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『産廃創想話例大祭A「胡蝶のナイトメア」』 作者: さんぴょん
紅魔館の図書館―――整理されてはいるが、埃が舞い積もり古書特有のカビのにおいに満たされた空間は蔵書室といった方が的確かもしれない―――フランドールは暇が出来、此処へ訪れる度に思うことだ。
見下ろしているかのような高さの本棚、黒や紅などの仰々しい色合いをした魔術書の数々。魔法使いが見れば垂涎の的であるのは違いないのだろうが、フランドールにとってはどこか恐怖を感じさせるものに過ぎない。むしろ彼女にとっては鮮やかな写真に彩られた図鑑や文庫本程度の小説の方が趣向に合っている。
幸い、此処の図書館は雑食であるため、本の体裁をとっている物なら大概のものが見つかる。小悪魔に頼めばすぐに持ってきてくれるし、パチュリーほどではないにしろ本を好む彼女にとって居心地のよい場所であることは違いなかった。
図書館の中心部には紅いテーブルクロスがかけられた長机が一つに椅子が、数えられるほどではあるが、置かれている。パチュリーとフランドールは互いに向かい合わせに座り、思い思いの本を読んでいた。
パチュリーは魔道書を体操座りの体勢で膝に立てかけるようにして、フランドールは文庫本ほどの大きさの小説を机に広げながら、紙の擦れる音だけが響く中、自らのペースで読み進めていく。
「ねぇパチュリー」
フランドールは顔を上げ対面のパチュリーに声をかけた。その表情はどこか不安気なものであり、上目遣いに見つめている様子は何かに縋りたがっているようにも見える。
それもその筈で、彼女が読んでいた小説はホラーサスペンス物。感受性の強い、純粋な彼女にとってはすこし刺激的な内容だったのだろう。
「なに?」
パチュリーは体勢はそのままに本から目を離すこともなく応答した。
フランドールには変わらず顔を本に埋めているパチュリーしか見えず、それは彼女の欲していた反応とはかけ離れていたものだろう。
「いや、なんでもない……」
「?」
その時パチュリーは初めて本から目線を移したが、少し遅かったようで、フランドールは既に椅子から下り、寂しそうに背を向けていた。
「ちょっと」とパチュリーは声をかけるが、目もくれず「本を変えてくる」と、そのままトボトボと歩みを進めていった。
パチュリーは傍で紅茶のおかわりの準備をしていた小悪魔を呼びつけ、フランドールについていくように言うと、察した小悪魔は長い赤髪を翻してフランドールを追いかけていった。
しばらくしてフランドールに追いついたのを見届けると、パチュリーは再び魔術書に目を戻した。ドタドタと慌ただしい足音が遠くなっていく。
「ちょっと妹様待ってくださいよー」
「なによ。本を探すんだから邪魔しないでよ。別に一人でも探せるし」
「まぁまぁ。折角の司書の腕の見せ所なんですから、どんどん頼ってくださいよ」
「……じゃあ適当に見繕ってよ」
すると小悪魔は「これがいいですかそれともこっちの方が」といつ準備したのか、あれやこれやと本を推してくる。それは、レミリアが好む漫画だったり絵本だったりが多く見受けられた。
対するフランドールは自分から頼んだものの、小悪魔の推薦図書には上の空で別のことを考えていた。
先ほどの小説の内容のことだ。身近だった者が豹変し、気狂いのように襲いかかってくる場面、どこに自分に仇なす者がいるのか分からない怖さ、培ってきた信頼すらも一転して瓦解する呆気なさ―――思い返しても身震いする。それくらいフランドールにとって衝撃的な内容だった。
「この本なんて以前レミリアお嬢様がお腹を押さえて笑いながら転げ回った挙句に調度品を壊してしまうくらいの出来で、って妹様?」
次読む本はもっと楽しいモノにしようかな―――とフランドールは思案を巡らせていた。未だに本の世界に引き込まれていた。少なくとも目の前が見えないくらいに。
「ちょ、ちょっと妹様! 前見ないと危ないですよ!!」
「え――――――ッ!?」
それが災いした。フランドールが気がついた時には、目の前には本の表紙が広がっていて、進む勢いを緩めぬまま衝突した。
吃驚し、尻餅をつき頭を押さえて痛がる暇もなく、頭に新たな衝撃が落ちてきた。なまじ図書館の棚が尋常ならぬほど高いことがさらなる不運だった。辞書のような重さの本の落下の衝撃を頭で受け止める術もなく、フランドールは意識を手放した。
小悪魔の叫ばれた呼び声はフランドールに届くことはなかった。
「う、ん」
「ああパチュリー様! 妹様が起きましたよ!」
気だるい頭痛に意識を覚醒させられ、目を開けると心配そうな顔をした小悪魔の姿がまず目についた。表情を一変させるやいなや傍にいるパチュリーに大声で呼びかけると、パチュリーは「聞こえているわよ」と顔をしかめながら読んでいた本を閉じてフランドールの下へと歩み寄ってくる。
その間も頭痛に襲われ続け、おもむろに頭を押さえると包帯が巻かれていることに初めて気づいた。
次いで周りを見渡すと、自室のベットに寝かされていると気づき、小悪魔かパチュリーがここまで運んできてくれたのだと申し訳ない気持ちになった。
「大丈夫? 流石に重い物の落下の衝撃には吸血鬼も耐えられなかったかしら。医者が必要なら呼ぶわよ?」
「う、うん大丈夫。えっと、そのパチュリー……」
誰かに施しを受けて申し訳ない気持ちになった時にはありがとうを言うものだと教わっている。今がまさにその時なのだろう。しかしいざ言うとなると恥ずかしさがついてまわってくる。見知った者であれば尚更だ。
どう切り出そうか、早く言わないとパチュリーがそっぽを向くかもしれない、そう思い恥ずかしがって俯かせていた視線をパチュリーに戻すと、相変わらずのポーカーフェイスぶりだった。
慣れない状況に鼓動を早めながらも、悩むくらいなら早く済ましてしまおうと覚悟を決めたフランドールはパチュリーに改めて向きなおり口を開こうとした。
「妹様紅茶をお持ちしました―――っと」
紅茶のカップを乗せたトレイを持った小悪魔が何かにつまづいたかのようにバランスを崩し、トレイは宙を舞い紅茶はものの見事にフランドールの頭へと浴びせられた。カップが床に落ちて騒がしい音をたてて割れる。脊髄反射で注ぎたての紅茶の熱さに悶えるが、それだけにとどまらない。
宙に浮いた液体は地へと流れだす、流水は厳禁ともいえる吸血鬼には酸を被ったかのような鋭い痛みが襲ってくる。フランドールは次第に強まる痛みに断末魔の如き悲鳴をあげる。
異常なほどの煙が生じしばらく激痛に転げ回った後、フランドールは呻き声を漏らす。服は濡れ跡ができただけだが、腕など肌が露出した部位は火傷とも爛れとも思える生々しい傷跡が見受けられた。
「うぐ―――いったぃ……このッ!」
フランドールは痛みからの防衛反応からか、咄嗟に小悪魔に向けて右手を向けてしまった。ふと小悪魔の顔を見ると後悔と怯えが混ざった表情をしていた。
そこでハッと気づき、右手を下ろす。むやみやたらに能力は使ってはならない、破壊すると悲しむ者がいるのだと、物心ついた頃から散々言われてきたフランドールは思い直したのだ。
しかし体中の痛みは和らぐことはない。特に怪我をした頭には滲み、筆舌に尽くしがたいほどであった。
「何してるのよ未熟者。おっちょこちょいにも程がある」
対しパチュリーは至って平静な様子だった。流石に長年お姉さまの友人をしているだけある、と頼もしくも少し寂しくなった。
そういえば医者は必要かとパチュリーが言っていたことを思い出した。流石にこの痛みを抱え続けるのは辛い。
「ね、ねぇパチュリー、医者はいいんだけど痛み止めとかってないかな?」
「痛み止めねぇ」
パチュリーは考え込む。紅魔館は人外ばっかりだし薬の類はないのだろうか。でも万が一に備えて用意してあるのかもしれない。激痛に悩まされる頭を押さえながらフランドールは答えを待った。
しばらく待つと閃いたのかパチュリーは背を向けた。薬箱の類は近くには見えない。代替となる方法を思いついたのだろうか。パチュリーは初め座っていた席から置いていた本を持つと、フランドールの方へ戻ってくる。
その顔は薄く笑っているように見えた。
「妹様、その頭の痛みが気にならなくなればいいのよね?」
フランドールの様子を察してか、気になる箇所をピンポイントで当ててきた。普段ならただ頷いて従うのだが、パチュリーの口角を釣り上げた笑みを見ると背筋が凍る感覚がした。直感で頷くのはまずいと思った。
そんな顔から目を逸らすことのできないまま言いあぐんでいると、パチュリーは構わず続ける。
「その痛みをさっぱり消すのは無理でしょう。でも、そう例えば百を無限大で割れば零になるように、無くなったように見せることは可能。ならば、私達は例に従いましょう」
「えっと、つまり」
どういうこと、と続けようとした言葉は喉に詰まった。
パチュリーは手に持った分厚い本を思いっきり振り上げている。パチュリーは依然として薄ら笑い、フランドールにはその瞬間が止まったかのように見えた。間もなくして、それは振り下ろされる。焼け爛れたかのような傷が残る脚をえぐる様にして。
何をされたのか、それを把握すると、押し寄せる波のように激痛は遅れてやってきた。
神経が露出した部位を強烈に刺激されたことで、頭の痛みも上書きされた。一室に響く悲鳴も先ほどとは比べ物にならない。
「どう、頭の痛みも気にもならなくなったでしょ。そういえば壊れた機械って叩くと調子が良くなったりするんだっけ」
パチュリーの言葉もフランドールの頭に入ることはなかった。悲鳴の後、喉は枯れ、脳で処理しきれない痛みは掠れた喘ぎ声となってフランドールの口から吐き出される。
こんな酷いことを、どうしてパチュリーがするのだろう。何かいけないことをしたから? 覚えがない。何も壊してない。ありがとうを言いそびれちゃったから? だってそれは……
小悪魔の方へ視線を移すと先程の怯えた表情はどこへやら、笑顔でパチュリーの方へ何かを持ってきていた。
「パチュリー様〜これなんて役立つんじゃないでしょうか〜」
「ポット? フフフ、そうね少量の紅茶でできた傷は多量の紅茶で流すのが道理かしらね」
パチュリーはポットを受け取りフランドールの方を見据える。声は出ないが、フランドールは涙目で訴えかける。
やめてよ。おかしいよ、そんなことされたら死んじゃうよ? パチュリーも小悪魔も、優しかったのになんで急に変わちゃったの?
