この作品はフィクションであり、実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。
また作中で冒涜的な表現、差別表現が使われていますが、あくまで演出のためであり、私個人が冒涜・差別を意図して書いたものではありません。
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1. 猟師 神を射る事
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悲鳴だった。
夕暮れの空に、絹を裂くような悲鳴が響き渡ったのだ。
「――――!」
森の中を散策していた一人の猟師は姿勢を低くし、腰からマタギの狩猟刀を素早く引き抜いた。
緊張した面持ちで、しかし五感を研ぎ澄ませて周囲を警戒するその様は、彼が優秀な狩人であることを雄弁に物語っている。
「煙……?」
彼――狩人は、声のした方向に炊煙が立ち上っているのを見定めた。
時刻が時刻である、いくら民家の少ない里外れとはいえ、それ自体はさして珍しいものでもないが――よくよく注視すると、火災特有の黒い煙が入り混じっている。
それと分かった瞬間、狩人は今日一日の収穫である野兎二羽と狢≪むじな≫一匹の入った籠をためらいなく打ち捨て、弓と矢筒だけを背負い直すや否や、煤煙の燻る方向へと駆けだした。
『確か、この辺りにも分社があったはず……』
林立する木々の間を軽快な身のこなしで駆け抜けながら、狩人は視線を巡らせた。
森の近くに住む人間や、彼のような猟師たちが妖怪に怯えずに済むようにと、里外れには守矢神社が建てた分社がいくつも存在している。日本神道において神霊は無限に分けることができ、またそうして分霊したとしても、その霊力――神威≪かむい≫はまったく損なわれないとされる。それら神の分御霊≪わけみたま≫を祀ったものが分社であり、狩人はいま、その神の助けを借りようとしていた。
だが、既に日も暮れかけているうえ、鬱蒼と木々の生い茂った深い森の中である。いかに狩人が優秀とはいえ、すぐに分社を見つけ出すことは難しいように思われた。そもそも彼は、この辺りの狩猟場にやってくること自体が稀なのである。
「――くそ、たまに遠出をしたらこれだ……っ!」
自らの不甲斐なさに思わず毒づきながらも、彼は地を蹴る脚の速度を緩めなかった。ひとつふたつと木の根の合間を縫うように疾駆し、邪魔な小枝を狩猟刀で切り払いながら、恐るべき速度で民家へと向かっていく。途中大きな岩をひとっ飛びに超えた際、近くの緑竹に、日焼けした麻のロープが垣根結びで縛りつけられているのに彼は気が付いた。
「……用心、しておくべきか」
この時ばかりは彼も立ち止まり、息を整えながら、しばしのあいだ草葉の陰に身を沈めていた。
やがて彼は立ち上がると、最後にぐるりと周囲を一望し、野良竹の混じったその景色をしっかりと胸に刻み込んでから――再び駆けだした。
■
森を抜けた先には藁葺きの家が一軒、不気味な静けさを抱えて佇んでいた。
家の周りの小さな耕地には備中鍬≪びっちゅうぐわ≫が深々と突き立てられており、その傍らで干し柿が風に揺れている。同じ気流に煽られるかのようにして、屋根の中心に据えられた千鳥破風から黒い煙がもうっと立ち上るのがよく見えた。
「……少々、失敬する」
狩人は備中鍬を手に取りその重さを確かめると、柿を吊している縄を剥ぎ取り、その縄を巧みに使って狩猟刀を鍬の先端にきつく縛り付けた。
またいざという時のために、彼は狩猟刀の柄にもう一本縄を結び、それを手繰ることでいつでも狩猟刀だけを回収できるような特殊な結びを施しておいた。そうして出来た間に合わせの武器は、賊か妖怪――おそらく後者だろうが――を相手にするにはまだまだ心細い代物であったが、彼の手にはよく馴染み、その重量が勇気を与えてくれるようにも感じられた。
「ふ――……」
武器を槍のように構えて深い呼吸を数度繰り返すと、狩人は覚悟を決めて、家の中へと踏み込んでいった。
内部は酷い有様だった。
家具という家具が倒れ、壁のいたる所に鋭い引っ掻き傷が付いている。まるで、壁から壁に跳躍しながら獲物を追い詰めていくような――それも"娯楽としての狩り"を楽しんでいるような――そんな痕跡。この時点で賊の可能性は、もはや消え失せたも同然だった。
「上手い具合に妖怪を避けて、怪我人だけを助け出せればいいが……」
もし、"脅威"と対峙してしまったら、その時はどう行動すべきなのか。瀕死の住民を見つけた場合、どう対処すべきなのか。
いや、たとえば子供ひとりだけが生きていて、妖怪がそれを人質にした場合……自分はどうやってその状況を切り抜ければよいのか――
狩人は常に最悪の事態を想定しながら、慎重に廊下を進んでいく。
幸いにも室内に煙はそれほど充満していなかった。藁葺きというのは、元来が囲炉裏の煙を逃すためにできた構造である。そのため家の中が煙で溢れてしまう心配はまず無いと言ってよかった。だが藁葺きは当然、火のまわりも早い。狩人は武器を構え、脚を動かしつつ、炎でこの建物が崩れ落ちた時の対処法を逡巡≪シミュレート≫した。
『火の、音は……こっちか』
ズタズタに引き裂かれた引き戸を踏み越え、居間に進み入る。と、火災の原因はすぐに知れた。
中心に拵えられた立派な囲炉裏に、家財道具や木材が倒れ込み、そこから火が燃え移っていったようであった。居間は十畳ほどの広さがあったが、赤い炎が煌々と猛威を振るっているのは狩人から見て反対側の五畳分である。風向きと木材の倒れ込んだ位置のせいだろう、と彼が当たりを付けたちょうどその時、天井にまで火の手が廻ったようだった。室内を眩く照らす炎が一段と――いや、それにさらに輪をかけて大きく――膨れあがった。
"ぐずぐずしてはいられん"
狩人は紅蓮の炎に向かって一歩踏み出した。
左奥、他の部屋へと通じる廊下へ進むにはこの居間を突っ切るのが一番手っ取り早い。それには恐るべき量の煤≪すす≫と熱とを放出し、大気を練り飴のように歪めている目前の火の海を越えていかねばならないが、躊躇ってなどいられなかった。
"――四人。せめて、四人見つけるまでは……何とか、もってくれよ――"
四人。それは先程、彼が沓≪くつ≫脱ぎを通った際に見つけた履物の数を勘定して導き出した、この住居にいるだろう最低人数である。壮年の夫妻と、それからおそらく青年期あたりの男女が一人ずつで、計四名。
彼は賢かった。生き残るための術も、知識も、経験も、勇気も、すべて持ち合わせていた。だが、それでもまだ何か"決定的なもの"が足りないのだと――それだけでは妖怪から人を救うことなど、ただの人間には不可能なのだということを――燃え盛る梁の下で、思い知ることになる。
"肉"が転がっていた。
血にまみれた肉だった。
生乾きの赤黒い血液が炎に照らされ、"ぬらぬら"と、生温かな匂いと光沢を発している。
「――――」
それでも彼は強かった。
「――次。あと、三人」
彼は一揖≪いちゆう≫し、成人男性の生首に別れを告げた。
廊下の奥へは、おびただしい量の血痕がズルズルと続いていた。狩人は、無表情でそれを辿って歩き出す。
途中、誤って踏み付けてしまった肉片の、妙に水っぽい感触が、右足の裏にこびり付いて離れなくなった。
「…………あと、二人」
障子の引き裂かれた客室、編み目の美しい京畳の上。
まるで、生きながらにして"喰い散らかされた"かのように――どどめ色の臓物≪はらわた≫を四方にぶち撒けて、婦人が絶命していた。
彼女の涙に濡れて澄んだ瞳はいまだ生々しく、狩人の顔をいつまでも捉えて離さなかった。
「…………っ」
彼は進んだ。震える手に武器を構えて、必死で足を動かした。
刻一刻と密度を増していく煤煙にたびたび咳き込みそうになったが、もし堪えきれずに咳≪しわぶ≫けば、次の瞬間には自分もここの住人のように肉や内臓を飛散させて死を迎えることになるような、そんな確信めいた予感があった。ゆえに彼はしばしば、歯が折れそうになるほど強く肩口の服を噛み締め、じっと耐え忍ばねばならなかった。
客室を抜け、再び廊下に出る。
廊下の向かい側……間取りからみて、おそらく寝室だろう部屋に彼が踏み込もうとした、その時だった。
"くチゅ ぐぢゅ゙ぅ" と。
"み゙ちゃっ、にぢゃッ" と。
半開きの襖一枚を隔てた向こう側で、そんな咀嚼音≪おと≫がするのを彼は聴き届けた。
『……あと…………、一人……』
声には出さなかった。覗き込もうとも思わなかった。
彼を支えていたちっぽけな勇気など、その"気配"だけで、一毫も残さずに全て吹き飛んでしまった。
『……いや…、……もう……』
もう、駄目だと思った。無理だと悟った。不可能だと知った。諦めてここから逃げ出すべきだと、自分だけでも生き残るべきなのだと、彼の本能が訴えて止まなかった。
全身から吹き出した汗をぬぐうと、音を立てないように細心の注意を払いつつ、彼は後ずさった。
"――狼狽せずに済んだのが幸い、か。"
絶望に身をゆだねてもまだ、狩人にはそう考え得るだけの度量が残っていたのが唯一の救いである。
そのため彼が踵を返して来た道を引き返そうとした際にも、家の奥から吹き込んでくる微かな風の流れを、煤と汗にまみれた肌で感じ取ることが出来た。"もしかしたら"。そんな淡い希望を抱いた彼は、三歩ごとの等間隔で背後を視認しつつ、風の流れを辿って廊下の奥へと歩を進めていった。
檜柾目≪ひのきまさめ≫の美しい廊下だな、と、場違いにも彼はそんな感想を抱いた。好く磨かれて、木材ならではの飴色の深い輝きを呈している。隅々まで手入れの行き届いた、これほどすばらしい家屋がすべて燃えて無くなってしまうというのは、この世界に対して、自分が死んでしまうことよりも何かもっと大きな損失であるようにさえも思われた。
やがて彼は、夕陽の差し込む広い縁側に辿り着いた。
今まで通って来た部屋や廊下と比べて、この場所の被害は目に見えて少ない――そう、その損傷は、明らかに"人為的"な範疇で収まっているのだ。
獣じみた鋭い牙や鈎爪、柱をへし折るような怪物の如き腕力ではなく、まるで『少女が"脅威"から逃げるために、辺りを散らかしながら、なりふり構わずに走り抜けた』……そんな形跡だった。だとすればその少女はもう、この近くには居ないだろう。
"助けを呼びに行ったのか、ただ逃げるのに必死だったのか……それは分からないが――ただ、無事を祈ろう"
狩人は再度、背後の安全を確認してから、細く長い息を吐いた。
「――……」
自分も早く、ここを去るべきだ。そして先程は見つけられなかった分社を探しだし、守矢神社の巫女や、神様に協力を仰ぐことにしよう。
そう決断し、彼は縁側から外に出ようとした。そこでふと、歩廊の角の向こうに小さな納屋があるのに彼は気が付いた。"すのこ板"や、菱格子≪ひしごうし≫の柵、束ねられた薪、手押し車、それに農耕具といった物品が山のように押し込められている。
この時に限って、彼は最悪の状況を想定することを忘れていた。
すなわち、すのこや菱格子の柵の奥に、一人の少女が身を潜めており、その隙間からこちらの様子を伺っている可能性――いや、まだそこまでならば、この聡明な狩人は無意識の内に考慮していたに違いない。
彼にとって、最悪の状況とは――
今現在、"彼女がそうしている"ように。
身を潜めていた少女が、狩人の方に向かって"駆け寄って来る"こと――である。
なぜ、少女がそうしたのかは分からない。
妙なる≪たえ≫なる黒髪を花簪≪はなかんざし≫でまとめ、江戸小紋をあしらった浅葱色の和服、という出で立ちの美しい乙女だった。表情はひどく切迫し、手には女性用の小刀が握られている。
もしかしたら、彼女は安堵していたのかも知れない。狩人が手にしているこの武器によって、恐ろしい妖怪は、少女の家族の誰をも傷付けることなく見事に退散せしめられたと、そう思っていたのかも知れない。あるいは彼女は妖怪がどんな姿をしているのかも知らず、そのために武器を持った狩人を"妖怪が化けたもの"と見なし、その息の根を止めてくれんと襲い掛かろうとしていたのかも知れない。それとも彼女は自分の家族が惨殺されたことを知っていて、この狩人に、相打ち覚悟の仇討ちを手伝って欲しいと、そう申し出るために走り寄ってきたのかも知れなかった。
「っ――――」
少女が口を開く。が、その口が何かしらの意味をなす人の言葉を発することは、ついぞ無かった。
それは一瞬の出来事だった。
"かんっ"
と、縁側にいた狩人の頭上で何かが跳ねたような音がしたと思うと――彼の視界の中に、獣じみた、尋常でない体裁きで跳躍を行う人影が移り込んだ。『天井から、飛び降りたのか――』狩人がそう理解するよりも速く、獣は四つ脚で着地し、同時、凄まじい勢いで再度の跳躍を行った。ただし、今度は地面とほぼ水平に――少女の白い喉頸を目掛けて、である。
獣の白く鋭い牙が、少女の首筋の皮膚に深々と食い込んでいくその様子は、狩人にはやけに鮮明に見えた。
少女の華奢な身体が宙に浮き――
頭から、地面に叩き付けられる。
"ごぎん"
とても嫌な音がした。
「う、ぁ――うあぁぁあああああああああああああぁああああああッ!」
狩人は裂帛の声と共に獣に向かって突進し、あらん限りの力と全身のひねりを使って、中段に構えた紛い物の槍を大きく薙ぎ払った。
そのとき初めて狩人の存在を認識したのだろう。獣は一瞬おどろいたように眼を丸くしたが、四つ脚の姿勢から後方に向かって素早くくるくると空中転回し、それをたやすく回避した。明らかに、ヒトならざる者の身のこなしであった。
「う、ぎ、んんー!」
獣――狩人にとっての"脅威"は、しかしその直後、不愉快そうに顔を歪めて何やら喚き始めた。見ればその鋭い歯牙の間に、"びろびろ"に伸びた生皮とそれに付随する赤い肉片が、ぱたぱたと血を滴らせながら引っ掛かっている。その様子を見て我に返った狩人が、地に伏せた少女に駆け寄った。歯の形に肉を抉り取られた喉頸の中心で、白い声帯がその姿を外気に晒している。水気の多い器官独特の、艶のある光沢が嫌になまめかしかった。狩人が首筋に触れると、少女の身体は半ば反射的にびくんと激しく反り返り、彼の頬に赤い血の華を咲かせた。
「――なん、て――こと――」
意識はなく、頸椎がひどく損傷している。
さらに、かなりの出血に加えて自発呼吸が困難という、絶望極まりない状況であった。
だがそれでも、まだ、心臓は動いていた。
「んぎ、ぐぅぅ……んがぁッ」
獣はいまだに、牙と牙の間にきつく食い込んだ肉を取るべく藻掻いている。両手を顔の辺りで擦り合わせるその様は、見る者すべてに猫科の動物を連想させるものだった。
狩人はその隙をぬって自らの服を裂き、その布で少女に必要最低限の手当を施すと、槍を手にして立ち上がった。
『"奇跡"――奇跡さえあれば、まだ、助かる――』
そして彼は奇跡の存在を――奇跡を起こせる人物を、知っている。
そのためには今自分がどうするべきなのかも、分かっていた。
ゆえに彼は、森へ向かって全速力で駆けだした。
■
追撃はすぐだった。
先ほど狩人が抜けてきた、森の入り口に辿り着くまでの僅かな距離に――なんと三撃。
両手の鈎爪をスパイク代わりに急駛≪きゅうし≫する彼≪か≫の獣は、まさに怪物と称して差し支えのない、恐るべき加速を眼前の獲物に見せつけたのだ。
尋常ならざる筋量の両後脚で地面を蹴り抉ると同時に、"ぐん"と背を伸ばして遙か前方まで跳躍し――前足で着地、かつ、鈎爪による更なる加速を得て――胸元まで大腿を引き寄せる。そうやって再び背を丸めて力を蓄えることで、次の跳躍の準備とするや否や、また"蹴り抉り"、弓なりに"ぐん"と背を伸ばし、"更なる加速"を迎える。
そんな加速機構≪アクセル・サイクル≫を以て、獣は狩人の背後に襲い掛かったのが―― 一撃目。
それは文字通りの"脅威"に他ならなかった。だが、その派手で規則正しい『地を蹴る音』を、狩人はしかと聞き届けていた。
ゆえに獣が一際大きく跳躍し、今まさにその鋼の鈎爪が彼を引き裂かんとしたその時、
「――――ッぁっ!」
狩人は身を翻して、諸手に抱えた槍を下方から左上に向けて勢い良く突き出していた。獣の足音に合わせた、完璧なタイミングの反撃≪カウンター≫。
彼が『間に合わせに』と拵えたその槍は、しかしその実、非常に強力な武具であった。先端に固定された狩猟刀を用いた突きは勿論のことながら、備中鍬特有の"三叉鉄刃"――これも充分な殺傷力を有している。この三叉鉄刃によって槍の攻撃は"点"と"面"、両方の性質を備えることになり、結果、その突き上げを回避することは至難の業と化すのである。
それは確かに、会心の反撃であった――
が、獣はそれを軽業師のごとき体捌きでいとも容易く躱してみせた。中空で器用に身体を捻って狩猟刀を避けると、迫り来る三叉鉄刃の側面に手をかけて、前転を行う要領でくるりと乗り越えたのだ。獣はその回転の勢いを利用して、続けざまに二撃目の、必殺の鈎爪を振り下ろした。
――獣の体格が小柄だったのが幸いした。
鉄刃を足場にされた瞬間、狩人は本能的に危険を感じ、突きだした槍を引き戻していたのだ。それにより獣の小さな体躯は前方へと"行き過ぎ"、振り下ろされた鈎爪を狩人はかいくぐることが出来た。そのまま、一人の男と一匹の獣は正面から抱き合うような格好になり――直後に三撃目、獣の鋭い歯牙が男の喉笛を食い千切らんと襲い掛かった。が、こればかりは、危機感と共に槍を引き戻した張本人である狩人の方が速かった。彼は人間でありながら、牙を剥く妖怪の顎に、強烈な頭突きを喰らわせたのだ!
