Deprecated: Function get_magic_quotes_gpc() is deprecated in /home/thewaterducts/www/php/waterducts/imta/req/util.php on line 270
『夢萃紅葉』 作者: box
酷熱極まる下を、風は死していた。炎天の彼方、棘光は千草万林を焦がす。
雲の峰は天蓋を見つめ、大様と掌を掲げる。しかし、如何様に体躯を広げようとも、天道は彼方以上にはならない。頂きを湛える輝きは、彼には眩しすぎた。果て無き快晴凱歌の中では、彼は依り無き木の葉にも等しい。
日は東方を発ち、大気を灼熱に満たしていた。地平遥かを埋める森林の上を、遠き西方へ。その下、重畳と連なる木々はそよぐことも無く、身を震わすことも無い。動くものは地を這う虫であり、響くものは蝉の輪唱と、羽音ばかりである。動かざる熱の中で、白昼は微睡んでいた。
不揃いな暗緑の中を、椛は歩いていた。表情と言えるものは、無い。続く者は無く、呼ぶ者も無い。浮かべていると、敢えて言うならば。ただ虚空を貫く、眼差し。隣人と、敢えて言うならば。両手に抱えた、黒塗りの短機関銃。形を失い、鞣し革を薄くした、腰のポーチ。影法師ですら、木立の影、万華鏡の中へと消え失せていた。
縦横彼方、あるのは大樹、その根、その幹。苔蒸した大地を、刺し貫き、隆起させ、枝葉を空に広げる。椛の先に道はない。等しく、その後にも。 茫漠たる森羅、烈日を拒む深遠が、唯一に横たわっていた。椛は纏う天狗装束の袖で以て、額の汗を拭った。されど、些末に過ぎず、雫は散ることを知らない。頬、胸、肋、背、汗雫は流れ、装束に染み、また染み入る。
「………………っ、」
ふと椛は眼光を瞬かせがら、身を屈め、大樹の一つに寄った。その下に、根や石の隆起は無い。僅かな間も無く、椛は顔を上げんとする。銃を地に突き、枝葉を握り、体躯を引き上げる。鈍く、重く。ひたすらに、鈍重に。
再び身を起こした後、椛はポーチの留め金を外して、水筒を取り出す。取り出す、だけだ。蓋を開くことすら無い。椛は瞬きをして、それから、唇を噛む。あまりに容易く持ち上がるそれを、開く必要も無かった。
「限界、か………」
身を起こせど、進まず。目を開けど、見ず。椛は木に寄り、頭を垂れた。発汗の止むことは無い。滴り落ちるのを、椛は拭うことも無い。ただ、流れるに任せていた。
「…か、…る…………」
瞬間。
瞬き、その半端にもゆかぬ、刹那。
椛の目は光を―――塗り潰された漆黒を取り戻していた。 放埒に握られていた銃、引き金に指は添えられ、蒼白を帯びた体躯は、自重を取り戻していた。獣の耳は瞭然総毛立ち、通う紅蓮、血潮の全てで充ちる。
「誰か、いるのか……」
声。男の、上擦った声。覇気は無く、幽細く、震えた声。椛は木に背を傾け、視界を巡らす。堆く生える茨、その影間。暗緑を広げる枝葉、その垣間。暗澹、その静間。銃を握る腕、掌が、椛の胸へ引き寄せられる。
「いるなら、返事を……」
瞬間。
椛の身体は跳ねた。残影の一欠片、風も残さず。地を跳躍し、空を切り捨て、被我間を埋める。捉えた輪郭に、椛は一息の乱れも知らず、銃口を向けた。
「動くな」
「……………!」
瞳を見開いた表情は、椛の視界を細めた。
張り付いた毛を持て余す、浅黒い肌。脂の浮かんだ擦り傷、無軌道に這う髪、端を生やす無精髭。覗く獣耳、白狼天狗であったが、その体躯は椛より一回り大きい。濁った眼、尖った鼻立ちは、年齢を感じさせはしない。
しかし。そのいずれも、椛の知覚に訴えるものを持ち得なかった。眼光を微動だにせず、椛は呟くように言った。
