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『産廃創想話例大祭A『 the rising spark 』』 作者: box&変ズ
幻想郷
それは、忘却の彼方に広がる世界。
産業の発展、科学の進歩、電光の切り裂く、夜の闇
十、百、千の時を経て人は変化し、進化し、飽くなき望みのままに発展を追求してきた。
発展は人に力を、知恵を授け―――――――同時に、忘れさせた。我が物顔で星を闊歩する人間を、遥かに上回る彼等を。
幻想郷
それは最後の楽園。
姿を消し、僅かな闇に紛れ、忘れられた存在―――――妖怪、妖精、妖獣、そして神―――――彼等の流れ着く場所であった。
鬼、吸血鬼、天狗、亡霊。古今東西、摩訶不思議の終着点だった。
幻想郷
それは、人と妖怪とが手をつなぐ世界。
血を流すことの無い戦いで雌雄を決し、しのぎを削り、互いを認め合った。
異変があれば、人間がそれを解決する。そしてことが終われば、二つが交わり、朝まで酒を飲み明かしたのだ。
いつどこでも戦いに明け暮れ、宴会に明け暮れ、気ままに生きることに明け暮れて。誰も彼もが最後には笑う世界。
かつて幻想郷にも、そんな時代があった………
the rising spark
[1]
「………………、」
「お待たせしました」
「はい」
「お客様の経歴――――学歴無し、魔法使い免許を取得しておらず他に資格無し、種族人間、性別女性、年齢31――――ですと、当方で紹介できる職業は見当たりません……」
「そうですか」
「魔法の心得がおありであれば、免許の取得をお勧め致します。我々『ホーライワーキング』系列の魔法教習所を斡旋できますが、いかが致しますか?」
「いえ、結構です」
「教習所内での成績上位者には、奨学金制度もありますが……」
「……結構です」
「お客様のご期待に沿えられず、申し訳御座いません」
「いえ、私の能力が悪いんです。今日はありがとうございました」
無限にも等しい空であった。遥かに大地を抱き、天球を回す空を、斜陽に燃え尽きた雲が漂う。その下では、摂氏三十度を超えた空気が、質量でもって世界を埋めていた。降り注ぐ光は、突き刺さるような熱満ち、背伸びする摩天楼の額に跳ね返っては、地上に叫びを上げる。灼熱に横たわるアスファルト、蜃気楼の渦を行き交う肩は揺らめき、輪郭を朧にする他無い。七月の先駆けを、夏が支配していた。
『ホーライハローワーク』
と、角までニスの塗られた看板の下、自動ドアを女はくぐった。入り口目掛けて雪崩れ込む生温い風に、彼女は身を縮ませて、暑いぜ、とごく当たり前な感想を呟いた。
皮膚を撫で回すような感覚の中を数歩行くと、女は透明に澱んだ空気に顔をしかめた。信号待ちの車が、歩道とは白黒の反転した道の上に列をなしていた。車が待ってるとすると、歩道は青か。単純な答えに彼女は気づいたが、急ごうとは思わない。急ぐような用事が、彼女には無かった。
「皆さんこんにちは、守矢工業の東風谷早苗でございます!」
女は疑問符を一つ浮かべながら、左に響くメガフォンに振り向いた
―――!
曲線の際立つスーツ、肩の上で短く切られた、深い緑の髪。自らの名の書かれた襷を身につけて、メガフォンで話しつつビラを配っていた。
東風谷早苗
かつては守矢信仰の巫女
今では、一大企業モリヤ工業の社長。
幻想郷における産業革命の先駆けとなった、栄光の絶頂を迎える人物。最近では、政治運動にまで進出を始めていた。
僅かばかりの動きを止めて、女はただ早苗を見つめていた。視線に力は篭もらず、呆然と開く唇は、少ない艶を失ってく。熱の無い汗が、手のひらに滲んでいた。
早苗はしばらくビラとメガフォンを両手に、道行く人のあちこちへ身体を向けていた。そのうちに、女の方にまで。
―――不味い。
女の無色透明な表情が、明らかな息を呑む。彼女は踵を返そうと思ったが、早苗は既に目の前にいた。自分の姿が印刷された、ビラを差し出して。
「東風谷早苗をよろしくお願いします」
蒼白に染まった頬が、きょとんと唇を閉じる。そのままで動かない女に、早苗は小さく首を傾げた。
「…………?」
「……結構ですか?」
二三の瞬きの後、女は咳払いをしながら、急いでビラを受け取った。そして、ちょうど信号が青になったのを見て、踵を返し横断歩道を渡り始めた。
女は自分の呼吸を聞きながら、塵紙程度の藁半紙に目をやる。
『新しき幻想郷に、明るい未来を!』
黄緑の文字で大きく印刷されたスローガン。紙の上を踊るような、明朝体の文字列。派手にかつ大胆に彩られた、早苗自身の表情。
それらに目を走らせても、女の視線や表情には、何も浮かぶことは無かった。感嘆、関心、あるいは軽蔑や嫌悪といった感情すら、彼女には浮かび上がってはこなかった。
しばらく女は意味の無い眼差しを続けていたが、やがてビラを持っていた指を離した。
―――あいつは私を認識しない。
私もあいつを認識しない。
関係の無い、ことさ。
紙の角には僅かばかりの汗が染み込み、名残惜しげに人差し指に貼り付く。が、特に何てことも無い風に吹かれ、呷られ、直ぐに冷たい中を回遊し始めた。
と、女は自身の目の前で手を広げた。あまり色の良くない、あちこちの擦り切れた手。人差し指の腹、彼女はそこに、染み付きくたびれた極彩色の塗料の欠片を見つけた。
彼女は歩みを進めながら、ポケットの中で親指を動かしていく。整えられてない爪を、人差し指に当てて。
結局大した時間も苦労も無く、指に貼り付いた塗料は簡単に剥がれた。
けれど透明な糊や揮発料までは、いつまでも指から離れず。女は指を動かすのを止めた。
紅のグラデイションが深まり、黄昏の足音を響かせる。けれども、人の往来は大して変わる様は無い。風も、道も、空気も、依然とただあり続けて、変わらない。
女もまた、その中に含まれる。彼女は行き交う人の中を、同じ場所をあても無くさまよっていた。俯き、不安げに肩を揺らして。生ける亡者のように、地を這うように。彼女は自分が今どこを歩いてるかすら、認識していなかった。考えることを放棄して、ただ歩いていた。
と、女の肩がぶつかった。彼女は若干の戸惑いを――――ぶつかったことではない。自分の歩みが止まったことへの――――を浮かべて、顔を上げた。
そして同時に、胸倉を掴まれる。
―――!
「おいあんた、僕のみすちーに何してくれてんのかなァ?」
胸倉を掴む肩越しに、明らかに大袈裟に肩を押さえる姿が、女の目に入った。二人ともピアスをして、それぞれタトゥーをわざと見えやすい位置に刻んでいる。
女は自分が、所謂「チンピラ」にぶつかったのを知った。
「チョーイタいんだけどぉ、ねぇリグルくん、腕取れちゃいそー」
「うっわ、マジ病院いった方が良くね?」
というわけでさぁ、とチンピラは女を引き寄せた。鼻先が当たりそうなほどに顔を近づけて、彼女の汗の滲む表情を睨む。
「みすちー病院行かなきゃ何だよねー、でも僕達お金無いんだー」
その後に続く台詞を、女は容易に悟りえた。彼女に仕事は無い。家族も無い。
―――まずいぜ、どうする?
金を取られたら、明日生きていけるかもわからない。
―――だが………
―――金を出すか……
「つーわけでお金頂戴よぉ、あんたが悪いんだからさぁ」
………戦うか
女は、自分が無意識に手を動かしてることに気づいた。彼女のか細い腕が、何も入ってない右ポケットを探る。空っぽなことが、わかっているのに。
女は愕然と喉を鳴らしながら、急いで腕を引っ込める。そして何度も指をもつれさせながら、懐から財布を取り出した。すかさず、チンピラに引ったくられる。輝いていた眼差しが、一気に色を失った。
「何これ、数千円ぽっち?ねぇ、これっぽっちで病院行けると思う?」
何か返事をしようと、女の唇が動く直前。チンピラは、思い切り彼女を殴った。何も守るものの無い、腹を。五臓が焼かれるような痛みと、重たい呼吸。彼女は微量の唾液を焼け付いたアスファルトの上に吐いた。そしてあるべき思考も無く、ほぼ反射的に口走った。
「ごめんなさい」
「これしか持ってないんです」
「はァ?あんた立派な大人でしょう?」
―――いや、私は、いや、
小さく唇を開いたまま、女はチンピラの顔を見た。笑み、笑い、嘲笑。水の中でもがく蟻を見るような、ねとりとした笑み。女はこわごわと口を開く。
「その……仕事が、」
「はィ?」
「仕事が、無くて」
底抜けに明るい、そして残酷な笑い声が往来を響かせる。疑問符を上げすらしなかった通行人たちも、流石に首を向けた。女の願いを、奈落へ突き落すように。
「えええ?この景気の良い御時世に、もしかして、『クビ』になったんですかぁ!」
敢えて声高々に言うチンピラ。女に突き刺さる視線。立ち位置は違えど、自覚も無けれど。彼女から見れば、三千世界の皆が同じ顔に見えた。鼻と耳にピアスをした、チンピラの顔。彼女は震える拳で、静かに、しかし強かに自分を小突いた。
「まあ、そんなおばさんで、しかも人間みたいじゃあ、出来る仕事も限られてきますよねー」
「………はい」
「じゃあ、お札だけで許してあげますよ。僕たち優しいですから」
チンピラ二人は踵を返し、財布を肩越しに放り投げた。細々としたゴミと、幾らかの小銭が宙を舞い、凍りついた路面を転がる。それを女は、這いつくばって拾い始めた。されど、往来はわざわざ、彼女のために止まることをしない。
僅かばかりの小銭。そのために、明日を生きるために、女は地に伏し、行き交う人々に蹴られ、踏まれ、侮蔑と軽蔑の目を向けられる。彼女はその度に謝り、許しを乞い、頭を下げていた。ボロボロに擦り切れた手で、雀の涙に手を伸ばしていた。
―――無職。
―――三十路を越した行き遅れ。
―――金は無い。
―――資格も無い。
―――意地も
―――プライドも無い。
―――私って
女の視界が、鮮やかな灰色に染まっていく。
―――私って、何だ?
種族普通の人間、性別女性。所持金、721円。
その名は、霧雨魔理沙
黒白の、普通の、魔法使い
かつて、は
… … … …
産業革命。
はるか昔幻想郷の外で起こり、大規模な機械工業化を促した現象です。幻想郷におけるその起点は、外界とは違いました。
外界から来た守矢神社のもたらした、外界産の機械の数々。それらの解析、模倣品の製造に、山は所属する全河童を動員し乗り出させたのが、全ての始まりです。
これには幾つかの理由があるものの、何と言っても上げられるのは、相次いだ勢力の増加でしょう。古来から常に、山は軍国主義の思想に染まっています。上下関係を明確に管理し、仮想敵を絶やさないことで、個々が強大な天狗をまとめてるのです。故に、彼らは幻想郷のあらゆる変化に敏感で在り続けると言えるでしょう。山の味方ではある守矢神社を皮切りに、命蓮寺の信者の増加と台頭、けして無視出来ない力を持つ神霊廟。有事の際にこれら全てを敵にまわすのは無理です。されど守矢神社との宗教の関係上、同盟を結ぶことも出来ない。
戦力増加と生産力増加を兼ねた手段。それが、産業革命でした。
… … … …
魔理沙は手を伸ばしていた。膝を折り、足をついて。乾いた頬を、埃の溜まった木目に擦り付けて。四糎も無い隙間の中へ、指を這わせていた。
―――あと、あと少し…!
部屋の天井に吊り下がる電球以外に、光源は無い。物に溢れかえる棚と隙間の間には、底無しの暗夜が広がっている。
理屈、理性に於いては、誰しも理解する。僅か数十糎四方の暗がり。
されども
生物にしか持ち得ぬ部分は、誰しもに囁く。果ての見えぬ先には、無限にも等しい深淵がある、と。
肩、二の腕、肘、手首。伸びきった体組織の一片までが、痺れるような感覚を上げていた。魔理沙は進みを止めない。前へ、さらに前へ。悲鳴を無視して、爪を掻く。
塗りつぶしたような漆黒の、影の中。霞んで佇む紙片へ。
―――頼む…届けよっ……
爪の一端が、紙片に触れる。触れるだけである。震える程度にも動きはしない。魔理沙は止めない。身体を捻り、付して、這い寄るのを。
―――行けっ……!
爪が、木目に食い込む。紙片のさらに一端を、巻き込んで。
―――よし、行けるぞっ…!
爪を立て、掻き、離しては、また繰り返す。半粍、一粍、半糎。距離が、縮まっていく。
そして、開かれた手のひらが、紙片を音を立てて握りしめた。
「やったッ」
魔理沙は満面の笑みで以て、拳を引き掲げた。埃にまみれながら、塵まみれながら、紙片を手にした拳を。抑えきれない様子で、身を震わしながら。
―――助かったっ…
表情に浮かぶもの。圧倒的歓喜の波、有り得ないほどの熱気、興奮の坩堝
そして
魔理沙の震えが、止まる。
感涙さえ浮かんだ表情は無味無色の素面を晒し、瞬きがその上を往復してく。
魔理沙は突き上げた拳を、前とは似て非なる震えを帯びて、目の前で開いた。
魔理沙の呼吸が、止まる。
―――金じゃない……?
丸められた紙片が、開かれる。そこにあったのは、幻想銀行券の肖像画ではなくただの白黒の文字の羅列だった。
『境界弾幕賭博場
【白銀のスナイパー】
モミ・バシリ
VS
【お値段異常】
プレデター・ザ・ニトリ
モミ・バシリ一万券』
魔理沙は時計を見た。そしてラジオを探した。午後七時三十五分、魔理沙は蹴飛ばすようにラジオを点ける。軽妙なロックと共に、深みの無い声が部屋に響いた。
『今日のモミVSニトリは残念でしたね。いやまさか、ニトリがレーザーガンを捨てて肉弾戦に来るとは……』
『レーザーガンを捨てるのは、ニトリが相手を「獲物」でなく「敵」と認めた時だけですよ。むしろモミとしては感激でしょう』
『太刀の扱いにも長けるモミですが、流石に今期最強のプレデターには適いませんでした。フィールドが射撃戦なr』
「畜生!」
ラジオが叩かれる。うんともすんとも鳴かなくったラジオを、魔理沙は思い切り蹴り飛ばした。
―――箪笥も見た、物置も見た、見れるところは全部見た!
なのに一円だって転がってやしないっ……!
埃と油の積もった台所。水の出ない洗面所。部屋、と呼んだ方が正しい居間。
プラスチックの弁当の包み、澱んだ液体の入ったペットボトル、茶色に黄ばんだスーツ。壁際へどかされたそれらと、薄く穴の空いた布団。加えてがらんどうの物置と、所狭しとおかれる大量の段ボール箱。今の魔理沙の、全てであった。
魔理沙は四肢を布団の上に投げ出した。一日分の空腹が、彼女の五臓を駆け巡って響く。彼女は三日間同じの作業着の、汗の味をしゃぶって気を紛らわした。
―――もう時間が無い。
魔理沙自身にしか聞こえない、囁き。彼女はそれを少し間を置いて繰り返した。時計の短針の、急いだ動きを視界に入れながら。
魔理沙は腕を持ち上げて、それから足を持ち上げた。泥沼に足をとられたような動きで、一番近くにあった段ボール箱にしがみついた。
―――金目のものなら何でも良いぜ……
蚊の鳴くように呟くと、魔理沙は段ボール箱を開けた。取り落としながら、掴み損ねながら、ものを取り出してく。朱い筋の通った目線がものを追っていく。が、彼女が手を止めることは無かった。
長針が何度か進む頃、魔理沙は空の段ボール箱を放り出した。飛びつくようにして、別の段ボールに手をつける。そして何も持たないままに、また別の段ボールに手をつける。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
ついに部屋に残ったのは
埃のまとわりついたがらくたと、空の段ボール箱だけだった。
ただ、一つを除いては。
短い間隔で肩を上下させながら、魔理沙はそれを見ていた。目を細めるわけでも無く、見開くわけでも無く。力の無い目線で、それを見ていた。息遣いが、部屋に響く。
それは、段ボール箱だった。ガムテープに蓋をされた、箱。角はとうに磨り減って丸くなり、横に印刷された文字は掠れて読めない。蓋には、染み出した粘着剤と塵芥とがへばりついている。それは、転がる段ボール箱の群れの中、片隅に小さく腰掛けていた。
魔理沙は唾を呑み込もうとしたが、下るのは乾いた空気ばかりだった。
―――いや
魔理沙はもう一度、乾いた空気を呑み込む。彼女は足を引き摺るようにして、箱の側に行った。爪ほどの震えを帯びた指と、捻れた黒色の埃とが触れ合う。何秒かの後、彼女は無理やりにガムテープを剥がして、段ボール箱を勢い良く開けた。
曇った空気が、段ボールの中を満たしていた。無論、いくつかのものは入ってはいる。しかし、それらはちっぽけに肩をすぼめて、身を丸めていた。
魔理沙は視線を向けないようにしながら、中のものを取り出していく。
細やかな皺の刻まれた、白黒のエプロンドレス。
そして
正八角形の、金属塊。
複雑な模様に、黒い金属光沢を映した。
―――これは
これは、どのくらいの価値になるんだろうか?
いや、価値があったとして―――――
長針が、八時と重なる。と、玄関の扉を、打撃音が震わした。魔理沙はサァと表情を変えた。部屋まで揺らすようなノックが、乱暴なリズムを刻む。
『霧雨さァーん、いるんでしょう?いるなら返事してくださいよ』
『夜にこんな大声出させて、常識無いんですか?』
『こちらも商売ですからねー、大家さん呼びますよ』
丁寧な敬語の裏の、急かすような口調。すがりつくと書くのが正しい動きで、魔理沙は扉を開けた。
扉を開けるなり、頭を剃りドスの利いた背格好の男が、靴も脱がずに敷居を跨ぎ床に足をつく。魔理沙は流されるように身体を引いて、男は当然のように足を進めた。がらくたまみれの部屋を見渡したまま、男は首を傾げる。
「あれー、僕は確か二百万程の借金を返して貰いに来たんですがねー、どれですか」
「あの……その、」
「いやあ、霧雨さんは誠実な人ですから、その辺の段ボールに入ってますか」
男は目を細めて微笑みながら、埃のついた段ボール箱の一つを蹴り倒した。粗末なホチキスで止められた紙束や不透明なガラスのコルク栓の空き瓶などとが、形容し難い乱雑な音をたてて床を転がり壁を跳ね返る。蒼を通り越し色の無い表情で、魔理沙は叫ぶように男を呼んだ。が、「金は?」とたった一言を言われたきり、俯いて口を閉ざした。
「ねえ、金はどこですか」
男が声を出しても、魔理沙は相も変わらず唇を震わす。途端、男はカッと目を見開いて彼女の首を鷲掴みにした。
「なァ、うんとかすんとか言えんだろ!?はいでもいいえでも言えってんだよ!」
「ありません、お金はもう無いんです!」
へえ、とにやついた返事が、空になった段ボール箱を踏み潰す。
「あんた年は?」
「え、いや……31です」
「年の割にはえらく若く見えるじゃないの」
魔理沙はしばらく意味の無い瞬きを繰り返していた。しかし男の言葉から何秒か後に肩を跳ね足を一歩引いた。
「此処まで借金が膨れあがっちゃね、もう私らも期待しちゃ無いんですよ、まともに返してもらおうだなんて」
「…………」
「泡風呂に沈むか腎臓売るか、好きな方でどうぞ」
「…………」
「選ばせてやるって言ってんだよ!」
と、男は魔理沙から視線を切った。彼女から手を離すと、すぐ足元に腰を曲げて、転がるものに手を伸ばした。
「………なんだ、まだ金あるじゃねえか」
男の手の中の
正八角形の、金属塊。
殆ど悲鳴のような声が、魔理沙から響いた。
「それはッ!」
「いや、前にどっかで似たようなのを見ましてね。『マジックアイテム』ですっけ?良く知りゃしませんが、兎に角えらい値がついてましてね」
「これさえ売りゃあ、チンケな借金なんて吹き飛びますよ」
「それとも何です、売れない理由でも?」
既に、魔理沙の全身を冷たい汗が包んでいた。彼女の色の無い肌が蒸気を吹いて止まない。感情と困惑とが、表情を行っては帰り駆け巡る。
―――売れない。
売りたくない。
売れるわけがない。
私の思い出。
私の誇り。
私の――――――――私の、最後の、『残りカス』
「霧雨さん、迷ってる暇も余地も無いでしょう、あんたには」
目を上げた魔理沙の目の前で、男は微笑みを浮かべていた。彼女の視界に浮かぶヴィジョンの中で、その表情は輪郭を失うほどに歪んでいく。口は殆ど逆三角形につり上がり、目は鋭いナイフのように。されど、地に足のつかない安心感を持って。
「思い出だか何だか知りませんがね、私から言わせりゃ痰カス以下ですよ」
「………!」
「思い出で飯が食えますか?」
「………、」
「思い出が命を救ってくれますかね」
魔理沙は、声を出さずに唇だけを何度か動かした。その意味の無い動作をしばらく繰り返した後、ほんの僅かばかりの振動を喉から発する。
「さァ、売るか売らないか、はっきりしてください!」
息を吸う動作も無い。息を吐く動作だけが、真空の透明さで以てそこにあった。
「私は………」
「………私は、」
「……私は」
『その必要はありませんわ』
空を裂き、響く声。
魔理沙ではない。
無論のこと、男でも無い。
軽く、それでいて諭すような声色。
反射的に男は辺りを見渡し、魔理沙もまたそれに倣う。が、二人が声の主を見つけたのは、その声に振り向いてのことだった。
「!……妖怪か?」
「ええ、如何にも」
男は上を向いたまま、怪訝に目を走らせる。何もない、在るはずのない空間に裂け目を走らせて、その上に腰掛ける少女に。彼女は天井すれすれに傘をさしながら、薄紫のゴシックロリータに微笑みを浮かべていた。
「人里のド真ん中で、とって喰おうってのか」
「とんでもない、私は直接交渉に来たのよ」
男は、怪訝かつ間の抜けた声を隠そうともしなかった。気にすることも無く少女は、懐から身分証に似たものを取り出すと、見せつけるようにかざした。
「社長命令よ、家に帰って寝なさいな」
途端、ドスの利いた表情が崩れ、しわくちゃに汗を掻く様子が取って代わる。十も二十も年をとったように男は視線を乱暴に振り回したあと、一つ声を上げて部屋から出ていった。
少女は一つ息をつくと、今度は魔理沙に体を向けた。
「彼の勤務態度は良好だったかしら?うちは社員教育には骨を折ってるのだけれど」
魔理沙は無言のまま、射抜くような視線を向ける。そして変わらない表情を見て、ギリギリと軋み引きつった笑みを浮かべた。そう、明らかな動揺と困惑の色を、魔理沙は隠すこともしなかった。いや、隠すことも出来なかった。鼻歌を一つ奏でそうな紫の笑みが、彼女の鼓動を早める。
―――何で、お前が。また、私の前に
―――八雲紫!
