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『帽子屋と紫』 作者: タダヨシ

帽子屋と紫

作品集: 4 投稿日時: 2012/07/06 12:20:34 更新日時: 2012/07/06 21:20:34 評価: 4/5 POINT: 430 Rate: 15.17
 私は自宅のドアを背にして、今までお客が帰っていった景色を見つめていた。
 その日、その時、その分、その秒は、無残な刻み。
 何故ならお客が私の作った帽子を一度も気に入らなかったから。
 おまえのぼうしはくだらない、と皆が言った。
 それも私が帽子屋を始めてからずっと。
 一体、何が悪かったのだろう?
 理由は知ってる。
 一体、私はどうすれば良かったのだろう?
 努力しても無駄だった。何をしてもそれは良くならなかった。幾ら悩んでも、悩みは悩みのままの悩みで姿を変えなかった。
 虚ろに煤けた心で、私は思う。
 もう、帽子屋を辞めよう。
 こんなの、客に嫌われ、帽子を否定されるだけ。
 かつて私はお客に対して愛と夢を抱いていた。
 しかし、自分の心――帽子を否定される度にそれは姿色を変えていった。 
 一回目の否定では表面がざらざら、六回目の否定では輝きが不機嫌、十四回目の否定では角張って光を失い、二十二回目の否定では影を着飾り、二十八回目の否定では真っ黒に溶け出した。
 あぁ、二十一回目の否定でもはや看板とお店はただのお飾り。
 そう成りたくないのに、自分のお客に対するは愛と夢は黒ずんで、消えた。
 もう、私はお客に砂糖塗しな愛と夢を求めるのを止めていた。
 いや、諦めたんだ。
 客に対する愛と夢を捨てると、代わりに別の物がそこを占める。
 それを単純に言葉で表わすなら、怒りや悲しさ。心はそれらを組み合わせ、黒いねばつく炎にした。
 そのちらつきは自分では消せなかった。
 では、誰かにぶつければ?
 心はそんな手引きを差し出すが、私はただその場に立っていた。
 駄目だ。そんな事をすれば、自分で己の帽子を否定した事になる。
 酷く痛んで堪え難いが、どうしても自分の心にして生きる意味を穢したくなかった。
 私は心に浮かぶ怒悲を畳み込み、家へと振り返る。
 そこにはまだ若い鼓動が閉じ込められたドア、『帽子屋』の三字が力強く脈打つ看板。
 この二つ、いや、この人里から離れた自宅兼店舗の建物は、自分が一生懸命働いて得たものだ。
 しかし、今ではもう無駄になってしまった。
 一体、これからどうやって生きようか?
 私は問い掛けた。
 答えは直ぐに出る。
 目の前の建物を得る為にしていた事をずっとしていれば、生きられる。
 一生懸命に働き続ければ、死ぬ事は無い。
 でも、それにどれ程の価値があるだろう? 
 そうだ、それが問題だ。でも、ちっぽけな問い。
 私は血の通った光沢を持つドアノブの肢を下げて、店舗の中へ逃げた。そこには双子の椅子と一人っ子の長机。机上には大きく口を開けたまま閉じられない木箱とお客が気に入らなかった帽子が凍えながら横たわっていた。
 私は、生きる意味を失った。
 椅子の一つに尾てい骨を落ち着かせ、周りをぼんやりと見つめた。
 二つの扉が見える。
 一つは先程通った店舗の扉、もう一つは自宅へと続く扉。
 自宅へと続く扉を通ればお勝手やら寝室やら生きる為の空間があり、何とも滑稽な事に玄関まである。店舗の玄関一つで足りるというのに。
 私は自宅行きの木製長方形を眺めて、心を散らす。
 そうだ、あのドアを通ってもう店には戻ってこない様にしよう。
 頑丈な、絶対に解けない鍵を使って帽子屋を閉店するんだ。
 そして、何事も無かったかの様に生きるんだ。
 そうだ、そうすれば……
 私はある種の明るい暗さを抱え、不快な心地良さに頭揺らした。
 しかし、それは直ぐに止まった。
 視界の端に、ある物が主張してきたから。
 私はそれをそふっと両方の指で囲むと、眼の高さまで上向きに沈ませる。
 この前お客の人が『ただの生地の方がきれいだったね』と言った帽子。
 綻び無き衣を纏う姿、夢と現実が手を繋ぐフリルの肢体、仄かに空気を撫でるリボン。
 だが、それも年月の埃で皮肉な白粉を被っている。
 もはや、体と心から活力が裁断され、帽子を保管するという所まで気が働かない。
 私は、生きているのに、死んでいた。
 もう、諦めてしまおう。
 もう、無くしてしまおう。
 しかし、それでもやはり自分の持っているものに心触れられる。
 埃の被った帽子。
 そして、口を開き、私は語り掛ける。
「どうして」
 帽子は答えない。
「どうして……」
 帽子の端が影に濡れる。
「お前はこんなにも綺麗なのに」
 お前はこんなにも、美しいのに。
 何で、愛されないんだろうな?
 昼を追い越した穏やかな太陽が店を輝かせている。
 だけど、その光は華奢な残酷さで、帽子を照らす。
 まるで、泣いているみたいに。
 私はそれからずっと帽子を見ていた。
 その時間は悲しい奥行き。
 心の秒針が同じ時を指し示している。
 それでも、私は見ていた。
 そして、瞳孔に映った像を心に縫い付け続ける。
 生地、フリル、リボン、金糸……
 金糸?
 私はこの帽子に金糸なんて使っただろうか。
 一旦眼を瞼に失礼させ、閉じた視界のまま頭をふうふうと横に振り、もう一度眼球に光を戻す。
 しかし、それでもあった。
 私の作った帽子の影から、金色の繊維。
 これはいったい?
 頭が謎を抱えながらも、指はその糸に触れる。
 それは、とても不思議な手触りだった。
 まるで夢が現実の形を借りて、姿を生み出しているみたいに。
 こんな手触り、こんな色の糸、私は知らない。
 いったいどんな素材で、どんな作り方をしたらこうなるのだろう?
 現実の夢みたいな繊維に視界を固めていると、自分の頭上から声がする。
「ねぇ、あなたが帽子屋さん? 外の看板を見たのだけれど」
 私がその音に反応して頭を上げると、帽子の影から見えていた金糸がどんどん上へと伸びて芽吹いていく。
 その金の糸はある程度成長すると、一箇所で止まった。
 そこにあるのは沢山の金糸だけではなかった。
 淡くも妙に心騒がせる唇、透明な影を持つ鼻、朝陽の様な眉。
 そして……
 輝きを含む睫毛に囲まれた、何処までも深い竜胆色の瞳。
 そうだ、これは人の顔だ。
 それも、とても綺麗な女性の。
 自分が触れた不思議な金糸は、目の前にいる彼女の髪だった。
 私が現状を意識に刻み付けた時、金糸の髪を持つ女性は唇をつけたりはなしたり。
「わたしの帽子を作って。素敵なのをお一つ」
 小さな響きだった。でも、優しい温度で心へ巡る。
「……はい」
 もう、帽子屋なんて辞めようと思ったのに。
 私はその声を受け入れた。
 愛も夢も、生きる意味だって無くしたのに。
 口から、声が零れた。
 その時は本当に全てが不思議だった。
 どうしてこんな美しい女性がここにいるのか、どうして自分は彼女に『はい』と言ったのかさえも。
 でも、これが私と紫さんの始めての出会いだった。


 私の視界には老けた土気色の窪みと、その中心にある少しばかりの白き水晶群。
 これを一体どうするべきか? 
 これは私の朝にとって最大の問題である。
 しかし、我が脳内に潜む司令官は大変に優れており、直ぐに指令を発布する。
 命令を租借した右手には知的な細さを蓄えた二本の木。私の右腕は動き、陶器に入った翠玉葉を双子の木で掴む。
 そして、私は掴んだままのそれで白き水晶群の体を囲む。
 囲まれたそれは新緑の衣を纏い、朝陽を浴びて実に美しい。
 だが、ここで見惚れてはならない。このまま終わらせては色々と罰当たりだからである。
 私はその緑に着飾った白き群れを右手の木棒で摘んで己の口へ、口へ。
 ぱくんっ。
 そして、歯を動かして潰す。
 むしっ、むしょ、しょ。
 あぁ、何たる無情。何たる現在形の悲劇。
 しかし、私が生きる為にはしかたがない。
 口の中で噛み続けると悲劇の音。
 その音をずっと聞いていれば泣きたくなるだろう。
 でも、その前に二つの来客。
 一つ目は翡翠の葉より生まれ出た苦味の妻と甘味の夫でございます。
 今の季節は秋であり、苦味の妻は冬の時に比べ少し主張が強い。
 二つ目は純白の水晶達が舌に編み上げる無垢な集団でございます。
 熱を秘めているが、全く主張しない、喋らない。だが、それは確実に甘みとなって現れた。
 この来客達に癒されたおかげで私はやっと最後の行動へと移る事が出来る。
 それは……
 ごくんっ。
 口の中のそれらを胃に投機する事である。
 私はその仕事を終わらせると右手に持っていた木棒二本を土気色の窪みに乗せ、拍手をするみたいに両の掌を合わせて目を瞑る。
「ごちそうさまでした!」
 私は土気色の窪みと白き水晶群と知的な細さを蓄えた二本の木と白い陶器に入っていた翠玉葉――お茶碗とご飯と箸と皿に入っていたたんぽぽ葉のお浸し、それと他のおかずに感謝を告げると、朝食の片付けを始める。
 その片付けは簡単という言葉を使うのが惜しい程楽に終わった。
 まぁ、一人暮らしだから。
 空を見ればまだ太陽は朝の座席。
 私は今日、何となくあの人がお昼に尋ねてくるという予感がした。
 しかし、予感した昼間まであまりにも時間が有り過ぎる。
 つまり、暇であった。
 どうしようかと考えていると、その内にある時間潰しを発明する。
「そうだ」
 私は『店舗の玄関』からではなく『自宅の玄関』から外へ出る。
 開け放たれた引き戸より見えるは大地の耕された色、鼻につっかかる豊潤の香り。
 そして、もうそろそろ獲ってよろしい! と輝くものたち。
 そう、私は野菜の栽培・販売もしている。
 この仕事は副業なのだが、本業の方はとある理由から業績が芳しくないので、経済的利益で言えばこの野菜売りの方が本業と言えた。
「うん、良い出来だ」
 私は褒め言葉の後に秋野菜達をむしる、もぐ、毟る、たまに引っこ抜く。
 売り歩きに見合った量を収穫するとそれらを籠付き背負子に入れ、お家とお店の戸締りを確認。よし、閉まってる。
「さぁて、どれ位売れるかな」
 私は売り時秋野菜を含んだ背負子を纏うと、家から離れた。
 
 帰り道を歩く私の顔はにしし顔。
 何故なら背負子は軽く、懐の銭袋が重いから。
 やはり野菜の売り歩きは良い。
 私は自分の野菜売りの心得に意識を漬す。
 痩せた土地の人々には豊かな畑で育つ野菜をあげましょう。
 さすれば珍しさで少し高めの値段でも買ってもらえる。
 肥えた土地の人々には痩せた畑で育てた野菜をあげましょう。
 さすれば味香りで少し高めの値段でも買ってもらえる。
 必要なお方に必要なものをあげましょう。
 そうすれば万事上々。懐も隆々。
 そんな商売歌を心で詠めば、道先にもう自宅が見える。
 家に着いた私は背負子を降ろし、店へと続く扉を通った。
 太陽はもうすぐ昼の位置。あの人が来る前に店の下準備。
 光取りを開けて空気交換、床を箒で擽って机と椅子を布で悪戯拭きしたらさあ完了。
 私は自宅から大きな木箱を持ち出し、店の隅へ置く。
 そして、椅子に座って小気味良い姿勢で待つ。
 期待の待機。紡錘された糸がぴぃと張る様な心持ち。
 蜻蛉羽の様な窓から見える陽光はあと少しでお昼。
 もう、そろそろだろうか。
 扉を叩く音がする。
 来た!
 
 私は座っていた場所より立ち、扉を開けて大切なお客様に挨拶。
「こんにちは、紫様」
 前回自分はこの女性に随分と失礼をしてしまったので、なるべく丁寧な言葉。
 しかし、玄関に立つお客は無情にもその心を濯ぎ落とす。
「こんにちは。でも、『様』は止めて。『さん』付けにして」
 彼女は陽を縒り合わせた様な髪を揺らして微笑んだ。
「はっ、はぁ……では、紫さん」
「よろしい」
 私はそんな答えに頭を傾げながら彼女を家に入れ、近くの椅子と長机に手を向けた。
「どうぞ、お掛けになってください」
 その声を聞いた紫という名の女性は竜胆色の虹彩が目立つ顔を少し前に動かす。
「ありがとう」
 彼女は日傘を閉じると、椅子に音の一つも立てずに柔らかい腰を乗せる。
 その動作を見た私は部屋の隅から不機嫌そうな木箱を持ち出し、まだ若い長机の上に置いた。
「例のアレはもう完成したの?」
「ええ」
 私は彼女の質問に対して少々硬い響きで答える。
 そして、無愛想な表錠を鍵で開く。
「どうぞ」
 私は木箱の中の柔らかく軽いそれを彼女に手渡した。
「あら……」
 それを手に取った紫さんは風に揺れる花弁を思わせる声。
 白い輝きを放つ滑らかな生地、技巧を凝らし極限まで美しい曲線を描くフリル、澄んだ光沢を放つ赤くて軽やかなリボン。紫さんの手袋をしていても分かる細く白い腕の中には、帽子が存在している。
 そう、私は帽子屋だ。
 紫さんは流れる川の様な目をこちらに向けた。
 私はその動きに身を縮ませて構える。
「この帽子は前の帽子、今私が被っているのと同じ姿をしているわ」
 彼女は顔を妙に真面目に取り繕って声を出す。
「……もしかして」
 溶けそうな赤い唇が動いた。
「手抜き?」
 何と厳しいお言葉。しかし、私は傷付かなかった。
 何故なら紫さんの瞳には悪戯っぽい光が躍っているから。
 そう、彼女は今手に持っている帽子の『違い』に気付いている。そして、その『違い』を自分に説明させるつもりなのだ。
 まったく、紫さんもお人が悪い。
「いいえ」
 私は紫ドレスの彼女の言葉を声で弾き飛ばし、帽子の説明をする。
「姿は同じですが、今回の帽子は用途が違います」
「用途?」
 紫さんは小さく口を鳴らす。私はその事がどうにも嬉しくって、次の言葉を弾ませる。
「はい、前回はただ単におしゃれとしての帽子でしたが、今回の帽子は別の役目があります」
 わざとここで音を切り、一旦肺に空気を充足させてから声を紡ぐ。
「どうぞ身に着けてみて下さい。そうすれば分かります」
 それを聞いた紫さんは陽色の睫毛を揺らし、既に頭の上にある帽子をこちらに渡す。
「そう? じゃあちょっとこの帽子さんを持っていて」
 私は優しい細さの指に包まれた帽子を受け取り、答える。
「はい、お預かりします」
「ありがとう」
 一寸帽子を持っていてと頼まれ、一寸礼を言われただけ。
 でも、心は幸せな質量で満たされる。
 思考に小さな心を転がしていると、目前の女性はもう新作の帽子を被り終えていた。私はその彼女の姿を見ると、喉から言葉を汲み出す。
「どうですか、何か不満な箇所はありませんか?」
「ええ、特に無いわ」
 あぁ、良かった。 
 そう思った後、紫さんにまた言葉を送る。
「では、その帽子を身に着けたまま御辞儀をしてください、深く」
 彼女は頬に不思議を含んでこちらを見る。
「御辞儀? 挨拶はさっきもしたのに」
 女性はそんな声を放つと椅子に座ったまま、深々ぺこり。
「紫さん、帽子の具合はどうですか? ずれていませんか?」
 声が沁みた彼女は細い指で帽子と頭の境目を触った。
「ええ、大丈夫。ずれてないわ」
 私はその言葉を聞くと口端の緊張を緩ませて喋る。
「そうです。この帽子はズレないし、落ちないんです」
 紫さんは自分の説明を耳で咀嚼すると、わざとらしく驚いた。
 しかし、その表情は嫌味を含まず上品で、見ていて嬉しくなるものだった。
「まぁ、すごい。でも、どうして落ちないの?」
 その質問に対して私の声帯は誇らしく廻り、喜ばしく鳴る。
「はい、この帽子は内側を紫さんの頭ぴったりに作り、更に生地を摩擦の多い素材にしているから落ちないんです」
 それを聞いた彼女は一瞬だけ感心を輝く睫毛に浮かび上がらせると、意地悪な眉をして言った。
「でも、激しく頭を振ったり、角度が悪いとどうかしら?」
 その言葉を受けた私は声を大人気無くがちがち鳴らした。
「落ちませんよ。激しく頭を振ってもずれないし、どんな角度でも大丈夫ですよ」
 紫さんは心の悪戯をちらつかせ、また自分を挑発する。
「本当に? 大丈夫? ぽろりと落ちたりしない?」
「落ちませんよ、絶対に落ちません、ぽろりともっ!」
 何故こうも自分は熱くなり、簡単な言葉に乗せられるのか。
 それは自分の帽子への愛か、それとも目前の彼女に認められたいからか。
 そう思っていると急に悪戯な誘いをしていた紫さんの瞳が素直になった。
「まぁ、本当に? じゃあ、少し試させて」
 私はそれで今まで焚き付けられていた想いの重心を崩されてしまった。よって、文字通り調子の狂った返事をした。
「え、あ……はい」
 輝く結晶髪を持つ彼女は、こちらに薄く命の通った頬を傾ける。
「ありがとう、一寸失礼するわね」
 そう言うと紫さんは右の人差しを何も無い空間に滑らせる。その指が通った軌道はほんの少し空気を歪ませ、口を開けた。
 空間の綻びが、生まれた。
 私がこの現象を目にするのは二回目だ。
 紫さんはその裂け目に手を触れ、両端を人差し指と親指の計四本で摘んだ。
 まるで、おもちゃを弄る様に。
 無邪気に、自然に。
 彼女の淡い布地に包まれた手が動き、両指に捕らわれた裂け目も一緒に動く。
 そして、それらは一旦紫さんの頭上で止まり、真下に少しずつ動き始めた。
 私はそれを見て、彼女はまたあの綻びに入るのだろうと思った。
 きっと、全身をあの切れ目に入れて、また別の場所から出てくるのだろう。
 そう、考えていた。
 しかし、実際その予言行為は何とも中途半端な容で成就した。
 確かに紫さんはあの裂け目の中に体を入れた。だが、それは首の中程で止まってしまった。何故ならそこで彼女の白手袋が止まり、裂け目を摘む指が離れたから。
 これらの出来事の帰結として合成された光景は何とも奇術師泣かせだった。
 それは歪な風景が見える切れ目とその中に頭だけを入れたままの女性。
 その裂け目にはただ口だけがあるだけで、その他は無い。
 よって、そこにこうべを入れた彼女は首から上が見えない。
 そう、それは首ちょんぱだった。最も身近で最も遠い言葉で首ちょんぱ。
 私は暫く現実から剥離した意識で裂け目から垂れる金髪を見ていた。そして、ある程度時間が走り去った後に慌てた。
 この上なく。
「紫さんっ。大丈夫ですか、ゆかりさんっ!」
 とりあえず私は椅子に座っている件の彼女に呼びかけたが、全く答えない。
「いっ、生きてますよね、ねぇ?」
 死んでいたら答えられないだろうに。
 しかし、自分の呼び掛けにも紫さんは全く答えない。
「うぅ……」
 我が頭脳は平凡の外から延びた異常に乱心していた。
 紫さんの体を揺すってみようか? 
 いいや、駄目だ。もし首から上が取れたら大変だ。
 あの変な裂け目に触れてみようか?
 いやいや、それはもっと駄目だろう。何が起こるか分からない。
 よって、そこから引き出される案は生誕する度に棄却される。
 しかし、数回後に無難な案が出た。
 そうだ、とりあえず紫さんを正面以外の角度で見てみよう。
 本当に無難だった。
 私は机上に持っていた帽子を置き、横から彼女を見てみた。だが、正面から見た時と違いは殆ど無く、妙な切れ目と首ちょんぱ。
 首の中程から先は斑に回転して建設される歪な空間へと入っていて見えない。
 私は口腔にある水分をごくりと飲み干し彼女の後ろに移る。
 そして、心して覚悟して見た。
 すると、異常な裂け目は紫さんの首の上から消えていた。
 一瞬、私はその事をとても喜ばしく思ったが、すぐにその歓喜は消滅した。
 その理由は、彼女の身体。
 ゆっくり、近づいて、よく、見る。
 首の上には頭が無く、変な模様があった。
 自分の頭には、それに類似した想像がくるくる舞っている。
 それは、巻き寿司や切り株といった円形の図柄。
 しかし、今私の目前にある模様はそのどれにも当てはまらない。
 大小の暗い蒼と激しい赤の水玉、様々な濃淡を魅せる朱色。
 そして、穿たれた桜色の路がひとつ。
 私はそれらの意味が分からなくて、ぼぅっと見ていた。
 蒼と赤の水玉は常に明るさを変えて輝き、朱色は常に微かな奮えで動いていた。
 更に近く、息が掛かる程に近づき、じぃっと見つめた。
 桜色の路は規則正しく縮んだり膨らんだりを繰り返している。
 そこまで来て、私はやっとこの模様の正体を理解した。
 一瞬にして恐れに浸され、思考の中の声は凍える。
 そうだ、これは。
 これは、紫さんの首の断……
「あら? 触ったら駄目よ」
 声がする。私は一気に振り返った。
 私はその声の主を見ると叫び声を上げ、すぐに部屋の隅に逃げた。
 あぁ驚いた。あぁおどろいた。
「まぁ、首の断面を見ても驚かないのに顔を見て驚くなんて」
 紫さんだった。だけど、それは新たな裂け目から伸びている生首だけ。
「私の顔ってそんなに化け物じみてる?」
 しかも、逆さまで宙に浮いている。
「ゅ、ゆゆゅゆ紫さんっ、何してるんですか!」
 私は何とか口を開き、生首の彼女に訊いた。
「あぁ、これの事? 貴方の帽子が落ちないか確かめていたの」
 空中逆さ生首の彼女は何とも乾燥した口調で返した。
 それのせいで私はこの異常事態に異常な速度で馴染む事が出来た。
 よって、自分の発送する言葉は安全と呆れの気体に占められる。
「はぁ、何もそこまでしなくても」
 紫さんは逆さまの微笑みをこちらへ送り、嬉しそうに話した。
「だって、どうしても貴方の帽子を試したかったの」
 くりりと丸みを帯びた鼻の頂が妙に愛らしい。
 でも、さっきまで彼女に振り回されていた私はちょっぴり棘を振りかけて話した。
「ありがとうございます。ですが、今まで私に声を掛けるまで何をしていたんですか?」
 その尖りにも紫さんは全く動じずに唇を遊ばせた。
「ずっと貴方の背中を見ていたの。貴方が動くと私も動いて」
 私はさっきまでの出来事を頭脳で構成する。
 私がぼうっとしている時に、裂け目から伸びる紫さんの逆さ生首は見ていた。
 私が慌てている時に、裂け目から伸びる紫さんの逆さ生首は見ていた。
 私が断面の模様に恐る恐る近づいている時に、紫さんの裂け目も動いて見ていた。
 これは、もしや。
「もしかして、これは、あの……」
 言い終える前に紫さんは子供っぽい表情で答えを言った。
「そう、いたずら」
 つまり、彼女は私をからかったのである。
 しかし、不思議な事に悔しい、憎い、怖い、といった感情は無かった。
 その代わり妙に心地良い恥ずかしさに満ちて、暫く喋れなくなってしまった。
 それから私は紫さんに生首の中止を冀う。
「すみません。紫さん、もうその、何といいますか、それは止めてください。でないと、貴方に対する印象が百八十度変わってしまいそうです」
 その台詞を耳にした彼女は残念といった面持ち。
「あら、ごめんなさい。じゃあ、もう止めね」
 そう言うと紫さんの生首は件の裂け目に隠れた。
「はい、もう大丈夫」
 私がその声に頭惹かれて視線を移せば、椅子に座る紫さんの身体が見えた。
 もう、首から上は歪な裂け目とちょんぱではなく、頭だ。
 綺麗な顔だった。
 それから異常事態の連続によって疲れた私は新しい帽子を被った彼女の傍にある空き椅子に腰掛けた。
「ちょっと疲れたので失礼します」
「ごめんなさい、少し驚かせ過ぎたみたい」
 短いやり取りの後、私と紫さんは目を合わせる。そして、ほんの少し笑い合った。
 声も出さず、穏やかに。
「ところで、結局この帽子の用途は何だったのかしら?」
 細く白い頬をした彼女が話を本題に戻したので、私もそれに連動して説明を再開する。
「はい。この前初めて弾幕勝負というものを目にしまして、想像していたのよりも遥かに激しく動くという事が分かったんです。それで……」
「それで?」
「紫さんも弾幕勝負をするのかな? と思いまして激しく動いても大丈夫な弾幕勝負用の帽子を作りました」
 紫さんはこの帽子の用途を聞き終えた後に薄い紅さの瞼を大きく引き上げた。
 そして輝く竜胆色の虹彩を真円にして、ぴたりと動かなくなってしまった。
 私はその様子を見て、要らぬ心遣いだったか? と思い慌てて話しかける。
「もしかして、余計なお世話でしたか?」
 この声を耳にした彼女はぴくりと反応すると、今気付いたかの様に唇を動かした。
「えっ? あっ、ああごめんなさい。そういう訳ではないの、その、何て言うのかしらね、今まで私にこんな心遣いをしてくれた人はいなかったから……」
 突然紫さんはこちらが見ても分かる程に恥ずかしそうな表情をして、言う。
「嬉しいの、とてもとても」
 金色の睫毛を持つ瞼が静かに落ちて、白い頬は小さな陽の色。
 私は急に彼女の素直な言葉と表情を投げ掛けられたので一瞬息が出来なかった。
 これは、ある種の暴力だ。
「ありがとう」
 紫さんがそう言うので私も嬉しくなって言葉を返す。
「いいえ、こちらこそありがとうございます」
「ふふ、この帽子があれば重力を操作しなくても良さそうね」
 重力? 操作?
 一瞬、彼女が何か凄い事を言った気がしたが、私は聞いて聞かぬふりをした。
 その間に紫さんは机にある前回制作した帽子を手に取り、こちらに声を授けた。
「今回の帽子も前の帽子に劣らず気に入ったわ。それで、次の帽子なのだけれど……」
「はいっ!」
 私は次回も紫さんの帽子を作れると知って弾む声で答える。
 彼女はまた指で何も無い空間を裂き、それによって生まれた口の中に手を入れて沢山の本と覚え書きを取り出し、机の上に置いた。
「これを作ってもらいたいの」
 紫さんはその山から一つ写真を引っ張り出し、指差す。
「これは……」
 私が見たその絵柄には見た事もない帽子が写っていた。

「さようなら、紫さん」
「さようなら」
 次に作る帽子の話、受け取る報酬、私が帽子屋を始めた理由。
 これらの事柄について話した私と紫さんは別れの挨拶を交わした。
 店舗の扉から帰り道の土を踏む彼女の姿が見える。 
 ドレスの生地が重力を無視した柔らかさで揺れ、履物のすぐ上まで延びるスカートは華奢な脚の幻を投影していた。
 私は扉を繰ってそふっと閉じると、表情を嬉しくさせる。
 まさか、また紫さんの為に仕事が出来るとは。
 あぁ、幸せだ。
 眼を揺らせば、店の机には大量の本と覚え書き。
 これは紫さんが次の帽子を作る為の資料として貸してくれた物だ。
 これによって我が意欲の回転数は最高値。明日への生き甲斐も最高値。 
 さぁ、仕事――帽子を作る事を始めよう。

「うんん、どうしよう」
 ここは自宅の畳の上。作業卓には沢山の本と覚え書き。
 外の太陽はもうお寝んねしているというのに、作業は一向に進まない。
 いきなり制作上の問題点に躓いたのである。
「材料にこんなに絹、しかも染められた生地を使うなんて」
 生地の裁断の仕方、帽子の構造、縫い合わせ方、等は分かったがこれだけは解決出来なかった。
 この狭い幻想郷においておカイコ様を育てている農家は殆ど無い。よって絹も少ない。よって店に置いてある絹はもっと少ない。おまけに店で扱っているのは殆どが絹糸だ。
 というよりも生地の状態の絹なんて見た事がない。
「やっぱり、ああするしか」
 苦悩しているが絹生地を手に入れる案はもう既に一つ出ている。
 それは幻想郷中の農家や店、個人から絹糸を買い集めてそれらを染屋と織物屋に頼んで色付きの生地にして貰うというものである。
 しかし、この問題を解決する案には更に三つの問題点があった。
 一つ目は絹糸の価格、染屋に絹糸を染めて貰う価格、織物屋に生地にして貰う価格である。
 これは一年間の食費が全て吹っ飛ぶ額。
 二つ目は幻想郷中に散らばった絹糸を買い集める時間、織物屋に絹を生地にして貰う時間である。
 これも紫さんと約束した期日に間に合うかどうか。
 三つ目は自分と同じ様に絹糸を必要としている人々の問題である。これが一番厄介だ。
 着物の刺繍、琴の弦、琵琶の弦。
 これら全てに絹が使われている。
 しかも、必要不可欠である。
 もし、私が幻想郷中の絹糸を買い集め、いや、買い占めたとしたら、着物の刺繍職人と琴職人、琵琶職人が仕事を出来なくなってしまうだろう。
 そうしたならば着物に刺繍を入れたい人、琴を弾きたい人、琵琶を鳴らしたい人も困る事になる。
 つまり、多くの人達に迷惑を掛ける事になる。
 いくら紫さんの帽子の為とはいえ、これはまずい。
 やはり、こんな帽子は作れません、と断ってしまおうか?
 私は瞼を緩ませ、暗い視界で思った。
 しかし、浮かび上がってくるのは紫さんの笑顔。
「もし、帽子作りを断ったらどんな顔をするだろう?」
 彼女は残念そうな顔をして、そのまま何処かへ去ってしまうのだろうか?
 もし、そうなったら……
「寂しいな」
 そして、また自分の生きる意味を無くしてしまう。
「はぁ」
 私は苦しそうな声音を零し、もったりと畳の上にくたびれた。
 その風圧で作業卓にあった覚え書きが一枚、ひらららと宙に狂う。
 私は落ちたその一枚に指を滑らせ、ちろりと見ながら呟く。
「これも無駄になっちゃったな」
 この覚え書きには帽子の構造が書かれ、んっ?
「これは」
 始め見た時には何も無かった余白の部分に、字が書かれている。
『気付かなくって御免なさい。玄関の外を見て』
 
 あぁ、駄目だ。考え過ぎで幻覚を見ている。でも、踊らされるのも悪くはないか。
 私は糸に引かれた玩具の様にお勝手側の玄関に出た。
 しかし、何も無い。
「そりゃそうか」
 だが、我が思考の幻は思ったよりも強かった。
 もしかしたら、店の玄関の方かもしれない。
 秋夜の寒さが滲みながらも外を歩く。十歩もしないで店舗の玄関前に到着する。
「ほら、何も無い」
 私は覚え書きの新規文字をただの幻覚だと思っていたので、大して辺りを確認せずに言った。しかし、言い終えた後に何かを見つけた。と言うよりも在った。
 夜の暗さに輝く布包み。
 私は慌ててその包みを両腕で抱え、家に持ち帰る。そして、作業卓の上にそれを乗せて開けた。
 中身を見た瞬間に包みを触れる手が揺れて腰が崩れ、思わず漏れた声もぶれる。
「ここっ、こここっ、これれは」
 それは着物一つを楽々に作れる程の絹生地。
 おカイコ様に換算すれば、ざっと繭一万玉。
 しかも、今自分が必要としているものと同じ色に染められている。
「ももっ、もしや、紫さんが? でも、他の人達に迷惑が……」
 そう、今私を襲っている震えは目の前に高級な布地が在るという事だけではなく、絹糸が必要な人々にとんでもない失礼をしてしまったかもしれないという意味も含んでいた。
「どっ、どうしよう。今からでも紫さんに返してしまおうか」
 口はそんな事を宣うが、帽子作りに正直な指先は摩擦の無い布肌を撫でている。
「ぉお、本しゅす織りまでされてる」
 思わず光の艶で編まれた生地を手に持って立ち上がり、ゆっくりと広げる。
「いい……いいな、これ」
 私は唇の間から跳んだ言葉に気付き、慌てて正気に孵った。
「いかん、いけないっ! 今からでも遅くない、紫さんに返そうっ!」
 そう言うと大きく肢を拡げた生地を早々に折り畳む。すると、絹布の背から一枚の紙が零れた。
「何だ?」
 私は生地を折り畳み終えると、その小さな長方形を拾う。
 字が、書いてある。
『幻想郷の外から持ってきたわ。だから、心配しないで帽子を作ってね。紫より』
「幻想郷の……外?」
 私はその言葉の意味が分からなかった。
 しかし、玄関に絹生地を置いたのが紫さんだという事と、この布地を帽子の材料に使っても大丈夫らしいという事は分かった。
「ふう」
 私は帽子作りの障壁が取り壊されて安心の空気を吹き鳴らす。そして、彼女がこの場に居ないというのに、親しい声を散らした。
「紫さん、お高い材料をありがとうございます。大切に使います」
 でも、こうなる前にもう少しこちらの事を考えて欲しいものだけれど。
 一息した後に私は早速紫さんから貰った絹を拡げ、作業に心巡らせる気合の一声。
「さて! 帽子作りを」
 始めよう、と言おうとしたのだけれど……
「ふぁじぃふぇよふぅぅ」
 突然欠伸が意識と肉体に制動を掛け、熱意の表明は穏やかな蝗になって着地する。
 駄目だ。駄目が駄目で駄目だ。
 今日はもう、手を動かせそうに無い、眠い。
 寝よう。
 眼を閉じるだけで明日へ進む寝具――布団を敷こう。
 私は布の寝床を畳に設置するとその中に入り、ほんのりと紫さんとの出来事について考察を彷徨わせる。
 それにしても、どうしてだろう。
 幻想郷でも名の通る妖怪である彼女が私みたいな人間に帽子を頼むなんて。
 単純に腕だけだったら他の、実用的な帽子を作る店の方が上なのに。
 それに加え、彼女に帽子を作った時の報酬もどういう事か分からない。
『報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ』
 本当にどんな物でもいいのだろうか? どうして、それ程の価値を私の帽子に見出しているのか? これらの謎達は今も心に不鮮明な橋渡しをしている。
 ちなみに私は今日の報酬については『いいです、何も要らないですよ』と断った。
 何故なら私が初めて彼女に帽子を渡したあの日、私は救われたから。
 心に巣食う怒りや悲しさの炎が綺麗に流され、再び私は生きる意味、喜びを取り戻したから。
 もう、それだけで一生分の報酬だった。
 そこまで考えると、私は紫さんから貰った初めての報酬について心を傾ける。
 彼女が最初にこの帽子屋へ訪れた時、私は二十七個目の帽子を否定された後で心が不安定になっていた。
 あの時はもう自分の帽子に対して愛と夢を失い、お客に怒りと悲しさを抱いていた。
 如何にして苦しめてやろうか、恥をかかせてやろうか。
 お客に対してそんな朧げな復讐心さえも頭にあった。
 しかし、私はそんな事をして自分の生きる意味を穢したくなかった。何も考えず、ただただひたすらに怒りと悲しさが組み合わさった復讐心を縛り付けていた。
 だけど、そんな中紫さんは自分の前に現れた。加えて彼女は私の作った帽子を純粋に愛してくれた。
 でも、その時の自分はそれが信じられなかった。
 おまけに私は歪んだ精神で彼女の『報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ』という言葉を捉えてしまった。これにより、己の復讐心と紫さんの言葉は陰気な櫓を組んだ。
 その結果、私は『あの報酬』を求めた。求めてしまった。
 つまり、黒い感情が噴き出したのである。
 その後私は愛すべきお客――紫さんを傷付けた事によって冷たく崩れ、生ゴミの様に謝った。
 あの時の自分は本当に無様で救われず、そして醜かった。
 だけど、彼女はそんな自分を赦してくれた。
 純粋に私の帽子を愛している目で。
 しかも紫さんはそれだけに止まらず、『あの報酬』の事をこう言った。
『久しぶりに砕けた付き合いができて楽しかったわ!』
 まさか、こんな一言であっさり終わるとは。
 私は夜闇の黒に溜息を投げ掛ける。
 あぁ、あのひとには色々な意味で敵わないや。
 そう思っていると、瞼の催眠作用で意識が遠のいていく。
 眠気の闇に紫さんの『あの報酬』の映像が浮かぶ。
 でも、あの時のゆかりさんは
 きれ……
 一気に瞼を開いた。
 いけない、いま何かいけない事を考えていた!
 そうだ、綺麗な訳がない。
 じゃあ、きたない?
 いや、汚い事は汚いが何というか……
 その、しかし、綺麗というのも何か。
 ええと、ああ、あぁあ。
 駄目だ。今日は頭を使い過ぎた。疲れている。
 私は『あの報酬』の事を引き剥がす為に今日の出来事について考える。
 そうだ、今日は紫さんの笑顔が良かった。
 特に愛らしい鼻が素敵だったな。
 それに、着ている服だって……
 うっ!
 私はそれと連動して思い出した。
 異界な裂け目から宙に浮く逆さ顔、頭の無い首の断面図。
 あぁ、思い出したくないものが。
 鮮明に。
 浮かび上がってくる。
「あぁ、う、んんん」
 苦しそうに呻く。
 早く、眠りたい。眠って、早く脳内からこの映像らを消したい……
 結局その夜の私は、『あの報酬』を出す紫さん、空中逆さ生首紫さん、頭から上が無い首ちょんぱ紫さん、が見事な連携の三角を作り、頭の中をぐるぐると回遊していたので全く眠る事が出来なかった。


 冬の寒気の中に、火照った炭。それを飲み込む火鉢上には焼き網。
 更にその鉄格子の上には白珠。
 私が暫くその白円を眺めていると、炭素の熱波が囁く。
 白珠はその言葉にそそのかされて顔色を換える。
 もう、既に顔色の半分が換わっているというのに。
 私は焼き網に面した見えない白珠の変化を察し、ひっくり返す。
 その姿は妙に食べる本能を刺激し、体から散る香りは胃を凶暴にする。
 よし、もう良いだろう。
 私は白珠――お餅を箸で捕獲すると、既に醤油が陣地を組んでいる皿に着地させた。
 そして、裏、表、側面に満遍なく味が付く様に転がす。
 それから最後は口の中に放り込む。
 はふっ、ほふふっ、と食べるのが礼儀。
 少し熱い。だが、それ以上に美味しいので、止められない。
 今、私は店の方の部屋で餅を焼きながら食べている。
 事の始まりは紫さんとの約束から。
 
 今日は紫さんが完成した帽子を取りに来る日。
 なので私は彼女を店舗に迎え入れる支度をする。そうすると、ある事に気付いた。
 この部屋、寒いな。
 そう、季節は秋の後ろ。店舗にいる己の口から紡いだ息が白い霧になっている。
 私はこのまま彼女を店に迎え入れた場合について考えた。
 このままだと紫さん、寒いだろうな。そして、何よりも自分が凍える。
 私は店を暖める方法を考えるが、それは可能性の姿になってはくれない。
 自宅の方に囲炉裏やかまどがあるが、この部屋を温めるには遠すぎる。もし暖まるとしても時間が掛かって紫さんが来るまでに間に合うがどうか分からないし、何よりも薪や炭を多く使うので勿体無い。
 自分の思考は不可能と劈くばかりで役に立たない。
 しかし、この窮状を陥落させる一つの記憶が遡った。
 そうだ、確かあそこに。
 私は自宅へと続く扉を潜り、そのまた奥の押入れの襖を潜って探す。
 長年の手付かずを証明する埃を押し退けると、見つかった。
「良かった、この様子だと使えそうだ」
 両腕で何とか抱えられそうな蒼い体には、白くて大きな口。
 昔、綺麗な色彩に見惚れて銭を落としたのだが、よく考えればうちには既に囲炉裏が在ったので結局使わなかった火鉢。
 私は両手でこの陶製の赤ん坊を抱き抱えると、老人の様に曲がった姿勢で店へと運ぶ。
そして、火を呼び込む為に住居を造る。
 私はうろおぼえぼんやりな頭を奮い起こし、実用的な記憶を啜った。
「ええと、確か」
 まず火鉢に半分と半々分の灰を入れ、鉄輪に三本の脚が生えた五徳をその中に半分つっぽりと立てて、それから火を含んだ炭を灰に埋めてそれからそれから……
「よし、出来た!」
 紫さんを迎え入れる店舗には見事赤々と暖気が住む火鉢が建造された。
 私は縦に置かれた恥ずかしそうに熱を振り撒く炭へと掌を翳す。
 あぁ、あったかい。
 囲炉裏やかまどの熱さも良いが、こちらも中々良い温もり。きっと、食べ物だって焼けるだろう。
 そこまで想うと、眉間が縮まってある事を思い出す。
「あれを焼いてみようかな」
 私は店舗から家のお勝手に向かい、元いた場所へと白い食べ物と焼き網を持ち帰る。
 ちなみにこの白い食べ物は三日前に里で雪掻きの手伝いをした時に貰った物だ。
「さて、お餅さん。美味しくなってくれるかな」
 私は火鉢上に鉄の格子を置き、またその上に白珠を置いた。