ああ、そういえばあの時に見た小説もこんな変わり様だったなぁ、とポットを傾けるパチュリーを見て、来たる痛みに備えフランドールは涙を滲ませ思いっきり目を瞑る――――――
体中を強ばらせながら時間だけが過ぎていく。紅茶の熱さも流水の痛みもいつまで経ってもやってこない。怖かったが、ゆっくりと瞼を開けると真っ暗闇だった。金縛りにあったかのように体がずっしりと重い。
死んじゃったのかな、と洒落にならないことを思っていると微かな音が聞こえてきた。体は動かせないまま視線を左右にさまよわせるが、変わらず光明は見えず黒一色である。
次第にのしかかる重さが軽くなっていくことに気づくと、雲の切れ間から光がさしてくるような錯覚を覚えた。急な明るさに目をしかめる。
段々と慣れてきて周囲の状況を把握する余裕が出てくると、まず気づいたのが悠然とそびえ立つ本棚。体を起こすと、ドサドサと何かが自分の体から床へと落ちた。
腕を動かす余裕が出てくると、自分を押さえつけていた物を手に取る。それは奇妙な文字が刻まれ、そこから微妙な光を放つ分厚い魔術書だった。床を見ると本があちらこちらに散らばっていた。
なるほど、私は本に埋もれていたのか―――そう気づくやいなや、フランドールは何者かに背中を抱きしめられる。周囲の状況の変化についていけず、フランドールは背筋を伸ばし、肩をビクッと跳ね上がらせる。
「妹様ぁ〜!! もう、よかった、本当に心配したんですよ……」
顔を傾け流し目で見ると、小悪魔が目に涙を浮かべながら抱きしめているのが見えた。
普段なら人肌の温かみから安堵の感情を得ただろう。しかしフランドールはそこに恐ろしい既視感を覚える。
正直なところ何が何だか把握しきれない。あんなに酷い仕打ちをしたのに、なんで小悪魔はこんなに優しくするのか。……また豹変してしまうのか、だとしたらこれは油断させる為にやっているのだろうか。
疑心暗鬼に陥りながらも自分の体を見てみると、見るに耐えない傷跡は綺麗さっぱり、まるで最初からなかったように、消えていることに気づいた。いくら吸血鬼と言えど、流水で出来た傷はそうそう簡単に治らないはずなのに。フランドールはますます訳がわからなくなる。
「ちょっと、騒々しい音がしたけど何やってるのよ」
「あ……ぅ」
パチュリーがやってきた。散らばっている本とそこに埋もれているフランドールを見て訝しげに目を細めている。
フランドールはいよいよ気が気でなかった。トラウマじみたデジャヴが脳裏によぎる。パチュリーの手には本が、奥に目を向けてみると大机に置かれた紅茶のカップが。あの時の痛みが再来する錯覚を覚えた。
パチュリーの顔を見続ける。いつもの気だるげな表情だ。気味の悪い微笑を浮かべやしないか、目を逸らすことができず、小悪魔に抱かれたまま身動きも取ることができない。この震えは小悪魔の嗚咽によるものだろうか、それすら判断する余裕もない。
「そんな所で大事な本を散らかして貴女たち一体……」
「ぃ、いやこれは違うの、その」
パチュリーは目下の散らかった本やむせび泣く小悪魔も奇妙だとも思ったが、挙動不審とも戦々恐々ともとれるフランドールの様子に特に違和感を感じ取った。顔の筋肉を硬直させ怯えた表情をこちらに向け続けるのはどう考えても異常だ。
何か原因となるものがあるのではないか、パチュリーは周辺に目を向けるとフランドールが持っている魔道書が目に付いた。
それを見てパチュリーは明らかに吃驚した様子で目を見開いた。妖しげに光彩を放つそれは何かしら魔道書としての効力を発揮している証拠だ。
あの本は何だったか、恐れていたパチュリーの急な表情の変化に慄くフランドールをよそにパチュリーは検索を開始する。―――すぐに答えに思い至った。
「妹様!! その手に持っている魔道書どうしたの!!」
「ひっ!」
咄嗟に持っていた本を手放した。本はドサリと力なく床に落ちる。不安を煽る異様な輝きは依然として失われない。
滅多に聞かないパチュリーの怒声に怯えるフランドールはもちろん、小悪魔も驚き主の方へ顔を向ける。眉間に皺を寄せ感情的になっているパチュリーに平時の冷静沈着な態度は見る影もない。
怒鳴ってすぐに、今にも泣き出しそうになっているフランドールを見てパチュリーはハッと思い直した。努めて優しい声で問いかける。
「あ、そのごめんなさい妹様、いきなり怒鳴っちゃって。ただその本、どこから持ってきたの」
「し、知らない、いきなり本に埋もれて手にとったのがこの本で」
「いきなり、埋もれて……? 一体どういう状況に」
「そのパチュリー様」
フランドールに回していた腕を解いて小悪魔はおずおずと声を発した。涙の跡は拭われて見えないが、目は若干赤らんでいる。
小悪魔はフランドールが本棚にぶつかり落下してきた本に当たり、そのまま埋もれたことを説明した。身振り手振りで必死に状況を伝えようとした。
しかしパチュリーは頷きながら聞いてはいるが、どこか上の空で目線は例の本へと向いている。苦々しい顔をしながら思案にふけっている。
「―――ですので決して妹様に悪気があったわけではないのです、私の不注意に依るものなのでどうかお叱りなら私に」
「状況は飲み込めたわ。だけど責任の所在、誰が悪いかそんなことは瑣末な事。とにかく今は目の前の……非常に面倒でマズイ事になった」
「一体何があったと」
小悪魔の問いは流れとして至極当然のものであった。パチュリーはそれを制して例の本のそばに、即ちフランドールのそばへと近づいていった。
フランドールは近づいてくるにつれ怯えた。まだあの時の感覚は霞むことなく生々しく刻まれている。今すぐこの場から離れたいと思った。しかし足がすくみ逃げることはできない。
「妹様、怖がらなくてもいいのよ。私は何もしない、ただ一つ質問をするわよ」
先ほどと同じ、子どもをあやすような声で語りかける。
「さっきまでどんな"夢"を見ていたの?」
小悪魔はもちろんのこと、当事者であるフランドールもキョトンした顔を向ける。
ゆめ? 夜眠る時に見るあの夢のことだろうか。それが今と何の関係があるというのだろうか。
「恐らく悪夢の類だとは思うけど、今そんなに怯えてるのを見るに、私たちが関係してそうね。言い方を変えるわ、どうしてそんなに怯えているの?」
「え、ええと、それは」
つい言いあぐねてしまう。果たして正直に言っていいものか、信じきっていいものか、恐れと不信感からそうするのは躊躇した。
馬鹿正直に言ってしまったら、気分を損ねて酷いことをされはしないだろうか。
視線を外しうつむいたり、キョロキョロと明らかに挙動不審な態度をとるフランドールを見てパチュリーはさらに続ける。
「もっと単刀直入にいいましょうか、貴女は私たちに何をされたの?」
「…………」
「心配しなくていい。貴女が私たちにされたこと、それは夢よ?」
「ゆ、夢って、あんなに痛かったのが夢? すごく痛かったのに?」
傷跡などは確かにない。だが脳に刻まれた痛みは再生しようと思えばできるくらいには、如実に残っている。
楽しい夢を見て、目が覚めてそれを誰かに伝えようと思ったが上手く表現できない。起きてしばらくしたらどんな内容だったのか忘れる位に、夢とは曖昧模糊なものではなかったか。
「それくらいリアリティがあったということね……いい? 気をしっかり持ちなさい、貴女が今いるここは紛れもない現実よ」
パチュリーはフランドールの目をハッキリと見据えて諭す。
夢……だったのだろうか。でも夢の痛みにしてはあまりに衝撃的、いやそれよりも、大事なのは―――
「本当に? パチュリーはもう酷いことしない?」
「ええ。でも、落ち着いて聞いて。貴女が今持っているその本、それは非常に危険なものなの。今その影響を受けてしまっている」
自身の手にある本に視線を移す。異彩を放つその本は、不気味に見つめているかのようにみえた。
コレに影響を受けるとは、即ち。
「私、コレに呪われちゃったの?」
「率直に言うと、その通りよ」
「そう、なんだ。あれは悪夢だったんだ。いいよ、私ならこんな本なんか簡単に壊せるから」
本から"点"を取り出す。その不気味な雰囲気にふさわしい、真っ黒に輝く点だった。それを開いた右手へと移す。
あとはこれを、握りつぶせばおしまい―――
「やめなさい妹様!」
慌てたパチュリーに右腕を取られる。黒い点は右手から逃れ、元あった位置へと戻っていく。
「呪いは媒体を絶っても消えるわけではない、言わば本とは呪いの入れ物。それを壊しては取り返しのつかないことになるかもしれない」
右腕を取ったままフランドールを諌める。事はそう単純ではなかった。
あくまで冷静に客観的に状況を述べるパチュリーだが、当事者であるフランドールにとってはそんな余裕もない。むしろ、パチュリーの態度が冷徹とさえ見えてくるほどだった。
空虚な右手を握り締めながらうつむき呟く。
「じゃあどうすればいいの」
「現状ではどうとも言えない。呪いを解く方法をまず探さないといけないから。時間をかけて研究すればいずれ見つける自信はあるけど……それまで妹様には我慢を強いることになるわ」
「……どんな我慢? またあの痛い悪夢を見ないといけないの?」
「そう、ね。こうなったら仕方がない、呪いの概要については説明しておいた方がいいわね」
パチュリーは一息ついて言葉を紡ぎ始める。
「端的に言えばそれは悪夢を見せる呪い。ただし単なる悪夢とは一線を画す。決定的な違いは夢を夢と認識できないこと。妹様はその恐ろしさは身を以て分かってるはず」
「起きても何が何だか分からなかったよ、痛かったのもハッキリ覚えてる」
「感覚も全く現実と遜色のないものになる、それも恐ろしい―――でも何よりも恐ろしいのは、妹様が私たちを怖がり避けたことにある。たぶん妹様が見たのは私たちに何か悪いことをされた悪夢のはずよね?」
「う、うん。紅茶を零されたり本で殴られたりした」
「そして目覚めた時、私たちに対する恐怖や不信感をそのまま夢から持ってきてしまった。悪夢は好き放題する、なのにそれに抗うことは難しい。抗ったその時が夢ではなく現実だとしたら? 妹様の力ならば相手の息の根を止めることは容易い、でも言い方を変えればそれは現実を簡単に破壊が出来てしまうということ。夢と現実を測り違えた瞬間、この悪夢の、呪いの真の恐ろしさが出てくる」
フランドールは息を飲んだ。
もしも、目覚めて小悪魔が抱きついてきたあの時、吸血鬼の本気の力で抵抗をしていたら、それだけで現実は無残に破壊されただろう。
右手に点を移して握るだけ、それだけで現実は揺らいで崩れてしまうのだ。
夢だと分かれば思いっきり抵抗ができるだろう。しかし、先ほどの夢みたいな仕打ちを受けたらその気力も湧かないまま苛められ続けるのが精々だと思う。
あの痛みが続き、なおかつ真実と虚構の区別ができないとしたら、フランドールは耐え続けることができる自信はなかった。
とにかく今は目の前の知識人に頼るしかない。
「ねぇパチュリー、なんとかならないの?」
「正直難しいわね、夢は避けようのないモノだから」
「うう……」
パチュリーが無理だというのならそうだという気がしてきてしまう。
でもこのまま耐えるのは抵抗もせず殴られ続けられるようなものだ。それは嫌だった。
なんとか悪夢を避けることはできないのだろうか、避けるとはいかないまでも、せめて事前に夢か否かハッキリ分かる方法はないのだろうか。
フランドールはしばらく考えると、天啓を得たかのようにハッとする。
「そうだ! 今のうちに現実の私たちにしか分からない暗号みたいなのを作ったら」
「つまり?」
「ほら例えば、私が目覚めて初めて会う時に一回転するとか、事前に取り決めをしたら、夢か現実か区別できるんじゃないかな」
「良い考えですよ妹様! ぜひぜひそうしましょう!」
小悪魔が真っ先に声を上げる。フランドールはその反応を見て安堵した。
「まぁ、それでも何も策を講じないよりはマシか。ところで小悪魔、今は何時くらいかしら」
「えっ、えっと」
慌てて、懐から懐中時計を取り出し時間を読み、伝える。
「そろそろ夜明けの時間帯になりますね」
「そのくらいよね。妹様、眠気は大丈夫?」
「だ、大丈夫! まだ眠くないよ」
危機的状況に眠気は吹っ飛んでしまった―――とは言い難い。
正直に言えばあくびをかみ殺すくらいには眠気が襲ってきていた。真っ当な吸血鬼は棺おけに入る時間だろう。フランドールも普段ならば読んでいた本に突っ伏せて、スヤスヤと寝ている頃合だ。
寝たら言うまでもなく、悪夢は容赦なく襲いかかってくるだろう。眠りたくないが、体がそれを許さない。
傍から見れば無理をしているのは明らかだった。勿論パチュリーもそれを察していた。
「我慢したくなる気持ちはよく分かるけどね。でも生理現象だからこればかりはどうしようもない、妹様は早寝早起きだし」
「やだよ、私眠りたくなんか……はむ」
出てきそうになったあくびを飲み込んだ喉が震える。