「社長様、ですか?」
ようやくにして、魔理沙は一つ高い声を出した。相手の足に這いより、撫で回し、何かを乞うための声。込み上げる、吐き気にも似たものをせき止めながら、魔理沙は表情を取り繕う。
「社長様が、私なんかに何のようでしょうか……」
瞬間、紫の声が、魔理沙の鼓膜を叩いた。形無き衝撃でもって、強かに。魔理沙の脳髄の末細に至るまでが、 突如として覚醒した。
「減らず口はいらないわ」
「霧雨魔理沙」
―――こ、
―――こいつッ………!
「現人神と違って、私は目聡いのよ」
「どんなに老け込んで、やつれようが、一目で分かるわ」
―――いつから?いつから私を見ていた?
思考が駆けるより先の言葉に、恥辱を含んだ熱が魔理沙を包む。息苦しさを感じる間も無く、また紫の言葉を聞く。
「やっぱり、私の言った通り」
「貴女は、ここに帰ってきた」
「可哀想に、『正当な方法』を―――なにもかもに、忘れられて―――ね」
「……用件を言え」
「あら、つれないわね」
頭を垂れ、魔理沙は低く呟く。紫は目を細め、笑みを深めた。
「私は貴女を連れて行った……貴女はそれを私に願った。違くて?」
「『用件を言え』と言ってるんだッ!」
一陣の夜風が、所無く漂うカーテンを膨らまし、翻した。垣間見える闇路に、映る影は無い。窓際に腰掛けたダンボール箱ばかりが、開かれた蓋を頷かせた。
「ちょっとした手足が欲しいの。私の思いのままに動く、ね」
「犬の間違いだろ?」
察しが良いわね、と、紫は目を細めた。魔理沙もまた、同様に。
「まあ、エージェントと言って頂戴。小間使いじゃあるまいし」
「それなら適役がいるだろ?お前の大好きな、『博霊の巫女』がよ」
「もう引退済みだわ」
紫は意味ありげに、左手を翳す。薬指に座する指輪の輝きに、魔理沙は僅かに目を逸らした。
「貴女は度胸もあって、危険を回避する技量がある。だから、是非スカウトしたいのだけれど」
「断る」
有無を言わさぬ即答。
紫の瞳が幽かに揺れたのに、魔理沙は深く笑みを浮かべた。
「借金なら帳消しにしてあげるわよ、何故?」
「何で私か?いつどこで死のうが、怪しむ奴がいないからだろ?」
返事は無い。応えも無い。沈黙は、肯定に等しかった。
「そしてな、私はな、そんなお前が大嫌いなんだよ!今も、昔もな!」
ひとしきり言葉を叩きつけると、失せろッ、と吐き捨て、魔理沙は踵を返した。
「金なら他で工面する、消えろ」
「…………、」
そして、魔理沙は
赤々と燃えていた頬から
熱と、色とを、失った。
「これでも、かしら」
床に転がっていた筈の、ミニ八卦炉。あるはずの存在の消失。魔理沙は姿を求め、探し、遂に紫の方を向いた。
八卦炉を右手に弄ぶ、紫を。
「止めろ、それはッ―――――!」
「ええ、何もしないわ」
「貴女が頷くのなら」
「だって、虫の良い話でしょう?プライドが傷つくから、働きたくない。でも、借金は無くして……なんて」
「寧ろ、感謝されて良い筈よ。選択肢は、目の前に置いてあげたのだから」
「選びなさい、借金から解放された生活か、薄っぺらい意地か」
「生か、死か」
呆然と、鬱然と、魔理沙は身を弛緩させた。虚脱が、滲む汗滴と共に、その上を流れて落ちる。
そして、低く頭を垂れると。空しく、薄弱とした声を、目の前に這わせた。
「……やるぜ」
「ん?今、何て言ったのかしら」
揶揄、嘲り、嘲笑、その他一切を含んだ声。魔理沙はその意図を、間もなく理解していた。理解してしまっていた。肩を震わせ、熱を欺いて。言葉は、紡がれた。
「……やります」
「……やらせてください……」
… … … …
『必要は発明の母』と言う言葉があります。発明とは必要故に生まれるものである、と言うことです。
が、逆もまた然りと言えるでしょう。発明が、知能が利便性を生み、発展する。そして発展を知れば、人はさらなる発展を求める。
幻想郷の産業発展もまた、同じです。初めは山が、軍事発展のために。其処から山の民間へ、山から里へ、里から幻想郷へ、山を起点に伝播するだけです。しかし技術が浸透しきった頃を境に、発展、開発の大波―――――まさに『革命』と冠するに相応しい発展が始まりました。
必要に駆られて発明を生み、発明を喰らい必要を生む―――――終わりの無い発展が。
[2]
(道を真っ直ぐ、そのまま)
―――気持ち悪い。
(貴女に与えられた肩書きは覚えてるわね?名刺を用意なさい)
―――頭蓋の裏側から、脳髄の末端まで、舌を這われてるような―――――腐敗し、紫刺色の体液を這わせる、ナメクジ―――――よぎったイメージを、魔理沙は薄い鳥肌と共に無理矢理に振り払った。
(どうしたの?応答は?)
魔理沙は自身の額を握り潰したい衝動に駆られながらも、微かに唇を震わした。ああ、と、精一杯に、無表情に。
(幾らか進めば、入り口の検問よ)
―――入り口?どこの?
浮き上がった言葉が自分を刺すのを、魔理沙は確かに知覚した。
―――行く先も目的も知らされず、ただ脳髄に仕掛けられた『スキマ』の囁くままに進む。爆弾を抱えて目標へ走る兵士と、何が変わるのだろうか。
人は私を何と呼ぶ?駒、傀儡、消耗品。犬、負け犬―――
―――いっそ、何もかも放り出して―――其処までで魔理沙は思考を切った。スキマから現れた色の無い指が、内側から眼球を押し出すヴィジョン……それだけで十分であった。
行き場の無い痛みが、薄い暗闇を歩く。
肩を萎ませ、背筋は丸く、吐き気さえ帯びた表情で、魔理沙は歩いていた。鉄枷を引き摺るような足取り、時折の瞬きを除けば、目線も移ろわない。
魔理沙が歩いてるのは、摩天楼群からは外れた参道である。商業区から住宅地へと塗り替わる場所であり、街灯の明かりも幾らか心許ない。紫の黄昏ばかりが、薄ぼんやりとそこに漂っている。
しかし。そこにあるべき静寂は、影も形も見当たらない。月光に浮かび上がる、人、人、人、影。タキシード、ドレス、シルクハット、ステッキ。扇子で口元を隠し笑う者、口髭を手袋の先で撫でつける者。談笑、と言うに相応しい空気が、行列を象ってた。魔理沙の華奢な体躯が、埋もれて地を這う程に。
結果ばかりを先に言えば、魔理沙は群集に紛れてるとは言い難かった。その光沢に一点の曇りも見えぬ革靴、苫屋の二三が吹けば飛ぶタキシード、漆塗りの杖に、黒塗りのトランクケース………が、身に着ける本人とは、天地程の隔たりがあると言っても、何ら誤りは無い。色の無い頬に、僅かに落ち窪んだ目。唇は乾き、金色の髪は自らを持て余すように、四方へ伸びるままに揺れる。どう贔屓目に見ても高利貸しか成金の類にしか見えず、魔理沙自身もまたそれを知覚していた。が、紫に用意された服とあっては、着る意外には無い。
―――馬子にも衣装、か。何の意味が……
問い掛けそのものが意味をなさない。魔理沙は苦笑以下のものを表情に浮かべて、歩調を強めた。
―――もう、わかってる。
アスファルトの闇が深淵を下っていく。既に住宅と呼べる輪郭は失せ、並木通りの画一的な形が浮かぶ。所謂都市開発計画に沿って植えられたものであり、魔理沙の見知った景色には無かった。
だが、針葉の隙間から垣間見るのは、違う。
体躯を、四肢を、息吹を投げ出す、水の原。横たわる水面は、沿岸の光を照り返し、月光を掻き消す。そして霜の如く漂う霧が、その光を空に映していた。
―――霧の湖。
呟きは人混みに紛れ、宙を舞った後、音も無くどこかへ消え失せた。
―――薄い霧だな。
湖の周辺にも霧は立ち込めていた。が、袖口に滴を張る程度でしか無く、暗夜を微かに白ませるばかりである。辺りには、並木より他に無い。真っ直ぐな参道の行く末が、ありと見て取れたのだった。
窓は無く、幾何かの突起の他には、ただ紅模様が続く。
摩天楼群と地続きであることを忘れさせる、何百年か前の様式。幻想郷只唯一の西洋館にして、有無を言わさぬ存在。
「………紅魔館」
自らの呟きが存外に響いたことに、魔理沙は二三瞬きをした。しかし、応えたものと言えば。彼女の脳髄の、奥底彼方で浮かんだ笑みばかりであった。
行列は進み、程なくして、魔理沙は紅魔館の玄関に足を踏み入れた。
―――変わったな。
特に深い感慨も無く、魔理沙は心中呟いた。
基本的な構造、広大なエントランスが来訪者を出迎えるのは変わらない。されど、内装の数々は変貌の一言に尽きた。最低限に留められていた照明は、真昼と錯覚しえる程の輝き、太陽の如きシャンデリアに代わられていた。
壁の装飾品もまた、絢爛豪華、黄金白銀の数々をあてがわれている。明らかに過剰としか言いようの無い、目も眩まんばかりの模様………盗みに入れば、幾ら稼げるだろう?………ふと浮かんだ言葉を、魔理沙は笑おうとしながら掻き消した。
(そのまま進みなさい)
思いだしたように、魔理沙は言葉を咀嚼した。
「検問とやらは、この先直ぐか」
(ええ、教えた通りに頼むわ)
相槌をうつと、魔理沙は紫から思考の先端を切る。が、それを無理矢理引き戻すように、紫の声が脳漿を震わした。
(十五年振りの景色、如何かしら?)
「………別に、だからどうした」
(まあ、聞くまでも無かったかしら)
精一杯の棘を込めた魔理沙の台詞であったが、紫の弄ぶような声は続く。
(そんなに大切なもの、捨てて逃げたりしないわね)
「黙れ」
(義務は無いわ)
「…………!」
喉元まで出掛かった叫びを、魔理沙は無理矢理に飲み下す。怒りを叩きつけるには、場所が悪い。考えているうちに、鬱屈とした熱が、身体から逃げてくのを魔理沙は感じた。
(年を取ると、短気になるものなのね)
「……お前が言えるのか?」
乾いた笑い声に目眩を覚えながらも、今度こそ魔理沙は思考を切った。
既に目の前には、大柄なカウンターが、魔理沙を待ち受けていた。
「招待状をどうぞ」
角張った、しかしそれを感じさせない声が響く。魔理沙は教えられた通りに、胸の紙切れを差し出し―――――
「………あの」
「…えっ、ああ、はい」
「どうかなされましたか?」
何でも、何でも、無いんです………自分が言葉を失っていた時間を思いながら、しどろもどろに魔理沙は応えた。
―――予想は、出来てた―――筈だ。
『十六夜咲夜』
そう書かれた名札の女は、魔理沙の招待状を受け取った。
誉められたことではないと分かりつつも、魔理沙は咲夜をじっと見た。大人びた、十五年を流れた顔立ち。あどけなさが消え、一層瀟洒な様を醸し出していた。メイド服も同様、スカートの長さが伸びて、目も覚める程の白には、薄く、薄い、灰色が漂っていた。
「ボーダー商事光学魔法技術開発局長の、霧雨アリサ様ですね」
一瞬、何のことか分からず、魔理沙は一拍遅れて頷いた。
―――そんな役職、あってたまるか。
目の前の咲夜でなく、スキマの向こうへ悪態をつきながら。
無論、一から十まで嘘八百である。ボーダー商事宛てに届いた招待状に、勝手に社員ということにされたのだった。
―――バレない、よな?
一抹の不安が魔理沙を過ぎる。が、ただの杞憂でしか無かった。
「霧雨様、少々御荷物を拝見させていただきます」
「ええ、どうぞ」
魔理沙がトランクケースを差し出すなり、咲夜はすぐさま開いて中を見た。そして、小さく目を細めながら、霧雨様、と言った。
「これらは何でしょうか?」
トランクケースに転がる、雑多な部品群―――――魔道具及び工業品に用いられる部品群を、刺すような目つきで咲夜は見る。
「今日のパーティーに、あまり必要な物とは思えませんが………」
―――変わったな。
白銀の切っ先を幻視させる、瞳。主君に仇為す者に、死の影を這い寄らせんとす、瞳。
―――同じ犬でも私とは大違いだ。
どうにか力を入れて笑うと、魔理沙は用意された台詞を吐いた。
「これは、この度我が社で発売する新商品でして」
「はい」
「特別圧力をかけなくても、魔法を吸収する新素材なのです」
「……とすると、やはり必要無いのでは?」
「今回を機会に、是非皆様に広告致したくて……」
―――行けるか?
視線が明らかに鋭さを増すのを感じながら、魔理沙は唾を飲み下した。そして精一杯に努めて、笑みを保つ。交錯する視線、しばしの沈黙―――――咲夜は口を開いた。
「………了解しました」
トランクケースが閉まると、魔理沙の手元に返された。
「つかぬ無礼、お許しくださいませ」
「いえ、此方こそ、我が儘を言ってすみません」
「最近は物騒なもので御座いまして……先に進んでいただき、さらに探知検査に御協力下さい」
何とか唇を動かして、そうですか、と言ってのけると、魔理沙はカウンターを離れた。
鈍い足取りで、魔理沙は絨毯の上を歩く―――――引きつった笑みを、必死に堪えながら。
(咲夜には気づかれなかった………『気づいてもらえなかった』わね)
だからどうした………早苗の、背広でビラを配る姿が魔理沙の脳裏に浮かぶ。魔理沙は笑みを堪えるのを諦めてから、言葉を続けた。
「『一度捨てて逃げたもの』、だろ?大事な道理が無いじゃないか」
(……………、)
一拍、無言。二拍、鼻に響く笑い声。三拍、紫は口を開いた。
(前から言おうと思ってたけれど)
「何だ」
(私は貴女が嫌いだわ)
「私もお前が嫌いだ」
(負けようが、地を這おうが、何が何でも唾の一つ吐きかけようとする、その目障りな性分が、ね)
「なら、私に残念がって欲しかったのか?」
再び、沈黙が降りる。続く物は、無い。魔理沙は間を置かず言った。
「ここを爆破して、当主ごと焼き払うんだろ。違うか?」
脳髄の彼方、スキマの向こう。紫が目を細くしたのが、何故だか魔理沙にわかった。
(どうしてそう思うのかしら)
「ここの警備を見ればわかる」
と、魔理沙は言葉を切った。既にエントランスから横に進み、廊下に出ている。
廊下は幾百もの人を飲み込んでもなお、がらんどうと言っても嘘は無い。そんな広大な空間に、色の無い透明な壁―――――比喩ではない―――――が、腕を広げている。魔理沙は奇妙な圧迫感を感じながら、壁をすり抜けた。
「今みたいに、うんざりする程の魔法結界がある。大方、銃やら危険物除けだろうが……それだけじゃない、無理矢理圧力をかけることで、館の中で魔法が使えなくなってる」
(それで?)
「このトランクの中身だ。魔法を吸収すると言ったが、こいつを中にばらまけば、それこそ死ぬほど魔法を溜め込む筈だ………少しの衝撃で、暴走して爆発するくらいな」
応えは無かった。が、魔理沙は何も言わなかった。変わらず彼女は歩き続ける。そしてまた二つ、三つと結界を潜ると、静かに声が流れ始めた。
(株式会社スカーレット……この数年で、勢いに乗りつつある会社よ)
無言のまま、魔理沙は小さく頷く。
(霧の湖周辺の広大な土地、それらの開発を一手に引き受け、爆発的な需要を獲得したわ)
表向きは、ね。
魔理沙は地下へ向いた階段に案内されながら、疑問符を浮かべた。
(ならばその開発資金はどこから流れてきたか?分かるかしら)
「元々少しは金持ちだったんだ、別に不思議じゃ……」
(『ここ数年で』、でよ。爆発的な同時並行の開発でなければ、ここまで早い開発は有り得ない)
なら、何だって………紫はまた応えなかった。
―――いちいち勿体をつける奴だ―――魔理沙は舌打ちをしながら、長い階段を降りきった。目の前の先には、分厚いドアと、傍らにメイドが立つばかりである。気づけば豪華な装飾も、麗美な絨毯も無い。
「おい、この先は何だ」
(直ぐに開くわ)
紫の声に呼応するように、メイド達が無骨な取っ手に手をかける。そして一つ礼をしてみせながら、ドアを開いた。
―――は?
―――何で、こんな、地下に。
何故。
その二文字が、魔理沙の思考を埋める。
地下、深くのドアの先。
広がるのは、エントランスより遥かに広大な空間。地上に輪をかけて絢爛豪奢極まる空間。
溢れかえる人の流れ。その隙間を縫うように、酒が注がれ、肉が運ばれる。それを後目に、誰もがうなされた視線を注ぐ。ポーカー、ルーレット、ブラックジャック、或いはバカラ、バックギャモン―――――濡れ手に金貨を握りしめて。
(紅魔館地下に作られた、最大規模の違法賭博場………これがトリックの種よ)
「……どうやって、こんな……」
(さあ?十年前に開いたけれど、作った方法までは知らないわ)
と、行き交う人と肩がぶつかる。言葉も無く流れてく人に、魔理沙は舌打ちしかけたが、自分が往来の真ん中に立ってるのに気づき、そそくさと壁に寄りかかった。そしてまた、小さな声を頭に響かせる。
「だが、違法なら、何で大々的に人を招待するんだ」
(今日から三日間、敢えて招待客を呼ぶことで、警察も丸め込む程の資金力を示してるのよ)
「非合法には非合法、か」
トランクケースを見下ろしながら、魔理沙は呟いた。それで?と、問いかけがそれを追う。
(今からでも止めたいかしら?)
「結構だ」
有無を言わせぬ、即答。冷たく、色の無い声。
「何もかも、変わった」
紫の微笑みが、小さく息遣いを象る。それから紫は息を一つ吐くと、また口を開いた。
(今日の仕事は一つ。トランクの中を、この空間に馴染ませるだけ)
魔理沙は応えない。紫は構わず続ける。
(好きなだけ、ここを彷徨くだけで結構よ)
そうか。
ただ一言、息を震わすと、魔理沙は人混みへ歩き出した。
… … … …
先程まで述べたことを纏めるならば、『必要と発展は互いに求めあう』と言うことになります。
では、ここで一つ、付加的な疑問があります。
此処で私が述べた『発展』とは、誰にとっての『発展』でしょうか?
答えを出すのは置いておいて、『発展』と言う言葉の多様性を考えて欲しいのです。
例えば同じ街に、病院と薬屋があったとしましょう。二つは北と南の外れどうしで、行き交うのも一苦労です。すると街の長は、二つの間に鉄道を敷きました。街全体にとってみれば、医療を受けやすくなった以上、『発展』以外の何ものでもありません。
ですが、もし。病院と薬屋を行き来していたタクシーがいたら?病院から薬屋までに、商店街があったら?その人々にとって、『発展』ではないのです。
さて、話が少し脱線してしまいました。私が何を言いたいか?これは幻想郷にも言えることだと私は思います。
生活の安定、豊かで暖かな暮らし。産業革命が、ことに労働者が必要としたのはそれらです。むしろ言えば、それらに過ぎません。彼等にとって、生活様式の改変や、過去の幻想郷からの脱却は、別段何も価値も生み出さないのです。
では何故ここまでの激変を遂げたか?答えは簡単、資本家、主に力のある妖怪が、それを望んだからです。生活様式の変化は需要を生み、価値観の変化は新たな階級制度を作る要因にもなりえます。
産業革命から十五年、幻想郷は変わったと言われます。しかし、その実を見ればどうでしょうか?妖怪が人間を飼う世界であることに、少しの変化もありません。旧来からの勢力が、そのまま資本を肥やし、無政府状態の下労働者を、主に特別な技能を持たない人間を、劣悪な環境で働かせてるのです。
幻想郷は『発展』しました。
妖怪の『必要』とした、通りに。
… … … …
―――痛い。
頭が、腐り落ちてくみたいに。
暗い。
痛い。
ここは、どこだ?