「うむ、実に美味であった」
 そんな事があって私は七個の餅を平らげて胃を幸せにすると、金網を片付け始めた。
 もうそろそろ彼女が来ると思ったから。
 片づけを終えて落ち着くと、扉が啼いた。
 来た、紫さんだ。
 私は扉の鍵を開けて彼女を迎え入れ、挨拶する。
「こんにちは、紫さ……」
 挨拶はそこで途切れた。それでも金色髪の彼女は挨拶をこちらへ返す。
「こんにちは。どうしたの?」
 紫さんがこちらに疑問を携えた眼を繰るが、私はそれを咄嗟に流した。
「いいえ、何でもありません」
「そう、ならいいのだけれど」
 何故自分の言葉が途切れたかと言えば、それは彼女の外見。
 今日は前回の様な紫を主体としたドレスではなく、白い花弁を思わせるドレスに橙と控え目な紫色で組まれた陰陽の図柄をした生地を纏っていた。髪型も前回の様な長髪ではなく、頭の後ろに小さな籠の様に纏められている。
 これだけでも大きな変化だが、その中でも大きく自分を惑わせたものがあった。
 それは瞳の色。
 前彼女と会った時は紫の瞳だったのに、今日は金の瞳だった。
 金色、それも太陽ですらちっぽけに見える程に激しい煌めき。
 どうして私はこの女性が紫さんだと分かったのだろう?
 共通点は前々回私が作った帽子を被っているというだけなのに。
 前とは受ける印象が全く違うのに。
「どうぞ、お掛けになってください」
 私は日傘を折り畳んだ彼女を見ると、戸惑い心を纏いながら椅子へと導く。
 見慣れない紫さんは席に白房のスカートを乗せると、近くにある火鉢に心を傾けた。
「気を遣ってくれたの? ありがとう」
 彼女は唇を嬉しそうな勾配にして、こちらを笑む。
「いいえ、私も寒かったので」
 私はその心に何とも自然な声で返し、その行動によって理解した。
 あぁ、やっぱり、このひとは紫さんだ。
 見た目と印象は少し違うけれど、この温かさは紫さんだ。
 きっと、眼の色が違うのも事情があるのだろう。
 私は木箱を机上に置いて、彼女の声を待つ。
「例のアレはもう完成したの?」
 紫さんは訊く声、利く声、効く声。
「はい、もう出来上がりました」
 自分はその響きに応え、大きな木箱を開ける。
「どうぞ」
 彼女は箱の中身を受け取り、こちらを見た。私はそれに対して確認の心を振り掛ける。
「どうでしょうか? 何か不満な所は」
 紫さんはその言葉の問いを即座に投げ付け、こちらにまた新たな心を喋った。
「無いわ、完璧よ。でも、あなたに少しだけお願いがあるの」
「お願い?」
「そう、お願い。一寸だけ後ろを向いていて」
「うしろ? これで大丈夫ですか?」
 後ろを向いた私は背中から声を伝え、背中から彼女の声を聴く。
「ええ、そう、それでいいの。そのまま少し待ってて」
 それから暫くの間、自分の眼は鋭い表情の壁材に向いていた。その間全く声や物音はしなかった。その事を感じると一秒一秒が伸び、感覚の密度が痩せながら太っていく。
 きっと、一瞬の永遠とはこの事を言うのだろう。
「もう良いわよ。こっちを見ても」
 声だ、紫さんの声だ。
 私は振り返った。そして、見えた彼女は……
「ふふふ」
 その姿は先程見た姿とは全く違っていた。
 まず頭には今回私が彼女に作った帽子。
 次に紫さんの体に隙間無く纏われた白と黒の燕尾服。
 そして最後に物言わぬ白い光沢を持ち合わせる黒革の靴。
「どう? 初めて着たのだけれど」
 彼女はそう言って右の踵を軸にして右向きにゆっくりと横一回転。
 私はその声と一緒に紫さんの革靴へと落ちていた視界を引き揚げる。
 そうすると、見えた。
 まるで、瞼に写った夢の様な光景が。
 黒曜石の輝き放つ革靴、儚い墨の直線を描く脚、腰に逆三角形の尾をちらつかせる夜色の上着。
 そして、紅の紐で結われた髪と雪糸で編まれた様なシャツに無垢なタイ。
 これらは全て嘘の様な現実で、幻の様な実像であった。
 しかし、私が最も自己の視界を疑ったのは次の事象。
 それは絹で作った黒帽子――シルクハットの下にある紫さんの顔。
 どうしてだろう。彼女の顔は女性そのものなのに。
 どうしたことだろう。今の紫さんは。
 彼女はさっきまで女性の姿をしていた。だから、今見える顔も女性らしいはずだ。
 しかし、私の視界はおかしかった。
 揺るがぬ陽の眉、硬質めいた頬、説得力の影を持つ鼻、血が通う銅の如き唇。
 それから……
 燃える金睫毛から零れる瞳の灯。
 男だ。この紫さんは男だ。
 そう、自分の視界は彼女を男性だと認識していた。
 それも中性的なそれではなく、立派な男らしさを持つ男性として。
 可笑しな話。でも、目の前に起きている本当だった。
 彼女の髪はドレスを纏っていた時の柔らかな金糸ではなく、シルクハットと燕尾服の上をちらつきながら白熱する鋼弦の様に見える。
 加えて動揺に弾かれているせいか彼女の肩幅すらも男性のそれに思えてきた。そして、こんな言葉も降ってくる。
 紫さんは女、紫さんは男。
 思考はそれを『何と馬鹿な』と言うが、心は……
「どう、似合ってる?」
「はっ、はい!」
 いきなり思考の湖底より引き戻された私は答え、それから感想を言う。
「輪郭はぴったりと決まっていますし、着こなしもばっちりですっ!」
 慌てて言ったので、何とも適当な褒め言葉。
 もしかしたら紫さんに怒られるかもしれない。だが、今自分が想っている事をそのまま言う訳にはいかなかった。
「あら、ありがとう。ふふふ」
 そんな心配を燕の様に翻した紫さんは声を返し、自身の墨より黒い上着に渋る釦を指で撫でた。
「あぁ、楽しかった。あなたの戸惑い驚く顔って面白いわね」
 そして、ありえない事を歯の間から滑らした。
「肩幅を変えた甲斐があったわ」
「えぇっ!」
 さっき自分が捨てた思考。しかし、彼女はそれを拾い上げ瑞々しい現実として採用している。
 これには驚きが這い上がった。
「たっ、確かに広くなっていますが……でも、一体どうやって肩幅を」
 私が驚愕冷めぬ間に質問すると、紫さんは涼しい糖菓子を勧めるかの如く言葉を返す。
「知りたい? 私が肩幅を変えた方法」
 はい、知りたいです。
 と口を動かしそうになったが、私は慌てて唇の上下に制動を与えた。
「あっ、いいえ。ええと、その」
 その理由は前回の私に見せた光景。
 妙な空間に入った首、血肉色の断面図、ぶらりにやにや逆さま視線。
 もし、今知りたいと言ったなら、前回よりも酷い事になるかもしれない。
 だって女性の紫さんが男に見え、肩幅まで変わっているのだから。
「あら、知りたいの? それとも、知りたくない?」
 そんな私に対して彼女はシルクハットと燕尾服を侍らせて訊く。
「いえ、知りたいのですが、知りたくないような、何といいますか」
 私はどうにか自分が大変な目に遭わない様に粘着質な言語で様子を見たが、目前に居る紳士にして淑女な妖怪はそれをものともせずに薄く紅いの唇から脅威を紡ぐ。
「そう、知りたいのね。じゃあ、教えてあげる」
 彼女はそう言うと上着の楔である釦を外してその中身をこちらに見せた。
 私はその動作に慌てて己の顔を掌で覆う。
 だけど、紫さんはそんなこちらを知ってくすくす。
「ふふ、大丈夫よ。そんな事しなくても」
 企みの無い言葉、安堵する声。だけど、お茶目で悪戯っぽい息。
 私はそれに釣られて手を視界から外し、眼球に映ったままの彼女を直視する。
 そうすると、見えた。
 はだけた甲殻の燕尾服から見える紫さん。
 シャツを纏っているが、それは朧げな霧。
 それは、彼女のせい。魅力が惹かれる姿のせい。
「ほら、ここを見て」
 紫さんは何処かを指差したが、自分はただ一箇所を見ていた。  
 それは黒き鋼の燕尾服から熔け落ちそうな柔らかい姿を見せる生き物。
 それは硬い服の中に白いシャツを身に付けた紫さん。
 今の自分には目前の存在が女性なのか、男性なのかもはっきりとしない。
 だが、それでも惹かれた。
 ああ、このひとは何て綺麗なのだろう。
 私の前にいる彼女は間違いなく妖怪だった。 
 途切れぬ危うさを感じさせる、美しい妖怪だった。
「どうしたの?」
 私はこの声によって慌てて自分の心を引き戻す。
「いいえ、何でもありません! それで、何処を見れば良いのでしょうか?」  
 紫さんは自分の声を受け取ると、再度件の座標を指差す。
「肩よ。シャツと上着の間に白い物があるでしょう?」
 確かにその場所にはふわふわした布製の物が居座っていた。
「これは何ですか?」
「肩パットよ」
「かた……ぱっと?」
「そうよ」
 彼女はそうやって三文字を舌から羽ばたかせると、具体的説明。
「これは詰め物なのよ、簡単な言葉で言うならね。肩幅の狭い人が服の下に忍ばせて肩幅を広く見せる為の物なの」
 私はそこまで紫さんの声を酌むと、今までの謎をやっと理解した。
「そうか、だから紫さんの肩幅が広くなった様に思えたんですね」
「そう、その通り」
 そうやって彼女は自分の解釈を正解と認めると、髪を揺らしながら美味しそうに笑う。
「ふふふ」
「どうしたんですか?」
「いえ、まさかあなたが肩パットを詰めただけであんな表情をするなんて」
「あぁ、その、いいえ、男性の格好をした女性というのは初めて見ましたので」
 改めて考えてみれば可笑しな事だ。幾ら大き目の燕尾服とシルクハットで身を固め、肩パットを沢山詰めたとしても限度がある。どこまで行っても男性もどきなのに、私は彼女を彼と錯覚してしまった。
 私がそんな間抜けな解釈を廻していると、また件の女性から声。
「ねえ、あなた」
 やっと彼女の変化の理由を理解した自分は冷えた返答をする。
「はい。何でしょうか、紫さん」
 だが、目の前の妖怪はこちらをじっと見て、真面目に言った。
「わたしの格好だけれど、どうだった?」
 ただただ金の瞳をにこちらへ向けて。 
「はい、良かったと思いますよ」
 それに対し私の紡いだ言葉はしっかりと成形された規格品。
 しかし、心には妙な焦りが巡っている。  
 男姿の彼女に熱を感じた。
 もし、この事を悟られたら、変な心を持たれてしまう。
 だから私は心の熱量を含まない言葉を紡いだ。
「あら、そう。じゃあ」
 紫さんはそんな自分に対してまた問いを生み落とす。
「男の格好をしたわたしを見て、あなたはどう思った?」
 私は次の文句に迷った。煌めく瞳孔がこちらをただ真っ直ぐに見ていたから。
 どんな嘘を吐いても簡単に見破られてしまいそうな眼。
「あっ、ええと、その」
 そんなこちらを理解しているのか、紫さんは更に質問を送る。
「もしかして、どきどきした?」
 そこまで来て私はついに落ち着きを保てなくなって弾ませた。
「そそ、そんなことはありませんっ! 紫さんが男性の格好をしているのを見て興奮したなんて事は……」
 そこまで話すと紫さんの表情が、今までの真面目から一気に不真面目になった。
 そして、私は思う。
 ああ、しまった。   
「あら? わたしは『どきどきした?』とまでは訊いたけど、『興奮した』とまでは言っていないわ」
 目前にいる燕尾服の女性は道徳から外れた笑みでこちらを見た。
 まるで、面白い生物が視線上に存在しているかの如く。
「一体、何を考えていたのかしら?」
 金糸の眉は愉快な角度、鼻にはくすくす白い影、命色の唇は笑みの流れ。
 その表情は何とも攻撃的で、心に刺さる。
 だが、そこに痛みは無く、温く痺れる恥だけが零れた。
 それからその恥は血となって隅々まで躍り、どうしようも無くさせた。
 そう、紫さんがこちらを見ているのに耐えられなくなる程に。 
「そそっ……そんなことはどうでもいいですからっ、早く元の姿に戻ってください!」
 つい口から漏れた言葉は、悪戯好きな妖怪への哀願。
「あらら、怒らせちゃった。御免なさい。じゃあ、すぐに着替えるわね」
 彼女はそう言うと紳士な指で宙を切り、そこから生まれた歪に己を沈ませた。そして、それからすぐにその裂け目から姿を現す。
 始めは赤い靴、終わりに帽子のリボンの深紅を棚引かせて。
「はい、これで着替えはおしまい」  
 紫さんの影は最初店に入った時と同じものに戻っていた。 
 男性らしさは微塵も無く、女性そのもの。
 だが、それでも私の心はまだ少し熱を孕んでいた。
 そんな風に感じていると、また綺麗な妖怪の囁きがする。
「あなたの仕事の良さは分かったわ。だから、次の話をしましょう」
 私がその声へ顔を傾けると、彼女との取引はまた別の舞台へ進む。 

「報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ」 
 私と紫さんは次に作る帽子について言葉を交換した後、卓を挟み報酬の話をしていた。
「いいです、何も要らないですよ」
「本当に? お金や材料は大丈夫なの」
「はい、別の仕事で働きながら帽子を作ってますから大丈夫ですよ」
 自分が前回の報酬と同じ様に答えると、彼女も前回と同じ様な表情をする。
 それは、困った様な顔。
「どうしましょう……」
 私は紫さんの表情を明るくしたくて、己の報酬の正当性を前回と同じ様に補強する。 
「いえいえ、別に今は貰わなくっていいんです。食べ物やお金に困った時に戴きますよ」
「いいの? 本当に」
「はい、いつか必ず戴きますから、今は大丈夫です」
 その言葉を心に含んだ彼女は顔に明るさを取り戻して言う。
「ありがとう。いつか必ず払うわね」
 お客はどんな報酬でも送りたい、でもお店はそれを受け取りたがらない。
 この奇怪な経済の遣り取りを終えると、紫さんはまた別の話へと賽ころを振る。
「ねぇ、ちょっとあなたに訊きたい事があるの」
「何でしょう?」
 私は彼女の瞳に注意を手繰り寄せた。
「あなたはどちらの帽子屋なのかしら?」
 しかし、自分はこの声の意味が分からなくて逆に質問を反す。
「あの、どちらのというのは一体?」
 私の声は予想の皿から零れ落ちてしまったらしく、件の女性は暫しの秒から応えた。
「あぁ、いえ。そうね、人間側か妖怪側、どちらの為の帽子屋なのかという事よ」 
 私はその言語の補強によって質問の意味を解した。
「ああ、成る程。そうですね」
 そして、早速 紫さんの問いに答えるべく尽力する。
「うぅぅん」
「どうしたの?」
 しかし、それは具体的な姿を持って喉頭から弾けない。
「すみません」 
 私は謝ると我が帽子屋がどちら向けなのかを話した。
「今までそういった事は全く考えていませんでした。人向け、妖怪向けなんて」
 彼女はそんな答えを摘み取ると、薄赤い淵をした瞼を揚げる。
「まぁ、そうだったの。わたしはてっきり人間向けの帽子屋だと思っていたわ」
「どうしてですか?」
 私が飾りの無い謎を預けると紫さんも飾りの無い答えを返した。
「始めて見た帽子は人間が被る物だったから」
「はい?」
 私はその言葉が頭に染みて来なかったのでつい声を放す。
「あなたとわたしが初めて出会った時、あなたは人間の帽子を持っていたから」
 私はそこまで訊いて意味がやっと分かり、思い出した。
「ああ、そうでしたね」
 あの時の事だ、自分と紫さんと始めて会った時の事。
 あの時、自分は確かに人間用の帽子を持っていた。
 私はそこまで過去に遡ると涼しい心になり、一歩踏み出した会話を建ち上げる。
「でも、今まで人の帽子だけじゃなくて、妖怪の帽子も沢山作りましたよ。例えば昨年の春は……」
 私は過去のお客達について話す。
 それは人の姿をしていない訪問者の話、奇怪という言葉すらも陳腐な妖怪達の話。
 下半身が蛇であったり、身体がぬめぬめしていたり、全身が瀬戸物だったり。
 とにかく人間ではなく妖怪の話。
 人ではない者に帽子を作る上での苦労話。
「それで、頭の部分がつるつる滑って中々帽子を被せる事が出来なくって大変でしたね。とにかく色々なひと、いや妖怪さん達の帽子を作りましたよ。でも、本当に私の帽子を気に入ってくれたのは紫さんだけでしたけどね」
 そんな風に一日の四十八分の一程話すと彼女は言った。
「そう、そんな事が」
 紫さんは左の小指を卓上に少しだけ滑らせた。
 そして、こちらに肌色の硝子じみた頬を向けながら問う。
「ねぇ、あなたにもう一つ訊きたいのだけれど」
 白い爪は幻じみた楕円を描き、中央が桜色に火照っている。
「はい」
 私は気遣いも無いが失礼も無い言葉を打ち鳴らす。
 そうすると目前の女性の唇はあかく赤く淑やかに響いた。
「あなたは今まで色々なひとの帽子を作ったみたいだけれど、過去に帽子を作るのを断った事はあるの?」
 何故、そんな事を訊くのだろう?
 別に断った事があったとしても私は紫さんの帽子を作り続けるのに。 
 疑問はそんな風に劈いたが迷わずに答えた。
「いいえ、ありませんよ。一度も」
 その声鳴りに彼女は白い鼻の先を少しばかり傾けて更に問う。
「本当に? 一度も? どうして?」
 私は目前の女性が疑問符を三つも引き連れてきたので、若干気圧されながらも喋った。
「ええと、はい。一度も。あと、そのっ、どうしてかと言われますと」
 でも、自分の唇は不器用で一度に二つまで。
 よって、暫しの間と息継ぎを得て最後の一答。
「嬉しかったんです。人と妖どちらの方でも、どんな姿をしていても自分を信頼して仕事を頼んでくれる事が。だから、私はどんな方の依頼も断りたくなかったんです」
 少し気恥ずかしい答えだ。
 今まで彼女に出会うまでは客に満足する帽子を作る事が出来なかったし、その前は客に怒りや悲しさすらも抱いていたから。
 私はそんな酸性の心を含みながら紫さんを見た。
 すると、目前の女性は全く表情を持たずにこちらを見つめ返している。
 目も眉も口も鼻も綺麗なのに、感情が出てこない。
 ああ、これは駄目な答えだったか。どうしよう、この店の常連は紫さんだけなのに。
 私は自己の大いなる罪に悔やみながら謝った。
「すみません。生意気な事を言ってしまって」
 しかし、例の女性は今まで遠くを見ていて、たった今こちらに気付いたという風に反応する。
「……えっ? あぁっ、ごめんなさい。ええと、それで何て言ったのかしら」
 私はそんな反応を受けて謝罪の解説をした。
「いえ、紫さんに表情が無かったので、失礼な事を言ってしまったと思い、謝っていたんです」
 しかし、当の紫さんは柔らかな顔になって心配から外れた事を述べる。
「いいえ、あなたは何も失礼な事は言ってないわ」
 だけど、私はほとばしりが信じられず、確認を並べた。
「本当に? 全く? では、どういう意味で?」
 彼女はその問いに瞼を翅みたいに動かしたが、すぐ答えてくれた。
「ええ、本当よ。生意気だなんて一欠片も思っていないわ。それにわたしの顔が動かなかった理由はね」
 紫さんは器用に二つ述べ、最後は息を含んで言った。
「あなたの帽子に対する姿勢、そう、あなたの考えが素敵だって思ったの」
 私が今まで見た中で最も素直な表情で。
「だから、ついあなたに表情を見せる事も忘れていたの」
 私はいきなりそんな事を言われたのでどんな息を答えれば良いのか迷ってしまった。
 それに何故『素敵』と思われたのか、その理由も分からない。
 だが、私は妙に喜びを感じたので、反射的に感謝の言葉を送り付けた。
「ありがとうございます、そんなに褒めてもらえるなんて」
「いいのよ。だって本当の事だから」
 紫さんはこちらに向かって微笑んだ。
 とてもとても嬉しそうな顔をして。
 そんな表情を見ているとこちらまで幸せになってくる。
 だけど、私にはどうしても紫さんの喜びの理由が分からなかった。

「さようなら、紫さん」
 それはお別れの聖句。
「さようなら」
 それは再会への聖句。
 私と紫さんは話すべき事を全て終えた後、開いた玄関で別れの挨拶を交わした。
 そして彼女は自分に背を向けて帰り道を……いや、違う。
 まだこちらを見ている。
「どうしました?」
 私はそんな言葉で紫さんに訊いたが、彼女は応えなかった。
「いいえ、何でも」
 そう言うと彼女はこちらに背中を見せ、雪道を足跡も着けずに歩く。
 まるで、雪上を滑る花房の様に。
 そして、冬の寒気の果てに小さくなって消えていってしまった。
「何だったのだろう?」
 私はそんな風に客人の帰路を見つめながらつりりと呟いたが、すぐに外の凍えによって室内に退却した。そして、紅く弾ける涙を零す火鉢に手を翳す。
 そうすると掌の寒さが締め付ける熱線へと変貌した。
「まあいいか、それよりも」
 次の帽子を作らないと。
 今日は特に他の用事も無いし帽子の材料を集めたり、工程や作り方の検討を進めよう。
 私は今回も紫さんから受け取った資料――大量の本と写真と覚え書きに悪戯し、まずどの材料を集めれば良いのかを調べる。すると文字と図柄が苦悶にも喜びにも似たさざめきを散らしながら、自分に必要な知恵を教えてくれた。
「へえ、今まで目にした事はあったけど、こんなのが材料だったのか」
 次会う時に紫さんがこちらに期待している帽子、と言うよりも被り物は幻想郷では有り触れた物が材料だった。
 今日のシルクハットの様な珍しい材料は一切使っていない。
 その有り触れた材料はある植物の茎と麻布と糸。
 茎は外で刈れば銭が掛からないし、麻布と糸は店に銭を落とせば大丈夫そうだ。
「よし」
 私は店の扉を閉めて火鉢を眠らせると家の方へ行き、出掛ける支度をする。
 そして、準備が終わると玄関から外へ出て、紫さんの帰り道とは反対の向きに材料を求めて歩く。
 そうしていると何度も籠付き背負子に投げ込んだ草刈鎌が揺れる咳をした。
「ふふ、くくく」
 私はその音のせいで噴き出してしまった。
 今の格好があまりにも可笑しかったから。
 自分は本当に帽子屋なのか。籠と背負子と鎌を持って外に草刈りなんて。
 いつもの己だったら有り得ない。
 だが、私は瞼を一瞬暗闇にさらして思った。
 それは、綺麗な金髪の女性の事。
 まあいいか、紫さんの為だ。
 今日材料を集めて制作に取り掛かれば、きっと次に彼女が訪れるまでに帽子は完成出来るだろう。
 私はそんな事を考えながら、歯軋りする雪道を進んで行った。
 

 今、視界には春の景色。
 今、鼻腔には春の空気。
 今、鼓膜には春の囁き。
 だが、今自分の口からは赤い脚がはみ出ている。
 現在私は食事中。日常的に行われる酷い事をしていた。
 箸で十分過ぎる程に火が通って揚げ上がった身を抓み、唇でその腕をもぐ。
 それから刹那もせぬ内に口の中でそれは砕け散る。
 柿色の鋏。
 だが、私は無慈悲に酷い仕打ちを続け、体全体を貪り始めた。
 白い腹、黒い目、八本の脚。
 むしゃり、むしょ、むみみ。
 口には舌という名の審査官。
 不味いと言ってくれればすぐにこんな酷い事は止める。
 でも、そいつはにやけ面で美味しいと評価し続けた。
 だから歯と喉の動作は止まらない。
 何度も何度もそんな事を繰り返すと、悲劇の皿は空っぽになり腹は膨れ上がる。
 そして、私は両の掌を合わせて厚顔無恥にもさよならの言葉。
「ごちそうさまでした!」
 さらば、愛しき甲殻類。さらば、沢蟹の空揚げ。
 ああ、美味しかった。
 私は朝食を終えると食器を片し、食休みをした後に家の中から店へと移った。そこには一つの長机と一組の椅子。
 私はそんな空間に水入り桶と雑巾を持ち込み、そこら中を拭き始めた。
 今日はあのひとがここに来ると思ったから。
 始めは机、次は椅子、最後に壁と床。
 私は店を一通り綺麗にすると桶と雑巾を家へ戻し、店の隅に布袋を置いた。
 そして、店の明かり取りを開ける。その隙間からはもう少しで芽吹く木の芽と雲一つ無い空が窺えた。
 私は明るくなった店内の椅子に腰を置き、あの女性が何時訪れるのかと待つ。
 もう、そろそろか。いや、まだかな。
 そう思いながら心臓が三百回程鼓動すると、店の玄関がわなないた。

 私が扉を開けるとそこには日傘のお客――紫さんが立っていた。
「こんにちは、紫さん」
 その声に反応して彼女も挨拶する。
「こんにちは」
 私は彼女を店の中に迎え入れ、椅子の方へ手を向けた。
「どうぞ、お掛けになってください」
 今日の紫さんは青紫のドレス。しかし、秋に訪れた時のドレスとは違い、長い袖と所々にあしらわれた白い布地が蝶の印象を纏っている。
 だが、頭は秋の帽子――私が初めて彼女に作った帽子のままだった。
「ありがとう」
 そんな格好をした彼女は礼を言うと持っていた花弁の如き日除けを畳み、椅子に音も喋らせずに座る。そうすると、こちらに興味の声を零した。
「例のアレはもう完成したの?」
 私はその揺らぎに自信を携えて言う。
「はい、もう出来上がりました」
 私は部屋の隅の大柄な布袋を卓上に置いた。
「あら、今日は木箱ではないの?」
 それに対して自分は袋を紐解きながら答える。
「ええ、今回の帽子は大きいですから」
 帽子と言うよりも、被り物だろうか?
 私は口を緩めた袋から完成品を取り出し、紫さんに手渡す。
「どうぞ」
 目の前の女性はそれを受け取り、じじっと視線を塗す。私はその完成品について訊く。
「どうでしょうか? 何か不満な所は」
 彼女はその声を身に染み込ませて暫くすると答えた。
「無いわ、完璧よ」
 私はそこまで紫さんと遣り取りをするとある事に気付く。
 瞳が茶、土、大地の輝きだ。
 鉱石の様に規則正しく、耕した地面の香りの色。
 私は一瞬その変化に驚いたが、すぐに安心へと意識を戻した。
 今まで紫さんと関わっていて起きた事に比べるとほんの些細な事だったから。
 紫さんはこちらをぼぅっと見て、言の珠を紡いだ。
「ねえ」
 自分はその二文字ながらも長く響いた声に反応する。
「はい、何でしょう」
 その声を確認した彼女はこちらへ頼み事。
「この帽子にふさわしい格好をしても?」
「ええ、いいですよ」
 私はその願いに了承の思考を閃かせ、承諾の声を投げ掛けた。
「そう、ありがとう」
 紫さんは言葉を自分に落とすと細い白手袋の指で空をゆるりと切り、そこから歪な裂傷を作り出す。そして、その中から刺繍の目立つ布地を抜き出した。
 着物だ。彼女は着替えてから自分の被り物を身に付けるつもりなのだろう。
 私がそう思っていると紫さんは結晶の如き手袋を外し、自身の白い手を使って繊維煌めくドレスの紐や釦へ儚げに指を絡ませる。
 そうすると、彼女の纏っていたそれが寄木細工の如く外れた。
 蝶みたいな生地、青紫と白布を纏う袖、胸から背中の線を想起させる布がどんどん卓上へと横たわっていく。
 そして、紫さんの上から着ける白い生地にも指が触れた。
 それは、彼女の薄色の肌に直接乗っていて、精巧な細工の様に綺麗で……
 私はそれが全て外れる前に慌てて後ろを向いた。
 いけない!
 あぁ、いけない。
 私は一体何を見ているんだ。
 それに、紫さんも後ろを向いてと言わないのか。
 ああ、びっくりした。
 だが、背中越しの女性はそんなこちらの想いを傍らに置き、淡々と作業している。
 その最中には幾つかの音。
 それは、紫さんの肌と布が磨り合わさる囁き。
 本当に小さな、微かな音。
 だが、その音は私にとって心地良い刃で神経を少しずつ削られていくかの様に世にも有害で魅力的な毒だった。
 時間にするとほんの少し、精神からするとだいぶ。
 そんな頃になるともう背中越しの衣磨れは聞えなくなっていた。
「紫さん、もう着替え終わりましたか?」
 だが、彼女はその台詞に答えなかったので、私は怯えにも似た好奇心で後ろを見る。
 そうすると、着替え終わった紫さんが自分の前に立っていた。

「どうかしら?」
 もう彼女の全身を縁取る印象はドレスのそれではない。
 和風の、着物のそれ。
 下へ視線を降らせれば、柔和な草履と折り目を噤んだ足袋が動かぬお喋り。
 そして、その上には袿と呼ばれる着物が煌めいていた。この衣には紋が幾つも織り込まれており、様々な花を模している。
 それは紫さんを冷やかながらも優しく締め、所々に華奢な影を滲ませていた。
 何と、綺麗なのだろう。
 草履と足袋を見ると、心は気化した万華鏡の様に動く。
 袿と紋の花を覗けば、色彩は水面に溶けた虹の如くまどろむ。
 草履も、足袋も、小物の一つ一つにまで心誘われる。
 私がもっと頭を浮かばせると、そこに植物製の帽子――木漏れ日色の市女笠。
 この笠は笠菅で作られており、上から見れば大きな円形で中心部は低い円柱型に隆起している。更にこの丸く大きな帽子の縁には麻布が提げられており、紫さんの顔を透けた組織で隠していた。
 この市女笠は自分が全力を込めて作ったが、他と比べると貧しい出来。
 そうやって自分は彼女の纏物から感銘と羞恥を受けていたが、それも終わりを迎えた。
「似合ってるかしら?」
 目の前には紫さんの顔。
 麻布の隙間から茶色い虹彩がこちらを見ている。
「へっ? え、ええと」
 私は彼女との近過ぎる距離に慌てて退却し、見つめた。
 虫の垂衣――麻布を付けた市女笠を被り、袿の形を絞って壺装束としている紫さん。
 一つ一つを見ればどれも素晴らしい物ばかり。草の履物も涼しげな足袋も花咲く着物も、無理矢理挙げるなら自分の笠だって。だが、似合っていなければこれらは意味が無い。
 つまり、この着物は紫さんに全く似合っていなかったのである。
 彼女の形質は洋の衣に向いたそれであり、和の衣には向いていなかった。
 私はそれを真摯に受け止め、茶瞳のひとに告げる。
「そうですね……」
 一瞬は硬化し、まるで鋼。私は正直に紫さんに話す。
「良いです。とても」
 でも、口から出た真実は嘘の紙風船に化けてしまった。
 だが、可笑しな事に自分の放った言葉は本当。確かに彼女に和装と市女笠は合わない。
 しかし、それ故に浮かび上がってくるものがあった。
 金糸の女性はそんな私も知らずに礼を言う。
「まあ、ありがとう」
 紫さんは白い首をほんの少しだけ傾かせて微笑む。
 透けた麻布からちらり見えた喉は生命を帯びた雪。
 似合わない和装に身を包む紫さん。違和感の衣のゆかりさん。
 衣と身に着ける者の魅力が完全に分離している。
 だが、私はその事によって紫さんが普段よりも鮮明に見えた。
 薄紅色が通る白い指が着物の袖を抓んでいる。
 そして、その主は陽の睫毛と鳶色の視線をこちらに向けていた。
 こちらを驚かす大胆さと、逃げ出してしまいそうな恥じらいを以て。
 私は和衣の彼女にちぐはぐな魅力を感じていた。
 だから、つい『良いです。とても』なんて答えてしまった。
 仮にも私は見た目に関わる店を開いているというのに。
 思考はそう戒めるが、心はやはり彼女に甘さを感じている。
 まるで、水晶の花園でたった一輪の野花を見つけた様に。
 妙に生々しく、温かい香りに満ちていた。
「どうしたの、大丈夫?」
 そんな自分に想を引き裂く紫さんの声がする。私はそれ焦りながらも冷静の演技。
「はい、大丈夫です。じっと見ててすみませんでした」
 でも、そんな心を知らない紫さんは全く悪意の無い顔で善意を振るう。
「あら、別にずっと見ていても良いのに」
 私はそのさえずりに対しても言葉を焦がして答えた。
「いいえ、けっ、結構です。ですから……早く着替えてください」
「そう、じゃあ着替えるわね」
 そう言うと彼女はまたもや注意を払わずに着替え始める。
 私は衣替えから逃げ去る為に再び後ろを向いた。
 そうしないと、色々な意味で耐えられなかったから。

 向かいの椅子には小さな彼女。その姿はもう浮き出た魅力の和服ではなく、入店した時のドレスに戻っている。
「報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ」
 現在交渉は進んでいるか? 
「いいです、何も要らないですよ」
 否、進展無し。
「本当に? 欲しいものは無いの」
 お客は一生懸命払いたがっている。
「ええ、お金も材料も十分にありますから今はいいですよ」
 だが、店主はそれを貰いたがらない。
「そうなの……ほんとうに?」
 客はどうしても払いたくて尋ねる。
「はい、本当です」
「本当の本当?」
「本当ですよ」
「何か欲しいものは?」
「ありません。今は特に」
 だけど、その相手は何も欲しがらない。
「……そう」
 お客は困った顔。
「いつか必ず戴きますよ。絶対に」
 それに対して帽子屋はいつもの約束。
「じゃあ、またいつか、ね」
 その約束に対してお客はまたいつもの約束。
 今日の紫さんはやたらこちらに報酬を渡したがっていた。
「ありがとう。でも、いつか必ずに払うわね」
 だが、自分は結局それを断り続けた。
 紫さんがこの店に来てくれるだけで十分だったから。
 ふと、私は彼女と報酬の話を終えた後ある事を疑問に思った。
「紫さん、ちょっと貴方にお聞きしたい事があるのですが」
 目前の女性はそんな言葉を食み、こちらに謎の続きを求める。
「まあ、どうしたの?」
 私はその言葉に対して疑問の全体像を投げ掛けた。
「紫さんはよく指で空を切って変な裂け目を作りますが、あれは一体?」
 そう、彼女が持つ不思議な技術について。
「ああ、すきまの事ね」
 紫さんはその不可思議な現象をたったの三文字で表現すると、それについては何も答えず、逆にこちらへ帽子を揺らしながら訊いて来た。
「……聞きたい?」
 彼女は柔らかくも硬くも無い表情でこちらに問う。
 私はその妙な顔に精神の真空をつつかれながら恐る恐る答えた。
「はい、聞きたいです。紫さんの気分を害さないんだったら、出来れば」
 金髪の女性はそんな自分を見て赤い唇をほんの少し内側に丸めると、白い歯を見せる。
「分かったわ、答えてあげる。わたしのすきまについて」
 私は彼女がそう答えると一気に口から張り詰めた酸素を排出した。
 紫さんはこちらの呼吸が適正に戻ると、自分の力について説明する。
「わたしには境界を操る能力があるの」
「境界?」
 私はその意味が全く分からなくて声を漏らす。
「そうよ」
 彼女はそんな自分の声を包み込む様に言葉を紡いだ。
「世の中の全てには境界、というよりも境目が存在するわ。そして、その境目が世の全てを形作っているの。例えば今のあなたには、あなたと椅子という境目が存在しているわ。その境目がないとあなたと椅子は一つになってしまう。そうでしょう?」
 私は疑問を携えたまま自分と椅子を見て、彼女の唇の動きに賛成する。
「ええ、そうですね」
「つまりわたしはそういった境目を消したり、新たに創ったり、変えたりする事が出来るのよ」
「では、あなたがよく使うすきまもその応用ですか?」
「そうよ」
「その能力は一体何に使えるんですか?」
「全部よ。モノによって色々と条件はあるけど」
「ははは、そうですか」 
 私は紫さんが淡々と言うので、最初その意味と事の大きさが分からなかった。
「全部、全てですか……えっ?」
 だが、時間と共に彼女の言っている事の重大性に気付く。
 そして、私は座っていた木製のそれから立ち上がり後ずさりした。
「それじゃあ、何でも消せて、何でも作り出せるじゃないですか!」
「まあ、そんなにびっくりする事かしら?」
 それに対して紫さんは清流のせせらぎみたいにしている。
「驚きますよ、普通は! 境界を弄るなんて!」
 私は彼女の表情が何とも納得出来なくて、凡な常識をぶつけた。
「あら、あなただって今までわたしの力を沢山見てきたじゃない?」
「それは、そうですが……」
 しかし、自分の精神は今まで彼女に散々非常識を投げ付けられていたお陰で思ったよりも早く落ち着いた。と言うよりも落ち着いてしまった。
 もっともっと、驚くべき事なのに。
 私は心が静かな波紋を描くとまた椅子に座り直した。
「しかし、凄いですね。紫さんの能力って」
 金糸髪の女性は綺麗な顔で微笑み、自分の台詞に反す。
「そうよ。境界を操れば何だって、出来るのよ」
 私はその声が一瞬擦れたのを感じたが、茶の瞳に圧されて何も言う事が出来なかった。

 私と紫さんは境界を操る能力についての講座を終え、次回作る帽子の話をしていた。
「何でも良い? 本当にそれでいいんですか」
「ええ、そうよ。あなたがわたしに似合っていると思った帽子なら何でも」
「本当に? もし私が作った帽子が気に入らなかったら?」
「大丈夫よ、あなたが作る帽子だもの」
「……そうですか、分かりました。次の夏までには完成すると思います」
「期待してるわ」
 だが、次回の帽子の想像は具体を持ち合わせておらず、こちら任せだった。
 そんな会話を終えればもう外の景色は帰り時。
 私は玄関に寄り、彼女に言う。
「紫さん。そろそろ暗くなります、もう帰った方が」
「あら、もうそんな時間?」
 紫さんはスカートを乗せていた木の座り台から立ち上がり、こちらへ歩み寄る。
 私は掌を膨らんだノブに乗せ、横に廻して引いた。
「どうぞ、お通り下さい」
「ありがとう」
 紫ドレスの彼女はこちらが開けた入り口をゆっくり穏やかに進み、外の玄関へ出てこちらを見る。
「さようなら、紫さん」
 私は金糸髪のひとに別れを告げたが、返事は孵らずにまたこちらを覗いているだけ。
「どうしました?」
 自分はその意味が知りたくて問い掛けるが、それは彼女の舌に打ち消されてしまった。
「いいえ、何でもないの。さようなら」
 紫さんの硬直は己の中に実体無き謎を残したが、私は深く踏み入るのも失礼だと思ったので何も言わなかった。
 それから彼女は背中を向け、傾く太陽に照らされる草花の道を歩いて行く。
 私はそんな姿が見えなくなると、店の鍵を閉めて家に戻った。

