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『産廃SSこんぺ 「姉妹あるいは不治の病」』 作者: ひかがみ
「今は昔のお話です。海の果ての小さな国に、一人の王様がおりました。髪に白が混じる年になっても妻子を持たず、親友は言葉を話す卵の紳士だけという、一等変わった王様でしたが、毎日夜が更けるまで、物知りな卵の紳士と語らい歌い、幸せに暮らしておりました」
○
窓の向こうは雨だった。絶え間なく降りしきる水のとばりの下で、微かに震えている秋夜の大気は、時折悲鳴にも似た高音のいななきになり、かと思えば身を縮こめるような低い囁きの渦になり、それとともに部屋へ流れ込んでくる冷気はそこかしこで縺れ合い、絡み合って、肌に纏わりつこうとする。隙間風とも亡霊ともつかない、そのじとついた感触を頬に受けながら、古明地さとりは募り始めていた苛立ちを新たにした。
「早くしなさい」と足元に声をかける。
床にぺたんと尻をつけ、左足の靴下を脱ぎかけていた姿勢のまま、妹はベッドの上のさとりを見上げた。明らかに棘のある姉の声音だったにもかかわらず、励ましの言葉でも貰ったかのようにゆるゆる微笑みを浮かべて頷くと、外した靴下を脇に置く。そうして一歩、さとりのほうへいざり寄り、一糸纏わぬ姿になった己の全身を姉の目に晒してみせる。
室温が高いと頭痛がしてくる自分のために、絨毯も暖房も置いていないこの部屋の床は、丸裸のこの子にはさぞ冷たいだろうとさとりは思う。冷たいばかりでなく、針を突き立てられるような疼痛が肌中を苛んでいるはずだった。さとりは咥えていた煙草を灰皿に捨て、新しい一本を取り出して火をつけた後、「全部脱いだわね」と素っ気なく言い、妹の体を見下ろした。
服の下のその肢体には、無数の瑕疵が刻まれていた。小指の爪くらいの物もあれば、人差し指ほどの物もある、それら大小様々の傷は、大半が火傷と青痣で出来ていた。火傷の跡にはなめした皮革のような光沢がつき、それに引っ張られるようにして周囲の皮膚が縮み、弛んでいるために、何十という皺が彫り込まれており、そこへ黒々とした痣が連なって滲んだ妹の肌は、病みやつれているようにも、老い衰えているようにも見える荒みぶりだった。
「うん」と応じて膝立ちになった妹の、数少ない綺麗な部位である乳房や秘部もまた、さとりの目には剥き出しになって見えているが、妹自身はそれを恥じる風もなく、ただにっこり笑って自分の言葉に追従するのみだ。さとりはもう一本、苛立ちの熾き火に薪をくべ、その勢いで「もっと近くへ」と妹に手招きをし、それに従って自分の足先へ跪いた妹の胸に、吸いさしの煙草を押しつけた。「ひっ」という痙攣的な悲鳴が上がり、妹の目からはたちまち大粒の涙が零れて頬を伝う。だがその顔に、涙の量に見合うだけの苦痛の色は差しておらず、一瞬ひそめられた眉もすぐにほどけて元の笑顔に溶けていき、後には能面が涙を流しているかのような、ひどく不自然な泣き笑いの表情が残った。
「こいし」
「はい」
「どうして貴女は今、裸になっているの」
「えっとね」と、妹は愛想よく答える。「お姉ちゃんがお仕置きしやすいように」
「そうね。じゃあどうして、貴女はお仕置きされているの」
「門限を破っちゃったから」
「そうよ。いい子ね」そう言って頭に手を置くと、妹はたちまちにんまりし、頬をすり寄せてこようとする。それを邪険に振り払い、今度は煙草を骨の突き出た肩に当て、皮膚の焼ける仄かな匂いとともに部屋を転がっていく妹の呻き声に重ねて、「じゃあ、どうして笑っているの」と静かに質す。
「え?」
「叱られているのに、何が可笑しいの」
「えっと」妹は数秒さとりを見つめ、「ごめんなさい」と頭を下げる。