「そろそろ限界よね。妹様今のうちに伝えておく。現実のような夢と現実を見誤らないようにね。夢ならば何をしたっていい、それこそ私たちを殺すことなんて造作もないでしょう。でもそれを現実でやってしまえば取り返しがつかない。夢だと確信してから抵抗するのが賢明、それまで妹様は受身の行動を取ることになるけど、そこはなんとか耐えて頂戴。ただしこれだけは覚えておいて、現実の私たち―――私や小悪魔や美鈴、そしてレミィも貴女に酷いことは絶対にしない。虐めるような真似をしたならそれは悪夢よ。遠慮なく抵抗していい……けど事を急ぎ過ぎないようにね。私は呪いを解く方法を探す。それまでなんとか耐えて頂戴」
「い、妹様! 私の至らなさの所為でこんなことになって申し訳ありませんが……この不肖小悪魔に出来ることがあればなんでも致します!」
二人は慈愛の表情を向けてくる。不安に襲われているフランドールにとってこれ程有難いものはなかった。
「うん。ありがとう。パチュリー、小悪魔」
現実とはかくも魅力的で優しいのだ。あんな残虐な悪夢などと見紛う筈があろうものか。この現実のために我慢しよう、悪夢も現実があれば癒してくれるのだ。一寸先が真っ暗闇だろうと光明は確かに見えている。何も心配することなど有りはしないじゃないか。
フランドールは憑き物が取れた心地がした。恐ろしい気持ちも薄れてきた。同時に、この現実を絶対に壊すまいと心に固く誓った。
「じゃあ妹様そろそろ寝室に行きましょう、私が付いていきます」
「分かった」
小悪魔は手を握り、フランドールの寝室へと導こうとする。フランドールは素直に引かれながら着いていく。
「ああ、そうだ。妹様がさっき言っていた、一回転する話、紅魔館の面々には皆に伝えておくから、覚えていて頂戴」
「お願いね」
そして図書館の大扉を開けフランドール達は外へと出て行った。
フランドールの自室は本人の希望もあって図書館に近い位置にあるので、さほど移動に時間はかからなかった。
小悪魔は秘書さながらにドアを開けたまま、傍らに立ちながら恭しく礼をして「どうぞ」とフランドールを部屋の中へと導く。
部屋の装飾は、紅魔館当主であるレミリアの妹にふさわしく絢爛豪華で、当主の自室に引けを取らない広さだ。違いがあるとすれば、レミリアは威厳のある格式高い内装になっているのに対し、フランドールは可愛らしい少女チックな内装となっていることだろう。
フランドールは部屋に入るやいなや、目をこすりながらベッドへと向かう。
「早速お休みになるのですか?」
「うん、ちょっと流石に限界」
「妹様にしてはかなりの夜更しでしたもんねー」
小悪魔はベッドの傍に近寄り、フランドールが枕に頭を置いたのを見届けると、雑談もそこそこに部屋から出ようとする。
「あ、ちょっと待って小悪魔」
「なんですか」
「その、ちょっと私が寝入るまで一緒にいてくれないかな」
一人でいるには不安が過ぎた。あと少しで寝てしまえば悪夢が襲ってくるのだ。さながら注射を待つ子供のような避けることのできない怖さが、いざ直前となってみるとぶり返してきた。
小悪魔は近くに置いてあった椅子に座り、笑顔で返答をする。
「ええ、それくらいお易い御用です! 私はここいますから妹様は安心してお眠りください」
「そうしてくれると助かる、ありがとう」
「いえいえ。元はといえば私の不注意が招いたことですし。申し訳ありません妹様」
「そんなことないよ。あれは私の自業自得なんだから、小悪魔が気に止む必要はないよ」
後悔をにじませながら頭を垂れる小悪魔に苦笑いを浮かべながら言う。
小悪魔は頭をあげ、笑顔を取り戻す。
「ありがとうございます。妹様はお優しいですね。そうだ、お返しとして妹様が寝付きやすいように面白いお話などして差し上げましょう」
「えーやめてよ。逆効果だよ、寝れなくなっちゃう」
「まぁまぁ、子守唄だと思ってご静聴お願いしますよ」
小悪魔はフランドールの言い分を無視して話を始める。主にする話は身の回りの、例えばパチュリーやレミリアが失敗をした話であったり、それらを面白おかしく伝えるといったものだ。
何も無いよりは間違いなく寝入り難くなっている。しかし笑ったまま、楽しい気分のまま目を閉じていられた。目を閉じて映る景色は真っ暗闇ではなく、その日常の情景がフランドールの目にはハッキリと映っていた。
それは、今の状況ではありえるはずのない、心地の良い寝入りを与えてくれる。フランドールはゆっくりと眠りの世界へと落ちていった―――
まず耳についたのはカラスの鳴き声だった。どこかもの悲しそうに発せられる音を聞いて、なるほど今は夕方なのだと気づいた。
フランドールの部屋は太陽光を入れない為に窓は備え付けてはいないが、壁を隔てた外の音が聞こえるような構造をしている。
夕方ということはいつも通りの目覚めなのだろうか。悪夢は結局襲ってはこなかったということなのだろうか。いや―――油断してはいけない。悪夢は現実と区別がつかないように形作られているのだ。まだこれが現実だと、勿論これが夢だと決めつけるのは早計だ。
今が夢だとして、僥倖だったのは、しっかりと思考が出来ていることだろう。普段の夢のように頭に霧がかかったような、どこか考えが鈍っている状態にならなかったのはよかった。
フランドールはベッドから起き上がり、手持ち無沙汰にぼうっとしていると、唐突にノックの音が鳴り響いたのでビクッと体を跳ね上がらせた。
「だ、誰よ」
「起こしてしまいましたか? すいません、小悪魔です。様子が心配でちょくちょく様子を見に来ていたのですが」
「そうなの。じゃあもう入ってきていいよ」
「ではお言葉に甘えて失礼します」
ガチャりとドアが開かれる。その先には寝る前となんら変わりのない小悪魔が立っていた。
小悪魔はフランドールの様子が無事であることを確認して安心したのか、笑みを浮かべて近寄ってくる。
早速試してみようと思った。
「ちょっと待って。ねぇ小悪魔、まずやるべきことがあるんじゃないかな」
「えっと、何のことですか」
「小悪魔が聞いてない訳ないじゃない、ちょうどあの場にいたんだから。ほら、暗号だよ暗号」
「いや、その。何を仰っているのか分からないのですが」
「…………」
明らかに怪しい様子だった。ハッキリと黒だと、夢だと決め付けていいくらいには怪しかった。しかし、まだ迷ってしまう。
もしもこれが現実だとしたら、ここで小悪魔を殺してしまえば、取り返しなどつかない。もしも小悪魔が暗号のことなど綺麗さっぱり忘れてしまっていたならば、今の状況もあり得る。もしも、もしも―――
いざ決断を前にすると怖かった。もっとハッキリとした、夢だという証拠が欲しかった。フランドールは己の優柔不断さを呪いたい気分になっている。
「妹様は今お目覚めになったばかりですから、少し混乱しているんじゃないですか? まだ時間としては日の入りしたばかりですし」
そう言って小悪魔は懐に手を伸ばす。あれは、いつもなら懐中時計を取り出す仕草だ。自然と小悪魔の手元に視線がおかれる。
すると、取り出された銀色が明かりを反射した。急な輝きに思わず手をかざし、目をしかめてしまう。チカチカと視界が瞬く。焦点の定まらないまま小悪魔のいた方を見ると、目を見開き、恐ろしい形相でこちらへと全力で駆け寄ってきていた。
心臓が跳ね上がった。遠くに見えていた小悪魔は、今や数歩踏み出せば手の届く位置に来ている。動こうにもベッドから起き上がったばかりで、足も自由に動かせる状態にない。
距離が詰まった。勢いをそのままに小悪魔は飛び上がり、ベッドの上へとのしかかり、フランドールを押し倒した。大きくベッドが揺れる。小悪魔の顔がハッキリと見えた。この状態では動こうにも動けない。小悪魔の腕が上げられる。銀色の輝きが手に握られていた。
その鋭い切先を見て、小悪魔の懐から取り出されたそれは、懐中時計ではなくナイフだったのだと気づいた。刃渡りはフランドールを串刺しにするには十分な長さだ。小悪魔は無情にもそれを思いっきり振り下ろした。
ナイフは突き刺さり、貫通をした。フランドールの頬のすぐ横の枕を貫通した。
咄嗟に自由だった腕を振り回して、偶然受け流し、ナイフの軌道を逸らすことに成功したのだ。そのおかげで頬を少し切る程度で済んだ。傷口から血が滲み、頬を伝い、枕を薄くだが赤色に染める。
強襲に失敗した小悪魔は心底意外そうに唖然としている。
思いっきり脚を振り上げ、小悪魔を蹴飛ばし、ベッド上から追い出した。吸血鬼の豪力をまともに受けた小悪魔はひとたまりもない。そのまま床に叩きつけられた後、勢いを殺さぬまま、二度三度バウンドをして壁へとぶつかった。
「ぐぇ―――ガァ……」
「やっと確信できたよ。お前は小悪魔じゃない、ここは現実じゃない。なら私も好きに抵抗できるもんね」
壁に叩きつけられた小悪魔は、小悪魔によく似たモノは、虚ろに顔を上げる。口の端からは血が流れ、打撲痕が生々しい。奇妙に腕が曲がっており、もはや抵抗は出来はしないだろう。
フランドールはベッドから降りて、歩み寄る。次いで右手を向け、点を取り出す。その点は現実の小悪魔と変わらない薄紅色をしていた。
もしも点の色で区別が出来たら楽だったのに、とフランドールは惜しく思った。
「じゃあね。一瞬で終わるから痛くないよ、きっと」
右手を握ったその瞬間、小悪魔の形は紅い飛沫に変わった。
小悪魔が寄りかかっていた壁は勿論、床にも、天井にも、紅い液体が撒き散らされた。こびり付いた鮮やかな血はしばらく垂れた後、彩度を落として固まった。
「ふぅ」
フランドールは身の安全を確保でき、まず安堵した。すると頬がズキリと痛んだ。銀による傷は治癒が遅く痛みも強い。
落ち着いて周りを見渡す。可愛らしかった部屋は、今や紅くグロテスクな様相を呈している。これを見て、文字通り自らの手で殺してしまったのだと実感が湧いてきた。
ふと、天井に目を向けた。赤い模様の中に赤い髪が張り付いているのが見えた。
壁に目を向けた。細切れになった赤黒い肉片がこびり付いている。
床に目を向けた。小悪魔と同じ洋服が落ちている。それは血の池と肉片の山に埋もれていた。
生き物を殺すことは初めてではない。力の使い方が分からない時には相手をよく大怪我をさせていたし、命を狙ってくるモノは容赦なく破壊した。
しかし今回は―――考えちゃいけない―――よく見知った姿かたちの、小悪魔を、大事な人を、この手で殺してしまったのだ。
気づけばフランドールは顔を青ざめさせ、震えていた。肉片に埋まる小悪魔の服を見てしまう。その傍には丸い、ブヨブヨの眼球と思われるものが落ちていた。瞳孔がフランドールを見つめている。
見た目はよく見知った小悪魔の眼だった。フランドールにはその眼が自分を責めているように思えた。肉片もこちらを見つめてくる。小悪魔が、恨みがましい眼を向けてくる、血塗れになった小悪魔が―――
「う―――オェぇ!! ゲホ! ゲボォ!!」
胃から逆流してきたモノがビチャビチャとフランドールの小さな口から漏れる。床に湛える血に黄ばんだ胃液が混ざり合う。
頭ではこれが夢だと分かっている。しかし、この悪夢はあまりにリアルだった。内面を除けばこの小悪魔は現実と全く同じなのだ。本質では違っても、フランドールは小悪魔を破壊したことに耐えることができなかった
粗方、胃の中のモノを吐き出すとフランドールは嗚咽しながら、この悪夢はいつまで続くのだろうかと考えた。ある一定の時間が過ぎれば解放されるのか。以前の悪夢はさほど時間を待たずに途切れた。でも、それは気絶をしていたごく短い時間での悪夢だから、そうだったのかもしれない。今回はしっかりベッドに入って見る悪夢なのだ。短い時間では済まないだろうということはなんとなく想像がついた。それまでどうやって耐えればいいのだろうか。また、小悪魔みたいに、殺して抵抗するしかないのだろうか。また、大事な人を直接手にかけないといけないのか。嫌だ、嫌だ。
悪夢が覚めるまでどう行動すればいいのか考えた。すぐに、誰にも見つからないように隠れようと思いついた。
この窓もない密室同然の自室で見つかってはひとたまりもない。無抵抗に酷い目にあうか、抵抗して殺さないといけないかの選択を迫られてしまう。どちらの選択も嫌だった。
そうと決まれば善は急げだ。早くこの部屋からでて、外でもいい、それか広いエントランスにでも隠れ場所を見つけよう。
そうして、立ち上がりドアノブをつかもうと歩みを進めた。ビチャビチャと粘着質な血の感触が歩くごとに感じる。すると、グニャという異なった感触がした。異様な感触に鳥肌を立たせながらも、つい下を向いて確認してしまった。それは赤色と保護色になって気づかなかったが、ピンク色をした何か……近くには赤色の髪が張り付いているのを見るに、そうか、これが脳髄なのかと気づいた。
フランドールはまた嘔吐した。
部屋を出るとやっぱりよく見知った、現実と遜色のない紅魔館の廊下が広がっていた。