 作業卓には翅を虫の如く広げた糸切鋏、針山に刺さる艶やかな縫いと待ちの針、黒くて真っ直ぐな歯並びを持つ物差し、逞しい持ち手と刃の裁ち鋏、それに七色の生地の山。
 だが、そこに帽子作成という作業は存在しない。
 私はスキマを操る妖怪を見送った後、家で次の夏に完成させる帽子について考えていた。
 しかし、浮かんでこない。
「弱ったな」
 今まで言われた通りに帽子を作っていたので、いきなりこちらの自由に作ってと頼まれても困ってしまう。
 私は家にある本や覚え書き、写真、記憶を総動員して次回作に挑むが、やっぱり頭の中には透明な帽子しかない。
「ふう」
 どうしようかな。
 私は考えても何も出ないと悟り、思考切替えで我が店唯一の常連客について想う。
 それにしても、あのひとは本当に変わっている。
 妙に悪戯っぽく人をからかうかと思えば、今日みたいに危険な位無防備にもなる。
 彼女の心はいったいどうなっているのだろう?
 それに、あのひとの種族も全く分からない。
 翼や角といった妖怪特有の奇異な特徴が無く、人間にしか見えない。
 少なくともよく見る天狗や妖獣、妖精の類ではない。
 一体、あのひとは何の妖怪なのだろう。
 他にも自分へ吹き掛ける色々な質問と反応も分からない。
 紫さんは、どんな考えで自分に帽子を作らせているのだろう?
 会う度にどんどん謎が増えていく。
 そんな事を考えれば、空はもう夜。寝るのに丁度良い頃合い。
 結局帽子の構想は出てこなかった。
 私は布団を敷き、中に入り込んで瞼を閉めて諦め溜息をぽつりと呟いた。
「無理だ。『わたしに似合っていると思った帽子なら何でもいいわ』って言われても最初に作った帽子しか思い浮かばな」
 唇が中途労働して止まる。
 その言葉が着火点となったのだろう。
 掛け布団を天井高くまで投げ出し、立ち上がる。
「そうだ、あの帽子にしよう!」
 私は一番最初に紫さんに作った帽子と同じものを作ることに決めた。
 だが、これは手抜きではない。
 現在所持している技術と素材を最大限に注ぎこんだ帽子を作るのだ。
 同じ形をしているが、全くの別物を。
 私はその夜は眠気を薙ぎ倒し、彼女への帽子を作る事だけに集中した。


 何故暑いのか? それは夏だから。
 何故湿っぽい? それも夏だから。
 私は空間歪める夏の気温を凌ぐ為、小麦粉製の糸を喉に滑らせている。
 その救世主の名は素麺。
 いつもは乾燥して色気が無いが、茹でればとんだべっぴんさん。
 では、そのお供は冷たくて茶色いおつゆ?
 いいや、冷たいけれど赤いおつゆ。
 何故、赤いの?
 そりゃあ茶色いおつゆばかりじゃ飽きるから、潰したトマトでおつゆを作ったのさ。
 そう、この愚かな人間は栽培に失敗した。
 生育不良だってさ。
 お陰でトマトの量は一人が独占するには多過ぎて、人に売るには少な過ぎた。
 だから、こうして赤いおつゆにして処分してるのさ。
 私はトマト素麺を平らげると赤い口周りを拭って片し、トマト腹が沈静するのを確認するとお店の準備を始める。
 今日は彼女が来る予感がしたから。
 店舗の内装を掃除していると、発汗を吸い込んだ前髪がでこに意地汚く悪戯をする。
「うう、これだからこの季節は」
 私はその暴虐に慄きながら清掃を終えると、明かり取りや玄関を開けて湿気を飛ばす。
 さあ、飽和水蒸気よ、出て行きたまえ。
 ある程度室内が快へと傾くと、お家の側からいつもの木箱。
 そして、それを店側の空間隅にぽつりと置く。
 玄関ドアを閉めれば準備は終わり。後は客人が訪れるのみ。
 私は待つ、一秒前の己を忘れて。
 私は待つ、待機の苦悩を忘れて。
 私は待つ、ただ夢だけを携えて。
 そんな事をすれば、もう玄関からこんこんと泣きじゃくり。
 扉へ寄り、ぷっくらしたノブを掴んで開ける。

「こんにちは、紫さん」
 そうすれば、かのひとも。
「こんにちは」
 髪は太陽浴びた枯れ草色、品が上にある日傘差した紫さんも挨拶。
 ちなみに今日の衣装は秋着た紫ドレス。
「どうぞ、お掛けになってください」 
 私が誘えば、優雅な大胆さで彼女は傘閉じて脚の付け根を椅子上に。
「ありがとう」
 しかし、自分は気付く。
 ああ、何だ。今日のこのひとの瞳は。
 くろ、黒だ。
 色無き色で、底が見えない。
 それは己の喜びに薄っすらと陰を一滴垂らす。
 だが、それも彼女が放つ唇の規律によって掻き消された。
「例のアレはもう完成したの?」
「ええ」
 私は女性のしらべに手足手繰られ、長卓に木箱をとすり。
 頑固な錠を飽きっぽく外す。
「どうぞ」
 その中身、現在最高傑作の帽子を手渡し。
「あら、前と同じ形ね」
 そう彼女が言ったので、自分は相違点を指摘する。
「はい、確かに同じ形をしています。ですが、もっと良く見てください」
 私がそんな我が儘を誇示すると、向かいの紫さんは自分の完成品を眺めながら言う。
「ええと……生地は前よりも無駄な光沢がなくて質感と色が合っているし、リボンは赤が強くなって端の切り方が違うわ。それに、フリルの数と波の間隔も異なっているし、縫いも目立たない方法に変えたのね。この帽子、形こそ同じ様に見えるけど」
 そこまで美点を並べられると嬉しくて、こちらもその褒詩の続きに重ねる。
「「全く違う帽子」」
 その合唱の後に私と紫さんは見つめ合い、そして微笑み合った。
 小さなちいさな声も絡ませて。
 その瞬間、私は幸せだった。
 でも、何かが変だった。
 いつもと違う、違和感。
 どうしてなのかは分からない。
 楽しい筈なのに、今日の紫さんは、何かが違う……

『あなたも変わっているわね、報酬を受け取らないなんて』
『いいえ、別に今は良いんですよ。後で受け取れれば』
 その後、私と彼女は様々な会話をした。
『一体何処から材料を集めて来るの?』
『それは内緒です』
 私の帽子屋についての造詣を深める話。
『いつもは何をしているの?』
『土作りと野菜売りをしています』
 日常の取るに足らない安価な話。
『という訳で私はその店で鶴の柄が彫り込まれた糸切り鋏を買ったんです』
『まあ、素敵。でも、その店主も話が上手いのね』
 無駄に金銭を払い落としてしまった話。
『えぇ、また自分に似合った帽子をですか? 弱ったな……』
『あら、何か困る事でも?』
 次回に作る帽子の話。
 それらの話全てが私に嬉しさを湧き立たせ、喜びを与えた。
 私は紫さんと何度も笑ったし、視線を合わせた。
 だが、どうした事だろう。
 やはり、何か違う。
 これではない。
 紫さんは目の前にいるのに。
 なのに、まるでずっと遠くで彼女と話している気がした。

 そんな風に幾つかの言葉を鍔迫り合わせると、いつの間にか別れ時。
 私は帰り時である事を知らせようとして店のドアに手を伸ばす。だが、それは白くて細い手袋の指に押さえられた。
「ゆかり、さん?」
 彼女は黒く、黒く、果ての見えない瞳で言う。
「……まって」
 そして、そのまま扉の前に立ち、こちらを見る。
 私はそれに何か意味があると思い、二歩下がった。
「どうしたんです?」
 問い掛けたが、何も答えない。
 代わりに熔けた紅い唇と、濡れて息をする瞼がこちらを向いていた。
 手袋をしていても分かる細い指がドレスの形に触れる。
 すると、一枚の花弁が何も語らずに散った。
 それは桜の花程の大きさで、深い菫色をしている。
 これは一体?
 私が心に謎浮かべている間にもその花弁は二枚、三枚、五枚と増えていく。
 そして、渋り顔の床を菫色で染め上げた。
 自分はその散り花の出生を知りたくて紫さんへと視線を動かす。
 すると、さっきまで彼女を包んでいた紫色のドレスが崩れている。
 まるで時間を凍えさせた花がその身を散らす様に。
 そう、花弁の正体は彼女が纏っていた服だった。
 私がそう理解した後も衣の花はどんどんその身を散らしていく。
 そして、ついに紫さんの身体を包む生地は直接肌に着けるそれだけとなった。
 剥き出しになった肩はまるで、憂いを帯びた満月の様。
 ああ、だめだ。このままずっとこのひとを見てはいけない。
 そんな事をしたら、自分は紫さんをそのまま見る事になる。
 それは、いけない事だ。
 私はそう己に諭すが、体と視線は彼女に縛り付けられたままだった。
 舞い落ちる花弁が深い菫色から、純白に変わる。
 ついに紫さんの上に直接乗っている生地まで散り始めた。
 ああ、いけない。 
 見てはいけない、瞼を開いていては。
 彼女の肌色の生地を見てはいけない。
 見ては……
 そこまで危うさを感じても、やはり私は何も出来ない。
 視覚から入る紫さんの姿が、直接自分に入ってくる。
 もはや、逃げる事も叶わない。
 見る事しか、できない。
 もう紫さんは肌と布の境界を随分と危うくさせている。
 それは心に甘い熱を生み、融解する幻覚。
 だが、彼女は、この、美しいひとは確実にそこにいた。
 今まで見た何よりも美しい姿は、そこにいた。 
 衣の花弁が散る中、黒い瞳の女性は背を向ける。
 その後ろには、水晶の繊維が陽を纏った髪。
 両の白指がその輝く流水を真ん中から分けて、開く。
 ああ、やめてくれ。
 やめてくれ。
 心はその光景に悲鳴を上げたが、金糸の垂れ幕は左右に分かれる。
 そうすると、見えた。
 金色の髪に縁取られた、背中。
 触れれば壊れてしまいそうな骨格の陰影が、肌に淡い波を点てている。
 もう彼女の上を隠していた華奢な衣は、何処にも無い。
 自分の作った帽子以外は。
 その裸色の生地は見れば見る程綺麗になり、見れば見る程こちらをおかしくさせた。
 それは恐ろしくて逃げ出したい衝動すら焚きつけるが、魅力が自分を縛り付ける。
 紫さんは肩越しに私を見ていた。
 真っ黒な、どこまでも底の見えぬ瞳で。
 零れる銀砂の様な手が背骨の線を、そうっと下から上へ撫でる。
 私は瞬きすらしていない。
 だが、不思議な事にその指が滑った後には赤く、細い糸が出来ていた。
 それは、腰の上から始まり首の付け根まで続く縫い目。
 まるで、儚げなコルセットの紐路。
 その真っ赤な縫合の頂点は、蝶々の結び。
 しゅるっ。
 紫さんはその赤い蝶の下翅を引き始める。
 ぷつり。
 そうすると糸の虫は弾け、換わりに燃え立つ二本の繊維となった。
 途切れそうなその二つは背の縫い目へと続く。
 だが、彼女はそれだけでは満足出来ないらしく、その赤い交差に指を潜らせて抓んだ。
 そして、その赤以外の何者でない縫合を解き始める。
 するる。
 赤い糸が彼女の皮膚を這う。
 外も、中も。
 ぷ。
 縫合から糸が退却すると、穴が穿たれる。
 するるっ。
 ぷ。
 それは、紫さんの皮膚から更に下の色。 
 するるる。
 ぷっ。
 燃え立つ、いのちの色。
 するるるる。
 ぷつっ。
 真っ赤な糸は、彼女の潤いを吸い、更に燃え立つ。
 鼻腔に、赤い香りが拡がる。
 私はその行為を止めようとしたが、動けない。
 脳内に糸で出来た深紅の蝶が飛び、魅了の鱗粉を振り撒いていたから。
 するるるる。
 もう、肌から糸が弾けるあの音はしない。床には血を纏った二つの糸が、肌を滑り終え転がっている。
 目前の白い背には、腰から首まで続く真っ直ぐな穿ちの点線が二本。
 そして、暫くするとその間から歪んだ血の線が滲んだ。
 紫さんはこちらを見て、そして言う。

『ねぇ、

 だが、私にはその顔も続きの声も分からなかった。
 彼女が背に描かれた赤い線を開いたから。
 赤く解けた縫合は口を開け、深紅の淵を持つ入り口となった。
 そして、見えた。
 今まで見たスキマの中ですら、ちっぽけに見える程の。
 今まで見た事が無く、存在すらも赦されぬ歪んだ風景が。
 そして、その深紅の裂け目から『それ』は覗いていた。
 その姿は分からない。
 何が分からないのかすらも。
 何も見えず、それでいて存在を感じる影。
 『それ』は、私を見た。
 内臓と皮膚が、入れ替わる。
 『それ』は、こちらを見て近づいてくる。 
 身を捩る寄生の、香りが眼に溶け込んで行く。
 『それ』は、入り口から出て、私に
 背骨を伝い、頭蓋の内に溢れていく。
 『それ』は……
 

 息を吸っても、酸素が千切れていく。正しい呼吸が、出来ない。
 地面が足の裏を蹴っている。
 何故?
 違う、私が走っているんだ。
 とにかくとにかくとにかく。
 逃げている。
 逃げているんだ。
 逃げなければ。
 あの美しい姿は罠だったんだ。
 あの女、あの妖怪、いや、あの化け物は私を今まで欺いていた。
 騙していたんだ。
 美しい女性の姿を纏って。
 私はあの化け物の正体を知ると、店の扉とは反対の扉を開けて家の方から逃げた。
 そして、今も外を走っている。
 ただひたすらに。
 走っている場所が何処かも分からずに、脚を動かしていた。
 あの化け物を見た時、頭の中で生き物としての自身が囁いた。
 逃げろ、でなければ死以上の……
 私はその震えのおかげで何とか逃げ出す事が出来た。
 だが、もしあのまま店にとどまっていたなら、自分はどうなっていただろう?
 あれは私に一体何をしようとしていたのか?
 あの化け物は美しい女の姿を纏い、周到な用意で私を信用させ、その正体を現し
 そして、それから私を、わたしを……
「    」
 喉から何かが上がってくる。私は走るのを止めてその湧き上がりに任せた。
 地面に真っ赤な液体と、粘つく白い糸が広がる。
 それは少し前に食べた、トマト素麺。
 分からない、分からない、分からない。
 季節は夏だと言うのに、指は霜柱を含んだ土の様に冷たい。
 だが、とにかく恐ろしい事に違いない。
 だって、『それ』の姿は
「う゛っ」
 その事を思い出そうとすると、また口から出そうになる。
 まるで、喉の中が生臭い土で覆われているかの様。
 理解すら出来ないのに、怖い。
 私はそれを堪える為に顔の下半分を手で押さえ、俯いた。
 視線の先にはさっき生み出した赤色の水溜り。その中には短く白い麺が糸蚯蚓の様に蠢いている。
 肺の空気が鋭い爪を持って内側から引っ掻く。
 彼方の草の囁きが鼓膜に刺さる。
 視界が反転し、見えるものが醜悪な粒子に変わる。
 全てが、歪む。 
 そこまで感じると、私は自分で自分に語り掛けた。
 私は何も知らない。
 私は何も見ていない。
 私は何も聞いてはいない。
 私は何も感じてはいない。
 私は何も嗅いではいない。
 私は……そう、何も考えてはならない。
 私はとにかく嘘の命令をでっちあげて、自分の中を埋め尽くした。
 そうしなければ、気がどうにかなってしまいそうだったから。
















































 うるさい、お前達は弾けた木炭か。
 鳥が複数鳴いている。こんな朝早くにご苦労な事。
 何でも屋は自分の布団――健康を害さない程度に黴臭い布の巣から這い出た。
 そして、昨日夜店で買った食べ物の包みを開き、その中身を貪る。それらは甘かったり酸っぱかったりしょっぱかったりしたが、何でも屋にはそんな事はどうでも良かった。
 死ななけりゃいい。生きられる分だけ食べれれば。
 ちらと釜戸を見る。そこは全く使われていないので埃の冠が聳えている。
 あと、自分で料理をする奴は馬鹿だ。そんなのは料理屋に銭を渡せばいい。
 そんな食事倫理で目前の朝食を胃へ失踪させると、この人間は空の包みを捨てた。
「うん」
 家の明かり取りから。
 その下には丁度穴が掘ってあり、空の包みはそこへ塵に相応しい音を立てて堕ちる。
 実質そこはこの何でも屋にとってはごみ箱と同等の物であった。
 ちなみに蓋なんて高貴な品は無くて生ごみも日常的に捨てるので、蝿が集り放題。
 だが、この人間はそんな事を気にしない生き物だった。
 せっせと自分の面を壺に貯めた水で濯ぎ、仕事の準備をする。
 と言っても着物を外出用のそれに変え、背中にある物を装着するだけ。
「さて、今日はいい銭が手に入るかな」
 家の玄関に大口を開けさせ、自分が出るとまた戸を閉口。
 外の草木や空は芽吹きの姿を見せており、鼻腔には春の印が香る。
 何でも屋は人気無き住処から人気多い里へ歩き始めた。

 道草踏みしめるかの者の背には背負子。
 そして、その木製稚児には幟が括り付けられて幽霊の操り人形みたいに揺れている。
 こんな墨色の文句も添えられて。
 『何でも手伝います。ただし専門的な知識を要するもの、非道徳的なものは除く。必要な……』
 これより下はその労働に見合った銭の枚数が記されている。
 軽い用事を手伝うには少し高めに、重い用事を手伝うには少し安めの枚数。
 客が払えそうな金額を的確に感じ取り、それに見合った働きをする。
 この人間はその調整が上手く、そこそこ儲けていた。
 時間の蛞蝓が進むと、進む先に人が住む里が現れる。
 何でも屋はその中に入り、人目に己の姿を晒した。
 宣伝の大声は上げない、魅惑の売り文句も使わない。
 だが、それでもこの人間には客が来る。
 装着した背負子に合身した幟の言葉によって。
「ひょっ、ひょ。ほぉひょのふぁんふあ」
 ほうら、来た。
 だが、その背中に注ぐ『ちょっと。そこのあんた』は妙に蕩けている。
「はい、御用は何ですか?」
 何でも屋がその声に振り返ると、そこには老人が立っていた。
 どうやら肩に提げる純白の三角巾から察するに右手を折ってしまったらしい。
「あ゛ぁ゛。おりぁあへぇふうふひいひぃひぃへぇくぅへえ」
 年多き人は顔の皺を捩じらせ、『まあ、とりあえずうちに来てくれ』と仰った。
「かしこまりました」
 その声を受けた人間は頷き、その老人の家に失礼する。

「おふぁえあんひぃへぇふへっへふぉらいうぁいのはふぉれは」
 件の老人は何でも屋を家に入れると、白く後退した頭髪と逞しく生長した眉と顎と鼻のそれ鼓舞させながら『お前さんに手伝ってもらいたいのはこれだ』と喋った。
 その言葉の先には畳に腰掛けた大きな木と刃の夫婦。木はまな板を思わせる姿で、刃は細長い菜切包丁の形をしている。更に、その刃物の鼻先は板と組み合わさっており、左右上下真っ直ぐに動かす事が出来ない様子だった。
「あの、これは一体?」
 この何でも屋は目前の道具を見た事が無かったので聞いた。
 そうすると、年を持て余したその人は説明する。
「あぁ、ほぉふぁえはんほぇれぇうぉひぃらぁんのかぁ? うぉれぇふぁはぁいふぁんきっへぇいぅんはぁよほぉ。ほぇれへぇはぁはぁはぁれはぁかひぃほぉいっひぃにぃきぃれぇるぅんはぁよほぉ。そぉれぇへぇ、おはぁえはぁんのひぃこぉとおはあ……」
 この老人の依頼を受けた人間は聞き取ろうと頑張ったが、『ああ、お前さんこれを知らんのか?』までしか分からなかった。しかし、この偉大なる年長者はそんな事も察せずに言葉を続けるので、何でも屋は大いに困る。
 ああ、どうしたら良いのか。ああ、まだ話は続いている。
 だが、この人間はそんな老人を見つめているとある異変に気付いた。
 この老顔、上と下の唇の辺りが妙に凹んでいる。
 まるで何かが足りないみたいに。
 何でも屋はそこまで知ると、老人の周りをじろじろ視線で物色し始めた。
 話はまだ続いているが、そんなのお構いなし。
 暫くするとこの人間はそれ見つけて、はっきりと指差す。
「すみません」
「ほぉいでかっふぁのほぉへぇくぅのはぉじひぃーはぁ……んん?」
 年が寄ったその人は『ほいで河童のテクノロジーは』とまで喋ると疑問符を打ち出した。そして、その何でも屋が指を向けた先を見つめる。
「ああ!」
 それから、老人はその一組を手に取り口に入れてからすまなそうに言った。
「いやあ、すまんすまん。着けるの忘れとった」 
 それは木で作られた上の歯と下の歯――入れ歯であった。
 そして、己の歯と再会した老人は明晰な頼み事を口より描き始める。

『そこの机にあるのは裁断機、まあ紙を一気に切る道具だな。それでお前さんに頼みたい事ってえのは……ほれ、そこに紙が沢山あるだろう? それを全部こっちの言う通りの大きさに切っとくれ』
 多分、左手だけではこの作業を完遂出来ないのであろう。
 人工歯によって声を取り戻した依頼人はこの様な仕事を何でも屋に頼んだ。
 すると、早速裁断を託されたかの人間は老人からその手順を聞き出し、紙と裁断機にその作業過程を反映し始める。
 裁断機を指定された位置に鎮座させ、包丁じみた刃を持ち上げる。だが、その大きな鉄歯は垂直に移動せず、少し太った半円を描いて畳に着地した。
 何とも滑稽な動きだが、それで良い。
 続いて板の上にに揃えた紙束を乗せて正しい寸法へと滑らせる。
 ちなみに物差しはいらない。
 この奇怪なまな板にはそれに代わる正方形の絵が幾つも刻まれているから。
 そして、老人の仕事を代行する人間は卓に休んでいた包丁の柄を握り、一気に手前へと動かす。
 そうするとその刃は先程とは逆の軌道で半円を描き、無垢の紙達を裁った。
 鉄よりも軽く、木よりも乾いた声音。
 そう、味気無い音。
 だが、その声を聞いた瞬間、鼓膜が妙にくすぐったくも晴やかな気持ちになる。
 それから何でも屋はこの過程を何度も何度も繰り返した。
 紙束を裁つ音、一瞬の緊張、指先の疲労、滲む汗。
 あぁ、今日は良い仕事だ。

「いやあ、助かった。ほい、これ今日の賃金」
 仕事を終えた何でも屋は老人より銭を手渡され、喜び顔をする。
「ありがとうございます」
 しかし、自分が労働をぶつけた紙山を見つめ、一般的年長者に話し掛けた。
「そう言えば、この今日裁断した紙は一体何に使うのですか?」
 誉れ高い加齢の人は臆病な自慢を弾ませて答える。
「寺子屋の授業だよ」
「授業? 習字にでも使うのですか」
 仕事代行者はそう謎を含んだ返事をしたが、老人は頭を横に振る。
「違うよ、歴史の授業さ。寺子屋の先生がこの紙に墨を入れて生徒に配る資料を作るんだよ。そんでもって、うちがその紙を裁断してるのさ」
 何でも屋はその言葉に納得し、声を添えた。
「成る程、そうでしたか。では、この裁断した紙は誰かが寺子屋に運ぶんですね」
 理解を得られた年長者は頷いた後に言う。
「おう。お前さんが帰った後自分で運ぶさ」
 だが、この話を耳で食べた相手はその考えに反論する。
「でも、左手だけで大丈夫なんですか? この紙、かなりの量ですが」
 それに対し老人は自分の我が儘を貫いた。
「ああ、大丈夫。紙を風呂敷で包んで肩に担げや片腕だけで平気さ」
 何でも屋はその声に信念を感じて皺の人に謝る。
「そうですか。それは失礼しました」
 それで謝罪を受けた高齢の人は何とも済まなそうに笑む。
「いやぁ、別にお前さんに銭渡して頼んでも良かったんだけんどな。寺子屋に紙を届けると、必ず先生がご苦労様って茶を出してくれるんだよ。それで、その先生が美人さんで可愛くてなぁ……いい目の保養になるんだよ」
 この老人、どうやらそちらの感性はまだまだ若い頃のままらしい。
「そうなんですか、さぞかし素敵なひとなんでしょうね」
「おうさ。この怪我だって先生の顔見たらすぐに治っちまうよ」
 そんな老齢の人の声を聞いた相手は薄く笑いを出し、この老人の為にもう少しだけ働く事にした。
「いやはや、お元気ですね。では、裁断した紙を風呂敷で包むのを手伝いましょう。もちろん無料で」
 そう言うと何でも屋は裁断した紙をその場にあった風呂敷で包むと、老人に体の磨耗を防ぐ気遣いを送る。
「無理をすると体に悪いので、休みながら運んでくださいね」
 その言葉は燻し銀の人に心良く響いたのか、嬉しそうに応えた。
「ああ、ありがとよ。お礼にこれ持ってきな」
 そして、お勝手にある温州蜜柑を一つ掴むと、己が好意を寄せた人間に手渡す。
「いえいえ、そんな。悪いですよ」
 でも、何でも屋はそう言う部分で妙に柔軟性に乏しく、贈呈品を断る。
「いい、いいんだよ。作り過ぎちまったからお前さんが食べとくれ」
 しかし、老人は巌の善意で掌に収まる善意を押し付けた。
「そうですか……では、ありがたく頂きます」
 その意志に折れた人間はその球体を受け取り、かの皺の人に礼を言う。
「そいつは凄いぞ。心臓と胃、腰にだって効く」

 依頼を全てこなした何でも屋は客と別れ、帰路を歩いていた。
 その手には真っ黒な球体――まるごと焼かれた温州蜜柑。
 この人間はそれを眺めながら家へと進み、想い描く。
 それは、今日のお客の事。
 あの年齢でまだ女性に興味があるとは。
 それも、体をあんなに稼働させて。
「あの爺さん、まだまだ生きるな」
 まったく、元気なことだ。
 何でも屋はそんな風に呟き、手に存在する真っ黒な蜜柑を食べる。
「……苦甘い」  
 陽はもう落ち始めている。
 道端には片栗が紫の花を幼く咲かせていた。
  
 
 うるさい、お前達は爆ぜた木炭か。
 蝉が沢山鳴いている。一匹位休んだらどうだ。
 何でも屋はいつもの寝床から逃げ出し、毎朝恒例の栄養摂取をする。そして、汚い顔を水でどうにかすると仕事道具の背負子と幟をおぶって家から逃げ出した。
 そんな訳で今、この人間は人里へ向かって草木の道を歩いている。
 だが、その足運びは昨日と同じものではなく、気まぐれの道。
 ずっといつも通りじゃ飽きる。
 この人間はそんな信念の下いつもと違う道で人里へと向かっていた。
 踏みしめる土の声は新鮮で、木漏れ日は別の世から訪れた様に光る。
 何でも屋はそれらの気質によって瑞々しさを感じ、通勤の道を輝く旅絵巻にした。
 楽しい、楽しい旅路。
 だが、やがてそんな人の前にある建物が現れる。
 それは最初何か分からなかったが、歩を進める毎に色形を纏っていく。
 家だ、古い家。
 新緑の苔を体に這わせ、今にも崩れそうな見離された住処。
 何でも屋は始めその家が誰の物か分からなかったが、やがて思い出した。
 ああ、そうだ。これは、昔帽子屋が使っていた……
 そして、軽蔑の思考を走らせる。
 それにしても馬鹿な奴だったな、あの帽子屋は。
 ろくに技も持っていないくせに自分の家を店にして。
 へんてこな布の塊を帽子と偽って。
 おまけに機能的な帽子じゃなくて、見た目を良くする為の帽子だってよ。
 まったく、馬鹿馬鹿しい。
 そんなので経済的にやっていける訳が無いだろうに。
 しかも、最後は店をほったらかして何処かへ行ってしまった。
 本当に、最低な奴だ。
 自分はあんな人間にだけはなりたくないね。
 この人間はありったけの頭脳で不在帽子屋を虐めると、年老いた哀れな家を後にした。

 ここは騒がしい。だが、それで良い。
 それが私の金に、生きる糧になるのだから。
 人里に到着した何でも屋は早速その中身を泳ぐ様に進む。
 飯屋、菓子屋、衣屋、楽器屋、本屋。
 ありとあらゆる商売が虹の如く揺らめき、ちらつく中を歩く。
 そうすると、ある建物の戸より声が疼いた。
「すみません。ちょっとお仕事を頼みたいのですが……」
 その声を受けた人間は首を傾け、良き良きお客様の方を向く。
「はい、依頼は何でしょうか?」
 眼球の先には『妖医』の木看板と衛生管理香る医者の顔。
「今日、急な仕事が出来たのである物を自分の代わりに運んで貰いたいのですが……」
 何でも屋は医療人の悩みを摘み取り、銭取り契約。
「はい、大丈夫ですよ。では、何処に何を運べば良いのでしょうか?」
 そんな声に妖怪の医師は感謝の音を漏らした。
「ありがとうございます。それで何処に何を運べば良いかといえば」
 そこまで言うとその医者は半開きの戸口の奥に引っ込み、何やら幽霊じみた物音を立てた。そして、左手に持った妙な布包みと右手に握った銭を見せる。
「これを近所の研ぎ屋に渡して、研いで貰って欲しいのです。料金はあなたの分と研ぎ代をまとめて渡しておきますね」
 
 そんなこんなで何でも屋はおつかいを頼まれて研ぎ屋の店の前。
 戸口を胡桃の中身を確かめる様にこんこんこん。
「すみません」
 すると、その木製結界は横に滑って主の姿を見せる。
「なんだ」
 研ぎ屋は清流に磨かれた軽石の如き顔をして、濡れ足に付く砂の様な気質を漂わせていた。
「これを近所の妖医の方に研いで貰いたいと頼まれたのですが」
 しかし、仕事を頼まれた人はそれに怯む様子も無く手に持つ預かり物を渡す。
「そうか」
 この最低限の意思表示しかしない主人はそれを受け取ると、何でも屋に訊いた。
「何故妖医は自分で来ない?」
「急な用事が出来たそうです」
「そうか」
 ぴしやっ。
 研ぎ屋はそこまで会話をすると、木戸を元通りに閉めてしまった。
「ああっ、ちょっと」
 不都合な待遇を受けたその相手は慌てて戸を叩いたが、返事は無い。
 それどころか店の奥から何かを研いでいる音がする。仕事を始めたのだろう。
 何と言う意思の不疎通。
 だが、仕方が無い。
 仕事が終わるまでの辛抱だ。
 何でも屋は研ぎ屋の店の前で待つ事にした。
 だが、そんな人間の鼓膜に謝罪の振動がする。
「すみません。うちのひと、喋るのが苦手なんです」
 その大元には女性が立っていた。
 多分、研ぎ屋の妻だろう。

 鉄が鉄を撫で、欠けた粒子を水で濯ぐ音がする。
「あのひとったら、あの妖怪医さんとだけは仲が良くて一度会ったら朝から晩まで夢中になって話しちゃうんです。どちらかに用事があっても止められないくらいに。だから、あのお医者さまはあなたに仕事を頼んだんでしょうね」
 何でも屋は親切な奥さんの手引きによって店のお勝手口から中に入り、丁度良い温さの茶を頂いていた。
「そうでしたか……あっ」
 緑の組織液を啜る人間がある事を思い出し声を跳ねさせると、研ぎ屋の妻は聞いて訊く。
「どうしました?」
 何でも屋は答えに心配と不安を混ぜて返す。
「お代は後で良いのでしょうか? お代の事を聞く前に戸を閉められてしまいまして。大丈夫でしたかね」
 ご婦人はぬかるんだ研磨音の中、漂う問い掛けに答えを撒く。
「ええ、お代はいつでも大丈夫ですよ。ちゃんと払ってくだされば」
 その救いを耳にした人間は心に安堵の重しを得て、静かに息を吹いて言った。
「良かった。では、今渡しておきますね」
 そして、何でも屋は研ぎ屋の妻に燻し金の銭を数枚手渡す。
 ちゃりい。
「どうも有難うございます」
 その金属恩に奥さんはにっこり。そして、目前の飲むそれがもう無い事を目視すると、薬缶を手にして言った。
「茶のおかわり、淹れますね」

 それから何でも屋は二時間程鉄と鉄の遣り取りを聞いた後、研ぎ屋から布に包まった依頼品を受け取って妖医の店の前に戻った。
 閉まった戸を叩けば応対の足音が聞こえてくる。もう用事は終えたらしい。
「はい」
 その妖怪医者の顔を確認すると、依頼を受け取った人間は布包みを渡す。
「おお、どうもご苦労様です」
 人間を診療しないお医者様は口元を綻ばせて感謝の声。
「いえいえ、私はおつかいだけですから。それよりも、包みの中は大丈夫でしょうか?」
 何でも屋は自分の仕事が完遂されているかを確かめる為、お客に声を贈呈する。 
 すると、お医者はその言葉に連動して布包みを解き、中身を露にしてじひと見つめた。
 それは輝く水面の様に煌めく刃。
「ええ、大丈夫。元通り、いやそれ以上のものになってますよ」
 仕事人はお客の満足を貰って落ち着いたが、今度はその痩せた金属に心釣られる。
「すみません、それは一体?」
「ああ、これですか」
 妖怪医療人は疑問に答えるべく、それをわざとらしく見せ付けて解説の口を始めた。
「これはメスと言って、まあ、見ての通り手術刀ですね。これで患者の皮膚を切開したりする訳です。それで、今日何で貴方がこのメスを研ぎ屋に持っていく事になったかと言いますと……どうぞ」
 この特殊な医者は店の奥に入り、自分の椅子に座ってから客人用の椅子に手を向ける。 どうやら、この治療者はお喋りが好きらしい。
 何でも屋は聞き上手では無かったが、自分の評判を落とさぬ為に座った。
「五日前、ここへ痛そうに脚を引きずって来た患者さんがいましてね。早速診察したのですが右のふくらはぎの上から下までぱっくりといっていまして、私は直ぐに異物の除去やら消毒やらで患者さんを治療したんですよ。それで私は久しぶりに大怪我をした患者を診たもんで、多めにメスを使ってしまったんです。おや、その顔はどうしてそんなにメスを使ったのか不思議がっている顔ですね。いえ、その日に手術した妖怪さんは不思議な治癒の仕方をしましてね。人と妖怪の大体は内側から傷が治っていきますが、何とその妖怪は外側から傷が治っていくんです。それも見ている間にみるみる塞がっていくんですよ。おまけに皮膚も石みたいに硬くって。それで私はその治癒によって患者の内部に留まってしまった異物を取る為にメスを使って奮闘していた訳なんですよ。あっ、言い忘れていましたが基本的にメスは細菌や異形蛋白質の危険があるので、特に妖怪はその個体個体によって様々な菌や特性等を持っていますから使いまわしは出来ずに使い捨てなんです。それで予備のメスはあったのですが、いやぁ……あの時は本当に落ち込みましたね。それは昔忙しかった時にまとめ買いしたもので、何と幾つか刃が欠けている物があったんです。それで、私はそのメスをすぐに知り合いの研ぎ屋に持っていって直してもらおうとしたんですが、急患や別の用事が出来て今日まで忙しいままだったんですよ。そんな中、目に入ったのが貴方の幟でして。今日はどうも有難うございました」
 医者の反対側に座る人間はそこまで聞くとどうもと頷き、早く話を打ち切る為に甘くも無いし辛くも無い軽い文句を差し出す。
「大変でしたね。私には先生みたいな仕事は到底出来ませんよ」
 だが、その口走りはただの薪にしかならなかった。
「ええ。本当に大変なんですよ、妖怪の治療というものは。人間の私が理解するのには苦労します。妖怪は免疫の構造が人のそれとは全く違ってまして、風邪を引いても体温が上がらなかったりしますし、体の構造だって翼の付け根がどうなっ」
 この能弁妖医の授業を聞く人間は覚悟する。
 ああ、この医者の話。
 長く、永く、ながく、なりそうだ。

「……それでですね、その九十九神は酷い重症でその日もつかもたないかだったんです。それで私は無力に感じながらもその妖怪を運んできた人に現実を伝えてから謝り、その九十九神がおんぶされてここから離れて行くのを見ていました。あの人には悪いけれど何も出来る事が無い、そう思いながらその背を見ていましたよ。……ところがですね、数日後他の患者を診る為に外出をしたんですが、見たんですよ。その九十九神を! それも元気な体で! 傷も治っているし、血色も良くて、元気そうに空を飛んでいたんです。いやぁ、私は一体何処の誰が治療したのかが気になってその女の子に聞こうとしたんですが、こちらの声に気付かずにどんどん遠くに行って見失ってしまいまして、未だに聞けずじまいですよ。とまぁ私も随分と長い間妖怪の医療に携わっていますが、まだまだ分からない事だらけですよ」
 診療所内部の明かり取りから夕日が見える。
 何でも屋は話が一区切りすると、一気にお喋りの終わりを求めた。
「とても貴重なお話ありがとうございました。でも、先生もこれ以上話を続けると先生のお体に障ります。ですから、この続きは次会った時にしませんか?」
 それに対して妖怪を治す人は少し物足りなさそうな顔をして喋る。
「そうですか? 私はまだまだ大丈夫ですが」
 どうやらこの医師は聞き手が疲れている事を知らないらしい。
「はい、先生の話にはえらく感動しましたが、生憎私の頭は小さいので一度に沢山聞くと幾つか忘れてしまいそうで。ですから次の機会に話して貰いたいのです」
 何でも屋が丁寧に、しかし暴力的に打ち切りの言葉を捲くし立てると、その相手は上機嫌に諦めてくれた。
「おお、私の話をそこまで真剣に聞いてくれるとは……でも、貴方がそういう事なら仕方が無い、話は次の機会にしましょう」
 その認証を耳にした人間は早速椅子から立ち上がり、さっさと逃げ出したいとばかりに口をさよならの形にさせる。
「今日は貴重な話をありがとうございました。それではさようなら」
 そして、件の先生に背中を見せて、戸口へと歩く。
「ちょっと待ってください」
 何でも屋の背骨はその声を受けて硬化する。
 なんだ、まだ何かあるのか。
 そして、恐る恐る振り返った。
 そこには一枚の小さな紙切れを持った医者がいる。
「今日、話を聞いてくれたお礼です」
 その感謝の対象はお礼という言葉から緊張を溶かしてその紙片を喜ばしく受け取った。
「どうも」
 しかし、その紙切れには得にもならない文字列と判子の真っ赤な落とし子。 
「この診療所の割引券です。怪我や病気になったらどうぞ」

「……二割引か。まあ自分じゃあ使えないけど」
 何でも屋は妖怪の医者との口決闘を終えると、里の飯屋で夕食と明日の朝食を買って家へと続く土を踏みしめていた。
 そして、手に持っていた妖医の割引券を背負子の隙間に挿み、早速歩きながら夕食を貪り始める。
 誰も見ていなけりゃあ、下品も上品の内。
 この人間は顎を上下させながら今日の出来事を反芻した。
 話し好きな妖医、話さない研ぎ屋、何でそれとくっ付いたのか分からない妻。
 今日は疲れた。
 今日のは、悪い仕事だ。
「帰ったら、さっさと寝よう」
 もう、辺りは夜の羽衣を着飾っている。
 ふらふらと歩く何でも屋の足元には、大根草が金色の花を咲かせていた。


 うるさい、お前達は砕けた木炭か。
 螽斯が複数鳴いている。こんなに無駄に叫んでどうするんだ。
 何でも屋は物臭な変色をした布団を退かし、自己の生命と労働の維持が必要な分だけ食べる。そうだ、生きられるなら何を食べたって同じ。
 味、香り、ましてや見た目の色形なんてどうでもいい。
 生きていれば、それでいい。
 そんな哲学を己に説いた人間はそれから朝すべき事を全て終えると、商売道具を背負って自分の家から零れる様に飛び出す。
 さあ、仕事だ。
 空の太陽はその元気に陰り。温度は暑くも寒くも無く、切ない温度。
 この人間が歩く道の途中には、先に白埃を付けた尾花が佇んでいた。

 どうなっている。
 どうして、こんな風になっている。
 どうして、今日は誰からも仕事が来ない。
 何でも屋は人間の里に到着すると早速歩き回ったが、誰からも声が掛からなかった。
 ああ、そうか。
 この人間はある程度足首に負荷が掛かった後に悟る。
 どうやら今日この場所では誰も困っていないらしい。
 これはとても喜ばしい事、とてもとても……
 何でも屋はそうやって道徳的に喜ぶと、商業的に舌打ちした。
 ここじゃあ駄目だ。
 そして、この人間は多くの人が住む里から抜け出し、他の場所へと銭を求めた。

