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『ゲーム3』 作者: pnp

ゲーム3

作品集: 4 投稿日時: 2012/06/01 11:30:28 更新日時: 2012/06/25 07:21:03 評価: 15/17 POINT: 1550 Rate: 17.50
 何者かが玄関扉を叩いている音で、鼠の妖怪、ナズーリンが目を覚ました。
 覚醒した意識は、寝ている時には気付かなかった空気の埃っぽさを敏感に感知する。クシュン――と、くしゃみをひとつ。
 それからのそのそとベッドから降りて、玄関扉へ向かう。
 どう贔屓目に見ても綺麗とは言い難い、物で溢れ返っている雑然とした部屋の隅の方にどんと置かれた飾り気の無い質素な固めのベッドが彼女の寝床である。彼女としてはもう少し柔らかいベッドが望ましい。部屋に溢れ返っている宝物の一つや二つを売り払えばその購入資金も手に入るのであろうが、部屋が狭すぎてこれ以上ベッドが大きくできないこと、それから、部屋のみすぼらしさとベッドの高級感のギャップが非常に不格好なことから、購入は差し控えている。

 この家屋には、二階も無ければ地下室も無い。玄関扉を開けると広がる一室のみを持つ貧相な家屋である。さほど広くも癖に、今まで得意のダウジングで見つけてきたいろんな物を保管しているものだから、足の踏み場に困る有様である。
 現に彼女は、上手に物と物の間隙を飛び交って、玄関扉へ向かっている。行先を間違えては動けなくなってしまうから、どこへ足を付くかは決まっている。パターン化は幻想少女たちの常とう手段である。
 隙間から隙間へ器用に飛び跳ねているその最中、再び扉が叩かれ、乾いた打音が狭苦しい室内に響いた。
「はいはい」
 やや不快そうにナズーリンが音に対して返事をする。
 返事からそう時を待たずして、ナズーリンは玄関扉の前へと辿り着いた。
 扉を少しだけ開けて、客人の姿を見定める。とても用心深い。悪く言えば臆病だ。
 警戒は杞憂に終わった。客人は見慣れた妖怪であった。
「ご主人様」

 幻想郷全土を騒がせた宝船の後身たる命蓮寺と言うお寺で、毘沙門天の代理を務めている妖怪、寅丸星。これが客人の正体であった。
 ナズーリンは毘沙門天代理たるこの妖怪の監視と補佐を、本物の毘沙門天に任された妖怪である。
 必要でない時は、ナズーリンは大抵この自宅にいるか、幻想郷中を放浪してダウジングに勤しんでいて、お寺に行くことはほとんどない。お寺へ行っても特に楽しいことなど無いからである。
 仕事だろうか――内心うんざりしながら、扉を大きく開ける。星の補佐は彼女の仕事だが、やはり忙しいのは好きではない。

「おはようございます」
 先ず、寅丸星が挨拶をした。ナズーリンも挨拶を返す。
「寝ていましたか?」
「いえ」
「嘘ばっかり。寝癖が付いていますよ」
「ああ」
 星は薄く笑んでいる。馬鹿にされた感じはしない。この寅の妖怪に嘲笑と言う概念があるとは、ナズーリンにはあまり思えないからである。
 髪のどの辺りがどうなっているのかは分からなかったが、とりあえず髪を撫で付けながら問う。
「仕事ですか? 探し物?」
「いえいえ。今日は別件です」
 珍しいこともあるものだとナズーリンは思った。
 ナズーリンは鼠を使役したダウジングを得意としている。寅丸星の補佐と言う仕事の裏で、副業として物探しの依頼を受けているのだが、無縁塚近辺と言う辺鄙な所にあるこの家屋を訪れる者はほとんどいない。確かに、よほど偏屈な者で無いと、来てみても楽しいことはないであろうと、ナズーリン自身思っている。
 だから主がここへやってきたのも、業務についての用件だろうと思っていたのだが、推察は外れた。

「では、何を?」
「実はですねぇ」
 主はやたら嬉しそうに微笑んで、懐に手を入れ、一枚の紙を取り出した。
 とある鴉天狗の書いている新聞であった。ナズーリンは定期購読している訳ではないが、お寺へ行った際、暇つぶしに少し目を通す程度になら、この新聞と接している。それを面白いと感じているか否かは、定期購読していないこの現状が雄弁に物語っている。
 ナズーリンが見出しを読み始めるより先に、星が己が口で書いてあることを読み上げた。
「河童が発明品の販売をすると言うのですよ」
「河童。発明品。販売」
 キーワードだけを抜き出し、復唱する。
 星は頷いた。
「あなた、こういう珍しい物が好きでしょう? 今日開催なんですよ。良かったら一緒に行きませんか?」
 主の用件とは、外出のお誘いであったのだ。
 俄かにナズーリンの鼓動が速まった。それっぽく動かしているだけであった髪を撫で付けている手の動きが機敏かつ正確になる。
「ああ、そういうこと、ですか。何だか急ですね、随分」
 興奮している――それを悟られないよう、努めて平静を保つナズーリン。星はどちらかと言えば鈍感なので、それ程必死にこの小恥ずかしい心情の隠蔽を図らなくとも、心模様を察せられることなど無いであろうに。長らく主に付き添ってきた聡明なナズーリンなら、そのくらいの判断はできそうなものだが、それができていないと言う点が、彼女の混乱と同様を如実に物語っている。
 率直に言えば、ナズーリンは嬉しかったのである。外出に誘って貰えたことが。彼女はそんなこと絶対に口にしない性質であるが。

「行きますか?」
 外見で落ち着き、内心で慌てふためいているナズーリンの混沌とした心の様相など露と知らず、星が問う。
「ええ、勿論です」
 半ば脊髄反射的にナズーリンが即答する。これからも彼女はこんな具合に、主からの誘いには、着水した擬似餌に瞬時に飛び付く魚の如し勢いで食い付いてしまうのであろう。
 ナズーリンの慌てぶりを感じ取った星がくすくすと笑った。しかし、その息せき切った様子は、河童の発明した珍品への期待から来るものなのだろうと信じて疑っていない。まさか自分へ向けられた恋情が齎している狼狽であることなど――そんな感情が存在することさえ考えていない。

 外出に準備に取り掛かろうとしたナズーリンがくるりと踵を返すと同時に、星が言う。
「水蜜らを待たせていますから、なるべく急いで下さいね」
 ――水蜜ら?
 その瞬間、ナズーリンの中で尋常でない燃え上がりを見せていた恋情の炎が、驚くほど一気に沈静化した。煮立った鍋に差し水をしたかのようである。
 次いで、てっきりふたりきりだと早合点していた自分がひどく浅ましく感じられ、ぼっと顔が熱くなった。
「あ、あの、ご主人様」
「え、はい?」
 家の中を彩っている雑多な物の数々を眺め回していた星は、急に声を掛けられて、少し間抜けな声を出した。
 ナズーリンは口の中で「その」とか「ええと」とか、そんな言葉を繰り返した後、
「すみません。よく考えたら、私、少しやらなくてはいけないことがあるので……その」
「あらら、そうでしたか」
 星は心底残念そうに言う。
「では、一緒には行けませんか?」
「はい。寝起きだったもので頭が働いてなくて、ついうっかりしてしまいました。すみません」
 何だか苦しい言い訳な上に、完全に私が間抜けじゃないか――羞恥が呼び寄せる嫌な感じの熱が体を容赦なく火照らせる。暑い季節でもないし、まだ早朝だと言うのに、背中が冷や汗で冷たい。
「いえいえ。こちらこそ、あなたの予定も知らずにごめんなさい」
 律義に頭を下げる星。
「それじゃあ、私達は先に行っています。合流できるようでしたら、是非合流しましょうね」
「はい。ありがとうございます」
 では、失礼します――星はそう言い残し、音も無く扉を閉めて去って行った。

 主が去り、すっかり寂しくなった玄関扉をじっと見据えていたナズーリンは、はあ、と大きなため息を吐いて、ベッドに倒れ込んだ。埃が舞い上がる。
 それ程柔らかくないベッドであるが故に、少しばかり体が痛んだが、痛がるのもばつが悪いので我慢した。
 しかし、倒れ込んだのと同時に、ベッドの脇に立てていた難解な書物の摩天楼が、その衝撃によって脆くも崩れおちた。分厚い魔導書が数発、ナズーリンの頭に命中した。
「痛っ」
 この痛撃は堪え切ることができず、ナズーリンは声を上げる。
 しばらくの間、頭を抑えながら枕に顔を埋めていた。
 ――ああ、なんて一日の始まりだろう。
 目覚めてまだ十分も経過していない。それなのにこの惨状である。書物の一撃が齎した痛みによる涙とは全く別物の涙が溢れそうになった。
 自身のあまりの薄幸さに、ナズーリンは一人腹を立ててしまい、八つ当たりして憂さを晴らそうと、落ちてきた書物の一つを手に取った。
 脈絡無くガバリと起き上がり、偶然手に取った本の表紙をぶん殴ろうと手を振り上げて――思い留まった。
 別に、物に八つ当たりすることに空しさを感じたとか、偶さか手に取った本がお気に入りだったとか、貴重だったとか、そんな理由ではない。本を一目見た瞬間、彼女の真っ黒な心の中を、疑問と言う名の流星が流れたのだ。現在の心模様に場違いなその煌めきは、彼女に動揺と沈静を齎した。

 その本は黒革の表紙で、金色の文字でタイトルが銘打ってある。彼女はアルファベットと言うものの教養が皆無な上に、筆記体で書かれているから、何と言う題名であるのかはさっぱり分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。
 彼女は、この本に関する記憶を何一つ持ち合わせていないと言うことだ。
 ナズーリンは人並以上に書物を読む。読むが、気晴らしにぶん殴ろうとしたこの本については、読んだ覚えは愚か、手に入れた憶え、いやいや、どこかで見た憶えさえ無い。記憶力に自信はあるから、これは間違い無いと言っていい。

 不審に思い、彼女はそっと本を開いてみた。
 一ページ目にいきなり魔法陣が描かれている。目次も前書も無い。魔法の知識が薄い彼女には、この魔法陣が一体何を意味しているのかは分からない。だが、魔法陣が描かれている以上、魔導書の類なのだろうと察した。
 本を開いてみて、疑問は晴れるどころか、謎が増々深まる結果となった。――私は魔法なんて興味が無いのだから、魔導書なんて手に入れる訳がない。
 読み進めていけば何か分かるかもしれないと思い、魔法陣の次のページに目を通してみる。表紙はアルファベットなのに、中身はナズーリンにも読める言語であった。
『これはあなただけの冒険譚である』
 でかでかとした字でこんな見出しがあり、それからは何やら小賢しい文章が続いた。
『遍く生命は、個別の物語を持っている。あなたもその例に漏れない筈である』
『その物語はあなたの心によって綴られてきた。心は行動を司り、行動は現実に直接作用する』
『物語――過去――それはあなたの心の有様の連続である』
『この冒険譚は心の軌跡を巡る旅。即ち過去を行くものである』
 ……こんな具合の、一見賢しらそうで、その実大したことのない文章が続き、ナズーリンは些か辟易した。――自己啓発の魔法なんてものが存在するのか?

 しかし、折角読み始めたのだから、もう少し読んでみようと思い、次のページを捲る。
 やはり同じような文章がだらだらと続いた。それでもナズーリンは辛抱強く文章を読み進めて行く。
 四ページの末尾に差し掛かり、ナズーリンは目を細めた。ようやく、彼女の興味を引く一文を発見できたのである。
『物語は魔法陣から始まる。あなたと言う生命の情報――潜在している魔法の力を記録して、心の旅に出発しましょう』
 ページを捲り返し、魔法陣をじっと見つめる。
 魔法に関しては興味も知識も無いが、妖怪である彼女は多少の魔力を持ち合わせている。
 魔導書と言う物に触れる機会もなかったナズーリンは、そう言った書籍が一体どれ程の力を有しているのか、皆目見当が付かなかった。見縊っていると言っても過言ではない。
 別に死ぬ訳でもないだろう――軽い気持ちで、一ページ目に描かれている魔法陣に手を添えた。
 身体の内でも特に物体に接する機会の多い手と言う媒介から、ナズーリンの中に秘められている魔法の力が、本に流入されていく。
 血がジワリと広がっていくように、魔法陣が中心から赤みを帯びて行く。その赤が完全に魔法陣を侵蝕した、次の瞬間――白色の激しい閃光がナズーリンの視界を覆い尽した。
 反射的にナズーリンは目を瞑った。


 激しい閃光の白から逃れる為に目を瞑り、何も映らない黒へと移行した視界。おもむろに瞼を持ち上げてみて、次に双眸が映し出したのは、青色を基調とした、摩訶不思議な空間であった。
 周囲一帯は暗めの青色に覆われている。その濃青色の中を、橙、黄、緑、紅と言った色の星が散りばめられている。
 星と言っても、当然のことながら彼女の主のことではない。また、夜空で輝いているあの小さな光の粒子の形もしていない。五つの角が付き出た、所謂記号的な星である。大小様々で、微かに点滅しているのだが、ナズーリンには脈動しているように見えた。非常に稚拙で、そしてどこか白々しい。
 天井も床も壁も、さらさらと清水が流れているような、流動的な瑞々しさが見て取れるのだが、触っても手は濡れないし、立っている今も足は何ともならない。試しにその場で足踏みをしてみても、水音の一つさえ鳴らない。
 この流水の様な潤いが、壁や天井や床の役割を果たしていて、この瑞々しさがなくなったら、自分の体は四方八方を支配しているダークブルーの空間へ落っこちてしまう――ナズーリンにはそんな風に感じられた。囲繞する暗い青色の空間と言うのに終わりが見えないからだ。
 落っこちると言うのはナズーリンの感覚から弾き出した仮説でしかないが、もしも本当に落ちるのだとしたら、永久に落下し続けて、着地も墜落もできないような――そんな茫漠とした世界なのである。

