうだとは思って妖精をとっ捕まえたが、とんだ誤算だ。一体この隆起の無い胸部のどこを食べろと言うのだ。
仕方が無いので、今回は胸部を諦めて、二の腕、太腿、脹脛あたりを頂いてみる。
では、この余計な胴体は一体どうしたものか。
……そうだ、穢れ無き自然の中で生きる妖精とあらば、きっと塵界の空気中に漂う毒素に体内を犯されていない筈。遍く臓腑はきっと新鮮だ。ちょっと手間はかかるが、臓腑も食べてみることにしよう。
それでも余る余計な部分は、森に捨ててしまおう。下賤な妖怪が適当に食い散らかしてくれるだろう。
しかし、まさか胸が無いとは。
だが、よく考えれば、永遠に幼い体であれば、胸だって小さいことは容易に想像がつく。私としたことが、何と言う凡ミスだろう。
あの方も――永遠に幼いのであろうか。ずっとあの稚い体で生き続けるのだろうか。
それもいい。――いや、その方がいい。
食欲どころか、色欲の観点から見ても、私は幼い者が好きなようだ。増々、自分の浅ましさが悲しくなる。こんな私でいいのだろうか。こんな私が、本当にあの方に相応しいのだろうか。
現に今私は、あの方に選ばれなかったから、ここにこうして立っているのではないか。こうして残酷な料理なんてして、どうにか私に振りむいて貰おうとしているのではないか。手を血で染めて、心を闇に染めて。
そうこうしている内に料理は完成していた。やる気の問題であろうか、作業手順が全然記憶に残っていない。
ステーキにモツ煮込み。なんて体に悪そうな取り合わせであろう。
おまけに味まで酷い。
もう嫌。疲れてしまった。
どうしても敵わない。どうしても。
今日はもう眠ってしまおう。
眠って、何もかも忘れよう。
*
カーテンの僅かな隙間から入り込んだ日差しを目元に受け、私は目を覚ました。夜雀の私が朝に目を覚ますなんて、珍しいことだ。
……すぐに異常に感付いた。
太陽の光線を受けるなんてありえない。レミリアさんの傍で眠っている筈なのに。
慌てて飛び起きたが、周囲には高価そうな調度品も無ければ、何だか分からないお香の香りも無い。貧相な作りの家具が雑然と配置されて倉庫みたいな部屋と、森を形成する木々の香りがあるばかり。
私は自宅にいるではないか。
確かに、レミリアさんとベッドの中で一緒に眠った筈であったのに。
どうにか昨晩のことを思い出そうとしたが、ずきずきとしたいやらしい頭痛が、考え事を阻害する。
昨晩ベッドの上で飲まされた、血の様に赤い酒が思い起こされた。頭痛の原因は、きっとあの酒だ。
あれの所為で記憶の一部が飛んでしまったのだろうか。確かに、あの酒を飲んでから事が本格的になり始めたことは覚えているが、以降の記憶はあやふやだ。快楽の余韻は焼印のように体に残っているのだが、それ以外の思い出は、妙に茫漠としている。
気付かない内に帰ってしまったのだろうか。しかし、私はレミリアさんの私室から外へ出るまでの道のりを知らない。
では、誰かが案内してくれたのか。
いやいや――そもそも、あの部屋から出た憶えが無い。
しかし現実に私は、レミリアさんの私室は愚か、紅魔館さえ出て、慣れ親しんだ自分の家にいる。何らかの方法で紅魔館を出たことは確かなのである。
一人で帰ることは不可能と言っていいから、きっと誰かの手を借りて帰ったのであろう。記憶が無いのは酒の所為。加えて私は、物覚えが非常に悪い。昨晩の記憶の一片が無くなったからと言って、うろたえることはない。
近い内にお礼を言っておかなくてはいけない――すぐに動こうと言う気にはならなかった。元々夜型の生き物であることもあるが、今日は何だか頭が痛くてしかたがない。気を失う程の快楽の代償であろうか、体もだるい。夜からまた屋台を開かなくてはいけないから、今はとにかく眠ることに決めた。
ずきずきと痛む頭といたく気怠い体は、私に臨終の様な深すぎる眠りを提供してくれた。
目覚めたのは夕方であった。外は夕焼けで赤色に染まっている。レミリアさんの好きなのとは違う、晴れやかな赤色だ。お世辞にも紅魔館の『紅』は明々としたものとは言えない。レミリアさんだって、そう言われても喜ばないであろう。
頭痛も怠さも、睡眠によってそれなりに取り払われていた。絶好調とは程遠いが、屋台くらいなら何とかなりそうだ。
いつも通りの支度をして、私は家を出た。
この日も、屋台はそれなりの盛況ぶりであった。
今日も今日とて、天狗が来た。あいつらはもっと他にやることは無いのかしら?
昨日の鴉天狗二名の他にも多くの天狗を連れてきている。幻想郷の重鎮であるが故の自信があるのだろうか、非常にうるさい。だが、そういう賑わいを求めてここに来る者もいるのだから、一概にこれを悪とする訳にもいかない。
カウンター席に陣取って、新聞を書く為に幻想郷を一日中駆けずり回って得たいろんな情報を、面白おかしく披露している。ここで披露するのは、新聞にはなれない、小ぶりなネタばかりなのだろう。
蟲の妖怪がやっている虫の知らせサービスでの大失敗と言うのが、射命丸文が見つけた本日一番の笑い話のようだ。
私と蟲の妖怪とはそれなりの交友があるので、彼女を悪く言われても私はあまり面白さを感じられない。
その為、知人の失態に対する苦笑のような、知人を嗤われている怒りを隠す作り笑いのような、微妙な笑みを浮かべていたのだが、
「あれ? 面白くないですか?」
天狗の目敏さを忘れていた。私がそれ程楽しんでいないことに感付いた。
「いえ、そんなことないですよ」
馬鹿正直に答えても何も得が無いことは分かり切っているから、言葉を濁したのだが、鴉天狗はそんな小細工が通用する相手では無い。天狗とはほとんど横暴な奴らなのだ。気に食わないとすぐ相手を責める。
「だったらもっと笑うべきです。楽しければ笑うのは当然のこと。さあ笑いなさい」
無理難題だ。面白くないものは面白くない。笑うなんて難しい。
しかし私は一先ず、精一杯作り笑いを浮かべてみた。……今鏡を覗いたら恥ずかしさで悶死してしまうかもしれない。唄は好きだが、演技は苦手だ。
私の下手糞な作り笑いなど見抜くのは容易だったと見え、文は激憤した。私に嘘をついたとか、客へのサービス精神が足りないとか、そんなことを言いながら。
横にいる姫海棠はたてが今日も宥めすかしてくれてはいるが、文が昨日よりも酷い状態なようで、まるで効果が無い。
初めは酔っ払っている文に苦笑していた仲間の天狗達も、次第に笑顔を失っていく。忽ち、この場は異様な緊張感に包まれてしまった。その根源たる射命丸文のみが、何にも気にしない様子で一人、喚いているのである。
私が狼狽してしまったことなど言うまでも無い。私のような貧弱な夜雀が、どうすれば天狗などに打ち勝つことができようか。事を穏便に済ますことが私の最善手だ。しかし、酔っ払い相手にそんなことするのは至難の業である。
私は、無意識の内に、レミリアさんの影を探していた。
昨日のように彼女が現れて、この場を収束させてくれるのではないかと。
しかし、今夜はそうはいかないようだ。彼女の姿は無い。
そもそも、彼女が二夜続けてこんな所へ来る方が珍しい。
「ちょっと、聞いているんですか?」
金切り声が上がる。周辺にばかり目を向けて愛しの吸血鬼を探していた私の視界には、射命丸など映っていなかった。それ故に、彼女が突如発した甲高いこの一声に、私の心臓は破裂せんばかりに跳ね上がった。
ほとんど反射的に正面に立つ天狗を見るや否や――カウンター越しに胸倉を掴まれた。客席側に置いてあるグラスやら猪口やら箸立てやらがばたばたと倒れる。
見かねた天狗達が文を抑えにかかるが――ちょっと遅すぎやしないだろうか?
知らぬ間に涙が零れていた。膝ががくがくと震えた。
あまり弱みを見られるのは好ましくないが、天狗にこんな風に迫られては、恐怖だって覚える。
やっと文が手を離した。まだ彼女はぶつぶつと文句を言っている。酔いが覚めてから謝ってくれるだろう。根は悪い奴ではないのだ。酒癖が悪いが。
このままではまずいと悟ったか、天狗達は昨日のはたてと同じ様に、飲み食いの代金を払って、文を連れて去って行った。
私の周囲があっと言う間に静かになった。遠巻きにこちらを見ている客の視線が痛々しい。
そこに残った私は、未だに涙も抑えられない程動揺している。客観的に見ると、さぞや惨めたらしい姿だろう。酔った客に胸倉を掴まれ、怯えて涙するだなんて。
すっかり阻喪してしまった私は、さっさと屋台を畳んでしまった。まだ客も残っていたと言うのに。
自分の感じている不快を隠そうともせず他人に押し付けるのはよくないが、私はどうしても隠し切ることができなかった。
この不器用さが非常に悔しい。歯痒い。
もっと素晴らしい妖怪にならなくてはいけないのに。
こんなちっぽけな器では、あのひとに――レミリアさんに近づけない。
こんなだから私は、十六夜咲夜に代われる存在になれないのだろう。
もっと素晴らしい人格を。もっと素晴らしい存在に。
レミリアさんに認められるような……そんな妖怪に。
苦痛な業務を終え、家に帰る。
適当な後始末を済ませて、ベッドに横たわる。
頭痛と気怠さが少しぶり返してきた。
一日を省みてみる。
接客における失敗。その後の対応の不備。遠ざかる紅い悪魔。笑う銀髪の人間。
非力。屈辱。劣等感。ため息。涙。
寝不足が祟っているのか、すぐに瞼が降りてきて、私は安寧の闇に身を委ねた。
*
一体、いつ頃からこのエプロンを使っているだろうか。
紺と白で纏められたシンプルなデザイン――所謂、一般的な「メイド服」と呼ばれるものだ。
元々白だった部分は、血潮の染みですっかり変色してしまって、今は赤黒いと言うか、赤茶けていると言うか、錆の色と言うか……とにかく、酷くグロテスクな色合いとなっている。洗っても落ちないのだから仕方が無い。そろそろ新調しようかとも考えている。気持ちの切り替えにもなるかもしれない。
今日あのひとは、一人で眠ると言った。私にお声は掛からなかった。きっと、昨日の夜の遊行で満足してしまったのであろう。
悲しいし、悔しい。またしても、あの憎き女が私の望みを断つ。邪魔をする。
しかし、あの方の言うことは私にとって絶対だ。逆らう訳にはいかない。
あの女にあって、私に無いものとは何だろうか。
よく分からないが、確かなことがある。
まず、私は唄が歌えない。
歌うだけなら小鳥にだってできる。だが、私はどうも思ったように声の高低を操ることができない。聞くに堪えない歌声なのである。
それから、やはり料理であろう。
私だってそれなりに料理の腕には自信があるが、あの女には恐らく敵わない。片や人間、片や妖怪――寿命の暴力とはひたすらに恐ろしいものだ。