「謝れなんて言ってないでしょう? 何が可笑しいの、と訊いたのよ」
刺激に反応して溢れてくる涙をそのままに、妹は途方に暮れたような格好でしばしさとりの顔に視線を置いていたが、やがて再度「ごめんなさい」と小さな声を洩らしてこうべを垂れた。その頭を、無理矢理髪を掴んで上げさせるや否や、突如噴き出してきた憎悪の波に身を委ね、さとりは妹の腹へ思いきり蹴りを入れた。抵抗のそぶりも見せずにそれを受け止め、激痛に耐えかねてその場に蹲った妹を「このグズ。人の話もろくに聞けないのね」と詰り、たがが外れたまま胸を突き破るような激しさで逆巻く感情の濁流を持て余した挙句、続けて二度、その脇腹を力の限り蹴り飛ばす。
そうしながらも、頭では理解しているのだ。妹がもはや笑顔しか作れないことを。今では怒ることも悲しむことも喜ぶことも出来ない妹の、絞りかすのような心の名残りが笑顔なのだということを。目を閉じ、心を封じ、右も左もない盲の無明を彷徨う妹に残された、これが最後の表情なのだということを。
しかしそんな心咎めも瞬く間に立ち消えてしまい、最後はただ、五百度の直火を皮膚に焼きつけられ、痣だらけの腹に加減なしの一撃を加えられた妹の、負の感情が一切窺えない目盛りの狂った笑顔を前にした、条理以前の生理的な嫌悪感に満たされるだけだった。呼吸するたびに苦痛のさざ波が立つ妹の背中がふらりと起き上がり、そこから息が洩れるように発せられた「お姉ちゃん」の一言に、「どうしたの。苦しいの」と返してさとりはその顎を持ち上げた。
「わかんない。痛いの」
「どこが」
「いろんなとこ。じくじくするの」
「痛いのはいや? やめてほしい?」
「ううん」妹はすかさずかぶりを振る。「そんなことないよ」
「痛いんだったらやめましょうか」
「違うよ、痛くないよ。もっとして下さい」
そう言い募る声色にはしかし、何らの期待も、まして何がしかの絶望も含まれてはいない。そこに妹の意思はない。あるのはかつて姉に抱いていた感情の残滓に過ぎず、心を失くした妹は、己が虐待されていることなど知らないのだ。こうすれば姉が相手をしてくれる、話をしてくれるという、ほとんど本能的な条件反射で自分に従っているだけなのだと、さとりは絞って捨てるほど繰り返してきた述懐をあらためて巡らし、再び臓腑をねじり上げられるような憎悪の発作に駆られた。
「何それ。媚売ってるつもり?」と、枯れ枝じみた妹の手首を握って斜にひねり、有無を言わせず煙草を押し当てた二の腕は、見る間に赤く腫れ上がっていったかと思うと即座に破れて血が吹き出す、まるで人間のそれのような、まさしく枯れ枝の脆さだった。そうまで妹の皮膚が弱くなった原因が、長年に渡る自分の虐待にあることを思うと、一瞬、快感からも満足からも遠い暴力の、残尿めいた据わりの悪い陰影が脳裏を過ぎっていったが、その不快感とて元はこいつのせいなのだと思えば、手は止まらなかった。
「その気持ち悪い笑い顔、やめなさいって言ってるでしょう」
「ごめんなさい」
「痛いならちゃんと痛がりなさいよ。泣くならちゃんと泣きなさいよ。貴女の顔見てるとむかつくのよ。いつもいつもへらへら笑って、自分にはもう悲しいことも苦しいこともないんだって当てつけてるの? ねえ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。私が悪いの……」
そうだ、悪いのはお前。みんなお前の自業自得でしょうが。目を閉じたのも心を失くしたのも、すべてお前がしたくてしたことでしょう。自分の甘えた心を勝手に閉ざして姉を捨てておきながら、毎日のうのうと飯を喰い、好きな服を着、行きたいところへふらふら出かけていっては門限ひとつ守らず我が物顔で帰ってくる。そんなお前のどこに同情の余地がある? 理解の余地がある? 心の通じる余地がある?
