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『チルド・フレンド・チルドレン』 作者: pnp
森のとある場所に、点々と切り株が置かれている地帯がある。それらの一つに腰かけている氷の妖精チルノの表情は、快活で無邪気な妖精らしからぬ険しさがある。悲しみと不安と憤りで濁り切った彼女の双眸に映るのは、森林伐採の傷痕である大量の切り株と、見渡す限りの平地と化しつつある森であった場所だ。切り倒された大量の樹木と、風に飛ばされてあちこちに散乱している大鋸屑や枯れ葉、そして無法者たちの足跡――美しかった森は、今はもう見るに堪えない程に荒れ果ててしまっている。
沈痛やるかたないと言った面持ちで、この変わり果てた森を眺めながらあれこれと考え事に耽っているチルノの傍には、一人の妖精が佇んでいる。緑色の長髪を一つに束ねているこの妖精は、ある固定した『名前』と言うものを持っていない。妖精にはよくあることである。
しかし、一般的な妖精と比べて一回り体が大きく、また、妖精にしては知性に富んでおり、やや力も強いことから、妖精でない者からは『大妖精』と表現されている。
この大妖精もまた、チルノと同じように、住み慣れた森林の激変に慨嘆している。雨に濡れそぼった花弁のように愛くるしい潤いを湛えた瞳が、その何よりの証拠である。故郷と呼ぶに相応しい森を好き勝手に蹂躙され、悲しみを覚えない筈が無いのである。
「また、森が無くなっちゃったね」
息苦しい静寂を、大妖精が控え目に打ち破ってみる。チルノはすぐに返事をしなかった。大妖精の声、小鳥の囀り、風の音、そして葉擦れ――何もかもが二人を白けさせ、そして空しくさせた。
「みんな、これからどうなっちゃうんだろうね」
そんな白けた雰囲気をチルノも嫌がったらしく、特に意味も無い言葉を漏らす。住処を失いつつある妖精の行く末など、深く考えずとも知れたことである。その言葉も、やはり空しさを生むだけの結果に終わった。
瑞々しく、そしてひんやりとした森の澄んだ空気は、二人の冷え切った心情を表しているかのようである。
物憂げに朽ち果てた森を眺めていた二人の背後から、現状に似つかわしくない明々たる複数人の話し声が聞こえてきた。興奮こそ明朗としているものの、その会話の内容は、およそチルノ達の気持ちと同じである。身勝手な妖怪達が突然始めた森林破壊に憤慨し、稚拙で感情的な文句を絶え間無く並べている。声色の幼さと、その聞くに堪えない幼稚な言葉遣いから、妖精の集団であることが分かる。
チルノと大妖精は自然とそちらに目をやっていた。妖精の集団もチルノ達に気付いたようで、
「何をしているの?」
などと訪ねながら、二人に歩み寄って来た。
チルノは眉宇に鬱陶しさを示した。彼女の思考も要領を得なく、それ程大した意味を有したものでは無いが、とにかくチルノは静かに考え事がしていたかったのである。このやかましい妖精集団が近くに居座っては、もう考え事どころではない。
妖精の集団はチルノの気持ちなど知らないで、住処を荒らす不愉快な妖怪達の悪口をずらずらと並べている。そんなことを言っても何か解決する訳でもないし、万が一相手方に聞かれたら面倒なことになりそうなので、大妖精は苦笑いを浮かべつつ、「そうかもね」とか「つらいね」とか、当たり障りの無い返答をしていた。
しばらくチルノは黙っていたものの、この騒々しさに遂に耐え切れなくなったようで、ぽんと切り株から飛び降りた。
「ああ、もう。うるさいったらありゃしない! あたいは考え事したいんだから!」
そう言うと、陰気な表情を不機嫌さで更に歪めて、あっと言う間にどこかへ飛んで行ってしまった。慌てて大妖精が後を追おうとしたのだが、妖精の一人が彼女の手を取っていたので、そこから動くことができなかった。
「チルノの怒りんぼ!」
などと言う可愛らしい罵倒は、飛び去って行くチルノの耳には届かなかったらしく、振り返ることもなく、チルノは澄み切った空の彼方へと消えて行った。
大妖精が、チルノの消えて行った空と、思い付く限りの罵詈雑言をずらずらと並べている妖精を忙しく見比べていると、
「みんなどうしたの?」
どこからともなく、別の妖精集団が現れ、大妖精らと合流した。場は余計に騒然とし始めた。別に妖精達が嫌いな訳ではないが、大妖精も今はそんな風に騒いでいたいと言う気分では無かった。早々にこの場を後にしたチルノの行動は英断であったようである。
森の死は自然の死。自然の死は妖精の終焉――余生の長さにあまりいい展望を見いだしていない大妖精は、その短い余生はできるだけ大好きなチルノと一緒にいたいと願っていたのだが、妖精の集団がそれを許さない。
ほっ、と小さくため息をつくと、一先ず、加勢した妖精を交えたことで余計に熱を帯び始めた妖怪たちへの呪詛の輪唱を止めさせるべく、大妖精は奮闘を始めた。
騒然たる森の一角を離れたチルノは、森の縁であった場所に着地した。この地帯は伐採が特に進行しており、伐採の痕跡である切り株まで引っこ抜かれて、今や完全なる更地と化している。破壊されている森の末路を見ているようで、チルノは思わず直視を忌避し、目を伏せてしまう。
夜になると夜雀が鰻屋台を開き出すのが、このチルノがいる地点である。森を背景にした屋台を見ることは、もうできないのかと思うと、哀愁の情を催さずにはいられない。
屋台で飲んで食う金が無いからと、呑兵衛達の織り成す喧騒に混じって騒いでいたことなんかを思い出していると、
「チルノさん」
静謐さを求めて逃げて来た先で、またも声を掛けられてしまった。チルノが反射的に振り返る。
「鴉天狗」
チルノに声を掛けたのは、鴉天狗の射命丸文。相変わらず、腹の底を探りにくい微笑を浮かべているが、今日はそこに僅かな陰りが窺える。
チルノの表情が一変した。哀愁の情は消え去り、取って代わったのは侮蔑と激憤である。純粋無垢な睨視は、文の心を容赦無く抉る。文はチルノに対して、淡い恋心と、死んでも償えない後ろ暗さを秘めているのである。
妖精達を混沌の渦に叩き込んだ森林伐採は、ここ最近になって一気に進んだ。幻想郷の発展と、科学技術の利用というにが、伐採の理由である。いずれほとんどが更地と化すこの森に、何やら新しい建造物が立てられるらしい。
この活動の主導者は、妖怪の山の天狗達と、その麓を流れる河に住まう、幻想郷屈指のエンジニアたる河童達。それから妖怪の山の上に神社を構える二人の神様。晦渋な言葉でもって幻想郷の妖怪・人間を言い包め、この神々の信仰の源となる『科学技術』を駆使することを是とさせた。そしてその足掛かりとなったのが、この森の開発と言う訳である。物事を人に勧める上で、第一印象と言うのはとかく肝心であるので、神々も、その恩恵を被ろうとしている天狗達も、更なる技術向上を夢見る河童達も、皆一様に躍起になっているのである。
一応、森に住む妖精や妖怪達は『立退き』を命ぜられていた。妖怪は住み慣れた地を捨てて、新たな住処を見つければ済むことなのだが、妖精達はそうはいかない。自然無くして妖精は生きられないのである。
おまけに、妖精達の知能では、今度の騒動の趣旨を理解するのは相当困難であるようで、聡明で言葉巧みな天狗が、いくら事の重大性や、科学技術発展の素晴らしさなんかを説いて聞かせても、妖精達はまるで理解できず、
「よく分からないけど、とにかく森は壊しちゃダメだよ」
この一点張りであった。埒が明かない。
進展しない妖精達との交渉に痺れを切らした河童達の暴走が、事態を一変させた。妖精達が何やら喚き散らすのも一切無視して、河童達は森林の開発に着手し始めたのである。
森を壊しちゃダメって言ったのに! ……妖精達の激憤と焦燥は、罪悪感から目を背けるべく一心不乱に活動をする河童達の声と、倒木の音に掻き消されるばかりであった。
巣を構えていた樹を失った野鳥達と同じように、居を構えていた森を失った妖精達。しかし彼女らには野鳥の『次なる樹』に相当する新地は無く、日々路頭に迷うばかりである。
知能が低い者がほとんどであるから、森を犯されて尚、起きていることの次第を理解できていない者が多くいる。それだから、
「どうしてこんなひどいことをするのか」
と、今更のように言う妖精が多発した。始めた開発を中断する訳にはいかず、河童達は勿論、指揮をする天狗達も、まともに妖精の相手などしなかった。何を言っても取り合ってもらえないのであれば仕方が無いと、作業中の河童達に襲い掛かる妖精も現れた。……貧弱な妖精が行ったその敢行がどのような結果を齎したかなど、言わずとも火を見るより明らかであろう。
チルノや大妖精などのように、何となくではあるが現状の理解ができている妖精は極めて少数である。そう言った妖精達の言葉になら、現状を把握できていない妖精達も素直に耳を傾けるのであろうが、人に物を教えるのには、それを通常の三倍は理解していないといけないと言われるように、一握りの知的な妖精達にも、理解力の低い仲間達に起きていることを説明する程の知識は無かった。
だから結局どんな妖精達も、日々、臍を噛むような思いで、庭の様な場所であった森が穢されて行くのを見守ることしかできないのである。
こういった理由があって、妖精達にとって天狗や河童は忌むべき存在となっているのである。妖精たるチルノに好意を抱く文としては心苦しいことであるが、彼女に今度の伐採に何か意見することはどうしてもできなかった。しかし、彼女は責められる必要など無い。恋情の為に組織の足並みを崩すなど、愚行中の愚行だ。
「何か用?」
冷淡なチルノの声。彼女はまだ幼い。嫌悪感を隠す気などさらさら無い様子である。
文は精一杯笑顔を作りながら言う。
「お茶でもいかがです? この度は、いろいろご迷惑をお掛けしていますから……」
「お茶飲んだら森が元に戻るの?」
言下に放たれた一言。流石は氷の妖精、とでも言わんばかりの冷徹な声色、そして表情、言葉。文の表情も、その凛冽たる一言にやられて凍り付いたかのように、引き攣った笑みを浮かべたまま動かなくなってしまった。
チルノはまたもその場を離れようとしたのだが、ふと考えた。
射命丸は鴉天狗なので、この森林破壊活動の詳細を知っているかもしれない。どうにかすれば、この活動を止めることもできるかもしれない――。
ふん……と、心中でめらめらと燃え滾る怒りの炎が発する熱を放散するように鼻を鳴らし、チルノが腰に手をやる。
「いいわよ。飲んでやるわ。お茶」
随分と上から目線の物言いだが、本来天狗達は妖精達に頭の上がらない所業を行っている。おまけに文はどうにかチルノに詫びたいと言う一心であったし、妖精がそう遠くない未来に消滅してしまうのを知っているので、少しでも生ける彼女と交接しておきたかったので、チルノの不遜な態度に気を悪くすることは少しもなかった。
文が先導し、二人は妖怪の山へ向かった。
緑の薄い、石と岩でできた無骨な岩山が、天狗達の住まう妖怪の山である。天にも届きそうな高々とした山の威容は、天下では飽き足らず、天上まで手に入れようとでも言いたげな、天狗達の飽くなき支配欲が表れているようにも見える。
山肌の数か所に、まるで化け物の口のような洞窟があり、そこから蟻塚のような体裁でもって、天狗達の住処が内部に広がっている。入口は数か所あるが、最終的には中で繋がって一つになるような設計になっている。
洞窟の入り口に着地した二人は、その後は徒歩で文の住まいへと向かった。蟻塚のような住処の中の『居住区域』と呼ばれている、長い地帯の壁には、一定の距離を開けて連続して扉が設えられている。その中の一つが、文の住居である。
天狗の住処を歩くのは、チルノは初めてであったが、その異様な雰囲気に顔を顰めていた。
今、二人が歩いている『居住区域』の細長い道は、壁も床も天井も全て自然の岩でできている。それなのに、陽の届かない山内の闇を打ち消す灯りは、幻想郷ではまだ貴重な電気が採用されている上に、真鍮で作られている、やたらと意匠を凝らした造形のシェードが、美しい幾何学模様の影を作り出しており、そのアンバランスさが、チルノにはどうしても不格好で不自然に見えるのである。
そうしている内に、文の住居へ到着した。
文が「どうぞ」と一言添えて扉を開く。外があの有様であるなら、一体住居はどんな空間が作られているのだろうと、チルノは聊か緊張して、住居の中に足を踏み入れた。しかしそこは、チルノが想像していたようなけばけばしい作りにはなっていなかった。至って古風で、それでいて雑然としていて、真新しさや新鮮味はほとんど無い。胡乱な部屋の様相からは、夢もへったくれも無い生活感が滲み出ていて、チルノは聊か辟易してしまった程だ。
「汚くて申し訳ありません」
含羞の声色で文は言い、身近にあった新聞作りの残骸たる反古の山を軽く整頓したりしてみたが、焼け石に水である。
中央に置かれたテーブルには向かい合った二つの椅子が置いてあり、好きな方へ座るようにと文が勧めた。そして、部屋の散らかり具合の次にチルノの目を引いた、縦長長方形のクリーム色をした巨大な箱へと歩み寄る。チルノの目にその箱は、クロゼットのようにも箪笥のようにも見えないのだが、観音開きの扉と引き出しが備わっているのが確認できたものだから、それが一体何であるのかがいよいよ分からなかった。因みにこれは冷蔵庫である。家電は幻想郷では高価な品なので、妖精が知らないのは仕方があるまい。
観音開きの扉を開くと、光と冷気が漏れだしてきた。冷気のスペシャリストたるチルノは、そのいかにも作り物らしい不純な冷気に辟易し、顔を顰めた。
「コーラはお好きで?」
文が問う。
「何それ?」
チルノは言下に問い返したのだが、
「飲んでみますか?」
返事を待たず、文は冷蔵庫から大きなペットボトルに入ったコーラと呼ばれる飲料を取り出し、次いで傍の棚からコップを一つ手に取った。
液体化した失敗作の鼈甲飴、若しくは、やけに透き通っていてきらきらした醤油――そんな第一印象を抱いた水物をコップに並々と注がれ、どうぞと差し出されて、チルノは思わず狼狽えた。見てくれが既に異様であると言うのに、加えて小さな気泡がとめどなく湧いて出てきているから、その怪しさは一入だ。
意を決し、飲んでみると、口内や喉が焼けるような感じがし、激しく咽た。発泡の衝撃が強すぎて、美味いか不味いかを吟味している余裕などなかった。本当に飲み物なのかどうかさえ窺わしいと言った具合に、まだコップに半分以上残っているコーラを睨めているチルノを見て、文は呵々と笑う。
「初めはそうなりますよね、やっぱり。まだ飲みます?」
「いらない!」
チルノが即答すると、文は残ったコーラを一息で飲み切ってしまった。喉元で弾ける感触を放散させるように深呼吸をした後、得意げに笑って見せた。しかし、そんな文を見るチルノの眼差しには、「こんなゲテモノをよく躊躇いもせず飲むことができるな」と言う畏怖と侮蔑の念しかない。それらはチルノの表情によく表れており、文は苦笑するしかなかった。
冷蔵庫から冷えた緑茶の入った容器を、流し台からは二つの新しいコップを、棚からは菓子を取り出し、その全てをテーブルに置くと、ようやく文も椅子に腰かけた。コップに同じ量の緑茶を注ぎ、一つをチルノに差し出す。一緒にお菓子も勧めた。
テーブルの中央に置かれた皿には、菓子が山と積まれている。チルノはその一つを摘まみ上げた。てかてかと光る赤色の包み紙に包まれているのは、少しばかり酒の入った一口大のチョコレート。幻想郷では滅多にお目にかかれない珍品である。普段であれば、チルノは喜び勇んでこの菓子の山を崩しに掛かったことであろうが、この菓子に喜びを示すと、外界にかぶれて変化していく幻想郷を肯定しているような感じがしてしまうので、素直に喜べない様子である。
それでも、手に取ったものは仕方があるまいと、チョコレートを口にする。洋酒の芳醇な香りと、甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がった。だが、幸せを感じることができたのはほんの束の間のことで、次の瞬間にはチルノ達妖精が置かれている絶望的な状況を思い出し、幸せを呼んだ菓子の味はどこかへと消え去っていった。
そのたった一粒ですっかり手が止まってしまったチルノに、文は「遠慮せずにどうぞ」と菓子を勧めるが、チルノは「いい」とぶっきら棒な口調で返事をする。
チルノが今、悠々と菓子など食っている場合でないことは、文も重々承知している。しかし、だからと言って彼女がしてやれることなど、こうやってほんの束の間の幸せを提供してやることくらいのものである。そして同時に文は、チルノが現状に対してやれることなど無に等しいことを知っている。
「こんなに美味しいお菓子なのに」
文は青い包み紙に入っていたチョコレートを一つ、口へ放り込んだ。口の中で転がしながら、ゆっくりとチョコレートを溶かしている最中、
「森は助けられないの?」
目を伏せながら、チルノが唐突に問うた。
口の中でチョコレートを転がしていた舌の動きがピタリと止まる。同時に視線もチルノを見やって動けなくなってしまった。
悲しげな表情で俯くチルノ。ヘの字を描く口は涙を堪えている証拠であろう。そんな氷の妖精の表情を見て、文はチョコレートを噛み砕き、飲み込むと、
「残念ながら……」
沈痛たる口吻で呟く。
「そう」
小さく返事をしたチルノの声色に、失望の念はあまり感じられない。端から期待など抱いていなかったようである。
場はたちまち、重苦しい静寂に包まれた。本当に重量を持っているかのようで、二人の目線は自然と下へ、下へと向けられて行ってしまう。
「ごめんなさい」
ようやく放たれた文のこの一言では、残念ながらこの闃寂の世界に変革を齎すことは叶わなかった。
チルノは返事をしなかった。許すつもりなど毛頭無かったからである。
そのまま、二人とも黙りこくってしまう時がしばらく流れたが、不意にチルノが手を目一杯開いて、菓子の盛られた皿に手を伸ばした。掴めるだけ菓子を掴んだようである。その小さな手では、掴める菓子の量など高が知れていたが。
掴んだチョコレートを手元にばらばらと置き、片っ端から包み紙をむしり取って、チョコレートを頬張り出した。『自棄酒』ならぬ『自棄菓子』と言ったところであろう。自身の生がそれ程長くないことを確認したから、せめて生きている今の内に幸福に肖ろうとしているのである。文は目を丸くしてその様子を眺めていたが、しばらくしてやはり悲しげに眼を伏せた。
怒りと悲しみの念に後押しされて生まれた猛然さに圧倒され、菓子の山は見事に姿を消した。不幸を紛らわす為に暴力的な食われ方をされ、菓子達もさぞや不愉快であったことであろう。
洋酒入りのチョコレートを大量に食ったお陰で、チルノは軽く酔っぱらってしまったようで、その頬をほんのりと赤色に染めている。とろんとした表情に、重心が定まらず右へ左へと揺れる矮躯。
「大丈夫ですか?」
文が声を掛けた。チルノは「平気」と即答する。
惚けた顔で部屋をぐるりと見回すと、
「ここはまだ、それ程新しいものは無いのね」
脈絡無くこんなことを言った。
「ええ。まだ、それ程には」
文はこう返事をした。
チルノはしばらく、部屋の散らかりようなんかにぐちぐちと文句を言っていたのだが、不意にある一点を指差して問うた。
「ねえ、あれは何なの?」
文が指差された方へ目をやる。そこには冷蔵庫があった。
「あれは冷蔵庫と言うものです。中はいつも冷たくなっていて、そのお陰で食べ物などを長く保存できるのですよ」
文が説明すると、チルノは「ふーん」と、いかにも興味が無いような気の抜けた返事で説明を一蹴したのだが、しばらくするとおもむろに椅子から降り、とことこと冷蔵庫に歩み寄って行った。
観音開きの扉は位置が高くて開け辛いので、代わりに引き出しを引く。野菜が大量に入っている。庫内から漏れ出した冷気はやはり作り物の気質が強く、チルノは顔を顰める。
「ああ、なんて悪い冷気なんだろう!」
冷気に良し悪しがあることなど文は知らないので、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
その劣悪な冷気の猛襲に耐えながら、チルノは庫内を見下ろしていたが、しばらくしてこんなことを問うた。
「ここに入れている限り、この野菜はずっとこのまま?」
文も席を立ち、チルノの傍に佇み、答える。
「さすがに永遠にとはいきませんが、外へ置くよりは遥かに長持ちしますね。……冷気を操るのに、こういうことを知らなかったんですか?」
少し呆れたような口調で文が言う。チルノは大きく首を縦に振る動作を、それへの返答とした。
次いでチルノは観音開きの扉へ目をやる。
「そっちには何が?」
「こっちはさっきのコーラや、緑茶などが。因みに、真ん中の段の引き出しは冷凍庫と言って、氷を作ったり、お肉なんかを凍らせて保存できたりするんですよ」
物売りのように冷蔵庫の機能を説明する文。チルノは「へえ」と感慨深げに一言。軽く酔ったことで気が大きくなっているのか、先程のような悄然たる様相は見られず、幼い子どもらしい無邪気な輝きを瞳に湛えて、珍品たる冷蔵庫を見上げていた。
冷蔵庫観察を終えると、コップに入れられた緑茶を飲み、文に御礼と「さよなら」と言う簡素な別れの辞を告げ、妖怪の山を去った。
この「さよなら」は、ただ単に他人の居を後にする時の常套句としての挨拶だと文は勝手に思い込んでいたのだが、氷の妖精を見るのがこれが最期になろうとは、文はこの時、思ってもいなかった。
*
大妖精は、霜の降りた森を一人で漫ろ歩きしていた。すっかり木々は切り倒されて、森は殺風景になりつつある。もうじき、ここは『森』と呼べなくなるのであろう、と思うと、堪らなく悲しかったので、すっかり変わり果ててしまってはいるが、まだ森と呼べるこの思い出の地を網膜に焼き付けておこうと、大妖精は朝早くから起き出し、森を歩いているのである。
しかし、陽が昇る前の森はあまりにも薄暗く、見ていたい景色は彼女が思っている程、鮮明に目に映らない。
東の空を見やる。太陽はまだ昇り切っていない。
陽光さえあれば、愛しの森の全貌を見ることができる。だが、時間の経過は森の死滅の進行に等しい。そう言ったジレンマに囚われながら、気の向くままにそこらを歩き回っていた、その時であった。
進行方向に佇む巨木の向こう側から、何者かがひょいと姿を現したのを、大妖精は辛うじて確認した。その者は、巨木から姿を現し、じっとその場に佇んでいる。思わず大妖精は逍遥の足を止め、
「誰?」
と、恐々と問う。今は、読んで字の如く彼は誰時である。暗い森の中では、誰かいると言うことは分かっても、それが誰なのかまではどうしても分からない。目の前に突如現れた人物の正体を掴もうと、懸命に目を凝らす。
大妖精の眼が人物の正体を暴くよりも先に、相手方が声を発したことで、それが判然とした。
「あたいよ、あたい」
「チルノちゃん?」
不安げだった表情を俄かに明るくさせ、大妖精は小走りに、今の今まで正体不明であった人物に駆け寄る。声の通り、それはチルノであった。
昨日は失意のまま別れてしまった意中の者に、こんなに静かな時に出会えるとは何たる幸運と、大妖精は日々頭を悩ませる数多の問題も忘れて、心を躍らせた。
飛び付かんばかりの勢いは、飛び付く寸での所で、分別の念に相殺された。
「おはよう、チルノちゃん。こんなに朝早くから出会えるなんて」
「うん、おはよう。あたいも会えて嬉しいわ」
「嬉しいって?」
「なんだか、あんたと一緒にいると落ち着けるもの」
出会い頭に思いも寄らない一言を捧げられ、大妖精は顔を赤く染める。闇がそれをひた隠しにしたお陰で、チルノは大妖精の思慕の念に気付くことなく、更に言葉を紡ぐ。
「思えばあんたって、いつも他の妖精と一緒にいる気がするんだよね。きっとみんな、あんたの傍は居心地がいいって思ってるんだよ」
「そ、そうかなあ」
やたらと褒めちぎられたお陰で、大妖精はすっかり照れてしまい、頬の朱色を一層強めながら微笑んで、綺麗な長い緑色の髪をくるくると指に巻き付けたりなんかしている。
「きっとね」
チルノは寂寞たる笑みを浮かべてこう言ったのだが、これまた闇がひた隠しにしてしまったお陰で、大妖精はそのどこか儚げな表情を見ることは叶わなかった。
二人は特に約束を取り交わすでもなく、自然と並んで歩き出した。さく、さくと、霜の降りた草を踏みしめる小気味よい音が、闃寂の世界に控え目に鳴り響く。
季節は春へと移り変わろうとしているが、まだ冬の気配が多分に残っている。その証拠に、一帯の草には真っ白な霜が降りているし、並んで歩く二人の吐息も同じように白色になる。曙光も拝めないこの時分の寒さは一入である。大妖精は思わず身震いした。対して、自他共に認める『氷の妖精』であるチルノは、この程度の寒気などどこ吹く風と言った様子である。しかし、俄かに身を震わせた大妖精を見て、
「寒いの?」
と問う。大妖精は苦笑いを浮かべて、
「少しだけ」
こう返事をすると、チルノは何も言わず、大妖精の手をひしと握った。氷の妖精といえども、何も全身が氷塊のように冷たいと言う訳ではない。その身体は人並程度の温かみを持っている。うっかりしていて、手袋を嵌めるのを忘れて散歩に出かけた大妖精には非常に頼もしく、そしてとても嬉しい温もりであった。……同時に、急に手を握られたことで恋情の炎に薪がくべられたようで、大妖精の体は急速に火照ったのだが、これはチルノが意図していなかった効果である。
幼い二人は、そうやって手を繋いだまま、瀕死の森の中を当ても無く歩き回った。
そうしている内に東の空に太陽が昇り、朝日が差し込んできた。陽光のお陰で少しずつ気温も高まってきたのだが、それでも二人は手を放さない。
森の奥まった場所で見つけた高木にざらんざらんと実っている赤い木の身を二人で食べて、野趣に富んだ朝食をとった。
陽が高くなり始めると他の妖精達も続々と起き出して来て、森を遊歩する二人はいろんな妖精達に出くわした。その都度、チルノが他の妖精を追っ払っていたので、いつまでも二人は二人きりのままであった。
太陽が頭の真上まで昇り切った頃には、森の散策を粗方終えてしまっていた。
「森も随分小さくなっちゃったね」とぼやくチルノの口調は寂々たるものであった。
二人は森を出た。もうじきお別れの世界を見ておこうよ――チルノの提案であった。大妖精は一も二も無く頷いた。チルノと一緒ならどこにいてもよかったのである。
彼女らは愛しい世界を歩いて回る。できるだけ、手は繋いだまま。
博麗の巫女がいる神社へ行き、賽銭箱を覗き込んでいたら、巫女が出て来たので一目散に退散した。
霧の深い湖で休憩をした。
吸血鬼の館の前まで近付いた。門番は寝ていなかったので、中に忍び込むことは断念した。
世にも恐ろしい妖怪ばかりが封じられていると言われている地底世界へ繋がる風穴に向かって挨拶を投げかけてみたところ、見知らぬ女の声が返って来たのでおっかなびっくり逃げ出した。
嫌でも目に入る威容を持つ妖怪の山は出来る限り見て見ぬふりをして通り過ぎ、毒虫から逃げるかのように河を避けた。
宝船と謳われた寺の聖人と束の間の談笑をし、人間の住まう里を横断し、珍品を売る店を冷やかし、勇気を出して迷いの竹林に足を踏み入れてみた所、案の定迷った。幸い、それ程時を経ずして気さくな蓬莱人に出会い、彼女の案内を受けて竹林を出ることはできたが、その頃には太陽は西の空の彼方へと沈んでいた。見上げれば満天の星空である。
森へ帰る道すがら、夜雀の屋台へ寄った。屋台は相変わらず殷賑を極めていた。楽しそうな客達は妖精達の苦労を知っているのか知らないのか、大妖精達には判然としなかった。
「いらっしゃい、妖精さん。一杯だけならサービスするけど、どう?」
妖精達の事情を知っていて、惻隠の情を催した夜雀が二人を気遣った。しかし、二人はそれを断って、静かで暗い森の奥へと向かって歩み出した。
夜の闇は再び、世界を冷たく包み込んで行く。そして、夜の訪れとは、今日と言う日の終わりの淵であり、世界との別れにまた一歩近づいた証だ。
自然と、二人繋いだ手に力が籠った。
殺風景な森の一角に二人は寝そべって、星空を見やっている。流れ星でも探してみようかと、チルノが言ったのである。
「流れ星が流れ切る前に、願い事を三度唱えられたら、その願い事は叶うんだって。流れ星に賭けてみようよ」
大妖精はふっと微笑む。
「藁を掴むよりは得策だね」
かくして二人は並んで仰向けに寝転んで、ぼんやりと星空を眺め始めたのであった。湿っぽい草が背筋を濡らし、大妖精は寒気を催したのだが、相変わらず握られている小さな手が、その寒気を相殺した。
雲一つ無い夜空で、幾つもの星がきらきらと輝いているが、本当に雲の一つも無いものだから、空の変化はほぼ無に等しい。星空は、いつまでも変わらない美しさを二人に見せ続けていた。
今宵は、月も星も、まじまじと見つめているとぞっとしてしまう程に綺麗な夜で、二人は完全に夜空の虜になっていた。月の光には人を狂わせる力があると言われているが、二人はその言葉に肖ったかのように、ボーっと空を見続けている。
「この空くらい、何もかも変わらなければいいのに」
愁然たる声色で大妖精がぽつんと呟いた。返事は無かった。
嫌という程に星空を堪能した二人は、天体観測を止めて立ち上がった。流れ星は諦めよう、と二人で結論付けたのである。チルノはうんと背伸びをした。大妖精はその傍で衣服にくっ付いた草の切れ端や砂なんかを丁寧に叩いて払っていたのだが、
「ねえ」
不意にチルノに声を掛けられ、その手を止め、チルノの方を見やった。
世にも美しい月と星が放つ光は、夜の闇を可憐に装飾し、およそ真夜中とは思えない仄明るさを提供し、幻想的な夜を演出している。その凄艶たる月明かりに照らされた、寂寞たるチルノの表情を見た時、大妖精は俄かに不安と悲しみが胸に込み上げてきた。
「折角、今日一日とっても楽しかったのに……最後の最後で、そんな顔しないで」
用件を聞くこともしないで、大妖精は苦しそうな声でこう懇願する。チルノは言下に「ごめん」と謝罪したのだが、表情は相変わらずである。
寂寞たる表情ではありながら、双眸には何か、底知れぬ決意の光が宿っているのが、大妖精には分かった。
息を飲む大妖精に、その毅然とした瞳を向けながら、チルノが言う。
「あたい達は――妖精は、もうすぐ、この世界からいなくなっちゃうと思うんだ。自然が無くなったら、あたい達は生きていけないからさ」
この上ない程に悲しい現実を語るには、チルノの口調はあまりにも淡々としているように感じられる。
「うん」
大妖精は一言添えて頷く。チルノは自身の考えが正しいことを確かめるようにゆっくりと頷き、先を続ける。
「今、こうして自然が壊されて、あたい達の居場所が無くなってきてる。……これは、ずっと続くことなのかな?」
意味深なチルノの言葉に、大妖精は顔を顰めて見せた。それに構わず、チルノは言葉を紡ぐ。
「未来を見る力は、あたいには無い。あんたにも無い筈。無いよね?」
「無いよ、そんなの」
「やっぱり。あしたのことは誰にも分からない。だから、もしかしたら、今日寝て、朝目を覚ましたら、幻想郷は緑に溢れているかもしれないんだ」
「そんなこと、ある訳無いよ」
悲しげに俯いて首を横に振って言う大妖精に、
「あしたのことは誰にも分からない」
チルノは直前の自身の言葉と同じ調子で、同じ台詞を繰り返した。大妖精は返事をせず、俯いたままその場に佇んでいる。そんな大妖精の手を、チルノが再び握り締めた。はっと胸を突かれたように、大妖精が顔を上げる。
「どんなことがあっても、絶対諦めないで。あしたはいい日だって信じて、生きてこうね」
チルノらしからぬ凛然たる声でそんなことを唱えられて、大妖精は目頭の熱を禁じ得なかった。ぼろぼろと零れて落ちて来る涙を拭おうとしたのだが、チルノに手を握られていて叶わなかった。
「うん、うん。がんばろう。がんばって、生きて行こう」
吃逆混じりの泣き声の合間を縫って、やっと紡いだ誓いの言葉。チルノは微笑みながら頷き、
「きっとだよ」
念を押すように囁いた。
その後、もう夜が深いからと、二人の一日掛かりの冒険譚は終幕となった。
二人は大妖精の宅へ行き、狭いベッドの上で身を寄せ合って眠った。先刻の興奮が治まらないようで、二人はなかなか寝付くことができなかった。そのことにはお互いに気付いていたが、二人が言葉を交わすことはなかった。
消滅の恐怖から逃れたい一心で、大妖精はチルノの服を握り締める。チルノは嫌な顔一つしないで、彼女を受け入れた。