唄なんて、もはや私にはどうすることもできない。そもそも、努力する気にもなれない。
だから私は、料理で勝負しようと決めたのだ。
食事くらいはせめて、あの女と対等か、それ以上のものを提供したいと。
そうして始めたのが、今やっているこの妖怪料理。
妖怪にどの程度料理の文化が根付いているのかは知らないが、人間ばかり食ってきた奴らが、妖怪を調理するとは到底思えない。
技術も勿論だが、食材からアドバンテージを得ておくにこしたことはない。
果たして妖怪が美味いのか――それには自信を持って頷くことはできない。
しかし、向こうが妖怪の肉を使わないのであれば、妖怪料理の味を再現できるのは私だけ、と言うことになる。私にしかできない。私だけができる。珍しい事物に目が無いあのひとの気を引けるかもしれない。
今回はなんと天狗をとっ捕まえた。
酒に酔ってそこいらをふらふらしているのを見つけたのだ。狩るのは少々リスキーだったが、妖怪料理の更なる発展と進化の為には、こういう危険な道も歩まねばならないだろう。そもそも、こんな料理をしていること自体、かなり危ないことだと思える。博麗の巫女に見つかったら一体どんな仕置きを喰らわされるのだろう。
彼女は妖怪退治の専門家だが、罪深い人間にはどんな処罰を下すのであろうか。まるで想像ができない。そもそも、博麗の管轄外と言うことも考えられる。
捕まえた天狗は見慣れた鴉天狗である。鴉と言うだけあって、背中には漆黒の翼。髪も同じく黒色の短髪。快活さが溢れ出ている。
腿と翼にナイフの一撃を喰らわせたお陰ですっかり酔いが覚めてしまったようで、私を恐れているような、恨んでいるような、微妙な表情でこちらを見ている。翼はズタズタの雑巾みたいな悲惨な状態になっているから使い物にならないし、手足はしっかり縄で縛った。だから彼女は今、動こうにも動けない状態だ。これで料理に集中できる。
昨日の妖精くらい騒ぎ立てるかと思ったら、そう言う訳でも無かった。人間如きにきぃきぃ喚こうと言う気にはならないのであろうか。そうやって強がるのは一向に構わない。と言うより、寧ろ静かでやりやすい。ありがたいことだ。
さて、早速に調理に取りかかろうと思うのだが、なかなか手が出せない。と言うのも、天狗の肉などと言う上質な食材を、あまり無下には扱いたくないと言う思いがあったからだ。妖精くらいの肉なら腐る程狩ってもいいくらいだが、天狗程の妖怪になるとそうはいかない。危険を顧みず手に入れたのだから、有効に活用していきたい。
今までは特に何も考えないで調理してきたが、今回は先程言ったような気持ちもあるから、『天狗の肉とはどうすれば一番美味く食べられるのか』を考えていて、ちっとも手が動かないのである。
しかし、当然と言うべきか、天狗など食べたことがないので、見当がつかない。どんな肉質なのだろうか。鴉天狗なんて名前が付いているのだから、やはり鶏肉っぽいのであろうか。
鶏肉と言えばやはり唐揚げが思い浮かぶ。酒にもよくあう。私も好きだ。
さっぱりと蒸し鶏と言うのもいいかもしれない。
いやいや、あのひとのような幼い子はローストチキンなんてものもいいのかもしれない。
あれこれ思案したが、やはり分からない。
……いいことを思い付いた。まだこの食材は生きているではないか。食材本人に聞いてみればいい。これは名案だ。
「ねえ、鴉天狗」
手足を縛られ、脚や背からだらだらと血を流している鴉天狗に話しかける。返事は無かった。ただ、瞳に秘められた怨嗟の色が、話しかけたことでやや濃くなったように思えた。
構わないで私は言葉を続ける。
「あなたって、どう食べれば一番美味しいのかしら?」
私は至って真剣に問うたのだが、どうしたものか、この鴉天狗には、私はふざけているように感じられてしまったようだ。
天狗はハッと鼻で笑ってきた。
「頭がおかしいんですね」
どう食べれば美味しいのか――と言う問いへの回答になっていない。新聞記者の癖に日本語が不自由だなんて。
……いや、待て。
もしかしたら「おいしい」を「おかしい」と聞き間違えたのではないだろうか。
これについてはちゃんと根拠がある。
今、私達がいる調理場は、私が他人に知られぬようにこっそりと作った秘密の場所だ。防音とか侵入者防止の観念から、地下に設けている。闃寂の世界に、ひんやりと冷たい空気。床に広がる不快な赤色をした染み――天狗はこういったものに恐れをなしているようで、先程からずっと小さく震えている。
私の質問への頓珍漢な回答も例に漏れず、何だか声が上ずっていた。
その声の上ずりから、私は上手く相手の言葉を聞きとれなかったのではないだろうか。
確率は低い。だが、そんなことありえないと言う確たる証拠も無い。
どの道見当がつかないから、私はこの『聞き間違い説』を信じてみることにした。今日は天狗の頭を使って料理をしてみよう。
脳料理――と言っても、パッと思い付くレシピが無いので、今日はとりあえず無難に煮込み料理でも作ってみることにする。
先ずは天狗の頭から脳みそを摘出しなくてはいけないのだが、これまた初めての経験である。こうやって初めてのことが続くと、何だか成長したような気になれる。
しばらく、座り込んでいる天狗の姿をまじまじと眺めて、脳の取り出し方を思案した。天狗は裸体を見られるのが不快なのか、居心地悪そうに体をくねらせている。じっとしていて欲しい。
先ず、頭蓋骨を割る必要がある。
数ある包丁の中から最も大振りなもの用意した。刃渡りは実に四十五センチに届く。包丁と言うより、鉈の様な形状をしている。
先程までは平静を保てていた鴉天狗も、この刃物を見た途端に狼狽え始めた。あまりに無骨なこの刃物に恐れをなしたのかもしれない。確かに、料理用には見えない。
「下手に動くと余計に痛いかもしれないわよ」
私は相手を落ち着かせようとこう言うのだが、鴉天狗はめちゃくちゃに体を揺さぶって私の作業を妨害する。腕の一本でも奪って黙らせた方がいいのだろうか。
いやいや、落ち着け。この程度の妨害行為に屈してはいけない。こういう妨害を乗り越えてこそ、成長と言うものが得られるのではないだろうか。
暴れ回っても所詮は手も脚も縛られている妖怪。幻想郷で一番速く空を飛べるのがこいつらしいが、ご自慢の翼は今はズタボロだ。飛べるものなら是非飛んでみてほしい。……前言撤回、飛ばれると面倒くさい。
手順としては、先ず頭頂部に大きく切れ目を入れる。その切れ目に、もう少し小ぶりな包丁を工具の「のみ」の様に差し込む。それから包丁を上手く回転させたりして頭蓋骨をこじ開ける。あとは輪切りにしたグレープフルーツをスプーンで掬うみたいに頭骨の内側から剥がして行くなり、刃物を上手く使って切り取るなり、臨機応変に対応して行く。
これで上手くいくかどうかは不明だが、とりあえず今回はそういう風にしてやってみようと思う。
巨大な包丁の刃を頭にぴたりと当てる。
危険なものが密着してしまい不用意に暴れられなくなったのか、それともすっかり委縮してしまったのか知らないが、天狗がぴたりと暴れるのを止めた。
「お願いです、そんな恐ろしいものはしまって下さい。やめてください」
なんと、命乞いを始めた。天狗が人間に命乞いだなんて。……万が一、私がここで彼女を解放してあげたとして、天狗はこのどうしようもない屈辱を胸に秘めたまま普通に生きていけるのであろうか?
解放と同時に私を殺すつもりか。そうだとしても、人間に命乞いをしたと言う事実に変化は無い。
何だか、この疑問を解決したい衝動に駆られた。
「ここで私があなたを解放して、あなた、生きていけるの?」
天狗は首を傾げた。質問の意味が分からないのだろうか。ならば、もっと直接的な言葉で説明してやろう。
「人間に命乞いをしてまで生き延びる命に意味はあるのか、と聞いているのよ。鴉天狗様?」
天狗はすぐには答えなかった。
「人間? 誰が人間だと言うのです」
しばしの沈黙を挟んで得られた回答がこれだ。
そうか、そうか。私はもはや人間じゃないと言うのか。
それもそうかもしれない。こんな残酷な料理を好き好んでやっているような私は、もはや人間と呼ぶには烏滸がましいのか。
それはそれでいい。悪い気はしない。
そうなれば私はより、あのひとに近づける。
あの憎き女にも近づく。
この料理を続けることで、私は人間を辞められるんだ。
そう考えると、嬉しくて、嬉しくて、手に迷いがなくなってしまった。
峰に握り拳を叩き付ける。研ぎ澄まされた刃から、頭蓋を傷付けた硬質な衝撃が伝わってきた。
同時に、天狗がびくんと体を震わせた。
頭頂部から噴水の様に血が噴き出す。また、エプロンの汚れがひどくなる。
「やめ、や、やめて」
壊れたおもちゃみたいに天狗がこんなことを懇願している。今やめてもきっと苦しいだけで、結局死んでしまうと思うのだが。
ここまでやったからにはきっちりと最後まで料理してやるのが筋であろう。もう一発、握り拳を打ち付けた。またも血が迸る。電流を流したみたいに天狗が痙攣する。相変わらずやめろと言っている。尚更、止めても仕方ない状態になったと言うのに。
それから立て続けに三発、峰を殴りつけ、天狗の頭に一文字の溝を刻み付けた。
そこに用意しておいた包丁を刺し込む。
柄の尻をこつこつと叩いて、刀身を頭に沈み込ませて行く。意外とすんなり入った。脳に傷が付いてしまうかもしれないが、別に売り物にする物でもないから、あまり細かいことは気にしない事にした。
包丁が十分入り込んだ所で、それを回転させて、溝の奔っている頭蓋骨をこじ開けようとしたのだが、流石は頭骨、びくともしない。
血が温泉みたいに湧き出てくる。生温かい。
にっちもさっちもいかなくなってしまい、私は困り果てて、一歩退いて、現状を広い目で分析してみることにした。
頭頂に包丁を一本立てている鴉天狗――なるほど、全体像を見てみるとかなり滑稽だ。思わず噴き出しそうになった。
まだ天狗は生きている。しかし、手足が縛られているから、頭のてっぺんに墓標の様に突き立てられている包丁を処理できない。本人はすぐにでも抜き取りたいようで、しきりに体をもじもじと動かしているが、叶わない願いである。頭から脚までが枝分かれしていないから、その様相はまるで芋虫である。
あまり面白がってばかりはいられない。それに、彼女は食材なのだ。見て楽しんでいては罰が当たってしまう。私は冷静に思慮を巡らせた。
そして、すぐにあることに気付く。首を落とした方が作業しやすいのではないか。
死ぬと鮮度が落ちてしまうから、なるべく脳みそを取り出すのも生きている内に……と思っていたのだが、このままでは余計な時間がかかってしまう。本末転倒だ。
