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『アンダンテ』 作者: ひかがみ
御主人様の、ちゆりは服だ。
いつも履いている水玉模様のやつを子供っぽいと同僚にけなされて、仕方なく買い換えたダークグレーの靴下とか、先週特売していたのを偶然見つけて予定外の出費になってしまったスカートとか、いい加減くたびれが目立ってきた上着とか、そういうもの。御主人様を引き立たせる役には立つだろうが、逆に言えばそんなことくらいしか出来ないし、そんなことくらいしか求められていないもの。替えの利く服。使い続けた歯ブラシが、少しずつ毛をざんばらに反り返らせていくように、ほつれ、染みが出来、毎日緩やかに減価償却されていく北白河ちゆりという服一着は、いったいいつまで御主人様の心を留めておけるのだろう。歯ブラシなどより遥かにざんばらで気まぐれな、変数まみれのあの人の心を。
ちゆりは時々そう思う。
思うたびに分からなくなる。
御主人様が何を思って自分を傍に置いているのか。
そして何より、あんな女の傍に置かれるままになっている、自分自身の心が。
授業があったから、今日は一緒に行ってやれなかった。
大事な学会だとは分かっていたが、こちらにも都合というものがある。今期からようやく週一で講義を任されて、レポートの採点やら定期試験の作成やら慣れない仕事にうずもれて、研究室は持ってないので院生に手伝わせるツテもなく、レポート五十枚の添削を終え、今日締め切りの試験問題をどうにか教務課に渡したのが午後八時。今年のイブもほとんど仕事に使ってしまった。と言って別にそれ以外の使い道もないのだが。
いや、ひとつあった。
帰って御主人様と一緒に売れ残りの惣菜を消化するくらいの時間は、まだ残っているだろう。
「なんか食いたいもの、ある?」
訊いたのは朝だった。御主人様は振り向きもせず、玄関の框に腰をかけたまま靴紐を結ぶ手も止めなかった。
「ケーキ」
「それだけ?」
「苺ケーキ。でも貴女、お金ないでしょ」
「メシ買うくらいはあるよ」
「あら。昨日ゴミ置き場うろついてたじゃない。残飯漁ってるのかと思ったんだけど」
同じアパートに住んでいるので、見られていても不思議はない。もちろんゴミを物色していたわけではなかったが。
「収集日が変更になったから確認してただけだぜ」
「収集日? 何の?」
「ゴミの」
「ゴミの収集日……?」
やっとちゆりのほうへ向き直った御主人様の目が、くるりとゼロの形に丸まり、次いで、それをさらにゼロで割ったような不能解のしかめ面になった。ゴミを週日に回収するという概念が理解出来ないのだろう。そもそもこの人の部屋にはゴミ箱がない。ゴミを捨てるという発想がないのだ。仕方なく代わりにやってあげているが、自分がいなくなったらどうやって生活を続けていくつもりなのか。よくこれで社会人を名乗れるものだと常々思う。
「バカね、ちゆりは。ゴミなんかわざわざ収集しなくたって二三日したら自然消滅するでしょう」
比較物理学的にはそうなるらしい。今日の研究発表もこのレベルじゃないだろうなと心配になりかけたところで、御主人様は立ち上がり、築四十年の重いドアを押し開けた。途端に柔らかい微風のナイフがちゆりの頬を滑っていき、体の芯にぶるりと来た。未明に降り出した粉雪が、階下に見える道路をうっすら白く刷いており、その上を行き交う学生の数が時間帯の割に多いのは、さすが日本一の学生都市というところだった。
商店街のほうから流れてくるアリアのメロディを聴きながら、クリスマスだな、と我にもなく思う。
それを言おうとした時には、御主人様の姿は既に階段の下に消えていた。
仕事が終わり、食い物を買い、湿っぽい電車を乗り継いでアパートに戻り、自分の部屋を飛ばして一階上へ向かう。合鍵を回すと真っ暗だった。七時には帰ると言っていたのだが。雪で電車が遅れているのかも知れない。ちゆりはひとまず暖房を入れ、テレビをつけて座布団に腰を下ろした。画面の中ではレポーターが高級レストランの紹介をしている。どの店も満席に近い。何だか、遠い向こう岸の景色のようだった。それを眺めるともなく眺めつつ、一向に温まらない手指を頬にこすりつけているうちに、鈍痛がやって来た。
最初は腕。
次は腹。
靄のような痛みが段々熱い針に凝固していくのを、ちゆりは、画面の中の出来事のようにぼんやり感じていた。そう感じていたかった。溜め息をつき、上着をはだける。かじかんだ肌が露わになる。そこに点々と貼りついている幾枚かのガーゼから、膿が滲み出していた。
それを指で摘み、剥がしにかかる。べりりという嫌な感触とともに傷口が顔を出す。無性に熱かった。思わず指を押し当てると、そのままずぶずぶ沈み込んでいきそうな気がして、慌てて離す。そうして一枚、さらに一枚、唇の皮でも剥くように剥がしていく。どれも、涙が出るほど熱かった。
この切り傷は一昨日。
その火傷は五日前。
あの痣は……。
頭を振る。溢れてくる情動を振り払うために、鞄から護身用の拳銃を取り出して傷口に押しつける。指とは段違いの冷ややかさだった。しばらくそうしていた。次第に疼きが治まっていくのが分かった。堪えきれなくなった涙が零れ、顎から滴り落ちていった。何が小さくても必殺の武器だ、とちゆりは思う。人を殺す武器で、私はせいぜい傷口を塞ぐことしか出来ない。こんなものをぶら下げておきながら、誰を殺すことも出来ない。
殺す? 誰を?