(魔理沙)
―――声がする。
―――身体が、動かない。
(応答なさい、魔理沙)
―――五月蠅いな。
―――何時も、耳障りな―――――
(魔理沙)
魔理沙は意識を覚醒させた。微睡んだ意識の果てから、賭博場の熱気が耳をつんざく。
―――居眠りしてたか、私は。
結露した水滴が、グラスを握る手に染みている。僅かに残ったウィスキーからは、人の熱ばかりが放たれる。
(目立つ行動は慎みなさい)
―――酔うくらい好きにさせろ………魔理沙は応えず、カウンターにまた杯を求めた。招待状がある限り、飲食代はただだった。
(そろそろ十時になるわ。目立たないうちに帰りなさい)
「自由にしろと言ったのはお前だ」
(まさか、ただ酒を呑んでるだけなんて思わないわ)
「金が無いのに賭けが出来るか」
魔理沙はまた酒を呷ると、カウンターに突っ伏した。澱んだ空気が、肺から吐かれる。
「御来場の皆様、お待たせしました」
―――どこかで聞いたな―――――突然賭博場に響いたマイクの声に、魔理沙は目を細めた。
「夜のメインイベントを開催します」
―――そうだ、お前だ……こんな撫で声、聞いたことも無いが……
「運命を操る、この私、レミリア・スカーレットを、一文無しにして下さるギャンブラーはどなたでしょうか?」
中央に作られた舞台に座るのは、魔理沙の『知ってた』レミリアであった。背格好は変わらずとも、身につけてるのは黒塗りのスーツである。私には関係無い、と、魔理沙は視線を切った。
「何もかも、変わったな」
誰とも無い、呟き。繰り返される、呟き。強烈な眠気が、また魔理沙を覆い始めていた。半分だけ目を開きながら、魔理沙は柔らかに息を吸い、吐く―――――そんな魔理沙に、紫は低く声を響かせた。
(なら、変わる前は?)
「………何?」
泥のように横たわっていた意識が、首を上げる。
(変わる前は良かったの?)
「…………」
魔理沙は僅かに首を上げると、グラスを傾けて唇に触れさせた。透明な酒が蒸気を昇らせながら、幾らかはカウンターへ零れる。それにも気づかないまま、魔理沙は喉を焼き付かせる。
(答えなさい)
「五月蝿い」
真に迫った声に、魔理沙は乱暴に喉を鳴らした。カウンターに佇むメイドが訝しげに目を細めたが、魔理沙は気づかない。
(魔理沙)
「五月蝿い、五月蝿い!!」
紅潮した頬、潰れたような目。熱のたぎる掌を、魔理沙はカウンターに叩きつけた。列を為して座る客が、一斉に視線を向ける。一転して、紫は魔理沙が酔いつぶれてることに気付き、息を呑み声を上げたが、最早後の祭りであった。
「あの頃の私は何だ?私は弱かった。どれだけ血を吐こうが弱かった。あの頃の私は負け犬だ!どうしょうも無い阿呆だった!」
(止しなさい、魔理沙!)
突然立ち上がり吼えた魔理沙に、カウンターの周りは一気に騒然とした。近くのメイド達が、怯えを含んだ目をしながら駆け寄る。
「今だって変わるか?ああ、変わったさ、金も、力も、若さも、自信も、何もかも失った!『変わったのは私の方だ!』」
宥め縋るメイド達を、魔理沙は乱暴に跳ね飛ばした。そして充血した目をたぎらせ、何もありはしない、虚空を睨み付ける。既にスキマからは、息遣い一つ響いてはいない。
「だがな、変えたのは手前等だ!いつだって、手前等妖怪様だ!妖怪なんて、幻想郷なんて、消えちまえば良い!」
「どうしたのかしら?」
と、耳をついた言葉に、魔理沙は足をもつれさせながら振り向く。その先には、目を細めたレミリアが、メイド達の言葉を耳に通していた。
「……うん……なるほど……ただの酔っ払いね」
何故こんなものが混じってる?
レミリアの目はかくの如く語り、魔理沙もまた、朦朧とした意識の中でそれを認めた。
「随分と物を言うじゃない、犬の癖に」
薄い微笑みの上には、鋼色の瞳。半ば抑揚を失った声が、辺りの喧騒を一瞬にして鎮める。レミリアの目の前の魔理沙ばかりが、呂律の回らない舌を枯らしていた。
「ねえ、貴女、人間と妖怪の違いは分かるかしら?」
「知ってるぜ。幸か不幸かの阿呆らしい違いだ―――――」
言い終わるか、言い終わらぬか、そんな内に。
魔理沙は、混迷極まる認識の内に、はっきりと知覚した。
―――は?
自分の身体が、浮いていることに。
そして、次の瞬間。
―――身体、痛―――――
魔理沙の華奢な体躯が吹き飛び、戦砲の一撃の如く、石壁に亀裂を刻んだ。
「よくわかってるじゃない」
レミリアは抜き払った拳を、ハンカチで拭う。血反吐などがついてるわけでもなかったが、レミリアはハンカチで拭った。
「わかってるなら失せろ、負け犬」
そのままレミリアは唾を吐きかけようとしたが、辺りにちらと目をやった後、思い止まった。メイド達に、廊下へ放り出せと耳打つと、レミリアははっきりとした笑みを浮かべて群集へ向き直った。
「お騒がせいたしました。ごゆるりと続きをどうぞ」
強靭な力と、それを彩るカリスマ。
迎え入れたのは、拍手と絶賛の嵐であった。
「本当に廊下で良いのかしら」
「別に、裏口まで運ぶと時間の無駄だからでしょ」
二人のメイドが、魔理沙を運んで行く。あたかもゴミでも運ぶように、血と酒に濡れたタキシードを引き摺って。
「しかし怖いわね、人間って」
「ええ、追い詰められると何するかわかりゃしないわ……」
そのうちに、メイド達は世間話に興じ始めた。自分達の引き摺ってるものが何なのか、最早露ほども興味は無い。無論、呻きに混じった声になど、意識の対象すら入らない。
「変わったんだ……どれも……なら、消えちまえ……」
―――前のものは何も無い。
―――何もかも消えてしまえば良い……
―――なら……
―――なら、何で酒を呑んだ……?
ショートし火花を散らす思考の片隅で、魔理沙は思った。が、その次を思う前に、魔理沙の意識は深い暗黒へ沈んでいった。
… … … …
(やってくれたわね)
「…まあ、そう……言うなよ」
突き刺すような声に、魔理沙は喉を絞らせた。汗を滲ませた声は、魔理沙の血と肉を反響し、ひび割れた、あるいは痛烈に砕けた骨を軋ませる。象牙質の削れるのを感じながら、魔理沙は歯を食いしばった。
(確かに計画に支障は無いけれど、目立つ行動は慎めと釘を刺した筈よ)
「わかったから、少しは怪我人を労ってくれ……」
未だ酔いの回った足取りで、魔理沙はのろのろと館の廊下をさまよい歩いていた。トランクケースを肋に抱え、全身を痛みにさらしながら。
廊下にはメイドも無く、照明も無い。がらんどうの空間ばかりが闇を呑む。入ってきたのとは別の入り口に放り出されたらしいことを、魔理沙は既に気付いていた。
(道はわからないのかしら?頻繁に出入りしていた筈でしょう?)
―――覚えてるわけが無いだろ。
―――余所の、赤の他人の家だぜ?
答えず、答える力も無く、魔理沙はただ足を動かす。歪んだ視界の中で、骨の無いも同然の足を。歩みは遅々として進まない。それどころか、塗りつぶされた暗黒と画一的な空間が、後退してる錯覚さえ感じさせる。
―――死ぬのか?
数瞬、幽かによぎった言葉に、魔理沙は苦い笑みを浮かべた。
―――我ながら大袈裟なもんだ……
―――『別に良いんじゃないか』?
腐臭。腹を裂き、腸を引きずり出し、腑の底、血と肉の紅、深淵に顔を埋めた感覚。
拒絶を含んだものは無い。魔理沙は懐かしささえ覚えながらそれを飲み込んだ。
―――誰かのために生きてるか?
―――何かを成すために生きてるか?
―――私は生きてる。『生きてるだけ』だ。
目的も無く、熱も無く、絶望して何もかも放り出しながら、身体の本能にしがみついて生きてる。惰性と言わずに何と呼ぼうか?『生きるために生きてる』、私を。
(魔理沙?)
紫の声が、ヘドロを泳ぐように響く。魔理沙は何も言わない。言う意思が無い。
―――こんな私に価値は無い。
―――私が今死んだところで、誰が悲しむだろう―――かつて目の前を流れて行った、人、妖怪が、浮かんでは消える。魔理沙はそのどれもを、無表情に見送った。
―――所詮、どれも『過去』さ―――――
「……え…?」
唇から漏れた呟きに僅かな驚きを覚えながら、魔理沙は歩みを止めた。
(どうしたの、魔理沙)
「いや、ここは、」
魔理沙は首を回しながら、見開いた目で辺りを見渡す。
―――知ってる
頭蓋を打ち割る如き衝撃が、魔理沙を走った。
「知ってる」
え?と間の抜けた声を上げた紫を意にも会さず、魔理沙は走り出した。ふらふらと揺れる身体は遅く、足取りは鈍い。しかし汗の一雫を散らしながら、魔理沙は走り出した。
―――そうだ、前は箒だった。
一歩を踏みしめる度、鈍痛が魔理沙を走り、駆け、脇腹や肋を削る。しかし、その度に生じる熱が、吐息に混じって魔理沙を走らせる。
―――メイドやら、門番やらに追ったてられながら、ここを曲がって―――
魔理沙は身体を捻り廊下を曲がった。やはり広がるのは、ぽっかりと空いた闇ばかりであったが、魔理沙には別の何かが満ちて見えた。
―――此処まで来たら決着だ。避けて、避けて、虚仮にしてやったら―――
息急き切った足が、停滞を帯びていく。徐々に、徐々に。
―――スペルカードを叩きつけて、後には何も残りゃしない。
何時しか走りは、歩きに戻る。疲労に足を沈ませ、空気が鉛のようにのしかかる。それでも魔理沙は歩く。
―――それで、それから―――
暗闇の片隅に、魔理沙は確かな視線を向けた。無限にも等しい回廊の中に、ひっそりと佇むもの。小さく古ぼけた扉が、魔理沙の視界と重なる。
―――あの扉を、蹴り破ってやって。それで―――――
後には、何も続かなかった。
続きはしなかった。
魔理沙は足を止めて、扉の前に立つ。
息を吐き、息を吸い、ただ其処にいた。
―――戻りたい
そう、思うのと同時に、どうしょうも無く熱を帯びたものが、魔理沙の臓腑を走り、喉を押し広げ、眼床を掴み上げる。
―――戻りたい、あの頃に
程なくして、自然と熱は溢れる。魔理沙は自分が泣いてる事実を、遠くに気づいた。
―――やり直したい、今度こそ、逃げずに、何もかも。
嗚咽が、闇に木霊する。
すすり泣きが、空に響く。
そんな事実に、魔理沙はまた涙を重ねた。
―――戻りたい、もう一度―――――――
熱が、消えた。光が消え、音もまた、消え失せた。闇が、六感が、魔理沙が、塵芥の影と消えていく。灰色が包む世界の中、覚醒を得た理性で以て、魔理沙は目の前の事象を捉えた。
開いた扉。そのまま動かない、影。
―――パチュリー?パチュリー・ノーレッジ?
十五年前と寸分細部違わぬ面持ちに張り付いた、無表情の上重ね。青白さすら薄い、色の無い頬。触れれば倒れてしまいそうな、危うげな細い体躯。病人のような身体の横には、分厚い表紙に幾何学模様の魔導書。
魔理沙は何も言わず、他の何もを忘れていた。凍てつき、固まり、身じろぎもしない。目の前のパチュリーもまた、同様に見えた。
が、たった一つ違うとすれば。僅かに、幽かに、パチュリーは言った。確かに、確かな言葉を。
「………魔理…沙…?」
―――パチュリーだ。変わらない、パチュリー・ノーレッジだ。
そんな、時だった。
無理に駆け出した反動が、魔理沙を強かに打つ。魔理沙は一つ唸りを上げると、悶絶し、空を掻きながら倒れた。
そこに、力の入らない、笑みを浮かべながら。
… … … …
―――来たッ
小さく呟くと、魔理沙は握りしめた。自らが乗る箒と、片手に携えた八卦炉を。そして視界の果て、迫る扉を見据える。閉じられた廊下の中を、風を切って飛行しながら。
無論、尋常な速さではない。塵芥の如くあった扉は、数瞬、刹那も経たぬうちに、魔理沙の視界に真っ直ぐに迫る。十米、五、三米――――――
―――今だ。
魔理沙は僅かの手加減も無く、箒を右へ振り切った。その先は、言うまでもない。無きに等しい角度のまま、扉に突っ込む。そして、そのままの加速で以て、扉を蹴破った。
「来てやったぜッ、パチュリー!」
扉の小ささとは裏腹、その向こうは図書館であった。薄暗く、埃の舞う、それでいて無限とも見紛う空間を持った図書館。魔理沙は本棚を蹴飛ばして勢いを殺すとようやく静止した。
「いないなら、本は貰ってくぜ」
「いないことがあったかしら?」
振り向けば、本棚に掛けられた梯子の上から、パチュリーは魔理沙を見下ろしていた。青白い頬に、不機嫌な表情と少しの色を浮かべながら。
「毎日毎日御苦労なこったぜ、お出迎えまであるんだから」
「本は私の一分。血と肉のようなもの。易々と普通の奴には渡さないわ」
「別に、いても貰うがな」
掴んでいたのをそのまま、魔理沙は八卦炉を構えた。もう片方の手は、三角帽を上から抑える。パチュリーもまた、溜め息をつきながら、本棚から魔導書を一冊抜き出した。魔理沙はその様子を見上げながら、小さく目を細める。
「おい、いつものやつはどうした」
「……喘息がひどいの」
「なるほど、本はくれるってことか」
「…………、」
返事を待たず、魔理沙は箒を走らせる。
何も言うことも無く、パチュリーは唇を一文字に結んだまま、魔導書を掲げた。
[3]
開けた視界に、疑問符と、幾らかの感嘆符が走る。反射的な動きで身体を起こそうとしたが、激痛に押し戻された。痛みに明瞭さを取り戻し、脳細胞はようやく解凍を始めた。
―――夢、か
揺さぶられた意識のまま、魔理沙はそう理解した。
―――だが、あれが夢なら?
―――私は、何で此処にいる?
首を動かすまでも無かった。何処までも遠い天井と、自分を覗きこむ本の山々。見知った図書館だと知るには、十分過ぎる。魔理沙は、二日酔いが明らかな頭で、ようやく自分の記憶を辿った。
―――そうだ、私は、パチュリーに会って………
(聞こえるかしら、魔理沙)
突如として頭に響いた声に、魔理沙は飛び跳ねる一歩手前で、紫の声というのを認識した。
(応答はいらないわ、ボロを出しては駄目よ)
至極一方的な物言いに、魔理沙は声を上げかけて、止めた。紫の言葉を理解したのと、横に人の気配を悟ったのは同時だった。
「……目が、覚めたのね」
―――パチュリー。
声には出さず、魔理沙はただ頷いた。
「具合はどうかしら、応急処置だけだけど」
目を瞬かせるのもつかの間、魔理沙は胸から肋にかけての感覚に気づいた。包帯と、挟み込まれた薬草を思い浮かべながら、魔理沙はまた小さく頷く。
「そう、なら良いわ……」
―――見たことも無い、表情だな。
それきり口を動かさないパチュリーを見て、魔理沙は思う。
―――無表情、だけど
―――脆くて、危うくて―――何と言うか―――――
切ない、という言葉が浮かぶのと、パチュリーが消え入りそうな声が重なった。
「貴女…魔理沙……でしょう?」
(魔理沙)
紫の、突き刺すような声。
―――言われなくたって。
ふと、僅かな吐き気を胸に感じたが、魔理沙はそのまま口を開いた。
「………人違いかと……」
吐き気が、確かな質量を帯びる。魔理沙は言葉を続ける。
「私、ボーダー商事の、霧雨と言いまして……」
震える唇で、こみ上げたものを飲み下す。叫びを上げるような頭痛、眩暈。変わりは無いパチュリーの表情を、魔理沙は見つめた。
「……そう、よね」
刹那の間を置いて、言葉は続く。
「ごめんなさい、知人に似てたものだから……」
―――言えない。
―――言える、わけが無い。
どうして、何故。何でそんなに、悲しそうなんだ?私が来る度、むすっとして、膨れっ面で、それで―――――
沈黙が、静寂が二人の間にのしかかる。頭蓋を割るような痛み、どうしょうも無い乾きを覚えた魔理沙は、水気の無い舌を無理やり動かした。
「……あの、お名前、は?」
「パチュリー。パチュリー・ノーレッジよ」
「パチュリーさん、すみません、が、お水を一杯いただけませんか……?」
「……待ってなさい」
踵を返して、パチュリーの姿が本の向こうへ消える。魔理沙は息を吐くと、蚊の鳴くような声で呟いた。
「トランクは?」
(貴女の寝てる脇よ)
「……今、何時だ…?」
(午前三時半過ぎ。まだ夜明け前かしら)
―――まさか。まさか、夜中の間ずっと、私の隣に?
十五年前に失踪した、私だと思って?
私に何を思ってる?
私が何だって言うんだ?
パチュリー―――――
(あまり考えない方が身のためよ)
何拍かの瞬き。その後、自分の思考に向けられた言葉に、魔理沙は目を見開いた。
「お前、何で…」
(そんな表情で黙りこくったら、嫌でも分かるわ)
「それもそうだが、どういうことだ」
(来るわ)
喉を震わす直前で、魔理沙は音を呑み、唇を噛んだ。努めて無表情に一滴笑みを垂らすと、目を細める。程なくしてパチュリーが戻ってくると、魔理沙は一口に水を飲み干した。
「……ありがとうございます、何もかも……」
「……別に良いわ、暇だったのだし」
再びの無言、先程の焼き増しが重なる。魔理沙は背に汗を滲ませながら、言葉を探して辺りを見渡す。が、パチュリーが、遠くに自分を見つめてるのに気づき、無理やりに視線を天井に向けた。
「そう、言えば、」
「何かしら」
「パチュリーさんは………知人と勘違いなされて、私を助けたくれたんですよね」
「……ええ」
「その、何というか……すみません」
「……別に、誰だろうと構わないわ」
パチュリーは思い出したように立ち上がると、本棚から一冊を抜き出して傍らに抱えた。
「寝かしてるのは机だし、好きなだけ此処にいて良いわ」
「……ありがとうございます」
「私はあっちの方で本を読んでるから。少しすれば歩けると思うけれど、何かあったら呼びなさい」
僅かに早口に言うと、パチュリーは歩きだす。本棚に隠れた背中を見送り、魔理沙は細く唾を呑んだ。
(魔理沙)
「……何だ」
(出来る限り此処にいなさい)
「…………、」
(長く魔力を吸えば、それだけ威力は高まる。賭博場どころか、紅魔館一帯全てを吹き飛ばせる)
「……ああ、わかった」
思考の表皮一枚、虚ろな色の部分だけで返事をすると、魔理沙は目を閉じた。
―――パチュリー・ノーレッジ。
赤の他人とは言わない。弾幕勝負もしたし、魔法についで夜通し議論もしたし、一緒に異変を解決したりもした。
―――だが、それだけだ。
何時も不機嫌そうなあいつに、私はそれ以上踏み込まなかったし、あいつもそれ以上踏み込んでこなかった。
―――言いたくない。今の私を、こんな私を。
魔理沙は右手をずらすと、机の下へ降ろした。と、トランクケースの無機質な冷たさが、魔理沙の意識を幾らか正常にした。
トランクケースの取っ手を弄びながら、魔理沙は思い出そうとした。妖怪へ向けられた、嫉妬、憎悪、溢れ返った激情の全てを。しかし、その度に、パチュリーの表情が目蓋の裏にちらつき、離れないのだった。驚愕に色を固めながら、ようやく魔理沙の名を呼んだ光景が………魔理沙はついに、何時間か前の感情を思い出すことが出来なかった。
―――私は、
―――私は、これを使えるのか?