「ぎ、ぃ――がッ!」
狩人はひるんだ獣の身体を素早く巻き込み、地面に叩き付けた。二人分の体重が乗った見事な背負い投げだった。彼はその寸前に一瞬間だけ手放していた槍を掴み直すと、狩猟刀の鋭い刃先で、地を三日月型に削るように振り回した。しかしこの追い打ちが獣を捉えることは無かった。獣もまた狩人と同じように本能的な危機を察し――肺をしたたかに打ち付け、呼吸が困難な状態にありながらも、やはり軽業のごとく身体を跳ね上げることでこれを躱していたのだ。
開いた距離と、与えた損害は充分だった。
狩人はこの隙に森の中へと駆け込んだ。狩猟刀で木々に付けてきた印と、自らの記憶を頼りに彼は走った。息を切らして駛走≪しそう≫する彼の肩には血が滲んでいる。先のやり取りの中で鈎爪が軽く掠っただけで、この有様だった。彼は極力その傷跡を意識しないことに決めた。もしまともに鈎爪の攻撃を受けたらどうなるか、それを想像する事は、すなわち自らの精神を萎縮させることと同義であると分かっていたからだ。代わりに彼は、それを防ぐ手立てを考えるよう努めた。
ほどなくして、獣がふたたび背後に接近しているのを彼は感じた。やはり"狩りの現場"に居合わせた人間を逃がすつもりは毛頭無いらしい。
しかし中々どうして、先の攻防が獣に与えた印象は強烈であったらしかった。狩人が背後を振り返ったり、あるいは左右の木立の隙間に視線を巡らせると、その殺気に満ちた姿が窺えるには窺えるのだが、狩人がその気配に勘付いたと見れば、獣はまたすぐ何処か別の場所に"がさがさ"と身を潜めてしまう。
『……上出来だな』
このまま分社まで無事に辿り着ければいいのだが、と思案しつつ、狩人はまた左前方に見出した獣の姿に槍を向けて威嚇した。
が、次第に森が深くなり樹林の密度が増してくるにつれて、狩人も焦りを覚え始めた。木の葉の間を縫って周囲を明るく照らしていた熾火≪おきび≫のごとき落陽は、濫立する照葉樹の大きな葉に遮られ、今や少しも見えなくなっていた。ただ、『薄赤く燻る瘴気』とでも表現する他にない、生ぬるい夕闇を含みに含んで"ぬかるみ"と化したような、重苦しい空気が辺りを満たすのみであった。こうなると、鬱蒼と生い茂った草陰のすべてにあの獣が潜んでいるようにすら思われた。
ここに来て、獣の動きが一段と激しさを増した。
むやみやたらに、明らかにわざと音を立てながら移動している――やはり獣はこれを待っていたのだ。
狩人は常に"脅威"を見失わぬよう懸命に、音のする方向へ槍を向けながら走っていたが、平面的だったそれがやがて立体的に、すなわち獣が樹木の幹を足場にして中空を――狩人の頭上を駆け巡るようにまで至った時、彼はついに、身体のバランスを崩してしまった。視界も足場も悪い森の中で、長く、重量のある備中鍬を手に、四方八方に絶えず向き直りながら駆けていく……そんな離れ業、人間にはどだい無理な話であったのだ。
備中鍬の柄が木立につかえ、狩人がそれを取り落としそうになったとき、彼は咄嗟に左手を伸ばして一本の縄を掴んでいた。狩猟刀と繋がっているあの縄――これだけは手放す訳にはいかなかった。直後、左上方から飛来した獣の繰り出した指爪≪しそう≫が、狩人のその腕を捉えた。たとい人間のどの部位であろうと、造作なく断ち切ってしまうだろう一撃である。が、骨は砕けれど、彼の上肢が両断されることは無かった。
驚いたのは獣である。
狩人は鈍い呻き声を漏らしながらも、骨折した左腕を強引に引き戻して狩猟刀を手にするや否や周囲を切り払い、再び駆けだした。
「――――」
獣もまた一息に樹木の幹まで駆け登ると、遠ざかっていく狩人の後ろ姿、特に左上腕を眼光鋭くジッと見詰めた。その袖口から、何か木屑のようなものがパラパラと零れ落ちていくのを"彼女"は見咎めた。箆≪の≫(※木で出来た、矢の棒状の部分)、のようであった。それも一本どころでは無く、矢束一掴み分ほどもある――つまり狩人は、矢尻を布地に貫通させるようにして袖に幾本もの矢を潜ませ、盾にしていたのだ。薄闇を味方に付けていたのは自分だけではないことを悟って、彼女は思わず、くすくすと愉しげに笑ってしまった。狩猟遊技≪スポーツ・ハンティング≫をしていて、これほどまで面白い相手を見つけたのは初めてだった。彼女は狩人に対して、一種の愛情すら覚え始めていた。
■
その後の彼と彼女について、語るべきことは多くない。
狩人が最大の武器にして、同時に最大の盾でもある槍を失ってしまった時点で、迎えられるべき結末は殆ど決していた。
無論、多少の攻防はあった。狩人は障害物を巧みに利用し、幾度も幾度も、獣の繰り出す必殺の一撃を回避した。柄に縄が付いたままの狩猟刀を、音と勘だけを頼りに草陰へと投擲し、見事、今まさに飛び出さんとしていた獣の不意をついて掠り傷を負わせることもあった。が、そうした応酬のたび、狩人は深刻な傷をその身に宿していった。
「――あー、愉しかった!」
そして別れの瞬間がやって来た。
ついに、彼女の鈎爪が狩人の背中をまともに捉えたのだ。狩人はその瞬間、前へと大きく跳躍することで致命傷は避けたようであったが――それでも、彼はもう、素早く行動することは不可能なように思われた。彼女はもちろん、狩人自身も同じ考えであった。
「……なんだ、喋れたのか。人喰いの、畜生が……」
「狩りのときは、あんまり声を出さないようにって教わってるの。でもおにーさんだけは特別! 最後の最後まで、面白い仕掛けしてくれるんだもの。ついつい、お話してみたくなっちゃった!」
「……は。面白い、仕掛け……?」
何のことだ、と、狩人は息も絶え絶えに返答した。地に腰を下ろした彼がいま背にしているのは、大きな花崗岩≪かこうがん≫――行きがけに、彼が飛び越えたあの岩だった。
周囲には幾本かの野良竹が自生しており、今まで通って来たけもの道と比べると、見通しの良いやや開けた空間だった。そこで彼と彼女は向き合っている。ふたりの距離は歩幅にして、約五歩分。
「格好良い声だね!」
うんうん、と満足げに頷いてから、彼女は近くに聳え立っている太い緑竹を指差した。
「あれ。罠のしるしでしょ? "紐がない"から見逃すところだったけど……あはは、危ない危ない」
暗いけどよく見つけられたでしょ、褒めて褒めて、と彼女はまた愉しげに笑った。
確かにその緑竹の幹、節と節の間には、不自然な日焼けの跡が残されていた。
「紐はおにーさんが取ったんでしょ? 万が一に備えて、見つかんないように。で、いまさっきおにーさんが、頑張って飛び越えたこの葉っぱの地面……きっと、"ここ"だよね?」
「……意外に、賢いじゃないか……」
言って、狩人は観念したように腕を下ろした。正面に構えていた狩猟刀の刃先が、彼のそばの草陰に消える。
「ま、勉強したからね。でもありがと!」
誇らしげに、そして律儀にそう述べると、彼女は半歩だけ男に近寄った。
他にも罠があるかも知れないと思ったのだろう。彼女はしばらく足先で、積み重なった葉っぱをちょいちょいとつついていたが、やがてふと思いついたように、狩人の背後の花崗岩へと飛び移った。狩人は逃げようともしなかった。前を向いたまま、静かに目を閉じている。彼女にはそれがまた、とても勇敢で、愛おしい行動のように思われた。
「それじゃ、そろそろお別れかな? 最後に言い残すことはある?」
「…………」
狩人は答えなかった。
しかし彼女は『それこそが求めていた返答だ』と言わんばかりに、また一人でうんうん頷くと、狩人の耳元に口を寄せ、
「――愛してるよ、おにーさん♥」
と妖艶な声を聴かせてやった。そのまま彼女は狩人の首筋に鈎爪を当てた。
少しずつ、力を入れていく。頸動脈がとくん、とくん、と脈打っているのを指先で感じた。彼女はこうして喉を掻き切る瞬間が、堪らなく好きだった。
「……見付からないように、か。それもまあ、あるか」
「ん? なに? やっぱ何か言い残したことがあるの?」
「"ほどいた紐を……"、」
狩人はそこで大きく咳き込んだ。思った以上に、爪が彼の気道を圧迫していたらしかった。
彼女は狩人を心底から好いていた。だから、言いたいことがあるなら言わせてあげようと思い、その手を少しだけ緩めてやった。そして、彼は"もう二、三度咳き込んで身体を揺すって"から、満足げな笑みを浮かべてこう述べた。
「――"他の用途に使いたかったから"ってのが、一番の理由かな」
"ひうん――"
風を切る音がした。
彼女はそれが"何なのか"を確認するよりも速く、花崗岩から離れようとしたが――半ば座り込むような格好、かつ、狩人の耳元に顔を寄せた状態からではまともな跳躍など望むべくもなく、"それ"の直撃を受けてしまった。"それ"――麻の紐で、限界まで引っ張られ、張り詰められた太い青竹のしなり。それが小柄の彼女の脇腹に命中したとあっては、ひとたまりもなかった。肺の空気を全て一度にすべて吐き出したように中身のない声だけを残して、彼女の身体は真横に弾き飛ばされた。
「罠っていうのは――複数仕掛けて、初めて効果があるものでね」
その言葉が言い終わる前だった。何かひどく耳障りな、密度の高い鉄網を思い切り蹴りつけた時のような、"ガシャぁッ"という音が辺りを埋め尽くした。
一拍遅れて響くのは、獣の悲鳴。
「ぎ、ぃ――がぁぁあああああぁぁああああああああああ゙あ゙あ゙ぁ゙ッ」
やれやれ、人語を解したと思ったら、すぐまた獣に戻ってしまったようだな――
狩人はそう思ったが決して口には出さず、彼はいつもの一仕事を終えた時と同じ、静かな口調で続けた。
「特に、虎鋏≪とらばさみ≫なんかはその筆頭だ」
「あぎぃ、があ――いた――いだ、――いだぁああああぁああ、ひ…ん"あぁああ゙ぁっッ――!」
「痛いだろう。猪や熊なんかの脚の骨でさえ粉砕してしまう、大型動物用の虎鋏だからな」
狩人がゆっくりと身を起こした。草葉の陰から彼の右腕、続いて狩猟刀が現れる。不器用に切断された麻の紐だけが、そのあとに残っていた。
狩人は彼女の怪我の具合を見るため、あくまで敵意は無いことを身振りで示しながら獣のもとへと歩み寄っていく。
「ぐ、ぅぁ――だせッ! だせッ外せぇ…ぎ、外しやがれこの糞猟師が、ぁ゙あ゙ぁあああ゙ぁああああ!」
「暴れると余計に痛いだけだ。それに済まんが、いま持ち合わせている道具だけでは、私にだって解除できない。しかしまあ念のためだ、見せてみろ」
鋭い鉄の歯は、彼女の右肩をギシギシときつく噛みしめていた。
肋骨のほうもおそらく何本かはいかれているのだろうが、爪を振り回して暴れる今の彼女に近づいて触診してやる気力など彼には無かった。どちらにせよこの様子なら、放っておいても問題無いだろうと彼は判断した。処分は後々、里のお偉いさんが決めるだけだ。
「ここに水筒だけは置いていってやる。じゃ、ま、あとは頑張れよ」
「――――ッ」
彼女はまた猛獣のごとき咆哮をあげた。それから聞くに堪えぬ怒号や誹≪そし≫りを、すっかり暗くなってしまった森の中にこだまさせた。ふう、と一つ息を吐いてそれらすべてを受け流すと、狩人は傷付いた身体を引き摺って森の奥へと歩き出した。
そう、彼は出来る限り早くに分社を見つけ出さねばならなかったのだ。
■
三柱鳥居≪みはしらとりい≫に囲われた小さな祠≪ほこら≫は、意外にも手入れがよく行き届いていた。
石造の台座、切妻屋根を備えた木製の社殿、紙垂≪しで≫をたらした細い注連縄≪しめなわ≫……そのいずれもが一切の穢れを知らぬまま、苔むすような千歳緑≪ちとせみどり≫の森の中、ただ静かに――凛としてそこに存在していた。
あまりの神々しさに圧倒されてしまったのだろうか。狩人はしばし何も言わずその聖域を眺めていたが、やがて鳥居の中に足を踏み入れると、社殿の戸にそっと手を掛けた。
観音開きの二枚の扉の奥には、やはり色褪せることを知らぬといった風体の美しい神札が二枚、納められている。和紙に墨筆で神代文字を刻み込んだ"護符"と、倒れた御神木から切り出した木片に守矢の判を押し、祓いの願掛けを行ったあと、持ち運びしやすいように紐を通して作る"守札"と呼ばれる代物であった。
狩人は略式の拝礼を済ませると、前者――護符をその手で引き裂いた。
護符を引き裂く。それは、守矢神社に対して救難信号を発することと同義である。これさえ済ませれば、あとはもう守札を抱えて待っているだけで良かった。直ぐにでも風祝の巫女か、守矢の神様が迎えに来るという取り決めなのだ。
「…………はぁ……」
ようやく腰を下ろすことが出来る、と狩人は息を吐いた。獣の喚き声は、もう聞こえなかった。
"あの妖怪は今までに一体何人の人間を殺してきたのだろうか?"
狩人はそんなことを考えた。彼は遊び感覚で人間を殺すあの妖怪を、心底から憎んでいた。目の前で少女の喉を噛み千切られたのだ、当然だろう。出来ることなら、あの妖怪が罠に掛かっているうちにこの手で息の根を止めてやりたかった。しかし、と彼は思う。
彼女がいざ虎鋏に掛かり、その叫び声を聞いた時――そして、怪我の具合を確認した時。
『顔に傷が付いていなくて、本当に良かった』
そう思う自分も、確かに居たのだ。
「…………?」
そういえば、と彼は思考を巡らせる。
あの家屋の寝室に踏み込む前。襖一枚を隔てた位置で、自分が聞いた咀嚼音は……彼女が立てていた音だったのだろうか? 彼女はあの後すぐに食事を終え、次の獲物を探すために廊下に出て、見通しの良い屋根の上に登り、そして納屋から出てきた少女を見つけ出した……の、か……?
無理ではない。無理ではない筈だった。だが、彼は何か、言いようもない不吉な予感を覚えてい「待たせたね」
「――――っ!」
背後から掛けられた突然の声に、狩人は思わず身構えた。振り返ると、そこには八坂神奈子の姿があった。
「驚かせてしまったみたいだね。いや、申し訳ない。もう大丈夫。早苗もすぐにこっちへやって来るよ」
神奈子は柔和な微笑みを浮かべている。神を前にして警戒を解かない狩人の素振りにも、不服な様子はまったく見られない。
狩人は以前に八坂神奈子の姿を拝んだことがあった。記憶の中の彼女と目の前の彼女を比較してみても、服装、表情、仕草、話し方……その全てが一致する。おかしな所は何も無いように思えた。しかし、彼には一つだけ気になることがあった。
「しかし酷い怪我だね。歩けるかい? 早苗ほどじゃないが、私でも多少は癒せるだろう」
神奈子は狩人を手招きした。
「…………はい」
"手招き"――そうなのだ。神奈子は、狩人から一定の距離を置いた位置に立っている。それは丁度、三柱鳥居の作り出す境界、その向こう側なのである。
狩人は誘いに応じ、神奈子の正面に立った。しかしそのまま境界を越えるような不用心な真似は慎んだ。代わりに彼は、『神奈子様』と一つ呼びかける。
「ん?」
「誠に、失礼ながら……」
言いつつ、狩人は背負っていた"ひご弓"を手にした。
そのまま弓の腹に、ごく自然に矢筒から取り出した一本の矢を添えると、流れるような所作で『取懸け』『手の内』『物見』の三手順を経て弓を構えてみせた。きりり、と見ている者の背筋を引き締めさせるような、否、その場の雰囲気全体をも冷たく張り詰めさせてしまうほどに整った、一糸の乱れも無い素晴らしき構えであった。左腕を骨折していることなど、今の狩人には微塵の妨げにもならなかった。
番えられた矢の先端が、神奈子の眉間に向けられる。
「……何かの冗談だろうね?」
「神様であれば、当たりますまい。物の怪ならば、中≪あた≫るほかありますまい」
"試させて頂きます――"
狩人は問答無用で、神様に向けて弓引いた。
■
「んんー……」
だが、放たれた矢が神奈子を――この"妖怪"を射貫くことは無かった。
飛来する矢を二指のみで掴み取ると、妖怪は神奈子の顔で、ぼやくようにこう呟いた。
「頭がキレるし、勇敢でもある。彫りの深い顔立ちも、すごく私好みなんだけどな――いかんせん、状況が状況だから仕方ないか。ま、お疲れさん。あんたとのやり取りは、うちの子にも良い経験になったと思うよ」
"――ありがとう、おやすみ。"
それが狩人の聞いた最後の言葉だった。
やがて東風谷早苗や、本物の八坂神奈子が駆けつけた時。彼女たちがその目に見たものは、粉々に破壊された祠と、首から上を欠損した男の死体。
そして森を抜けた先の、火の海の如く燃え盛る一軒家と――焼け落ちた建材の下敷きになり、瀕死の少女の姿であった。
■ ■ ■ ■ ■
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2. 倉廩 実ちたる者
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二ッ岩マミゾウという妖怪を一言で言い表すならば、『愛される金貸し』である。
それを裏付ける逸話のひとつに、"マミゾウは大通りを真っ直ぐ歩けない"というものがある。
妻入りの木造建築がずらりと軒を連ねた人里の大通りには、当然、人の往来が絶えないものであるが、マミゾウはそこを行き交う人々ないし店を構える商い人――そのほとんどと顔見知りであった。通りの向かいに知人を見付ければマミゾウは自ら進んで挨拶を交わしにゆくし、そんなマミゾウを商い人が見付ければ、ちょっと寄っていきなさいな、とまた反対側から呼び声が掛かってそちらに足を運ぶことになる。それにマミゾウは酒がたいそう好きだった。「どうですか、一献」と誘われればまず断ることはない、と自ら豪語するほどで、そのまま美味い日本酒を求めて朝まで酒屋を梯子することもしばしばだった。こうした様子に尾ひれが付いて逸話となったのであろう。
士農工商の風土が色濃く残る幻想郷の人里で、"嫌われ者"の代名詞ですらある金貸し業を上手く営んでいくのは本来とても難しいことである。
幻想郷入りしてまだ間もないマミゾウがこうも人気を博しているのは、ひとえに彼女の深い懐――"任侠"とも通じる人柄の良さ、器量≪うつわ≫の大きさによるもの……と賞賛すべき所なのであろうが、実のところ、それらの他にもこの世間慣れした狸の大妖怪は、人の世に溶け込むための切り札を隠し持っていたのである。
それが"無利子の金貸し"である。
マミゾウは自身の『物を化けさせる程度の能力』を上手く利用し、そのシステムを幻想郷の中で見事に完成させていた。
例えば博労≪ばくろう≫という、馬や牛の飼育や売買、仲介を主に執り行う職業がある。ある男がこの職で生計を立てたいと考えた場合、通常であれば彼は金貸しの元を訪ねて媚を売り、必要資金を現金で借り入れ、一定の期日が過ぎる前に『収益が上がる/上がらぬ関係無しに』元金に利子を加えた分の金を返済しなくてはならない。
たがその話をマミゾウの所へ持って行くと、同じ取引が随分変わった様相を示す。
まず男は当然、その業務についての構想をマミゾウに話すのであるが、この時最も重視されるのは、『旗揚げをするのに何がどれだけ必要か』という物品に関する事項なのである。例の男の場合であれば、『3.6m×2.7mの馬房12房、3.6m×7.2mの牛房8房分のスペースのある厩舎を1棟、牛馬をそれぞれ10頭と8頭、飼料がどれだけ、鞍や蹄鉄などの装具が……』といった案配であろう。そして、マミゾウはその構図に将来性があると見ると、紙面に提示された必要物品をすべて"自腹で購入"する。そうして得られた固定資産を、マミゾウが男に貸し付ける(リースする)のである。これには支払期限というものが存在しない。事業が成功すれば、男はマミゾウが立て替えていた必要経費を全額支払い、あらかじめ定めておいた成功報酬を手渡すことで取引が完了するである。
むろん、男が破産した場合はマミゾウも共倒れを喰らうことになる。が、そこがマミゾウの識別眼と、『物を化かす程度の能力』の活かし所だった。
馬や牛といった生物は難しいが、厩舎や装具などの物品は『化かす』ことが出来る。ただし、いくら二ッ岩の大妖怪といえども、建物を丸々一棟化かすのは骨が折れる作業である。ゆえに叶えば廃墟、叶わぬならばせめて資材を集め、簡単に組み立てたそれらを化かすことで提供するのだった。依頼者に金が貯まるまでの間に合わせ、と言えばそうなのかも知れない。しかし、その再現精度は見事なもので、「これならわざわざ建て直す必要なんて無いよ」と大喜びで述べる者が後を絶たぬ程であった。それゆえ彼女の商売は繁盛したのである。
また、この『化かし』にはもう一つ利点があった。
マミゾウは自然の象徴である"葉っぱ"を介して神通力を通すことで対象を化けさせるが、当然、その効果は永続しない。物にも寄るが、マミゾウは基本的に"次の満月が終わるまで"を基準に化けさせることを好んだ。月はその大きさに比例して狸の力を増大させる。それゆえ、満月へ合わせて力を調節するのが最も効率的だったのだ。ただしそれは、化かしが解けても困らないものに限った話である。そうでない物には、次の満月が来るまでに再度神通力を通しておく必要があった。ゆえに、マミゾウはたびたび顧客の元を訪れるのだ――先に『リース』と称したのには、こういう側面があったからである。
この側面は一見欠点のように見えるが、しかしマミゾウはこれを利点として捉えていた。
顧客と顔を合わせる回数が増えるということは、つまり、馴染みが深まるということであるし、そこから他の客とのコネクションを得られることも多かったからである。その場で追加注文を頂くことも決して珍しくはなかった。また、顧客に要望があれば低金利での融資、つまり通常の金貸しのようなことも行った。"催促"などというケチな真似をしない彼女の金融業は、これまたやはり盛況を見せた。
こうして『二ッ岩マミゾウ』の名はまたたく間に人里の間に知れ渡り、『愛される金貸し』の異名を貰い受けるまでに至ったのである。
そして今日、マミゾウは四件の"化かし直し作業≪メンテナンス≫"を抱えていた。
といってもそれは仕事と言うよりも、むしろ気の置ける友人と歓談をしに行くのに近いような、心弾ませる作業に違いなかった。