そう思うと、感情の丈が一息に湧き上がり、燻っていた熾き火が腹の中で一斉に爆ぜる音を聞き、燃え上がった情炎に、自制や理性が一絡げに溶かされていくのをさとりは感じた。気が付くと、語気を緩めて「はい、あーん」と妹に向かって口を開けてみせている自分がおり、「あーん」と素直にそれを真似た妹の口へ、火がついたままの煙草を突っ込んでいる自分がいた。途端に妹は「えげぇっ!」と濁音を洩らし、胃液ごとそれを吐き出すなり、肺が破裂しそうなほどしたたかに咳き込み始める。
「ねえこいし。私は、貴女の何?」
「お姉、ちゃんは」ひゅうひゅうと壊れた排気管のような音を立てる喉から、妹はかすれた声を絞り出した。「お姉ちゃん、だよ」
「お姉ちゃん。あはは。何がお姉ちゃんよッ! そのお姉ちゃんを裏切ったのは誰? 見捨てたのは誰? 私のことなんてもう何も分からないくせに、今さら妹面するな、グズ! 出来損ないのあばずれ女! 目ぇ閉じる前に死ねばよかったのに。なんでまだ生きてるのよ、貴女。悪いと思ってるならここで死んでみなさいよ。出来ないくせに。何も出来ないグズの妹を抱えた可哀想な姉の気持ちなんか、想像もつかないくせに!」
緩やかに強まっていく夜雨の隣で、言葉もまた降り募るばかりだった。
○
「あるとき、王様と卵の紳士は喧嘩をしました。王様は冗談を言ったつもりでしたが、紳士はそれを、卵に対する蔑みの言葉と受け取ってしまったのです。紳士はステッキも忘れて宮殿を飛び出していきました。王様が追いついたとき、紳士は塀を乗り越えようとしているところでした。しかしてっぺんに立った途端、吹き寄せてきたそよ風になぶられて、彼の丸い体は真っ逆さまに転がり落ち、粉々に砕けてしまいました」
○
耳鳴りではなかった。ああ雨かと思い至り、さとりは椅子の背に凭せかけていた頭を、低血圧の眩暈が出ないよう慎重に起こした。目は機械的に壁の時計へ流れていったが、午後九時十三分の表示を見ても、いつから眠っていたのか分からない体には眠ったという実感もなく、節々にわだかまる疲労の重みは、むしろ増しているようでもあった。さとりは数度しばたたいた目を今度は背後に向け、そこに突っ立っている霊烏路空に「ごめんなさい、うたた寝してたみたい」と声をかけた。
「あの、お返事がなかったので、勝手に」空は姿勢を正し、手にしている盆を持ち直してさとりの横に立った。
「いいのよ。ありがとう」と空から紅茶のカップを受け取り、次いで手渡された紙一枚をとりあえず机の上に置いたさとりは、「雨、降ってきたわね」と、言わでもの無駄口を叩く自分の声を、半覚醒のぼんやりした頭で聞いた。
「そうですね。いきなり降られると困ります。洗濯物が濡れちゃうし」
「たくさんあるものね」
「はい。あ、でもさとり様のお洋服は無事ですよ」
「私はどうせ外に出ないから、構わないけど」
「それもそうですね」と空は真顔で頷く。感じたことを感じたまま口にする空の物言いは、ときにこうして不躾な形で現れてくるが、他のペットたちが自分に気を遣って吐く言葉の、思ってもいないことを無理にひねり出した跡がありありと残る、あの空疎な恭しさの不快感よりはマシだった。
「空」
「んにゅ?」
「何か、外の話をして頂戴」
「はい」と、空は主人の眠気覚ましに快く応じた。「外は、今は紅葉が綺麗です。木の下でご飯を食べてる人がいっぱいいます。でもそういう風に食べるの、私は好きじゃないな」
「どうして?」
「弁当の中に落ち葉が入っちゃうから」
「確かに」さとりは唇だけ曲げて薄く笑ったが、続いて空が「そういえば」と思い出したように窓のほうへ首を巡らし、「こいし様、ちゃんと傘持っていったかなあ」と零すのを聞くや、まったく頭の外にあった妹の名が束の間、下腹を撫ぜるように心をざわつかせ、形ばかりの笑みも二秒と保てず、それを誤魔化すつもりで下げた視線は机上の紙へ向かう他なかった。
「それ、今月の収支報告書です」
「備品の支出が多いわね」
「ゲートバルブが故障しちゃって。新しいのに買い換えました」
「そう」
手書きの文字列の上で目を滑らせながら、興味もなければ文句もない報告書の、大して多くはない項目に逐一目を通す気力すらないことに気付き、さとりはちょっと白けた気分に陥った。備品がひとつ壊れたからといって地霊殿の懐が揺らぐことなどあり得ないし、万一揺らいだとしても、端からほとんどすべての仕事をペットたちに任せている自分に、今さら小言を垂れる筋合いはなかった。