 視界の先には、ホールケーキの様な形をした台座がある。段の高さはナズーリンよりも大きいくらいで、真正面に階が設えられている。
 台座の中心には椅子がある。半透明の白色の椅子である。材質が全く分からない。
 珍しい物に目が無いナズーリンは、不安と恐怖と興味を綯い交ぜにした、複雑な感情を孕みつつ、その椅子に向かって歩き出した。
 見覚えの無い魔導書に描かれていた魔法陣に手を触れたら、この見知らぬ場所へと飛ばされたのだから、これは魔導書の導きに違い無い。
 魔法を志す者にとっては本に魅入られ、誘われるということは、随分ありがたくて誉れ高いことなのであろうが、魔法への羨望も敬意も関心も持ち合わせていないナズーリンにとって、この導きには特に喜ばしいことが無い。寧ろ、訳の分からないまま未知の世界へ引っ張り込んだ書物に対して不信感さえ抱いている。……不用意に魔法陣に触れたと言う自分の軽率な行動は、一先ず棚に上げておいた。

 台座の正面に据えられている階段を一段一段、ゆっくりと登って行く。相変わらず床はかの流水の様な潤いに纏われており、そのベールの先はいくつもの色彩豊かな星で装飾された暗く深い青の空間である。階段が抜けやしないかと、少しだけ冷や冷やした。
 無事に階段を上り切って少し全身すると、問題の半透明の椅子の前に到達する。台座の上は直径十五メートル程の円形になっていて、そのど真ん中に椅子が置いてある。
 円の上は椅子以外何も無くて殺風景であった。何者かが身を潜めて急襲を狙えるようなものが一切無いので、警戒を少しばかり緩めながら椅子に近づく。
 近くでまじまじと椅子を品定めしてみると、これがなかなか美しいものだと気付く。擦り硝子の様な柔らかな靄がかかっているが、しかし椅子の向こうはしっかりと見える透明感がある。
 すっかり椅子に魅入ってしまったナズーリンは、そっと椅子に手を触れてみた。

『ようこそ、いらっしゃいませ』

 椅子に触れた途端に、背後からこんな声が響いたものだから、ナズーリンはぎくりと体を震わせ、即座に後ろを振り返った。
 視界には声を出せそうな生物的なものも、音声が出せそうな機械の類も一切無かった。
 ただ、空中に直径五十センチくらいの光の球がふわふわと揺曳している。白色の光球である。ダークブルーの背景によく映える。
 光球とは果たして声を出すものなのか――ナズーリンは甚だ疑問であったが、とりあえず目に映る怪しい物はそれしかなかったので、この光球が声を掛けてきたのだと仮定し、自分から話掛けてみた。
「何だい、君は」
 ナズーリンは冷静に問う。怖がっているのを隠すのに必死であった。
 光球は微弱な点滅を繰り返して、ナズーリンの問いに答えた。声を掛けてきたのは、こいつで間違い無いようである。
『私は何者でもありません。“プレイヤーズガイド”と覚えて頂ければよろしいかと思われます』
「プレイヤーズガイド?」
 ナズーリンのアルファベット習熟度は先述した通りであるが、この程度の単語なら、読み書きは出来ずとも何となく意味は分かる。
「プレイヤーって、私のこと?」
『勿論です。知らないでこちらへやってきたのですか?』
「いや、何となく分かってはいたけど」
 やや馬鹿にしたような口吻に、ナズーリンはムッと棘を立てる。

「ところで、ここは一体何なんだ。訳の分からない内にこんな所へ連れてこさせられて、困っているんだが」
『ここは“旅立ちの間”です』
「すまないが、全く意味が分からない」
 ナズーリンが即答する。家屋や施設に持たせる機能の一として捉えたとしても、“旅立ちの間”なんて今まで聞いたことがない。幻想郷は愚か、外界まで探したって、この“旅立ちの間”を実装した家屋や施設は、そう簡単には見つからないであろう。
『この“旅立ちの間”は、読んで字の如く旅立つための間です。あなたの冒険は、あなたの物語は、ここから始まるのです』
「冒険?」
 世迷言も大概にしろ――と憤慨しかけて、ナズーリンはふと口を噤んだ。
 ここへ飛ばされる原因となった書物に、冒険とか過去とか心の旅とか物語とか、そんなことが記されていたことを思い出したのだ。
 熟読した訳ではないので奇怪な単語がぽつぽつと頭に残っている程度であったが、その単語の群を整合し、憶測を立てて問う。
「冒険と言うと、私の過去とか、そんなことなのかい?」
『そうです。冒険譚とは過ぎ去った物語』
「つまり、ここは過去を歩み直す空間と言うこと?」
『その通り。見事な推察ですね』
 光球が言う。若い女の声――と表現するのが一番しっくりくる声色である。
『あなたがこの本の一ページ目の魔法陣にて登録して下さった生命の情報から、あなたの過去を全て本に記録しました』
「私の過去を、全て」
 ナズーリンは思わず息を呑んだ。
『はい。この本はあなたの過去の全てを把握しています。あなたの憶えていることは勿論、憶えていないことさえも、生命の情報から時を戻って取得しています』
 言われてナズーリンは思わず辺りを見回した。このちゃらちゃらした星々が煌めく薄暗いふざけた世界が、おぞましい程膨大な量の情報を秘めていると言うのだ。そう思うと、やや薄気味悪く感じられた。
『そして、難解かつ複雑、それでいて強力な魔法の力によって、あなたの過去と、世界に流れる時間を繋げることに成功しました。あなたはあの椅子に座り、記憶の一つを脳裏に過らせる。そう、まるで流れ星のように。すると、閃いたその記憶をこの本が見事にキャッチして、思い描いた記憶を頼りに、あなたを時間の旅――記憶の旅――心の旅に誘うのです』
 何を言っているのかよく分からないが、ナズーリンはとりあえず「なるほど」と相槌を打っておいた。
『そしてあなたは時を遡る。一度経験した世界へ再び足を踏み入れる。そこからはあなたが物語を紡ぐのです。失敗したことをやり直す。成功したこともよりよい形にする――自由です。そこからはあなたの物語です。この魔導書は、過去へと旅立ち、未来を綴り直す――そういうゲームなのです』

 ナズーリンの心臓が高鳴る。
 このプレイヤーズガイドは、突拍子もなくとてつもなく壮大なことを言ってのけている。懐疑的になるのが自然であろうが、ナズーリンはそう言う所にまで頭が回らなかった。魔導書と言うものの持つ神秘性が、やけにこの狂言染みた言葉に説得力を持たせている。
「過去をやり直せる、と言うことかい?」
『未来を綴り直すのです』
「同じことだ」
『そう思うのでしたら、それでよいでしょう』
 プレイヤーズガイドの飄々とした態度に、ナズーリンは少し苛立ちを覚えた。

 先程の文章の中に『ゲーム』と言う言葉が含まれていたにを受け、つまりここは魔法の力で作られたゲームの世界なのだろうと、ナズーリンは推察した。そしてこのプレイヤーズガイドは、その名の通り、右も左も分からないゲームのプレイヤーをガイドする存在――差し詰め、説明書みたいな存在であろうと察した。
 質問を続ける。
「過去を修正して、一体何がどうなるんだい?」
『クリアデータを引き継いで本の外へ出られますと、あなたは矯正した過去の時間軸――綴り直した未来を生きることになります』
「本当に過去が変わるのか?」
 適当に開いてみた本であったが、何やらとてつもない効力を秘めていたことを知り、ナズーリンの心は更に躍った。
 しかし、プレイヤーズガイドの一言を思い返したことで一つの疑問が生じ、慌てて質問をする。
「待ってよ。この本から出る方法って?」
『ゲームクリアです』
「その条件は?」
 いちいち問わなきゃいけないのか――まだるっこしいことこの上ない。
『この世界のどこかにある、この魔導書にあなたの魔力を注入させることです』
「この魔導書って、黒い革の表紙と金文字の題名の本?」
『そうです。制限時間内に、本へ魔力を注入させますと、それはトゥルーエンドと見なされ、あなたは本の外へ出る権利を得ます。時間内に行けなかった場合、マルチエンディングとなりまして、あなたが任意で遡った一番遠い過去まで遡り、ゲーム再開です』
「制限時間が設けられているのか」
『はい。制限時間はあなたが現実の世界でこの本を開いた瞬間――二〇××年○○月□□日午前九時五〇分二六秒。この時間へ到達する前に本を見つけ、魔法陣へ魔力を送りますと、トゥルーエンドとなります』
「本がどこにあるか……は、教えてはくれないだろうね」
 ナズーリンの言葉を、プレイヤーズガイドは無言でもって肯定した。

 一通り説明をしてもらったが、まだ疑問は消えない。
 黙り込んで冷静な思考をしてみて、ようやくナズーリンは、このプレイヤーズガイドが言っていることの信憑性がどの程度のものかと疑い始めた。
 まずはゲームをプレイしてみないことには何も始まらない――そう思い、くるりと振り返って、あの美しい椅子へ歩み寄る。
『戻りたい時間を明確に思う。若しくは、過去の一端を頭に想像させる。そうすることで、あなたは過去を遡り、物語が始まります』
 ご丁寧に光の球が説明を加えてくれた。
 ナズーリンは目を閉じ、一度大きく深呼吸をする。
 とりあえず、矯正したい過去はすぐに見つかった。まだこの本の性能について、彼女は半信半疑である。だが、これで本当に過去を改めることができたならば、その疑念は波に攫われた砂の城の様に、跡形もなく消え去ってしまうことであろう。
「ねえ。今は何時何分なんだい?」
『二〇××年○丸月□□日午前九時五〇分二六秒でございます』
「それはさっき言ってたスタート地点じゃないか」
『あなたはまだ一度も過去へ戻っていません。この“旅立ちの間”には、時間の流動と言うものが存在しませんから。尚、ゲームの世界の時間は、現実の世界の時間に比べて流れが比べ物にならない程速いです。現実の世界の時間はほとんど止まっていると考えて貰って構いませんから、現実のことを考慮せず、存分にゲームをお楽しみください』
「現実の時間は止まっている、か」
 現実の世界がどうなっているのかがなかなか想像できず、ナズーリンは感慨深げに一言。
 すると、“プレイヤーズガイド”が「ふふっ」と、小さな笑声を漏らした。
 事務的に淡々と説明ばかりしてきたこの味気無い音声装置の感情的な一辺を見て、ナズーリンは思わず驚いて光球を見やった。
『ゲームをしている時間と言うのは、あっと言う間に過ぎて行くものでしょう? 学校で退屈な授業を聞く五十分間と、ゲームに没頭する五十分間は、同じ五十分でも、体感速度は天と地ほどの差があります。それと同じことです』
 こう言われたものの、ゲームと言うものにあまり親しみの無い幻想郷に住むナズーリンには理解し難いものであったが、仕事をするよりは趣味の物探しに明け暮れている時の方が確かに時間の流れは早く感じる。それと同じものだろう――と、ナズーリンは自己解決した。

 姿勢を正し、戻りたい過去を思い描く。それはそれ程記憶を掘り起こさずともすぐに見つかった。
 主が我が家を尋ねてきた、あの瞬間である。
 戻るのはほんの数分前であって、恩恵が薄くも感じられるが、様子見としては打って付けだと思った。
 目が覚めたばかりで頭に血が巡っておらず、やや無愛想で要領の悪い応対をしてしまったことを、目を瞑ってできるだけ鮮明に思い描いていると、思い返している記憶の映像に、ザザ――と乱れが生じた。
 思い描いている光景から色と言う色が完全に抜け切って、白黒の映像となった。寝癖を見て微笑んでいる主の顔の左半分が消え失せる。ばたばたと出掛ける準備を始めた時の慌ただしく揺れる映像に映るあらゆる物の輪郭が波線で描かれて、何が何やら分からなくなって、
 プツン――視界がいきなり真っ暗になった。

*

 コンコンコン――木の扉を叩く音が聞こえる。
 ナズーリンは瞬く間に覚醒した。黒一色であった視界がパッと開けて、見慣れた自宅の天井が映る。いつの間にか無縁塚の近くにある我が家へ戻っていた。
 “旅立ちの間”のことも、“プレイヤーズガイド”のことも、明瞭に頭に残っている。そして、客人が玄関扉を叩く音で目が覚めると言うこの記憶も、しっかりと頭に入っていることが分かっている。
 ――本当に全ての情報を引き継いで過去へやってきてしまったのか!
 興奮が抑えられなかった。
 意識はこうしてとてもはっきりしているのだが、体の方がそれに追い付いていない。心はタイムスリップしたが、体の方は過去のもののようである。
 二度目のノックが響いた。
 ナズーリンは慌ててベッドから降りて、急いで玄関扉へ向かう。客人は、プレイヤーズガイドの言っていることが全て正しければ、寅丸星に違い無い。なるべく心象を良くしておきたいと言う一心で、動かない体で早急に玄関へ向かったのだ。
 しかし、急いては事をし損じるとは言ったもので、ナズーリンは玄関へ向かうその最中、誤って地面に置いていた壺を蹴飛ばしてしまった。ダウジングで見つけた貴重な品だ。かなり勢いよく駆け出していたものだから、蹴られた壺も相応の勢いで地面を転がって、壁にぶつかって制止した。無論、無事では済まなかった。口の一部が欠けてしまったのだ。
 蹴躓いて倒れるのをどうにか堪えたナズーリンは思わず小さな叫び声を上げ、蹴飛ばしてしまった壺に駆け寄った。欠損はすぐに見つかった。貴重な品であったが故に、時間が巻き戻っていると言うことも、客人が尋ねてきていると言うことも忘れて、壊れた壺を抱えて自身の失態を呪っていたのだが、
「ちょっと、ナズーリン? 大丈夫ですか?」
 扉の向こうから届いた客人の声でナズーリンは我に帰った。声は勿論、寅丸星のものである。
 ナズーリンは渋々壺をその場に置き、今度は物を蹴飛ばさないように慎重に玄関へと向かった。