男の額、巻かれたもの。張り裂けんばかりの紅に塗り潰された、鉢巻。
「………赤軍か」
「そう言うあんたは天魔軍……」
座り込み、木に寄りかかったまま、男は椛を見上げていた。瞳は見開けど、震えては無い。軽い息を一つ吐くと、男は口元を緩めた。
「この際頼む、助けてくれ。生き残ったのは俺だけで、この通り動けねえ。弾も無いんだよぉ」
男はそう言うと、右手で左の肩を撫でた。暗褐色を帯びた、包帯を。肩だけではない、腕、指先、横腹、左足の全てにまで。身体の左半の殆ど全てに、包帯が巻き付けられていた。
「力が入んなくてさ、頼むよ」
「………………、」
椛に変わりは無い。瞳、視線、眼光。滴る汗の色、息遣いに到るまで、何も変わりは無い。そのまま椛は唇を動かした。
「………変わらないな」
「え?」
「動けるか、動けないか……私とお前、違うのはそれだけだ……」
二三、男は瞬きを繰り返した。その後、右手で額を拭い、呟く。表情に、僅かな力を含みながら。
「一人、なのか」
無言。
解は、それだけであった。
それだけで充分過ぎた。
椛は銃を下ろすと、男へ近づいた。正確には、男の傍ら、革袋へと。
「少し行けば、仲間の哨戒所があるんだ。連れて行ってくれよ、なあ」
視線を返すことも無く。椛は革袋を手に取った。男が声を上げるのも構わず、物色していく。
「そいつは中身ごとやる。哨戒所の物資だって構わねえ。だから、」
言葉が、途切れる。交わり、錯綜する視線。椛は音も無く、頭も向けず、視線ばかり傾けた。果たして、椛に浮かぶものは変わらない。されど、男は音を失っていた。失わざるを得なかった。
「…………………、」
最も。沈黙は、さほど続きはしなかった。椛は革袋から掴み上げると、男に見えるようにそれを握った。
白銀そのまま、それは男の額を映し上げる。木漏れ日も知らぬ影の中、それは目を見開き、灯す。椛はそれを―――――抜き身の小刀を持ったまま。悠然、整然と、男に近づいていった。
「ま、待ってくれ、止めろ、頼む、」
男は右手を振り乱し、叫ぶ。椛は立ち止まらない。男の右手を払い、掴み上げ。そして身を屈ませ、小刀を突き出した。
「痛むか」
唇のみを震わし、椛は言った。返事は、無い。椛は幾何も無く小刀を引き抜く。その後、横刃の跡に一瞥を投げた。 返るものは無い。青ざめた頬、震える瞳ばかりが、空を揺らす。男の、腹。左半を埋める包帯、その腹。鼈甲、暗澹の入り混じる模様の上、瞭然と裂け目が出来ていた。
血の一滴も、出でぬ裂け目が。
「肉が腐り落ちている。……腑まで、な………」
「…………は、いや……」
男は指先を、掌を、裂け目へ突き入れた。肉を抉り、掻きだし、裂け目を穿つ。垣間見えるものに、朱の一葉もありはしない。糸を引き、口臭を漂わす、紫。その中を泳ぎ、群がり、蠢く、白。屍肉、そして、蛆。
「つまり、お前はもう助からない」
椛は立ち上がると、革袋を肩に背負った。澱みも無く、踵を返し。また元の暗澹へ、歩き出した。
「……待ってくれ、置いてかないでくれ」
椛は振り返らない。男の声。叫び。絶叫。男自身にさえ。
「何とかしてくれ、嫌だ、死にたくない」
「死にたくないんだ、助けて、助けてくれ!」
そんな、折り。椛は、はたと立ち止まった。首を上げ、空を仰ぐと。再び踵を返して、男の方へ歩き始めた。
「あんた、俺を、」
「端へ退け」
息吐くのも束の間、男の言葉は断たれる。
色を失い、彷徨う視線。椛は木に寄り、座り込む。男の様相に、一瞥も無く。
「夕立が来る」
「は………」
形の無い、呟き。色の無い頬、落ち窪んだ瞳。紅に黒を入り混ぜたものが、走り、隆起し、熱を生じさせる。男は息を吐き、言葉を叩きつける。