迷うことがないので、今はこの方が都合のいい。早速エントランスを目指すことにした。広い場所ならば仮に見つかったとしても、逃げることは容易だ。その上エントランスから外へも出ることができる。とにかく殺るか殺られるかという状況に陥ることは避けなければならない。
まず前後に誰もいないことを確認すると、足音を立てないように進み始める。
エントランスに行くにはまず階段を降りないといけない。その為にはこのひたすらに長い廊下の端まで行かないといけないのだ。フランドールは左右のドアから、いきなり誰か現れたりしないか気が気でなかった。
心臓の鼓動を早くしながらも、特に誰と会うこともなくフランドールは階段まで行くことに成功した。正直、メイドの一人くらいは会うことも覚悟していたが、その心配は無用だったようだ。むしろ、何一つ音もない廊下に恐怖を感じるほどだった。
階段を降りれば、エントランスまでもう少しだ。早速階段を降りていこうとする、その瞬間。
「!?」
バタンと近くからドアが閉まる音が聞こえたのだ。この近くには図書館があることを考えると、パチュリーが出てきた可能性が高いことにすぐに思い当たった。
とにかく、早く逃げなければ。フランドールはつい急いで、忍び足も忘れ、階段を降りてしまった。静寂の中にその足音は大きく響いた。「しまった」と思う暇もない、全力で階段を降りてエントランスに向かった。
吸血鬼の脚力をもって、あっという間にエントランスへと到着した。今更エントランスに隠れても、足音に気づいたパチュリーに探されて見つかる可能性がある。だから、フランドールはエントランスから外へと出ることを選んだ。
エントランスの大階段を半ば飛び降りるようにして進んでいく。そうして玄関の大扉の目の前に着いた。早く出てしまおう、そうして思いっきりドアを押した。
「痛ッ!!?」
しかし、ドアを押そうとした右手に激痛が走った。何事かと手を見てみると、煙を生じながら手が焼け焦げていた。
どうして。ドアをしっかり見てみると、薄くだが幾何学模様が浮き出していた。結界が貼られているのだと気づいた。これでは押すどころか、触れることもままならないだろう。
でも今は悠長に考えている暇はない。どうこう迷っている内にパチュリーは確実に近づいてきているのだ。フランドールはドアごと壊してしまおうと右手を伸ばすが、点はどこにも見当たらない。明らかに結界はフランドールに使うことを想定したものだった。
焦りが増大する。もはやなりふり構ってられない。フランドールはドアノブを思いっきり引っつかむ。灼熱を直接浴びせられたような痛みが襲う。
「ぐぅぅうう……ッ!」
涙をにじませながらフランドールは言葉にならぬ呻き声をだす。思いっきり押し引きをするが扉はビクともしない。
その間も結界は容赦なくフランドールの華奢な手を虐め、ドアノブを伝って血が滴り落ちる。それでも諦めずに、痛みと焦りに身を焼かれながらもドアを必死に押す。
「いくら押しても無駄よ。それはわざわざ妹様の為に作った結界なんだから」
「ぱ、パチュリー」
後ろを向いてみるとパチュリーが立っていた。なにかの呪文を詠唱する声が聞こえ、マズイと思ったが、熱でドアノブに手が張り付いていて、すぐには動けない。
パチュリーの傍に魔法陣が浮かび、そこから鉄砲のように水が吹き出す。それがフランドールの脚に直撃した。
その勢いのままドアに叩きつけられ、倒れ込む。気を失いそうになるが、なんとか堪えて立ち上がろうとした。
「あ、れ?」
立ち上がろうとしたが、力が入らずバランスを崩し、水溜りに体を沈めてしまった。
顔を上げるとバラバラになった歯が落ちているのが見えた。
脚を見てみると、両足が太もものあたりからバッサリと千切れていた。傷痕はすっかり爛れてしまっている。
また右手を見てみると、指が数本取れかかっていた。かろうじて紐のような皮で繋がれているという状態だ。熱でドアノブに張り付いた手が無理やり剥がれた所為だろう。
咳き込むと、砕けた歯の欠片が飛び出てきた。
「これでもう逃げることは出来ないでしょ」
「や、やめて……パチュリー」
フランドールの懇願も無視してパチュリーは続ける。
「ところで妹様? 妹様のお部屋で小悪魔がコンナことになってたんだけど、どうしてだか知らない?」
パチュリーが手に持っていたのは血濡れになり肉片のこびり付いた小悪魔の服、それに眼球だった。
「知らないィ!! 知らないよ!!」
「嘘おっしゃい。ほら、正直に言わないと」
パチュリーは指先に小さな魔法陣を浮かべて、フランドールの右肩に指を突き立てる。
抵抗もしないまま見ていると、そこから先ほどと同じように水が噴出された。流水は神経も骨も貫き、フランドールの細い肩はあっという間に断たれた。
「ひぎゃあああああああああああッ!!?」
「ほら、次はもう片方も持ってちゃうわよ。で、どうなの? 妹様何か知らない? 正直に言えばやめてあげるわよ」
「本当に……?」
両足に右肩を失ったフランドールに考える余裕などなかった。
「ええ、本当よ」
パチュリーの笑顔にそのまま思考は流されていった。
「わ、私が小悪魔を、殺しました」
「そうなの」
躊躇うこともなくパチュリーはフランドールの左肩も同じように裂いた。
「う……ああああァァァァァァッ!?」
「よく正直に言いました。偉いわよ、妹様」
「な、なんで……? やめてくれるって」
「だからもう尋問は終わり。次は妹様の断罪ね。文字通りの断罪」
「やだぁ!! いたぃよ!!! 助けてよ誰かぁ!!」
四肢をもぎ取られたフランドールに出来ることは声をあげ助けを求めることだけだった。
水たまりの中を芋虫のように這いずりながら、なんとかパチュリーから離れようとする。おびただしい血の跡が水に溶けていく。
血管や骨や神経が剥き出しになった傷口に水が染み込む。尋常ではない痛さに、意識を飛ばしそうになりながらも、フランドールはなんとか這って逃げようとした。
勿論、パチュリーにとってそれは無駄な抵抗だった。哀れみさえ見て取れる表情で、必死に地を赤黒く染めながら這うフランドールを見下す。次第にそれにも飽きたようで、片手でフランドールの首根っこを掴み、水溜りに投げ飛ばした。
「ギャンッ!?」
衝撃を逃がす術もなく、投げられた勢いをそのままに水を湛えた床に叩きつけられた。顔から落ちたようで、フランドールの額からは血が溢れ、赤紫色の痣も見受けられた。
もはや這う気力もない。フランドールは喘ぎながら、水を飲み込んでは吐き出しながら、咳き込みながら、水の中に浸っていた。
パチュリーはフランドールの髪を引っ掴み、力任せに自分の方を向かせた。もう片方の手に持つ小悪魔の服、眼球を見せつける。
「見てみなさい。こんなことになっちゃって、可哀想な小悪魔。あぁーあ、妹様が大事な友人すら簡単に殺すような外道だったとはねぇ」
「違う……違うもん……そんなのが小悪魔な訳ない」
「違う? 何言ってんのよ、ほらよく見てみなさい、この服を肉片を目を! どうみても小悪魔のモノだろうがッ!!」
口調すら歪めながらフランドールを罵る。対してフランドールは呪詛のように「違う、違う」と呟き続けていた。
激昂するパチュリーの目を見ないようにしながらも、フランドールは否定し続ける。
「そうまでして認めないの? 謝りもしないの? そうなの。なら貴女が犯した罪をちゃんと実感して貰わないとねぇ」
「私は小悪魔を殺してないもん……」
「まだ言うの、しつこいわね」
心底うんざりとした表情で、フランドールの髪を持ったまま壁に勢いよく押し付ける。フランドールはわずかな呻き声を漏らす。
「ほら、ちゃんと妹様が犯した罪を味わいなさい、文字通りね」
「ムグゥっ!?」
パチュリーは小悪魔の眼球をフランドールの口に押し込んだ。それを拒む気力もないフランドールは、あっさりと口の中へ侵入を許してしまう。
やがてパチュリーの手は抜かれた。その瞬間、フランドールは眼球を吐き出そうとする。
「妹様、もし吐き出したら、次は首を掻っ切るわよ?」
パチュリーの指がフランドールの首筋に当てられる。
フランドールは涙を流しながら、小悪魔の眼球を口腔内に安置した。眼球のヌメリを感じる度に猛烈な吐き気と罪悪感に襲われる。
「じゃあ今度はそれをゆっくり噛んで味わってもらおうかしらね」
パチュリーの言葉に口をもごもごと言わせながら否定の意を示す。それを見たパチュリーの指がさらに強く首筋に押し当てられる。フランドールに選択の余地などなかった。
「うぐぅ……ぅぇ……」
恐る恐る、ボロボロになった歯を下ろした。僅かな弾力を感じ、ブチュともグチャとも言えない、嫌悪感を催す感触がした。
「どう? 小悪魔の眼球の味は」
味はよく分からなかった、しかし、少ししょっぱいと思った。
噛む度にヌメリを感じ、小悪魔を食べているのだという耐え難い背徳感に襲われる。
「美味しそうに咀嚼してるわねぇ」
パチュリーが気味の悪い笑みでを見つめてくる。達磨状態のフランドールに出来る些細な抵抗は、睨みつけることだけだった。
パチュリーはそれを見て、笑みをさらに鋭くする。
「おかわりが欲しいの? しょうがないわねぇ食いしん坊の妹様にはもっと必要よねぇ」
パチュリーは小悪魔の服から肉片を引き剥がし、フランドールの口元へと持っていく。
今度ばかりは黙っていられなかった。フランドールは口を必死に閉じてそれを拒む。
パチュリーは迷わず髪を引っ張りながら、フランドールの鳩尾を思いっきり殴った。フランドールは眼が裂けるくらい見開き、口をパクパクとさせる。
そこに迷わず肉片を突っ込む。
「えぐ……ぅぅ」
「なに泣いてんのよ。ほらよく噛みなさい」
髪を再び引っ掴み上下に揺らす。無理矢理に噛まされ生肉と血の味が口いっぱいに広がる。
張りのある肉質だった。違わず小悪魔の肉なんだなぁと思った。血の味がする。不謹慎なのだと自分でも思ったが、素直にオイシイと、そう感じた。小悪魔の体は羨ましいくらい美しかった、それをいま貪っている。優しい小悪魔を食べている。寝る時に一緒になってくれた小悪魔を。
そう気づいたときにフランドールは嘔吐した。唾液でベタベタになった肉片が、バラバラになった眼球が胃液と共に吐き出された。
「オェ……ゲホゲホォ!!」
「ぁーあ、やっちゃったわね」
違う。この小悪魔もパチュリーも何もかも偽物なのに。どうしてこんなに気分が悪くならないといけないのだ。気にする必要なんてないのに、何故なぜ。
訳の分からない感覚に戸惑っていると、パチュリーがじっとこちらを見つめているのに気づいた。背筋が凍る。
「吐いたわね」
「ち、ちが……!」
「大丈夫、安心しなさい」
パチュリーはフランドールの首筋に指を突き立てる。
「初めからやめるつもりなんてなかったから」
鉄砲のような水流でフランドールの首は呆気なく弾き飛んだ。首から上、脳という支えを失った四肢のない体躯は力なく水に沈んだ。フランドールの首は放物線を描いて地面を転がった。そして、それから動くことはなかった。
パチュリー自身も絶命しただろうと思っていたのだろう、確認の為にフランドールの首へと近づき掴んで、顔を自らの方へ向ける。
煌びやかな金髪と、赤紫色に変色した痣、欠けた歯、裂傷との対比が痛烈だった。その目はどこか虚空を見つめている―――その眼がギョロリと蠢いた。流石のパチュリーもこれには目を剥いて驚く。
フランドールは傷だらけの首だけの状態になろうとも確かに生きていたのだ。
吃驚した表情をいつもの無表情に戻して、パチュリーは薄ら笑いを浮かべた。
「これが吸血鬼の生命力。哀れ、死にたいと思っても死ねないようなモノね。でも今は好都合、ゆっくりと虐めてあげる」
そうしてパチュリーはフランドールの首を自室に持っていこうとする。どのような拷問をしてやろうか、嗜虐心に満ちた表情を浮かべながら。
図書館でパチュリーは唸っていた。本に齧り付きながら、ページを尋常ならぬ速さで読み進めてめくっていく。額には汗を浮かべながら、常時の気だるげな表情にさらに暗さを落としている。疲弊しているのは誰の目に見ても明らかだった。
パチュリーはフランドールが早朝に寝入ってから夕方まで、必死に文献を当たりながら呪いについての調査を進めていた。平時から生活習慣が滅茶苦茶であるパチュリーだが、流石に疲れは隠せないようだ。
刻一刻と悪夢がフランドールを犯していくのを思うと、休んではいられなかった。本を読み進め、メモをしては休むことなく次の本を手に取る。
傍からその様子を見つめる小悪魔は不安げであった。
「その、少しは休憩をとった方がよろしいのでは」
「そんな暇はないわよ。悠長に過ごしている間に手遅れになりかねない。急がないと妹様の精神は取り返しのつかない傷を負うことになる」
小悪魔の遠慮がちな指摘にも耳を傾ける様子はない。必死なのは小悪魔にも如実に伝わってくるが、普段のパチュリーの冷静な態度は見る影もない。むしろ、見るものには不安を煽る状態ともいえる。
「でも、少しは気を休めないと効率も落ちるんじゃないでしょうかなーと」
「……そうね。じゃあ小悪魔ちょっと紅茶を淹れてくれるかしら」