 扉を開けると、毘沙門天代理の寅の妖怪が、随分心配そうな表情をして立っていた。
「おはようございます、ナズーリン。さっき随分大きな音がしましたが、大丈夫でしたか?」
「ええ、何でもありません。平気です。おはようございます」
 高価な壺を壊してしまった動揺から、やや不自然な言葉遣いで挨拶を返すナズーリン。
 平気です――とは言っているが、ナズーリンがいつも通りでないことは一目瞭然であったので、尚も星は気遣わしげな面持ちでいた。
「何か御用ですか?」
 ナズーリンの方から切り出すと、ようやく本来の要件を思い出したように「ああ」と呟いて、咳払いを一つすると、
「実は今日、河童がバザーを開くとのことで……」
 ついさっき聞いた憶えのあることをナズーリンに伝えた。
 ここでようやく、ナズーリンの心中の関心が、壺から現状へと移った。本当に過去に戻っていることが確認できたのである。
「……と言うことです。一緒に行きませんか?」
「寺の者はみんな行くのですか?」
「聖以外みんな行きますよ」
 ナズーリンの応対以外、ほぼ前と同じ展開である。
「すみません。少々やることがありますから、それを片付けてから行きますね」
 今度は落ち着いて言うことができた。
「分かりました。向こうで出会えたら合流しましょうね」
「ええ。是非」
「それじゃあ失礼します」
 星はお辞儀して、音もなく扉を閉めて去って行った。

 一人になって考え事をする隙ができたことで、冷静に現状を省みて、ナズーリンは呆然としてしまった。本当に時間が戻っていると言うのは、落ち着いて考えてみると、とても不思議なことであったからである。
 しばらくそうやってぼんやりとした後、ナズーリンはあることを思い出した。ゲームを『クリア』しなくてはいけない、ということである。
 寝ていたベッドへ駆け戻り、傍に立っている書物の塔を、上から順に崩して行く。一つ一つ表紙を確かめて、魔導書を探す。
 半ばでそれが見つかった。黒い革に金色の文字の題名が記された表紙。一つページを捲ってみれば件の魔法陣。
 ナズーリンはそれに手をやる。
 途端に魔法陣から白い光が飛び出して視界を包み込んだ。真っ白で何も見えないが、目が眩むとはまた違った感覚で、何とも形容し難い閃光である。
 白い光で視界が塞がれている最中、「コングラチュレーション」と言う一言が聞こえた。あの光球の声にそっくりであった。

 視界から一切の閃光が消え去ると、何も見えなくなる前と変わらない光景が視界に映った。
 枕の上に開いた魔導書。魔法陣は紙上に描かれた只の図画へと戻っていて、あんな狂ったような白い光を放っていたのが嘘の様である。
 辺りを見れば、雑然とした狭苦しい自宅の一室。窓の外はもうそれなりに明るい。
 見上げると見慣れた天井。貧相な照明器具は光を放っておらず、みすぼらしさに拍車が掛かっている。
 時計を見る。短針はもうすぐ「10」を指そうとしている。
 玄関扉にひと気は無い。
 体感的にはほんの数分間のことであるが、そんな短時間でも我が身に起きたことが信じられないナズーリンは、自分の存在が現実のものであることを確かめるように、手を握ったり開いたり、頬を抓ったりしてみた。そんなことが存在の証明となるかどうかは不明であったが、とりあえず夢ではないことは確実であった。

 ここでナズーリンは不意に、先程自分が行動していたらしいゲームの世界での出来事が、本当に現実とリンクしているかどうかを確かめる、手っ取り早い方法を思い付いた。
 ベッドから降りて、玄関扉へ向かう為の物と物の間をぴょんぴょんと飛んでいく。その途中の壁際の地点で立ち止まり、屈んである物を手に取った。
 壺である。ゲームの世界で誤って蹴飛ばして壊してしまった、あの高価な壺だ。
 注視せずとも、すぐに異変を発見できた。
「壊れてる……!」
 ゲームの世界で欠損した壺の口が壊れているではないか。
 ナズーリンは身震いした。――私は本当に過去を変えてしまった!
 再びベッドへ戻り、魔導書を見る。
 まだゲームはできるのだろうか――魔法陣に手を触れてみると、前と同じように、陣の中心から外側へと向かって魔力が広がって行く。その途中で紙面から手を離すと、広がっていた魔力は見る見る内に中心へ向かって収束していき、魔法陣は発光することなく、ただの図面としてそこに佇んだ。
「もう一度ゲームができる」
 ここには自分一人しかいないと言うのに、思わずナズーリンは発見した事実を口にしてしまった。
 興奮しているのだ。とんでもないマジックアイテムを入手していたものだと。
 遠目に、壁際に置き去りにした壊れた壺を見る。
 ――時を遡れるなら、あの壺だって直せる筈だ。
 よりよい未来を手にする為に、ナズーリンは再び“旅立ちの間”へとログインした。


『ようこそ、いらっしゃいませ』
 プレイヤーズガイドの声。もうナズーリンは驚くことはない。
「また来たよ」
『お好きですねえ』
「ああ。全く最高のゲームだよ、これは」
『そうですか。製作者も喜んでいることでしょう』
 光球もどこか嬉しそうに言う。
 ナズーリンは悠々と透明の椅子へと向かって歩き出す。時を遡った行先は既に心の中で決まっている。
 ゆっくりと腰を降ろし、満足げなため息を一つ。
 高揚した気分は、彼女を随分饒舌にした。
「しかし、不思議なものだね」
 光球を雑談の相手に定め、ナズーリンが話を始める。
『この本ですか?』
 プレイヤーズガイドは雑談機能まで備えているようである。
「うん。時を遡って、それを改善してしまうなんて。不思議で堪らないよ」
『改善とは限りませんよ。改悪の場合もございます』
「そうか。その辺りはプレイヤーの腕に依る訳だ」
『その通りです』
 光球が忙しく光度を強弱させる。何となく、機嫌がよさそうな感じが見受けられる。
「一体全体、この本はどうやってこんなことを可能にしているんだい? 時間を遡り、過去を改め、現実と繋げるなんて――幻想郷にこんなことできる妖怪がいるとは思えないな。私は確かに魔法の学が無い。だけど、そういう知識があった所でこの本の構造を理解し、再現することなんて到底できないように思う。ねえ、どうなっているんだい?」
 ナズーリンが問う。
 光の球はしばらく何も言わず、ふわふわとその場を漂っていたが、不意に上下に微動した。
 その様子を一目見れば、誰もがこう感じることだろう。――わらっている、と。
『そんなこと、あなたは知らなくて良いのですよ』
 ナズーリンは面食らった。何でも律義に答えてくれるものだとばかり思っていたからである。
『外界には実に多くのゲーム――テレビゲームと言う物が開発され、多くの人々に親しまれてきました。この本も、そのテレビゲームを目指して作られた魔導書です。しかし、外界でテレビゲームを楽しむほとんどの人間は、ゲームの内部構造など理解していません。横長長方形のカセットの中身がどうなっているのか。直径十数センチのディスクの中にどうやって膨大な量の情報を書き込んでいるのか。しっかり管理しないと失くしてしまう程にゲームソフトと言う物は小さくなっていく。それなのにそのクオリティは増々上昇していく。その仕組みを知りたがる者など、極僅かです』
 ここでプレイヤーズガイドは、一度言葉を区切った。ナズーリンのコメントを待っているようにも感じられたが、求められた当の本人は黙って言葉の先を待った。
 しばらくして、再び光球は語り出した。
『ゲームを楽しむのに、その構造を理解する必要なんて無いのです。それはあなたも同じです。この本が如何にして作られたか。どんな風に動作しているのか。そういうことは気にする必要はありません。プレイヤーはただひたすら、ゲームを楽しめば、それでいいのです』
 ナズーリンは外界のゲーム事情など知らないから、どう答えればいいものか分からず、
「結局君も良く分かっていないだけじゃないの?」
 こんな風に相手を茶化してみた。
『そんなことはございません。私はプレイヤーズガイドなのですから。このゲームのありとあらゆることを熟知しています』
「そうかい、そうかい」
 そろそろ長ったらしい雑談に飽きてきたナズーリンは、強引に話を打ち切って、お目当ての過去を脳裏に過らせた。
途端に視界が歪んで行く。だが、もう驚くこともしなかった。余裕綽々と言った様子でゆっくりと目を閉じる。

 頃合いを見計らって目を開いてみると――自宅のベッドの上であった。またナズーリンは時を遡ったのである。
 目を開いたタイミングは当てずっぽうではない。彼女は時を遡り、過去の自宅へ到着したと言うのを、敏感に感じ取っていたのだ。
 “旅立ちの間”と言うのはこれ以上無い程の無音の空間である。耳を欹てても、自分の息遣いや足音、それからプレイヤーズガイドの声以外には何も聞こえてこない。
 静けさならばナズーリンの住まいも負けてはいない。しかし、静かな場所と括っても、静寂の質はまるで違う。
 恐らく“旅立ちの間”を越える闃寂の世界を体験するには、命を断つ他無いであろうと、ナズーリンは思う。あの摩訶不思議な濃青色の世界には、生物の気配がまるで無いのである。命ある限り、何かしらの生き物が身の回りに存在するものである。だが、あの閑寂の世界にはそれが感じられない。
 故に、生物を感じなくなるには、自分が無感覚になる他無い。そしてその完璧な無感覚とは、死に他ならない。

 時計を見る。間もなく主が来る頃であることが分かった。
 今度はあんなヘマを起こさないようにと、ナズーリンはあらかじめ玄関への道を大きく取っておいた。
 先程タイムスリップした先で壊してしまった壺を見る。欠損部分は修復して、元通りの形になっている。壊れる以前へ戻ってきたからである。
 ナズーリンはそれを特に遠くへ置いた。羹に懲りて膾を吹くとはこういうことであろう。

 あれこれと策を講じていると、玄関扉が叩かれて音を立てた。
「おはようございます。ナズーリン、起きていますか?」
 寅丸星の声が響いた。
 予め大きめに作っておいた道を通って、悠々と玄関へ客人を迎える。
 扉を開き、
「おはようございます」
 と一言。寅丸星も改めて朝の挨拶を返し、
「何だか随分溌剌としていますね」
 ナズーリンを見てこう一言。
 そんなことありませんよ――とナズーリンは適当に応対した。
「何の御用でしょうか?」
 ナズーリンにとってはもう三度目のやり取りである。星の用件など分かり切ったことであるのだが、一応問うておかなければ、対話の流れがやや不自然になってしまうから、こうして問うているのである。
「実はですねぇ……」
 星は懐から河童達の開催するバザーの案内状を見せて、ナズーリンが今までに体験したのと同じようなことを言って聞かせた。
 これまた、ナズーリンにとっては聞き飽きた出来事である。喜びも薄れている。だからと言って、まるで初耳であるようにはしゃごうと言う気にはなれない。それとなく嬉しそうな態度でその誘いに乗った。
 星にとってこの誘いは『一度目』なのだから、彼女に悪意が無いのは当たり前である。しかし、同じ相手に、同じようなことを幾度も言って聞かされるのは若干もどかしく、そして面倒くさく感じられる。ナズーリンは、他者には到底理解できないであろうこの奇妙な苛々を表面に出してしまわないよう努めた。
「それじゃあ、ちょっと準備がありますので、先に行っててください。すぐ追い付きます」
 今回は壺も無事に守れたから、特に心残りな点が無い。さっさとゲームをクリアして合流して、現実に戻ってしまおう……とナズーリンは決めて、今までとは違う応対をした。
 大勢で行くと言う事実を知って落胆し、嘘を吐いて誘いを断った現実での一度目。
 そして、壺の損壊による動揺と、ゲームの信憑性を確かめる為の所謂“体験版”だった二度目。
 それらとは異なり、今回の意思決定は彼女が求める最善手である。

 ナズーリンはすぐさま屋内へ引き返し、ゲームをクリアしてしまおうとベッドの傍にある書籍の塔へ向かった。何段目かは知らないが、その中程にゲームクリアの為の本が存在する。それの魔法陣に手を触れてしまえば、現実に戻り、彼女が望んだ未来を手に入れられる。
 書籍の塔を崩そうと猿臂を伸ばすと同時に、主の声が妙に近くで聞こえてきた。
「うわぁ。噂には聞いていましたが、本当にごみごみした家ですねえ」
 寸暇を凌ぎに、星が屋内へ入ってきたのである。
 ナズーリンは動作を止めた。主を家の中へ入れるのは初めてである。少々恥ずかしくもあり、また緊張もした。
「入って早々失礼な!」
「すみません。しかし、想像以上だったもので」
 口では謝っているが星にはまるで謝意が感じられない。
 少年の様に、瞳を無垢な輝きに満たしてナズーリンの住まいを見回している。神様の代理と言う大層な身分ながら、星はややあどけない一面を持っている。良く言えば純粋無垢。悪く言えば幼稚である。ナズーリンには幼稚にしか映らないが、そこもまた彼女の魅力であると感じている。