―――確かめなければいけない。
何を?と自分に問いかけて、魔理沙は唾を呑んだ。
―――あいつが、パチュリーが何を思うのか
―――私が、引き金を引けるのか―――――
… … … …
「魔力の流体化が不十分なのでしょう?だからあなたは……」
「うるさいッ!」
叩かれた机が跳ね、幾つかの瓶や畳まれた薬包紙が、絨毯の上に落ちる。が、魔理沙は視線も向けること無く、叩きつけた拳を握り締めた。
「そんな回りくどいことをやってられるか!弾幕はパワー、それが全てだ!」
「完全に流体化された魔力を、二重螺旋状に八卦炉に流せば、安定性はそのまま、大幅な命中率の向上になる筈よ。パワーだって、二割増大するわ」
「諄いッ!」
魔理沙、と、パチュリーは何かを求めるように発した。困惑に歪められた目が、魔理沙の刺し貫くようなそれと重なる。
「お前はわかってんのか?私は土木建築にレーザーを使うんじゃあない。相手の攻撃を避けて、かわして、掠めて、そんな時に使うんだぜ?そんな時に、悠長にやってられるか?」
「あなたなら、あなたなら出来るでしょう?」
瞬間
魔理沙の表情が、歪んだ。
「ふざけるなッ、畜生ッ!」
途端、言葉の体を為さぬ叫びと共に、魔理沙は机を無理やりに蹴り上げた。浮き上がった机が反転しつつ、パチュリーの華奢な体躯を巻き込みながら、壁に激突した。衝撃が、山となった魔導書を崩し、火の無い蝋燭刺しが、音も無く歪む。
咳き込み、息を吐くパチュリーを後目に、魔理沙は大股で箒を掴み、部屋のドアを蹴り破ると。そのまま、廊下の暗がりへ走り出していった。
二度と、振り返ることも無く。
廊下を、ただ飛びながら、魔理沙は呟く。
「馬鹿にしやがって」
―――違う。
「馬鹿にしやがって」
―――馬鹿は、私だ。
焼け付いた表情。歯を剥き、自らを喰らい尽くしかねぬ、表情………魔理沙の瞳から、熱を帯びた光が、静かに零れ落ちた。
「馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがってぇェーーーーッ!」
―――本当は、わかってるんだ。
何もかも、パチュリーは正しい。
私なんかより、余程私の魔法を理解してる―――――わざと、手加減出来るくらいに。
善意が悔しい。優しさが、ただ悲しい。幾ら努力しても届かない力が妬ましい。
それよりも、そんなことよりも――――
――――――穢れて澱みきった自分が、何よりも――――――
箒とすれ違う風が、僅かに三角帽を浮き上がらせる。生じた隙間から入る風が、重ねて帽子を押し上げ、金色の髪を空へ躍らす。数瞬後、遂に帽子は魔理沙を離れ、遥か後ろを、すがりつくものを求めて 彷徨う。
魔理沙は、気づかなかった。
気づかなかった、振りをした。
… … … …
午前、五時。幻想郷に、光が差す、音の無い夜の闇を切り裂き、橙色の熱が生命に囁いていく。覚醒の時は来た。命の息吹を、咲かせる時が来たのだ、と。魂は無意識にそれらを解し、頷き、大きく腕を広げると、大地に立つ。太古の昔から、そしてこれからも変わらない。希望の朝が、幻想郷を包んでいた。
尤も。
紅魔館、それも、半身を地下に埋める図書館には、何の関わりも無いことであった。地下と一体となった構造上、窓の取り付けようが無いのだ―――そのお陰で、ここまで馬鹿みたい広いんだけどな―――魔理沙は机から身体を起こし、力の無い瞳で辺りを見渡した。
図書館の様子は、魔理沙の記憶と寸分として違う所は無い。薄暗く、湿った臭いの中。乾いた、それでいて黒ずんだ色の本棚が、一番端を除いて人の隙間だけを残して林立している。その一々が高く、重なりあい、著しく視界を悪くしている。―――道に迷った白骨死体の一つでもあるかもな―――魔理沙はふと思ったが、笑い飛ばすには重い想像だった。
魔理沙は足をずらし、机から降りて立ち上がった。寝ていた以外の机には、分厚い埃と油の層が出来ていた。 僅かばかり舞ったそれらに咳き込みながら、魔理沙は歩き始めた。
(どうかしたのかしら)
「寝てるのは性に合わない」
未だに一歩踏み出す度、軋む身体を抱えながら、魔理沙は本棚の間をすり抜けた。そうして抜けると、やや広い所に出る。壁もまた巨大な本棚と化しており、台座状の階段梯子を使わねば届かない。故に、少しだけ他より空間がある。最も、三角足のついた梯子に占領され、その様子も無い。
「あの、パチュリーさん」
階段梯子の上へ、低い声が響く。華奢な体躯が、本から顔を上げて、魔理沙の方を見た。
「もう立てるのね」
「はい、お陰様で」
「それで?」
「……本を、読ませていただきたくて」
「……………、」
パチュリーは黙っていた。視線を動かすことも無い。魔理沙は彼女の頬が白さを重ねたような、気がした。
「少し、暇潰しに……」
「………構わないわ」
魔理沙は簡単に礼を言うと、本棚に引っ込んだ。そして背表紙もまともに見ず、一冊の本を抜き出す。本なら何でも良かった。そもそも、本でなくても良かったのだ。
「椅子、どこかありますか?」
「………こっちの梯子を使いなさい」
しめた、と魔理沙は拳を握る。椅子が無いのは、初めから知っていた。
魔理沙はパチュリーの下へ登り、座ると、本を開く。無論、内容など見ない。―――今どんな暮らしをしてるのか?私をどう思ってる?………聞きたいことは、山程あったのだ。
しかし、
「…………、」
「………………、」
欠片の身じろぎもせず、文字へ目を走らせるパチュリー。冷たさは、感じない。されど、熱を感じることも出来ない、表情。途端、魔理沙の中で雑多に入り混じっていた言葉は、影も残さず霧散していた。
―――何を、聞けばいいんだ?
喉を凍てつかせたまま、時が経っていく。いくらか、少なくとも、魔理沙にとっては長い時間の後。魔理沙は唾を呑み下して、ようやく口を開いた。
「パチュリーさんは……この館で仕事をなされてるんですか……?」
―――何を聞いてる、霧雨魔理沙。
意識の剥離した唇を、魔理沙は強かに噛んだ。パチュリーは僅かに目を見開きながら、魔理沙を見る。が、また元の視線に戻ると、それを魔導書へ戻した。
「私は居候。当主―――社長と友達だっただけの、ただの穀潰しよ」
「すごいですね、社長の友人なんて」
「………別に」
まさに、おべっかとしか聞こえない台詞。それを自分がごく自然に口走ったことが、魔理沙にはどうしようも無く気持ち悪く思えた。訂正しようにも、しようもない。
―――紅魔とは関わって無いのか?―――そんな疑問を浮かべ、魔理沙は決まりの悪さを無理に散らした。そのまま、また言葉を発する。
「とすると、何時も此処で本を?」
「……貴女、本を読みに来たのでなくて?」
喉をナイフで突き刺されたような感覚が、魔理沙を縦に走る。―――此処まで、近寄り難かったか?―――今にも逃げだそうとする衝動を抑えながら、魔理沙は歯噛みする。
―――気まずいにも程があるだろう………かつての様相と今が完全に重ならないことに、魔理沙は今更ながら気づく。
(あらあら、嫌われちゃって……)
頭に響く紫に「黙れ」とも言えず、逆に自身が押し黙る羽目となった。
―――何でも良い、何でも良いから、話題か何か―――――
そんな時である。深い振動と、空腹を知らせる胎動が、魔理沙の奥底で響く。気づいた頃には、低く唸るような音が、魔理沙の下腹部から漏れた。そこで魔理沙は、初めて何も腹に入っていないことに気づいた。理由も無い恥じらいが、意識に染み込んでいく。
―――いや、待てよ。
と、魔理沙は見逃さなかった。パチュリーが思わずといった様子で、魔理沙に視線を向けたのを。すかさず、魔理沙は口を開いた
「パチュリーさんは、もう朝食は済ませましたか?」
が、
「……生憎、食べる必要が無いから」
再び、言葉を詰まらせる魔理沙。
「……もしかして、妖怪何ですか?」
「魔女よ。なら、賭博場で食べると良いと思うわ」
魔理沙からはこれ以上、何の言葉も出なかった。まさか、暴れた場所で飲食するわけにもいかない。
―――まずい、どう返す?何て言う?いや、違う、でも―――
―――話すのは、諦めるしかないのか?
目の前には、訝しむような目つきのパチュリー。混乱に沈む思考で、どこか冷静に魔理沙は思った。
故に
扉を開く音。
来客を示す音が、図書館を強かに震わしたのは、魔理沙には僥倖としか思えなかった。
―――助かった…
視線を上げたパチュリーを横目に、魔理沙は小さな息を吐く。そしてその息を、視界を上げた途端に逆流させた。
―――レミリア!レミリア・スカーレット!
本棚の間から見えた、レミリアの姿。賭博場で見た時と、大した違いは無い。慌てて身を隠そうとする魔理沙だったが、どうしようにも手遅れであった。
「おはよう、には遅いかしら、パチェ」
「………レミィ」
案の定、と言うべきか。レミリアの視線が、縮こまった魔理沙に向けられた。そして、その薄い唇が、半月状に歪む。
「ねえパチェ、それはどうしたの?」
「……廊下で行き倒れてたのを拾ったの」
ごく自然に『それ』と言われたことに魔理沙は腹がたたないでもなかった。が、それ以上に、冷たい汗が全身に染みていく。
―――私は、生きて帰れるのか?
指先に至るまでの血が皆熱を失ったように感じながら、魔理沙はレミリアを見やる。
対して、返って来たのは。
図書館に木霊し響く、高笑いだった。
―――は?
拍子抜け。そんな言葉が、魔理沙の中を反響し、落ちていく。
「廊下に放り出したと思ったら、良くもまあこんな所まで……大したものね、負け犬さん」
負け犬。やはり一片の澱みも無く吐かれた言葉に、一瞬にして血液は熱を持った。自分が泡をたて沸騰する感覚。が、吹き出しかけた溶岩にも似たものを、魔理沙は言葉無く呑み込んだ。
―――怒るな。
僥倖じゃないか、奴は機嫌が良い。何も、余計なことを言わなければ……何もしなければ、助かる。そうだ、何も、しなければ。
鈍く、重い動きで、唇は震えた。
「……あの、昨晩は、申し訳御座いませんでした」
梯子を降りて、自身より背丈の低いレミリアに、魔理沙は深々と頭を下げた。突き刺さる目線が、魔理沙の神経を蝕み、焼き付かせる。
「それはつまり、『酔っていたからやったことです、許して下さい』ってことかしら?」
「……仰せの通りで御座います」
可笑しくてたまらない、そんな調子の笑い声が降りかかるのを、魔理沙は黙って聞いていた。身じろぎもせず、頭を下げたまま。
「まあ、良いわ。素直な奴は嫌いじゃない。賭博場も好きに使いなさい」
ありがとう御座います。
そんな台詞を吐きながら、魔理沙は唇を噛んだ。破断し、破裂しかねぬ程に。
―――耐えろっ……こいつは……いずれ殺すに違いないんだっ……!
ちらついたパチュリーの姿を、魔理沙は見なかった。梯子の上に置いたトランクケースを思い、魔理沙は何とか表情を作り、顔を上げることができた。レミリアは既に、魔理沙を見ていない。
「あの件について考えてくれたかしら、パチェ?」
「……………いいえ」
「まあ、良いわ。そっちの人のお陰で時間も無いし、また今度ね」
そうしていくらか言葉を残すと、レミリアは踵を返し本棚の隙間へ消える。扉が開かれ、それから閉められるのを聞いて、ようやく魔理沙は頬を緩めた。魔理沙は向き直ると、パチュリーと目を合わせる。
「……その、あのようなもので、賭博場に行こうにも、少し行きづらくて……」
―――あんな奴がうろついてる場所に、誰が行ってたまるか―――別に、パチュリーに物乞いしようと、ではない。レミリアへの一方的な嫌悪感から、魔理沙は口を開いていた。
と、拍子抜けしたような、威圧感の無い表情が、パチュリーに浮かんだ。しばらくの沈黙の後、小さな唇が動く。
「……仕方無いわね」
「え?」
「ついてきなさい」
突然立ち上がると、パチュリーは梯子を降りる。そして魔理沙の返事も聞かぬまま、歩き始める。魔理沙は二三、瞬きを繰り返したあと、慌ててそれに続いた。
「……何か、あるんですか?」
「多少はね」
しばらく、パチュリーは壁伝いに歩いた。魔理沙もまた、小さな疑問符を抱きながらそれに続く。
(図書館ごときに何があるのかしら)
「……知らん」
―――正しくは、思い出せない。
(案外、食べられるのは貴女の方だったりして)
「阿呆だな、あいつはそんな魔術はしないぜ」
―――魔術。魔法。
十五年、触れても来なかった言葉に、何かが身を震わせた。
―――何だ?この先、いや、
溶け出した脳細胞が混沌としてく様を、魔理沙は湯気まで知覚した。神経が尖鋭と広がり、肉を潜って行くのがわかった。その先端が、水面に波紋を映したことも、また同様に。
―――そうだ。
音を立てて、魔理沙の意識が覚醒した。
―――あそこで、あいつと――――――
氷解した記憶に頷きながら、魔理沙はパチュリーの背中を追う。程なく、パチュリーは立ち止まった。入り口扉とはまた違う、小さな扉の前で。思い切り捻れば取れかねない錠前を外すと、パチュリーは魔理沙を招き入れた。
「入りなさい、私の研究室だから、物を壊さないように」
無限にすら感じられた、図書館。それに比べ、部屋はあまりにも狭かった。面積の問題ではない。
魔導書、方陣、数式のメモ。薬品瓶、乾標本、ホルマリン漬けのカエルの目玉。中央に陣取ったテーブル、僅かな隙間に置かれた棚、絨毯の敷かれた床、一面を実験魔術用具が雑多に埋めていた。
―――そうだ
魔法の何たるか、ここで二人で語り明かしたな。
―――そして、ここで……
苦く、痛みを抱いたものを、魔理沙は微笑みで上塗りした。
「座りなさい」
棚に身体を埋めながら言うパチュリーの通りに、魔理沙は椅子を引いて座―――ろうとして。座ろうとして、瞳を止めた。
椅子の上には、帽子が置かれていたのだ。
黒一色に、白のリボンがあしらわれた、鍔の広い三角帽子。
御伽噺の魔女が被るような、帽子。
帽子は埃を被り、黄ばみ、端は折れて、電気ランプの下で影を作り出していた。
「………パチュリーさん」
「何かしら」
「この帽子、貴女のですか?」
視界が明後日の方向にあるパチュリーにも、何の帽子かは伝わったらしい。
研究室に、物を動かす音ばかりが響く。
「……………、」
と、パチュリーは、手を止め、顔は棚に埋めたまま、言った。
「………知人のものよ。他の所に置いて、座りなさい」
埃が手に付き、辺りに舞い散るのも構わず、魔理沙は帽子を掴み上げた。
そして僅かに頭へ近づけた後。
幽かに首を振りながら、帽子を机に置いた。
「……ほら」
と、棚から顔を出したパチュリーが、小さな手籠を魔理沙に突き出した。
「非常食みたいなものだから、我が儘は言わないで」
「そんな、とんでもない……ありがとう御座います」
努めて流暢に言い終えながら、魔理沙は表情が引きつるのを抑えた。籠に入ったのは、乾いた色のパン。それも、僅かに埃が付き、何やら薬品の臭いの染み付いたもの。
―――いや、無いだけましだ。
魔理沙は溜め息を呑み込むと、パンを頬張った。
水気の無いパンを咀嚼しながら、魔理沙は前を見やる。何かパチュリーに口を開こうとしたのだが、パチュリーはまた本を読み始めていた。こうなると手持ち無沙汰で、どうしょうもない。どうにも居心地の悪さを感じながら、魔理沙は研究室に視線を向けることにした。
―――大体は、変わらないもんだな。
それとも、パチュリーが変わってないだけなのか?
物品の配置は変われど、根源的な位相は変わらない。埃、黴、湿気の無い図書館の空気に、薬品と藁半紙の臭いが入り混じる。走り書き、殴り書き、辛うじて読めるメモ紙が所構わず貼られて、散乱し、部屋のもたらす圧迫を強めていた。
と、手元に貼られていたメモ紙が、魔理沙の目に留まった。
―――相変わらず、すごい理論を立てるもんだな……朧気に理解出来る内容を見ながら、魔理沙は嘆息した。自分では此処までの発想は出来まい、と。出来ていたら、そもそも―――――と。
…………いや、
感傷に浸る思考を、一文が捉える。
―――ここに関して言えば、間違いじゃないか?
羅列された数式。本質的な部分に、間違いは無い。予期された通りの結果が出る。
しかし、過程は。僅かな無駄と回りくどさを含んだ数式に、魔理沙は目を細めずにはいられなかった。
―――何を考えてるんだ、私は。
小さく首を振りながら、魔理沙は苦笑を浮かべた。
―――私はもう、ただの人間さ。魔法なんて、今更………
そんな呟きが、思考の暗闇にぶつかり、響くことも無く沈んだ。
―――我ながら、変なことを考えるもんだな……返ってくる音が無いことに、魔理沙は嫌でも気づかなければならなかった。『自分が魔法について意見したいと思っている』ことに。
視線を逸らせば逸らしただけ、数式は魔理沙の視界を彷徨う。純白のシィツに、たった一滴きり、黒インキを垂らした如く。
巡る思考、迷い。躊躇いと、戸惑い。相反する感情が交錯した後、交わり合う………魔理沙は、口を開いた。
「……パチュリーさん」
呼び声に、パチュリーが顔を上げたのを見ると、魔理沙は確かにその目を射抜いた。
「このメモに書かれた魔法数式ですが、最適化と乖離化が不十分であるように思います」
明らかな驚きと衝撃――――初め、魔理沙を見た時と、同様の――――が、パチュリーを走った。パチュリーは額に汗を滲ませながら、瞬きを繰り返していた。
そして、しばらくすると。
色の無い表情に、静かな微笑みを浮かべた。
―――ああ、
いつか、昔。
見たことがあったな。
ほんの、時々、だったけれど……
「面白いことを言うのね、貴女」
「ええ」
「詳しくお聞かせ願えないかしら」
「勿論」
… … … …
雲は無い。されど、光も無い。
新月の夜、果ても彼方も有り得ぬ大いなる闇が、幻想郷を包んでいる。星は自らを抱くばかりで、夜の帷は風もたたない。虫も、鳥も、草木までも、風、或いは水、そして人もが、暗夜の中に身を横たえ、微睡み、自己の深淵へ音も無く沈んでいく。眠りの歌が、空に吸い込まれていく――――――筈だった。
「――――――ッ!」
沈黙の空を、人の形をしたものが切り裂く。言語の枠から腕を出し足を出して叫びながら。暗夜の海を進み、突っ切り、溺れていた。
「いないのか?見てないのか?いるんだろう、『そこ』に!」
抑えるものを持たず、ウェイブのかかった金髪が、リボンと共に空を泳ぐ。魔理沙は息を吐き、吸い、吐き出す。そうして空を駆け、地を駆け、幻想郷を駆け抜ける。たった一人の名を、絶叫に映しながら。
「出てこい、出てきてくれ!八雲紫ッ!」
「夜は妖怪の時よ」
そんな落ち着いた声に、魔理沙は無理やりに箒を振り戻した。
「今は、貴女の時ではない」
闇夜にスキマを溶け込ませながら、紫は魔理沙の後ろにいた。力の抜けた、微笑みを浮かべながら。
「そんな貴女が、今宵の闇に何かしら」
「頼みがある」
「私を、外の世界に出してくれ」
紫は目を細めて、熱を湛えた魔理沙を見た。その表情に、変わる所は無い。
「一度外界に出たら、戻ってくる方法は、無いと言っても間違いは無いわ――――例外は、無くはないけれど――――それでも?」
「………構わない」
紫が空間を一撫でする。と、後を追うように、亀裂が生じ、空を裂き、スキマを象った。
「………やけに素直に通すんだな」
「止めて欲しいのかしら」
舌打ちに、笑い声が重なる。
「戻ってくる意思が無いのなら、止める理由も無いわ」
魔理沙は何も言わず、スキマへと近づいてく。手に持つものは無い。箒と、懐の八卦炉だけが、小さな肩にしがみついていた。
「これは、一つ……勘だけれど。老人の戯言と思って頂戴」
「貴女は、きっと戻ってくる」
「………何でだ?」
「勘よ」
紫の細く真っ白な手が、闇に浮かんで揺らめく。
呼応するように、スキマは広がった。人間程度、飲み込んでしまう程に。
「さあどうぞ、何なりと」
―――理由も、聞かないんだな
特に感情も無く、ただ魔理沙は思った。だからどうと言うことではない。むしろ、その方が魔理沙にも良かった。言い訳じみた嘘を、使わずに済んだのだから。
―――この、幻想郷は。凡庸な一人間は、生きていけない。所詮、人里に住んで、分相応の生き方をしなけりゃ。
―――鬼退治の伝説?魔女を倒した英雄?そんなものは、一握りの恵まれた奴だ。生まれた時から神に育てられただとか、特殊な能力を持ってる奴だ。
思考が、蝕む。記憶が、腐食していく。魔理沙は、スキマへ箒を進めた。
―――なら、どうすれば良い?
石ころの分際で、星を見た奴は、どうすれば良い?自分は石じゃないと言い続けて、星になれない石は、どうすれば良い?ただ、火花を散らして、星になった気でいたのは―――――
魔理沙はスキマに手をかけると、足をかけ、箒を下界へと投げ捨てた。
―――石も、人間になれば、輝けるだろうか。いや、輝ける筈だ。
そして、空も、星も、紫のことも、何も振り返ることも、無く。
魔理沙は、暗黒へ身を踊らせた。
―――人間だけの外界なら―――
―――妖怪なんて、いなければ―――
… … … …
「………でも、それは反作用で掻き消える力だわ」
「いえ、二重螺旋の回路を一分たりとも崩さなければ、反作用をすり抜けて、三重目の螺旋が完成する筈です」
「……実戦では夢みたいな話しね」
「使い手次第です」
「使い手次第って……」
と、言葉を返そうとパチュリーが口を開いたのに、置き時計の鳴るのが重なった。短針は既に、夕刻を指し示している。パチュリー、そして魔理沙も、顔を見合わせた後、溜め息をついて椅子にもたれかかった。
「……我ながら、ここまで時間を忘れるとわね」
「同感です」
―――一度言い出したら、止まらないもんだな……上気する頬に空気を送りながら、魔理沙は思った。
―――私は、魔法を捨てたんじゃ、なかったのか?
目を細める、魔理沙。しかし、そこに、暗い影は差していない。その事実に、魔理沙は大きな息を吐いた。
「……貴女、本当に人間かしら?」
「………ええ、正真正銘、普通の人間です」
「魔法についてこんなに議論したのなんて……何十年振りかしら」
―――いなかったのか?