首を落とすことにした。この状態のまま間誤付いていても、それ程時間が経たない内に天狗は死んでしまうであろうから、今絶命させても鮮度に問題は無いであろう。
鳶座りしている天狗を押し倒す。抵抗が無い。今や彼女は、生命活動を維持するのが精一杯の状態なのであろう。
俯せに寝かせた天狗の首に、頭頂の溝を掘った鉈のような包丁の一撃を叩き込む。この一発だけで、首の半分くらいは抉れた。
もう一発。更にもう一発。まだ足りない、もう一発。……初めの頃は、一撃加える度にいちいちビクン、ビクンと体を痙攣させていた鴉天狗だったが、回数を重ねていくに連れ、その動きが小さくなり、やがて微動だにしなくなったのが、見ていて面白かった。
包丁付きの頭は胴を離れて、ごろりと床に転がった。断面や切り口は非常に見栄えが悪いが、ここを食べる訳ではないから、気にしないことにする。
切り落とした頭を俎板に載せ、脳を取り出す作業を再開する。
頭蓋骨をもっと派手に壊してしまう方が取り出しやすいと思うから、もう二つ程、頭蓋骨に切れ目を入れた。頭頂部を奔る一つ目の切れ目の、左右五センチ程の所に一本ずつ。合計三本の切れ目が入った。これで頭蓋骨はかなり脆くなったであろう。
仕上げに、骨を峰で豪快に叩き壊す。
どうせ食べるのは私だから、脳がどれ程傷付いていようと別に気にならないが、本番を見据えた練習なのだから、一応、食材の質には気を配らせておくことにしよう。
慎重に力を加減して――頭蓋骨を叩き割る。
頭蓋骨はあっさり割れて、大穴が開いた。
その穴を覗きながら、小さな刃物で脳を切り取って――遂に私は天狗の脳みそを手に入れた。
しかし、これはまだ食材調達――料理の序章に過ぎない。本格的な料理は今から始まるのである。
使い慣れた鍋に湯を張る。トマト風味にしてみよう。脳を取り出す際の血と脳の色の対比が非常に鮮明に私の記憶に残っているから。
たまねぎ、キャベツ、にんじん、じゃがいも、ベーコンなんかも入れよう。野菜も食べることができて一石二鳥だ。
決まり。今日のメニューは天狗の脳みそ入りミネストローネ。美味いか不味いか――それは食べてからのお楽しみだ。
野菜は食べやすい大きさに切る。小さくし過ぎると煮崩れしそうだから、慎重に。
火の通りの悪い具材から順に炒めていく。キャベツがしんなりしてきたら水にトマト。コンソメを入れて味付けする。
丁寧に阿久を取り、強過ぎない火力で時間を掛けて煮込む。しばらくしたらじゃがいも、それから今日の主役である、一口大に切り分けた天狗の脳を入れて更に数十分。
最後に塩と胡椒で味を調える。
白い器によそって、パセリを振り掛けて――完成。
天狗の脳みそを使うだなんて、今までやったことの無い意欲的な試みをしたからであろうか。私の気分は何とも晴れやかだった。カメラでもあれば写真に撮っておきたいくらい。
……いやいや。喜ぶのは時期尚早だ、十六夜咲夜。
この料理がちっとも美味くなかったら、何の意味も無いではないか。料理とは美味しくてなんぼだ。いくら私が日々悩み、血に汚れ、散々な苦労をして作った料理であっても、美味しくなければ料理としては無価値だ。
天狗の脳みそ入りミネストローネ。きっと幻想郷でも、外界でも、こんなものを食べるのは私が初めてであろう。
とりあえず、無難にじゃがいもから食べてみる。……普通のミネストローネだ。別段美味くも、不味くもない。私が作る、普通のミネストローネ。脳みその生臭さが氾濫するのではないかと危惧していたが、そう言った心配は無かった。
それから、にんじん、たまねぎ、キャベツ、ベーコンを一つずつ食べ、スープも頂いてみたが、全く問題無い味だった。
さて、主人公にして問題児――天狗の脳みそ。
一体、どんな味がするのであろう。どんな食感なのであろう。
今まで食べたことがなくて、それでいて味の見当が付かないこの食材に、私は些か怯えているらしい。スプーンを握る手が僅かに震えている。
実は天狗の脳みそには致死性の毒が含まれており、毒抜きしないで食べると絶対死んでしまう――なんてことがあるかもしれない。だって、そんなこと知る由も無いではないか。どんな生活をしていたら天狗の脳を食う機会に出会うと言うのだ。もしも本当に毒が含まれているとしても、こんなことはきっと求聞史紀にだって記されていない。
既存の具材や、無難な部位――腕とか脚とか――ばかり食べてきたから気付かなかったが、食材の第一人者になるというのは、なかなか恐ろしいことなのだと実感する。かなり貴重な経験だ。何かに活きてくるとは到底思えないが。
……たじろいでいても、何も始まらない。
じゃがいもやらにんじんやら、かわいい野菜達がぷかぷか浮かんでいる赤いスープの中で、一際異彩を放っている白い欠片――天狗の脳をスプーンで掬い上げる。
赤いスープに塗れた脳は、つい先ほど頭蓋骨の中から取り出した時とほとんど同じ様相を呈している。その所為で、ほんの少しだけ食欲が減退してしまった。
十数秒、スプーンの上に鎮座する脳みその欠片と睨めっこした後、私は一思いにそれを口に運んだ。
やけにぷるぷるとした舌触り。あまりの気色悪さにぞわわと肌が粟立った。
噛まずに飲み込もうとして、ハッと思い留まった。味の良し悪しを判断しなくてはいけない。噛まずに飲んではそれが達成されないではないか。
まるで風邪薬を飲まされる子どもみたいに、せーの――と心の中で音頭を取って、苦心して手に入れた高級(?)食材を咀嚼する。
噛んでいると言う実感の得られない食感である。非常に柔らかい。ほのかに甘みが感じられる。噛んでみると、若干生臭く感じられた。
しかし、食べられない程のものではない。寧ろ美味しいように感じた。要するに内臓である。白子が一番近しい食材だろう。
無事に味の批評を終え、胃にこのゲテモノを送りつけることに成功した。……だが、まだまだミネストローネは勿論、脳みそもたっぷり残っている。
黙々と私はミネストローネを食した。脳を使い切る為に少し多めに作ってしまったのが失敗であった。スープのような料理だから、本来はあまり大量に食べるべきものではないのだ。並々とミネストローネを受け入れた胃は、今や破裂寸前の水風船のような状態である。動きたくない。お腹が痛い。
しかし、椅子に座って腹を摩ってばかりもいられない。料理の後片付けをしなくてはいけない。何もかもを後回しにしたツケが回って来た。
重い体を引き摺るようにして、鴉天狗の死体を細切れにして袋詰めにし――後で森にばら撒いて妖怪の餌にする――、床を磨き、食器を洗い、今日の料理の反省を書いて、ようやく私は、この秘密の厨房を後にした。
この厨房は、森のとある一角にある小さな小屋の地下室に当たる場所だ。上階には簡素な寝床なんかを設えてある。
今日はここで眠ろうと決めた。朝までそれ程時間が無いが、とりあえず眠りたかった。
お嬢様を起こす時間までには起きなくてはいけない。
慣れない作業が続いて疲れていたのだろうか、私はすぐに、生ぬるい泥沼の底に沈むような、深い眠りに落ちた。
*
目覚めると、もう夕方であった。窓から見える外はもうかなり暗い。私は夕焼けさえ拝めない時間まで眠っていたのだ。
誰に言っても呆れ果てられる程の時間、眠っていた筈なのに、体はいやに怠い。
今日は屋台の営業は止めにしようと決めた。体が働くことを拒んでいる感じがする。昨日の射命丸文の一件が未だに尾を引いているのだろうか。
重要なことはぽんぽん忘れていく癖に、さっさと忘れてしまえばいいことはこうやって引き摺ってしまう。全く、生き辛い頭脳である。どうにかならないものであろうか。
仕事をしないとなると、私は非常に暇になる。妖怪なんてそんなものだ。基本的に暇なのである。
先程言った通り、倦怠感が凄まじいので、このまま眠り続けると言う選択肢もありなのだが、そうすると私は一日眠ってしまうことになる。それではあまりにも無意義ではないか。
あれこれ思案した結果、私は先日の礼を言いに、紅魔館へ出向くことにした。
誰なのか詳しくは知らないが、とにかく誰かが、私を自宅まで、若しくは紅魔館の玄関まで送ってくれたようだったから、そのお礼だ。
真夜中でもレミリアさんは起きているであろう。しかし、彼女の夜は割に忙しい。私とああしていやらしい交わりをしたように、今宵も誰かとまぐわう可能性がある。
レミリアさんは時々、私とステキな夜を過ごしてくれる。だけど、別に私じゃないといけないなどと言うことは無いようなのだ。彼女が気に入れば、誰だってあの妖しげな私室に招いて、思う存分淫靡な遊戯を楽しんでいるのであろう。魔族の嗜みなのだろうか。幼いのに、よくやるものだ。
つまり私なんて、どう言った理由かはさっぱり分からないが、とにかく、幸か不幸か紅い悪魔に気に入られた夜雀と言うだけで、彼女とそれ程深い関わりがある訳ではない。……と思っている。
一方、私はレミリアさんが好きだ。天真爛漫な生き方、高貴な物腰、強大な力、麗しい容姿――実に素敵な方だ。
そんな存在だからこそ、私なんて釣り合わないとも思う。
しかし私は未だに、胸の中に、一縷の期待を抱いて過ごしている。
些かの下心を秘めて進んだ紅魔館への道は、随分と短く感じられた。
門番の妖怪が立っている。珍しく、今日は居眠りをしていない。私のことをよく知っているので、特に何事も無く通してくれた。
エントランスホールで待機していると、ややあっていつものメイド――十六夜咲夜が現れた。
「いらっしゃい。こんな時間に珍しい。仕事じゃないの?」
「今日は屋台お休みです」
「あら、どうして?」
「そういう気分じゃないから」
正直に休店の理由を述べると、十六夜咲夜は呆れたような、感心したようなため息を漏らした。
「妖怪の仕事は気ままで羨ましいわ」
あのレミリアさんの従者なのだ、きっと彼女は働き詰めなのだろう。吸血鬼の元で働くとは、きっととかく大変なことなのだ。私などには到底勤まらない。そう言った意味でも、レミリアさんの一番とは、この従者なのかもしれない。……いや、妹がいると聞いたことがある。私は未だに会ったことがない。別に会ってみたいとは思わない。これ以上、私と言う存在がレミリアさんにとって、如何に取るに足らないものであるかを思い知らされたくない。
用件も言ってないのに、十六夜咲夜は勝手に私をレミリアさんの私室へと案内し出した。私がここへ来る理由はレミリアさん以外あり得ないと高を括っているのであろう。実際、その通りなのだが。
暗い廊下を二人で歩く、この時間がとても居心地が悪い。私も早い所、レミリアさんの私室への道筋を覚えてしまいたい。
十六夜咲夜は道中、一度も振り返らない。私の顔など見ても仕方が無いからであろうか。それとも、見たくないのであろうか。
一体、彼女は今、何を考えているのだろう?