「これは何です?」
 壁に掛けてある小さな棚に置いていた、細かな装飾の施された小箱を手にとった星が問う。
「それは宝石箱ですよ」
「宝石箱? 宝石を入れる箱ですか?」
「財宝を集める能力を持っているのにそんなことも知らないんですか……」
「私にとって宝石とは戦う道具の一つでしかありませんからね」
 星はからからと笑った後、宝石箱をいろんな方向から眺め始めた。「ほう」とか「へえ」とか、何に感心しているのか知らないが、とにかく感慨深げな声を何度も漏らしている。恐らく、手にしている物の価値は理解できていないであろうとナズーリンは思った。彼女にとって、寅丸星とはそういう妖怪なのである。
 楽しそうに収集品を見て回っている星を、ナズーリンは睦ましげにぼんやりと眺めていたが、ふと我に帰り、自分のやらなくてはいけないことを思い出した。

 改めてうず高く積まれた本へ向けて手を伸ばしたのと同時に、バンと大きな音を立てて玄関扉が開かれた。これには家主たるナズーリンは勿論、珍品の数々を眺めていた星までも驚いて、開かれた扉の方を見やった。
 立っているのは幽谷響子。最近になって星が神様として祀られている寺で過ごし始めた山彦と言う妖怪である。
 屋内と屋外の光度の差が大きく、玄関口から入り込んでくる光が玄関口の形に切り取られていて、そこに立っている響子は、まるで一つの絵画の様に見える。

「おはようございますナズーリンさん! 星さん、何してるんですか?」
 ナズーリンを迎えに行った星を追ってここまでやってきたらしい。星を待つ退屈な時間に耐え切れなくなったことが、妙に早口な口吻から読み取れる。彼女は早く出掛けたいのである。
「ナズーリンを待っているんですよ」
 星は穏やかにこう返す。
 ノックの一つもしないで扉を開け放っておきながら、律義に「お邪魔します」と一言添えて、響子もナズーリン宅に足を踏み入れた。そして星と同じように、数多くの珍品名品が雑駁と置かれている屋内を見て感動を覚えたようで、大きな感嘆の声を上げた。やや大袈裟な反応と感じられるかもしれないが、彼女の声が無駄に大きいのは元々である。山彦と言う妖怪が持つ本能かもしれない。
 響子が妖怪らしからぬしっかり者であることはナズーリンも知っているが、今の彼女の上気具合だと、収集品のことが心配で心配で、なかなか彼女から目を離すことができず、ゲームクリアの条件である本に近づくことができない。
 そうやってもたついていると、響子は品定めもそこそこにして、ナズーリンの方へ向き直した。
「ナズーリンさん、早く準備してくださいよぅ。みんな待っているんですよ」
「ああ、うん」
 お前の所為でやらなきゃいけないことができなかったんだよ――心中で毒づきながら、ナズーリンはベッドの方へ向かった。とにかく、ゲームをクリアしなくてはいけない。
 何段にも積み重ねられた本を上から取り去って行き、目当ての本を探し出す。本は前とほぼ同じタイミングで見つかった。黒い革と金の題字。ほっと安堵のため息を漏らし、本を開いた。

 次の瞬間、本が視界から消え去った。
 思わず「あっ」と声を上げるナズーリン。相変わらず犇めく宝物を見ていた星が、何事かと声の上がった方を向いた。
 響子がその本を奪い去ったのである。その顔はやや不機嫌そうだ。
「読書なんて後でもできるでしょう? 早く準備を……」
「ちょ、ちょっと、それ返して!」
 やけに食って掛かってきたナズーリンに驚いた響子が身を引いた。
 その瞬間、響子が何かに踵を引っ掛けて尻餅をついてしまった。
 続いて、尻餅をついた響子にナズーリンが蹴躓く。
 傍観していた星は今まさに起ころうとしている大惨事から目を背けんが為にぎゅっと目を瞑った。
 つんのめったナズーリンは、そのまま物の密集している地帯へ突っ込んでしまった。

 パリン、ガチャン、ガラガラガラ――如何せん文字では表現し辛いが、とにかくとてつもなく不幸且つ不吉な快音が屋内に響き渡る。
 響子は即座に後ろを振り返る。
「大丈夫ですか!?」
 持っていた本をベッドの上に投げ捨てて立ち上がり、珍品の破片の中に俯せで倒れているナズーリンに駆け寄る。
「お、お怪我は……?」
 恐る恐る問う。一目見ただけで高価と判断できる陶器や骨とう品の破片を見れば、甚大な被害を叩き出してしまったことは容易に察しがつく。全て響子が悪いと言う訳ではないのだが、責任を感じずにはいられない。
 響子の問いにナズーリンは応じず、しばらくその場からぴくりとも動かなかった。
 ナズーリンが何も言ってくれないので、響子の表情に不安の色が濃くなっていく。いっそのこと、激しく責め立てて貰えた方がいくらかマシな気分であった。
「あの、ナズーリン? 大丈夫ですか?」
 星も心配そうに尋ねる。
 ここでようやくナズーリンが動いた。珍品達の成れの果てに手を付き、体を起こす。カランカラン……重苦しい静寂に包まれてシンと静まり返った室内に響く陶器の残骸が織り成す乾いた音が空しい。
「あの、ええと……ほ、本当にごめんなさい」
 響子が改めて詫びを入れる。いつもの快活な様子はどこへやら、蚊の鳴く様ななんとも情けない声である。
 ナズーリンは立ち上がっても、響子や星の方へ向き直すこともしないで、『元宝物』の絨毯の上に立ち竦んでいたが、
「……あはは」
 次第に不気味な笑声を漏らし始めた。

 これには多大な罪悪感を秘めている響子は勿論、この場をどう取り纏めようかと思案している星も大いに驚き、自分達に背を向け、肩を震わせて笑っているナズーリンを見やるばかり。泣いているようにも見える。
 実際の所、ナズーリンは笑っていた。
 現実で無くてよかったと言う安堵の意。それから、あまりにも不運すぎる自分への憐憫の意――複雑な心境である。
 壊れた珍品を見下ろして立ち尽くしていると、不意に視界が歪んだ。無造作に床へとぶちまけたジグソーパズルのピースよりも何が何だか分からない状態の、大小様々な陶器の欠片が、不良な視界の影響で余計にその輪郭を失う。

 歪みが段々と酷くなる。目に映る全ての物の輪郭が、コーヒーの表面を漂うミルクのように、ぐにゃりと曲線を描いて行く。
 
 気付くと、ナズーリンは“旅立ちの間”へと戻っていた。
 宝物の残骸は消え果て、件のダークブルーと瑞々しいベールで出来た床が視界に映り、ナズーリンは驚いて周囲を見やる。
 光の球がふわふわと、ナズーリンの方へ近づいてきた。
『ようこそ。“旅立ちの間”へ』
 雑談まで交わした間柄であるのに、こうも慇懃で事務的な態度を取られても、やりづらいだけである。
「そんなことは知ってるよ」
 ナズーリンは不機嫌にそう吐き捨てた。説明書にあれこれ言っても仕方が無いとすぐに察し、今一番の疑問を投げかける。
「急にこの場へ戻されてしまったんだけど、これは一体どういうことだろう?」
『あなたが本に魔力を注ぐことなく、ゲームクリアの時間を迎えたので、こうなったのです』
 光の球――プレイヤーズガイドは即答する。
『あなたの場合、外界の時間で観測して二〇××年○○月□□日午前九時五一分〇八秒が、その時間に設定されています』
「なるほど。私はゲームを上手くクリアできないでゲーム終了の時間を迎えてしまったんだな」
 ゲームの世界とは言え散々な目に遭ってしまったが、また一つゲームのルールの理解ができたと、ナズーリンはなるべくポジティブに、この悲劇を受け止めておいた。
 付け加えたように「ありがとう」と、ナズーリンが素っ気無く礼を言う。「どういたしまして」と無味乾燥な声で光球からの返事がなされた。

 思考を終えると、ナズーリンは再び時を遡る椅子へと駆け寄り、どかっと腰掛けた。
『がんばりますね』
 光球が語り掛けてきた。
「がんばるとも。よりよい未来を手に入れられるんだから」
『ゲームは適度な休憩を取ってお楽しみ下さい。目安としましては一時間おきに十五分の……』
「はいはい、分かった分かった」
 ナズーリンは眼前の羽虫を散らすように手をばたつかせて、このお節介な光球を払い除けた。光球を僅かに減光した。しょんぼりしているように見受けられる。
 ナズーリンもそれには気付いていたが、構うことなく、目を瞑る。
「今度こそ上手くやってやるぞ」
 そして彼女は再び、主が外出の誘いの為に家を訪れる数分前へと戻って行った。


*


「おお、これはすごい!」
 幽谷響子が目を輝かせながら弄っているのは、河童が廃品から作り上げた『マジックハンド』と呼ばれるアイテムである。長い棒の先に物を挟む手が取り付けられている。手は柄の部分にあるレバーを操作するとその手が動いて、本当に物を掴むことができる。
「これでご飯の時の『ごめんちょっとお醤油取って』が解消できますね!」
 響子はそんなことを言いながら、その『マジックハンド』で封獣ぬえの翼を掴んで遊び始めた。ぬえはくすぐったそうに身を捩らせている。
「うーん……。普通に手渡しした方が速いのではないでしょうか?」
 星は響子が使っている奇怪な道具を眺めながら言う。
「見れば分かるわよ、そんなこと」
 舟幽霊、村紗水蜜が苦笑交じりに言う。
「ほら、売り物で遊ばない」
 入道使いの雲居一輪が、響子からマジックハンドを取り上げて店主の河童へ返却しようとしたが、二ツ岩マミゾウがそれを引っ手繰り、今度は響子の耳を挟んだ。一転して攻勢となったぬえの黄色い声援が響く。

 楽しげな仲間達を、ナズーリンは疲労と不興の色が隠見される、少し暗い表情で見ている。別にバザーがつまらない訳ではない。寧ろ、珍しい物を収集することを生き甲斐にしている彼女にとって、河童達の未知なる発明品は興味をそそるものばかりである。
 だが、これは彼女にとって最高の環境ではない。
 彼女にはバザーへの参加の他に、もう一つお目当てのものがある。
 それはもはや言うまでもないであろうが、寅丸星と言う妖怪である。彼女は星と二人でこのバザーへ参加することを望んでいる。
 しかし、星の方にはそういう気持ちは全然無いようである。今までそういうことを仄めかしたことも、それらしい仕草を見せたことも、只の一度さえも無い。
 ナズーリンも従者と言う身分故に、なかなか自身の気持ちを切り出せていない。それらしい素振りを見せたことは何度かあったが、主がそれに感付いたような様子は無い。
 大はしゃぎの響子とぬえ、それに悪乗りするマミゾウ。三人をやんわり制する一輪。そんな様子の四名を微笑ましげに眺める水蜜と星――絶妙な均衡を保った六名の織り成す騒々しさと付き合いながら、ナズーリンは心中でとある計画を練っていた。
 星の心情を操ろう――と言うものである。

 勿論、ナズーリンにそんな力は無い。彼女ができるのは簡単なダウジングによる宝探しであって、他者の心を操る術など持ち合わせていない。
 しかし、彼女にはあの本がある。時を遡り、未来を紡ぎ直すことができる、あのゲームがある。生まれた瞬間にまで戻れるのであれば、星と知り合う頃にまで戻れることになる。過去から矯正して、今をより良い物にしよう――と言う魂胆である。
 だからナズーリンはバザーをほっつき歩きながら、懸命に自身の記憶を掘り返していた。どこでどんなことをすればいいのか。主を振り向かせるには、どんな過去が必要か――。
 途中からそんなことばかりを考えていたが故に、河童のバザーなど完全に上の空であったのだが、それを気に病むことはなかった。
 本を開けば、再びこの時へ戻って来ることができるからである。
 いくらでも過去は矯正できる。普通はそんなことできないが、今のナズーリンはそれができる方法を持っている。
 だから彼女は今を蔑ろにして、ひたすらに、最善の未来を思って過ごしていた。

「ナズーリン?」
 何者かに不意に声を掛けられ、考え事が中途半端に断絶してしまった。
 ナズーリンが伏せていた顔を上げる。不思議そうに小首を傾げた村紗水蜜がいた。
 実はこの村紗水蜜、ナズーリンにとっては恋敵に相当する人物である。星の真意はさておき、この舟幽霊も、ナズーリンと同じように、寅丸星に大いなる魅力を感じている者なのである。
 ナズーリンは自らの愛慕について思慮を巡らせていた真っ最中であったから、恋敵に声を掛けられて、少々ムッとしてしまった。
「何だい、ムラサ」
 やや棘のある口調になってしまったが、水蜜は気にしていない様子である。元来、ナズーリンは愛想のいい妖怪ではないから、いつも通りに見えるのかもしれない。
「ううん。何だかずっと難しそうな顔をしてるから」
「そう? まあ、気にしないでいいよ」
「仕事が忙しいんだと思うけど、せっかく遊びに来てるんだから、今くらいそういうことは忘れてもいいんじゃない?」
 水蜜はナズーリンが事務的な考え事をしていると思い込んでいる。彼女にとってのナズーリンのイメージとはそういうものなのであろう。
「ああ、そうかもしれないね。ありがとう」
 ナズーリンは適当に返事をして水蜜を追い返す。
 いくらナズーリンの性格がどんなものかを知っている水蜜も、この素っ気無さにはいくらか不快感を覚えたらしく、一瞬眉を顰めた。
 しかし、いちいち場の雰囲気を壊すこともないと思い改め、何も言わずにその場を去って、二人の少し前を歩いている仲間達の方へと駆けて行った。