先に微睡み始めたのは大妖精であった。
チルノの服を握る手の力が段々と抜けていく。チルノはその脱力の過程を、花の成長を観察するような心持で見やり、そして感じ取っていた。
ぱっちりと開かれたチルノの双眸は、窓から見える見事すぎる月の放つ光の支援を受けて爛々と輝いている。その様子は、眠気や閉眼とはまるで無縁のものである。
大妖精が完全に眠りに落ちたのを見届けると、チルノは彼女を起こさないよう、そっとベッドから脱した。
すやすやと穏やかな寝息を立てる大妖精を見下ろしていたチルノは、ふっと微笑を浮かべた。
それからおもむろに、彼女を包んでいるブランケットを剥ぎ取り、くるくると丸めて床に放り投げた。大妖精はそれに気付いていないようで、ブランケットに包まっていた時と何ら変わらぬ寝顔で、規則正しく穏やかな寝息を立てている。
チルノの微笑が、寂しげに歪んだ。それでもその顔はまだ笑顔の体裁を成していたが、これ程に見ていて心の痛む笑顔はなかなか無い。
そんな物悲しげな笑顔を湛えたまま、チルノがやにわに体勢を低くし、大妖精の頬に自身の唇を近付けた。
しかし、その唇は頬に触れることはなかった。寸での所でチルノが思い留まったのである。この子を起こしてはいけない、と。
これ以上時間をおいてしまうと、折角固めた決心が揺るぎそうであったから、チルノはやるべきことをやろうと決めた。
両方の掌を、寝ている友人に向ける。
明け方の冷たい空気の中に、白い靄が生まれる。氷の妖精が操る究極の冷気は瞬く間に室内を支配した。
空気まで凍りつくのではと思える程の超低温が部屋に充満し――大妖精は眠りながらこの冷気を察知したようで、身震いし、眠りながら手を動かして、ベッドの上のどこかにある筈のブランケットを求めた。残念ながら探し物は、先程チルノの手によって床に放られてしまった。
ブランケットを求めて動き回っていた手が、チルノが横たわっていた場所に触れた。ベッドに残されたチルノの温もりを、大妖精の手が一瞬だけ感じ取った、次の瞬間。
大妖精の足が分厚い氷に覆われた。
チルノの顔に現れる一瞬の逡巡と後悔。
しかし彼女はぶんぶんと頭を振って、親友を、透き通る氷塊の中へ閉じ込めて行く。
――さようなら。ごめんなさい。また会えたらいいね。いいけど、それはきっと無理な話だね。あたいの勝手な真似を許して欲しい。ああ……これも無理か。
*
大妖精は路を歩いていた。
履物をどこかで失くしたのか、そもそも履いて来なかったのか、とにかく素足のままで、雪のように冷たい金属で作られている壁に取り囲まれた、これまた同じ素材で出来ている床を、ぺたりぺたりと、陰気な足音を立てながらのろのろと一人で歩いているのである。
横道は無い。ひたすら真っ直ぐで、おまけに途方も無いくらいに長い。振り返ってみても見える光景は前を向いている時と何ら変わらない。上を見れば空が見える。太陽は頭の真上で燦々と輝いているのに、金属を熱している気配が全く見られない。ただ光っているだけの愚図――大妖精は心中で太陽を罵る。
長らくこの冷たい道を歩いていて、足の裏はすっかり冷えてしまい、痛い程である。足の裏の皮が金属にくっ付いて、歩み進んだ拍子にベリリと剥がれてしまうのではと思えてくる程である。
そんな状態で歩き続けても、この路に終わりは見えず、そろそろ歩くのが馬鹿らしくなってきていた。
壁の向こうには何の気配も音も無いし、そもそも取り囲んでいる金属が『壁』と呼べるような厚さであるかどうかも判然としない。それ故に、助けを呼んでみようなどと言う気持ちは少しも湧いて来ない。加えて空と言う広大な空虚が健在しているときたものだから、増々声を上げる気など失せる。
面倒くさくなって、ややあって大妖精は歩くのを止めた。
壁に背を預けて腰を降ろし、立てた膝を抱いて、三方を塞ぐ金属の放つ冷徹なる洗礼に耐える体勢を取った。
寒い中で眠ると死ぬんだよ――やけに懐かしさを感じる友人がいつか放った言葉が、その友人らしい口調でもって頭の中に響く。
こんな如何にも作り物らしい冷気の中でも、眠れば死んでしまうんだろうか……大妖精はそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じる。それによって得た暗闇は、一切の残光さえ無い、完全無欠の闇であった。
次の瞬間、大妖精はハッと目を覚まし、勢いよく上体を起こした。あの冷たい金属の世界は、夢幻の世界であったらしい。
暗闇が夢と現を繋いだかのような感覚であった。目覚めた瞬間、彼女の視界を覆い尽したのは、夢の末尾と同じような無疵の暗闇だったのである。
ぼんやりする頭を働かせて 記憶を掘り返すと、氷の妖精の友人と一緒に眠りに就いたのが最も新しい記憶であった。反射的に彼女は周囲を見回してみたのだが、何せ一帯は眼を閉じたような暗闇である。友人の姿など発見できる筈もなかった。
「チルノちゃん」
案外近くにいるのでは、と言う淡い期待を込めて声を上げてみたが、返事は無かった。代わりに、自分の声が反射して響いて返って来た。ここで大妖精は、自分が洞窟の中にいるのだと言うことに気付く。
最新の記憶では自宅にいた筈なのに――状況が理解できず、大妖精は困惑した。
しかし、ここで惑ってばかりいても埒が明かないと、大妖精はゆっくりと立ち上がった。……が、途端に平衡感覚を失い、よろよろとよろめいた。寝起きであることを加味しても、これ程バランスを崩すことは珍しい。随分久しぶりに起き上がる――そんな感覚であった。
歩けないことはなかったので、一歩一歩を踏み締めるように、大妖精は歩き出した。
壁に手をやり、慎重に歩いて行く。しばらくして出口が見えてきた。
洞窟を抜けて、豁然と開けた視界に飛び込んできたのは、山であった。
赤茶けた落ち葉が軌道が不安定な山の風に弄ばれて宙をくるくると舞う。伴って生じる葉擦れに乗じて、新たな落ち葉がどさどさと落ちて来る。
空が赤い。もう夕暮れなのである。
空気が冷たい。冬に向かう真っ最中なんだろうな――妙にぼんやりとする頭で、大妖精はこんなことを考える。
全く見覚えの無い景色であったので、増々自分の身に何が起こったのかが気になるところであったが、一人で考えても解決しそうもなかったので、とりあえず下山しようと決めた。
見知らぬ景色であったから、どちらに行けば何があるかなど検討も付かないのだが、そのお陰で寧ろ足は進んだ。迷うかもしれないのではなく、もう既に迷っているのである。恐れるものなど何も無い。
歩いている内に、大妖精は微かな息苦しさを感じ、思わず顔を顰めた。
それ程標高の高い山であるようには思えなかったから、空気が薄いというのは考えから除外した。では、この呼吸のしづらさは、一体何であろうか――。
すぐに大妖精は答えに行きついた。
伝わり易さを無視し、敢えて彼女の心中を過った言葉を愚直に採用して表現させてもらう。
原因は『山の白々しさ』にあった。
一見ここは大自然に囲まれた美しい山であるかのように見えるのだが、実はそれらは紛い物なのである。
木や草や花や葉が、紙や合成樹脂で出来ているとか、そういうことを言うのではない。
元来ここに自生していたと言うのを装わせて作った大自然……とでも言うべきであろうか。
理解ができなくても何ら問題は無い。自然と共存する妖精だからこそ、本物と贋物の区別が付くのだから。
来た道を振り返ることさえせず歩くことおよそ一時間。
下り坂で転ばないよう、ブレーキを掛けながらの歩行は、脚に多大な負担を強いた。これだけ歩いただけであるのに、もう大妖精の脚はパンパンに張ってしまっている。
友人らと野を駆け回っていた頃はこんなことはほとんど無かったから、聊か大妖精は困惑した。
先程説明した息苦しさと、極度の疲労が相乗効果を成し、大妖精ははぁはぁと息を荒げつつ、下山を続ける。
日は完全に傾いてしまい、辺りはどんどん暗くなる。この見知らぬ山に何がいるのかは分からないが、獰猛な野生動物や、分別の利かぬ下等な妖怪なんかがおり、万が一それに遭遇してしまった場合、今の体の状態では無事に逃げ果せることなど、絶対にできない。
妖精は本来、死を恐れない。誰も彼も『一回休み』と言って、しばらく経つと平気な顔をして戻って来る。大妖精だってその例に漏れない。彼女は妖精なのだから。
しかし、何故であろうか。
彼女は死を恐れていた。
『今死んだら、もう二度と目覚められない気がする』
根拠は無い。本能的に彼女は、自分の体の状態を省みて、こう思ったのである。だから、猛獣や妖怪に出会わないようにと祈りながら、出る限り速足で歩を進めた。
それからもう半時間程経過した頃である。山を降り切った訳ではなかったが、彼女の視界に忽然と、一つの家屋が映り込んできた。
そこは、山の途中であるにも関わらず平らで小広い場所となっている。そこに立ち並んでいた木々を円形に切り倒して行って作り出した空間の真ん中に、その家屋は建てられている。
外観は全て木製であるが、大妖精の記憶にある、人里に多く建てられていた人間達の住居とはまるで違うデザインになっている。屋根には煙突が付いており、炊爨のものらしき煙がもくもくと、赤く焼ける天に向かって昇って消えて行く。
一帯に漂う芳しい香りに鼻孔が刺激された瞬間、大妖精の腹がぐぅと鳴った。これまで全く気にしていなかったが、ようやく大妖精は、長らく何も食べていないことに気付いた。元来、妖精は物を食わずとも生きていけるが、一度空腹を意識すると、一先ずそれを満たさねばつらくなってしまう。
しかし、いくら大妖精が、幼稚で不遜な妖精の一といえども、見知らぬ者の家へ食べ物を乞いに上がり込むのは気が引ける。彼女は、妖精にしては珍しく、分別の利いた性格を持っているのである。ただ、妖精と言うだけで見下される場面も多々あったし、それでいて律義な性格なものだから、どっちつかずになって何かと損をすることが多い。
訳の分からない事態に陥っていた哀れな境遇を言って聞かせれば同情してもらえるかもしれないし、それに、今は恥とかそういうことを考えている状況ではない――などとあれこれ言い訳を並べてはみたものの、やはり見知らぬ者に物乞いするのは気が引け、どうしようどうしようと迷いながら歩いていたら、家屋を通り越してしまったので、ここまで来てしまったのなら先へ進むとしようと、きっぱり諦めを付けた。
その瞬間である。背後でガチャリと音がした。何と言うタイミングであろうか、家屋の扉が開いたのである。
まさか家屋の中の住人が大妖精の心を読み取った訳ではあるまいが、大妖精は自身の下心を読み取られたのではとおかしな妄想を起こし、ぎょくんと肩を震わせて、咄嗟に後ろを振り返った。
玄関扉の前には短い階段がある。
家屋の住人であるらしい女性が、その階段の中程に、手すりに手を置きながら屹立し、大妖精をじっと見据えている。
相手がいやにこちらを見つめてくるものだから、大妖精は完全にしどろもどろの状態になってしまった。先程諦めた物乞いの好機であるのだがそんな言葉は発せず、それどころか挨拶の一つさえ出すことができない。
魚のようにぱくぱくと口を動かしてその場に佇んでいたのだが、
「もしかしてあなた、妖精? 大妖精って呼ばれてた! そうでしょう!?」
現れた女性がこんなことを言うものだから、大妖精はいよいよ発する言葉を見失ってしまった。焦燥は去ったが、今度は呆然さが去来した。大妖精はその女性に見覚えが無かったからである。
戸惑いと喜びが綯い交ぜになったような表情をしながら、女性が駆け寄ってきた。
その女性は、大妖精の目線が胸に来るくらいの背丈である。その胸はなかなか立派なものである。少なくとも、まだあどけない大妖精とは比べ物にならない程大きい。
白いブラウスに、黒色のスラックス。背丈が割りと高い上に、細身の為、すらりとしたその姿は、颯爽とした印象を見る者に与えてくる。
肩まで伸びている髪は少々ぼさついているが、その緑色は非常に美しい。染料で染めたものでないのは、大妖精には一目で分かった。自然と不自然を見分ける目が、妖精には先天的に備わっているのである。
赤いフレームの眼鏡が、急に駆け出した為か、鼻の頭の所までずり落ちている。
大妖精の前までやってくると、その眼鏡のズレを直し、矯正された視力と指呼の間を利用し、再び大妖精をまじまじと見つめる。
大妖精もその女性を間近に見上げた。その瞬間、「あっ」と感嘆の声を漏らした。
それとほとんど同時に、女性が大妖精をぎゅっと抱き締める。どうやら、女性が思っていた者と、大妖精は同一人物であるらしい。
「ああ、まさかあなたに、まさかまた妖精に会えるなんて! 今までどこに行っていたのよ!」
少々声を上ずらせ、女性は言う。
大妖精は、困惑している。この女性が誰であるかに気付いた所為で、彼女の中に渦巻いている謎が、一層深まってしまう結果となったのだ。
「ちょ、ちょっと……落ち着いて下さい。リグル……さん?」
少々自信無げに大妖精が言ったが、
「これが落ち着いていられるもんですか!」
蟲の女王と謳われた妖怪、リグル・ナイトバグはそれを気に留める様子も無い。
まさしくこの女性は、リグル・ナイトバグ本人である。前頭部から生える二本の触覚が、それを如実に物語っている。
しかし、大妖精の記憶にあるリグル・ナイトバグは、こんな大人の女性ではない。それこそ、彼女の親友たる氷の妖精チルノより、少しばかり大きい程度の少女であった。今、彼女を抱き締めているその体は、その顔つきは、お世辞にも少女とは言えない。
熱い抱擁を解くと、リグルは目尻に薄っすらと浮かんだ涙を人差し指で拭い取った。
「本当に今までどこにいたの? てっきりみんな消えちゃったのかと思っていたのに。チルノは? 一緒じゃないの?」
何やら、大妖精に会えたことに酷く感動しているようであった。
大妖精はとりあえず首を横に振って見せた。
「私にもよく分からないんです。話すと、少し長くなってしまうかも」
神妙な面持ちと口調で紡がれた一言に、リグルも思わず緊張してしまった。
しかし、すぐに相好を崩し、
「まあ、とりあえず、家へお上がりよ」
背後に立っている家屋を指差した。
大妖精は一も二も無く、誘いに乗った。
中は少し暑いと感じられるくらいの温度になっていた。リグルは寒いのが苦手なのである。山中にあるこの家屋は、特に気温が低くなってしまうので、やや過剰に火を焚いて暖を取っているのである。
家屋の内装は、大妖精が想像していたものと全く異なっていた。
畳も障子も蝋燭も松明も無い。
天井では扇風機の羽のようなものがゆっくりと回転していて、その下にやけに煌びやかな装飾の電灯が灯っている。
板の間の上には赤い絨毯。電灯に照らされて渋い光沢を放つテーブルと、それと同じ材質の椅子。
壁には埋め込み型の暖炉が設えてあり、中では炎が煌々と燃え、その上には、一体何の木の実を材料にしたかは分からないが、ジャムの入った鍋が置いてある。
テーブルや暖炉がある空間から、棚を隔てた先に台所がある。初めチョロチョロ、中パッパ……と言う、大妖精が記憶している炊飯技術は、この台所ではあまり役に立たないようである。薪をくべる穴がどこにも見当たらない。代わりに、ちょっとつまみを捻ると、ばちんと音がして円形の火が灯った。
その他、優雅な音を立てて更に屋内を情緒的に演出している柱時計。全身を写せる綺麗で大きな鏡。ピンとアンテナを立てている大きなラジオ――大妖精は頭がくらくらしてしまった。
「すごい……まるで吸血鬼さんの御屋敷みたい」
思った言葉をそのまま口にすると、リグルは苦笑し、言った。
「吸血鬼の豪邸にラジオなんてあるもんですか」
言下に大妖精は目を輝かせる。
「リグルさん、吸血鬼さえ持っていないものを持っているんですか!?」
リグルはわざとらしくエヘンと咳払いし、胸を張って言う。
「そうとも。吸血鬼は間違い無くラジオなんて持ってないわ。代わりにカラーテレビが置かれてるだろうね。こんなでっかいやつが」
こんな――と言って、リグルはうんと腕を伸ばして空中に大きな四角形を描いて見せた。大妖精には、リグルが何を言っているのかさっぱり分からず、生返事をすることしかできない。
別の部屋へ繋がっている扉が二つ程あったが、勝手に開いて覗くことはしなかった。
リグルがその扉の一つを開き、中から椅子を運んで来た。勧められ、大妖精はその運ばれて来た椅子に腰かける。
その後、リグルは台所へと行った。
棚に置いてある籐の小物入れに差さされた小さな包装を破き、白と茶色の入り混じった粉末をコーヒーカップに投じ、白色の筒を開いてお湯を注ぎ、スプーンで数回混ぜる――あっと言う間にミルクコーヒーを完成させ、大妖精に差し出す。
大妖精は聊か面食らって、そのカップを受け取った。魔法の様な速度で完成したこのミルクコーヒーに、聊か怪しさを抱いていたが、一口啜っただけで、その疑念は一気に解消されて消えた。紛れも無く、ミルクコーヒーである。泥水に白の絵の具を混ぜた、ままごとのものとは違った。
大妖精がミルクコーヒーを飲んでいる最中、リグルは夕飯の支度を始めた。
「偶然、窓からあなたが見えてね。こんな所へやってくるようなやつはほとんどいないし、そもそも進行方向から山から出てきたようだし……おまけに何となく見覚えある子だしで、まさかと思って玄関先へ出てみたのよ。そしたら本当にあんただったって訳」
準備をしながら、リグルはこんなことを語って聞かせた。
大妖精は首を傾げた。
「ここへ来る人は少ないんですか?」
「そりゃあ少ないわよ」
言下にリグルが言う。
「こんな辺鄙な場所、来る人はいないよ。何となく分かるもんでしょ?」
「はあ」
やはり大妖精にはよく分からないので、生返事が漏れる。
リグルが調理の手を止め、くるりと振り返り、物珍しげにインスタントのミルクコーヒーを嗜んでいる大妖精を見やる。
大妖精がリグルの言っていることがいまいち分かっていないように、リグルも大妖精の言動に聊か不審さを抱いている。いくら相手が妖精だと言ったって、こうも話が噛み合わないのはおかしい――赤いフレームの眼鏡の奥の聡明たる瞳がきらりと光った。
その後リグルは、食後に問うてみる質問をあれこれ思案しつつ、夕食の準備を進めた。
夕食――ご飯に味噌汁、焼き魚に山菜の煮物――を、大妖精はペロリと平らげた。「若い子は健啖で羨ましいわ」とは、大妖精の猛然たる食事風景を目の当たりにしたリグルの羨望の声である。
リグルさんだって若いじゃないですか――という言葉を、大妖精は飲み込んだ。根拠は無いが、あまりこの言葉は言ってはならない気がしたのである。
夕食が済むと、先ず大妖精は一飯の礼を言い、皿洗いを手伝った。大妖精にそれを任せている間に、リグルは風呂を洗って、湯を張った。
風呂へは二人で入った。
人里なんかで数度、リグルらと同じ湯に浸かった記憶が大妖精にはあったが、記憶と現在ではリグルの体型はすっかり変化してしまっており、何だかその裸体を見るのが恥ずかしく感じた。
「若々しい体。いいなあ」
リグルは食事の時と同じようなことを言った。大妖精の方は、成熟したリグルの体が羨ましくて堪らなかったのだが。
風呂から上がると、リグルは再びミルクコーヒーを淹れ、今度は戸棚から『シフォンケーキ』なるお菓子まで出した。
ミルクコーヒーとシフォンケーキ――未知なる嗜好品の波状攻撃に、大妖精の心は蕩けそうになっていたのだが、その至福の時を越えると、リグルがやや改まった調子で、こう切り出した。
「ところで、妖精。あんたは今まで、一体どこへいたの?」
大妖精が三切れ目のシフォンケーキを平らげるまで質問を待っていたのは、大人の気遣いと言ったところであろう。
見ている者にまで伝染してしまいそうな幸せそうな笑みを湛えてシフォンケーキにがっついていた大妖精の表情も、この質問を受けて若干強張った。
フォークを更に置き、傍らに置いてあったティッシュペーパーで口元を拭くと、大妖精は訥々と語り出した。
「私もよく分からないんです。チルノちゃんと一緒に寝た記憶があるんですけど、起きたら、この山のどこかの洞窟にいて……」
「洞窟なんてあったんだ」
「知らないのですか? 上の方にあります」
「ここに住んではいるけど、あまり上の方へは行かない……と言うか、行けないもんでね、私は。そんなに若くない」
さっきからリグルさんは若いとか若くないとかばかりだ――それに何か意味があるのだろうかと細やかな疑問を抱いた大妖精が、今度は質問を投げかける。
「リグルさんは、その……いつの間に、そんなに大きくなられたんですか?」
何だか成長したことを気にしている様子が見られたので、大妖精なりに言葉を選んだつもりであった。
それを聞き、リグルは呵々と笑った。
「はっはっは。それはつまり、歳を取りましたねってことか」
「いえ、そう言う訳では」
「寧ろ、あんたはこれだけ時間が経ったのにその姿なのが驚きだよ。後何年経てば大人に……いや、中学生くらいになるの? パソコンが一般家庭に普及するのとあんたが大人になるの、どっちが先なんだろ。河童どもが技術者じゃあ、案外あんたが勝っちゃうかもねえ」
からからと笑った後にリグルはこんなことを言った。
「これだけの時間……って?」
大妖精は目を丸くして問い返す。愛想笑いさえ浮かべずにこちらを見据えている大妖精に、リグルは聊か戸惑った。
「だって、もうあんた達妖精がすっかり姿を消して、何年になる? もう三十年? 四十年? そうだよ、話が逸れてるじゃない。この数十年間、あんた達妖精は何をしていたんだ? 洞窟があるのは分かった。洞窟で何をしてた? どうやって過ごしてた?」
「数十年? みんな姿を消したって? 今の幻想郷に妖精はいないんですか?」
「一緒じゃないの?」
上気した顔で大妖精がこくこくと首を振る。リグルは返答に窮した。
不安と驚愕の綯い交ぜになった表情で佇む大妖精を唖然としながら見やっていたリグルであったが、黙っていては何も始まらないと、ごくりと生唾を飲み込み、リグルは至極神妙な口調で言う。
「妖精。あんた、もしかして何も知らないの?」
「何も、とは?」
「もしかしてあんたはまだ、天狗は山に住み、人間は人の里を形成して夜と妖怪に怯えて過ごし、博麗の巫女が時たま妖怪を退治して――みたいな生活を、みんなが送っているとお思い?」
リグルの相好には惻隠の情が見てとれて、大妖精はなんだか馬鹿にされているような感じがして聊か憤然としたのだが、リグルの問いには素直に応対した。
黙って首を縦に振って見せる。
それが、彼女の頭の中にある、幻想郷の常識であったから。
リグルは「なるほど」と一言呟くと、腕を組み、椅子の背もたれに寄り掛かって、重苦しいため息を漏らした。
大妖精は言葉を失い、リグルは掛けるべき言葉を頭の中で思案していた為、この場は居心地の悪い静寂に支配されてしまった。
ややあって、リグルが開口した。
「……単刀直入に言っちゃうとね」
「はい」
大妖精は思わず姿勢を正した。
「あんたの幻想郷は、およそ四十年前に滅んでるんだ」
胸を突かれたように、大妖精がリグルを見やる。
「ああ、だけどね、勿論幻想郷は滅んじゃいないよ。今、私達がこうして生きているこの世界は、紛れも無く幻想郷さ。だけど、あんたの言う古色蒼然とした世界は、もうとっくに滅んだ。あんた達の住まいになってた森が破壊されて行っただろう? あれは滅亡の取っ付きだったんだね。あそこから中心に、幻想郷はどんどん『外界化』していったんだよ。森は壊され、山は削られ、河は汚れた。人里にはハンコみたいにペタンペタンと、同じような作りの家が連山みたいに建てられた。科学を与える妖怪の山の天狗に河童に神様は、山を放棄して、さっき言ったあんた達の森だった場所のど真ん中にばかでかいビル作って、そこを拠点として活動してる。でこぼこ道は全部舗装されて道路になった。最近は車も割と普及してきたね。あ、車って言うのは、ちょっと足に力入れるだけでとんでもない速度が出る鉄の塊のことなんだけど……」
リグルがごちゃごちゃと、現在の幻想郷の環境を説明しているのだが、大妖精には一体何のことを言っているのか、やはり分からない。
そのことを目で訴えると、リグルがそれを察したようで、はたと喋るのを止めた。そして、顎に手をやって、うーんと唸った後、
「百聞は一見にしかず」
こんなことを呟き、席を立った。そして、壁に掛けてある懐中電灯を手に取ると、大妖精に手招きをした。
「聞くより見た方が分かりやすいね。今の幻想郷の一端を見に行こうよ。幸い、今日は天気がいい。月明かりも手助けしてくれるよ」
別に月なんぞ出てなくたって、今の幻想郷は明るいけどさ――寂寥感の滲む笑顔を見せながら、リグルがこう付け加えた。
大妖精はミルクコーヒーを一気に飲み干すと、席を立ち、リグルに駆け寄った。
夜の山道は危ないからと、二人は手を繋いで、今日、大妖精が下って来た山を登った。ただ、彼女が懸命に通って来た野趣に富んだ道ならぬ道ではなく、ある程度通行人に踏み均されたことで申し訳程度の舗装が成されている道である。
時々現れては行く手を阻む、地面から飛び出している木の根や、さらさらした砂の地面に警戒しつつ、二人は山を登って行く。
しばらくして坂が無くなり、開けた平らな道になった。山頂を目指すのであれば、そのまま真っ直ぐ進んで行き、再び坂を上らねばならないのだが、リグルはそちらへ行かず、右に逸れた。
「足元に気を付けて」
リグルはそう言いながら、より強く大妖精の手を握った。
懐中電灯でおよそ三歩先の地面を照らしながら、慎重に歩を進めて行く。大妖精はその光を注視していたのだが――不意に、地面にぶつかって伸し広がっていた光が、ふっと姿を消してしまった。光芒がぶつかる地面が無くなった……即ち、この先は断崖となっているのである。
注視すべき光を失った大妖精はふっと顔を上げたのだが――瞬間、息を飲んだ。
乱立している木と木の間隙を余すことなく埋め尽くす闇の先に、毒々しい光の群れを見たのである。
思わず駈け出そうとするのを、リグルが強く手を握ることで制止した。一瞬、我を失っていた大妖精は、ハッと胸を突かれたようにリグルを見やる。リグルは黙って頷いて、相変わらず慎重な歩調で、切り岸へ大妖精を誘導する。
崖っぷちまで来た所で、木々の妨害が失われ、
「さあ、ここならよく見えるでしょう?」
遂に、幻想郷の全貌が、大妖精の目に映る。
「これが、今の幻想郷よ」
山の麓は、豹変などという言葉では生ぬるい程に変わり果てていた。
今現在が夜であるということを忘れさせる程の膨大な光が、四方八方に散りばめられている。光の大小も、色も、形も、それから光を持つ物も様々である。
確かに、美しくはある。月光でしか色づかない夜よりも賑やかで、華やかで、色彩豊かではある。……あるのだが、大妖精には少し眩し過ぎる。こうも明るくては、夜と呼ぶことさえ憚れる。
青や緑のぼんやりとした光、どこか淫猥な桃色の光、目に痛い黄や橙の光――これらは何かの看板であろうか、建物の側にぶら下がっている。
等高に、有る程度の間隔を開けて並べられた二つの丸い光がやけに大妖精の目を引いた。忙しげに闇の中をひた走っているものだから、彼女にはまるで何かしらの生物の目のように見える。
赤、黄、緑の三色が次々と点滅しているのも散見できる。赤の前で、前述した『目の光』は止まってしまうことから、赤の光に何か強い力でも備わっているのか……などと、大妖精はぼんやりと考えた。
果たしてこんなにも必要なのかと疑問を感じる程に乱立している、縦に長い箱のような建物には無数の四角い光が見える。大小様々有るが、ほとんどのものが大きい。
「ビルディング……ほら、ばかにでかい四角い建物。それの一番大きい奴があるだろ? あれが妖怪の山ならぬ、妖怪のビルってやつだね。天狗や河童のエリート達が働いてる場所さ」
リグルがそう注釈を加えた。
そんなような、目にうるさいけばけばしい光の化粧を施した無骨な建物達が、どこまでも、どこまでも、うじゃうじゃ、わらわらと、この狭い大地に集い、犇めき合い、あるモノは蠢き、あるモノは佇んでいる。
煌びやかではあれども、風情には欠ける――そんな印象であった。少なくとも、大妖精の好きであった幻想郷の夜とはあまりにもかけ離れている。
砂利道も、緑道も、夜だから見えないだけなんだろうか……と、大妖精は考え、すぐにこの考えを、自嘲めいた一笑をもって振り払った。――これだけの光があるのに、見えない方がおかしい。
惚けた様子で、革命的な変貌を遂げた幻想郷を見下ろしている大妖精を、リグルは注意深く見守っていた。心理学の知識など持ち合わせていないが、何となく変な気を起こしかねない様子だと、漠然と感じていたのである。
不意に大妖精は、ストンとその場に腰を落とした。驚いてリグルがその肩に手をやる。
「大丈夫?」
リグルが問うたが、大妖精は問いには答えない。
「これが、私達の森?」
蚊の鳴く様な声で大妖精がこんな言葉を漏らす。リグルは痛ましげに唇を噛み、石と鉄の海たる都心部の一端を指差した。
「あの辺りが、森だった所ね。天狗達はあそこに、自分達の威容を示す為に大きいビルを作ったんだから。……今は木の一本もありゃしないけど、とにかく、あそこが森だった」
説明を聞くと、大妖精はフッと鼻で笑った後、顔を伏せてしまった。宵闇も手助けして、大妖精の表情は見えない。
しばらくそうしていたのだが、
「みんないなくなっちゃったんだ」
不意に大妖精が開口した。
「え?」
声が小さかった上に、あまりにも不意なことであったので、リグルが問い直したのだが、
「こんな所で、こんな不自然の塊で、妖精が暮らせるもんか!」
大妖精は先程とはまるで異なる金切り声を上げた。リグルはびくりと体を震わせ、大妖精を宥めようと手を伸ばしたのだが――その手が肩に触れる寸での所で、ピタリと止まった。大妖精は泣いていたのである。
感極まって大妖精が放った一言は正しい。急速に発達していった科学技術。その裏で、幻想郷にあった豊かな自然は尽く死滅していった。自然と共に生きていかねばならぬ妖精達も同じように消え果てていき、今や幻想郷の妖精は、大妖精のみを残すばかりである。
今二人がいるこの山も、あまりにも失われすぎた自然を取り戻そうと、後になって慌てて植林とか何とかでどうにか体裁を整えた、所謂作り物である。不自然な自然――大妖精が下山の時に覚えた違和感はこれが原因である。
蕭条たるこの山の一角は今、葉擦れの音と、今や世にも珍しい存在である妖精が、穢れた現世を憂いて泣く声ばかりが響くという、酸鼻な有様となっている。
リグルが咽び泣く大妖精と、極彩色のネオンや働き者達の残業の証たるビルの光に彩られた、華々しい都心部を見比べた。
夢、希望、娯楽、欲望――こんな具合の感情に満ち溢れ、昼夜問わず我武者羅な快哉に包まれる都心部。
そんな喧騒を遠巻きに見やり、涙する少女。
リグル自身も今や、昼は都心部で働く女性である。働かねば生きて行くことができない時代になってしまったのであるから致し方が無い。
仮にも彼女は蟲の妖怪であるから、少々不便ながら、申し訳程度の自然が残るこの山に居を構えている。
変わり果てて行く幻想郷に憤慨していた時期もあったが、今はもうその気力も失せてしまった。彼女は世界に毒されてしまった。
大妖精は、清水の如し純粋な心を持って、幻想郷の変化を慨嘆している。何者にも、そして何物にも毒されていないこの純粋さを壊したくは無い――リグルは心の底からそう思った。
「……そろそろ、帰ろうか。冷えて来た。またミルクコーヒーでも飲もうよ」
リグルが言うと、大妖精はぐずぐずと泣きながらも頷いて、リグルの手を借りながら立ち上がり、くるりと踵を返した。あの毒々しい光の蔓延る異世界を、網膜に映し出していたくない、とでも言いたげな様子であった。
元来た道を行き、家へ帰ると、リグルは約束通り、ミルクコーヒーを作った。奮発してクッキーまで用意した。大妖精は相変わらずぐずぐずと泣きながら、ミルクコーヒーとクッキーを嗜む。
「泣きながら飲食はしない方がいいよ。美味しくないし、ここの所がいたくなる」
ここ――と言ってリグルは耳朶の少し下を人差し指で示した。大妖精は泣きながら笑って見せたが、付け焼刃の笑顔は長く続かない。悲しみが先行し、その表情は沈痛たるものに様変わりして行く。
しばらくはそんな様子であったが、やがて大妖精の涙が収まった。それを見計らい、リグルは残された謎を解明しようと、大妖精に質問を投げかける。
「幻想郷がこんなになってるって、知らなかったの? 一体全体、あんたはその洞窟で何をして過ごしていたの?」
大妖精はミルクコーヒーの入ったカップを手で包み込みながら、憮然とした様子で答える。