 他の場所と言っても何処だ?
 さあ、知らない。
 じゃあ、お前は何処へ行く?
 さあ、分からない。だから、こんなにもふらついている。
 何でも屋は人里での収入が見込めないと分かると、適当に道を歩いていた。
 他に大勢が集まる場所の心当たりは無かったから。
 今、この人間は木々に囲まれた道を歩いている。
 その道は人ひとりがなんとか歩ける程度で、枝が緑の指を広げていて薄暗い。
 時折覗く陽の光は凍った水滴を思わせる。
 流石にこんな場所に人なんていないか。
 何でも屋はこの獣道に見切りを付け、足跡とは反対側に歩き始めた。
「ちょっと、そこの人」
 しかし、その退却はある声によって遮られる。
 この人間は呼びかけの方向へ顔を動かした。
 だが、そこに人はいなかった。
 代わりに背中に翼のある生き物が立っている。
 手の爪は翠玉色、変わった衣と小物で着飾り。
 これは、妖怪だ。
 それも妖怪の、女の子。
「はい、何か御用でしょうか」
 だが、何でも屋はその姿に全く動じずに営業の声を傾ける。
 過去にも何度か妖怪の手伝いをした事があるのだ。
「その幟に書いてある事は本当なの?」
 翼を持つ妖怪はその声を受けると、仕事内容について聞いた。
「ええ、本当です。お代さえ貰えれば大体の事は手伝いますよ」
 それを受け止めた人間は今日の客になりそうな妖怪に善良な声で主張する。
 銭をください、と。
 すると、鳥羽を持つその娘は便利が転がっているという具合に口を鳴らした。
「じゃあ、私の手伝いをして」
 何でも屋にとってその言葉は銭も同然。早速喜んでその声に操られる。
「かしこまりました。では、何を手伝えば良いのでしょうか?」
 妖怪の少女は柔らかくて細い翼の背中を見せると、道を外れて深緑の木々の中を歩き始めた。そして、これから仕事をするであろう人間を肩越しに見て喉を歌わせる。
「ついて来て、家まで案内するから」
 何でも屋はその小さな体の動きに合わせ、彼女にしか見えない道を進む。
 下に積もった木々の堆積物は踏む度に湿気の囁き。
 残留し、分解する菌の音楽。
 やがて、この妖怪の住処であろう物体が見えてくる。
 その影は二つ。
 一つ目は小屋、二つ目は納屋。
 しかし、二つ目の納屋には鍬や鎌といった農具は住んでいない。
 その代わりにある物体が潜んでいる位で。
 埃避けの布を羽織っているが、所々木製の持ち手や車輪がはみ出して露になっている。
 小さな妖怪を追跡する仕事人はそれを見て確信の音を打ち鳴らす。
「荷車を持っているんですね」
 しかし、それは残念な事にはずれ。
「いいえ、違うわ」
 羽の付いた帽子を被った少女はそうやって否定すると、小さな靴で柔らかい地面を綿の様に叩いて納屋の物体へ駆け寄った。
 そして、埃避けを両手で取り払い、述べる。
「これはうちのお店。屋台をやっているの」
 その荷車には屋根と炭焼きの調理台が存在しており、文字通りの屋台だった。
「長年使っている間に随分とがたが来ちゃったの。この屋台を直すのを手伝って」

 納屋で木槌が釘を殴り、屋台の体を新しく接ぎ足している。
 作業をするその手は小さく、長い爪が生えていた。
 この翼の生えた妖怪は木工が得意らしく、屋台の傷んだ肢体を慣れた手つきで別のそれに交換していく。
 何でも屋はそれらがずれない様に押さえたり、彼女の代わりに運んだり持ち上げたりしていた。
「別にひとりでも直せる事は直せるんだけどね。店の仕込みが忙しくって」
 少女は薄色の紅髪をお茶目に揺らして言うと、古く痛んだ屋根の釘を外し始める。
「そうですか、私が通りかかって良かった」
 その手伝いをする者はにこやかに銭絡みの笑顔を作り、彼女の抜いた釘を集めて小さな木箱に入れた。
「どうぞ」
 そして、その木箱に入った古い釘と同じ本数の釘を渡し、古い屋根を受け入れる為に腕を広げる。
「ありがとう」
 それを見た小さき妖は老いぼれの屋根を外して引き渡す。
「どういたしまして」
 何でも屋はそれを受け取ると、新しい板を彼女に手渡した。
 そうすると木槌は再び唸り、そう遠くない未来で屋根になる木材に釘を穿つ。
 その声音はまさしく硬派。
 しかし、それを奏でるは柔らかで小さな少女であった。
「ふう、やっと終わった」
 その曲に聞き浸かっていれば、何時の間にか修繕はおしまい。
 軽く手伝いをした人間は労働の対価を求め、少女の妖怪に話しかける。
「もう終わりましたか?」
 それに対し羽飾りの少女は頷きの声。
「うん。そう……あっ!」
 しかし、そんな風に上手くは行かないものだ。
 まだ、この少女は何かを手伝ってほしい様である。

 歩けば砂利は歯車の様に啼き、爪先はその場に沈み込む。
 いつでも違う水が流れ続けているというのにいつでも同じ唄。
 何でも屋は風に吹かれるたんぽぽみたいに進む少女の背に従い、川岸に到着していた。
「ちょっと寒いけれど、あの中にある罠を一緒に取って」
 依頼人の爪が差すは、川の中。 
 よく見れば石や砂利の隙間に竹が幾つも刺さっている。
 多分、あれが彼女の言う罠だろう。
「罠を取ったらここらへんの岸に置いといて」
 小さな妖怪は紫の筋に白綿の羽が生えた翼を揺らすと、今まで持っていた手拭いを岸に置いた。そして、膨らんだ木の実の様な靴と雪を思わせる靴下を脱ぎ始める。
「空っぽの罠もここらへんに置けば良いですかね?」
 依頼を受けた人間はそれに倣って自分の草鞋を脱ぐ。
「うん、そうね。あと、罠を石の間から取り出す時はそっとお願いね。そうしないと入り口が開いて中身が逃げちゃうかもしれないから」
 彼女が細い足の色を露にすると、何でも屋は答える。
「はい、かしこまりました」
 それからこの二人は秋の流水に踏み入った。
 片方の少女は慣れた足運びでどんどん石間から竹を引き抜く。もう片方の人間は左手で着物の裾を濡らさない様に抓み上げ、右手で不慣れによろめきながらその罠を引き抜く。
 水中から引き揚げたその筒の側面には穴があり、そこから沢山の華奢な水蛇が生まれて川面へ還って行く。
 ぽたぽたと再会の喜びを奏で、下流へと旅をする。
 何でも屋は手にその水が逃げた竹筒を持ち、乾いた岸に向かう。
 そして、その場所に屋台の少女が作った罠を置く。
 するとびひびひと音が鳴り、水が流れた穴から今度は生き物の影が見える。  
 一尺六寸はあろう細長い姿。
 蛇の様に鱗は無く、背は墨で腹は銀に輝いていた。
 そう、これはうなぎ。
 あの少女が営む移動式屋台の食材。
 手伝う人は空っぽになった手を見ると、再び川の中に入る。
 水から罠を取り出し、川岸に置いて、また流れの中に。
 屋台の妖怪と何でも屋がこの作業を十四回程繰り返すと、もう川にうなぎ迷惑な竹筒は見当たらなくなった。
「ごくろうさま。はい、これで拭いて」
 ふさふさして温かそうな耳をした少女は手伝った人間に手拭いを渡す。
「どうも」
 慣れない水仕事をした何でも屋は礼を言うと、川岸に座り込み足を拭う。
 一方、仕事を頼んだ方の妖怪は元気に立ったまま裸の指を拭いている。
 それを見つめていた人間はぼんやり視線を移し、山積みになった竹筒を見て訊く。
「この沢山のうなぎはどう料理するんですか?」
 細長い罠達の中でこれまた細長い個体達は摩擦の少ない暴動を起こしている。
「ああ、これ?」
 屋台の主はその罠を一つ開けると、一匹取り出してその顔を見せつけた。
「まな板の上でこの頭に目打ちを突き刺して、腹を捌いて腸とか背骨とかを引きずり出した後、蒲焼きにするの」
 彼女はがっちりとうなぎを掴み、にこやか血生臭い台詞。
 しかも、手に持っている魚も普通のと違って顎が無く、丸い口の中は人間じみた歯がびっしりと生えてくわくわと動いていた。
「ちなみにこれはカワヤツメだよ」
 屈託無き笑顔と奇怪な口をしたヤツメウナギ。
 ……なんて破壊力だ。
 何でも屋はその両極端な光景に衝撃を受けた。

 二人は川にて屋台の食材を手に入れた後、小屋と納屋の前に戻っていた。
 小さな妖怪は小屋の裏手へ歩き、水を溜めた幾つものかめの前に立つ。
 そして、その容器一つにつき一匹のカワヤツメを放り込む。
「全部大きなかめに全部入れたいんだけどね、共食いが怖いから」
 羽根付きの少女はそう口を動かした後、淡々とその容器達に無顎の生物を贈った。彼女は全てのかめに食材を入れると、それら一つ一つの上に小屋の隅に置いてあった板を置き、またその上に小屋の隅にあった石を載せた。
「獣除けですか?」
 それらの板はかめの口が少し見える様に置かれている。
 何でも屋の声に屋台の妖怪は答えた。
「そうよ。本当はもっとぴったりと塞ぎたい所なんだけど、あんまりしっかり閉めると酸欠になっちゃうから」
 その答えを貰った人間は改めてかめの隙間を窺う。
 すると、カワヤツメの潤んだ目が一つと黒く穿たれた穴が七つ見えた。
 
 何でも屋と少女は仕事を終え手を十分に洗うと、小屋の前で労働の対価を遣り取り。
 硬貨がぎちりと濁った音をして掌へ落ちる。
「こんな朝遅くにごくろうさま!」
 どうやら、この子は夜行性らしい。
「ありがとうございます」
 銭を手にした人間はそれを懐に忍ばせ、屋台の修理をした時からずっと置きっぱなしだった幟付き背負子を背負う為納屋へ行こうとする。
 だが、その計画は少女に阻まれた。
「それにしてもあなたのお仕事、お代が安いけれどこれで大丈夫なの?」
 その妨害は何でも屋の労働についての話。
「ええ、大丈夫ですよ。毎日仕事をしているので」
「毎日? 驚いたわね。私なんて週に三日働くか働かないかなのに」
「働くのが好きなんですよ」
「でも、大変でしょう? 毎日、それも毎回違った仕事をするのは」
「はい。確かに大変ですが、飽きなくて良いですよ」
「そう……あなたって変わった人間ね」
「そうでしょうか?」
 そう答えた人間は笑顔を装った。すると妖怪の少女も笑顔になった。
「ねえ、ちょっと家の中で待っててくれない?」
 突然の命令に何でも屋は戸惑ったが、断るのも悪いと思ったので従う。
「ええ、良いですよ」
 軽やかな白羽を生やした少女は小屋の扉を開けた。
「やっぱりあれだけの銭じゃ払った気がしないから、あなたにあげたい物があるの」

 何でも屋は彼女の家の椅子に座っている。
 本来ならばこの人間は無駄な贈り物を拒否する所だが、今日は仕事による疲労で断り切れなかった。 
 そんな何でも屋の眼球にはお勝手、可愛い大きさの木製ベット、歌と料理の本が詰まった本棚、黒く炒られた豆が入った瓶詰め、立派な明かり取りが映っている。
 当の招き入れた妖怪はお勝手で鍋を温めていた。
 水が火に弄られて荒ぶる声。
 だが、何でも屋はその沸騰に何が入っているかを知らない。
 彼女が鍋に物を入れる瞬間を見逃し、疲労で確かめる気力も無かったから。
「よし! これで大丈夫」
 だが、その謎も妖怪の一声によって熔けてしまう。
 彼女は菜箸で鍋のそれを掴み取り、笊の上に一つ一つ置いていく。
 そして、ある程度時間が過ぎて冷めると、それらを竹の皮に包んで何でも屋に贈った。
「痛みやすいから今日中に食べてね」
 どうやら、食べ物らしい。
 何でも屋はそんな風に斑に考えながらそれを受け取ると、彼女に感謝する。
「どうもありがとうございます」
「おつまみ程度だけどね」
 翼を生やした少女はそう言って微笑むと、玄関へと歩いて扉を開けた。
 その様子を見た人はそこから外へ出る。
「お気遣いどうも」
 だが、その人間は納屋の背負子を身に引っ掛けた後、また彼女の元へと戻って来た。
「どうしたの?」
 ふわふわと疑問を浮かべながら彼女は訊く。
「これ、おつまみを貰ったお礼です」
 何でも屋は今まで使わなかった紙切れを少女に差し出した。
 妖怪の店主は人間にとって無価値なそれを受け取ると、両人差し指の爪を擦り合わせ嬉しそうな言葉を送る。
「まあ、体を気遣ってくれるの? うれしい、ありがと」
「いえいえ、たまたま持っていただけですから。では、さようなら」
「うん、さよなら。そして、お休みなさい」
 そうやってばいばいと手を振る妖怪の瞼は、とろり重たそうだ。
 どうやら、人と生態の違う彼女はこれから眠るらしい。
 全て終わった。じゃあ、帰ろうか。
 何でも屋はついに仕事を片付けると、依頼人の住居から離れる為に歩いた。

「それにしてもあの妖医から貰った割引券、上手い具合に処分出来たな」
 何でも屋は仕事を終えた後、真っ直ぐ家に帰った。
 現在、この人間はそこの畳上で虚ろな記憶を再生している。
 空の時計を見れば時刻は黒。夜の時間の中に白い月が浮かんでいた。
 くうふうぅ。
 ああ、腹が減ったな。
 何でも屋は仕事帰りに買った夕食の包みを紐解き、その中身を平らげる。
 そして、残ったゴミを明かり取りから捨てようとした。
 だが、その投棄は視界に飛び込んだ物によって阻止される。
 それは今日の依頼人から押し付けられたおつまみ。
「そういや、一体何が入ってるんだ? 痛みやすいから今日中に食べてといっていたが」
 この人間は興味に誘われて、その茶色い竹包みを開く。
「へえ、こいつは珍しい」
 その中身は茹でられて真っ赤になった甲殻類の集まりだった。
 逞しい一組の鋏が生えているこいつは蟹か?
 いいや、違うね。
 芽吹く前の蕾みたいな頭のこいつは蝦か?
 惜しい! だが違う。
 そうさ、こいつは
「さりかにか」
 そう、正解は後ずさりする蟹にして蝦。
 清らかな川にしか住めない、落ち葉色の殻を着た生物。
「食べた事は無いが……さて、どんなお味かな」
 何でも屋は早速そのおつまみから鎧を剥がし、剥き出しになった身を口に運んだ。
 すると、舌の上で圧縮された味が根を伸ばし、味蕾を心地良く擽る。
「うん、うまい」
 あの屋台の主は随分と良い物をくれたな。
 この人間はそう思いながら居去り蟹の美味しさを確認すると、他の殻も剥き始めた。
 最初は乗り気で無かったが、一口頬張りゃ次はよいよい。
 何でも屋は自分が驚く程の速さでその甲殻類らを胃に運ぶと、けぷふと息を吐く。
「ああ、美味しかった」
 そして、中身が無くなった殻と包みを纏めると、家の外に捨てる。
「さぁて、もう寝るかな」
 この人間は早速湿った布団の中に潜り込むと、思った。
 今日は、よく眠れそうだ。
 何でも屋が眠る家の傍には、月明かりを浴びた紅花襤褸菊が土色の花を咲かせていた。


「ねえ、あなたはどうして帽子屋を始めたの?」
 その声は金髪の女性が出している。
「どうして、ですか? そうですね……」
 少し考えてからそれに返すもう一つの声。
「私は昔から物を作るのが好きで、特に裁縫が好きで」
 だが、何故か分からないがその姿は見えない。
「だから、帽子屋を始めようと思ったんです」
 その答えを貰った紫の目をした女はまた口を開く。
「でも、裁縫をするお仕事だったら他にもあるでしょう。どうして帽子屋を、しかも実用的な物ではなくておしゃれ用の帽子屋を始めたの?」
 その質問を受けた不可視の相手はまた少し考えてから答えた。
「ええと、上手く言い表わせないのですが、私の中で帽子は特別なものだったんです」
 女性は金の眉毛を不思議そうにちらつかせると、その声に同期する。
「特別なもの?」
 それに対し姿なき声は言う。
「ええ、私にとって帽子は数多くの裁縫の中でも、特別なんです」
 その音は一旦口の動きを区切ると、また暫くしてから続きを述べた。
「着物、手袋、足袋……裁縫によって布は様々に姿を変えます。だけど、私にとってそれらはただ上辺に纏うだけの物で、つまらなく見えたんです。でも」
 見えない人間は、湧き上がる嬉しさを漂わせて言う。
「帽子だけは、頭に被るこのおしゃれだけは、上辺だけでなく身に着けるひとの心も飾り付けられる、そんな気がしたんです」
 まるで帽子を作る事に恋をした様に、その声は結論を述べた。
「だから、私はおしゃれ専門のこの帽子屋を始めたんです」
 金糸髪の女性はその答えに一瞬驚いたかと思うと、口の端を優しく引いた。
 それは心に熱が灯る、温かい微笑み。
 何故だか分からないけれど、とても心地良い微笑み。
「どうしたんですか、紫さん? そんな顔をして」
 見えない顔がその笑みの理由を訊くと、紫という名の女性は簡潔に答えた。
「いいなって思ったの。あなたが帽子屋を始めた理由が」
 だけど、その答えを受け取った人間は物分かりが悪くてその詳細を求める。
「どうしてですか?」
 でも、彼女はすこぶる意地悪で、その答えを言わない。
「ふふ、内緒」
 視界の外にいる相手はその秘密を受け取ると、穏やかな悪態をついた。
「まったく。酷いひとだ、紫さんは」
 声の主と紫さんは見つめ合い、互いに微笑む。
 それは、何とも幸せそうな光景だった。

 木の板が並んでいる。
 何でも屋は今まで寝ていた状態から瞼を開き、天井を見ていた。
「あれは、夢? いや」
 この人間は布団から這いずり出て、額に手を当てながらその映像について考える。
 そうすると、一つの言葉が零れた。
「あれは、たしか私が帽子屋を」
 そこまで喋ると何でも屋は口に手を当て反射的に否定する。
「違う、私は何も知らない。帽子屋なんて何も……知らない。あの女との遣り取りだって全部夢だ、幻だ」
 この人間はそうやって見たものを口で弾くと、ありったけの銭を掴んで草鞋を履いた。
 今日は仕事する気が起きない。
 今日は仕事をさぼり沢山金を使い遊び疲れ、そして寝よう。
 そうすれば、明日にはいつも通りだ。
 いつも通り、何も考えないで……
 何でも屋は商売道具を身に着けずに銭だけを持ち、曇り空の外へと出かけた。

 帰り道の暗い空からは粒にもならぬ雨が降っている。
 その日、何でも屋は人里でただひたすらに金を使った。
 結果としてこの人間の両腕には着物、酒、食べ物、どれも最高の物が抱えられていた。
 勢いで掴んだ銭は全て使わなかったが、それでも生活費数ヶ月分の浪費。
 何でも屋は心置き無く楽しんだ。
 だが、その足取りは妙に落ち込んでいる。
 どうしてだ。
 おもい。
 体が重い。
 動くのが、だるい。
 このまま生きていくのが、辛い。
 別に何も、問題は無い。
 体も健康そのもの、心だって……
 この人間は必死に己の不調を否定する。
 しかし、それに反比例して足はどんどんその鈍さを増していく。
 目の前の全てが軽くなり、自分だけが永久に重くなる。
 何でも屋の頭はすっかり地面へと向き、進む度に変わる風景は土と草だけ。
 途中、その道におかしな花が見えた。
 花弁を閉じた、真っ黒な竜胆。
 本来この花は紫色なのに、色無き色をしていて底が見えない。
 多分、辺りが暗くなったせいだろう。
 その後この人間は家に到着すると足で戸を開けて入り、畳の上に両腕の物品を置いた。
 丈夫で綺麗な着物、美味い酒、価値が多い飯。
 何でも屋はどたりと畳の上に大の字になって寝転がる。
 そして、暫くすると今まで纏っていた布を剥ぎ捨て最高級の着物に袖を通す。
 肌触りが良く、生地もしっかりしていて温かく、通気性もあって夏も涼しい。
「良い着物だ」
 この人間はそう言ったが、心は違った。
 どうしてだ? 良い着物の筈なのに。
 思考はまるで襤褸でも纏っている様に感じてる。
「気のせいか」
 何でも屋は気を取り直して畳に胡座をかくと、良い値段のする酒を手に取った。
 そして、徳利にそのまま口を付けて飲む。
 喉が鳴り、口から胃へと心地良い液体が滴る。
 だが、この人間はすぐにその摂取を止めた。
「何だ、この酒は?」
 全く、味香りがしない。
 まるで、水でも飲んでいるみたいに。
 何でも屋は妙に思いながらも徳利を傍らに置くと、次は料理に手を伸ばす。
 この飯はいつも食べているそれの二十倍の値段だ。
 美味いに決まっている。
 この人間はそう考えながら最高級の食べ物を一口唇へ運んだ。
 歯で潰し、舌でその美味を喜ぶ。
 筈だった。
「うっ」
 この何でも屋は口腔内のそれに嫌悪を示し、咳き込んだ。
「何だこれは、土か!」
 味と香りと食感どの面から考えても美味しい筈なのに、不味い。
 まるで、水溜りの土でも食っているみたいだ。
 この人間は勿体無さから口のそれを苦々として飲み込むと、もうその高級料理には手を付けなかった。
「くそっ、着物屋も酒屋も飯屋も騙しやがって! この銭泥棒め!」
 何でも屋はその場に居ぬ店主を根拠無く罵倒すると、壁にもたれ掛かる。
 そして、ざらざらした土が頬に刺さる中、呟いた。
「なぁ、どうしてなんだ」
 着物も酒も飯も全部高くて、良くて、美味しい物なのに。
 どうして、こんなにも貧しい気持ちなんだ?
 それに、体に圧し掛かるこの重さはなんだ?
 まるで、生き方が間違っているとでも言いたげな重さ。
 お前には生きる価値が無いと、語り掛ける気だるさは。
「くそっ!」
 この人間は苦しげに右の拳を畳に打ち付けると、敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。
 そして、瞼を閉めて自分に語り掛ける。
 お前は疲れている。だから眠るんだ。
 そうすれば、もうお前は何も悩まない。
 そうすれば、お前は何も考えなくて良いんだ。

 降りが激しくなっているのだろう。
 真っ暗な家の中に激しく掻き鳴らす雨声が響いている。
「眠れない……」
 何でも屋は布団から上半身を起こし、暗く佇む柱の瘤を見つめていた。
 恐らく時刻は夜の真ん中、朝まではまだまだ時間がある。
 起きていても仕方が無いというのに、眼は全く眠くならない。
「暇だな」
 季節はもうすぐ冬。
 家の空気は乾いているのに、外では切ない雨音がする。
 この人間は寝床周りの闇をぼんやり眺めていると、ある布切れを見つけた。
 それは少し前に新しい着物を纏う事によって誕生した古い着物。
 所々がほつれていて、もう捨て時だった。
 何でも屋はそのぼろ布に指を触れて呟く。
「これで雑巾でも作ろうか」
 この人間は朧な闇の中、明かりも点けずに押し入れを開けた。
 そして、その入り口に両手を突っ込むと、手探りであるものを探す。
「どこだったか」
 昔無意味に買って、そのまま押入れの中に放りっぱなしだったもの。
「あった」
 それは大きな箱で、中に何かが入っている重量。
 何でも屋はその入れ物を開けた。
 中には錆びた糸切鋏、湿った針山に囚われた縫い針と待ち針、目盛りがぼやけて読めない物差し、埃でくすんだ裁ち鋏、劣化に貪られた生地。
 そして、今にも擦り切れそうな糸が入っていた。
「まあ、何とか作れるか」
 たかが雑巾を作るだけだ。
 この人間はそう思って裁ち鋏を持つと、慣れた手つきで古びた着物を刻み始めた。

 雨音の中で刺繍をしていると、時折瞼裏に現れるそれは夢か幻か。
真っ黒な目をした女性。
 何でも屋はそれを見たが、雑巾を作る為に無視する。
その女は、誰かと楽しそうに話している。
 やめろ、やめてくれ。
 この人間はそんな事を心で叫びながら、縫い針に糸を通した。
 そして、雑巾にする布切れにその紐付き針を刺す。
誰かが店のドアに手を伸ばすと、白くて細い手袋の指に押さえられる。
 違う、私は何も知らないんだ。
 嘆きながら作業する何でも屋の手元には糸の縫い目。
形を崩したドレス、物憂げな月を思わせる肌。
 私はそんな事は知らない。そんな過去は覚えていない。
 この人間はそうやって逃避していたが、意識は現在と過去に飛んでいた。
 今は裁縫をしているのに、昔はその彼女と話している。
そして……
 ああ、やめてくれ。やめてくれ。
背中の赤い縫い目。
 それを見た瞬間、何でも屋は恐れを感じた。
 そして、恐怖から逃れる為に雑巾作りに専念する。
 だが、それでもまだ過去は流れていた。
糸で出来た長の下翅を引くと、それは二本の糸となる。
 この人間はそれを掻き消す為に何度も何度も布に針を刺す。だが
赤い繊維が肌色の生地を滑らかに滑り、通り抜ける。
 彼女の背に走っている深紅の糸はどんどん解かれていく。
 そして、糸が縫い目の肌を滑り終えると、二本の点線の間から赤い線が滲む。
 やめろ、見せないでくれ。
 もう、あれから何年も経つ。
 だから、赦してくれ。
 何でも屋はそう懇願したが、無駄だった。
彼女は、その背に走る赤い線を開いた。
 そして流れ込んで来る、あの過去が。
 そして聞えてくる、あの声が。
 ふと、この人間は手元の布を見た。
 それは雑巾の形ではなく帽子の姿をしている。
 それは昔の自分が最後に紫さんへ贈った、帽子の形。
 昔愛するひとに贈った、自分の心のかたち。
『ねぇ、お願い。本当のわたしを見て』
 何でも屋はこの汚い帽子崩れの雑巾を見ると、ぷつりと何かが切れて、泣いた。
 醜く、無様に。
 駄目だ。このままでいる事なんて、もう出来ない。
 痛い。
 心が、心の奥が、痛む。
 瞳から水が、涙が勝手に出るんだ。
 その水滴は今まで装っていた偽りの自分を濯ぎ落としていく。
 何でも屋を帽子屋に、この人間を私に。
 違う、違うんだ。
 あのひとは、紫さんは化け物じゃない。
     
 そうだ、あの時紫さんは私に自分の体を見てほしかっただけなんだ。
 何も危害を加えるつもりはなく、本当にただそれだけ。
 理由は分からない。
 でも、とにかくあの時の紫さん、本当の姿を現したあのひとは弱々しく震え、怯えていた。
 こちらに助けを求めていたのは確かだった。
 しかし、私はそれを分かっていたのに、恐ろしくて逃げ出した。
 裏切ったんだ。
 あの時自分が見た姿――どんな者や物でもない異形の螺旋によって。
 今その記憶を思い出しても息は千切れ指は冷える。
 逃げ出したのも無理は無いのかもしれない。
 だが、私はどんな理由にせよ愛するあのひとを裏切り、傷付けた。
 結局その事に変わりは無く、想いは今も痛んでいる。
 紫さんが、私の帽子を愛してくれたあのひとが、あんなにも辛く、苦しんでいたのに
 私はそれから逃げ出した。
 自分はあのひとの姿が美しくないと分かるなり、見捨てた。
「……最低だ」 
 己のした事は屑以下だ。
 私は、愛する紫さんに酷い事を。
 優しく愛してくれたひとの心に、刃を突き立てた。
「……あぁ」
 心が改めてそう観測すると、体が軋む。
 死ぬよりつらい、じりじりした責め苦が拡がっていく。
 自分は、あのひとに何て事をしてしまったのだろう。
 自分は、今まで何をしていたんだ。
 あの時、紫さんは逃げ出した時の私の背中を見て、どう思っただろう?
 その答えは分からない。 
 だが、それでもあのひとはこれ以上無い深き闇と寒さへ突き落とされたに違いない。
 それも誰かに頼らなければいけない程弱りきった心で、信頼した人間によって。
 それは死ぬより辛い渇きで、何よりも悲しく飢えで……
 私は手元に生まれた帽子の面影を抱きしめ、体を腐り果てた生ゴミの様に縮めた。
 まるで、初めて紫さんから報酬を受け取った時みたいに。
 そして、家に響く幾つもの言葉で喉が腫れ、視界が消えて途切れるまで謝る。
 何度も、何度も。
 だが、あの時みたいに肩を優しく叩く紫さんはいつまでも現れなかった。


 年中葉を着ている垣根越しには一つの建物。
 外に面した障子の端から窺えるのは黒い板と幾つも並んだ長机。
 白墨が決闘している様に声高く主張し、文字を顕現させていく。
 年号と思われる四桁の隣にはGHQ占領と書かれている。
 ちなみにこの横文字の上には小さくひらがなで『じぃえぇちきゅう』と書かれていた。
 塗板の前には先生がひとり。目高の群の様に並んだ長机に子がたくさん。
 ここは寺子屋。
 私はその横を偶々通りがかったので、何となくその授業を見つめていた。
 幼き子達の学業を侵害しない程度の距離で。
 そんな風に自分が考えていると塗板前に立つ半分だけ人ではない女性は演説を始める。
 授業はどうやら歴史らしかった。
 箱じみた帽子を被った先生は雄弁に歴史を現の御伽噺として紡いでいく。
 どうやら彼女は歴史の教え方を心得ており、ただ年号と出来事の名前を覚えさせただけでは意味が無いと分かっている様だった。
 歴史にとって本当に大切なのは何が起こったかではなく、どうしてその出来事が起こったかという物語の流れである。
 この女性はそれについてよく理解しており、まるで時の語り部を思わせる。
 しかし、生憎子達はそれを悟る為の歳がまだまだ足りないらしく、瞼や肩を眠たそうに上下させたり、口を閉じたまま頬を膨らませて欠伸をしていた。
 それから幾分か授業が進むと、板書の前に立つ先生は白墨を持つ手を止め
「うん、今日の授業はこれで終わりだ。帰っていいぞ」
 という終了の印を響かせる。
 すると、その声を耳にした途端に小さな子達は今までの衰弱は何処へやら、急いで筆や帳面を風呂敷で一包みにすると、斜面を転がるびいどろ玉の様に寺子屋から元気に出て行った。
 彼女はそんな幼い活発を見送ると、ふぅと一息吐いて板書の白を落としに掛かる。
 上から下へ、上から下へ。
 下から上へと消しを滑らせると白墨の粉が塗板に留まってしまうから。
 それから半獣の先生は板書を全て落とすと、今度は奥へと少しの間引っ込み、水の入った桶と雑巾を持って再び教室に現われた。
 古びた灰色布に透明なそれを十分に滲み込ませると、渦巻きの形にして水気を落とす。
 そうして雑巾が丁度良い湿り気になると彼女は長机を拭き始めた。
『あぁ、またこいつ落書きを』
『字がはみ出てるな。もう少し大きな帳面にするよう言ってみるか』
『米粒、あいつめ、授業中に』
 教え子の卓を磨く先生は時折そんな唇の動き。
 それからこの女性は水拭きを終えて畳を箒で浚うと、教室の掃除を終えた。
 そして、障子の隣からこちらを見て……
 こちら?
「もう授業と掃除が終わったから入ってきていいぞ」
 どうやら私の覗きはばれていたらしい。

 蒼が溶け込んだ霞の様な髪と静かな火色を含んだ茶の瞳が揺れる。
「ああ、会ったよ。十日前かな」
「本当ですか」
「確か今日みたいに授業と掃除が終わった頃だったか、いきなり教室の中からすきまが現われてな」
「それで一体どうなったんですか?」
「いや何、大した事じゃない。寺子屋で教えている算学の範囲を広げるか縮めるか、それを話し合っただけさ」
「算学? さっきは歴史の授業をしている様でしたが」
「ここで歴史を教えている子の中には算学はおろか読み書きも習っていない者もいるからな、そっちの方も教えているんだ」
「成る程」
 私はこの四角い帽子を乗せた先生に声を掛けられた後、咄嗟に素晴らしい授業に見惚れていたと褒めた。
 それから自分は成り行きで寺子屋の中で茶を頂いたついでに最近あのひとに会った事はないかと尋ねていた。
 どうやら教室で答えを述べる彼女は自分より遥かに紫さんと会っているらしい。
 しかし、あのひとが何処に居るのかを尋ねると
「知らないな。毎回急に現われて、気付いたらいなくなっている」
 という答え無き応えが帰ってくるだけ。
 そう語る睫毛の揺らめき正直そのもので、嘘の陰りは無い。
「それにしても先生は算学で一体何を教えているんですか?」
「そうだな、例えば……」
 先生は遠くを見る様な目をして指導要領を話し始める。
 私はその後当たり障り無き会話をすると、寺子屋を離れた。

 
 赤、青、緑、金。
 様々な茸の涙が舞う中、私は魔法の森と呼ばれる木々の群を歩いている。
 日光すら十分に届かない湿気った空間。
 ここにあのひとは居ないだろうが、それでも自分は何かしらの手がかりを探していた。
 原生林の床には朽ちた枝葉が降り積もり言い様無き香りが立ち込めている。
 足を一歩進めれば、その後ろには腐葉土の足跡。
 木々や地面の至る所に生えた菌類が囁き、胞子の霧を魅せていた。
 それらの事を除けばこの森は非常に歩き易く、私は奥へ奥へと進む。
 悩んだ様に身を捩る樹、警告の色彩を塗りつけた茸、滴る湿度の闇。
 奇と異に満ちたここは自分に束の間の夢を見せる。
 もっと、もっとこの奥を見てみたい。
 私は更にこの湿った色彩の波を見つめたくて、脚を森の深みへと動かした。
 しかし、ある事を境として自分は歩みを止める。
 あれ? これは。
 何かが、へんだ。
 目の前が出来損ないの万華鏡みたいに歪み、足元は何処までも緩い粘土の様。
 さっきまでは、森は、こんな様子じゃなかったのに。
 私は意識を鮮明にする為に息を吸ったが、それは悪質な咳となって肺から出てくる。
 そして、この揺らぎの原因を把握した。
 そうか、空気。
 自分は不用意にこの菌の巣窟に入り、大量の胞子を吸って体を害したのだ。
 私はそう悟ると一刻も早くこの森から出ようとしたが、一向に出口は見つからない。
 それもその筈、調子に乗って奥に進み過ぎ、胞子の影響によって感覚も狂い始めてきている。
 このままこの場所に居れば、きっと自分はその場に倒れ込んでしまうだろう。
 私はその後もここから出ようとして一生懸命に利かない脚を動かしたが、澱んだ空気が喉を滑り肺を虐めるだけだった。
 それはまるで大掃除をした時の埃に甘さ辛さが付いたかの様。  
 もう、駄目だ。
 目の前が……
 自分はそう心で呟くと右肩から横に倒れた。
 と、思っていたのだが、何故か身体は腐葉土の上に倒れてこない。
 んっ?
 私がその不思議に思わず右を向くと、そこには壁が在った。
 どうして、こんな森の中に?
 自分の眼は上を向く。
 これは、家?
 するとそこには小さな窓が在った。
 もしかするとここに誰か人がいて、助けてくれるかもしれない。
 私はその考えから意識を活性化させ、壁に手を当てて蝸牛の様にゆっくりと進む。
 そうして少し経つと、二回壁の角を曲がった頃に扉が見えた。
 あった。
 自分は昔己が持っていた帽子屋の入り口を思わせるそれを叩く。
 こふこふ。
 しかし、誰も出てこない。
 留守か、それとも元々誰も居ないのか。
 すると、いよいよ私が俯きながら気絶しようとしている時に扉は開いた。
 かちらはり。
「誰?」
 自分はその声に頭を上げる。
 ゆかり、さん?
 一瞬その金髪を見た時はそう思ったが、目を凝らすと違った。
 青く焼成した陶器の様な瞳、白い頬。
 そして、西洋人形を思わせる服。
「あなた、魔法使いではないみたいだけど」
 このひとは前に里の祭りで見た事がある。
 たしか、人形劇を披露していた魔法使いの女の子だ。
「とにかく随分とここの胞子にやられたみたいね」
 こちらの様子を察した彼女は金色のノブを押し、扉を大きく開く。
「ほら、入って。この中の空気は大丈夫だから」
 私は崩壊しそうな意識のまま、その言葉に従って家に入っていった。

 魔法使いの彼女に助けられた自分は現在来客用の寝台で横になっている。
 とは言っても複数集めた木箱の上に毛布やら何やらを敷いた安易な寝床だった。
 私が入ってきた時はいそいそと人形を使って水を飲ませたり、気分が落ち着く香を焚いてくれたりと随分と世話をしてくれたが、今ではこちらの事を全く無視して己の事に専念している。
 寝台から少し頭を動かしてそちらを見ていると、青い眼の少女は椅子に座り机上で真っ暗な目をした人形の頭を弄っている。
 恐らくこれから眼を嵌めるのだろう。
 自分はその作業工程に興味を持ったが、体の疲れの方が強かったので休息を取った。
 私はある程度身の気だるさが軽くなると、瞼を開く。
 すると彼女は未だに人形を作り続けていた。
 今度はばらばらの形を球体関節を介して一つに繋げる作業。
 自分は過去に帽子を作っていた事もあってかその節を作る少女の器用さ繊細さに素直に感心したが、一般の人から見れば中々不気味な光景であった。
 そう思いながら視線を注いでいると、彼女は幻想郷では滅多に見ない護謨紐を手に取り、人形の節々に通し始める。
 そうすると今まで項垂れていた手や足が張りを持ち、一つの体へと成っていく。
 その過程は生命ならざる生命の誕生を見ている様だった。
 私はその出来事に感銘を受け、思わず寝台から上半身を起こす。
 そうすると少女はこちらを見ずに人形を視線を傾けたまま、無関心に優しさを放つ。
「もう起き上がってもいいの?」
「ええ、お陰様でだいぶ楽になりました」
「でも、まだ外には出ない方が良いわ。あの胞子、慣れてない人には結構辛いから」
「はい、そうします。それと」
「何?」
「その人形、凄いですね」
「そう、ありがとう」
 折角褒めたのにその言葉は随分と味気無い。
 自分は素直に素晴らしいと言ったのだけれど。
 私はそう思いながらしょんぼりとして辺りを見回した。
 すると、硝子扉の付いた棚が見える
 その中には何体もの人形が立ち並んでいた。
 ああ、この場の空気は美味しくない。だけど、あそこにある人形は気になる。
 私は懲りずにまた彼女へ言葉を向ける。
「ちょっとあそこの棚にある人形、見ても良いですか?」
 人形遣いの魔法使いは矢張り己が作業を見たまま言った。
「ええ、良いわよ。でも、扉は開けないで。埃が入るから」
 別にこの言葉に冷たさは無かったが、この状況ではまるで冷水の様。
「失礼します」
 自分はまたもや萎縮して、寝台から脚を下ろして例の棚の前に立つ。
 その小さな硝子戸とも言える扉からは、数々の技巧が窺えた。
 しかし、すごいな。
 何だかんだ言ってこのひとの人形は。
 私はその魅力に圧されて無意識に声を鳴らす。
 昔紫さんの帽子を作っていた時に得た専門知識も若干交えて。
「凄い。このウエストベルトとビショップスリーブ、縫い目が全く見えない。これはまつり縫い? それとも……」
 がたりひっ。
 突然椅子が乱暴に後ずさる声。
 不意に後ろを向くと、そこには先程冷たい応対をした彼女。
 しかし、その青い眼に無関心は無く、つむじ風の様な激しさがこんこんと踊っている。
「分かるの?」
 突如そう訊いた少女の口調は今にもかぶり付きそうだった。
「えっ、えぇ。昔、ちょっと裁縫関係の仕事をしていたので」
 自分はそれに対して半ば怖気づいて答えた。  
「ほんとうに?」
 彼女はまた問うと大空みたいな瞳をこちらに向けている。
 そこまできて私はやっと分かった。
 ああ、この目はあれだ。
 自分もかつて専門的な帽子造りをしていたから分かる。
 これは今まで己の人形造りを深く知る者がいなかった目だ。
 本人は専門ではないと思っている専門的な事を喋りたがっている目だ。
 多分、さっきこちらが人形を褒めた時に冷やかな反応を示したのは、私がそういった専門的な知識に深くないと判断したからだろう。
 もし、自分がそういった知識に無頓着だったなら、専門的な話をしても意味不明な長話で迷惑になってしまうだろうから。
 しかし、この少女は私がそちらの知識に詳しい事を知った。
 知ってしまった。
 やっと、己が持つ専門を見て貰えると。
 だから、吹き零れた鍋の様にこちらに急激な感心を示したのだろう。
 自分はそこまで彼女の心を見ると、口を開く。
「はい、服飾関係でしたら少しばかりの知識を持っていますよ」
 折角私を助けてくれたんだ。これ位の事はしておかないと。
 自分は暫くの間少女の専門的な話を聞く事にした。