「はいお安い御用です!」
返答を聞いた小悪魔は元気よく駆け出して紅茶のカップを取りに行った。
パチュリーは一旦本から目を離し、宙を見上げため息をついた。調査の進行は芳しくはなかった。焦りが身を蝕んでいくのが感じられたが、だからと言って限られた時間を休みに使うこともはばかられた。余裕が持てていないことは自分でも分かっていたが、自己分析をする時間も惜しかったのだ。
疲れを滲ませたまま宙を見上げてると、小悪魔が戻ってくるのが見えた。
「お待たせしました」
小悪魔が銀色のトレイにカップを乗せて、片手で支えながら持ってくる。馴れた手つきでそつなくカップを置いていく。
紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。パチュリーはカップを口元に持ってきて傾ける。淹れたての熱い紅茶が喉元を過ぎていくのが感じられた。それに合わせて額から汗が一筋垂れる。
呪いのことは一旦忘れての休憩であるが、小悪魔はどうしても気になり、聞く機会も今しかないと思ったので、質問を口にした。
「パチュリー様、妹様の呪いは大丈夫なんでしょうか」
「難しい。呪いの事例は数あれど、それを解く方法はそうそう見つからないから、今は少しでもヒントとなる情報を集めないといけない。いや、一応代替となる策はあるけど……これは解決法とはいえない
時間がかかりそうだ、そんな感想を小悪魔は持った。
「ちなみに、その代替となる方法というのはどういったモノなんでしょうか」
「今は教えない。知られると、むしろ状況が面倒なことになる可能性があるのよ」
「そうですか……」
「それよりも小悪魔、そろそろ妹様が目覚める時間だから様子を見に行ってくれない―――」
パチュリーがそう指示しようとしたその時、図書館の大扉がギィっと音をたてながら開かれた。
「誰?」
何事かとパチュリーと小悪魔が目を向けると、そこには美鈴とレミリアが立っていた。お互いの身長差がかなりあり、傍目からは保護者とその子どものようであった。
怪訝な表情を浮かべる美鈴と欠伸を殺すレミリアの様子もまた対照的だ。
「やぁパチェおはよう。寝起きに美鈴から聞いた話なんだけど、フランが大変なんだって?」
「こんばんはパチュリー様。私もあまり詳しくは聞かされてないもので。フラン様とお会いした時にはくるりと一回転しろとは言われましたが、どうしてなんでしょうか?」
「伝えてなかったかしら。ちょっと余裕がなかったかもしれないわね」
パチュリーは密かに自省をする。情報をハッキリと伝えないなんて、そんな初歩的な見落としを許すくらい、今の自分は疲れているのだと分かった。
ふぅと息を吐いて、紅茶のカップを傾ける。
取り敢えずパチュリーはフランドールの呪いと現状について二人に伝えた。
「それは……災難ですね。フラン様は大丈夫なんでしょうか」
「我が妹はおっちょこちょいだな。注意力が散漫だからこんなことになるのよ」
美鈴とレミリアはやはり対極な反応を見せる。
「レミィ、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう。ちなみに妹様の呪いについては、まだどうとも言えない。早く解決法を見つける為に尽力はするけど」
「そんなに悠長な事を言ってていいのかパチェ? こうしてる間にもフランは呪いに蝕まれているのだろう」
パチュリーはその言葉を無責任なモノとして受け取った。
今しがた起きたばかりの者が何を分かって言っているのか、こちらも最大限の努力はしているのに、そう思うとフツフツと怒りの感情が湧き上がってきた。
「そんなことは分かっている。でも一日やそこらでスッパリ解決できるほど簡単でもないのよ、こっちだって一応方法の一つくらいは―――」
ついつい感情に任せて口を滑らせてしまったことに気づき、すぐに口を紡ぐ。
それを聞いたレミリアは笑みを浮かべて、大机に身を乗り出してパチュリーの目の前まで顔を近づける。
「へぇ方法の一つくらいはあるのか。是非とも教えて欲しいね」
しまった迂闊すぎる、いよいよもって疲れているのだろうか。そう心の中で毒づくが、時はすでに遅かったようだ。
この状況、流石に言わないまま逃れることは出来ないか―――いやダメだ。
よりにもよって一番聞かれてはマズイ相手に伝えることはパチュリーには考えられなかった。
「だめ、教えられない」
「なんでよ。一刻を争うのだろう? 出来ることは全てやっておくべきではないのか」
「それでも教えることは出来ない。特にレミィには」
「どうして」
「どうしてもよ」
頑ななパチュリーの態度を見てレミリアは肩を竦めた。こうなったら梃子でも動かないことはレミリアはよく知っている。
素直に諦めたようで、レミリアは目線を外して、乗っていた机の上から降りた。ホッと安心した様子をパチュリーは見せる。
「そこまで言うなら今は聞かないでおく。ただパチェ、フランがどうこうなってからじゃ遅いのは覚えておいてよ」
「勿論」
その点においては百も承知であった。難しいがとにかく頑張るしかない、幸い魔女は寝なくてもそこまで問題にならない。
紅茶も飲み終わったようで、カップを置いて本を取り、呪いの調査を再び行おうとする。
小悪魔は休憩の終わりを見て、パチュリーに声をかける。
「ではパチュリー様、私はそろそろ妹様の様子を見てきますね」
「あ、待ちなさい。小悪魔じゃなくてここは美鈴に行ってもらいましょう」
「私ですか?」
予期せぬ提案に美鈴は真っ先に疑問が出てきてしまった。
「今のところ悪夢に出てくるのは私か小悪魔の可能性が高いからね。それに不安定な子をいなすの美鈴は得意でしょ」
「ありがたいお言葉です」
「頼まれてくれるかしら」
「ええ、大丈夫ですよ。この紅美鈴、細心翼翼とフラン様のお世話を致します」
「お願いね」
パチュリーはフランドールが起きた際に暗号を忘れるな等、注意を口にした。そうして美鈴は図書館を後にした。
その様子を見たレミリアがパチュリーに提言する。
「パチェ、別に私が行ってやってもいいのよ?」
「ダメよ」
食い気味にパチュリーは即答する。
流石のこの対応には、レミリアも眉をひそめた。
「なんで」
「レミィにそんな心遣い出来るわけないでしょう」
レミリアは旧い友人の反撃にどのような顔をすればいいのか分からなかった。パチュリーの顔は意地悪そうに微笑んでいる。
椅子に飛び乗り、小悪魔に紅茶を乱暴に催促するのが、レミリアなりの僅かばかりの抵抗だった。
やはり図書館からフランドールの部屋まで移動にさほど時間はかからない。分を待たずに美鈴はフランドールの部屋の前までたどり着いた。
失礼な行為だとは思いながらも、部屋の中から音が聞こえるかどうか、耳をそばだててみる。特に音は聞こえなかった。
ということはまだ眠っているのだろうか。しかし起きていたとしても、一回転をすればちゃんと分かってくれるのだ。特に迷うことはない。
二回三回とノックをする。しばらく待っても声は返ってこない。やはり眠っているのか。
「フラン様ー! 美鈴です、入りますよー?」
ドアノブを回して、なるべく音をたてないように静かにドアを開く。それでも反応は―――
寒風が過ぎ去ったかのような、感覚がした。
殺気を感じ即座にドアを閉め、ドアの正面を避けるように横へと飛び退いた。瞬間、ドアは跡形もなく粉みじんになる。
美鈴は顔を青ざめさせた。もし、気に敏感でなかったら、そのまま気づかずに取り返しにならないことになっていただろう。小悪魔に行かせなくて正解だった。
しかしどうしてフランドールの部屋に入ろうとしただけでこんなことになるのか。
最大限の警戒をしながら、そろり、そろりとドアの無くなった部屋を覗いてみる。
そこには美鈴が今までに見たこともない、恐ろしい形相を浮かべたフランドールがベッドの傍に立っていた。
ただ事ではない。そう判断した美鈴は恐れを弾き飛ばしてフランドールの前に立つ。
「どうなさったんですか! 落ち着いてくださいフラン様!!」
「うるさいッ!! 私の傍に近寄るなァッ!!」
右手を突き出し威嚇をしてくる。
美鈴はあまりのフランドールの変わり様に気圧される。いつも見る穏やかなフランドールとはかけ離れていた。
なんとか堪えて、自分がやるべきことを考えた。何をすれば安心させることができるのだろうか。
「フラン様ご安心ください、ここは紛れもなく現実です。悪夢ではありませんよ」
そう言うと、くるりとその場で一回転をする。
フランドールはそれを見て数秒間固まったままでいた。
次いで表情をめまぐるしく変える。そこから読み取れるのは安堵の笑みか、驚きに目を見開き、そして気づいて後悔に表情を曇らせる表情か。
次第に後悔の色味が強くなってくる。右手は力なく下ろされ、羽根も力なく垂れて、いかにも沈み込んでいる様子だった。。
そして、弾けるように、その場から美鈴に向かって走り出す。
「ごめんなさいッ!! ごめん美鈴……!」
さながら突進するように抱きつく。美鈴はそれを難なく受け止めて優しく抱擁する。
「フラン様は悪い夢に騙されただけなんです。大丈夫ですよ、大丈夫。よく頑張りましたねフラン様、本当に」
「うぅ……ごめんね、私あれだけ壊さないって言ったのに、こんな酷いことを」
美鈴は抱いているフランドールが小刻みに震えているのが分かった。さらさらとした髪を撫でてやる。
何とかして震えを取り去ってあげたかった。しかし、呪いは勿論魔法の類は全くの範疇外、手助けすることもできない。
ただ、今の自分にできることは抱きしめ、頭を撫で、慰めることしかできない。
「申し訳ありません、従者である私が何の手助けもできないで。フラン様はこんなにも頑張っていらっしゃるというのに」
「私ね……我慢したよ、痛いのも苦しいのも。身体がバラバラになったり―――」
そうしてフランドールは訥々と夢の内容を口に出す。
四肢を切断され、首だけになったこと。そのまま身動きも取れないまま拷問をされたこと。火炙りにされ赤黒く焼け焦げたこと。火傷が治ったはしから皮膚を削がれていったこと。顔の部位を力任せに千切られたりもした。目を抉られたりもした。頭を錆びた刃物で切り開かれて、脳をグチャグチャにされた。脳幹だけ取り出されて見たこともない液体に漬けられ、覚めることのない痛みに苛まれ―――
「おやめ下さいフラン様、やめて下さい」
吐き気を催す悲痛な告白に、美鈴は力強く抱きしめることしかできなかった。フランドールと共に涙を流す。
自らの不甲斐なさを呪いたくなる。心から救ってやりたいのにできない歯がゆさを感じながら、励ますことしか出来ない自分にも涙した。
しばらくして轟音を聞きつけたパチュリー達が走ってやってきた。
まさか美鈴が―――最悪の状況を予期していたのがありありと伝わってくる鬼気迫る表情を誰もがしていた。粉々になったドアを見て、いよいよ表情に影を落とす。
声が聞こえてくる。泣き声だった。まさか、まさか。不安を抱えながら部屋を覗くと奇妙な光景が広がっていた。
「美鈴に妹様、一体どうしたのよ」
二人は抱き合いながら、互いに泣きはらしている。パチュリー達は無事でよかったという思いの前に、どうしてこうなったのかを不思議に思った。
問われた美鈴とフランドールは涙も乾かぬまま、夢の内容を、美鈴を襲ってしまったことを説明した。
そうして疑問符を浮かべていた表情は焦りが見える顔に変わった。
「呪いの威力がここまで凄まじいなんて予想以上よ……」
「なぁパチェ」
レミリアは悠長にしている時間はもうないと思った。
「手遅れになる前に策は講じないと意味がないだろう」
「ええ、そうね」
「じゃあもう隠す余裕なんてない。さぁ、早く私たちに解決策を教えてくれ」
「…………」
額に手を当てながら顔を渋らせてパチュリーは思案する。明らかに決めあぐねている。
ここまできて考え込む様子を見せるパチュリーに流石に不信感を隠せなかった。
「どうしてそんなに考え込むんだ、迷う暇があるか? フランの様子を見てみろ、これ以上耐えられると思っているのか?」
「その通りね。レミィが正しい」
「いい加減にしろッ!!」
怒声を荒げる。発せられる威圧感は相当なもので、傍から見ていた者は誰もがたじろぎ震え上がった。
パチュリーの目はレミリアを見てはいなかった。相も変わらず額に手を当てて、意識は向こうにあるかのように考え続けている。
この友人は妹のことを他人事だと思ってやしないか、そんな悪感情が湧いてきた。再三のかわすような返答に、決して気の長くないレミリアは我慢の限界がきた。パチュリーに詰め寄る。
「お前が一人で何を抱え込んでいるかは知らないが、いや知らされてないが、こんな大事を相談もしないなんて私たちのことなんか信頼してないってことかッ!?」
「違う。そんなことは」
「なら少しは頼れッ!! 遠慮でもしているのか? 私の力ならいくらでも貸してやる。我が妹の為なら身を粉にしたっていい。命を差し出したって―――」