「何をしていたのか、よく覚えていないんです。みんながいなくなった時のことも、いいえ、いなくなっていたことさえ知らなかった。妖精が消えてしまうと言うことは薄っすらと気付いていたんですけど」
折角収束した涙が、再びほろりほろりと頬を伝い出す。紛れも無く、泣かせたのは自分であると、リグルは逃れられぬ罪悪感に苛まれたが、心を鬼にして質問を続ける。
「じゃあ、最後に覚えていることは? その洞窟とやらの中で目が覚める以前の、一番新しい記憶」
大妖精は宙を眺めたり、手元に視線を落としたりして、しばらくうーんと唸っていたが、やがて静かな口調で言った。
「チルノちゃんと一緒に眠った」
「それはさっきも聞いた」
続々とつらいことを問うて、大妖精には悪いとは思っていながらも、なかなか真相解明に進展が無いまどろっこしさはやはり煩わしいようで、リグルは苛々し始めている。
「まさか、眠って起きたら山の中、だったなんて言わないよね?」
聊か誘導的な尋問であり、圧迫感がある。しかし、事実は事実である。大妖精はおずおずと頷いて、
「その通りなんです」
こう答える他無かった。
こうもあっさりと障壁にぶつかって、真相が闇の中に迷い込んでしまうとは――リグルはがっくりと肩を落とした。
リグルの失望の意は火を見るより明らかであった。ミルクコーヒーや菓子、夕飯への恩義を感じている大妖精は、このままではあまりにもリグルに申し訳ないと、大慌てで記憶を掘り起こし始めた。
しかし、眠る前はチルノと一緒に別れの近い世界を見て回っていただけで、自分の身に起きた不可解なタイムラグを説明するのに必要な素材など何一つ見当たらない。
それでも、所謂『旧・幻想郷』での最後の一日を、朝から夜へと時間に沿って順繰りに思い返していくと、ある一つの不可解な出来事を思い出した。
「そうです。眠りに就いてすぐの時でしたでしょうか。チルノちゃんが布団から出て、その後、急に足元が冷たくなったんですよ」
散々待った挙句に齎された情報がこれかと、リグルは増々気を落とした。
「それがどうかしたの?」
リグルがどれ程考えても、齎されたこの情報から真相を推理することはできそうもないから、早々と大妖精の考えを問うた。
大妖精は少し自信無さげに目を伏せながら、
「その、あの冷たさは……何となく、チルノちゃんの氷のような気がしまして」
「それで?」
今話題となっている情報にそれ程重要性を感じていないリグルの口調はかなり刺々しい。
そんな口調で「それで?」などと、言われてしまっては、いくら旧友の仲と言えども、委縮してしまうのは致し方あるまい。
そもそも大妖精本人も、あの冷気が一体何であったのかよく分かっていないのである。自分の中でも纏まっていない考えを、この話題にまるで興味の無さそうな相手に言って聞かせる――これ程の苦行もなかなか無い。
それでも、言ってしまったものはしょうがないと、大妖精は訥々と言葉を紡ぐ。
「ですから……私はチルノちゃんに、凍らされたのかなぁって。だから何だと言われても、私は全然分からないです。ただ悪戯されただけかもしれません。ですけど、これが目覚める前の記憶の中で、一番新しいものですから、一応、お話しておいた方がいいかなと思って」
語末に加えた言い訳めいた一言は余計であったかと、大妖精はひどく後悔した。
リグルはうんうんと呟きながら、ミルクコーヒーを無意味にスプーンでかき混ぜている。考えているようでその実何も考えていないような様子でいたが、不意にハッとしたように大妖精を見直した。あまりに突然のことであったので、大妖精まで驚いて身構えてしまった程である。
「ねえ、妖精。その氷がチルノが操ったものだって、どうして分かるの?」
せかせかとした口吻が、聞きたいことが見つからないからその場凌ぎで問うた訳でないことを表している。
大妖精は聊か緊張して答える。
「はあ。私は妖精ですから、自然物への質などに敏感なんです。ここの山の木、全部元からあったものではないでしょう? 後から植えたとか、そういうものが含まれているでしょう? こういうことは、妖精であればみんな分かることなんです。自然と共生するのが妖精ですからね。なので、寝てる時に感じた冷気は、チルノちゃんが出したものだと分かるんです。……それに、チルノちゃんとはずぅっと一緒にいましたから。彼女の出す冷気の質も、肌が覚えているんです」
陰りある笑みは、チルノとの思い出が想起された悲しみが齎したものであろう。
しかしリグルはそんな感涙を誘う幼き妖精の一面にはあまり興味が無いようで、顎に手をやって何やら考え込んでいる。
しばらく無言でいた後、唐突に次なる問いを投げ掛けた。
「あんたの自然を感じるセンスってのは信頼していいものよね?」
「勿論」
大妖精は言下に言い、迷い無く頷いて見せる。
「それじゃあ、次。チルノも自然の消滅で、妖精が皆いなくなるであろうことを知っていた?」
「知っていました。だから私、チルノちゃんと一緒に一日中幻想郷のいろんな所を巡り歩いたんですもの。もうじき消えちゃうから思い出を繕うって。巡り歩いたその日の夜が、問題の夜でした」
ここまで聞くと、リグルは満足したようにふう、と一息ついた。先程とは打って変わって、彼女の表情は何やら楽しそうで、同時に何やら感慨深げで、とにかく生き生きとしている。
先程の話と問いの中の何が、リグルを喜ばせているのかは定かではないが、とにかくあのピリピリとした嫌な雰囲気から脱することができ、大妖精は心底安堵していた。
大仕事を終えたかのような充足感と安心感を覚えた大妖精が、一服にと冷め始めているミルクコーヒーの入ったカップに口を付け、カップを傾け始めたと同時に、
「コールド・スリープ」
リグルが不可解な言葉を口にした。
大妖精の口がカップを離れた。斜角は修正され、ミルクコーヒーは大妖精の口に入ることなく、再び底の方へと戻って行く。
「コールド・スリープ?」
声に出して大妖精が問い返す。リグルは真面目な面持ちで、力強く頷いて見せた。
「読んで字の如く、凍って眠ると言う意味でね。空想科学小説なんかで引っ張りだこの、未知なる技術なのよ」
「凍って、眠る」
「そう。食べ物なんかも、凍って保存することで鮮度を保つことができる。それと同じように、人体を凍らせて保存して、普通に生きていればとっくに死んでいるような長い時間を、健康な体を持って迎えることができるのよ」
「私はチルノちゃんにそれをされたってことですか!?」
大妖精が興奮したように問う。同じようにリグルも興奮しているようであるが、冷静さを保って考察したことを口にした。
「確定はしていないけど、考えられると思うわ。妖精の生きる自然が急速に失われている幻想郷に、チルノは危機感を抱いていたようだしね。しかし、遥かな未来なら、もしかしたら妖精が暮らしていけるような自然が残っているかもしれないと考えたんじゃないかしら。それにだって根拠は無いけど、少なくとも近い将来よりは望みがあったのね」
「それで、私を凍らせて……?」
「それからチルノは、陽の当らない適当な洞窟にあなたを隠した。そして今日、自然と解凍され、あなたは動き出したのよ。幻想郷の気温はどんどん上がって来ているし、この山の自然環境も、冬の妖怪が消滅してからはまるっと変わってしまったしね」
冬の妖怪――大妖精の記憶にもあった。
「自然そのものたる妖精が生み出す氷はまた自然。それに包まれたあなたは、きっと自然の中で生きているに等しい状態であったから、自然を失って消えた他の妖精達と違って、消滅を免れたのよ」
真偽の程は定かではないが、確かに説得力は感じられた。
しかし、そこでとある疑問が生じ、大妖精はそれを口にした。
「どうして、妖精みんなを凍り付かせるとうことをしなかったんでしょうか」
「妖精全員を凍らせるなんてちょっと非現実的じゃない? あの数じゃァね。それなら一人をできるだけ遠い未来に送る方が懸命だと思うよ」
「じゃあ、どうして私が凍らされたんでしょうか……」
「それはチルノにしか分からないんだろうけど、一番頼れる妖精があなただったとか、そんな所じゃないかしら? 私としても、一番頼りになりそうな妖精って、あなただし」
こんな状況で無ければさぞや照れくさく感じられたであろうリグルの一言であったが、今は判然としない事の真相に頭が支配されるばかりで、大妖精は神妙な面持ちで手元に目を落としてしまった。
その様子を、リグルは黙って見守っていたが、
「まあ、全部推測の域を越えないものだから……あんまり気にしないで」
尤もらしいことを言っておきながら、何とも無責任な言い草である。考えるだけのリグルはともかく、大妖精にしてみれば堪ったものではない。
増々深刻そうに頭を抱え始めてしまった大妖精を元気づけようと、リグルはせかせかとした口調で言う。
「目覚めたらいきなり右も左も分からない世界とくれば、不安だろうし、仲間もいなくて悲しいでしょうね。だけどさ、安心してよ。私、あんたの力になるよ。行く当ても全然無いんでしょ? ここで寝泊まりするといい。ほら、前は一緒に遊んだりした仲じゃない」
大妖精がパッと顔を上げた。
「いいんですか?」
リグルはトンと胸を叩いた。
「勿論。私もこんな辺鄙な所で一人暮らしの身なんでね。結構寂しいのよ」
「ありがとうございます!」
未知の世界でこんなにも早く味方を見つけられた幸福を、大妖精は噛み締める。
幸福と恩義を言葉に表す技術に乏しい大妖精は、とにかく「ありがとうございます」とお辞儀を連発した。リグルが制しても、声も動作も、しばらくの間続いた。
*
衣食住の提供はするけど、今の時代ただめし食らいってのは許されないのよ――リグルの言った通り、大妖精は家事の一部を担わされた。
流石に炊事なんかは慣れないとできないから、洗濯物を畳んだり、掃除をしたり、誰でも最低限やれる仕事である。大妖精も端から無為徒食に暮らす気はさらさら無かったので、不慣れながら任された仕事はこなした。
幸運にも、分業初日である今日は、リグルの仕事が休みであったので、指示や分担はスムーズに決定できた。
その翌日、リグルは朝から仕事に出掛けた。帰宅は夕方である。
スーツをパリッと着こなしたリグルの姿に、大妖精はしばし見惚れてしまった。
「仕事は昨日頼んだようにお願いね。お昼御飯は、今朝の残り物を電子レンジで温めて。レンジの使い方は……昨日教えたから大丈夫ね?」
「平気です」
「うん。それじゃあ、なるべく早く帰って来るから」
そう言い残し、玄関の扉を開いたリグルであったが、あっと声を上げ、振り返った。
「そうそう、言い忘れる所だった。万が一電話が来ても無視して。それから、誰かが家を訪ねて来ても出なくていい。居留守使ってやり過ごして頂戴」
「どうしてです?」
大妖精が小首を傾げる。リグルは少し言葉に迷いを見せた後、
「ほら、まだこの家の勝手が分からないだろうから……印鑑とか求められちゃったら対応できないでしょ? それに、変なセールスマンとかだったら厄介だしさ」
セールスマンって何ですか――と言う問いを大妖精はぐっと飲み込んだ。リグルが止めろと言っているのだから、それに従うべきなのであろうと割り切った。
「分かりました。家の中でじっとしています」
素直に聞き入れてくれたことに感謝するように、リグルはふっと微笑んだ。
「それじゃあ、行ってきます」
やっとリグルは出勤した。
大妖精はすぐに玄関に施錠をし、一先ず任された掃除を終わらせてしまおうと、掃除用具の元へ駆けて行った。
箒と塵取りと雑巾の文化から抜け出せていない大妖精にとって、掃除機とは驚異的な道具である。獣の咆哮の如し轟音を上げながら煤塵を吸い込むこの機械を初めて見た時の感動が、未だに抜け切れていない。
ただ、あんまり調子に乗って駆動させたものだから、プラグがコンセントから抜けてしまうことが多々あった。また、動かすのに電気を使い、使いすぎると電気代が高くなるから、使い過ぎないように留意してくれと言うリグルの言葉もあったので、あまり自由に動かすことはできなかった。
任せられた仕事は存外早く終わってしまった。
暇を潰そうと、大妖精はリグルの私室に立ち入った。無論、無断ではない。引き出しやクロゼットを開けたりしないのならば自由に出入りしてもいいとの言葉を受けての入室である。
床に沢山の雑誌がばら撒かれている。
その仲の一つを手にとって、中身を拝見してみる。衣類の紹介をしている雑誌であるらしかった。麗しい女性が、高級そうな服を来て、カメラに向かって微笑み掛けている。服の値段が書かれているが、大妖精にはそれが一体どれ程の価値があるものなのか分からなかった。この世界の貨幣価値を、まだ彼女は知らないのである。
知らない文字も散見されたが、何とか読める本であったので、大妖精はこれで暇を潰していた。
宣言通り、夕方になってリグルが帰ってきた。掃除や洗濯などをしてくれたことに感謝の意を告げ、すぐに夕食の準備に取り掛かった。覚えれば役に立てるかもしれないと、大妖精もそれを手伝った。
こうして、初めての留守番が終了した。
「洗い物とか洗濯物を畳んだりしなくていいのは大助かりだわ」とはリグルの声である。大妖精も、役立てて光栄ですと笑った。
こんな感じで、二人の生活は荒波も無く続いた。電話や来客もあったが、大妖精はそれを尽く無視した。
次第に、仕事さえ終われば家にいる必要が無いから外に出ていてもいいよと、リグルが直々に家の鍵のスペアを大妖精に手渡しした。くれぐれも人目に付かないように――と言う忠告付きで。
雑誌に聊か飽き始めていた大妖精は、スペアの鍵を受け取った翌日、やるべきことを済ませ、昼食を取ると、早速外へ出掛けた。
作り物の自然ながら、やはり妖精である彼女にとっては、外の方が居心地がいいのである。
慣れない山ではあったが、そこは自然に生きる妖精の勘と言うのであろうか、迷うことは無かった。
鍵を手に入れた翌日に飽き足らず、彼女は連日、山の中を探索した。自然に身を投じたかったのもあったが、彼女は心のどこかで、密かに生き長らえている妖精の仲間の一人とでも出会えやしないかと言う、淡い期待を抱いていたのである。
山を探索している最中、些細な物音に過敏に反応し、そちらを見る。妖精の仲間ではないか、と。しかし、いつもそれは、ただの葉擦れであったり、野生動物であったり……彼女の期待に沿うものではなかった。
そして毎日、心密かな願い事は叶うことなく、彼女はこの山を離れることとなる。
リグルとの共同生活が始まって一月が経とうとしていた頃のことである。
その日、リグルは仕事が休みであった。『日曜日』である。学校も仕事も未経験の大妖精に、それが持つ絶大な魅力は分からなかったが、とにかく現在の人々は日曜日をこよなく愛するのだ、と言うだけの知識は持っていた。
リグルに買ってもらったフード付きの薄い青のパーカーを羽織って、大妖精はこの日も山の探索をしていた。この頃には、妖精を見つけようなどと言う野望は薄れ始めていて、自然を満喫するのが主目的となっていた。
微かではあったが、大妖精は自身の体調の変化を感じていた。だから、自然と接する時間を努めて長くしたのである。
やはり、作り物の自然の中では妖精は生きることができないのか――白々しい大自然に囲まれながら、大妖精は思った。そもそも、そんな中で生きていけるのであれば、彼女は独りではない。――リグルがいるから、今も厳密に言えば独りではないのだが。
この日、彼女の気分の悪さは一入であった。頭の中に金属を埋め込んだように頭が重く、何もしていないのに息苦しい。
もっと自然に身を沈めなくちゃ――こんな具合に、無我夢中で山道を歩んでいたのだが、あまりにも深入りしすぎた為、帰る時間を見誤ってしまった。
妖精の勘は今日も冴え渡り、道に迷うことはやはり無かったのだが、帰宅はすっかり遅くなってしまった。生活の規則の中に門限の設定もあった。初の規則破りである。
リグルの家を目路に捉えた途端、その歩みは更に速まった。帰宅の道すがら考えていた言い訳を頭の中で纏め上げ、一目散に玄関へ駆けこもうとしたのだが――大妖精はその足をピタリと止め、鬱蒼たる山と禿げ上がった平地の境目にある大きな樹の裏に身を隠した。
リグルが玄関先で、誰かと話をしているのが見えたのである。辺りはすっかり宵闇の取っ付きに支配されて暗いのだが、リグルと客人は玄関灯に照らされているので、遠くからでもよく見えた。人目に付かないようにと言う警告に従い、大妖精は帰宅を一時中断した。
聞こえてきたリグルの声色は、あまり聞いていて気分の良くなる調子ではなかった。よりによって、門限を破ってしまった日にあんな様子だなんて――などと辟易したのは束の間であった。よくよく見て、そして聞いてみると、客人も何だか穏やかでない様子であったからである。
樹の裏から顔を半分覗かせて、目を凝らして客人を見る。
客人は二人いて、男性と女性一人ずつである。
男の方には見覚えが無かったが、女の方に既視感があった。
すぐには思い出せなかった。大妖精は再び樹の裏に身を隠し、記憶を掘り返す。
夜の静寂の中で、リグルと、客人らの声はよく通る。
「ですから、私がここに住んでいるのは自然に触れたいからであって」
リグルの苛々した様子の声。
「そんな馬鹿げたことがあってたまるか。こんな不便な場所」
男の声には怒気が含まれている。
「馬鹿げたとは失礼な。私はあんた達みたいに外界にズブズブの奴らとは違うのよ」
リグルが食って掛かる。強気である。男もリグルの言葉を受けていきり立ったのだが、
「まあまあ、落ち着きなさい」
女が熱くなっている二人を宥めた。
大妖精はこの女の容姿のみならず、声にまでおぼろげながら覚えがあった。――あまり好きな声では無かった気がした。何だか、いつも他人を馬鹿にしているような気がして。
「やましいことが無いと言うのなら、中を見せて貰っても構わないと思うのですが」
女が言ったが、
「あんたが勝手にそう思ってるだけでしょ」
リグルは引かない。
埒が明かないと判断したのか、
「仕方ありません。今日は帰りましょう」
女が折れた。男は大層不服そうであったが、確かにリグルを退かすことはできそうもないので、男も女の提案に従った。
宵闇に紛れて行く二人を見届けた後、大妖精はやや姿勢を低くしながら、玄関へと駆け込んだ。
玄関扉を叩く。
「リグルさん。私です。遅くなってごめんなさい」
去って行った二人が、大妖精が勝手に想像しているような悪者であるのか、あの者達に自分が見つかったら何か不都合であるのか……それは分からなかったが、自然と声は潜まった。去っていた客人はもう大妖精の立ち位置からは見えなかったし、客人達の方からも、勾配や木々に阻まれる所為で大妖精の姿は見ることができない。しかし大妖精は、言い知れぬ恐れを覚えていて、後ろを振り返って去って行った二人の姿を確認すると言うことが、どうしてもできなかった。
忌わしい客人との口論の末に、ピンと気を尖らせていたリグルは、戸が叩かれた瞬間に癇癪を起こしそうになったが、大妖精の声を聞くや否や、その突発的な感情を鎮め、扉を開いた。大妖精はまるで猫のように、少し開かれた扉の隙間からするりと家の中へ入り込んだ。
扉を掛け、施錠をすると、リグルが大妖精を振り返る。大妖精はほぅ、と、安堵のため息を漏らしている。
「遅かったね」
努めて優しげにリグルが言う。
門限を破ってしまった罪悪感と、あまり穏やかでない様子での接客を目の当たりにした大妖精に、この優しげな口調は却って恐ろしく感じられたらしく、
「ごめんなさい。山の奥深くまで入ってしまって、帰るのに時間が掛かっちゃって」
リグルが困惑する程に頭を下げた。
門限など一応設定してはいるが、それ程厳格に守り通させようなどとは、リグルは考えていないのである。
「何にしても、無事に帰って来てよかったよ」
さあ、晩御飯にしようか――しみったれた雰囲気を転換しようと、リグルは努めて明るく振る舞った。
夕食中の話題は大抵、大妖精の山探索が主である。
蟲の妖怪と言う自然の中に身を置く存在でありながら、多忙な上に、もう元気に山を駆け回るような体及び年齢でないリグルにとって、住んでいる山がどんな風になっているのかと言うことに興味が尽きないのである。
いつもは何の蟠りも無く、見たり感じたりしたことを屈託なく話すことができるのだが、この日ばかりは少しいつもとは勝手が違う。
門限破りについては、リグルがあまり気にしていないようなので、大妖精も気にしないことにした。
大妖精の心をずしりと重くしているのは、あの客人達である。
大木に身を隠して話を聞いてみれば、客人は何やら家の中へ入りたそうにしていたが、リグルはそれを拒んでいた。
『やましいことが無いと言うのなら、中を見せて貰っても構わないと思うのですが』
女の放ったこの意味深な台詞は、声まで鮮明に再生することができた。一度だけ、しかも隠れながらの盗み聞きであったと言うのに、これ程鮮明に記憶できていると言うことは、あの声は自分にとって何か特別な意味を持っている声なのかもしれない――と大妖精は考える。
あまり夕食中に話したくないことであった。杞憂であるかもしれなかったが、本当にあまり触れてはいけない事柄であったら、折角の夕食が不味くなってしまいかねないと、結局大妖精はそのことを夕食中に切り出すことはしなかった。
大妖精が、あの怪しい客人のことをリグルに問うたのは、夕食が終わり、皿洗いも終わって、寝るまでの自由な時間になってからのことである。
リグルは編み物に凝っているようで、暇を見つけてはせっせと毛糸で何かを編んでいる。器用なもので、その完成品の出来栄えは相当なものである。
「今はマフラー編んでるから、完成したらあんたにあげようか」
リグルはこう約束した。
本当は素敵な殿方に渡したいんだけどねぇ――付加された一言の口吻は、少し深刻そうであった。
「あの、リグルさん」
おずおずと大妖精が声を掛ける。
せかせかと編み物をしているリグルは、作業の手を止めることも、視線さえ変えることなく、
「何?」
少々気の抜けた調子で返事をした。
声まで掛けておいて、大妖精は少し言い淀んだが、意を決したように言い放つ。
「今日、私が帰ってくる前、お客さんが来ていましたよね?」
リグルはやはり編み物の手を止めなかったが、問うた瞬間、ほんの微かに動揺を示したのを、大妖精は見逃さなかった。やはり、あまり触れられたくない事柄であったのか――。
「あの人達はどういう方々なのです?」
リグルは言葉を選んでいるのか、黙秘しているのか、開口しない。
どうしても真実が知りたい大妖精は、おまけにこう付け加えた。
「あなたは、あのお客さんが家に入るのを強く拒んでいたようですが、どうしてですか?」
ようやく、リグルの視線が編み物から大妖精へと移った。
「聞いていたの?」
リグルはひどく驚いている。暗中の大木に身を隠していた大妖精になど、リグルが気付ける筈が無いのだから、この反応は至極当然のものである。
大妖精は申し訳無さそうに眉宇を潜め、こくりと頷いた。
しかし、リグルは別に不愉快そうな様子は見せなかった。ただ純粋に、客人の存在と、その口論の内容を知られていたのが驚きであっただけと言った具合である。
「あいつらはねえ……この世界の、とても偉い人達なんだよ」
唐突にこう切り出され、大妖精は聊か困惑したが、すぐに問い返す。
「偉いのにあんな応対をしていていいのですか?」
「本当はあまりよくないね」
リグルが苦笑を浮かべる。
「あの人たちは、何の用があってここへ?」
「やましいことをしていないかどうかを調べに来ているんだよ。私がわざわざこんな不便で辺鄙な山に居を構えて住んでいるから、何か良からぬことを企んでいるんじゃないかって疑って掛かっているみたい。立派な想像力だね。それでいて貧相な洞察力だ。こんな妖力も消滅間近の弱小妖怪に、一体何ができると思ってるんだろう」
やはりあの客人達が憎いようで、リグルは刺々しくこう吐き捨てた。
「やましいことって?」
質問ばかりでなく、自分で考えることもしなくてはいけないとは思いつつも、何せ大妖精はこの世界の仕組みや現状さえろくすっぽ知らない状態であるから、思考しようにもその材料が無いので、思考のやりようが無い。どうしても質問ばかりになってしまう。
リグルはあいつらの悪口が言えるなら何なりと――と言わんばかりに言葉を重ねる。
「今の幻想郷が科学に塗れてることは、前に都心部を見下ろしたから知っているね?」
大妖精は黙って頷いた。あれ以降、あの下賤な眩さに覆われた異世界を見下ろしたことは一度たりとも無いが。
「科学とは、世界の重鎮たる者どもが、私達愚民に与える御神の力なんだよ。私達はその世界の重鎮である守屋神社――覚えてるよね? あそこの神様三人に、河童、それから天狗。こいつらさ」
その瞬間、大妖精は脳の皺を電流が流れたかのような熱と衝撃を覚えた。
寸での所で思い出し切れなかった、あの女の声の正体がようやく分かったのである。
あの女は天狗である。鴉天狗で、名前は射命丸文と言った。度々、チルノの前に姿を現しては、何やら憎らしいことや難しいことを言っていた――大妖精はこんな発見をしていたが、リグルがそれに気付く筈もなく、彼女はまだ言葉を続けた。
「私達は、彼彼女らが齎す化学を利用させて頂いている身なんだよ。街を街たらしめるビルだの電線だの公共交通機関だの、人々の生活を便利にしてる車や家電……こういうものは全部、使わせて貰ってる身と言うことになってる。齎されている以上のものは持っちゃいけない、作っちゃいけない。最先端はいつだって天狗達って言う状態を保ちたい訳ね。だから、こんな山奥までわざわざ、やましいことはしていませんかー、天狗や河童よりすごいものを作って世界の転覆を企ててやしませんかーって定期的にご足労頂いてるって訳」
ずっと彼奴等の悪口を言いたくて仕方がなかったのであろう、リグルは妙におどけた調子でこう言った。編み物の手も止まる集中ぶりである。
「それでリグルさんは、そんなやましいことはしていない……ですよね?」
「当たり前じゃない! こんな狭い家と私の知識と財力で一体何が出来るって言うんだ! あの大きな街を台無しにできるような発明が、この家で出来るとお思い?」
あいつらにお菓子を焼いて毒を盛ることさえままならないわ――台所を一瞥しながら、リグルは乾いた苦笑を漏らした。
凄まれた大妖精は、慌てて「良く分かりました」と返事をして、リグルを宥めた。
二人とも無言になった。箱時計の振子の音ばかりが部屋の中に響く。リグルは止まってしまっていた編み物を再開した。大妖精はしばらく考え込んでいたが、ふと思い至り、こんなことを尋ねた。
「私が家にいる間、客や電話には対応しなくていいと言ったのも、天狗達のせい?」
リグルはすぐに返事をしなかった。
代わりに「うーん」と難しい顔をして唸り、言葉を選んでいると言う意志表示をした。
「……はっきり言ってしまうとね」
「はい」
「あなたを天狗達に見せる訳にはいかなかったのよ。あなたの為にも、私の為にも」
「どういうことです?」
リグルは少し逡巡の色を顔にちらつかせた。
だが、意を決したように編み物の手を止め、真っ直ぐ大妖精を見据えて言う。
「妖精――あなたは今ね、世界中から畏怖されている存在なのよ」
突拍子もなく放たれた一言。大妖精には理解ができなかった。
「畏怖? 妖精が怖いんですか? だって、リグルさん。この世界にもう妖精は私しかいないんでしょう? それなのに、怖いも何も無いのではないですか?」
「いないからこそ、恐れられているの」
リグルは言下に大妖精の言葉を打ち消した。
「幻想郷は目覚ましい発展を遂げたけど、その代償として自然を失った。結果、妖精達の住む場所は無くなってしまって、一人残らずその姿を消してしまった。どう言った訳かあんたは、こうして私の前に現れたけれど」
リグルが一度閉口した。言葉を選んでいる。
大妖精は無言のままリグルをじっと見据えた。炯々とした瞳には、事の真相を一刻も早く知りたいと言う思いが感じられ、リグルは追われるように口を開いた。
「……まあ、単刀直入に言ってしまえば」
考えが纏まり切っていなかった様子である。
「誰もが、この発展の裏で消え去ってしまうことになったあなた達に、申し訳無く思ってるって訳なのよ。暮らしは便利になったし、娯楽も仕事も増えた。生活は楽しくなったよ。だけど、妖精が消えてしまった。私利私欲の為にあなた達を見殺しにしたことに、多くの人が後ろ暗さを感じているの」
「そんなの勝手です。何もかも奪っておいてから、そんなこと言われたって」
大妖精は憤然たる声色でぼやいた。リグルはそれに対しては特に反応せず、先を続ける。
「その結果、現代で姿形の無くなった妖精は、呪いとか恨みとか、そういう類のものに変化してしまったのよ。はっきり言って、妖精には幼い奴らが多かったでしょ? だから、珍しい物や事に興味を示すことが多かった。そんな妖精達は、この新しい世界に関わるどころか、贄にされて消えてしまった。妖精達は私達を怨んでいる、妬んでいる、呪っている、そうに違いない――って言うのが今の通説なのよ」
再びリグルは閉口し、聞き手の様子を窺う。聞き手たる大妖精は至極不機嫌そうに眼を伏せている。
ここまで機嫌を損ねてしまっては、もはや気遣いも何も無いか――と、リグルは持論を包み隠さずぶちまけてしまうことにした。
「新しい時代だ、新しい世界だ、なんて言ってみても、所詮はまだ変革からそれ程時間が経ってないし、それにどうしたってここはやっぱり幻想郷さ。天狗達が目指しているらしい外の世界じゃ、幽霊だの怨恨だのってものは鼻で笑い飛ばせるような脆弱極まりない存在みたいだけど、こっちじゃそうはいかないんだね。いろんな人が心の内で妖精の怨嗟を恐れてる。忽然と一人残らず消えてしまったっていう劇的な終末もそれに拍車を掛けてる」
「つまり……妖精である私は今、多くの人々にとってとてつもなく恐ろしい存在。だから、あまり人目に触れさせたくなかった、と?」
リグルは素直に頷いた。
大妖精は操り糸が切れた傀儡のように脱力し、はぁと重苦しいため息を一つ漏らした。この世界における自身の存在が、あまいりにも変貌しすぎている現実に耐えかねている様子である。
「今でも人ならざる者は相変わらず一杯いる。羽のある人型の生き物だって山ほどいるから、一目見てあんたを妖精だって思う人はなかなかいないだろうね。幸い、あんたは妖精にしては大きい方だし」
大妖精の背丈は、目線が丁度リグルの胸にぶつかる程ある。
妖精と言う生き物は、人間の子ども程度の者から、肩に乗せても問題ないくらい小さな者までと、背丈に著しい差がある。
後者の様に小さな生き物は妖精以外にいないので、一目で妖精だと気付かれてしまう。しかし、幸い大妖精は前者のような姿形をしているし、今の幻想郷には妖精がいないので、彼女を知らぬ者にはまず妖精とは気付かれないであろう。
妖精としては背が高い方だけど、もう少し背が伸びればいい――と幾度となく考えた自身の矮躯のことを思っていた大妖精が、ふと思い付いた疑問を口にした。
「リグルさんは私が……妖精が怖くないんですか?」
粗方言うべきことを言い終えたと判断したリグルは、編み物を再開していた。大妖精の問いに、軽い調子で答える。
「私は全然。私は昔の幻想郷の方が好きだったから。変わっちゃったものは仕方が無いから、今は適応して生きてはいるけど、本当は昔のまま変わらないでいて欲しかったよ。これでも蟲の妖怪だから、あんた程ではないにしても、自然が恋しい身なのよ。昔を肯定するだけで、あんた達妖精に恨まれないなんて道理は無いけど、そういう心持ちが妖精への恐れを打ち消してるのは事実だよ」
随分真面目な話をしたせいで、幾らか気分が高揚してしまった為であろう、その日の夜、大妖精はなかなか寝付くことができなかった。
リグルのベッドのすぐ横に褥を設えているのだが、かれこれ一時間程、暗い部屋の中で輾転反側している。リグルに聞かされた言葉が、頭の中を響き回っているのである。
発展の犠牲。人々の後悔。怨恨。畏怖。
随分面倒な世界に目を覚ましてしまったものだと、大妖精は辟易する。
コールドスリープの説が正しいかどうかははっきりしないが、彼女は親友であるチルノを聊か恨めしく感じていた。と言うより、あまりにもこの世界を知らない彼女は、怒りの矛先を過去の親友に向けることしかできないのである。
ベッドの上で穏やかな寝息を立てているリグル・ナイトバグに目をやる。随分長い時間、この闇の中に身を置いていたから、目はすっかり闇に順応している。リグルの姿もよく見えた。
