椛の家。
その日はいつもの休日と同じように、にとりが朝から来て、二人で将棋盤を囲んでいた。
対極は序盤から椛の有利に進んでいたので、椛は非常に気分が良かった。
「にとり、今日は私が勝たせてもらうね」
「いやいや、まだ挽回できるさ」
にとりが飛車を斜めに動かしはじめた所で、椛は異常に気付いた。
「何をしているの、にとり?」
「ネジが外れたみたい」
「えっ?」
「ネジが外προλετάριοι όλου του」
明らかに言動に異常を来たしている。
試みに、にとりの頭を振ってみると、カラカラと音がするではないか。
コロン。
そのうち劣化して真っ二つに折れたネジが、鼻の中から転げ落ちて来た。
「ねぇ、にとり、大丈夫なの?」
「κόσμου, ενωθείτε..」
どうも完全にネジが外れてしまった。これはいけない。
布団を敷いて、うわ言を呟き続けているにとりを寝かせた。
とにかく換えのネジを手に入れなければならないと思った。
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椛は折れたネジを手にして、近所の金物屋の主人を訪ねた。
「ネジをお探しかね。どれ、見せてごらん。」
しかしネジを手に取って眺めていたかと思うと、だんだんと顔が険しくなってくる。
そして店の奥から「妖怪の山 統一工業規格表」と書かれた分厚い冊子を持ってくると、
眼鏡を着けて、ウンウン唸りながらページを繰りはじめた。
しばらくして金物屋の主人は、あきらめたように眼鏡の紐を耳から外すと、こう言った。
「こんな規格のネジは見たことない。しかも逆ネジで、純モリブデン製ときた。私も金物を扱って二百年にはなるが、こういうのは初めてだよ」
「お嬢さん、寸法の図面を書いてあげるから、工場に掛け合ってみなさい。」
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高い壁に囲まれた工場の群れ。
その高い壁の横を、椛はいつも通ってきた。
椛は子供の頃から、工場の壁に囲まれた灰色の地区で暮らしてきた。
とにかくネジを作ってくれる工場を探さなければと思い、灰色の壁に囲まれた道を当ても無く進み始めた。
歩くうちに、やがて長い壁は途切れて、門柱と工場入り口が現れた。
「第112金属工場」という門柱の看板を目にした椛は、敷地の中へ入っていた。
工場の壁の中はとても広くて、同じ服を着た天狗達が、同じ表情で、同じ速度で歩いていた。
椛は守衛室を見つけると、ネジを注文しに来たと告げた。
守衛はクロスワード・パズルから顔を上げて、
「工場は計画通りにしか操業できないからね。まず生産計画を認めてもらう所からだね」
と言った。
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天狗の山の官庁街。
椛は、こんな所に来るのは初めてだった。
ブリーフケースを持った鼻高天狗たちが、道をせわしなく行き来している。うっかりすると、ぶつかりそうだ。
銀色に光る同じような建物が並ぶばかりで、どこに行けば良いのか見当もつかない。
街路地図の中に「経済企画庁」という文字を認めると、恐らくここであろうと見当をつけて行ってみた。
「すみません、ネジを作りたいんです。」
『軍需品ですか、民生品ですか。』
「えっと、……軍需品じゃない方です。」
『民生用ですか。ではこの生産計画の申請用紙に一頁から三十頁まで全て記入し、図面と五十銭分の収入印紙を添えて提出して下さい。』
役人の鼻高天狗はそう言い、記入すると腱鞘炎になるのではないかという分厚さの申請書を渡した。
「あの、ネジが一本欲しいだけなのですが……」
『ですから、そのネジ一本を生産する計画書を提出してください。生産は全て計画の下に成り立っています。』
椛はあまり文字を書くのが得意ではないので、四苦八苦しながら、記載台に丸一時間立ちっぱなしで記入を終えた。
そうしてようやく完成した計画書を、窓口で提出した。
『おや、素材はモリブデンを使うのですか? これはまず資源庁の許可証をもらって下さい。』
「あの、ネジ一本分を使うだけなのですが……」
『モリブデンは人民の貴重な公有資源であって、資源庁の許可証無しには使えません。』