「やめてお姉様!!」
しゃがれた声でフランドールは叫んだ。
「どうしたフラン」
「これは私の不注意でこんなことになったんだから……私の所為でお姉様が、周りの人が酷い目にあうのなんて嫌ッ!!」
「気にすることなんかない、私にとってはフランが最優先だ」
「それは、それは私も同じ事なんだから! 私の自業自得で、そんなの嫌だ……やだよ」
「…………」
レミリアは嬉しい言葉をもらったというのは分かったのだが、手放しで喜ぶことはできなかった。
その様子を見ていたパチュリーはため息をついた。
「はぁ、いいわ。レミィ教えてあげるからちょっと外に出てもらえる?」
「ねぇ私には教えてくれないの?」
「妹様は寝起きで疲れてるでしょう。美鈴と小悪魔にゆっくり癒してもらいなさい」
フランドールはしばらく訝しげにパチュリーを見つめていたが「分かった」と素直な返事で答えた。
優しくパチュリーは頷いて、レミリア達を伴ってドアのない出口から部屋の外へと出て行く。残った二人はしばらく出て行くパチュリー達を見つめていた。
「パチェと水入らずで話せるのも久しぶりな気がするな」
「そうね」
再度図書館に戻ってきたパチュリーはまず普段自分が座る椅子に腰掛けた。何を言うでもなく後についてきたレミリアは対面の席に座った。。
パチュリーは本に挟んであったメモ書きのような物を手にとった。筆跡はパチュリーの物だと、遠目に見ていたレミリアは分かった。
その紙に妹を救う方法が書いてあるのだと、そう察することができた。
「じゃあ早速教えてもらおうか」
焦りも勿論だが、不謹慎ながら楽しみもあったから急かした。
確認するように紙を一通り眺めたパチュリーは、レミリアに向き直った。
「……レミィが妹様を想ってるのはよく分かる。勿論私だって妹様は救いたい。レミィの妹だからってわけじゃなくてね。また別の一人の友人として」
「そう言ってもらえるならフランも幸せだよ。折角だからフランも呼んでやればよかったんじゃないか」
「でもね」
パチュリーは釘を刺す。
「だからこそ私は妹様の為になることは迷わず行うつもりよ。それでもこの策を使うのは渋りたくなる」
「つまり何が言いたい」
「前置きが長かったかしら。とりあえず私が何をしようとしているか、その説明からするわよ」
レミリアは腕組みをした。それが自分なりの聞く体勢でもある。
「残念ながら呪いを抹殺する方法を探すことは一日や二日で終わるモノじゃない。つまり今は何よりも時間が足りないと言える。でも妹様にそれくらいの余裕があるかと言うと、無いと断言できるでしょうね」
「そうだな」
「必要なのは時間。そこで私がやろうとしているのは『呪いの対象の移し替え』よ。これは呪いをさっぱり消すことより比較的簡単にできる。例えば入れ物の中にある水。入れ物を壊さずに水を失くすのは難しいけど、水を他の入れ物に移すのは至極簡単なのと同じようなものね。でも、これじゃあ根本的な解決にはなっていない」
「水が呪いで、入れ物がフランか。時間があれば呪いを消す方法を見つけることは出来るんだろう?」
「ええ、絶対とは言わないけど見つけてみせる」
「呪いを移し替えれば、その間フランは苦しみから逃れることができるのか」
腕組みをしたままレミリアは笑みを浮かべる。
「素晴らしいじゃないか。存分に行えばいい。いや、何ならその辺りにうろついてる輩を捕まえて贄にしたっていいじゃないか」
「それは出来ない」
レミリアの笑みが陰る。
「どうして」
「妹様の力が強すぎるから。さっきの例をそのまま使うなら、妹様ほどの大きな入れ物を満たすくらいの水が入っていると思えばいい。そこいらの有象無象程度の『入れ物』じゃあ、水の入れ替えを行うことは不可能よ。つまり妹様と同等以上の入れ物が必要になる」
「我が妹は吸血鬼だからなぁ。そりゃあそこらへんの小童じゃあ相手になるわけないね。なるほどなるほど」
パチュリーは黙ってレミリアを見つめる。
レミリアは陰った笑みを取り戻しながら言う。
「私という入れ物が必要なんだろう? 好きに使えばいい。私なら最高の時間稼ぎをしてやるよ」
「……この策だとそうせざるをえない。だけど大きな問題がある」
レミリアは眉をひそめる。
「私じゃあ役者不足だって言うのか」
「違う。よく考えてみなさい。妹様がこの策を行った後どう思うかを」
「呪いがなくなって万々歳?」
「冗談、そんな子じゃないのはよく知ってるでしょ。間違いなく気を病むわよ。さっきの会話でも頑なに私たちに害を被らせるのを嫌ってたくらいなんだし。特にレミィ、貴女にはね」
「ふふ……愛されすぎて辛いなぁ全く」
嬉しさを隠さないまま言う。
「だが私の意思は変わらないし、この策を行うのは決定事項だ。何もしなければフランをみすみす壊してしまうことになる。他に選択肢はない」
「そう、よね」
未だに決断できないでいるパチュリーの様子にレミリアは違和感を覚える。
「どうした? らしくもない。いつも合理的に考えるパチェなら一考する必要もないことだろう」
「やっぱりレミィに呪いが移ったと聞いたときの妹様の思いを考えるとね」
「何もしないよりはマシだろう。次にフランが悪夢に襲われる時は、即ちフランが壊れてしまう時だ」
パチュリーは考えに考えたあと、一度深く頷いた。
「そうね分かった。この策、実行しましょう。妹様が寝入ってから呪いの移し替えを始めるわ」
「今からじゃ出来ないのか」
「妹様の近くで儀式を行わないといけないからね。もし妹様が起きてるうちに儀式を見たら間違いなく妨害してくるでしょう」
「ふむ、じゃあその通りの計画でいこうか」
「くれぐれも妹様には伝えないようにね。秘密にするのも心苦しいけど、実行する上では絶対に必要な条件よ」
レミリアはそれに黙って首を縦に振った。大げさに笑みを湛えてはいるが目は真剣そのものだった。
策を実行することは決まった。
妹を救える喜びも確かに大きい。いや、レミリアにとってはそれが全ての支えでもあった。呪いの脅威を直接聞かされて、レミリアだって恐怖を禁じえないのだ。それでも我が身を第一に考えてくれる妹の為には弱気な表情は見せるわけにはいかない。妹を救おうと尽力してくれている紅魔館の面々にそんな表情は見せるわけにはいかない。仲間を信頼していないわけではないが、そうすることがレミリアなりの一当主の矜持でもあり、プライドでもあった。
今やすっかり怖くなった日の出の時が来てしまった。寝なくて済めばいいのに、フランドールは今日だけで何度思ったことだろう。
お風呂に入って食事をして、普段と変わらない一日を過ごした。いや、ちょっと周りが優しい気を使った対応だった気がする。この日常も悪夢に食われてしまうのだろうか。
レミリアに何を話していたのかを何度か聞いてみたが、返ってくる言葉は「心配するな」だったりで結局内容は分からずじまいだった。
パチュリーはそもそも忙しそうで聞く暇はなかった。これも自分が原因だと考えると心苦しさを感じてしまう。
やっぱり一人で寝るには寂しさを感じたので、食事の時に誰か一緒にいてくれないかと頼んだら、レミリアが真っ先に手を挙げた。美鈴と小悪魔も立候補しようとしていたが、主に気を使ってか自重したようだ。
そういった訳で、寝室までレミリアとフランドールが共に並びながら歩いている。互いに無言だが特に息苦しさは感じない。
フランドールはダメ元でもう一度聞いてみようと思った。
「ねぇお姉様とパチュリーは何を話していたの」
「貴女を助けるための話し合い。だからフランは心配する必要はない」
「またそうやって誤魔化す。具体的に教えてくれたっていいのに」
「ほら部屋に着いたわよ。そんなことは気にしないで安心して眠りなさい」
「もぅ……」
ドアを開けるとギィと軋む音が鳴った。
部屋には美鈴が一日で作った即興のドアが取り付けられている。装飾まで拘る余裕はなかったので、廊下や部屋の内装と比べると噛み合ってはいないが、機能はしっかり果たしている。
これを見ると申し訳ない気持ちがさらに積もっていく。
「良い子だから早くお布団に入りなさい。寝付くまでここにいてあげるから」
「分かったよ」
もぞもぞと布団に入り、枕に頭を乗せる。
しかし目を瞑る気が起きなかったので、目を開けたままボヤっと天井を見ていた。視線を横に逸らすと、レミリアが椅子に座って膝にほおずえをつきながら見つめているのが見えた。
気恥かしさを感じたので、目線を天井に戻してまたぼうっとする。しばらく時計の音が聞こえてくるほどの静寂が支配する。
この無言の空間にはどうしようもなく寂しい気持ちが湧いてきてしまった。
「お姉様」
「なぁに」
「ごめんね」
レミリアは優しい笑みを浮かべた。
「どうして謝るのよ」
「だって、私の所為でパチュリーにも小悪魔にも美鈴にもお姉様にも迷惑かけて」
「気にしないの。私たちが貴女を助けたいからやっているだけなんだから」
「でも、でも……!」
フランドールは両手で涙を拭った。
「美鈴なんてあとちょっとで、こ、殺してしまいそうになったんだよ……最初でこれなんだから次に起きた時はどうなるか、こんなことになるなら、私なんか、いなくなった方が」
「…………」
レミリアは手を伸ばす。殴られる。直感的にそう感じたフランドールは目をぎゅっと瞑った。
「え……?」
想像した痛みはやってこなかった。代わりに髪を撫でられる。
「フランは頑張ってるのよね。でも独りで抱えないの。貴女は紅魔館に無くてはならない存在なんだから」
「でも」
「でもじゃない。貴女がいなくなってみなさい、皆悲しむからね。貴女が傷ついているのを見て、皆傷ついているんだからね」
「…………」
「もう少しの辛抱よ。悪夢はもう少しで覚めるから」
「ごめんなさい……ありがとうお姉様」
レミリアは髪を撫でながら、指で涙を拭ってやる。
「安心してお休みなさい」
「うん。お姉様?」
「どうしたの」
「私もお姉様や他の人が酷い目に会うなんて嫌だよ」
それは暗に、傷つくのは自分だけでいいと言っているようであった。
「……そうね、ありがとう」
「お休みなさいお姉様」
そっと目を閉じる。レミリアはしばらくの間ゆっくりと優しく髪をなで続けていた。
フランドールが穏やかな寝息を始めるとレミリアは髪を撫でるのをやめて、立ち上がった。
「パチェ、水の移し換えを頼む」
ドアが軋む音と共にパチュリーが入ってくる。
表情はいつものように無表情だが、少し哀しげだったように思える。
いつも通りの寝起きだ。一応周りを確認してみる。ドアは美鈴お手製の木の色味が残っている物だ、やはり特に寝る前と変わった様子は見られない。
勿論こんなことが悪夢と現実の区別をつける材料になることはない。問題は対面した時にくるりと回るかどうかだ。回らなければ、即ち悪夢ならば、今度は殺すことは躊躇わない。フランドールは固く誓った。
右手の開閉運動をしていると、ノックの音が響いた。ついにきたか。
「誰」
「美鈴です。お入りしても大丈夫でしょうか?」
「いいよ」
やっぱりドアを開くときの軋む音も変わらない。
フランドールは右手を向ける。
「美鈴、やることは分かってるよね」
「勿論です」
迷うことなく一回転をする。
フランドールは目を見開いた。記憶違いでなければまだ悪夢はやってきていない。しかし、今確かに一回転をした。つまりここは紛れもない現実。でもどうして。
そうか。お姉様とパチュリーが話していたように呪いを解いてくれたのか。
フランドールはそう気づき右手を下ろした。
「呪いは解けたんだ!! そうなの美鈴!?」
「そうですよ。しかしフラン様。お伝えしなければならないことがあります」
美鈴は沈痛な面持ちを隠しきれないでいるようだ。
どうしてそんな悲しい表情をするのだろうか―――思い当たることがあった。どうしてお姉様は私に隠していたのか。パチュリーは言い渋っていたのか。
果たして呪いは解けたのだろうか。私に呪いはもういない。でも、美鈴が悲しい顔をすることは即ち―――
「まさか……お姉さまに何かあったの!」
「……ご説明は図書館で致します。ひとまずフラン様はこちらに」
「うん。でも一体なに……ッ!」
疑うことなく急いで部屋の外へと出ようとする。美鈴の横を通り過ぎドアへと向かおうとしたが、突然肩を掴まれ、無理矢理に進行方向とは逆、美鈴と対面するように向かせられる。
胃が炸裂したかのような錯覚がした。体内にあった酸素を全て吐き出したように、しかし呼吸がままならない。
美鈴の拳が腹に突き刺さっているのだと気づくのに数秒を要した。
「ぐぅ…………ァ……」
「さぁ行きましょうかフラン様」
「な、ん……で」
酸欠によるものか、痛みによるものか。兎にも角にも思考を働かせる余裕がなかった。
膝を折り、地に伏せながら酸素を求めて掠れた喘ぎ声を漏らす。
そのまま抵抗もできないまま、手を乱暴に掴まれたまま物のように引こずっていかれた。
「着きましたよ」
「うぐッ……」
片手で捨てるように放り投げられる。
やっとまともに呼吸ができる。咳き込むのも同然の様子で肺に空気を送る。