お前は誰を殺したいって言うんだ……?
ガーゼを換え、食事の支度をした。使える皿がみな流しに突っ込んであったので、仕方なく押入れを漁って紙皿を探していたら、埃まみれのクリスマスツリーを見つけた。何となく卓袱台の横に置いてみた。ついでに飾りの星を何個か掘り出して、枝に括りつけたりてっぺんに乗せたりして、それも終えてしまうとすることがなくなって、ニュースを見た。今夜中に雨が降るらしい。雪は溶けてしまうだろう。
御主人様が帰ってきたのは、十時を回った頃だった。
「おかえり。風呂、沸いてるけど」
返事はなかった。
「おい、どうした」
御主人様は無言のまま鞄を放り、髪留めを外して座布団に沈み込んだ。目はふらふらとテレビのほうへ流れていったが、画面に留まるでもなく、今度は面前のグラスへ向けられる。そこに映った赤い眼球二個は、弾けば響きそうな空洞だった。
「何か飲むか?」
答えは待たずに酒を注ぐ。
注ぎながら、そろりと胸に這い登ってくるものを意識する。グラスの湖面に一瞬、乱数の波が立った。
「ほら、飲めよ」
そう言って渡してやると、御主人様は素直に受け取ってひとくち啜った。
その仕草に、つい気を緩めてしまったからだろう。
言わでもの問いが口をついたのは。
「どうだった、学会は」
凄まじい音がした。
遅れてうなじに冷たいものが跳ねかかった。条件反射で首が竦んだ。ちゆりは振り向いて襖を見、その下に転がったグラスを見た。襖は凹み、グラスは割れて畳に酒を染み込ませていた。
「なんだ、駄目だったのか? 気にすんなよ、あいつらがバカなんだから。ほら。いいからメシ食おう」
すぐに笑ってみせるが、声の端が震えるのはどうしようもない。
「ちゆり」
御主人様が呟く。常と変わらない、花の揺れるような声音だった。
「ああ。メシにしよう。ちょっと待ってろ、ソース取ってくる」
手の震えを気取られる前に立ち上がろうと膝をついた途端、下腹に激痛が走った。よろめき、足が崩れてしまう。息が詰まり、咄嗟には声も上げられなかった。
涙の滲む視界に、御主人様の足が見えた。たった今自分を蹴り飛ばしたそれは、寒気のせいで血流が悪くなっているのか、真っ白だった。蹴るほうも痛かったろう。ちゆりはあらゆる回路を遮断して、無理矢理そう思った。
「御主人様……」
「ねえ、悪いのはあいつらでしょ? そうでしょ?」
縋るように言い、御主人様はちゆりの裾を引っ張る。生地の軋む音がした。
その上にそっと手を置き、微笑を作る。
「ああ、そうだよ。貴女は悪くない。みんなあいつらが悪いんだ」
「じゃあ、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの? なんで年しか食ってない能無しに頭下げなくちゃいけないの? みんなの前でバカにされて、笑われて……。どうして私ばっかり虐められなきゃいけないのよぉ……」
御主人様は泣いていた。泣きながら、いつものようにちゆりの足をつねり、腹を殴り、腕を噛んだ。いちいち呻かなくても耐えられるくらいには、慣れてしまっていた。日常化した、見境のない暴力だったが、顔を狙われたことだけは一度もなかった。人に勘付かれるのを恐れているのかも知れなかったが、この人にそんな配慮が出来るとも思えなかった。花が咲き零れるように、どうしようもなく暴力を噴き出させてしまうのが、岡崎夢美という女だった。
「ねえ、ちゆり」
囁きの熱風が耳を吹き抜けていく。自分とはどこかが決定的に違う、大人の女の匂いを乗せて。
「これ、咥えて」
手に、鈍く滑らかな重みを感じた。
卓袱台の上に置きっ放しにしていたベレッタだった。
指で銃身をなぞる。安全装置が外れていた。
御主人様の下についた助教授は、今までに五人いた。
四人はたちまち辞めていき、一人はノイローゼにかかって自殺した。
三年も保ったのは、ちゆりが初めてだった。
「ちゃんと口に入れなさい」
唇の間に挟み込んだ銃口は、火薬の味がした。穴の縁を慎重に舌で撫ぜていく。卓袱台に腰をかけ、銃把を握っている御主人様の前に額ずいて、ちゆりは自分が立てる微かな水音を聴いていた。引き金にかかっている御主人様の指が目に入るたび、胸の底を怖気が駆け抜け、後には抑えようのない節々の震えが残るのだった。
もしくしゃみでもしたら。
あるいはむせてしまったら。
そんな思いばかり浮かんでくる。すると鼻がむず痒いような気がしてきて、喉がくすぐったいようにも思われ、奥歯が踊り出しそうになるのを止めるために、銃に刻まれた溝の一本一本、穴のひとつひとつを、舌でこね回す作業に没頭するほかなかった。潜り、掻き分け、垢のひとひらを探すことだけに全霊を尽くす。そうしている間は、鼻の先に眠っている銃弾一個の存在を考えずに済む。その空隙にほとんど幸福感さえ抱いてしまっている自分の心を、ちゆりは逃れがたく意識していた。本物のフェラチオもこんな感じなのだろうか。ただ、精液が銃弾に代わっただけで……。バカ言うな。こんなことするくらいなら、好きでもない男のを百本咥えるほうがずっとマシに決まってる。
なら、なぜお前は拒絶しなかった?