自然の中に身を置きたいが故に、あらぬ疑いを掛けられながら、このような紛い物の自然が残る辺鄙な場所での生活を自らに強いているリグルに、大妖精は聊か惻隠の情を催した。
あの天狗の監視は、今後も続くのであろうと、大妖精は考えた。
今日は偶然、自分が外に出ていたからよかったものの、何かの拍子に自分の存在があの天狗達にばれたら――恐ろしい未来を想像してしまい、大妖精は思わず身震いした。
深い疑惑の目を向けている山奥の家屋に、畏怖の存在である妖精がいた――リグルの処罰は火を見るよりも明らかである。
今がどうなのかは知らないが、大妖精の記憶にある天狗は、酷く横紙破りで偉そうで、それでいて強力な妖怪である。いつ、強引に家へ入り込んでくるか、分かったものではない。
大妖精はいても立ってもいられなくなった。自分がここにいることで、リグルに迷惑を掛けてしまう――。
大妖精は布団から出て、眠っているリグルを上から覗き込んだ。
妖精が現代において如何に厄介な存在であるかと言うことを知りながら、自分によくしてくれたことに、大妖精は心中で礼を言った。声に出すと、相手が起きてしまうかもしれなかったから、どうしても声には出せなかった。
――コツン。
不意に鳴った物音で、リグルは目を覚ました。寝惚け眼で、カーテンを引き、外を見る。まだ月の光が我が物面して宵闇の中を行くような真夜中である。何も見えなかった。
原因究明する気力も失せ、外へ向けた視線を戻す。そのまま何の気なしに視線を横にやった。
すると、床に敷いてある布団が、もぬけの殻となっていることに気付いた。
「え、妖精?」
リグルは先ず自分の目を疑い、次いで夜の闇に疑いを掛けた。慌ててベッドの小脇に置いてある電気スタンドのスイッチを入れる。
室内が明るく照らされた。しかし、やはり大妖精はいなかった。
リグルは慌ててベッドから飛び出して、私室を出た。ただトイレにでも行っているだけかもしれない――とも考えたのだが、どうしても何か不吉な予感を拭い切ることができなかったのである。
私室を出てすぐに、居間にあるテーブルの上に一枚の紙が置いてあることに気付いた。
『今までありがとうございました。これいじょう、あなたにごめいわくはおかけできません ようせい』
紙の正体は、大妖精の残して行った書置きであった。
*
真っ暗闇の山を下るのはこの上なく恐ろしいことであった。
洞窟で目覚めた時は夕焼けであったが、今はまだ夜中である。道の先さえどころか、足元さえろくに見えない。
いくらなんでもこんな時間に飛び出したのは愚策であったかと若干後悔したが、今更リグルの家へ引き返すのはばつが悪いし、何よりこれ以上リグルに迷惑をかけたくないから、引き返すことはしなかった。
そんな大妖精を弄ぶように、闇は引き揚げる様子を見せず、増々山道を漆黒に染め上げていく。
大妖精は次第に心細さを感じ始めた。
こんな真っ暗闇を独りで歩くことなど今までに無い経験であった。
思い返して見れば、自分は多くの仲間と共に、幻想郷を生きていたのだと実感する。
親友であるチルノを初めとした、多くの妖精達に囲まれて、騒がしく生きていた古き良き幻想郷での日々が想起される。
今この瞬間があまりにも不幸せであるので、記憶にある幸福の日々が直視し難い程に眩く感じられ、大妖精は自然と思い起こされた記憶を振り払った。思い出せば思い出す程、今の自分が惨めに感じられた。
「誰か……誰か、いない?」
いる筈も無い仲間に声を掛けてみる。問いへの返事の代わりと言わんばかりに、葉擦れがざわざわと大妖精の耳を聾する。大妖精は風の冷たさと薄気味悪さに身を震わせる。
風と言う鞭に叩かれて、大妖精は矢庭に歩調を速めた。
それがよくなかった。大地からにょっきり顔を出していた木の根に蹴躓いてしまったのである。受け身を取ることができず、ごろごろと坂道を転げ落ちて行ってしまったのだ。
急斜面は容易には転落の停止を許さない。斜面のでこぼこに身を打たれながら、大妖精は斜面を勢いよく転げ落ちて行く。
雑然と立っている木の一つにぶつかって、ようやく大妖精は停止することができたのだが、体中を様々な突起物にぶつけた所為で、疼痛のベールに身を包んでいるかのように、体の至る場所が痛んだ。
ぽろぽろと涙を零しながら痛みに呻き、その場に蹲っていたのだが、ふと彼女は、この山に不似合いな感触を感じ取り、ふと顔を上げた。
自分が山のどこの辺りを歩いていたかなど端から皆目見当がついておらず、今回の転落でそれに拍車が掛かってしまった訳であるが、大妖精はこの偶然に聊か感謝した。
この、作り物の自然蔓延る山の中で見つけた不似合いな感覚――即ち、作り物でない自然の存在である。微弱ながら、妖精の鋭敏な感覚がそれを感じ取ったのである。
傍らに立っている木に手を添えて立ち上がる。その瞬間、手の甲がズキンと痛んだ。目を凝らして見てみれば、大きな裂傷が刻まれているではないか。見なければよかった――と、大妖精は自分の行動を後悔しつつ、歩き出した。この山には不似合いな、心地よい自然の香りがする方へと。
幸いにも歩けなくなる程の傷や痛みは無く、鈍重ながらも着実に、その自然へと近づいていくことができた。
しばらくそうやって歩いている内に、遂に彼女は目当ての場所に辿り着いた。
そこは、リグルの家の建てられていた平地を彷彿とさせる開けた地である。そこに勃然と、巨大な樹木が聳え立っている。
周りの木とは全く異なる、圧倒的な存在感に、大妖精は感嘆のため息を漏らした。痛む体が嘘であったかのように駆け出して、飛び付くように木に縋り付く。
大きく息を吸う。心地よかった。麻酔でも掛けられたかのように、頭がぼんやりとした。樹皮に舌を這わせそうになったが、さすがに寸での所で止まった。
母に甘える子どものように、樹木にじゃれ付いた後、大妖精は疲労と疼痛で満身創痍の体を樹木に預けて、ぐったりと脱力した。
だらしなく樹に凭れながら、大妖精はぼんやりと空を見上げる。冷たい白光を放つ月がぽっかりと浮かんでいる。今日は若干雲も見られ、時々月は雲に隠れてしまうのだが、それでも尚、鋭い月光を幻想郷に送り込んでいる。
「光は間に合ってるよ、お月様」
そんなことをぼやいた後、大妖精はうとうとし始め、間もなく死んだような眠りに就いた。こんなにも大きな自然の傍なら、外敵には襲われないだろう――などと、随分投げやりなことを考えながら。
これと言った切っ掛けも無しに、大妖精が目を覚ました。
開いた目に先ず飛び込んできたのは、美しさの足らない雑然と群生している木々と、その間隙を縫って大妖精の目に鋭い陽光を送っている朝日。長らく睡眠の暗黒に身を投じていた大妖精の目には、その陽光は少々眩し過ぎるようで、細い眉を目一杯顰めた。
寝起きらしい半醒半睡の虚脱状態からはすぐに脱した。
大妖精は先ず、自分の体の状態を確かめた。
昨日の転落で受けた傷や痛みが、不自然なまでに解消されていることに気付く。手の甲も見やったが、とても一夜を過ごしただけとは思えない程に、傷は塞がっていた。
――また、数日もの間眠っていたんじゃ?
この世界へ迷い込む切っ掛けとなった睡眠と言う動作に、多少大妖精は懐疑的になりつつある。
何はともあれ、体が満足に動くようになったと、大妖精は元気よく立ち上がった。
そして振り返り、一晩自分を見守ってくれた大樹に深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。……本当はここにいたいのですが、私は行かなくてはいけません」
山で延々と過ごすこともできようが、それではこの身がもたないのは目に見えている。
それに、この世界のことをもう少し詳しく知りたいと言う気持ちがあった。
自然を、妖精を犠牲にして作られた世界とは、どれ程素晴らしいものなのか――それをこの目で確認してやろうと言う気になったのである。
久しぶりに純真な自然に触れることができたお陰であろうか、妙に体が軽く感じられた。昨晩の様に足元が見えないと言うこともなく、下山は非常に捗った。
そうやって軽快に山を下って行き――遂に彼女は山を降り切った。
山を降り切って先ず視界に映ったのは、やけに黒い道である。両方の端と中央に白い線が描かれていて、山と平行して左右に延々と伸びている。その道の向こうには川があり、これもやはり山と平行に伸びている。
左右を見渡して見ると、ちらほらと民家が見える以外、何も無い。大妖精が出たのは、まばらな民家と民家の間にある、道も無ければ、舗装さえされていない、背の高い草原である。民家にさえぶつかっていない。
リグルの言葉を思い出す。あまり自分は人目についてはいけない――警戒するように周囲を見回したのだが、人影は見えない。本当に人がいるのかが疑わしく感じられる程静かである。
進む勇気は無いが、退くことは許されず、二進も三進もいかなくなってまごついていると、ふと遥か遠くから、何かが猛スピードでこちらに近づいてくるのが分かった。大妖精は背の高い雑草に身を潜め、それをやり過ごす。
しばらくして、巨大な黒色の物体が爆音を轟かせながら、大妖精の目の前を横切って行った。
大妖精は走り抜けて行く物体――車の後ろ姿を、生い茂る背の高い草の中から顔だけを出して見やる。
完全にそれが見えなくなってから、素早く茂みから抜け出して、とりあえず川沿いの道をだらだらと歩き始めた。
彼女が目指しているのは、山の高みから見下ろした、けばけばしい極彩色の灯りが蔓延る、あの街――即ち都心部である。
どうすれば辿り着けるのかは分からなかったが、とりあえず山から眺めた景色を思い返し、大雑把に進むべき方向を予測し、それを信じて歩き出した。自分の憶測が合っているか外れているかは不明であったが、いずれにしろ、信頼できる情報など何一つ持ち合わせていないのだから、同じことである。
川に沿って歩きながら、大妖精はあたりを見回す。ここら一帯は、彼女は思ったよりもずっと辺鄙な場所であった。
山の麓はまだまだ開発の手が入り切っておらず、非常に不便な場所である。
但し、開発途上とは言っても、昔の幻想郷のような風情は一切取り払われている。車通りは絶望的に少ないが、道路くらいはあるし、立ち並ぶ家々はいちいち色彩豊かで、目に痛い。それに、自然の廃れが手に取るように感じられた。山の嘘っぽい自然の方が遥かにマシに感じられる程の環境であった。
その劣悪な環境が悲劇を生んだ。大妖精の体調が急変してしまったのである。
妖精が生きるにあまりにも不適応な環境に身を投じた大妖精の体は、すぐにはその現環境に順応できず、拒絶反応を引き起こしたのである。
呼吸が苦しくなり、動くことも大儀に感じられ始めた。
黒色の道――道路を挟んだ先に長く連なる緑の山を見やる。完璧な自然とは言えないが、応急処置程度にはなるかもしれないと、大妖精は力を振り絞り、山へ向かって駆け出した。
だが、彼女の行動はあまりにも軽率であった。……ここが、彼女の記憶にある古めかしい幻想郷であれば、こんなことにはならなかったのだが。
すっかり自分の体調のことに気を取られていた大妖精は、遠くからこちらに近づいて来ていた原動機付自転車に気付いていなかった。
その二輪車の運転手たる人物は、勿論大妖精の姿に気付いていたが、まさか歩行者が急に道路へ飛び出してくるとは思っていなかったものだから、追い抜くか否かの所で急に横へ駆け出され、それはそれは驚いた。
大妖精も、いざぶつかりそうになった所でようやくそれに気付き、駆け抜けてしまうか引き返すかと言う判断を、丁度半々採用し、片側の車線のど真ん中で立ち竦んでしまった。
けたたましいブレーキの音が響く。
前輪は大妖精の体を跳ね飛ばす寸での所で止まっている。
ただでさえ体調が悪いのに、それに加えてこのハプニングである。大妖精はその場にへたりこんでしまった。
「ちょ、ちょっとあなた! 驚かさないでよね! 急に飛び出したら危ないでしょ!」
ヘルメットを被っている運転手が金切り声を上げる。声からして若い女性であることが分かる。
大妖精は息も絶え絶え、
「ごめんなさい」
と呟き、さっさと山へ入って、この苦しみから抜け出そうとしたのだが、この出来事ですっかり腰が抜けてしまった上に、先程から感じている体調不良も相まって、動くことができない。
あわや少女を撥ね飛ばすところであった運転手は憤然としていたのだが、大妖精の異変を感じるや否や、憤懣はどこへやら、慌てて二輪車から降りて、ヘルメットを脱いでハンドルに引っ掛けて、大妖精に歩み寄った。
「ちょっと、どうしたの? 私当たってないよね?」
「はい、大丈夫です、当たってないです」
あなたに罪は無い――先ず大妖精はこれを保証したのだが、運転手に安堵の色は微塵にも表れない。
苦しげに喘ぐ大妖精に一体何をすればいいのか、完全に気が動転していて正常な判断を下せない様子である。
しかし何もしないのは一番良くないと、背中を摩り出した。「大丈夫?」とか「風邪?」とか、そんなことを重ね重ね問いながら。
万が一、塵界の毒素に当てられて二進も三進もいかなくなってしまっても、この人がいれば何とかなるかもしれないと言う安心感からきたものであろうか、大妖精は次第に気分が楽になった。
「もう平気です。ご迷惑をお掛けしました」
大妖精はそう言い立ち上がる。運転手はまだ不安が拭い切れない様子であるが、しかしいつまでも背中ばかり摩っていても埒が明かないと、一歩退いた。
大妖精は振り返り、迷惑を掛けてしまった相手の顔を見る。
運転手は、声から判断できた通り、まだ若い女性であった。リグルよりも一回り若い。
鮮やかな水色の髪は肩に掛かるくらいまで伸びている。少々荒々しく削がれた髪型が狼を彷彿とさせ、見る者に活発的な印象を与える。
背丈はリグル程高くない。見た目から年齢を憶測するに、これ以降の成長は望めないと思われる。
溢れる快活さと、低めの背丈――あどけなさを多分に残した容姿が愛らしい。
服装は深めの緑のジャケットに赤色のインナー、パンツは黒色のジーンズ。年相応の安価さが見受けられた。あまり高価な衣類には手が出せないのであろう……と、大妖精は推察した。
これまで山から出たことの無かった、世間知らずな彼女がここまで判断できたのは、偏に、リグルの私室で暇つぶしに読んでいた雑誌のお陰であろう。
つらつらと容姿についての情報を並べてきたが、この女性の最大の特徴は、何と言っても瞳にある。
この女性、なんと左右の瞳の色が異なるのである。
それもその筈、実はこの女性、古き時代においては幻想郷中を渡り歩いては人々を驚かして回り、万人に恐れられる妖怪を目指して日々奮闘していた唐傘お化けであるのだから。名を多々良小傘と言う。
この二人は全く面識が無かった訳ではないが、それ程綿密な親交があった訳でもなかった故に小傘は大妖精を覚えていなかった。大妖精も一度くらい驚かされたことがあったであろうが、小傘の容姿がリグル同様、昔とはすっかり変貌してしまっている所為で、思い出すことは叶わなかった。
瞳の色が左右で異なっていると言うことは、そもそも知識として持ち合わせていなかったので、想起の材料にはならなかった。
服装や身体的特徴をあれこれと見抜いてみた大妖精であったが、あんまり人を品定めしては失礼だと、思考の海から脱し、ぺこりと頭を下げた。
「本当にごめんなさい。つい、ぼんやりしてしまっていました」
「ううん、気にしないで。大事にならなくてよかった」
多々良小傘は少々たじろぎつつ言う。
「あの、何だか体調が悪いようだけど」
接触もしていないのにその場にへたりこまれては、このような心配をしてしまうのも無理はない。
少しばかり体が悪辣な環境に慣れてきた為か、それとも防衛本能からか、大妖精は早くこの場を立ち去らねばと、首を横に振って、
「大丈夫です」
こう告げたのだが、小傘の顔色は晴れない。どうしても、大妖精の体に異常が無いとは思えなかったのである。
「事故の怪我じゃなくて、こう、何か病気とか、そういうことも無い? はっきり言って、体調がいいように見えないよ」
あまり人目に触れてはいけないと言う制約が、早速守れていないことに、大妖精は聊かの焦燥と不安を抱いていた。しかし、これ程話をしても相手が自分を妖精だと看破しないことは不幸中の幸いであると感じていた。
きっと相手は、自分が妖精であることに気が付いていないのだろう……そう思うと、大妖精は聊か甘えたい気持ちが芽生え、こんなことを言ってみた。
「私、実は、その……あっちの方にある、栄えてる所へ行きたいのですけど」
山から見下ろした景色を思い返し、およその方向を指差しながら大妖精が言う。それはつまり、彼女が歩いて向かおうとしていた方向である。
「都心部へ行きたいの?」
「そうです、そうです」
「私もそっちへ向かってるから、乗せてあげるのは構わないけど……体は本当に大丈夫なの?」
小傘の一番のネックは、大妖精の体調であるようである。
「大丈夫です。どうかお願いします」と大妖精。
小傘はやや猜疑的な眼差しを大妖精へ送っていたが、結局、彼女を都心部へ連れて行ってやることに決めた。
原動機付自転車に跨った小傘の後ろに座り、大妖精がぎゅっとその腰を抱え込む。あまり肉付きはよくないらしく、骨っぽいごつごつした体の抱き心地はお世辞にも良いとは言えない。
「ヘルメット一個しか無いけど、まあ仕方ないか。しっかり捕まっててね」
小傘はこう忠告してからすぐに、原動機付自転車を発進させた。やかましい爆音を鳴らしながら、摩訶不思議な鉄の塊は猛スピードで漆黒の路の上を駆け抜ける。長い緑色の髪がばたばたと靡いて、そのあまりの鬱陶しさに大妖精は辟易する。
しかし、歩くよりも遥かに速い速度で、体は街へと向かった。
街へはおよそ三十分で到着した。
この乗り物を使ってこれ程時間が掛かったのだから、歩いていたら一体どれ程歩く羽目になったのだと、大妖精は少し前の自分を嘲笑せずにはいられなかった。
直線距離にすればさほど遠くないのだが、いちいち迂回していかねばならない作りであるようで、それが余計な時間を要することになっていた。
都心部の入口に着くと、小傘は原動機付二輪車を降りた。大妖精は、その常識外れな速度に当てられてしまったのか、少しばかりくらくらしていたが、小傘の手を借りてようやく乗り物から降りた。
「すごいですね、これ」
大妖精は先程まで自分と小傘が座っていた座席を撫でながら言う。
「これは何と言う物なんですか?」
「あなた、原チャリも知らないの?」
小傘は驚いたように問う。大妖精は素直に頷いた。そして、これは原チャリと言うものだのだと、頭に刻み付けておいた。
都心部の入口に立った大妖精は、改めて、その変わり果てた幻想郷の中心地を見やる。
山から見ても巨大であった縦に長い箱型の建物は、いざその足元に立って見上げてみると、戦慄を禁じ得ぬ程の巨大さである。これ程にまで大きい建造物を、大妖精は見たことがない。いやいや、建造物どころか、何者かの手によって作られたものでこれ程大きな物を見たことさえ、ほとんど無い。記憶にあるのは、いつぞやかに河童が作った、蒸気で動く巨大なロボットくらいであるが、目の前に聳え立つ箱はそれよりも遥かに大きい。
そんな巨大な建造物が、山のように連続して立っているのだから、その圧迫感、威圧感たるや、眺めているだけで卒倒してしまいそうな程である。大妖精はその連続する箱の建物から目を離そうとしたが、どちらを見ても、まるで鏡に映ったかのように似通った景色が広がっている。
その巨大な箱に囲まれるようにして、黒い道――道路が敷かれていて、そこを色取り取りの鉄塊が、いかにも体に悪そうな黒い煙をもくもく吐き出しながら、つっかえつっかえ、のろのろと進んでいる。
その高速で動く鉄塊を制御しているのは、三つの目を持つ一本足の背高のっぽである。目の色は一定の時を置いて赤、黄、緑と変わっているが、およそ規則的であることから、どうやら意志はないようだ――と大妖精は察した。
多くの人が、思い思いの服装で、一体どこへ行くのか、とにかく忙しげに歩いている。こんなに狭い世界で、何をこんなに生き急いでいるのか、大妖精にはさっぱり分からなかった。
「さて、着いたけど……あなたはこれからどこへ?」
「どこへ?」
大妖精はハッと小傘を見上げる。小傘は随分当惑した。
「いや、私に聞かれても……ここへ来たってことは、何かやることとか、行く所があるんでしょう?」
小傘はそう言うが、勿論大妖精にはそんな明確な目的があった訳ではない。ただ、この栄えた場所がどんな所であるかを見に来たというだけである。
今後どうするかなど、当ても何も無いのだが、これ以上小傘と一緒にいる意味は無い。私は妖精だから、誰かと一緒にいてはいけない――そんな思いが、大妖精を漠然と動かした。
小傘に無言で頭を下げ、大妖精はふらふらと歩き出した。行く当てが無い上に、これ程にまで訳の分からない、恐怖の世界に来てしまっては、歩み出そうとする足も自然と止まってしまうというものである。
だが、止まっている訳にはいかないのだろうと、大妖精は思った。何せ、目に映る人と言う人――妖怪もいるかもしれないが――は皆、あんなに忙しそうに歩いているではないか。
歩き出した大妖精の蹌踉たる足取りに、小傘はまたも軽視できないくらいの不安を抱いたのだが、それは見事に的中した。
大妖精が一際ぐらりとしたと思ったら、その場にぱたりと倒れてしまったのだ。
被り掛けていたヘルメットを脱ぎ捨てて、小傘が慌てて大妖精に駆け寄る。周囲の人々も何人か大妖精を見ていたが、小傘と言う保護者がいると分かると、特に足を止めたりすることはしなかった。
「ちょっと、あなた! やっぱりちっとも平気なことないじゃない!」
苦悶に顔を歪ませる大妖精を横抱きして原動機付自転車――原チャリ――の元へと戻り、まず彼女を座席に乗せ、その前に小傘が座った。
「あなた、私の腰、掴める? もうちょっと我慢しなさいね!」
小傘の励ましに、大妖精はぼんやりと頷いて応える。
急激な自然の減少と、非現実的な世界に立ったことによる心労――少々大妖精に、この世界は刺激が強すぎたのである。
ぐらぐらと不安定な大妖精を乗せた原チャリは、控え目な速度で慎重に道を進み、やがて一つの古めかしいアパートに到着した。この安普請の一室こそ、貧乏妖怪たる多々良小傘の住まいなのである。
このアパート、日照権なんて何のそので乱立されていったビルの陰の中に佇んでいるが故に四六時中薄暗く、肌寒い。外壁に黴が生えているようにも見える。
本当は病院へ行くべきかと小傘は思ったが、この見知らぬ女の子に医療費を払える程の財力があるとは到底思えなかったので、自宅に運んだ。事故を起こしかけたことを詫びる気持ちはあったが、赤の他人の医療費を払ってやれる程の財政的余裕は無い。
部屋に帰ると、早速安物の布団を敷き、その中に大妖精を横たえた。
それから自分は一体何をするべきだろうと思案し、とりあえず風邪を引いた時の対処をしてみようと決め、効率的な水分補給が出来る清涼飲料なんかを買おうと決めた。
「ちょっと買い出しに行って来るわ。何か欲しいものはある? あんまり高価なものは駄目よ。私貧乏だから」
小傘の問いに、大妖精は首を微かに横に振って答えた。
「分かった。すぐに帰ってくるから、じっとしてるのよ。お水が飲みたかったら、流しのコップを使って構わないわ。トイレはそっちね。誰か来ても寝てていいよ。それじゃっ」
早口にそう言うと、小傘は大妖精を置いて部屋を出た。
ドアの閉まる音の後には、例の黒煙を吐きだす鉄塊――自動車――の唸り声は遠くに聞こえるばかりで、それ以外の音は無い。何とも居心地の悪い世界であった。
幸い、小傘が用を済まして帰って来るまで、この部屋に特別変わったことは起こらなかった。
青いラベルの巻かれた甘い飲料は、大妖精の口に、そして体に、よく馴染んだ。
都心部は発展の最先端であり、妖精の暮らす環境とは真逆の様相を呈する世界である。そんな所に、自分はあまり長くはいられないだろう――と大妖精は踏んでいたのだが、意外や意外、体は世界に順応し、大妖精は落ち着きを取り戻した。
「度々迷惑を掛けてしまって、本当にごめんなさい」
大妖精は深々と頭を下げる。
小傘は哄笑し、首を振った。
「いいって、いいって。気にしないで」
「あの、あなた、お名前は?」
恩人に名を問う。
「私は多々良小傘。あなたは?」
「私ですか。私は……」
自分の名前についてなど、考えたことも無かった。
「よく分からないです」
正直に答えると、小傘は大袈裟に驚いて見せた。
「自分の名前が分からない? もしや記憶喪失ってやつ?」
「そうではなくて……元々、名前らしい名前を持っていなかったと思います」
「ふうん。不思議な子ね」
小傘は困惑しつつ、興味深げな眼差しを大妖精に送る。珍獣でも見ているかのような目つきである。しかし、古来の幻想郷のことを思えば、名を持たぬ者の一人や二人、珍しくはないだろうと、それについて何か追求するようなことはせず、話題を変えた。
「山の近くをうろついていたようだけど、どこに住んでいるの?」
「山の中です」
咄嗟にこう答えてしまった。
「山の中? あそこって住める場所があるんだ?」
「はい。一応」
何だかリグルの住まいを馬鹿にされているような気がして、大妖精は軽い苛立ちを覚えた。リグルの家は、どう考えてもこのアパートの一室よりも豪華である。
そんな大妖精の心情など知る由も無く、小傘は質問を続ける。
「それで、あなたはどうしてこの街へ?」
「これと言って理由は無いんです。ただ、街を見てみたかっただけで」
「それだけのことで、あんな遠くから歩いてここまで来ようとしていたの?」
いざ街へ着いたから分かるのだが、あの交通事故未遂の現場からここまでは相当な距離があった。それ程の道を歩いて来ようとしていたのだから、確かに少しおかしな目で見られても文句は言えない。大妖精自身、なんと馬鹿なことをしようとしていたのだと、自嘲の念に駆られていたのだから。
頬に薄っすら赤を帯びさせつつ、大妖精は無言で頷いた。小傘は、呆れたような感心したような吐息を漏らした。
「と言うことは、今後行く当ても無いということね」
大妖精はまたも無言で頷く。
「それなら、しばらくはここにいていいよ。はっきり言って私は貧乏だから、大したもてなしは出来ないけどさ」
生活が苦しいことは、草臥れた外観のこのアパートの、がらんとした一室を根城としていることを考えれば容易に察することができる。
そんな状態でも、自分の身を気遣い、ここにいることを勧めてくれた小傘の好意はこの上なく嬉しかったのだが、
「いえ、お気持ちはありがたいですが、結構です。ご迷惑を掛ける訳にはいきません」
あまり人目に触れてはいけない身分故に、大妖精は鹿爪らしく断りを入れた。しかし、小傘がそれを制した。
「このままここを出て、どこかで野垂れ死にしてニュースにでもなったら、私の心にキズが残るわ。そっちの方が迷惑だよ」
おどけた口調で小傘が言う。
「どうせ恋人もいなくて退屈だしさ。ここにいてよ。ね?」
リグルも一人でさびしい――というようなことを言っていたなと、大妖精は思った。この世界は皆、何か寂しさを抱いているものなのだろうか、などと考えた。
あまり見知らぬ者の傍にいるべきではないのだが、小傘の言った通り、ここを去ってしまったら斃死は冗談では無くなる程に現実味を帯びて来るのは事実である。
どうせ相手も私の正体など知らないようだから――大妖精は小傘の好意に甘えることにした。
*
多々良小傘は、リグルとは全く異なる種類の人物であった。
リグルが社会に出て働いているのに対し、小傘はまだ学生と言う身分なのである。大学生なんだ――と、小傘は大妖精に言って聞かせた。
大学とは寺子屋のようなものですか……と問いかけて、止めた。大妖精の知識の時は、遥か昔の幻想郷で止まっているのだ。その知識を持ち出して語っても、頓珍漢な意見と捉えられることは火を見るよりも明らかである。
リグルとは打って変わって、小傘は非常に不規則な生活を送っていた。小傘の行動パターンが、大妖精はいつまで経っても読めなかった。先週は授業があるからと午前の内に家を出たのに、今週は同じ時間になっても寝ているようなことがあった。また、授業である筈の時間帯に「アルバイトがある」などと言い残して家を出たこともあった。多忙なことは分かったが、その規則性が分からず、大妖精は随分困惑していた。
リグルのように、あまり外へ出るなとか、そう言うことは一切言わなかったが、大妖精はこの部屋を出たいと思わなかった。
何せ外は、地を歩く小さき者を威圧的に取り囲んで見下ろす直方体の建物に、黒煙を吐き出して動く巨大な鉄塊、生き急ぐ人の群れと、この大妖精の大嫌いな世界を織り成す様々な要素が蔓延っており、歩いて散策でもしてみようなどと思える環境ではなかったからである。
静かな山のあるリグルの家が恋しく感じられることが多々あり、その都度大妖精は、自分の厭らしい思考を振り払おうと首を振るのであった。
予め宣言されていた通り、小傘との生活は決して裕福なものではなかった。裕福どころか、リグルと暮らしていた頃と比べれば、かなり侘しい毎日であった。
しかし、小傘自身はこの薄幸にすっかり慣れているようで、取り留めて愚痴ることもなかった。
大妖精を受け入れた所為で、多少生活は苦しくなったが、帰りを待ってくれている人ができたと言うことが嬉しく感じられているようである。
近所のコンビニエンスストアと呼ばれる小さな店で買った粗末な弁当の夕食を食べながら、小傘はその日あったことや、大学で学んだことをいろいろ語って聞かせ、また、大妖精にも何か変わったことや面白いことはあったかと問うた。
「ずっと家にいるので、私は良く分かりません」
大妖精がこう打ち明けると、小傘はまずひどく驚いた。
「じゃあ、私が学校やバイトに言っている間、あなたはこの薄暗い静かな部屋でボーっと過ごしているって訳?」
大妖精が首を縦に振ると、増々驚き、次いで謝った。
「いや、まさかこんなにもインドア派だとは思わなくて……」
この翌日、小傘は雑誌を数冊購入してきた。この度彼女が買って帰った雑誌は、この部屋のどこを探しても見つからない。大妖精の暇つぶしの為に購入したようなものなのである。大妖精は何度も礼を言った。
一応大妖精は、前の生活の中で培った家事の力や技術を生かそうと、部屋主たる小傘がいない間に、部屋の掃除や整理整頓を行っていた。ただ、この部屋はリグル家程の広さが無いのでやることも少なく、暇つぶしにもし難い程の軽い労働であった。
掃除などが終わり、自由な時間を手に入れた大妖精は、わざわざ狩って来て貰えた雑誌の一つを適当に読み始めた。
相変わらず雑誌には、山から見た夜の街の至る所に煌々と輝いていた色彩豊かな光のように、随分けばけばしい化粧で、ド派手な衣服に身を包んだ女性の写真が何ページにも渡って紹介されている。
雑誌自体は、リグルの家で読んでいたものと異なるのだが、内容はほとんど同じようなものであった。
しかし、そんな似たり寄ったりな雑誌の中で、一際異彩を放つ雑誌があった。
その雑誌は、今まで大妖精が散々読んできて、聊か飽き始めてきているようなファッション雑誌によく見られる華やかさの無い表紙であったから、余計に目が行った。
表紙を飾っているのは薄気味悪い夜の神社である。下には赤いおどろおどろしい文字で、
『数多の怨念渦巻く呪われた神社』
というキャッチコピー。
俄かに興味を示し、開いて中を流し読みしていくと、表紙から察せられる通り、心霊現象や都市伝説なんかを紹介する雑誌であることが分かった。
購入なんて夢のまた夢である服なんかを見ているよりは、こっちの方がよっぽど面白く感じられたので、大妖精はその雑誌を夢中で読み進め始めた。
その最中、小傘が学校から帰って来た。
「ただいま」
と言う小傘の一声に、
「おかえりなさい」
と、大妖精は雑誌からちらりと目を離して言い、またすぐに視線を雑誌へ落とした。
随分熱心に雑誌を読んでいる大妖精に、小傘は聊か感心し、同時に可笑しさを感じたようで、プッと吹き出した後、笑いを交えて言う。
「そんなに鬼気迫る様子で雑誌なんて読まなくてもいいのに」
大妖精としては、面白くはあったものの、そんな風に笑われる程の姿勢で読んでいたつもりは無かったので、指摘されると何だか恥ずかしさを感じた。
「何をそんなに真面目に読んでるの?」
小傘も、大妖精が読んでいる雑誌に目を落とす。そして、ああと感嘆の声を上げた。
「オカルトか」
「オカルトと言うんですか」
「そうよ」
言いながら小傘はしばらく、雑誌に目を落としていたが。