魔女同士の、知り合いが。
魔理沙は愕然とするのと同時に、何かが内側から、胸を刺すのを感じた。
「魔女同士で、ご友人が、いらっしゃらなかったんですか?」
パチュリーの上気していた微笑みに、僅かな影が差すのを、魔理沙は見た。見ずには、いられなかった。
「いたには、いたのだけれど」
「……………」
「どこかへ、行ってしまったわ」
どこか、遠い場所へ……魔理沙は一つ咳払いをすると、手元にあった水を呷った。視線を、何も無い空へ向けながら。
「………水、要ります?」
「……いえ、自分で注ぐわ……」
パチュリーは棚の水差しに腕を伸ばし、中を覗いてから、小さく声を出した。
「水、もう無いわ」
「え、水道は?」
「此処が地下だから、繋がってないの。だからいつも朝、メイドが汲んで来るわ」
「そうですか……」
―――いつも、一人だからか。
私も使っただけで、簡単に無くなっちまったのか。
内の暗がりにあった棘が、陰りを帯びて胸を抉る。胸に響いた鈍痛がただの気のせいである自信は、魔理沙には持てなかった。
「……何か、すいません」
「何で?」
「私ばっかり、飲んじゃって」
―――違う。
言いたいことは、それじゃあない。
謝りたいのは、それじゃあないんだ。
「別に良いの。飲まなくても、死にはしない……」
「どんなに乾いたって……」
棘が、身を揺すり、身体を伸ばして、血を流させる。
傷から、穴へ。穴から、亀裂へ。
「……パチュリーさん」
「……賭博場に、行きませんか?」
その声は、魔理沙の知覚を超えて生じた。思考、感情、魔理沙自身の意思、全てを無視して。しかし、魔理沙に驚きは無かった。後悔も無かった。あるのは、穏やかな納得だった。
パチュリーは確かに目を見開いた。魔理沙から視線が逸れ、僅かに俯く。
「……レミィが、レミリアがいるわ」
「別に、居ても良いと言われてますから」
「それに、私、お金は無いの」
「飲み物だったら奢ります。賭け事は……私もお金が無いもので」
「………でも、」
「パチュリーさん」
―――私と、行ってくれとは言わない。
自己満足かもしれない。
でも
「私と、行ってくれませんか?」
―――無愛想で、頑なで、笑わなくても。
きっと、お前は、私の友人だったんだ。
―――今更わかっても、遅いけど。
「………わかったわ」
パチュリーは頷いて、それ以上何も言わなかった。
… … … …
現在、幻想郷に統一された政府はありません。その部分に関しては、産業革命以前の体制のままなのです。
確かに、かつての幻想郷には、法律や裁きを執行する立場は不要でした。妖怪は妖怪の内、人間は人間の内で裁き、互いの干渉は博霊の巫女が妖怪退治という形で分けられてたのです。かく言う私も、妖怪退治に精を出していました。
ですがこの時代にその関係が保てないことは、誰の目にも明らかな事実です。勢力を大幅に拡大した妖怪達に、介入できる人間はほぼいません。あるのは、互いに全面戦争を避けるだけの、形の無い抑止力だけです。勢力の中で何をしようが、法律は妖怪であり、裁く者はそこにはいません。
『外の世界では、国と言う単位で世界を治めている。今の幻想郷も同じではないか?』
そんな意見をいただいたこともありました。ですが、此処にいる皆様に知っていただきたいのは―――――幻想郷は、狭い。分かれて住むには、あまりにも狭い世界なのです。外では、一つの国でさえ、幻想郷の何十、何百も倍の土地を治めています。そんな外でさえ、土地を、資源を奪いあい、互いに略奪しあい、無意味な戦争を終わらせられずにいるのです。
今はまだ、均衡が取れています。開拓する土地、発展する産業はまだ山ほどあります。ですが、それらも後十年の内には打ち止めになることでしょう。そうなれば、さらに上の発展を望むには、現存する勢力から略奪する他ありません。何時しか緊張状態になり、互いに懐に拳銃を構えていれば……いつか、何かの拍子に、引き金は引かれることになります。
一人辺り何十円で殺せる化学兵器に、一万年先まで毒を撒き散らし続ける爆弾、それらを使う妖怪達……幻想郷は、滅亡するでしょう。
世界は、容易く壊れてしまうのです………ともすれば、たった一発の銃弾で……。
… … … …
―――……迂闊だった……。
こめかみに響く、軋むような痛み。魔理沙は頭を抱えながら、横目を走らせる。カウンターにもたれ掛かり、溶け落ちたような目で酒を舐める、パチュリーに。普段とは、比べもつかぬ程血色の通った頬。胸まで酔いに浸かっていることは、どう見ても明らかだった。
―――そう言えば、殆ど宴会に来たことも無かったな。
合点がいったように思いながら、魔理沙は口を開いた。
「パチュリーさん、ちょっと飲み過ぎですよ」
「……奢りじゃないの」
「そうじゃなくて、いや、」
そうしてる間にも、パチュリーは杯を傾け、酒を飲み下した。が、途端に咽せて、息を吐き、咳き込んで口を抑えた。
吐かれたら不味い、と魔理沙は反射的にパチュリーを抱え、支える。
「その内倒れますから、もう飲まないで」
「倒れてんのも座ってんのも同じよ」
呂律の回らない唇に、飲みかけだった酒が流し込まれる。と、ようやくパチュリーは杯を置き、魔理沙の手を離れてまた机に伏した。
「私は友達なんていないから……一人で飲む程虚しいことは無いわ……」
―――一人?
ささやか、しかし密を秘めた疑念が、魔理沙を過ぎる。
「……社長さんは、レミリアさんは、友人では無いんですか」
「……………友人、だったわ」
そのまま動く唇から、何かが垂れ流されてるように、魔理沙に見えた。
「十、何年か、前……彼女の妹が死んだの」
―――は…?
「貴女も知ってるでしょう?紅魔の狂気の妹様」
何瞬、何拍。刹那、しかし永遠にも等しい時間。
魔理沙ようやくにして、言葉無く頷くことが出来た。
―――死んだ?あの、フランドール・スカーレットが?
確かに、見なかった。確かに、何も聞いてなかった。でも、まさか、
自分が今、どんな表情をしているか、魔理沙は容易に分かり得た。が、酔いが溶けたパチュリーの瞳に、それが映った様子は無かった。
「前の流行り病にかかって。あの、特効薬不足で大騒ぎになった……」
応えが要領を得ないのは、出来事への動揺ばかりでは無かった。
「どんなに大きい屋敷を持っていても、特効薬を買うお金が無かったのよ」
「それで、私が、魔法で直そうとしたのだけれど……」
………無理、だった。
零れ落ちたもの。
魔理沙は感情を抱く前に、強いデジャヴを感じた。
「それから、何となく、話し辛くなって」
「彼女も、妹がいなくなったのを埋めるみたいに、金儲けに走り始めて」
「この賭博場も、妹を閉じ込めてた迷宮を改築したのよ」
―――私だ。
朧気に言葉を聞きながら、魔理沙はデジャヴの正体を知った。
―――『私なんだ』
みんな、誰も彼も
昔を見て、後ろを向いて
『私なんだ』―――――
「私は、一人ぼっち……」
パチュリーは小さく笑いながら、空の杯を揺らした。杯は二、三、彼方此方を向いた後、横倒しになって転がる。すると僅かばかりの残滴が、微かに跳ねて机に染みた。
「……私と間違えた人は、どんなだったんですか」
「……え?」
「お知り合いだった人は、どんな人だったんですか……?」
―――特に、意味なんて、無い。今更聞いたって、無駄だ。惨めなだけだ。
でも、知りたい。
そう、訳も無く、訳も分からず、魔理沙はただ、強く思っていた。
パチュリーは、応えない。
黙って、肩を震わす。
―――拙かったろうか?
一抹の不安。それは、一瞬後には吹き飛ばされた。魔理沙の耳を突いたのは、底の抜けた笑い声だった。
「………え?」
魔理沙が間抜けた声を漏らす。そんなことを気にも留めず、パチュリーは笑い声を上げた。
「ふ、ふふ、酔ってるのかしら、私」
「ええ、それは、もう」
「今ならなんだって、言える気がするわ」
熱が、消え失せる。それがパチュリーか、自身だったのか、魔理沙には分からなかった。
「昔、魔理沙って名前の、人間の魔女がいたの……年をとってれば、貴女みたいな」
言葉無く、言葉を持たず、魔理沙はただ頷いた。
「本は盗むわ、館に押し入ってくるわ、ろくな人じゃなかった」
「それに、ひどく弱かったわ。ごっこ遊びなら兎も角、本番じゃ話しにならない。ただ正面から、最大の攻撃を放つだけだもの」
―――やっぱり、か
「でも」
「でも…諦めが悪くって。何回でも、何度でも、立ち上がって来た。」
―――違う。
「才能も、能力も無い、普通の人間でも。彼女は言い訳にしたことなんて無かった」
―――私は、そんなのじゃない。
「ひたすらに自分を信じて、立ち向かってきた」
―――ただ、私は……
……立ち止まるのが、怖かったんだ。
先に進めないのがわかっても、立ち止まれなかった、臆病者なんだ。
「私は、引っ込み思案で、病気持ちで、口下手だから……」
「だから……彼女が眩しかった。そんなこと、とても言えなかったけど……」
―――最後まで、聞こう。
立ち上がりかけた膝に、指を刻んで、魔理沙はそのまま動かない。
―――私は、そうしなきゃいけない。
「でも、いくら足掻いても、彼女は強くならなかった」
「……ある時から、私は、手加減してた」
「彼女にわからないように、彼女を傷つけないように」
「でも………彼女にはみんなわかってわ」
「それである日、彼女は……姿を消したの」
「幻想郷のどこを探しても、彼女は、見つかりはしなかった……」
パチュリーはそこで言葉を止めた。魔理沙の視界には、上気し混濁した色の頬と、薄い笑みが映る。と、質量を持った空気の中を、パチュリーの手が動いた。指先が杯と触れ合い、引き寄せ、それを手のひらに抱き留める。魔理沙は音も無く、酒の瓶を傾けた。
ありがとう、と呟くと、パチュリーは唇を飲み口につけた。そして程なく離すと、杯を置き、また机に突っ伏した。
「……私は、馬鹿な女……」
「既に消えたものしか見れない……」
―――馬鹿は、私だ。
口を開くことさえ叶わなかった言葉が、思垂に跳ね返り、木霊し、力を失って消え失せる。
パチュリーは、魔理沙とは反対の方を向いていた。が、どうしょうも無く震える肩が、その様相を叫ぶ。
魔理沙は何もしなかった。
魔理沙は何も出来なかった。
ただ黙って、其処にいた。
… … … …
「つきましたよ」
魔理沙の肩の中で、ええ、と小さく響く。魔理沙はトランクを持った左手で、図書館の研究室の扉を開いた。
それから散乱するものをどかし、椅子を引き出す。そして魔理沙は、右肩に抱えたパチュリーを座らせ、机にもたれ掛からせた。
「吐きそうだったりしませんか?」
「……いいえ、大丈夫……」
「……身体、拭きましょうか?」
「……遠慮、しておくわ」
魔理沙はそれ以上聞くのを止めた。かといって、やることも無い。ただ、向かいの椅子に座って、手持ち無沙汰に彼方此方を見ていた。
―――もう、帰るか。
しばらくして魔理沙は思い、塵を立てないようにして立ち上がった。そのまま出口へ、ゆっくりと歩く。が、視界の端に映ったものに、魔理沙は足を止めた。
―――この本、どこかで見たような……
其処まで考え、魔理沙は苦笑を浮かべた。一度盗んで、返した本であったのに今更気づいたのだ。指先が表紙を撫で、這い、持ち上げる。デジャヴを呼び起こす文字の羅列と、時計とを交互に見た後、魔理沙は言った。
「パチュリーさん」
「何かしら」
「……この本、貸していただけませんか?」
「……いいえ、」
「あげるわ、その本」
「この図書館も、もう無くなるから……」
叫びだそうとする衝動と、力を失った感情。二つは正面から相反し、牙を向け合う。が、一瞬にして勝敗は決した。魔理沙には、見てることしか出来なかった。
「図書館も壊されて、賭博場になるのよ。散々、立ち退きの催促をされてて……」
「そんな…」
「………良いのよ」
「………魔理沙は、帰ってこない……」
霧散し、影も残らぬ、声。それきり、パチュリーは口を開かなかった。また、元と同じ沈黙が、部屋を満たす。
―――帰ってきてるぜ。
―――帰って……。
魔理沙は魔導書を抱え、トランクを持ち上げると、出口の扉を開いた。が、そこで踵を返し、口を開く。
「パチュリーさん……私……」
部屋のがらんどうに、変わるところは無い。無論、返ってくるものも。代わりに、小さな寝息ばかりが響いていた。
「…………、」
魔理沙は身体を前へ戻すと、扉をくぐり、微細な音をたてて扉を閉めた。
… … … …
(ついに、明日ね)
紅魔館の豪奢な明かりを背に、魔理沙は暗がりを歩く。そんな時、魔理沙の頭の中を、風の立たない声が響いた。
「まだ、見てたのか」
(勿論よ)
(迂闊な真似をされたら、こっちがたまったものじゃないわ)
―――迂闊………魔理沙は今日と言う日を思い出し、繰り返した。
霧の湖に映るものは無い。鉛の空が天を犯し、月光は見るものも無い。無論、星光もまた同様に。目を凝らして見れば、絶えず雲は蠢き、鈍い鼓動を緩やかな風に乗せる。しかし、闇夜に光差すことは無かった。
「……なあ、紫」
渇きばかりが込められた声が、塗り潰された闇に吸い込まれる。
「……止めに、出来ないか?」
「レミリアを倒すなら、他の方法は無いのか?」
(無いわ)
(あくまで密かに実行するには、他の方法は有り得ない)
「頼む」
目の前に相手はいない。理性ではわかっていても。魔理沙は視線を、目の前の暗黒へ向けた。
「腑を売っても良い。男に身体を売っても良い。私に出来ることならなんだってする、だから―――――」
(思い上がるのもいい加減になさい)
脊髄を氷柱で刺し貫く感覚が、魔理沙から体温を消した。
(貴女がどう足掻こうが、貴女の価値は紅魔館には釣り合わない)
「借金なら返す。八卦炉を売れば―――――」
(情に絆されて死ぬか)
(泥を啜って生きるか)
(選びなさい)
―――ふざけるな。
たった一言。
―――ふざけるな。
思うだけで、形にならぬ言葉。
―――ふざけるなッ……!
それを噛み締めながら、魔理沙は思い出す。
―――私は所詮……紫の犬だって言うのか…?
(魔理沙)
急かすような声が、魔理沙の耳をつく。魔理沙は、何も言わない。
―――私は
前と、同じように。
捨てるのか?
裏切るのか?
大切なものを、失っちゃいけないものを。
思考が、暗霧、泥沼へと陥っていく。魔理沙は全身から力が抜けて、異常なまでの怠惰がのしかかるのを、他人事のように感じていた。
―――いや
―――それでも
―――それでも、だッ………!
瞬間。
稲妻の如く、明瞭な思考が魔理沙に舞い戻る。
永く、数瞬の思考。
刹那の、迷いの後。
魔理沙は、右の手のひらで、顔を覆った。
「……わかった……私が、悪かった……」
(………ええ、わかればいいのよ)
暗色と同化した瞳の中に。塗黒の帷の中に、灯火を掲げながら。
… … … …
行き過ぎた自由経済は、いつか崩壊を招きます。ただひたすらに高みを目指し、白熱し、光り輝いて、最後には地上の全てを道連れに燃え尽きます。
かといって、生命皆平等など、理想主義の最たるものでしょう。社会主義は階級の救済ではなく、階級の至高化を招くばかりです。
なら。
なら、私達は、どうすれば良いのでしょうか?
………どうすれば、良いのでしょうか……?
答えは、私にもわかりません。
無責任と罵られるかもしれません。ただの批判論であるかもしれません。
でも、一つだけ。
此処に来ていただいた皆さんに、伝えたい。
諦めないでください。
希望を捨てないでください。
今、つらくある現状に、納得しないでください。
自分の可能性を信じて、戦ってください。
個人の力が如何に小さくても、我々がいなくては、幻想郷は無いのです。我々は、幻想郷なのです。
ですから、どうか―――――戦うのを、止めないでください………人が、人として、生きるために
[4]
―――もう、疲れた。
誰かが、私の頭を鳴らす。首根っこを掴んで、耳元で何かを叫ぶ。立ち上がろう、と思っても、気がつくと意識が途切れていく。まるで、底の知れない、沼にあるように。
『パチュリーさん……私……』
―――もう、帰ってしまうの?
ねえ、その先は何?
貴女は何を思うの?
何を言いたかったの?
捕らわれては、見えない。どんなに目を凝らしても、私は迷宮の中を彷徨うだけ。
―――行かないで。
―――お願い、魔理沙―――――
パチュリー・ノーレッジは、水底色の眠りから覚めた。覚醒を拒む細胞が、パチュリーにまた、音の無い子守歌を囁く。が、地面が波立って蠢く感覚に、パチュリーは意識を覚まさずにはいられなかった。
―――二日酔い、かしら。
―――それに、机に伏してたから、身体が痛くてたまらない。
鉛そのもののように、鈍く身体は引きずられる。普段は気にも留めぬ重力が、不可視の力となってパチュリーを地に繋ぐ。それでもパチュリーは、どうにか身体を起こすと、周りを視線で払った。
―――いない。
―――いや、
―――最初からいないものを、どうして『いない』と言う?
鼻だけで笑ってから、パチュリーは水差しに手を伸ばした。が、あるはずの重量が無いのに気づき、パチュリーはそのまま水差しを置いた。
―――もう、無いのね。
―――彼女が、来たから。
置き時計は既に、黄昏時を告げている。地に埋もれた図書館からでも、意識を彼方へ跳ばすことは出来る。丸一日たった夕暮れを幻視しながら、パチュリーは溜め息をつく。
―――別に。
―――丸一日潰れようが、別に。
―――やることも、やりたいことも、無いのだから。
パチュリーはまた、机に付した。幽かに遠くに残る微睡みを手繰り寄せ、意識を深淵に沈める。暗黒は寸分の間も無くパチュリーを覆い、包み、誘った。
意識の遠ざかるのを感じながら、僅かばかりの意思で以て、パチュリーは思う。
―――私は、魔女なのに。
―――食事も眠りも必要無い、魔女なのに。
―――どうして、こんなに乾くの?
―――どうして、こんなに眠いの?
―――魔理沙―――――――
程なくして、意識の一欠片までが、闇の中へ消えた。
… … … …
―――夢と言うものは、幻想だ。
ほんの一握りだけに許された、特権なんだ。
誰でも見れて、誰でも近づけて―――――誰しもが、囚われる。
一度でも挫折の味を、床を舐める絶望を知ったら、もうおしまいだ。近づこう、なんてポーズだけで、自分自身が一番にそれを疑ってる。それで、いつか、歩きが止まって、夢を忘れる。忘れなかったら、もっと性質が悪い。
―――どこへ逃げたって、それは同じだ。
外界に逃げたって、無理だった。同じように、挫けて、絶望して―――――私は、戻ってきたんだ。外界の何もかもに、忘れられて。
それでも
それでも、私は、夢を見る。
夢を見ていたい――――――――
… … … …
(図面の地点番号Aについたかしら)
「ああ、周りに人もいない」
囁きを胸中に響かせて、魔理沙は答えた。それを聞く者は、スキマの主を除けば、どこにもいない。ぽっかりと開けた空間に、音が呑まれていく。
(そこから、B点を経由してC点へ……賭博場を囲むように爆弾を設置して)
「そのあとは?」
(紅魔館の反対側、D点からE点までを一周して、館中に爆弾を仕掛けてもらうわ)
賭博場の入り口から、遠く外れた廊下。既に賭博場は盛況を醸しており、廊下をふらつく影は無い。あるとすれば、魔理沙自身だけである。昨晩と同じく、灯りの無い廊下の中に、塗黒のタキシードが紛れて消える。
魔理沙は膝をつくと、館の図面を置いて、トランクケースを開く。中には、魔道具の部品―――――禍々しく、暗色を呑みこんだ、紫色の微光。光無き世界に霞む光も、多くして積み上がれば、眩く光を漏らす。誰が見ても思わないだろう、と魔理沙は思った。まさかこれが、何もかもを焼き尽くす、魔力爆弾だとは。
(始めは発火装置を、それから爆弾を、等間隔で置いていきなさい。鎖反応が起きるように、三十糎ごとに)
魔理沙はトランクを開きながら抱えると、その中身を掴み上げ、絨毯の上に落とし始めた。ふくよかな毛の上に、音も無く光が落ちていく。
―――全て、焼けるんだな。
この廊下も、賭博場も。
今見えてるものが、片っ端から。
どこか遠くに、魔理沙は思う。しかし、魔理沙の思考には、細波もたたない。ただ、穏やかな納得が、其処にあった。
(やけに聞き分けがいいのね)
微笑みを湛えた紫の声。機械的な動作を繰り返す魔理沙は、平淡だが感情の込められた声を出した。
「私には金がいる」
「お前は金を持ってる」
「お前の言うことを聞いて、金を貰う。単純だろ?」
訝しむような目線を感じながら、魔理沙は言葉を続ける。
「そのためだったら、賭博場の一つや二つ、いくらでも消し飛ばしてやる」
(……例え、何があろうと?)
「疑って得になることが、お前にあるのか?」
紫は小さく息をつく。それきり、スキマから声は響かない。
―――そうさ。やってやる。
私は、今度こそ掴んで、やり直すんだ。
中間地点、地点番号Bを通り過ぎ、
魔理沙は角を曲がった。その歩調は揺れず、ぶれず、前以外の他を見ない。白銀に足が生えてそのまま歩くように、魔理沙は前へ進んだ。
(早いペースね。この分だと、直ぐにCにかかりそうよ)
「……ああ」
掴み、廊下に振り撒く。繰り返し、繰り返す。紫の微光は数を減らし、照らされていた魔理沙の頬もまた、闇を取り戻してく。絨毯を踏みしめるリズムは速さを増し、魔理沙は暗黒の中を切って行く。そしてしばらくし、また紫が囁いた。
(C地点よ。左へ)
「……………」
突然、突如である。
一切の予備動作も、挙動も無く。
魔理沙は、足を止めた。
(どうしたの?まだ賭博場の周りしか、設置が終わってないわ)
「……そうだな」
頷いて、魔理沙はまた歩き出した。
トランクを。紫の光が籠められたトランクケースを、閉じながら。
瞬間、紫は全てを悟った。悟り、声を破裂させた。
(魔理沙ッ、貴女まさか……!)
