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『産廃100KB「エクスペリエンス51200」』 作者: pnp
射命丸文は絶望的な気分に陥っていた。私室の中、机に向かい、幻想郷では貴重なパソコンのディスプレイに展開されているワードパッドと睨めっこしている。ぴくりとも手を動かさないでもう五分程が経過しようとしている。作業用に定めた音楽は順調に終焉に向かって音を鳴らし続けていると言うのに、射命丸文の書いている小説はと言うと、終わりなどまるで見えて来ない。否、語弊がある。終わりはとうの昔に見えていたのだ。と言うより、パッと思い付いた魅力的な情景と、物語の終末だけが、今書いている文章を小説と言う立派な身分に成り上がらせていたのである。文はそれの繋ぎの部分を紡ぐだけでよかった筈であった。そうするだけで、目標である51200文字など、いとも簡単に到達出来る筈だった。――筈だったのだ。現実はそう甘くなかった。現在およそ20000文字弱。それなのに、物語を紡ぐ手は既に止まりつつある。
――一体ここから何を書けばいいのだ?
こんな発想が芽生えた時点で、大容量の物語を持ち合うコンペにおける勝利などあり得ない。半分以上が水増しでしか無い文章に、一体どんな魅力を感じろと言うのだろうか。しっかりと『物語』を紡がなくてはいけない。それが創作と言うものだ。期限ギリギリに滑り込みで提出するレポートや論文とは違うのだ。
こんな具合に射命丸文の中では、崇高な創作者魂がめらめらと燃えているのだが、身体と精神はまるで伴わない。勝手に燃えまくっている創作者魂は、そのまま身を焼き尽くしてしまいそうである。供給される過大なエネルギーを、身体はちっとも発散出来ていない。証拠に文は先程から、寸分も小説を書いていないではないか。
締め切りまでも大して時間が無い。あると言えばあるのだが、今回彼女が参加を目論んでいるコンペが大容量を参加要項としている現状においては、締め切りなどもはや無い様なものである。時は一刻を争う。一日たりとも、悠長にしている時間など無い。……ここまで追い詰められるに至ったのは、完全に文自身の怠惰が原因である。『明日から本気出す』を繰り返していた結果がこれであるからもうどうしようも無い。少しだけでも書き進めておく時間は幾度と無く存在していたのに、文はそれを悉く遊ぶことで消費してきた。時間が無いのは当然だ。時はほぼ誰にでも等しく、有限なのだ。……例外はいる。例えば紅魔館のメイド長とか、あの辺りの随分奇特な輩に限るが。
特に何のしがらみも無いのであれば、参加を見送ることだって出来た。今回何も書けないからいいや――こうSNSで呟いて執筆を放棄すれば、文はこんな趣味の創作に悩まされることの無い、平穏な毎日に戻ることが出来るのだ。
しかし、今回はそれすら許されない。友人との諍いが原因だ。
そもそもこのコンペ開催が、ほとんど文と友人――姫海棠はたての小さないざこざが発端なのである。今思い返してみれば、つまらぬ言い争いであった。文のつまらない売り言葉を、酒が入って幾らか強気になったはたてが一も二も無く買ってしまった――それだけのことだったのだ。
「創作に時間を掛けることにどんな意味があると言うのです。いいですか、創作は速度ですよ。如何に素早く面白い作品を生み出せるかが唯一無二の問題なのです。はたては一作一作がべらぼうに長くて時間を掛け過ぎている。その一作を生み出すのに費やされた膨大な時間と労力は単なる作者の自己満足に過ぎませんよ? 読み手にとってそれらは何ら関係の無く問題視するに値しない事項であると言うのに、あなたはそれをまるで創作の美徳であるかの様に私に語り掛けて来る。それが気に食わないのですよ。長いから、大変だったから、時間が掛かったから……だから何だと言うのです? 長ければ面白いなんて保障は何処にもありません。寧ろ長々と文章を読ませておいて『何だ、この程度の物語か』と読者を落胆させる様であるのならば、短く纏められたつまらない文章よりよっぽど損害は大きく、読者に申し訳無いではありませんか」
「確かに素早く一作一作を完成させるのは素晴らしいことであると思うわ。だけどね射命丸、あんたの作品は一作一作が些か短すぎるのよ。私からすれば、あんな小容量の文章で一体何を表現しているのか、まるで理解が出来ないワケ。あなたが書きたい世界ってのは所詮その程度ってことなのね――と、私は思うのよ。その時点で食指が伸びない。だって世界の構築を放棄しているにも等しい蛮行なんだもの。未完成の世界に好き好んで足を踏み入れようと言う気にはなりません。自分の中で考えている物語の世界は、何処で何がどうなっているのかを書いて表すのがこの創作でしょう? 書き切れなかった、若しくは書き表さなかった、書き表すことが出来なかったあなたの考える物語の世界の像は、無かったことになるのよ。考えてすらいなかったに等しくなる。それってつまり想像力の欠如よ? 創作者として致命的な怠惰を、あなたは美徳と言って喧伝しているのよ。恥ずかしくないの? 物語を長くする為に長々と文字を書いている訳ではないのよ。私の思う世界をより精密に伝えられる様に文章を書いていたら自然と長くなってしまうだけなのよ。何か勘違いしていない? それから、何だっけ……そうそう、自己満足? それについては開き直っているから。だって創作がそもそも自己満足の塊じゃない読者皆無だとモチベーションは無くなるけれど、だからって読者の為なんて崇高な考えは私には無いね。烏滸がましいわ。この程度の力で。そんなに他人を思い遣りたいならもっと地力を上げて執筆なさい」
……こんな具合の支離滅裂な押し問答を繰り返していた。よもや暴力事件に発展するかと思われる程場の雰囲気は張り詰めたものになった。だが、自分の屋台でそんな騒動を起こして貰っては堪ったものでは無いと危惧した鰻屋台の女将を務める夜雀が二人を制し、とても余計な一言を挟んでしまったのだ。
「文章での争い事は、御自宅で、文章で解決して下さい!」
文章での解決――酔っ払っていた射命丸文も姫海棠はたても、この一言に妙に惹かれた。また、周りで二人の諍いの成り行きを見守っていた他の天狗達も、なるほどそれはいい解決方法だと口々に騒ぎ立てた。喧嘩の根底にある問題での競争による平和的決着――どうせ毎日暇な天狗達である。うら若き鴉天狗の少女の小説戦争が勃発するとくれば、いい暇潰しにもなる。
騒動の真ん中にいる二人よりも寧ろ、ギャラリーたる周囲が囃し立てた。小説で解決だ。小説で解決するしか無い――と。
完全に酔っ払っていた二人は、何だかその煽りに乗せられてしまった。
「いいでしょう。はたて、今回は小説で勝敗を決そうではありませんか」
「望む所よ。……と言うか寧ろそれ以外だと私って著しく不利な気がする」
戦いのルールは公平性の観点から、ギャラリーが勝手に決めてしまった。作者名非公開で加点性の短編コンペと長編コンペを開催し、二者の合計得点を争う――と言うものである。天狗ならば誰でも参加して良いと言うおまけも付いた。
天狗達は久しぶりにいい暇潰しが出来そうだと大いに喜んだ訳であるが、台風の目に位置する二人は楽しむと言うよりは本当に争い事として、今回のコンペを見ていた……と言うのはほんの数日のこと。喉元過ぎれば熱さ忘れるとは言ったもので、コンペ参加は表明したが、あの大喧嘩の夜の様な激しさはもう二人には残っていない。だが、あれだけ偉そうな口を叩いてしまった以上、負けてしまっては己の尊厳に傷が付いてしまうから、少なくとも、射命丸文は姫海棠はたてに、姫海棠はたては射命丸文には負けてはいられぬと、真面目に執筆活動を始めた訳である。
先に短編コンペが開催され、僅差で射命丸文が姫海棠はたてに勝利した。二人の小さな戦争の事実を知る天狗は、このことを新聞に起こそうと二者にインタビューを行ったのだが、姫海棠はたて曰く「10KBの中で一体何を書けばいいのかが最後までよく分からなかった」とのことである。
これで射命丸文は長編コンペで、はたてと付いた点差を埋められぬ程度に物語を紡いで逃げ切ることが出来れば勝利出来るのだが、それが危ういのは冒頭で書き表した通りである。
文の聞く所によると件の大敵、姫海棠はたては、一度目の戦いたる短編コンペの時は、他者のインタビューでも知られている様に、ギリギリの所まで何を書けばいいんだと頭を悩ませていたのに、今回の大容量コンペについては余裕綽々と言った様子で、期限までにもう一作くらい書いちゃおうかしらなんて冗談をかましているくらいなのだそうだ。何で10KBに悩み、100KBに悩まないでいられるのか、文には一向に理解が出来ないし、同時に理解などしている場合でも無い。とにかく彼女には時間が無いのである。
ああ、時間が無い、時間が無いと悩めど時間は増えない。ああ、手が動かない、手が動かないと悩めど手は動かない。こうして悩んでいる間にも無情にも時間は食い潰されて行き、刻一刻と締め切りが迫って来る。
作品の提出が出来なければ、文とはたての小競り合いは文の大敗で終戦を迎えることとなるのは明白だ。その敗北が、文にどれ程の影響が出て来るか――はっきり言ってさしたる影響が出る訳では無いであろうが、この一件でしばらくはたてや、あの諍いを見ていた仲間達に弄られてしまうのは間違い無いと言っていい。おまけに敗北の原因が「作品を完成させることさえ出来なかった」となってしまった場合の情け無さ――想像することさえ恐ろしい。新聞記者の名が廃ってしまう。もうどんな駄作でもいいからとにかく完成だけはさせなくては……と開き直り切ることも、冒頭記した様に出来ないし、そもそも完結だけを目標にした所で、51200文字の壁はあまりにも高く、大きい。グダグダと話を引き伸ばすにしたって限界があるのだ。ちゃんと、100KBたりえる内容を見つけないことには、完成は難しい。
そうやってしばらく、文はあれこれ頭を捻っていたものの、遂にその行為に無意味さを感じた。作業用BGMを掻き鳴らしていた携帯音楽プレーヤーから伸びるイヤホンを耳から抜き取って八つ当たりにと放り投げると、その勢いで椅子を立った。出掛けることにしたのだ。もはや、これ以上、この無味乾燥とした私室で、焦燥の炎に焼け野原にされてしまった寂寞とした頭脳をどれ程酷使した所で、この創作に終わりは見えないと判断したのである。新しい刺激を得ねば、この深すぎる泥沼を脱却することなんて出来やしないと考えた。……少しの現実逃避の色も帯びた外出である。
外はからりと晴れ渡っている。春を目路に捉えた冬の末尾である。まだまだ寒い日が続いており、春の気配を感じ取ることは出来ないが、冬の終わりを意識して晴天を見やってみると、花やら虫やら、新たなるいろんなものを迎えてやらなくてはならない春らしい膨張が、空に認められる様な気がしてくる。しかしやはり季節は冬、死の季節だ。広々と膨らんだ世界を利用する者がいないから、随分空は閑散としている印象を受ける。ぴゅーぴゅーとやかましく鳴きながら吹いている冷たい風でさえ、異様な存在感を示している。
さて、これからどこへ向かおうかと、射命丸文はそのがらんとした空を飛びながら思案した。外へは出たが、何も遊びに行く訳では無い。気分転換と言う名の怠惰はもう幾度と無く行って来た。その都度、一日をどうしようもなく後悔する羽目になって、今に至る。今度こそは、ちゃんと創作の手助けになる様な場所へ行かねばならない。
様々なことを考えた挙句、文は一つの閃きを得た。
「紅魔館の図書館へ行けば、何か参考になる本なりなんなりがあるかもしれません」
とにかく今の自分には、外部からの真新しい情報や刺激が必要だと感じていたから、文はこの閃きをすぐさま採用し、吸血鬼の根城たる紅魔館へと向かって羽搏いた。
*
居眠りが多いと専ら噂の門番はしっかり起きて番をしていたが、落ち着いて事情や用件を説明すると、別に拒むこと無く館内へと通してくれた。
エントランスホールへ入るとすぐにメイド長たる人間がやって来て、「何て珍しい客なのかしら」といちいち驚きの声を漏らして歓迎した後、図書館まで文を案内した。尤も、時間を止めての移動であったので、その移動は瞬き一回出来るか出来ないか程度の時間で終わってしまったのであるが。
図書館の物々しい扉を開けると、如何にも巨大書庫らしい香りが鼻孔を突いて来る。図書館の中は、館のどの部屋よりも断然明るい。暗い中で本を読むと眼が悪くなってしまう――とメイド長がうるさいのである。
図書館に足を踏み入れた文が初めに目が合ったのは、赤い長髪と黒い翼を持つ悪魔であった。この悪魔に特に名前は無く、またさしたる力も有していないので、便宜的に小悪魔などと呼ばれている、図書館の主たる魔法使いの助手の様な存在である。悪魔といえどもなかなか人当たりは良く、主が臍を曲げる様な行いをしなければ、客人を拒んだりすることは無い。
「まあ。珍しいお客さん。いらっしゃいませ」
メイド長と同じ様なことを言う。こちらの方が少々うるさいのは、叩き込まれた礼儀の差であろう。
小悪魔の声を聞きつけ、図書館の主たる魔法使いがどこからともなくやって来た。寝不足なのか、生まれつきなのか、本当に客人が嫌なのか、文には判然としないが、とにかく仏頂面である。
「あら、本当に珍しい客人だわ」
さしたる感動も覚えてない様な口吻でこんなことを言う。
文はとりあえず一礼し、事の次第を軽く語って聞かせた。やや込み入った話の様だからもう少し詳しく聞かせて貰うわと魔法使い。それを聞いた小悪魔は三人分の椅子と、茶と菓子など用意した。
さて、環境が整ってようやく射命丸文は自身の窮地を事細かに説明するに至った。だが、小悪魔は真剣に話を聞いている様子であるのに対し、魔法使い――パチュリー・ノーレッジの方は自身の読書を続けたままの応対であり、本当に文の話を聞いているのかが疑わしい。流石に懐疑的にならざるを得ず、文はパチュリーを訝しむ様な視線を送ったのだが、それに対して応答したのは小悪魔であった。
「大丈夫ですよ。パチュリー様は本を聞きながらでも他人のお話をしっかり聞き取ることが出来るのです」
どこか自慢げな声色であった。渋々、文は説明を続けた。
話を終えるや否や、
「つまり、創作に行き詰ってしまったから、この状況を打開する様な書物を紹介して欲しいってことね?」
相変わらず本から目を離しもしないでパチュリーが言う。本当に聞いていたんだ――と文は軽い感動すら覚えた。
うーん――と一声漏らした後、パチュリーが眉を顰めた。その真意は読めぬが、とにかく仏頂面が更に機嫌悪そうに歪んだ。
「個人の中に蓄積された情報のみで物語を紡ぐことに限界が生じてしまったと言うことは、個人の外から新しい刺激や情報を齎してあげなくちゃいけないのね。……小悪魔、何か思い付くことはある?」
「情報のみが必要なら記憶媒体としての魔導書でも十冊読めば嫌でも物知りにはなりますが、締め切りまでの時間を考えるとちょっとアレですねぇ。読書はあまり得意でないと言うことですし」
「手軽に読めてかつ創作意欲を刺激する本……オーソドックスに小説でも読ませた方が手っ取り早いかも」
「あっ! 『玉虫色の羽箒』なんてどうでしょうパチュリー様!」
「あんな幼稚な本を読んで何になるのよ。魔理沙くらいの人間の子が好んで読む様な本よ、あれは。今の客は鴉天狗で、短期で大容量の物語を完成させる為の知識を与えなくてはいけないのよ。それを理解した上で本を選定しなさい」
「あの本を読めば誰もが一度冒険譚を書きたくなると思うんですけどねぇ」
「あなたのお勧め読書の紹介をしている場合じゃないの」