実際、立ち食い蕎麦屋の台車を化かし直した際には、『コシがあって美味い』と里でも評判になりつつある頑固親父の手打ち蕎麦を奢って貰ったくらいである。その次は、軒先に並べられたべっこうの飾り櫛や舞妓かんざし、江戸切子のビードロ細工といった美しい雑貨が目を引く小間物屋だった。
『今度はちょいと、お洒落な和傘でも仕入れてみようかと思うてるんやけどねぇ』
マミゾウが商品の陳列棚を婦人店主の要望通りに二段増やして化かし直し、ひとまず次の満月まで持つよう四日分の神通力を通し終えた後のことだった。
『よろしければこのくらい、融資して頂けませんでしょうか?』
"むろん。お得意様じゃからのう"
マミゾウは二つ返事で頷き笑顔を見せると、腰に下げてある台帳を取り出した。そこに筆でさらさらと『貸付日』、『貸付相手』、『貸付金額』を記入し、最後に婦人から確認の捺印を貰った。と同時、"ぽんっ"という可愛らしい音がしたかと思うと、マミゾウの手の上にあった台帳は銀色の眩しい金庫へと変化していた。マミゾウはそこから書き記した分だけの紙幣を取り出すと、いつの間にやら用意していた封筒に収めて、慇懃なお辞儀とともに婦人に手渡した。
「――では、今後ともご愛顧のほどを――」
■
白川砂を連想させる美しい砂利と、川砂を混ぜて踏み固められた大通りの路床の上を、小気味よい音を立てつつ闊歩する。
足元から伝わるこの感触を、マミゾウは心底から好いていた。そういう訳で今日もご機嫌な彼女の手には、小間物屋の婦人から渡された土産物の袋が下がっている。
マミゾウは愉しげに、様々な店の前を歩んでいく。意匠の凝った"のれん"を掲げる呉服屋、カンナをひく音の聞こえてくる建具屋、馴染みの男衆が次々に吸い込まれていく風呂屋、やたらと貫禄のあるこんにゃく屋、子供達で賑やかな寺子屋、対照的に物静かなわらじ屋、相変わらず妖怪達で盛況している酒屋、最近出来たという本屋に喫茶店、写真屋――
「ほっほっほ。のすたるじあ、という奴じゃな」
いくらか現代風の店舗もあるにはあるが、職の仔細に別れた、奥ゆかしくも荘厳な商売屋がずらりと甍≪いらか≫を並べるその様は、やはり昔を思い出して胸を打つものがあった。
マミゾウはさらにご機嫌になって、本日抱えている仕事の三件目、マミゾウお気に入りの茶屋へと向かった。もちろん、その道中では例の逸話が遺憾なく発揮されたのは言うまでもないことであろう。
「狸さん狸さん。ずいぶん上機嫌みたいですね?」
「お、風祝の巫女じゃないかえ」
茶屋の軒先に、緋色の毛氈≪もうせん≫で見栄え良くこしらえた涼み台と、真っ赤な本式野点傘≪のだてがさ≫をセットで数脚化かし終えたマミゾウが、その日影の中から青い空を眺めてゆたりと一服している時だった。丁度通りかかったのだろう東風谷早苗が、とんとん、と背を叩いて声を掛けてきたのである。
「ほ。こんな風情ある町並みを、ひとつの人生でこう何度も味わえるとは思うとらんだでのお。長生きはするもんじゃな」
「この前は『年寄りだとは思っていないんじゃが』とか言ってたくせにー」
「細かいことを気にするほうが老けるんじゃよ。まあまあ、どうじゃ、一杯? ほれ、菓子もたーんとあるでのう」
マミゾウは先ほど小間物屋で包んで貰った"きんつば"を取り出した。その瞬間早苗の眼の色が変わったのを、マミゾウはしっかりと見届けていた。
ほっほっほ、と快活な笑い声をあげながら店先へ顔を向け、「おぅい。もう一杯、茶をお願い出来るかえ」と述べた。奥から店主の了承の声があがる。
「遠慮することはないぞ、馳走してやろう」
「いえ、遠慮する気はさらさらありませんけど」
「はっきり言う子だのぉ……」
しかしまんざらでもない、と言った顔つきで、マミゾウはしばらくへっつい(※かまど)の上で湯気を吐き出し、小さく揺れる茶釜を眺めていた。
茶は間もなく運ばれてきた。「あちち」と言いながら、ちびちびと湯飲みに口をつける早苗に、マミゾウは煙草のジェスチャを送った。早苗は一瞬、その意味するところを考えていたようだが、すぐにこくりと頷いた。
「どうぞどうぞ」
「うむ、では失礼して」
言ってマミゾウが懐から取り出しのは、しかし小さな賽≪サイコロ≫と、漆塗りの細い花魁煙管≪おいらんきせる≫だった。早苗が首をかしげるのを横目で眺めつつ、マミゾウはそれらに掛けてあった化かしの術を紐解いた。やはり"ぽんっ"という音がして、それらは各々、立派な造りの煙草盆と、息を飲むような美しい金色を掲げる喧嘩煙管≪けんかぎせる≫へと姿を変えた。
「へー、見事なものですね」
便利そうだなぁ、と、早苗が感心したように言った。
直後、"これなら刃物でも何でも、隠し持てますもんね――"
まるでそう述べるかのように、彼女の目元が一瞬だけ不穏な影を帯びた。
「……ん?」
「いえいえ。ところで狸さん、今日のお仕事はこれで仕舞いですか?」
「うんにゃ、あと一件だのう」
答えるマミゾウは少しばかり早苗のことを訝しんでいたが、きんつばを笑顔で次から次へと口に運ぶ彼女の姿はまったく年相応のものであり、そんな彼女のことを何やら疑うのは礼を欠くような心持ちがした。だからそんな杞憂は"んぱ"と一息、紫煙に乗せて吐き出すことで全て忘れることにした。濃厚な刻み煙草のけむりは、相も変わらず、最高に美味かった。
「最後の一件は何処でしょう?」
「永遠亭じゃの。つい先日、増築した病室の化かし直しよ」
「あれ? 狸さんの変化の術って、数日くらいしか保たないんですか?」
「事情が事情でな。何しろ急を要するらしくての、資材を用意する暇もなかった。間に合わせの間に合わせだからの、まあ……そんなもんじゃろ」
「なるほどー」
早苗は一人ですっかり平らげてしまったきんつばの皿をジッと見詰めたまま、緑茶をすすっては何やらうんうんと頷いている。
『やっぱりなんか変な子じゃのう』
そんなことを思いつつ、マミゾウはもう二、三遍、けむりをぷかぷか燻らせた。
「あの! ついて行ってもいいですか!」
急に顔を上げたかと思うと、東風谷早苗はそんなことを言い出した。彼女の持つ湯飲みの中は、もうすっかり空になっている。
マミゾウはしばらく呆気に取られたような表情を浮かべていたが、すぐに、道中の森を一人で歩くよりは余程マシだなという結論に思い至った。
「まあ、構わんが。地味な仕事じゃぞ?」
「いいんです! ぜひ、ぜひ! ご一緒させて下さい!」
「――ふむ。じゃ早速、まいろうか」
マミゾウは最後に一息、咥えたキセルを大きくふかすと、"かん"という軽快な音を立てて灰を煙草盆に落として立ち上がった。
■
「ぷれいすてーしょん、か。懐かしいのう」
「そういえばトルネコの大冒険2にも迷いの森ってありましたよね」
「あったのう。店の商品ドロボウし放題のアレじゃな。げぇむばらんすは正直微妙じゃったが、戦士とか魔法使いの発想は面白かったと言えような」
「あー戦士! ハラヘラズの"わざ"、習得方法が分からなくて投げちゃったんですけど、どうやって覚えるんですかあれ!」
「なんと満腹度が0の状態で、280たーん行動じゃ」
"――ひどい!" 早苗の絶叫。続いて、マミゾウの快活な笑い声が周囲に響いた。
立ち止まって見ればまるで絵画のように静かで動きのない竹林、その合間を縫って二人は歩いている。
話題はテレビゲーム。幻想郷の外を知るもの同士にしか出来ない会話であった。
「クッパやピーチが一緒に戦ってくれるマリオシリーズって斬新で、当時すごく感動しましたよね」
「あのシナリオは見事じゃったな。もっとも、儂はクッパよりもマロをよく使ったがの」
「『なにかんがてるの』ですね?」
「同時期に放送していたエヴァネタも満載じゃったからの。ジョジョのぱろでぃもかなりあったし、楽しませて貰ったものよ」
通常の人間ならば一瞬気を抜いただけでも、たちまち進むべき方向を見失ってしまう"迷いの竹林"の中である。
しかしこの二人は、「私はスーパーロボット大戦が好きですね」とか、「んん、儂は牧場物語か、もんすたーふぁーむ辺りじゃのう」などと談笑しながら、一歩も澱むことなく進んでいく。二つ岩大明神と現神人の名は、どちらも伊達ではないようだった。
「Mother2ですか? 私あのエンディング、ぶっちゃけガチ泣きしたんですけど……でも、トラウマもいっぱいあるんですよね、あの作品」
「ムムーーンンササイイドドへへよよううここそそスープがさめないうちにマニマ」「や、やめてください!!」
「ふぉっふぉ、冗談じゃよ」
「ううー……。でもまあ、あの遊び心は大好きですけどね。ゲーム開始時の『好きなたべもの』とかって何にしました?」
「普通に『はんばーぐ』じゃが?」
「えっ。普通『こども』とかにしません?」
「は?」
「え、あれ? だって家に帰るたび、お母さんが『お帰り、ネス。ちょっと待っててね。いま、ネスの大好きな"こども"を作っているところだから』って言ってくれるんですよ! 私もう、家に帰るのが楽しみで楽しみで仕方なかったんですけど」
「…………」
"幼少期に何か、辛いことでもあったのだろうか――"
その後の会話も含めて、マミゾウが早苗の頭を本気で心配し始めた頃だった。
丹念に磨き抜かれて、その一つ一つがまるで水に濡れたかのように美しい幅広の黒石が、しかし一個の和を尊ぶように、落ち着いた光沢をたたえる石畳として二人を静かに出迎えた。クロマツ、ノムラモミジ、ギボシ、タマリュウ――やはり手入れの行き届いた緑樹の遠く向こうに、本瓦葺きで三間三戸、上流屋敷にふさわしい風格と規模を兼ね備えた腕木門が聳え立っている。
相変わらず豪奢じゃのう、と、マミゾウは内心でため息をついた。
確かに壮観ではある。装飾にはセンスがあるし、金持ち連中が好む"あざとさ"も感じられない。しかしどこか無機質な雰囲気が拭いきれぬような……およそ人間らしい人間が住むべき場所ではないような気がして、マミゾウはこの場所をあまり好いてはいなかった。
そんなとき、枯山水に囲まれた芝生の上の、苔むした岩の影から数羽の白兎と黒兎がこちらの様子をじっと伺っているのにマミゾウは気が付いた。隣を歩いていた早苗も同様らしい。早苗が兎たちに向かって大きく手を振ると、兎たちは我先にと争うように散っていった。
「……まあ、なんだかんだ言ってあっという間じゃったの。それじゃ、邪魔しようか」
「あっ。すみません、マミゾウさん」
「ん? どうしたんじゃ?」
「私さっきの話で欲情して来ちゃったので、ここでオナニーして待ってますね」
「…………」
今度こそマミゾウは絶句した。
マミゾウは早苗の顔を見詰めてしばらく何を言うべきか考えていたようであったが、結局何も思いつかなかったのだろう、ばつが悪そうに背を向けると、永遠亭の入り口に向かって歩き出そうとした。
「――マミゾウさん」
その背中に、早苗の声が掛けられる。
マミゾウは足を止め、ひどく困惑したような面持ちで早苗に振り返った。きっと同情すべきかどうかで、今も尚迷っているのだろう。が、早苗のその顔が、嫌に真剣であることに気が付いてマミゾウは背筋を伸ばした。否、伸ばさざるを得ない気迫があった。
「風来のシレン64って、知ってますよね?」
「……よく知っとるよ。儂はあれが風来しりぃずの最高傑作だと信じて疑わん。で、それがどうした?」
「罠に、"トラバサミ"ってあるじゃないですか。あれの効果って、どんなでしたっけ?」
「…………? 10たーん、その場から移動できなくなる。ついでに回避不能になるんじゃなかったかの」
「……ふぅん……」
一拍分の、重い空白があった。
その間ずっと、光沢のある早苗の大きな黒い瞳が生粋の冷徹さを帯びて、マミゾウの表情を――わずかな筋肉の動きまで隅々を――観察していたようであった。
まるで心臓を鷲づかみにされるかの如き圧力に、マミゾウはたじろぎそうになる。同時に、もし本気で眼前の巫女と殺し合いをしたならば、まず間違いなく自分は殺される側であることをこの大妖怪は悟った。理屈抜きの、野生の本能がそう告げていた。
「――なるほど、分かりました。ありがとうございます」
「…………どうしたんじゃ、一体」
「ええ、それはまあ、ちょっと」
「理由を話してはくれんのかえ?」
「考えておきます。それより今はオナニーですから!」
陽気に言いつつ、早苗がポケットから十字架を取り出したのを見て、マミゾウはまたしても言葉を失った。それを一体どう使おうと言うのか!
と、そう考えている間にも早苗は近くに拵えられていた竹椅子に座り、スカートを捲って股間にそれを近づけつつあった。マミゾウは慌てて目をそらし、永遠亭に続く石畳の上を大股に歩きだした。
「あ、いってらっしゃーい!」
正直な話。
今のマミゾウには、これ以上早苗と言葉を交わしている余裕などとても無かったのである。
マミゾウは永遠亭の仰々しいまでに大きな門を抜け、石畳の脇に建てられた石灯籠をいくつも通り過ぎ、やはり規模の大きな屋敷の"ひさし"の下に潜り込み、そうして早苗の視線をすっかり感じなくなって――そこでようやく、大きく息をつくことが出来たのだ。
「…………」
全身がびっしょりと、いやな汗に濡れていた。
■
「……正確には、3-7ターンの間にランダムで解除されるんですけどね、トラバサミ」
マミゾウの姿が見えなくなってから、東風谷早苗はひとり静かに呟いた。
「うーん。ハズレかなぁ?」
早苗は三日前に里外れで起きた、民家が何者かに襲撃され、四名が死亡し一名が重態、家屋に至っては全焼するという派手な殺傷事件について調べていた。
犯人は不明。しかし被害者の創痍を見るに、分類上動物系に属する妖怪の仕業であることは明らかだった。また分社に張り巡らされた決壊を破ることが出来るほどの大妖怪、という縛りもあった。これらの条件に当てはまる妖怪というのは、幻想郷には数えるほどしか居ない。その筆頭が二ッ岩マミゾウと八雲藍だった。
東風谷早苗もまた巫女として、博麗霊夢の『骨に宿る"生きていた頃の霊魂"を見る能力』に近い力を持っていた。それが過去認知≪ポストコグニション≫である。これは神霊を宿した物体が覚えている"風景"を早苗の頭の中に再現する術であった。この術を通じて、早苗は猟師の最後の瞬間をおぼろげながらではあるが、見届けていた。
既に粉々に破壊された分社の内側で、"八坂神奈子"が鎬造りの短刀を、狩人の胸中に深々と差し込む風景――
「…………」
何度思い返しても嫌な光景だった。
人間の死にゆく様を見届けるのが苦手な訳では、決してない。
ただ"妖怪ごときが、八坂神奈子≪わたしのかみさま≫に化けて人殺しをしている"という事実が――その糞ったれな姿を見るのが――嫌で嫌で堪らなかっただけである。
"なんという侮辱だろうか。なんという、冒涜だろうか――"
早苗は怒りに打ち震えていた。
不届き者に神罰を与えてやらねば気が済まなかった。
「……とは、いえ」
絶対に不当な弾劾をしてはいけないよ、と、早苗は守矢神社に住まう二柱の神々に強く忠告されていた。
そんな早苗が現場検証を済ませた時点での二ッ岩マミゾウに関する心証は、はっきり言って最悪も最悪の、「限り無く黒に近い灰色」だった。なにしろ現場近くの虎鋏に"狢≪むじな≫、すなわち狸の体毛"が残されていたのだから、当然である。
しかし、先の問答における無反応さはどうしたことだろう。それにここまで比較的長距離を歩いてきたが、どこかに怪我を負っているようにも見えなかった。それらも全て、"化かす"ことに特化した妖怪ならではの演技なのだろうか。早苗は思考を巡らせながら、ジッと手の内の十字架を眺めていた。
十字架――正確には、苦しみの杭≪スタウロス≫という、二本の梁材をT字型に貼り合わせた聖性象徴物である。聖樹として名高いレバノン杉によって模されたこの刑具には、純金で象られた小さなキリストが磔にされている。彼の足下では精巧に彫り込まれた白銀の髑髏≪ゴルゴダ≫が妖しい光を放ち、また彼の頭上では、【INRI】――"ユダヤの王"――と記された罪状書が、風にはためくように縫い付けられていた。よくよく見るに、その素材は聖ヴェロニカのヴェールの一片に違いなかった。
これは本来ならば、然るべき機関が然るべき場所に保管していてもおかしくはない第一級の聖品である。
「ぁ……ほんとに、欲情して来ちゃった……♥」
こうした奇跡の代物を東風谷早苗が所有し、肌身離さず持ち歩いているのにはある理由が存在していた。
――彼女は、聖依性愛者≪ヒエロフィリア≫なのだ。宗教的なシンボル、聖なる遺物の威光に触れると、抑えようのない性的興奮が、ふつふつと身体の底から沸き上がってくる特殊性癖である。
早苗は特に西欧の宗教を、自らの性の慰め者にすることを好んでいた。
「今日も、この私が……たっぷり愛して、それと同じくらい、たっぷり穢してあげますねっ」
そしてそんな自分を、彼女は少しも恥じてはいなかった。むしろ邪教を排するものとして、誇りすら抱いていた。
真性の狂気とは、彼女のような存在のことを指すのかも知れなかった。
「そーれ、異教退治ーっ♥」
彼女の恥部に、キリストの口付けが施される。
■ ■ ■ ■ ■
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3. プロステチウトの手慰み
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「頭蓋底骨折による髄液の鼻漏・耳漏が認められました。それに付随する鼓室内血腫により、軽度の聴力障害の可能性があります」
八意永琳は表情を変えず、事務的な口調で説明していく。
永遠亭を訪れた二ッ岩マミゾウが最初に通されたのは、まるで令嬢が身の純潔を告白するかのようにどこか秘めやかで、そして何かしらの決意を感じさせる仄白い空間であった。光量はやや乏しく、しかしそれゆえに整然と配置された純白の椅子や長机が一層妖しく輝いているようだった。清潔感を感じさせる消毒薬の匂いが広げられた書類や薬棚、そして八意永琳本人から微かに立ち上り、底冷えのする春の月夜にも似た厳粛な情調を形成している。
「頭蓋底≪とうがいてい≫?」
「いわゆる頭蓋骨の底面、脳を支える骨の部分、ならびにその周囲の部位を指します。あなたは幻想郷の外から来た妖怪でしたね? 底面に孔が空いている頭蓋骨格の標本なり映像なり、一度くらいは見たことがあるのではないでしょうか」
確かに、マミゾウは医学テレビでそうした模型を見た覚えがあった。記憶を手繰って自らの頭の中にその3DCGを思い描いてみるに、"頭蓋底の骨折"がいかに悲惨なものであるかが嫌と言うほどよく分かったのだろう、「情報化社会さまさま、じゃな」そう呟く彼女の顔は苦虫を噛み潰したようにしかめられていた。またその渋面はみるみるうちに不愉快そうな色を帯びていく。うら若い少女の形のよい耳や鼻から、血の混ざって赤くどろどろになった髄液が垂れ流されていく様子を想像してしまったに違いなかった。
「この孔の周辺には多数の脳神経が集中しています。そのため僅かな損傷であっても、甚大な障害を引き起こす場合が多いのです。それも複数。この患者の場合ですと、先の聴覚障害に加えて……」
八意永琳はマミゾウに一枚の紙を手渡した。
そこには【聴覚障害】を筆頭に、以下の様な文字が並んでいた。
"【嗅覚脱失】…【緊張性気脳症】…【三叉神経障害】……
……【舌下神経障害】…【外転神経麻痺】…【舌咽神経麻痺】…【迷走神経麻痺】…………"
「……つまり?」
「味も匂いも分からなくなります。それどころか顔の筋肉や神経、その大部分が意味を成さなくなると言ってよいでしょう」
瞬間、マミゾウの顔が苦しげに歪んだ。
いや、当の本人はそれを必死で堪えようとしているようであったが――結局、今にも泣き出しそうな表情だけがそこに残されていた。
「……年頃の、おなご…が……」
腹の底から必死に絞り出したのだろうその声は、まるで吐き気を催しているかのように震えている。琥珀色の長い睫毛をたたえた瞼が、彼女の澄んだ瞳を何度もせわしなく覆い隠していた。やがて絶望にまみれ光に乏しいこの世界を自ら遮断するかのように、彼女の二つの瞼は固く伏せられたまま、音も気配もなく凍て付いた。
悲痛――悲痛なのだろう。そんなマミゾウの表情を横目に、八意永琳は「さらに加えて」と言葉を付け足した。
「II度の熱傷が全身の22%、同様にV度の熱傷が全身の7%に及んでいます。咽頭部の欠損により自発呼吸は困難、のちに感染症が併発する恐れもあります。打撲、骨折は全身に複数箇所存在しており、肝臓をはじめとした内臓のいくつかには裂傷が見受けられます。また搬送時には胸部圧迫による心タンポナーデを発症していました。処置は施しましたが、依然、挫滅症候群の生ずる可能性があるため注意が必要です。椎骨の損傷領域はC6,C7(※首の根本の脊椎を指す)で、これは脚の麻痺および両手の部分麻痺を引き起こしますが、幸いにして胴体の感覚は残り――」
「もう、いい」
マミゾウは俯き、眼を瞑ったままに拒絶した。
「いえ。これは必要な説明なのです。もう少々ご辛抱下さい」
「……やめろ。儂にそんなことを説明して何になると言うんじゃ」
「止めません。現在、彼女の両眼球は白濁化しています。おそらく頸椎損傷時に目瞼を開いたまま意識を失い、また、倒れ込んだ先には火種となる物が存在したのでしょう。それが眼前で燃え盛り――」
「やめろと言うておる」
その時マミゾウが覘かせたのは、畏るべき決意の色だった。
右眼のみわずかに覗き、八意永琳を鋭く睨む大きな瞳……やはり琥珀色≪アンバー・ブラウン≫の虹彩は、ゆらゆらと怒りの輝きを宿している。それは尾を引く彗星のように眩しく、妖しく、冷ややかで、見る者に決して眼を逸らさせない異様な迫力を備えていた。
「……その熱で、眼球の蛋白質が変質したものと思われます」
八意永琳は控えめに言葉を継ぎ足し、これでお終いですよ、とばかりに肩をすくめて見せた。
そのまましばらく二人は黙っていたが、マミゾウの意図を汲んだのだろう永琳が、やがてポツリと、しかりいつもと変わらぬ口調で述べた。
「あなたに、ある依頼が来ていましてね」
「依頼?」
ええ、依頼です。