蝋燭の光もないひたすらに暗い空間だった。古書の埃臭さから図書館だと認識できるが、普段の図書館と比べるとあまりにも暗すぎた。
一寸先は闇を体現しているようで、夜目の利くフランドールでも、何処にどんな形の物があるのか分かるのが限界だった。
黒に塗りつぶされた空間、これでこそ悪夢のイメージには相応しい。
「結局ここも夢なんだ」
「何を仰っているのか分かりかねますが、ご覧にして頂きたい物がございますので」
「ふん……こんな暗い場所で何を見ろって言うのよ」
美鈴はフランドールの前に行き、何かを押し込むような動作をする。フランドールから見れば、無防備に背中を晒していることになる。
これは好機だと思った。今なら容易く壊すことができる。勿論その後にグロテスクな光景が広がることになるが―――小悪魔の無残な姿がフラッシュバックする―――躊躇っていればどうなるか分かったものではない。我慢するしかないのだ。
そして音もなく点を右手に移す。握りつぶしてしまおう、そうして破裂してオシマイ―――
しかし力を入れようとしたが、突然襲ってきた閃光弾のような輝きに、つい右手をかざして防いでしまった。点は右手から逃れて元の位置に戻ってしまう。
しまった。そう気づいて再び点を戻して破壊しようと美鈴の方を向き直る。
フランドールは右手を伸ばしたまま固まった。
「なに、してるの」
「これがご覧頂きたいモノでございます」
美鈴が押し込むような動作をしたことで、何か別の空間が生み出されていた。隠し部屋の類だろうか、でもそんなの今まで見たことはない。いやそれよりも。
フランドールの目の前に広がっていた部屋は、この窓一つない館では見ることの出来ないくらい明るかった。光源の類は分からないが、快晴の昼間以上の眩しさだ。
その部屋は小室と呼ぶのが相応しいように思える。壁も床も、病院のように真っ白だ。紅を基調とした館の内装から一線を画すような、異質で気持ち悪さを感じさせる。
次いで気づいた。奥の床に、壁に、紅いミミズが走ったかのような奇妙な模様があることに。その幾つもの模様は追っていくと一つの終着点に辿り着く。
終着点に立てかけられていたのは大きな柱。
「お、姉様…………?」
紅いミミズ跡は柱を上っていった。
柱が十字架だと気づくのと、そこに吊るされているのがレミリアだと気づくのは同時だった。
吊るされているレミリアは服も着ていない、幼い裸体をそのままに晒していた。
紅い模様の出処はレミリアの素肌からであった。裂傷か、爛れているのか、表現しようもない体中の傷口から血が溢れ出しているのだ。
当のレミリアは微かに呻き声を漏らすくらいで、虫の息と言える。
そばではパチュリーが魔道書を開きながら、何やらよく分からない呪文を詠唱しているようだった。その隣で小悪魔も控えている。
白い部屋の中に、血で白い肢体を真っ赤に汚すレミリアが吊るされている凄惨な光景にフランドールは頭が真っ白になる。
「どうしてお姉様が……こんな酷い目に……」
「フラン様を助ける為ですよ」
「え?」
訳が分からなかった。
「私を助ける為? それでお姉さまは血だらけになったって言うの? ふざけないでよっ!!」
「ふざけてるのは貴女なんじゃないですか」
美鈴は見下しながら溜息をつく。平静を保とうとしているが、怒りを隠しきれていないようだった。
ここで様子がおかしいとフランドールは思った。
今までの悪夢はどうだったか。不条理で理由のない、容赦のない暴力が襲ってくるだけの内容だった。
今回はどうだ。明らかに致命傷を与えるタイミングがありながら、受けたのは無力化の為だけの拳だ。
「誰の所為でお嬢様がこのような、拷問まがいの儀式に、身を投じていると思ってッ!」
「ぎ、儀式?」
「そうよ」
怒りに全身を震わせる美鈴に代わって、呪文の詠唱の合間にパチュリーは答える。
まさか、そんな。
「レミィがどうしても貴女を呪いから救い出したいって言うからね、不本意ながら今、妹様の呪いの肩代わりの為の儀式を行っているのよ」
「肩代わり……?」
「そう。いや、貴女。薄々勘づいてはいたんでしょ? 私が言い渋っていた策は、貴女の代わりに誰かが傷つくモノだって」
タチの悪い夢かと思っていた。荒唐無稽な、ただ痛めつけようとするだけの忌むべき悪夢だと。
しかし、ここまで悪夢が筋が通っているものか。そもそも美鈴は一回転をしたことが示しているんじゃないか。ここが、今は、現実だと言うのか!
「お姉様が……私の代わりに悪夢を……」
「それだけじゃない。呪いを移す際に、出入り口を作らないといけない。その為にレミィはこんな生傷を体中に負っているのよ」
「そんな! 私、何度も言ったじゃないッ! お姉様が、他の人が傷つくのだけは嫌だってッ!!」
「レミィの希望を優先したまでよ。どの道、貴女はこれ以上悪夢に耐えられる筈がなかった」
「嫌ッ!! 私はまだ耐えられるから、私が酷い目に遭えば済むだけだから……だから、やめてよそんな儀式ッ!!」
フラつく身体を何とか起こして、レミリアの方へ向かおうとした。何とか儀式をやめさせる為に。
しかし、その行動はすぐに制された。
「いい加減にして下さいフラン様」
「離せ!! 離してよッ!! うぐぅ……」
美鈴は両腕でフランドールの腋を抱え込むようにして、動けないようにする。
ぎちぎちと、明らかな拘束の色を以て無力化しようとしているようだ。フランドールは痛みに顔を歪めた。
「貴女は、お嬢様に傷を負わせただけでなく、意思までも裏切ろうと言うのですか」
「私は、そんなこと望んでない―――」
「煩いッ!! あのお嬢様の姿を見て、なおそんなことが言えるのか!! そもそも貴女の不注意でこんな事態になっているんだ!! まず謝罪の一つでもしたら」
「それぐらいに、して、おけ」
必死に暴れ美鈴の拘束を解こうとする最中、耳を澄ませてやっと聞こえる声が両者を制した。
レミリアは血を口の端から垂らしながら、焦点の定まっていない目を向けていた。
フランドールは思った。やめて、と。
「いい、か。これは私が望んで、やったこと。フランを攻めるのは、お門違いだ。なに、こんなチンケな儀式なんか掠り傷みたいなモノ……ゴホッ!」
血を吐きながら言うレミリアに、果たして説得力はあったのだろうか。
だが少なくともフランドールを乱すには十分な台詞だった。
ポットのような物を持って小悪魔はレミリアに乞う。
「お嬢様申し訳ありません。儀式の為にまた聖水をお掛けしなければならないのですが」
「構うな、遠慮せずにやれ」
「はい」
「やめて! そんなことしたらお姉様が死んじゃうよ!!」
その声も虚しく、バシャっとレミリアに聖水が掛けられる。素肌に吸血鬼には致命傷を与える聖水を、遠慮なく掛けたのだ。
次いで蒸発する液体の音に混じって、苦悶に喘ぐレミリアの声が、狭く白い小部屋に響き渡る。血の模様はさらに広がっていく。
レミリアの白い肌はもう見る影もない。肉が露出し、骨が抉りだされている、凄惨な光景だ。
ここが都合の悪いことばっかりだったら、まだ悪夢だと信じることができたのに。こんな、あまりに優しすぎる面を見せられては、何を信じていいのか分からなくなった。
未だに迷う。美鈴は一回転をした、お姉様は優しい、即ちこれは現実か。別人のような激昂する様子を見せる周りの人達、酷い目に遭っているお姉様、即ち悪夢か。
選択を誤れば取り返しがつかない。現実を悪夢と取り違えれば勿論のこと、逆だとしてもこのまま放っておけば自らの代わりに他の人が犠牲になってしまうのだ。
「ゲホッ……ゴホッ!! なぁフラン」
「な、に」
「これ以上のことをフランは耐えてきたのか……? 強いなぁフランは」
フランドールは言葉を失った。儚い微笑みを浮かべるレミリアに申し訳なさだろうか、傷つける者に憎しみだろうか、少なくとも負の意識が綯い交ぜになったかのような感情をそこから得た。
周りに視線を向けてみると、パチュリーも小悪魔も美鈴も、皆一様にフランドールを恨みがましい目で見ていた。あたかも。「お前さえいなければ」と暗に示しているかのような目で。
重い暗黒を感じた。そしてレミリアの方に一筋の光を感じた。
「なっ!?」
フランドールは力を振り絞った。腕を振り回し、ついに美鈴の拘束を解くことに成功した。
そして儀式が行われている場へと踏み出す。
「お姉様を虐めるなぁあああッ!!!」
フランドールは右手を伸ばす。狙いはパチュリーの魔道書だった。これさえ無ければ儀式を行うことはもはや不可能になるはずだ。
これ以上ない素早い動きで点を取り出して右手で握りつぶ―――
「…………れ?」
視界が一回転した。
白い床を転がる。
またもや呼吸もままならない。
拘束を解いた美鈴が即座に追いついて、容赦のない延髄蹴りをフランドールに決めたからだ。
白く、明るすぎるくらいの部屋に靄がかかったかのように霞んでいく。
せめて、せめて本くらいは。伸ばされたフランドールの手はポトリと落ちた。力が入らない。
意識を失う瞬間の周囲の目は歪んだ笑いを浮かべていたように思う。
レミリアは。血塗れで表情は伺い知れなかった―――
―――意識が覚醒してくる
「まだ―――のか」
「あと少し―――時間が―――」
微かな声しか頭に入ってこない。
しかしレミリアとパチュリーが話しているということは分かった。
気づいてフランドールは、体を急いで起こした。
「!」
二人はドアの前で儀式の準備をしていた。フランドールのベッドからある程度の距離がある。
ぐっすりと寝ていると思っていた者が急に起きてきたから、レミリアとパチュリーは驚きの表情を浮かべていた。
いや、それだけではない。フランドールの目には鬼気迫る表情が浮かんでいたのだ。
「ねぇ、何をしてるの」
「えっと。これは」
パチュリーは言いあぐんだ。
慎重に、言葉を選ばなければならないと、フランドールの表情から読み取った。
しばらく逡巡し続けていたパチュリーにしびれを切らしたのか、先んじてフランドールは言った。
「儀式、でもしてるの?」
「…………」
「答えてよ」
「そう、よ」
フランドールは表情を変えない。
「それって、お姉様が酷い目にあったりするのかな」
「…………」
「ねぇってば」
「気にすることはないぞフラン、ちょっと私も悪夢がどんなモノか体験したくてね、パチュリーに呪いの移し換えを頼んだんだよ」
「呪い……移し換え……」
その言葉を何度か繰り返した。頭の中でも反芻する。
不穏な空気に冷や汗をパチュリーは流した。
次の瞬間、レミリアとパチュリーの後ろにあったドアが吹き飛んだ。
「な、妹様何をするの!」
「またそうやってお姉様を虐めるんだろう!! そんなことさせるもんか!!」
咆哮の如き声をあげる。
「落ち着きなさい! 貴女がさっきまで見ていたのは悪夢よ!!」
「煩いッ!! お姉様をこんな目に遭わせる癖に悪夢じゃない訳ない!」
正直なところフランドールは現実か悪夢か、その事については今や二の次だった。不信と言ってもいい。
現在、彼女が最も優先していることはレミリアが酷い目に遭わないこと、それだけだった。
「なぁフラン」
「なにお姉様」
「私は、お前を助けたいだけなんだよ」
「分かってる。嬉しいよお姉様。でもね、私はお姉様が痛い目にあっているところなんて見たくないの」
平行線だった。お互いの願いは交差することがない。
レミリアもパチュリーも思った。ここは素直に退いて、諦めるしかないと。
「ちょっとどうしたんですかパチュリー様とお嬢様!」
小悪魔がドアのあった場所から姿を現す。
その手には給仕作業の合間だったからだろうか、ポットを片手に持ちながらやってきた。
パチュリーは嫌な予感がした。
フランドールは小悪魔を見て目の色を変えた。過去の記憶が出てくる。躓いてお湯をかけられたことがあった、聖水を掛けられ、レミリアを見るにも耐えない姿にした忌々しいポットであった。
そのポットを持った、諸々の行為の原因となった小悪魔が、レミリアの丁度後ろからやってきたのだ。
フランドールはその瞬間、想像をしてしまった。
聖水入りのポットを傾けて、レミリアにぶっ掛ける小悪魔の姿を。そして、その後苦痛に歪め、獣のような慟哭をあげる―――思い出したくもない―――赤くグロテスクなレミリアの姿を。全身が逆立つような感覚がした。
―――お姉様を助けないと。
その一心だった。
小悪魔はもうレミリアのすぐ近くにいる。ここでポットだけを破壊したら、飛び散った聖水がどうなるか分かったものじゃない。
つまり、どうするか。右手を伸ばし、点を取り出す。
「お姉様から離れろッ!! 壊れてしまえッ!!」
「小悪魔早く逃げなさい!!」
「やめろフランッ!! ここは現実だッ! 悪夢じゃないんだッ!!!」
走馬灯を浮かべる時のように。
事故に遭遇する瞬間のように。
時間がゆっくり進んでいく感覚がした。
ゆっくりと、ゆっくりと自らの右手が閉じられていく。
レミリアの言葉が響いてくる。
―――現実…………?