あれこれ言いながらも、いろんなことを考えてくれている様で、一先ず文は安堵した。
魔法使いと小さな悪魔は、数分の間、ああでも無いこうでも無いと、文には寸分も理解出来ない討論を交わした後、何か一つの結論に到達したらしく、ほとんど同時に席を立った。文も倣って席を立つ。
「こっちへ来て」
パチュリーがそう言い、言下に歩み出した。小悪魔は手で主の背を指し示し、「どうぞ」と一言。文はそれに応じてパチュリーを追う。文の後ろに小悪魔が追従する。
上下左右、どちらを見ても絶対に本が視界に映り込んで来る、本の樹海の様な図書館を歩むこと百と数秒、パチュリーの歩みが止まった。文も小悪魔もそれに倣って足を止める。
パチュリーが巨大な本棚の高部を指差した。
「ほら、あそこに黒っぽい革の背表紙の本が見えるでしょう? 分かる?」
文は指差された方を見やって目を凝らす。確かに、黒っぽい革の背表紙が見える。
「ああ、見えます。多分あれですね」
「多分それだわ。それを取って頂戴」
背の低いパチュリーでは、目当ての本を手に取るのが億劫であるので、高身長な文に取らせようと言う魂胆であるらしい。言われるがまま、文は背伸びして猿臂を伸ばし、本を抜き取った。背表紙を見た感じ、何となく分かっていたことだが、なかなか分厚い本である。おまけに紙は茶色に変色している。相当な古書であることは、本についての知識に乏しい文でも一目で分かった。
抜き取った書物をパチュリーに手渡す。
「ありがとう」
とパチュリーは礼を言い、早速その本を開く。
「これは何の本なのでしょう」
魔法使いが難しい顔をして中に目を通している本を覗き込みながら、文が問う。
「これは……ううん、何と言うんでしょうかね」
反応したのは小悪魔であったが、この曖昧な答えを聞く限りだと、彼女の中には、この本がどんなものであるのかを、文を納得させる様な説明を行える言葉が存在しなかったと見える。
「のんびり生き過ぎた魔法使いの為の指南書みたいなものかしら」
パチュリーが横から口を挟んだ。しかし、文は理解できていない様子である。
「これは魔導書なのよ」
冷淡な声色でパチュリーは答える。
「魔法で作られた空間に移動する形の魔導書。魔法で作られた空間なんて言うと随分物々しいけれど、それは現実の一端に過ぎ無くて、いつでも私達の傍に存在しているのよ。けれど限りがある。外界の人間達は限られた電波帯域を占領し合っていると聞くけど、あれと同じ様なものね」
「つまりですねぇ、まあ、パイみたいなものですよ。パイが欲しいけれど一人占めはよく無いから、みんなで切り分けるんです。けれど限度はある。パイは無限じゃないですから。なので、欲しいならくれてやるがぞんざいに扱うんじゃないぞ――と、こう言う訳です。魔法空間――現実の空間とは一切リンクしない異空間――と言うパイがあり、使いたい人でそれを切り分けて各々使いたい様に使う。但し、貴重な有限の空間だから、下らないことには使うな。そういうもんなのです」
理解出来た様な気はしたが、自分が思っている程簡単な話では無いのかもしれないし――そこの辺りが判然としなかったが、とりあえず文は理解したことにして、「なるほど」などと適当に相槌を打っておいたのだが、
「魔法空間は、制約や邪魔の多い現実の空間と違って、各自が欲する理想的な空間を自由に構築できるから、欲する者が多いのよ。しかし再三言ってきた通り上限はあるから、欲望を充足する為だけに利用するなんて暴挙は許されない。公共の利益になる様な使い方をしなくてはならないのよ。その規則に反する様な利用を行っているのを見つけた場合は、魔法空間管理委員会に通告すればいい。審査をして、不適切と判断された場合は、問答無用で借用していた空間は破棄の上、没収。罰として空間の利用審査が千年くらい降りなくなるわ。それから、規則に則った利用方法をしている場合でも、毎月申請される新しい利用法と比較されて、その価値が申請されて来たものを下回った場合、空間を没収されることもある。だから魔法空間を利用する者は、努めてその価値を高めて行かなくてはいけないのよ」
こんな具合にパチュリーが長々と補足説明を加えたものだから、先程の妥協的理解が増々怪しいものに思えて来た。
文が混乱しているのを、その表情から察した小悪魔が、両手を目いっぱい広げた。
「かくいうこの図書館の一部も魔法空間なんですよ。魔法界の更なる発展、発達の為に、多種多様な書物を保存しておく必要がある、と言う目的で、パチュリー様が借用している魔法空間なのです。紅魔館の図書室は少し狭いですからね。現実の空間と繋げていると言う点で他の魔法使いから不満の声でも上がっていますが、今の所、没収の的になったことは一度もありません」
説明されれば説明される程こんがらがってくるので、文はそれ以上の説明は不要ですと断りを入れた。
それとほぼ同時に、先程抜き取った本を懸命に読んでいたパチュリーが、ある個所を開いたまま、ずいと文に本を押し付けた。
文が押し付けられた本を受け取り、そこに書いてある文字を読もうとした。……が、見たことも、恐らく聞いたことも無い不可解な文字であり、まるで読み解くことが出来ない。
「すみません。これは何と書いてあるのです?」
文が問う。そんなことも分からないのか――パチュリーが呆れた様に息をつく。相手が鴉天狗であろうがお構い無しの主に、小悪魔は肝を冷やした。
「つまりですねェ、この本は各々が経験を積める本なんです」
パチュリーが何か憎まれ口を叩くよりも先に、小悪魔が説明を加える。
「経験を積める?」
「そうです。で、その経験とは何なのかと言うのは、人によって様々なんですね。まるで興味も関心も無いことを何時間続けてみたところで、それを経験と捉える人はいないでしょうから。大掛かりな登山を遂行したいと思っている人が、美味しいマカロンの作り方を体得しても、全然意味が無いでしょう?」
「なるほど」
今度は、先程の魔法空間の説明とは違って、小悪魔が言わんとしていることが文でもよく理解出来た。
「魔導書に刻まれた魔法で各々の心を読み取り、読者が今最も必要としている事物は何かを本がおおよそ予測します。それから、専用の魔法空間へと移動し、本が予測した事象を読者が経験するのです。時間操作の魔法も完備していますから、現実世界程の時間も掛かりません。紛れも無い良書ですね、これは」
「ははあ。パチュリーさんが言っていた『のんびり生き過ぎた魔法使いの為の本』とはそう言うことなんですね? 経験の少ない魔法使いが手っ取り早く、必要な経験を積むことが出来る本である、と」
「そうそう。そんな感じです!」
小悪魔が小さな拍手など交えて言う。パチュリーが余計なことを言って雰囲気が険悪になるのを回避出来たことが心底嬉しいらしい。
「物語を紡ぎたいと言う気持ちが強ければ、どんな物語を紡ぎたいか、と言う気持ちが芽生えます。それをこの魔導書が上手に読み取って、あなたの創作が捗る様な経験を齎してくれることでしょう」
小悪魔が最後にこう説明し、ふぅと満足気な息を漏らした。
パチュリーも特に補って説明することは見当たらないと見え、何やら妙に熱の入った説明をしている小悪魔に怪訝な表情を向けている以外、これと言った反応を示していない。
「なるほど。本の仕組みは分かりました。ありがとうございます。ところで、どうやったらその魔法空間とやらへ向かえるのです?」
少々如何わしい本ではあるが、この本は十分に文の心を惹き付けた。善は急げと、文は早速、この本を使ってみたく思った。
パチュリーはもう世話を焼くのは面倒だと言わんばかりの仏頂面なので、小悪魔が代わって説明をした。
「冒頭に大きめの魔法陣がある筈です。そこに左右どちらか好きなお手を乗せますと、自動的に魔法陣があなたの魔力、妖力を微量採取し、そこからあなたの個人情報を、生命存続に関わる所から塵芥に等しい所まで、無駄な精密を以って読み取ってくれます。読み取り終えたら自動的に魔法空間へ移動することが出来て、あなたの経験値稼ぎが始まります」
言われた通り、本を一番先頭まで遡ってみると、なるほど、確かに大きめの魔法陣がある。
「これに手を乗せればいいんですね?」
文が言う。小悪魔は「はい」と頷いた。
やや恐々としつつ、文が魔法陣に手を乗せる。すると、魔法陣がぱぁっと光を放った。次いで、手のひらを何かか細い生物が這って動き回っている様な、そんな感覚に襲われた。くすぐったくて、文はむずむずと体を捩らせる。
「そうそう」
ここまで押し黙り続けて来たパチュリーが開口した。文も小悪魔もそちらを向く。
「魔法空間に向かうのは魂だけになる訳だけど、向こうの空間でも、あなたの記憶に則って、魔法空間での肉体と言うものが用意されるわ。それは紛れも無く作り物の肉体であり、あなたでは無いのだけれど、殺せば死ぬわ。魔法空間は現実の一端よ。魂の疲弊や損傷は何ら滞り無く発生する」
――いきなり随分不吉な単語が飛び出して来たものだから、文は思わず生唾を飲み込んだ。
「つまり、向こうの世界での死は、現実の魂の死に等しいと言うこと。作り物の身体、世界だからって油断はしないことね。無事に生き延びてこちらへ帰ってきたとしても、魂に死と言う概念や、それに付随する感覚が刻まれたままだと、案外ぽっくりこっちの世界で逝っちゃう可能性があるわ。自分が死ぬ夢を見た時、脳がそれを夢として処理出来なかった場合、本当に死んでしまうのと同じ様な感覚ね。それだけは気を付けておきなさい。帰りたいと思ったら帰れる様な空間じゃないけど、与えられた数多の経験を回避することくらいは出来ると思うから。……繰り返す様だけど、油断はしないこと。無理も禁物よ」
段々とパチュリーの口調が早口になって行ったのは、魔法空間への移動が始まろうとしているからであろう――と文は思った。旅立ちの間際にあまりにも恐ろしいことを聞かされてしまい、文は今更の様にこの旅立ちを中断したくなったのだが――遅かった。
「ああ、時間みたい。それじゃ、健闘を祈るわ。素晴らしい作品が完成する様に祈っているから」
パチュリーの声は最後まで素っ気なかった。
*
パチュリーの見送りの辞を聞き終えた途端、文は言い知れぬ浮遊感に包まれた。それから、まるで一瞬にして眠りに落ちたかの様にあらゆる感覚が一度遮断された。故に、どれくらいの時間、そんな仮死状態の様な状態に陥っていたのか正確に判断は出来ないのであるが、とにかくやや時間を置いた後、段々感覚と言う感覚が、彼女の身体に戻って来た。ああ、きっと今この瞬間、魔法空間専用の身体が構築されていっているんだわ……などと考えることが出来る辺り、先ず思考を司る部位から身体の構築が始まったものと思われる。
それ程時を待たずして、文は漠然と『目を開けることが出来る状態』になったことを察知した。身体、及び世界が完成されたのである。
自身が望む創作の手助けとなる様な経験をさせてくれる世界。一体全体、そんな世界はどんな様相を呈しているのだろうか――期待と不安に囲繞されつつ、文はゆっくり目を開けた。
そこは見慣れた私室であった。胡乱で、狭くて、気晴らしに焚いたお香がまるで部屋主であるかの様に大きな顔をして蔓延っている。老朽が原因でフィラメントが切れかけている電球のほの暗さまで完全再現されている。パチュリーは魔法空間を現実の延長と呼んでいたから、これくらいの再現度は別に驚くことでも無いのかもしれない、とも考えた。
しかし、もっと異様な世界への転移を期待していた文は、まさか自分が私室を再現した世界へ飛ばされるとは思っておらず、些か失望した。ここから本当に、自分に必要な経験と言うものが得られるのか、何だか懐疑的にもなって来た。思えば、パチュリー・ノーレッジはともかくとして、あの小さな悪魔はそこはかとなく胡散臭くも思え初めて来た。……一つのことが気になると、芋づる式に何でもかんでも疑いたくなってしまう。
机に突っ伏した状態から起き上がった場面から、異世界での生活が開始された。このまま椅子に座っていても仕方が無いので、文はゆっくりと椅子から立ち上がった。――立ち上がった所で、この異世界でも、自分はひどく自然に起立と言う動作を行えたことに気付く。精巧な作り物の世界だなと、感心を覚えた。
出来のいい作り物の世界に感銘を受けていると、背後にある扉が外からこつこつと叩かれた。
「はぁい、どうぞ」
――などと言うよりも早く扉が開かれてしまった。入室してきたのは姫海棠はたて。平凡な家庭に生まれ、平凡な新聞記者として生活している文には到底手が出せない、外界から密輸した高級トリートメントで手入れしてある彼女の自慢のツインテールは、異世界でも現実と何ら遜色無い艶と輝きを放っている。何だか文の記憶よりも髪質がいい様にも見える。自身を悩ませる難敵が、こうも傍若無人に登場してきたものだから、些か文は苛立った。
「はたて、人様の部屋に入るのにその態度は無いんじゃない?」
異世界で説教して何になると言うのだ――と言う気分がしたが、
「はいはい、ごめんごめん」
はたては実に“現実的”な応対をするのである。本物のはたてと何ら変わりが無い。
ああ、異世界と言う意識を持っているのは自分だけなんだな――と、文は痛感する。そう考えると、何だか非常に生き苦しく感じられた。比喩でもなんでも無く、本当に自分だけが別世界の生物なのだから。
「だけど今回は少しばかり感謝もして貰いたいわね」
はたては意味深に笑んでこんなことを言う。
「人の部屋にずかずか上がり込むことに感謝を覚えろと?」
「流石にそんな無茶は言わないわよ」
はたては呆れた様に肩をすかすと、肩身離さず持ち歩いている携帯電話を取り出した。小さなボタンを何やらポチポチと操作した後、その画面をずいと文に見せつける。
文は否応無く、その画面を見せつけられることとなったのだが、その瞬間、心臓を直にぶん殴られた様な衝撃に見舞われた。同時に胃の奥底から液状の何かが込み上げて来る感覚を覚え、咄嗟に口に手をやったが、幸い、込み上げて来た液体が体外へ飛び出すのは免れた。
「遂にやってきたのよ!」
はたては何だか勿体ぶった口調でこんなことを言う。
「遂に……?」
別世界の生き物たる射命丸文は、この世界の現状など知る由も無い。だから、姫海棠はたての携帯電話の画面に映し出された、見るも無残な天狗の惨殺死体など見せつけられて「遂にやってきたのよ」なんて言われても、何のことやらさっぱり分からないのである。
はたては何だかもどかしそうに手足をばたばたさせて、キィキィとやけに頭に響くやかましい声でがなり立てる。
「事件よ、事件! 大事件よ! 幻想郷最古参と言っても過言で無い天狗が、誰かに殺されてこんな姿にされてしまったのよ! あんた新聞記者の癖にそんなことも分かんないの?」
事件の重要性を説いている間は至極興奮している様子であったのに、文を愚弄する時の声は妙に声のトーンが落ちた。抑揚の激しい奴ね――と、文は現実逃避にも似た全くどうでもいいことを考えていた。
「こう言う残酷な事件を新聞に取り上げると、読者は喜んでくれるからね」
もう見せてあげないよ――とでも言わんばかりのしたり顔を浮かべて、はたてが携帯電話のボタンを操作すると、たちまち画面に映し出されていた陰惨な死体の画像はどこかへ失せてしまい、画面は唯の真っ黒な四角形に切り替わってしまった。
「そういうもんなんですか?」
文が問う。本当に分からなかったのだ。彼女は、こういう目覚めの悪い事件を新聞の題材として取り扱うことを避けて来たからである。
はたてはカラカラと笑った。
「そりゃ、もう。どっかの間抜けを嗤うだけの記事なんかよりは、よっぽど喜ばれるわよ」
文は「へえ」と言う他無かった。