頷いて、永琳は書棚から一枚のファイルを取り出した。その半透明な薄膜≪フィルム≫の向こうに、患者のカルテと思われる書類と、一枚の写真、そして新聞の切り抜きが収められているのがマミゾウにも見て取れた。切り抜きの見出しには『民家全焼、4人の遺体発見=妖怪の犯行か』とあり、その横に『重態の少女、永遠亭にて治療中』という文字が小さな顔写真と共に添えられている。マミゾウもよく知っている内容だった。なぜなら、この少女を治療するための特殊病棟を拵えたのは、他ならぬマミゾウ自身であるからだ。
「依頼というのは」
永琳はこの時初めて、赤い唇の端に薄い笑みを浮かべていた。
そして写真をファイルから取り出すと、それをマミゾウに差し出してこう言った。
「彼女を、"慰めてやって欲しい"ということです」
■
「気違いじみている」
それがマミゾウの抱いた率直な感想だった。
依頼の内容自体は、至極単純である。
『要はこういうことです。あなたはこの写真に写っている男性に化けて、彼女の世話をする――もちろん下の世話も含めて。それから、出来るだけ彼女の耳元で"好きだよ"、"愛しているよ"と、繰り返し述べてやって欲しい、とのことです。――依頼主? もちろん、少女の両親ですよ』
写真をマミゾウに手渡す際に、いかにも可笑しくて堪らない、といった声色で永琳はそんな言葉を口にした。
マミゾウは何も言わず、ただ、黙って写真を眺めているしかなかった。そこには四人の幸せそうな男女が写っていた。"彼女"――すなわち若い娘と、それよりもう幾分か年上だろう男性、そして壮年の二人……これは明らかに夫婦であった。この依頼から察するに、娘と男もやはり夫婦なのだろう。それもおそらく新婚の。先日の事件で消し炭となってしまった民家には、若年と老年の夫婦二世帯が住んでいたという訳である。
『幻想郷では、別に珍しくもない家族構成ですから』
念のためマミゾウが確認を取ると、永琳はそう言った。
先に永琳が述べた通り、この依頼主の"両親"が嫁方の生みの親を指しているのなら、亡くなったのは婿方の両親なのであろうことはマミゾウにも容易に想像出来た。
『……その両親とやらの居場所を教えてくれんか。直接、話がしたい』
外の世では二つ岩大明神とまで祀られるほどに仁義溢れる大妖怪が、この一言を発するまでの数十秒間に、一体どれだけの苦悩を覚えたことであろうか。人というもの、親というものの存在に、マミゾウは一体どれほどの失望を覚えたことであろうか。無論、それを理解することなど誰にも出来はしない。しかしその胸中をおもんばかり、言葉を控える程度のことは、余程人間と掛け離れたような存在でも無い限り、可能なはずであった。
『それは出来ません』
だが眼前の薬師を名乗る月人は、"にい"、と。
事もあろうに、大きく、大きく嗤ってみせたのだ。
声は無く。ぞっとするほど不気味に頬を歪ませて、ただ、"にたにた"と……。
『――なぜじゃッ!』
『なぜか? なぜそれが出来ないか? あなたはそれを知りたいのですか、本当に? いいでしょう、ぜひ教えて差し上げますよ』
余りの怒りに声を荒げたマミゾウはしかし、その意味するところを永琳の表情や言外、漠然とした不吉な予感から感じ取り、瞬間、部屋に怒気を奮わせてしまったことを後悔するような気分に捕らわれた。
『なぜなら、依頼主の夫婦は――』
そしてその予感は、すぐに確信へと転じることになった。
『――自殺したからです』
……そう、先の怒号はやはり失敗だったのだ。
マミゾウは静かに、永琳の嘲笑に何の反応も示さず、依頼を拒否する旨だけ告げて即刻この部屋から立ち去るべきだったのである。
『正確には、首を吊っている死体が見付かりました――二人仲良く、松の木に宙ぶらりんで。里外れの民家の中には、丁寧に遺書まで残されていたそうです。それによれば、この所ずいぶん生活に貧窮していたようですよ。自殺の切っ掛けは、まあ、今回の件でしょうが』
『――――』
『もう一度言いましょうか。"娘を、慰めてやって欲しい"。これは遺言ですよ、言うなればね。そしてこの依頼には報酬も何もありません。あなたが断ると言うならば、それはそれで構わないということです。折角ですからもう一つ、大事な事をお教えしましょうか』
"もはや彼女は、いつ死に犯されても不思議ではない状況です。"
その後のマミゾウには口を開く暇すら与えられなかった。
『おや。次の患者がやって来たようですね。それではこれで、私からは失礼致します。……そういえば、姫様があなたとお話ししたがっていましたね。兎に案内させますから、宜しければどうぞ奥へとお向かい下さい――』
「……どいつもこいつも、気違いじみている」
マミゾウは先と同じ言葉を吐き捨てた。
「あっはは! 人間って面白いでしょう? こんなに狂った提案、私でも中々思いつけないもの!」
そしていま、マミゾウの目の前でからから笑い転げたり首を傾げたりしている人物こそ、永遠亭の長、蓬莱山輝夜であった。
診察室を退出したのち、マミゾウは気乗りしないながらも白兎に連れられて、板張りの長い廊下を歩いていった。
廊下の脇には黒唐津の骨董壺や、菊の大輪が描かれた大皿が品良く飾られており、その途中でいくつもの和襖を抜けた。やがて板張りの廊下は途切れ、そこから先は御鈴廊下≪おすずろうか≫(※大奥に出てくる、絢爛な襖が何重にも連なる畳敷きの廊下)となっていた。白兎はそこで踵を返し、代わりに黒兎がマミゾウの案内役を引き継いだ。黒兎は静かに、規則的に畳の上を跳躍しながら、様々な柄の襖の間を通り過ぎていく――水辺で淑やかに佇む雁の姿、ふれれば手に鱗粉が付くのではないかとさえ思わせる大紫蝶、素朴な竹雀図、枝垂れ梅にそそぐ春の雨、青々と緑の萌える山渓水墨、鰯雲の掛かったすすきと満月、凛と静謐を奏でる白化粧の湖面とそこに降り立つ一羽の鶴、そして富士の山を背にした、一人の翁≪おきな≫と一人の媼≪おうな≫の姿を見送って――
蓬莱山輝夜が、現れた。
「まーいっか。で、どうするの? この依頼は受けるの? 受けないの?」
彼女はマミゾウが話すまでもなく、全てを知っているようだった。
"永遠"を象徴する金の屏風が並べられた奥座敷の中央、山と積み上げられた紐綴じの古書や歴史書、巻物のたぐいに囲まれて、輝夜は言った。
「わたしは、受けるべきだと思うけれど」
鳶座り(※女の子座り)をする輝夜の周りには、色鮮やかな彼女の衣装がふわりと広がっている。眉の少し下あたりで丁寧に切り揃えられた黒髪が、彼女の潤みを帯びた双眸をより少女らしく、そしてより艶然と煌めかせている。そんな輝夜の小首を傾げる仕草に、端麗だ、とマミゾウは心底から思った。
同姓であるにも関わらずマミゾウの心を強く揺さぶるほどの、一種奇跡さえ感じさせるような不思議な魅力が、この蓬莱山輝夜には備わっていた。
「どうしてそう思うんじゃ」
「ん? 面白そうだからに決まってるじゃない」
「……参考にならんのう」
「というのは半分冗談で。別段、断る理由もないと思うのよね。その女の子は夫が死んだこともたぶん知らないだろうし――いや、もし知っていたとしても、今際の際にいる彼女にはその愛の囁きは生きる支えとなるに決まっているでしょう? まあこれは、本当にその写真の男の人が夫だったら、の話だけれど」
マミゾウには輝夜が最後に付け足した言葉の意味がよく分かった。
外の世界とは違い、幻想郷には最近ようやく明治の『壬申戸籍制度』にも似た戸籍法が導入され始めたばかりである。里の大通りに面した商家か、前栽付きの屋敷を構える名家でもない限り、未だ戸籍を持っていない人間は多数存在するのである。
――とはいえ。
外の世界で言う"明治"以前、例えば江戸時代などの民衆はまったく戸籍無しで過ごしていたのかというと、実はそうでもない。『寺請制度』、『檀家制度』などとも呼ばれる一つの一つの寺院が檀家を管理する制度があり、それら寺院が各々の檀家を認≪したた≫めた『宗門人別改帳≪しゅうもんにんべつあらためちょう≫』という帳簿が存在した。現代の"戸籍抄本"の基となった帳簿である。そしてここ幻想郷には、博麗神社、守矢神社を壇越≪だんおつ≫(※布施)の対象として、やはりこれらに似た制度が流入している。
ここで問題となるのは、『宗門人別改帳』の誕生と共に生じた負の遺産、すなわち『えた』、『ひにん』と呼ばれる差別対象もまた、幻想郷に流入している点である。
江戸時代では『宗門人別改帳』に記されていない人間を『非人』と称した。幻想郷ではまだ蔑称こそ無いものの、里外れに暮らす一部の者達に対して"不干渉"、あるいは明らかに軽蔑するような態度を取る町民が確かに存在するのだ。
人里離れた森の中で、ひっそりと隠れるように暮らしていたこの娘の家族、それはつまり――
「…………」
まったく重い話題じゃのう、とマミゾウは胸を痛めた。
幻想郷の暗い部分を、無理矢理見せ付けられているような不快さがあった。しかし人に協力する妖怪として幻想郷に住まう以上、どのみちこれは避けて通れ得ない道なのだ――そう考え、マミゾウは萎えかけていた心を努めて奮い立たせた。
だが正直な所、マミゾウには写真の男が女性の婚約者であるのか、恋人なのか、それともただ仲の良い幼なじみであるのか、片思いの対象なのか――色々考えを巡らせてはみたが、結局そのどれについても確信は持てないのであった。死人に口なし。無い戸籍を調べようもない。あくまで、依頼の内容から"夫"だと推測することしか、今のマミゾウには出来ないのである。
「で――」
高貴な身分の者特有の、花咲くような笑みを浮かべて、輝夜は言葉を続けた。
「あなたは、どうしようと思っているのかしら?」
「まだ分からん。だが……何とかしたいとは、思っておる」
「ふうん」
そう。じゃあ、後押しが欲しいのね?
それはマミゾウがはっと息を呑むほど、淑やかな声だった。
「この件に絡んでいる妖怪の目星は付いているの?」
「だいたいは、の」
やや気圧されたような、毒気を抜かれたような表情で、マミゾウは答える。
気が付けば、輝夜は手を伸ばして足下の黒兎と戯れていた。視線は兎≪そちら≫に向いたまま、マミゾウに言葉を投げ掛けている。
「その妖怪の目的も?」
「ああ」
「そう。ならいいのよ。じゃ、最後に問答をしましょう」
「問答?」
「ええ」
輝夜は頷くと黒兎を抱きかかえ、そうしてしばらくゆらゆらと、赤子をあやすように身体を揺らしていた。その動きに合わせて彼女の妙≪たえ≫なる黒髪が、畳の上に広げられたいくつもの歴史書の表面をやさしく撫でていく。飴色にくすんだ奉書紙の上を彼女の髪が滑るたび、紙面に達筆な文字が見え隠れするその様を眺めていると、まるで彼女が、過去全ての歴史を紡いでいるようでさえあった。
やがて黒兎が眠ってしまうと、輝夜はマミゾウに向き直った。
まるで、不浄なものを今まで一つ足りとも見たことがないような――
美しいものを、いつも探しているような――
そんな二つの黒い瞳が、マミゾウをじっと見詰め、そして問いかける。
「――"死に至る病とは?"」
「きえるけごーる、か? ……答えは『絶望』じゃの」
「"人間は何故死を恐れるか?"」
「どふとえふすきい。『生を愛するからである』」
「"人間が耐えられない痛みとは?"」
「同じく、どふとえふすきい。『無意味の痛み』」
「"死の特効薬とは?"」
そこでマミゾウは少し考えるそぶりを見せたが、その直後にニヤリと笑い、
「――『 愛。』」
そう答えた。
「お見事。博識なのね、あなた。そういう人、わたし好きよ」
この言葉に、なぜかマミゾウはどきりとした。好きよ、という台詞が真に迫っているように感ぜられたせいかも知れない。
しかしマミゾウが本当に度肝を抜かれたのは、次の発言だった。
「わたしの純潔をあげてもいいくらいよ」
「……はっ? 純潔? おぬしが?」
純潔とは、むろん、操≪みさお≫のことよな――そう思いつつマミゾウが返した言葉は、やはり声が上擦ってしまっていた。
「なによ失礼ね。聞き返すなんてマナー違反よ……まあいいけれど。純潔も純潔、生まれてこの方、男性器のひとつも見たことがないわ」
「……何千年も生きてきて?」
「馬鹿ね、年齢を聞くのはもっとタブーに決まってるじゃない。そういうあなたは経験があるの?」
「い、いや……儂は……、う、うむ、経験は………ある! あるぞ、あるに決まっておるじゃろうが!」
「えー? ホントかしら? どうにも嘘くさいわね」
「おぬしよりかはよっぽどマシじゃわ!」
ひとしきり言い合ってから、二人は顔を見合わせて笑った。
「兎が起きちゃったわね。折角だからこの子に案内させましょう」
「あいあい。長々と、姫様の御前にして失礼仕≪つかまつ≫り候」
腰を上げながら、マミゾウがおどけた調子で言った。胸につかえていた嫌な気分は、すっかり消え去っていた。
そうしてまた静かに音もなく、規則的に畳の上を跳ねて進んでいく黒兎に連れられて、マミゾウがこの部屋を出ようとした時だった。
「ああ、失礼ついでにもう一つ。輝夜の姫様――」
マミゾウはふと頭の中に思いついたことを、輝夜に尋ねてみることにした。
「もし、おぬしが黒幕だとしたら……次はどう出るかのう?」
蓬莱山輝夜はすぐに応えた。
「わたしなら、少女の"元恋人"でも登場させるわ――この物語を複雑にするために、ね」
■
その"元恋人"らしき人物は、すぐにマミゾウの前に現れた。
「面会謝絶です。恋人だろうと婚約者だろうと、駄目なものは駄目なんです」
突き放すようなその女の声と言い争い、対立している男がいるのが遠目からでもよく分かった。
場所は輝夜の私室からほど近く。広大な中庭の一画、縁側と接するそこに、マミゾウが化かして作った無菌室(あくまで"もどき"だが)がある。マミゾウはしばし様子を伺っているべきか、あるいは仲介すべきかでやや逡巡していたが、二人のうち女の方が先にマミゾウに気付いたようで、
「とにかく、面会謝絶なんです! 私たちでさえ、治療の時以外は極力入室しないようにって言われてるんですから!」
勢い付いてそう言うと、次々に言葉を並べ立て始めた。どうにもさっさと男を追い払おうとしている様子である。
いわく、重度の火傷は糜爛≪びらん≫や水疱症を引き起こし、同時に細菌に対する免疫力も低下するため、衣類に付いているような少しの埃が舞って付着するだけでもいけないのだという。いわく、それでも面会したければ、規定の申請をしたのち、永遠亭側が指定した時間に再度訪れてくれという。
『あー。こりゃ、男も怒るわな』
マミゾウは内心で呟いた。言っていることは無論正しいのだろう。だがその物言いには、相手を思いやる心が含まれていないのだ。
せめて男が手にしている花束のひとつくらいは受け取って、病室内に飾ってやればいいのに――と、思わぬでもなかった。
『ま、元恋人だのなんだのと言って、夫を亡くした未亡人に言い寄ろうとする男も男じゃろうがの』
そこまで考えてふと、マミゾウは違和感を覚えた。彼女は被差別民であり、そして、今は元の姿の見る影もないほどに酷い怪我を負っている。表現の仕方は悪いが……そんな彼女に、元恋人ふぜいが再び言い寄ることなどあり得るだろうか?
否、何か特別な事情でも無い限り、それは考えにくいように思えた。
例えば彼女には戸籍が無く、また家族も全員死亡している。さらには彼女自身もろくに口を利けないこの状況を逆手に取って、無理矢理にでも『私は彼女の夫だ』などと主張し、姻族≪いんぞく≫として遺産を相続することは可能であるかも知れない。他にも何か、会話の端から推測出来ないだろうか――マミゾウがそう思っていた矢先、
「……分かりました。それではもう一度、手続きをしてから参ります」
渋々と言った様子ではあるが、男の方から引き下がり、マミゾウの横をすり抜けて歩いていってしまった。細身で、平均よりも少し背が高い20代半ば辺りの男だった。
「…………」
「こんにちは、二ッ岩マミゾウさん。無菌室の改修作業ですね。ご苦労様です」
無菌室のそばの詰め所≪ナース・ステーション≫に立つ、鈴仙・優曇華院・イナバが明るい調子で声を掛けてきた。
マミゾウもまた丁寧に挨拶を返すと、男の去っていった方向を何とはなしに示して見せた。少し気になったことを尋ねてみようと思ったのだ。
「さっきの男の人は?」
「ああ、お見舞いですよ。彼女の、その……婚約者だ、って自分でおっしゃっていましたけど」
「ほお」
言い淀んだのは、本当に婚約者ではないだろうと思いつつ、しかしそれを証明する術を鈴仙が持っていないからだろうな、とマミゾウは当たりをつけた。
「面会出来ない、というのは?」
「書類に不備があったんです」
「不備?」
「ええ、ちょっと……宗旨手形(※身分証)の発行番号が記載されていなくて。それよりも、どうぞ私たちのことなどお気になさらず、お仕事をなさって下さい」
「うむ。では、失礼して」
詰め所の脇を抜ける際、ぐ、っと伸びをするふりをしつつマミゾウはその内部に視線を走らせた。男が渡したらしき面会申請書が見えた。
そこに宗旨手形の発行番号を記載する欄などは特に見当たらなかった。
いくらマミゾウの精巧な化かしと言えども、無菌室そのものを模倣しようというのは土台無茶な話である。
いや、その設計図やら実物やら、とにかくヒントになるものが身近にありさえすれば化かし自体は不可能ではないとマミゾウは自負しているが、しかしふつう無菌室に触れることなど外の世界でも滅多にない。ゆえにこの、三畳半ほどの簡素な無菌室と、そこに小さく付随した人一人分の殺菌消毒・エアシャワー用の小部屋は、月の頭脳こと八意永琳の意見を反映して造られている。
八意永琳も、蓬莱山輝夜も、元来が月に住まう者である。
"月の砂≪レゴリス≫"の舞いやすい月面では、必然的にそうした不純物を大気中から取り除く機構が発達しているらしかった。現に、この無菌室に使われている空気清浄のシステムは、輝夜の私室に配備されていたものである。『穢れた地上の空気で姫様がお身体を汚される必要はありません』そう心配して永琳が地上に降り立つ際に一緒に持ってきたという小型の――まるで目薬の容器のようなそれは、中に澄んだ水を入れるだけで、あとは外気温を動力源として特殊な微粒子を自動で精製し、大気中の不純物周囲のヒッグス粒子(※"重さ"を決定付けるとされる粒子)に関与してその質量を増大させ、すべて床の上に落としてしまうのだという。他にも外の世界のクリーン・システムとは比較にもならない超テクノロジーの空調機器一つ一つについて、永琳は懇切丁寧に説明をしてくれたが、マミゾウが理解出来たのはそのほんの僅かで、結局ただ何となくそれらを壁や床に埋め込むだけで無菌室が完成してしまったのだった。
当の蓬莱山輝夜はその空気清浄システムの貸し出しを二つ返事で許可している。『だってわたし、空調とかそういうの嫌いだもの』とのことである。
無菌室の化かし直し作業に、それほど時間は掛からなかった。
が、ある程度神通力の注入作業を終えた辺りで、こんな空調機器があれば心配無用だろうなとも思いつつ、それでも気を遣って、少し無菌室から距離を置いた中庭の置き石に腰掛けてマミゾウは一服することにした。その際――つまり懐の花魁煙管を取り出し、その変化を解いて喧嘩煙管に戻し、紫煙を燻らせ始めた時――詰め所の中から、鈴仙が顔を出して声を掛けて来た。
「マミゾウさん」
「う、あ。す、すまん。やっぱり禁煙じゃったかの、ここ」
「いえ、それはいいんです。依頼の件なんですけど、受ける気になったのかどうかって、師匠が」
「ああ……なるほど」
喫煙のことを叱られるかと思っていたマミゾウは、少しほっとした。
鈴仙は八意永琳のことを師匠と呼ぶ。それは先日、この無菌室を化かしに来たとき、一緒に立ち会ってくれた彼女が自分でそう言っていた。
「引き受けてみるつもりじゃ」
マミゾウの見ている限り永琳はこちらには来ていないし、鈴仙も詰め所を出てはいないのだが、何か永遠亭特有の連絡網でもあるのだろうか。やはりその辺りを彷徨いている兎を使ったのかも知れないな、と考えながらマミゾウは答えた。
「どこまでやるかは、まあ、なんとも言えんが」
「分かりました。では師匠にそう伝えておきます。それから、この患者さんのご両親が残した遺書についてですが――」
「え? 自宅療養に切り替えるんですか?」
「らしいの。元々人手の少ない永遠亭じゃ、いつまでも鈴仙が付きっきりという訳にもいかんし、一応は場所と人のアテもあるそうじゃから、容態が安定し次第そちらに移してくれ――と、そんな風に遺言されていたらしい。たしかに、儂なら無菌室をそのまま移動させることも可能じゃしの」
「んん――……なんでしょう。言いたいことは分かるけど、どうにもピンと来ないというか。うーん?」
帰りの竹林の中で、早苗が不思議そうな声をあげた。
マミゾウが永遠亭を出たとき、早苗は例の十字架と新書判の聖書、その両方を手にしていた。そしてどちらも何故かしっとりと濡れていた。
『あ、これですか? イくときにですね、潮吹いて聖書にぶっかけてやると――こう、すッごい征服感が味わえるんですよ!』
どん引きだった。
妙に荒い息をしているのが生々しくて、マミゾウはしばらく話しかけたくは無かったが、それでも念のために『儂を待ってる間にどれだけの人が通った?』とだけは尋ねておいた。早苗によると一人だけ、ということだった。
『背の高い男の人でしたね。マミゾウさんより後に来て、でも、先に帰っちゃいましたよ』
『一人で迷いの竹林を抜けられるものかの?』
『それなら大丈夫です。この近く――あ、ほら、そこですね。そこと、里の入り口に一箇所ずつ分社があるんですよ。ちょっと反則くさいんですけど、猿田彦≪サルタヒコ≫っていう導案内の神様の力をお借りして創った木版をそこで借りられるようになっています。もちろん、神奈子様による魔除けの刻印付きです』
なるほどそれは便利だな、とマミゾウは素直に感心した。
『ちゃんと巫女として仕事してるんじゃのう』
そんなことを口にして、早苗をちょっとフキゲンにさせてしまったのがつい先程のことである。
"どうにもピンと来ないというか。うーん?"