そうして実生活の煩事を丸投げしてきた自分が、では代わりに何を得たのかと言えば屑のような時間の山だけで、あり余った無為の一日が今日もまた終わろうとしていると思い、虚しい虫喰いの穴がひとつ胸に開いたような心持ちで空に紙を返し、気だるさに抗しかねて再び目を瞑りかけたとき、ふと空が「綺麗ですね」と呟いた。
「ん? 何が」
「お花」と机の隅を指差す。質素な花瓶に活けてある、名も知らない一茎の花にさとりも目をやり、そういえば一度も水を替えていなかったなと思い出し、そもそもこんなものがあったことさえ忘れていた、などと考えてみた後でようやく、「ああ」と気のない返事が出た。
「こいし様が持ってきてくれたんですか」
「ええ。あの子は花が好きだから」
いや、好きだったから、だ。
「そっか」空は微笑して、「じゃあ、私はそろそろ」と腰を屈める。「あ、お茶は」
「自分で片すから、いいわ」
「そうですか。それじゃ、お休みなさい」
一礼して空は去り、ドアの開け閉てされる軋みの後には、嘆息めいた雨のさざめきが部屋に響く物音のすべてになった。さらにひとつ、虚ろな思いを重ねてさとりは眠気に身を預けたが、垂れてくる瞼のカーテンの隙間から、不意に妹が持ち込んだ花瓶のくすんだ模様がちらつき、萎びかけた花弁の赤色が瞬いて、九時十三分という時刻が再度頭を過ぎったとき、あの子はまだ帰っていないのだと思考が焦点を結んだ。それを飲み込んだ胸から、今度はじくじくと苛立ちが滲み出てくる。
と同時に眠気はあっという間に失せてしまい、不本意に叩き起こされでもしたかのような後味の悪い覚醒の感覚を拭うために、ひとまず灰皿を引き寄せると、さとりは何も考えずに煙草を吸った。それから引き出しを開け、中に積まれている紙屑の山から一束の原稿用紙を抜き取る。
先日書き上げたばかりの、五十三枚の短編だった。内容は、我ながら下らないとしか言いようがないどこかの姉妹の青春劇。どこにでもいる姉妹の、どこにでもある人生の挿話であり、どれだけ災禍が続いても、最後には幸福な結末が約束されている空想であり、自分と妹には決して渡ることの出来ない無辺の川を一条隔てた、絶対的に遠い世界の物語だった。
さとりは一枚一枚向きを揃えたその束を、端から順に破り捨てていく。これまで書いた何十編という小説をひとつ残らず処分してきたこの手に、躊躇いはもはやなく、ほら、お前の無為の結晶が屑芥に変わっていく、と胸に呟いてみても、いや、結晶ではなく老廃物だという陰気な答えが返ってきては、駄文を惜しむ気持ちより、こんな温水のような夢物語を書き続けている自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られるのだった。
そうして一時、何の益にもならない自傷行為に没頭していたさとりの耳は、半秒遅れて、ドアを控えめにノックするその音を聞き留めた。「どうぞ」と自動的に答え、振り向いた目に、帽子を抱いた小さな胸と髪と顔が映り込んでくるが早いか、手は無意識に用紙の残りをくしゃりと潰し、屑籠へ投げ捨てていた。
「お姉ちゃん」と妹は笑う。「ただいま。ごめんなさい、遅くなっちゃった」そう言ってこちらへ歩いてくる足取りは、いつも通りの跳ねるような軽やかさだった。
「今日はね、上に行ってきたの。妖怪の山までお散歩したのよ。紅葉がたくさん落ちてて綺麗だったよ。お姉ちゃんにも見せてあげたかったけど、ポッケに入れるとすぐぼろぼろになっちゃうし、スカートに集めても風で飛んでっちゃって、やっぱり持ってこれなかった。だけど旧都でも紅葉は見つかるってお燐が言ってたから、今度は綺麗なままうちまで運べるかも。そしたらお姉ちゃんにあげるね」
「こいし」
「はい」
「今、何時」
「えっと」妹は時計を見上げた。「九時半と、少し」
「貴女の門限は」
「七時」という返事に間を置かず「ごめんなさい」が続く。
「どうしてこんなに遅れたの」
「お姉ちゃんにあげる落ち葉を探してて、それで」
「貴女は昨日も門限を守らなかった。一昨日も。その前も」
「ごめんなさい」
「昨日も落ち葉拾いをしていたの? 一昨日も?」
「それは、あの」
「毎日毎日、私との約束より大切な用事が出来るのね」
「ごめんなさい」
「そればっかりね、貴女は。口では謝っても、結局何ひとつ守らない」