「へえ、あなた、こういうのが好きなんだぁ」
不意に放たれた小傘の一言の声色、そしてその時の瞳には、ほのかに哀愁の念が感じられ、大妖精ははっと胸を突かれたように硬直してしまった。
小傘は微かに寂しげな微笑を浮かべながら、部屋着に着替え、先程まで着ていた服を洗濯籠に放り込んだ。
「小傘さん、どうかされたんですか?」
大妖精が問う。不意に小傘に降りて来た暗い影が、気になって仕方が無かったのだ。
「どうかって、何が?」
本人は、その隠顕するする寂寞を隠し通せていたつもりなのであろう、こんな風に大妖精に問い返す始末である。
「この本に、何か特別な思い入れでも?」
読んでいる最中の雑誌を手にとって見せ、大妖精が問う。
小傘はしばらくその雑誌を見ていたが、不意にまた、哀愁の色が混じった寂しげな笑みを浮かべ、雑誌から目を逸らした。
「昔の自分を思い出しちゃうんだよねぇ」
おどけた口調であるが、少し苦しそうである。
「昔の自分とは?」
「私ねえ、本当は唐傘お化けなのよ」
身を潜めていた寂寥感が、いよいよ露わになり出した。声色も顔色も、どことなく寂しげである。
「唐傘お化け……なんて言ったって、唐傘とは随分前にお別れしちゃったから、こう名乗るのももはや烏滸がましいんだけど」
自虐的な含み笑いを挟んで、尚も小傘は言葉を紡ぐ。
「昔は妖怪として、いかに人を怖がらせたり、驚かせたりするか、そんなことばかり考えてたんだ。弱い弱い、ちっぽけな妖怪だったけど、弱小ながらがんばってたわ」
ある意味、それは妖怪の性分とも言えるけどね――末尾に付け加えたこの声は、どこか自慢げである。
「あなたは妖怪なのですね」
左右で異なる色を持つその美し過ぎる瞳を見れば、人間でないことはそれとなく察せられるが、大妖精は無知を装ってこう言い、そこへ更に言葉を重ねる。
「今の幻想郷では、妖怪とか、そういうものは恐ろしいものではなくなっているのですか」
「ですか、って……生きていれば何となく分かるものでしょう?」
初めて出会った時から、小傘は大妖精を変わった子だと思ってはいたが、無知もここまで来ると鼻につくようで、神妙な面持ちを見せた。
「あなたは妖怪じゃないのね」
事実である。大妖精は妖精であり、妖怪ではない。しかし、
「そんなことないです。妖怪ですよ」
大妖精は嘘をついた。まさか背中の羽を見せながら「人間です」と語る訳にはいくまい。しかし「妖怪ではない」と言ってしまっては、事態が面倒なことになりそうなので、妖怪で通すことにした。
「妖怪なら、今の世界がいかに住みづらいかなんて分かるもんでしょう?」
小傘の説教を左から右へ受け流しながら、大妖精は別のことについて思慮を巡らせていた。
今の世の中では、妖精は妖怪よりも恐ろしい存在となっていると、リグルは語っていた。それは事実かもしれないと、大妖精は小傘とのこのやり取りを通じて考える。
所謂妖気と呼ばれるものを、小傘は全く感じられていない様子なのである。いくら小傘が弱小な妖怪であるにしても、相手の力量を測る術くらいは持ち合わせていたであろう。それなのに今の小傘は、貧弱な妖精の妖気さえ見抜くことができていない有様である。これはまさに、妖怪の弱体化の体現ではないか。
「……ということよ。分かるでしょ?」
小傘の説教が終わると同時に、大妖精も暗澹とした思考の泥沼から抜け出した。適当に「そうですね」などと返事をしておいた。
あまり同居人と険悪な雰囲気を作りたくないらしい小傘が、強引に話を打ち切ろうと、
「そうだ。晩御飯、食べたいものある?」
こう切り出した。
大妖精は咄嗟に「カップラーメン」を所望した。数日前、小傘に食べさせてもらったカップラーメンが非常に美味であった為、すっかり大妖精はその虜になってしまったのである。
しかし今日は「コスパが悪いから無理」と、断られてしまった。
閑散としている冷蔵庫の中と睨めっこをしている小傘が、ぶつぶつと独り言を漏らしつつ晩御飯を思案しているのを、大妖精は眺めていた。
冷気――とくると、どうしても大妖精は親友チルノを想起してしまう。
この時も例外ではなかった。冷蔵庫と向き合う小傘を見つつも、大妖精は記憶の中のみ存在する幻想郷と、氷の妖精の親友を想っていた。
「小傘さんは――」
自然と口を開いていた。
晩御飯の内容の選定が終了したらしい小傘は、食材を持って古ぼけたキッチンに立っていた。ずっと小傘の方を向いていたが、その瞳で現実を見てはいなかった大妖精には、小傘があっと言う間に場所を移動したように見え、聊か驚いたのだが、
「何?」
小傘に言葉の先を促されて持ち直し、問う。
「今と昔、どちらの幻想郷が好きなんですか?」
トントントントン……包丁が食材を切る音だけが、狭い室内に響き渡る。
小傘は答えを探しているようで、すぐに返事をしなかった。大妖精に背を向けた状態で調理をしているのだが、振り返ることさえしない。大妖精は穴の開く程、その後ろ姿を見やっている。
「私は、今がいいかな」
しばらくして、ようやく答えが返ってきた。不意な返答であったので、大妖精は咄嗟に理由を問うことができなかったのだが、小傘も胸中に秘めた思いを語りたいと見え、促されるまでもなく、自然と語り出した。
「勿論、昔の世界も嫌いじゃないよ。寧ろ、あの古めかしい風景が懐かしく、愛おしく思える日もいっぱいある。それでも、私は今がいいな」
「妖怪として暮らしていた日々よりも、妖怪らしさを失った今が好きなんですか?」
大妖精は圧倒的に昔の幻想郷が好きなので、今を愛していると言う小傘に若干の敵愾心を抱いたようで、少しばかり語気に凄みが感じられる。
しかし、小傘はそんなこと意に介さず、静かに、心の中にぽこぽこと水泡のように浮かんでくる言葉を次々零していく。
「ちょっと恥ずかしい話だけれど……今の方がね、私はいろんな人に必要とされているんだ。はっきり言って、昔の幻想郷だと、私の価値って、そんなに大したものじゃァなかったの。と言うか、寧ろ無価値?」
聞いてどうする、そんなこと私が知る訳ないだろ――大妖精は心中で毒づく。
小傘はまた自虐っぽい含み笑いを挟んで、一度大きく深呼吸し、情けなく綻んだ顔を引き締めた。
「だけど、今は学校でいろんな人と知り合って、いろんな勉強をしてる。私、これでも勉強できる方なのよ。たまにサボってるけど、あれはまあ、戦略的怠惰みたいなものね。必要悪」
「みんなに認められるから、昔愛した世界を見捨てると言うんですか」
「そんな風に言われるとちょっとつらいな」
小傘はこう言っているが、あまりつらそうな口調ではない。
「その様子だと、あなたは昔の方が好きなのね」
「勿論です」
大妖精が即答する。
「あなたが昔の幻想郷でどんな暮らしをしていたのか知らないけれど、きっと素敵な毎日を過ごしていたのね。私は、泥臭くて、古典的で、あんまり華の無い毎日だったからねえ……今の暮らしがすごく好きだわ」
ああ、そうとも! 最高に素敵な毎日だったわ! 沢山の仲間と、沢山の楽しい人や妖怪がいて、無限に続くかのような豊かな自然があった。全て失われてしまったけどね! ――油然と込み上げてくる怒りを、一体どう発散すればいいのか、大妖精には分からなかった。
だが、ここで怒りを爆発させることは、少なくとも得策ではないと、ただただ、爆発しそうな心を鎮めることに努めた。
その時、ようやく小傘が大妖精を振り返った。
「ご飯にしようか」
穏やかな口調。陰影が垣間見える笑顔。手には末な晩御飯――こんな相手に怒る気は湧いて来ず、大妖精は一気に冷めて行った。
重苦しい雰囲気での夕食が済むと、ろくすっぽ話もしないまま、二人は眠りに就いた。
この陰鬱な状況が、一夜で解消されればよかったのだが、対極の思想を持つ者同士であると言う事実は、二人の頭に肩に、ずっしりとした暗雲を垂れ込めさせた。
すっかり会話の数が減った。
小傘は何とか関係の修復をしたいと思ってはいたが、その術が見つからない。一方大妖精は、きっと相手は自分をお荷物だと思っているのだろうと言う妄想に囚われてしまい、この上ない居た堪れなさを感じていたのだが、しかしここを出てしまっては、行く当ても生きる術も無いので、この居心地の悪い古びたアパートの一室に固執せざるを得なかった。
だが、そんな気苦労も数日後に終焉を迎えることとなる。
大妖精がこの部屋を出て行ったのである。
こんな形での別れになると知っていれば、小傘は何を恐れることもなく、大妖精に仲直りの言葉を掛けていたであろう。
事の切っ掛けは、大妖精が留守番をしている最中に聞こえてきた物音から始まった。
既に日が傾き始めており、騒然としている都心部も赤色に染まっていて、亭々と立ち並ぶビルの窓ガラスに反射した夕焼けが眩い時分であった。
一人でいることはあまり好まない大妖精も、今のような居た堪れない状況下とあれば、誰もいないこの小傘の部屋がとても居心地良く感じられた。しかし、いくら居心地がよくても、ここは小傘の部屋である。反目し合っている者の部屋で図々しく寝床と食事を提供して貰っていることに、気が引けていたから、せめてものの罪滅ぼしにと、掃除や整理整頓だけはきちんと行っていた。
この日は、小傘が朝から用意してくれていた昼食を食べた後に、ついうとうととしてしまい、目覚めたのが夕方であった。
これだけよくして貰いながら何たる失態と、大妖精は慌てて掃除を始めたのだが、それからしばらくしてのことである。
コツン――こんな音が聞こえて来たのだ。
小傘が帰ってくるまでに掃除を終わらせねばと躍起になっていた大妖精であったが、不意に鳴ったこの奇怪な音を受け、反射的に音がした方を向いた。
すっかり褪色していてお世辞にも綺麗とは言えないレースのカーテンが掛かった窓が目に映る。縦横五十センチ程の正方形の窓である。
一体、何から音が鳴ったんだろう――大妖精は不思議に思って、窓を起点にその周囲を見回してみていたのだが、その最中、まるで彼女の思いに呼応したかのように、またも窓がコツンと鳴ったのである。
丁度窓から目を離していた大妖精はびくりと肩を震わせ、慌てて窓へ目線を戻すが、当然のことながら、その頃には音は止んでいる。
今度は見逃さないようにと、窓をじっと睨み付けるのだが、何の音沙汰も無い。
睥睨するだけでは埒が明かないと、大妖精はレースのカーテンに手を掛け――さっと横に引いた。
沈みゆく太陽の放つ赤みがかった光に当てられ、大妖精は目を細めた。
窓ガラスには砂塵やら雨水やらに晒されて着いたらしい汚れが目立つ。外を見るのに不自由は無いが、とても綺麗とは言えない。長らく磨かれていない様子である。
掃除はしっかりしてきたつもりであったのに、まさかこんな手抜かりがあったとは……しばし不思議な音のことも忘れて、こんなことを考えながら、窓と、その先に広がる街と、そのまた向こうで輝いている太陽を眺めていたのだが――。
不意にビシッと言う音と共に、窓ガラスに蜘蛛の巣のような模様が奔った。
大妖精は心底驚いてしまい、小さな悲鳴を上げて、その場にへたり込んでしまった。
尻餅をつきながら、窓ガラスを呆然と見やる。
窓ガラスの真ん中から少し左にずれた点を中心に、四方八方へ伸びる稲妻の如し罅が奔っているのである。
やっとのことで立ち上がった大妖精は、窓を手で撫でてみる。つるりとした感触――やはりと言うべきであろうか、この罅は外から刻まれたものらしい。
開けた衝撃で崩落しないように留意しながら窓を開き、外を見回してみるのだが、犯人らしき者の姿は確認できない。
窓のある方は、建物の裏側の薄暗い路地になっているから、人通りなどほとんど無いし、人目にもつかない。
「誰がこんないたずらを」
無意味と知りつつも外を見回し、憤慨したような独り言を漏らす大妖精。
丁度その時、今度は背後で音がした。
この音は、別に怪しくも不可解でもない、単なる扉を開閉する音であるが、神経を尖らせていた大妖精は、無駄に勢いよく振り返った。
その只ならぬ気迫に、帰宅した多々良小傘は聊か圧倒されてしまったようで、
「ただいま。どうしたの?」
おずおずとした口調で問うた。
大妖精は小傘と、罅の入った窓を見比べた後、一先ずこのいたずらのことを報告した。
貧乏学生たる多々良小傘にとって、窓ガラスの損害と言うのは馬鹿にならない出費である。罅の入った窓ガラスを見た途端、憤怒と驚愕の入り混じった奇声を上げてしまうのも無理の無い話である。
大妖精がやったことでないのは明白であるのだが、彼女は至極申し訳無さそうにその場に突っ立ってもじもじしていた。
小傘はしばらく、大妖精の様子を気に留めることさえしないで、予想外の出費を招くこの罅のことを嘆き、悲しみ、怒っていた。
そのままの様子で大妖精にこの罅の謎を問うたものだから、大妖精はすっかり委縮した様子であった。
大妖精は、訥々とありのままのことを話した。小傘は少々釈然としない様子であったが、罅の入り方からして、大妖精の所為でないことは理解し、悄然としている大妖精に慰めの言葉を掛けた。
とりあえず、修理の為の金が手に入るまで、ここはそっとしておこうと、小傘は慎重に窓を閉め、加えてカーテンも閉め切って、想定外の出費と言うつらすぎる現実を物語るこの窓を見ないように努めた。
一体どんな奴がこんないたずらを――と言う話題で、久しぶりに少しだけ二人の間に会話が芽生えた。ささやかな幸福であった。
しかし、この異変は、幸福の兆しなどでは決して無かった。
この一件以降、この部屋は執拗な嫌がらせを受けることとなったのである。
入口の取っ手に泥の様なものがついているとか、真夜中に玄関に石が投げられるとか、ドアポストに挟み込まれたチラシの類が滅茶苦茶に引き裂かれるとか――今までに一度も無かった数々の迷惑行為が、何者かによって遂行され始めた。
初めの内は小傘も怒っていたのだが、次第に対処するのも面倒くさくなってしまったようで、何が起きても感情を露わにすることがなくなってしまった。
どんな異変が起きていようとも、「ああ、またか」と、それが生活の一部であるかのような振る舞いをしているのである。
大妖精はすっかり怯えてしまった。
もしかしたら、何かの拍子に妖精である自分がこの部屋にいると言うことが誰かに知られてしまい、妖精を恐れるその者が嫌がらせをしているのではないか――などと言う妄想を抱き始めた。
一人で内に秘めておくには重大すぎる悩み事であったのだが、こんなことを小傘に相談する訳にもいかない。
しかしやはり一人ではどうしても抱え込み切れず、そんなジレンマは、次のような問いとなって発散された。窓ガラスに罅が入れられてから一週間経った日の夕食の後のことである。
「小傘さん。こういういたずらって、前からあったんですか?」
雑誌を読んでいた小傘は目を丸くして大妖精を見やり、
「こんなこと、ある筈ないじゃん」
意識した訳ではないが、少々口調に棘が感じられた。大妖精の質問があまりにも愚かしかったのもあるが、止まない迷惑行為に、小傘の心も相当参っていたのである。
自責の念を抱いている大妖精には、小傘のこの口調に潜んでいるものは、棘なんて生易しいものには収まり切らなかった。鋭い槍で心臓を突かれたような衝撃――幼い大妖精に、そんな衝撃に耐えられる心は備わっていない。
その日、大妖精は眠れぬ夜を過ごしていた。
リグルの家から抜け出した時と全く同じような、長くて退屈で、やけに布団の中が蒸し暑く感じられる夜である。
小傘はとっくに眠りこけている。穏やかな寝息が聞こえる。
小傘は、怒っている――大妖精は思った。以前はこんな異変は起こっていなかったと言う。そして、いろんな変異が起こり出した最近の一番の変化と言えば、やはり大妖精の登場であろう。
自分がここにいるせいでこんな異変が起きている――慣れない世界と、リグルの話で心がすっかりナーバスになっている大妖精がこう考えるのも無理は無い。
「私はやっぱり、ここに――いや、この世界にいちゃいけないんだ」
前と同じように、大妖精は音も無く布団から這い出ると、暗がりの中でメモ帳とペンを見つけ、簡素な書置きを書いて、小さな卓の上へ置いた。
そして、この部屋の鍵を見つけ出し、内から鍵を開けて外へ出て、外から鍵で施錠をし、その鍵をドアポストに滑り込ませて、静かにこの場を去った。
一連の動作の中で、それはそれはいろんな金属音が鳴ったが、連日のいたずらで物音への耐性がついていた小傘は、それらの音をいちいち気に留めることもしないで眠りこけていた。
*
大妖精は纏っているパーカーに付いているフードを目深に被り、夜の街を彷徨い始めた。行く当てなど端から無い。
山を降りた時も同じであった。迷うかもしれないでなく、既に迷っている。同じ状況である筈なのに、立っている世界が違うというだけのことで堪え難い不安が胸中に渦巻いた。
夜にも関わらず、街は目が冴えるような毒々しい色の光に溢れている。月光もほたる火も、今のご時世ではそれ程の価値の無いものなのだろうな――などと大妖精は考えた。
街にいらぬ程の人が溢れているお陰で、苦手な孤独と言う海に身を置かずに済んだのはよかったのだが、大妖精は自身の正体が、この行き交う数々の人間、妖怪に見破られはしないかと言う不安に駆られ、気が気で無かった。
孤独は恐ろしいが、他者との交流、接触は避けるべき――抱き合おうとするハリネズミ達の感じるようなジレンマに苛まれつつ、大妖精は煌めく夜の中を行く。
しばらく歩いている内に、視界がグラリと揺れた。それに合わせて大妖精もよろめく。大衆の面前で転倒するところであったが、何とか堪えた。
転倒するのを堪えたまではよかったが、その後がいけない。頭痛に眩暈に吐き気に悪寒――体の異常が大挙を成して押し寄せてきたのである。瞬く間に、歩くなど愚か、立っていることさえ大儀になった。
あまりに薄汚れた世界に投じられた妖精の身体が悲鳴を上げているのである。
こんな所で立ち止まってしまっては周囲に変な目で見られるかもしれないと、大妖精は死に物狂いで歩き出した。他人の手を借りるようなことがあってはいけない――自分に言い聞かせるが、体は正直である。そう長く動いていられないことを、心に言い聞かせるのである。
行き交う人々から、そして、淫靡な光から逃れるように、路地に駆け込んだ。
表は大きさや色も様々な光に彩られて夜とは思えない明るさであると言うのに、路地へ入ると世界は一変する。
背の高い無骨な建物に阻まれて光は入って来ず、辺り一面薄暗い。表から聞こえて来る機械音や人の声を綯い交ぜにして織り成される華やかな喧騒は、この暗闇の世界には不似合いである。
壁に手をやりながらのろのろと歩き、路地の中腹まで辿り着くと、とりあえず人目からは避けられたと、大妖精は心底安堵した。それから、左右にぐらりぐらりと揺れた後、地面にばたりと倒れ込んだ。石質の地面は不衛生で気色悪い湿り気を帯びている。その冷やかさを継いだ砂が、体の変調によって滲み出る冷や汗を介して頬にこびり付き、耐え難い不快感を与えて来る。
その不快感と、誰もいないという安堵感が、吐き気を助長させた。吐けば楽になるかも――一縷の期待の助けも受けて、大妖精は力を振り絞って膝を使って壁際まで移動すると、胃の内容物をぶちまけた。木の幹に小便を掛ける犬を連想してしまい、自身の浅ましい姿を思うと、生理的なものでない涙を禁じえない。
内臓がしっかり機能しておらず、消化が遅れており、吐瀉物の中に溶け掛かった夕食が含まれているが、暗闇のせいで大妖精には見えない。吐瀉物の持つ不快な刺激臭がツンと鼻孔を突く。それによって、またも吐き気が催され、更に胃液を吐き出した。地面に手をついての嘔吐であったので、吐瀉物に手が汚れたが、気にしている余裕は無い。
吐き出せる物は吐き出したが、体調は少しもよくならなかった。
吐瀉物から遠ざかった地点の壁に背を預け、ぜぇぜぇと呼吸を荒げながら、体が落ち着きを取り戻すのを待った。
何の気なしに視線を上へ上げてみると、建造物の間隙から空が見えた。少々淀んだ星空である。雲は無いのに、ほのかに霞んでいる。発展した世界で朦々と立ち込める排気の影響である。こんな淀んだ空は飛びたくないと思った。そもそも、今の時代の妖怪は空を飛べるのかが疑問であった。飛んでいる者を見た覚えが無いし、こうして空を見上げていても、飛んでいる者の姿を一つも見掛けない。妖怪の弱体化に伴い、飛ぶ機能も失われてしまったのか……大妖精はそう考えた。
次いで、ふと、仲間達と夜の空を飛んだことが思い起こされた。夜の空は様々な妖怪がいるから、妖精の間では度胸試しの場としてよく使われたものである。
空が淀んでいようと澄んでいようと、この世界の空には妖精は羽ばたかないのだが。もしも羽ばたいていたら、どれだけ心強く、どれだけ嬉しいことであろうか――筆舌に尽くし難い。
「どうして私だけが?」
仲間と過ごした日々の思い出は、大妖精の孤独を浮き彫りにし、脳裏にこんな思いを起こさせる。
リグル・ナイトバグや多々良小傘とのそれなりに幸せな日々の所為でぼやけていたが、彼女のこの謎は未だ解けないでいる。
コールド・スリープ――リグルの言ったあの説が真実かそうでないかさえ不明であるが、今の大妖精にとっては唯一の手掛かりであるし、過去と現在を繋ぐ橋でもある。
その未知なる技術を思えば、親友と繋がれる――馬鹿げた空想が働いた。
「どうしてなのチルノちゃん。どうして私をこの世界に? どうして私だけがこの世界に? こんなに寂しくて苦しいだけの世界に……私、生きていたくないよ。私もみんなと一緒に消えちゃいたかったよ!」
居もしない親友に毒を吐いてみる。
幻聴でもいいから声を聞かせて。幻覚でもいいから姿を見せて――。
そんな願いさえ天には届かず、大妖精はふっと意識を失った。
*
目覚めてみたら、記憶にある地点と全く違う場所にいる――これは何度経験してみても、慣れないものである。
目覚めたら世界が豹変していたと言う壮大な移動を経験した大妖精であるが、やはり知らぬ間に、知らぬ所へいるというのは恐ろしいもので、目覚めてすぐに見慣れぬ天井を見、覚えの無い香りを感じた途端、大妖精はぎょっと肩を震わせてして起き上がった。
彼女は見知らぬ部屋に敷かれている、布団の中に入っていた。あまり高価な布団ではない。
部屋を見回す。窓から見える外は明るい。昼間と言うことが分かる。
部屋は小傘の部屋と似通った点が多く見られた。さして広くないこと、散らかっていること、その雑然さを省いてもあまり綺麗な部屋ではないこと。しかし、小傘の部屋よりはいい所だと、大妖精は思った。つまり、小傘の部屋ではない。
では、この部屋は誰の部屋なのだろう――と言うことは、当然ながら皆目見当がつかない。部屋を見回してみても、誰もいない。
路地で気を失ったことは覚えていた。きっとそれを保護してくれたのだろうと、大妖精は察した。
外出しているのなら、書置きだけして出て行こうかと考えた。直接礼の一つも告げずに出て行くとは随分薄情な行動であることは分かっているが、妖精である自分とは関わらない方が、相手の為になるだろうと言う考えがあったからである。
どうしたものかと思案している内に、玄関扉が開いた。大妖精はびっくりして起き上がり、身を固くして玄関を見据えていたのだが、開かれたドアの向こうから姿を現した人物を見た途端、口から出て来るのではないかと思える程に心臓がぎくりと鳴動した。
「ああ、起きてたんだ」
諸手に食品やら何やらが一杯詰まった半透明の袋をぶら下げて、気の抜けた声でそう言ったのは、犬走椛。その昔、妖怪の山で暮らしていた天狗の一人である。
服装が昔と大きく異なっているが、この人物が犬走椛であることは、短く切り揃えられた白い髪と、それを分けてぴんと立っている狼の耳、そして色男の気質が漂う顔立ちから分かる。
今の幻想郷において、天狗が如何なる存在であるかは、リグルから聞かされていた。大妖精の愛していた幻想郷を、今のような悲惨な姿に導いたのも、その世界で新たな技術を少しずつ与えてながら、民衆を支配しているのも、天狗とのことである。
現代の呪物こと妖精である彼女は、あろうことか、世界の支配者の一端の元へ担ぎ込まれてしまったのである。
大妖精と椛は、直接大きな接触があった訳ではないが、神社で催される宴会なんかで、度々椛の姿を見かけたことがあったから、相手を天狗だと認識できた。
では、相手は自分を妖精だと認識しているのか? 認識しているとしたら、自分を一体どうするつもりなのだろう……脳内にみるみる広がって行く恐ろしい未来予想図を、大妖精は慌てて振り払った。
「大丈夫?」
茫然と椛を眺めていて、その刺さるような視線が気になったのか、椛が小首を傾げた。
大妖精はハッと我に帰り、
「大丈夫です」
と一言。随分素っ気無い声色であったが、椛は特に気になることもないようで、両手に持っていた重たい荷物の片方を少々手荒に、座布団の上に置いた。日用雑貨が入っている袋である。
もう片方には多種多様な食料品が入れられている。それは手に持ったまま、椛は冷蔵庫へ向かい、食料品を中へ詰め込みながら、大妖精に語り掛ける。
「驚いたよ。ゴミ捨てに行ったら、あなたが倒れてんだから」
「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
大妖精の声がやけに小さいのは、必要以上のコミュニケーションは避けるべきだと言う意志の表れである。
食料品を冷蔵庫にしまい終えた椛がくるりと振り返る。その手には板チョコレートが一枚。
「あなた、名前は? どこから来たの? 因みに私は犬走椛と言う」
分かり切っていたことだが、改めて自己紹介されると、その緊張感は一気に増した。
椛はチョコレートを開封し、半分に割り、片方を大妖精に差し出す。大妖精はそれを受け取りながら、おどおどと何度も頭を下げつつ、
「私、その、記憶が、あまり無くって」
ぎくしゃくとした口吻でこう返答した。
何一つ収穫の無い返答であったが、椛は「ふーん」と言った切り。しつこく追及はしなかった。言われなくとも知っているとでも言うのか、それとも心底興味が無いのか――大妖精の心臓の鼓動は激しく乱れる。
「あんな所で倒れてたんだから、普通じゃないことがあったんだね」
「ええ、まあ」
「きっと家もこの辺りじゃないでしょう」
「はい」
「近い内に役所に連絡して、元いた場所に帰してあげるから」
「やくしょ?」
あまり知らない施設や機能に頼りたくないと言う思いがあったから、知らない単語を復唱したのだが、椛はそんなことお構い無しである。
「と言っても、役所はここから遠いから、今日明日じゃちょっと行けない。その時までは、ここにいな。面白くもないし、裕福でもないけど」
小傘にしても、椛にしても、生活が苦しいらしいのに、見知らぬ者をよく自分の部屋に置きたがるものだと、大妖精は思った。これ程の活気、光彩、人々に溢れる街に身を置きながら、その実、心の中に寂しさのようなものを秘めて生きているのかもしれない。
大妖精は相手に身分を知られる訳にはいかないから、すぐにでもここを出たかった。しかし、再三に渡って言ってきた通り、行く当てが無いし、生きる術も無い。また、前の様な発作が再び起きてしまったら、今度こそ身が危ういかもしれない。仲間と共に消え去りたかったと言う願望はあれども、耐え難い苦しみにのたうち回る終焉など、彼女はこれっぽちも望んではいない。
しかし、大妖精はここへ来て、ある希望を抱いていた。相手は、自分を妖精だと分かっていないかもしれないと言うものである。
根拠など無いが、そう言う可能性が無い訳でもない。密接な関係を築いていた訳ではないからである。精々、宴会で顔を合わせたか、偶然そこいらで出くわしたか、程度の仲である。
一妖精でしかない自分のことなどいちいち覚えていないのではないか――大妖精はそう思い、おずおずとこんなことを尋ねてみた。
「あの、以前、どこかでお会いしませんでした?」
これを機に思い出されてしまうかもしれないと言う懸念はあれども、問わずにはいられなかった。心の安らぎを確固たるものにするための、博打のようなものである。
椛はチョコレートを咀嚼しながら、きょとんと大妖精を見据えていたが、口内のチョコレートを胃に送るや否や、
「そうだっけ? ごめん、全然記憶に無い」
こう返答した。
大妖精は心密かに安堵していた。
「いえ、気にしないでください。私の思い違いかもしれませんし」
心の滓が完全に抜け切った訳ではないが、ようやく気が楽になって、大妖精は分けて貰ったチョコレートに齧り付いた。
行く当てが無いから――と、大妖精はまたも他者の家でしばらく時を過ごすことに決めた。
役所へは三日後の日曜日に行こうと、椛が決めた。椛の仕事の都合なども加味した結果であるらしい。役所がどんな所なのか、大妖精にはよく分からなかったが、とりあえず椛に従う他無かった。
ここでもやはり、大妖精は家事なんかを手伝った。
椛は整理整頓が苦手と見え、物は小傘の部屋よりも少ないのに、やけに散らかって見えた。
運び込まれた翌日、大妖精の手によって丸一日費やして整頓された部屋を見た椛は、部屋を間違えたのかと表札を見直しに一度退室してしまった程である。
椛は心底嬉しそうに、大妖精に礼を言った。正体が知られてはいけない恐ろしさと、褒められた嬉しさが綯い交ぜになった複雑な心境で、大妖精は笑った。
役所へ行く前日の夜、椛はいつもより遅く帰って来た。
「ただいま」の一声も、その足取りもふらふらとしている――酔っ払っているのが一目で分かった。
玄関にばたりと倒れた椛に大妖精が慌てて駆け寄り、介抱する。
「大丈夫ですか、椛さん」
「全然大丈夫じゃないよ。だけど家にあんたがいるからまあ大丈夫だろうと思って」
呂律の回らない調子でこんなことを言う。
とりあえず大妖精は、コップに水を入れ、椛に渡した。椛はそれを一気に呷ったが、様子は全然変わらない。
「こんなに飲んでは体に毒ですよ」
大妖精が布団を敷き、そちらに椛を誘導する。
椛はからからと笑うと、
「いいじゃない、毒で。さっと飲んでさっと死んで、こんな世界とはお別れするのさ」
キィキィと甲高い声でこんなことを言った。
体躯の差が事の進行を大きく妨げたが、どうにか大妖精は椛を布団まで誘導することに成功した。大仕事をやってのけた大妖精は、ほぅと大きく息を吐き、椛の枕元に腰を降ろす。
椛は赤い顔の半分を枕に埋めながら、一体何が嬉しいのか、ずっとケラケラと笑っていたが、不意に笑声を止め、ぼやき始めた。
「それこそ死ぬつもりで飲んだのになぁ。お酒。体って嫌だね、死ぬと分かると酒を拒みやがってさぁ。心はこんなにも死を望んでいるのに」
「死にたいなんて言うものではありませんよ」
仲間と一緒に消えたかったと願った大妖精がこんなことを言えたものではない。
この言葉に対し、椛は再びケラケラとした笑いを漏らした。
「青いなあ。あんたはこの世界の醜さを知らないからそんなことが言えるんだ」
椛の言葉に、大妖精は憤りを覚えた。
世界の穢れなど、肌身を持って感じている。感じているからこそ、大妖精はあんな薄暗く薄汚い場所で気を失い、ここにいるのだから。
「こんなに素敵な世界ではありませんか」
憤然たる心を押し殺しながら大妖精が言う。
椛は大きく息を吐き、
「素敵なもんか。こんな世界」
こう吐き捨てた。
大妖精の怒りは増々堆積していく。
天狗が主導者となってこの世界は作られたと聞いたのに、その天狗がこの世界を貶している。それならば、妖精は失敗作の世界の犠牲と言っているのに等しい。その妖精の一人である大妖精が、怒りを覚えぬ筈が無い。
「椛さんは、天狗ですよね?」
穏やかな口調に努めつつ、大妖精が問う。
「そうとも。よく知ってるね」
椛は言下に頷く。
「今の世界は天狗が作ったものなんでしょう? それなのにそんな風に世界を貶めては……」
「天狗と言っても、いろいろいるんだよ。私は天狗の中でも一番下っ端の白狼天狗。今の幻想郷を築くのにこれと言って大きな貢献をした訳じゃないし、世界が変わってもこうしてこんな草臥れたアパートの一室で面白味も無い生活をしてる。天狗だからってみんながみんな幸せって訳ではないんだよ」
ここまで言って、椛は自嘲めいた笑いを漏らした。
「寧ろ、世界なんて変わらないでよかったのに。こんなにも繁栄されちゃあね……私みたいな生活してる奴は惨めなこと極まりないわ」
世界が変わらないでいて欲しかったということについては、大妖精も同意見であるが、しかし、天狗にそんなことを言われると腹立たしくて仕方が無かった。
――世界の創造者の仲間が何を無責任な。その下らない世界の創造の贄となった妖精達は一体何だったのだ?