 あまりにもつんけんとし過ぎたかと、ナズーリンは少し自分の態度を悔いたが、すぐにそんな改悛も止めてしまった。
 無駄だと気付いたのである。何故なら、ナズーリンにはゲームがあるから。
 どうせ今歩んでいるこの現実は後々やり直す予定でいる。今がどんなに悪いものになろうとも、最終的には矯正してしまえば何ら問題ない――。
 そう思い至ると、雑多な喧騒に包まれているこんな場所をほっつき歩きながら考え事をするのが、とても馬鹿らしく、非効率的に感じられてきた。様々な河童の発明品、仲間達との関係、思い出――これらは全て、後から最適な形に紡ぎ直すことができる。
 ――『今』などどうでもいいじゃないか。正せばいいんだ。
 ナズーリンは仲間の群団を追うのを止め、人ごみの中にふらりと消えて行った。
「……あれ? ナズーリンは?」
 ぬえがようやくナズーリンがいなくなったことに気付いた頃には、彼女は既にバザーの会場を出ていて、自宅に戻る道中であった。
 一言「帰る」と言い添えた方がよかったのかもしれないが、悪い選択も修正できるから、ナズーリンはそのまま帰っていた。

 自宅へ戻ると、枕の上に置いたままにしていた本を開いて、魔法陣に手を触れる。
 体はあっと言う間に“旅立ちの間”へと飛ばされる。
 緩慢な動きでプレイヤーズガイドが近づいてきた。
『ようこそ』
 簡素な挨拶がなされた。この光球も学習能力があるようだ。ナズーリンが初めてゲームをプレイする者ではないことを見抜いて、挨拶が簡略化されている。
「また来たよ」
 ナズーリンは軽やかな足取りで椅子へと向かう。光の球がそれに追随する。
『本当にこのゲームがお好きのようですね』
 プレイヤーズガイドが雑談を持ちかけてきた。ナズーリンはこくりと頷く。
「ああ。前も言っただろう。これは最高のゲームだって」
『どの辺りが最高なのでしょう?』
「そりゃ勿論、過去を直すことができるところさ」
 椅子の置かれた台座の階段まで差し掛かると、ナズーリンは歩みを止めて、最も下の段に腰かけ、光球の方を見た。それなりの光度を持っているのに、熱が少しも感じられないし、目も眩まない。不思議な光である。
「誰が見ても最高のゲームだよ」
 こう言うと、光球がうすぼんやりとした点滅をした。
『所謂、神ゲーと言うことですね』
「かみげー?」
 ナズーリンが首を傾げる。
『外界の言葉です。非常に秀逸なゲームに対して送られる賛辞です』
 こう言われてナズーリンは、「かみげー」がどんな風に書かれるのかを理解したように「なるほど」と一言。
「神のゲームね?」
『はい』
「安い言葉だな」
 ナズーリンはくつくつと笑い、しばらくしてそのどこかあくどい笑い声を暗溶させた。
「これはその神ゲーとか言うものも越えているんじゃないか? 時を遡る神様なんて、そうそういるものじゃない。神の力を越えているよ。非の打ち所がない」
『完全無欠なゲームなど、本当に存在するのでしょうか?』
 プレイヤーズガイドがこんなことを言う。
 相変わらずその声色は機械音性的な味気無さなのだが、放った言葉の内容が内容なものだから、少しばかりしんみりとした風に、闃然たる空間に響き渡る。
 ナズーリンは怪訝な表情を浮かべる。
「このゲームに欠陥があると言うのかい?」
『そうは申しておりません。しかし、外界の様子を見ていると、完全無欠のゲームと言うのは存在しないのです』
 プレイヤーズガイドはここで一度言葉を区切った。ナズーリンは無言による圧力でその先を促す。

 マイペースに、プレイヤーズガイドは語りを再開する。
『どんなに楽しいゲームであっても、こうなってほしい、こうなっていればいい――と言う願望が必ず付き纏います。それを満たすと、また新たな要望が発生します。どれほど練磨していったゲームでも、ソフトの開発環境が発展していくと、今度はリメイクの声が上がります。つまり、新たなステージ――ゲームハードで、過去の名作を復元させてほしいというものですね。このように、人の満足と言うのはなかなか満たされないものなのです』
「それはただ単に、人間の作るゲームがろくでもないものばかりと言うだけなんじゃないか」
 ナズーリンが即答する。
「このゲームなら絶対、みんな満足するよ」
 光球がどこか物悲しげなグラデーションを描いた。
『しかし、バーチャルなゲームの歴史は、幻想郷よりも外界の方が遥かに進んでいます』
「技術の進みや遅れなんて問題じゃないよ。外界の人間達は、ゲームで完全な満足を得たことがないんだろ? だったらその力はたいしたものじゃないってことさ」
『と言うことは、あなたはこのゲームで満足しているんですね?』
 ナズーリンが頷く。
「同じようなことをさっきも言っただろ」
 何だか面白くない会話になってきたから、ナズーリンは立ち上がり、今しがた座っていた階段をゆっくりと登り始めた。
「戻れる時の限度は?」
 ナズーリンが問う。
『あなたが生まれた瞬間まで』
 先程まで悲観的なことを言っていたプレイヤーズガイドは、そんな様子を微塵にも見せない様子で、その問いに即答した。
「生まれた瞬間か……。そこまで戻っても記憶は引き継がれるのかい?」
『はい』
 ふうん――ナズーリンは含みのある笑みを浮かべる。
「生まれながらにしてこの頭脳とくれば、私は天才になれるのかもしれないな」
『確かに、誕生した直後の妖怪としてはあり得ない程の知能と情報を持ち合わせていることになりますね』
「そうだね。未来を経験しているんだから、予知能力を持っていることになる」
 ナズーリンは楽しそうに言う。光球が何も言わず、ナズーリンの後ろに追随している。

 椅子に到着すると、ナズーリンはそっとそれに腰かけた。
 それから目を瞑り、河童のバザー会場を歩き回っていた時からずっと考えていた、戻りたい地点を思い浮かべる。
 ……その前に、薄っすら目を開け、およそ十歩分先で浮かんでいるプレイヤーズガイドを見て、にやりと笑った。
「やっぱり、このゲームは最高だと思うな」
『左様でございますか』
 揺曳する光球の生き物らしくない声。
「だって、望む未来を手に入れられるんだよ? 嫌だったこと、忘れたいことを、私の思い通りの形に正す機会を得られる。普通に生きていたんじゃ、こんなことは絶対にありえない。このゲームの何処に不満点があると言うんだい? このゲームの気に食わない点って? ありえないね。絶対に見つからない」
 こう言うと、ナズーリンは満足げなため息を吐いた。そして、いよいよ自身の恋情の成就の為の旅へ出掛けようと、再び目を瞑る。

『このゲームのプレイヤーのほとんどは変えたい過去をお持ちですが……あなたはそれが随分多いようです』
 不意に聞こえてきたプレイヤーズガイドの声。
 あまり面白そうな話題でないので、ナズーリンは無視した。
 しかし、
『過去の否定とは、自分の否定に等しい。そうは思いませんか?』
 ズン――と、心臓が重たくなる。そして、腹の底に熱を持たない溶けた金属がどろどろと流れ込んでくるような不快感が襲い来る。
 時を遡る際特有の浮遊感が体を包み込む。
 ナズーリンは思わず、薄っすらと目を開けてみた。言い知れぬ恐怖心が彼女にそうさせたのだ。
 僅かに開いた眼前に漂っているプレイヤーズガイドは、相変わらず只の光球であったが、
『あなたはご自分が嫌いなようだ』
 その只の光球に、ナズーリンは心底恐怖していた。


*


 不意に視界が開けた。小広い一室が視界に映る。
 全体的に白色が目立つ空間であるが、その城の一端に金の蔓のような装飾が描かれている。神秘的で清潔感のある、荘厳な壁である。
 視界の中には、机に椅子、本がびっちりと並べられた本棚、寝具など、ありふれた調度品が並んでいる。
 すぐ後ろに壁があるらしく、ナズーリンは半歩たりとも後退することができない。

 今までの時間の旅には現れていない部屋であるが、ナズーリンはこの部屋を知っている。
 しかし、ここはお寺の一室ではない。お寺にもいろんな部屋があるが、もっと質素な作りになっている。
 勿論、自宅でもない。あの掘立小屋の内部がこんな小奇麗に纏められていたら、遍く来客は内と外のギャップに苦笑することであろう。そもそも、ナズーリンが集めまくった、足の踏み場もなくなる程の財宝の類がこの部屋には一切無い。
 ここは、ナズーリンの職場である。だが、すぐ前に述べた通り、お寺――命蓮寺ではない。言わば、彼女の本職の職場とでも言うべきであろうか。

 ナズーリンは現在、毘沙門天代理として地上で活動している寅丸星の活動を監視・援助しているのは前にも述べた通りである。
 監視と言う言葉から読み取れる通り、星が神様としてしっかりと仕事をしているかどうか、毘沙門天の名誉を失墜させる行いをしないかどうかを、本物の毘沙門天が見張らせている。そんな仕事を、毘沙門天本人がそんじょそこらの妖怪に任せる筈がないことはお分かり頂けるであろう。
 ナズーリンは、本物の毘沙門天の命を受け、星を監視している。つまり、彼女は元々、本物の毘沙門天の元で働いている妖怪なのである。
 今、彼女の視界に映っている純白の美しい壁面は、その毘沙門天の元で働いていた頃の職場のものなのである。

 しかし、少し様子がおかしい。
 妙に視界が高いのである。過去へ遡ったのだから、当時と現在で幾らかの身長の差はあれども、流石に体験したことのない程の高さに目線が定められていれば、そのおかしさに気付くことは容易い。
 空を飛んでいる訳ではない。何せ、ここはどう考えても屋内であるから飛ぶ訳が無いし、その上しっかりと足の裏は地を踏んでいる。ただ、何故か足元はぐらついている。ナズーリンが揺らいでいるのではない。地面そのものがぐらぐらと不安定なのである。
 更に違和感がもう一つ。少しだけ首が苦しい。――制服に首飾りなんて指定されていたっけ? 長らく本物の毘沙門天の元へ戻っていないから、記憶が曖昧であった。
 何だろうと思い、ナズーリンは首に手を当ててみる。
 ざらりとしていて、僅かに毛羽立っていて、細かく波打っている感触がした、それなりの径を持っているもの。それが、自分の首を、一周している。
 ――縄?
 次にナズーリンは足元を見てみる。
 自分が立っているのは、ガタの来ている木箱の上であることが分かった。
 反射的に上を見る。勢いよく見上げた所為で頭頂部が壁にぶつかったが、痛みなど感じない。感じている場合ではない。
 相変わらず白くて神秘的な雰囲気を漂わせている壁の上部に格子窓が一つ設えられている。朝方か、夕方か――詳しくは分からないが、とにかく美しい赤色の陽光が差し込んでいる。床に格子窓の影がくっきりと描かれているが、ナズーリンはそれに気付いていないし、別に気付いた所で何かが変わる訳でもあるまい。
 格子窓には縄が結んである。黄金色の、直径およそ五センチの、見るからに強靭な縄だ。その結び目は兎に角不細工で、豪く醜い。しかし、強度だけは確かであることが一目瞭然である。ちょっとやそっとじゃ解けないであろう。
 その結び目から伸びる縄を目で追う。しばらくすれば、壁を伝う蛇の様に下へ下へとスルスルと垂れて来ている縄は見えなくなるのだが――それが自分の首へと繋がっていることは、誰でも予測が付く。
「首吊り?」
 ナズーリンは思わず呟いてしまった。
 ――私は、死のうとしている?

 しばらくの間、ぐらつく木箱の上に呆然と佇んでいると……おかしな笑いが漏れてきた。
 ――どうして私が死ななくちゃいけないんだ? しかも、誰かの恨みを買って殺される訳でもない。どうして自ら命を断とうとしているんだ!
 ナズーリンは首をぐるりと一周している縄に手を掛けた。解こうとしたのだ。
 その時、格子窓の向こう側から、何者かの声が聞こえてきた。単一のものではない。三つの声が無造作に重なって聞こえてくる。
 刹那、心臓がきゅっと縮んだ。しかし、反動で大きく膨張する感覚が無い。不自然な緊張であった。
 ナズーリンはこの声を知っている。
 心臓が――生命の原動機が、縮こまったまま戻ってくれない。委縮している。恐怖している。慄いているのだ。――窓の外から聞こえてくる、その声に。
「あいつ今何してんだろうね」
「さあ。どうでもいいよ」
「本当に使えない奴だ」
 首に絡み付く毒蛇を振り解こうとしていた手がピタリと止まる。
 聞きたくないのに。心臓に悪いのに。耳はどうしても、その声を意識する。
「毘沙門天様も呆れていらっしゃる」
「その癖、顕示欲は高い」
「ナズーリンめ。あいつは一体何なのだ?」
 手がぶらんと投げ出された。
「近々地上へ更迭だそうだ」
「おお、ついにお払い箱?」
「いいや。何でも毘沙門天様の代理となる妖怪の子守りをさせるそうだ」
「なるほど。あいつに相応しい仕事じゃないか」
「さすがにその程度の仕事はできるだろうな」
「そんなこともできなかったら本格的にお払い箱だよ」
 そして響く三重の笑声。誰が聞いても嘲笑だと分かる、憎たらしくて嫌らしい笑い声。
 ナズーリンの視界が涙で滲む。頬を伝った雫がぱたん、ぱたんと、がらんどうの木箱を叩く。

 プレイヤーズガイドの声が脳内で繰り返される。
 ――このゲームのプレイヤーのほとんどは変えたい過去をお持ちですが……あなたはそれが随分多いようです
 ――過去の否定とは、自分の否定に等しい。そうは思いませんか?
 ――あなたはご自分が嫌いなようだ
 時の旅への出発の直前に吐かれたあの痛烈な三つの言葉が、ナズーリンをこの忌わしい過去へと導いたのである。
 遡る過去の行く先を決めるのは本人の意識だ。ナズーリンが『その気』とあれば、こんな嫌な過去にだって辿り着くことができるのだ。