と不思議そうな声をあげた早苗の気持ちはマミゾウにも分からぬではなかったが、それよりもまず聞かねばならないことが彼女にはあった。
「ところでおぬし、儂のことを今回の事件の犯人だと疑っておるよな?」
「え、あれ。バレてました?」
「そりゃまあの。儂だって阿呆ではない」
言って、マミゾウは懐から取り出したちり紙を新聞紙に化かして見せた。
【容疑者、二ッ岩マミゾウ氏はこう語る――】見出しにはそう書かれていた。
「ここに、儂がさっき聞いて来たことをすべて記した。どうじゃ、情報交換せんかえ?」
マミゾウは不敵な笑みを浮かべた。
■
「捏造、って可能性もありますし現段階では何とも言えませんが、しかし、参考になりました。ありがとうございます」
新聞紙を手渡す早苗の声や表情には、妙なこわばりがあった。
依頼の内容についてなど、少々思うところがあったのかも知れない。
「一応いうとくが捏造はしてないし、儂は犯人でもないからの。まあそれはいい、そちらの情報をくれんか」
「とは言っても、捜査に関することなどは余り教えられませんよ。だって、もしマミゾウさんが犯人だったとしたら、証拠隠滅とか図るかも知れないですし」
そう述べつつ、しかし早苗は事件の概要について大まかな説明をしてくれた。狢の体毛、トラバサミの作動跡、刃物の傷跡……この辺りは、<文々。新聞>にも載っていた情報である。いかにもゴシップ誌らしく、<文々。新聞>ではマミゾウが犯人であるかのような書き方をしているが(例えば、『マミゾウ氏が少女のために無菌室を拵えたのは、自分が犯人ではない、良識ある人物であることをアピールするためのブラフなのではないかと推測される』など)、毎号が独断と偏見に満ち満ちているこの記事の内容をまともに受け止めている人間は数少ない。
それよりもむしろ、早苗が過去認知≪ポストコグニション≫で見たという八坂神奈子の姿の方が、マミゾウには気になった。
「ははあ。犯人は姿を偽れる妖怪である、と。それゆえ儂を疑ったのか」
「そういうことですね」
「あの化け狐……話題に出すのも嫌で嫌で仕方がないが、あやつはどうなんじゃ」
「八雲藍さんですね」
実は藍さんにはかなり強固なアリバイがあるんですよ、と早苗は言った。
「胡散臭いのう」
そう返すマミゾウの渋い表情を伺って、ホントに仲がお悪いんですね、と早苗は苦笑を漏らした。
そんなマミゾウに促されるままに、早苗は蕩々とその"アリバイ"について語り始めた。
「私が藍さんの住処……マヨヒガっていうんですか? を訪問したのは、事件があった翌日の午後です。里の中でマミゾウさんと藍さんについての聞き込みをしていた所に、ちょうど霊夢さんが通りがかりまして。命蓮寺にお住まいだと分かっているマミゾウさんは別として、藍さんって住居不明なところがありますからね。折角ですし、以前マヨヒガを訪れたことがあるという霊夢さんに先導して連れて行って貰ったんです」
道すがら、見かけた里の者には『最近、八雲藍さん、または橙さんを見掛けませんでしたか。八雲紫さんでも結構です』と問い掛けたと言う。八雲紫はともかく、藍や橙は人間達の間でもそれなりに名の通った妖怪である。
「ああ……よく、油揚げやら食材やらを買い出しに来ているのう」
人里を闊歩するのが好きなマミゾウも、よくその二人組と出逢った。が、初対面時に――その時は藍一人だったが――酷く敵視されたのをマミゾウはよく覚えている。
『おや。藍……とか言ったかの、二ッ岩マミゾウじゃ。先日こちらに越してきた。これからは顔を合わせることも度々あるじゃろうが、狐狸の縁≪えにし≫ともいう、ぜひに仲良くしようぞ――』『くどい。気安く私の名前を呼ぶな、下種が』
そんなやり取りがあったのだ。その時の藍の、心底から相手を見下しているような声と目付きをマミゾウは一度足りとも忘れたことはなかった。
「それでですね。複数の人が、当日の事件発生とほぼ同時刻に、やっぱり二人で、人里を歩いているのを見たというんです」
「ほお。しかしそれだけでは、アリバイとしては弱いのう」
「私もそう思っていました。しかしマヨヒガに入り、実際に藍さんと会って話をしてみると、里の人の証言と彼女の証言が一致するのはもちろん、彼女には八雲紫さんによる戒めが施されていることが分かったんです」
「戒め?」
「ええ。考えてみれば、あれほど強力かつ悪名高い九尾の狐が、そう簡単に里に馴染める筈がないのですよね。日常生活を円滑にするためにも、紫さんは彼女に『貴方は人間を傷付けられない』という式を与えてあるそうなのです。もちろん、それが式として正常に動作していることも確認しました」
「確認か。どうやったんじゃ?」
「とりあえず思いっきり殴ってみました。こんな風に」
そう言うと早苗は砂利道の上で、太い青竹を相手に"ゴッ、ガッ、ごしゅっ"と三連続の拳を叩き込んだ。左、左、右――年頃の女の子にあるまじき超威力の、まさしく鉄拳を受けた青竹の表皮は、ごそり内側に落ち入るような窪みを作っていた。めりめりめり、と繊維の千切れる音がして、赤子の胴体ほども太く、風呂屋の煙突ほども長い竹筒が早苗に向かって倒れ込んで来た。それを早苗は、
「そうそう。ついでに、蹴りも一発入れときましたね」
などと冗談とも本気とも取れぬ発言と共にふわりと跳躍すると、そのまま身体をねじって青竹を地面に向かって蹴り付けた。青竹が地面に叩き付けられ、ぱっくりと縦二つに割れたりすればそれはさぞ美しい光景なのだろうが、しかしマミゾウの目の前に現れた現実はもっと単純で、早苗の脚が触れたその幹部分だけが文字通りに抜け落ち、糸や粉となって土の上に降り積もるのだった。もはやマミゾウには、何も言うべき事がなかった。残った竿の部分が地に落ち、何度かバウンドする。その度、派手な音と砂埃が巻き上がった。
「そしたら案の定、ものすごい殺気を放たれました。で、その爪を私の喉元に押し当ててみたんですけど――首の皮一枚でも破きそうになると、反射的に身を引いてしまうといった様子でした。もちろん、霊力的にも何かしらの縛りがあることを確認しました。間違いはありません」
「そ、そうか……」
「藍さんに関してはそんなところですね。あ、言い忘れていましたけど、もちろん聞き込みはマミゾウさんに対しても行っていますよ。その結果も含めて、私はマミゾウさんから当たることにした訳ですけど」
なるほど、とマミゾウは頷いた。
マミゾウは事件発生日、ほとんど命蓮寺に居た。だが、身内とされる人物の証言――この場合は命蓮寺の連中――では、アリバイと見なされないことが殆どであることをマミゾウは知っている。確かに、これだけを聞けばマミゾウをまず疑うのが順当なのかも知れない。
「ちょいと尋ねるが。マヨヒガ道中での聞き込みとやらは、博麗の巫女主導ではなかったかの?」
「それはまあ、霊夢さんが先に立って道案内をしてくれていましたから。必然的にそうなりますね」
「それじゃ、その目撃証言とやらも信用ならんのう。まあおそらくは、実際に二人とも里に"居た"んじゃろうが」
「……どういうことですか?」
早苗は目に掛かった自らの長い髪を、両手の薬指を使って耳に掛け直した。その仕草は早苗が気を取り直して、相手の言葉にしっかり耳を傾けようとしていることを表しているのかも知れない。そう解釈したマミゾウは指を一本立てると、こちらもやはり真剣さを増した声で述べ始めた。
「まず一つ。おぬしはその博麗の巫女が本物であるかどうかを確かめたのかえ? 偶然に博麗の巫女が通りかかった? まずそれを疑わんでどうする、相手は九尾の狐じゃぞ? それに巫女の方から率先して村人に話しかけたと言うたな? つまりはその霊夢も、訪ねた村人も、全部が全部、女狐だったという可能性すらあるんじゃぞ」
「全部? そんなことが可能なんですか?」
「それが二つ目じゃな。儂らみたいな化かす妖怪を相手取るには、まず『変化の術』と『化身の術』について知らねばならん。儂ら狸がよく使うのが『変化の術』じゃな。対象を、"化けさせる"――これは一見便利じゃが、化かして見せる物が化かす前の物とあまりに違いすぎていると、術の行使が極端に難しくなる。ほんの数分間だとか、あるいは常に触れている物ならば話は別じゃがの」
言って、マミゾウは例の台帳を取り出し、それを金庫に戻して見せた。
「まあ、儂ほどの大妖怪になればこのくらいは朝飯前ということじゃ――そして、『化身の術』。これが彼奴ら狐どもの得意技じゃな。文字通りに『化身』する。それは"人間"でも"大樹"でも"楽器"でもなんでも良いし、それこそ"兎"、なんていう畜生にも身をやつせる」
マミゾウの言葉に合わせて、彼女の手の上の金庫がポンポンと音を立ててミニチュアサイズのそれらに移り変わっていった。
「『変化の術』が外側から覆うイメージなら、『化身の術』は内側から変化するイメージじゃの。最大の違いは、"生き物"を不自然なく表現することが出来るのは後者だけ、ということじゃ。儂が博麗の巫女に化けたとしても、この尻尾が残るのは知っておろう? むろん、何事にも例外は存在するがの。そして何より……、」
「あ、ちょっと待って下さい。例外って、たとえばどういうものでしょう?」
「うん? そうなあ、儂ならば満月の夜などがそれに当たるかの。狐については……すまんが、あまり知らんのじゃ」
"兎"のミニチュアをただの台帳に戻しつつ、マミゾウが申し訳なさそうに言った。
「分かりました。続けて下さい」
「うむ。そして、何よりも大切なのは、九尾の狐は――」
マミゾウは台帳を腰に付け直してから、こう述べた。
「その尻尾の一本一本が『化身の術』をたやすく行使し、独立して行動可能な大妖怪である、ということじゃ」
「……なるほど。確かにそれなら、藍さんや橙さんが同時に、それも複数箇所に存在することが出来ますね」
「それだけではないぞ。『貴方は人間を傷付けられない』という式が、その尻尾にまでちゃんと戒めを与えているかどうかも分からん。おぬしもローグライク(※不思議のダンジョンシリーズを筆頭とする、一つのゲームジャンル)好きなら、この曖昧さ……不確かさというものが、理解出来るじゃろう?」
はい、分かります――。
言葉の意味を吟味するかのように呟く早苗の表情には、先程までよりも明らかに、マミゾウに対する信頼の色が濃くなっていた。
「あとは九尾の狐と言えば、妖術かの。これはまあ、儂も受けたことが無いから詳しいことは分からんが……それで自分の思い通りの供述を引き出すことも、おそらくは可能じゃろう」
しかしそんな早苗に対してマミゾウが抱いた感情は、『この巫女は少し素直すぎるな』という複雑なものであった。自分が信用されつつあるというのは決して悪い気分ではない。
ただ、化かし化かされる妖獣の世界で生きてきたマミゾウは、その素直さが時に他人を傷付ける刃と化すことも知っていたのである。
「まあ、儂が知っているのはこんなもんじゃな」
言いつつ、マミゾウはこの無垢な少女が何か大きな間違いを犯さないで済むことを心の中で強く願っていた。
「その、私からも一つお尋ねしたいんですけど」
「なんじゃ?」
「分からないことがあるんです。犯人は、"狩り"をしていたんですよね? その狩りによって家は燃え尽き、生存者はもちろん、証拠もゼロ――少なくとも犯人はそう思っていた。ああ、途中で猟師さんの邪魔が入ったようですから、多少のイレギュラーはあったのでしょうが……しかし実際は私の"奇跡"で、少女だけは生き存えてしまった。この少女は犯人にとって、自分に繋がるどんな証拠を持っているか分かったものではありません。証言が出来るようにまで回復するかも知れませんし、懐に何か重要な物を隠し持っていたかも知れません――いまマミゾウさんが手にしている、その写真のように」
話の途中でマミゾウは早苗が何を言いたいのかを察したが、それでも口を挟まず、じっと耳を傾けることにした。
「分からないのは『なぜ犯人は、少女を燃え盛る家の中にしっかりと放り込んでしまわなかったのか?』ということです。あるいは『なぜ、彼女は現在も生きているのか?』。言い方は悪いですが、その気になればいつでも殺すことは可能でしょう? 藍さんにも、マミゾウさんにも……」
早苗の言葉がそこで途切れるのを待ってから、マミゾウは深く頷いてみせた。
「うむ、もっともな考えじゃな。しかし実際は少女も半死半生といった容態よな? 裏を返せば、じきに死ぬかもしれない少女を、わざわざ新たなリスクを冒してまで殺す必要はないんじゃないかの? 逆に、その少女をうまく利用することも可能じゃろう。たとえばの話じゃが……常にその傍におり、先程おぬしが言ったような"証拠"、"証言"を求めてきた相手に『偽った情報を与える』とか――の」
途端、早苗の眼の色が変わった。
「誰かを陥れる、ということですか? ――そしてその対象が、マミゾウさんであると?」
「ふぉっふぉ。生まれてこのかた、誰かに妬まれるような真似を儂は一度もしたことが無いつもりじゃがの。まあ、儂も金貸しの端くれじゃ。儂が来る以前に金貸し業をやっていた者からすれば、目障りということもあるかも知れんな? それにもし"誰にも嫌われていない"としても、"誰にも嫌われていない人間を嫌う"、くだらん者が存在する世の中じゃからのう」
マミゾウは茶化すような口調で、すらすらとそう述べ立てた。
"本質はそこには存在しない。もはや何もかも、分かり切ったことじゃろ。"
早苗には、マミゾウがそう述べているように聞こえた。
「――ま、儂に恨みを覚えておる狐になら、心当たりは無いでもないが?」
■
迷いの竹林を抜けると、子供たちの『かくれんぼ』の号令や、欠伸のように間延びした猫の鳴き声、通りを行き交う大人たち――そうした生活の音が二人の周りにたちまち溢れかえってきた。太陽は西の空に傾き、あらゆる物に長い影を落としている。ちらほらと炊煙の上がっている民家からは、その匂いや音と共に、包丁がまな板を叩く振動まで伝わってくるようだった。
「私、魔法少女に憧れているんです」
そんな夕空の下で、東風谷早苗は楽しそうに言った。
マミゾウに向かって振り返り、そのまま後ろ手に"とてとて"と後退するようにしつつ、弾けるような笑顔を浮かべている。
「は? 魔法少女?」
「はい! マミゾウさん、狸の姿になら化けられますよね? 私の服を魔女っ娘コスチュームに変化≪チェンジ≫させる事も可能ですよね?」
「え、ああ……まあ、可能じゃが……」
「やった! じゃ、マミゾウさんはタヌキ型マスコットキャラクターの『マゾべえ』でイきましょう! そのババ臭い話し方も変えて下さいね!」
「ちょ、ちょっと待て! 話にまったくついて行けん! あとなぜその二文字取りなんじゃ!? 普通に『マミ太』とかでええじゃろうが!」
「ダメですよ。それじゃ決めゼリフが『もう何も怖くない』になっちゃいますもん」
「訳が分からんな……」
「あ、それ惜しい。――というのはまあ、半分冗談で」
早苗は足を止めると、その純粋無垢な瞳をマミゾウに向けて、いくらか照れを含んだ声でこう言った。
「マミゾウさんの言っている事がもし本当で、ちゃんと犯人の尻尾を捕まえられたら……その時は、一緒に捜査とか異変解決とか、してみませんか?」
この言葉を聞いた瞬間、胸が震えた。マミゾウは、自らの心が老いかけていたのを自覚したのだ。
『この巫女は少し素直すぎる』だと? 純粋すぎることの何が悪いというのか。そうした初心で、ひたむきで、正直な人間が好きで好きで堪らなくて、自分は金貸しなどといった助力をしてきたのは無かったのか? 彼女が何か大きな間違いを犯しそう? ならばその時は、自分が止めてやればいいではないか――!
もはや考えずとも、否やは無かった。
「……ふぉっふぉ。なんじゃ、えらい遠回しじゃのう」
――しかしまあ、照れぐらいは、あってもよいだろう。
そう思い、マミゾウはキセルを取り出し、たっぷり数分間を紫煙を吐き出す作業でやり過ごした。
つい"はにかみ"そうになるのを堪えるのが大変だった。
「うむ。よかろう」
その後、いかにも『煙草がうまかったのだ』というように満足げな表情を浮かべて、マミゾウは深く頷いた。
"そのタバコ、よっぽど美味しいんですね。"
早苗が言った。
"ああ、うまい。すごく美味いのう。"
マミゾウが応え、二人は笑った。
■
「……ところで、おぬしに折り入って頼みがあるんじゃがの?」
■ ■ ■ ■ ■
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4. 命の鐘楼 愛の在処
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「こんにちは、二ッ岩マミゾウさん。前回ご指定頂いたお時間の通りですね。こちらの準備も既に整っております。どうぞ作業にお取り掛かって下さい」
四日後、マミゾウは再び永遠亭を訪れていた。
その服装は普段と同じく、ゆたりとした朽葉色のアウターキャミソールに薄桃の肩掛けを合わせ、臙脂染めのスカートで全体の雰囲気を滋味豊かに纏めたものである。が、この日に限ってはその胸元に、『一連なりの華』とでも表現すべき美しい首飾りが煌めき――胸の膨らみの上を滑るようにして揺れていた。紫陽花を基調とした花簪≪はなかんざし≫である。瑞々しさを象徴するような澄んだ青色から、生命力にあふれる藤色に移り変わっていく滑らかなグラデーションで彩られた花弁や房は、見る者すべてに息を呑ませるような迫力を備えていた。それらは全て、貴重な宝石を加工して形作られているようであった。
「お美しい首飾りをしていらっしゃる」
世辞ではなく本心から感心しているといった声で賛辞を送ったのは、彫りの深い勇敢そうな顔付きの男性だった。少女を無菌室に入れたまま、雨眉車≪あままゆのくるま≫を模した"部屋付きの車"で輸送しなければならないマミゾウの手伝い、兼、道案内人であるという。
「これはもともとこの娘が持っていた物じゃよ。破損していた部分を腕利きの職人に修理させておいたんじゃ。向こうに着いて、部屋の中に入った時に渡そうと思っておる。……ま、それまではお守りじゃな」
微笑むと、マミゾウは早速、化かして作った車を引き始めた。両側に備えられた大きな車輪の輻≪や≫(※中心の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた幾本もの細長い棒)がするすると流れていく。輪木≪りんぎ≫には弾性のある素材が使われているのか、大きな石でも踏まない限り、車箱――無菌室の中までは振動が及ばないようにも思われた。
「見事なものですね」
これはやや芝居掛かった口調であったが、車を後ろから押す男がそう述べた。
「どこまで引いていけばいいんじゃ? 儂は、くだんの屋敷がどこにあるのかも知らんのじゃが」
「すぐですよ。すぐ、近くです」
「ほう。そりゃいいのう」
そのまましばらく二人は黙っていたが、鈴仙・優曇華院・イナバに見送られて永遠亭の裏門を抜けた際、
「どこからでも、すぐ近くにあるんですよ」
ぼやくように言った男の声を、しかしマミゾウは聞こえないふりをした。
そんな二人の行く先を、数羽の兎が見詰めていた。
■
「――あれ? まただ。おっかしいなあ……」
永遠亭の一廓、資料室で膨大な量の診療録≪カルテ≫、診察日誌、処方箋、手術記録、患部の経過写真等に囲まれて、鈴仙・優曇華院・イナバは首を傾げていた。
師匠こと八意永琳に頼まれた書類整理の仕事をこなすため、やけどの少女の看病役を近くに居合わせた因幡てゐに任せてこちらへ来たはいいものの、どうにも一部の資料が何者かによって参照された――というほどハッキリしたものではないが――ともかく、そのような痕跡があるのだ。自分でも心得てはいるが、鈴仙は非常に几帳面な性格である。サイズの違う複数の資料をまとめる必要がある際には、特に問題が無い限り、必ずサイズが最も小さいものから順に重ねてクリップで留め、そしてそのクリップも右端から指二本分だけ左にずらした位置で留めるようにしている。
そのクリップの位置がほんの僅かに、しかし彼女にとっては違和感を覚えずにはいられないほどに動いていた。少し傾いてもいる。
「…………?」
これは最近になって二度目の出来事だった。
永琳がこの部屋に立ち入ることは基本的に無いと言ってよい。なぜなら細かいことにも気が付く鈴仙は、永琳がまた参照する可能性が高い資料はあらかじめ写しをとり、それを診療室の隣の資料棚にすべて収めるようにしているからだ。誰かに参照されたと思われるその資料は、ちょうど、やけどの少女に関するものであった。
何はともあれ一度師匠に相談してみるべきだろう、と鈴仙は考え、書類整理もそこそこに彼女は診察室へ向かった。
「いいえ、ここ数週間は資料室に足を踏み入れたこともないわ。それに、私がお願いした資料整理って……一体何の事かしら?」
鈴仙は困惑した。
ついさっき、中庭の詰め所までやって来て、私に用事を言い付けたではありませんか――。
しかしその訴えも、何も知らないという八意永琳に対しては効果がある筈もなく、ますます混乱を深めながらも鈴仙が廊下を戻っていくと、その途中でばったり因幡てゐと出くわした。
「てゐ、あなた詰め所に居なくてもいいの?」
「ん? なんのこと?」
「何のことって……だから、さっきお願いしたじゃない。わたしが戻ってくるまで宜しくね、って」
「なにを?」
「何をって……」
そこまで口にした所で鈴仙はハッとした。
永琳が自分に仕事を言い付けに来る少し前に、前庭で遊んでいた兎たちが来客を示す仕草をしていたのを思い出したのだ。兎たちは永遠亭に訪問客があると、それを見付けたものが仲間たちに情報を伝え、そばに永遠亭の住民がいれば、ぐっと二足歩行で起き上がって『きぃ、キぃ』と鳴くように訓練されている。反対に、客が帰のを見届けた際には『ぶぅ、プぅ』と鳴くのであるが――
「てゐ、ちょっとついて来て!」
鈴仙はそう叫ぶや否やてゐの腕をつかみ、半ば駆けるようにして中庭へと転がり込んだ。しかしそこには空の詰め所がぽつんと残るばかりで、白い無菌室は跡形もなく消え去っていた。
「いったたた……もう、急になにすんのさーっ! ……ん? あれま、みごとになーんにも無いね? どしたの、これ?」
てゐがあっけらかんとした調子で言った。
幾段にも飾られた立派な盆栽の下でじゃれ合っていた兎たちが二人の姿を認めると、その場でくるくるとお回りをし『ぶ、ぶ、ぶ』と短く三度鳴いた。しばらく前に、お客が去ったことを示す芸である。それを聞いた鈴仙は一瞬、なにやら訳の分からぬ言葉を吐いたが、すぐに思い直して――しかし狼狽したままで、
「て、てててててゐ、てゐッ! あなた、兎に聞いてみて! 何がどうなっているのかって!」
そう声を荒げた。妖怪兎である因幡てゐは、地上の兎の言葉を解することが出来る。永遠亭の利便を図って、兎たちに芸を仕込んだのも彼女であった。
「わーった、わーかったってば! ちょっと取りあえず手を離してっ!」
「あ……ご、ゴメン……」
「うん、分かればよろしい。ほいじゃ、そこのキミ。ちょーっと話を聞かせてくれる? ……んーっと、えー……えーと? ちょいまち、それどういう意味? ……ふんふん。ほー、なるほど?」
「て、てゐ? てゐ? ど、どうなの、てゐ? ……てゐ? てぇーゐー…?」
「あーもう、うっとおしいッ!」
縋り付くような鈴仙の手を押しのけると、てゐは出来るだけハッキリと、慌てている鈴仙でさえも聞きやすいように、一言一言を区切るようにして述べた。
「タヌキの妖怪が、男の人と一緒に、無菌室ごとどっかに動かして行った、ってさ」
「――――――、……っ、――、――――れ、」
「れ?」
「れ、――……れっ、――――、」
「…………連絡? 東風谷早苗に?」
鈴仙はコクコクと頷いた。
てゐは鈴仙から、そして鈴仙は永琳から、少女が妖怪ないし人間から何か危害を受けるようなことがあれば、すぐさま守矢神社――すなわち東風谷早苗に連絡するように、強く言い聞かされていたのである。
「電話なら、そこの角の部屋にあるけど」
鈴仙はそれを聞いた途端にバネ仕掛けの機械人形のごとく跳ね上がり、てゐが指差す部屋の中に駆け込んでいった。
電話がどこにあるかくらいは知ってるだろうに……。てゐはくつくつと笑った。
ダイヤルを回す音がして(蓬莱山輝夜が黒電話をやたらと好むのだ)、やがて、こんな声が聞こえて来た。
「ふ、二ッ岩マミゾウさんが、例の少女を――」
"――誘拐しました!"