「あんたも今回を機にこう言う事件も取り扱ってみたら? 同胞が殺されてンだし、いろいろ調べて解決を助ければ、おまけで何か賞されたりもされるかもよ?」
こんなことを早口で言いつつ、はたてはまたも高速で携帯電話を弄っている。今し方彼女が言った、『解決を助けて賞される』為の手掛かりを探しているのである。
何だか、仲間の死を出汁に使っている様な感じがして、文は些か不快感を覚えた。
「はたて、同胞が一人死んでいると言うのに、そんな軽々しい物の言い方はあんまりではありませんか」
言下にはたてがきょとんと文を見据え、首を傾げた。
「同胞じゃなかったらいいの?」
「そう言う訳でもありませんが……」
「だったらいいじゃない。同胞も天敵も等しく糧にする。どんなに嘆き悲しんでも死んだ同胞は戻って来やしないよ。だったらこう言う風にでも使ってあげた方がまだましじゃない?」
意外とがめつい奴だな――文は何だか妙に腹が立った。
「じゃあ、はたて。もしもあなたが今回の事件の様に殺され、ネタにされても、あなたは絶対に怒らない?」
「怒らないね」
はたては自信満々である。
「本当に?」
文が釘を刺す。
「ええ。神に誓って」
「どうしてそこまで言えるのです?」
「だって――」
はたてはそっと文の耳に口を近付け、
「死んだらもう怒れないし」
こう囁き、先程の自分の発言がそんなに面白く感じたのか、またも呵々と笑った。文はもう返す言葉も失せてしまい、笑うはたてを見やっている。
満足するまで笑い終えたはたては、尚も少し息苦しそうにしながら、
「まあ、新聞の題材にするなら、早く現場へ行くことね。後片付けされちゃうよ。速さには自信あるんでしょ?」
こんな助言を残した。そして踵を返し、文の部屋を去って行った。
因みに、はたてが先程文に見せた写真は、他者が撮影したものを念写能力で盗み撮ったものである。はたてはこのお陰で、現場に急行することなく、最新の写真を入手することが出来るのである。幻想郷最速を謳う文よりも、よっぽど素早く真新しい情報を入手する術を持ち合せているに等しい。
静かな部屋に取り残された射命丸文は、これからどう動くべきかと言うことを少しだけ迷った。
彼女のポリシーとして、先程はたてに紹介された様な血生臭く陰惨な事件は、新聞の題材としては取り扱わないように心掛けて来た。そう言う情報は、書いていてあまり楽しくも無さそうだし、また、不用意に世界の不安を煽ってしまうと思っていたからである。そして今現在も、やはり、文はあまり乗り気では無い。
しかし――と、文は思い留まり、そして思い出すのである。
ここは現実の世界では無い。現実の延長に存在する、作り物の空間である、と言うことを。
ここが仮初の世界であるのならば、現実の世界で打ち立て、そして貫き通して来た心情を犯してしまっても、別に罰は当たらないのではないか……とも思えるのである。
そもそもこの世界は、射命丸文が下らない諍いから勃発させてしまった文章による闘争を制する為の小説を作るのに必要な経験を齎してくれる世界であると言う触れ込みの世界なのである。即ち、異世界へ移転して早々に転がり込んで来たこの痛ましい血みどろの事件も、その一端なのでは無いかと思えて来る――否、そうとしか考えられなかった。のんびりと生き過ぎた魔法使いの為の本なんて仰々しい異名を与えられた魔導書の作る世界で起きる事変に、意味なんて無いなんてことはあり得ない筈なのだ。効率的な経験の蓄積こそ、この世界の有する価値であるに違い無いのだから。
射命丸文は意を決し、机に置かれているカメラをむんずと引っ掴み、部屋を出た。
すっかり部屋から遠ざかって小さくなってしまっている姫海棠はたてを大声で呼び止める。
「はたてっ! 聞きたいことがあります!」
急に大声で名を呼ばれた姫海棠はたては、些か驚いた様に後ろを振り返った。まだ携帯電話を弄っている。
「さっきの事件の現場、どこなんです? 教えてください!」
しばらくはたてはキョトンと文を見やっていたが――しばらくしてにんまりと笑った。
そうこなくっちゃ、文――こう呟いた声は、当然の如く、距離の離れた射命丸文には聞こえてはいない。
*
姫海棠はたてに教えられて、殺傷事件の発生した現場に急行した射命丸文であったが、その惨状は画質の粗い画像で見るよりも遥かに生々しく、惨たらしいものであった。おまけに、画像では感じることの出来なかった臭気と言うものが、実際の現場には蔓延しているものだから、画像を見せられた瞬間に感じた吐き気とは比べ物にならない程の不快感が、文を容赦無く打ちのめして来る。
事件の現場は森の奥深である。瘴気が強めの場所であり、天狗である文でさえ、少し気を抜くと頭痛や眩暈に襲われそうになって来てしまう。そんな場所で、見るも無残な同胞の死骸を写真に収めなくてはならないのだから、はっきり言って文の身体の調子は最悪である。吐かず、倒れず、目を回さず、死体の写真撮影を行えていることが奇跡の様に思えて来る。
同胞はバラバラになって死んでいる。首、腕、脚が、胴から切り離されているのである。首の断面はスラリと美しいので、鋭利な刃物で一閃したものと見られるが、腕の断面はそうはいっていない。ギザギザした刃――一番初めに思い付くのは鋸である。そんな具合の刃でゆっくりと切断された様子が見られる。脚に至っては、もはや刃物を使った形跡さえ認められない。死体の傍らに、折れて先端の尖った木の枝と、大きめの石が転がっている。それぞれべったりと血に濡れていて赤黒い。恐らく、木の枝の尖端でちくちくと肉を抉って行き、途中で面倒臭くなったのか、それとも犯人がそう言う趣味、嗜好を持ち合せているのであろうか、石でぶん殴って無理矢理叩き割ったものとみられる。石で無理矢理押し潰した可能性も見られる。
ころりと転がっている同胞の表情は、苦痛と恐怖で見るに堪えない程に歪み切っている。故に、恐らく首は最後に刎ねたものと推測出来る。悪趣味なことに犯人は、手足を悠長に切断した後、やっと天狗に止めの一撃を与えたのである。
被害者は、そのいちいち陰湿で惨たらしい死を目前にして、涙も零れたであろうし、洟や涎も留めることが出来なかったであろう。しかし、それを拭う手は既に無かったのである。それが、この恥辱に塗れた哀れ過ぎる死に顔を作り上げたのである。
以上の様な同胞の状態を、文はいちいち事細かに調べ、推測した訳では無い。全部、他者からの受け売りだ。文の他にも多くの鴉天狗がやって来ていて、各々好き勝手に写真を取っているのである。こう言う、所謂グロテスク趣味な者も多くおり、そういう輩が同胞の死体を見て、鼻息を荒くし、嬉々としてあれこれ語っているのである。
しかし、文に憤りを感じている余裕など無い。正気を保ってその場に留まり、死体の写真を写すのに精一杯であった。
程無くして写真撮影は終了した。現場の後処理を行う為に駆け付けていた天狗達が頃合いを見計らって野次馬を追い払い、己の任を遂行したからである。その後処理役の天狗は、文よりも遥かに先にこの現場へ来ていたと言うのに、新聞記者達に撮影の猶予を与えるべく待機していた様子である。こう言う現場に不慣れな文に至っては、その後処理役の天狗達を野次馬の一員と見紛っていた程である。
バラバラになった身体を寄せ集めて一つの袋へ放り、数名はその場を立ち去った。残りの数名は現場の清掃などを行っていた。ほとんどの新聞記者は、死体が運ばれて現場を去ると同時に何処かへ飛び去って行ってしまったが、文は何となくその場をすぐには動かず、清掃を行っている天狗の写真なんかを収め始めた。何となく、こう言う現実も撮り収めておきたいと思ったのである。同胞の死を新聞のネタとしてしか見ていない様な他者と自分は違う――と言う、ささやかな反抗心が働いたのかもしれない。
被写体となった天狗は勿論、その場に残って他者とあれこれ議論を交わしていた記者の輩も、文に奇異の目を向けた。
「私達を撮影するなんて珍しいですね」
清掃を行っている天狗は、やはりと言うべきか、天狗の階層社会の最も最下層に位置する白狼天狗と呼ばれる者達であった。普段、ろくすっぽ見向きもされない彼彼女等は、よもや自分達が写真に収められるなどとは思ってもいなかった様で、大いに困惑しているが、しかしその中に喜びの意を見出すことが出来る。中には呑気にピースサインなど送っている者もいる。文はとてもそんな気分ではいられていないのであるが、その白狼天狗達にとって、こう言った労働環境はさして珍しいものでも無いから、普段と何ら変わらぬ態度を見せることが出来る様なのである。
薄暗い森の中で微小な日光を奪い合って懸命に生きている草花に付着した血を洗い、そこいらに散らばっている死した同胞の細かな肉片やら毛髪やらを丁寧に拾い集めながら、カメラに向かってにこやかに微笑む生ける同胞――考えれば考える程、訳の分からない絵面であり、文は余計に気分が悪くなって来てしまった。
細やかな反抗心も遂に限界を迎えた。文は言葉も無く深く一礼すると、そそくさとその場を後にした。行く当ては特に無かったので、一先ず妖怪の山にある自宅へと帰還することに決めた。
空へ飛び立ってみたが、墜落してしまうのではないかと思える程に、空を上手く飛ぶことが出来ないのである。無残な最期を遂げた同胞の死霊が、大地から猿臂を伸ばして足首を引っ掴み、そのまま地の底に広がる冥府へと引き摺り込んで来たかの様な感触を覚えた。そんな筈は無い――とは思いつつも、下を見てみる勇気は湧いて来ず、有りもしない霊の手を振り払うかの様に、文はグンと加速し、空を突っ切った。心中は墨を零したかの様にどす黒く、どろどろとしていると言うのに、空は澄み切った青色である。
――こんな気持ちで無ければ、絶好の飛空日和なのに。
良く出来た作り物の私室へ戻ると、とりあえず文は部屋の鍵を掛けて、カメラをベッドへ放り、追う様にして自分もそこへ倒れ込んだ。寝具の柔らかさまで現実と変わらない。
しばらく枕に顔を埋めていたが、次第に息苦しくなって仰向けに体勢を変えた。現場を遠く離れて尚、尾を引いている吐き気の収束を待ったが、状況の好転は見られない。
何の気無しに手の位置を変えてみると、カメラに触れた。もぞもぞとそれを手に取って掲げ、いろいろな角度からぼんやりとそれを眺めてみた。相棒と言っても過言で無い、使い慣れた、そして使い古したカメラであるが、今現在、この中には、未だかつて撮影したことの無い様な酸鼻極まる世界の切れ端が収められているのだと思うと、見慣れた筈の相棒も何だか別物の様に見えて来てしまう。
「変なものを撮影してしまって申し訳ありません」
こんな独り言を漏らしてしまったのだが、
――変なものなんて、死んだ同胞に失礼だろうか。
ややあってこの様なことを思った。だが、あれこれと考える気は起きず、カメラをそっと腹の上に乗せて、そのまま目を閉じた。吐き気と、痛ましい同胞の死体を見たことによる不健全な興奮が収まらぬことには、何をやっても非効率的に思えたので、文は一度眠ってみることに決めたのである。
存外、すんなりと眠れてしまい、目を覚ましてみると夕方になっていた。
不健全な興奮はさておき、吐き気の方はもうほとんど収まっていた。今はすっかり丸くはなってしまったが、天狗も紛うこと無く妖怪の一であり、人間を食って生きて来た経歴を持っているのだから、いちいち惨殺死体なんぞに動揺してやる道理は無いのだ。――ただ、死体が同胞であったと言うだけで、これ程にまでショックが大きいとは、文は思ってもいなかったのだが。
とりあえず文は起き出し、先程撮影した写真の現像を開始した。幸いにも、それを行う為の環境や道具は、現実と全く変わり無く存在していたので、現像はすんなりと終えることが出来た。
完成した写真を見て――少しだけ吐き気がぶり返して来た。生物の記憶なんてものは本当に当てにならないものなのだなと、文は実感した。こうして、世界のある一瞬を切り取った長方形の紙片を見るだけで、記憶を掘り返すよりも遥かに大きな衝撃が齎される。記憶はいつでも曲解されてしまう。脳が受け入れやすい形に歪んでしまうのだ。だから文の記憶の中にある同胞の惨殺死体は、直視しても平然としていられる程度のものなのだ。だが写真は違う。真実をありのまま、見る者へと容赦無く突き付けて来る。
文は思わず顔に手をやった。見ているのも嫌になって来る様な、本当に不快な写真であったのだ。
気分の悪さが完全にぶり返して来てしまったので、文は現像した写真を、そのグロテスクな固形物が見えない様に裏返してしまった。
それから少し思案した挙句、部屋を出た。新聞を書くには、取材を行わねばならないと言う、新聞記者の基本中の基本を、たった今思い出したのである。かなり動揺しているな――文は自嘲めいた思いに駆られた。
事件のことを知っている者の目星など全く付いていないので、とりあえず目に留まった同胞に声を掛け、今回の事件についてどう思うかとか、どうしてこんなことが起きてしまったと思うかとか、そんなことを聞いて回った。
死した天狗との関係によって、意見は様々であった。親しかった者は憔悴していたし、大して接点の無かった者は案外飄々としている。また、別段親しかったと言う訳では無かったが、同胞の死を悲しんでいる者もちらほらいた――因みに文は、今回の事件に関して言えばこの層に属する者である――。
どうしてこんな事件が起きてしまったのか……と言う質問に関しては、実にいろんな意見が飛び出して来て、文も不謹慎とは思いつつも、些か楽しさを覚えた。
ある者は男女関係の縺れだと言った。
ある者は金銭トラブルだと推測した。
またある者は鬼との確執を疑っていたし、河童の反乱を謳う者までいた。
天魔様のお怒りを受けたのだ、などと言う至極恐ろしい考えを持っている者もいた。
いろいろな者が流れ込んで来る幻想郷なんだからこれくらいの事件の一つや二つ起きても別に珍しく無く、たまたまそれの被害者が天狗だったからお前ら新聞記者が無駄に騒いで盛り上げているだけだろと、随分冷めた意見を持っている者にも遭遇した。
意見は多種多様であり、切りが無いので文は草々に取材を打ち切った。真相解明は一朝一夕で出来るものでは無いから、急ぐ必要性も感じなかった。
取材を終え、自宅へ戻ると、早速新聞作りに取り掛かった。
随分赤色が多い写真十数枚と、原稿用紙を机の上に広げ、椅子に座り、ペンを握った。未だかつて、題材にしたことの無い様な写真と睨み合い、さあどんな新聞を書こう――と、文は思案し出した。
思えば、他者の新聞をあまり見てこなかったことに気付く。だから、普段からこう言う凄惨な事件を取り扱っている同胞が、どんな新聞を書いているのかと言うことがさっぱり分からないので、参考に出来るものが何一つ無い。指針が無いと創作は捗らない。
どんなことを書くものなのか。どんなことを書くべきなのか――こう言ったことがまるで分からないので、とりあえず文は、あまり波風の立たぬ様な、つまらないことを書いておくことに決めた。
ナントカと言う天狗が、これこれこう言う具合の著しく残虐な手法で以って殺害されると言う、大変痛ましい事件が起きてしまった。犯人は不明。動機も不明瞭だが、それはこれから明らかになって行くことだろう。この様な事件はこれ切りになり、平穏な幻想郷が保たれることを願うばかりである――。
異世界に来て、まさかこんな面白くも無い新聞を書くことになるとはねと、文は何だか情けない気分になって来た。だからと言って、これ以外に書くことなど一向に見当たらないので、結局、文はこの新聞を自身が手掛ける『文々。新聞』の最新刊として発刊することに決めた。
通い慣れた印刷所へ行ってみると、普段よりも元気の無い印刷所の所員がいた。