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椛は官庁街の道を走り抜け、資源庁へと急いだ。
『モリブデンですか。ではこの使用許可の申請用紙に一頁から五十頁まで全て記入し、図面と八十銭分の収入印紙を添えて提出して下さい。』
椛はもう文句を言っても無駄なのが分かっていたので、おとなしく記載台に向かい、二時間掛かって申請用紙を記入した。
『犬走さん、図面の寸法はメートル法で書かれても困りますよ。』
「えっ、でもさっき行った所の窓口は……」
『他の省庁の事は全く分かりません。とにかく、うちは尺貫表記でないと受理できません』
『記載台にそろばんが置いてありますので、お使いになって下さい』
「あの……わたし、計算が……」
椛はろくに学校を出てないので、簡単な計算しか出来なかった。
役人は面倒臭そうにため息を付くと、奥の計算機が置いてある机に行き、クラッチを「乗法」に入れ、ハンドルをジャラジャラと回しはじめた。
何としても今日中に、にとりの為にネジを用意したかった。
あのままの状態で放置すると、人格が荒廃して取り返しがつかない事になってしまう。
『別紙の様式が違います。二十六号様式を使って下さい』
『印紙が足りません』
『カーボン紙を挟むのを忘れてますよ。もう一度書き直して下さい』
『印鑑が不鮮明です』
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すべての書類が揃ったのは、昼下がりになってからだった。
『では、あなたの生産計画を許可します』
ボンッ
役人の鼻高天狗は、日付入りの受理印を押すと、受理番号を書き加えた。
『それでは工場を指定します。といっても、最低単位が一本で生産可能な所は、個人で操業してる工場が一軒あるだけです。』
『彼は組合員ですから、最後に組合から許可を取って下さい。』
組合の事務所を訪ねると、
でっぷり太った組合幹部が、コートを着て出支度をしている所であった。
『なんだ?用件は手短に言ってくれ。これから役人どもと会食に行かにゃならん』
椛が用件を手短に言おうとする前に、幹部は書類の束を見て用件を判断した。
『組合員の労務許可を取りに来たんだな?まずコンビナート名と工場名から言ってくれ』
どちらでもなかったので、椛は個人名を言った。
幹部はしばらく考えたあと、
『ああ、あの老いぼれ爺さんか!とっくに死んだもんだと思ってた。
あのオンボロ長屋も、確かに"工場"に違いない。ハハハこりゃあ面白い。おい、許可証を発行してやれ!』
そう書記に申し付けると、さっさと表に停まっている黒塗りの自動車に乗り込んでいった。
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やっと"工場"への道を向かい始めたのは、夕暮れも近づいてきた頃だった。
「わふぅ」
いま椛が抱えている書類の束は、米袋ほどの重さに達している。
狭い路地を進んで行く。
年季の入った長屋横丁の一軒に、「○×製作所」と、これまた年季の入った小さな看板が掛かっていた。工場というより完全に家であるが、木製の引き戸に染み付いた黒い油とその匂いが、ここが目的地であることを示していた。
戸を前にした椛は、両手に書類の束を抱えているので、唯一の方法として「ごめんください!!」と叫んだ。
「どうぞ」という声が聞こえ、戸の向こうから足音が聞こえてきた。
スルスルと引き戸が開かれていく。
椛は朝から何も食べていない事すら失念していたので、自覚もないまま空腹と疲労は限界に達していた。
「娘さん、何か御用かな?」
優しそうに微笑む老天狗の顔を見た瞬間、書類を撒き散らして玄関先にぶっ倒れたのであった。
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最初に、布団の感触と、額に置かれた濡らし手拭いの感触で、目が覚めた。
その次に、機械油の臭いが充満する部屋の中に、米が炊かれている匂いを嗅ぎ分け、椛の鼻はヒクヒクと動いた。
目の前に、食事の膳と、しわがれた手が現れた。
「大した物は出せないけど、おかずは近くで採れた山菜だよ。