―――その『まさか』、だぜ。
歩きを早め。歩きから競歩へ。競歩から走りへ、疾走へ。
汗の滲んだ表情に、焼け付いた破顔一笑を刻みながら、魔理沙は駆け出した。
(止しなさい、今ならまだ、)
「ここで殺すか?」
「今止めたら、同じ方法は使えないぜっ……二度と、な……!」
小さく、歯と歯の擦れる音を聞きながら、魔理沙は懐から装置を取り出した。アンテナとボタンのついた、小さな装置。発火装置を。
―――賭博場なら、いくらでもやってやる。
―――ビルだろうが、要塞だろうが。金があるならいくらだってやってやる。
―――『それでも』。
―――あいつは―――パチュリー・ノーレッジは。
『友人』として、絶対に諦めない。繰り返したたまるか。それこそ、泥を啜って死ぬことになろうが、パチュリーを救って私も生きる。
何度だって、『それでも』と言い続けてやる。今度こそ―――――
「要は最後に、紅魔館という企業体が消えてればいいんだ………簡単じゃないか」
―――そうなれば、賭博場の拡張どころじゃない。
図書館だって、パチュリーの物のままだ。
(霧雨魔理沙……覚えてなさい)
「努力はしてやる」
軽く言い放つと、魔理沙は後ろを振り向いた。紫色の微光は、最早影も形も無い。煌々たる闇ばかりが、腕を広げていた。
―――何のため?
パチュリーのためか?
それだけじゃない。
―――私のためだ。
これは決別だ。
逃げ出すだけだった過去との、決別のためだ。
今度こそ、私は、勝つ。普通の人間として、妖怪に。
「行くぜ、紫、レミリア」
「『異変』の始まりだっ!」
砕けんばかりに、装置を握り締めて。
魔理沙は、発火装置のボタンを押した。
… … … …
爆音、衝撃、大熱波が、紅魔館から噴き出た。さながら、天へ手を伸ばすように、火柱が屋根を吹き飛ばし、満月の下に轟吼を上げる。
「今のは何だ!?」
レミリア・スカーレットが賭博場にいなかったのは、全くの偶然であった。たまたま、休憩室で仮眠を取っていたのだった。無論、賭博場を狙った爆弾など、予想出来る筈がなかった。
「お嬢様、どうやら賭博場で何かが爆発した模様です!」
「図書館及び当主室は無事ですが、その他館の半分に火の手が……」
「廊下の消火装置が間に合いません、炎上範囲を食い止めるだけで精一杯です」
「賭博場との内線が繋がりません、如何すれば……」
「狼狽えるんじゃあないッ!」
報告に、次々と駆け込んでくるメイド達を、一喝が凍えさせた。
「底が知れるわよ。平静にして瀟洒になさい」
レミリアは静寂の中に言うと、自らそれを打ち破った。
「消火装置で火を食い止めなさい。直ぐに消防署へ連絡を」
「何人かのチームを組んで、賭博場へのルートが無いか確認なさい。確認が取れ次第、私に報告か突入よ」
「おそらく直ぐにマスコミが来るわ、副メイド長に対応を任せる。何を聞かれてもわからないで通しなさい」
「ここは今から本部として扱う。報告があれば全員ここへ……」
と、そこで、レミリアの言葉が止まった。怪訝な表情を明らかにすると、僅かばかり静粛に、メイドへ話しかけた。
「出火原因は?」
「今のところわかりません。賭博場周辺からは爆発するような物はありません。ですが、対物魔法結界は正常です」
「図書館と当主室は無事、ね?」
「ええ、はい」
レミリアは怪訝な表情を崩さない。寧ろ、眉間に深く皺を寄せて、何かを呟くと、休憩室の扉へ歩き出した。
「お嬢様、どちらへ……?」
「咲夜はどこかしら」
「メイド長は厨房にいる筈です。内線は繋がりますが……」
「咲夜をここへ呼んで、以降の指示は彼女に仰ぎなさい。咲夜なら直ぐに来れるわ」
レミリアは振り返ることも無く、扉をくぐる。そして廊下に、二対の漆黒の翼をはためかせた。
「お嬢様、どちらへ!?」
「確かめることがある、直ぐに戻る」
瞬間、吸血鬼の小柄な身体が、空を歪める速さで、廊下の暗がりへ躍った。
… … … …
―――開いたッ
魔理沙は無理やりに扉を蹴破ると、転がるような勢いで部屋に入った。電灯は点けず、そのまま。簡素な机と、いくつかの本棚だけが置かれた、小さな部屋へ。
当主室。レミリア・スカーレットが、私事を含めて使用する部屋である。
―――十五年前と、全く同じなら―――――
机には目もくれず、魔理沙は本棚へ駆けた。そしてトランクケースを開くと、魔道具の部品と、予備の発火装置を僅かにばらまく。
―――この裏に、隠し金庫があった筈だ。
(………なるほどね)
(賭博場を爆破するのは、あくまで陽動)
(その間に、金庫に隠された紅魔館の口座通帳や土地管理書を奪取する……というわけね)
「察しが良いじゃないか。幻想郷の銀行に、暗号制なんて無いからな」
魔理沙は少し離れると、発火装置を押し込んだ。途端、本棚が光を上げて吹き飛び、爆音が部屋を埋める。魔理沙は煙を払いながら、焼け焦げた金庫の扉に近づいた。
「こいつらさえ消えれば、紅魔は倒産だ」
―――いや、借金が無くなるばかりじゃあない。
紅魔の口座にある、うんざりする程の金が、みんな私のものだ。
金庫の鍵は、熱と衝撃により機能を失っていた。魔理沙が爪先で蹴り上げると、簡単に扉は外れる。中には、魔理沙の予期したとおりのもの―――――通帳と、書類の入った封筒が、そのまま納められていた。魔理沙はおもむろにそれを掴み上げ、小脇に抱えた。
「あとは逃げるだけだ、どさくさに紛れてな」
(確かに、良い作戦だわ)
でも、と、続く言葉。魔理沙の記憶の大半と同じ、余裕を湛えた妖艶な声。魔理沙の鼓膜が、腐臭に震えた。
(そううまくいくものかしら)
何を、と、返事をかけた、瞬間。
魔理沙の、頬。皮一枚の、間一髪。
絶対的な力に、空間が歪むのを、魔理沙は知覚した。
何か、とてつもない速さのものが、過ぎ去るのを。
そして、一拍後。
風が裂けた音と、背後の壁が塵芥に崩壊する音が、遅れて重なった。
―――奴だ。
暗雲の隙間の雷鳴に、迅雷の一撃を知るように。
山間から漏る光条を、一目で太陽と知るように。
魔理沙は、敵の現れを知った。
人間が処するにはあまりにも強大な、存在を。
―――レミリアが、来た―――!
「そこまでよ」
魔力によって精製した槍、グングニルを投擲した体勢を正しながら、レミリアは熱も無く言った。
「次は外さない」
―――畜生っ……!
いくらなんでも、早すぎるっ……!
どうする?戦うか?万に一つも勝てるのか?
「誰かと思えば、昨日の………有言実行、ってところかしら」
「今すぐそれを渡しなさい」
「今なら、命だけは見逃してあげるわ」
―――命、だけは?
魔理沙は頷かない。首を振ることも無い。ただ、口も開くことも無く、其処に立っていた。視線を伏せ、その表情を何ものにも染めず。ただ、其処に立っているだけだった―――――少なくとも、レミリアにはそう見えた。
「どうしたの?答えなさい」
「……はい」
魔理沙は低く答えると、鈍重な動作でトランクと、封筒とを床へ置いた。僅かな震えを帯びて、手のひらを離す。
そして、指先までが、トランクから離れて。
一瞬の鋭利な動作で以て、懐へ入った。
―――ふざけるな。
銃か、と、刹那的にしてレミリアは身構えた。とはいえ、傷は負うものの、吸血鬼に致命傷には成り得ない。或いは、叩き落とせば良いのだから。
―――プライドも、情熱も、何も捨てて、何になる。
しかし。
現実は、レミリアの想像を遥かに超えた。
何故なら。
彼女は、霧雨魔理沙なのだから。
―――『生きるため』に生きて、何になるッ……!
鈍い輝き。煌々たる、緋々色金の光。魔理沙は、十五年ぶりの魔力を、それに流しこんだ。
その手の中の、ミニ八卦炉に。
―――私は、逃げない。
―――いや、逃がさない。
―――お前だけは―――――此処で倒すッ!
新たな息吹きに身を震わせ、八卦炉は光を放った。
しかし、光に収束は無く、塵紙一つ焼くことは出来ない。それでも、光は放たれたのだった。
目眩ましとして。
「八卦炉だと!?」
叫びも束の間、レミリアの目は反射的に閉じた。が、完全に遮断することは叶わない。よろめき目を覆うレミリアに、魔理沙は駆け出す。封筒を丸め懐に、トランクケースを上手に構えながら。
「隙だらけだッ!」
叫びと共に、金属製のトランクが振り下ろされる。魔理沙の重心すら傾けるそれは、レミリアの頭蓋に刺さり、鈍い音を響かせた。
「………ッ、調子に乗るなァッ!」
両手にグングニルを精製すると、レミリアは渾身の力で薙払った。視界を失おうとも、居るはずの場へ。
しかし、手応えは無い。
徐々に色を取り戻す視界。遠ざかる足音。魔理沙は既に、部屋から跳び出していた。
―――『あれ』は、どこだ?どこにある?
執務室、予備厨房、客間、執務用具倉庫………図面を片手に、視線を滑らせながら、魔理沙は廊下を走る。最早、当主室は影の向こうである。が、暗がりを越してもなお、空間が胎動するのが魔理沙にも聞こえた。
「逃がすものか!」
大気の大波に乗り、翼が魔理沙を追い、迫る。
―――やられる―――――魔理沙は直ぐ後ろを振り向いた。走る速度が遅くなるのは、百も承知である。途端、視界に入ったグングニルを、魔理沙は間一髪で避けた。そして続くもう一本を、床に倒れ込んで避ける。
「小賢しいな、人間」
「大人しく死ね」
レミリアは素手のまま、倒れた魔理沙に迫る。彼女は吸血鬼なのだ。ただの徒手格闘ですら、脆弱な人間には致命的な破壊力を持つ。
が、対する魔理沙は、膝をつきながら八卦炉を構えた。
「遅いな、人間―――――!」
「……………」
「良いのか?」
「避けちまってよ」
瞬間。
回避運動を取りかけたまま、レミリアの体躯が凍りつく。その表情まで、そのままに。ただの的に過ぎないレミリアを、八卦炉のレーザーが薙いだ。
「貴ッ……様ッ………!」
呻きを上げながら、レミリアが仰け反る。レーザーと言えど、低い出力では致命傷に至らない。されど、吸血鬼の表皮、痛覚の末端を焼くのには、十二分すぎた。
「当然、だよなぁ」
「避けたら、大切な屋敷が燃えちまうよな……!」
―――焼けて困るのは、私の方だ。
図書館を思い浮かべ、魔理沙は苦笑を浮かべた。
「そらそら、まだたっぷりとあるぜ!」
身体を起こし駆け出しながら、魔理沙は次々とレーザーを放つ。照準は粗く、本来ならば掠りもしない。しかし、レミリアの方から当たりに来るのでは、外す方が難しい。服ごと皮膚を灼熱させる火線が、徐々にその数を増していった。
「いい加減、しゃらくさいわッ!」
レミリアは小刻みに飛ぶのを止めて、大きく翼をはためかせた。翼を、身体を焼き付かせようと、その勢いは変わらない。
―――当たるの前提だと!?
身体的な損害も、まるで考慮しない突撃。人間には到底真似出来ない姿に、魔理沙は目を見開く。その間にも、レミリアは魔理沙の目の前を覆っていた。
―――やられるっ………!
零距離の魔理沙に、レミリアは拳を振り放った。
「死ね!」
―――だが、それで良い。
瞬間、魔理沙の細い体躯が、吹き飛んだ。廊下の暗がりの中を、五米、十米、バウンドすることも無く跳び、廊下に激突し転がる。呻きすら出せず、魔理沙はただ、息を吐いた。
―――立て!早く!奴が来る前に!
「………人間にしては、やるわね」
「あの一瞬で、頑丈なトランクを盾にするなんて……」
絨毯の上をもがく魔理沙に、レミリアは音も無く歩み寄っていく。
「だが、所詮その程度よ」
「地に這いつくばって逝きなさい」
と、よろけながら魔理沙は立ち上がる。そして、ちょうど隣にあった扉を開き、中へ吸い込まれるように入った。
「精々逃げなさい。無駄な足掻きよ」
『執務用具倉庫』と書かれた立て札に目をやりながら、レミリアは静かに扉へ歩み寄った。圧倒的強者であることを、その姿に示しながら。
「さあ、どこかしら」
レミリアは、扉を開いた。
そして
視界を、埋め尽くされた。
自分の飛行速度に、匹敵する速さの、蹴りに。
瞬間。
固いものが、骨に激突する音。
レミリアの身体が、顔面から大きく揺れて、廊下に転がる。
扉をくぐった魔理沙は、汗の滲んだ笑みで以て、それを見下ろした。
古ぼけた箒に跨り、宙に浮き上がりながら。
「ん?地に這いつくばって、何だって?」
僅かに窪んだトランクと箒を握り、右手には八卦炉を構える。魔女が、そこにいた。
―――やられたんじゃあない。
―――やられてやったんだよ、このためにな!
「調子に乗るな……」
血の滲んだ顔面を抑えながら、レミリアは立ち上がった。
「箒無しでは飛べない奴が、私を見下ろすなッ!」
再びグングニルを精製し、レミリアは地を蹴った。爆発的な跳躍で以て、魔理沙に牙を剥く。が、魔理沙は箒を傾けて避ける。
「そんな野蛮な攻撃、当たってたまるかよ!」
「もしかして、弾幕も出せないのか?出したら屋敷が壊れるけどよ!」
「諄いッ!」
言葉を叫びによって掻き消す。掻き消すことしか、レミリアには出来ない。魔理沙の台詞に、間違いは無かった。
「弾幕が無くとも、貴様如き十分だッ!」
距離を取る魔理沙に、追いすがるレミリア。如何に箒を使えど、本気の妖怪からは僅かに逃げ切れない。少しずつ、距離が詰められていく。しかし、魔理沙も手を拱いてはない。八卦炉を構えた、レーザーを連射する。
だが、直後。その表情が、驚愕に塗り固められる。
―――こいつっ………
―――レーザーを、避けた……!?
無論、暗黒に灼熱の花が咲き、光が炎を生み炎が光を生む。飛び散る火花が炎上する様は、魔理沙にレーザーを止めさせるには十分であった。
―――私も火に囲まれないために、自重すると思ってるのか。
―――それとも、多少の損害なら、良いって言うのか。
「お前の大切なものじゃあないのかッ!この館はッ!大切な奴が、住んでるところじゃないのかッ!」
「お前に言われる筋合いは無いッ!」
戦闘の途中なのも忘れ、全身で叫ぶ魔理沙。呼応し、吼えるレミリア。
―――そんなだから、
―――そんなだから、図書館も潰せるのかっ!
全身を、細胞を震わして、魔理沙は絶叫する。言葉にならぬ、叫びを。
その間にも、レミリアはグングニルを構え、既に魔理沙に肉迫していた。
「消えろ、人間!」
「この、阿呆野郎がァッ!」
突き出された刃に、魔理沙はとっさに八卦炉を突き出した。ほとばしる魔力が火花を散らし、小宇宙に稲妻を轟かせる。
山を焼き天を焦がす火砲を放つ八卦炉である、グングニルの穂先は寸分たりとも突き刺さるに至らない。しかし、衝撃ばかりは別であった。魔理沙が後ろによろめき、僅かな距離を漂う。
その不安定な状態を、レミリアが見逃す筈もなかった。
「終わりだッ!」
弾幕を展開する必要も無い。レミリアは振りかぶりながら、砕けそうな程に握り締めた。自らの得物、グングニルを。そして、全身を弩と為して、紅蓮の刃を放った。寸分違うことなく、魔理沙の頭蓋目掛けて。鉄製の壁も粉砕する一撃が、放たれた。
―――そうだ。
―――それだ。
―――『その一撃を待っていた』ッ!
グングニルが、指先を離れる刹那。魔理沙もまた機先を先じ、放っていた。手に持っていた、鋼色のトランクを。
無論、素手なら防げても、ただの鉄がグングニルに適う筈も無い。グングニルは貫通し、トランクケースを吹き飛ばした。
中に収められた、紫棘の光ごと。
紅魔館の半分を焼き払いうる、魔力の塊ごと。
「―――――!?」
破裂する光条に、レミリアの戸惑いが浮かぶ。その表情を、魔理沙は確かに見つめていた。勝ち誇った笑みを、そこに添えながら。
そして
衝撃と、熱波と、閃光とが、闇に叩き付けられた。
魔理沙自身もまた、爆風に揉まれ、箒にしがみつく。
―――今のが、最大火力だぜ……
吹き上げる黒煙の向こうに目を凝らし、魔理沙は唾を飲み干した。
―――やったか――――?
瞬間
魔理沙は、熱が失われたのを知覚した。
煙雲を突き破り、風を切り裂き。その手は、伸ばされた。
煤け、焦げた斑尾模様を、処女雪の如くあった肌に刻み。
魔理沙の知覚の彼方から、魔理沙のこめかみを掴んでいた。
―――死ぬ。
死に神の吐息を。煙を破り、その表情は突きつけた。
「舐めるな」
「レミリア・スカーレットを」
恐怖。
その二文字が、冷たくなった魔理沙を掴む。肉が千切れ、骨が欠片となる程に。大腸の中身が口から出で、脳漿が飛沫を上げる程に。それらは痛み、そして熱となって、魔理沙の思考を明瞭にした。
―――死ぬッ!
ほとんど跳ねるような動作で、魔理沙はレミリアを顎を蹴り上げた。言葉の体を為さぬ、絶叫と共に。レミリアの手のひらが外れて、そのまま体勢も崩れる。そしてそのまま、魔理沙はレミリアの身体に、自分の身体を肉迫させた。
魔力に満ち、雷電を散らす、八卦炉を握って。
―――いける。
―――この距離なら、外さない。
この一撃で、終わらすッ!
歯車の噛み合った感覚の下、八卦炉に光が集う。光は、光条と化し。光条は、輝きと化し、迸る熱の奔流が、大気を渦巻かせる。
―――行け。
―――恋符「マスタース―――――――――
絶望的な光景。
レミリアを灰燼に帰し、全てを焼き尽くす轟砲。
紅魔館全てを、図書館を、パチュリーを呑み込む光――――――――
魔理沙は、言葉無く叫び。八卦炉を、停止させた。
全てが、遅かった。
「無駄だ」
耳元に響く、低く呻きにも似た声。
途端に、魔理沙の身体を支えてたもの―――――レミリアの小さな体躯が、消え失せる。
揺れ動く視界の中で、魔理沙は捉えた。
辺りを舞う、群れを為した蝙蝠を。
―――蝙蝠化、かよ。
魔理沙は後ろを振り向いた。
蝙蝠が集い、人の形を象る。
色を持ち、表情を持ったそれは、紛れも無くレミリアであった。
残虐に表情を歪め、拳を構えるそれは、紛れも無くレミリアであった。
―――ああ、
―――避けれない。
刹那
砲弾の如き拳が、魔理沙に突き刺さる。波を為す衝撃、激震。骨が、肉が歪む音が、遠く魔理沙に響く。
そして、身体は、吹き飛ばされた。遥か、後方。魔力爆発によって脆くなった壁を、幾重にも突き破り。
魔理沙は、吹き飛ばされた―――――――
… … … …
―――どこだ?
此処は、どこだ?
私は、何をしてた?
何でか、身体が痛い……
私は、何を―――――
何かが胸を這い回る感覚に、魔理沙は目を見開いて咳き込んだ。呼吸する事もままならず、ただ吐くだけの動作を繰り返す。やがて、咽せ返るような熱と、鉄の味の粘液―――――反吐と血とが入り混じったものを、床へ吐き出した。
そうしてようやく、魔理沙は意識を正常にした。
―――此処は……図書館、か……
自分が、無数の本棚が倒れ、折り重なった隙間にいるのを知り、魔理沙は自分の状況を大方知り得た。
―――ひどくやられたもんだな。
息を吸う度に、肋が痛いぜ。
―――だが、意外に動ける……?
―――八卦炉と、箒は?
魔理沙は首だけを動かしたが、それらは容易に見つかった。八卦炉は魔理沙の直ぐ隣で、僅かに赤黒いものを纏いながら、悠然と鎮座していた。形状そのものには、何ら変化は無い。
しかし、箒はそうはいかなかった。所詮は脆弱な木である。真っ二つになった柄の部分だけが、魔理沙の視界の彼方に転がっていた。
―――もしかすると
たまたま箒が拳に当たって、軌道を反らしたのか?
果たしてそれは的を射ていた。さもなければ、魔理沙の四肢は千切れ飛んでいるに違いは無かった。
―――しかし
奴を、レミリアを、どうやって倒す?
―――火力が、絶望的に足りない。
どう足掻いても、『あれ』を使う以外に、奴を倒せる火力が無い。
―――いや、奴は化け物だ。
『あれ』を―――――マスタースパーク使っても、倒せるのか?
形の無い寒気が、魔理沙を抱く。実体を持たぬが故に、振り払うことは叶わない。
応えの無い―――――答えを知ってはならない問いが、魔理沙の中で反響を繰り返していた。
と、そんな時であった。
―――足音!