 ナズーリンは毘沙門天の配下として無能であった。
 何を命ぜられても満足な仕事ができず、遍く仲間に蔑まれていた。
 逃れることはできなかった。生まれながらにして、彼女は毘沙門天の配下と言う職を約束された身であったから。
 上司に呆れられ、同僚に嗤われ、部下に見下される日々を、彼女は懸命に生き伸びてきていたのである。
 その挙句、地上への異動である。異動と言えば聞こえがいいが、そんなものは建前で、実質解雇――お払い箱――厄介払いとでも言った方が適切であろう。毘沙門天の代理を務める妖怪の監視と援助など、本物の神に使える者がやるにはあまりにもお粗末な仕事である。長年の監視の末、代理の妖怪――寅丸星の誠実さは立証されたであろうに、帰還の命が来ないのも、それを裏付ける証拠だ。

 しかし、地上へ降りてからの彼女は幸せであった。
 誰も、毘沙門天の元で彼女がどんな評価を受けているかどうかなど知らないからである。何も知らない寺の連中の前で彼女は『本物の神に仕える高貴な妖怪』になれたのだ。
 その自尊心は彼女に尊大な素振りをさせた。代理に満足する寺の住職兼大魔法使い聖白蓮を蔑視し、代理である寅丸星を見下し、そんな彼女を慕う全ての者を心中で嘲笑っていた。
 時が経つに連れてその軽蔑の炎は消え、こと寅丸星へ対しては恋情の火を灯すこととなったが、もしかしたらその恋情の火と言うのは、下火になっていた軽蔑の炎が再燃したものなのかもしれない。
 忘れよう、見て見ぬふりをしようと、懸命に心の隅へ隅へと追いやっていた記憶であったのに、まさかこんな形で想起されてしまうとは、想像もしていなかったであろう。

 嘲りの声が遠ざかって行く。それにつれて、懸命に現実から逃避しようとしていた意識が舞い戻って来た。
 しばらくナズーリンは、首に縄を括ったまま啜り泣いた。
 机の脇の屑籠には大量の紙屑がぶち込まれている。彼女なりの努力の証である。それによってぽつぽつと芽生えた大成の萌芽は、ろくすっぽ開花せずに腐って行くばかりであったが。
 募る焦燥感、高まる劣等感――そう言ったものに耐え切れず、遂にナズーリンは、こうしてお手軽な絞首台を一つ拵えて、その上に立ってみたのである。
 あの時は、どうしたんだっけ――ナズーリンはぼんやりと、昔に降り立ち、その昔を思い出していた。
 そう深く考えずとも答えは出た。ナズーリンは生きたのだ。彼女の未来は途切れることなく存在している。だからこうして、忌々しい過去へ戻って来てしまったのだから。
 こんなお膳立てまでしておいて、結局彼女は思い直したのだ。臆病者の彼女は死ぬ勇気も無かったのだ。
 しかし、
「今度は間違えない」
 ナズーリンは涙を拭った。
 そして一度、大きく深呼吸をして、
 木箱を蹴った。
 足は踏み場を無くす。体が宙にぶら下がる。
 一瞬だけ、想像を絶する苦しみが彼女を襲ったが、すぐに視界が真っ暗になって、頭がぼーっとして、陶然たる気分に陥った。
 ナズーリンは笑っていた。
 ――最高のゲームだ。まさか、生を終わらせるお膳立てをしてくれるとは。




『おお、プレイヤーさん。死んでしまうとは情けない』
 濃青の世界。散りばめられている色取り取りの星。流水の様な清きベール。ホールケーキを思わせる台座。透き通った椅子。浮かぶ光の球。明瞭な意識。疲労感。動揺。
 突き付けられた現実を許容し、そして理解するのに、ナズーリンは少々時間を要した。
 確かに首を吊って死んだ筈だった。その瞬間の感覚も記憶も鮮明に記憶に刻みつけられている。
 それなのに、彼女は確かに、このダークブルーの世界に立っている。
「ど、どういうことだ?」
 独り言のようにナズーリンがぼやくと、ふわふわと光球――プレイヤーズガイドが近づいてきて、彼女の耳元で囁いた。
『ゲーム中に死亡した場合、プレイヤーは“旅立ちの間”に戻されるのです』
「そんな……聞いてないぞ、そんなこと!」
『お答えしていませんよ。そのことを問われなかったものですから』
 事務的で、淡泊で、のっぺりとした声で、事も無げにプレイヤーズガイドは言う。
『しかし、親切な設定でしょう? 不幸な事故であなたの未来を紡ぐ旅が中断されないのですから』
 やや誇らしげに光球はこんなことを言った。
 ナズーリンは、苛立ちなどというものよりも、先ず恐怖と羞恥が先行した。あの過去は彼女にとっての汚点でしかないものだ。二度と見たくないくらい悍ましい光景であり、そしてこれ以上無い屈辱の記憶なのだ。
 何も言わず、ナズーリンは台座の上にある椅子に向かって駆け出した。全く同じ速度で、光球がそれを追う。
 走行の惰性をほとんど殺さず、ナズーリンが椅子に飛び乗る。そして間髪入れずに目を閉じた。また彼女は過去へ行こうとしているのである。
 光球が揺曳しながら、またいらぬことをナズーリンに囁く。
「あなたは――」
「黙ってろッ!」
 ナズーリンは怒号を上げてそれを制した。
「行きたい過去があるんだ! 私の思考に入り込んでくるな! 余計な口出しをするな!」
 光球がほんの少しだけその径を縮ませた。ナズーリンの感情的な大声に委縮したのでは無い。まるで肩でもすかしているかのような、そんな印象を受ける約まりであった。

 おかしな過去を思い浮かべて椅子に座ったから、あんな忌わしい過去に辿り着いてしまったのだ。改変したい部分だけを集中して思えばいい――ナズーリンは自分に言い聞かせる。心を説得するなんてそう易々とできるものではないが、ナズーリンは死に物狂いで自分の心を操ろうとした。
 先程の時の旅の影響で、忌避したい思い出が脳内でやたらと自己主張を始めている。それから目を――心を背けるのは至難の業である。
 どんなに避けようとしても、まるで瞼の裏に焼き付いているかの様に、あの辛い日々がちらついてくる。透過して視界の上におっ被さっているかのようである。
 苦悶に歪むナズーリンの表情を、プレイヤーズガイドは言われた通り、宙を漂いながら黙って見下ろしていた。

 時が動いた。
 視界を支配したのは、忌わしい毘沙門天配下の活動拠点。全てが先程と変わっていない。遍く調度品の配置も、格子型の影を作り出している赤い陽光も、聞こえてくる嘲りの声も、全て。
 ――本当に使えないやつだ。
「違うッ! ここじゃない!」
 ゲーム中と言うことも忘れてナズーリンは叫び、木箱を蹴る。格子窓の外から訝しげな声が聞こえたが、時を待たずして絶命したナズーリンには、何を言っているのかは聞き取ることができなかった。

 また、旅立ちの間に戻ってきた。
『死亡によるペナルティなどは一切ございません。旅立ちの間に戻る方法は、本を開かずにゲームクリアの時間を迎えるか、ゲーム中に死亡するかの何れかとなります。必要とあれば、どんどん死んで頂いて構いません』
 おかえりなさいの類の言葉も無しに、淡々とプレイヤーズガイドが説明をする。それが終わるとふわふわと椅子の方へ飛んで行った。まるで、ナズーリンを誘っているかのようである。
「違う、違うんだ」
 ナズーリンがのろのろと台座へ向かって歩み出す。
「私が行きたいのはあんな過去じゃない」
 当然のことであるが、彼女は今まで死亡した経験など一度も無い。現実の死とゲームの死は恐らく同一のものではないであろうが、ここでの死亡は体への負担が全く無かった。
 但し、もう二度も自害していると言う事実と、時を戻ったらまた死ななくてはいけないのかもしれないと言う怯えによる精神的な負担は計り知れない。これは、現実の世界ではそう簡単には体験できない恐怖である。通常、命は一人一つなのだから。

 階段で蹴躓いてしまった。
 それでもナズーリンは歩みを止めず、時を遡る椅子を目指す。
 ゆっくりと椅子に座る。心を落ち着けさせ、彼女が一番行きたい過去を思い描こうと努める。
 もう死にたくない。死にたくない。あんな過去へは戻りたくない――。
 思い浮かべるが故に、望まない過去への旅を強いられてしまうのだが、一度意識してしまったことを頭から追いやるのはとても困難だ。厭い過去など考えるなと考えるが故に、厭い過去を思ってしまうと言う、究極のジレンマに苛まれてしまっている。

 心模様の操作に躍起になっている内に、時間を遡っていた。
 しかし、行先はやはりあの御手製の絞首台の上であった。
 ナズーリンはゲームそのものに憎悪を感じ始めた。プレイヤーはナズーリンであって、この時間の旅の行き先をコントロールしているのは、ナズーリン自身であるのに。
 またあの陰口が聞こえてきた。もう四度目である。聞き慣れることができない。何度聞いても初めて聞く様な、不必要な新鮮さがあって、どうしようもなく不愉快で、耐え難い。
 刹那、ナズーリンは一つの閃きを得た。そして、首の縄を解きに掛かった。
 几帳面で合理性を重んじる彼女の死に舞台として用意された首吊り縄にしてはやたらと雑な結び目は、解くのがなかなか困難であった。どうせ死ぬから結び目なんてどうでもよかったのだろうか――当時の自分の心境などナズーリンは憶えていないが、この雑すぎる結び目に対する苛立ちを隠すことができなかった。
 やっとの思いで縄を解くと、それを地面へ投げ捨てた。ここまでは彼女の記憶にある過去とそう変わらない。
 だが、彼女はいちいち、一度歩んだ生をもう一度歩み直そうなどと言うことは考えなかった。
 机の上に転がっている万年筆を引っ掴んで、自室を出た。

 猛然たる勢いで、格子窓の外で自分を嘲笑っていた三人の毘沙門天配下を探す。もう千年以上会ってないし、嫌悪感で何者かを殺せるのなら、間違いなく数千回は殺している程には大嫌いな奴らだったが、それ故に顔を忘れたくても忘れることができない。顔はしっかりと憶えていた。
 廊下を駆け抜け、勝手口に当たる扉から外へ出る。
 扉を開けるとすぐに憎き三人が目に映った。
 息を切らし、ぎらぎらと凶悪な光を瞳に宿しているナズーリンに、三人は些か動揺したようであったが、所詮相手は木偶の坊。恐れるに足らず――なんて愚か、何やら様子のおかしいナズーリンを嘲けるような様子を見せた。やっぱりこいつは頭のおかしな奴なんだ――三人の目はそう言っている。
「どうしたの? そんなに息を切らして」
 三人の内の一人が問う。声色もやはりどこか人を馬鹿にたような口調であった。心配の意は言葉の選定のみで終了している。その選ばれた憂慮の言葉に、侮蔑と嫌悪感が乗っかって吐き出されている。心と言葉が裏腹だ。聞いているだけで胸がむかむかした。
 ナズーリンは何も答えずに三人を睨み付ける。
 体の一際小さいナズーリンが下から見上げるように睨めてきても、それには迫力と言うものが圧倒的に足りていない。滑稽にさえ見えた。猫でさえ、威嚇する時は自分を大きく見せる為に気を逆立てると言うのに、ナズーリンにはその気配すら見えない。使えない人材が胸に秘めてるちっぽけでつまらない自尊心の行わせる、中身の無い威嚇――それはそれは、普段から彼女を馬鹿にしている三人には滑稽に映るのである。

 しかし、ナズーリンは狼狽えない。
 彼女にはゲームと言う後ろ盾があるから。彼女にはゲームが付いている。世界で唯一、時間を遡ることを許された選ばれし存在。
 勇者だ。
 自分の人生の汚点を正してくれる勇者――それはまさに、今の自分なのだ。

 そもそも、合理性を重んじるナズーリンにとって、『威嚇』などと言う行動は愚の骨頂なのである。
 野太い声でワンワン吼えようが、全身の毛と言う毛を逆立ててフーフー言わせようが、巨大な目を模った薄気味悪い羽を持とうが、結局勝てない相手には勝てないし、威嚇だけしていては勝てる相手にさえ勝てない。
 倒せない相手からは素早く遠ざかる。いちいち相手になどしない方がいい。逆に、倒せる相手、若しくは倒すべき標的は、細々と策を弄していないで全力で潰しに掛かる。
 今のナズーリンにとって、三人は後者に当たる。殺すべき相手だ。
 
 見ているだけで向かっ腹が立ってくる顔でにやにや笑っている三人目掛けて駆け出す。素早さだけには自信があった。
 袖口に忍ばせていた万年筆のペン先をさっと取り出す。
 それを見て、三人はようやく自分達の身に差し迫っている危機に感付いたようであったが――少し遅かった。ナズーリンは素早い。

 黒いインクをほのかに滲ませた万年筆の尖端が、横に並んだ三人の内、真ん中の物の目を穿った。
 被害者は驚愕で顔を固めたまま後ろへ倒れていく。その後この場は、咆哮と悲鳴の織り成す狂騒と、血の赤とインクの黒、そして白亜の衣装を纏った聖職者と、灰色の殺人鬼が各々好き勝手に踊り狂う、陰惨な舞踏会の会場となったので誰も気付かなかったのだが、この第一の被害者は以後ぴくりとも動くことはなかった。舞踏する三名の足元で、相変わらずびっくりした表情のまま、右目から血をどくどくと流して天井を見上げていた。