■
「ふ、二ッ岩マミゾウさんが、例の少女を、誘拐しました!」
鈴仙の慌てっぷりがあまりに面白く、部屋の前で腹を抱えて笑っていた因幡てゐは、しかしふと、中庭の兎に見慣れないものが居るのに気が付いた。
『……え、ええ、はい。そうです、……あ、なんだか別に男の人も居たみたいで、はい、……あ、すぐに来て頂けるんですか、……はい、…………はい、………………宜しく、お願い……し……………』
鈴仙の声がすうっと遠ざかっていく。てゐは中庭に降り、その白兎に近付いていったのだ。
「きみ、見たことないね。新入り?」
盆栽の下でじゃれ合っている他の兎と違い、その白兎だけは一羽離れたところでジッと鈴仙やてゐの方を見詰めていた。
てゐは返答を期待したが、しかし白兎は何も言わず――やがて踵を返すと、そのまま中庭に面した森の奥に消えていった。
「…………変な子」
てゐは人知れず呟いた。
■
男の言う通り、マミゾウはまもなく屋敷に到り着いていた。話を聞くに、男はこの屋敷の管理者でもあるらしい。
それはいかにも日本家屋といった風体で、木材の色や匂いを存分に活かした重厚な造りからは、多少の嵐や地震など物ともしないだろうことが窺い知れた。
「…………」
が、その庭先にある慎ましやかな葡萄園を見て、マミゾウは何とも言えない気分を味わうことになった。ちょうどマミゾウの背の高さ辺りで、矩形状に貼られたロープに沿って青々とした蔓葉を伸ばした幾房もの白ブドウは、しかしその全てが腐っていたのだ。果実の間に張り巡らされている一見蜘蛛の巣のような白い糸状のそれは、どうやら"カビ"のようであった。
「ああ、あの葡萄ですか。後ほどお出し致しましょうか?」
怪訝な表情のマミゾウを見て、意地悪げに男は笑った。
"――美味しいですよ。"
その声に合わせて周囲の森に囲まれた景色が、明らかに異質な雰囲気を帯びたようにマミゾウには思われた。
マミゾウは車に手を掛けると、ただ、彼女をどこへ連れて行けばよいのかだけを男に尋ねた。
「彼女は……そうですね、では離れの方へ……」
車を離れの一室へと運び込み、無菌室を上手く部屋の大きさに合わせて化かし直して少女の生命兆候≪バイタルサイン≫を確認したのち、マミゾウは母屋へと招かれていた。
「わたくしは、彼女の身の回りの世話をさせて頂くことになっている者です。今後もお会いする機会はありましょうが、何卒宜しくお願い申し上げます」
母屋には一人の女性が居た。小柄で、鈴のような声をしていた。
旅館にでも置かれていそうな大きめの木製机のある居間に通されたマミゾウは、何はともあれ席につくよう二人に勧められた。
「先程の葡萄、不思議に思われたでしょう。よければ御馳走しますよ」
少し奥の戸棚から男が取り出したのは、手製と思われる細長のワインボトルであった。その内の半分ほどを、透明感のある黄金色の液体が満たして揺れている。
「これは"貴腐ワイン"といいます。『高貴なる腐敗』と書いて貴腐≪きふ≫、ですね。おそらく想像も付かないでしょうが、この美しい金色の液体は、外で先程ご覧になられた腐った葡萄――正確には、腐った"ように見える"葡萄ですが――から作られているのです」
ほお、とマミゾウは感心するような声をあげた。
「あの"カビ"の影響かの?」
「ご明察です。大半の植物に対しては有害でありながらも、ごく一部の種類の葡萄に感染した場合にのみ好影響を及ぼす特殊な菌を利用しているのです。菌の作用により水分の大半が蒸発してしまうため、通常の数倍の葡萄を消費しても、ごく少量しか生産出来ない貴重な代物でもあります。しかしやはり、それだけのことはあり……」
「味は格別?」
「ええ、もちろん。そして、色もご覧の通りに。一説ではどこかの国の女王がこのワインの余りの美しさに、中に黄金≪きん≫が含まれているのではないかと思い込み、実際に学者に調べさせた程だと言われています」
なるほど、それも無理はない話だなとマミゾウは思った。目の前の葡萄酒は、確かにそう納得させるだけの説得力を備えているのだ。そしてその説得力は貴腐ワインが男の手によって、女性が運んできた丸底の葡萄酒器≪ワイングラス≫の内に静かに注がれ、『宙に浮かぶ液状の黄金』の様相を呈するに至ってさらに増大した。芳醇な甘い香りが、マミゾウのいる部屋を――否、屋敷を包み込むようだった。
蓋≪コルク≫を開ける前が白黒のテレビだとすると、現在はカラーテレビみたいなもんじゃな、と何故かマミゾウはそんな印象を覚えた。しかし、感動していることには変わりがない。
「どうぞ、ご遠慮なく」
「……では」
マミゾウは黄金の雫を口に含むと、それを十二分に味わってから、こくりと嚥下した。
――途端、マミゾウの視界が軸を失ってブレ始めた。
「…………ぇ、……ぁ?」
半開きになった口から洩れたのは、そんな声だった。しかしそれすらも、マミゾウには遙かから響く雑音にしか聞こえなかった。
マミゾウは今にも途切れな意識の中で、精一杯の憎悪を込めて、眼前で椅子に腰掛ける男を睨み付けた。その双眸はまるで魔を象徴するかのよう紅く、妖しく輝いていた。
「――ようこそ、マヨヒガへ。歓迎するよ、糞狸」
それはマミゾウには聞き覚えのある声だった。
しかし、それが誰のものであったかを思い出す前に、マミゾウの意識は深い闇の中へと沈み込んでいった。
■ ■ ■
…………。
儂は……なにを……。
……わし……? 何を言っているんだ……、私……私は、彼女の夫ではないか……。
私は定まらない意識の中で、自分の身体をじいと眺めた。
右手、右肩、胸、左肩、左手、胴体、下腹部、両足……間違いなく、成人男性のそれである。
「…………」
それはまあ、当然だろう。私は、彼女の夫なのだから……。
「そうだ、彼女は……?」
彼女は私のすぐ傍にいた。
サイドレールがついた不思議なベッドに、仰向けになって眠っている。なにやら白い布で顔の周りを覆っていたが、それを丁寧にほどくと、私は彼女の白濁した瞳にキスをした。彼女の顔は、全体的に何やら"じゅくじゅく"と湿っており、触ればそれだけで皮膚が剥がれて私の手に付着しそうであった。が、よくよく考えてみれば、妻の肌は元からこんな感じだったようにも思われた。
「"可愛いね。"」
私は彼女の耳元で呟いた。
この声に反応してか、彼女の口元がほんの僅かに、痙攣するようにひくりと動いた。
「"愛しているよ。"」
私は続けていった。本心からの言葉だった。
そして、その言葉を呟いた瞬間、私はどうしても彼女を犯さなくてはならないような情動を覚えた。それはとても逆らいがたい、濁流のような衝動だった。
だが、なぜ必死に逆らう必要があるのか、私には分からなかった――私は彼女の夫なのだ。存分に愛し合えば、それでよいのではないか。
「愛して、いるよ」
邪念を振り払うようにもう一度呟いて、私は頬を彼女の頬にすり合わせた。
ちょうど私は、何も衣類をまとってはいなかった。股間の屹立は既に限界近くまで怒張し、私の心臓の鼓動に合わせてビクビクと脈動している。私はいても立っても居られず、彼女の身体を覆い隠すあらゆる布を剥ぎ取った。糜爛、水疱、潰瘍≪かいよう≫、紅斑、焼痂≪しょうか≫、発赤≪ほっせき≫、そして膿み……彼女の裸体は美しかった。紅く爛れた皮膚はもちろんのことながら、それによって何にも穢されていない白い肌が一層まばゆい光を放つように、一種神々しくさえも見えた。
私は彼女に頬ずりしていた顔を下へと動かしていった。首筋を舌でなぞると、汗の塩辛さを感じた。ケロイドを起こしている彼女の胸に耳を押し当て、しばらくその心音に聴き入った。トクッ、トクッ、と私の頭を押し返してくる感覚がとても心地好かった。そのままの体勢で彼女の秘所へと手を伸ばし、可愛らしいクリトリスを"くにくに"と弄っていると、時折不整脈を起こしつつ、その鼓動が速く、そして大きくなっていくのが分かった。彼女の総身から、しっとりと汗が滲み始めた。
私は満足して、舌を這わせながらまた顔を動かしていく。
腹部を通り過ぎる際、ひどく濁った膿汁が口の中に入ったが、別段不快には思わなかった。ただただ、目の前にいる彼女のことが、いとおしくてたまらなかった。
私はいよいよ彼女の性器を舐めようかというその時、彼女の腹部が細かく痙攣していることに気が付いた。彼女の口元が何やら揺れている。言葉を発しようとしているのだろうか。
『い』
私には彼女の唇が、そう形作ったように思われた。無論、声は無い。だから私が代わりに声に出してあげた。
すると彼女は、尚も力を振り絞るようにして、もう一つの言葉を絞り出した。
『や』
「――――」
いや?
それは……嫌、ということだろうか? 私と愛し合うことが? "嫌"であると……?
否、そんな筈はなかった。私と彼女は夫婦なのである。そんな馬鹿なこと、あるわけが無いのだ……。
私はかぶりを振った。その時、私は自分の胸元に違和感を覚えた。見れば、先程まで全裸であったはずの私の胸元に、一つの首飾りが掛かっている。紫陽花の花簪だった。
「……これ、は……」
何だっただろうか。思い出さなければいけないようにも感ぜられる。しかしそれよりも、早く私は彼女を犯さなくてはならないような気もする……。
私は痛いほどに硬く膨れあがった一物を、彼女の恥部に押し当てた。あとは腰を動かし、突き入れるだけだった。快楽に身を任せるだけで良いのだ。そうでもしないと、私の心は散り散り砕けてしまいそうだった。
「――――」
充血した亀頭で彼女の陰唇をかき分け、中に押し入る。私はその覚悟を決めた。
彼女が感じられるのは、もはや快楽だけなのだ。
光は見えず――音は遠く。味覚は狂い――鼻は利かず。四肢は微塵も動かない。唄を歌うことも出来ない。
そんな彼女を救えるのは、愛だけなのだ。
私の……私の、愛だけなのだ!
その時また、彼女の口元が震えた。
今度は続けざまに、声なき声が、その青白い唇を伝って発せられた。
『あ』
『に』
『さ』
『ま』
「……………………」
私は。
私は――!
■ ■ ■
「藍さま。わたし、上手く化けられていたでしょうか」
マヨヒガの母屋の中で、橙が不安げに言った。
その手には、例の"貴腐ワイン"のボトルが握られている。
二ッ岩マミゾウに、この霊酒を――藍が手ずから作った妖術用の霊薬を――呑ませた後の、ちょうど片付けをしている所であった。
「藍さまのお力をお借りしても、見た目を取り繕うのが精一杯で……」
橙は『化身の術』を用いても、身長や声をほとんど変えられなかった自分を恥じていた。
「それに、ああいう言葉遣いも、あんまり得意じゃなくて……」
「いや、お前はよくやったよ、橙。何も心配することはない」
申し訳なさそうに言葉を紡ぐ橙の頭を、八雲藍がくしゃくしゃと撫でた。
「……変じゃなかったですか?」
「ああ。あれなら、もしかしたら私でも騙されるかも知れないな」
そう笑う藍も化身の術を解き、すっかりいつもの姿に戻っていた。
「そうですか? ……えへへぇ」
「よしよし。また橙の力を貸してもらうことがあるかも知れない。その時はまた宜しく頼むよ」
「――はい! ……あ、いえ、あの……なんだかすみません。もともとからして、わたしの狩りの失敗の、尻ぬぐいをして貰っているようなものなのに」
「橙がそんなことを気にする必要は無いよ。私もこの機会に、あの目障りな狸を幻想郷から追い出すことが出来るんだからね」
藍は優しく微笑んだ。
その藍の耳が、ぴくりと動いた。『化身の術』を行使している尻尾が近くに来た際の合図を感じ取ったのだ。
「橙、しばらくあの狸の様子を見ておいてくれるかな。私はちょっと表に出て、今後の方針を立てる必要があるから」
「分かりました。何か変化があれば、すぐにお知らせします」
「ああ、そうしてくれると助かる」
藍は頷くと外に出た。
既に日は暮れかかっており、東の空には綺麗な満月が浮かんでいる。
その真下に、見慣れた白い兎の姿があった。
■ ■ ■
「藍さま! 藍さま! ちょっと来て下さい!」
その声が響いたのは、藍が兎に化けた尻尾との情報交換を済ませ、東風谷早苗や永遠亭の動きを探るようにと、尻尾をまた遣いに出したその時だった。
「どうしたんだ、橙。何があっても、余り騒ぎすぎるなといつも言っているだろう」
軽くたしなめるように返事をすると、藍はともかく離れの方へと向かった。
橙は離れの扉の前で、不安そうな表情を浮かべていた。
「すみません藍さま、大きな声を出して……」
「それはもういい。それでどうした、もう"終わった"のか?」
"終わった"というのは、藍がマミゾウに掛けた妖術がもたらす効果のことを指している。
すなわち、『マミゾウが少女を犯し終わったのか――』と、そういう意味で藍は尋ねたのである。
「え、あ、はい。"終わった"、には終わったのですが……、その……、つまり……」
"――少女が死亡しました"
橙は言いにくそうに、藍に対してそう述べた。
「そうか」
藍は特に感慨も無いと言った風で頷くと、確認のため橙を連れて離れに踏み入った。
ちょうど離れに収まるよう適当な大きさに化かされた無菌室の中には、白い患者用ベッドと、その上に横たわる火傷の少女、そしてその傍らでだらしなく口を半開きにして、唖然とした表情のまま何をいうでもなく座り込んでいる二ッ岩マミゾウの姿があった。マミゾウの股間には不相応に巨大な肉棒がそそり立ち、その先端は白濁液で淫らに濡れていた。そして同様の液体が、少女の恥部からもドロドロと、溢れんばかりに垂れている。
「急性のショックか、タンポナーゼか……」
藍は少女の脈が無いことを確認してから言った。
「まあどちらでも良いだろう。狸にはまだ薬も効いているな――よし、ではそろそろ引き上げるとしよう。あとはこの現場を、東風谷早苗に見つけさせるだけだ」
■ ■ ■ ■ ■
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5. 利用する者 される者
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東風谷早苗は、二ッ岩マミゾウの睾丸のひとつを握り潰した。
「ひッ――いぎぃあがガあああぁぁあああああああああああああああッ」
先程まで心ここに在らずといった胡乱な表情を浮かべていたマミゾウが、しかし信じがたいまでの絶叫を上げた。
それもその筈であろう。限界を超える加圧に睾丸の白膜が裂け、びっしりと内に詰まっていた精細管が――いわゆる"実"が――その裂け目から、陰嚢の中へと飛び散るのであるから。また同時に、螺旋状に絡まり合った睾丸内の血管がみな破裂し、陰嚢内が血溜まりになっているに違いなかった。
「うるさい」
だが早苗は微塵も容赦しなかった。
マミゾウの股間で隆々と屹立していた男根を、それが萎えてしまう前に掴むと同時、根本から思い切りへし折ったのだ。
「――ァビっ! お゙、ォァッ、う、ぎ、おア゙ォっッ」
叫ぼうにも酸素が足らないのだろう。
ぶくぶくと泡を吹き出しながら、喘ぐようにそんな声を上げることしかマミゾウには出来なかった。
潰れた睾丸は溜まってきた血でみるみる膨れ、陰茎の先からもやはりポタポタと、赤い血液が止め処なく溢れ出てきていた。
マミゾウが"ぐるん"と眼球を反転させて意識を失いそうになると見るや、早苗は黙ってその顔を、あるいは鳩尾を、背後にある壁が軋みを立てるほどの勢いで何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殴り付けた。
「――はッ――パひッ、あ、ふぁひッー、が、げぇっ…。ぷ、く゚ぴュぁッ――」
マミゾウは涙か洟≪はなみず≫か涎≪よだれ≫か泡も分からぬ液体に己の吐瀉物を混ぜたもので顔を濡らし、また窒息死しかかっていた。なれば楽にしてやろうとばかりに、早苗はその首を掴んで持ち上げた。
「――あの。少々、お止めいただけますか」
そんな凄絶な暴力の中に、しかし割って入る者がいた。
彫りの深い、勇敢そうな顔つきの男だった。その隣には、小柄な女性が寄り添うようにして佇んでいる。
「……なんでしょう? 私はいま、ものすごく、怒っているのですけど」
片腕でマミゾウを持ち上げたそのままの姿勢で、早苗は応えた。視線はマミゾウに注がれたままだった。
「私たちにも、その妖怪に対する恨みがあるんです。しっかりと償いをして貰わなければいけません。だから、殺されては……困ります」
「……あなたたちは、この屋敷の管理をしているのでしたっけ。それが、いま、どう関係してくるんですか?」
「叔父が、その妖怪のせいで自殺しました」
「自殺? というと……ああ……嫁方のご両親、でしたっけ」
「そうです。この屋敷も、もともとは叔父のものです。ですから今しばらくのところだけは、私たちに処分をお任せ頂けませんか。その後でしたら、その妖怪を喜んでお引き渡ししますので」
「…………」
早苗が言葉を返すまでのその一瞬、この部屋――"離れ"の中の空気がすべて鋭い針となったかのように女性は――橙は、感じていた。
今にも身体が串刺しにされそうで、橙は少しの身動きも出来なかった。隣の男――藍だけは、平然とした顔を浮かべていたが、その胸中がどうなっているのかは、橙にも分からなかった。
「……ふうん。まあ、いいでしょう。分かりました」
早苗はマミゾウを床に下ろすと、二人に振り返った。ひどく無機質な、感情の無い能面のような表情がそこには貼り付けられていた。
「十五分です。それ以上は一秒足りとも待ちませんので、ご了承を」
「はい。ありがとうございます」
男の礼に見向きもせず、早苗は離れを出て行った。
あとには藍と橙、そして蹲って咳き込みながら、言葉にならない呻き声を上げ続けるマミゾウだけが残された。
「……すみません藍さま、無理をお願いして」
早苗の気配が完全に消え去ったあと、橙は『化身の術』を解き、藍に深く頭を垂れた。
「橙の頼みだからな。この際だ、多少の無理は厭わんさ」
東風谷早苗をこのマヨヒガに呼びつけた後、当初藍はすっかり身をくらますつもりであった。が、橙はそれだけでは足りない、この狸には自ら罰を与えたいと主張したのである。
"主人≪らんさま≫の敵は、自分≪わたし≫の敵でもありますから――"
その言葉に深い感銘を覚えた藍は、先のようにして、橙の好きにさせることにしたのだった。無論、東風谷早苗のそばに残るということは、高いリスクを背負うということでもある。しかし万が一早苗に正体を見破られて戦闘になったとしても、橙を先に逃がしてから自分も離脱出来る自信が藍にはあった。
「――さて、糞狸よ。惨めな姿をしているなぁ?」
藍も『化身の術』を解いた。黄金≪きん≫の体毛、そして尻尾が露わになる。
そこでようやく、二人の姿に気が付いたのだろう。血にまみれた下腹部を押さえながらも顔をあげたマミゾウは、眼を見開いた。
「……ら……っ、……ぁっ、………ッ!」
ひゅっ、ひゅッ、と短い呼吸を繰り返し、脂汗をじっとりと滲ませながら、何とか言葉を搾りだそうとしているようだった。
「ああ、喋らなくて良いぞ。黙っていろ糞狸、下種の声など聞きたくもないからな。耳が腐る」
藍は早足でマミゾウに近寄ると、その傍らにある、少女――否、死体が眠る医療ベッドを囲うようにして取り付けられていた純白の遮光布≪カーテン≫を派手に破き、
「……ち、が……っ…ら、……ん…………、…………まっ…、…た、……たすッ」
「あ? 以前『気安く私の名前を呼ぶな』と言わなかったか? 物覚えの悪い畜生だな。ブチ殺すぞ」
それをマミゾウの口内へと器用に"蹴り入れ"た。くぐもった声がして、歯が数本、マミゾウの周りに散らばった。
あとに付いて来ていた橙も同じようにカーテンを破き、藍が押し込んだ布の猿轡が外れないようにマミゾウの口を、頭の後ろから縛って固定した。
「さあ、あとは橙に任せるよ。好きにおやり」
マミゾウの両手首も後ろ手にしっかり固定してから、藍は自分の式にそう微笑みかけた。
■
橙はその鋭い鈎爪で、いまや通常時の十倍、握り拳ほどにも大きく膨れあがったマミゾウの陰嚢を弄んでいた。
ちくちくと突き刺すようにしたり、少し思い切ってひっかくようにしてみたり……その度マミゾウは酷くもがき苦しんだ。
「――あ」
限界まで張り詰めていた陰嚢は、やがて限界を迎え、最後の一掻きで付けられた傷から大量の血液が漏れだした。
甘く、そして鉄臭い血の匂いが周囲を満たし始めていた。
「あーあ。片方、これでオシャカかー」
橙はもう一方のふぐりに手を伸ばそうとした。
「ああ、橙。任せると言っておいて何だが、こうしてみるのはどうだろう」
その言葉を言い終えるのとほぼ同時に、藍はマミゾウの折れた陰茎を引き千切っていた。猿轡を通しても尚、筆舌に尽くしがたいおぞましい悲鳴が洩れ出たが、藍は少しも気にとめず、既に萎えて小さくなっていたそれを、血液を垂らす陰嚢の傷口へと無理矢理に押し込んだ。
「やはり糞狸の金玉は、これくらい大きくなくてはいけない」
陰嚢がいびつに膨らむのを見て、藍は楽しそうに笑った。
「なるほどー。じゃ、私はこういうの――やってみよっかな?」
橙はさきほど手を伸ばそうとしたふぐりの皮を、鈎爪で真一文字に切り裂くと、ぱっくりと裂けたその皮を裏返すようにめくり、内側の赤い血管のはしる白いでろでろを露出させた。橙はそれにむしゃぶりついた。とは言っても一息に喰い千切るような真似はせず、自慢の八重歯を使って少しずつ少しずつそれを削り取るように、また敢えて音を立てるようにして、"でろでろ"を咀嚼していくのだった。
「これ、橙。はしたないぞ」
「ああ、済みません。今夜は満月なものですから、つい、気が昂ぶってしまって――」
そう応える橙の口周りは、真っ赤な血で染まっていた。
■ ■ ■
「ちょうど十五分ですね」
離れを出た二人――無論、『化身の術』を用いた人間の容姿であるが――を出迎えたのは、やはり、満月を背にした東風谷早苗の姿だった。
現人神。その威光が、確かに彼女を取り巻いているようであった。
「お待たせ致しました。後はもう、お好きにして頂いて構いません」
「はい。ところで……」
早苗はもったいぶるように言葉を溜めてから、言った。
「どうして、そんな人間の姿に化けているのですかね――"八雲藍"さん?」
「……おや。気付いていたのか? 流石は風祝の巫女だ」
一瞬の間があって、しかし藍は特に動じた様子もなくそう答えると、自ら進んで『化身の術』を解いた。
「いやなに。糞――いや、どこぞの狸が、何やらとんでもない悪さを仕出かしたようだから、私の方でもちょっと狸退治に協力してやろうかと思ってね。人間に化けていたのは、まあ、事をあんまり大きくしたくはないから……という私のささやかな配慮に過ぎないよ。狸に加えて狐までもが出張るとなると、皆が皆、いわゆる"妖怪変化"をうたがって疑心暗鬼になるのが目に見えているからな」
「はあ。ささやかな配慮、ですか」
「そうだ。何にせよ、今回の事件の主犯である狸はとっちめられたんだ、それで万事オーケーだろう? 最後に私の個人的な恨みも晴らさせてもらったが、その程度はご勘弁願いたいものだな」
"ほら行こうか、橙。"
藍が発したその声は、しかし、快活な笑い声によってかき消されていた。
――二ッ岩マミゾウの、笑い声によって。
「かっかっか! どの口がそう言うんじゃろうなぁ? ええ? 冗談にしてはえらいつまらんのう――おどりゃ、クソギツネが」
「……あ?」
背後のマミゾウに、藍は凄味を利かせた眼で一瞥をくれた。そしてそこに在るべき式の姿が無いことを見咎めると、藍は途端に全身の毛を逆立てた。
月光を纏った金色の体毛は、青白く輝く妖気と殺気に濡れそぼり、最早周囲に物理的影響を及ぼすまでの"力"と化していた――すなわち、"狐火"である。
「おい。糞狸。橙を何処へやった」
「橙? ふむ。それはこういう姿の子かの?」
マミゾウは瞬時に姿を変えた。
「――どうしてそんなに怒っているのですか、藍さま?」
くりくりと良く動く大きな瞳、細く柔らかな赤茶色の髪、胸元の白いリボン、鮮やかな朱の洋服、闇に紛れる二本の尾、そして鋭い鈎爪。完璧であった。何一つ欠けるところ無く、何一つ余分な所が見当たらない。声色や、式としての反応すらも、全く完全に模倣している。それは無謬≪むびゅう≫――理想の極地であった。まばゆい真円を描く月夜の下に於いてのみ、大妖怪"二ッ岩マミゾウ"の『変化の術』は、九尾の狐すらをも騙し通せる程に精緻極まるのである――!