床から鼓膜を叩く振動に、魔理沙は唇を噛んだ。
―――レミリアが私を探してるのか。
今見つかったら、駄目だ。
箒も無く、勝算も無く、どう戦えばいい?
自分の血反吐の上を、魔理沙は腹這いになり、一心に這う。少しでも本棚の影に寄り、身を竦ませる。その間にも、刻一刻と、足音は近づいてきた。
―――頼む。
見逃せっ……
見逃してくれッ………!
心臓の鼓動。血液のビート。微かに響く呼吸。全てが入り混じり、歪み、朧気に動悸を早める。
足音は近づく。
足音は迫る。
魔理沙の後ろ、横、そして、前。
そして、足音は止まり。
隙間の中を、覗き込んだ――――――
―――畜生ッ―――――――
「貴女は……!」
―――?
戸惑いを明らかにした、儚い声。それ以上の困惑に思考を奪われながら、魔理沙は顔を上げた。
「パチュリー……!」
慌てて、さん、と小さくつけながら、魔理沙はここが図書館であることを思い出していた。
「レミィが貴女を探してるわ」
「貴女まさか、あのレミィと……」
「…………」
魔理沙は黙して、何も答えなかった。
パチュリーは目を細めたが、それ以上は何も言わず、魔理沙の肩に手を掛ける。
「とにかく、怪我も酷いし、レミィも此処に来るわ」
魔理沙は頷くと、立ち上がる。そしてパチュリーの肩に掴まりながら、研究室へ足を進めた。
―――あった。
確実に、奴を倒す方法がッ………!
生温い汗を、その身に滲ませながら。
―――だが、そのためには―――――――
… … … …
「服を脱いで、薬草を、」
「………いえ、結構です」
低く魔理沙は言うと、指先で白黒の三角帽をついた。
どうして?揺れる台詞が、研究室に響いて吸い込まれる。
「貴女は何が狙いなの?何をしてるの?」
……………、
沈黙。葛藤。迷いを含んだ、停滞。
魔理沙は、這うような動きでそこから手を出すと、呟くように言った。
「あいつを……レミリアを倒して、会社を潰せば、図書館は潰れません」
「馬鹿なの!?」
―――また、初めてだ。
こんな、声。
本気で、怒ってる声。
「勝てるわけがないじゃない……ただの人間が、初めから……貴女も、こんなに傷だらけで」
魔理沙は背を向けていて、パチュリーの表情を伺うことは出来ない。
しかし、幻視することは、思考を介するまでも無かった。
「それに、貴女は………」
「貴女は、ただの……赤の他人じゃない……」
何を言えば良いのか。
何を伝えれば良いのか。
魔理沙には、何もわからない。
ただ、今にも掻き消えてしまいそうな声が、深淵に突き刺さる。
―――なら、
―――なら、考えなければいい。
―――私の思うままに、私をさらけ出して、言葉をぶつければいい。
―――今度こそ。
「……パチュリーさん」
震える唇と、震える息遣い。二つが重なり、交錯し、空に胎動を生んだ。
「図書館から廊下に出て、南東の方向に向けて………」
「ちょうど今から十五分後……ほんのずれも無く、十五分後……」
「貴女の最強の魔法を放って欲しい」
「ふざけないで」
空間に決定的な亀裂を刻み、声は響いた。
「何の道理があって、館を壊すような真似をするの?」
「………私を、信じてください」
「一昨日に会ったばかりの貴女を?何の関係も無い、貴女を!?」
怒声が、小さな部屋を揺らす。その中にある、二人も、また。
魔理沙は八卦炉を握り締める。熱を、波紋を、滲ませて。
そして、数拍後。
魔理沙は、息を吐いた。
「この帽子と、八卦炉に誓っても良い。私を、信じて―――――」
「貴女は魔理沙じゃない」
叩き付けられた感情。遂に、パチュリーは叫んだ。
「魔理沙はいない!もう、帰ってこない!」
「未来永劫まで、貴女が生きる限り、それが続くって言うんですか」
「十五年帰ってこなかった。昨日も、今日も!魔理沙は此処にいない」
「それでも、私は――――」
「貴女は魔理沙じゃないッ!」
―――前を見ろよ。
―――私を見ろ、パチュリーッ!
魔理沙は、叫びを上げた。
身を焦がす、熱のままに。
荒れ狂う、衝動の獣のままに。
繕うことも、偽ることも無く。
自分の、自分自身そのままの声を、吐き出した。
「パチュリーッ!」
魔理沙は振り向いて、パチュリーの肩を掴んだ。
その表情が、ありのままに視界を震わす。
―――何だよ。
―――泣いてんじゃないか―――――
「パチュリー」
「私を、信じろ……!」
刹那か。
京兆か。
一瞬か。
不可思議か。
時間と空間が入り混じり、グラデイションが歪む。
横たわる無限。
知覚の彼方。
気づくと、すすり泣く声が、魔理沙の耳を震わした。
魔理沙は何かを言おうとしたが、叶わず、唇を閉じた。
そして程なくして、魔理沙は立ち上がった。
「……死ぬまで借りておく」
消え入りそうに言うと、魔理沙は三角帽を被り、扉に手をかけた。
「………ずるいわ」
「………卑怯よ、そんな、言い方………」
魔理沙は、立ち止まらず。また、振り返らず。
そのまま、扉をくぐり抜けた。
… … … …
「……何処だ」
「図書館にはいないのか……?」
灰燼舞い、瓦礫が重なる中を、レミリアは歩いていた。片手には、禍々しい程にたぎる、グングニルを携えて。翼は爛れ、顔の右に掛けては真っ黒に焦げ付いてる。タキシードなど言うまでもなく、焼き払われた跡を露わにしていた。
最早、表情に余裕は無い。荘厳な殺気を身に纏い、魔理沙を探していた。
「あの一撃をくらって、まさか動けるわけ……」
「どこ見てんだ、蝙蝠野郎!」
遠く、木霊した声に、レミリアは意識の切っ先を向けた。
崩壊し、原型を留めぬ壁の向こう。遠い廊下から、声は響いていた。
「人間様からおめおめと逃げようってのか?そうはいかねえぜ」
「出て来な!墓石でおねんねさせてやるよ!」
何を戯言を。何の感情も無くレミリアは呟くと、煤けた翼を広げた。
空気を震わせ、身を翻し、廊下へ、その先へ舞う。そして図書館からしばらく離れた先に、忘れもしない影を見つけた。
「……まさか、生きていたのね」
「はあ?あんなへなちょこで、死ねって方が難しいぜ」
無論、魔理沙の満身創痍は、レミリアにもわかっていた。足を引きずり、全身に血の固まったものが模様を描いてる。
しかし、だから油断できるものでも無い。本来ならば相手は人間、一瞬で片が付いていた筈だったのだ。故に、レミリアに浮かぶ表情は無い。
「………油断はしない」
「今度こそ、確実に、息の根を止めてやる」
「そっくりそのまま、横っ面に投げてやるぜ、吸血鬼様よ!」
「………死ね」
呟きを合図に、レミリアは跳んだ。光を欺き、刹那を歪めて、グングニルを振り抜く。切っ先は空を掠め、魔理沙の前髪を幾らか散らした。
が、グングニルの刃は、目前である。しかも、魔理沙は後ろに仰け反って、体勢を崩していた。
「これでっ……終わりだッ!」
瞬間
グングニルが、握られ
刃が、魔理沙の心臓を狙う。
寸分違うことも無く、照準を合わして。
そして、グングニルは
「なあ」
「お前、頭悪いだろ」
また、空を切り裂いた。
「………貴様ッ、またッ……!」
グングニルを落とし、目を押さえながら、レミリアが呻きを上げる。野獣の如く絶叫を上げ、身を悶えさせながら。
魔理沙の放った一撃。それは、八卦炉から放たれた、閃光。初め、目眩ましとしたものと、全く同じである。しかし今度は、グングニルを振り抜く刹那である。レミリアに避けることは不可能であり、光条が網膜を、痛覚を直接焼いたのだった。
そして魔理沙は、八卦炉に魔力を圧縮しながら、レミリアに肉迫する。身を弾丸と為し、レミリアに叩きつける。そうして体勢を崩した先に、押し当て、突きつけた。
自らの熱に震える、八卦炉の鼓動を。
「諄いぞ、人間ッ!」
つい少し前の様相が、そのままの焼き増しを繰り返す。捕らわれたレミリアの身体が、蝙蝠となって四散した。無論、八卦炉の魔力は、隣接していた身体を失う。そしてレミリアは、完全に魔理沙の背後を取っていた。
「本当の馬鹿は、貴様だったな」
再び、レミリアはグングニルを握る。燃え尽きる程の魔力を、空間に震わし、刻み込み。ただ、圧倒的な力を、叩きつけんと、砕け散らんばかりにグングニルを握り締めた。
そして、魔理沙は
―――これで、良い
煌々と、笑みを尖らせた。
… … … …
―――あと、三分、ね。
置き時計の鈍い針に、パチュリーは腫れた視線だけを放った。その身体は、脱力し、渇き、萎み、力無く椅子にもたれ掛かっている。研究室に響くものと言えば、時計の発条仕掛けと、彼女自身の息遣いばかりであった。
―――もう、あと、二分。
虚空を覗く表情を、パチュリーは自分で撫でた。まるで、其処にあるかを、確かめるように。
―――信じられるわけがない。
―――信じて良いわけがない。
乾いた涙の軌跡が、パチュリーの爪に引っかかる。しかしそれは幾何の抵抗も虚しく、剥がれて机の上を舞った。
―――あの人は、魔理沙じゃないのだから。
もうすぐ、一分になる………パチュリーは微睡みから目覚めるように、顔を上げて、時計を見た。長い針が、ただ何も考えず、時計盤を昇っていく。一心に、無心に。脇目も振らず、ただ、前だけを見て――――――
―――わかってる。
―――信じられないのは、わかってる。
―――それでも、信じたい。
―――何も考えず、ただ、信じたい。
長針が、短針と身を重ねる。
残り、一分―――――パチュリーは、立ち上がった。
―――私は、馬鹿な女……
―――でも、
私は、馬鹿で良い……!
傍らの魔導書を抱えると、パチュリーは駆け出した。
扉を蹴るように開き、本を、本棚を乗り越えて。足がもつれ、転びかけても、無理やりに踏ん張って。足に追いつくように、パチュリーは走る。
そして、壁の穴から廊下に出ると、魔導書を開いた。一見適当に開いてるが、その指先は正確に頁数を刻んでいる。そうして開いた方陣へ向けて、パチュリーは指で以て紋章を刻み、唇で以て音を詠唱していく。そのいずれもが、疑う余地も無く、常人には到底不可能な速さであった。
―――来る。
あいつは、必ず来る。来てくれる。
八卦炉が飽和を起こす程の魔力が、虚空に白熱色の衝撃を走らせる。破裂せんばかりに、身を踊らせ、光を溢れさせ、力はその解放の前途に立った。魔理沙の、その手の中で。
―――私は、信じろと言った。
だったら、私も
―――あいつを、信じる……!
魔導書が微光を放ち、空間に方陣を象っていく。魔力で形成されたそれは、空間を波打ち、歪め、あるはずの無いものをそこに作りだす。
紅玉、群青、深緑、黄金、紫棘。
五つの曜を司る石が輪を描き、宙を漂う。
―――私に出来るのは、ここまで。
レミィは、友達だった。倒せなんて、本当は言えない。でも、
―――勝ちなさい、霧雨魔理沙ッ!
―――任せろッ
魔理沙はふと、心中に呟いた。
何の脈絡も無く、自らの意思から乖離して。しかし、そのことに、何の戸惑いも感じることは無かった。
そして
二つの輝きが、交錯し、混じり合った。
火水木金土符「賢者の石」
彗星「ブレイジングスター」
魔理沙の手のひらから、暗黒を埋め尽くし、光の火砲が放たれた。レミリアとは逆へ。また、遠く、パチュリーの方へ。廊下の闇を嘲るように、圧倒的な熱が拳を振り抜く。
対する彼方では、賢者の石が瞬く。そうして、全ての石が、一斉に膨大な魔力を放った。
相対する、白熱の光条へ。
次の刹那に、二つは激突した。
魔力の微粒子を散らし、雷電を散らし、迸る熱を重ね合う。火力、魔力の量に置いて、勝ることも無く、敗することも無い。互いを喰らい、蝕み、相殺しあいながら、二つは輝きを増していた。
―――スペルカードの緩衝材に、私を……
自らの役割を悟り、パチュリーは一人頷き、また、微笑んだ。
そして、爆光が辺りへ散らないよう、魔力を込めた手に力を入れた。
パチュリーが目の前にしてる光景を、魔理沙はそのまま幻視していた。目を用いずとも、魔理沙はそれを知覚していた。
―――来た―――――!
瞬間
魔理沙の身体を、有無を言わさぬ強大な力が襲った。
後ろへ、後ろへ。
まさにグングニルを振り下ろさんとする、レミリアの方へ。
「――――――ッ!?」
反応を示す間も無く。身を蝙蝠と化して、逃れる間も無く。レミリアの体躯を、砲弾となった魔理沙が抉る。マスタースパークの反動を推進力として、音速にすら手を伸ばして。
吸血鬼を、人間が砕いた。
―――このままだッ!
―――このまま、叩き込むッ!
無論、廊下の長さにも、限界は来る。しかし、魔理沙は動かない。そのまま、勢いを止めず、レミリアの身体を叩きつける。そしてその勢いで、壁を砕き、飛んだ。
―――まだだッ!
魔力を更に絞り、肉弾は加速した。同じように、壁を砕き、砕き、突き抜け、衝撃を彼方に置いていく。その度、肉が潰れ、骨が断たれ、レミリアの血を吐く呻きが、魔理沙の鼓膜を震わした。
―――行けッ……そのまま……!
が、やがて、徐々に速さが落ちていく。八卦炉の光芒は不安げに揺らめき、瞬きを繰り返す。それでも、魔理沙は止まらない。
―――もう少しだ、もう少しで……
と、肌を裂く空気の変化を、魔理沙は知覚した。景色が溶け、朧気な感覚の中、確かにそれを掴んでいた。
―――ここから先は、出たとこ勝負だ。
魔理沙は唾を呑み下すと、八卦炉に汗を滲ませた。光が、風が、徐々にその勢いを失っていく。しかしそれでもなお、魔理沙は壁を破っていく。
程なくして、魔理沙は八卦炉を停止させた余りある勢いが、残滓を纏って壁を砕く。そして、レミリアと、魔理沙は、叩きつけられて、転がった。
燃え盛る炎、渦を巻く火炎。
爆破された廊下の中へ。
魔理沙の視界を、一面の紅が覆う。吹き付ける熱風が、熱を過ぎて痛みとなって魔理沙を伝わる。その廊下は今まさに、炎上に、焼け落ち、灰になる過程にあった。
―――なんとか、奴をここまで引き摺りこめたが……
私も、不味いな……全身を引き裂かんばかりの痛みに、魔理沙は息を吐きながら、ようやく立ち上がった。無論、盾にされていたため、レミリアの方が遥かにダメージは大きい。しかし、だからと言って、魔理沙が無事な道理も無かった。
―――だが、ここなら―――――
奴を、倒せるッ!
「く、そ、…この程度、では…!」
陽炎の向こうでは、レミリアが、十字架を持ち上げるように、鈍く立ち上がった。片方の翼は折れ曲がり、最早血濡れで無い場所を探す方が難しい。が、そこにある眼光ばかりは、逆に貪欲性を増していた。
「どうした、足が震えてるぜ、レミリア」
「よろけながら言うものだな、人間」
二人の間を、道が出来ていた。崩落に、火に包まれた場に、二人が飛び込んだ勢いで、火が消えたのだった。熱に視界が歪むのを感じながら、再び二人は相対する。
「認めたくは無いわ」
「けれど、最早貴女を人間とは思わない」
「失礼な奴だ」
「私は人間だ」
視線が交わり、それが撃鉄を起こす。
「一人の敵として、」
「普通の人間として、」
「貴女を、」
「お前を、」
『ここで倒すッ!!』
重なったセリフが、合図となった。途端、レミリアは跳躍した。片方の翼が使えなくとも、全身の筋肉を爆発させて、身を躍らせる。拳を振り上げ、魔理沙へ。
一方の、魔理沙は。
ただ、音も無く、八卦炉を構えた。
―――これで決まりだッ
正真正銘、お前の最期だ、レミリア・スカーレットッ!
恋符「マスタースパーク」
二人の遠い距離を、圧倒的な火砲が埋め尽くす。戦闘中、二発目の、魔砲。十五年のブランクはまだしも、魔力補給も今は無い。茨が全身を裂く感覚に身を震わしながら、魔理沙は八卦炉を、さらに強く握り締めた。
「遅いぞ、人間ッ!」
しかし、真正面からの攻撃に、レミリアが反応出来ない筈も無い。足を踏み切り、全身に力を込め、レミリアは―――――
その動きを、止めた。
「……知ってるぜ」
「吸血鬼の弱点の一つが、炎だってな!」
前から迫る白熱の渦。横合いにあるのは、赤々と燃える炎の壁である。
「それがどうしたッ!!」
レミリアは思考も束の間、床を蹴った。迷うこと無く、燃え盛る火の海へと。火炎はあくまで弱点ではある。しかし、再生可能な以上、一瞬で再起不能には至らない。
が、それでも、全身を火傷にさらすことには変わりは無い。それでも絶叫を上げながら、レミリアは、マスタースパークで動けない魔理沙へ手を伸ばした。
「どれだけ傷を負おうが、再生に時間を掛けようが、」
「勝つのは私だッッ!!」
―――いいや、
「そいつは、」
「私の台詞だッ!!」
魔理沙は、無理やりにして、八卦炉を握る手を動かした。
燃え盛る、大地へ。
マスタースパークを、放ったまま。
廊下を象っていた石畳は、一瞬にして蒸発し。
残った床もまた、崩落を起こした。
「そんな、馬鹿なッ!!」
咆哮を上げながら、レミリアは体勢を崩した。足元の廊下が構成を解き、割れて、階下―――――完全に灼熱の世界と化した賭博場へと落ちていく。翼の機能しないレミリアには、空を舞うことは出来ない。
それでもなお、吸血鬼は吠えた。堕ちてゆく足場を蹴り、身体を浮き上がらせ、大地を掻く。そして、ついに。八卦炉を停止した魔理沙の足首を、掴んだ。
「まだだ、まだ終わってないッ!!」
「ふざけろ、レミリアッ!!」
魔理沙の身体を引き摺る、レミリア。
喉を擦切らせてもなお、叫びを上げる魔理沙。
刹那、二つの咆哮が重なり――――――
「暗黒へ――――――」
「――――一人で還れッ!!」
一瞬の差が、明暗を分けた。
もう片方の手を伸ばした、レミリア。
その顎下を、魔理沙の爪先が、砕いた。
真正面の、中心を貫いた、一撃。
如何に人間の物であろうと、痛恨に違いなかった。
指先が離れ、虚空を掻く。しかし、掴める物も、掴む者もいない。
絶叫を残影に棚引かせ、レミリアは、灼熱の彼方に堕ちていった。
―――終わっ、た?
―――勝ったのか。
肩を動かし、灰塵と熱風とを吸い込みながら、呆然と魔理沙は喘いでいた。炎が噴き出す音を、どこか遠くに聞きながら、その場に座り込んでいた。
―――ようやく、私は、勝ったのか。
奈落へ続く縁の上から、魔理沙は賭博場だったものを見下ろす。視線を凝らせど、舞い上がる灰と熱風に、何も見ることは出来ない。そんな事実を確認すると、ようやく魔理沙は息をついた。
―――これで、私も―――――
ぐしゃり
―――何の、音だろう。
幾何も無く、魔理沙は気付いた。
自分の足が、何か―――――手に、掴まれてることに。
その手が、紅蓮の炎を身に纏っている事に。
そして、魔理沙は、絶叫に身を震わした。
ついさっきとはまるで異なる、恐怖そのものを体現した叫びを。
―――痛い、痛い、足が、私のッ!!
最早言うまでも無く、音は、魔理沙の足首の砕けた音であった。
手は、もう片方も大地につくと、その上半身を地表に押し上げた。
全身を業火に燃やしながら、紅蓮の血を噴き出す、その様を。
―――レミリア、まだ――――――そんな思考が頭をよぎる頃には、魔理沙の身体は浮き上がっていた。足首から持ち上げられ、宙を舞い、そうして石畳に叩きつけられた。
―――不死身、なのか……?
朧げに揺れ動く視界の中で、魔理沙はレミリアを見た。叩きつけられた衝撃で距離が離れ、その全貌が見える。レミリアは、折れた翼を無理やりに、血液を蒸発させながら動かして、大地に降り立った。その揺らめく相は、到底あの美しい吸血鬼として見ることは出来ない。レミリアを叩き落とした事実が無ければ、魔理沙もまた、その黒焦げた表情をレミリアとは思わなかった。
―――駄目だ、足を完全にやられてる……
―――しかも、八卦炉が……!
魔理沙は次に、自らの後背に目をやった。叩きつけられた拍子に、八卦炉から手を放してしまったのだ。別段、遠くあるわけではない。しかし、片足の潰れた魔理沙には、遥か彼方にしか思えなかった。
―――八卦炉さえあれば、まだ何とか、
自分の手で自らを引き摺り、魔理沙は八卦炉へ手を伸ばす。
しかし。
背後に響く咆哮が、その指を震わす。
「――――負けない」
「私は、負けない」
「私は、レミリア・スカーレットッ!勝つのはこの私、ただ一人だッ!!」
喉も焼け落ち、最早獣の如く言葉が放たれる。理性など微塵にも感じさせず、ただ勝利を吼える。そしてそれは、徐々にレミリアが近づいてくることを、魔理沙に伝えていた。
―――何か、無いか
―――奴を、一秒でも、一瞬でも、足止め出来るものが……!