 私は彼女の核な話を耳に汲みながら、こっそりとあのひとの事を訊く。
「よく会うわ」
「本当ですか」
「ええ。時々人形の服作りの着想に困る時があるのだけど、そういう時に玄関も通らずにいきなり部屋の中に現われるわ」
「それで、あのひと一体何をするんです?」
「資料よ、服の資料を持ってくるの。本や写真とかをね」
「それはどんな資料なんです?」
「ええと、そうね……一言で言えば見た事の無い資料よ。例えば、これとか」
 そう言うと人形遣いは少なくても幻想郷では使われていない文字の記された、絵本じみた大きな写真の載った本を持ち出した。
 自分は少女に許可を取ってその中に目を通す。
 雲の様な鳥の様な派手な服を来た女性の写真が見える。
 それらは全て実用と言うよりも試作の香りがした。
「成る程、紫さんはこういった変わった資料を貸してくれるんですね」
「違うわ、物々交換よ」
「物々交換? では、一体何と交換してもらえるんです。この本も随分と立派ですから、さぞかし高価な物と交換したと見えますが」
 私はそう言うと極彩色の写真が集まった本を指差した。
 しかし、魔法使いはこちらの推測とは逆の言葉を吹き鳴らす。
「いいえ、大した物じゃないわ。その本は余った人形の服と交換したし、その前の写真は作り過ぎたグラスアイ、そのまた前は気まぐれで編んだレースでどれもただ同然よ」
「それは随分と変わったものと交換していますね」
 それから自分はあのひとが何処に居るか訊いた。
「分からないわ。いつも突然家に現われて、物々交換の条件を出してくるの。時によっては人形の制作をしている時に後ろから声を掛けてきて、そのまま目を合わさないまま物々交換して、気付いたらいなくなっているという事もあるわ」
 しかし、それは寺子屋の時と同じ様な答え。
「そうですか……」
 その後、私は彼女の専門的な話を心行くまで受け止めると、魔法の森を最短距離で脱出する道を訊いてからこの家を後にした。


 人里から程々に離れた所に蔵とも家とも付かぬ建物が建っている。
 別に好き好んでここに佇んでいる訳ではない。
 この蔵じみた建物――生地屋は山野で生産・加工される布、例えば桑の葉を食べる蚕の絹や棉花から取れる木綿等を扱っている。
 よって、この立地はそういった布地を集めるのに最適な場所であった。
 今、私はその生地屋の入り口前に立っている。
「どんな顔をして会ったら良いのか分からないけれど、仕方が無いか」
 自分はあのひとの手がかりを見つける為に心して戸を開けた。
 開け放ったそこは昔のままの内装。
 雛祭りを思わせる展示用の生地、一尺あたりにいくらいくらと書かれている糸の価格表、年老いた木を切り出した会計代、そして……
「いらっしゃい! 何か御用、おぉっ、久しぶりだな」
 生地屋の主をしているおじさん。
「何年ぶりかな、今は何でも屋だったか?」
 私はその反応に一先ず安心して有耶無耶な返事をする。
「ええ。まあ、そんな感じです」
 微妙に歯並びがずれているこの男性は、昔と同じ威勢でこちらに訊く。
「それで、どうしたんだ? 生地を買いに来たって顔じゃあないが」
 自分はさっそく己の捜し者について尋ねた。
「ええ、そうなんです。近頃、妙なお客さんを見ませんでしたか?」
 生地屋はそれに即答する。
「いいや、無いよ」
「そうですか」
 私はそろそろがっかりにも慣れてきていたので、無味無臭の声を散らした。
「あっ、でもよ」
 おじさんは急に過去の火を咲かせたのか、縮んだ音を打ち上げる。
「何ですか」
 自分はその短期音波に反応して反射的に訊く。
「いや、正確にはお客じゃないんだがな、こんな事があったのよ」
 そうするとこの生地屋は回想を拡げ、過去への舞台を語り建てた。

 今日から七日位前の昼だったかね。
 その時の俺は腹ぁが減っていた。
 それで何か食料は無いかと台所をあさってたんだが、期待外れに油揚げぇが三枚しかなくってな。
 仕方なくそいつで料理を作ったのよ。
 七輪に炭ぃ燃やして、網の上にさっき言った油揚げを乗せてな。
 丁度良くきつね色になったところを皿に盛って、七色唐辛子を掛ければ完成よ。
 早速食べようとしたんだが、何か店の方から変な物音がしてな、お前みたいに戸も開けてねぇのにだよ、んで恐る恐るそっちに行ったって訳だ。
 それで店を見てみりゃあおどれぇた。
 そこにゃあ紫色のドレスを着た金髪の美人が立っていた。
 俺は珍しい金持ちさんだと思って慌てて『何か御用ですか?』といつもの二倍くれえは力を入れて言ったのさ。
 そしたらよ、その美人さんは何て言ったと思う?
「あなたの今食べようとしている油揚げが欲しいの」
 って言ってきた訳。
 それで俺がぽかんとしていると続けて
「うちの狐にあげたいの」
 と唇を跳ねさせやがる。
 俺は何が何だか分からなかったが、とにかく台所に戻って七色唐辛子の掛かってる皿をその美人さんに差し出した。
 そうするとその女はこう言った。
「少しの間下を向いていて」
 俺はその通りにして、暫く床を見ていた。
「ありがとう。これがお代よ」
 するとそんな美人の声がしてな、俺は慌てて辺りを見回した。 
 しかし、周りにはさっきの女はいなかった。
 それだけでも不思議だが、もっと驚く事があったのよ。
 それはな、皿に乗ってた油揚げが無くなって……
 代わりに沢山の銭が皿に乗っかっていたんだよ。
 それから俺はあの女には会っちゃいねえ。
 未だにどんな名なのか、どこに住んでいるのかも分からない。
 嘘じみているが、こいつは本当の話さ。
 酒も昼だから飲んでなかったしな。

 間違いない、あのひとだ。
 私は生地屋の話を聞き終えてそう確信したが、それは手がかりとしては全く意味が無かった。
「どうも貴重なお話ありがとうございました」
 よって、自分はこのおじさんに虚しい感謝を捧げる。
「おう、どういたしまして」
 その声と同時に胸の奥が痛む。
 私は今まで過去を忘れる為に帽子屋の時に係わった人々との繋がりを絶ってきた。
 しかし、今となってはその事が途轍もない裏切りに感じる。
 それが胸の軋みの原因だった。
 自分はもうここに居ても心が痛むだけだと思い、別れの横断幕を下ろし始める。
「もう用事は済んでしまったので、そろそろ……」
 生地屋もそれに合わせて別れの言葉。
「おお、もう帰るのか」
 私はもう、この店で生地を買う資格なんて、ない。
 そう思いながら自分は入り口の戸に手を掛けた。
 すると、ひとつの声がする。
「買いたくなったらいつでもうちの生地を買いに来なよ」
 私は耳にする筈がないと思っていたそれを聞いて振り返った。
 そこには昔と同じ様に誰でも平等に生地を売るおじさんの顔。
「昔のお前は不幸そうに生地と糸を買ったかと思えば、わくわくした顔で生地を買ったり、また落ち込んだりと色々滅茶苦茶だったからな。今まで顔を見せなかったのも何か理由があったんだろ?」 
 自分はその言葉が嬉しくって、考える前に礼を言う。
「はいっ、ありがとうございます!」
 私はその後生地屋と別れの挨拶を交換すると、店の外へと出た。
 それから何も無い土の道を歩いていると、自然と涙が零れ落ちてくる。
「良かった……よかった」
 自分はまだあの店で、おじさんから生地と糸を買ってもいいんだ。
 そして、また帽子屋始めていいんだ。
 私はそこまで考えると着物の袖で涙腺の雨粒を拭い、力強く歩き出す。
 だけど、その前にあのひとを、紫さんの心を……   
 
 
 秋崩れの風が袖から忍び込み、自分を冷やしている。
 私はあの夜から何でも屋を辞め、自分が傷付けたひとの影を探していた。
 どうしてなのか、会ったとしても何をするのかは分からない。
 だが、とにかく私は何日も何週間も紫さんを探していた。
 人間の里、霧の湖、迷いの竹林、魔法の森、大蝦蟇の池……
 虹の影絵の如き幻想郷を歩き回り、ただひたすらにあのひとを探す。
 だが、その姿は見つからなかった。
 誰かに尋ねても『会いはしたが何処に居るかは分からない』という答えだけ。
 そう、私はあのひとにずっと避けられていたのだ。
 よく考えてみれば紫さんはあれ程の力を持つ妖怪である。
 こちらの居場所なんて容易く分かってしまうだろう。
 それこそ、恐ろしい事をしようと思えばいつでも出来る程に。
 でも、今まで自分が全く出会わなかったのは、紫さんがずっとこちらを避けていてくれたからだった。
 こちらを傷付けない様、そっと。
 私は探している内にその事に気付くと、改めて己の愚鈍と臆病を責めた。
 どうして、自分は今までこの事に気付かなかったのか。
 どうして、自分は今まであのひとについて考える事を止めていたのか。
 後悔の楔は頭に突き刺さる。
 この痛みは、どうやったら引き抜く事が出来るだろう?
 私は答え無き問いかけをすると、再び紫さんを探す為に歩いた。

 くきふ。
 とは言っても腹は空くものだ。
 胃が食料を求めて泣き始め、力が抜けていく。
 ある日の私は一旦探すのを止め、たまたま近くにあった蕎麦屋の暖簾を潜った。
 だが、店内の椅子には全て人。
「ごめんなさい、この時間は混んでて」
 声へ顔を向けると忙しそうな娘さんが一人。
 恐らくここで働いている人間だろう。
「腹が空いて倒れそうだ。席は何処でもいいから早く温かい蕎麦を食べたい」
 私がそう言って銭を先払いすると、その女性は謝り顔で返した。
「本当にすみません。では、店前の待ち席でどうぞ」

 蕎麦屋の外には赤布羽織る待ち席。
 そこへ箸と内容物が入った木の器を持ちながら、慎重に座って一息。
 お椀から白いもやが立ち昇る。
 私はそれを息で吹き飛ばし、細長い本体を箸で掴んで頬張った。
 腹が安堵へと微笑み、脳は幸せを搾り出す。
 茹でられてつゆ絡む蕎麦は素敵な摂取物。
 天麩羅の類は頼まなかったが、これだけで十分な食事。
 それに秋の風と戯れながら食べるのは、中々な趣。
 空腹が蕎麦に魔術を掛けたらしく、私は糸じみた食べ物を夢中で啜る。
 だが、その美味もある声によって遮られた。
「おや? 何でも屋さんじゃないですか。久しぶりです」
 私が音がしたを向くと、そこには唐傘屋が一人。
 この面構えは何でも屋をやっていた頃『一緒に材料の竹を取って欲しい』という依頼で見た顔だ。
 ちなみにこの職人は唐傘作りに対する技術は大したもので、かく言う自分もこの人間の傘を使っている。
 しかし、この人間はまだ私が何でも屋をやっていると思っているのか。
 まあ、説明すると色々面倒臭いから黙っておこう。
「久しぶりだな。腹減って蕎麦を食べようとしたらこのざまさ」
 私は残念な笑みを作って顎で待ち席を指し示した。
「ああ、満席でしたか。よくあるんですよ、この店」
 唐傘屋はそう言うと蕎麦屋に入り、一言二言さっきの娘さんと話をする。
 暫くすると箸と椀と湯桶を器用に持ち、店の中ではなくこちらの席に座った。
「まだ席が開かないみたいで、失礼しますね」
「ああ、構わないよ」
 私と唐傘屋はそう声を交わすと、それぞれの椀の中をつるずるずずっと失礼する。
 食事中にだらだら話すのは御法度。
 飯が不味くなるかは分からぬが、確実に蕎麦は冷めていく。
 だから、無言で啜るのだ。
 私が椀の中身をずるずる食べれば、唐傘の人はするする食べる。
 こちらがつゆを残してご馳走様すれば、隣はつゆに蕎麦湯を足して飲む。
「ふう、おいしかった。ごちそうさま」
 そして、唐傘屋はお椀の底を乾かすと、やっとご馳走様の手合わせをした。
「そう言えば最近のお仕事はどうですか? 何でも屋さん」
 暫くするとこの人間はそう言うので、私は渋い顔で言う。
「いや、最近体の調子が悪くてね。今は休業中だよ」
 まさか本当の事を言う訳にもいくまい。
「そうですか、お体に気をつけて」
 善良な唐傘屋はそんな嘘に対して本物の気遣いを掛けた。
「ああ、ありがとう。で、そっちの仕事どうなんだ?」
 私は出来るだけ自分の事は語りたく無かったので、相手に話題を投げる。
「私、ですか。いやあここの所晴れ続きで客がいなくて暇ですよ。でも……」
 唐傘屋は仕事日照りを踏み台にして話を広げた。
 だが、自分はそれよりもその頭の後ろで動くある者が気になった。
 それは緑色の帽子を被った子供。
 赤い服を着て三角の耳飾りを着け、尾てい骨あたりに二本の黒縄をぶら下げている。
 でも、あまりそちらを見ていると唐傘の人に失礼なので、たまに眼で見るだけ。
「今から一週間位前でしょうかね。その日、私は先程言った通り暇で家の掃除をしていたんです」
 幼き子は蕎麦屋の向かい側に立つ雑貨屋の前を通った。
「ですがあっという間に家の掃除を終えてしまい、この蕎麦屋に行くことにしました」
 そして、その傍に生える稔り無き柿の根元に腰を下ろす。
「蕎麦はいつも通りの美味しさで、今日みたいに蕎麦湯もしっかり頂きましたね」
 おや、よく見ると木の根元に座るその若き者は風呂敷を持っている。
「それからは雑貨屋、食事屋、着物屋、本屋……様々な所を見て回りました」
 その布包みは元気な子の膝上に置かれ、ゆっくりとその肢体を解かれていく。
「でも、手持ちの銭が少なかったので何も買いませんでしたけどね」
 その中より現れたのは黒き漆塗りの直方体――可愛いお弁当箱。
 多分、この子は遠出をしていたのであろう。
 遠足の類の。
「それで私は昼過ぎまで冷やかしをすると、家に帰る事にしたんです」
 膝上に乗る木箱を見る子供の顔はうきうき。
 どうやらご馳走らしい。
「帰り道の途中、草むらで変な気配がしましてね」
「変な気配?」
 ああ、唐傘の人の話も気になるが、赤服の幼いのも気になる。
 どちらに集中すれば良いのやら。
 ちなみに子は今弁当箱を開けたところ。
 濃い土色の瞳と赤らんだ栗色髪を揺らして嬉しそう。
「それで丈高く伸びた草を掻き分けたらいたんですよ」
「何がいたんだい?」
 だが、それからすぐに表情は暗くなり、絶望の底になった。
「茄子色の唐傘を持った水色髪の女の子が倒れていたんです」
「……あぁ」
 そして、瞼と眼の間を潤ませている。
「それから私は驚いてその子を……どうしたんです?」
 いかん、唐傘屋に悟られた。
 どうやら自分は思っていたよりもあの子供を凝視していたらしい。
「いや、あそこの木にいる子がな」
 私は顔を件の若いのに向けて言った。
 そこには堪えながらも涙をぽろぽろ零している顔。
「何でも屋さん、ちょっと待っていてください」
 そう言葉を残すと唐傘職人は席を立ち、柿の根元にて落ち込む子に話し掛けた。
「どうしたんだい、そんな所で泣いて」
 それに対し帽子の幼子は睫毛に水分を含んで答える。
「お弁当の、うぅ、半分がっ、ないの」
 言葉通り幼い者が見せた弁当箱には半分だけの白飯が入っており、もう片方は僅かな金平と煮物しか入っていなかった。
「そっか、大変だったね。じゃあとりあえずあっちに座って、ほら」
 唐傘屋は三角形の耳飾りを着けた子供にちり紙を渡し、こちらに誘導する。
「それでいったいどうしたの? お米しか入ってないけど。それも半分だけ」
 待ち席に座った小さき子は涙と鼻水を拭って落ち着くと、ゆっくりと話し始めた。
 ちなみにその話の流れを大まかに説明するとこうなる。
 どうやらこの子は保護者に散歩をすると言ったらしい。それに対し保護者はこの子供へ一緒に弁当を作ろうと提案した。それでこの子と保護者は一緒に弁当を作リ始めた。
 だが、途中突然の来客によってその保護者は『あとは大丈夫だな』と言い残し台所を去ってしまう。そして、この子は弁当に白飯を詰める、箱の蓋を閉める、風呂敷包みでしっかりと弁当箱を保護する、これらの動作を見事にこなして外出した。
 ただ一つ楽しみにしていた泥鰌の唐揚げを中に入れる事を除いて。
 つまり、この幼き子は弁当におかずを入れ忘れたのである。
「うっ、うぅう……ひぐっ」
 そこまで語ると子供はまた涙色を滲ませ噎び泣き。
「あぁ、大丈夫っ! 大丈夫だよ! ほら、ここの天麩羅をおかずにして食べよう!」
 唐傘を作る人はその挙動に慌てて声を掛け、解決策を打診する。
「うう、でも、私お金持ってないよ?」
「大丈夫大丈夫! 代わりに払ってあげるから」
「いいの?」
 己の腹も膨れないのに銭を使うとは、こいつ相当な物好きだ。
 自分にゃ到底出来ない。
「ちょっと蕎麦屋さん、こっちに来て!」
 唐傘屋が大きな声を立てると、よく訓練された『はーい』という声が聞えてくる。
 店の奥からは先程の娘さんがその姿を現す。
 そして、これから追加注文をしようとしている人間に聴く。
「何か御用ですか?」
 唐傘作る者は例の子供に顔を向けた後、また娘の方を向いて注文する。
「この子に天麩羅を二つ三つ位食べさせてやってください。お代は」
 この人間は善意溢れる声で言葉を繋ぎ、懐から銭袋を取り出した。
「これで……あれ、あれ? あれ? あれれ」
 しかし、何か様子がおかしい。
 よく見ればその布は妙に薄っぺらい。
 風が吹けば何処かへ飛んでいってしまいそうな位に。
 どうも唐傘屋はさっきの蕎麦で手持ちを全部使い果たしてしまった様だ。
「ああぁぁああぁあ……」
 よって、唐傘人は銭袋の空っぽを確かめると、自己の無力さを嘆いて俯く。
 泣き出しそうな子もそれに倣って俯く。
 そして、少しすると二人は頭を上げて、こちらを見た。
「何だ」
 私はその意味を分かっていたが、敢えてしらばくれる。
「なんだその目は」
 しかし、二人もしぶとくこちらに頼る目。
 炭焼きの赤熱じみた視線。
 自分と二人組みは暫くそうやって睨めっこをしていたが、やがてこちらが折れた。
 何というゆすりたかり。悪人の方がまだましだ。
「あぁ、くそっ! 分かったよ」
 私は着物の懐から袋を取り出し、中にある硬貨を掌一杯に掴むと蕎麦屋の娘さんに手渡す。
「釣りはいらない。代わりにこの子の腹を天麩羅で一杯にしてやってくれ」

 かしこ、かしゃこり、かかこりり。
 魚と菜包む衣が砕かれる。
 それにしてもこの子、よく食べるな。
 私と唐傘屋と子供は蕎麦屋の中にいる。繁盛時はもう過ぎたので三人とも席に座っていた。
「天麩羅だけ食べるのは駄目だぞ。ちゃんと弁当のご飯も食べないと」
「うん!」
 子供はお節介を聞くと頷くとそう声を点け、天麩羅と白飯を交互に頬張る。
 自分は忠告通りに食する小さき子を確認すると、今度は反対側を向いて唐傘屋を腐す。
「誰かに親切をするのは良い事だと思うが、それが出来るだけの余裕が無いと無残だぞ」
 声を受けた相手は恥ずかしそうに燻る声を打つ。
「うう、ごめんなさい。最近お金を使い過ぎてしまって……節約していたんです」
 だが、私は本来みっともない筈の姿を見て、何故か心底羨ましく思った。
「まあ、それでも良い事をしたのは確かだよ」
 そうさ、この人間はしっかり心を持って生きている。
「お心遣いありがとうございます。でも、何でも屋さんってお金持ちなんですね。驚きました」
 唐傘屋はそんな己の心も知らずに感心した眼でこちらに語り掛ける。
「なに、大した事じゃない。ただ金を使う機会が無かったのさ」
 そうだ、自分は今まで銭だけじゃなく、心も使わずただ生きてきた。
 愛するひとを傷付けて逃げ出したまま。
 私はそうやって声無き語りで己を貶すと、唐傘の人から視線を逸らした。
 天麩羅、白飯、天麩羅、天麩羅、白飯、白飯、天麩羅、白飯。
 そこには独自の順番で主食とおかずを頬張る子供。
 自分の心とは全く関係無しに美味しく頂いている。
 時折漂うは天麩羅の朗らかな香り。
 さっき蕎麦を食べたばかりなのにお腹が空きそうだ。
 私はそんな風に見ていると、ある不思議に気付く。
「んっ?」
 今黒い縄が、子供の尾てい骨から伸びる黒い紐飾りが動いた。
 私は見間違いだと思いつつ、もう一度見つめた。
 二本の黒縄は毛皮の様な繊維に包まれて、先っちょは白い雪の様。
「あっ!」
 動いた。今、間違い無くこの子の縄飾りは動いた。
 まるで、生きている尻尾の様に。
 うにゃり、うにゅん。
 そんなうねりを仄かに鳴らして曲がった。
 私はその動きに信じられないと思いつつ、不思議な子の頭を見た。
「ああ、また」
 そうすると今度は三角形の耳飾りが動く。
 くく、ふぃっ。
 これは、耳か。それも毛が生えた生き物の耳。
 私はその不思議をきっかけとして今までぼんやり見ていた子供の全体に眼を傾ける。
 細かな黒に包まれ先は白く膨らむ二つの尻尾、黒毛と雲の綿毛でふわふわした耳、赤い碧玉を思わせる爪が伸びた小さな指、そして……
 人の目とは輝きが違う猫じみたそれ。
 そこまで確認すると私は確信する。
 そうだ、この子は、この少女は人間ではない。
 妖怪、それも化け猫だ。
 私が今まで耳飾りと縄だと思っていた物は耳と尻尾だった。
「ごちそうさまでした!」
 結論と同時に少女は完食の合図を鳴らす。
「とてもおいしかったよ。ありがとう」
 私はお礼の声に誘われて化け猫に言った。
「どういたしまして。しかしお前さん、妖怪の子供だったのか」
 だが、草色の帽子を被った彼女は耳をひくひくさせて反発する。
「子供じゃないよ、ちゃんとした式神だもん」
 式神? そんな名の妖怪は聞いた事が無い。
「なんだい、その式神っていう妖怪は? 初耳だな」
 私がそう言うとフリルの付いた帽子を被る少女は必死に小さな歯を見せてながら返す。
「式神は妖怪じゃないよ! ソフトだよ」
 私はますます訳が分からなくなったので更に奥まった質問をする。
「じゃあ、そのソフトって言うのは何だ? それに式神って言うのは何をするんだい?」
 少なくとも人ではない女の子はその謎を貰うと、うんんと黙り込んでしまった。
 どうやら、随分と難しい質問だったらしい。
 だが、暫くしてその答えは生まれ落ちる。
「ソフトって言うのはね……こういう事があったらこうしろ、ここをこうやって動けばこのお仕事は大丈夫っていう命令なの。それでその命令、ソフトに従う事によっていつもよりもたくさんの力が出せたりするの。で、式神は使役者、頼み事をするひとの命令を忠実にお手伝いする妖怪の事だよ!」
 私はそこまで聞くと彼女の言う式神をやっと理解した。
 なんだ、ただ要望通りに仕事をする妖怪のお手伝いさんか。
 専門的な言葉を使われると何でもない事が随分と立派に聞えるな。
 だが、そんな考えとは逆に少女は己が使命に瞳をきらきらと星みたいにさせている。
「そうか、それは凄い」
 まあ、お世辞の一つでも言っておこう。
「うん、式神になれるってすごい事なんだよ!」
 何となく吐いた褒めに妖怪の子はおおいばり。
 可愛い体を満たすには丁度良い自尊心。
 私はそんな様子を見ていると、ある疑問が浮かんだ。
 それにしても一体誰の命令を受けて動いているのだろう。
「そう言えば、お前さんの使役者って一体誰なんだ?」
 声を受けた式神の少女はこれまた誇らしい顔。
「ふふふ、それはね……」
 一息含んでその名を明らかにする。
「藍様だよ」
 らんさま。
 弁当のおかずを入れ忘れた件でこの子が語った名だ。
 保護者ではなく使役者だったのか。 
 しかし、自分はその使役者に全く心当たりが無かったので再び質問する。
「藍様? そのひとも妖怪なのか?」
 あのひとの帽子によく似たフリルの帽子を被った子は言う。
「うん、そうだよ。九尾の狐で、すごい妖怪なの。ちなみに藍様も式神で、わたしみたいにお手伝いをしているの」
 という事はこの化け猫少女は、式神である九尾の狐の式神か。
 ややこしい。
 私は何となく湧いた興味で更にその奥へ質問を滑らせる。
「じゃあ、その藍様とやらの使役者は一体誰なんだい?」
 目の前の式神は再び誇らしく口を滑らせる。
「うん、藍様の使役者はね」
 小さな唇弾ませて。
「紫様だよ」
 それは、自分が今までずっと捜し求めていたひとの名の欠片。
「何だって?」
 猫の式神はそんなこちらの様子を見て更にその言葉を繰り返す。
「だから、八雲紫様だよっ!」
 私は確実になった名を聞くと、考えるよりも先に少女の細い両肩を掴む。
「うひゃわあっ!」
 この子は突然の拘束に尻尾を二つぴんと張って驚いたが、気にしないで訊く。
「きみ、それは本当かい!」
 体を固定されたちっちゃな式神は猫じみた瞳をまん丸にしたが、静かに答える。
「う、うん。確かにそうだよ」
 その細い声を己の耳に注ぐと、またもや思考する前に口が動いた。
「ちょっときみに頼みたい事がある! 聞いてくれるね?」
 無茶苦茶だ、まだ内容すらも言っていないのに。
 だが、幸いな事にこの式神少女は良い子だったので、黒い二本の尻尾を戸惑う様にくねらせながらも了承をくれた。
「……うん。てんぷらを食べさせてもらったからいいけれど」
 私はその言葉を確認すると、店中でぼんやりとしていた娘さんに呼び掛ける。
「ちょっと蕎麦屋さん、筆と墨貸して! あと出来れば紙も一つ下さい!」
 そんな自分を見て唐傘屋は虹彩を点滅させる様に動かして訊く。
「一体どうしたんです? そんなに慌てて」
 私はついにこの人間に本当の事を言った。
「いや、どうしても会いたいひとがいてね。ちょっと約束を取り付けたいんだ」

『この手紙を紫さんに届けて欲しい。分かったね?』
 私がそう頼むと少女は即席で作った手紙を受け取りうんと頷いた。
 それから自分と二人は少し口の囀りを交わした後、個々の目的によって別れた。
 小さな化け猫は散歩の続き、唐傘屋は商売の材料の為に。
 それで現在私は飯屋で適当に夕食を買い終え、家までの長い長い帰路を辿っている。
「今日は随分と遠出したな」
 私はすっかり暗くなってしまった空を見て呟く。
 だが、手応えはあった。
 私はあの手紙に言葉と日時を書いて少女に渡した。
 式神の式神なのだ。
 きっと、紫さんの住んでいる場所を知っている筈。
『まだ帽子の報酬を受け取っていません。店で待っています。帽子屋より 日時は……』
 文は大体こんな姿をしていた。
 殆ど勢いで字を書き、日時も無意識に決めた。
 なんて雑な手紙だろう。
 それにあの少女が本当に繋がりがあるのかも眉唾ものだ。
 だが、私には不思議と紫さんは必ず手紙を受け取り、絶対に約束の場所へ来るという確信があった。
 今まで随分と歩いたがまだ自分の家は遠く、黒き空には星の硝子が転がっている。
 私はそこに浮かぶ細身のびいどろ玉――三日月を眺めてある物思いに耽った。
 それは姿と心について。
 今自分はあの空に掲げられた月を美しいと感じている。
 だが、もしあの綺麗な円盤の心が悪しきものだったらどうだろう。
 私は月を邪悪な者だと思うだろうか?
 答えは否。
 自分はその美しさの奥にある悪しき心には気付かないだろう。
 道端に立つ木の梢が三日月を覆い隠す。
 では、その反対の存在は?
 もし、おぞましい姿をした者の心が美しかったらどうだろう。
 私はそれを綺麗な者だと思うだろうか?
 答えは否。
 自分はそのおぞましさの奥にある美しき心には気付かないだろう。
 そして、その心も無意……
「いや、違う。そんな事は無い」
 私は極めて有り触れた残酷さを掻き消した。
 己が紫さんの姿を見て恐怖したのは事実だ。
 私は初めて紫さんに帽子を作った時の事を思い出す。
 でも、あのひとの心は間違いなく綺麗だった。
 だって、あんなにも自分の帽子を温かく愛してくれたんだから。
 私は月に照らされた頼りない道に歩を早め、意識を煌めかせた。

 家に帰ってきた自分は畳に座り、月明かりの中で遅れた夕食を摂っている。 
 頬張る物体は串刺し醤油団子。
 別に狙ってやった訳ではないのだが、夕方遅くに買った為に飯屋の店主が『もうお客さんしか買わないだろうし明日には硬くなって売り物にならないから、ほら』と言って七本買った私に三本おまけしてくれた。
 と言う訳で計十本の醤油団子を平らげた自分はその包みを明かり取りから捨てる。
 これは悪癖だが長年の爛れた生活によって屈強に染み付いていた。
「はぁ……」
 この癖、いつかどうにかしないと。
 私がそう考えていると、ふと視界にあるものが入る。
「んっ?」
 それは明かり取りから見えた紅花襤褸菊。
 華奢な三日月に照らされながら下向きの花を見せていた。
『そうよ。境界を操れば何だって、出来るのよ』
 それは昔あのひとが境界を操る力について説明した時の言葉。
 自分は茶色い花を咲かせた野草を見て思い出す。
 そういえばあの時紫さんもこれと同じ眼をしていたっけ。
 この花と同じ土色の虹彩を。
 私は紅花襤褸菊と連動して浮き上がった過去を反芻する。
 今思えば、あのひとの声は悲しそうだった。
「でも、どうして?」  
 境界を操れば、何でも出来るのに。
 それに、あの『出来る』は何かが……
 私はその言葉にある種の、紫さんの内面に関する何かが隠されている様に感じた。
「もしかしたら」    
 これは、ここで一度頭を理詰めで浚ってみる必要がありそうだ。
「よし」
 自分はその一鳴きで今夜は睡眠を思考に賭す事を決心した。

 細い月明かりが暗い家中を照らしている。
 この闇と秋の冷たさは思考には丁度良い塩梅だが、そのままでは体が冷える。
 よって、自分は布団の中で体温を保ちながら紫さんの事を考えていた。
 始めに私は紫さんの言葉に入っていた妙な香りのした『出来る』について考える。
 確かあのひとの力は物事のありとあらゆる境界、つまり境目を消したり、新たに創ったり、変えたりする事が『出来る』だったっけ。
 では、それは普通のそれとどう違うのだろう?
 私はまずに普遍的な『できる』について考えた。
 これは自己が他の者や物と接触して成り立つ。
 そして、これはある意味常に相手と対話していると言える。
 だが、この話し合いはいつも平穏に行くわけではないし、確実に実を結ぶわけではない。
 言うならばこの『できる』は不完全だ。
 でも、それ故に上手くいった時は嬉しいし、満たされる。
 例えば自分がやっと帽子を紫さんに認められた時みたいに。
 では、もう一つはどうだろう。
 次に私はあのひとの『出来る』について考えた。
 一方、紫さんのそれはありとあらゆる物事の境目を消したり、新たに作ったり、変えたりする事によって成り立つ。
 これは先程挙げた『できる』とは違い、全てをひとりでこなせる。
 何故ならこの『出来る』には他の者や物といった相手が存在しないからだ。
 よって、話し合いから生じる摩擦も無く、自己で全部決められる。
 これは便利で素晴らしい事だ。
 だって、自分で物事を好きなように操作出来るのだから。
「……いや」
 しかし、私はそこまで思考の駒を進めると、この『出来る』に苦味を感じた。
 もし、仮に自分が欲しいものを考えたままに得られたとしたらどうだろう?
 それも全てたったひとりだけで。
 もし、私が裁ち鋏や針、糸や布地に触れないで帽子を作れたらどうだろう?
 それもお客や材料と相談しないで、誰もが素敵と声を漏らす帽子だったら。
 最初は楽しく幸せだろうが、その後はどうだろう。
 果たして私は満たされるだろうか?
 自分は布団の中で頭を横に振った。
 いいや、それじゃあ嬉しくないし、決して満たされない。
 それに帽子を作るという行為の意味自体が無くなってしまうだろう。
 まるで自分に都合の良い事のみを映し出す鏡をじっと見つめているかの様に。
 何も変わらず、目新しいものは何一つ無く、孤独に想いは褪せていくに決まってる。
 私はそこまで紫さんの『出来る』を分析すると、何故あの時悲しそうに語ったのかを理解した。
 きっと、紫さんは知っていたのだろう。
 もし境界を操って全てを手に入れたとしても、満たされないという事を。
 幾ら己を飾り付けても、誰かに好きだと言わせても、何をしても幸せにはなれないという事を。
 あの力を使い本当に欲しいものを手に入れようとすると、それは偽物に化けてしまう。
 だから、あの時あのひとはあんなにも声を擦れさせたんだ。
 しかし、私はその結論を導き出すとある事に気付く。
 それは紫さんの『できる』について。
 いや、ならば境界を操るのを止めて、自力で欲しいものを得ればいい。
 そうすれば……
 私はそうやって思考を走らせていると、途中で致命的な欠陥に気付いた。
 それは昔自分が赤き縫い目から見たあのひとの姿。
 思い浮かべるだけで息は千切れ、死の想像しか出来なくなる。
「何て事だ」
 私はその全ての生物と物質を蝕む朧げな影を想起しながら悟った。
 紫さんはその体によって、者や物と対話をする事はおろか、まともに接触する事すらも儘ならないんだ。
 だから、あのひとには普通の人間や妖怪にはできる触れ合いができない。
 そう、偽物の姿から偽りの対話をする事しか出来ないんだ。
 私はそこまで思索を呑み込むと、何とも矛盾した言葉を空気中に遺した。
「ああ、紫さんは何もかもが『出来る』けれど、何もかもが『できない』んだ」 
 境界を操る力と全ての者と物が怖気付く姿によって。
 全てを手に入れられるけれど、全てを失ってしまうんだ。
 私はそうやってあのひとの異質な悲しみと孤独を弾き出すと、思わず呆然として壁と天井の合わさった隅を見つめた。
 そこには夜闇が胡座を掻いている。
 何もかもが手に入る宝物の籠に囚われ、そこから出れば誰とも接する事ができず独り。
 自分はそんな紫さんの飢えと苦しみに、何が出来るのだろう?
 問い掛けの答えは何処からも帰ってこない。
 だが、代わりに毎夜見慣れている家の闇が、無限の黒となってこちらを見つめていた。


「紫様、こんな物が」
 その日の屋敷は夕方に照らされて橙に輝いていた。
 この家の主であるわたしは式神からそれを受け取り、眼を傾ける。
 覚え書きと見紛う紙には自分宛ての言葉。
 わたしはその擦れた墨に見覚えは無かったが、それでも誰が出したのか理解する。
 それは帽子屋、今は何でも屋をしている人間からの文。
 自分が昔傷付けてしまった人からの手紙。
 どうしてあの時わたしはあんな事をしてしまったのか、未だに分からない。
 だが、とにかく自分は手紙の内容を食んで、己が物とした。
 どうやらあの人間は帽子の報酬を欲しがっているらしい。
 でも、何故今更?
 もうあの日々から何年も経っているというのに。
 それにどうして態々あの場所へ自分を呼び出そうとしているのだろう。
 あんな事があったのだから会いたくも係わりたくも無い筈なのに。
 わたしは吹けば飛んでしまいそうな薄い手紙に厚い疑問を募らせた。
「どうかなさいましたか?」
 藍はそんなこちらを察して真面目な言葉を焚き付ける。
「いいえ。何でもないわ、藍」
 自分はその九尾の小火を揉み消した。
「でも、この手紙はどうやってわたしの元に来たのかしら?」
 命令を受けた式神は忠実に口を働かせる。
 話の味を見るにどうやらこの文は橙経由でこちらに来たらしい。
 しかし、その内容は紙で作られた喉の蓄音機みたいに柔らかく不完全。
 藍は何かを隠している。
 だが、今のわたしは残念ながらそれ責める程の意地悪を持ち合わせていなかった。
 それに手紙の内容も妙に心の重心を占めている。
 よって、自分はこの九尾へ直ぐに下がる様に命じた。

 纏まらない思考を繰り返せば時はもう栄養を摂取する夜。
 わたしは藍と共に食卓で夕食を摂っていた。
 と言っても自分は本当に食事する訳ではなく、偽物の口に料理を入れるだけ。
 時々痛んだ食材や料理の工夫を見つけると、わたしはこの式神を貶したり褒めたり。
 ただ味や栄養価を分析したり、相手の様子を見たりするだけ。
 そして、そうやって皿を空にすると造り物の胃に溜まった食事をすきまによって取り出し、元の生物の姿に修復・蘇生して住んでいた場所に帰してあげる。当然、恐ろしい死の記憶は消去して。
 わたしは他の生物から栄養を、食事を摂る必要が無い。
 ただ存在しているだけで勝手に栄養が満たされる。
 いや、栄養を摂る必要すら無い。
 よって、自己にとって食事とは意味も無いのに命を奪い、それが済むと料理を元の命に復元するという生物に対する冒涜的な行為だった。 
 こんなの、無意味。
 だが、それでもわたしはこの下らない飯事をずっと続けていた。
 何年、何十年、何百年、数え切れない年月。
 そうすれば心だけは他の者と一緒に食事をした気になれるから。
 自分は本当の姿で誰かと食事をした事は一度も無かった。
 そう、姿を見せる事すら……
 わたしはそんな物思いに耽りながら美しい姿で偽りの食事をする。
 泥鰌の唐揚げを箸で捕らえ、口とされている場所に滑り込ませた。
 うん、美味しい。
 味覚分析結果は良好。
 栄養価も一般的な泥鰌の平均値を越えている。 
 加えて基本を忘れぬしっかりとした調理。やはり藍の料理は良い。
 まあ、少しばかりちょんぼはあるけれど。
 自分は本当の意味で誰かが作った料理を食べた事は一度も無い。
 食べようとして目の前に持って来ても、触れる前に消滅してしまうのだ。
 前に何度か境界を操る能力で料理が消滅しない様に固定して食べたり、自身の力場を抑えて食事を摂った事があったが、その試みも虚しい結果に終わった。
 わたしは、本当にこの料理を食べているの?
 そんな疑問が浮かんできたから。 
 口に入れた食物は偽りの舌上で踊り、味はただの数値となって自分に入ってくる。
 無意味に奪い、無意味に与える環。
 命を殺し、命を授ける陰気劇。
 わたしはいつも通りに食事を終えると料理に謝った。
「ごちそうさまでした」
 それからすきまを使って食器を台所に飛ばすと、早速奪った命の修復と帰還にかかる。
 この間自分はじっと座っているので、他者からは食休みにしか見えない。
 だが、わたしは誰にも見られない場所で命への冒涜を行なっていた。
 毎日、まいにち。
 己の我が儘で命を奪ったり造ったり。
 しかし、それでも自分は満たされずに飢えていた。
 まるで底の無い水差しみたいに空っぽ。
 そうして作業を終えると、まだ夕食を摂っている藍の姿が見える。
 わたしはこの置物みたいに行儀良く座っている九尾を弄った。
「ねぇ、藍」
 式神は呼び掛けに反応して揚げ魚を捉えていた箸を止める。
「はい、何でしょうか?」
 自分は唇を弾けさせて規則正しく言葉を並べた。
「あなたが今食べている泥鰌の唐揚げだけど」
 すると、帽子の下に隠されている耳はぴくりとも動かなくなる。
 これは藍が動揺した時によく起こす反応だ。
 本人は何かを隠す為わざと動きを止めるのだが、それがかえって怪しさを香らせる。
 わたしはそんな狐の緊張を声帯を鳴らして解く。
「美味しかったわ。衣に工夫がしてあって」
 そうすると三角の耳は糸が切れたみたいにそうそう動き出す。
 これは藍が危機を脱し安心した証拠。
「ありがとうございます。衣を美味しくするのに苦労したんですよ」
 そうやってこの式神は返すと、腰の九をゆらゆら行灯火みたいに揺らめかせた。
 その質感は生まれたばかりのグラスウールを思わせ、白と黄がお茶目に眩しい。
「でも、この泥鰌の唐揚げ」
 しかし、自分はとっても意地悪なので安堵に水を掛ける。
「朝に揚げた物を温め直したみたいだけど、一体どうしたの?」
 振動を入れた藍の耳は再び固まり、九の尾も炎みたいに凍った。
 そして、暫くするとこちらに磨かれた真鍮を思わせる瞳をちろちろ。
「ええと、それは、ですね……」
 大人になりかけの林檎を思わせる唇が動いて紡いだ。
「作り過ぎてしまったんです。朝に」
 狐は己の焦りを一生懸命抑えているが、それでも頬は微かな赤。
 ただ作り過ぎた朝食を夕方に出したからと言って、ここまで慌てる訳が無い。
 加えて過去に何度もわたしはこの式神の温め直しを食べた事がある。
 その時は別に指摘をしても動揺していなかった。
 それにこちらも料理の温め直しを否定した事は一度も無い。
 という事はつまり……
 藍はまだ何かを隠している。
 例えばこの式神は己の式神に弁当を作り、そのおかずである泥鰌の唐揚げをうっかり入れ忘れ、その埋め合わせを誰かにして貰ったりとか。
 手紙の話と今の状況を照らし合わせると、何となくそんな真実が煙る。
 まあ、いつもは計算高い藍が朝食に泥鰌の唐揚げを作り過ぎてしまったと慌てている時点でもう怪しいのだけれど。
 わたしの式神はその失敗を余程恥ずかしく思ったのだろう。
 隠蔽中の重要機密に眼を蜜に沈んだ硝子みたいにして、顔を微かに火照らせていた。
 普通の者であれば更に追求を差し込んで虐める所。
 だが、自分は藍をからかう事だけを目的としていたのでそろそろ退く。
「そう、捨てては勿体無いものね。良い心掛けだわ」
 声から追求の圧力が無くなると九尾はこちらの心を知ってか知らずかほっとした顔。
「お褒めに与り、光栄です」
 その式神の表情はいつもの電子計算機じみた冷静さとかけ離れ、妙に愛らしい。
 まるで熟す直前の果実の様に赤く、つい指を触れてしまいそう。
 わたしはそのきつねの式神に声も無く微笑む。
 自分はそれから藍と一言二言声を交わすと、指で虚を裂いてすきまの奥に潜り込んだ。