怒りが油然と胸中に込み上げてきたが、大妖精は椛に食と住を都合して貰っている身である為、馬鹿正直に感情を露わにする訳にはいかない。
能面のように表情を殺しながら、大妖精は椛の世話を焼いていたが、次第に椛が「もう大丈夫」と、介抱の手を払った。
そのまま、椛は眠りに落ちてしまった。
大妖精はすっくとその場に立ち上がり、眠っている椛をじぃっと見下ろす。
いくら天狗と言えども、眠っていれば赤子も同然である。
先程覚えた怒りの余韻が、大妖精によからぬことを囁き掛ける。
復讐の好機ではないか――。
穴が開く程椛を見下ろしていた大妖精は、はっと我に帰った。
胸中で閃いた恐ろしい妄想を払うように頭を振る。
このままこの部屋にいたのではどうかしてしまいまそうだから、大妖精は外へ出た。冷たい夜風に当たって頭を冷やそうと決めたのである。
玄関から外へ出る。椛の部屋は二階の一室である。やや高い玄関前から見渡せる街は、相変わらず淫靡な光に溢れていて、夜とは思えない喧騒が聞こえて来る。
光も、音も、人も、何もかもが大妖精の心をざらざらと毛羽立たせる。荒んだ心を抱いたまま、大妖精はその気に食わない世界へと足を踏み入れて行く。
頭は冷えるどころか、ますます冴えて、そして凶暴さを増して行くばかりである。
大妖精が部屋を出てから少し経った頃、椛が目を覚ました。
「ああ、いけない。寝てたんだ」
頭の中心に金属の塊でも埋め込んだかのように重たい頭をこつこつと二、三度軽く小突いた後、きょろきょろと周囲を見回す。大妖精がいないことに気付いた。
「……あの子、どこか行っちゃったんだ」
何やら大妖精につまらないことを言った記憶がおぼろげながら残っていた。もしや気を悪くしてしまったかと思ったが、後悔も罪悪感もそれ程無かった。どうせ、明日で彼女とはお別れの予定だからである。
椛は布団の上から、傍に置かれている電話に向けて猿臂を伸ばし、その受話器を手に取った。
受話器のコードを引っ張って電話機そのものを自分の方へ手繰り寄せると、虚空を眺め、ある電話番号を思い出していた。
「文さんの所の電話番号は……?」
椛は、妖精の存在を上司らに報告しようとしている。
出会ってから今日まで、大妖精の正体に気付いていないふりをして過ごしてきたが、彼女は路上で倒れている大妖精を見つけた時点で、彼女を妖精だと見抜いていた。大妖精が椛を天狗だと覚えていたように、椛も大妖精が妖精であることを覚えていた。上司である射命丸文が氷の妖精に執心していて、その氷の妖精と一緒にいることが多かった大妖精は、ちゃんと記憶に残っていたのである。
最初見つけた時は目を疑ったが、自室の明りで照らしてよく顔を見て、確信した。絶滅した筈の妖精が、どう言った訳か現代に姿を現した。
今では妖精はどこか神格化されている節があるから、一般の者の目に止まってしまったら、混乱を招きかねない。
今の世界を支配しているのが天狗ならば、秩序と平和を護るのもまた天狗である。椛は重役と言う訳ではなかったが、世界がみだりに混乱することは喜ばしくは思えない。
彼女が大妖精に「役所」と言っていたのは、昔の幻想郷で言う「妖怪の山」のような場所である。椛は初めから、大妖精をお偉方に突き出す予定でいたのである。
事前に報告だけしておいた方がいいかと、電話を取ったのだが――。
電話番号を思い出し、いざボタンを押そうとしたその瞬間、玄関扉がこんこんと叩かれた。
椛はじろりと、玄関扉を見やる。
酒の影響であまり動きたくないが、居留守を使う訳にもいかないから、渋々腰を上げ、玄関扉へ歩み寄り、扉を開けた。
視覚的にも聴覚的にもやかましい世界を嫌という程堪能した大妖精は、再び椛の家へ戻って来た。
頭を冷やすと言う当初の目的は結局達成されず、余計に苛々と憤懣を募らせるだけの結果となった。どれだけ歩いてみても、世界は醜く、そして苛立たしいばかりであった。
赤茶けたぼろい階段を、コンコンと音を鳴らしながら昇る。昇り切った所から取っ付きの扉が、椛の部屋である。
扉を開ける前、大妖精は一度深呼吸をした。気持ちを落ちつけさせる為である。
「ただいま帰りました」
扉を開きながら大妖精が言う。
開き切った所で彼女の視界に飛び込んできたのは、血の絨毯の上にぐったりと伏している犬走椛である。
大妖精は腰を抜かすことも忘れて、呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
やっと正気に戻ったのは数十秒後のことで、ばたばたと椛に駆け寄った。
「椛さん? 椛さん?」
肩を揺すってみるが、返事も反応も無い。
俯せになっているのをひっくり返してみると、横っ腹に大きな刺創が刻まれているのが確認できた。そこから血がどくどくと溢れ出している。
凶器もすぐ傍に転がっていた。錆付いたナイフである。鋭利さに欠けている。こんなものでこれ程大きな刺し傷を与えたと言うのなら、その痛みは一入であったことが窺える。
大妖精は気が触れたように周囲を見回した。犯人が傍にいるのではないかと警戒したのだ。しかし、それらしい人物も、隠れられそうな場所も無い。
代わりに、帰ってすぐには気付けなかったが、玄関から椛が倒れている所まで血の線が引かれていることから、玄関先で刺されたことが推測できた。
また、玄関に何やら泥が乾いたような痕跡があることに気付いたが、大妖精はそれが何を意味するのか分からなかった。
恐ろしくなった大妖精は、リグルから借りっ放しのパーカーを引っ掛けると、一目散に外へ出て、乱暴に扉を閉めた。そして倉皇たる足取りで階段を駆け下りて、無我夢中で逃げ出した。
――まさか椛が日常的にあんな目に遭っている筈が無い。小傘さんへの嫌がらせだって私が来てから始まったそうだ。……どうして私が行く先には不幸が転がり込むのだ!?
大妖精は心に誓った。あの山に帰ろうと。
妖精はこの世界にはいてはならない存在なのだ――そうとしか思えなかった。
乗り物を使っても山から街へは結構な時間が掛かる。山へ至る最短ルートなど知らなかったが、とにかく遥か遠くに望める山へ向かって我武者羅に走った。すれ違う人々が向けて来る好奇の眼差しも気にすることなく、ひたすらに走り続けた。
街の一番明るい地帯を抜け、開発の途上と言った街並みの地帯へ辿り着いた頃には、大妖精の体力は尽きかけていた。ここから山まではまだかなりの距離がある。
そんな状態でも、前へ進まなくてはと言う気持ちが大妖精を突き動かす。壮絶な疲労の影響で棒の様になった足は、ふらふらと危なっかしい調子で大妖精の体を前へ運ぶ。
後ろから重低音が聞こえてきた。大きな自動車が通り過ぎようとしている。
大型のトラックは易々と大妖精を追い抜いて行ったが――そのすぐ先で、トラックが停車した。
運転手が降りてきて、声を掛けて来た。人間の男性である。無骨で巨大なトラックを操る者なのに運転手は細身の優男で、妙なギャップを感じる。
「ちょっと君、大丈夫?」
あまりにもおかしな姿勢で走っていたから、運転手が見かねて声を掛けたのである。
「大丈夫、です」
息も絶え絶えこう答えたが、運転手の表情は晴れない。
「どこか行く所があるなら、乗せてあげようか?」
人の手など借りたくもなかったが、こんな状態では山に辿り着くことさえできないと言う危惧から、大妖精はこの人間の好意に甘えることにした。これで最後――そんなことを自分に言い聞かせながら。
助手席に座り、苦しそうに長い呼吸をしながら、舗装の甘い道のでこぼこによる揺れに身を委ねている大妖精を、運転手の人間は何度も流し見る。その視線がとても鬱陶しく大妖精には感じられたが、気付かないふりをしてやり過ごしていた。
「お嬢ちゃん、妖怪だよね?」
尋ねられた大妖精はぶっきら棒に首を縦に振った。
「どこへ行く予定なの?」
「山へ」
「山? あの山?」
男は遥か遠くに立ち並ぶ山々を指差して言う。大妖精は先程と同じように頷いた。
「体調悪そうだけど、山なんて行って平気なの?」
男は心の底から大妖精を心配してこんな言葉を掛けているのだが、当の本人からすればお節介や心無い詮索にしか感じられない。
「いいから、あの山へ向かってください!」
強い語調に、男は聊か竦んだ。
現代では妖怪も人間もほぼ均等な力関係の中で共存しているが、人食いの歴史を持ち、その本能を秘めている妖怪は、人間にとっては今でもやや恐ろしい存在である。怒らせないに越したことはない――それきり男も黙って、車を走らせた。
走ることおよそ三十分。
「ああ、ここで降ろしてください」
大妖精が言う。人間は素直に止まったが、目を細めて、運転席から見える限り外を見回した。
民家がちらほらと見える以外、何も無い。こんな所に一体どんな用事があるのか、男にはまるで理解ができなかった。
「本当にここでいいの?」
男は助手席に向き直して尋ねたのだが、その頃には大妖精はシートベルトを外し、ドアを開けようとしていた。
「はい。ありがとうございました」
苦しげにこう言い残し、大妖精はさっさと車を降りてややふらつきながら歩み出した。
男は心配そうに、宵闇に紛れて消えて行く大妖精の背を見送っていた。実家がこの辺りなのだろうか……などとぼんやり考えていたが、とにかく彼女の要望は叶えたからと、自身の目的地に向かうべく、車を発進させた。追い抜いた大妖精に軽く手を振ったりしてみたが、一心不乱に歩いている大妖精はそれに気付くことは無かった。
大妖精は蹌踉たる足取りで山へ入って行った。深すぎる闇に取り囲まれながらも、木の根を越え、草花を掻き分け、砂に足を取られながら、懸命に山を登った。
山へ入ってから、僅かではあるが気分がよくなった。作り物の自然の力で、少しだけ落ち着きを取り戻している自分が堪らなく恥ずかしかった。
しかし、あの下品な光と喧騒に汚染された空気に包まれている都市部と比べれば、この山はまるで天国のように感じられる。都市部の環境など、思い出すだけで吐き気を催しそうな程劣悪であった。数日間だけでもあんな場所で暮らせていた自分をほめてやりたくもなった。
大妖精が向かっているのは、リグルの家を出て下山していた時、転倒した先で偶然見つけた、あの大樹である。あれ程に澄み切った、真の自然に触れれば、きっと体調も良くなるであろう……と言う算段である。その後のことは、やはり特に何も考えていない。まさかリグルの家へ転がり込む訳にはいかないし、都市部へは帰りたく無い。
少しだけ考えて、大妖精は思考を止めた。後先のことよりも、今現在のことに集中しなくてはいけない。今の問題を解決しなくては、そもそも未来が潰えてしまう――。
大樹へ至るまでの山道がこれ以上無いくらいの苦難の道であったのだが、大妖精は歯を食い縛り、こけつまろびつ山を登った。
そして、山を登り始めてたっぷり三十分経過した頃、ようやく大妖精は、あの貴重な自然を微かに肌で感じた。
――ああ、もうすぐだ。
ゴールが近いと分かると、俄かに気力が湧き起こって来た。出所不明のこの気力を糧にして、疲れ切った体に鞭を打ち、追い込みを掛ける。呼吸は一段と激しくなり、顎の先からはぽたぽたと汗の雫が滴り、腕や脚はまるで棒でも差し込んだかのように曲がらなくなったが、それでも大妖精は懸命に、大樹を目指して突き進む。
平地に登り詰めたその瞬間、大妖精は思わず熱い感涙を零した。
大樹はあの時と変わらない姿で、変わらない場所に威風堂々と居座っている。
生まれたばかりの小鹿のように、右へ左へとふらふらと揺れながら、大妖精は大樹へ歩み寄る。
その小さな身体が、大樹に青々と生い茂る木の葉が織り成す深緑の傘の影へ到達した瞬間、大妖精はばたりとそこに倒れ込んだ。
今までに感じたことのない――そして、今後絶対に感じたくないこの猛烈な疲労感に、ぐずぐずと大妖精は泣きだす有様である。しかし、この疲労感も、純粋無垢なこの自然の元ならばきっとすぐに回復するだろう……そんな予感があった。
何も考えず、今はとにかく眠りたいと思い、そっと目を閉じた。
しかし、眠りは妨げられた。
何者かの視線を感じるのである。
大妖精は目を開け、どうにか上体を起こして、辺りを睨め回す。しかし、ここは深い自然に囲まれた山の夜。視界は覚束ない。
「誰か、いるの?」
怪訝には感じたが、その口調は毅然としている。いちいちおっかなびっくりするのが面倒臭く感じられているのだ。それくらい彼女は疲弊している。
「誰かいるなら出てきなさいよ。こんな時間に、こんな場所にいるなんて、おかしい奴に間違い無いわね。……大丈夫、平気です。仲良くしましょうよ、おかしな者同士ね」
極度の疲弊が、大妖精を少しばかり狂わせている。正体不明の追跡者相手に、いたく挑戦的な言葉をぶつけた。
この態度には、大なり小なり諦観の意も含まれている。生きるのが聊か面倒になってきているのである。殺すなら殺せ――そんな投げやりな決意がある。
大妖精はじっと、視線の主の登場を待った。
今宵は風も無く、一帯に生い茂る草花や木々は微動することさえ無く、薄気味悪い静寂と共にじっと大妖精を囲繞していたのだが――何の前触れも無く、その一端がカサリと揺れた。
気丈に振る舞っていた大妖精も、いよいよ不審者との対面となると、少しばかり緊張したが、生きるのを諦めかけている少女に恐れるものなど無かった。
音のした方をめっと睨みつける。
「そっちにいるのね。出てきなさい!」
声を上げる。
すると、それに答えるように、草花がガサガサ、ガサガサと音を立て始めた。声に反応した所から察するに、野生動物の可能性も潰えたと言える。草陰に身を潜めている知的生命体たる何者かが、深緑の中でごそごそと動いているのである。
大妖精は固唾を飲んで、深い夜の暗闇から聞こえる音に耳を傾け、目を向けていた。
「一体誰なのよ?」
もう一度声を掛けてみる。すると、今度は声が帰って来た。
但し、その声に意味など含まれておらず、
「ああァー……」
猫の鳴き声と嬰児の泣き声を足したような不気味な幼子の声が、闇の中を跳梁するばかりであったが。
*
射命丸文が、犬走椛の病室を訪れた。純白のベッドの脇にごちゃごちゃと置かれた医療器具。何やらチューブを何本も引き伸ばし、眠っている部下――初めてここを訪れた日から、何も様子が変わっていない。
椛は三日前、自宅のアパートの一室で、何者かに腹部を刺されて意識を失っている所を、近隣住民によって発見された。未だに意識は回復していないが、いずれ目を覚ますであろうと、文は思っている。今の医療技術は昔と比べものにならない程に発達した。この世に治らない傷や病などあるものなのだろうか――医療に関して全くの無知である文がこんな風に考えてしまう程に。自分達の与える様々な技術と、それを許容範囲内で応用して発達させる民衆。これらに不可能なことなどありはしないと、彼女は信じて疑っていない。夢のような繁栄は、民衆の感覚を麻痺させている。多くの民が、科学と言う魔法に当てられてしまっているのが、現在の幻想郷である。
椛を刺した犯人の目処は全く立っていない。凶器は室内に転がっていて、指紋もちゃんと採取できたのだが、その指紋が如何なる者とも合致しないときた。この摩訶不思議な事実は、一体どこから聞き付けたのか、捜査に従事している者達を越えて世間に伝わり、オカルチックな話題として大いに持て囃されている。
最近では大して交わることは無かったが、一応椛は文の部下に当たる者である。部下を襲った惨劇がそんな風に取り上げられるのは不愉快であったが、昔の文も面白そうな話題には何にでも食い付いて、あること無いこと一緒くたにして新聞を書いていた新聞記者であったから、あまり偉そうなことは言えない。
新聞記者であったのは昔の話で、文は今、全く別の仕事に就いている。
民衆がよからぬことを企て、国家の転覆を狙っていないか……そんなことを監視する仕事である。『火の無い所に煙は立たぬ』の精神で、どんなに些細な噂や報告でも、受けたり感じたりしたならばすぐさま問題の場所に急行し、実態を調べ上げ、問題があれば即刻中止を促すのである。抵抗する場合は多少の暴力も許されている。
最近は専ら、僻遠の山中に居を構える蟲の妖怪の所へ通い詰めている。働いている場所が都市部の癖に、あんな所に住むなんて絶対おかしい――と言う仲間の意見を汲み、調査をしている。
相手方は「絶対に何も無い」「私は蟲の妖怪だから自然に触れていたいだけだ」の一点張りである。文もそんな気がしてきているのだが、相方の男が執念深く、なかなか諦めようとしない。
新聞記者同様、いろんな者から嫌われる仕事である。秘密裏に研究してきた技術開発を全ておじゃんにする仕事な訳だから、嫌われて然るべきである。
おまけに、やりたいこととやりたくないことが混じり合っているから、精神的疲労は新聞記者の比では無い。嫌われ役の質が違う。明らかに今の方が酷い嫌われ方をしている。
しかし給金は良く、生活は安定するから、仕事から離れようという気はしなかった。昔以上に貨幣の重要性が上がっているこの時代に、「やりたくないから」と言って高給なこの仕事を手放すのはあまりにも勿体無い。
この日は仕事がたまたま休みであったので、こうして椛の容態を見にやって来た。
簡素な四脚の丸椅子に腰かけ、ぼんやりと昏睡状態の椛を眺めていた。
その最中、病室の扉が開かれた。
文が驚いて後ろを振り返る。そして、連続してまたもや驚いてしまった。
来客は、あの蟲の妖怪――リグル・ナイトバグであった。随分畏まったスーツを着こなしている。家にいる時の姿しか見たことのなかった文にはかなり異質に映った。
リグルの方も驚いていたが、
「まあ、被害者が天狗なんだから、別に不思議なことではないか」
などと独り言を言い、自らを落ち着けた。
気分を落ち着かせると、先ずリグルは頭を下げた。
「この度はお仲間が大変な目に遭われましたね」
山にある住居で会う時よりもいくらか丁寧で頭の低いリグルは文にとって不自然且つ新鮮で、聊か緊張してしまい、どこかぎこちない動作でせかせかとお辞儀を返す。
「どのようなご用件で? 椛と知り合いなのですか?」
「ああ、いいえ。私、こういう者でして」
そう言ってリグルは、肩に掛けているハンドバッグから名刺入れを取り出し、中身を一枚、文に手渡しする。
名刺には聞き覚えのある雑誌出版社の名前。その下に目の前にいる蟲の妖怪の名前や住所、電話番号なんかが書かれている。
「フリーライター?」
昔の自分が想起されるようで、思わず文はドキリとした。リグルも、文の以前の仕事のことを認識しているので、どこか表情が誇らしげである。天狗の専売特許であったライターと言う仕事を、こんなうらぶれた蟲の妖怪がやっているんだぞ――と言う、わずかに自虐的で、劣等感の隠見される、あまり綺麗と言えない心情を伴っている。
しばらく呆気にとられていたが、思い出したように慌てた様子で、文も同じようにリグルに名刺を渡した。
「それで、ご用件は?」
聞くまでも無いような気がしたが、形式的に問うた。
「はあ。犬走椛さんを襲った不幸について……」
「この通り、椛はまだ目覚めていません」
リグルの言葉の末端を掻き消すように、文が強い口調で言う。傍若無人な新聞記者として活動していた頃に培われた話術は今尚健在である。思わず現役のライターたるリグルが言葉を噤んでしまった。
リグルは困った様子で顔を顰めた後、
「それでは、何か事件に関して聞いたこととか、そういうことは?」
しかし、文は首を横に振る。
「私もあの事件以来一度も彼女と口を利いていないのです。事の一部始終なんて、私が知りたいくらいです」
どこか刺々しい口調で文が言う。リグルは完全の参ってしまったようで、うーんと唸って頭を掻く。赤いフレームの眼鏡の奥で困窮に細められた瞳が、聡明な雰囲気を醸し出す。
「それじゃあ、あなたは今回の事件をどんな風にお考えです?」
「さっぱり見当がつきません」
潔く返答してくれたのが意外であったのか、リグルは少し驚いたような表情を見せた後、メモ帳を取り出してメモを取り始めた。
「椛さんが恨まれていたとか、そういう話を聞いたことは?」
「ありません」
言下に言う。少なくとも、文はそんな話を聞いたことがなかった。そもそも、椛との交流がほとんど無かったので、そんな分け入った話をしたことがないと言うのが事実であるが。
リグルがあれこれと質問をし終え、満足げに息を吐いた後、
「私も質問、いいですか?」
今度は文からこう切り出した。
「どうぞ。許される範囲でお答えしましょう」
「あなたは今回の事件をどんな風にお考えで?」
オウム返しを喰らわされたリグルは、感心したような、呆れたような苦笑いを浮かべ、
「そうですねぇ――」
メモ帳を捲って今までの取材で集まった情報を見ながら、しばらく無言で考え込んでいたが、特に切っ掛けも無く開口した。
「あくまで憶測ですが、私怨ではないかなと思っています。物が盗まれたとか、そう言う形跡が無いらしいんですよね。犯人は刺しただけとのことですから」
「犯人に目星は?」
「さあ、私にはさっぱり。ただ、一つ奇妙なことが」
「奇妙なこと?」
「事件現場の隣室の住人の一人が、推定されてる事件発生時刻の前に、複数人の何者かが、階段を駆け上る音を聞いたと言っているんです。随分がたががたと音を鳴らしていたみたいです。今まではそんな風なことは全然無かったとも言っています。しかし、その後もずっとその住人は起きていましたが、誰かが階段を下りて行く音は聞こえなかったそうです」
「じゃあ、その足音の主が犯人だとしたら、犯人はずっと上階へ?」
「静かに降りて行ったのかもしれませんが、それにしたって無音すぎたと言う意見もあります。あのアパート、結構草臥れてますから、階段の老朽化も著しくて、音を立てずに降りるのはなかなか難しいらしいんです。それじゃあ二階の住人が犯人かと言われると、二階に住んでいる方々は全員その時間には家にいなかったそうで」
「はあ……案とも不思議な事件ですね」
「本当にね」
それきり、文は特に何を問うでもなく、昏睡する椛に目をくれていた。
これ以上の収穫は無いと踏んだリグルは、「さて」と音頭を取り、腰掛けていた椅子を立った。
「それじゃあ、私はそろそろ失礼しますね」
「御苦労様です」
形式的な挨拶を交わし合い、リグルはさっさと病室を後にした。
リグルから帰ってからも、結局椛は眠り続けたままであった。ここまで昏睡状態が続くと、無知な文もいよいよ不安を覚え始めたから、翌日の仕事を休んで、椛の容態を見守ることに決めた。
それとなく、リグルの取材内容が如何なる形で雑誌の一ページを飾るのが気になって、病院の売店を冷やかしたりしていたが、それらしい雑誌を見つけることはできなかった。
その日も椛は目覚めなかった。さすがに二日も続けて仕事を休む訳にはいかなかったので、その翌日、文は仕事場に復帰した。
それから三日の後、椛の病室には、射命丸文とは別の客人が訪れていた。
狼を連想させる荒々しさを秘めた、清涼感漂う水色の髪、左右で異なる色の瞳――多々良小傘である。
医療機器が鳴らす規則的な電子音に耳を傾けながら、小傘は眠る椛に目を落としている。
学校の授業の板書やら出席票やらを友人に任せ、椛の見舞いへやって来たのである。
犬走椛は小傘の先輩に当たる人物である。二人の出会ったのは、昔の幻想郷を研究するという趣旨のサークルでのことである。 人員は数名の弱小サークルであるが、同じ意見を持つ者達同士、仲良く活動をしていた。
椛は昨年無事に大学を卒業し、今は働いているのだが、今でも二人は時々出会っては、昔の幻想郷についてあれこれ語り合う機会を作っている。
今の幻想郷が好き――小傘は大妖精にこう言っていたが、何だかんだで、結局昔の幻想郷を捨て切れていない。だからこうして未練たらしく、数十年前の幻想郷が忘れ去られないよう、研究をしているのである。
「椛さん」
小傘がそっと語り掛けてみたが、椛は無反応である。少々不愛想ながら、面倒見がよくて、頼りになる先輩であった。
「こんな形で永遠のお別れなんて嫌ですよ」
涙を堪えたような震え声で小傘が言う。
次の瞬間、背後に設えられている扉のノブが回る音がした。
小傘は慌ててうっすら浮かび上がって来ていた涙を拭い、後ろを振り返る。
入って来たのは、リグル・ナイトバグ。前回の取材からあまり芳しくなかった悔しさから、またここへやって来たのである。
先客がいると言うことは受付で伝えられていたが、てっきり射命丸文だと思っていたので、見覚えのあるような、無いような多々良小傘を見て、リグルは少し困惑したようであった。
「こんにちは」
やや声を上ずらせながら、小傘が先に挨拶をした。リグルも慌てて返事をする。今日の服装は射命丸文と対峙した時とことなり、若干ラフな格好をしている。
「椛さんのお友達ですか?」
「はあ」
どうしてこんなことを問うのだろう――小傘の懐疑的な眼差しを感じたリグルは、名刺を取り出して小慣れた感じの自己紹介をする。小傘は名刺を持っていなかったので、交換とはいかなかった。
「雑誌の記事を書いているんですね」
名刺を見て、小傘は物珍しそうに言う。
「椛さんの事件を記事にしようと?」
「そのつもりで来たのですが……」
小傘の向こうで静かに眠っている椛を見るや否や、リグルは落胆してしまった。その落胆を見抜いた小傘は、何だか椛が物のように扱われているような感じがしてあまり気分がよくなかったのだが、その感情を表に出すことはしなかった。
「まだ椛さんは起きていません」
「そのようですね」
リグルは腕時計と、眠っている椛と、小傘にそれぞれ一度ずつ目をやると、
「失礼ですけど、お時間があるようなら、いろいろお話聞かせもらえないですか?」
そう言いながらメモ帳とペンを取った。
あまりに急な願い出に、小傘は咄嗟に応対できず、その隙に質問が始まってしまったので、しどろもどろしながらリグルの取材に付き合い始めた。
その取材の最中、またも扉のノブが回った。
二人は一斉に扉を注視する。
入って来た人物を見て、リグルは心の内で「やっぱり」と呟いた。一方小傘は全身を緊張の稲妻が駆け抜けて行ったと見え、ピッと背筋を伸ばして硬直してしまった。
犬走椛の眠る病室を訪れた射命丸文は、先ずリグルに苦々しげな一瞥をくれ、次いで固まっている小傘に会釈をし、それから椛に目をやった。相変わらず眠っているのを確認し、がっくりと肩を落とす。
鬱陶しい記者もいるし、帰ろうかしら――などと考えていると、リグルが声を掛けてきた。
「文さん、丁度いいところに。こちら、椛さんのお友達の多々良小傘さん。いろいろと実りあるお話を聞かせて貰っているところです」
現代の重鎮たる鴉天狗の登場ですっかり委縮している小傘は、無言のままぎくしゃくと礼をした。文はもう一度礼を返した。
椛の友達である小傘に聊か興味を覚えた文は、先程の考えを撤回し、しばらくこの部屋に居座ることに決めた。
文が加わると、リグルは取材と言う形式を取り止めて話をし出した。やや歳の離れた感じのする三名であったが、女三人寄ればかしましいとは言ったもので、会話は弾んだ。
しばらく話をしていると、話題が学校での椛の様子に移った。
小傘は若干の誇張を交えながら、頼れる先輩であった犬走椛の武勇伝を語って聞かせた。
「なるほど。椛は古い幻想郷ことを勉強していたのですね」
小傘から椛の話を聞かされた文は、感心したように言うのだが、しかし、そこには寂寞の念が隠見できる。
天狗達が多くを――時には懸想の者までも――犠牲にして、ようやく今の幻想郷を創り上げたと言うのに、椛は過ぎ去った世界に関心を抱き、それを研究していると言うのだから、空しさを禁じ得ないのも無理は無い。