誠に勝手で、無根拠な憶測だが、彼女は私のことが嫌いだ。嫌いな相手を主の元へ連れて行くのはどんな気分なのだろう。
案内が無くては探索することさえままならない、迷宮の様な館の中、嫌いな妖怪と二人きり。――抹消するにはもってこいの状況ではないか。
私は、何だか急に恐ろしくなってしまった。
「失礼します」
恐ろしい空想に襲われている最中、急に咲夜が声を出したものだから、私はびっくりしてしまった。床に落としていた視線を一気に上げる。
咲夜は私室にいるレミリアに来客を知らせていたから、私の奇行には気付かなかったようだ。
「ごゆっくりどうぞ」
形式的な台詞と、それっぽい礼をした後、十六夜咲夜の姿が掻き消えた。初めて見た時は大層驚いたが、今は別に何も感じない。あのマジックは一体どんな仕掛けがあるのだろうか。私は未だに知らない。
レミリアさんの私室は、前来たよりも遥かに明るかった。珍しいお香の香りなんかも全然しない。
「いらっしゃい」
椅子に座って本を読んでいる最中であった。表紙には金色の文字で題名が書かれているが、私には読めない。
「こんな時間に珍しいわね。屋台は休みなの?」
従者と同じようなことを言っている。二人は気が合うのだろうか。
「今日は気分が乗らないもので」
私も同じような返事をしておいた。
「ふぅん。そういうこともあるものなのかしら」
ここでの反応の違いが、日夜汗水垂らして働く従者と、悠々自適の暮らしをする主の差と言った所だろうか。
「今日は何の御用? あそびたいの?」
レミリアさんの瞳が妖しく光る。誘って貰えるのはありがたかったが、非常に残念だが、今はそんな体の状態ではない。
「いいえ。今日はそういう用事じゃないんです。ごめんなさい」
相手の気を悪くしないように断った。
「そう」
レミリアさんは別に何ともなさそうに一言。もう少し残念がってくれてもいいのに。
気を取り直して本題に入る。
「一昨日のことなんですけど」
私がこう切り出すや否や、レミリアさんが甲高い声を上げた。
「一昨日! そうよ、一昨日だったわね。あなたいつの間に帰っていたの? 朝、隣にいないからびっくりしちゃったわ」
今度は私がびっくりする番だ。
私は一人で帰った訳ではない。酒に酔い、快楽に溺れ、危なげな法悦の限りを尽くしたお陰か、あの日の夜のことがまるで記憶に無いから、帰った記憶もまた存在しないのだ。そもそも、この館から出る方法が分からないから、一人では帰れない。
てっきり、レミリアさんの計らいで帰宅させてもらえたものだとばかり思っていた。だから、彼女まで私の帰宅のことを知らないと来れば、私が驚くのは当然のことなのだ。
「レミリアさんが帰してくれたんじゃないんですか?」
そうでないから相手は驚いているのだが、こう問わずにはいられなかった。
レミリアさんは顔を顰めた。
「どうして私があなたの帰りまで面倒見なくちゃいけないのよ」
確かにそうだ。あなたが私なんかの帰りの面倒を見る筈が無い。
では、どうして私は帰れたのだろう。
「私、あの日の夜の記憶が全然無いんですけど……私、いつ頃眠っちゃいましたか?」
「さあ……私が先に飽きて、そろそろ寝ようって提案して、あなたがそれに賛成した形だったから。あの後あなたがどれくらい起きていたかは分からない。だけど、随分お酒に酔ってた感じだったわね」
それは何となく私も覚えている。かなり強い酒を飲まされてしまったのだ。
「寄ったままふらふら御不浄にでも行って、その途中で咲夜に見つかって、帰されたんじゃない? 酔っ払いは世話が面倒だから、さっさと自宅へ戻しておきたかったのかも」
記憶が無いので真相は分からないままだが、そういうことにしておくことにする。そうなると、私は十六夜咲夜に感謝しなくてはいけないことになる。
参った。あの人間にはあまり話しかけたくない……と言うか、かなり話しかけづらい。しかし、礼の一つくらい言っておくべきなのだろう。
「用事ってそれだけ?」
レミリアさんが問うて来た。私は素直に首を縦に振る。
「それだけじゃ面白くないでしょう。折角こんな所へ来たのだから、もう少しゆっくりして行きなさいな」
こう言われたから、私は好意に甘えることにした。
レミリアさんの私室で雑談をして暇を潰していると、彼女の夕食の時間になった。すると、レミリアさんがぱちんと指を鳴らした。
「丁度いいわ。ついでにウチで食べて行きなさい」
これは今までに無い展開だ。紅魔館の食事が摂れるなんて滅多に無い機会である。レミリアさんの好みなんかも知れるかもしれない。……知っても発揮する機会があるとは限らないが。
断る理由なんて無い――筈だったのだが、ふと脳裏を過った人影が、二つ返事を寸での所で制止した。
――十六夜咲夜。
きっとこの館の料理を担当しているのも、あのメイドであろう。吸血鬼の僕とあらば、その腕は相当なものであろう。きっといい勉強になる。
だが、その食事を頂くと言うことは、私は十六夜咲夜の料理の腕を見せつけられると言うことになる。
それは、もしかしたら、私に勇気と希望を与えるかもしれない。これは、私が想像していたよりも、咲夜の料理の腕が大したことなかった場合だ。
だが、逆だったとしたら――私のちっぽけな自尊心はずたずたに引き裂かれてしまう。
あの女に私が勝っている所と言えば、それこそ歌と料理くらいのもので、後は全てにおいて私が劣っている。
料理まで負けてしまうのか?
――いや、まだ負けているとは決まっていない。
それは食べてから判明することだ。食べれば判ることだ。
食べれば判る。食べれば、私の料理の腕が、あの女よりも勝っているか、劣っているか。
食べれば――。
「すみません」
心と口は全く違う意識を持っているような感じがする。
「今日は少し体調悪いので」
だが、口がこう動いている以上、これが私の決断なのだ。
「これで失礼します」
優劣の真相は、闇へ葬られた。
十六夜咲夜に先導され、私はエントランスホールまで戻ってきた。道は覚えられなかった。そんな精神状態じゃない。
「それじゃあ、帰り道、お気を付けて」
咲夜の声がする。私はうんともすんとも言わないで外へ出た。家へ送ってくれた礼を言い忘れていたのに気付いたのはしばらくしてからのことであった。
辺りはもうすっかり暗くなっている。風が冷たい。追い風だ。私の歩みは速くなる。逃げるように紅魔館を離れる。
敗走。
私は逃げたのだ。敗北を恐れて。
絶対に勝利できない。だが、絶対敗北もしない。――さっきまではそう思っていた。
しかし、どうしたものか、私の心は今、壮絶な劣等感と敗北感で満ち溢れている。
森の一角にある自宅に着くと、一気に脱力してしまった。
ふらふらとベッドへ歩み寄って、そのままそこへ倒れ込む。帽子を紅魔館に忘れたことに気付く。しかし取りに帰る気など起きなかった。明日でいい。明後日でもいい。あまりにも自分が惨めで、紅魔館へ足を踏み入れようと言う気持ちがさっぱり湧いて来ない。
懸命に目を瞑り、安穏たる宵闇に沈み込もうと努めた。
心が私を嗤っている気がする。
*
仕事の最中、私はふと一つの閃きを得た。
今まで私は、妖怪料理に於いて、味にばかり拘って、血眼になって美味を追求してきた。
言わずもがな、この妖怪料理は、現世に存在する様々な料理の中でも、恐らく特に異質な料理である。何せ、言葉を持つ知的生命体を調理するのだから。言葉を持たない下等な妖怪も、幻想郷にはごまんといるが、そんな奴らは食材の候補には上がらない。そんなものを食べるくらいなら猪なり鹿なりを食べていた方が遥かにいい。
食材が言葉を持つと言う点は、初めの内は苦痛で仕方が無かった。屠殺に付き纏う心労の度合いは、牛や豚や鶏の比ではない。泣かれた。命乞いだってされた。感じている苦痛を叫びながら死んでいった者も数多く存在する。
悲しいことに、今ではすっかり慣れてしまって、どうでもいいものになり果ててしまったのだが、私はこれを利用しようと決めたのだ。
と言うのは、その叫び声さえも食事の一部としよう、と言うアイデアだ。
食事とは娯楽だ。楽しいものでなくてはいけない。
あのひと――お嬢様は血に飢えた残忍な吸血鬼なのだ。きっとこの妖怪屠殺に趣を見出せる方の筈だ。屠殺をエンターテイメントとすれば、よりこの料理は楽しくなると考えた。
さて、それでは『楽しい屠殺』とは。一体どういったものだろうか。『楽しい処刑』と言い換えることもできる。
処刑を楽しむ者は、刑のどんな所を見ているのか。
死に行く者が声を枯らして命乞いをする姿か。刑の後に残る、見るも無残な骸か。全生物に平等に一度だけ与えられた『死ぬ瞬間』に風情を感じているのか。その全てか。
派手に血を撒き散らせながら首を切り落とすべきなのか。総計二十本の指にねちっこく釘を打って行くべきなのか。硫酸の風呂にでも突っ込むべきか。銃殺か。刺殺か。絞殺? 圧殺? ……この辺りは好みの問題だから、ちょっと今は判断しかねる。
今まで私にとって、妖怪の解体は作業でしかなかった。気に掛けることと言えば、料理の見栄えが悪くならないように傷を付けないことくらいだった。だが今日からは、如何に見る者に感動と興奮を与える解体を行えるか――こんなことを意識して、妖怪の体をばらして行こうと決めた。
解体が作業からショーに変貌する――その最初の練習台は、闇の妖怪に決まった。そこらを浮遊していたから捕まえた。苦労など何一つ無かった。私を見つけた途端、やけに人懐っこい様子で向こうの方からこっちへ近づいて来てくれたから、寧ろ簡単すぎて拍子抜けしてしまった程だ。取って食おうとでも考えたのだろうか? まさか自分が食われる羽目になるとは思ってもいなかっただろう。滑稽である。
金色の髪に赤いリボンが印象的だ。やや体は幼いが、それなりの知能と抵抗力を秘めているから、練習にはもってこいなのではないだろうか。
気絶させてから、いつもの森の一角にある小屋の厨房まで連れて来たが、まだ起きない。この緊張感の無さがいかにも幼子らしい。
だけど、私は相手が子どもであっても容赦しない。ばらせば大人も子供も結局肉塊で、腹に入れば等しくエネルギーとなる。手を抜く意味を感じない。
魅力的な解体を目指すのであれば、やはり一度起こすべきなのだろうか。それとも、気を失ったまま不意打ちを喰らわしてやるべきなのだろうか。
私個人としては、後者の方がいいと思う。闇の妖怪が落ちているこの眠りは私が強いたものだから、決して安らかなものではない。だが、一般的に眠りとは気持ちがいいものなのだ。その安楽に身を溺れさせている者の腕を切断する。天国と地獄は一瞬の内に逆転する。
今日は眠ったまま一撃加えてやることに決めた。あどけない寝顔を見ていたら、何だかそうしないといけないような気がしてきた。
服は脱がせないことに決めた。出血をより映えさせるには、飛び散る血が付着する地点が必要だ。一糸纏わぬ生身の肌よりは、服に染みた方が見栄えがいい。そもそも、食事前に他者の裸体などまじまじと眺めたくなるものか。……では、食事の前に解体の様子など見たいと思うのかと問われると少し疑問だが、蕎麦屋だって客の前で蕎麦をこねているし、それと同じようなものなのではないだろうか。
妖怪の矮躯が幸いし、台の上に闇の妖怪を横たえさせることができた。まだ妖怪は起きない。
天狗の脳みそを取り出す時に使った、大きな包丁を用意する。一先ず、左肘から寸断してみよう。肩から落とすよりも切断面が良く見えるし、一目で腕が欠損していることが分かる。
左腕を伸ばさせ、俎板の上に乗せる。服の上から模索して、肘にピタリと刃を当てる。少し峰を押すと、骨の硬質な感触が伝わってきた。柄を握る右手に力を込めて腕を抑えつけるように刃を肘へ押し付け、左手は握り拳を作る。そして、逡巡せず、峰を殴り付ける。
容易く肉を裂き、やや強引に骨を断ち、再び柔らかい肉を突き進んで、最後は俎板を叩く。