「橙を何処へやった、と聞いている!」
「かかか! それは面白い冗談として受け取ってやろう! つい先程まで、おぬしも儂と一緒になって虐めておったというのにのう!」
"よぉく思い出してみい。この子は、おぬしに助けを求めてすらいたのだぞ――?"
マミゾウの言葉に雷撃に打たれるような衝撃を受けた藍は、返す言葉も忘れて、ただただ反射的に、開け放したままの離れの扉の奥を見やっていた。
そこには後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされて気絶している姿があった。服は所々破れ、肩口が覗いている。そこに残る傷痕はトラバサミによる特有のものであり、本物に間違いは無いことを藍は目敏く確認していた。同時に、その"本物の橙"を連れてこの場を逃れるための算段を藍は頭の中で組み始めていた。
「安心するがいい、儂はおぬしみたいに鬼畜ではないからのう。"金玉を喰われる痛み"などを味わった為に気絶しておるだけじゃよ。流れ出た血さえ、殆どは偽物じゃ。まあその痛みとやらは、化け猫ふぜいにはちぃとキツい仕置きじゃったかも知れんがの」
マミゾウは不敵に笑った。瞬間、その姿は博麗霊夢そのものになっていた。
片手に己の身長ほどもある喧嘩ギセルを携えた、完全無比なる博麗の巫女がそこに存在している。
「なんじゃ、急に寡黙になりおったのう。もっと色々、ネタ晴らしをしてやってもいいんじゃぞ?」
「あ、それ私も聞きたいです。『君は私が犯人だと言うが、証拠はあるのかね! 証拠は!』、『証拠をご所望ですか? ではお見せしましょう。ワトソン君、例の物を』……って感じのアレですよね?」
「う、いやまあ、それはそうなんじゃが。おぬしには後で教えてやるから、今はこやつをしょっぴくことに集中してくれんか。外道の狐じゃ、一筋縄ではいかんに決まっておるでな」
「…………」
眼前には、博麗の巫女。
背後には、風祝の巫女。
今の状況を正確に把握した九尾の狐は、しかし自分の劣勢を認めざるを得なかった。
じりじりと、二人の巫女による包囲が狭まってきている。これ以上、別の逃げ道を考える時間など藍には残されていなかった。
「――――チィッ!」
青い狐火を纏った九つの尻尾が、孔雀の羽のように天へ向けて広がった。その一尾一尾が『金剛界曼荼羅』の紋様を描き、直後、藍を中心として凄まじい焔が周囲に迸った。それは見る者すべての瞳を焼き付くす、地獄の業火――!
だがそれさえも、己を取り囲む二人相手には目眩まし程度にしかならないことを藍は理解していた。故に本命は、それと同時に四散させた『九人の藍』の姿である! 無論そこに自らも紛れ込み、計十体の八雲藍となって橙を奪回しに掛かったのだ!
「――マミゾウさん!」
「あいよ――!」
業火を防いだ二人は各々、藍の捕縛に掛かった。
早苗は会話の最中に密かに張り巡らしていた結界を発動させ、十のうちの三を捉えた。さらにもう一尾、これは素手で殴り倒していた。
霊夢の姿をしたマミゾウは、手にしていた巨大な喧嘩ギセルをさらに倍化させ、巨木のようなそれで五体を薙ぎ倒し――たと思われたが、そのうち三尾が自ら犠牲となって、他の二体を救っていた。残り三体。しかしこの三体こそ、おそらくは最も古参の一尾と二尾、そして本人なのだろう。また或いは九尾の中でも序列の弱い者が敢えて捕まることで、それらを逃がさぬようにとする早苗やマミゾウの動きに制限を掛けようとしたのかも知れなかった。
そうした結果があり、残りの三体はこの場を逃げ切ったのである。
離れの壁を突き破り、橙を抱えた三人の藍は、やはり攪乱するかのように森の中へと姿を消していった。
「おぬしにこの場は任せてもよいか」
「ええ。"彼女"も私が保護しておきますから、どうぞお気兼ねなく!」
結界を拡大・強化し、さらには起き上がりつつある藍を片端から殴り付けていく早苗がそう応えるのを聴いたマミゾウは、懐からじゃらと取り出した麻雀の点数棒を自身に化かし、やはり藍と同じように『十一人の二ッ岩マミゾウ』となって闇に包まれた森の中へと飛び込んでいった。
「――かっかっか! まだまだ夜は長いぞ、女狐が! 朝まで見事、この儂から逃げ切れたならば褒めてやろう!」
満月の光を浴び、大妖怪が吼えた。
久しく味わっていない高揚感を、二ッ岩マミゾウは覚えていた。
■ ■ ■ ■ ■
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6. エンドロール:終わりを演ずる者
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夜が明けようとしていた。
「……藍、……さま……?」
「ん? 気が付いたか、橙。大丈夫か?」
八雲藍と橙は、人里離れた森の奥――奇しくも、今回の事件の発端となった民家の近くの洞穴に隠れ潜んでいた。
東の空が白んできたとはいえ、洞窟の中は暗く、そして冷たい。藍はいつでも逃げられるよう神経を研ぎ澄ませながら、橙の身体を抱き、暖めていた。
ゆえに、抱きかかえられている橙はすぐそれに気が付いてしまった。
「藍さま、ぼろぼろ……」
一晩中、森の中を駆け巡っていた藍の衣装はほとんど擦り切れ、全身が切り傷だらけになっていたのだ。
「……私のせいで、……ごめんなさい……藍さま……」
震える声が洞窟内に反響する。
藍の身体の傷に指を這わせて、橙は泣いた。声を殺して、しかし、止め処なく涙をこぼして泣いた。
「橙、私は大丈夫だから。お前が涙を流す必要はないよ。お前が謝る必要もない。すべては、私の責任だから。……だから、な、橙」
"お前を傷付けてしまった私を、お前は、許してくれるかな――?"
藍はそう吐露してしまいたかった。橙と一緒に涙を流し、声を上げて泣きたかった。
だが、藍がその言葉を口に出すことは許されない。橙は藍の式である。主人が問えば、式は主人の望む通りの答えを返すだろう。主人が泣けば、式は主人を必死に慰めるだろう。それが式というものである。
それでは駄目なのだ。
――それでは駄目なのだ!
「……藍さま?」
「……ううん、何でもないよ、橙」
だから藍は、黙り込んだまま、ただ強く、強く、橙の身体を抱きしめた。
そして心の中で、誰に悟られることもなく、静かに、孤独に、泣いていた。
そうして、どのくらい経っただろうか。
抱きすくめた橙の身体から伝わる心臓の鼓動を、また新たにちょうど百回、藍が数え終えた頃だったかも知れない。
「……あの、ね。藍さま……」
「……なんだい、橙?」
橙が、潤んだ瞳で藍の顔を見詰めて、こう言った。
「――愛して、います」
「――――」
……たった七文字。
その、たった七文字の言葉の響きが、"九尾の狐"と世に畏れられた大妖怪に、一縷の涙を流させた。
藍は、耐えられなかったのだ。泣いた。声を上げて泣いた。一度溢れ出した涙は、止めようがなかった。
どうかこの胸の高鳴りが伝わりますように。そう祈って、藍は橙の身体を一層強く抱きしめた。
"……ああ、そうか"
藍はそこでようやく気が付いた。
"愛している――この言葉なら、私にも口にすることが出来るのか。"
それと気付いたからには、何をためらう必要があろうか。
藍もまた、橙に対してその言葉を述べようとした、その時だった。
「――――ッ!」
洞窟の外で、かさりと、何かが動く音がしたのだ。
「……橙はここで待っていなさい。私が合図をしたら、すぐに逃げるんだ。できるね?」
「……はい」
余計なことを何ひとつ言わず、ただ静かに橙は頷いた。
「そうだ。それでこそ私の式だ」
藍は橙の髪をくしゃりと撫でて立ち上がった。橙の温もりがこの腕を離れ、薄れていく。今はそれがただ無性に名残惜しかった。
「…………」
藍は洞穴の外の様子を慎重に伺った。
丸い耳に焦げ茶の尻尾、黒い足。イヌ科特有の鼻に、つぶらな二つの瞳――
「……なんだ、狢≪むじな≫か」
くくく、と自然に笑みがこぼれていた。狸のやつらめ、最後まで私たちの邪魔をしてくれやがる。
藍は東の空を見た。夜は、すでに明けていた。
「よし、もう大丈夫だろう。移動しようか、橙。こっちへおいで――」
洞窟の中を振り返りながらそう言おうとした藍の言葉は、しかし、途中で中断せざるを得なかった。
「……橙?」
「――ら、――…さ、―――……がッ……」
橙の柔らかそうな白い喉に、小刀が差し込まれていた。
ごぷッ。
嫌な音がした。
銀の刃が、藍の見ている前で、そのまま真横に移動した。
切り裂かれた喉頸から鮮血が噴き出した。
その小さな身体が反射的に行った呼吸により、"こぽゴぼ"と、多量の血が気道に吸い込まれていく際の妙に水っぽく鈍い音が洞窟内を満たしていた。
「……き」
橙の身体が崩れ落ちる。
暗がりの奥に現れたのは、一人の男。平均よりも少しばかり背が高く、細身の、ただの人間である。
「貴様ぁああああああああああああああああああああ――ッ!」
それが一体誰であったか。藍は思い出すことすら放棄し、ただ暴力の塊となって男に襲い掛かった。ともすればこの洞窟ごと潰してしまいかねない程の、圧倒的なまでの蹂躙――しかし、その猛威が男に届くことはなかった。爪が、牙が、焔が、打撃が、すべて"結界"によって弾かれていたのだ。自身の全霊を賭けた攻撃でも傷一つ付かぬ結界を作れる人物など、藍はこの世に一人しか知らない。
『――紫様ッ! 何故ですかッ! 紫様――!』
だが主にそう詰問する機会すら、藍には与えられなかった。
怒りに燃える表情のまま。
八雲藍の首は、宙に舞っていた。
「これでご満足頂けたかしら?」
八雲紫は男に声を掛けた。
火傷の少女の"婚約者"である彼の手中には、切り離すのに余程難儀したのだろう、切り口がいびつに歪んだ橙の頭が収まっていた。
男は何も言わなかった。ただ無言で会釈を返すと、八雲紫が開いたスキマの中へその身を沈めようとした。
「あら。遅かったのね。もう何もかも、終わった所だけれど」
しかし八雲紫の、明らかに別の人物に向けられた声を聞いて、男は足を止めていた。
彼が振り返ると、日光が差し込み始めた洞窟の入り口に、息を荒げる二ッ岩マミゾウの姿があった。
その姿を見咎めると、男はマミゾウにしっかりと向き直り、深く――本当に深く、頭を下げた。血にまみれた橙の頭を、胸に抱いたままに。
――違う。
マミゾウは応えた。
「これを御所望かしら?」
藍の髪を掴んだ八雲紫の手が、マミゾウに向けられた。
胡乱な金の双眸が、ゆらゆらと揺れながら、マミゾウの琥珀色の瞳を見詰めていた。
――違う。
マミゾウは応えた。
「そんなのは、間違っている」
二人に向かって。
二ッ岩マミゾウは、そう叫んだ。
■ ■ ■
事件から、三ヶ月が過ぎていた。
二ッ岩マミゾウは例によって例のごとく人里の大通りを闊歩し、数件の"化かし直し作業"を済ましたのちに、茶屋で<文々。新聞>片手に煙草を一服ふかしていた。
新聞の内容自体はいつもと大差ない、いかにも下らないものでばかりである。
しかしこの三ヶ月で、マミゾウの周りには色々と変化が起きていた。
まず、先の事件をきっかけにして、戸籍を持たない住民たち――とくに被差別民たち――から、戸籍制度の迅速な普及を願う声が続々と上がっていた。戸籍が無いということは、すなわち妖怪に襲われやすいということを、みなが改めて思い知ったのである。そしてその普及を後押ししているのが、守矢神社の存在であった。外の世界を知る東風谷早苗が率先して戸籍制度の重要さについて述べ、また同時に、火傷の少女やその婚約者の力を借り受けることで、差別の無意味さ、虚しさといった事についても皆に知らしめようと奮闘しているのである。近頃では、あの怠惰の代名詞のような博麗霊夢までもが、早苗に協力する姿勢を見せ始めているということだった。
幻想郷から差別という言葉が消え去る日も、そう遠くはないように思われる。
人里は当然のことながら、現在では里外れの至るところにまで守矢神社の分社が祀られている。それらのお陰で、僅かではあるが確実に、元被差別民たちの姿を大通りでもよく見掛けるようになった。幻想郷では、"宗教の名の下ではみな平等"とする考え方が多数を占めているからだ。そして彼ら、彼女らは、よくマミゾウに話しかけて来てくれた。先日の事件の解決役として一役買ったことが、彼らの間で口伝てに噂となっているようだった。
しかし事の真相ともなると、これは意外にみな、詳しくは知らぬようであった。
例えば――そう、少女の"婚約者"である彼が、橙を殺した事を知っている者は、おそらく誰もいないだろう。
マミゾウはその行為が正しかったとは決して思わない。しかし幻想郷では、妖怪殺しが罪に問われることは無いのだ。である以上は、マミゾウにはそれ以上干渉することは出来なかった。彼が何を思って橙を手に掛けたのか、そんなことは、当事者でない限り分かりはしないのだから。
「…………」
ぷか、と紫煙を吐き出した。
マミゾウは八雲藍……九尾の狐のことについて、考えを巡らせていた。あの日以来、藍や橙はもちろん、八雲紫の姿さえもマミゾウは見ていない。それはそうだ、とマミゾウは当然のように思う。死んでいるならば、藍と橙には会える筈がないのだ。
が、しかし――
『何かが引っ掛かるな』とも、マミゾウは感じていた。
あの夜――森に逃げ込んだ八雲藍は、全部で三体だった。『十一人のマミゾウ』で森の中を探索した際に、ちらちらとその姿を見掛けれど、しかし惜しくも捕まえるまでには至らなかった。そして最後に、あの洞窟で見た光景……その場に居たのは、八雲紫や婚約者の男を覗けば、"一人の藍"と、"橙"だけである。では、残りの二尾はどこへ消えた? マミゾウから本気で逃げ切ろうとするならば、本体は洞窟で身を潜め、尻尾の二尾はわざと見付かりやすい所で、それこそ"ちらちら"とマミゾウの前に現れる――といった策略を取るのではないだろうか。
また婚約者である彼の話を聞くに、藍は彼を『全力で殺しに来ていた』ようであったらしい。
藍の本体には、"人間を傷付けられない"という式が付いているのでは無かったか? そしてそれは、明確な証拠こそは無いものの、"尻尾はその制約を受けない可能性が高い"のでは無かったか?
まだ分からないことは沢山ある。本当に、山ほどあるのだ。
だから、これが当てずっぽうの推理であることは否めないが……、もしかすると、とマミゾウは思う。
事態の収拾を図るために、八雲紫が、二尾に幕引きを演じさせたのではないか――?
とん、とマミゾウの背中が叩かれる。
「狸さん狸さん。どうしたんですか、難しい顔をして?」
「お、風祝の巫女じゃないかえ」
なに、ちょっとした考え事じゃよ。
そう言って、マミゾウはこの件について考えるのは辞めることにした。もし何かあれば、それはまたその時に考えれば良いのである。
「ふうん。お店の方は、開けっ放しでもいいんですか?」
「ああ、それはまあ……いいじゃろ。儂がこうして散歩好きなのは、みな知っておるじゃろうし」
三ヶ月。
それだけの時間があれば、マミゾウ本人にも何かしらの変化があって然るべきである。
その筆頭が早苗の言うお店、『二ツ岩金融』だった。先に述べたマミゾウに関する噂話などに尾ひれがついてか、近頃、マミゾウの金貸し業はすこぶる順調であった。そこで一念発起し(とは言っても建物それ自体はやはり"化かし"であるが)、マミゾウは里の大通りの一画に、自分の店を持つにまで至ったのである。とはいえ、店があろうと無かろうと、マミゾウの生活スタイルにこれといった変わりはなかった。人に頼まれれば無利子あるいは通常の金貸しを行い、リースのために顧客のもとを渡り歩いては、面白可笑しい話をしたり、菓子を御馳走して貰ったりして、日々を過ごす。
それは。
幻想郷に越してきて初めて実現した、マミゾウ理想の生活であった。
「そっちの調子はどうじゃ?」
「ボチボチですね。信仰もいい感じに集まって来ていますよ」
「それは何よりじゃな。まあどうじゃ、一杯? ほれ、菓子もたーんとあるでのう」
「あ、頂きます」
今日の菓子は、羅宇屋≪らおや≫の親父に包んで貰った源氏巻である。
マミゾウはいつかと同じように、茶屋の店主に早苗の分の茶を注文した。
「……で、どうなんですか、アレ」
「アレ、とは?」
「アレですよ、アレ。ここ最近は私も忙しかったし、マミゾウさんもお店のゴタゴタとかで、結局今日までゆっくり話し合う時間がとれませんでしたけど。今日こそは、教えて貰いますよ」
早苗は出てきたばかりの熱い茶を一口すすると、声色を変えてこう言った。
「"ワトソン君、例の物を"」
ああ、とマミゾウは笑った。
「"ネタ晴らし"か。なるほど、いいじゃろう。何を聞きたいんじゃ?」
「では、まず……藍さんの妖術を、マミゾウさんはどうやって破ったんですか?」
「おっと。そういえばそうじゃな、それを返すのをすっかり忘れとったわい」
マミゾウが懐から取り出したのは、紫陽花の花簪だった。
早苗が差し出されたそれを受け取ると、"ぽん"という音がした。花簪の"化かし"が解けたのだ。
早苗の手元に残ったのは――キリストを磔にした十字架。第一級の、聖遺物であった。
「儂らが二人で永遠亭を訪れたあの日、それを貸してくれんかと頼んだじゃろう?」
『折り入って頼みがあるんじゃがの?』
その日の別れ際、マミゾウは早苗に幾つかの頼みごとをしていた。そのうちの一つが、以下の内容であったのだ。
『その聖遺物に、目一杯の退魔術式を施して、しばらく儂に預けておいてくれんか――』
「あ! そういばマミゾウさんが持ってたんでしたね、これ。オナニーの時に無くて困ってたんですよ!」
「それはどうかと思うが……」
マミゾウが十字架を花簪に化けさせたのは、それが実際、現場に落ちていた物だったからである。つまりは少女の持ち物で、婚約者――否、数週間前に、もはや正式に"夫"となった彼が、少女に送った結納品であるとのことだった。無論、本物はちゃんと修理をして、少女の元へと戻っている。マミゾウが妖術を破ったのは、この早苗の聖遺物に加えて満月という環境、そして少女自身の『あにさま』という声なき言葉が重なった瞬間だった。
「いや……霊薬を使われるとは思っておらんだからの。あれが無ければ、不味かったかも知れん」
「最初にマミゾウさんが夫だと思っていた人物は、本当はお兄さんだったってことですよね」
「うむ。写真に写っている少女が結納の花簪をしていたことと……あの遺書のせいじゃな。おそらくは意図的に、そう誤認させるような文章を藍は『書かせた』んじゃ。妖術なり、力ずくなりでな。そして両親の自殺というのも、ほぼ間違いなくあやつの仕業じゃろう――」
そこでなぜかマミゾウの脳裏に、八意永琳の"にたにた"という不気味な笑いが蘇った。
同時に、『面白そうだからに決まってるじゃない』という蓬莱山輝夜の言葉を伴って……。
「…………」
マミゾウはその不快感を振り払うように、大きくかぶりを振った。だが、
――"自殺した両親"、そして"遺書"というものは、果たして本当に存在していたのだろうか?