淡々とした己の言葉の裏側に、少しずつ感情の波風が広がり出してくるのを意識しつつ、さとりは眼前の妹の顔が一瞬、戸惑いや悲哀に染まっているような錯覚に陥ったが、瞬きをした後にはもう、どこまで行っても無表情と変わるところのない曖昧な笑顔が自分を見つめ返しているだけだった。「ごめんなさい」と呟く無色の声が再び耳に入ってきた途端、さとりは傍らのカップを引っ掴み、中身を妹にぶちまけていた。
「何が紅葉よ。そんなもの見たって貴女は何も感じないでしょう」
「私、綺麗だなって思ったよ」
「へえ。じゃあ今、私に何をされたか言ってみなさい」
「お茶をかけられた」と、元気のいい声が返ってくる。
「なぜ」
「私がちゃんと約束を守れないから」
「そうされて、貴女はどう思った?」
「私は」、口を噤む。
貴女には答えられないだろう。嫌味を言われても、お茶をかけられても表情ひとつ変えることの出来ない貴女には。そう思いながら、微動だにしない二個の眼球を眺めているうちに浮かんできたのは、水面のような目だ、という漠とした感想だった。妹の目は、決して波紋の立たない水面のようだ。葉の一枚も落ちては来ず、一陣の風も吹くことのない無風帯に横たわる、孤独な湖の面の目。映る者の姿を乱すものはないが、そこに留めておくことも出来ない流体の目。
「どう思ったの」と、もう一度問う。
「熱いなって、思った」
「それは答えになってないわ。悲しかった。嬉しかった。憎らしかった。悔しかった。切なかった。そういうことを訊いているのよ。貴女はどうだったの」
「わかんない」
「え?」
「分かりません。ごめんなさい」
そう、とさとりは腹の中で答える。分からないに決まってる。分からないから、今でも貴女は毎日私の元へやって来て、自分が見聞きしてきた外のことを私に話して聞かせようとする。自分たちが昔そうしていたように、姉妹ならば当然するであろうことを今も貴女はしようとする。昔と違うのは、愛情を失くした姉が、微笑の代わりに暴力で応じるようになったことであり、感情を失くした妹が、微笑と暴力の意味を見分けられなくなったということだ。
そんな刹那の想念は、「だったら、こんなもの持ってくるなッ!」という怒声になり、机の端から取り上げた花瓶を思いきり壁に叩きつける、新たな暴力の火種にしかならなかった。血を迸らせるように赤い花弁を床に散らしていく花を見、その前で一言もなく立ち尽くしている妹を目に収めたさとりは、ずるりとはらわたが蠢き出すのを感じ、その蠕動に押しやられるようにして妹の手を取ると、「来なさい」とベッドまで引き立て、「門限を守れなかったお仕置きよ。服を脱ぎなさい」そう言って妹を床へ投げ出し、自分はベッドに腰を下ろした。
「ちゃんと言う通りに出来たら、さっきのお話、聞いてあげるわ」
「お話、一緒にしてくれる?」
「ええ。してあげる」
すると妹は尻餅をついたまま、にんまり顔中に笑みを弾けさせ、ブラウスのボタンをいそいそと外し始めるのだった。
○
「馬をみんな揃えても、家来をみんな集めても、王様が再び紳士と語り合える日は、二度とやっては来ませんでした」
○
「いい匂いがしますね」という一声が背中にかかったのは、洗面所で血のこびりついた手を洗っていたときだった。さとりは振り向きもせず「それ、誘ってるの?」と軽口を叩き、「腹減ってるだけです」と応じた火焔猫燐がするりと忍び寄ってくる間に、流しても落ちない箇所を素早く服の裏で拭き取った。
「シチューの残り、鍋にあるでしょう」
「もっと美味しそうな匂いがこっちのほうからしてきたんで」と嘯いて、燐はさとりの隣に並んだ。
「生理中なのよ」
「いや。貴女の血の匂いじゃない」
それだけ言って鏡に向かい、三つ編みを弄り出した燐の横顔からは、特にこれといった思惑も窺えないが、腹の裏側の不信感については取り繕おうともせず、むしろ自分から見せつけて主人に釘を刺しておく小癪な態度は、相変わらずというところだった。
「匂いの違いなんて分かるの」
「貴女のは、分かります」
「へえ」
さとりは投げやりな相槌を返し、燐のほうは目の端で主人を覗き見、それ以上この話題を続ける気のないことを見て取ったのか、その目を天井へ振り向けると、「本降りになってきましたね」と、どうでもいい雑談に話頭を転じてきた。
「そうね。雨は嫌いだわ。煩いし、服が蒸れるし」
「嫌いじゃないものなんか、貴女にはないでしょう」