 わたしは歪な空間の中でただひとり、先程の遣り取りを思い起こしていた。
 自分はよく誰かと触れ合う。気付いたら触れ合っている。
 藍と話をしたのもそうだ。
 あぁ、温かい。
 そうすると想いに温もりが灯る。
 生きている、熱の感覚がする。
 しかし、その熱さもすぐにいつもの様に冷めていく。
 でも、藍はわたしにあんな反応を示した訳ではない。
 纏っている美しい女性の姿――偽りの自分に温かい言葉や表情をしていた。
 本当のわたしではなく。
 そう思うと精神が孤独に包まれ、想いが凍っていく。
 それに藍だけじゃない、皆偽りの自分だけを見ている。
 本当のわたし――八雲紫は、誰にも好かれない化け物だから。
 精神の隙間には融けない氷が燻り、血にならない痛みを零している。
 そして、いつも通り生まれた時からずっと続いてる結論が姿を現す。
 きっと、自分は誰にも姿を見せてはいけないのだろう。
 きっと、自分は誰にも心を開いてはいけないのだろう。
 そう、あの人に赤い縫い目を見せた時みたいに……
 わたしは誰もいないすきまの中で、そっと心を瞑った。


 家中の冷えた空気が喉を通り、肺へと巡っていく。
 あのちっちゃな式神に手紙を託した日から時は廻り、今日は約束の日。
 もう出掛ける支度は全て終えた。
 なあ、どうしても行かなくちゃ駄目なのか?
 しかし、微かに残った偽りの自分――何でも屋としての自分が語り掛けた。
 ああ、行くさ。
 それに対し私は揺るがぬ意思で言う。
 何故だ、なぜそんなにあの化け物に拘る? 
 もしかしたら死ぬよりも酷い目に遭うかもしれないんだぞ。
 私は過去の自分に答える。
 ああ。でも、それでもあのひとに会わないといけないんだ。
 何でも屋としての自分は更に語り掛ける。
 どうしてだ、どうしてそんなにまであの化け物の心が大切にするんだ?
 私はその声が発する疑問に自分の心を注いだ。
 そうだな。これはお前が生まれる前、帽子を作っていた時の話さ。
 昔紫さんは幾つも私に質問してきた。
『この帽子の用途は何?』
『あなたはどうして帽子屋を始めたの?』
『あなたは過去に帽子を作ったのを断った事はあるの?』
 大体こんな質問だった。
 それでさ、こっちが答える度に紫さんはいつも嬉しそうな顔、何か希望を見た様な眼していたんだ。
 でも、昔の私はその意味が分からなかった。
 だけど、今になってやっと理解出来たよ。
 あの眼はずっと捜し求めていたものを見つけた眼だったんだ。
 それも人間には想像もつかない程の年月を経てさ。
 あのひとはずっと自分の心を見てくれる誰かを探してたんだ。
 偽りの姿を纏い、本当の体を隠し続けて。
 ながいながい、何もかもが朽ち果ててしまいそうな時を待ってね。
 ずっと美しい姿の中で、凍えていた。
 そして、私はそんな紫さんにいつの間にか期待させてしまっていたんだ。
 この人なら本当の姿を通して自分の心を見てくれるだろう、と。
 だから、私はあのひとに、紫さんにどうしても会いに行かなくちゃいけないんだ。
 しかし、何でも屋の影はこちらの心に反論する。
 違う、それは間違っている。あの化け物の事情なんて関係ないだろ。 
 それにあいつが勝手に期待したんだ、お前がそれに応える義務なんて無い。
 何でも屋の時と同じ様に逃げ続けていれば、お前は生きていけるんだ。
 確かにこの何でも屋が言っている事は正しい。
 それに私と紫さんの体は余りにも違い過ぎる。もし、自分があのひとに接触したならばそれだけで死んでしまうかもしれないし、そうはならなくても正気を失ってしまうかもしれない。
 ああ、確かに君の言う事は正しいよ。 
 でも、ごめん。
 私は過去の自分の正論を無残に弾き飛ばした。
 確かにこのままあのひとから逃げ続けていれば生きていけるだろうね。
 だけど、それじゃあ駄目なんだ。
 どうしても紫さん――心を失いかけていた自分に温もりをくれたあのひとが忘れられないんだ。
 姿形以前に綺麗だと思ったあのひとの心がさ。
 もしこのままずっと会わなかったら、私はあのひとを一生傷付ける続ける事になる。
 それは何よりも、死ぬよりもつらい事なんだ。
 それこそ、自分が存在している意味が無くなる程に。
 だから、そんな事の上にしか成り立たたない命だったら、私は生きる事を遠慮するよ。
 そこまで語ると、自分の中に潜む何でも屋は大人しくなった。
 ……そうか。
 お前はそれ程までにあのひとを、あのひとの心が。
「ああ、大切なんだ」
 それじゃあ、もう何も言う事は無いな。
 そして、もう一人の己は穏やかな眠りの中に沈み、溶けていく。
 おやすみ。
「おやすみ、昔の自分」
 私は何でも屋が己の中で眠りに就いたのを悟ると、戸を開けて約束の場所へ向かった。

 菅笠を掠める吐息には氷の粒が混じる。
 私が進む地面の土には雪がうっすらと白粉を施していた。
 白綿の様な冷たさが舞う道を歩く。
 こんな光景は幻想郷では毎年の事。
 しかし、これからあそこへ向かう私にとっては見知らぬ土地を彷徨っている様だった。
 灰色空の下には真っ白な雪。
 木々は葉をすっかり落とし、真っ黒な亀裂に見える。
 鳴り響く音といえば耳を通る血管の囁きと蓑が揺れる声だけ。
 歩みを運べば、後ろに深靴の形をした足跡。
 静かだった。
 まるで、自分しかいない世界に足を踏み入れたみたいに。
 そんな事を思いながら進むと、やがて約束の場所が黒い点となって見えてくる。
 何度か爪先を雪に沈み込ませると、小さな黒は次第にその影を大きくしていく。
 それは私の昔の住処。
 自分の家にして、帽子屋を作る為に建てた店。
 かつて私が住み、帽子を作っていたこの空間はそれはそれは素晴らしい場所だった。
 家には滑らかに開く木戸があり、店には生きている光沢のノブを掲げた扉もあった。
 だが、今や木戸は溝が腐り両手を使っても開きそうに無いし、ノブも蒼く沈んだ錆びに喰われている。
 私は店舗の方の玄関へと深靴を進ませ、扉の前で動きを止めた。
 そして、上を見る。
 そこには昔必死に働いて得た、帽子屋と書かれた看板。
 だが、そこにはもはや生命溢れる文字は無く、長年の風雨に削り取られながらも辛うじて読める『帽』と『屋』という染みしか残っていなかった。
 ああ、流れ落ちた塗料の痕が泣いている。これじゃあまるで、
「黒い涙だ」
 私は年月に蝕まれた扉の取っ手を握る。
 昔はつるつるしていたのに、今では砥石みたいだ。
 それからノブを捻り、開ける。赤茶けた蝶番が死にかけの動物を思わせる声で啼く。
 口を開けた玄関からはかつて自分と紫さんが楽しそうに会話をした部屋が見える。
 だが、そこに過去の若々しい内装は無く、墨色の机と椅子しか無かった。
 私はかつての店に入ると風を防ぐ為に扉を閉め、纏っていた菅笠と蓑を隅に置く。
 そして、今にも崩れそうな双子の椅子の一つに座り、何気なく下を向いた。
 すると、不思議な事に今にも崩れてしまいそうな床上に小さな雪山が見える。
 どうして、こんな所に?
 私はその小柄な氷の起源を知りたくて上を見た。
 眼球に映るのは長年に荒らされて本来の役目を忘れかけている屋根。
 ああ、そうか。そういう事か。
 その崩れた隙間からは空の灰色と雪が音も無く降り注ぎ、先程の床に件の雪山を形作っていた。
 私は輝きを無くした白と黒の空間で瞼を降ろす。
 そして、何も無い闇の中でただひたすらに待つ。
 あのひとを。
 だが、待つ事への苦味は無かった。
 紫さんは必ずここに来ると確信していたから。
 自分がそうやって音も光も無い場所で耐えていると、細い脚が雪を叩く音がする。
 ……来た。
 扉を損なわない様に微かに叩く音。
 私は瞼を開き、玄関と下界の境界を開く。
「久しぶりね。もう何年経ったのかしら」
 そこには日傘を差した紫さん。
 その姿は昔自分が最後にこのひとを玄関で迎え入れた時そのままだった。
 陽を浴びた枯れ草の様な金髪、上品な日傘、白手袋に包まれた細い手、紫色のドレス。
 そう、真っ黒な瞳まであの時と同じだった。
 しかし、ただ一つだけ例外が見える。
 それは淡いフリルと儚いリボンの冠――昔私が最後に紫さんに贈った帽子だった。

「どうぞ、お入りください」
 私がそう言うと紫さんは日傘を閉じて音も無く中に進み、墨色の机と椅子の前で立ち止まる。
「ありがとう。それで……」
 そして、右の踵を軸にしてこちらに振り返り、薄い赤の唇を動かす。
 まるで、よく出来た美麗の自動人形の様に。
「報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ」
 この言葉は昔自分が帽子を作っていた頃、何度も紫さんから聞いた言葉。
 これはかつて自分にとって最高の褒め言葉だった。
 だが、それは今の私にとってとても物悲しく、痛々しい。
 ああ、これは犯した罪に対する埋め合わせだ。
 紫さんは自分に対して贖罪をしているんだ。
 このひとはただ本当の姿を見てほしかっただけなのに。 
 それなのに、このひとはこんなにも罪悪で苦しんでいる。
 そして、その原因を作ったのは自分だ。
 私はその問いには答えず、開け放していた扉を閉めた。
 明かり取りも潰れたここを照らすのは灰色の空だけで、この部屋の色は白と黒のみ。
 しかし、その中にただ一つだけ極彩色を放つ存在がいる。
 それは華奢で朧な肌をした女性――紫さんが纏っている偽りの姿だった。
 私はそれを見て、このひとに頼む。
「紫さん、ちょっとお願いが」
 その声に金糸髪を垂らした姿は応える。
「ええ、良いわよ。それでお願いは、何?」
 顔は優しくも温かく微笑んでいたが、心は冷たく血を流していた。
 私はその様子を見て続きの言葉を打ち出す。
「そこに立っていて貰いたいのですが」
 そんなこちらの頼みを聞くと、作り物の女性は頷く。
「そう。じゃあここに立っていれば良いのね」
「はい」
 自分は紫さんとそう言葉を交わすと、暫くそこから動かなかった。
 確かに目の前にこのひとはいる。
 過去に紫さんから逃げてしまった事を謝るなら、今が良い機会。
 だが、その距離は限りなく近く限りなく遠い。
 謝っても意味があるのだろうか。
 いいや、無い。
 では、この距離を縮めるにはどうしたら良いのだろう?
 私は自己に問い掛ける。
 言葉を使ってはどうだ。
 いや、駄目だ。言葉で話し掛けてもこれ以上紫さんとの距離を縮められそうに無い。
 それに、口先の声だけでは簡単にかわされてしまうだろう。
 それでは、何も解決出来ない。
 結局、自分の常識的な理性は答えを弾き出せずに行き詰った。
 ろ……をしろ。
 すると、思考よりも深い部分――心がある行動を囁く。
 それは普通に考えれば狂った選択肢。
 してはいけない、行動。
 でも、今の私にはそれが何よりも正しいものに感じられた。
 深靴を履いた足が紫さんのすぐ近くへと歩み寄り、視線は洋式の着物へと流れる。
 そして、自分はこのひとの帽子を手に取って古びた机に置くと、言う。
「紫さん、ごめんなさい」
 そんな言葉、免罪符にもならないだろう。
 私は紫さんのドレスに手を触れ、いかれた行動を実践した。
 この世の物とは思えぬ手触りをした衣に指を滑らせ、捕らえる。
 そして、そのままそれを細い身体に沿って動かす。
 そうすると、肌と布が滑り合わさる声。
 日傘がぱたりと音を立てて床に倒れる。
 ああ、自分は何て事をしているのだろう。
 これは、いけない事なのに。
 思考が警鐘を鳴らす。
 しかし、私はこのひとの服を脱がすのを止めなかった。
 そうするのが今己にとって最も正しい事と感じられたから。
 それに当の紫さんも全く抵抗しない。
 右袖の通過に支障があれば右腕を浮かし、左の袖が滞るならば左肩を揺らす。
 ただされるが儘に従っている。
 ふと、私はこのひとの瞳を覗いた。
 それは何処までも深く暗い瞳で、何をされても仕方が無いという眼。
 自分はその視線を見て泣きたくなった。
 きっと紫さんは私が何をしても文句は言わないだろう。
 そう、何をしても。
 ただ、自分が、自分だけが悪いと思っているんだ。
 悪いのは、私なのに。
 このひとの心を知っていながら、あの姿を受け入れられなかった私のせいなのに。
 切ない衣擦れがドレスを取り払う。
 すると、視界に映る姿は粉雪の生地を纏った女性のそれ。
 幻の如き皮膚と崩れてしまいそうな骨格が心に波を立てる。
 だが、自分はその声を無視した。
 今の私にはそれが美しい女性と言うよりも、悲しく施錠された籠に見えたから。
 指はさらにこの姿の生地を剥がしにかかり、躍る。
 私は慎重に刺繍を解こうとしたが、手は不器用な動きしか出来なかった。
 まるで、悪意を以て美しい肌を穢している様に。
 そうでは無いと否定したいが、実際今の自分が良い事をしているのか、悪い事をしているのか見当もつかない。
 もはや善悪の意識は蕩け、何処かに流れ落ちていた。
 ただ分かるのは私が紫さんを脱がしているという事だけ。
 自分はこのひとの奥の奥を求めている。
 ただ、それだけだった。
 やがて私は紫さんの衣を全て解き、そのままの姿を露にさせた。
 年老いた床には今まで脱がした紫色の花弁と純白の雪。
 自分の眼はその剥ぎ取られた惨状を食べると、再び女の形に視線を向ける。
 そこにはもう服に飾り付けられた人間の姿は無く、代わりに陽の如き金糸髪と白い体を持つ生き物だけが存在していた。
 それは美しい女性の殻。誰もが視線を止めてしまう造花。
 鉱石の様に細かい肌は薄い命が通っていて、甘い熱をもたらす。
 梢の如き骨の繋がりは縛り付け、背筋に魅了を流し込む。
 だが、私はその形に囚われなかった。
 今はこの姿に見とれているよりも、もっとこのひとの心に近づきたかったから。
 それから、眼は華奢な繭に視線を滑らせる。
 輝く水晶の髪から淡い赤が浮かぶ爪先まで。
 しかし、自分の探しているそれは見つからなかった。
 私は紫さんの正面から背中へと回り、流れ硝子の金髪を見つめる。
 そして、その真ん中に指を滑り込ませ、開いた。
 金糸の流れが開くと、そこには肋骨の膨らみが描く背骨の直線が一条。
 皮膚は仄かな香りの陰影で背中を飾り、視界に夢を煌めかせる。
 自分はその骨格が魅せる路に指を触れて、撫でる。
 しかし、私の探しているもの――あの時見た赤い縫い目は一向に見つからなかった。
 指は行き止まりに悩んだが、己の口はすぐにそれを退かしにかかる。
「紫さん」
 声を受けた女性の姿は肩越しにこちらを見て言葉を出す。
「どうしたの?」
 私は赤い唇の放つ疑問符を確認すると、命令する。
「見せてください」
 しかし、紫さんはそれの意味が分からなくて、問いの音を鳴らした。
「えっ?」
 自分はそんなこのひとの様子を気にも留めずに命令を彼女の形に浴びせる。
「糸を、貴方の背中の赤い糸を見せてください」 
 紫さんはこちらの言葉でやっとそれを理解したが、躊躇いがちに薄い瞼を瞬かせた。
「でも……」
 私はその様子を見てもふてぶてしく言葉を浴びせる。
「早く、紫さんの背中の赤い縫い目を見せてください」
 美しい女性の殻は暫く戸惑った顔をすると、ぽつりと唇を弾けさせた。
「……ええ、良いわよ。一寸待っていて」
 紫さんは命を得た雪の指で背中を触り、昇らせる。
 すると、あの時と同じ様に二本の深紅で紡がれた縫い目が現われた。
 腰の上から首の付け根まで伸び、その頂上は赤い蝶の結び。
 それは全て、あの日の縫い目と同じだった。
 自分がこのひとから逃げた、あの時と。
 指は意識せずに深紅の蝶の下翅に触れる。
 そして、私は非情にもそれを引く。
 ぷつりっ。
 そうすると蝶は憐れにも弾け、双子の赤糸に化ける。
 その二本は白い背中の縫い目へと続いていた。
 だが、指はそのままでは満足出来ず、その赤い交差を抓む。
 それから私はその世にも魅力的な肌の上に躍る縫合を解き始めた。
 あの時紫さんがそうしたみたいに。
 ずるる。
 だが、その音はあの時の様に美しい響きではなく、皮膚を這い回る繊維の痛々しい音だけだった。
 ぶつっ。
 鼻腔に火と果実を思わせる香りが飛び込む。
 ずるるっ。
 糸は繰れば繰る程に赤を吸っていく。
 ぶ。
 生きた白い絹に燃え上がる点線の啓示を残して。
 ずるるる。
 ああ、残りの縫い目もあと僅か。 
 ぶっ。
 元々赤だった糸は血を獲て更に身を輝かせる。
 ずるっ。
 自分が糸を引く度に紫さんは痛みを堪える顔をする。
 ぶつ。
 私が深紅の繊維を肌から引き離す度に紫さんは息を縮ませる。
 それは小さな小さな悲鳴だった。
 しかし、それは体の痛みから来るものではなく、心から生まれたものだった。
 微かに聞こえる息遣いは怯えや不安。
 このひとは、私と自分の距離が縮まる事を恐れている。
 そう、紫さんは私と直接会う事を怖がっていた。
 ずるるるる。
 もう、赤い糸が紫さんの肌を繰る事は無くなった。
 手には生命を吸った二本の紐と赤血球の擦れが移った指しかない。
 目の前の雪めいた背中には赤い点線が二条、滲みながら浮かんでいる。
 私は暫く紫さんの白い背中と紅の抜糸痕が紡ぐ幻を見つめていた。
 そうすると、目的のものが現われる。
 赤い双子の線引きの間に、血の直線が浮かぶ。
 それは、炎ですらもちっぽけに見える鮮やかさ。
 自分の指はその入り口に触れる。
 ああ、溢れている。
 なんて、あたたかいのだろう。
 そして、私はその深紅の戸口を両手で開く。
 温もりの良い肌が少しずつ退き、命の赤に縁取られた門を露にする。
 そこから見える風景は何もかもが歪み、ありとあらゆる法則を融かしていた。
 まるでこれは存在してはいけないとでも言いたげに。
 私はその淵に手を掛ける。
 この門を通れば、もっと紫さんに近付ける。
 自分がそう思っていると、ふとある位置から視線を感じた。
 そこに目を向けると肩越しにこちらを見る美しい女性の目――黒と見紛うばかりに輝きを失った竜胆色の瞳があった。
 それは、初めて縫い目を見せた時と同じ深い悲しみと苦悩の色。
 誰かに救ってほしいけれど、どうしたら良いのか分からないという眼。
 自分はその視線を知ると瞼を閉じてこのひとの名を呼ぶ。
「……紫さん」
 何故そう言ったのか分からない。
 だが、とにかく私は紫さんにもっと近付く為、目前の赤き門に己の身を沈ま込ませた。


 瞼を開くと不思議にもそこはさっきと同じ店の中だった。
 しかし、自分の周りにあのひとの姿は見当たらない。
 それから店だけでなく生活に使っていた部屋を見たが、やはり誰もいない。
 あるのは朽ちかけの作業卓と錆色に沈んだ鍋だけ。
「一体何処へ?」
 私は紫さんを捜す為に再び菅笠と蓑を身に着け、外へ出た。
 店側の扉から踏み出た深靴が挨拶するのは真っ白な地面。
 まだ空は灰色のままでぽつりぽつりと妖しい雪が降っている。
 店周りを見回しても誰もいなかった。加えて誰かがこの建物から出て行ったという足跡も無い。
 代わりに昔野菜売りをしていた時の畑が目に入っただけで、そこには気ままに生長した草が雪に腰を下ろしていた。
「ここには、いないか」
 自分は今まで見ていた地面から視線を離すと、別の場所へと捜しびとの影を求める。

 しかし、季節の面というものは随分と謎に包まれている。
 ついこの間まで緑を抱いていた地面が、今はこんなにも白を受け止めているなんて。
 私は紫さんを捜しながらそんな事を考えていた。
 人の営みが聞える里、妖怪の潜む山、妖精の遊び池、美味しい魚の釣れる川……
 もうだいぶ歩き回ったが、それでも見つからない。
 時折この寒さの中で歩いている人間を見て口を打ち鳴らすが、皆『知らない』という紋切り型の台詞のみ。
 発見されるのは疲労ばかりで、体は温い疲労に囚われ視線はどんどんと曖昧さを増していく。顔は夏場の様に暑く湿気っているのに、指の冷却は冬のそれ。
 時折深靴に入り込む氷の子はじんわりと融け、足から推進力を奪う。
 あのひとはいったい何処にいるのだろう?
 そう心で喋る自分の疲労が忍耐を上回ると、ふとある物が見える。
 それは現在私が使っている家だった。
「丁度いい。ちょっと、休むか」

 凍えに縛された手で戸を開け、中に入る。
 そして、自分の菅笠と蓑を壁に引っ掛けて深靴を脱ぎ、畳に腰を下ろして疲れが退くのを待つ。
 ちなみに火は熾さなかった。いや、疲れ過ぎて熾せなかったと言うべきか。
 私は使い古した燈芯草の上で疲れのご帰宅を願ったが、そう上手くは行かなかった。
 この厄介事は座った程度では無くなりそうもないな。
 体が睡眠を欲してる。
 自分の思考がそうやってのたまうと、体は布団へと向かう。
 指が寝床の柔らかさに触れると、今までに無い幸せの予感がした。
 ああ、なんて気持ちの良い手触りだろう。それに、心持ち温かい。
 この中に入ればきっと今己を襲っている疲労も簡単に取り払う事が出来るだろう。
 私はそこまで考えて掛け布団を捲り、敷き布団に足を乗せる。
 この睡眠は自分の全てを包み込んでくれるだろう。
 そう、何もかも。
 しかし、私はその瞬間何故か恐怖にも似た違和感を感じた。
「違う」
 慌てて手を掛け布団から離し、足を敷き布団より退却させる。
「これは、この布団は」
 自分のじゃない?
 私の寝床は本来もっと薄っぺらく、黴臭さに溢れていた。
 いくら体が疲れ判断が鈍っているとしても、この心地良さは怪しい。
 まるで、誰かが自分の布団に似た偽のそれをわざとここに置いているかの様だった。
 自分は偽りの香りを感じると、改めて周りを見回す。
 違う。やっぱり、違う。
 ここは私の家にそっくりだが、本物ではない。
 何と言うのか、出来過ぎている。
 本物特有の汚れが、けがれが無い。
 これは、よく出来た、誰かが作ったものだ。
 昔帽子を作っていた自分の心がそう訴えている。
 私がもう一度布団に視線を向けると、そこにはどんな安堵よりも魅力的な睡眠がとぐろを巻いていた。  
 きっと、あそこに入って眠ってしまえば、全ての不安は自分から取り払われるだろう。
 思考はそう言ったが、私は安眠を振り払って再び深靴を履いた。
 そうしなければもう二度と紫さんに会えない様な気がしたから。
 私はまた菅笠と蓑を身に着け、偽の我が家の戸を開けた。
 そして、目に映る無音の白い原っぱを眺めて呟く。
「今日はまだまだ、疲れないといけないみたいだ」

 人っ子一人見当たらない。
 自分は白い景色の中に一人ぼっち。
 ただひたすらにあのひとを捜していた。
 視界は雪と影絵の様な木と灰色空だけだが飽く事は無い。その全てが美しく、有り触れた斬新さに満ち溢れていた。
 まるで、魅了だけを売り物にした見世物みたいに。
 歩いているとその内目から透明な雫が落ちる。
 別に痛い訳でも悲しい訳でも無い。だが、私は確実に涙を流していた。
 その理由は視界に投射された降雪と空と木々。
 どれも皆汚れを全く感じさせず、清らかな姿だった。
 肌に刺さる冷たさですらも心を惹く。
 その美しき世界は自分に穢れ無さを突き立て、精神を刺激する。
 それはまるで無垢な刃物の様だった。
 美しい、素敵な、汚れの無い……
 だから、私はそれ故に涙腺から透明な血を流した。
 恐らく紫さんが見せているであろう、この美しい偽りの幻想郷によって。
 汚いものが何一つ無い場所。
 その清らかな風景は見れば見る程輝きを増していき、まるで苦痛無き拷問だった。
 まさか美しさが、魅了がこんなにも辛いものとは。
 自分はその責め苦に思わず俯き、左手の甲で眼から流れる空気色の出血を拭う。
 そうすると、あるものが見えた。
 それは命と色を無くし、雪に埋もれながらも辛うじてその場に佇む季節外れの片栗。
 私はふとその場にしゃがみ込み、今にも朽ちてしまいそうな枯れ草を見つめた。
『ねぇ、お願い。本当のわたしを見て』
 今なら何故あのひとが赤き縫い目から本当の姿を見せたのか理解出来る。
 紫さんは欲していたんだ。
 偽りの対話ではなく本当の温もりを。
 私に自分の心を知って欲しかったんだ。
 美しい造り物の女性の姿からではなく、真実の自分の姿から。
 それも、ほんのちょっとだけ。
 自分は片栗に積もっていた雪を人差し指で弾く。
 さりり。
 白さは砂糖の様に音を立てて崩れ落ちる。
 だけど、私はそれを受け止められなかったし、あのひともそうなる事を分かっていた。
 その証拠にあの時紫さんは震えていた。
 こちらに嫌われる事に怯えて。
 でも、それにも係わらずあのひとはこちらに本当の姿を見せた。
 人間や妖怪や幽霊、並みの意識を持つ存在からは考えられない程の孤独と悲しみを抱え、それに耐え兼ねていたから。
 私しか、頼れなかったから。
 だから、あの時紫さんはこちらに本当の体を見せ、温もりを求めた。
 そして、今もあのひとの光を失った竜胆色の瞳は…… 
 自分は涙がすっかり乾いた事に気付いて立ち上がると、恐らく紫さんがいるであろう方角を見つめた。
 さて、あとどれ位歩くかな。
 私は未来に訪れる疲労の予感を無視して再び足を進めた。

 もう、この妙な内出を何回しただろうか。
 少なくとも両指の本数以上は廻り、それ以降は気が折れそうなので数えていない。
 終わりの端っこに着いたと思えば、また始まりの端っこが見える。
 この山道は前に何度も通った。その証拠にさっき自分が押した深靴の捺印が見える。
 何度も踏み込まれた雪は不機嫌に氷の様相を取り繕っていた。
 脚が打ち鳴らした鐘の様に悲鳴を上げているが、それでも進む。
 そうでもしなければ私は自分の大切なもの、己の全てを無くしてしまいそうな気がしたから。
 胃がくうくうと泣いている。今朝は何も食べていない。
 やっぱり、何も食べないのはきついな。
 これは故意に行った断食。
 自分は前紫さんの本当の姿を見た時、それだけで口から……させてしまった。
 よって、今回の私はそれを防ぐ為に朝食を抜いた。
 もしあのひとと話をしている時にそんな事をしてしまったら、格好悪いから。
 そこまで考えると何だか可笑しくなり、降雪の道へ微かに声を振り撒いた。
「変なの」
 こんな事態に己の格好を気にする人間なんていないだろうに。
 だが、その馬鹿は自分のすぐ近くにいる。
 おまけに腹の虫が泣いた途端、後悔を芽吹かせ始めた。
 こんなにも笑える喜劇が一体何処にあるだろう。
 私はその可笑しさを鎮痛剤にして軋む体を更に雪の奥へ奥へと進ませた。

 もはや意識は斑になり、歩みはただ前の雪に足を置いて後ろへ流すのみとなっている。
 もうどれ位歩いたのか、どれ程の時間が経ったのかも分からない。
 数分、数時間、数日、数年か。
 今自分が歩いているこの幻想郷は妙な事に数が歪んでいた。
 一から十まで数えようとすると急に二十五とか負の八が口から零れ出るし、暇つぶしに距離を測ろうにも足跡と降り頻る雪粒の大きさが全く同じに見える。
 私の疲れも相当なものだろうが、それを差し引いてもここは曖昧な所だ。
 この幻想郷には、不思議な事に何かを測る為の基準が何処にも存在しなかった。
 その代わりに見えるもの、触れるもの、聞えるもの、香るもの……五感に入るもの全てが美しかった。
 まるで、何かを隠しているみたいに。
 現在、自分の視界には何度通ったか分からない谷が見える。
 両側は白絹を思わせる斜面で、時折そこに生きる植物の常緑が窺えた。
 真ん中には空気すらも寒がる季節だと言うのにささららと硝子の流れを紡いでいる川。
 私はその澄んだ水流の横を進んでいる。
 体の調子はどうかと尋ねられれば、間違いなく最低。
 頭には高温の霧がぐるぐる廻り、手は動かす度にぎりひぎりひと啼き、背は疲れて当たりの釣竿みたいになり、脚は平衡を崩せばそのまま転んでしまいそうになっている。
 おまけに吐く息は唐辛子みたいに痛い。
 だが、自分はそれでも歩みを止めず、瞼の裏に紫さんの面影を携えて前に進んだ。
 どうしてそんなにも必死なのかと訊かれれば、それはこの先に大切なものがあるから。
 私がかつて傷付け、逃げてしまった心がそこにいるから。
 馬鹿馬鹿しいと言われればそこまでだ。
 だけど、自分はこのままあのひとから逃げ続けるよりも、このまま歩き続けて死ぬ、いや死んでも歩き続けた方が随分とましに思えた。

 私が歩き続けてからまた暫く。
 時間の感覚も分からなくなってからずっとずっと歩いた後にそれは起こった。
 視界には幾つもの澄んだ姿、音、香り。
 聞えるもの、触れるもの、香るもの、味わうもの、見えるもの全てが融け込み、何もかもが曖昧に成っていく。
 もう、足の感触は雪ではなく水で編んだ蹴鞠の内側。
 今歩いている場所は上下なのか横なのかも分からない。
 香りと振動は渦状に奏でられて遠くて近い。
 色彩は網膜に妬き付くと、脳に届く前に波長を変える。
 呼吸に使う気体すら、まともに動いてくれない。
 そう、目の前にある幻想郷は何もかもが曖昧に成り始めていた。
 自分はそれにある種の予感を感じ、足を進める。
 進んでいるのか退いているのかさえ、分からなかったが。
 すると、今まで美しかった風景がどんどんその彩度を落とし、捩れ、醜くなっていく。
 それこそ冥府ですらこんな場所は存在しないとばかりに。
 私は歩いた。
 軋む体を無理矢理動かして。
 私は進んだ。
 割れた美しさの破片を無視して。
 その場に居るだけでも辛い空間を幾分か進むと、自分はついに見つけた。
 この歪んで捩れた場所の、全ての中心。
 それは大きさを破綻させ、質量が泣き出してしまいそうな、全ての概念の外に在る姿。
 見るだけで理由も無しにありとあらゆる域から嫌悪と危険が湧き上がる形。
 昔赤い縫い目から垣間見た一部とは比べ物にならない程、禍々しい体。
 しかし、私はこの存在にあるものを感じた。
 それは小さくて消えてしまいそうな、心。
 今も寂しく凍えている魂が。
 間違いない。この感じ、このひとは。 
 自分は菅笠を脱いで右手に持ち、心してその存在に一足歩み寄って口を開いた。
「あの、紫さん。……ですよね?」
 声に目前のそれは全く動かなかったが、代わりに声が聞えて来る。
 だが、それは振動の形ではなく、意味の形でこちらに滲み込んで来た。
『ええ、そうよ』
 それはあの時赤い縫い目から見えた紫さんの声。
『久しぶりね。この姿であなたに会うのは何年ぶりかしら』
 昔傷付けてしまった、このひとの声そのままだった。

 私は全てが歪曲し、融けた異常の場所に立っていた。
 その奥には更に捩れた、とても存在するとは思えない存在が居る。
 だが、感覚はここに紫さんが、ここ自体が紫さんであると告げていた。
 今でも救いを求めている心がそこにいると、訴えていた。
「紫さん、あの時は」
 燃え立つ血の裂け目からそれを見た人間はその真意も知らずに逃げ出した。
 自分はまずその罪について謝ろうとしたが、それは無残にも被害者に打ち切られる。
『いいのよ、わたしが悪かったの。ごめんなさい、急にあんなのを見せてしまって』
 耳を介せず響く声は感情が全く乗っておらず、温もりを知らぬ氷の様。 
『それにわたしの体……どう? 酷いでしょう』
 このひとは悲しげに冗談めかした声でそう言うと、体をほんの少しだけ動かす。
 私はそれだけで息が出来なくなり、持っていた菅笠を落としてしまった。
 紫さんはそんなこちらの様子を見て音ならぬ言葉を紡ぐ。
『ほら、そうでしょう。無理だったの。あなたとわたしは、違い過ぎるわ』
 そして、自分に向けて気遣いを送る。
『さあ、わたしは怒っていないから。早く帰りなさい』
 それは優しいけれどとても悲しい言葉。
『後ろを向いて少し歩けばすぐにあなたの家に着くから』
 まるで死にかけの命が零す戯言の様な声。
 私は暫く立ち尽くして留まる言葉を捜したが、何も見つからなかった。
 それにもしそんな文句が浮かんできたとしても、こちらは今にも倒れそうなのに対し、このひとは全く疲れていない。
 まともに声を交わせば自分が言い負かされて否応にも退くしかなくなる。
 そうでなくても紫さんはこちらより言葉の切れが良い。
 普通に話し合っただけなら、上辺だけの会話で簡単に帰されてしまうだろう。
 また暫し考えたが、やはり現状に対する策は何も浮かばない。
 だから、私は思ったままを考えないで正直に目前の相手に注ぐ事にした。
「紫さん」
 言葉にこのひとは穏やかに、寂しげに反応する。
『なに?』
 それに対し自分は想いを振り撒いた。
「私と貴方が一番最初に帽子の受け渡しをした日の事、覚えていますか?」
 今まで自分が紫さんについて考えていた事、感じていた事全てを。
『ええ、覚えているわ。今でもはっきりと』
 私はその同意を種として言葉の続きを紡ぐ。
「その日から貴方の帽子を作り続けた日々は、私の人生で最も幸せな時でした。だって、あんなにも紫さんは私の帽子を愛してくれたんですから。でも、その幸せの中で一番嬉しかったのは紫さん、貴方という美しい女性が店に来てくれた、という事で……」
 多少の呼吸を繋ぎとして声を紡ぐ。
「ええと、簡単に言えば私は貴方に惚れていた、好きだったんです」
 声を汲んだこのひとは控え目に返事を挟み込む。
『ありがとう。でも、本当のわたしは……』
 今度は自分がその言葉に声を差し込んだ。
「ええ、そうです。本当の貴方は美しい女性ではなく、それとはかけ離れた姿だった」
 私は奇麗事は含まず、徹底的に貶した。
 もっとも、紫さんの姿は言葉で表せる程ちっぽけな姿ではなかったけれど。
「見た目は醜いですし、香りも不快だし、耳が突然痛くなったり、肌には鳥肌が立ちます。それに空気も貴方と一緒に居ると何だか不味いです」
 心がずきずきと痛くなる。
 だが、ここで嘘を吐いては意味が無い。
「はっきり言って私は」
 だから、自分は正直に紫さんの体について口にした。 
「貴方の姿が嫌いです」
 大事なひとに嫌いだと言う。
 それは心に刃を刺し込んだ気分。
「昔貴方がこちらにこの姿を見せた時、逃げ出したのも当然の事でしょう」
 私はこのひとの体についてはっきりと述べた後、言い様の無い痛みに襲われた。
 精神の切り傷から、痛みの組織液が零れている。 
 どうやら紫さんもこちらと同じ様で、涙の雨粒が声になった言葉。
『そう。……あなた、随分と言うのね』
 私は己で付けた傷心を堪え、想いの続きを述べる。
「でも、私は貴方から逃げ出して、過去を忘れようと生きている内に気付いたんです」
 目の前の姿は何も言わなかった。
「なにか、何かが足りないって。何不自由も無いのに生きるのが辛くって、自分の人生には何の価値も無い。突然、そう思い始めて」
 ああ、自分何を言っているのだろう。こんな、恥ずかしい事を。
「それから心に浮かぶのは紫さん、貴方の事だけで……そして、いつの間にか紫さんから初めての報酬を貰った時の事を思い出していたんです」
 現在と過去が絡み合い、口から言葉を紡ぐ。
「あの時、報酬を出していた紫さんは美しかった。だけど、私はその体を怒りや憎しみを込め、蹴り続けていた」
 紫さんは何も答えずにただこちらを見ている。
「あの時、私は酷い衝動に駆られて何も見えなかった。それこそ、目の前にいる貴方の纏った美しい姿が全く見えなくなる程に」
 死にそうな時にこんな話をする。
 私は何て頭が悪いのだろう。
「でも、そんな中一つだけはっきりと見えるものがあったんです」
 しかし、唇は火打石の様に想いを奏でている。
「それは真剣にこちらに報酬を差し出す紫さん、純粋に私の帽子を愛しているという貴方の心だったんです」
 これは自分の正直な心。
「それから私はその心に救われ、帽子屋として再び生きる喜び、幸せを見つけた」
 生きる意味、そのものだった。
「それで、分かったんです。私が好きだったのは貴方が纏う美しい姿ではなく……」
 私の口は本当に言いたい、だけど少し気恥ずかしい一言を紡ぐ。
「貴方の綺麗な心だったんです」
 自分は今まで己の中に蓄積していた想いを全て言葉に変えた。
「そして、それは今も変わりません」
 しかし、目の前の心は依然として凍えたまま。
『そう……あなたって変わった事を言うのね。でも、それは嘘』
 紫さんは非情な現実を指摘する。
『あなた、顔が蒼くなっているし、手も震えてるわ』
 それは助けて欲しいけれど、相手を傷付ける事を恐れる嘆きの言葉だった。
『それは怖がっている、無理をしている証拠よ』
 確かにこのひとの言う通りだ。
 気管支は鉛を流し込まれた様に固まっているし、手も臆病な嘶きを発していた。
 私は紫さんの姿を恐れている。
『それに、わたしがあなたの帽子を愛したというのも勘違いよ』
 更にこのひとはさっき姿を貶した時の趣向返しとばかりに冷たい言葉をぶつけた。
『わたしはただ気まぐれであなたに帽子を頼んで、何となく報酬を出しただけ』
 その意味はこちらの心を抉り、切り口に虚無の痛みを残す。
『あなたの作った帽子なんて、全然愛してないわ』
 だが、自分にはそれが嘘だとはっきりと分かっていた。
 何故ならそう言った紫さんの魂は紅い涙を散らし、蒼い血に沈んでいたから。
 それに私にはこのひとが今も自分の作った帽子を愛しているという確信があった。
 それは紫さんが今日被っていた帽子。
 これは何年も前に私が作ったものだ。
 本当に愛していないならば、このひとの帽子は既に襤褸になっているだろう。
 しかし、その最高傑作は今も昔と同じ色と輝きを保っていた。
 まるで、初めて手に取った日から今日まで毎日手入れをされていたみたいに。
 紫さんは、まだ自分の帽子を愛している。
 このひとはこちらを傷付けない為にわざとこんな台詞をぶつけているんだ。
『さあ、わたしは何も気にしていないから……』
 想いの灯火を凍らせ、死んだ様に生きている響き。
 私はそこまで声を聞いて理解した。
 そうか、このひとは自分が求めているものに気付けないんだ。
 もし気付いてしまえば辛い思いをするだけだから。
 無意識の内に欲しいものを、大切にしたいものを遠ざけている。
 本当の心を瞑り、本当に求めているものを諦めて。
『早く後ろを向いて帰りなさい』
 それは人では数え切れない幾年もの悲しみが降り積もった言葉。
 人間なんかじゃ、どうにも出来ないだろう心の渇き。
「ええ、確かに。紫さんの言う通りです」
『そう、じゃあ……』
 紫さんは己の声に納得する。
 だが、自分はその囀りを無視してちっぽけな悪あがき。
「自分は嘘吐きで、今まで勘違いをしていました」
 それは相手を考えぬ、卑しい行為。
 しかし、上品と卑しさの境界は一体何処にあるのだろう。
「それに、私は前々からあなたに不満を持っていました」
 私は今にも後ろへ逃げ出しそうな足を前に出す。
 体はこれ以上進むのは危険だと報せているが無視する。
「初めて帽子の受け渡しをした時は、優しくてきれいなひとだと思ったのに」
 一歩一寸進む毎に肉体が一個一粒枯れ、細胞の核が水音を立て潰れていく。
 右足を前に進めれば、音が鼓膜を抉る。
「次に作った時には、こちらに生首を見せて悪戯をするし」
 耳の奥にある水がちゃぷりと赤い声を立てた。
 左足を前に進めれば、鼻に臓器の香りをした華が咲く。
「また次のシルクハットの時には、妙な言葉で弄ってきて」
 それは生と死が混ざり合う匂い。
 右肩を前に傾ければ、舌はいつも体内に流れている赤い信号しか捉えない。
「かと思えば市女笠の時は危ない位に無防備で」
 左肩を前に傾ければ、眼は救いの無い悪夢しか写さない。
「とにかく、私は貴方の事が全く理解出来なくて、いつも振り回されっぱなしでしたよ」
 しかし、自分はその光景に対し笑みを向けてそう言った。
 私のまともな感覚はもう、触感だけ。
 綺麗な声が、澄んだ言葉が、聞える。
 これは紫さんのこえ。
 それは悪あがきを始めた時から、ずっと奏でられていた。
 あなたが傷付いてしまうから来ないで、という警告。
 だが、自分はそのか細い音を手折り、命を死で炙りながら進み続けた。
 傷付いたこのひと心を捜して。
 ただひたすらに凍えた魂の小さな囁きを頼りに。
 そして、ついに私は紫さんの体に触れた。
 始めは左の中指、次は右の掌。
 もう、このひとの声も己の声も聞えなくなっていた。
 神経に苦痛の茨が蠢き、肉体の繊維がぷちりぷちりと裂けていく。
 つい産まれた声は格好が付かず、所々千切れている。
 だが、自分は尚も痛みの中、己が魂に浮かぶ想いで語り掛けた。
『ゆかりさん』
 それは命を投げ出した声。
『はっきり言って、私は貴方の事が嫌いです』
 どんな嘘よりも本当で、どんな真実よりも偽物の言葉。 
『でも、それでも……わたしは貴方と一緒に居たい』
 私は紫さんに腕を滑らせる。
『大嫌いだけど、愛したくなってしまったんです』
 決して、離れない様にからだを絡めて。  
『だって、紫さんがどんな姿で自分と帽子をどう思おうと、わたしが救われた事に変わりは無いんですから』
 そして、自分はこのひとを抱き締めた。
 己の身はそれをするのに余りにも小さく、非力だったけれど。
『ですから、どうしても紫さんから頂きたい、報酬があるんです』
 臓器を赤く穿つ千の責め苦が走る中、己が鼓動は欲する。
 それは紫さんが本当にこちらへ求めている事。
 それはかつてこのひとが諦めた、温もり。
『それは』
 私はこのひとにはっきりと聞える様に残りの命を賭した。
『その報酬は……』
 言葉が、揺るがぬ様に。
 たとえ身が滅び心が壊れたとしてもこのひとを愛している心だけは残る様に。
『わたしはあなたの、本当の紫さんの
 しかし、そこまで声を発すると、もう口が、喉が震えない。
 目の前の、私の想いびとが、薄れていく。
 頭では喋っているというのに。
 ああ、肝心な時に自分というやつは。
 思考がそう悪態を散らすが、もう痛みはない。
 多分、もうそろそろ近いのだろう。
 もうじき私は死を添えた血肉となる。
 気付けばもう周りには何も無かった。
 全てが感じられず、暗闇すらも認識出来ない。
 在るのは自分が紫さんを抱きしめたという事実だけ。
 しかし、何て残念だろう。
 折角命まで投げ出したのに、中途半端な言葉で終わってしまうなんて。
 心は苦しみも痛みすらも消えた、何もかもが無くなった場所で柔らかく己の無様を殴る。
 だが、想いは清らかだった。
 もはや、認識する境界全てが曖昧になってきている。
 何もかもが、溶け合っていく。
 全てが、影を亡くしていくんだ。
 私は全てが薄まり幻に成っていく透明の中、誰にでもなく祈った。
 ああ、お願いだ。
 もう二度とあの髪を見れなくてもいいし、華奢な体と声を拝めなくたって構わない。
 それにどんな痛い目に遭ってもいいし、気が狂ったっていい。
 だけど、これだけはお願いだ。
 愛させてほしい。
 自分にこのひとを、紫さんをただただ愛させてほしい。
 ひたすら何も考えずに、ただこのひとの心を想わせてほしい。
 そして、その魂に纏う凍えと渇きを……
 私はそこまですると今まで保っていた意識の境界を崩し、無へと堕ちて行った。



