これ、よろしくお願いします――と、文は完成させたばかりの原稿を手渡す。原稿を受け取った所員はさらりと新聞を流し読みし、規約に反する様な内容が無いかをチェックする。その査定は滞り無く終わり、いざ印刷が始まった訳であるが、その印刷の最中、所員は苦笑いを浮かべながら愚痴を零し始めた。
「射命丸さん、あなたの新聞はマイルドですねェ」
文は何と反応すればいいものか分からず、
「そうですか?」
と当たり障りの無い応答。すると所員は水を得た魚の様にぺちゃくちゃと語り始めた。
「そうなんですよ。鼻高天狗のどなたかが随分惨い方法で殺されてしまったのでしょう? みんなお偉方がこんな凄い死に方するなんてって、悲しむのもそっちのけで血生臭い新聞作りに勤しんでンですよ。……射命丸さんはあんまりそう言う新聞作られないのですっけ?」
「ええ。あまり馴染みないですね」
「そうですか。だから今回もこんな風に沈痛やるかたないと言った具合の落ち着いた内容に仕上がっているのですね。いや、結構です。寧ろ素晴らしいですよ。もう昼間から今の今まで、手渡される原稿と言う原稿が真っ赤っ赤なんですよ。血だ、肉だ、臓物だ、バラバラだってな具合にね。しばらく箸が進まなくなりそうですよ、全くもう」
「あなたも大変ですね」
やはり文は大して気の利いた返答をすることが出来ない。
今尚印刷が進んでいる文の『落ち着いた』新聞を横目で見やりつつ、尚も所員は言葉を紡ぐ。
「しかし、今回はなかなか大きな騒動になりそうですね。何せ鼻高天狗が死んでしまったのですから。私達白狼天狗の死とは訳が違います」
「そんなことはありませんよ。同胞の死は、同胞の死です」
文がこう言うと、所員はケラケラと笑った。
「射命丸さん、あなたは意外と取材意外の面では優しいのですね。私、少しばかり見直してしまいましたよ」
「ああ、そう。それはどうも」
素直に喜ぶことが出来ず、文の口吻はほのかに刺々しい。
「いや、しかしね、やはり私らの死とお偉方の死は訳が違うんですよ。だって、ほら、いろんな可能性が出てくるじゃないですか。身内同士の醜い争いとか」
「身内同士の……」
「そう。白狼天狗が内密に殺し合ったなんて言っても酒でも飲んで喧嘩でもしたんだろ程度のモンですが、お偉方はいろんな役職やら何やらありますからね。一つ偉くなっただけで待遇やら地位やらがドンと変化してくるではありませんか」
「確かにそうですね」
「私ら知的生命体は欲が深いもんですからね。ちょっと偉いともっと偉くなりたくなるし、ちょっと偉くなるともっともっと偉くなりたくなってしまう。偉くなればなる程、欲望はどんどん加速して行って、挙句こうして過激なことまでやってのけちゃいたくなるもんですよ。そう思いませんか?」
「一理ありますが……しかし」
「そうでしょう。一理あるでしょう。だから今回、事を解決したいのなら、山の外ばかりに目を向けていてはいけません。そんなのは愚かでありますし、第一面白くありません。ちゃんと山の上にも目を向けていかなくては、ね。――被害者の方にはちょっと失礼かもしれませんが、真相解明、難航するといいですねえ。いろんな人の疑心や狂気が上手く混ざり合ってくれた方が、蚊帳の外たる私達は面白いですから」
所員は蓄積されて来た鬱憤をようやく晴らすことが出来たと言った具合に息を吐いた。時を同じくして印刷が終了した。文は出来たばかりの新聞を受け取って、所員に簡素な礼を言い、再び自宅へと戻って行った。
もう夜の遅い時分であったから、新聞の配布は明日に回すことにし、文は帰宅早々、再びベッドへ倒れ込んだ。完成した新聞の入った肩掛け鞄をベッドの傍へと置き、大きく息を吐く。惨たらしい写真ばかり見て来た所為で食欲なんて一向に湧いて来なかったし、やり慣れていないことをした為、疲労感も凄まじく、横になるか、そのまま寝てしまうかくらいしかやろうと思えてくることが存在しない。靴下を脱ぎ捨てることが出来た自分を褒めてやりたくなる程の倦怠感、疲労感である。
電灯も点けていない真っ暗な部屋の中で、文はとりあえず、魔導書の導きで連れて来させられたこの世界についての思案を始めた。
文は、パチュリー・ノーレッジとそれ程親睦が深い訳では無いのだが、彼女が紹介してくれたこの魔導書を、一応信頼してはいる。と言うより、小さな悪魔と交わしていた議論が演技であるとは思えなかったし、また、わざわざ貴重な自分の時間を割いてあの様な大仰な寸劇を演じて自分を欺く必要などまるで考えられないから、消去法的に、今回の異世界への移転が、自分が望んだものと合致しているという結論に到達してしまうのである。
パチュリー、小悪魔、そして魔導書の導きが、文が今欲しているものを提供してくれるものだと言うことを前提に据えて考えると、やはり、移転先でいきなり起きたこの陰惨な事件は、今の自分に必要なものなのだと認識しても何ら間違いは無いだろうと思った。
小説を作る為――と言う意識は強く持って魔導書の魔法陣に手を触れたから、よもや全く別のことを達成する為の経験をさせられていると言うことは考え難かった。紛れも無くこれは、創作の為の世界なのである。
では、その経験を齎す具体的な事物とは何かと言うと、どうやらそれはやや狂った日常である様なのだ。射命丸文の生きる世界に瓜二つの――否、完全再現されていると言っても過言で無い様な世界が用意されていて、文はそこで普段とはやや異なる日常を送るのだ。これが文の求めていた、真新しい刺激と言う奴であり、彼女に与えられた創作のヒントなのである。
今回の事件の発生から解決までを物語にすれば、ノンフィクションの様なフィクションが完成するってことね――文は与えられたヒントをこの様に解釈した。
現実世界の延長に作られたこの世界で起きた此度の残忍な事件は、現実の世界で言えば架空の事件と位置付けられるであろう。だが、異世界に移動した文にとっては、その架空の事件は紛うこと無く現実なのだ。それを終始経験し、文章に起こすことで、最高に現実的な非現実の物語が完成する。
印刷所の所員が、今回の事件は意外と裏がありそうだ、なんて大仰なことを言っていたが、この事件を小説に起こすつもりの文にしてみても、そちらの方がありがたく思えて来る。結局、何か大きな物語を書くには、相応の大きさを持つ題材が必要不可欠なのである。至極小さな題材を何十倍、何百倍に希釈した所で、完成するものの程度など知れているし、そもそも、そんな風に薄く薄く引き伸ばして行く方が寧ろ難儀なのである。先ず、題材を得なくてはいけなかったんだ――異世界へ来て早々、文はこれを学びとることが出来た。降って湧いた様に脳裏を過ったとある一場面と物語の終焉を繋ぐだけ……などと安易に考えていた自分を恨めしく思った。
そうと決まれば話は早い。文は、やや乗り気はしなかったものの、明日からこの度の事件の真相を追うことに決めた。恐らく魔導書の方も、こう言う展開に持って行くつもりだったであろうことは想像に難く無い。
血みどろの事件は苦手であるのだが、謎を解明して行くのは好きであった。あまり陰惨な場面に遭遇しなければ、なかなか面白い経験となるのでは無いか――文はなるべく楽観的に、提示されたヒントを見つめてやることにした。
*
翌朝の目覚めは箆棒に早く、寝起きの状態は最悪であった。死肉ばかり見ていた所為で悪夢に魘され、夜中に何度も目が覚めてしまった。また、目覚めずとも、まるで瞼の裏に焼き付いたかの様にバラバラにされた死体が夢の中に居座り続けるものだから、まるで眠った気がしなかった。
事件の真相の仔細を知り、且つなるべく早くそこに辿り着きたい文としては、悪夢の余韻如きに足を引っ張られたたくは無いのであるが、どうも身体と心は上手く噛み合って動こうとしない。寝不足の影響で鉄塊でも埋め込んだかの様にずしりと重たい頭を、コツコツと叩いて、何かの拍子に本調子に戻ってはくれないかと、壊れかけの家電を直そうとしている機械音痴みたいな願いを天に飛ばしていると、
「文、起きている?」
いきなり扉が開かれ、若々しい少女の声が部屋中に響き渡った。扉の開放も少女の声も、随分唐突な発生であったのだが、いかんせん頭が上手く働いていない文は、それに機敏に反応することが出来ず、オジギソウが葉を閉じる時の様な緩慢な動きで扉を見た。
「ああ、はたて。おはようございます」
来客は姫海棠はたてであった。文は覇気の無い声で挨拶をする。
快活さの欠片も無い文に、はたてまで生気を吸い取られてしまったかの様に、彼女はげんなりとした表情を見せた。
「あんたさぁ、もうちょっとまともな反応は出来ないの?」
はたてが言う。
「あなたが朝からうるさいんですよ」
文は負けじと反論したが、はたてはどこ吹く風と言った様子である。
「ところで、私に何か用事でも?」
これ以上憎まれ口を叩かれては敵わないから、文はさっさと話題を変えた。
文に用件を聞かれたはたては、にやりと笑うと、さっと一枚の紙を掲げた。文は目を細めてそれを見る。
紙面には一枚だけどでかく写真が掲載されていて、後の大部分には細かな文字がつらつらと記されているのだが、一つだけ遠目にも分かるくらいの大きさの文字があるのが分かる。だが文は、それをいちいち読まずとも、その大文字が何と書かれているかを言い当てることが出来る。
――花果子念報。
姫海棠はたてが監修する新聞の名前である。念写能力を用いていることから、この様な洒落た名前を付けている。
「用事っておニューの新聞のお披露目ですか?」
文が問うと、はたては何だか自信満々の様子で頷いた。文は即座に溜め息をついて見せる。
「ああ、はたて。私が既に起床していて本当によかったですねぇ。そんな下らない用事で睡眠妨害されていたら正気でいられなかったでしょう。何したか分かりませんよ」
「あらあら物騒ねぇ、文ったら。これ以上血生臭い事件を起こさないで頂戴」
はたてはまるで悪びれた様子など無く、ずかずかと文の私室へ入り込んで、ベッドに腰掛けている文の隣にどすんと腰を降ろした。
「わあ、いいベッドね」
無礼の穴埋めだろうか、いきなりはたてはベッドを褒めた。
「それはどうも」
文は何を言うべきか考える気も失せて、その世辞をありがたく受け取っておいた。
はたてはそれに何ら反応すること無く、マイペースに話を進める。
「私の新聞はこんな感じなんだ」
作りたての新聞を文に手渡した。文は一応、それに目を通す。
やはりはたてはこう言った事件への関与が今まで多かったと見え、文章や記事そのものの構成がかなり手慣れた感じである。陰謀論やらスキャンダルやら、いろんな方面から今回の事件にスポットライトを当て、面白おかしく引っ掻き回し、読者の興味を引こうとしているのが分かる。読んでいてわくわくするが、果たしてこう言うのを新聞と言っていいものかと、文はどうしても考えてしまう。
「読んでいて楽しいですね。まるで物語を読んでいるかの様です。しかし、脚色が過ぎていませんか?」
読んで思ったことを率直に述べる。はたてはそれを聞いてけらけらと笑う。
「読み物ならやっぱり面白い方がいいじゃない」
文は腕を組み、首を傾げて見せる。
「新聞はそういう読み物では無いと思うんですけど……」
「まあまあ。問題はあれども読んでいて面白いのね。それなら安心したわ。ありがと」
説教が始まることを忌避したはたてが強引に話の腰を折った。
「ところであなたのはどこ? それとも、あの事件には関わらないことにしたの?」
はたてはきょろきょろと部屋中を見回して、文の新作の新聞を探した。文は昨晩作った新聞をはたてに見せるべきか否か、少し迷った。やたらと華やかで賑やかなはたての新聞に対して、文の新聞はよく言えばおとなしい、悪く言えば陰気とでも表現出来る。まるで対極に位置する内容であるから、何だか見せるのがやや憚れる思いであったのだ。今回の同胞の死を取り扱った新聞は、ほとんどが花果子念報に近似した内容となっているのは明白だ。昨晩の印刷所の白狼天狗の愚痴からも推測出来る。そうなると、文の新聞は今回、かなり異質な新聞であると言うことになってしまう。
しかし、どうせ配布を始めれば嫌でも見られてしまうことを思えば、今の内に自分の引っ込み思案な新聞を知っておいて貰った方がいくらか心の負担が軽いかと考えた。誰にも知られていない失敗を敢えて晒すことで心の安寧を得るのである。
些か卑屈な手段だが、文は今回、その魅力に甘んじた。
新聞を入れっ放しにしてある肩掛け鞄を手に取り、中からそれを一部だけ抜き取って、はたてに手渡した。手渡すと同時に文は気付け薬としてコーヒーでも淹れようと決め、やっとベッドから腰を浮かせた。
はたては文がベッドから離れるとほぼ同時に後ろへ倒れ込んだ。柔らかなベッドが、倒れ込んで来たはたてをしっかりと受け止める。
はたては「ふんふん」とか「へー」とかいちいち感嘆の言葉を交えながら文の最新の新聞を読み進めて行く。
「何と言うか、堅い内容だね」
第一印象はこれであった様だ。全く否定出来ないので、
「まあね」
開き直って文はこう応答した。
「あんまり慣れていないからね。こういう事件を記事にするの」
更にこんな言い訳を付け加えてみた。
「不慣れねえ。……ああ、確かにそんな感じがするわ。被害者への遠慮の香りがぷんぷんする」
「遠慮とかそう言うことに関して言えば、寧ろあなた達が不躾すぎるのですよ」
不幸な被害者を寄って集って食い物にしている様な者に、個人の取り扱いについてとやかく言われたくなかったので、文は口を尖らせて反論してやった。
しかしはたては反応せず、また文の新聞を黙って読み耽り始めた。
はたてが何も言わないので、文も何も言わずコーヒーを淹れた。客人が来ている時の癖で、二人分淹れてしまったので、この無作法な客人にもコーヒーを御馳走してやる羽目になってしまった。
二人分のコーヒーを持ってベッドへ戻る頃、はたても新聞を読み終わったらしく、寝転がった状態から体を起こした。そして新聞を、汚れたりしない様な場所に丁寧に置いた。
「どうでした? 私の新聞」
文が問う。言下にコーヒーを差し出した。
「うん。珍しい着眼点と言うか、題材の取り扱い方と言うか。個人的には読んでて全然面白く無いけど、ああ言う落ち着いた雰囲気が好きな人もいるから、そう言う人達からのウケはよくなると思うよ。競争率が低いだろうから、寧ろこう言う内容の方が評判よかったりするかもね」
こんな総評を述べつつ、はたてはコーヒーを受け取った。
「ありがとう」
と簡素な礼を言い、すぐさま口を付けたのだが、熱さと苦さが結託してはたての舌を容赦無く攻め立てたものだから、あわや手に持っていたコーヒーをベッドにぶちまけるところであった。
ブラックコーヒー如きに揺さぶられているはたてを見て、文は今日の今までの仕返しにと、くすくす笑ってやった後、何処か優雅な物腰でコーヒーに口を付けた。苦さは慣れているので問題無かったのだが、熱さはやや耐え難かったが、我慢した。少しだけ、舌を火傷した。
今度ははたてがベッドを離れて、そこいらをうろつき始めた。どうやら砂糖を探している様である。
砂糖を探しつつ、はたてが言う。
「今日からあんたは取材を始めるの?」
「その予定です。早期解決に貢献したいですね」
「長引かせてくれた方がこっちはありがたいんだけどなー。動機も犯人も判然としないから好き放題書けちゃうし」
「情報が不明確だからと言って好き勝手書いていい訳では無いでしょうに。真実は絶対に存在するのですよ?」
「不明確の内はいいのよ」
「横暴ですねぇ」
「横暴よ。だって天狗だもん」
はたてはふんと胸を張る。……同時に白色の粉末を見つけ、目を輝かせて指で取ってそれを舐めたが、塩であった様で、顔を顰めた。見かねた文がシュガースティックの在り処を教えてやった。