嫌なら、怖いなら、初めからこいつを突き飛ばして逃げてくればよかったじゃないか。
そうだ、撃ち殺すことだって出来たのに。
どうしてお前はそうしなかった?
どうしてお前はいつもされるままになってる?
私は……。
どうしてお前の手は、スカートに伸びてるんだ?
「御主人様」
声が甘えを帯びているのを、その時、はっきりとちゆりは自覚した。
「いい子ね、ちゆり。可愛い子」
御主人様も自分で股間をまさぐっている。毛に囲われた玉門を指先で爪弾く都度、悲しい旋律が立ち昇り、女の匂いをたなびかせながらゆるゆると空中に消えていく。
「私のちゆり……」
貴女のちゆり。
そう胸の中で復誦するや、唇は躊躇いを振り捨てて銃口にむしゃぶりついていた。口の裏がすり剥けそうな、暴力的な奉仕だった。だが拳銃には、御主人様には、これくらいがふさわしい気がした。喉の奥へ、えずくところまで突っ込み、唾液と鼻水にまみれて吐き出す。その自動運動を、何度も、何度も繰り返す。射精して欲しかった。ほかの誰でもない、子供っぽくて、乱暴で、我儘で、虚栄心が強くて、頭がよくて、独りぼっちの可哀想な御主人様に、射精して欲しくて堪らなかった。
どうして私たちは、こんな歪な形でしか思いを交わせないのだろう。
「ちゆり、っ」
手の動きが不意に速まったかと思うと、一拍置いて、御主人様は気をやった。
それを見届けてから、ちゆりも静かに下着を濡らした。
クリスマスツリーのてっぺんの星に、雫が数滴、こびりついていた。それを舐め取り、窓を開けて、夜の街の中へ放った。予報通り降り出した雨のせいで、道路はぐしゃぐしゃに黒ずんでおり、時折通り過ぎる車のライトが、束の間静寂を切断するばかりの夜だった。放り投げた星はゆっくりと、夜空の上を歩くような速さで落ちていき、月明かりを翻らせることもなく闇の底に沈んでいった。
「ちゆり」
振り返ると、月光に瞬いている御主人様の寝顔があった。
「ん? どうした?」
「ちゆりぃ……」
どんな夢を見ているのだろう。
私が出てくる夢なら、嬉しい。
頬に引かれた涙の跡を舌で掬ってやりながら、ちゆりは御主人様の鼓動を聴き、そっと目を閉じて寄り添った。
「ごめんね……」
いいんだよ。
貴女と一緒なら、どこまでだって落ちていこう。堕ちて、墜ちて、たとえその底が地獄でも――――。
ゆめちゆと銃フェラがやりたかっただけ。
SMのような、そうでもないような。
本当は昨日上げる予定だったんですが、間に合わなかった…。
ひかがみ
- 作品情報
- 作品集:
- 5
- 投稿日時:
- 2012/12/25 10:24:58
- 更新日時:
- 2012/12/25 19:24:58
- 評価:
- 4/6
- POINT:
- 410
- Rate:
- 14.50
- 分類
- ちゆり
- 夢美
- 銃フェラ
ベレッタは何? 女性らしくM1934やM84? ごつくM92F? 未来っぽいPx4?
まあ、いずれもおしゃぶりに向かない形だけどね。
愛用の『服』をズタズタに引き裂く女。
レイプに近い自虐願望でもあるのかね?
襤褸切れと化した『服』は、八つ当たり同然の屈折した愛情表現に満足しているようだけど。
病んだ画家が魔性の銃に魅入られたテンションで絵に描いたような、聖夜の不器用なカップル話でした。
原作内での過度なバカ騒ぎぶりはその反動なのかも。
お見事でした。