心臓が跳ねた。
フランドールは点を潰さないように軌道修正をしようとした。点を右手の中から外へと放とうとした。
しかし少し遅かった。右手が閉じられる。
―――点は、小悪魔の点は無事だろうか!
恐る恐るフランドールは右手を見ると、小悪魔の薄紅色の点はふよふよと自分の手の周りを彷徨いていた。
よかった。しかし、そう安堵した時に、見つけてしまった。
小悪魔の点に一筋の亀裂が走っていることに。
カランカラン。小悪魔の手からポットが落ちる。
次いで顔を見ると、小悪魔は何が起こっているのかが分からないと言った表情のまま、夥しい量の血を吐いた。そして力なく倒れた。
そして、世界は元のスピードで動き始めた。
「小悪魔ぁぁぁああああああ!!」
パチュリーは取り乱して叫んだ。
小悪魔のすぐそばに近寄り、助けを呼んだ。騒ぎを聞きつけていた美鈴がすぐさまやってきた。
「一体何が起こっているんですか!」
「そんなことは後よ! 早く小悪魔を医務室に連れて行って!」
「はい! 分かりました!」
小悪魔を抱えて、揺らさないように、かつ急いで連れて行く
その様子をフランドールは茫然自失として見ていた。俯いて、力のない目で右手を見つめている。ガタガタと大きく震えている。
レミリアはかける言葉を探した。慰めだろうと、とにかくフランドールを救い出してやれる言葉を。
思案していると、突然フランドールの震えがピタリと止んだ。俯いたままピクリとも動かない。果たしてどのような表情をしているのかも分からない。
一体どうしたのか、レミリアはフランドールに手を伸ばそうとしたその瞬間、俯いた顔を上げた。
「はは……アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!! アハハハ。ハァ……」
突然堰を切ったように、壊れた蓄音機のように、笑い声をあげる。
顔は無表情だ。しかし涙を流している。そして笑い声を発していた。まるで人格が乖離したかのように、何もかもが正常と言えなかった。
フランドールは左手で自らの右手を引っ掴んだ。そして吸血鬼の豪力を以て思いっきり右手を握りつぶした。
肉が潰れるグチャりという音が、骨が粉砕されるバキバキという音が、鳴り響いた。
そうして血塗れになった右手を放した。右手は肉の塊と言った様相で、無理矢理に丸め込められた為に、指はあらぬ方向へ曲がり骨は飛びだしている。目も当てられない状態だった。
しかしその右手は十秒を待たないうちに再生を始めた。そして元通りの華奢な右手になった。
また、無表情で右手を掴む、潰す、放す、再生掴む潰す再生掴む潰す再生掴む潰す―――グチャリバキバキ。グチャリバキバキ。
機械のようにひたすらに右手を破壊しようとしている。
レミリアは変わり果てた妹の狂行を止めることも出来ずに、言葉を失い見ていることしかできなかった。
妹の血で服が真っ赤に染められながら、果たして自分が何をすべきなのか、考えても見当もつかないのだ。
その間も肉と骨が破壊される音が響く。
何十回と繰り返された後だろうか、フランドールはやっとレミリアをまともに見た。
「お姉様。お願いがございます、どうか聞いて下さらないでしょうか」
恭しく膝を突きながら、頭を垂れて、別人のような口調でそう言った。
レミリアはそこに深すぎる溝を見た。そして声を何とか絞り出すのが限界だった。
「な……に」
「私は今のままじゃ何をするか分かったモノじゃありません。ワタクシを、隔離……そう、どこかに閉じ込めてくれませんか」
「いや、よ」
「ああ! そういえば誰も立ち寄らないアノ地下室があるじゃありませんか! そこならば確実です」
「い、や」
「私が地下室を壊しやしないか心配ですか? 大丈夫、パチュリーに結界を張って貰えば私にはどうすることもできないです」
「それならば安全です。これならば誰も傷つくことはありません。皆幸せになりますよ」
「私がいたら誰か傷ついちゃうよ」
「ねぇどうしてお姉様は悲しい顔をなさるのですか」
「私なんていない方がいいじゃない」
「お願いしますお姉様。お願いしますお願いしますおねがい……」
ひれ伏したまま、呪詛のように懇願の言葉を吐き出し続ける。
レミリアは言葉を紡ぐ。
「パチェ…………地下室に結界を、フランを閉じ込める為の結界を張ってくれ……」
搾りに搾って、なんとか出した言葉だった。
「レミィ貴女正気!? そんなことして何になるって」
「なら!! 私はどうしたらいいッ!? 分からないんだよ、どうすればフランを傷つけないか。ならさ……フランの言う通りにしてやるしかないだろ……」
「…………」
すっかり自信を消失したレミリアの様子と未だ土下座の格好をしたままお願いをし続けるフランとを見た。
現にパチュリーも、大切な仲間である小悪魔に被害が及んでしまっているのだ。動揺もしているしまともに考える余裕などなかった。どうすればいいかなど分からなかった。
「おねがいしますおねがいしますおねがいしますおねがいします……」
だから、お願いを、聞くしかなかった。
「すぐに結界は貼り終わる……準備が終わったら呼ぶわ」
そう言ってパチュリーは部屋から出て行った。
残されたのはひたすら言葉を繰り返すフランドールとそれを黙って見つめるレミリアだけだった。
その間、レミリアは何も考えないことにした。目を背けたかったからだ。
準備が済んだとパチュリーから伝えられた。パチュリーと美鈴は小悪魔の治療をするということで、レミリアがフランドールを地下室まで連れて行くことになった。
薄暗い階段を下りていく。普段使うことのないので、手入れも行き届いておらず、異臭もするし、埃も酷い有様だった。
レミリアとフランドールは並んで歩いている。その無言の空間は酷く重苦しいモノだった。
無言のまま階段を下りきると、地下室の扉までたどり着いた。それは分厚く、囚人を閉じ込める物となんら相違はない。
開け放たれたその扉には幾何学模様の魔法陣がいくつも刻まれていた。
フランドールは迷いなく地下室の中へ入っていく。中に足を踏み入れた瞬間、扉はゆっくりと閉まり出す。
「ちょ、ちょっとフラン……?」
「なぁにお姉様」
「考え直しては、くれないの」
フランドールは精一杯の笑顔を浮かべる。
「うん。もう何を信じていいか分からないの。お姉様、ここは現実なの夢なの?」
「現実よ。証拠はないけど、誓うわ。ここは現実」
「そう。じゃあもうダメだよ。私は小悪魔をこの手で殺しちゃったんだもん」
「小悪魔が死ぬと決まったわけじゃない。それに殺したと言うけど、貴女が悪い訳じゃない。私もパチュリーも美鈴も、小悪魔でさえそう思っている」
「それでも手にかけちゃったのは事実。このままいけば私は皆、お姉様も殺しちゃうかもしれないよ」
「だとしても! フランがこんな仕打ちを受ける謂れがあるか……ッ!!」
拳を握り締めながら、言葉を漏らした。扉はあと少しで閉まってしまう頃合だった。
フランドールは笑顔を崩さない。
「あ。さっきね、何を信じていいか分からないって言ったけどね」
「うん……」
「お姉様だけは、最初から最後まで優しかったよ。ありがとう」
笑顔から一筋の涙が溢れる。
「ごめんなさい。さようならお姉様」
「ふ、フランッ!!」
フランドールを連れ戻そうと手を伸ばす。
笑みから涙を零すフランドールの顔が近づいてくる。
―――あと少しで!
ガタン。
差し伸べた手は虚しくも、鋼鉄の扉に阻まれた。一転して音もない、地下室の陰鬱とした空気がのしかかってくる。
レミリアは力なく膝を折り、扉に縋り付いた。
「ありがとう」―――私は何かフランの為にしてやれただろうか。
「ごめんなさい」―――謝るべきはフランに黙って儀式をしたこちらではないのか。
「さようなら」―――これが、こんなのが、別れだと言うのか。
レミリアは扉の前ですすり泣いた。
何もしてやらなかった後悔と己の無力さと、フランドールを失った悲しみを思って涙を流した。
「フラン……フランッ! ごめん……不甲斐ない姉でごめんね……ッ!!」
返ってくる言葉は、反響した自分の泣き声だけだった。
目が覚めた。今日は陰気臭い地下室の日かぁ。
じゃあどうしよう。この日は何もすることがないや。
しばらく何もせずにぼぅっとしてた。地下室には何個の煉瓦が使われているのかも数えちゃったし、今度は何をして暇を潰そうかな。
煉瓦の傷でも数えてみようかな。
ドンドン。
煩いノックの音が鳴る。
「フラン。食事を持ってきたわよ」
あ、今日は珍しくお姉様が持ってくるんだ。
確か地下室に入ってから最初の数十年……かな。それくらいは毎日食事を持ってくるなり、話をしにくるなりしてた覚えがある。
でもまた時間が経つと隔日になって、またさらに頻度は低くなって―――今はひと月に一回くらいかな。よく分かんないけど。
「じゃあ入れておいてよ」
「うん……」
ドアの狭いスキマからお皿が出てきた。今日は血のスープかぁ美味しそう。
「ありがとお姉様。じゃあね」
「ね、ねぇ、ちょっと話してもいい?」
あーあ、また始まった。
こうやって日記をつけるように、私に語りかけてくるんだ。
美鈴が今日も寝てただの。パチュリーが今日も本を読んでいただの。小悪魔がまたドジっちゃっただの。新しいメイドを入れただの。
私は適当に相槌を返すしかないのに。もぅ面倒くさいなぁ。
だから今回もお姉様のお話に「うん」とか「へー」で聞き流すことになる。
「―――だからねフラン。そろそろ此処から出てもいいんじゃない」
「やぁよ」
決まってこの日記の締めはこれだ。無理なの知ってるくせに。
「どうして」
この問答も何度目だろう。数えるのも億劫なくらいだ。
「出たくないから」
「もういいじゃない。小悪魔だって無事よ。貴女をこれっぽちも恨んじゃいない。皆会いたいと思って―――」
「もうやめてよッ!! 私が出たって何になるって言うの、傷つけてオシマイよッ!!」
「…………ごめん」
扉を隔ててるからお姉様の顔は全く見えないけど、なんとなく泣いてるんだなぁとは思った・
「また、くるわ。元気でねフラン」
コツンコツン。お姉様の靴の音が遠くなっていく。
さてお腹が空いちゃった。今日のご飯はスープ、スープ〜
あはは、美味しそう。
はぁ……
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
何をやっているのだろうか私は。
お姉様だけはいつも優しく接してくれているのに。それすらも信じられないなんて。今日なんて泣かせちゃったよ!
私は結局傷つけるんだ。
大事な人を傷つけることしかできないんだ。
もう笑うしかない。コワレタ人形のように笑うしかない。
いいのよ。だって私は壊れちゃったもん。
あーあ。いつまで此処にいないといけないのかなぁ。
ずっと此処にいないといけないに決まってるじゃない。
今日はもういいや。寝よう。早く寝ちゃおう。地下室の世界なんてこんなモノだ。
寝たら何もかも元通り。皆と一緒にご飯を食べることのできる世界がある。
そうよそうよ。こんな悪夢なんてどうでもいいじゃない。寝たらこの悪夢は覚めて幸せな現実が待ってる。
アハハ、幸せシアワセ。
はぁ。
……………………
初投稿になります。
産廃への憧れと可愛いフランちゃんへの欲望だけで書きました。
読んでくださった方ありがとうございました。
さんぴょん
作品情報
作品集:
8
投稿日時:
2013/07/04 12:10:08
更新日時:
2013/07/04 21:11:29
評価:
8/12
POINT:
890
Rate:
14.08
分類
産廃創想話例大祭A
フランドール・スカーレット
紅魔館
自分が壊される悪夢を恐れ、
愛する者を壊す現実を畏れ、
心を暗闇に閉ざしてしまった、御可愛そうな妹様。
長い年月の後、彼女の悪夢を破壊したのは、恋の魔法を駆使する流れ星だった……。
多分救いはないんだろうなと思ってたけどやっぱりなかったか…
彼女と皆には絶望しか、後味の悪さしか残らなかったが
いつか訪れるであろう希望によって、彼女達に笑顔が戻る事が楽しみです。
誰が悪いというわけでもなく、運が悪かった。
私としてはこういう不幸で健気で頑張り屋さんのフランちゃんしかありえないですけどw
お嬢様がイケメンでよかった
周りと少し違った妹と、その姉と従者たちは苦労しているなぁとつくづく感じました。