「だけど、そんな風に何かを勉強できるのだって、今の世界あっての話な訳ですし……」
こう言って小傘が文をフォローしたが、文の表情は晴れない。
リグルは黙って二人の会話に耳を傾けていた。彼女もまた昔の幻想郷を愛する者である。しかし、今の世界でないとできないことがあると言うのは紛れも無い事実であり、それを楽しんでいる自分がいることもまた真実。それなのに今の世界と、それを創り上げた者達を悪し様に批判しようと言う気にはなれなかった。
難しい議論を交わしている内に、三人を取り巻く空気はすっかり重苦しくなってしまった。
嫌な感じのする静寂に包まれ、そろそろ時間も時間だから……と適当な口実を設けてリグルが席を立とうとしたその時、急に小傘が「あっ」と声を上げた。
ぎょっとして二人は小傘の方を見やる。
「どうしたのです、小傘さん」
「あんまり病院で大きな声を立てちゃ迷惑ですよ」
小傘は何か言いたげに口を開けているが、うまく声が出せない様子である。声に代わる意志表示として、頻りにある一点を指差している。
文とリグルがほぼ同時にそちらを見た。その瞬間、二人も先程の小傘と同じように「あっ」と声を上げてしまった。
椛が目を開いているではないか。
リグルは咄嗟に看護師を呼ぶ為のブザーを押した。
文は泣きそうな声で椛に何度も語り掛けた。意識が戻ったばかりの患者に対する態度としては不適切であるが、感情を抑えることができなかったようである。
「文さん」
椛の少々苦しげな声。
椛は自身を襲ったあの奇怪な事件の始終を、今すぐにでも言って聞かせたかったのだが、文は狂喜に心躍らせており、それどころではない。
少し視線を動かすと、後輩たる多々良小傘もいた。彼女も文と同じように、今すぐ手を取って泣き喚きたいくらいの気持ちではいたのだが、天狗の手前、遠慮しているらしい。
そんな様子の二人を見て、リグルはふっと息を吐き、肩を竦めた。
「文さん、ちょっと、いいですか?」
やや強い口調で椛が言う。
只ならぬその気迫に、文ははたと口を噤んだ。少々遠巻きに二人の様子を見ていた小傘もリグルも、何事かと椛の方を向き直す。四人を取り巻く空気にさっと緊張が奔る。
「椛、どうしたのですか」
「妖精です」
脈絡無く放たれた一言。
「はい?」
文は眉を顰めたが、当然であろう。ようやく意識を取り戻した部下がいきなり今は亡き種族の一を口にしたのだから、困惑もする。
椛はすぐに言葉を続ける。
「妖精です。妖精が出たんです」
「ちょっと、落ち着いて、椛」
一先ず文は椛を宥め、ゆっくりと問う。
「妖精が出た、とは? どこでそんなもの見たの? 夢でも見ていたんじゃないの?」
「夢なんかじゃありません。ほら、氷の妖精とよく一緒にいた、緑の髪の大きな妖精がいたでしょう。あいつです、あいつが路地に倒れていて……」
この報告を聞いて文が大層驚愕したことは言うまでも無いが、同時にリグルもぎくりと怪しく体を震わせた。
「あの子、こんなところまで来ていたのか」
知らされた事情の齎した衝撃はリグルにこんな言葉を吐かせてしまった。しまった、と言った風に慌てて彼女は口に手をやったのだが、もう遅い。吐いた言葉は飲み込めない。
文がギロリとリグルを睨むと、つかつかと歩み寄り、肩に手をやって彼女の体を揺さぶった。
「どういうことです? あなた、妖精がいることを前から知っていたのですか?」
リグルは自身の失言を悔いるように唇を噛んでいたが、椛の事件もあるし、これは只事でないと判断して、一切合財を文に語って聞かせた。文と一緒に話を聞いていた小傘も、昔の幻想郷で他人を驚かして回っていた頃に出会った大妖精のことを思い出したようであった。
リグルの話が終わると、小傘が問うた。
「じゃあ椛さんは、その妖精に刺されたんですか?」
椛は厳格に首を横に振る。
「違う。あの妖精じゃない。もっと別の……三人で徒党を組んでて……」
「あの子以外にも妖精がいるって言うの?」
リグルが素っ頓狂な声を上げる。
「理由は分からないけど、とにかく私は妖精にやられたんです。間違いありません」
椛は興奮したように捲し立てる。意識が戻ったばかりの身にこれ以上無理をさせてはいけないと、文は椛を黙らせた。丁度その時になって看護師が駆け付けた。
三人は椛のその後を、駆け付けた看護師に委ね、病室を出た。そして広いロビーの隅っこで鼎を作り、声を顰めて話し合う。
「リグルさん。まだこのことは記事にはしちゃいけませんよ」
「それくらいの分別はついています」
怒ったようにリグルが言う。
文は確かめるように険しい表情で頷くと、
「どうしてあの緑の髪の妖精が現世に蘇ったのでしょう」
最大の疑問を口にした。
「私はチルノのコールド・スリープを疑っているのだけど」
「コールド・スリープ?」
「妖精達がいなくなった頃、あの子らの住処がものすごい勢いで無くなっていたでしょう? 今のままではみんな消えてしまうことを恐れた氷の妖精が、大妖精を凍って眠らせて保存したのよ。未来に賭けたの。自然の象徴である妖精の作った氷は自然そのものだから、中の妖精も消えなかった」
それらしい意見ではあるが、俄かに信じ難い――と言った文の表情。神秘と不可思議の塊であった往年の幻想郷から脱却しつつある文には、あまりにも非現実的に感じられるようである。
一方、古の幻想郷を研究する小傘は、今の状況に相応しくない興味と感動を覚えたようで、目を爛々と輝かせている。
神妙な顔して考え込んでいた文は、一度頭を悩ませるこの問題を振り払った。
「どうやって現代にあの妖精が蘇ったかは後にしましょう……経過なんてとりあえずどうだっていいです。では、椛を襲ったらしい妖精は一体?」
こればかりはリグルも皆目見当がつかず、すっかり閉口してしまった。
「あの妖精以外に妖精を見たことは?」
文が問うたが、
「無い」
リグルが言下に言い切った。
「山のどこかに隠れていたのかしら」
「しかし、椛が襲われたのは街中よ」
「歩いても行けない距離では無いですし」
「そんな大移動をしていれば、誰かの目に止まると思うのだけど」
こんな感じの議論を戦わせている二人に割って入るように、小傘が口を開いた。
「事の真相は、妖精に聞いた方が早いんじゃないでしょうか」
二人が小傘を見やる。
「どれだけ私達が議論を戦わせても、結局全部推測でしかありません。真実を知っている者がこの世のどこかにいるのなら、当の人物に聞いた方が……いや、聞き出さないと、本当のことは分かりっこありませんよ」
「聞くって言ったって」
リグルが開口した。
「妖精が何処にいるかも分からないのに、聞きようがないじゃない」
「妖精は自然の中でしか生きられないのだから、あんまりこんな都市部に長居できるとは思えません。どうにかして、山へ帰っている、若しくは、帰ろうとしているのではないでしょうか」
そう言いながら小傘は、山沿いの辺鄙な道で大妖精と出会い、この都市部まで連れて来た時のことを思い出していた。
やけに体の調子が悪そうであったのが気に掛かったのだが、相手が妖精とあれば、自然の欠乏が齎した現代への拒絶反応である可能性を見出せる。
それが真であった場合、山を出たた段階であの有様であったのだから、あまり都市部に長居しては、体がもたないということは容易に想像できる。
「山と一口に言っても、かなり広いですから、そんな中へ逃げ込んだとなれば、一体どうやって見つけ出せばいいのです」
文が口を挟んだ。
「あの山、植林ばかりなのですよね?」
小傘の口調は確認するような調子である。文が世界の重鎮であることを加味した一言なのであろう。
文は黙って頷いて見せた。
「それじゃあ、山に残った僅かな本物の自然を、妖精は求めると思います。それがどこの辺りに、どの程度残されているか、あなたなら調べられましょう」
流石は往年の幻想郷を研究する学生と賞賛すべきであろう。小傘は妖精の生態に詳しい。
文はそれを聞くと、居ても立ってもいられなくなって、病院を後にした。
リグルが呼び止めたが、止まる様子は無い。
小傘は黙ってその背を見送った。
リグルと小傘が向き合った。
「私達は、どうしよう」
「事を荒立てない……これに尽きるんじゃないでしょうか」
外は既に日が傾き始めており、ごみごみした街には一律に朱色が塗りたくられている。
文は付近の駐車場に止めていた車に乗り込んで、一度仕事場へ戻った。妖精が潜んでいるかもしれない山の一角を調べ上げる為である。
迷いの無い迅速な判断であった。しかし――。
無鉄砲で命知らず、そして倫理や道徳をかなぐり捨てた幼き命の群衆による向こう見ずな行動と比較すると、どうやら彼女の判断や行動は、少々鈍重であったようである。
*
山沿いの道は車や人の通りが少なく、おまけにカーブも信号も無い一直線の道である為、ついスピードを上げてしまいがちである。ここを走る自動車は法定速度を越える速度で走っていることが多いのだが、事故はほとんど無い。
とある人間の男がこの日、誰もいないことをいいことに、快調に車を飛ばしていた。
運転の最中、男は数日前に、都市部の端っこで乗せた一人の女の子を、ここらで降ろしたことを思い出していた。
「あの女の子、大丈夫だったのかなあ」
今更になってこの男は不安を覚えてしまった。見れば見る程、辺りには何も無い。
しかし、相手がいいと言ったんだから降ろしただけで、俺に罪は無い筈だ――と自分に言い聞かせた。
陰気なこの感情を吹っ飛ばすように、また一段と強くアクセルを踏み込んだ。すると――。
末広がりのヘッドライトの及ばない闇から、ひょいと人影が飛び出してきた。
男はぎょっとしてブレーキを踏んだのだが、
ドンッ――。
遅かった。
今まで積み上げてきた何もかもを崩落させる絶望の打音。その余韻が木霊する男の頭の中は真っ白である。
こんなに人通りの少ない道なら、このまま逃げれば隠し通せるのでは――と言う邪心の囁きが男を覚醒へと導いた。どれくらい呆然としていたかは分からないが、ようやく男は目の前に広がる現実と対峙する意識を手に入れた。
邪な考えを実行するか否か、状況に似合わずひどく冷静に悩んでいる最中、視界の片隅に、ヘッドライトにちらりと動いた人影が映った。
速度メーターの所に目を落としてあれこれ悩んでいた男は、ハッと顔を上げた。法外な速度で飛ばしていたトラックで撥ねたのだから、相手はてっきり死んだものだと男は思っていたのだ。
まだ息があるのかもしれない――。
罪から逃れることはできないが、助けておいた方が何かと都合がいいと判断し、男は慌ててトラックを降りた。
「おおい、大丈夫ですか?」
大丈夫である筈が無いが、男はこんなことを言いながら、車の前部へ歩み寄る。
そこには、子どもが一人、倒れていた。
視界の片隅に映った人影が、単なる見間違いであった、若しくは目撃者の影であったと言うことが分かってしまったのだが、男はそれ程取り乱すことは無かった。と言うのも、その仰向けになっている被害者の姿態を見るや否や、保身とか隠蔽とか絶望とか、そういうことを案ずる気が失せてしまったのだ。
被害者はあどけない女の子であるのだが、何とこの女子、一糸纏わぬ姿なのである。
ギンと見開かれた双眸が、星々の瞬く空をじっと見据えている。開かれた口からはみ出ている舌は、あわや切断と言う程の大きな裂傷が横断している。車とぶつかった際、噛んでしまったようである。片腕と片脚があらぬ方向にひん曲がり、食事をとっているのか窺わしいように思えてくる程痩せこけた体に浮き出る骨格も、事故の衝撃で折れたり外れたりで見るからにおかしなことになっている。
まだ幼い故に、トラックの一撃が相当なダメージになり、即死であったことは一目瞭然である。
しかし男が疑問なのは、まず、こんな真夜中に、どうして女の子が、全裸で道路へ飛び出して来たのか、と言う点。それから、女の子の体が時代錯誤な不健康さを発揮していると言う点だ。今時、こんなにも痩せこけてしまう程生活に困窮している者が存在するのか――興味深ささえ覚えてしまう程であった。
何か別のものに事故の責任転嫁したい気持ちもあって、男はそんなことばかりを考えていたが、しばらくして、ふらふらと女の子に近づいた。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
果たして、返事は無い。
男は恐る恐る、女の子を抱き起こす。そこでようやく男は、女の子の背中に、トンボの様に薄い羽があることに気付いた。――人間じゃないのか。
首に手を添えられて抱き起こされた少女は、壊れた人形の様にがくんと首を折ってしまう。
撥ねられた反動で地面を滑ったのか、体中に擦り傷が見られる。男の手もたちまち血だらけになってしまった。
改めて男は、この事故をどう処理するかに頭を悩ませ始めたのだが――。
不意に首筋に、何やら冷たくて硬質な感触を覚え、咄嗟に後ろを振り向いた。
女の子がいた。
一人では無い。五人だ。
首筋に当てられたものの正体は、車のライトに当てられて輝く包丁。握っている女の子の手がもみじの様に小さいものだから、やけに巨大な刃物のように映るが、実際は刃渡り二十五センチ程度のもので、さして大きい訳ではない。
包丁も十分すぎる程恐ろしかったのだが、それよりも男は恐怖したのは、その女の子達の表情である。
皆、一様に瞳に光を宿していないのである。男が今まさに抱いている、激痛と恐怖の内に死したであろう女の子の方が、まだ生気に満ちていると言えるのではないかと思えてくる程、この女の子達は無感動な、能面のような面持ちで、屈む男を取り囲んで、じぃ……っと見下ろしているのだ。
「な、何かな?」
震える声で男が問う。よくよく見てみればこの女の子達は、先程男が殺した女の子と良く似ている。顔かたちはそれ程でも無いが――皆、服を着ていないし、恐ろしい程痩せ衰えている。
「車に乗せて欲しくて」
どこからか声がした。男の視界に立ち塞がる壁となっている女の子は全く口を動かしていないことから、今見えている以外にも女の子がいることが分かった。
声の主が、闇から姿を現した。
「あっ、君は」
男は素っ頓狂な声を上げた。
紛れも無くその女の子は、先日、都市部からこの近辺まで車に乗せてあげた女の子であった。
だが、男は違和感を覚えた。記憶にあるあの不思議な女の子と、目の前で、褪色した和紙のような色の短髪を持つ女児を抱きかかえている女の子は、同じ人物である筈なのに、まるで雰囲気が違うからである。
元々小柄な少女であるが、更に小柄な女児を抱いている。浮かべている薄い笑みは、大人の余裕のようなものが感じられ――そう、まるで緑の髪の女の子が、抱いている女児の母親であるかのような……そんな印象を受けてしまうのだ。
こんな小さな母親などいる筈がない。あり得ない存在と言うのはいつ何時も不気味なもので、今の女の子――大妖精も例に漏れない。
「車。あのうるさい街まで連れて行って貰えるかしら?」
口調までやけに大人びている。
「き、君、前にここの辺りで」
「答えて」
大妖精は男の声を遮る。
「車に乗せて頂けない? 私達七人全員。街まで」
首筋に包丁など宛がわれていては、断りたくとも断れず、男はこれを了承した。
謎の女の子の集団は、確実に車を止める為に自ら犠牲となった仲間の死骸もトラックに詰め込んで、順次全員車に乗った。
包丁の女の子は終始、男の包丁を向けて続けていた。
緑の髪の女の子は、女児を抱いたまま、少し苦しそうな呼吸をしながらも、形にそぐわない艶やかさを醸し出しながら、舗装の甘い道路の凸凹に揺られていた。
男性が、都市部の外れにある発展途上地帯の人目に付かない道に止められていたトラックの運転席で惨殺死体となって発見されたのは、翌日の早朝のことであった。
*
「大体の目星は付いたんですけど、やっぱり該当する場所が多くて、なかなか手が出せないです」
「では、一先ず私の家の周辺から調査してみるって言うのはどうでしょう? あの子、しばらくウチにいましたから、あんまり私の家から遠くへ動くことはできなかったと思うんです」
「なるほど。参考にさせて頂きます」
「ええ。力になれなくてすみません」
射命丸文は受話器を置く。自分以外誰もいない自宅はシンと静まり返っている。その静寂の中に投じられた重苦しいため息――紛れも無く文本人のため息であるが、自分のものながら、陰鬱さに拍車が掛かった。
今、彼女は自宅であるアパートの一室にいる。一人暮らしには十分すぎる広さで、日当たりも景観もいい、高級なアパートである。何一つ不自由は無いが、未だに独身であることは彼女の悩みの種の一つである。
気晴らしにとテレビのスイッチを入れた後、流し場の傍に干しっ放しにしていたコーヒーカップを取ってテーブルへ帰。丁度テレビは、昨晩から今朝の間に起きたらしい、残忍な殺人事件のことを報道していた。
ほとんど徹夜で、妖精のいそうな場所を調べていた文は、ぼんやりとしていて働かない頭で、その報道を眺めていた。音声は右から入って左から抜けて行く。被害者が酷く無残な死に様であったことと、事件発生現場がここからそれ程遠くない場所であることだけが、辛うじて頭に残った。
妖精の居場所におよその目星を付けたまではよかったが、彼女も働く身である為、そう易々とそこへ足を運ぶことはできない。
コーヒーを飲み終える頃、丁度ニュースも切り替わった。瞬く間にテレビへの興味が消滅した文は、テレビの電源を切り、コーヒーを飲み切って、カップを洗って流し場の横に置くと、不安と好奇心を綯い交ぜにした、重苦しくやりきれないしこりを胸中に秘めたまま、職場へ向かった。
職場へ到着して早々、同僚の天狗が駆け寄って来た。
「おはよう、文」
「おはよう」
「椛、目ぇ覚ましたんだって?」
挨拶の次にはこれである。
椛も天狗であるので、同胞の一人であることに間違い無いのだが、この職場で働く天狗達とは役職も地位も違いすぎる為、普通は交流などほとんど無い。白狼天狗の一人が刺されて死んだとしても、それはここの者達とはそれほど関係の無いことであり、大した意味を持たない筈なのだ。
それなのに、椛の覚醒にこれ程の興味、関心を持ち、これだけ迅速に情報が巡回していると言うことは、そこに何か、天狗達の気を引く情報が付随していると言うことに他ならない。その証拠に同僚の表情は、同胞が無事に目覚めたことの安心感よりも、好奇心に満ちているように見受けられる。
「よく知っているわね」
「そりゃあ、仲間が危機を脱したとあらばね」
白々しい台詞である。文は苦笑を堪えるのに必死である。
「ところでさ、文、知っている?」
同僚の天狗は随分勿体ぶった口調。
「何を?」
相手が言おうとしていることは、それとなく察しが付いていたが、文は白を切って見せた。
「椛を刺した犯人」
天狗達が椛の傷害事件に興味を抱いている理由はやはりコレか――文は気付かれぬ程小さなため息を吐く。
「知ってるよ。妖精って噂なんでしょ」
「なんだ、知ってたんだ」
同僚はつまらなそうに口を尖らす。しかしすぐに表情を、どこか愉快そうな元の状態に戻し、
「それで? 元敏腕新聞記者の射命丸文は、今事件をどう解釈してるの? ほんとに妖精の仕業だと思う? 数十年前に絶滅した筈の妖精が現代へ蘇ったなんてことが……」
「さあね。皆目見当がつかないわ」
「あら、椛が証言してるんじゃないの?」「被害者の証言が絶対と言う証拠も無いでしょ」
実際に妖精の姿を見た上に、生活まで共にしたと語る者に会ったことは伏せておいた。
好奇心で舞い上がってはいるものの、その同僚は妖精の復活など全く信じていない様子である。しかし、都市伝説的な盛り上がりを見せているこの事件についてあれこれ推測するのが楽しくて仕方ないと見え、寝不足で消沈している文の傍で妄想とも推察とも取れる空論を垂れ流している。
適当にそれをあしらって、文は自分の席へ崩れるように座り込み、重苦しいため息を一つ。寝不足と不安が祟ってのことであるが、周囲の者達は、今はほとんど無関係と言っても過言でない同胞の身を案じているのだと受け止めたようで、何をそんなに思い悩む必要があるのかと、少々疑問に感じているようである。
文はしばらくの間、机に突っ伏していたが、こんなことばかりしてはいられないと、頭を仕事へ切り替えようと努めたのだが、なかなか容易なことではなかった。
妖精が生きていたと言う衝撃的な事実に毒されて、日常に異変を来してしまったのは文だけではなかった。
この日、多々良小傘は朝早くから椛の病室を訪れていた。何をするでも、何か話すでも無い。ただ、漠然とした不安を抱えたままでは、学校へ行こうと言う気になれなかったようで、彼女を悩ませている妖精の件について理解のある一員である椛の元を訪れたのである。
「学校行かないの?」
椛が問うと、小傘は薄く笑んで言う。
「何だか、それどころじゃない気がしまして」
「何を正義の使者みたいなこと言ってるんだよ」
椛はくつくつと笑った。昨日、目を覚ましてからの彼女の経過は良好である。
小傘は少し笑みを深くしたが、その笑みも心の底から表れてくるものではなく、どこか陰りが見える。
「だって、妖精が生きていたんですよ? それに、椛さんはその妖精にやられているんですから……。これは、もう只事じゃないと思うんです」
「あんたのことだから涎垂らして喜んであれこれ妄想を垂れ流すと思ったのに」
「こんな複雑な事情が無ければ、もっと素直に喜んでいましたよ。不謹慎ながら」
ここで一度、会話が途切れた。
居た堪れなくなった小傘は、居心地悪そうに両手の指を絡ませたり解いたりしている。
同じ頃、リグル・ナイトバグは家にいた。彼女もやはり、妖精の一件が気にかかりすぎて、仕事どころではなくなってしまったようで、体調不良と偽って家に籠っている。
大妖精の復活は知っていたが、彼女以外にも妖精がいるなんてことは知らなかった。何一つ知らなかった小傘や文とはまた異質の衝撃を受けている。
体調不良と職場には連絡したが、実際は体に異変など何一つありはしない。しかし彼女は律義に家に籠っていた。どこかへ遊びに行く気が無かったのもあるし、文が妖精の件に関して何か連絡をしてくるかもしれないと言う憂慮と言う側面もある。
家の中でできる暇つぶしと言えば、編み物くらいのものである。拙い手付きで、せっせと編み物をする。
傍にはラジオが置いてある。テレビを持っていないリグルの貴重な情報入手の媒体である。
音の無い寂しさを打ち消す目的で、別に傾聴している訳でもないが、ラジオの電源を入れている。ラジオからは先程から、若い妖怪の女が取り留めの無い世間話をするばかりのラジオ番組が流れている。昔は寺にいて、境内な門前の掃除なんかの雑用係を担っていたうるさい妖怪だ――と言う程度の情報しか、リグルは持ち合わせていない。ラジオに対して大して興味が無い証拠である。
マシンガントークとはきっとこの女の為にあるのだろうと、リグルは思った。何を話しているのか逐一気にしてはいないが、淀み無く次々と放たれる言葉は、静寂を破ると言うリグルの目的を果たすにはぴったりであった。
そんなバックグラウンドミュージックのような役割をしていたラジオであったが、不意にその一瀉千里の言葉の波がピタリと止まってしまった。
いくらまともに聞いていないとは言え、ついさっきまで途切れることなく続いていた言葉がこうも急に止んでしまっては、訝しく感じられるのは無理も無い。リグルは編み物の手を止め、ラジオに目をやった。やかましく喋り続けていたものが突拍子も無くシンと静まってしまい、その落差はこの上ない薄気味悪さを感じさせた。
「どうしたんだろう。壊れちゃったかな」
編み物をテーブルに置いて、ラジオをぐるりと見回してみる。音が消えてしまったことについて、外的要因があるとは到底思えなかったが、だからと言って内部を見てみる技術などリグルは持ち合わせていないので、とりあえず恰好だけで周りを見てみたのである。当然、外部には何の異常も無い。
ならば中身に何かあると言うことになるが、リグルには手の出しようがない。変に分解して元に戻せなくなってしまっては元も子もない。
考えた挙句、素人にありがちな「叩いてみる」と言う行動に、リグルは出た。壊れてしまわないような優しい手付きで三度程、ラジオを叩いてみたのである。
すると、偶然にも音が復活した。
因みに、彼女のラジオには外部的にも内部的にも、何ら異常は無い。
音が鳴らなくなった原因は、音を発信していた、ラジオ局の方にあったのである。
「ああァー……」
不意を突いてラジオから流れて来た声は、先程までべらべらと喋り続けていた妖怪のものではなかった。猫と人間の赤子の中間に位置するような、とにかく気味の悪い呻き声。思わずリグルは「ひっ」とくぐもった悲鳴を上げて飛び退いてしまった。
謎の声の主がラジオから飛び出してくることなど絶対にありえないのだが、リグルはラジオに近づくことを躊躇している。
そうしている内に、また声が聞こえてきた。今度は呻き声では無い。女児の声である。妙に掠れているのは、電波状況が悪い所為か、それとも、元来こう言う声なのか……リグルには分からない。
「ここは、どこ?」
「分からないよ」
ラジオを乗っ取った犯人は複数いるようで、呑気に雑談をしている。
がくがくと震える膝を制そうとするが、叶わない夢である。立っていることが困難になったリグルは、椅子の背もたれに捕まって何とか直立の姿勢を保つ。
「私達の森は、どこへ?」
この一言が、リグルの胸中に漠然とあった予感を、確かなものへと変えた。
「こいつら、妖精……!?」
リグルは夢中で電話へ向かい、文へ繋がるダイヤルを回した。その間も、ラジオの向こうでは、妖精達が何やら話をしているのである。
「森へ帰りたい」
「眠りたい」
「こんな所は嫌」
「ねえ、もう帰ろうよ」
「森を返して」
「森を壊しちゃいけないのに」
「あーあ」
「なんか苦しい」
放たれる一語一語が、鈍な刃物のように、リグルの心に無理矢理突き刺さってくる。傾聴する意志など無いのに、厭に耳朶に響いた。
「もしもし?」
文の声が聞こえただけで、リグルは何だか救われた気分になった。今も昔もいけ好かない奴であるが、この時ばかりは非常に心強い支えとなってくれた。
「あ、文さん? そちら何とも無いんですか?」
「何が……?」
「ラジオです。妖精が」
そう言った瞬間、受話器の向こうでけたたましい爆音が響き渡ったのが、リグルにも分かった。
「文さん? どうしたんです?」
リグルが問うのだが返事は無く、その内電話は切られてしまった。
リグルは居ても立ってもいられなくなって、大急ぎで家を出て、かの展望台の平地へ向かった。大妖精が目覚めた時、世界の有様を見せた、あの平地である。
そこから街を見下ろし――絶句した。
街の中心部から、黒い煙がもくもくと上がっているではないか。
*
街は混迷の極みにあった。
一体どこから湧いてでたのか、汚泥のような色の肌をした小さな人型の者が現れ、無法の限りを尽くし始めたのである。
まるで羽虫のように湧いて出て、破壊の限りを尽くしている。
背中に生えた羽の質感や、その矮躯から、ほとんどの者は一目で、それが妖精だと見抜く。妖精を知らない世代の人間や妖怪は、その正体を掴めず、この湯水よりも突発的に湧いて出た生物に、ただただ恐怖しているのだが、正体を知っている者も、知っているなりの恐怖がある。
――どうして妖精が?
――今までどこにいたのだろう?
――何故こんなことを?
――ああそうか、これは復讐なのか!
――世界創造の犠牲となった妖精は、今の繁栄した世界が気に入らないのだ!