「初めから聞けばいいのに」
「探す楽しみがあるのよ」
三本ものシュガースティックを用いて極限まで甘くしたコーヒーをごくごくと平らげると、はたては文の元を離れて行った。
彼女は積極的にそこいらを飛び回って知りたいことを調べることをあまりしない。そもそも、事件の真相を掴みたいと言う欲求があまり無い様なのである。
文が事の真相や結末――即ち頭頂を目指す記者だとするのならば、はたては事の根底を見つめ、そこを掘り起こして行く記者である。私室に居ながら最新の写真を入手出来る『念写』の最大限に活用して、事件が発生してしまった原因を突き止め、その裏に潜むエピソードを求めるのだ。そこで掘り当てた事実からいろんなことを想像し、妄想する。そして、あること無いこといろいろ書いて読者を楽しませる。どんな事件も、表面にはさして触れず、もっと内面の、人には見えぬ意志やら思考やらに重きを置くのだ。そこは誰の目でも見ることが叶わないから、真偽の程が目に見える数多の事象よりも遥かに判然としない。それが、記事を書く上で至極都合がいいから、はたてはそう言う新聞作りを気に入っているのである。
以上の様な主義、嗜好があるから、はたては丸一日を部屋に逼塞し、他人の写真を盗む――もとい、念写で奪うことに躍起になるのだろう。
文にはそんな便利な能力は無い。自慢の翼を使って、方々を回らなくては、得られる情報すら得ることが出来ない。
コーヒーでぼんやりとしている頭を叩き起こし、軽めの朝食を取った後、文も私室を出た。とりあえず、昨晩作った新聞を配って回らなくてはならないと、人里へ向かった。
人里へ到着して射命丸文は、自身の出遅れを痛感した。数多の天狗達が、異口同音の謳い文句をやかましく叫びながら、自慢の新聞を配布している。大体が同じ様な内容であるから、そんなに大量に受け取る必要は無いので、人里に住まう人間達は些か辟易している様子であるが、こんなものは幻想郷ではよくある光景である。天狗の作る新聞は、至極人気が無いのである。
そんな様子であるから、文は少しばかり、新聞の配布を躊躇ったのであるが、しかし作ったものを全部持ち帰る訳にもいかないから、やや消極的ながら、新聞を配布したのであるが、当然の様に大して手に取っては貰えなかった。他の天狗が作った新聞とは違い、内容にもさしたる特徴が無いものだから、増々敬遠されてしまった。こう言う新聞もウケるかもよ――こんな具合のはたての言葉が思い起こされた。ちっともウケちゃいないじゃないかと、きっと自宅にいるのであろうはたてに心の奥底で呪詛を吐いておいた。
人里では相手にして貰えないと悟った文は、場所を変えることに決めた。まだ天狗達が手を付けていなくて、新聞を読む様な賢い者がいる場所――思案した挙句、文は、月の民が隠れ住んでいる竹林へと向かった。彼女の向かう竹林は力無き者はほぼ間違い無く迷ってしまうと謳われている様な場所であり、一秒を争う新聞購読者探しはやや不向きであることは間違い無い。しかし、不向きであるからこそ、未だ誰も手を付けていないであろうし、また、深部に住んでいる月の民と同じ屋根の元で暮らしている者達はなかなか良識のある者が多く、新聞に興味を示してくれるであろうと推測したのだ。
弱者は迷うこと必至と謳われる竹林を無事に抜けることが出来て、文は二重の意味で安堵した。
辿り着いた月の民の根城――永遠亭は、相変わらず、時が凍り付いてしまったかの様に静かである。風がそよとも吹かないせいで、辺りを囲繞している竹もすっかりだんまりを決め込んでいる。陽の光も疎らである為、今の季節にしては些か冷え過ぎている印象を受ける。現に軽装でここへ赴いた文は、思わず身震いなどしてしまった程である。
文はここへ訪れるのが初めてと言う訳では無い――現実の世界では度々訪れていた――のだが、竹林の深部に佇むこの建物は、こんなにも寒々としていて、陰気で不気味な場所であっただろうかと、思わず永遠亭へ入るのを躊躇ってしまった。同胞の惨殺事件など提供して来た魔導書に、少しばかりの猜疑心を抱いているのかもしれない。
そんな具合に、まるで遊園地でお化け屋敷に入るか否かを悩んでいる子どもの様に、玄関前で建物を見上げてボーっとしていると、
「何をしているの?」
不意にどこからか声を掛けられ、文は思わず辺りを見やった。あまりにも周囲に気を配っていなかった所為で、どこから声が飛んで来たのかさえ判然としなかったのだ。
声の主は建物の脇から姿を表した。左右で色の違う珍妙な服を身に纏った、銀色の長髪を束ねた女性である。
「ああ、どうも、八意さん」
文は見知った人物の登場に若干の安堵を覚え、愛想良く挨拶をした。文を迎えたこの女性は、名前を八意永琳と言う。月の民の一人であり、蓬莱の薬なる秘薬を服用し、不老不死の力を得ている。性格や表情、言動など、あらゆる点で何を考えているのかの見極めが難しい人間なので、文は少しこの人物が苦手である。
故に文は、なるべく手早く話を終わらせてしまおうと決め、せかせかとした手付きで愛用の肩掛け鞄から新聞を取り出した。
「新聞を刷ったのです。一部如何ですか?」
そう言って新聞を差し出す。天狗の新聞なぞに興味がある様な人物だとは全く思えないのだが、それでもこの八意永琳は、勧めると大抵、新聞を一部受け取ってくれる。彼女にとって天狗の新聞は低俗なものであることは間違い無いのだが、低俗さも含めて、暇潰し程度にはなる――と言う考えを持っているのである。見聞きするものが、是非触れておくべき高尚なものであろうと、そうで無くて極めてつまらないものであろうと、結局彼女にとって別に損など無いのである。どうせ生命は無限に続くのだ。無駄な時間などありはしない。
「まあ。それじゃあ、一部程頂こうかしら」
文が予想した通り、永琳は新聞を受け取った。表情には何だか期待感とかそういうものが満ち溢れているが、やはりこの女性が新聞を楽しむ様な人物であるとは、どうしても思えない。
だが、とりあえず一部は消化出来たと、小さな喜びに浸った。
「どうですか?」
そのまま文は、新聞の感想など問うた。永琳の様な超常の存在の意見はあまり聞いたことが無かったので、彼女がこれを見て何を思うのか、気になったのである。
永琳は眼球だけを動かし、紙面に記されている文字の群れを読み通して行く。やがて読み終わった様で、ほぅと小さく息を吐いた。
「随分痛ましい事件が起こったのね」
あまり永遠亭や、竹林の外側へ出ない所為であろう、風の噂程度にも今回の事件のことを聞いていなかったと見え、少しばかり驚いた様子である。……この驚きも、外面を良くする為の単なる演技に過ぎないのかもしれない。文にはよく分からなかった。
「そうなんです。いやはや、全く、嫌な事件ですよ」
文は心底嫌そうに言う。
永琳は相変わらず新聞に目を落としながら、こんなことを問うた。
「犯人の目星は? 動機とか」
文は首を振った。
「いいえ、まだ何も分かっていません」
ここまで言った所で、はたて辺りの鴉天狗が大喜びで唱えている、いろんな陰謀説や、スキャンダルのことが脳裏を過り、参考程度に――と言う文句を頭に付けて、これらのことを語って聞かせた。永琳は「ふぅん」とか「へえ」とか、当たり障りの無い返事をしつつそれらを聞いていた。
そう言った新聞記者達の妄想の様な推測も踏まえて、永琳は開口した。
「私怨かもねえ。ここまでこっ酷く傷つけて殺したのなら。金銭目的とか、権力目的とか、そんな簡単なことでは無い様に思うのだけど」
「そうでしょうか」
「私はそう思うよ。……それから、身内――即ち天狗の犯行であると言う可能性も高いんじゃない?」
「どうしてです?」
「鴉天狗をこんな風に殺してまえるなんて、人間は勿論、並大抵の妖怪には無理だもの」
「ああ、なるほど」
「あなたも気を付けた方がいいかもね」
永琳はにっこりと微笑んでこんなことを言う。文は何と反応すればいいのやら分からず、引き攣った笑顔を浮かべることくらいしか出来なかった。
「あなたはこの事件の真相を追うの?」
永琳が問う。
「ええ。そのつもりです」
別に隠す必要も無いので、文は素直にこう答えた。
すると永琳はまた少し笑みを深くして、
「一つ、お話出来そうなことがあるのだけど」
こう囁いた。俄かに文の心臓が高鳴る。
「今回の事件の真相解明に繋がることですか?」
「それは分からないわ。分からないけれど、もしかしたら何かの参考になるかもしれない。知りたい?」
分かり切ったことをいちいち問う永琳。永遠の命を得た者はかくも退屈なのであろうか。
「勿論。是非聞かせてください」
文が言うと、永琳は勿体ぶって一呼吸置いた後、訥々と語り出した。
「この事件が起きたのが昨日のお昼頃。実は三日程前に、うちにお薬を求めて来た天狗がいるのよ」
「薬を? どんな薬です?」
「それがねえ――あなたも御存知、不老不死の秘薬なのよ」
文は眉を顰めてしまった。
「不老不死って、蓬莱の薬とか、そんな感じの奴ですっけ?」
「厳密に言うとあれとは少し違うけれど、まあ、効果は似たようなものね。あれを求めに、うちへ天狗の女の子がやって来たの」
「それと今回の事件にどんな関係が?」
「不老不死になれば、どんな者が相手であっても、とりあえず敗北してしまうことは無くなるじゃない。力では及ばないあなたのお仲間が、より強いお仲間を倒すべく、そう言う秘薬に手を出したのかもしれない。けれど、そうでないかもしれない。事実ばかりは確認しようが無いわ」
永琳は何だか楽しそうにこう語り、気取った風に肩などすかして見せた。
彼女の言う通り、事実や因果関係の確認はしようが無いが、全く手掛かりの無い今の状態からすれば、これは一つの曙光となりえる。
「それはどんな天狗でしたか?」
即座に文が問う。しかし、永琳は首を横に振ってしまった。
「申し訳無いけれど、それは私には分からないの。実際にその客に対応したのは鈴仙だったからね」
永琳が名を出した鈴仙とは、永遠亭に暮らしている者の一人の名である。これまた月に住んでいた兎なのであるが、見た目はほとんど人間である。
「鈴仙さんは、今こちらにいらっしゃいますか?」
一も二も無く文が問う。この問いを、永琳は予期していたと見え、薄く笑んで頷いて見せた。
「奥の部屋で調薬などしているわ」
いきなり手にしてしまった重要そうな手掛かり――文は今すぐにでも、鈴仙の元へ行きたかったのだが、しかし、ここでいきなり永琳との会話を終わらせるのは、何だか不躾な様な気がして、どうにか上手い口実や、自然な会話の断絶方法を模索していたのだが、その間に永琳の方が開口した。
「鈴仙に会いたいのでしょう? どうぞ。新聞記者は忙しそうだものね。私と会話している場合ではないのでしょう?」
何から何まで見抜かれていた――文は些か恥ずかしさなど感じてしまったが、しかし永琳の好意に甘えることにした。勢いよく深々と一礼して、永遠亭の玄関扉を開いた。
この永遠亭と言う建物はその昔、明けない夜と異常な月が共存した、所謂『永夜の異変』の舞台となった場所でもある。あの時、この建物へ立ち入った者達は、そこに仕掛けられていた数多の術のお陰で迷宮の様相を呈していたこの場所に相当な苦労を掛けられた様なのであるが、有事で無い今はそんな術はほとんど取り払われていて、現在はやや広々としている普通の家屋である。
逸る気持ちを抑えることが出来ず、具体的に目当ての妖怪である鈴仙・優曇華院・イナバがどこにいるかをしっかり確認せずに来てしまったものだから、勢いよく屋内へ入り込むまではよかったが、そこからは完全に勢いを失ってしまった。
仕方が無いので、そこらで何かしらの業務を熟している沢山の化け兎達に、新聞を勧めつつ、鈴仙の居場所を探り当てることにした。化け兎達は文字を難なく読むことが出来る程度には知力が高く、更に、下世話な話題にも随分敏感であるので、文の新聞に興味津津であった。その新聞の中身は、他の天狗と比べるとややインパクトには欠けるものの、しかし、竹林の外で起きた凶悪な出来事の速報としては、十分過ぎる出来栄えであった様子である。
鈴仙の居場所はすぐに割れたが、その道すがら、多くの化け兎に出会ったので、その都度文は新聞を勧めて、在庫を消化して行った。順調に手持ちの新聞の部数を減らして行っている最中、遂に彼女は、目当ての妖怪のいるらしい部屋に辿り着いた。御丁寧に『調薬室』と言う札が掛けてある。永琳の言っていた言葉とも合致した。
「失礼します」
調薬の知識や、その現場の雰囲気などを文は知らなかったので、その入室はやや厳かで、恐々としていた。
果たして、鈴仙・優曇華院・イナバはそこにいた。文に背を向け、擂り鉢と擂り粉木を使って、何やらゴリゴリと音を鳴らしながら、粉末状の薬の世話を焼いている様子であったのだが、文の挨拶の声が届いたと見え、くるりと後ろを振り返った。
「まあ。いらっしゃい」
永遠亭にはある程度客人はあれども、調薬室まで上がり込んで来る者はなかなかいない。鈴仙の驚きに満ちた表情は、そう言った具合の永遠亭の内情を、文に教授して来る。
文はやや己が場違いな存在であることを感じてはいたが、ここまで来て尻込みしていては仕方が無いので、なるべく平然を装って、鈴仙に接した。
「すみません、忙しかったですか?」
「いいえ。気にしなくていいよ」
「八意さんの許可を得て通して頂きました。ちょっとばかり、お尋ねしたいことがありまして」
「はあ」
鈴仙には悪名高き鴉天狗に尋問される様なことをしでかした覚えが無いので、文の言葉を聞いた途端、その表情や態度に、サッと緊張が奔った。文はなるべく相手を威圧してしまわない様に気を使いたい所であったが、その具体的な方策は固まらないので、飄々と事を進める。
「先ずはこちらを御覧ください」
在庫消化の意味も含めて、文が新聞を一部、鈴仙に手渡した。新聞を差し出された鈴仙は、それを素直に受け取り、一体何を問われてしまうのかと、恐々としつつ、いたく真剣な面持ちで新聞を読み始めた。彼女がそれを読み終えるまでの間、文は視線の落ち着く所を探して辺りを見回してみた。調剤に使用する道具や、資料と思われる分厚い本など、見たことの無いものが豊富に置かれていて、見ていて飽きなかった。
しばらくして鈴仙が、新聞を読み終えた八意永琳がそうした様に、ほぅと息を吐いた。二人は師弟の関係を築いていると聞いていたので、そう言う関係を持つ者は物腰なんかも似て来るのだろうか――などと余計なことを考えた後、文は補足で説明を加えた。
「痛ましい事件が起きました。事の全貌についてはそこに描いた通りなのですが、未だ犯人は分かっていませんし、目処も付いていません。動機も全く不明です。……この事件、知りませんでした?」
「ええ。昨日はこの辺りから外へ出ていなかったから」
この辺り――と言うのは、永遠亭や、それを取り囲む竹林のことを指す。
「それで、聞きたいこととは?」
鈴仙としては、知りもしないこの事件について、一体自分から何を聞こうとしているのかが気になる様子で、こんな風に文に話の続きを促した。
文は一呼吸置いた後、永琳が語ってくれた、動機や犯人像についての憶測をそっくりそのまま鈴仙にも語って聞かせた。そして、それに関連して教えて貰った、不老不死の薬を買い求めに来た天狗について問うた。
問われた鈴仙は、ああ! と素っ頓狂な声を上げ、ポンと手を打った。
「言われてみればいたわね。あんな薬、何に使うのか知れなかったから、一応師匠に相談したのよ。まあ、師匠はああ言う人だから、別に躊躇わずに処方して薬を差し出してしまったのだけど」