「俺を、馬鹿にしてるのか!俺は……俺は死んじまうんだッ、無様に糞を撒き散らしながら、蠅公共を集らせて、目ん玉垂らして死んじまうんだよ!」
椛は革袋を地面に置くと、右腕で以て探る。そして、
「消え失せろッ、雨露凌げる木なんざ、幾らでもあるだろ!てめえも野垂れ死んで、犬っころにでも喰われてやが……」
掴みあげたものを、椛は男に突き出した。鼻先、唇の、寸分先へ。幾何かの、沈黙。瞳を歪ませ、男は唇を動かす。
「……………、」
「…………何だよ」
と、唇が閉じる刹那、椛はそれを、男の口へ突き入れた。男の革袋に入っていた、黒褐色を塗り付けた、煙管を。そして火打ち石を二三鳴らすと、煙筒に煙を灯した。
「………あんた」
男は身じろぎもせず、椛を、椛の瞳を見つめていた。水晶の面、眼の中を、鏡月の如く男は映る。重なる時、拍動。数瞬、或いは、永劫の後。男は煙管を持ち上げて。それから、煙を吐いた。
暫く、後。一つ。二つ。小滴が宙を堕ち、身を棚引かせながら、木の根を穿つ。褐色、黄塵の木目は、にわかに暗色を灯し、渇き萎びた身体を伸ばす。続く滴は無い。あるはずも無い。水、天の彼方、頂までを埋める、奔流。文字通り、回天の如く。水はその巨体で以て、地上を強かに打ち払った。日輪など、影も現さない。咆哮を放ち、空を裂く大雲に、身を抱えて、ただ震えるばかりであった。
「なあ」
豪雨の中、一末の灰燼に過ぎぬ、呟き。知覚しながらも、構わず、男は息を吐いた。
「死んだら、どうなるんだろうな」
「わからん」
言葉が消え入るか、否かも知らぬ、即答。続く言葉もまた、半拍の後に響いた。
「あんた、何で、そんな……」
「死んだことが無いからだ」
椛の表情には、少しの変化も無い。視線に緩みは無く、揺れることも無い。ただ、深遠を見つめる横顔を、男は見やると。声を震わし、響かせた。
「なら……どう思うか、で良いんだ……」
「……………、」
椛は答えない。水の大地を打ち据える音が、静寂を浮き上がらせる。風は無い。鳴神の一閃も、走りはしない。水禍であって嵐でなく、豪雨であれど迅雷を呼ばず。水は一人、音としてばかりにあった。
「……嫌なら、いいぜ」
声を出すのも束の間、男は煙管に口をつけ、息を吐いた。白煙は動かず、辺りを所無く漂っている。しかし間もなく、雨露の中へ散り、消え入った。
「自由だとか、平等だとか。どうでも良かったんだ」
頭を預け、自重を棄て。男は大樹に寄りかかり、空を仰ぐ。落ち窪み、垂れた目を、薄く開いて。
「畑作をするより食えるなら、そう、思った、だけなんだ」
椛は男の方を見ない。あたかも、幾千も前から、そしてこれからも、と言うように。しかし。反転し、力無く叫ぶ声に、確かに鼓膜を震わしていた。
「腹一杯になるまで、白い飯を食ってみてえ。ぐでんぐてんに酔い潰れるまで、酒を呑んでみてえ」
何かの軋む音。何かの割れる音何かの金切り、擦れる音。大気は震えることも無く、震わすことも無い。 暗中にあるものと言えば。寄り添う大樹、そして、寄りかかる椛ばかり。しかし、椛はそこにいた。身動ぎもせず、ただそこにいた。
「文字読めるようになって、村のみんなに胸をはりてえ。精一杯飽きるまで勉強して、偉くなりてえ」
「女ってのを抱いてみてえ、そんでもって、子供作って、旨いもん食わしてやりてえ。そんで……」
「しわくちゃの、よれよれの、糞爺になるまで……生きたい……ッ」
男は右手の煙管を、口へ持って行った。しかし、如何様に煙管を噛もうとも、歯は打ち震え、噛み合わず、静寂を知らない。仕舞いに、男は目を見開き、煙管を握りしめながら、臓腑を響かせた。