肉体労働の疲労が浮き出ている燐の顔を、三秒ほど黙って見つめた後、さとりは「そうかもね」とだけ答えた。
「紅葉、飛ばされてしまうかも知れません」
「そうね」
「今日、昼飯喰ってるときにこいし様がおいでになって、あたいに訊いてきたんですよ」
「うちに落ち葉を持ち帰るにはどうしたらいいかって?」
「なんだ。もう聞いてたんですか」燐は気抜けしたような声を出したが、目はまだ主人の挙動を慎重に追っており、ポケットから煙草を抜いて火をつける一瞬の仕草にも、刃を翻すような筋肉の閃きがあった。そうして周到に牙を覗かせてみせる一方で、ペットの中では誰よりも忠実に自分の言いつけをこなし、今ではお互い知らない体でもない自分との微妙な関係を《主人と家畜》の一言で割り切っているその内心は、いったい単純なのか複雑なのか。どっちにしても生意気だと、いつも通りの結論を下したところで燐の口から煙草を奪い、どうやらシケモクだったらしい不味い煙を噛み締めつつ、「ええ。それがどうしたの」とさとりは欠伸混じりの返事をした。
「いや、別にどうってことは」
「そう」
「あの、さとり様」
そのとき、ふいと違和感がやって来た。「昼飯……?」
「は?」
「貴女、昼飯を食べていたの?」
「当たり前でしょう。喰うなって言うんですか」
「そうじゃなくて。貴女、あの子と昼に会ったの?」
「そりゃあ、はい」
「それから、どこに行ったか分かる?」
「どこって、自分の部屋でしょ。近頃は毎日昼前に帰ってきて、ずっと部屋で何かしてるじゃないですか。がさごそ音がするし。知らなかったんですか」
束の間、思考に空白が出来、さとりはその場に立ち竦んだ。
「さとり様」
「なに」と口が勝手に動く。
「貴女も最近、変ですよ。全然生気がない」
「生まれつきよ」
「違います。昔の貴女は少なくとも、知られたくないことをあたいに勘付かれるようなヘマはしなかった」と、さとりのブラウスに滲んでいる黒い汚れを目線で指す。
「今の貴女は、日に日に冷たくなっていく病人と同じ顔をしている」
そんなことを言い捨てるなり、燐はさとりから煙草を奪い返して洗面所を出ていき、一方、さとりはしばしの間、踏み出すことも後ずさることも出来ないまま、面前の鏡に映っている己の青白い顔を凝視し、ばっくりと開いた脳裏の風穴に砂をかけ、埋め立てる作業に時間を費やさなければならなかった。生気がない、か。病人、か。そうした砂の一粒一粒はしかし、脈絡を失った思考の域内を空回りするばかりで、何らの思いも湧いては来ず、我知らず洗面所を出たさとりの足はいつの間にか妹の部屋を目指していたのだった。
あの子がいつも昼前に帰っていた? 部屋に籠もって何かしていた? その足で宵に私の部屋へ来て、黙って罰を受けていた?
もう何年も触れていないそのドアに鍵はかかっておらず、手を添えるとノブは音も立てずに軽く回った。踏み入ったさとりの目にはまず、ベッドとクローゼットくらいしか家具のない部屋の、皮を剥かれたような白色の壁が映り、次いで、薄明るい雨滴の反射光を室内に差し入れている窓際が映った。花好きの妹が以前、そこに並べて置いていたはずの花瓶もひとつ残らず消えていたが、その最後の一個は数時間前に自分が叩き割ったものだった。
ベッドの上にはくしゃくしゃに丸まった毛布と、シーツを引きずって床に落ちかかっている枕があり、そういえばあの子は寝相が悪かった、隣で寝た翌朝にはいつも寒い思いをしたものだったと、見下ろす瞼に幼い頃の妹が思いがけず現れて、さとりはちょっとした当惑と一緒にその硬い枕を拾い上げ、妹はここで何をしていたのだろうとぼんやり考えた。色も匂いもないこの部屋のどこに、妹の生活の跡があるのだろう、と。
既に体温も残っていない枕は、腕の中で冷え冷えと硬く縮こまっており、それを抱きながら、ふと妹の骨張った体に触れているような気がし、途端に胸がざらついてくるのを自覚する。重さなどないに等しい枕一個を持つ両手が、まるで誰かを必死に抱き締めていたかのように、無性にだるくなっていた。それを引き剥がすようにしてベッドへ放り、その衝撃が微かにスプリングを揺らした瞬間、毛布の合間から食み出したものをさとりは見た。
紙の束だ。そうと分かるより先に伸びた手は、一秒後には原稿用紙一掴みを握っていた。セロハンテープで破片をつたなく繋ぎ合わされ、どうにか原型を保っているという風で、毛布を除けると、同じようにしてばらばらの紙片を寄せ集め、何とか判読出来るまでに復元された幾枚もの用紙が、それぞれ一纏めに絡げられた状態で積み重ねてある。