流石にこれ程の激痛を感じない程、この妖怪は愚鈍では無かったようだ。血と一緒に、少女らしからぬ咆哮が木霊した。鼓動に合わせて噴き出る血が少女の顔を、服を汚す。やはり服は着せておいて正解だった。白いブラウスに描かれる血の色をした水玉模様がとても綺麗だ。
妖怪は子どもらしく泣き始めた。痛いのだろう。非常にかわいい。
そう、かわいくていいのだ。それが今回のテーマではないか。魅せる解体。
簡単に殺してはいけない。もっと泣いて貰わなくては。
しかし、殺さず体をばらすのはなかなか難儀なことである。主要な血管を切ってしまえば出血多量で死んでしまうかもしれない。更に、いくら妖怪と言っても、度の過ぎた痛みを与えるとショック死してしまうかもしれない。また、苦悶の表情を見せたいからと言って隙を与えてしまうと、舌を噛むなりなんなりして自害してしまうかも。……この妖怪にはそんな知能は無さそうだが。
それから、万が一、死に物狂いで抵抗されてしまった場合、制し切れずに私が殺されてしまうかもしれない。私は所詮人間なのだ。後が無い妖怪の全力の抵抗を制圧するのは容易なことではない。
あれこれ思案していると、妖怪が台から転げ落ちた。立ち上がって逃げようとしたらしいが、左腕が記憶よりも短くなっていたから、バランスを崩して転んでしまったようである。癖とはなんと恐ろしいものだろうか。
逃げるばかりの妖怪を捕える程度なら私にもどうにかなる。とりあえず動きを制限する為に脚目掛けて包丁を放った。上手く腿に刺さってくれた。地下にある影響で、この厨房はやや薄暗いから、狙いが少し荒くなってしまうのである。綺麗に命中したのは心の底から喜ばしい。
妖怪が盛大に転倒した。両手を地面に立てて立ち上がろうとしたが、切られて短くなった左腕のことを考慮していなかった所為で、またバランスを崩して倒れた。
もたもたしてくれたお陰で、悠々と歩いて追い付くことができた。
だが、落ち着き払ってばかりもいられない。これは練習なのだ。ちゃんと意識しなくてはいけない。暴力的に、暴力的に――。
髪を引っ掴み、体を起こしてやる。短い悲鳴が漏れた。さっき倒れた時に顔を床にぶつけてしまったようで、鼻から血を流している。……この程度の傷であれば、顔面の損傷も悪くないものだ。覚えておこう。
この妖怪は闇を展開する以外に能力が無いから非常に狩りやすい。力尽くで人を狩るような妖怪なのだ。そこそこ強い腕や顎の力に留意していれば何ら問題無い。
ずるずると引き摺りながら、妖怪を台の元へ連れて帰る。妖怪は体をくねらせ、よじらせ、暴れて抵抗する。鬱陶しい。
あまりに鬱陶しいので、一発頬に張り手を食らわせた。
「あんまりうるさくしないで頂戴」
威圧的な口吻をそれ程意識した訳ではないが、恐怖に屈してくれたようだ。出会い頭に意識を奪われ、寝ている最中に腕を落とされ、止めろと言ったら黙れと言われ――こんな理不尽、今の今まで経験したことがないのだろう。どんな風に対処すればいいのか、この幼い妖怪には分からないのだ。
静かすぎるのも、解体作業を見せ物として昇華させたい私にとっては困るのだが、脚なり腕なり臓腑なりを奪えば、またうるさくなってくれるだろう。然るべき所で思い切り泣いてくれれば、とりあえずオーケーだ。
台の上では作業が捗らないので、床でばらしてしまうことにした。後片付けが少々面倒になってしまうが、では台に載せて作業すれば一切掃除をしなくてよくなるかと言えば、そう言うものでもない。どの道、後片付けとは手間のかかるものだ。だから、せめて調理は楽しく気ままにやりたい。その方が、見ている者としても楽しいだろうし。
妖怪は尻餅をついて、私を見上げている。その泣き顔から、恐怖がひしひしと伝わってくる。何だかぞくぞくした。私は遂に、こういう殺戮に心が動じなくなったどころか、寧ろ快感を覚え始めている。
人間? 誰が人間だと言うのです――射命丸文の言葉が思い起こされる。順調に私は人道を逸れて行っている。よりお嬢様に近づいている。何だか嬉しい。すごく嬉しい。
高ぶった心は作業の手を軽やかにする。
振り下ろした切れ物の先端が妖怪の足の甲を穿った。間髪入れずにそれをぐるりと回転させてやると、見るも無残な風穴が形成された。血に濡れた骨が隠見される。
趣向を変えてみよう。武器の様な包丁を止めて、一般的な大きさの包丁を右手に握る。
うるさく泣き喚く妖怪の口を左手で塞いで、そのまま仰向けに倒す。くぐもった泣き声が陰惨な雰囲気を出している。素晴らしい。今まさに食材へと成り果てようとしている者らしい悲壮感だ。
相手の口を抑えたまま、妖怪に覆い被さり、耳元で囁いてみるのである。
「助けてほしい?」
妖怪は当然のことながら、狂ったように首を縦に振る。ふー、ふーと苦しげな呼吸が続く。手の指の隙間を縫って漏れてくる吐息が、まだ尚この妖怪の生命が続いていることを教えてくれる。そして、それを私が奪おうとしていると言うことも。
こんなに『生きる』と言うことと密接になりながら妖怪をばらしたことは一度も無い。妙な爽快感があった。こんな試みをしてみてよかった――私は素直にそう思った。
たまたま、右手に握った包丁が相手の左耳に近かったから、それを切り落としてみた。そう言えば、耳と言う部位を食ったことは今まで一度もない。てんぷらやフライ、素揚げにしてみたら美味しいのではないだろうか。
耳の切離の惰性で包丁が相手の肩に触れた。ついでだ、腕を切ってしまおう。ゆっくりと、慎重に。その方が相手も辛かろうし、食材としての質の上昇にも繋がる。一石二鳥だ。
ゆっくりと、ゆっくりと肩に刃が沈み込んでいく。
妖怪はぶるぶると体を震わせ、しかし泣き叫ぶ気力は枯渇したのだろうか、馬鹿に静かだ。
肩の半ば程まで包丁が入り込んだ時、堅いものにぶつかり、その進行が止まってしまった。骨に到達したようだ。ここばかりはのろのろしていたのでは先へ進めない。腕力にものを言わせ、強行突破してしまおう。
先程、肘を切断した時と同じような感覚で、肩の節を断つことに成功した。包丁の機能的な差の影響で少しばかり苦労したが、これもまた相手への苦痛のポイントとなったのではないだろうか。
次はどこを落とそうか――思案していると、不意に口を抑えていた私の左手に、吐息とは全く異なる生温かさが感じられた。
指の間隙を通って溢れ出てきたのは真っ赤な血。
まさか――と思って手を除けたが、時すでに遅し。なんと妖怪は舌を噛み切って自害してしまったのだ。当初から薄ぼんやりと危惧していたことだが、まさかこんな幼子までこの手を使って来るとは、想定外だった。
しかし、妖怪の癖に、こんなにあっさりと死んでしまうとは。お嬢様に付き纏うあの女も、殺すこと自体はそれ程苦ではないのかもしれない。
練習がこんな形で終わってしまうなんて、とても不本意だが、死んでしまったものは仕方が無い。品質劣化の前にさっさと調理して食ってしまおう。
今日はどんな料理を作ろう――解体のことばかりに着目していて、何を食べるかと言うことを全く決めていなかった。
あれこれ思案している最中であった。
背後から足音が聞こえてきた。
心底驚いた。まさかここが気付かれるなんて。上階に置いているクロゼットの裏に、この厨房への入口を隠している。もしや、階下へ降りる際に隠し忘れたか。
振り返る。
そしてまた、私は驚く。
「お嬢様」
降りてきたのは、レミリア・スカーレット――親愛なる我が主。孤高の吸血鬼。
お嬢様は驚愕の眼差しを私に向けている。当然と言えば当然だろう。自身の従者が血まみれで包丁を握っていて、足元に妖怪の死骸が転がっているのだから。ゆらめく蝋燭の炎は遍く影を微動させるから、生命体は二つしかないのに、何だかこの空間はさわがしく感じられる。
「あなた……どうしたの? 何をしているの?」
お嬢様はこう言う。
ああ、駄目だ。
お嬢様はこういう御趣味は無いようだ。顔を見れば分かる。陽光を知らぬ色白な顔が、余計に蒼白になっているではないか。
今まで従者をして来てお前は気付かなかったのか?
これだから、私は――。
反射的に私は、お嬢様に牙を剥いた。
もう私の信用を回復させるのは困難だ。きっと見捨てられてしまう。
ならば、せめて、私のこの陰湿で凄惨極まり無い趣味趣向のことを知る者を世に放ちたくない。人前では、完璧で万能なメイドでありたい。
しかし、相手は吸血鬼。そう易々と私の手に掛かることは無い。
放った包丁は壁にぶつかって地面に落ちた。からんからんとやかましい金属音が鳴り響く。
「落ち着きなさい!」
お嬢様の声がする。落ち着いています。落ち着いているから、あなたを始末するのです。殺せなくとも、せめてここに封じておくのです。
上階へ通じる唯一の階段の前に立った。とりあえず退路は断った。
すかさず私は、この本来真っ暗な厨房を懸命に照らしている蝋燭目掛けて、床に落ちた刃物を投げ付けた。蝋燭は消え、厨房は本来の暗闇に包まれる。
「何、これ……何も見えない!」
初めてこの厨房を訪れるお嬢様では、こうも暗くては自由に動くことはできないだろう。現に、酷く困惑しているようだ。
台の上には、天狗の脳を取り出す時に頭蓋骨を割る為に使った大きな包丁がある。あれでお嬢様を封殺してしまおう。
闇の中ながら、驚くほど視界が明るく感じられた。
包丁を握り、当惑しているお嬢様の脚目掛けて、刀刃を振るう。ほっそりとした脚はすんなりと切断され、達磨落としの要領でお嬢様は床に身を崩した。
人間である私が、まさかこんなに易々とお嬢様を圧倒できるとは思わなかった。おかしな笑いが漏れてしまう。喜んでいるんだ、私は。吸血鬼を制したことが、嬉しくて仕方が無い。さすがのお嬢様も痛みに呻いている。
厨房でこんなことになったのは何かの縁に違いない。ここは、私が日夜研究してきた妖怪料理を、今こそお嬢様に振る舞うべきではないか。
「お嬢様、少々お待ち下さいね」
転がっている妖怪の骸を台の上へ置き、手早く解体していく。
「すぐにご飯にしますから」
私は初めて、人前で妖怪料理を作った。
勉強の成果は存分に発揮できた。手早く闇の妖怪をばらばらにし、使うべき部位を選別する。料理だって少しもてまどわなかった。リクエストは聞けなかったが、私なりにお嬢様の好みを考え、料理を作った。
速さも味も会心の出来だった。やはり、大切な人に料理を作ってあげると、そのモチベーションの差が出てくる。
残念なことに、お嬢様は一口も食べてくれなかったけれど。
お嬢様はずっと私に言葉を掛けていた。
「眼を覚ませ」とか「しっかりしなさい」とか「気を違えたのか」とか。目は覚めているし、しっかりしているし、気なんて違えていない。そう思われていることが、すごく悲しい。やはり私はおかしな奴だったのだ。そんな奴がお嬢様の従者だなんて、ちゃんちゃらおかしな話だったのだ。
でも、もういい。従者じゃなくても、ここにいればお嬢様は私のものだ。
両手を後ろで組ませて包丁を刺して一つに束ね、お嬢様を拘束しておいた。逃げられないようにするためだ。
「それじゃあ、お嬢様。また明日」
階段を上って上階へ向かう。お嬢様はまだ何か叫んでいる。
血塗れのメイド服を脱いで、洗って、地下室の入口付近に干しておく。万が一、あんな血に汚れた服を見られたら、面倒なことになりかねない。
寝間着に着替えてベッドへ潜り込む。
どうせもう紅魔館にお嬢様はいない。夜の内に帰っておく意味も無い。明日の朝にでもこっそり帰っておこう。
お嬢様がいなくなったことを、紅魔館の住人はどう感じるのだろうか。それが少し気掛かりだ。
確かな充足感と、全てががらりと変わってしまったことを思う。
私は今、誰よりもお嬢様に近い存在の筈だ。
あの憎き女――ミスティア・ローレライよりも、遥かに。
そもそもお嬢様は私のものなのだ。あんな夜雀、取るに足らない存在。……の筈だ。
ああ、まだ私はあの夜雀を恐れているのか。
――これ以上懊悩するのも面倒くさい。今度の食材は、あいつにしようか。
そんなことを考えながら、私は眠った。
*
相変わらず、寝起きは最悪だ。この倦怠感は、一体いつになれば取れるのだろうか?