ああ言う人だから――と言われた所で、文の脳裏に、腹蔵の読み難い永琳の薄く笑んだ顔が想起された。確かに、あの人なら享楽でそう言う劇薬を提供しそうだと、妙に納得出来た。
「その、薬を買いに来た天狗の特徴などは覚えていますか? どんな些細なことでも構いませんから」
文がさっと手帳を取り出す。実際、鈴仙もそこまで繊細にその珍客の容姿を記憶していた訳では無いのであるが、こんなにも期待をされてしまうと、どうにか相手に貢献したくなってしまうのが、知的生命体の性と言うものであろう。
片方の人差し指を口元に当てて宙を見やり、うーんと唸りつつ、記憶を掘り返す。しかし、脳裏に浮かぶ客の姿は随分茫漠としていて、一体何を語ればいいのやら見当がつかない。
次第に文が痺れを切らしてしまい、鈴仙に質問する形で手掛かりを得ようとした。
「身の丈はどれ程で?」
問われた鈴仙は、口元に人差し指を当てていた手を降ろし、今度は腕を組んで首を傾げた。
「高くは無かった。これくらいかな」
これくらい――と言いつつ、鈴仙は自身の胸の辺りに手をやった。
「鼻に何か特徴は?」
次いで文はこう問うた。流石に鼻高天狗の客人であったのならば、記憶には残るだろうと思ったのである。
鈴仙は首を横に振った。
「別にこれと言って特徴は無かったよ。ほら、よく天狗の一般的な像として挙げられる、鼻の高い天狗。あれでは無かった」
別にメモするまでも無い情報であるが、一応文はそれをメモ帳に記録しておいた。少なくとも鼻高天狗では無いと言うことが確定した。
「老若の程度は?」
「若かった」
即答である。
鼻高天狗で無く、若いとなると、それ以上に位の高い者では無くなる。即ち、白狼天狗か、鴉天狗か――この辺りの層に絞られて来る。
「翼はありましたか?」
これが分かれば決定的なんだけど――文は心の中で、これに対する明確な回答がある様にと祈った。
しかし、鈴仙の表情は晴れない。
「翼か……よく覚えてないなぁ。背中なんてあんまり注意して見ていなかったし、あの薬を買う以外にも天狗はここに来ることもあるし。……はっきり言って天狗って、同種族だとみんな同じ顔に見えてしまうものだから」
困った様な表情を浮かべ、言い訳めいたことを言っている。文は些か落胆した。
それを見た鈴仙は、何かもう少し、この新聞記者に操作の指針を与えてやらねばと言う思いに駆られ、少し思案した挙句、
「あなたは鴉天狗と言う天狗なのよね?」
こんなことを問うた。文は頷いて見せる。
「これは私が勝手に受けた印象って言う話でしか無いのだけど、あのお客はあなたみたいな雰囲気では無かった様に思うわ」
何やら不可思議なことを言われ、文は首を傾げる。
「私の様では無い……? それはどう言うことでしょう?」
「つまり、その、あなたが一般的な鴉天狗であり、大体の鴉天狗はあなたみたいな天狗だと言うのならば、その時のお客は、そう言う雰囲気では無かった――簡単に言ってしまえば、鴉天狗っぽくは無かった感じがすると言うことよ」
なるほど、と文は生返事。参考になる様な、ならない様な、微妙な意見である。
不完全燃焼である感じは否めなかったが、何はともあれ、ある程度の情報を得ることは出来たから、文は先ず鈴仙に御礼を言った。
あんまり役に立てなくてごめんなさいね――と、鈴仙も律義に礼を返した。その後、いえいえとんでもない。いえいえこちらこそ――と言った具合の問答を数度繰り返した後、文はこの調薬室を後にした。
永遠亭を出るまでの道でも、未だ新聞を貰っていない化け兎数名に出会い、新聞を押し付けることが出来た。一つの新聞を皆で共有すればいいのに――と思ったが、一人一つ欲しい主義なのかもしれないから、別に何か言うことはしなかった。
*
事件の起きた場所がひと気の無い森の奥深い場所であったものだから、近辺の者への聞き込みとか、そう言うことが行えないので、文は永遠亭での情報収集を終えると、途端に行き先を無くしてしまい、結局私室に帰ることにした。考え事については、慣れ親しんだ我が家が最も捗るのである。
永遠亭で未だ誰も知り得ない情報を得たとは言っても、その情報と言う奴も極めて微々たるものである。何天狗かは知らぬが、とにかく天狗が不老不死の薬を買いに来た――今回の収穫はこの程度のものなのである。誰が買いに来たのかは全く不明であるし、また、この事が今回の事件と何か繋がっているのかどうかも分からない。……ただ、不老不死の効果のある薬などと言うものは、普通に生活していればなかなか必要になるものでは無いであろうから、怪しさはかなりのものであるのだが。
しかし、この微々たる情報は、前述した通り、恐らく今の所、文しか知り得ていない情報である。永遠亭の連中は誰も今回の事件について、文の新聞を見るまでは知らなかった様子であることは明らかであったからだ。誰も知らなかったからこそ、永遠亭の化け兎達は、惜しみない興味を持って、文の新聞を求めて来たのだ。
つまり、この怪しくも不明瞭な情報は今の所、とても貴重な情報なのである。文はそれを握っている。これは新聞記者たる彼女にとっては大きな強みである。これを今すぐネタにして新聞を書けば、一躍時の人となり得るのだ。
だが、不確かな情報であるので、いたずらに拡散させるのは少々気が引けた。いや、不確かなだけであるのならばまだしも、此度の情報は、同胞へ疑いの目を向けるものなのだ。下手をすると、天狗の社会を大きく混乱させてしまうことになりかねない。唯でさえ、上層部の腐敗などと言う妄想で面白おかしく新聞を書いている者が多いと言うのに、下層部にまで目を向けてしまうと、もう天狗社会全体に容疑の黒雲が覆いかぶさってしまうことになる。
そんな具合に文はしばらく悩んでいたのだが、結局、この情報で新聞を書くことに決め、文はペンを握り、紙をテーブルに広げた。いろいろと考えるのが面倒になったのもあったのだが、それでも新聞を作ろうと言う気になったのは、ここが現実の世界では無いと言うことを思い出したことが一番大きい。失敗したなら失敗したでいいではないか――と言う、何とも無責任であるが、この世界の在り方を存分に活用した思考停止であるとも言える。
昼過ぎには原稿は完成した。元々、情報量が大したことが無かったので、完成もあっと言う間であった。
早速、印刷所に原稿を持って行く。昨日と同じ白狼天狗が当番をしていて、文を見るや否や、退屈そうに垂れ下げていた耳をピンと伸ばした。
「ややあ、射命丸さん。こんにちは。また新聞ですか?」
にやにやと笑みながら、所員はこんなことを言う。
「ええ。よろしくお願いします」
文は原稿を手渡す。
「精が出ますね」
所員は内容に問題が無いかを調べるべく、原稿を査読する。昨晩の様な似たり寄ったりの新聞を立て続けに幾つも読まされていた精神的、肉体的疲労が無い為、紙面に綴られている文章はするすると淀み無く頭に入ってくるのであるが、それが却って、この白狼天狗を驚かせてしまう事態となった。
「ほほう。これはなかなか……」
所員も興奮している様な、困惑している様な、そんな様子である。文まで些か緊張してしまい、自然と背筋が伸びた。
文章を全て読み終わった頃合いであろうが、しかし所員は、なかなか印刷を始めようとしない。個人の裁量でこれを発行してもいいのかどうか、決めかねている様なのである。
「お偉方の文句は言っていいのですから、これくらいなら大丈夫じゃないんですか?」
文はこんな風に言って印刷を促してみたが、所員の顔は晴れない。
「毛色が違うんですよねぇ。スキャンダルだの何だの言っている人達の新聞って言うのは、まるで根拠が無い、本当にお遊びと言うか、面白半分と言うか――願望や妄想の類と言っても過言では無いものですから。所謂、創作なんですよね。読む方も創作と知った上で読みます。あんなもんを真実だと思って読んでる奴はよっぽどの馬鹿だけです」
製作者がいないものだから、所員の白狼天狗は言いたい放題言っているのだが、文も否定はしなかった。本当にその通りであると思ったからである。
「一方、今回あなたが持って来られたこの新聞は、一応証言者もおり、しかもそれなりの説得力もあり……おまけに調べようと思えば調べられてしまうんですよねぇ。天魔様の鶴の一声で、全ての天狗が招集させられて持ち物検査――なんてことも夢じゃありません。しかも、その場でもしも薬の持ち主が見つかってしまったら、何故そんなものを購入したのかを追及されるに決まっています。追及されてちゃんと答えたとしても、今度は真偽の程を確かめる作業が始まる。天狗社会に与える影響があまりにも大き過ぎると言いましょうかね」
文は渋面を浮かべて、所員の長ったらしい説明を聞いていた。所員は、そんな文の渋面と、新聞を何度も身比べて、尚もうんうん唸っている。
「だけど面白い新聞だからなあ。私個人としては是が非でも発行してあげたいのですけど」
「ではその心意気に免じて、どうか」
「いやいや、それはちょっと荷が重過ぎます。私の独断でこれを印刷して、後々この新聞に書かれていることが問題になったら、私が責任取らなくちゃいけなくなりますし」
一白狼天狗はそこまで重大な責任を追うことはしたく無い様である。
散々思案した挙句、所員は原稿を持って席を立った。
「ちょっと上司に相談して来ます」
「上司って、大天狗か何かです?」
「そうですよ。……目ェ付けられたら発禁くらっちゃうかもしれませんけど、見せないことにはこれを正式に印刷することは叶わないです。どうぞ、審査が通る様に祈っていてください」
むやみに緊張感を煽るひそひそとした声で白狼天狗はこう言い残して、文の原稿を持ってそそくさと印刷所の奥へと姿を消して行った。
文は傍らにあった椅子を引き寄せ、それに腰かけて、所員の天狗に言われた通り、審査が通る様にと祈りつつ、相手方の帰りを待った。
およそ十分が経過した所で、パタパタと倉皇たる足音が聞こえて来た。寝不足の気が否めない文は若干ウトウトし始めていて、背凭れも無い小さな丸椅子に腰かけたまま器用に体勢を保ちつつ薄い眠りに落ちかけていたのであるが、耳聡く足音を聞き取って、俄かに覚醒し、勢い余って椅子から立ち上がった。
立ち上がるとほぼ同時に、上司に新聞発行の相談をしに行っていた天狗が店頭へと戻って来た。その表情は、とても明るげで、愉快そうである。それを見ただけで文は、彼女の言わんとしている報せが良いものであることを察したが、糠喜びだけは御免であったから、一応問うておいた。
「審査は通りましたか?」
白狼天狗は満面の笑みを浮かべて深く頷いた。
「許可が下りました! 事件解決の手立てになる可能性があるからとのことです。これから印刷致します」
分かり切っていたことであったが、いざこうして口に出して言われると、その喜びは一入であった。カウンターに隔てられていなければ、文は彼女に抱き付くまでして、その喜びと安堵を表現してしまいかねない程であった。
かくして、射命丸文が偶然にも手にした、不老不死の能力を欲した怪しい天狗についての情報が載せられた新聞は、夕方を迎える前に完成した。
夕餉の支度が本格的に始まる前――即ち、食料品の購入なんかで、多くの者が外へ出るであろうこの時分に新聞を配ってしまおうと、文は一も二も無く外へと繰り出した。
昨日から耳にたこが出来る程騒がれている陰惨な事件に関わる新聞であることに、他の新聞と何ら変わりは無いのであるが、そこに記されている情報はかなり新鮮で、センセーショナルなものであったから、新聞は大いに手に取られた。この事態を予期して若干多めに刷っておいたのが功を奏し、異例の速さで、文は自身の新聞を消化し切ることが出来た。
空っぽの肩掛け鞄が実に愛おしく、そしていつも以上に軽量に感じられ、帰路である空路を、文はいつもに増して素早く飛び進めることが出来た。
あの新聞は天狗の何名かにも手に取って貰えていたから、もしかしたら妖怪の山に帰った際、新聞記者をやっている他の天狗に、賞賛とも嫉妬とも受け取れる様な声を掛けられるかもしれない――などと、少し高飛車な空想を抱いたりもしていたのだが、幸か不幸か、私室に戻るまでの道すがら、他の鴉天狗とは誰ひとり遭遇することは無かった。
こんなにも幸せな気分で私室に入るのは久しぶりな様な気がする――慣れ親しみ過ぎて飽き飽きして来た程である私室の雑然さや香りを、今の文は愛することさえ出来そうであった。
鞄を椅子に置いて、ゆっくりとベッドへと腰掛ける。そして、飛ぶ様に自分の新聞が売れて行く光景を脳裏に蘇らせる。そうするだけで、心臓が身勝手にドキドキと脈動する。ここで文はようやく、自分の作った新聞が多くの人に親しまれる喜びと言うものを長らく忘れていたことに気付いた。ただ読んで貰えたと言うことだけではなく、読んで貰った上で、何か思うことがあったのだと言う手応えを感じることが出来たことが、本当に大きな収穫であったと言える。何せ、この感動は糧となるのだ。次も同じ様に――いや、今回以上の感動を味わおうと、どんどん貪欲になれるのだ。
幸福の余韻に浸っていると、玄関扉が何者かに叩かれた。
「どうぞ」
文が返事をする。何となく、客人の正体は察しが付いていた。
返事をしてから一呼吸置いた後、客人が扉を開けた。ベッドに腰掛けている文を見た途端、客人はその複雑な心境を眉宇に示した。
「ああ、ああ。何だか一発ぶん殴ってやりたくなるくらいの幸せ者の面ねえ。全く、妬ましいったらありゃしない」
客人は姫海棠はたてであった。文が予想した通りの客人である。入室早々とんでもないことを言われてしまったのだが、今の文はそれを悠々と聞き流すことが出来る心の余裕がある。
「その様子だと、私の新聞を見てくれたみたいね」
文が問う。はたてはふっと吹き出し、肩をすかして、文の隣に腰掛けた。
「見たよ。と言うか、見せられた。他の天狗に。どんな経緯であんな情報手に入れたのか知らないけど、随分いいことを教えて貰ったわねぇ。みんな大騒ぎしてるよ。今回の事件に関連していそうな、一番に出てきた手掛かりだからね」
文は心の深奥から油然と込み上げて来る喜びをどうにか抑えつつ、謙虚な姿勢を見せた。
「だけど、まだあれが手掛かりになるかどうかは分からないではないですか」
「そりゃ分からないけど、今この瞬間、あんたは新聞を売る身として大勝収めているもの。それがもう羨ましくて羨ましくて仕方が無いわ、私は」
はたては尚も悔しげにこんなことを言っている。
「そもそも、関係無いってことはあり得ないと思うけどねえ。何が面白くて、不老不死の薬なんて求めるのよ」
「だけど同胞を殺すのにそんな薬が必要?」
「貧弱な白狼天狗の仕業なら全部説明がつくじゃない。そう言う薬に頼んなきゃどうしようも無いって所でしょう」
「やはり白狼天狗の連中が犯人なのかしら。薬屋の店員の証言は曖昧だから、鵜呑みにする訳にはいかないし」
「そうなんじゃないの。店員って、竹林の奥の薬屋にいる背の高い化け兎でしょ? あれは賢い奴だもの。信用していいと思うわ」
言下にはたてはぶるりと身を震わせた。
「おお、恐ろしい。今度は私達が標的かもよ? もうちょっと優しく接してやっていた方がよかったかしら」
「やめてくださいよ、はたて。そんな怖いこと言わないで」
情報提供者たる射命丸からすれば、はたての冗談は冗談に聞こえて来ない。もしかしたら、犯人である天狗が此度の新聞を読んで逆上し、文に何らかの報復を行って来る可能性だってあるのだ。文は、情報の希少性にばかり目を取られていて、そう言う危険が含まれていると言うことを全く念頭に置いていなかったのである。そして今更になってそう言った現実と直面してしまい、微かに戦いているのである。
文は心底不安を抱いていると言うのに、姫海棠はたてはカラカラと笑う始末である。