見紛いようもない、自分の筆跡だった。
「どうして」という声が突然、耳に流れ、それが自分のものだと気付くのに少し時間を要し、その間に頭は幾つもの《どうして》を並べ立て、自答する余裕もなく漏電を始めていた。なぜこの子の部屋に私の書いた小説があるのか。みな破り捨てたはずなのに、なぜ修繕されているのか。なぜこの子がこんなものを読んでいるのか……。
妹が屑籠から紙片を取り出してここに持ち込んだのだと、ようやく理解が追いつく。包丁もろくに持てない妹が、これだけの作業をするのにどれほど手間暇をかけたのかは想像に難くなかった。だがいったい何なのか。生活の大半を占めていた散歩の時間を減らし、姉から道も理もない暴力を受けてまで、妹にこんな紙屑の山を掻き集めさせたものは。普段の散歩と同じく、特に理由のない無意識の行動なのだろうと頭の半分が断定を下した直後、いきなり、妹に浴びせ続けてきた罵詈雑言のひとつがもう半分の額に瞬いて、さとりは思わず息を詰めた。
《私のことなんて、何も分からないくせに》
部屋に戻ると、妹は裸のままベッドで静かな寝息を立てていた。傍らに立ったさとりの耳に響く呼吸の振動は、大分弱まってきた雨のしめやかな反響にさえ、ともすれば掻き消されてしまいそうなほどか細いものだった。
そのしじまの中でさとりが見ていたのは、さらけ出された妹の、薄い一枚の皮膚であり、そこに自分がこの手で刻んできた、打撲と水膨れの数え切れない跡であり、醜く膿み崩れたその体が元に戻ることはもはやないという、不可逆の事実の黙示であり、そしてまた、それをやったのが紛れもない自分なのだという、取り返しのつかない実感だった。
「こいし」と、身を屈めて囁く。
「昔の貴女は、本を読んでもらうのが好きだったわね。まだ分からない言葉がたくさんあって、そのたびいちいち貴女の心に絵を描いて説明したりして、でも私の絵は下手くそだから、ますます分からなくなっちゃって……。こいし。私の書いた本なんか、きっとつまらなかったでしょう。
こいし。貴女はあれを読んで、私のことを分かろうとしたの。分かる心を失くした貴女が、どうして分かりたいなんて思ったの。ねえ、こいし。貴女は……」
妹が目を覚ましたのは、そのときだった。焦点の合わない視線をしばらく宙に彷徨わせていたかと思うと、自分の頬を手で一撫でし、続けて姉の顔へゆっくりとそれを持っていく。さとりは頬に添えられた妹の掌の温度を感じ、一瞬それが濡れていると思い、いや、私の頬が濡れているのだと理解した。
「お姉ちゃん、どうしたの」
「こいし」、声が詰まった。
「泣いてるの」妹は不思議そうにさとりの眼球を覗き込み、「どうして泣いてるの」と首を傾げ、それからはっとしたように体を起こすと、「私が勝手に寝ちゃったから怒ったのね。ごめんなさい。大丈夫よ、お仕置きの続き、私ちゃんと出来るよ」そう言いながら慌ててさとりの腕を取り、自分の脇腹に出来ている大きな水膨れを力任せに引っ掻き始める。柔らかい水疱はたちまち破れて中からどろりと膿を溢れさせ、同時に妹の両目からは、塩の味もしない涙が止め処なく湧き上がり、音もなく零れ落ちていった。
「ごめんね、お姉ちゃん。今度は言うこと聞けるから、ね、お姉ちゃんは泣かないで。もっとぶって。いっぱい叩いて。たくさん私のこと、叱って下さい」妹は言い、屈託のない笑顔とともにこうべを垂れた。
さとりは唇を震わせたまま、夜がおののいているような雨の音を聞き、頭の裏で転がり続ける燐の言葉を聞いていた。自分たち姉妹の成れの果てを思い、この世に生を享ける前から運命付けられていた、姉妹という名の病魔が横たわる二人の行く末を、ただひたすら仰ぎ見た。何か言葉を返そうとしたが、喉から洩れてくるのは嗄れた吐息ばかりだった。
雨は当分、止みそうになかった。
○
「はい、おしまい。めでたしめでたし」
「えー、もうおしまい? こんなの全然めでたくないよぉ」
「あら、そう?」
「王様も卵の紳士も可哀想なだけじゃない」
「王様にとってはよかったでしょう。卵が友達なんてどう見ても頭おかしいし」
「童話、全否定しないでほしいな」
「ともかく、めでたければよしというわけでもないのよ。教訓的なお話は、しばしば悲劇で幕を閉じるものだしね」
「教訓的? これが?」
「そうよ。あなたはこのお話にどんな教訓があると思う?」