―――何か―――――
瞬間、魔理沙の脳細胞は、新たな電流を伝えていた。白熱した思考の棘が、全身を伸ばし魔理沙を覚醒させる。
―――いや、だが―――――魔理沙は思い、呟く。しかし、肩ごしにレミリアを見た後、唾を呑み、手を動かした。
「おい」
「レミリア、聞こえてんだろ」
僅かな震えを帯びた声に、レミリアは見えない視線を送った。無論、魔理沙にもそれは伝わる。
―――私は、生きるんだ。
―――生きるためにやってんだよッ!!
魔理沙は乱暴に笑みを浮かべると、右手に掲げた。
さっきまで、懐に仕舞い込んでいたものを。
遮二無二に丸められた、封筒―――――土地管理証の、一式を。
漆黒に揺れる炎が、明らかに瞳を見開いた。
「そんなに欲しけりゃ、」
「どうぞくれてやるッ!!」
魔理沙は叫び声と共に、封筒を、紙の塊を投げた。レミリアは慌てて手を伸ばすが、熱風に煽られて掴み損ねる。そうして、塊はレミリアの後背に落ちた。レミリアは四つん這いになって跳ね上がると、歓喜の表情を浮かべてそれを掴んだのだった。
火炎を纏った、自らの手で。
途端、獄炎の奥で、何かが青ざめた。封筒についた火を消そうと、懸命に火花を散らし、拳を叩きつける。重ねれば重ねる程、火勢が増していくのにも気づかずに。やがて、火は全てを喰らい。レミリア・スカーレットが霧の湖に土地を所有する事を証明するものは、この世から消え去ってしまった。
「………」
「…………」
「……………ッ」
「――――――ッッ!!」
僅かばかりの理性で以て、レミリアは虚空に吼えた。熱の彼方の双球から、何かを蒸発させながら。そして牙を剥いて、魔理沙の方を向いた。既に八卦炉を掴み、震える足で立ち上がる、魔理沙に。
「……怒ってるよな。そりゃ、怒り心頭ってところだよな」
足首をあらぬ方向に曲げながら、魔理沙は大地に立っていた。弱々しくも、力強く。何度でも、何度でも、そうしたように。
「来いよレミリア」
「今度こそ、終わりにしようぜ」
言い終わると同時に、レミリアは魔理沙へ躍りかかった。これまでの、どの歩みよりも早く、輪郭線を虚空に溶かして。魔理沙もまた、八卦炉を構えていたが、その速さに心臓を握られた。
―――不味い、早過ぎる――――!
「―――――!!」
絶叫と共に向かってくるレミリアに、魔理沙はとっさに、八卦炉を上へ振り上げた。辛うじてレミリアの拳は掠めもせず、空を切る。
しかし、それはただの延命処置に過ぎない。
魔理沙の腕を外しても、未だレミリアが肉迫しているのに変わりは無かった。それを知覚したころには既に、レミリアの腕が魔理沙の肩を掴む。
そして数瞬にして、魔理沙は床に倒され、馬乗りになられていた。
「――――――――ッ!!!」
言葉を失ったレミリアが、音を爆ぜさせ、拳を振り上げる。
―――頼む。
そして亜音速で繰り出された拳が、魔理沙の視界にゆっくりと映った。
―――行け――――――
果たして、魔理沙の祈りは叶った。
八卦炉から放った、レーザー。避けるため、腕を振り上げながら、放ったレーザー。天井に当たり、その一部を蒸発させたそれは。
天井の焼け落ちた一部をを、二人の上に落としたのだっ!
「――――――――!?」
困惑に身を悶えさせながら、レミリアは、自分の身の丈以上の瓦礫の下敷きとなった。無論、拳の一撃が続く筈も無い。唾と血反吐とを吐き、一瞬でそれらを灰にしながら、魔理沙の上に覆いかぶさった。
天井の崩落、レミリアの激突。その衝撃の全てが、魔理沙の内臓を抉り、千切り、血を破裂させる。
しかし
反吐でなく、血そのものを、吐いてもなお
魔理沙は、笑った。
「この距離なら、外す方が難しいぜ」
身を暴れさせるレミリアの腹に、八卦炉を突き付けながら。
「本当に、これで」
魔理沙は唇を噛み締め、血液を重ねながら、全身の細胞を振動させた。底をつき、なけなしでしかない筈の魔力。その奥底を、肉を削り、骨を断って、掘り起こす。
「ようやく、終わりだ」
零の彼方から湧き上がる魔力が、魔理沙の血液を沸騰させながら、八卦炉に辿り着く。回路の中を横切り、回り、昇って、それらは光となった。
「私と、私自身の人生に」
八卦炉に灯ったものの、光は不安げに揺らめき、時折消えては、また点く。しかし、炉と一体と化した鼓動の度に、光は瞬き、そして、輝きとなった。
白熱の中に、黄金を秘めた、輝きに。
「今、決着をつけるッ!」
魔理沙は、遂に叫んだ。戦いの中で使えども、口にしなかった言葉を。十五年の中で、ただの一回も口にしなかった言葉を。
炎を超え、意思を超え、幻想郷を超えて。
空の彼方、地平線の向こうを貫くように――――――
「恋符『マスタースパーク』――――ッッ!!」
瞬間
熱の奔流が、天を仰ぐ
レミリアを、灰塵の彼方に吹き飛ばし
天井を焦がし、蒸発させ
冷ややかな夜風を呑み込み
腕を広げていた雲を、貫いて
『輝きは、天へ昇っていった――――――――――』
「…………」
―――終わった。
本当に、何もかも。
ほぼ確信であることを思いながら、魔理沙は八卦炉から指を離した。人の熱を、それ以上のものを吸った八卦炉が転がって、石畳の上に倒れる。
―――全て、ようやく、終わったんだ。
天井までを貫いた大穴を、仰向けになって除きながら、魔理沙は思う。雲は無い。月も見えない。ただしかし、名も無き星の数々が、それぞれに表情を浮かべて、魔理沙を見下ろしてた。
―――終わったんだ
―――私も。
一寸たりとも動かぬ四肢から、魔理沙は遂に力を抜いた。熱の息吹と、鎌首を上げた炎が、叫びを上げて魔理沙に迫る。
魔理沙は遠くを見た後、音も無く目を閉じた。納得に、動かぬ首を頷かせながら。
―――私は、勝ったんだよ。
―――逃げ出さずに。
―――初めて、本気で、勝ったんだよ。
熱が頬を垂れるのを、魔理沙は知覚した。魔理沙はそれに触れようとしたが、腕はただの物のようにそこにある。そしてそれは、魔理沙の意識の中で蒸発して、最早影も無かった。
―――パチュリー、
思考に呟いて、魔理沙は意識からも手を放した。逃れようの無い暗黒―――――しかし、安堵を含んだそれに、魔理沙は抱かれた。
―――おやすみ、パチュリー―――――――
[エピローグ]
………なんともまあ、阿保らしいぜ……
魔理沙は包帯の下に、薄い苦笑を浮かべた。乾いたウェイブを描く金髪は見る影も無く、幾重もの包帯の下にある。服装こそ血と汗を吸い込んだタキシードのままだが、足首、肋、首筋、彼処に分厚く包帯が巻かれていた。
―――私は、生き残ったのか……今更に悟り、魔理沙は頬を緩めた。
――完全に、死ぬことに納得してたんだけどな……
あれ以上に満足して死ぬには、どうすれば良いんだ?
自分自身のくだらなさに、また魔理沙は苦笑を重ねた。
―――そう言えば、あれは?
ふと思いだし、魔理沙は吊り上げられた右腕を揺らして、胸を撫でた。
―――良かった、そのままだ。
溜め息に息を吐くと、魔理沙は落ち着いて辺りを見渡した。無機質、かつ、純白模様の天井。控えめについた装飾の様式が、此処が紅魔館であることを主張している。隣には、レースのついた仕切りが立っている。そしてその反対には、入り口と、ベッドの際の物置。松葉杖や包帯、薬品類と、三角帽。煤と灰と、紅模様を鈍く光らせて、八卦炉はそこにあった。
―――病室、か。
―――本当に、生きてるんだな、私。
当たり前であった筈のことに、魔理沙は大きく息を吐き。込みあがった熱いものを、憚り抑えた。
と、そんな折であった。
「………起きたのですか?」
レース越しに、儚く、脆い声が響いた。虚を突かれ、魔理沙は声を上げかけたが、何とか平静な調子を取り戻した。いつもの、地声よりワントーン高い声を出す。
「……すいません、どちら様でしょうか?」
すると、隣の声は、実に小さく、力無く、笑いを震わした。一瞬では、笑いと分からぬ程に。
「こちらこそ、すみません……別に、貴女を知ってるわけではないんです。ただ、暇を持て余していて」
そう聞いて、魔理沙は意味も無く硬直させていた身体を解す。
「いいえ、そう言うことならどうぞ」
「そうですか……ありがとうございます」
「それと、もう少し、大きな声をお願い出来ませんか?」
―――ん?
何か、何だ?
この―――――変な、違和感は?
ふと浮かんだ疑問に、魔理沙は目を細めた。が、特に危機感を抱くものでも無く、魔理沙は唇を軽くした。
「耳を悪くされてるんですか?」
「ええ、昨日の、火事の最中……ちょっと」
「それは御不幸に……かく言う私も、そんなところですが……」
―――事故と言うかは、解釈によるがな。
「もし貴女を知ってても、声色が良く分からなくて、どうにも……おまけに、喉もやられて」
―――それだけ、か?
萎びた声に、それ以上のものを感じたものの、魔理沙は口に出すことはしなかった。
「多分、貴女は私を知ってると思います……声も、何も、これじゃあ分かりませんが」
「そうですか?何か、申し訳ないです」
「いえ、良いんです……」
魔理沙はいよいよ、訝しい感情を露わにした。
―――一体何者なんだ?さっぱり分けが分からん。
相手の耳が悪いのを思い出し、魔理沙は何もついてない左手を動かした。レースを少しずつ動かし、眼球を傾ける。
そうして、魔理沙は見た。
……………、
全身を隈無く―――口元を除いて、包帯に巻かれた、人物を。背丈は小さく、華奢であったのがわかったが、分厚い包帯のせいで不格好な人形のようになっていた。その身体は気だるそうに横たわり、身じろぎ一つしない。
しかし
魔理沙を凍てつかせたのは、『そんなこと』ではなかった。
―――どうして。
―――何で、お前が――――
包帯の隙間、背からはみ出るもの。それらにもまた、幾重にも包帯が巻かれていた。
明らかに、翼の形をしたものに。
朧気に、蝙蝠の形をした翼に。
―――レミリアっ!
叫び出しかけたのを無理やり抑え、魔理沙は呼吸を止めた。
―――生きてるのは分かる。あれだけやられたってな。頭を吹き飛ばされても、吸血鬼は生きてる。
だが、何故隣に?
と、魔理沙は反射的に、レースカーテンを閉じた。
開く気配も無かった扉が、音も無く開いていた。
そして魔理沙は、また口を抑えることとなった。
―――パチュリーッ!
「起きたのね、貴女……」
小さな声で言うと、パチュリーは魔理沙の耳元に顔を近づけた。意外な距離に、胸に圧迫を覚えながら、魔理沙は囁きを聞いた。
「………隣が誰か、分かるかしら?」
「もう知ってる」
「………そう」
パチュリーの、束ねられた髪の香りを感じながら、魔理沙は囁いた。
「どうして、私はここにいるんだ?」
「私が貴女たちを探しに行って、火の中から引きずり出したの」
「……良くやるもんだぜ」
「………本当に、心配だったんだから……」
魔理沙は何かを言おうと、口を開きかけた。が、その前途の途中、パチュリーは顔を上げて、レースのカーテンの向こうに視線を向けた。
「貴女が悪いわけじゃないわ」
「…………、」
「でも、レミィは今、ボロボロなの………」
「………御話は、あとね」
「聞きたいこと、沢山あるから……」
パチュリーはそう言ったきり、レースカーテンの向こうへ消えた。
「具合はどう?レミィ?」
「………パチェ」
レミリアは呟くと、回らぬ首を倒した。パチュリーとは、反対の方へ。
「………図書館なら、もう良いわ」
「違う、そんな話しをしたいんじゃないの」
「もう、会社は終わりよ……」
「終わったの、何もかも……」
咳き込み、喘ぎ、身体を跳ねさせながら、レミリアは話すのを止めない。
「口座帳も、土地の管理証も、何もかも失った」
「私こそ負け犬よ……」
「……それで、良いじゃない」
包帯の下で、目が見開かれたのが、パチュリーにもわかった。
「昔の貴女に、口座帳があった?土地の管理証があったかしら?また、前に戻るだけよ」
「前に戻る?無理よ」
「何もかも、変わりすぎた」
「それに………」
レミリアは青白い唇を、元のように収めた。沈黙の下に、目を伏せる。
「フランはもういない、かしら?」
「………!!」
そんなレミリアの横面を、パチュリーは強かに叩いた。突き刺さる、言葉によって。
「貴女には、今がある。貴女を慕うメイド達が、咲夜が、私だって、隣にいてあげる。その誰が、貴女の言うのに刃向かうの?」
「何かで忘れられるより、ほんの時々思い出してもらった方が、フランだって喜ぶ筈よ」
「お茶なら幾らでも付き合ってあげる」
「ロケットだろうが、プールだろうが、幾らだって作ってあげる。だから――――――」
気づけば。
ふと、気づけば。
声を震わしているのは、パチュリーの方であった。
「これでも、貴女の『友人』なのよ……?」
遂にレミリアは、パチュリーの方へ首を向けた。目は開かず、闇を見ていても、その視線は揺れる事を知らない。
「貴女は……」
「図書館を出ていけと言った私を、『友人』と言ってくれるの?」
「ええ、呼ばせて」
「貴女の力になってあげられなかった、そんな現実から逃げてた私にも……貴女をそう呼ばせて………」
パチュリーは手を伸ばすと、レミリアの、包帯だらけの手を握った。そしてレミリアがそれを―――――握り返したような、気がした。
「……館の屋根が無くても良いかしら?」
「みんなで図書館に住めば良いのよ」
パチュリーは、微笑み。
レミリアもまた、微笑みを返した。
金属と、金属の、擦れ合う音。僅かに耳に残った音に、パチュリーは顔を上げた。気配を察し、レミリアも視線を上げる。
「どうかしたの?」
「………ちょっと、待ってて」
何故だか、自然にそう言うと、パチュリーはレースカーテンを開いた。
―――予感は、していた。
―――でも、こんな―――――
レースカーテンをくぐった向こう。あるはずの人影は無く、未だ温度を残したベッドばかりが、虚しくそこにあった。八卦炉も、三角帽も、松葉杖も無く。開かれた扉ばかりが、揺れを残していた。
―――貴女は、また、いなくなるのね。
パチュリーから、溜め息が漏れた。
落胆も、悲壮も含まず。
ただ純粋な、熱い感情を込めたものが。
―――泥棒が、聞いて呆れるわ。
何もかも、置いていって―――――
まだ温かいベッドのシーツを、パチュリーは撫でた。そして、掴み上げる。
紅魔館その物の、土地管理証を。
膨大な金額の記された、預金通帳を。
―――貴女の御陰で、今を見れた。
私も、レミィも。
まだ、お礼も、言えてないのに。
―――でも、
訝しむレミリアの声を遠く聞きながら、パチュリーは扉の向こうを幻視した。
三角帽を被り、八卦炉を握った、影法師を。
―――間違い無い。
―――貴女はもう、魔理沙よ。
―――ありがとう、魔理沙――――――
… … … …
『株式会社スカーレット自主的な解体へ
先月、爆破事故によって重傷を負っていたレミリア・スカーレット氏(515)は、退院後初めて記者会見を開いた。
スカーレット氏は「やりたいことは十分に終わった」と述べ、自主的な会社の解体を発表、自らは隠遁生活に戻るとした。
これに関しては各界からの波紋も大きく、ボーダー商事社長八雲紫氏は記者に向かって、「資産が無くなって倒産、とも言われてるけど、意外とあれが本音じゃないかしら」と、軽妙な調子を返していた。しかしその一方で氏は、スカーレットの所有していた土地をいち早く買い上げたことで、何らかの関係性を論じられている』
「………………」
蝉、蝉、蝉。
合唱が響き、木霊し、包む公園。街の大通りにも遠く、住宅地にも近くはない公園は、人のいないことで有名である。故に、既に取り壊しが決まっていた。が、それは夏が終わってからの話しである。今はまだ、僅かばかりの遊具と、ベンチを、簡素な街路樹に囲んでるばかりであった。
コンクリートの陽炎の中を、あまりに不自然な存在が歩く。日傘、ナイトキャップ、扇子。全身の彼方此方に紫と、少しの白を散りばめた様相。整った顔立ちに、妖艶な笑みを浮かべながら、彼女は公園を歩く。
そして、ベンチの前で立ち止まると、新聞を読む隣に座った。
「…………、」
「御機嫌如何かしら?」
新聞に顔を隠す人物―――――霧雨魔理沙は、新聞を畳み、ゴミ箱へ戻した。三角帽の下の、包帯のさらに下、至極不機嫌に表情を歪めながら。
「………お前、歩くこと、あるんだな……」
「更年期の嗜みよ」
嫌みに笑みすら浮かべる彼女――――八雲紫に、魔理沙はぶっきらぼうに言葉を続ける。
「何の用だ、あれから一ヶ月、音沙汰も無くて」
「あら、観察はしてたわ。一方的にだけれど」
―――気色悪い。
かなり本気でそう思いながら、魔理沙は紫を見た。からかう色はあれど、少なくとも、嘲りの色は見えなかった。
「あれで良かったの?」
「……は?」
「戦ってる最中に、封筒から抜き出した、通帳と諸々……」
「ああ、あれか」
紅魔館に置いてきた二つを思い出しながら、表情を一層歪めた―――――至極、決まり悪そうに。
「あいつら、知ってて泣き落としたに違いないぜ。あれだけ言われて、まともに使う気になるもんか」
「でも、泣き落とされたのは貴女よ」
―――図星だよ、畜生。
「しかもそれきり、会いにも行かない」
…………、
いい加減、平静を保つのが難しくなった魔理沙は、紫へ乱雑に言葉をぶつけた。
「それより、私に『覚えてろ』って言ったのは、何だったんだ?」
「終わり良ければ全てよし、かしら」
新聞の内容を思い出しながら、魔理沙は思った。
―――やはり、こいつは嫌いだ。
そして魔理沙は松葉杖を抱えると、立ち上がった。
「これから、貴女はどうするのかしら」
「知らん」
「……考えてない、ではなくて?」
「ああそうだ」
開き直った調子で、魔理沙は歯を剥いた。
「考えたって仕方の無いもんは、考えなくたって一緒だ」
「良かったら、また仕事はあるけれど」
「もう一生御免だ」
そう、と、小さく紫が言うのを、魔理沙は聞き流さなかった。そして、でも、と言うのも。
「自分を立てて、抗って、何者にも服従しない……そんな生き方、必ず限界が来る」
「それならそれで良い」
「私は、『それでも』と言うだけさ」
―――諦め悪く―――――どこまでも、しつこくな。
と、紫も立ち上がり、日傘を揺らして空間をなぞると、スキマを生み出す。そしてそこに腰掛けながら、頬杖をついた。
「ところで、魔理沙」
「その恰好は、少しナンセンスだと思うわ」
僅かに色がかかったタキシード。皺の刻まれた革靴。そこに居座る、高い三角帽が、チープさを際立たせる。おまけに松葉杖と包帯がセットでは、まともな人物に見える方がおかしかった。
それでも
魔理沙は、高く笑った。
「これで良いのさ」
―――この方が、私らしくて良いぜ。
魔理沙は松葉杖を突き、歩き出した。スキマの前を通り過ぎ、公園の入り口へ。その背中を、また声が叩く。
「本当に、これからどうするのかしら?」
「知らないったら知らないんだよ、畜生ッ」
―――いや、
少し、僅かばかりに、沈黙したあと。魔理沙は、口を開いた。
「……確実なことなら、一つだけあるさ」
「誰が何と言おうが、何をしようが………」
「……私は、私だ」
―――私は、霧雨魔理沙だ。
これまでも。
そして、これからも。
魔理沙は踵を返して、歩き出した。
入道雲を超えて頭を出す、太陽へ。
純白の雲の漂う、快晴の空へ。
this is not the end.
to be continued.....
作品情報
作品集:
8
投稿日時:
2013/06/29 15:00:05
更新日時:
2013/08/01 18:36:24
評価:
11/17
POINT:
1150
Rate:
13.06
分類
産廃創想話例大祭A
魔理沙
パチュリー
紫
レミリア
『幻想郷は、変わった――――』
彼女の15年越しの紅魔郷はここに完結を迎えた。
どこもかしこも澱み黒くて嫌な世界だが、彼女が活躍するにはこういう世界でなくてはならないですね。
取りあえず、霧雨魔理沙(31)お前の体は歳をとってないのか?
肩書きの無い、身分に囚われない孤高の自由人の意地、魅させていただきました。
幻想を捨てた負け犬の、最後の一吼え。
いかにも乙女のハートを盗んだ、奇策好きの魔理沙らしい、泥臭いケリのつけ方でした。
所々挟まれる、早苗の物らしき演説の言葉。
『発展』という変化をし続ける幻想郷に対しての他に、
あれ、魔理沙に対しての餞の言葉でもあったんですかね。
最後に。
ゆかれいむよ、永遠なれ。
もう何も言えねえ
本当の意味で生きて行かないといけない、終わりまでな
不器用な生き方が光っていました
なんだろう。一貫したダウナーな流れの中にちんぴらリグルくんをはじめとしてどことなくナンセンスな笑いに満ちていて、魔理沙の最後のあがきが逆にナンセンスなのにたくましくポジティブに見えてくる。基本的にどのキャラもアホの子的な雰囲気を残していてそれが好き。文章的にもシリアス一辺倒なのに何故か柔らかい幻想郷好きです。