 それ程時を待たずして、舞踏会が終焉を迎える。
 初めの一人は目を穿たれ、それが脳にまで達して死んでいる。
 二人目は喉を貫かれたらしい。随分苦しんだのだろう。表情は苦痛と悶絶で歪み切っている。
 そして三人目は、胸元に幾多の穴ぼこを開けて、血まみれになって死んでいる。穴の配列も径も深さもまちまちで、出来そこないの蓮根みたいな状態となっている。
 酸鼻極まる舞踏会の主役であったナズーリンも、二名の必死の抵抗によってかなり負傷している。歯が数本欠け、ぶん殴られて右目はほとんど塞がっている。いつの間には爪まで剥がれていた。肋骨に激しい痛みを感じた。折れているのだろうと思った。
 すっかり静まりかえった元舞踏会場で、ぼんやりと鳶座りをして佇む。少し、未来を思っていた。
 ――この過去はどんな未来を紡ぐのだろう?
 ろくでもない生だろうなあと、ナズーリンは思わずくつくつと笑い始めてしまったのだが、
 不意に何者かが彼女の頭を、鈍器でぶん殴った。
 犯人――守衛の一人――の姿を見る隙も、痛がる隙さえもなく、彼女の意識はぶっつりと切れた。

 次に目覚めた時いた場所は、やはりと言うべきであろう、“旅立ちの間”だった。落ち着いた色合いの世界で、ふざけた色と形をした星々が相変わらずちかちかと目障りな明るさを放っている。
 一応、自分の手を見てみた。爪は健在しているし、血で汚れてもいない。
 光球が近づいてきた。
『おお、プレイヤーよ。死んでしまうとは情けない』
 ナズーリンはぎろりと近づいてきたそれを睨み付ける。
 何も言わないで、台座へ向かった。
 心なしか、胸がすっとしていた。
 彼女の心に巣食っていた、まるで壁に深く突き刺さり過ぎてどうしても抜けなくなっていた画鋲の様な存在を、自らの手で葬り去れたのだから。
 ゲームの途中で死んでしまったのだから、これで現実へ戻っても未来を変えることはできない。それでも――例えこのセーブデータがふいになったとしても――、あの忌まわしい三人を殺したと言う実績は彼女の記憶の中に残る。過去は矯正できても、思い出は覆せない。何だか、自分にトロフィーでも送りたい気分になった。

 椅子に座り、高揚している気分を落ち着かせる。殺戮と言う慣れないことを仕出かした後だからであろうか、心臓がドキドキと高鳴って、なかなか鳴りやまないのである。
 こんな調子では、またあの自殺寸前の所へ戻ってしまう――いい加減、あの光景には飽き飽きしていたから、ナズーリンはそろそろ本題へ戻ろうと決意し、その自助努力を始めた。
 本当に矯正したい過去の一端を思い描く。
 刺激的な記憶を掘り起こしてしまったり、血飛沫迸る凄惨な思い出作りを経験したりしたお陰で、まともな過去を思うことがやや難しかったが、思いを巡らせている内に、ナズーリンはそれらの忌わしい記憶をどうにか撥ね退けて、自身の望む過去を思い浮かべることができるようになっていた。

 しかし――いつまで経っても、あの独特の浮遊感が襲って来ない。
 始まらない。時が、戻らない。
 ナズーリンはパッと目を開いた。嫌な汗が背から吹き出してきて、体中をぐっしょりと濡らす。この“旅立ちの間”で、初めて寒いと言う感覚を覚えた。
 すぐ傍に浮かんでいる光球を睨み付ける。光の球と言うだけあって、このプレイヤーズガイドには顔と呼べるものは存在しないが、音も無く浮遊しているこの光球を眺めている内に、ナズーリンは自分が小馬鹿にされているような不快感を覚え始めた。
「おい」
 やっと一言、ナズーリンが言葉を漏らす。
「戻れないぞ」
『勿論です』
 光球が言う。
「どういうことだ!」
『あなたの戻りたいと願っているその記憶は、今いる地点からすると未来に相当するからです』
「未来、だって?」
 ナズーリンは唖然としてプレイヤーズガイドを見つめる。
『そうです。あなたは千年以上時を遡りました。それ以降は、今のあなたにとっては未来なのですよ。未踏の時間です。その未踏の未来を紡ぎ直すのがこのゲームなのです。これ、初めに言いませんでしたっけ?』
 そう――ナズーリンが本物の毘沙門天の元で奔命していたのは、プレイヤーズガイドの言う通り、遠い昔の話である。魔力を魔法陣へ注入した際、そこから記憶を読み取ったので、この光球はその事実を知っている。
 ナズーリンがゆっくりと立ち上がり、よろよろと光球に近づく。縋り付くように手を伸ばしたが、光球に触れることはできない。すぅ――と、伸ばした手は光球を貫き、そのまま地面へ投げ出された。
 両手両膝を地面へ着け、呆然としたまま地面を見やる。
「それじゃあ、どうすればいいんだ? 私は、私は、現実に帰りたい」
 光球は淡々と言う。
『現実世界へ帰還するには、ゲームをクリアすることです。世界のどこかにあるこの本に魔力を注入し――』
「そんなことは分かってるんだ! どうやってクリアすればいいんだよ!」
 震えた声を悟られたくないのか、それとも激情が声を大きくしているだけなのか、とにかくナズーリンは耳を劈くような金切り声で、散々聞き、体験してきたことをいちいち光球に問うた。自分でも訳が分からなくなっているのである。
 この世界が広いのか狭いのか、はっきりとしたことは分からなかったが、ナズーリンの声は響くことなく、深海の様なダークブルーの背景の彼方へと飲み込まれていくように消えて行った。
『先ずは本を見つけ……』
「本はどこにあるんだ」
 ナズーリンがプレイヤーズガイドの言葉を遮る。
『どこにあるかまでは申し上げられませんが、絶対にこの世界のどこかに存在はします。これは間違いありません。あの本は炎に投じても焼失しませんし、湖に沈めても損壊しません。如何なる手段を持ってしても消し去ることは不可能です。それ故に、失われているということだけは絶対にありえません。これは絶対です。天に誓いましょう。但し、過去の変貌によって未来も変わるということは、本の所在もあなたの記憶と異なる場所になっている可能性がありますのでご注意を』
 言葉を半ばで止められても、プレイヤーズガイドは嫌そうな素振りも見せないで言葉を紡いだ。
『本の魔力を注入させて、ゲームクリアの時間へ到達する。これであなたは、死亡するまでにこのゲーム中に行った全ての要素を引き継ぎ、現実へ戻ることができます』
「ゲームクリアの時間……?」
 ナズーリンは思わずその言葉を口にした。
 とっくに了承した事実の筈だ。初耳なんてことはない。それなのに、今の彼女には、その一言がとんでもなく恐ろしい物に感じられたのだ。
 地面へ落としていた視線を恐る恐る上げる。光球は目線の高さで待ってくれていた。まるで、ナズーリンの質問を待ちかまえているかのように。
「さ、さっき、千年以上時を遡ったと言っていたよな?」
『そうです。そもそも、あなたの記憶なのですから、あなたが一番良く知っておられる筈でしょう』
「……ゲームクリア時間は、あとどれくらい?」
『千百六十七年と百十五日、十六時間三十三分十九秒後です』
 いよいよナズーリンは言葉を失ってしまった。
『千百六十七年と百十五日、十六時間三十三分十九秒、一度も死亡することなく生き延び、世界のどこかにある本を見つけ出し、魔力を注入するとトゥルーエンドとなり、現実世界に戻ることができます。魔力を注入できなかった場合はグッドエンド。そのゲームのスタート地点たる時間――例えば、今からゲームを始め、一度も死亡することなくゲームクリアの時間まで生き抜き、且つトゥルーエンドを見れなかった場合、ここまで再び時間が巻き戻されて、ゲームが再開されます』
 喉に何か詰まらせたかのように口をぱくぱくと動かしながら黙り込んでしまっているナズーリンを余所に、プレイヤーズガイドは無味乾燥とした口調で語り続ける。
『しかし、ゲームの途中でセーブをしていた場合、グッドエンドで戻るのはセーブした地点です。また、セーブをしておくと、万が一ゲーム中に死亡してしまい、最も多く時を遡った先へ戻されても、セーブした地点からゲームを再開することもできます』
 何だかこのセーブ機能が素晴らしい救済処置であるかのようにこのプレイヤーズガイドは語っているが、結局千数年生きなくてはいけないことに変化は無い。何の助けにも励ましにもなっていない。そんな機能あるなんて知らなかった、教えるのが遅すぎるだろう――と言う言葉をナズーリンは漏らす気力さえ生まれて来なかった。返答が容易に予測できたからだ。『聞かれませんでしたから』だ。
『補足しておきますと、このゲームはクリアすればする程、難易度が上がる仕様となっておりまして、より緊張感ある難しいゲームを楽しむことができます。難易度とは即ち世知辛さです。苦難を乗り越えた先に待つ達成感、充実感を得られると言う、人類の美徳を結集させた素晴らしい人生を体験できるのもこのゲームの魅力の一つであり……』
 いらぬ機能である。もうナズーリンは三度もこのゲームをクリアしてしまっているではないか。
「どうしてそんな下らないシステムを」
 絞り出すようにしてやっと漏らすことができたこの悪態には力も感情も籠っていない。
『さあ。私は製作者ではありませんから、どんな意思が働いたかは分かりません。しかし、製作者も所詮は知的生命体の一であり、全知全能の神と言う訳ではないのです。完全無欠のゲームを作ることなど不可能です。製作者は良かれと思ってこの機能を加えたのでしょうけれど、あなたのお気には召さなかった……それだけのことです』

 プレイヤーズガイドがこう言い終えた所で、ようやくナズーリンが立ち上がった。
 じんわりと染み出して来た涙で滲んだ視界に、あの透明な椅子が映る。あの椅子に座りたくて堪らなかったのは、ほんの数十分前のことであったのに、今はあの椅子が恐ろしくて仕方が無い。
 今の心模様であの椅子に座ったら、一体過去のどの地点へ戻るものやら、このゲームのシナリオ、ワールドマップを監修している記憶の持ち主たるナズーリンにも、皆目見当が付かなかった。一つだけ確かなことは、自殺を決意したあの恐ろしい地点より未来へ行くことはできないと言うことのみである。
 藁にも縋る思いで後ろを振り返るが――視界一杯に広がるのは、壁とも淵とも取れぬず濃青色と、そこでチカチカと光っているばかに明るい色の星達である。退路は無い。あるのは進路だけだ。引き返していては、冒険は進められない。
 涙を拭い、椅子に向かって歩み出すナズーリン。
 頭の上でプレイヤーズガイドが愉快そうに点滅しているが、それに構ってやる心の余裕はない。
『そうです。進むしか道はありません。前へ前へ進んで行かなくては、ゲームはクリアできないのです』
 よろよろと階段を上り、椅子に座る。
 過去の何処へ辿り着くかなど知ったこっちゃない――と言った具合の虚無的な面持ちのまま、はぁと重苦しいため息を一つ。左右の肘掛に手を置いて、ぼんやりと虚空を見やる。
 視界がぶれ始める。良くも悪くも、感動は無かった。
『明日をバーンと、信じましょう』
 プレイヤーズガイドの声が聞こえた気がした。
 今までに聞いたことが無いくらい明るい声だった気がした。


 辿り着いた先は結局、お手製の絞首台であった。きっちりと縄も縛ってあるし、陽光は赤く、罵詈雑言も聞こえてくる。
 日向を進む陰口が去って行ったのを見計らい、ナズーリンはのそのそと首の縄を解きに掛かった。
「さあて、千数年生きなくちゃ」
 このゲームでやるべきことを口に出してみる。思わず、縄を解く手が止まった。気の遠くなる話である。前の人生でもどれだけ多くの困難に襲われたことか。いちいち思い出していては切りが無い程だ。
 しかし、現実の世界へ帰るには、このゲームを正規のルートでクリアしなくてはいけない。それができない限り、永遠に同じ生を繰り返すなど、想像しただけでぞっとする。
 縄を解くと、絞首台からポンと飛び降りた。
 テキパキと自殺セットを片付けて、小広い室内を見回す。
 思い出はまるで攻略本だ。この先何が起こるか、大体見当がつく。
「ああ、早くご主人様と出会いたいな」
 そう遠くない未来に待つ『イベント』の存在に、無理矢理胸を躍らせてみた。


*


 ……断っておくと、“プレイヤーズガイド”は、別に何かを表しているものではない。本当にこのゲームのプレイヤーを導く役であり、『説明書』でしかない。プレイヤーの知り合いの誰かの隠喩であるとか、プレイヤーたる人物の深層心理の具現化とか、そんなことは一切無くて、“旅立ちの間”に配置されているゲームプログラムの一である。
 故に腹も空かないし、退屈もしないし、眠りもしないし、死にもしない。そもそも生きてもいない。
 ただただ、“旅立ちの間“にやってくるプレイヤーを感知して、飛んで来る質問に設定された範囲で答え、少しばかりのチャット機能を搭載している。ただそれだけのものだ。
 まるで消し忘れられた電球みたいに壁際に佇んでいたこの光球が、俄かにその明度を上昇させ、ふわりと動き出した。