 銀墨の空にはタングステンを思わせる冷たい粒。
 毎年この時期自分はいつも冬眠――纏っている体を停止させ、あらゆる者と物との関係を断って結界の更新と微調整をしている。
 別に、数千年数万年に一度の整備で良いのだけれど。
 しかし、その日のわたしはそれをせずに雪が降り頻る道を歩いていた。
 どうして、あの場所に向かっているの。
 どうして、あなたはあの人に会おうとしているの。
 問いの答えは帰ってこない。
 自分は滑稽な事にこの天候に日傘を差し、紫色のドレスを着ていた。
 あの時――わたしがあの人を傷付けた日と同じ格好で。
 唯一違う点を挙げればそれは、あの人が最後に作った帽子。
 自分の脚は引き寄せられる様に約束の場所へと向かっていた。
 どうして? 
 わたしが直接会わなくても藍に任せて報酬を渡せば良いだけなのに。
 どうして?
 直接話し合う事なんてしなくても良いのに。
 幾つもの疑問が渦巻いていたが、体は自然にあそこへと向かっていた。
 そうやって偽物の姿で歩いていると、やがて約束の場所が見えてくる。
 それはかつてわたしとあの人が取引をし、楽しそうに話をしていた建物。
 その頃の遣り取りはちっぽけだったけど、それでも自分を満たす幸せが詰まっていた。
 だが、今ではもうそこに喜びは無く、代わりに安物の石炭みたいに黒くで潰れかけた家だけが建っている。
 そう、わたしが壊してしまった。
 自分のちっぽけな、訳の分からない想いのせいで。
 玄関の前に立ち、もはやただの板としか思えない老齢扉を二回叩く。
 こうこう。
 咳の様に木が泣くと、開く。
 口を開けた玄関の奥には昔わたしが帽子作りを頼んだ人間が立っている。
 その姿は今まで会わなかった月日の分だけ変化していた。
 自分はこの人に声を弾く。
「久しぶりね。もう何年経ったのかしら」

「どうぞ、お入りください」
 わたしは日傘を閉じ、報酬を求める人間に導かれ軋む店の中に入る。
「ありがとう。それで……」
 そして、偽りの姿を煌めかせてこの人に言った。
「報酬は何がいいかしら? どんな物でも頼んでいいわ」
 そう、自分はただこの人間の望みを差し出せばいいの。
 そうすれば、全てが終わる。
 わたしはそう思いながらどんな人形よりも精巧に出来た顔で視線先の者を見る。
 しかし、この人はとても寂しそうな、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。
 どうして、そんな悲しそうな眼をしているの?
 崩れた屋根から窺える銀墨の空が、この人間を儚い暗さで照らす。
 少しの間が歩み、古びた硬貨を思わせる声が落ちた。
「紫さん、ちょっとお願いが」
 自分はそれに合わせて偽物の顔で優しい笑みを造る。
「ええ、良いわよ。それでお願いは、何?」
 この人は更に表情を寂しくさせ、苦味を口に乗せて言った。
「そこに立っていて貰いたいのですが」
 わたしはその要望に金髪の頭を頷かせ、楽器じみた声帯を奏でる。
「そう。じゃあここに立っていれば良いのね」
「はい」
 この人間は自分とそうやって言葉を交わすと、暫く盤上遊戯の駒の様に動かなかった。
 しかし、時が来るとこちらに近付き、シャッターを思わせる瞼を閃かせながらこちらのドレスを見る。
 そして、わたしの帽子に雪でも掬う様に捕らえ、黒ずんだ机に置いてからこう言った。
「紫さん、ごめんなさい」
 かつて裁縫に従事していた指がドレスに絡み、雪に潜む栗鼠の如き衣擦れが囁く。
 この人は自分が纏い、構築している着衣を解体し始めた。
 ぱたり。
 日傘が虚空を思わせる悲鳴を上げて老いた床に倒れる。
 だが、わたしは怒りを焚かずに、この人間の望むがままに任せていた。
 きっと、これは罰なのだろう。
 自分の様な化け物が決して手に入れらない何かを求めた事への報い。
 紫色のドレスが取り払われ、衣よりも肌に直接纏う生地の方が多くなっていく。 
 わたしはこの人間が望む事であれば全てを叶えよう。
 そう、何もかも。
 そうすれば、全てが終わる。
 そして、もうこの人間と会う事も二度と無くなるだろう。
 もはや美しい殻を覆う布は、何一つ無い。
 この人は暫く原初の写真機を思わせる瞳孔で露になったこちらを見つめていた。
 始めは正面、終わりは背中。足から髪の先まで偽りの体全てを。
 魅了に輝く瞳に切なさを忍ばせて。
 それからこの人間は髪に隠れた背を眺めようとして、後ろ髪にピンセットを思わせる冷たい指を入れる。
 そうすると肩から腰への繋がりを遮る金糸の垂れ幕を開いた。
 今まで秘匿していた肌が一気に冬の酸素に晒される。
 それは首から腰の上まで続く、背骨の一直。
 この人はその一条に工作機械じみた人差し指を触れると、上から下へと滑らせた。
 少しして手が止まると、背後の口が罅割れた拡声器みたいに動く。
「紫さん」
 自分は頭を繰り、肩越しに見つめる容で唇を鳴らす。
「どうしたの?」
 相手はこちらの疑問符に仕掛け玩具の様に命令する。
「見せてください」
 一体、何をだろう。
 わたしはそれの意味が分からなくて再び短い楽曲を鳴らす。
「えっ?」
 しかし、この人は続けて声帯工場から命令を量産する。
「糸を、貴方の背中の赤い糸を見せてください」
 己の思考はそこまで声を拾うと、漸く不恰好な言葉の意味を理解した。
「でも……」
 だが、自分はその自鳴琴の様な響きにどうしても従いたくなかった。
 もう本当の姿を見せてこの人間を傷付けたくなかったから。
「早く、紫さんの背中の赤い縫い目を見せてください」
 しかし、それにも係わらずこの人は赤い石油を思わせる舌で縫合の呈示を求めている。
 なぜ? 目にしたくも無い筈なのに。
 わたしは考えもしなかった相手の規格外の願いに戸惑った。
 しかし、自分は僅かな時でこれからの事態に備えた策を創り上げ、嘘の口を開く。
「……ええ、良いわよ。一寸待っていて」
 美しい模造品の背を偽の白い指で伝い、上に滑り落とす。
 すると、その後ろには深紅の縫い目が穿たれる。
 それはあの時と同じ腰から首まで遡り、血液じみた糸蝶。
 星数よりも多い結界によって織り込まれ、わたしにしか開けられない赤い門。
 しかし、この門にはある変更点が加えられていた。
 それはこの人間もこの赤い縫い目を開けられるという点。
 別にただこの人の言葉通りであれば赤い縫い目を見せるだけで良いだろう。
 しかし、ここまでこちらに門を見せるのを求めているという事は……
 恐らくこの人間はこの中に入る事すらも要求するだろう。
 よって、自分は更にこの変更点に加え門の中にある仕掛けを作った。
 それはこの人が傷付くのを防ぐ奇怪。
 それはもうこちらに近付かないで、という標。
 わたしはそれらの仕組みを一秒も経たずに創ると、燃え立つ入り口を相手に見せた。
 ぷつりっ。
 案の定深紅の糸蝶が弾け死ぬ。
 自分の後ろにいる人は真っ赤な下翅を引き、縫い目を解き始める。
 ずるる。
 わたしは前述の策によって、この人間が糸を引くのを安心して眺めていた。
 ぶつっ。
 これで自分はこの人を傷付けずに済む。
 ずるるっ。
 そう、思っていた。
 ぶ。
 しかし、心は何故か痛んでいる。
 ずるるる。
 この痛みは、いったい何。
 ぶっ。 
 まるでわたしがこの人間の魂を欺き、裏切っている様な感覚は。
 ずるっ。
 鈍い刃で抉られる様な、この疼きは。
 ぶつ。
 縫い目を解くこの人の持針器じみた指は次第に赤く染まっていく。
 思考はただこの人間が偽の体から糸を抜いているだけと判断している。
 だが、心はありもしない傷口から真っ黒な血を流していた。
 いたい。
 わたしの奥底に何かが刺さり、引き裂く様に広がる。
 痛い。
 今まで感じた事の無い痛みに浸かり、溺れていく。
 ずるるるる。
 もう、自分の殻を縫合の糸が滑る事は無くなった。
 代わりに擦れた赤が写ったこの人間の手には解き終えた血色が二本。
 そうするとわたしの縫い目は破れた水袋みたいに開き始める。
 血よりも濃く、火よりも燃え立つ色を滲ませて。
 この人は暫くそれを見つめていたが、やがて己の指をこちらの門に触れさせる。
 そして、その両淵に五本ずつ曲がり竹の如き指を掛けて、ゆっくりと横に押し開いた。
 自分のほつれはそれに合わせて少しずつ粘土の様に揺らぎ、咲く。
 美しい殻の奥に隠された醜く歪な入り口を明らかにしていく。
 深紅の縫合を開いた人間はその淵に左手を掛け、その腐敗した万華鏡を見つめた。
 わたしがその様子を見ていると、この人はこちらの顔に視線を向ける。
 そして、一瞬戸惑った様な顔をしてから言った。
「……紫さん」
 何故そう言ったのかは分からない。
 だが、とにかくこの人間は自分の赤き門に己が身を滑り込ませた。
 
 暫くするとあの人が店から菅笠と蓑を着けて不思議そうな顔をして出てくる。
 自分はその様子を箱庭の外から覗いていた。
 もし、あの人間が普通に赤い門に飛び込んだならば、ただでは済まされない。
 何故ならそれはわたし――人間よりも遥かに多い質量と次元をその身に備えた存在と直に接触するという事だから。
 もし本当にそうなってしまったならばこちらが自然と発している力に体を引き裂かれ、五感から入ってくる情報量の多さに精神が壊れてしまうだろう。
 つまり、体と心の死を意味する。
 これは己の境界を操る能力を使っても抑える事は難しい。
 よって、自分はこの最悪の事態を防ぐ為、あの人との間にある仕掛けを置いた。
 それは本物の幻想郷とそっくりな模造幻想郷。
 きっと、あの人間は何故か分からないが、諦めるまでこちらに近付いてくるだろう。
 だからわたしはあの人をこの出口無き箱庭に放り込み、意志が折れるのを待つ事にした。
 そして、あの人間が諦めたなら元の幻想郷に帰し、それからはもう何が起こっても二度と会わないようにしよう。
 そう己の思考は計画していた。
 本当のわたしに会っても、あの人はただ傷付くだけだから。
 そんな想いを携えながらこの小さくて大きい幻想郷の模型を見つめていた。

 粉砂糖の様な雪野原に小さな影が一つ。
 自分はその歩く蓑虫を思わせる人間の行き先に幻想郷住民を模した幻を配置していく。
 そうしてあの人がそれらに会い、わたしの事を訊いて来たなら皆『知らない』と答えるよう命令した。
 何人とも話しても答えははずれ。
 その結果を知る度にこの小さな生き物は残念そうな顔をする。
 きっと、あの人間はすぐ疲労と諦観に沈み、大人しく眠ってくれるだろう。
 例えば、自分の作った偽物の家で。
 歩き始めてから二時間位経った頃に件の人は思った通りその中に入って休み始めた。
 わたしはその虫かごじみた小屋を覗かずに音だけ拾う。
 この振動は黴這う畳の上に座っている軋み。
 まだ、痩せた布団には入ってはいない様。
 だが、眠ったら元の場所に帰してあげよう。
 そして、それからは永遠に別れて……
 自分が思考内計画書の確認をしているといよいよ布団に潜り込む音がする。
 あと、もう少し。
 わたしはあの人の緊張した呼気が弛緩の寝息に変わるのを待つ。 
 しかし、その期待は脆くも紫外線で劣化した樹脂の様に砕けてしまった。
 これは、いったい?
 それは布団から生き物が飛び退く鼠じみた振動。
 何故、あの人間は疲れている筈なのに。
 どうして、寝息を立てないの。
 代わりに聞えてくるのは今まで同伴していた深靴と菅笠と蓑を着ける音。
 まだ、諦めていないの?
 自分が音から行動を割り出していると、再び偽の家からあの人が出てくる。
 そして、その吹けば消し飛んでしまいそうな命はこんな事を口にした。
「今日はまだまだ、疲れないといけないみたいだ」

 わたしは冬の舞台を覚束無い足取りで歩く影を一つ、見つめている。
 もうあの家から出てから七千二百秒が経つ。
 しかし、一向にあの人は諦めず薄弱な着物を擦り減らしながら自分を捜していた。
 行き交う幻の罠に話し掛け、まだ足跡の捺印していない場所を進んでいる。
 すべては無駄な事。
 だが、それでもまだあの人間は熱量を削りながら求めていた。 
 わたしは必死に歩き続けるその命を見つめながら疑問に思う。
 何があの人をそこまで進ませるのだろう、と。
 だが、その答えは産まれて来ない。
 まるで、浮かび上がる真実を拒む様に。
 それからまた僅かな時が過ぎると、ある異変が起きた。
 それは件の人間の顔。
 頬に蒸留水を思わせる涙が伝っている。
 そして、急に純白の地面へと座り込み、ただ一点を見ていた。
 やっと諦めたのかしら。
 自分はそう思ってあの人を帰す準備をしようとしたが、その勢いも途中で止まる。
 その理由は視線の先にある萎びた片栗。
 それをじっと見つめている人間の目はまだ諦めの色に染まってはいない。
 そして、何よりも行動を止めさせられた原因は己の内面。
 微かな温もりが吹き込み、何も出来なかった。
 あの人が片栗を見つめていると、わたしの心も何故か熱くなっていく。
 これは、この熱さは一体何?
 そう思っていると屈んだ人間はその枯れ草に積もった白を手で弾き、立ち上がる。
 そして、偶然だろうがこちらが見ている方に視線を注ぎ、また歩き始めた。

 一体、いつになったらこのひとは諦めるのだろう。
 自分が諦めさせようと画策している人間はもう偽物の幻想郷を六週もしていた。
 この箱庭にはある細工がしてあり、最北端に着くと最南端に繋がり、最東端に着けば最西端に繋がる、といった風に作られている。
 よって、この似非幻想郷には幾ら歩いても出口が無い。
 わたしが外から摘み出す以外は。
 造られた冬を歩くこの人の様子を観察すると、所々に疲労と欠乏の色が診られた。
 特に酷いのは空腹で、どうやらこの人間は朝食事を摂らなかったみたい。
 どうしてそんな事をしたのかしら。
 自分はそんな謎を抱いたが、その答えを聞く訳にはいかない。
 わたしはひたすらこの人を見つめていた。
 すると、ある時に急に視ていたその生命は辺りに笑みを振り撒き、小さく呟く。
「変なの」
 その表情と言葉で自分はまたしても思考に問いを作ってしまうが、今度は無視した。
 答えが何にせよ、もう二度とわたしはあの人間に会わないだろうから。

 偽りの空に昇る息は白く、重たい。まるで白い血を天に放っているかの様。
 この小さな幻想郷を歩くその体は既に限界へと達していた。
 角膜は疲れに錆びて、今にも手足は泥で作られた馬車の様に崩れてしまいそう。
 しかし、それにも係わらずこの人は体を前に推すのを辞めなかった。
 まるで自分に会わなければ歩いたまま死ぬ、とでも言わんばかりに。
 わたしはその生き物がどんな信念を持っていようとも、諦めるのを待つつもりだった。
 そうよ、歩き疲れ倒れたとしても、死ぬわけではないもの。
 少し体が痛くなるだけ。
 今までそう考えてきた。
 だが、この今にも死にそうな人間はどうだろう。
 限界をとっく超えているのに歩き続けているあの体は。
 もしかしたら、本当に死んでしまうかもしれない。
 理屈ではそんな事は起こり得ないと分かっていた。
 白い雪、青ざめた顔、生を捨てる吐息、死へと進む足音……
 だが、あの人を見る心は時と共に少しずつ不安を膨張させていく。
 ほら、見えるでしょう? あの谷を渡る者が。
 今にも足が折れてしまいそう。
 あの瞼だって其の内乾いて閉じられなくなるわ。
 きっと、その下の眼球だって近く萎んでしまうでしょうね。
 手も罅割れ、腕が欠け、心臓も止まって。
 死んでしまう。  
 もし、このまま会わなければあなたは。
 あの命を殺す事になるわ。
 そんな事、ありえない。ありえない筈なのに。
 しかし、気付けば自分はこの箱庭の境界を解いていた。

 ただ摘み出して元の幻想郷に帰してあげれば良かったのに。
 そんな後悔とは裏腹に存在の定義を引き抜かれた模造幻想郷は徐々にその身を清々しく崩し、蕩け、割れていく。
 わたしはあの人間の命を奪わぬように境界を操って己を押さえつけた。
 これで、大丈夫。
 とは言っても長時間一緒に居るという所までは行かず、それ程長くは持たない。
 それに至近ではその抑制も効果を薄め、たちまちあの人の命を奪ってしまうだろう。
 少しでも早く説得して、帰ってもらわないと。
 そう考えていると、歪んで解けた箱庭の奥から一つの灯火が見える。
 それは周りの景色を信じられないと言った具合に見つめながら進んでいた。
 足取りは砂糖菓子の上を渡る巻き貝みたいにゆっくり。
 やがて、この人間はこちらの存在に気付き、歩みを止めて息を呑む。
 その目は化け物を恐れる生き物のそれ。
 そして、この人は菅笠を脱いで手に取り、自分へ一歩進んでから声を送った。 
「あの、紫さん。……ですよね?」
 わたしは疑問の振動に意味だけを揮って答える。
『ええ、そうよ』
 するとこの人間は疲れの中に驚きを爪弾かせた。
『久しぶりね。この姿であなたに会うのは何年ぶりかしら』
 きっと、この形の意志疎通は初めてなのだろう。

 己にとっての日常、他者にとっての禁忌。
 自分とこの人はそんな場所で向かい合っていた。
 先に話題を切り出したのは儚い命。
「紫さん、あの時は」
 わたしはそこまで振動の意味を汲むと全てを聞く前に悟った。
 この人間はあの時――こちらが赤い門を見せた時自身がとった行動に罪を感じている。
 自分から逃げ出したという当たり前の行動を。
 だから、この人はここまで謝りに来たのだ。
 悪いのは、こちらの方なのに。
 そう、本当に謝らなければいけないのは自分の方。
 わたしはその誤った罪悪を音すら響かせないで掻き切る。
『いいのよ、わたしが悪かったの。ごめんなさい、急にあんなのを見せてしまって』
 そして、その罪をこちら側に反転させると、わざとらしく己の体を動かした。
『それにわたしの体……どう? 酷いでしょう』
 すると、その仕草を身に受けた相手は低温に曝された様に痙攣を起こし、持っていた藁の被り物を落とす。
 息は氷の火の粉として千切れ、辺りへと振り撒かれている。
『ほら、そうでしょう。無理だったの。あなたとわたしは、違い過ぎるわ』
 次いで自分はこの人間に何の咎も無いといった具合に言葉を送り、諦めの命令をした。
『さあ、わたしは怒っていないから。早く帰りなさい』
 出来るだけ優しく、厳しい声で。
『後ろを向いて少し歩けばすぐにあなたの家に着くから』
 もう二度とわたしに近付かないで、という警告を。
 この人はその命令を聞くと暫く倒れてしまいそうな体で佇んでいた。
 あれは何かを考えている顔。
 どうやら、まだ何か言いたい事があるみたい。
 やがてこの人間は何かが振り切れた様にこちらを見つめ、自分の名前を呼んだ。
「紫さん」
 わたしはその音に相槌じみた返事を返す。
『なに?』
 この人はそんな機械的なこちらの動作に命の揺らめきで訊く。
「私と貴方が一番最初に帽子の受け渡しをした日の事、覚えていますか?」
 何故、その様な質問をしてくるのだろう?
 だが、自分は一刻も早くこの華奢な存在を帰してあげたかったので迷わず答えた。
『ええ、覚えているわ。今でもはっきりと』
 その言葉が鍵だったのだろう。
 目前の生き物は次々と精神に秘められた記憶の蕾を紐解いていく。
「その日から貴方の帽子を作り続けた日々は、私の人生で最も幸せな時でした。だって、あんなにも紫さんは私の帽子を愛してくれたんですから。でも、その幸せの中で一番嬉しかったのは紫さん、貴方という美しい女性が店に来てくれた、という事で……」
 一瞬息を胸の奥に溜めると、その結論を述べる。
「ええと、簡単に言えば私は貴方に惚れていた、好きだったんです」
 突然の告白。
 しかし、自分にはその言葉の虚しさが分かっていた。
『ありがとう。でも、本当のわたしは……』
 影を含んだ返事を呼び水としてこの人間は口の働きを再開する。
「ええ、そうです。本当の貴方は美しい女性ではなく、それとはかけ離れた姿だった」
 そして、具体的な言葉でわたしを苛めた。
「見た目は醜いですし、香りも不快だし、耳が突然痛くなったり、肌には鳥肌が立ちます。それに空気も貴方と一緒に居ると何だか不味いです」
 否定出来ない故に深く突き刺さる言葉。
「はっきり言って私は」
 実体を持たぬ傷害。 
「貴方の姿が嫌いです」
 声の刃が精神の柔らかい部分に突き立てられ、見えない血が零れ落ちた。
「昔貴方がこちらにこの姿を見せた時、逃げ出したのも当然の事でしょう」
 そして、その刃物は引き抜かれ、自分に形の無い傷跡を穿つ。
 ああ、そうか。
 やっぱり、わたしは誰からも愛されないんだ。
 今まで感じたどの苦しみよりも酷い痛みが体の奥から湧き出て、滲み渡っていく。
 それでわたしはこの人を見つめながら湿気った悲鳴を散らす。
『そう。……あなた、随分と言うのね』
 だが、それと同時にある疑問が立ち昇る。
 それは何故ここまで自分を苛めてくるのかという事だった。
 この人間からすればわたしは得体の知れない危険な存在であり、普通ならばこちらの気を損ねないようにするだろう。
 なのに、何故かこの人間は態々こちらに貶しの言葉を放つ。
 どうして?
 それにそうやって苛めた本人の様子は……
 とても、辛そうだった。
 まるで愛するひとを傷付けでもしているみたいに。
 自分がそうやって考察していると、また新たな響き。
「でも、私は貴方から逃げ出して、過去を忘れようと生きている内に気付いたんです」
 わたしは突然のそれに何も反応が出来なかった。
「なにか、何かが足りないって。何不自由も無いのに生きるのが辛くって、自分の人生には何の価値も無い。突然、そう思い始めて」
 この人は先程とは全く違う色を持つ織物を紡ぎ出す。
「それから心に浮かぶのは紫さん、貴方の事だけで……そして、いつの間にか紫さんから初めて報酬を貰った時の事を思い出していたんです」
 それは初めて帽子を依頼した時の出来事。 
「あの時、報酬を出していた紫さんは美しかった。だけど、私はその体を怒りや憎しみを込め、蹴り続けていた」
 そして、その語りの合間合間に、この人間は思考を躍らせる。
「あの時、私は酷い衝動に駆られて何も見えなかった。それこそ、目の前にいる貴方の纏った美しい姿が全く見えなくなる程に」
 それは形無くして存在する想いの絵巻。
「でも、そんな中一つだけはっきりと見えるものがあったんです」
 こちらが今まで目にした事の無かった精神の虹。
「それは真剣にこちらに報酬を差し出す紫さん、純粋に私の帽子を愛しているという貴方の心だったんです」
 小さな命は儚い命を賭して懸命にそれらの色相を縒り合わせる。
「それから私はその心に救われ、帽子屋として再び生きる喜び、幸せを見つけた」
 こちらから見れば本当に小さな口と喉を鳴らして。
「それで、分かったんです。私が好きだったのは貴方が纏う美しい姿ではなく……」
 そして、この人は顔を少しばかり赤くすると、こう言った。
「貴方の綺麗な心だったんです」
 それは今まで自分に対して秘めていた感情。
 素直なこちらへの想いだった。
「そして、それは今も変わりません」
 わたしの心に温もりが満ちていく。
 正直、嬉しかった。
 だって、今まで生きていてこんな言葉を掛けられた事は一度も無かったから。
 しかし、すぐに思考――今まで自分を捕らえてきた世の摂理は語り掛ける。
 でも、甘えては、求めては駄目。
 そんな事をしたら、あなたはこの人間の体と心を殺す事になるわ。
 あなたが何もかも引き裂いて、壊して、滅茶苦茶にしてしまう。
 それに、さっきの言葉も嘘。
 この命は化け物のあなたに殺されないよう、ご機嫌を取っているの。
 さあ、酷い事になる前にこの小さな命を、綺麗な生き物を逃がしてあげなさい。
 わたしはその声に繰られて言った。
『そう……あなたって変わった事を言うのね。でも、それは嘘』
 自分とこの人を傷付ける、寂しく優しい別れの言葉。 
『あなた、顔が蒼くなっているし、手も震えているわ』
 この人間を守る悲しい声を。
『それは怖がっている、無理をしている証拠よ』
 その言葉を聞いた人はどうやら図星だったらしく表情を凍らせる。
『それに、わたしがあなたの帽子を愛したというのも勘違いよ』
 しかし、わたしの言葉はまだ止まらない。
『わたしはただ気まぐれであなたに帽子を頼んで、何となく報酬を出しただけ』
 それは嘘。
『あなたの作った帽子なんて、全然愛していないわ』
 この人間が死なずにここから去ってもらう為の嘘。
 最良の言葉。
『さあ、わたしは何も気にしていないから……』
 だけど、どうして。
 どうして、自分の奥底はここまで痛んでいるの。
『早く後ろを向いて帰りなさい』
 何故、苦しいの?
 その茨の言葉を受けた相手は立ち尽くしていた。
 しかし、その時は十の秒もなく、この人はすぐに答える。
「ええ、確かに。紫さんの言う通りです」
 それは自分の思考が最も求めていた答えだったが、精神は虚ろな光を灯していた。
 わたしはその想いを誤魔化し、この人間に帰るように言う。
『そう、じゃあ……』
 しかし、その途中でこの人は口を開いた。
「自分は嘘吐きで、今まで勘違いをしていました」
 その言葉はこちらの声を断ち、一方的に自分へと注がれる。
「それに、私は前々からあなたに不満を持っていました」
『何を、言っているの?』
 そんなわたしの思いとは逆にこの人間は迷い無く前へと進み始める。
「初めて帽子の受け渡しをした時は、優しくてきれいなひとだと思ったのに」
『何をしているの?』 
 この人を形造る粒一つ一つが弾け始め、耳奥の密度が捩れて行く。
「次に会った時には、こちらに生首を見せて悪戯をするし」
『どうしてこちらに向かってくるの?』 
 この人の臓器に自分が発する影響が刺さり、赤を流しているのが見える。
「また次のシルクハットの時には、妙な言葉で弄ってきて」
『止めて、来ないで』
 わたしは現状に気付いて牽制の意味を放つが、それでも止まらない。
 進む度に足の深靴は劣化し、ぱらぱらと霧の涙を流す。
 目の前の人間の舌も、真っ赤に壊死していた。
「かと思えば市女笠の時は危ない位に無防備で」
『お願い。今すぐ引き返して』
 しかし、尚もこの人はこちらに近付くのを止めず、その身を傷付けていく。
 もはやその眼にまともな風景は見えているのだろうか。
「とにかく、私は貴方の事が全く理解出来なくて、いつも振り回されっぱなしでしたよ」
 この人間はそう言ってこちらに微笑む。
 だが、もうその体細胞の結合は緩み始め、いつ四散してもおかしくなかった。
 それにまともな感覚は触覚位だろう。
 気付けば自分とこの人の距離はあと少しで触れそうな程に近付いていた。
『来ないで!』
 わたしはその事に対応出来なくて、ただこの人間に声を投げ付ける。
『お願い、わたしに近付かないで』
 しかし、それでも目前の命はこちらの死へと向かってくる。
『駄目っ! こちら来ては』
 自分が懸命に言葉を鳴らしているというのに、その相手はそれを気にも留めない。
『そんな事をしたらあなたが』
 まるで、見えない確信に従っているかの様に。
『あなたの体が』
 ただ真っ直ぐに、わたしを求めていた。 
『壊れて』
 こちらの拒否にも係わらず。   
『駄目っ』
 そして、ついにこの人は自分に触れる。
『だめ』
 初めは指、続いて紅葉の様な掌。
『……ぁ』
 わたしはその微かな接触に小さな声を零した。
 自分に触れた命は加速度的に死へと近付き、その身を文字通り消耗させる。
 口から放たれる声も切り裂かれ、ただの音。
 だが、それにも係わらずこの人はこちらに語り掛けた。
 わたしはその今にも死んでしまいそうな僅かな声を拾う。
『ゆかりさん』
 聞えたのは自分の名前。
『はっきり言って、私は貴方の事が嫌いです』
 聞えたのはわたしへの棘。
『でも、それでも……わたしは貴方と一緒に居たい』
 聞えたのは矛盾した言葉。
 それ続いてこちらの体に細く、折れてしまいそうな腕が滑る。
『大嫌いだけど、愛したくなってしまったんです』
 更に加えて出た言葉は月と太陽が見つめ合った様な背中合わせの声。
 だけど、自分への確かな想いだった。
『だって、紫さんがどんな姿で自分と帽子をどう思おうと、わたしが救われた事に変わりは無いんですから』
 そして、この人はわたしを抱き締めた。
 その身はそれをするのに余りにも弱く、華奢だったけれど。 
 それから今にも生物から物体になりそうなこの命は、己が欲する報酬について話した。
『ですから、どうしても紫さんから頂きたい、報酬があるんです』
 壊れかけの笛の様な体を鳴らして。
『それは』
 血が声になりそうな口を弾ませ。
『その報酬は……』
 引き裂かれてしまいそうな喉を奮わせて。
『わたしはあなたの、本当の紫さんの
 この人は消え行く声と意識の中で『あの報酬』をこちらに求めた。
 自分はそれを聞いた途端、今まで張っていた境界をうっかり緩めてしまった。
 すると、今まで抑え込んでいた影響は一気にこの人へと流れ込み、その身を肉片とすら呼べない段階にまで引き裂いてしまった。

 今まで人の姿をしていた生き物は深紅の花に成っていく。
 わたしはその事に気付くと、これ以上その体を損なわない様に慌ててこの人間を結界で囲み込んだ。
 それから自分はその赤い塊をすきまで安全な所まで運ぶと、ある作業をする。
 それはこの人の修繕。
 哀れにもわたしに巻き込まれてしまった命の修復だった。
 ばらばらになった体を集め、足りない部分は境界を操る能力で創造する。
 繊細な骨、華奢な筋肉、融通の利かない臓器、頑固な皮膚、無知を学ぶ脳、蓄積された知識と記憶。
 それぞれを隣接する場所へと繋いでいく。
 明るい色と暗い色が絡み合い、一つの形を成し始める。
 それはまるで硝子瓶の中で赤い飛沫と共に躍る薔薇の様だった。
 自分にとってこの縫合は容易い。
 それこそ治した痕も分からない位に上手く、一瞬にして元通りに出来る程。
 だが、思考は影を落として手術の邪魔をする。
 わたしは、この人間を殺した。殺してしまった。
 だが、体ならばいくらでも治せる。
 でも、精神は?
 自分に直接触れたのだ。きっと、滅茶苦茶になっている筈。
 この人間は己の記憶に異質で膨大な情報――本当のわたしの姿を取り込んだ。
 それも五感の全てで。
 結果として当然精神は普通の生活すら儘ならない程に壊れていることだろう。
 じゃあ、このぼろぼろになった精神もこの体と同じ様に治したら?
 思考には当然そんな案が浮かぶ。
 自分にとってそれをする事は簡単だ。
 何故ならわたしは毎日食べる料理を生き物として再生し、元の生息地へ帰す時にも精神の修復を行なっているから。
 精神の修復。 
 言葉の響きでは何とも言えない重みを持っているが、簡単な事だ。
 精神を治すにはどうしたら良いか?
 それにはまず何故心が壊れてしまうのかを理解する必要がある。
 人から妖、獣から虫。
 様々な命にはそれを動かす為のソフトウェアが存在する。
 それは一般的な言葉で魂や感情、つまり精神と呼ばれる物だ。
 しかし、必ずしもそれらの命は精神の導くままに動けるという訳ではない。
 何故なら世の中にはありとあらゆる障害が存在しており、運の悪い生物はこれらに躓いて思ったままに行動出来ない場合が存在するからである。
 それは物理的な壁であったり、心理的な壁であったりと様々。
 そして、その無作為の罠に引っ掛かってしまった命は大抵そこから抜け出す為に奮闘し、最終的にはその状況に適応する。
 だが、世は全ての命にその機会を与えてくれる訳ではない。
 意地悪なのだ。
 では、その抜け出せない障害に囚われた命はどうなる?
 答えは簡単。
 その生物の精神は解決出来ない問題に蝕まれ、変質し、最後には壊れてしまうだろう。
 最悪の場合死を伴って。
 しかし、自分にとってその傷を治す事は難しくない。
 何故なら境界を操る能力を使って精神を蝕む原因を消滅させれば良いだけだから。
 それは物質であったり、記憶であったりする。
 だが、わたしにはそのどちらも消す事が出来た。
 それらの原因を消せば傷の程度によって治る速度にばらつきはあるが、精神は自ずと元の姿に戻り、正常な形で完治する。
 数日前食べた泥鰌の唐揚げの時もそうだ。
 自分はあの細長い魚類の体を食べて修復した後、その小さき身に宿る精神を蝕む記憶――高温の油に揚げられる恐怖を消し去ってから故郷の川へと逃がしてあげた。
 じゃあ、この人も泥鰌の様に精神を治せばいい。
 わたしの心はこれらの考えからそうやって呟いたが、それもすぐに却下された。
 どうしてかと言うと今己が治そうとしている精神に降り掛った障害は特殊だったから。
 この人間は理解の範疇を越えた存在、即ち自分に近付いて瀕死の重症を負った。
 これは心理的な障害と物理的な障害が同時に起こったとして分類出来る。
 しかし、この障害は通常のそれとは全く違う。
 異質過ぎるのだ。
 わたしと接触したという事は。
 それこそ並みの心理的障害や物理的障害とは比べ物にならない。
 恐らく通常の障害とは比べ物にならない速度で精神は変質し、取り返しのつかない程に壊れてしまったことだろう。
 自分が急の出来事に対応出来なかったほんの一瞬で。
 そして、それは先程の泥鰌の例と同じ様に精神を修復しようとしても、完治には膨大な月日を費やすだろう。
 それこそこの人の命が尽きるまでに正常な精神に戻るかどうか。
 加えてこの障害にはある不可解な点があった。
 それはこの人間が自ずとこちらに近付いて接触を試みたという事である。
 通常精神を変質や崩壊に追い込む障害という物は何にせよ対象に襲い掛かる形で現われるが、今回の例は対象がわたしという障害に迫って起きた。
 こんな事は今まで例が無く、自分が世に生まれてきて始めての事だった。
 よって、従来の方法で精神を修復して良いのかという疑問が生まれる。
 何か別の方法は無いかしら?
 わたしは暫し考えた。
 すると、大して苦戦せずに新たな修繕への策が芽吹く。
 それはこの人間の壊れてしまった精神を自分の手で形成・修復し、少しでも障害となる可能性のある八雲紫に繋がる記憶を削除するというものだった。
 そうすればこの命は解決出来ない障害にその人生を絞り取られる事も無いだろう。
 また、記憶を削除する際に生まれる隙間であるが、そこには無難な偽の記憶を入れて補完すれば良い。
 それによって多少幻想郷住民との齟齬はあるだろうが、現在の状況からすれば可愛いものだろう。
 わたしはそう考えを纏めると、未だ結界内で組み立てられている小さな命を見つめた。
 もう身体の基本的な土台は繋ぎ終わり、残すは皮膚と記憶と知識をのみ。
 あと少しで終わる。
 しかし、自分の内にはある痛々しい問いが浮かんでいた。
 それはこの人の精神を直し方について。
 もし、このままこの人間を肉体修正しただけで目覚めさせれば、そこには生き地獄が待っている。
 だが、わたしが精神を作り変えてこの人を生き易くしたところでどうだろう。
 そうやって直したこの人は本当にこの人なのだろうか。
 自分の勝手な願望が作り出した、ただの肉の人形――心を持たずにただ造られたシステムに従うだけの機械に成ってしまわないだろうか。
 もし本当にこの考えの通りになったら、わたしはこの人間の魂を殺害する事になる。
 そして、それはこの傷付いた体と同じ様には治せないだろう。
 そう考えていると、いつの間にか件の肉体の修繕は終わっていた。