「教訓。そうね……」
「思ったままを言ってみなさい」
「言葉は、よく考えて使わなくちゃいけない」
「なるほど。このお話そのものは、《一度壊れたものは、もう元には戻らない》ことを表すのによく使われるけど、確かにそれもひとつの教訓ね」
「ふーん。わたしのほうが正しそう。服なんかは、破れちゃっても縫い直せば元に戻るじゃない」
「ふむ。でも縫い直した服は、破れる前の服とまったく同じ状態にはならないでしょう。継ぎはぎがあるし、縫い足した生地の質も前とは違う。一度壊れたものは、どこかできっと変わってしまうはずよ」
「どんなものでも?」
「ええ」
「おねえちゃんも?」
「わたし?」
「おねえちゃんも、壊れたら変わっちゃう?」
「そうね。変わってしまうでしょう」
「わたしも」
「そう、あなたも」
「じゃあ、わたしたちは?」
「わたしたち? 二人の関係ってこと?」
「うん」
「それは変わらないと思うわ」
「他のものは変わるのに?」
「言い方次第ね。わたしがあなたを見る目、あなたがわたしを見る目は、確かにこれから少しずつ変わっていくでしょう。でもわたしたちが姉妹だということは、結局同じまま」
「大きくなってからも?」
「そうよ」
「二人が今とは全然変わっちゃっても?」
「ええ、二人がどんなに変わっても。わたしはいつまでもあなたのおねえちゃんだし、あなたはずっとわたしのいもうと。それだけは、千年先も変わらないわ」
「そっかぁ……。おねえちゃん」
「ん?」
「そっち、行っていい?」
「ん。おいで、こいし」
評価ありがとうございます。産廃こんぺ、楽しませて頂きました。新参でした。
口授の古明地姉妹の項を読んで、思ったりしたことをSSにしてみたんですが(さとり様の小説家設定とか、心が空っぽなこいしちゃんとか)…読み返してみると拙いとこが目立って書きたかったことが書ききれてなかったかもと反省。いずれ補完していきたいなぁ…。
>2
どんぴしゃなコメント、敬服です。これ読めばこのSS要らないかも…。
>3
相手を傷つけたつもりで自分が一番傷ついていたのでした。
>4
カワイイヤッター!逆にキレるこいしちゃんとニコニコさとり様ってシチュはありだろうか…。
>5
そんな話、いつか書きたいですねぇ。
>6
東方の姉妹は皆すれ違いがありそうですが、古明地姉妹は特にそう…。
>8
時系列は一応そういう感じで書いたつもりです。文体は…すみません。鍛えてきます。
>9
燐空、一瞬しか出せなかったのが心残りです。力及ばず。雨は気の向くまま書いてみました。
>10
それは恐らく作者の責任。自分のSSをもっと客観的に読み直せればいいんですが…。
>11
雨は何でだろう、降らせたかった。悲哀の先はあるんでしょうか…。
>12
卵のアレは、ハンプティダンプティの詩に勝手にストーリーを付けてみたんです。
>13
地上の雨は晴れますが、地底の雨は…。ハッピーエンドになれるかは、読んで下さった皆さんにお任せ。
ひかがみ
作品情報
作品集:
5
投稿日時:
2012/11/25 04:48:03
更新日時:
2012/12/19 23:30:44
評価:
11/15
POINT:
1120
Rate:
14.31
分類
産廃SSこんぺ
さとり
こいし
愚行の結果、自らを壊してしまい、大切なものを悲しませた卵。
座した姉は、修理不能なゴミを見る目で、裏切り者の妹を傷付け続ける。
壊れた妹は、姉を理解しようとして、間違いだらけの行動をとり続ける。
退廃的な雨降りの館で繰り広げられる、紫煙たなびく大人の童話。
真実を知った賢き王は、天使の卵を抱きしめることができるのだろうか。
卵を割らなきゃ、オムレツは作れない。
さとりちゃんは、みんなの心がわかるふりをします。
キレるさとりさんといつもニコニコなこいしちゃんの描写がとても可愛かったです。
しかし、一文が異様に長いという文体のせいでひどく読みづらいのが残念。
ご主人にベッタリじゃないお燐がまた魅力的。
あと雨の描写がとても素晴らしい。
悲嘆という言葉よりは、悲哀という言葉が似合いそうです。
御伽噺の題材には良くありますよね(たぶん)
卵のくだりが御伽噺風だった気がしたので。
積まれ練り上げられた重厚な文章とよく合っていました。
途中に挿入されたおとぎ話と最後の読み聞かせが
実はハッピーエンドであったと思わせてくれるようでした。