妖精を知らぬ者は逃げ惑い、妖精を知る者は許しを乞うた。抵抗する勢力は僅かであった。と言うのも、妖精はどちらかと言えば、人や妖怪などの生き物より、車とか建物なんかの破壊活動に勤しんでいるからである。こちらから手を出さない限りは見逃して貰えると知った群衆のほとんどが、退避と言う手段を選択したのである。
喧騒、怒号、砂塵、火の粉――破壊活動による副産物に囲繞された、地獄の様相を呈している街の中を、悠々と歩く少女がいる。長い緑色の髪。土で汚れた衣服。その小さな腕で、干からびた泥の様な色の髪をした少女を抱いている。
混沌の渦中に翻弄され、死んでいく街をぐるりと眺め回し、薄っすらと笑みを浮かべた。
「こうしていれば森は戻って来るのかしら?」
白々しく嘯く。
大妖精は知っている。こんな風に都市をぶち壊してみた所で、残るのは瓦礫の山くらいで、かつて彼女ら妖精が愛した瑞々しい緑の森が戻ってくることなど無いと。
しかし、彼女は仲間達の動向を見守ることにした。折角、生を受けて帰って来た彼女らにとやかく言うことは無い、好きにさせてあげようと決めたのだ。
何せ、久しぶりに会えた仲間達は皆、一様に短命であったから。
理由は単純明快で、自然が足りていないだけのことである。
純粋で清澄な自然を無くして、妖精は存在できない――大妖精自身はこの塵界に長く身を置きつつもなんとか生き長らえているが、他の妖精はそうはいかないらしい。少しだけ生き延びてから、苦しげに呻きながら、日光の下に晒したチョコレートみたいに溶けて、泥をぶちまけたような染みになって死んでしまうのである。その染み――死骸と呼ぶべきであろうか――の汚らしさに、大妖精はそれが仲間の残骸と知りながらも、思わず目を背けてしまう。
つまり、それがこの世界の『自然』なんだろう――と、大妖精は察した。
汚泥、ヘドロ、排ガス、廃棄物……繁栄した世界に堆積していく塵や屑。それこそがこの世界に常在している自然なのだ。そんな自然を基にして、今の醜悪な妖精が生まれてきた。
不自然な自然とでも言うべきであろうか――そんな珍妙なものを元に生まれた妖精達は、あり得ない存在であるが故に、ひどくその生命が不安定であり、短命なのである。
どうして今になって妖精が生まれて来たのかは大妖精には分からなかったが、久方ぶりの再会を喜ぶのに細かな理由や合理的な説明など不要であった。現に今こうして、妖精達は生きているのだから、それでよかったのだ。
大通りはあっという間に人気が無くなってしまった。遠くから聞こえて来る群衆の悲鳴なんかが、程良く静寂を打ち消してくれて、何だか大妖精は居心地がよかった。
乗り捨てられた車のボンネットに腰を降ろし、先程から抱いている女児をあやし始めた。
「大丈夫、何も怖くないから」
そう言い、大妖精は子守唄を歌い始めた。逃げ惑う群衆の喧喧囂囂とした悲鳴が、丁度いい具合に唄に重みを与えてくれる。
落ち葉の様に茶けた髪のその妖精の女児も、あまり長くない命なのであろうと大妖精は思った。他の妖精が死んでしまうのも、悲しくないと言えば嘘になるが、抱いているこの妖精の死は、その他大多数の妖精の死と比べて、悲しみが重たい。……大妖精は、この妖精に思い入れがあったのだ。
ボンネットに座っていると、五名程の妖精がそそくさと歩み寄って来て、一緒に唄を歌い始めた。
「まあ、みんなも歌ってくれるのね」
妖精達の合唱が、朽ち果てた街中に響き渡る。狂いに狂った音程と、掠れ切った歌声――それでいてリズムだけはぴたりと合っていて、皆楽しそうなものだから、そのギャップがまた一層不気味である。
そんな具合に楽しく合唱をしていたのだが、不意に大妖精が歌うのを止めた。それに倣い、集まって来た妖精達もぴたりと歌うのを止める。大妖精の険しい顔を見て、妖精達もその視線の先を見やる。
一人の女がいた。
妖精達はさっと散開して、大妖精を中心にして放列を成し、女に無感動な眼差しを送る。
妖精達の視線に射止められた女――射命丸文は、その薄気味悪さに思わずたじろいだ。自我を持っているだけの人形に睨みつけられているような感覚がするのである。
ボンネットに腰かけて脚を投げ出している大妖精と、それに抱かれている妖精の子ども以外、皆服を着ていない。その手にはそれぞれ、鉄パイプ、割れた酒瓶、角材、手頃な大きさの石、木の棒などと言った、何やら物騒なものが握られている。
「お久しぶりですねぇ」
先に声を掛けたのは大妖精であった。五名の妖精の間から覗かせているその顔は、どこか苦しげで、しかし朗らかだ。
文は訝しんだ。彼女の知っている大妖精と、雰囲気がまるで違うからである。体は幼いのに、醸し出している雰囲気は母性に満ち溢れ、まるで大人の女である。
「ええ、お久しぶりです」
文は落ち着いて返事をする。
「まあ、私は山であなたを見ましたけどね」
リグルの家に訪問した時だろう――と文は察した。
しかし、そんなことは今の彼女にとって至極どうでもいいことである。
「あなたはどうして、今の幻想郷へ蘇ったのです?」
文の問いに、大妖精は答えないで、抱いている女児の髪を撫でている。髪質はよろしくないようで、絡めた指に度々髪が引っ掛かり、その都度抱かれた妖精は痛そうに目を瞑り、大妖精は小さな声で謝った。
返答が無いので、文が話を進めた。
「本当にあなたは、チルノさんに凍らされて……?」
「あら、どうしてそのことを?」
大妖精は心底驚いたようで、手元に落としていた視線を上げたが、少し考えてすぐに自己解決したようである。
「ああ、リグルさんに吹き込まれたんですね。ふうん。何だかんだ言って、結局あの人も今の世界が好きなのかしら」
忌々しげに眼を細め、大きなため息を吐いた。
それから文を毅然と見つめ、強く頷いた。
「まあ、恐らくその通りです。私はチルノちゃんに凍らされ、自然解凍する形でこの世界まで生き延びました。他の妖精は自然の消滅に伴って死んでいきましたが、私は清純な自然たる氷の中で難を逃れたのです。……リグルさんからの受け入りですが、そうとしか考えられません」
「妖精は消滅していないではありませんか。一体どこに隠れ住んでいたのですか?」
「妖精は確実に消滅していましたよ。私が起きた時、誰も傍にいなかったし、山にもいませんでした。あなた達のお陰でね」
言い終えてから、大妖精は凶暴な笑みを浮かべた。爪と牙があればすぐにでも飛び掛かってきそうな気配を感じ、文は思わず身構えた。長らく平和な世界に身を投じてきた彼女が、餓狼よりも性質の悪いこの妖精に対してどれ程の抵抗ができるかは定かではなかったが。
「見てくださいな、この可哀想なみんなの姿を」
そう言い、大妖精は片腕で女児を抱きすくめ、もう片方の腕をうんと広げ、緩やかな曲線を描いて横並びになっている妖精五名を強調した。
「これが現世の自然を具現した姿ですよ」
「現世の自然の具現……?」
文が復唱する。大妖精は頷いた。
「そうです。あなたでも分かるでしょう?もう、醜いと言ったらありゃしない」
文は注意深く、無表情で大妖精を護るようにして並んでいる妖精達を改める。
なるほど、醜い――純粋にそう感じた。
不健康そうにパサついた髪の毛、やせ細って肋骨が体表に浮き出た腹、小枝のような腕に脚、どんよりと曇った瞳――記憶にある太古の幻想郷の至る所を飛び回り、快活に駆け廻っていた妖精達とは似ても似つかない。
「こんな薄汚い環境の中では、妖精は本来生きていけない。だから皆、住処の森を奪われて死に、姿を消していたんです。今はどう言った訳か、こんな形ではあるけれど、蘇っていますけどね」
「しかし、あなたは元の姿のまま生きているではありませんか。どうしてです」
文が言うが、これについては大妖精もお手上げと言った感じに、眉を潜めた。
「そんなことは私が知りたい。ねえ、この世界は便利なんでしょう? そういう疑問に答えたりできないものなんですか?」
できないんだろうなあ――冷笑の後に付け加えられた大妖精の声色は、多分に嘲笑の念が含まれている。多大な犠牲を払って創り上げたこの世界の不完全さを嘲笑っている。
その創造の一端を担った射命丸文としては、創ったものを嗤われっ放しでは、些か腹立たしくある。だから、分からないなりに思慮を巡らせ、何か尤もらしい推論を述べようとしたのだが、
「まあ、どうでもいいですよ、そんなこと」
大妖精が話を打ち切った。
「それで? あなたは私に何か用でもあるのですか?」
ボンネットに腰掛けたまま、大妖精が問う。ようやく腕の中の妖精の髪が納得いく形になったようで、手悪さは止めている。
文が瞬時に取り留めない思考の海から脱した。
「街を壊すのを止めなさい」
「私は何も壊していませんよ」
「じゃあ仲間達の活動を止めさせなさい」
「私が言って止めてくれるかどうか。みんな自由で活発だから」
そう言い大妖精は、立ち並ぶビルの向こうから上がっている火の手に目をやり、薄っすらと微笑んだ。大嫌いな世界の崩壊が、嬉しくて堪らない様子だ。
「今くらい私達の意思を尊重してくれてもいいではありませんか。――前は完全に無視したのですから」
そう言うと大妖精は、抱いている妖精に目を落とし、ふっと微笑んだ。
「ねえ、チルノちゃん」
文の表情が変わった。
「チルノ?」
話をしている相手や、今自分が立っている状況の危険性も忘れて、大妖精が放った一言に食い付いた。
妖精と言う種族に滅亡と言う仕打ちを仕掛けておきながら、図々しく頭の片隅に残し続けてきた懸想の妖精――その名を、大妖精は確かに呟いたから。
「どこにチルノさんがいるのです?」
大妖精は顔を上げ、またも嘲りの笑みを浮かべる。
「この子ですよ」
そう言って、抱いている、かの汚らわしい妖精を差し出して見せる。妖精は大きな目玉をぎょろりとさせて、文を見つめる。
「それのどこがチルノさんなのです」
文が些か語気を強めて言う。愛しの妖精を、目の前の汚らわしい襤褸人形の様な妖精と一緒にされては堪ったものではない――と言った様子である。
大妖精は臆することもせず――いやいや、臆するどころか、逆に文を馬鹿にしたような声色でけらけらと笑った。
「やっぱりあなたの愛情なんてそんなものだったんですね」
「何ですって?」
「正真正銘、この子はチルノちゃんなのです。遥か昔の幻想郷で消え去ってしまったチルノちゃんが長い長い『一回休み』を経て復活した姿。こんな汚らわしい世界じゃ、チルノちゃんは昔の姿になれないのですよ。……まあ、外見でしか個人を判別できないあなたには一生分からないのでしょうけど」
二人の険悪な雰囲気に触発されたのか、大妖精の腕に抱かれた“チルノ”は、ぐずぐずと泣き始めた。子をあやす母親のように、大妖精がそれを宥める。
ややあって“チルノ”が泣き止んだ所で、大妖精はじろりと文を睨み付けた。
「そろそろ私の視界から失せてもらえます? 私はあなたの顔なんて見ていたくないのです」
疲弊と消耗に冒されて少々やつれ気味の顔は、土や泥による野性味溢れる装飾も相まって、野獣のような凄みがあった。文からすれば、現在対峙している大妖精は、もはや太古の妖精とは似て非なる存在であった。言い知れぬ威圧感にすっかり圧倒されている。
だからと言ってここで退く訳にもいかない。文は首を横に振って見せた。
「そうはいきません。あなた方妖精が、街に対する破壊行動を止めない限り、私はここを引く訳にはいかない」
「だから、私が指示している訳じゃないんですってば」
苛々した様子の大妖精の口吻。
「みんなが勝手にやっているだけ。そして私が止めた所で止めもしません。私も止めるつもりはありませんし」
「どうして妖精達は街を壊すのです」
「きっと自然を探しているんですよ。この不自然を壊せば自然が蘇るかもしれないと懸命になっているのです。みんな妖精ですから、あの素晴らしい大自然に帰りたがっているんですよ。あなた達が無慈悲に奪い去った、あの大自然にね」
大妖精が一息に言うと、放列を成して並んでいた妖精達がこくこくと頷いた。大妖精の言葉を理解し、同意を示したのである。
先程から大妖精を見ていて文が感じ取っているのは、この大妖精は妖精達の長のような役割を果たしていると言うものである。大妖精を中心として、妖精達は行動している――そんな印象を受けた。これと言った指示も無しに妖精は大妖精を守護するように並んでいるし、自然と彼女の周りには妖精達が集まって来る。核は大妖精である――と言う憶測に自信はあったが、核であると言う自覚が大妖精自身には無いと言うのが、憶測を確信に変えることを阻害している。
「……去ってはくれないのですね。それじゃあ、みんな」
痺れを切らした大妖精が、ピッと射命丸文を人差し指で指示した。
「こいつ、殺せる?」
いつの間にかわらわらと集っていた妖精達に、大妖精が問い掛ける。
妖精達は一も二も無く頷いて見せた。大小や開閉具合も様々な双眸が、じろり、じろりと文の方を向く。無音、無声、無感動な殺意が文の身体をびしびしと打ちのめす。思わず文は身構えた。相手がいくら出来損ないの妖精といえども、数があまりにも多く、それでいてその手には様々な凶器が握られている。一筋縄ではいかないことは明白であった。
ボンネットに腰掛けている大妖精は、ピンと人差し指を立てて伸ばしていた腕をゆっくりと自身の傍へ降ろした。
はぁ――と一つ、だるそうにため息をついた後、
「やっちゃって」
他者の命を奪おうとする所業の開始にしては随分軽々しい号砲を発した。
それを聞くや否や、大妖精を取り囲んでいた不自然から生まれた生命達は、聞くに堪えない叫び声を上げて、鴉天狗目掛けて一斉に飛び掛かった。
空を飛ぶ機能が残っていれば、これらを撒くのはまだ楽であったかもしれないが、幻想らしい幻想を失った今の幻想郷に馴染み切った射命丸の体は空へ飛ぶ機能が失われている。
使わなくなってすっかり錆付いた白兵戦の技術。咄嗟に出たのは防御行動であった。相手は凶器を持っていると言うのに。
持ち上げた脚。その膝頭に、割れた瓶が突き立てられた。細長い瓶の首を柄の様にして放たれた、その一撃だけで、文はほとんど機動力を奪われてしまった。
かくんと地面に膝を付くや否や、頭部を木材でぶん殴られた。
仰向けに倒されたが空は見えなかった。無感動な面持ちのまま、指示されるがままに、自分に止めを刺そうとしている妖精の群が、視界を覆い尽しているのである。
各々が持ち合せている様々な凶器が、文の体を容赦なく打ちのめす。凶器を持たぬ者は踏みつけたり蹴ったりして、暴行に参加している。妖精達の不気味な咆哮は止まない。まるで皆、その声に触発され、便乗して騒いでいるようにも見えた。
やはり、妖精は妖精なのかもしれない――薄れて行く意識の中では文はこんなことを考えた。幼い妖精達にとって、これもまた遊戯や祭事の一環でしかなく、皆、騒ぎたいように騒いでいるだけなのかもしれない、と。
耳を聾する妖精達の叫び声の合間から、小さな笑い声が聞こえた。大妖精の腕の中から聞こえてきたのが分かった。
――ああ、チルノさんが、わらっている?
どうせ最期になるであろうから、愛しの妖精の笑い声を聞いておこうと、文は努めてそちらに耳を傾けていた。やかましい妖精達の叫び声の間隙を縫い、懸命に“チルノ”の笑い声を聞こうと努めた。
刹那、妖精達の織り成す狂気の大合唱がピタリと止んだ。
邪魔な音は消えたが、“チルノ”の笑い声も聞こえなかった。
何が起きたのだろうと、文は全神経を耳へと集中させ、辺りの音に気を配る。
パァン――と、乾いた音が聞こえた。
銃声である。
次の瞬間、妖精達が再び何やら騒ぎ立て始め、文の元を離れて行ってしまった。
一体何が起きたのか、直後に文は気を失ってしまったので、確認することは叶わなかった。
*
妖精達の復活及び破壊活動は、マスメディアを通じて大々的に報道された。とは言っても、そういった外界的技術が蔓延しているのは、天狗達の本拠地を中心としたあの都市だけであるから、いちいちそんな風に報道せずとも、ほとんどの者がこの妖精達の暴虐を目の当たりにし、経験し、被害を被った訳である。外界化と言っても、まだまだ幻想郷は発展の最中だ。外界に準えて、仮初の繁栄をしているだけに過ぎないのである。
リグル・ナイトバグが仕事の合間を縫い、入院中の射命丸文の元を訪れた。妖精達に暴行を受け、一時は意識を失う程の甚大な傷を負ったが、奇跡的に回復し、現在の経過は良好であると言う。
病室に入ると、そこには多々良小傘の姿もあった。学校の帰りか、それとも怠けて抜け出してきたのか、大きなかばんを背負っている。
「ああ、リグルさん」
小傘が椅子を立ち、頭を下げる。リグルは会釈でそれに応え、次いでベッドに横たわっている射命丸文へと視線を向ける。妖精から受けた暴行の傷はまだまだ癒えておらず、包帯などの処置が痛々しい。
見舞いの品である果物をベッドの脇の棚に置くと、小傘が勧めた椅子に座り、またまたまじまじと傷だらけの文を見やった。
「こっ酷くやられてしまいました」
文はおどけた様子で言った。
この三人が集ったとなれば、話題は当然、妖精のことになる。
「あれから妖精の目撃情報はあるんですか?」
初めに小傘が問うた。リグルが首を横に振って答えた。
「一件も無いよ。みんないなくなってしまったみたい」
「そうですか」
質問しておきながら、小傘の声色は淡々としている。何となく、問いの答えを察していたのであろう。
数日前に起きた妖精達の破壊行為を思い出され、三人はすっかり押し黙ってしまい、病室に重苦しい沈黙が漂う。
こんな状況で、こんなことを言ってもいいものだろうか――と、小傘は少し迷ったのだが、意を決したように一人でこくりと頷いた。
行動を起こした小傘に、二人の視線が集中する。
「私なりに、あの緑の髪の妖精について考えたんです」
小傘はこう切り出した。リグルも文も、黙って視線だけを送り、先を促した。
その視線に後押しされたようで、小傘は訥々と、自身の憶測を述べ始めた。
「あの妖精は、昔の幻想郷では大妖精と呼ばれていたそうです。他の妖精より少しばかり体が大きく、僅かながら力も強かったから」
「うん。それは聞いたことがあるわ」
リグルが賛同した。次いで文も黙ったまま頷いて同意を示した。
「あの緑の髪の妖精――便宜的に大妖精と呼ばせて頂きますが、大妖精が死した時、骸に周りの妖精が集まってきていたみたいです。倒れて動かない大妖精を仕切りに揺り動かしていたと。妖精達は、大妖精の死を恐れたか、嘆いたかしていた……と言うのが、目撃者の語る所なのですね?」
小傘がリグルの方を見やる。リグルははっきりと首を縦に振った。
ありがとうございます――と呟き、次いで小傘は文の方をちらりと見やり、言葉を続ける。
「リグルさんがここへ来る前に、文さんとお話をしました。文さんはご存じの通り、死ぬ前の大妖精と面と向かって話をしていたんです。その時の会話によると、大妖精は妖精に破壊の指示を与えていた事実は無く、また、妖精達が現代に蘇った理由も分からないと言っていたそうです」
「ええ」
「しかし、妖精達は明らかに、大妖精を中核として行動していた。文さんも、それから、大妖精を射殺した軍人の方も、このような印象を受けたと証言しています」
大妖精は射殺されていた。
文が大妖精と会話をしている最中から、ずっと遠方から狙っていたのだが、周囲の妖精達が邪魔で、なかなか攻撃に転じることができなかったという。
文への暴行が始まり、護衛が手薄になった瞬間を狙って、引き金が引かれた。銃弾は大妖精の体を貫き、それが致命傷となって、大妖精は絶命した。
「大妖精自身に自覚は無かったけれど、あの子はいわば『女王』のような存在であったことは明確です。撃たれる前も、撃たれた後も、妖精達はずっと彼女のことを気に掛けていた様子ですから」
「女王……ねえ」
蟲の妖怪たるリグルとって、これはなかなか馴染み深く、しかし最近はすっかり疎遠で、懐かしい響きのする言葉であった。
「私は、『母親』って表現したいです」
横から文がぽつんと呟いた。
「母親?」
リグルと小傘の声が重なる。文はこくりと頷いた。
「あの大妖精と言う子は、一人の妖精を抱いていたのです」
ここで言葉が途切れた。嘘か真か、抱かれていた妖精は文の懸想の妖精であったらしかったので、やや感慨に耽ってしまったのである。
すぐに気を取り直して言葉を紡ぐ。
「あの様子は、まるで母親でした。慈愛に満ちていて、優しげで……」
傷が痛むのか、文の言葉数は少ない。
「母親……と言うのもいいかもしれませんね。うん、そちらの方が適切かな」
小傘はうんうんと頷いて見せた。
「適切って?」
「大妖精は、妖精達の母親だと、私もそう思うんですよ」
リグルが首を傾げる。
「母親……。大妖精が妖精を産み出したって言うこと?」
「そうです。ああ、だけど、生物的な繁殖はしないですよ」
小傘は早口にこう注意を加えた。
「妖精達は自然そのもの。自然のある所に妖精は自然と誕生する――と言うのは分かりますね?」
「分かるよ」
「あの妖精達も、そうして生まれてきた者達である筈なんです。現代に昔の幻想郷のような自然が残っているのか、と疑問を抱くかもしれませんが……」
ここで小傘は言葉を区切り、横目で文の方を見た。リグルも釣られてそちらを見やる。急に語りを任された文は少しだけ驚いた様子を見せたが、すぐに頷いて、開口した。
「あの歪な姿をした妖精達は、現世の自然を具現化したものだと大妖精は言っていました。つまり、今の幻想郷には、昔とは異なった今の幻想郷自然があり、妖精が誕生する素地は出来上がっているということです。ただ、それは不安定で本来の自然から見ればかなり歪なものだから、妖精達も歪んで生まれてきてしまう。そして、その歪んだ命は長くは生きていけないからすぐに死んでしまう……と、およそこんなことを言っていました」
「あの醜悪な妖精達は、奇形児のようなものなんでしょうね」
言下に小傘が付け加えた。
「遺伝子に不具合が生じ、胎内での発育が上手くいかないで産まれて来る嬰児も、極端に短命であったり、死産であったりすることが多々あります。それと同じで、あの妖精達もまた、生きて行く為の身体や機能を持ち合せていなかった……いや、持つことができなかったのでしょう。こんな世界ですから」
微かに自虐の念が感じられる小傘の口調。
黙って話を聞いていたリグルは、
「まあ、大体分かったよ。それはそれとして……」
と、強引に話の腰を折った。
「大妖精が母親って言うのはどういうこと?」
一気に核心へ突いて行く。
小傘が些か緊張したように、わざとらしい咳払いを一つし、椅子に座り直した。
「あくまで私の憶測ですけど……」
と前置きをした上で、小傘が語り出した。
「大妖精曰く、自分が目覚めた時、彼女以外の妖精は周囲に一人としていなかったそうですね? リグルさん、あなたは短い間ではありますが、大妖精と山中の自宅で過ごしていたのですね? あそこは今の幻想郷の中では非常に緑豊かな土地であると思うのですが、どうでしょうか? 大妖精が目覚める以前から妖精の気配などはありましたか?」
リグルは即座に首を横に振った。
「無かった。いるのは野生動物とか、虫とか、そのくらいのものだよ」
「そうでしょう。しかし、現に妖精は現れた。大妖精の目覚めと、妖精の出現の時期はほとんど合致しています。これが偶然だとは、私はどうしても思えないんです」
「なるほど」
リグルが頷いて見せる。
「確かに、あの子は昔の幻想郷でも、他の妖精と一緒にいることが多かった気がします」
妖精に恋していた鴉天狗もこう証言した。
二人の賛同を得られ、自分の憶測に微々たる自信を持った小傘は、うんうんと自身を鼓舞するように頷き、更にこう続けた。
「大妖精自身は自覚していなかったのでしょうが、恐らく彼女は『妖精を産み出す力』を持っていたんです。全ての妖精の始祖……それがあの大妖精。妖精にしては大きめの体と、やや強い能力を持つ由縁でしょう。そしてチルノさんは、大妖精がそう言った能力を持つことを知っていた。確信していたのかそうでないかは、今になっては確認しようがありませんが、とにかく知っていた。そこで、妖精誕生の源である大妖精を氷漬けにして保存し、妖精達の存続を、未来の幻想郷に委ねたんだと思うんです」
「未来の、幻想郷」
物憂げに文が口に出した。小傘が頷く。
「進行形で自然が破壊されて行っている今よりも、未知なる未来に希望を見出したのね」
リグルの脳裏に、呑気かつ豪快に笑っている旧友の顔が過る。いかにも氷の妖精らしい、身の丈に合わない壮大さと、妖精らしい馬鹿らしさを秘めた計画だ――と、苦笑と共に涙が零れそうになった。
文もリグルと同じように、快活な氷の妖精の姿を思い出し、やはり同じような感傷に打ちのめされている。
そんな二人の横で、己が考えを纏めるかのように口を開いた。
「チルノさんだけでなく、妖精は全員、何となく大妖精の能力を知っていたのかもしれないですね。母性と言うか、妖精の始源たる雰囲気を感じ取っていたから、彼女の周りには妖精が自然と集まっていたのかもしれない」
「根拠はあるの?」
こう問うたリグルの声は少々震えている。
「大妖精は、妖精達の破壊活動を指示している訳ではないと言った。妖精達は、妖精達独自の思考回路で破壊活動を行っていた。妖精達が目の敵にして破壊していたのは現代にて開発され、古代の幻想郷には無かったものです。妖精達は科学の粋を破壊することで、自然を発掘しようとしていたんじゃないかと思うんです」
「どうして?」
「母親たる大妖精を生き長らえさせる為」
毅然とした小傘の口調。文もリグルもその覇気に気圧され、押し黙ってしまった。
「母親――大妖精の死は自分達の死。だから彼女を護らなくてはいけないと言う意思、いや、本能が、あの破壊活動を発起させた。大妖精を護るには清澄な自然を手にする必要がある。自然の象徴たる妖精達はこれらを本能的に察したんです」
「清澄な自然、か」
そんなもの、今の幻想郷のどこに残っているんだろう――リグルはそんなことを考えた。強いて言えば自宅のある山の中であろうが、彼女の記憶の中にある太古の幻想郷の大自然と比べても、あんな山はちんけなものである。
妖精が喜びそうな自然なんて――と、辺りを見回したその時、リグルの目に、花瓶に挿されている花が目に映った。目の覚めるような赤色の花、清水を思わせる水色の花、見ているだけで心躍るような黄色い花。
「随分綺麗な花だね。そういうのが、清澄な自然ってものなのかな」
話の流れにそぐわないが、こう言わずにはいられない……それ程に、その花は可憐であった。
その刹那、文と小傘がハッとしたように顔を見合わせ、次いで薄く笑い始めた。
「何がおかしいの?」
リグルが小首を傾げて問う。
「ああ、ごめんなさい。ちょっとね」
文がやや陰りある笑みを保ったまま言う。
「その花を見る人ね、みんながみんなそう言うのよ。綺麗な花だねって」
そう言われ、リグルは自分の目に狂いが無いことを確信し、少し得意な気分になった。
しかし、
「その花ね、大妖精の死に場所に咲いた花らしいのよ」
小傘が告げた花に纏わる陰惨な真相を知った途端に、喜びはみるみる内に萎れてしまった。
「大妖精の死に場所?」
「そう。撃たれて、車から落ちて道路に伏して、それからしばらくして大妖精は息絶えて消えてしまったんだけど……その倒れていた場所、つまりアスファルトね。そこにその花は咲いたらしいの。大妖精の亡骸と入れ替わる形で」
へえ――とリグルは生返事し、まじまじと花を眺める。そんなやや薄気味悪い裏話を受けても尚、やはりこの花は非常に美しい。
「きっと、誰よりも自然に近かった妖精だったんですよ、あの子は」
文がぽつんと呟く。
「遥か昔の幻想郷の自然を内包していたのです。そして死に際にそれが溢れ出て、花を咲かせた。――この花は、凍らされ、護られ続けてきた、幻想郷の過去なのですよ」
――妖精の謎を解き明かすことは、妖精が根絶してしまった幻想郷では不可能となってしまったが、小傘らの憶測に誤りは無い。紛れも無く、大妖精は妖精達の母であり、チルノは未来の幻想郷に大妖精を生き長らえさせる為、彼女を冷凍させた。
大いなる自然の象徴たる妖精の起源である大妖精が今の幻想郷に蘇ることは、もうできない。今の幻想郷に、大妖精が生き抜く為の自然は存在しないのである。
その事実を物語るかのように、花瓶に挿された件の三輪の美しい花は、その後、三日ともたずに枯れ、朽ち果ててしまった。水の量も、日当たりの具合も、知り合いの花の妖怪の教授を得たのに――と、花の世話をしていた看護師たる毒人形は、ただただ首を傾げるばかりであった。
こんにちは。ポップンミュージックにどはまりしているpnpです。
『ムジュラ仮面』の大妖精と、東方の大妖精を照らし合わせて書いてみました。
半年くらい放置し続けていたんですが、いろいろあって完成となりました。
所謂現代パロディ的な世界を描けたことはなかなか楽しかったです。
序盤ボスの魅力は語られていることの少なさから様々な可能性を模索できることだと思っています。
ご閲覧ありがとうございました。
+++++++++++++++++++++
>1 だけど最後は沢山の仲間に看取られた。
>2 幻想郷住民は妖精の『再々生』を恐れ、増々機械化を推し進める。と言う作中では語らなかった設定が。
>3 これ以上世界がよくなることは無いと思うんです。
>4 とりあえず信仰に重きを置いているんじゃないでしょうかね、洩矢さんは。
>6 なんか序盤は読み返していて小恥ずかしかったです。
>7 大妖精冒険譚は書いていて実に楽しかったです。
>8 なるほど、蚊。そういう発想は無かったです。
>9 誤字報告ありがとうございます。
>10 文章褒められると特に嬉しいです。
>12 どういたしまして。
>13 外界は我々の生きている世界とさして変わりません。幻想郷が我々の世界に近づいてきているというだけであって。
>15 語彙は特に修行中でございます。最近劣化を感じる。
>16 僕はここが好きですから。
4件の匿名評価ありがとうございました。
pnp
http://www.pixiv.net/mypage.php
作品情報
作品集:
5
投稿日時:
2012/09/23 23:45:01
更新日時:
2012/10/07 19:48:04
評価:
13/17
POINT:
1420
Rate:
16.06
分類
大妖精
チルノ
リグル・ナイトバグ
多々良小傘
射命丸文
犬走椛
それぞれの『人生』を歩んでいる、元・幻想の存在達。
彼女達の人生に触れたのは、冷凍庫奥に眠っていた賞味期限切れの食材みたいな、幻想の残滓。
冷凍前は美味しかったが、今は危険物。
『彼女』の力が弱まる毎に、別離のきっかけとなる嫌がらせが酷くなっていく……。ああ、そういう訳か……。
『この幻想郷』の妖怪や神様は、こっちのセカイの銃火器で殺れるくらいに、常識に囚われた存在になってしまいましたね。
『彼女達』の刹那の反乱が、この箱庭セカイに変化、あるいは回帰をもたらすのだろうか……。
ラストの一節。これは自然の滅びか、はたまた幻想の復活か……。
汚泥より産まれる奇形の妖精たち。このイメージに圧倒されました。
ここに滅びた大妖精も、さらなる未来には……また、逢えるでしょうか。
私たちも、過去からの復讐者、彼女たちの奔走を止められないだろう。
核より来たる、セシウムの雨に怯える幻想すら蘇った現代に。
遣る瀬無い話ですね
洩矢は自滅的すぎて困る 外の世界と差がなくなったら同じ結末になるだろうに たった四十年程度で妖力が枯渇するとは…
毒人形はもしかしたら「幻想」郷の木で作ってあったのかもしれないね。
>どんなことがあっても、絶対諦めないで。あしたはいい日だって信じて、生きてこうね
「幻想郷」と大妖精を信じたチルノは不屈かわいい!
守谷に何らかの天罰が下るといいですね
俺が幻想郷の住人だったら妖精いなくなるとか蚊や蝿やゴキブリが全滅するのと同じくらい喜びまくるだろうなあ……
などと言いつつも切ないものを感じてやまないのであります。チルノが大妖精を凍らせるまでの流れが
ロマンチックで特に心に残りました。ここまでだけで一つの短編のごとき完成度の高さで、何度も読み返してます。
「日本」は「2本」ではないでしょうか
三妖精の住処の大木は、そのまま残っていたんですね。能力は多少使えていたようですが、不完全な状態であの三人が近代化した幻想郷に戻り、大妖精を救うために行動し、最後は尽き果て死んでしまったと思うと、個人的にはものすごく胸が詰まってしまいました。
自然も文明も「幻想」になった世界か…
同居している男女が気まずくなっていくのを見る様で、思わず嫌な笑みがこぼれます。
畜生・・・面白い・・・語彙が多いのは相変わらずか・・・
余りの面白さに深夜徘徊してしまった。それ位中盤が面白かったです。
くけくけくけくけ。
言わせて頂くと投稿する場所を間違えているのではないでしょうか?
(といってもあそこだと・・・シリアスはhappyエンドしか妥当な評価はされないか・・・・・・)