「まあ、まあ。私みたいに自宅に引き篭もって陰気に暮らしてる様な奴ならともかく、あんたくらい方々を元気に飛び回っている健康優良者なら、おかしな薬飲んだ白狼天狗くらいパパっと撃退できるでしょ」
「出来るかもしれないけれど、相手は死なないのですよ?」
「殺さなくたっていいじゃない。いや、今の状態だと殺せないってのが正しいんだけど。適当に痛めつけて動けなくしてから、こいつが犯人ですって天魔様の御前にでも持って行けばいいんじゃない? 手掛かりは見つけるわ、犯人はとっ捕まえるわで、忽ち英雄よ、あんた」
「何をそんな物語の様なことを言っているのです……全くもう」
文は苦笑いを浮かべ、はたての言葉を適当に聞き流そうとしたのだが、今し方、自身が発した言葉が、何だか妙に心に引っ掛かって、なかなか流れ切ってくれない。この妙な引っ掛かりは何だろう――少し考えて、文はその答えに辿り着く。
――物語の様な。
一瞬、頭がクラリとした。目に映る遍く物体の輪郭がぼやける様な錯覚を覚えた。まるで脳が、網膜に映り込んで来る世界を、世界と認識することを放棄したかの様に。
そうだ、ここは現実では無いんだ――何だかひどくいいことがあったものだから、文はすっかりそのことを頭から離してしまっていたのであるが、ここは現実に延長に作られた魔法の空間なのである。そう考えると、こんな大きな手柄も、ひどく味気無く、無意味で、虚ろなものの様に思えて来る。世界が終わってしまえば――いつ終わるのかが全く見通しが付かないが――、文はしがない一新聞記者へと回帰してしまう。そして、今この瞬間、自身の傍らに座って、嫉妬の念を多分に含んだ賞賛を送ってくれている姫海棠はたてとの喧嘩の末に勃発した小説戦争に追われる身となってしまうのだ。何と空しい現実であろうか。
途端に文は脱力してしまい、陰気な溜め息を吐きつつ、背面からベッドへ倒れ込んだ。文の身体を長らく包み込み続けて来た寝具は、主の受け止め方を熟知しているかの様に、無防備に倒れ込んで来た文を受け止める。
文が突然、そんな具合に倦怠感を露わにしたものだから、はたては些か驚いてしまった。
さっきまで浮かれるのを必死に抑え込んでいた――文は隠し通していたつもりでいたのだが、はたてにはお見通しであった――幸せ者が、急にその熱を冷ましてしまったのだから、少し心配にもなる。
「ちょっと、文? どうしたのよ」
はたてが問うと、文はぼんやりとした双眸を湛え、小さく首を横に振って見せた。
「ううん。別に……何でも無いですよ」
声まで覇気を失ってしまっている。
「幸せ者のあんたがそんな状態なら、幸せ者じゃない私はどんな顔して生きて行けばいいのよ」
「いいえ。あなたは幸せですよ」
どうしようもなく雑な返事である。何だか真面目に返答するのも億劫になって来た。この世界で姫海棠はたてとどんな関係を築こうとも、結局世界が終わればその関係も終わってしまうのだから。とにかくこの世界は、文に必要な経験を提供するに特化した世界なのだ。その経験たる事象以外、何の価値も有していないのである。金貨の詰まった宝箱も、貴い宝石も、素敵な恋人も、気の合う友人も、己が身体さえも――まるで価値が無い。現実で多大な価値のある、新聞記者としての成功を目の当たりにして、何だかこのことが酷く重量を増して、文に圧し掛かって来た。そんなことは、この世界の特性を熟知していた以上、初めから分かり切っていたことであるのに、いざ遭遇してみると、それは想定していたよりもずっと空しいものであったのだ。
はたては、急に元気を失ってしまった文を眺め、少し思案した挙句、
「ああ、新聞作って疲れちゃったのか」
こんな憶測を立てた。
「そうです。ちょっと疲れてしまいましたよ、私は」
文はそれにこう反応しておいた。新聞作りの疲れがあるのは事実なのだが、それ以上に、手にしてしまった虚ろな栄誉に気力を掻っ攫われてしまったことが、彼女の脱力の一番の原因である。
はたては疲労困憊である様子の文に気を遣い、
「仕方ない。お疲れの文さんに悪いから、私はここを去るとするかな」
こんなことを言って、ベッドから立ち上がった。はたてが退いたことで空いたスペースへと文はもぞもぞと移動し、完全に眠る体勢を作った。
「風邪に気を付けるのよ」
はたてはこう言い残し、部屋を去って行った。
「お気遣いありがとう」
文は反応したが、既にはたては部屋を出て行った後であったので、恐らく言葉は届いていない。
静かになった部屋で眼を瞑っていたら、あっと言う間に寝付いてしまった。
*
寝るのが異常に早かったにも関わらず、目覚めたのは普段とさして変わらない、太陽がそろそろ頭の真上へ差し掛かろうとする様な時分であった。
電気すら消さずにぐっすりと眠ってしまっていた文は、寝惚け眼を擦りに擦ってどうにか時計を見て、眠り過ぎたと言う現実に直面した。しかし、これと言った感慨は湧いて来なかった。どうせ作り物の世界――この思いが未だに尾を引いている様なのである。
新聞は昨日、自分らしからぬ大作を生み出してしまったものだから、いかんせん新しいものを生み出そうと言う気分にはなれなかった。では、新聞作り以外に何かやりたいことはあるかと問われると、そんなものは無かった。何せ現実によく似た非現実なのだから、何をしても残るものが無いからである。射命丸文はこの世界で、ただただ、小説に役立つ経験を求め、血生臭い事件の真相を見つめていればよいだけの存在なのだ。能動的に動けば何か得るものはあるであろうが、結局、待っていても恐らく事件の真相は解明される。その手掛かりを、文自身が昨日、新聞と言う形で世にばら撒いてしまったのだから。
非現実でありながら、変に現実味を帯びている世界である。連日の様に、首尾よく自分ばかりが事件に関わる情報を得られると言うことも無い様に文には思えた。自分が見つけた真相の欠片と、他人が見つける真相の欠片――それらが合わさって、事件の全貌が浮き彫りになるのだろう、と言う考え方である。推理小説や怪奇小説の様に、主人公の元にばかり有力な情報が集まることなんてあり得ない。現実とはそんなものなのである。現実は一つの主人公などと言う目標は取らないものなのだ。
やりたいことは無い。しかし、同時に眠気も無い。眠く無いのに眠ろうとするのは苦痛であったので、結局文は起き出して、何の気無しに外へ出てみることに決めた。
もう多くの者が活動を始めている時分である。山内の隧道を行き交う天狗をちらほらと確認出来る。ある者は忙しげに、ある者は退屈そうに。その表情は様々である。
暇な天狗については、文を見かけた途端、珍しい動植物でも見つけたかの様な目つきになって、声を掛けて来た。話題は勿論、昨日の新聞についてである。昨晩の内に話し掛けて貰えていたのならば、文も上機嫌にいろんなことを喋ったかもしれないが、残念ながら彼女は、この栄華が酷く虚ろなものであると言うことに気が付いているから、あれこれぺちゃくちゃと喋りたい気分になどなれなかった。愛想良く、当たり障りの無い応対をして相手をやり過ごし、さっさとその場を離れた。行き先など無いが、少なくとも、自分の新聞について話をしたい訳では無かったのだ。
結局、足が動くままにそこらをほっつき歩いていたら、妖怪の山の山肌にある切り岸へと出た。
妖怪の山の構造を説明しておくと、天狗達は大きな山に、まるで蟻塚の様に掘られた隧道の中に居住空間を設けて生活をしている。つまり、天狗の住処へ入るには、その隧道を通らねばならない。その隧道の入口と言うのは、当然の如く、山肌に大口を開けている訳であるが、そこには四六時中、見張りの天狗が設置されている。その為、山に住まわぬ者は、そう簡単に天狗達の住処へ辿り着くことは出来ない様になっているのである。
特に何を思うでも無く、歩を進めていた文は、その切り岸に到達してしまった。そこには例に違わず、知っている様な知らない様な、いまいち判然としない、特に特徴の無い白狼天狗がいて、一応、山の番をしている。一応――と言ったのは、基本的にこの哨戒任務と言うのが至極退屈なものであると白狼天狗達の間で言われていて、その任を任されてしまった者は、その退屈で無為な時間をどの様に消化しようかと言うことに躍起になっていることが多々あるのである。
何せ、幻想郷の妖怪の中でも特に強大な力を持つ天狗が根城にしている山であるのだから、並大抵の者は恐れをなし、近づこうとさえしないのである。山の頂上に神社が入り込んで来た時は、奇特な人間が殴り込んで来て、久しぶりに山は大いなる喧騒に包まれ、番兵も力を発揮したものであるが、あれ以来、山内で目立った騒動は一つとして起きていない。故に、哨戒任務とは退屈であることが常なのである。
文が偶然出くわしたこの番兵も、やはり退屈な様子で、何やら黙々と本を読んでいる。文が背後にいることにも気付いていない様子である。気付いているのであれば、挨拶の一つくらいはしてくるものだ。
「精が出ますね」
皮肉交じりに文が声を掛けてみると、番兵はびくりと肩を震わせた。危うく読んでいた本を崖の下へ落としてしまうところであったが、そこはどうにか堪えた。
開いていたページに指を挟み込んで本を閉じ、番兵はくるりと振り返る。白狼と言う語が示す通りの、凛々しく、そしてどこか残忍で猛々しい光を湛えた双眸が文を捉えた途端、その目はより大きく見開かれた。
「これは失礼しました。そこにおられることに全く気付けませんでした。こんにちは」
番兵はぺこりとお辞儀をした。
正面から顔を見て、ようやく文は、この天狗が自分の知っている者であると言うことに気付く。
「なんだ、椛でしたか」
見知った白狼天狗であったので、文は相好を崩した。番兵――犬走椛は、相変わらず少年の様な凛々しさを保ったまま、再び小さく頭を下げて、文の言葉に応えた。
別段やることも無いので、文は椛の横に座った。犬走椛は、射命丸文と最も親睦の深い白狼天狗である。出会いの切っ掛けはこれと言って挙げることは叶わない程、細やかなものであった。
「後ろから見ると誰が誰やら、さっぱり分かりませんよ、あなた達は」
「それは私達も同じですよ。鴉天狗だって、私達から見れば皆同じ様な顔をしていますから」
文の冗談に、椛はつっけんどんと言い返す。文は苦笑いしておいた。
「相変わらず何も起こらないのですか?」
文が問うと、椛は肩をすかした。
「起こりませんねえ。何やら大きなことが先日起きた様ですが、あれも山の中の出来事ではありませんしね」
ああ――と、文は生返事をする。それは紛れも無く、あの鼻高天狗がバラバラにされた事件ではないか。高等な教養を得る者の少ない白狼天狗でも、流石にあの事件のことくらいは耳にしているんだなと、文は何だか偏見や差別にも似た感慨を覚えた。
それに関連して思い起こされてしまうのが、今まさに文を無気力状態へと誘っている、かの虚ろな栄誉である。結局、何処へ行ってみてもあれは私に付き纏うのだなと、文は辟易してしまった。
「そう言えば、文さん」
椛が声の調子を上げてこう切り出した。
「何です?」
嫌な予感がしたが、文はこう答えざるをえない。
「随分と沢山の新聞を売ったそうではないですか」
果たして、嫌な予感は的中してしまった。まさか椛の様な者にまであの新聞の話題を振られてしまうとはと、文の気分は増々陰鬱になって行く。
「ええ。何だか大成功してしまいましたよ」
面倒くさそうに文が言う。しかし、椛が文の真意などに気付ける筈も無い。
「おめでとうございます。他の白狼天狗も大騒ぎしていましたよ。身内にあの大事件の犯人がいるかもしれないと」
話の軌道を曲げるのも億劫だから、文は自分の気が収まるくらいまでなら、この会話に付き合ってやることに決めた。
「大騒ぎ、ですか。どんな様子なのです? 怒っています?」
椛は首を横に振る。
「怒るなんてとんでも無い。皆楽しそうですよ。ふざけてお前が犯人か、いいやお前か、なんて言い合っています。しばらく、この雰囲気は続くでしょうねえ」
「皆、お互いを疑っているのですか?」
「そんな筈無いでしょう。誰も仲間の犯行など疑っちゃァいませんよ。疑わしさなんて感じていないからこそ、そんな風にふざけていられるのです。心の奥底から仲間の犯行を危惧しているのであれば、冗談なんて言おうとも思いませんよ。凶悪な殺人鬼を刺激する様なもんですからね。極めて危険です」
なるほどねえ――と張りの無い声で返答した後、はてと文は一つの推測に辿り着くこととなる。
「……と言うことは、少なくとも白狼天狗の連中は、私の新聞を馬鹿にしているってことなんですかね? 身内に犯人がいる訳無いだろこの馬鹿新聞――って言う具合に?」
「ええ、まあ、そうとも言えますね」
椛はさすがにばつが悪そうにこう言い、首を縦に振った。ああ、栄華の輪郭が見る見る内に薄ぼやけて行く……文の心に蔓延る空しさは色を濃くしていくばかりである。
深いため息を吐き、文ががっくり肩を落とす。その傍で椛は、横目で文を見ながら、
「大丈夫ですよ、文さん。白狼天狗はそう思っていますが、鴉天狗の皆さんの多くなんかは、あなたの新聞に信頼を置いていて、完全に私達のことを疑って掛かっていますから。嫌っている者ばかりが何だか目に付く様な感じがしますが、あなたの味方はいるんです。あなたの理解者は、確かに存在します。ですから、どうか気を落とさないでください」
椛の渾身のフォローが入り、文はどうにか持ち直すことが出来た。
「どうもありがとう」
文が礼を言う。どういたしまして――と、椛は軽く頭を下げた。
この言葉を最後に、二人の会話が途絶えた。それを切っ掛けにして、文がゆっくりと腰を浮かせた。
「さて、私はそろそろ行きますね」
椛が文を見上げる。
「どちらへ行かれるのです?」
「それは特に決まっていないんです」
「はあ、そうですか」
文の沈んだ心に手を差し伸べた椛であったが、さすがに文の暇潰しの場を提供してやることは出来ず、安易な返事に終始した。
「それじゃあ、哨戒任務、がんばって」
「ありがとうございます。文さんも、どうぞお気を付けて」
言下に文が切り岸から飛び去った。椛は何だか眩しそうに目を細めて、小さくなって行く射命丸文を見据えていた。
山を飛び去った文は、少し思案した挙句、かの惨殺事件が発生した現場へ降り立ってみた。はたてに場所を教えて貰って写真を撮影しに行った事件当日以降、一度もそこを訪れていなかったから、何か見落としていることや、新たな発見があるかもしれないと踏んだのである。
鎮魂の意を込めた簡素な碑が設えられていたし、まだ捜査することがあるのか、死体が横たわっていた付近には赤色のロープが杭を介して張り巡らされていて、無関係者の立ち入りを禁じている。それらが事件現場の目印となっていたので、現場を見つけることに何ら苦労は無かった。
以前来た時とさして変わらぬ時間帯での来訪であったので、現場は記憶通りの薄暗さであった。あの時と違うのは、死体や血潮、それに野次馬や新聞記者達の有無くらいのものである。忌まわしい記憶をほとんどそのまま再現したかの様で、文はあっと言う間に気分が悪くなってきてしまった。ありもしないバラバラ死体が、鮮明な像を持って、そこに浮かび上がって来る様な錯覚を覚えた。
立ち入ってはいけないとされている部分を避ける様にして、何か手掛かりになりそうなものがありはしないかと、文は地面やら茂みやらを適当に探索し始めた。今、彼女がやっている程度のことは、今回の事件の調査に当たっている者は勿論、そう言う者で無い他の深部記者でさえとっくの昔にやったことであろうことは、文も大いに想定したいたのであるが、いかんせん他にやることが無いものだから、無意味だと悟りつつも、こんなことをして、何かをやっている様な気持ちになろうとしているのである。