そんな疑問が、頭の奥底にこびり付いて離れなかった。
「なるほど、そういうことでしたか。……あれ、マミゾウさん?」
「ん? いやすまん、何でもない。んで、他にも何かあるかえ?」
「では、マミゾウさんはいつ、どうやって橙さんと入れ替わったんですか? マミゾウさんは満月の夜なら、橙さんを完璧に自分の姿に"化かす"ことが出来ますけど、"言動"まで思い通りに指定することは出来ませんよね? そのままじゃ、藍さんに一発でバレてしまうと思うんですけど。それこそ、妖術でも使わない限りは……」
「ふむ。まさしくその通りじゃな」
マミゾウは足を組み直した。
煙草盆にキセルの灰を落とし、また新たに刻み煙草を雁首に詰めると、マミゾウは吉井の火打ち金を使って火を付けた。
「入れ替わったのは狐の妖術を破った直後じゃ。ちょうどその時に橙が様子を見に来おったからの、これはまあ、たやすく捕らえられたわい。そうでなかった時の為にも、あらかじめ色々と仕組んで置いたんじゃが――ああ、それがどういうものかは想像が付くかえ?」
「えーと。マミゾウさんは一番最初、少女を運び込むために離れに入ったって言ってましたよね? そういう時に、"建物自体に仕掛けを施しておく"のは割とセオリーかな、とは思いますね。こっそりと出入り口を作っておいたり……とか?」
「ん。それも正解の一つじゃの。ではついでじゃ、おぬしなら、橙を捕らえた後はどうするかのう?」
マミゾウの問いかけに早苗はしばらく頭を捻っていたが、しかしどれもピンとは来なかったのだろう、肩をすくめた。
「化かす際に声帯をいじって、喉を潰しておく……とかなら分かります。けど、あの時の橙さん、声出してましたよね?」
「というか絶叫じゃな。あの声は今思い出しても玉ヒュンものじゃのう……」
あ、それなんか分かります、玉付いてないですけど。
言って、早苗は源氏巻の最後の一切れをほおばった。
「んー、おいひ」
「それは何より。他にも何か欲しければ頼んでよいぞ。さっきの案も悪くはなかったからの」
「ホントですか! じゃお茶のおかわりと……あ、せっかくなんでこれも注文しちゃおっと。すいませーん!」
店主がやってくると、早苗は弾けるような笑顔でメニューを指差した。
「これ下さい!」
そこには、"金玉糖≪きんぎょくとう≫"の三文字。
「どん引きじゃわ……」
「実際に金玉をすすってた人にだけは言われたくない台詞ですね」
「う」
「玉を潰した時も怖かったなあ。潰れる感触がやたらめったらにリアルで、『あれーこれ本物のマミゾウさんだったらどうしよ?』って内心すごく焦ってたんですからね、私あれ」
「うう。すまん、何か合図でも決めておくべきじゃったの……」
「あ、でも、そういえばその直前まで橙さん、なんかやたらボぉーっとしていましたよね。……まさか、マミゾウさんも妖術が使えたりするってオチじゃあないですよね?」
「まさかまさか。折角の機会だから、コイツをちょろっと拝借しただけじゃよ」
とん、と音を立てて置かれたのは、黄金色≪きん≫の液体が入った小さなガラス瓶――
マヨヒガの霊酒であった。ほぼ同時に、"あ、なるほどー"という早苗の声がした。
「ほんの数滴で、よぉく利いたようじゃったわ。これで橙の意識を混濁させ、儂と姿を入れ替えたあとは……もう分かっておるじゃろ?」
「はい。少女を"死体"に化けさせたんですね? もちろん精液付きで。彼女は自力では動けませんから、バレる心配もありませんしね。で、最後に、マミゾウさんが藍さんを呼びに行けば――入れ替わり完了、と」
「うむ。……これでネタ晴らしは大体終了かの?」
"ごちそうさまです。"
マミゾウの言葉に、早苗が金玉糖をたいらげたのを重ねて言った。
「でも、まだもう一つ、ハッキリしていないことがありますよ」
「ほう?」
マミゾウは早苗が、例の十字架を借りた際の、"もう一つの頼み事"のことを聞きたいのかと思った。
もう一つの頼み事。
それは、三ヶ月前にマミゾウが永遠亭で出逢った"元恋人"らしき人物――結果的には、少女の婚約者だった訳だが――の保護を、当日のうちに、早苗に進言していたことである。
『おぬし、儂を待っている間に一人の男とすれ違うたと言っておったな。彼を保護してやってくれんか。万が一、藍が鈴仙とやらに化けておったとすると、彼の身が危ういからの。住所は分かっておる、"×××-××××"じゃ。今すぐに向かってくれ』
だが違った。
その理由を、早苗はちゃんと理解しているようだった。
「マミゾウさんが鈴仙さんを怪しいと思ったのは、"書類不備"とされた彼の面会申請書を盗み見た時に違和感を覚えたからですよね? でも、それだけじゃあくまで違和感に過ぎません。そこでマミゾウさんは無菌室の近く、詰め所から見える所で"わざと"煙草を燻らせた。何故なら以前、マミゾウさんは鈴仙さんに喫煙でこっぴどく叱られた経験があるからです。だけれどその日に限って、少しも怒られない。この時点で、マミゾウさんは鈴仙さんが偽物であると確信していたんでしょう? 住所は、面会申請書に書かれていたものですね」
「……驚いた。儂が化かして作った新聞には、そこまで細かいことは記していなかったように思うのじゃが」
マミゾウの言葉に早苗は微笑みを返すと、自分の背中を指差すジェスチャをした。
「うん? ……髪の毛、か?」
マミゾウが背に手を回すと、細い繊維のような物がそこに付着していることに気が付いた。
「霊験あらたかな神奈子様のしめ縄です。ほら、マミゾウさんにもちゃんと説明したでしょう? 私は過去認知≪ポストコグニション≫が使えるんです、って」
"過去認知"。
神霊を宿した物体が覚えている"風景"を、早苗の頭の中に再現する術――である。
「こういう使い方もあるんですよ」
しめ縄をいつ付けたのかは秘密ですけどね、と早苗は笑った。
「あとはまあ、地道な聞き込みの成せる業です」
「――はっ。こりゃ一本取られたのう! で、ハッキリしていないこと、とは?」
「マミゾウさんだって分かっている癖にー」
「ふぉっふぉっふぉ。まあのう!」
マミゾウは頷いた。
永遠亭には嘘吐きが居る。
少なくとも一人――そしておそらくは、二人。
「――ところで狸さん、今日のお仕事はこれで仕舞いですか?」
早苗は言った。
「うんにゃ、あと一件だのう」
マミゾウは応えた。
「最後の一件は何処でしょう?」
「永遠亭じゃの」
「何をしに行くんですか?」
「嘘吐きを、しばきに行くんじゃ」
「なるほど、なるほど」
そこで"んぱ"と一息、マミゾウは紫煙を吐き出した。
濃厚な刻み煙草のけむりは、相も変わらず、最高に美味かった。
「あの! ついて行ってもいいですか!」
楽しそうに早苗が言った。
「勿論じゃ、相棒よ」
マミゾウは不敵に笑った。
■ ■ ■
【マミゾウさんのふぐりの皮を切り裂いて現れる赤い血管の走った白いでろでろをそのままゆっくりゆっくり咀嚼していくことになるまでのお話――――End.】
■ ■ ■
しかも、誰が、何が、手駒か、ゲームの参加者か判らんと来ている。
不明な点は多々ありますが、それは重要なことではないのでしょうね。
一応の解決をしたのですから。
謎は謎のまま残しておかないと、妖怪の存在意義が、なくなる。
腹の探りあいと伏線の山、正直読み終えた後は疲労困憊です。だがそれがいい。
ただ、用語が多く、少々目が疲れる、というかくどく感じました。
とは言え、素晴らしい作品には違いありません。発売何時ですか。
さて、私もちょっと橙しばいてこよ。
ただ、どうしても気になったのが早苗。
最初は変態趣味のぶっ飛び系キャラと解釈していましたが、他キャラは原作でも有り得そうな言動なせいで、早苗だけキャラが若干浮いてました。竹を破壊したりオナニーマスターする行為にキャラ付け以上の理由が見受けられないせいでしょうか。猟師ですら超人なこの作品では常識的な早苗では埋もれてしまうんでしょうが…靄々としたものが残ります。
また、冒頭のマミゾウを疑うシーンと「ワストン君、例のものを」という台詞から、彼女に与えられた役は探偵役だと推測できますが、実際はマミゾウの仕込みの手伝いとマミゾウの解説を聞く側に回っています。
むしろ早苗のほうが探偵助手な立ち位置なのでは。
ミステリ系列というジャンルのために配置された探偵役な気がしました。
推理物にするか、化かしあいに特化するか。
こんな予想しながら読んでると参考になれば:
おにーさん 猫科?→お燐?
マミゾウと早苗 化身と変化についての解説→藍とマミゾウの化かしあい?→猫は橙の可能性
十人まで化けられる藍 登場人物と人数を整理 永遠亭組に丸ごと化けた可能性を考慮
早苗があっているマミゾウすらマミゾウ本人とは限らない というか永遠亭での体験談自体マミゾウの口から語られているので地の文も疑わしい(探偵役であろう早苗の一人称視点で物語が進んでいると考えれば)
黴びた葡萄 狐と葡萄?→ワイン 化かされるといえば馬の小便→まさか少女はもう死体?→死んだ少女の傍に付きっ切りでおれば生きているように擬態させ続けることも可能?
いつくか確認したいのですが…全てが明らかになるのは私にとっても好ましくないので答える必要はないのですが、それでも。
1.マミゾウが洞窟で見た紫 男 生首二つ 紫&男→紫&藍本体 生首→尻尾1&2
橙は避難した…ということでよろしいですね? しかし紫が式神の救出を目的にしていたとすると橙の首を切り裂く理由が良く分からないんですよね…この辺り若干理解し難いです。
2.藍と橙が家に襲撃したのは、マミゾウが幻想郷入りして人間に友好的だったせいでパワーバランスが人間側に傾いたから?
しかし、一応マミゾウは妖怪の強力な味方という触れ込みで招かれたので、齟齬が生じています。
また藍と橙が家を襲撃した理由が良く分からない。結果的に藍と橙の行動は人間の戸籍制度を推し進め、妖怪の捕食を困/難にしてしまいました。紫に拠る指示なのか、藍の橙の独断なのか、いまいちはっきりしません。
本当に口うるさく大きなお世話なことまで細々と書きましたが、読後に細かい所を突き詰めて考えた場合であり、読んでいる最中の面白さはピカ一でした。
細部は細部、整合性に拘るばかりに面白さが犠牲になったのでは何の意味もないですものね。
細かなパロらしきものが…FFTとH×H以外にもあるのかな?
以下私の勝手な考察が入るので、他の読者の方の読後感を汚す可能性があります。ご容赦下さい。
この話の裏側には、儚月抄の復讐というテーマがあるのではないかと読んで感じました。即ちまんまと一杯食わされてプライド折られた永琳・輝夜が、式の失態に乗じて紫を失墜させる、そんな謀略が裏で動いていたのではないかと。
つまり、藍が鈴仙に扮していたのも、あの二人が兄妹であったことも(これは永琳ならすぐわかりそうです)、真犯人が式達であることも最初から見ぬいた上で、マミゾウに藍達の探索をさせ、また同時に婚約者を焚きつけたのではないか。
そうすると、橙に襲われた少女も実は永琳が言っていたほど重篤ではなく、マミゾウを義憤に駆らせる罠だったのではとも邪推してしまいます。であれば、「必要なこと」と言って永琳がマミゾウに病状をねちっこく聞かせたことも納得がいきますし、マミゾウ混乱シーンで少女が喋ったのも単なる美談に終わらない理由付けができます。ラストにお礼参りを持ってきたことも納得がいきますし。
という私の勝手な理解のもと、以下続けます。間違ってたら笑って下さい。
この前提だと、マミゾウと輝夜の会話シーンがとても重い意味を持ってきます。即ちあの問答は藍=紫を追い詰めるため、マミゾウが自分たちの駒として使えるか否かを図る"難題"だと読めたのです。
「操をあげてもいい」という台詞も、要するに難題クリアしたんだから結婚してあげましょうか? という暗喩なのかなと。で、もしそうあるならば、ここでマミゾウから輝夜に一刺しして欲しかったなと思ったのです。引用に対して、引用で返す方法で。
そして、その場合聖書の文言を使えばいいのではと感じました。もちろんキルケゴールとドストエフスキーが生粋のキリスト教徒で、あの引用文が全てキリスト的価値観に基づいているっていう面もあるのですが、むしろ早苗との整合性を取るために。
というのも、読んでいて一番引っかかったのが、早苗がヒエロフィリアであるという設定が明らかに話全体から見て浮いているな、という点でありました。もちろんロザリオが最後に重要な役目を果たすのですが、あの使い方ならば、別に魔除けの御札でもいいのでは? とも思ってしまったわけで。
今回登場しているメンバーと親和しづらいキリスト教を、わざわざオナペットに持ってきたのは何でかなと。別に如来像バイブがわりにしても良かったわけですし。
なので、あの輝夜とのやり取りの場面で、キリスト教における「愛」の概念を示唆する引用文をマミゾウに喋らすことで、輝夜達の欺瞞を暗に(無自覚的に)糾弾しつつ、同時に「早苗の涜神的振舞い」:「マミゾウの異教に対する思慮深さ」という対比が生まれるよう構成すると、全体の隠喩が上手く嵌るのではと思ったのです。
もちろんマミゾウがキリスト教徒なわけないので、あくまでエスプリとして、で構わないわけですが。本文全体に衒学的な雰囲気があふれているので、マミゾウと輝夜が聖書問答してもギリギリ浮きはしないと思います。輝夜と論戦できる知的なマミゾウは、本作の人物設定にもそぐいますし。
更に言えばその後の場面、早苗は聖書持ってたので、ここでもう一度早苗とマミゾウが聖書問答するのもありかもしれません。神を冒涜する部分(イザヤとかヨブとか……)を引用で持ってくる早苗に、淫らな女の罪を糾弾する部分(エゼキエルとか黙示録とか……)を返すマミゾウとかやると、早苗が迂闊さを孕みながらも、同時にマミゾウと最低限やり合える、パートナーとしての資質を持っている点が象徴できそうな。
読んだ後あれこれ具体例考えて、ルカ6-32とかいけんじゃね? とか妄想してたんですが、まあこれはどうでもいいですね。あまぎさんすっごい博学なんで、そこら辺は今更感ありますし。
その他些細な部分ですが、記号の使い方が読んでいてやや悩ましく感じました。振り仮名や当て字よみ、「""」や二重括弧等をかなりふんだんに使用しているのですが、どう使い分けているのかわからない部分(会話文で「」と『』を使い分けてるところ等)や、少し使い過ぎかなと思う部分(特に妖獣と猟師の戦闘シーン)もありました。そもそもの文が既に濃密な味わいなので、更にそこからわざわざ強調しなくてもいいんじゃない? というか、牛丼に焼肉のタレぶっかけてる感じ、は言い過ぎか。
ただ、紙媒体で出すことを最初から想定して書いたのだとすると、読み仮名はルビで横持っていけますし、強調点なんかも使えるので、読んだ印象がかなり変わりそうです。そこら辺は私もよく判らんのでなんとも言えません。
長々書いて申し訳ありませんでした。これのせいで寝不足なのです。
トリックの意外性や計算高さもさることながら、それを引き立てているのはやはり個性的で魅力あふれるキャラクターでしょう。普段私は勧悪懲善ともいうべき捻くれた話を好みますが、読み進めている内に大らかで(妖怪なのに)人間味のあるマミゾウに徐々に惹かれて行き、ヒーローを見る子供のように「マミゾウばあちゃんがんばれ!クソ狐は死ね!」といつのまにか心の中で応援しながら読んでいました。なのでマミゾウが橙に変化していてそれを明かすシーンは、思わず「うおお」と声が出るほど感動を覚えたものです。早苗さんもユニークなキャラ性が引き立っており、暗くなりがちな雰囲気に良いアクセントとして光り輝いていると思いました。
私の脳みその足らなさであまり理解できていない点(輝夜と永琳は何を考えていたのか、最後の橙はどうなったのか等)もあり、完全に作品を堪能しきれてはいないかもしれません。それでも、これほどの作品に出会えたことを私は嬉しく思います。名作をありがとうございました。
欠点を上げろと言われると難しいですが、あえて言うのであれば難読漢字や意味の難しい言葉は、何か別の分かりやすいものに置き換えた方が読みやすいかもしれません(ですが、それらが時代や場の雰囲気を醸し出している部分もあるので、一概には言えません)。あとタイトルをもう少しスマートにし、ジャンルまたは内容が想像できるようなものにした方がいいんじゃないかとは思いました。
余談ですが、ローグライクもといシレンは自分も大好きです。64は名作ですよね。個人的にはGB2も推したいところ。でも、最近はあまりやる暇もないんですけどね…。
それより今はオナニーですから!(オキニイリ)
それくらいに面白かったです。
全体を通した手に汗握る緊張感や、要所要所に散りばめられた残酷な描写は素晴らしい産廃らしさでした。特に冒頭で男が家の中に息を潜めて潜入するシーンは臨場感たっぷりで非常に怖かったです。それから明らかにいい人そうなマミゾウさんに疑いの目が向けられるシナリオの途中のモヤモヤ感には、彼女が一体どうなってしまうのかという不安を覚えながらも激しく引き込まれました。
私としてはこの早苗さんは非常に好きです。なんだか早苗さんって性格的に産廃ではよく視界の端を飛び回るハエのよーな「コイツさえいなければ」って役回りが多い気がするんですよね。勘違いで余計なことしたり自信過剰で先走ったせいで大惨事を起こしたりして。
だからこの作品の、主人公をサポートするちょっと変わったヒロイン、といった感じの早苗さんは新鮮で可愛かったです。ストーリーそのものはかなりエグいのに、マミゾウと早苗の二人が協力して敵を追い詰めるという構成はまるで少年マンガを読んでいるような爽やかさで、非常に良い意味での不思議さを感じました。面白かったです。
ただ、すごい個人的なことなんですけど・・・・・・完全版作成にあたり、儚月抄を絡められると、まさに白面金毛九尾といった感じのカリスマビシビシなこの作品の藍に対して「無理すんなよボケボケちゃんwww」といった感じの感情を抱いてしまうだろうなあとおもいました。
だって、儚月抄の藍ってダメ可愛すぎる子なんですもんwww(これも個人的イメージ)。あ、でも結局化かされて橙にひどいことしちゃうあたりを見るとこの作品の藍もかなりダメ可愛いくてやっぱり藍ちゃんだーとか思ったりなんだり・・・・・・
なんかグダッグダな感想になっちゃいますけど、とにかくこの作品は面白かったです。ありがとうございました!!
「とある〜」みたいな文章だと思ったけど(早苗さんのシーン)匹敵する面白さです。
その場の匂いや質感、登場人物の呼吸や脈動、筋肉の弛緩と緊張までも伝わってくる表現力。
張り巡らされた伏線が鮮やかに回収される様。
マミゾウさんに化かされた時、「あの時の何気ない会話や文はそういうことだったのか……」と気付かされる快感。
ずっと、こんなSSを読みたいと思っていました。、時間も忘れ一気に読破しました。
もう、ホントにドストラクな作品です!
素晴らしい作品を読ませて頂き、ありがとうございます。
http://thewaterducts.sakura.ne.jp/cgi-bin/up2/src/huku0022.png
感謝の気持ちと言ってはなんですが、マミゾウさんのイラストを描かせて頂きました。
性格が素晴らしく、「○○ってどんな性格?」と聞かれればこのSSを見せたいくらいです。
上の方々に押しつぶされてしまいそうですが「すごい」としか私は言いようがないのです。
キャラクターの一挙手一投足が、その文章と合間って格好良く映えております。
狩人さん、善戦虚しく……惜しい男を失った感が半端ないです。
罠にハメられるどころか、逆にハメ返すマミゾウさんはすげぇです。
陰惨なこの事件を、楽しんでいたり利用しようとしている胸糞悪い連中で溢れ返っている中、巻き込まれたはずのマミゾウさんだけが、唯一の良心であるかのように見えました。
きっちり犯人を見つけ、守るべき者を守る。なんと頼れる主人公。
とっさの判断力と鋭い洞察力、思慮深さがあるからこそできる芸当なのだとつくづく思わされます。やはり年の功というやつなのでしょうか。
読み終わった後は軽い、疑心暗鬼状態です。
もう一度読み返した際、誰を信じ、誰を疑えば良いのか、頭がぐるぐると心地好い浮遊感に苛まれております。
仮定やイフで物事を考えるのが苦手なので、皆さんの考察を参考に色々と考えてみたいと思います。
いつか。自分なりの推理が出来ればと思います。
サスペンスの醍醐味を堪能させて頂きました。
どや顔の早苗さん引きずり回したい
お褒めの言葉、誠にありがとうございますー!
この小説は、自分が納得行くまで一文一文をかなり頑張って書いたものですので、こうして評価して頂けるのはこの上ない幸せです!
近頃は諸事情でSSに手を付けられていないのですが、しばらくしたら、またこのクオリティを目指して頑張ってみますので、作品が完成した際には、またどうぞ宜しくお願い致します!
ありがとうございました!