 止まった先に、ナズーリンが現れた。
 その表情は驚愕と苦悶と同様に満ち、双眸は真っ赤になっている。ストレスが原因でやけぱさついた髪が、いつかの朝に自宅を訪問しに来た主を出迎えた時以上の跳梁ぶりを発揮している。頻りに喉を引っ掻いていたのだが、
『クリア条件未遂』
 冷淡な光球の囁きを聞いた途端、ハッと我に帰ったように辺りを見回した。どうやら、景色の変化に気付いていなかったようである。
 はぁ、はぁと息を荒げ、光球を見据えるナズーリン。光球も、何かに恐怖しているナズーリンをじっと見つめ返す。一応、このプレイヤーズガイドはゲームの内容を把握している為、ナズーリンがこの“旅立ちの間”へ帰ってきてしまった理由を知る機能を持ち合わせている。
 ……が、敢えて光球は問うのである。
『クリアできなかったようですね。途中で死亡。死因は一体何でした?』
 ナズーリンは体の震えを抑えるように自らの肩を抱き、
「びょ、病気だよ」
 とだけ短く答えた。
『それは災難でしたね』
「怖かった。何をしても治らないんだ。みんな、みんな死んでしまった。ご主人様も、一輪も、幽霊のムラサまで! 挙句の果てには聖まで血を吐いて、体中に赤黒いぼつぼつが浮かんで来て……」
 それだけ言うとナズーリンはキッと目を剥いた。
「どういうことだ? あんな病気、私の記憶には存在しないぞ!」
『それはあなたの一生と言うシナリオがランダム分岐したのですよ』
 ナズーリンは目を細める。プレイヤーズガイドは相手の無知を読み取り、言葉を紡ぐ。
『あなたの記憶を基にした世界と言っても、その世界にだって様々な妖怪、人間、妖精、虫、草花、犬に猫に猿に雉等の多種多様な生物がおります。そして自然界には当然の如く、いろんな自然災害が存在します。このゲームではそういったものが不確定要素として組み込まれていて、あなたの意思の及ばない思考ルーチンで活動しています。簡単に言ってしまえば、みんな普通に生きているのです。ですから、そういう要素が自らの意思で動けば、あなたの記憶との相違が現れることがあります。例えば、野良犬に手を噛まれたり、野良猫が魚を加えて逃げたり、雨が続いたり、山が火を噴いたり……。まあ、二度と同じ人生は歩めないと考えて頂ければよろしいと思われます。まるで入る度にマップが変化するローグライクゲームのようでしょう。二度と同じ光景は見せない。プレイヤーの飽きに訴えかけた素晴らしいシステムです』
 何が素晴らしいものか――ナズーリンは憤懣やるかたない。だが、もう文句を言う気力が無かった。
「……ちなみに、さっき私は何年生きたか分かる?」
『八十年ちょっとですね。本当にお疲れ様でした』
 ナズーリンはがっくりとうなだれる。八十年を無駄にした。また八十年生き直さなくてはいけない。
『ちなみにセーブ機能を用いるとセーブした時点からゲームを再開することが可能……』
「やったよ」
 ナズーリンがぶっきら棒に光球の単調な声を遮った。
『ではセーブした地点からやり直しますか?』
「できなかったよ」
 口元には呆れを、双眸には憎しみを、声色には諦めをふんだんに込めて、ナズーリンが言う。
「視界一杯に訳の分からないひらがなの羅列が現れてね……。一体何桁あったのか、数える気にさえならなかったから知らないが。どうせあれがパスワードなんだろ?」
『そうです。正確には“ふっかつのじゅもん”と呼ばれます。外界で著名な勇者も用いた画期的な呪文です』
「セーブさせる気が無いんだろ」
『時間を隅々まで行き来する上に、いろんな不確定要素も多い難解なゲームですから、自然と“ふっかつのじゅもん”も長くならざるを得なかったのでしょう』
 こう弁明するプレイヤーズガイド。これ程にまで白々しい言い訳を、ナズーリンは聞いた覚えが無かった。彼女の主も度々下らない失敗をしていたが、その時の下手糞な言い訳の方がまだましなように思えた。

 ナズーリンは深いため息をついた。そして、後ろに倒れ掛かる。壁として機能している透明のベールが、長い苦闘を終えた彼女の体を受け止めた。
「もうやめる」
 ナズーリンがぼそりと呟く。
『やめる?』
 プレイヤーズガイドが問い返す。
「ゲームをやめたいと言っているんだよ」
『本体の電源を切り、ゲームを中断するのですね?』
「そうそう、それ」
 本当にそれがナズーリンの求めているものかどうかは彼女には分からなかったが、いちいち問い直すのも面倒であったので、適当に返事をした。
 プレイヤーズガイドは相も変わらず淡々とした口調で、彼女の為にあれこれと説明を始めた。
『保存されていないデータは一切失われてしまいますが、構いませんか?』
「保存されていないデータって何さ」
『あなた自身です』
 妙に素早い回答。腑抜けたナズーリンも、この回答速度と解答内容には些か驚いてしまい、ぴくりと眉を顰めた。
「私、自身」
『そうです。生まれながらにして世界を掬う才能を秘めていた伝説の勇者“もょもと”も、セーブをしないで電源を切ってしまうと、その存在は闇へと葬られ、消えてしまいます。これは全てのゲームの主人公に言えることです。どんなに強力な勇者も、狩人も、呪われし一族の子孫も、小さなボールに収まるモンスター達も、保存せずにゲームを終了すれば消えてしまいます。そして、あなたも例外ではありません』
 ナズーリンはしばらくぼんやりと考えてから、
「私が消えたら、現実の私はどうなるんだろう」
 こんなことを問うた。
『時は止まっていますから』
 プレイヤーズガイドは即答した。
『それがずっと動かないのでしょう』
 こいつ、答え慣れてるなぁ――ナズーリンはそんなことを思った。
 それからふっと微笑んで、
「いいよ。やめる」
 ナズーリンはそう言い、また一つため息を吐くと、その場にころんと横になった。投げ出した自分の手を見つめる。いざ別れの時がくると、自分の手が愛おしく思えた。
『セーブは?』
「しない。できる訳ないよ、あんなの」
『セーブせずに止めると申しますか。それもよいでしょう。……また冒険を続けるおつもりですか?』
「いいえ」
『おお、神よ。この者に一時の休息を与えたまえ』

 そう言った瞬間、自分の手が一瞬歪んだ。歪曲したのではなく、寸断されたようにずれが生じたのである。
 一瞬の出来事だったそれは段々と酷くなっていく。
 次第に、世界に色が無くなった。ダークブルーの空間はさておき、見る者をイラつかせるあのふざけた色をした星々まで黒の輪郭に、濃淡の差のみを残した白の二通りになってしまった。椅子はほとんど見えなくなった。
 電波を上手く受信できていないラジオの発するノイズのような不快な音が聞こえてきた。ジ、ジ、ジ――と、絶え絶えとしていたその音はやがてザー――と長い一つの音と化し、ナズーリンの耳を聾した。
 そうなった頃には、視界の崩壊は極まっていて、もはや映っているもの全てが何が何だか分からない状態であった。
 星々は燃え尽きたのか? 水の様な透き通ったベール流れて消えたのだろうか? ホールケーキの台座はテーブルから落っこちて潰れたのだろうか?
 階はすり減って、椅子は倒れて。
 しかし、光球はまだナズーリンを見下ろしている。
 白黒の世界でも、光球だけはやけにはっきりと映っていて、ナズーリンは妙な苛立たしさを感じた。その次の瞬間であった。

 ブツン

 野太い音と同時に、一文字の光が閃いて、ナズーリンの視界は真っ黒に染め上げられた。

『お疲れ様でした。このまま電源をお切り下さい』

 この一言を最後に何も聞こえなくなって、横たわっていた感触も消えて、次第に何も考えれなくなった。
 その後、彼女の行方を知る者は誰もいなかった。

 こんにちはpnpです。産廃創想話例大祭お疲れ様でした。

 (今更)求聞口授購入記念。
 ナズーリンがプライドばかり高い無能と言うことが発覚し、いじめられ役ポジションに立つ魔理沙を脅かしつつあると言う私の中の見解を形にしてみました。
星とかリリカとか、キャラの代用も考えてみましたが、一番お話が書き易いので、この子にしてみました。
自分は賢いと思っているが故にすごく下らないことを見落としそうですねナズは。――求聞口授のおかげでこんなことを考えています。
 ゲームのルールが一変しましたが、如何でしたでしょうか。

 ご閲覧ありがとうございました。
 これから暑くなりますが熱中症などに気をつけてお過ごしください。

++++++++++

>1 急降下させすぎましたかね……

>2 ありがとうございます。

>3 そもそもこの本を手にした者はろくなことにならないというのがこのシリーズのコンセプト!

>4 これからのナズーリンはこうあるべき!

>5 投げるというか自然とやらなくなってしまう私にはよく分からない感情。

>6 RPGなんですかね、やはり。 製作者については、悪趣味と言うこと以外特に何か考えていることは今のところございません。

>7 つ[バファリン]

>8 何か思い付けばまた前のルールで書くかもしれません。

>9 嫌なことは些細なことでも大きなことでも、割りといつまでも心の中に残ってしまうもの。 星水かわいい。

>10 一度見たことがあります。面白い映画でしたね。

>11 求聞口授ぱわーでお株上がった感じです。

>13 しかし使い方をかんがえれば結構な便利ツールなんですよねこれ。段々丸くなるのは世の常。

>14 自分が一番まともだと思い込んでる系妖怪ナズーリン。

>15 求聞口授を越えるなんて恐れ多いです。ありがとうございます。

>16 同時に人生は神ゲー説も。しかし個人的にはクソゲー。

 一件の匿名評価ありがとうございます。是非感想をお寄せ下さい。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
4
投稿日時:
2012/06/01 11:30:28
更新日時:
2012/06/25 07:21:03
評価:
15/17
POINT:
1550
Rate:
17.50
分類
ナズーリン
寅丸星
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POINT
0. 60点 匿名評価 投稿数: 2
1. 100 4人 ■2012/06/01 21:33:40
面白かったです
ナズが過信しながらどんどんと余裕を無くす様がまるで急降下マシン
2. 100 名無し ■2012/06/01 22:45:00
ああもうダメ。こういう仮想めいてるの好きすぎて。
3. 100 名無し ■2012/06/01 22:51:27
ルールが全く変わっていたのでちょっとびっくりしましたが、いやはやこれも面白い。
途方もない時間というのはじんわりとした恐怖を沸き起こしてくれますね。ナズーリンがこの本を手にしたときからロクなことにはならないと思っていましたが、終われた分だけまだ救いがあったのかもしれませんね。
4. 100 アレスタ海軍中尉 ■2012/06/01 23:10:59
ジェットコースターみたいな心情の変化がすごくいい…
調子乗った無能が無様に生きあがき、結局はのたれ死ぬ、なんと美しく醜い死に方でしょう。
5. 100 名無し ■2012/06/02 02:06:39
ゲームを「投げる」瞬間の気持ちをこれ以上なく描き出してて最高でした。
あーあのゲーム、どんな結末迎えたのかちょっとだけ興味あるなあ。二度とやるきしねーけどwww
6. 100 NutsIn先任曹長 ■2012/06/02 14:23:57
今回のゲームはロール・プレイング・ゲームですか。
『過去をやり直す』のではなくて、『未来を作り直す』。そうですよね。『過去』に戻った時点で、そこが『今』になるのですから。
壮大なストーリーなのにシステムにちょっとした欠陥がある。
不具合や不満な点っていうのは、そのソフトウェアをやりこまないと見えてこないものなんですよね。

ひょっとして、『ゲームの製作者』は、幻想郷に『ソフトウェア』をばら撒いて、ロケテストをしているのか?

ゲームのプレイを見物した『オーディエンス』の一人として、『製作者』に物申す。
ゲームはいわゆる『糞ゲー』だけど、それで遊ぶ『プレイヤー』の様子は、なかなかに笑えました。
7. 100 名無し ■2012/06/02 20:50:31
アホなくせに高慢だとか調子こいて他人を蔑ろにする様だとかトラウマだとか
どうしてこんな生々しいんですか……おなか痛くなってきた
8. 100 名無し ■2012/06/02 22:41:49
こっちのゲームも面白かったけどどちらかというと前のほうが好きだったかな
有能なふりをするナズかわいい
9. 100 名無し ■2012/06/03 02:33:09
己の屍を越えて行け(家計図なし版)

自由に過去をやりなおせるとしても心はどうしても描いてしまう。すなわち、もっとも改変したい過去に。実に人間くさい苦悩なのがGOODです。
最悪な過去なんてスパッと切り捨てて、やりたいことをやりゃよかったのに…

ゲームプレイのあるあるがちょっとクスリときました。『敵にやられて、同じ部分をまったく同じように行動し再現しなければならない苦痛』とか。延々と再生されるムービー、さっきも聞いたよ…ムービースキップ機能は素晴らしいことがよくわかったよ。

しかし村紗・星の三角関係絡みがなかったのが残念
10. 90 名無し ■2012/06/04 11:26:46
バタフライエフェクト思い出した
過去の矯正は、新たな悲劇を生むってね
11. 100 名無し ■2012/06/10 00:14:52
なーずーかーわーいーいー
13. 100 名無し ■2012/06/11 15:57:23
前回までの対戦型とは違い、今回は一人プレイ用に。
エゲつなさで言えば、今回の方が上な感じですね……やり直しの出来ないままの方が幸せなのかもしれません、個人的には。
14. 100 名無し ■2012/06/11 17:42:28
お花畑連中の中で唯一の賢者と思われていたナズがこの有様と判明したことで
命蓮寺がいよいよヤバイ。
15. 100 まいん ■2012/06/12 20:28:03
ああ、やっぱり駄目だったよ、アイツは小心者だからな……。
毎回新しいご主人様に会える一心で頑張れると思ったら、無理ゲーでしたか。

口授の星とナズーリンの項目は私に大きなショックを与えてくれました。
貴方様の与えてくれたショックはそれ以上です。

素晴らしい作品をありがとうございます。
16. 100 んh ■2012/06/18 19:40:54
このナズ可愛い。自分も書いてみたくなるほどに
人生とは最高のクソゲーであるって言葉を思い出しました
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