「なあっ……怖いんだ……俺は怖いくて仕方ないんだよぉ……死んだら……消えちまう、俺が、俺で無くなっちまうっ……」
男は深く息を吸い、吐き出し、肩を上下させる。しかし、言葉を発することばかりは、止めようとはしない。
「理屈なんかじゃねえ、怖いんだっ……身体が冷めていくのが、息を吐くのがとんでもなく大変なことがっ……」
「怖ええよ……死にたくねえよぉっ……」
「………………、」
相変わることは無い。椛は雨霞の中を、緑帯びる暗がりを、覗いていた。そして、そのままに。唇だけを、動かした。
「……恐怖を感じることは、悪いことじゃない」
「恐怖が無ければ、生きることは出来ない……」
「俺はっ……死ぬんだぞっ……今更……!」
「身を任せろ」
男の言葉を。男自身を、射抜くかのように。言葉は、刹那に響いた。
「考えても仕方の無いことは……考えるな」
瞬間。
男は、色を失った。骨張った頬は、幽かな色も失い。瞳は小さな震えを繰り返しながら、椛の方を見やる。頭は上を向いてるのではない。木目の腹に身を預け、傾いているだけでしかない。
幾何と、そうしていただろうか。その後、ふっ、と、男は表情を歪ませた。
そして
一抹の熱、涙滴を、頬に穿った。
「怖いよ……」
言葉の体を成さぬ、呟き。男は再び、煙管を口元へ運んだ。歯は打ち震え、噛み合わず。握る指もまた、等しく。されど男は、無理やりに煙管を噛み締めた。止め処なく溢れ出ずるものを、拭うこともせず。
「怖い、よぉ……母ちゃん………」
後に続く声は無い。呟きも、意味を為す言葉の全ても。あるのは、叫び。嗚咽、そして、啜り泣き。雨は止まることを知らない。瀑水を上げ、飛沫を散らし、轟咆を鳴らす。
されども。男は、響いていた。少なくとも、その身の辺りには。
果たして、日輪は姿を見せはしなかった。彼はとうに地平の果てへ身を潜らせ、一条の光熱も振り撒くことは無い。ただ夜の闇が、天を包み、地上を見下ろす。その下、雲海は未だ、天頂を掴んでいた。剛腕、剛脚の赴くままに、身を伸ばし、天下を臨む。されど、その身より降り墜ちるもの、雨霞は無い。雲は大気の内を漂いながら、塵と消ゆのを待つばかりであった。
乾き、音も沈んだ闇の中、椛は立ち上がった。銃を握り、革袋を手に持つと、歩き出す。が、程無くして立ち止まると、踵を返した。
大樹の際、横たわるもの。色を、熱を失った、男の身体。既に動かぬ、動く筈の無いもの。男は右半身を泥に埋め、そこにあった。椛は歩み寄り、膝を折る。
「………………、」
椛は泥の中から、冷たくなった煙管を摘み上げる。そして、拭うことも無くそれを、男の唇に潜らせた。
しばらくし、椛は音も無く立ち上がった。男に背を見せると、再び銃を握り締める。
椛は歩き始めた。
天蓋の果て、漆黒の帳。
酷熱は澱み、晴れない。
- 作品情報
- 作品集:
- 8
- 投稿日時:
- 2013/08/30 07:12:54
- 更新日時:
- 2013/08/30 16:12:54
- 評価:
- 5/7
- POINT:
- 530
- Rate:
- 15.86
- 分類
- 犬走椛
- 叙情、或いは夢幻
一人ぼっちの敵兵に、口を、きいてやった。
死に逝く者への、最大の労い。
これで、奴さんは救われた。
ヤツも椛も、地獄逝きなのは変わらないがな。
椛のサブマシンガンはスオミだそうですが、私の脳内では『立体資料』を持っているPPSh41に変換されています。
はぐれ一匹狼の椛の道中記、シリーズ化希望。
こういうハードな椛大好きです。
なんか国語の教科書に載ってそうだなぁと思いましたwww
それにしてもこの椛真面目である