 自分は小さな体を治し終えると、それをすきまを使って元の幻想郷に戻す。
 その座標はこの人間が現在住んでいる家。
 それからわたしは今まで約束の場所で待機させていた偽の体を動かし始めた。
 解かれた赤い糸を再び肌に通し、床に散らばる衣を纏う。
 そして、机に置いてあったこの人作の帽子を被ると、すきまで移動する。
 その場所は先程すきまで飛ばした命と同じ。
 この人間が今住んでいる家の中に着地した。
 自分は偽りの目の窓で辺りを見回す。
 すると、一人の人間が横たわっているのが見える。
 この季節に布団一つも掛けずに畳の上で眠っていた。
 このままでは風邪を引いてしまう。
 そう思ったわたしは再び偽の瞳で辺りを見回す。
 すると、擦り減って湿気を含んだ薄い布団を見つけた。
 自分はこの人間の隣に慣れない手つきでそれを敷くと、その一枚目を捲る。
 そして、そうやって生まれた掛け布団と敷き布団の間にこの人を滑り込ませた。
 わたしはその後一枚目をこの修復した命に掛けると、ある事に気付く。
 どうして自分はこの人間をこんなぼろの布団に寝かせたのだろう。
 すきまを使えば己の家から幾らでもこれより立派な布団を持ち出せるのに。
 わたしはそうやって暫く意味無く呆然としていたが、またある違和に気付いた。
 それは一糸も纏わぬこの人の姿。
 今まで体と精神を修復する事だけを考えていたので、すっかり失念していた。
 自分はいけないと思い、手で空を切りすきまからこの人間に合った服を出そうとする。
 しかし、その人差し指の動きも途中で止まってしまった。
 ねえ、本当にそんな事をして大丈夫?
 突然そんな心の声が聞えてきたから。
 わたしはその言葉を汲んだ途端、言い様も無い不安に襲われる。
 それは境界を操る力によって手に入れた服をこの人に着せた瞬間、この人は別の何かに成ってしまわないかというものだった。
 そんな事、ありえない。
 自己の理性はそうやって突然の心配を打ち消そうとするが、それでも自分はすきまから衣を取り出すのを止めた。
 よって、わたしは家の中を見回して寒そうな人間の着替えを探す。
 そうすると随分と使い古した着物が見つかったので、自分はその雑巾じみた衣をこの人に滑らせる。
 肌に布が絡み、包んでいく。
 その身は人間という個体においては良好な成育をしていたが、こちらにとってはその形は酷く心細かった。
 わたしはこの人に着物を纏わせると、その横に少し距離を取ってから腰を下ろす。
 そして、その眠りに覆われている顔を祈る様に見つめた。
 もう少しすればこの命は目覚める。
 肉体を修復したとは言え実質新しい体の様な物だ。目覚めてから暫くは赤ん坊程度の動きしか出来ないだろう。だが、それも数時間で慣れ、その後は自由に動き回れる筈だ。
 肉体には何も問題は無い。
 そう、肉体は。
 自分の想いはある点へと悩みを巡らせる。
 それはこの命における精神の問題だった。
 もし、このまま心に何も手を加えなければ、この人は人ならぬ人生を送る事になる。
 もし、わたしが心を直してしまえば、この人はこの人でなくなってしまう。
 理不尽な二択が迫る。
 怖い。
 自分の思考と心は前例無き問いに震えている。
 こわい。
 わたしはもうこの命の器を壊しているのに、その心まで殺めようとしている。
 家の外には音を無くした白い雪が舞う気配。
 沈黙の音楽の中で眠る顔は健やかに瞼を閉じていた。
 しかし、それは自分にとってこれから起こる悲惨の垂れ幕。
 いつ、瞼は開くのだろう?
 少しそう思っていると、目前の閉じられた視線が柔らかく動くのが見えた。
 もう、そろそろ開く。
 この人は、起きてしまう。
 わたしはその閉じられた瞬きを切っ掛けとしてこの命の精神を直す決心を固めた。
 仕方が無い。
 わたしはこの心を直し、殺してしまおう。
 心が壊れているよりかは、ずっと良い筈。
 それに直そうとすれば一秒も使わずに一瞬で終わる。
 そうしたら自分は永遠にこの人の前から姿を消そう。
 もう二度と傷付けないように。
 永久に償えない罪を背負、この偽りの姿を纏いずっとひとりで生きていこう。
 わたしはそう思いながらこの命の精神を覗いた。
 そして、そうやって見た心は……




































 これは、どうした事だろう?
 この命、この人の心は。














 何処だろう、ここは。黄泉か、それとももっと別の所か。
 視界は闇色で、自分に何かが圧し掛かっている感覚がする。
 私は体を押す感覚に神経を傾けた。
 これは、何だろう。
 重くも無いが軽くも無い。薄っぺらくて心なしか黴臭い。 
 ん、この臭いは?
 何処かで嗅いだ様な。
 それも、ごく最近身近に。
 自分はその質量の様相を知りたくて、更に視界を動かそうとする。
 しかし、ある事に気付く。
 あれっ。
 私はまだ、瞼を開いていない。
 そう気付くと瞼を開いて眼を外界に晒そうとする。
 だが、中々開かない。
 まるで、新品の道具に慣れていない時みたいだ。
 暫くの後、瞼はゆっくりと稼働して光を取り込む。










 どうして?
 この人の瞼が開き始めた。
 わたしはこの命の心を見たが、そこには何ら変質や損傷は見られなかった。
 つまり、この人はこの人のままだった。 








 まず飛び込んで来たのは意識を失ってからは久々の色の波。
 虹彩は突然の光に慄き、視界をぼやけさせる。
 始めはただ輝きが躍り乱れるだけだったが、やがてその色相達はしっかりした席へと居並ぶ。
 そして、一番に映ったのは木製の茶色――見慣れた天井の列だった。
 これは、どういう事だろう?
 この状況を理解したいが為に眼球を動かそうとする。
 しかし、瞼と同様中々動かないので、見えるものだけで判断していく。
 目から真っ直ぐ前に見えるのは天井、右に見えるのは土壁、左下に窺える埃まみれは長年使っていない釜戸。
 ん、ここは。
 自分はそこまで知ると、やっと理解する。
 そうだ、ここは私の家。それも現在自分が住んでいる家だ。少なくても、ここはあの世とかそう言った類では無い。
 という事は、私は、生きている。
 でも、どうして?
 自分は疑問によって体に探索の躍りをさせようとするが、やっぱり動かない。
 まるで、生まれたばかりの赤子みたいだ。
 しかし、それでも眼球だけは動く。
 まず新しく入ってきた情報は我が家の使い古した布団。
 どうやら気を失ってからずっとここで眠っていた様だ。
 そして、次に入ってきたものは……
 私はそれを見た途端、今まで抱えていた些細な疑問を何処かに吹き飛ばしてしまった。
 何故なら網膜に焼き付くそれは、そのひとは。
 夢を纏った様な金糸髪、薄くも妙に想いを掻き立てる唇、粉雪のみたいに白い鼻、陽の吐息を思わせる眉。
 そして、何処までも深く輝く竜胆色の瞳。
 そう、紫さんだった。
 このひとは自分から見て左の枕元に座り、こちらの顔を見つめている。







 目前の現実に数々の疑問が湧き上がる。
 しかし、視線先のこの人がぎこちない眼でこちらを見ているのを知ると、その謎よりも笑みが零れた。
 だって、そうやって懸命にこちらを見る命の様子はとても、微笑ましかったから。
 ふふ、困った人。
 今まで心に巣食っていた不安や恐れが溶け落ちる。
 そして、わたしの心に優しい熱が、満ちていく。
 






 紫さんが、いる。
 私はその事が無性に嬉しくって首をそちらに向けようとするが、やはり視界は硬直したまま。
 このひとはそんなこちらを見て困った様な顔をすると、白く細い手で私の頬に触れる。
 そして、顔はこのひとを見易い角度に修正された。
 しかし、それでもまだ指は離れない。
 




 わたしはこの人の頬に手を触れると、顔をこちらに向かせる様に動かした。 
 そうするとこの命は表情を輝かせ、より一層自分を見つめる。
 いとおしい、顔だった。
 自分の思考は白手袋の指を頬から退かせようとするが、何故か動かない。
 そして、わたしは…… 
  



 それどころか紫さんはちょっぴり恥ずかしそうな表情をして、戸惑いがちにこちらへ顔を近付けた。
 近く、ちかく、そう、息がかかる距離まで。
 私はその突然に心臓を荒げたが、暫くすると熱も退いていく。
 そして、替わりにあるものが心に入ってくる。
 それはこのひとの瞳。
 どんな深い湖の底よりも深く、光り輝く竜胆色の世界の果て。
 そこには本当の紫さん――自分の好きな、綺麗な心を持つひとがいた。



 いったい、自分は何をしているのだろう。
 頬に触れた手を離さずに、顔をこんなにも近付けて。
 そのお陰でこの人はあっという間に顔を赤くしてしまった。
 しかし、それも時間と踊り合う様に治まって行く。
 退いた紅潮の後には、真っ直ぐな視線。
 わたしはつられて己の窓じみた瞳に、本当の姿を精一杯近付けてから見つめ返した。
 その距離はぎりぎりまで近くて、この命が自分の瞳を見れば見えてしまう程。
 きっと、その視界には何よりも恐ろしい存在が見えるだろう。
 だが、わたしを見つめるその人の心は……    


 如何なる生き物の姿にも当てはまらない異質な姿。
 化け物の姿。
 だが、私は不思議な事にもうその姿を見ても恐れは湧かなかった。
 代わりに、きれいな心だけが見えた。
 そして、私と紫さんはこの竜胆色の窓を通じて互いに見つめ合った。

 そこには声も、表現する合図も無い。
 だけど、私とわたしには何を言っているのかが理解出来た。
 言葉にしなくても、聞えていた。
 深く、ふかく、互いの心を絡ませて、その色を知る。
 華やかな色も、寂しい色も。
 こちらが魂を紡げば、あちらも魂を紡ぐ。
 あちらが語り掛ければ、こちらもそれに応える。 
 私とわたしは互いに言葉も、何もかも使わずに心を交わした。
 その時は一瞬か、永遠か。
 だけど、それは全てが満ちる時間。
 ありとあらゆるしがらみを取り払った、何者にも何物にも邪魔されない清らかな刻み。




































 紫さんは自分の顔から指を離し、ドレスを揺らして立ち上がる。
 そして、こちらに何も声を掛けずに玄関から外に出て行った。
 自分はその後を追おうとするが、関節がまるで飴で出来ているみたいに動かない。
 それから、私は幾分か時が経って体が自由に動く様になると、慌てて玄関へと向かう。
 しかし、そこにはもうあのひとの姿は無かった。
 代わりに自分の瞳に映るのは、すっかり止んだ雪が残した景色。
 私は降り積った結晶が描いた白を見つめる。
 そうするとそこには靴の影――紫さんの足跡が見えた。
 自分はその痕を慌てて視線でなぞったが、やはり先にあのひとはいない。
 だが、私はすっかり晴れた空が照らす雪景色を見て、礼を言った。
「ありがとう……ありがとうございます」


 もう、あの人の家は見えなくなった。
 紫は自分の眼にその建物が見えなくなると、人差し指で空を裂いた。
 すると、そこには歪な口腔を持ったスキマが咲く。
 紫はその口に己の姿を滑り込ませ、潜った。
 深く、ふかく、何処までも。
 無間の底よりも深く。
 そして、紫はその最奥に到達すると、動きを止めて辺りを見回した。
 ここは自分以外誰も居ない場所。
 如何なる者も物も居ない、全てが無の場所。
 そんなスキマの底辺に佇む紫は美しい女性の姿を繰り、その背を撫でた。
 腰上から肩甲骨の下半分までは左指、上半分から首の付け根までは右指で。
 そうすると、触れた部分の生地が花弁となって散っていく。
 暫くするとそこには露になった一条の肌と二つの真っ赤な縫い目。
 紫はその糸の頂点が紡いでいる下翅を引く。
 ぷつりっ。
 弾けた蝶は二つの糸と成り、この妖怪の肌色へと続いていた。
 紫は二本の赤に白手袋の指を潜らせ、その縫合を解いていく。
 それは遅く、速く。
 冷たく、熱い抜糸。
 この妖怪は赤い糸を身から全て抜き払うと、背の一つ、血色の線を滲ませる。
 そして、その淵に美しい姿の指をやると、開いた。
 その瞬間、深紅の門より紫はその姿を現す。
 始めはどんな繊維よりも細く、終わりはどんな海よりも深く。
 それはいつも纏っている美しい金髪のドレスを着た女性の姿ではなく、本当の姿。
 どんな者や物でも泣き出し、死果ててしまう姿。
 ありとあらゆる法則に縛られず、ありとあらゆる法則に囚われている姿。
『この姿を脱ぐのは、何年ぶりかしら』 
 紫は造り物の姿を全て脱ぎ終えると、その抜け殻に心を寄せた。
 それは大昔、記憶すらも滅びてしまいそうな過去に作った美しい姿。
 その女性の繭は瞼を閉じて、頭に布の冠を頂いている。
 この妖怪はその帽子を境界を操る力でそっと浮かし、体を触れずに動かした。
 直接持って動かすのが一番楽だけど、それをするとこの布地は消滅してしまう。
 そうやってこの帽子を目の前――自己が発する虹の力場がそれを損なわない程度の距離にまで持っていくと見つめる。
 そして、紫は想いを今日の出来事に走らせた。
 すると、自然と心には怒りにも似た張りが生まれてくる。
『全く、乱暴な人』
 突然呼び出したと思ったら、いきなりわたしの服を脱がせて中に入ってくるなんて。
『全く、無謀な人』
 わたしの作った仕掛けを諦めもせずに死にそうになるまで歩き続けるなんて。
『全く、頑固な人』
 こちらが説得するのも聞かないで、こちらに近付いてくるなんて。
 次々出る言葉はあの人に対する貶しの声。
 しかし、自分は別にこれらの振る舞いに怒っている訳ではない。
 最も自分の心を尖らせた行動は他の部分に在った。
 それは
『……全く、破廉恥な人』
 わたしを抱き締めた事。
 あの人はこちらの言う事も無視して、勝手に腕を滑らせて抱き締めた。
 その命が滅茶苦茶になる事を覚悟して。
 そのせいでばらばらになった体を修復するのに苦労した。
 まったく、いい迷惑。
 それに初めて報酬を貰った時の話とこちらに触った時の言葉も変だった。
 あんな事をしていた自分に美しいという言葉を当てはめるなんて。 
 命を賭して大嫌いだけど、愛したくなってしまったと囁くなんて。
 矛盾しているし、全く意味が分からない。
 でも、どうしてだろう。
 あたたかい。
 わたしの中が、熱くなっていく。
 あの人に抱き締められた部分が心地良い熱を放っている。
 だが、これは体から物理的に発生している温度ではなかった。
 この灯の源はそれよりももっと深い部分。
 この温もりは自分の奥から発せられているものだった。
 そう、わたしの心の中から。 
 結局自分はあの人の精神を作り変えるという事をしなかった。
 何故ならあの人の心はそのままだったから。
 それも昔帽子作りを依頼をし、笑い合った時そのまま。
 あの人の心は、ずっと同じだった。
 たとえわたしの本当の姿を知っても、その身を引き裂かれようと。
 あの人は、ずっと自分の心を想っていた。
 どうして、あの人の精神は壊れなかったのだろう?
 心には自然とそんな疑問が浮かぶ。
 わたしの頭で計算すればその理由も分かるかもしれない。
 だが、自分はこの現象の解析をしなかった。
 だって、それをするのは野暮な事に思えたから。
『まったく、あなたと会ってから分からない事ばかり増えていくわ』
 わたしはそう呟くと、自分の中に解けない、いとおしい謎を秘めた。
 そして、あの人が目覚めてから互いに見つめ合った時交わした約束に心を廻らせる。
 それは件の命がこちらに求めた『あの報酬』について。
 わたしは誰も居ない場所であの人に言葉を送った。
『馬鹿ね。そんな事あなたに出来る訳がないのに』
 それは何とも計画性と現実性に欠けた願い。 
『わたしの体はあなたより何倍も大きいのよ?』
 それこそ、人間が真面目に測っていればそれだけで寿命が無くなってしまう程。
『それに、わたしの姿はあなたの感覚では完全に認識出来ないわ』
 自分の持つ次元はあの人の何十倍もある。
『いったいどうするの?』
 加えてわたしの体には幾つもの力場が流れている。
 絶対に不可能だろう。
 しかし、わたしはそれでも声を続けた。
『でも、あなたが望むなら……』
 あの人が望む報酬への言葉を。
『良いわよ』
 いや、違う、こうじゃない。
 これは元々自分が、自分の心の奥底が望んでいた事だ。
 だから、こちらから頼まないと。
『お願い』
 わたしはそう言い直すと、あの人に『あの報酬』を求めた。
『わたしの、本当のわたしの帽子を作って』
 自分が本当に欲している事を。
 しかし、可笑しな話。
 普通報酬は頼んだひとが渡すのに、わたしはそれを貰っている。
 反対に報酬を貰うはずのあの人は、わたしに払う事を求めている。
『ふふ、変なの』
 わたしはそうやって軽く笑うと、今までのあの人との出来事に思いを馳せる。
『初めてあなたと会った時はこんな事になるなんて思いもしなかったわ』
 偶々帽子屋に立ち寄って、偶々帽子作りを頼んだだけなのに。
 どうして、あなたはこんなにもわたしの深い部分にいるの?
 どうして、わたしの心をこんなにも温かくしてくれるの?
 その問いの答えは何処からも帰って来ない。
 だが、自分はそれでも良いと思った。
 何故ならわたしは満たされただけで十分だったから。
 今まで空っぽだった心に、消えない熱が灯ったから。
 それにしても不思議だ。
 自分とあの人間は何もかもが違う。
 体の構造も、精神の仕組みだって。
 それにわたしから見ればあの人間は泡沫の幻みたいな命しかしない。
 だが、それでもわたしはあの時――見つめ合った時に満たされた。
 あの人と心を重ね合わせた事よって。
 自分が今まで何をしても拭えなかった辛さや悲しみが全て洗い流されてしまった。
 そして、代わりに入ってきたのはあの人への想い。
 心の奥に潜む小さな、けれども大きな熱。
 一瞬にして永遠を、全てを満たす心の煌き。
『ねぇ、お願い』
 わたしはその火照りに繰られて、再びあの人に報酬の声を送った。
『わたしの、本当のわたしの帽子を作って』
 それは、嘘偽り無き自分の本当の想い。
『わたしも……あなたとあなたの帽子を愛しているから』
 あの人への愛そのものだった。
 わたしはそう言い終えると心を瞑る。
 しかし、それは今までの様な凍えへの拒否ではなく、優しい温かさへの安堵だった。
 暫くすると思考は冷静に次の行動を促し始める。
 さて、そろそろ冬眠して幻想郷の結界の面倒を見ないと。
『ええ、そうね』
 思考は忠実にその命令に従って声の調子を振るった。
 だが、自分はその行動計画に少しだけ逆らって言う。
『でも、その前にちょっとだけ……』
 そして、わたしは温かくなった心を想いで包み、眠らせた。
 あの人への想いを、抱かせて。

 この時、八雲紫という妖怪は生まれて初めて満たされた。
 小さなちいさな人間の愛によって。
 その様子は幸せそうに眠る幼い少女を思わせた。  


 私は箸を持ち、隊列を組むお椀や皿達とにらめっこをしている。
 これは我が朝にとって重大な問題だ。
 しかし、思考は冷やかな鋭利さで緑の葉を捕らえ、口に運んだ。
 むしゃ、むしょ、しょっ。
 臼歯には噛み応え、舌には味覚の痺れ。
 今季は甘味の夫が苦味の妻に勝っております。
 さぁてさて、その夫婦に来客が訪れた。
 次に頬張るは水晶群と見紛う粒。
 ぷちぷちと弾け、満足感の温かさ。
 自分はそれらをごくんと飲み込むと、空になった椀の上に箸を乗せた。
 両手を合わせて別れの言葉。
「ごちそうさまでした!」
 本日の朝食、ご飯とたんぽぽ葉のお浸し、その他細々としたおかず也。
 それから私は食器の片づけを始める。
 あの日以来、自分の生活は徐々にかつてのそれへと戻っていた。
 例えば今まで埃を被らせていただけの釜戸を働かせたり、野に咲く花を摘んで食事の一部としたり、等。
 まあ、幾らか昔の経験が脱落していたので釜戸に生木をくべて咽たりもしたけれど。
 その後私は食器に適切な面倒を掛けると、古びた裁縫箱を持って外へ脚を躍らせた。

 頬を掠める空気は春の息吹を含んでいる。
 自分は初々しい笑顔の草花が並ぶ道を歩いていた。
 私はあの日以来、あのひとに会っていない。
 それに会う約束だって全くしていない。
 だが、それでも自分には確信を持っていた。
 紫さんは必ず私の前に現われる、と。
 だって、『あの報酬』を払うと約束したから。
 『わたしはあなたの、本当の紫さんの帽子を作りたい』というこちらの言葉を受け入れたから。
 なので自分はその為に再び帽子屋を開く準備を始めていた。
 とは言ってもそれを完遂するまでにはまだまだ遠く、あと数ヶ月は掛かるであろう。
 普通に今住んでいる家を帽子屋として使うのであればそこまでは費やさない。
 では、何故そこまで時間が掛かるかと言うと……
 歩いていると視線の先に潰れかかった酷い様の家が見える。
 この家は昔使っていた自宅兼店舗だ。
 私はこのかつての住処を修理し、再びここに戻って帽子屋を始めようと考えていた。
 しかし、長年手入れをしていなかったので大工の手を借りる必要がある。
 よって、今日の自分は予算見積もりをするべく昔、或いは未来の家の前に立っていた。
 私は先ずこの古き自宅の来客側を見つめた。
 店の扉は黒く化粧をして、上の看板は塗料を終わり無き休暇へと旅立たせていた。
 自分は裁縫箱から擦り切れた目盛りの物差しを取り出し、この二つを測る。
「あぁ、看板は仕方が無いとして、扉は……使いまわせるかな」
 採寸された数値は容赦無く銭を要求していた。
「まあ、でも今まで何でも屋をしていて儲かった分もあるから」
 何とかなるだろう。
 私はそれから伸び放題の草花に囲まれた外壁の損傷具合を診たり、傷付いて菌と茸の生えた柱を眺めたりした。
「うん、足りるかな。いや、足りなかったら働いて足らそう」
 また、何でも屋でもして頑張ろうか。
 ちなみに自分はもうその仕事を辞めたのだが、それでも時々昔の噂を聞きつけてこちらに依頼が来る事があるので、暇な時は手伝って銭を貰っている。
 どうやらこの労働には一定の需要があるらしい。
 再び何でも屋を始めれば、恐らく収入には困らないだろう。
 私はそう考えながら外見に眼を滑らせ終えると、今度は家の内観を診る事にした。 
 鑢を思わせる店扉のノブを握って回し、開く。
 ぎぃひひ。
 すると、真っ黒な板が老いぼれの三味線を思わせる声で鳴いた。
 がたふっ。
 しかし、その摩擦多き円滑も途中で崩れて落ちる。
 どうやら今の運動で蝶番は天寿を全うした模様。
 よって、自分が今触れている扉は文字通りただの板になってしまった。
「あぁ……」
 思わず漏れた声は経済的損失への惜別。これで予算の中に蝶番の分が追加された。
 だが、仕方があるまい。
 しかたがあるまい。
 私がそうやって心の中で感情に言い聞かせていると、一つの囀り。
「壊れちゃったわね。どうするの?」
 その声に反応して顔を向けると、つい声を弾ませる。
「ゆかりさんっ! どうしてここに?」
 そう、そこには菫色のドレスを着た我が店唯一の常連客。
「ふふ、来ちゃった」
 自分とって最も大切なひとの姿があった。

 廃墟じみた家の中には古びた椅子が二つ。
 そのうち一つには紫さんが座っている。 
 私は軋む残りの席に腰を下ろすと、女性の繭を纏ったひとに訊いた。
「今日は何の御用ですか?」
 すると、紫さんは金糸の髪と帽子の赤いリボンを微かに揺らして答える。
「わたしの帽子を作って」
 そう言うとこのひとの眼はこちらを見つめた。
 その姿は初めて会った時から変わっていない見慣れた形質。
 しかし、自分は紫さんのその動きを見て妙に心臓を早めた。
 何故ならこのひとの心が今までより遥かにこちらへ近付いている様に感じられたから。
 心地良いのに逃げ出したくて、留まりたい。
 不思議とそんな気持ちにさせられた。
 私はその依頼に火照る声帯を鳴らして返す。
「すみません、今はまだ作れません」
 しかし、それは報酬にして依頼の拒否。
 紫さんは光の睫毛を何ともないと瞬かせるが、少しがっかりした心で応えた。
「何か不都合でもあるの?」
 自分はその寂しそうに奏でられた想いの楽曲に現状を述べる。
「はい、この店を直すのに数ヶ月は掛かりますし、長年裁縫をしていなかった分、腕が鈍ってしまったので少し勉強し直さないと」
 このひとは白手袋に包まれた指を若干動かしてから小さくなった心で一言。
「そう、残念ね」
 その様子はまるでいじけた小さな女の子みたいだった。
 しかし、私はそんな精神を見てもう一声。
「それに……」
 唇の間から明るい色の一滴を付け足した。
「まだ貴方の採寸もしていないんですから、当然帽子なんて作る事は出来ませんよ」
 紫さんはその響きを聞くと疑問符を打ち鳴らしてこちらに視線を向ける。
「えっ?」
 それを見て自分は先程の言葉へ更に謎めいた注釈を付け足す。
「ですから、私はまだ紫さんの体を採寸した事は一度も無いんですよ」
 普通の人であればこの言葉だけでは分からないだろう。
 だが、このひとはやっとこちらの意図に気付いたらしく瞳の色を輝かせた。
「ふふ、そういう事ね」
 そこに宿るは悪戯っぽい心の光。
「でも、どうするの? 私の体を測っているとそれだけであなたの寿命が無くなってしまうわよ」
 そして、薄い唇の赤からは私を弄る言葉が躍る。
「いいえ、大丈夫です。急いで測りますから」
 自分はそう言うと今まで持っていた物差しで周りを素早く測る仕草をした。
 紫さんはそんな破綻しているこちらの計画を知ると、少しだけ口端を吊り上げて訊く。
「そう。でもわたしの見た目はどうするの? あなた、この前わたしを見ただけで気分を悪くしていたじゃない」
 これはこのひとからすれば深刻な問題である。
 しかし、紫さんは何とも軽い口調でそう言った。
 そう、このひとは分かっているのだ。
 私がどう答えるかを。
「いえ、大丈夫です。我慢しますから。それに何度か見ていればそのうち慣れて耐性も付くでしょう」
 その回答を聞くと紫さんはもっと口の端を吊り上げ、金色を放つ眉で穏やかな曲線を描いていた。
 そして、更にこのひとはこちらの完璧な無計画さを指摘する。
「でも、わたしの体の影響はどうするの? あなた、わたしに触れただけで体が滅茶苦茶になってしまうわよ」 
 自分はそれにまたもや根拠無き論を張り巡らそうとしたが、流石に種が尽きていた。
「ええと、それは、ですね」
 よって、私はもうそろそろ観念して素直に紫さんに降伏する。
「紫さんのお力添えを……お願いします」
 すると、このひとは暫く整った白い顔に座する表情を止めた。
 ふふ。
 くすくす。
 ふふふ。
 くすくすくす。
 ふふふふ。
 くすくすくすくす。
 ふふふふふ。
 くすくすくすくすくす。
 そして、その表情を堪え切れずに崩すと、唇の間から笑みの音を溢す。
 自分もその声に釣られて笑う。
 それは今まで紫さんと交わした事の無い、透明感ある清々しい可笑しさだった。
 時間の雑踏がある程度過ぎると私の笑みは治まる。
 しかし、このひとはまだそれが退いていない様でくすくす声を含んで話し掛けた。
「ふふふ、あなたって面白い人ね」
 自分に注がれるのは紫さんの心から生まれる笑み。
「でも、良いわよ。採寸や制作、何でも手伝ってあげる」
 私はそのありがたいお言葉に真面目に頭を下げて声を一つ。
「ありがとうございます」
 このひとはそんな自分の御辞儀に声を振り掛ける。
「じゃあ、早速採寸を始めたいのだけど、いいかしら?」
「はいっ!」
 私がそう勢い良く答えると、紫さんは椅子から立ち上がってその準備を始めた。
 目は暫くその行動を見ていたが、やがて何かか変だと気付く。
 きっかけはみるみると赤くなっていく己の頬。
「ゆかりさん、ちょっと」
 このひとはこちらの火を含んだ声を汲み、涼しい疑問の音を奏でた。
「どうしたの?」
 自分はそれに対して見た事をそのまま口にする。
「あっ、いや、ええと、紫さんの体は少々特殊なので何度も採寸したいと思っているのですが、その、採寸する度に服を脱ぐのは、いくら本当の姿ではないとはいえ、私の精神衛生上ちょっと……」
 それはドレスを脱いで肌を多くさせている紫さんの姿。
 このひとはその問題を指摘されると、心を赤くさせる。
 慌てて紫色のドレスを掴んで体の前に持っていくと、その色を隠す。
「ごめんなさい。今まで気付かなかったわ」
 私は恥ずかしそうな声を零す姿にこれまた後ろを向きながら恥ずかしそうに答えた。
「いいえ、私も今気付いたので」
 それから暫くして沈黙の中に衣擦れが響くと、紫さんは背中越しに声を響かせる。
「……ねぇ、わたしって端たない?」
 か細く、火照った声だった。
「いえ、過去に私も貴方に色々と失礼をしてしまいましたから」
 自分はその心に付かず離れずの曖昧な言葉。
「そう」
 こちらの一声にその相手も同様の声。
 噛み合わない静寂が暫し流れる。
 いけない、答え方を間違えたかもしれない。
 しかし、こんな時に発するべき答えとは一体どのような物だろう。
「もう着終わったから大丈夫よ」
 対話の空白を切り取ったのは後ろの声。
 私はそれに従って振り向いた。
 すると、そこには年寄り椅子に座ったこのひとの姿。
 勿論服はしっかりと着ている。
 そのドレスは初めて帽子の受け渡しをした時と同じ物だった。
「ここに座って」
 紫さんはそう言ってもう片方の椅子を指差すので、自分もそこに腰を下ろした。
 二つの座り場所は近く、下手をすれば互いに接触事故を起こしてしまう程の遠さ。
 私はその状況にもっともな質問を括り付けて浮かばせる。
「あの、それでどうやって採寸すれば良いのでしょうか?」
 その謎掛けに対して突然このひとは座ったままこちらに背を向けた。
 そして、そうやって見せた後ろの体を左手で小さく撫でると、こう呟いた。
「こうするのよ」
 すると、花弁が一枚、二枚、三枚、散る。
 時と触れ合いながらその菫色は増えていく。
 己の眼はそれに見覚えがあった。
 これは、紫さんの服だ。
 ドレスが、その下に纏う白が、散っている。
 しかし、それは以前の様に全ての服を舞い落とす訳ではなく、腰の上から首の付け根を露にしただけだった。
 その白い清流を感じさせる肌には深紅の交差が走っている。
 自分はその可視化した肌と床に横たわる布の花弁を一瞥すると、何とも台無しな言葉。
「ドレス、どうしましょうか? それに掃除も大変ですね」
 このひとは余程それが愉快と感じたのか、肩越しにこちらを見て微笑んだ。
「ふふ、後で元に戻すから大丈夫よ。それに掃除だってしなくて良いわ」
 そして、こちらに穏やかな熱で願いながら命令する。
「ねぇ、お願い。わたしの縫い目を解いて」
 私はその言葉にただ一息の音。
「はい」
 自分の指は赤い糸蝶の下翅に触れた。
 ぷつりっ。
 そうして弾けた結び目は二つの糸と成り、紫さんの肌へと続いている。
 私は崩れた我が家の屋根から差し込む光に照らされる縫合に手を潜らせた。
 その作業過程は女性の繭から赤い糸を引き抜き、傷口を開かせるという非常識。
 しかし、自分の心には以前の様な甘さや苦さといった香りは襲って来なかった。
 在るのはこのひとの為に帽子を作るという単純な想いだけ。
 やがて私は深紅の命滲みこむ糸を引き抜き終えると、その真っ赤な一条を見つめた。
 すると、その線は赤よりも赤い赤を滲ませ、誰も見た事の無い風景を映す門となる。
 紫さんはそうやって入り口の支度を終えると水晶の様な言葉を響かせた。
「もう中に入っても良いわよ」
 自分はその綺麗に躍る音に返事の意味を返す。
「はい、ありがとうございます」
 そうしてこの赤き戸口の淵に手を掛けると、中に入ろうとする。
 だが、私はそうする前にこのひとの名を呼んだ。
「紫さん」
 そんなこちらの様子に我がお客様は首を不思議そうに傾けて訊く。
「なに?」
 自分はそうやって己を見つめる大らかな心に一言。
「これからもよろしくお願いします」
 紫さんはその言葉に竜胆の瞳を煌めかせ、嬉しそうな声音で返した。
「ええ、こちらこそ」
 私はその優しい響きに押されて赤き戸口に自分の身を沈みこませる。
 それは幻想郷からこのひとの前へと至る道。
 そして、自分は本当の姿の紫さんに会う前に思った。
 そうだ、これは始まりだ。
 私の帽子屋は、ここから始まる。


 幻想郷のある場所には帽子屋が一つ。
 そのお店はおしゃれ専門。
 しかし、その業績は芳しくなく、お客はひとりだけ。
 しかも店の主は一銭も受け取らない。
 よって、この帽子屋は副業をしてその経済力不足を補っている。
 加えてこの店主と常連客の関係もおかしかった。
 帽子屋は報酬の形でお客の依頼を受け取っている。
 お客は依頼の形で帽子屋に報酬を払っている。
 何とも言えない変な繋がり。
 もうその人間が帽子を作り、お客の妖怪がそれに対して報酬を出すという関係も成り立たなくなっていた。
 おまけに常連客の妖怪は想像も付かない程異質で広大で、それに対してちっぽけな帽子屋の人間はいつまで経っても報酬にして依頼の帽子を完成させられそうにない。
 しかし、それでもこの人間と妖怪は幸せだった。
 一瞬と永遠を越えた場所でいつまでも互いの心を交わし、愛し合っていたから。
 みんなおひさしぶり!
 ゆかりちゃんみたいな超絶チート能力を持つ妖怪が人間の姿をしている訳が無いよね!
 そんな事を思ってこのお話を描いてみたよ。
 みんなはゆかりちゃんのどこが好きかな?
 ちなみにこのお話はいくつか過去に私の書いた話と繋がっている部分もあるよ。
 暇だったら探してみてね!


 それと突然現われて失礼ですが、私タダヨシはもうこのお話で排水口を引退しようと思います。
 理由は特にありません。引退するので引退します。
 思えば一作目の『たかる、虫は』からこの作品まででもう三年も経っていたんですね。
 初めて投稿した時の緊張は今でも忘れる事は出来ません。
 もちろんコメントを貰った時の喜びも。
 とにかく私はここ排水口で自分の創作物を発表出来て幸せでした。
    
 終わりに今まで私に作品を描く場を提供してくれた管理人さん、自分の作品を見てくれた人、コメントを付けてくれた人、その他素敵なお話や発想をくれた作家さんや排水口関係者の皆さん今まで本当にありがとうございました。
 皆様を決して忘れません! 
 とは言わないですが、一生心の中に残しておきます。
 
 そ れ で は 皆 さ ん 、さ よ な ら は 言 わ ず に ば い ば い !
タダヨシ
作品情報
作品集:
4
投稿日時:
2012/07/06 12:20:34
更新日時:
2012/07/06 21:20:34
評価:
4/5
POINT:
430
Rate:
15.17
分類
※新徒・産廃創想話、作品集1『紫と帽子屋』の続編
でもスカトロは無し
キャラ色々
スケールが広くて狭い
色々な描写があるので注意
独自設定あり
ジャンル分けどうしよう
今まで投稿した話の中で一番長いので本当に時間のある方向け
これで引退するからやりたい放題
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0. 30点 匿名評価
1. 100 あっち ■2012/07/07 00:33:42
すばらしい作品でした の一言です

良い物をありがとうございました
2. 100 んh ■2012/07/07 01:09:47
ああ、なんか色々書きたいけれど上手く書けないな。

『紫と帽子屋』はとても好きな話でした。で、まさかあの続編がこうなるとは思いませんでした。

まず何にも先んじて、この話を読ませてくれてありがとうございます。今、これを読めてよかったと心から思えます。
ああ、これしか書けないなあ。ほんとゴメンナサイ
3. 100 名無し ■2012/07/07 19:28:16
でっかい!凄くでっかい!もうなんといいますか…夕食の焼肉を30分延期してまでも読んでしまった…
5. 100 名無し ■2012/07/08 20:02:12
第1段階:えらい大作が投下されてるな、気になるしクリック
第2段階:最初に後書きを見てみた、前作があるなら先にそっち読むか
第3段階:なるほどそういう話か…気になるしさわりだけでも
最終段階:今日の予定全キャンセルで読破 ←今ココ

最初に感想を一言に纏めると「羨ましい、嫉ましい、見事。」

常々思っているのが、八雲紫という妖怪の特殊性は解釈の仕方が十人十色だという事。
他の少女達と大して変わらないと思う人もいれば
この小説のように他妖と一線を画すどころではない真相を持つと考える人もいるでしょう。
自分はどちらかと言えば後者派なのですが(笑)、
悪い言い方をすればこの手の「ぼくのかんがえたゆかりんのにじせってい」って
内容はさておき形として纏め上げるのって非常に困難だと思うんですよ。特に後者派の場合。
ましてやそれを脳内で構築するだけならまだしも、こうして小説として(もしくは絵として)具現化するとなると
エネルギーが最後まで持たない事も普通じゃないかなあと…
だからこうして形にして発表できる事自体が羨ましいし、
八雲紫に対する独自の解釈が素晴らしく確立しているのが嫉ましいし、
何よりも小説として一気に読んでしまえるというのが見事だと思ったわけです。

まあ通りすがりの一読み手が長ったらしいコーシャク並べたところでこの作品の価値が変わる訳でもないけど
なんと言うか「いーもん読ませてもらいました」で済ませるには惜しいほど自分の趣味に合ってたので…
随所に出てくる東方キャラ達もいい味出てるし、抜けだせなくなる魅力的な作品だと思います
様々な意味でお疲れさまでした
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