もう昼過ぎである。太陽は天高く輝いて、燦々と光を降り注がせている。しかし、森の中は薄暗い。その薄暗さが、私がこの森を好む要因の一つである。
体はひどく怠いのだが、眠くは無い。やるべきことをやってしまおうと、私は布団を出た。
クロゼットから着慣れた小豆色の衣服を取り出す。そして、帽子が無いことに気付いた。次いで、紅魔館にそれを忘れて行ったことを思い出した。
取りに行かなくては――私は紅魔館へ急いだ。
紅魔館に到着し、すぐに違和感を覚えた。いつも立っている門番がいない。
勝手に入ってもいいものかどうか迷ったが、結局、誰の許可も得ずに玄関を開けた。
広いエントランスホールは相変わらずの静けさだ。門前の違和感が嘘の様である。
しばらく待っていると、やはりあのメイドが姿を現した。どうやって来客を察知しているのか、とても気になる。
「こんにちは。門番がいないけれど、どうかしたのですか?」
何の気なしに問うと、十六夜咲夜は苛立たしげにこう言った。
「あなた、お嬢様を知らない?」
問いへの返答になっていない。
だが、彼女の一言は、私のそんな些細な憤りを瞬く間に吹き飛ばしてしまった。
「レミリアさん、いないんですか?」
「昨日の夜、あなたの住まいへ出掛けていって、それっきり戻っていないのよ」
またまた私は驚いた。
「まあ、私の家へ? どうして?」
「あなた、昨日帽子を忘れて行ったでしょう? 退屈だから、あれを届けに行って来ると言って、夜に出掛けて行ったの」
「帽子をわざわざレミリアさんが?」
「……その様子だと、昨日の夜、お嬢様と会っていないのね」
その通りだ。私は昨晩、レミリアさんとは会っていない。
驚いている間に、相手をいたく失望させてしまったようで、何だか申し訳無い気持ちになってしまった。
「まあ、お嬢様のことだから、その内ふらっと戻ってくるとは思うけど」
そうは言っているが、心配している様子を隠し切れていない。
ここで思い付いたかのように、
「美鈴はお嬢様を探しているわ」
と、私の問いへの返答を付け加え、
「それで、あなたはどんな用で?」
次いでこう問われた。
諸悪の根源たる帽子を取りに来た――とは言えず、「何でも無いです」とだけ言い、私は紅魔館を出た。
この日は、ちゃんと屋台を開いた。しかし、心の中はレミリアさんのことで一杯な所為で、なかなか業務に徹することができなかった。
今日は珍しく天狗の姿が疎らであった。来ている者も、なんだか冴えない表情である。理由を問うと、射命丸文が行方不明、だそうだ。何だか、私の身の周りの者が二人もいなくなってしまうと、薄気味悪い。
いつか天狗に言われた、妖怪が相次いで行方を暗ませている事件を思い出した。もしや、二人ともそれに巻き込まれてしまったのであろうか。
屋台の営業を終え、家に帰っても、心配は拭い切れない。
レミリアさんはどこにいるのだろうか。私の帽子を持って、どこへ行ってしまったのだろうか。
心懸りは快眠を阻害した。最近、体が怠いから今日こそ早めに眠ろうと思っていたのに、なかなか寝付けず、ベッドの中であっちへこっちへと輾転反側していた。
……こんな状況下で不謹慎だが、彼女が私の忘れ物をわざわざ届けようとしてくれたことは、少し嬉しかった。
知らない内に眠りに就いていて、次の日目覚めたのはまたも昼過ぎのことであった。睡眠時間は少し足りていない感じがするが、体の怠さは無かった。
いくら物覚えの悪い私でも、昨日一昨日起きた大きな出来事のことを忘れることはない。
着替えて紅魔館へ向かった。レミリアさんの様子を聞く為だ。
相変わらず門番がいなかったことで、私は些か絶望してしまったのだが、エントランスホールで咲夜の話を聞いて、また絶望した。やはりレミリアさんは戻らなかったと言うのだ。咲夜の顔に憔悴の色が見て取れる。
「私も本格的にお嬢様を探すことにするから……あなた、家はどこにあるのかしら?」
「私の家、ですか?」
「そう。あなたの家へ向かっていたと言うのなら、ここからあなたの家までの間で何かが起きていると言うこと。そこを重点的に調べてみるから」
十六夜咲夜は私の家の場所を知らないのだ。
上手く説明できているのか分からないが、私なりに精一杯詳しく、いつも屋台を開いている場所を起点として、森にある私の家の場所を教えた。
咲夜は、分かったような、分からないような、微妙な表情をしていたが、とりあえず「ありがとう」と言ってくれた。
レミリアさんのことが気に掛かって気に掛かって、何事も手に就かない状態だ。
そんな状態で屋台などやってしまったものだから、もう目も当てられない。元々注意力散漫と言うか、しっかり者なんて存在からは程遠い性質なものだから、自分でも信じられないようなミスを連発した。常連さんにまで呆れられる程であった。
このような状態で商いをしても無意味だと感じ、早めに仕事を切り上げた。
不快な疲労感を溜めに溜め込んだ、嫌な感じの体で帰宅した。
そのままろくすっぽ身なりを整えもしないで、ベッドへ倒れ込んだ。
こんな状況でも、十六夜咲夜はしっかりと仕事をこなしているのだろうか。
どうして咲夜ばかり引き合いに出すのか――それはやはり、咲夜が羨ましいからだろう。
今はレミリアさんが行方不明だからそうではないが、彼女はレミリアさんに一番近い存在であろうから。
早くレミリアさんが見つかって、今まで通りの日々に戻りたい。
そう願いながら、私は眼を閉じた。
*
遂に私は、あの計画を実行しようとしている。
夜雀を料理し、お嬢様に食べさせてあげると言う、人生で最も大きな計画である。
懸想の相手を食うことが幸せかどうか、そんなことは私には分からない。
だが、お嬢様が私以外に執心することが、どうしようもなく妬ましいのだ。笑われてもいい。軽蔑されても構わない。とにかく私は、どんな手を使ってでも、お嬢様の一番でありたい。
だから夜雀を殺す。いや、料理する。いなくなればもう私と張り合える者などいなくなる。
お嬢様には妹がいるが、あれも必要とあれば処分してしまおう。だが、みだりに殺すことはない。
計画を実行するべく、私は出掛けた。
夜雀は鰻屋台を経営している。それの終わりを見計らって捕まえればいい。吸血鬼をも制してしまった私だ。夜雀など赤子の手を捻るよりも容易い。
夜雀が屋台を開いている場所は、お嬢様と何度か行ったことがあるから知っていた。そこへ辿り着くことも何も難儀なことは無い。
しかし、現地へ辿り着いてみて、私はその場に立ち尽くしてしまった。
屋台が無い。やっていないのである。
……そう言えばあの夜雀は、気分や体調で休店したりすることがあった。今日はその日に当たってしまったのだろうか。何と不運なのだろう。
私はその場で思案した。日を改めるか。いや、折角やる気満々でやってきたというのに、こう出鼻を挫かれてはばつが悪い。
……待て。
私は夜雀の住まいの場所を知っているではないか。
先日、紅魔館のエントランスで教えて貰ったのだ。
丁度、屋台のある場所を出発点として教えて貰っていた。
そして、私はその出発点に立っている。
一も二も無く、私は夜雀の家へ向かって歩き出した。
言われた言葉を正確に思い出し、説明された道を一字一句違うことなく進んで行く。
心が躍る。体がぞくぞくする。長らく憎み続けてきたあの夜雀を遂に葬ることができると思うと、高ぶらずにはいられない。
今まで貯め込んできた知識をフルに動員し、お嬢様に最高のもてなしをしよう。
食べて貰えなくてもいい。あの夜雀を殺せる――それだけで私にとっては大きな成果だ。
所詮私は人間なのだ。人間とは比べ物にならない程長い寿命を持つ妖怪と張り合うなんて、土台無理な話なのだ。
ならば、私を高めるより、相手を蹴落とす方が懸命に決まっている。
仕方が無いことなのだ。そうするしかないのだ。私は、人間なのだから。
森へ踏み入った。
もうすぐだ。説明された文章ももう残り僅かである。
キノコの沢山生えた朽ち木を右手に曲が――
私は思わずその場に立ち止まった。
違和感。
おかしい、これは、どういうことだ。
心の高ぶりは一気に収束し、鉛でも飲み込んだような腹底の重さを感じた。
心臓がやかましく踊り狂う。
私の覚えた違和感と言うのは、つまり、既視感と言うのだろうか。
私は今まで一度も夜雀の家へ行ったことない筈なのに、家の付近らしいここら一帯に見覚えがあるのだ。
説明された通りに歩いて行く。
どんどん心臓の鼓動は速くなる。
たどたどしく道筋を説明する夜雀の声が思い起こされる。
『……そこが私の家です』
私の家――即ち、ミスティアの家。
その前に私は立ち尽くしている。
紛うことなどありえない。
ここは、あの秘密の厨房のある小屋ではないか。
開き慣れた扉を開いて、歩き慣れた雑然とした大きな一室を歩く。眠り慣れたベッドに腰掛けると、視線の先には見慣れたクロゼット。
何だか足元が覚束ない。
水の上でも歩いているみたいな感覚で、私はクロゼットに近づく。
それを開いて中を改めると、ミスティアがよく来ていた小豆色の衣服。
クロゼットを横へずらすと――頑丈な鉄の蓋。それを退けると見える地下室への階段。見慣れたものだ。そもそも、外出する前に、私はここを訪れたではないか。この血で汚れたメイド服は、この地下室に干していたものだから。
ゆっくりと階段を降りて行く。
ここも見慣れたものだ。
階段を降り切った先に――厨房がある。
そしてそこに、お嬢様がいた。
手を後ろに回され、両手を包丁で穿たれて一つに束ねられたお嬢様が。
「お嬢――様」
たぶん、私の声など聞こえていなかったであろう。
お嬢様が顔を上げた。その表情からは、憐憫の情が感じられる。
「いい加減にしなさい、ミスティア」
――ミスティア?
「何のつもりなのか全然分からないけど、こんな馬鹿なこと、もう止めにしなさい」
ミスティア、とは?
私は十六夜咲夜だ。
お嬢様が私とミスティアを間違えている?