背の低い草の間隙に視線を落としてみたり、茂みを掻き分けたりしていると、ほのかに血肉の香りを引き摺っている様な気がして、増々気分が悪くなって行く。だが、一度始めてしまったことを早々に打ち切るのは、別に誰が見ている訳でも無いが、何だかばつが悪かったので、文は意地を張って探索を続けた。
しかし、一際大きな茂みを掻き分けてみようと屈んだ瞬間、痩せ我慢を続けて来た代償であろうか、不意に頭がくらりとした。やや不安定な体勢であったこともあり、文は探索しようとしていた茂みに前のめりに突っ込んでしまった。
体勢を立て直そうと手を動かすのだが、茂みの中身は空洞が多く、なかなか手を付ける地点を見つけることが出来ない。
そんな風に間誤付きながらも、ややあって茂みから脱することに成功した。この小恥ずかしい急な出来事は、ぼんやりとしていた文の頭を叩き起こす切っ掛けとなった。
「はあ、びっくりした」
覚醒後特有の高揚が、彼女にこんな独り言を齎したのであるが――
――次の瞬間であった。
突如として首に白色の紐の様な、布切れの様な、とにかく長細いものが引っ掛けられた。急に首に掛かって来たそれがどんな意味を持っているかを考えるよりも圧倒的に早く、紐か布か知れぬそれが、ぎゅっと文の首を締め上げた。ここまでされて、ようやく文はそれの意味を察知した。――殺意の表れだ。
首に引っ掛かって来た何かを取り去ろうと腐心してみるものの、柔肌に食い込む程に力強く首を締め上げているそれを取り外すことなど叶わない。
抵抗空しく意識はどんどん遠退いて行き、やがて文の視界は真っ暗になってしまった。
*
口内に感じた強烈な苦みに、射命丸文は叩き起こされた。
噎せながら、一体何が起きているのかと辺りを見回そうとした刹那、右の頬に鋭い痛みが奔り、パチンと言う快音が聞こえてきた。右の頬を、不快な熱に支配されて、文は自分が引っ叩かれたのだと言うことを理解する。
脈絡無く頬を叩かれて黙っていられる程、文は温厚な者では無い。相手が誰であるかも判然としない内に、反射的にやり返してやろうと身構えようとしたのだが、それは叶わなかった。両腕が背後へ回され、その上手首が頑丈な縄で縛り上げられていて、全く身動きの取れぬ状態であったのだ。
だが顔を動すことは出来たので、彼女は自分に理不尽な暴力を振るい、この様な状態に陥れたのであろう者の顔を拝むことが出来た。
「え……椛?」
文は絶句した。
目の前に犬走椛が立っていたのだ。
惨殺事件の現場で何者かに襲撃されて気を失ってからどれ程時間が経過したのかは、文には知れぬことであった。今彼女は、自分がどこにいるのかも分からない場所にいるし、窓はあれども、夜なのか、影なのか、とにかく真っ黒である。時計も無い。だから、時間の経過が測れない。
だが記憶の上では、犬走椛は、つい先程、妖怪の山の切り岸であれこれ話をしていた白狼天狗である。そんな者が、どうして自分をこんな目に遭わせるのか――文にはまるで理解が出来なかった。
言葉を失ってしまっている文に、椛は薄く笑んでこんなことを聞かせてやる。
「随分面倒な情報を皆に知らせてくれましたね、文さん」
「面倒な、って?」
「言うまでも無いでしょう。薬を買った白狼天狗云々。唯でさえ低俗で、見ていて吐き気のする新聞なのですから、他人のプライベートくらいは遵守して欲しいものですね」
椛はそう言いながら、緊縛されて身動きの取れない文の元を離れて、闇の蔓延る部屋の奥へと消えて行く。
今、二人がいる場所と言うのが、どうやらどこかに建てられている掘立小屋であるらしかった。土の臭い、木の臭い、黴の臭い等、多種多様でありながら一様に陰気である香りが文の鼻孔を突く。その香りだけで、文は何だか絶命出来てしまいそうなくらいの絶望感を覚えていた。
「椛、まさかあなたが」
あなたが――何なのかを具体的に問うことは、脳が拒んだのであるが、椛はしっかりそこに入る筈であった言葉を察し、こっくりと頷いて見せた。
「そうです。私です。私が世にも奇妙な薬を購入し、妖怪の山を震撼させたあの血みどろの事件を起こした張本人ですよ」
言下に椛は、紹介の任を命ぜられた白狼天狗全員に配給される剣を文に掲げて見せた。それから、ゆっくりと、勿体ぶった手付きで、鞘の役割を果たすべく刃に掛けられている革製の覆いを取り外した。薄暗い家屋の中にある貴重な光を。白刃は懸命に反射して輝く。
一体何をするつもりなの――などと文が問う暇さえ無く、椛がその刃を己が胸へと突き刺した。決して短くは無い剣の半分くらいを、椛の胴は飲み込んでしまった。しかしまだ足りぬと、椛は更に手に力を加えてやる。めりめりと椛の血肉を破って剣が彼女の身体の中を進行して行く。おォ――と、苦しそうだが、しかし何か満足感に満ちている、低い唸り声が、椛の口から血と一緒に吐き出される。
遂に剣は椛の身体を貫き、背面から外界へ飛び出した。肉か臓物の欠片が切っ先にしがみ付いている。椛は柄から手を離し、ひらひらと手のひらを動かして、手品師の様ににっこりと笑って見せた。その後、再び柄を握り、剣を引き抜いた。
「信じて頂けましたかね?」
こんなことを言いながら、胸元に穿たれた風穴を、衣服を捲って文に見せつけた。部屋が暗いので、胸の穴の向こうはただ黒色であるが、もしも彼女の背後に色鮮やかな花園でも広がっていたら、花の美しい赤色や黄色を、その穴を通して見ることも出来たかもしれない。
椛が見せて来たこの芸当は、あまりにも悪趣味で凄惨なものであるが、何故か文はそれから目を離すことが出来なかった。いやいや目を逸らすどころか、言い知れぬ興奮など覚えてしまっていたのである。心臓がバクバクとやかましく鳴り続けているのは、凶悪な事件の主犯者を目の前にして、全く身動きが取れない状態にされていることに対する恐怖の所為ばかりで無いことは、彼女自身が一番よく分かっていた。死を目前にして少しばかりとち狂ってしまったのかもしれないが、しかし、狂ってしまったと思えているのだから、まだ自分は正常なんだろうとも思えた。自分でも驚く程に冷静に、目の前の異常者を見ることが出来ていた。
思った程文が驚かなかったことが、椛にとっては少し不快であった様で、椛は不機嫌そうに息を吐いた。
「折角痛い思いして見せてあげたのに、反応が薄いですね」
こんなことを言いながら、緊縛されている文のブラウスで剣に付着した己の血を雑多に拭き取る。粗方それが終わったところで、さて――と音頭をとり、再び文の真ん前に立ち直した。
「私があなたに何をしようとしているのか、分からないなんてことはありませんよね?」
椛が問う。文はゆっくりと頷いて見せた。
「私を殺すのですね?」
「その通りです」
言下に椛が言う。
「あなたを殺してしまった所で真相解明が遠退くことはありませんが、まあ、あんまり行き過ぎた真似をするとこんな風になってしまいますヨ、と言う見せしめくらいにはなることでしょう。あなたには、あの鼻高天狗と同じ様に死んで貰います。とにかく残酷に。とにかく惨たらしく、ね。ああ、大丈夫。ちょっとやそっとじゃ死にません。あなたが目覚める寸前に、余っている不老不死の薬を投与させて貰いました。いや、なに、平気です。ばっちり死ねます。適量の十分の一程度の量ですから。少しだけ寿命が延びて、少しだけ死から遠のいたってくらいのものです。存分に苦しませてあげますから」
――死。
長きに渡る天狗としての生の中で一度も体験することの叶わなかった未知なる感覚。どれだけ傍若無人に振る舞おうと、どれだけの危険を犯そうとも、絶対に感じることの出来ない、しかし、遍く生物に用意された終着点。椛は、それを提供してくれるのだと言う。
私は興奮している。強がりでも何でも無い。恐ろしい。死ぬのは怖い。誰だって初めてやることは恐ろしいに決まっているのだ。恐ろしいのだが、それ以上に――いや、恐ろしい相応の価値が、輝きが、期待が、そこには存在していて、私を待ってくれている。
前々から死と言うものを知りたかったのだ。何せ私は、何かを殺してしまわないことには、物語の一つも手掛けることが出来ない様な生き物であったから。
私の書く物語には、決まって『死』が登場する。一言に死と言っても、表し方は様々である。例えば、愛しい者との永遠の別れを齎す儚い死。例えば、理不尽な暴力の元で残酷に殺されてしまう悍ましい死。例えば、これ以上無い程の陰惨な手法で以って嬲り殺すと言った楽しい死――様々な死が存在し、いつでもそれは物語の中で重要な位置に存在している要素であったにも関わらず、私はそれを空想することでしか表現して来なかった。違う、出来なかったのだ。何せ、死を体験することは出来ないからである。
いつでも死の表現は稚拙であった。納得のいく絶命など描けた試しが無い。こんな陳腐なものでは無い筈だ、こんなちゃっちいものでは無い筈だ。生まれ落ちて、その瞬間まで蓄積して来たもの全てが崩れ落ちる瞬間が、こんなにも呆気無いものであっていい筈が無い――いつもそんなことを思っていた。思う度に筆が止まった。美しい死を描けない現実はどうしようも無く耐え難いものであったから。
歯痒かった。これだけ求めてみても、断片すらも手に入れることが出来ないのだ。死んでしまったら私はそれでお終いなのだ。何を表現することも出来なくなってしまう。
また、この感覚は他人に聞くことも出来ない。不老不死の人間ならいるが、あいつらにもやはり死は無い。聞けども聞けども、大したことは教えて貰えなかった。眠る様に視界が消えて、しかしすぐに目が覚めて……そんなことなら私だって毎日経験している。
幽霊、亡霊の類に聞いてもまるで無駄であった。一様にあまり覚えていないと言うのだ。
ならば、やはり自分で体験するしか無いと言うのが私の出した結論であったが――当然の様にその手法は今まで見つからなかった。今までは。もう見つかった。今回こそがそれだったのだ。
ようやく気付くことが出来た。私に本当に必要な経験とは、血生臭い大事件を追うことでも、読者の有難味を知ることでも無く、死ぬことであったのだと。いやいや、違う。私が常日頃からこのことを望んでいたからこそ、魔導書は私に死ぬ機会を与えてくれたのだ。そうに違い無い。
「早く殺してください」
私は気付けばこんなことを口走っていた。恐ろしいのではない。楽しみで仕方が無かったのだ。お預けを喰らった犬の気持ちだ。
ああ、愛おしい! あの血潮でぬらぬらと赤く小汚く輝く剣がどうしようも無く愛おしい。早くあれで私をぐちゃぐちゃにして欲しい。どこにあれを突き刺してくれるのだろうか。肩だろうか。脚だろうか。ひと思いに喉や目や心臓なんてのは止めて欲しい。死ぬ程の痛みと言うものを体験してから是非死にたい。どれだけ妖怪や妖精を嬲っても得られなかった死までの過程を、死ぬ程堪能して死にたい。そして私はそれを鮮明に、克明に描くのだ。私の頭の中にだけ存在する魅力溢れる登場人物を、実体験を基にした死の過程に当て嵌めて、完全無欠の死を遂げさせるのだ。想像するだけで絶頂してしまいそうだ。
殺したくて殺したくて仕方が無かった。ただその為だけに私は小説なんて趣味を持ったのだ。ただ殺せばいいと言うものでは無い。死ぬ者の感じている苦痛や恐怖や喪失感や絶望感――その全てを想像して描くことにこそ、価値を見出していたのだ。今まではそのほとんどを願望や空想で補強して来た、張りぼての死で妥協していた。だが遂に私は張りぼてを外すことが出来るのだ!
今までのお遊びの死とは違う。命を失うことの恐ろしさを想像して書いて来ただけの幼稚な生命の終焉とは違う。作り物の死とは違う。空想――ファンタジーの絶命とは違う。私がこれから描くことが出来るのは、正真正銘の、本物の、本場の、嘘偽りの無い、生きた死なのだ。
ショーツが湿っている。失禁してしまっているのだ。怖いのではない。嬉しいのだ。嬉しくて嬉しくて、嬉し過ぎて、もう、節操の無い獣の様。椛も当惑している。無理も無い。だが理解などしてくれなくていい。早く殺して。私に死を経験させて。ゆっくり甚振って。バラバラでも火達磨でも、とにかく殺して。さあ、殺して。殺して。殺
遂に私は、長年の悲願であった『死の体験』と言うものを完遂した。協力してくれた紅魔館の魔女であるパチュリー・ノーレッジと、その助手の小さな悪魔に、心より感謝を表明したい。
この経験を元にして、未だかつてない程に鮮明で残忍な死の描写を行い、世間を震撼させたく思い、物語を紡いで来た。この文章――恐らく遺書に相当するものになることだろう――の前に長々と書いて来た物語は、全て実話に基づくものである。姫海棠はたてとの些細な言い争いから始まった小説合戦に勝利すべく奮闘したこと。大容量の小説の執筆に行き詰り、紅魔館の図書館にいる魔女を尋ねてみたこと。そこで紹介された書籍に誘われて踏み入った世界で、死を含む様々な経験したこと――これらの一連の私自身の行動を小説にしようと試みた。その産物が、前に書き記し続けてきた物語である。
我ながら残念なのであるが、死に伴う苦痛、恐怖、喪失感、絶望感などを経験し、この身心に刻み込んではみたが、それを書き表すことは、遂に叶わなかった。そもそもそれらは、51200文字と言う制限の中に収めなくてはいけない物語の中では紡ぎ切ることが出来る気がしないくらい濃密であり、その上、理解や表現が極めて難しいものであったのだ。おまけに前例が無く、参考に出来る文章も一つとして無い。……そもそも、死の様相を書き遺すことなど、どんな生き物でも出来る筈が無いのだから、死を表現することが出来る言葉がこの世に存在しないとも考えられる。後世に『死』の全貌を遺すことが出来なく、本当に残念に思う。
更に、魔法空間――詳細は小説の残骸を参照のこと――でねちねちと殺されてしまったことが、私の魂に深刻な障害を与えた様だ。こちらの世界に戻って来てから、一日たりとも体調が優れた日が無く、おまけに日に日に酷くなって行く。ようやく死ついての描写を始める段階に到達した今は、何もしていなくてもつらい。
死を経験した私だから分かるのだが、私は間も無く死ぬ。魔法空間で体験した死――あの時と今の状態は酷似しているから、これは間違い無い。
万全の体調で無かったから――とは言い訳になってしまうが、小説の残骸の終盤で文体が大きく崩れてしまったことを詫びたい。その様な瑣事に感けていられる様な状態では無かったのである。全般に掛けて推敲等も一切行っていない。非常に読みにくい文章となっていることであろう。
改めて紅魔館の魔女と助手に惜しみない感謝を表明する。
確かにあの本は私に必要な――大きな小説を書く為の経験を与えてくれたが、100KBの如きでは少々容量不足の経験であった様だ。
10KBコンペ開催と言う世相に便乗したかったのです。タグに「時事問題」って入れようかと思ったけれどタグ詐欺は悪質なのでやめておいた。
(ワードパッドの上では)51200文字ピッタリです。およそ100KB。
10KBコンペ、明日からですね。皆さんがんばりましょうね。
こんな作品でしたが、ご閲覧下さいましてありがとうございました。
pnp
作品情報
作品集:
6
投稿日時:
2013/02/24 13:13:28
更新日時:
2013/02/24 22:13:28
評価:
6/6
POINT:
600
Rate:
17.86
分類
産廃100KB
射命丸文
姫海棠はたて
犬走椛
パチュリー・ノーレッジ
小悪魔
さて文の体調不良って、締め切り間際、或いは締め切りをブッ千切っちゃった小説家や漫画家のような物書きが陥る病では?
その病を克服するにはただ一つ。
作品を書き上げることです。
やはり長編を書くのが好きなんですね。