味噌の配給が遅れてるから、汁物は薄味で申し訳ないけど。」
老天狗は膳を椛の枕元に置くと、手袋をはめ、旋盤と向かい合った。
「書類は見させて貰ったよ。いや、変わったネジの入った河童も居るもんだね。」
「完全に再現できるかは分からないけど、やってみるからね。」
旧式の旋盤の、モーターが唸る音が響く。
椛はむくりと布団から出ると、旋盤から飛び散る火花を眺めながら、山菜をモグモグと頬張り始めた。
「最近はみんな大きな工場のラインで作ってしまうからね、私みたいな個人職工はもう必要ないんだよ。」
椛は作業を穴が開くほど見つめていたが、だからといって工程は理解できない。
しかし、ただの金属の塊から、だんだんと形が出来ていくのが分かった。
最後には老天狗の手の中に、ピカピカと光るネジが現れたのであった。
老天狗はそれを古新聞に包むと、椛に手渡した。
「すみません食事まで頂いて……。あのこれ、食糧切符です。」
「気を使わなくても良いよ。それより早く、その河童の子にネジを持って行ってあげなさい」
椛は懐に新聞紙の包みを入れると、書類の束を道端のゴミ箱に放り込み、風を切りながら家路へと走った。
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家の玄関の前に立った時には、もう夕日が沈みかけた頃であった。
朝に出発したばかりであるが、なんだか我が家が懐かしく見えて妙な気分になった。
とにかく一刻も早くにとりにネジを入れなければならない。そう思い、急いで扉を開けたのだった。
薄暗い部屋の中で、にとりが一人将棋盤に向かい合っていた。
「ただいま、にとり……?」
「おかえり、もみじ!」
はっきりとした口調で、にとりは答えた。
にとりは、自分の駒を減らして、勝手に詰め将棋のような事を始めていた。
しかも驚いた事に、形勢は逆転して、にとりが有利になっている。
「にとり、頭はもう大丈夫なの?」
「畳と畳の隙間に、埃をかぶったネジが落ちていたんだ。それを入れたら、ちょうどピッタリさ!頭もスッキリしてるよ。」
「えっ、畳の隙間に……?」
「そうだよ。ああ、もう今日は暗いから勝負は次に持ち越しだね。長居してごめんね、失礼するよ!」
キビキビとした動作で、にとりは帰っていった。
どちらかと言うと、前より性能がアップしている気がした。
将棋盤をよく見れば、持ち越しも何も、あと五手もあれば椛の詰みであった。
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しかし、一つ疑問が残る。
畳の隙間に挟まっていたのは、一体誰のネジだろうか。
よもや自分のネジではあるまい。
「もみじー!人里で火事です。取材ですよー!」
思い当たる人物が一人居るな、と考えてた所に、その当人がやって来た。
「じゃあこの三脚持ってください、さあ早く行きますよ。」
椛は、文と出会った頃の事を思い出していた。
文が取材という名目で最初に椛のもとを訪れたとき、最初は丁寧で大人しい鴉天狗という印象を受けたものだ。
しかし翌日から人が変わったようになり、新聞取材にのめり込み、取材の手伝いだと言っては方々に連れ回されるようになった。
その頃を境にして、文々。新聞はデタラメな内容のタブロイド記事ばかりになったのだ。
「迫り来る炎から逃げ出そうとした体勢で死んでるらしいですよ。焼死体なのにフリーズしてるなんて面白いじゃないですか!」
椛は今持っているネジがちょうど合うのではと思ったが、そのままで良いと思った。
今の文が、椛がよく見知った文であり、その文が好きだった。
そういう訳で、椛の戸棚の奥には、小さなネジが一本眠っている。
(完)
文にもネジが入っている所を見ると、天狗にもネジが入っている訳で……?
すると老天狗は……?役人達は……?彼らの社会は……?そして勿論椛は…………?
たった一本のネジ。唯一の人格。
挿して回して抜け落ち入れ替え……。それでも問題なく、世界は回っているようですね。
工学ネタがちょっと嬉しくもあり。
古き良き時代の雰囲気がしました。
友達も治り、謎が一つ解決する、読み終わりが気持ちのいい素敵な作品でした。
全体を通してすてきな文章だった。
しかしなぜねじなのか。