いやいや、そんな馬鹿な。間違えるものか。私とあいつの共通性など何一つ無い筈だ。
「ミスティア、とは? お嬢様、どういうことです」
「どういうことです、はこっちの台詞よ」
私の言葉を遮るようにお嬢様が言う。
「あなたはミスティアでしょうが」
違う違う違う。私は十六夜咲夜なのだ。私はミスティア・ローレライではない。十六夜咲夜だ。紅魔館で働いていて、お嬢様の従者であって、ミスティアではない、夜雀ではないのだ。十六夜咲夜で、人間なのだ。
ああ、訳が分からない。どういうことなのだ。
一体これはどういう
*
確かに自宅のベッドで眠っていた筈なのに、目覚めた瞬間、私の身を包みこんでいた寝具の柔らかさが、今までに感じたことがないものであったら、些か私は驚いてしまった。
しかし、元来考え事は苦手だし、寝起きと言うこともあって、自分の置かれた状況を素早く理解することができない。
半睡半醒のまま、見慣れない天井をぼんやりと眺めていると、扉が開く音がした。首を回し、顔だけを音のした方へ向けてみると、見覚えがあるようなないような感じのする人間と、レミリアさんが入ってきた。レミリアさんは片手に大きな紙袋を持っている。
二人とも、何やら気難しい顔をしている。
「丁度お目覚めみたいね。良かった」
人間が、私が起きているのを確認して言った。……少し思い出した。この人間は、竹林の奥で薬を作っている者だ。名前は確か、永琳とか言った筈だ。
と言うことは、私はこの薬師の住まいにいるのだろうか。確かあそこは病院としての機能も持ち合わせていた筈だ。……私は何か悪い病気にでも掛かってしまったのであろうか。確かに、連日の様に体の状態は優れなかったが、しかし、寝ている間にこんな所へ移動させられても困る。
「あのぅ……一体、何なのですか?」
例えこれが相手の気遣いから来る行いであっても、流石にこう問わずにはいられなかった。
永琳とレミリアさんが椅子を並べて座り、尚も私を見続ける。その目は、憂いと言うか、憐れみと言うか、そんなものに色付けされていて、あまり快いものではない。
拗ねたような気持ちになって、私も黙ったまま二人を見返していると、
「ミスティア」
レミリアさんが口を開いた。少しだけ気分が和らいだ。それ程親交の無い医者に事務的な質問をされるよりは、レミリアさんと話をした方が、よっぽど気分がいい。
「あなたは昨日の夜、何をして過ごしていた?」
「昨日の夜? 特に何も。仕事をして、終わってから寝ていましたが」
仕事で失敗が続いて、早めに就業してほとんど不貞寝の状態だった――と言うことは隠しておいた。
不貞寝に関連して、私はレミリアさんの行方が分からなくなっていたことを思い出した。
「そうだ、レミリアさんこそ、今までどこにいたのです? 私の帽子を届けに来て下さろうとした最中に行方を暗ませていたんですよね?」
そもそも、不貞寝の原因はレミリアさんなのだ。……八つ当たりしている感じが否めない。
私の問いを聞き、レミリアさんと永琳は顔を見合わせた。その表情から読み取れる深刻さや神妙さは更に増幅している。私は不安を覚えた。
「あの、本当に何なんですか? 私がどうかしたんですか?」
面倒くさい経緯はいいから、二人が私を置いてきぼりにして共有している疑問や疑念を、さっさと知らせてほしかった。
今度は永琳が口を開いた。
「夜雀さん」
声色が冷淡だ。
「あなたは昨晩のこと、本当に覚えていないのね?」
いい加減、苛々してきた。
「だから、昨晩のことって何なんですか。私は寝ていただけです」
「違うのよ」
レミリアさんが言下に否定してきた。
違うって、どういうことだろう。私が私の行いを告白し、それが違うとは?
反論の言葉を見失ってしまい、場は痛ましい静寂に包まれる。
その闃寂の世界を、レミリアさんが打ち破った。
「あなたは真夜中――今日の朝が訪れる前の時間ね。その時、あなたは起きていたのよ」
……起きていないですよ? そんな憶えありません。
即座にこう思ったが、上手く言葉にして口から出すことができなかった。
さっぱり状況が掴めなくて呆然としている私に、レミリアさんが更に質問を重ねた。
「それじゃあ、一昨日の夜は?」
一昨日――普通なら忘れてしまう所だが、紅魔館に帽子を忘れた日だから、妙に印象に残っている。
「レミリアさんの館へお邪魔しましたよね?」
確認の意を込めて問う。レミリアさんは深く頷いた。
「夕食のお誘いを断って、家に帰って、それからは別に何も。すぐに眠りました」
「違うわ、ミスティア。それも違う」
レミリアさんの声に悲壮感が籠る。悲しいのはこっちだ。自分の行動を尽く他人に否定されて。
「さっきから違う違うって、何が違うんですか!」
憤りを隠すことができなくなってしまった。
永琳がちらりと、レミリアさんに目配せする。レミリアさんは小さく頷いて、持っていた紙袋から、服を一着取り出した。丁度、紅魔館のメイド達が身に着けているのと同じものだ。ただ、取り出したものは錆に塗れたように変色し、汚れているが。
「何です、それ」
この服が私の問いに答えるものだとは思えず、こう呟いてしまった。少々口調に刺々しさが出てしまった気がするが、仕方が無いであろう。
「これはさっきまで、あなたが身に着けていたものよ」
全く身に覚えが無い。
「違いますよ。そんな服、買った記憶も貰った記憶も無いです」
「記憶にないのは、当たり前と言えば当たり前かもしれないわね」
ここでようやく、永琳が発言した。
「これを着ていたのは十六夜咲夜だもの」
しかも全く意味が分からない。どうしてここで十六夜咲夜が出てくるのか。お前はこの服を着ていた、いやいや私の記憶にございません――と言う話をしていたのではないのか。
言葉の真意を探ろうと考え込んでいる最中、永琳が一つため息を吐いて、
「結論を言ってしまいましょう」
こんなことを言うものだから、私の思考は自然と止まった。
「あなたはこの服を着て、十六夜咲夜を演じていたの」
馬鹿と天才は紙一重と言う言葉を聞いたことがあるが、この永琳と言う者は、馬鹿なのか、天才なのか。私からすれば馬鹿としか思えないが。
私が咲夜を演じる?
一体何が言いたいのだろう。
どうして私が咲夜を演じなくてはいけないのだ。
「どうやら、本当に何も分かっていないみたいね」
私の顔を見やりながら永琳が言う。当たり前だ。分かってたまるものか。
勿体ぶったような間を入れて、永琳は語り出した。
「あなたは十六夜咲夜を妬んでいたのよ。羨んでいた、とも言えるわね。大好きな吸血鬼の右腕として活躍する、瀟洒な彼女に、強い羨望と嫉妬の念を抱いていた。だから、無意識の内に憧れの咲夜を演じていたのね。それも、ミスティア・ローレライとしてではなく、本当に十六夜咲夜になりきって。その時間だけ、あなたは夜雀ではなくなっていた」
「どうして私がそんなことしなくちゃいけないんですか」
「あなたが望んだからよ。夜雀のあなたが、無意識的に望んだこと。咲夜がこんな人間だったら、咲夜がこんなことをしていたら、自分よりも下賤な生き物だったら、もしも自分が彼女だったら――そんな感情が強くなりすぎた結果が、あなたが行ってきた、妖怪も辟易するような非人道的な行為な訳」
その行為って何です――と問うより先にレミリアさんが言葉を挟んだ。
「あなたは、妖怪を使って料理をしていた」
眼を剥いてレミリアさんを見やる。その表情にふざけている様子はこれっぽちも見られない。
愕然としている私をよそに、この二人は尚も私に辛辣な言葉を吐き続ける。
「私が見たのは、闇の妖怪……ルーミアとか言ったかしら? あいつを料理している最中だったわ。あなたが紅魔館に帽子を忘れていたから、それを届けにあなたの家に行ったの。私は何度か、あなたのお家へお邪魔したことがあったから、一人で来れたわ。そしたら、何やら地下室から人の声が聞こえてきた。聞いただけで普通の会話じゃないことが分かったから、無礼を承知で勝手にお邪魔して、地下室へ行ったの。そうしたら、このメイド服を着たあなたと、闇の妖怪の骸があった……ということ」
「どんなことを切っ掛けに『咲夜化』していたのかは知らないけれど、恐らく、自分の非力さを知った時とか、咲夜に強い妬ましさを感じた時とか、そういう時に発現していたのではないかと思うわ。自分の無能さを相殺する為に、本物の咲夜の有能さを貶める為に、愚かな咲夜を欲した。その結果、あなたはその咲夜を自ら演じるようになった」
「それからあなたは咲夜のままで、私に襲いかかってきた。あんまり不意なことだったし、鳥目にされたものだから遅れを取ってしまった。早くにあなたを助けてあげたかったけれど……ごめんなさいね。刃物で両手を拘束されたものだから、上手く動くこともできなかったの。『明日また』って言ったのに来なかったと言うことは、翌日あなたは『咲夜化』しなかったのね。本物の咲夜から聞いたけど、あなた、帽子を取りに紅魔館を訪れたそうじゃない。もしかして、そこで私があなたに帽子を届けたっていうことを知ったから、発現しなかったのかしら? 咲夜よりも、私に大切に思われてる気がして」
「人格まで咲夜になりきっているから、元のあなた――夜雀のあなたにその記憶が無いのは、まあ当然のことね。逆にあなたが演じる咲夜は、夜雀のあなたの記憶をベースにしているから、断片的に夜雀の記憶を持ち合わせていたかもしれない。だから、咲夜に自宅の場所を教えたその夜、あなたは『咲夜化』したまま、自分の住まいへ行った。咲夜は夜雀の家の場所を知っていると言う設定が追加されたから。そしてそこに到着し、困惑した。『咲夜』の秘密の場所と言う設定だった小屋が、夜雀の自宅だと言うんですもの。当たり前のことよ」
「最近多発していた妖怪失踪事件は、全部あなたの仕業だったのね? あのメイド服の汚れ、一人や二人殺した血の汚れじゃないもの。殺人鬼の咲夜を演じて自分を安心させる為に、ずっと妖怪を殺してきたのね? ごめんなさい、あなたの悩みも知らないで、私は」
「咲夜になりきろうと言う強い意識が、異なる二つの記憶の完全な交錯を防いだのだと思うわ。不都合な情報を本人の自我が及ばない所で遮断していた……とでも言えばいいのかしら。どちらかと言えば『咲夜』の方が高次の人格だったと言えるわね」
「だけど安心なさい、ミスティア。何も心配することはないわ。ここで安静にしていればきっとよくなるから」
「どう治療すればいいものかしら。そもそもこの子は無自覚なのよね。咲夜は全く違う人格――即ち別人みたいなものなのだから。ほら、まだ信じられないと言う顔をしている。これは難しいわね」
「だからもう手を汚さないで。あなたは咲夜じゃないの。あなたが演じてきた者もあなたであって咲夜じゃないの。いい? あなたはミスティア・ローレライ。十六夜咲夜じゃないの。分かった? あなたは
*
ミスティア・ローレライであって、十六夜咲夜ではないの」
またお嬢様がこんなこと言ってる。悪ふざけも大概にしてくれないと、咲夜は怒ってしまいますよ。
ところで、ここはどこなのだろう。見慣れない場所だ。
永琳がいる。病院? ここは病室なのか。私がベッドで寝ていると言うことは、私が病人なのか。確かに、少しおかしなことはしでかしたが。
「お嬢様」
どんな状況下は不明だが――とりあえず、私は夜雀じゃない。
「あんなことをしてしまったことについては謝ります。ごめんなさい。あの時は、私もどうかしていたのかもしれません。……しかし、その、私はミスティアじゃありません」
……そんな眼をしないでください、お嬢様。
お前もだ、永琳。何なのよその目は。私を馬鹿にしているの? 私を蔑んでいるの? 哀れんでいるの? 私はただ、愛する人の為に血に汚れただけだ! お前なんかに哀れに思われる筋合いは無い!
「発現、したわね」
はつげん? 何を言っているんだ。月の民は須らく狂人なのか?
ああ、お嬢様、何という表情をしているのです。どうしてそんなに悲しそうなのです。もう咲夜はおしまいなのですか?
「お嬢様、お嬢様?
」
――泣いた。
お嬢様が泣いた。私が話しかけたら、お嬢様が泣かれてしまった!
「もういいわ。ミスティア、妖怪は長寿だから、ゆっくり時間を掛けて静養して頂戴。元気になったら、またあのかわいい声を聞かせてね」
違う違う違う違う! 私は咲夜だ! 十六夜咲夜! 妖怪じゃない! 人間だ! お嬢様、私を忘れてしまったのですか? どうして夜雀なんかと私を間違えるのです。
「あんな真似をしたことは謝ります。ですから……」
……待って、行かないでお嬢様! 咲夜を置いて行かないで!
ええい、放せ、月の民め!
くそ、増援を呼ぶ気か。鬱陶しい兎達! 全員殺してやる! みんな細切れにして鍋にぶち込んでやる! 霧の湖より大きい鍋で煮込んで一匹残らず妖怪の餌にしてやる!
狂人? 気違い? 鎮静剤? 注射? まだ私を異常者扱いするか! 狂っているのはお前らの方だ!
ああ、お嬢様が出て行かれてしまった。どうして助けて下さらないのです。どうして、どうして、どうして。
主を傷付ける従者など必要ないとでも言うのですか?
お願いです、チャンスを下さい。お恵みを、慈悲を
*
いつの間にか眠っていたらしい。目覚めて欲しくなどなかった。
無骨な鉄格子から覗く空にはまん丸のお月様。月の光は生物を狂わせると聞く。私もまた、月の光に当てられた妖怪だったのだろうか。確かに、夜は好きだもの。
私は頭のおかしい夜雀らしい。
もう、レミリアさんに相応しいとか、そんなことを気にする以前の存在であると言う烙印を押されてしまった。私は、この世界にすら不相応なのだ。
永琳の言葉を全面的に信頼すれば――こんな気持ちでいると、また私は咲夜になってしまう。
そうなる前に、せめて私のままで、この世界とお別れしよう。うん、そうしよう。
舌を噛み切れば、妖怪だって自害くらいはできるだろう。実際にそんな場面を見た訳ではないけれど、何となく、逝ける気がする。
さようなら、みんな。
*
おじょうさま。咲夜は、さくやは、あなたのために
お久しぶりです皆さま。pnpです。
4月27日から一生懸命書きました。
駆け足で書いたので推敲甘いですが、以前は推敲をしていなかったような私ですので、どうぞお許しください。
久しぶりにグロテスクな話を書いた感じがしています。
当初はこんなに酸鼻なSSになるとは思っておりませんでしたのに、自然と手が動きまして。
一人称視点はこういう勢いが生まれるのがいいですね。それでも三人称視点のが好きですけど。
ちょっと改行しすぎた感じが。緊張感が足らない? その代わり、とても読みやすくなりました。
タイトルは『憧憬』の意……みたいです。タイトル力が足りない。
ご閲覧ありがとうございました。感想等、どしどしお寄せください。
詳細なあとがきがブログにありますので、お暇が御座いましたら是非。
++++++++++++++++++++
>1 オチの弱さが指摘されておりますねー。私としてはがんばったつもりであったんですけどね´`
>3 推理小説は私が最も書いてみたいジャンルですわ。10日でよくがんばったで賞、ありがとうございます。
>4 これ以上陰険なのは、今の私には厳しいかもしれない。
>7 かっこいいんですか。ほお。
>9 初めて書いた東方のSSがこのふたりでして。なかなか便利な組み合わせで、作品重ねたら愛着が湧いた感じです。レミィ単体には全然興味無いんですけど。
>10 同じようなシチュエーションで書いたことはあります。進化とか。 真相分からなくしすぎるのはまずいかと思ってあれこれやってみたんですが、裏目に出たのでしょうか。今後の捜索活動の糧にさせて頂きます。
>11 なるほど、欲張るのも考えものですね。どちらもしっかり書ければ問題無いのすが。
>12 料理についての知識は全然足りていないです。あんまり考え出すと何も書けなくなってしまうので、今回はあやふやなまま書きましたが、そういう話を書くなら勉強するべきなのかも。 文章へのご指摘ありがとうございます
>14 惑わせることができたのならば、幸いです。 文はどうして調理されてしまうんでしょう。美味しそうだからでしょうか。私もよく分かりません。
>15 ありがとうございます。
>16 ミスティアとレミリアと言う組み合わせは個人的に気に入っているのですが、成立の根拠はなんと未だ不明瞭です。二人の関係の経緯はさておき、描写等はお気に召していただけたようでよかったです。
>17 僕が書くミスティアは変な奴イメージ付いているんですね! やったねミスティア。何その微妙な顔。
>19 脳料理は私も何かで見ました。何だったのかは全く分かりませんが。
>20 私も私の書くミスティアが好きです(はぁと)
>21 よりよいミスティアを探す旅はまだまだ続きます。
>22 私の中では最高の組み合わせです!
>23 ミステリーなのでしょうかねぇ。もっと謎めいていて、推理できる文章を書きたいです。
評価、コメントありがとうございました。匿名評価の方も是非ご感想をお寄せ下さい。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
3
投稿日時:
2012/05/07 13:08:38
更新日時:
2012/06/04 07:00:08
評価:
16/24
POINT:
1660
Rate:
14.04
分類
産廃創想話例大祭
ミスティア・ローレライ
十六夜咲夜
レミリア・スカーレット
他
R-18G
ヒントはそこかしこに散りばめてありましたね。
見たもの聞いたことが、忘れてはおらずデジャブとなっているのが、何だかちょっと悲しい。
オチが予想通りだったのが、ちょっと残念、いや、それが良かったかも。
真相に思い言ったのがちょうど文が暴れたあたりでしたが、「メイド服を渡した〜」あたりで既に真相が仄めかされてたんですね。
もうちょっと早く気づきたかったです。pnpさんがレミリアとミスティアで話書いた時点で真相に気づくべきやったんや!
便宜上の一日目
・咲夜への劣等感 天狗に絡まされる
二日目
・天狗に絡まれるpart2
三日目
・夕食への誘いを断る
四日目
・レミリアの証言通り其の日は発現していない 帽子の件を末尾に次の日になっている
五日目
・仕事のミスを連発する
六日目以降
・真相が明らかになり偽の咲夜が否定されたので発現したと思われる
強いストレスという視点で読み直すとこんな感じ。ほんと丁寧に伏線が張られてますね。
相変わらず安定した筆致、それも十日弱で完成させるとはさすがです。
惜しむらくはオチが読めてしまうことですが、本格的に犯人不明にしようとすると登場人物が大増加して内容も複雑化するでしょう。とても10日で出来るとは思えないので100点で。
ということで90点
しかし作者さんはホントにレミリアとミスティアが好きですね.なにか特別な思い入れとかあるんですか?
ミスティアが支払いをしない文とかをレミリアの力とかで殺して妖怪料理を作る話の記憶が。ただ検索してもどうも出てこなかったので自信ないです。私の妄想だったら逆に凄いけど、その時は申し訳ない。私の頭もおかしいからアレです。
どうにも一致点が多すぎて、ストーリーも文章も本当に素晴らしいけど、それだけが引っかかり続けて話が入ってこない。キャラだけならともかくミスティア、レミリア、料理、屠殺。
これだけ一致するならパラレル展開だとか、シリーズ物だとか、あえて似せたとかなら、むしろ気にならなかったかと。
ミスティアが咲夜にというのも、ある程度露骨な伏線だったので、もっと露骨にしてミスリードさせるか、ほとんど分からなくするか。
難しい所だと思いますが、読んでいてすぐ分かってしまうというのはミステリー的にもったいないです。
文句ばっかりですね、ごめんなさい。楽しいのに読みながら次々にあれれ、という繰り返しで。
読み終わってからもう一度読んでみると、いろんなところに伏線が散りばめられているのがよくわかった。
ミステリもエログロも楽しめるけど、逆にいうとどちらも突き抜けてなくて、ちょっと物足りなくもあった。
レミリアを襲うところ、こういう三角関係嫉妬物だと、憧憬の相手に一転牙を剥くっていうのはある種お約束なんですが、そこに至る心情を前段階の独白パートでもう少し匂わせても良かったかなと思いました。
レミリアを愛していることと、自分がレミリアにとってワンオブゼムでしか無いという恐れのジレンマはしっかり強調されているのですが、そこからレミリアへの恋慕と憎悪が溶けて混ざって濁って破裂しかける兆しというか。
そしてレミリア捕縛の際に内面だけでも憎しみの激情を窺わせてくれると、一人称ならではの盛り上がりがより一層出たんじゃないかと感じたのです。
特に今回「咲夜」も「ミスティア」も、非常に冷静で感情をあまり表立って見せない印象のキャラで、不気味な静けさで話が進んでいく為、パッと感情が弾ける場面をラストの診療所以外のシーンで設けておくと、うねりが出てより劇的な効果が得られた気がします。全体の心象描写は毎度の如く鋭くエグくて最高だったので尚更。
脳みそは血管の量が多く循環量も半端ないので、腎臓みたいに血抜きと下ごしらえをかなり丁寧に行わないと美味しくないような気がしたのですが、どうなんだろう。でも吸血鬼だからいいのかな。そこら辺ぜひプロの料理人であるミスティアにいつか考察して欲しいなとも思いました。
推敲の時間があまり取れなかった、とのことですので、一応読んでて気になった文章を報告しときますね
「快楽の余韻が焼印のように体に残っているの以外の思い出が、妙に茫漠としている。」
といった感じで見事に振り回されてしまいました。所々にちりばめられた謎の伏線や、「この流れはおかしいだろ…」という部分も、最後まで読んでみればなるほど納得。調理シーンも私の思う"産廃らしさ"にあふれており、スタンダードでハイクオリティな猟奇描写を楽しませていただきました。表と裏のミスティアを交互に入れ替える段落の構成も、ほどよい緊張感を維持しつつ裏を際立たせることに一役買っています。そして優しいレミリアも必死なミスティアもかわいいのがなにより。
本物の咲夜自身は、ミスティアに対して特別な感情は何もないという部分を際立たせれば、よりミスティアの内なる狂気が引き立つと思いました。ところで、発現してるときに本物の咲夜と会ったらどうなるのか気になる…。
ミスティアとレミリアの組み合わせを書かせたら右に出るものはいない。個人的には自分がレミリア好きということを抜きにしても、pnpさんの最高傑作だと思いました。カンスト100点です。
レミリア「どうして文はすぐに調理されてしまうの?」
ミスティア「学習しましょうよ」
文「まあこれも仕事ですから」
レミリアと咲夜を、幽々子と妖夢とか聖と星とかに取り替えても問題なさそうな話だなあ・・・・・・と感じてしまったのが正直なところです(「あまりの完璧さにコンプレックスを抱く」対象としては、咲夜以上の適任はまずないというのも確かなのですが)。いきなり当たり前のように深い中、ではなく、なぜそうなるにいたったかということが描かれていれば、と思えてなりません。
個人的にしっくりこないからとか、評価にわがままを出しすぎてしまっていますねすみません。最初に書いたとおり、ストーリーも描写力もすばらしく、読んでいる間はずっとぞくぞくしていました。、まぎれもない名作をありがとうございました!!
こんな精神病患者はレクター博士並みに顎も固定して拘束しとかないと駄目ですぜ永琳先生。
これが最初に読んだあなたのミスティア料理ものだったら完璧に私は引っ掛かっていたと思います。
ですが、ルナティックな料理シーンが出た時に「あれ? これミスティアじゃないかな?」と、推理でも無く、ストーリーと関係すら無く、慣例で猟奇料理=ミスティアだから、という理由で気が付いてしまいました。
貴方の他作品でもし、猟奇料理をするキャラとして咲夜が登場した事が有ったなら、すんなり咲夜が犯人と信じたに違い有りません。
他作品を持ち出すのは卑怯というか不当な評価ですが、実際問題として気が付いてしまったので大変申し訳有りませんが……。
脳みそ料理ってインディージョーンズの魔宮の伝説かなんかで猿の脳みそのデザートを見た気がする。
真相を明かされたときのドキドキ感がGOOD。
パーフェクトメイドをここまでトレースする彼女のポテンシャルは底が見えません。
試行錯誤して料理・解体を行う姿に、今回も戦慄させて頂きました。
pnpさんの作品に、また素晴らしいミスティアが加わりましたね。
自分自身と咲夜人格。お互いにコンプレックスを感じ嫉妬しあっていて、
自分がここまで客観的に見えるのはすごい。
本来、非力なはずの夜雀がここまでヤるのも、レミリアのカリスマがあればこそなのでしょうね。
読み返すと色々な伏線に気づけて楽しいです。
当たり前というか、些細なことが大きな真実の手かがりとなる。
ミステリーはあまり読んだことがないのですが、私が読んだ中で最も騙され、納得したSSだったと思います。
何よりも、ミスティアに対する愛の深さを知りました。