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『明日を生きる意味』 作者: バルゴン

明日を生きる意味

作品集: 9 投稿日時: 2014/03/17 21:03:06 更新日時: 2014/03/18 06:03:06 評価: 5/13 POINT: 650 Rate: 12.27
 明日を生きる意味はあるのだろうか。


 フランドールは、自室のベッドに寝転がりながらそう考えた。
 重力に従った態勢で空を見上げると、灰色の天井に混じっていくつかの染みが見える。これまでに数えきれないほど見てきた光景だ。
 右の染みはコップに似ていて、左のものは熊のぬいぐるみに似ている。昨日はモップと積み木に見えた。ただの模様でも角度によって色々なものに見える。
 まるで星座だなとフランドールは思った。ただ一つ違うのは――

「夜空の星と天井の染みじゃあねぇ……」
 小さくため息を吐く。
 館の外へ出ることは禁止されていた。出てみたいとは思わないでもないが、挑戦する度にメイドが慌てふためくわ雷雲が招来されるわで大騒動になるのだ。
 そんな騒ぎを起こしてまで外でやりたいこともないので、結局館の外の世界を今日まで知らない。
 加えて特段部屋を出る用事もないので、地下室でゴロゴロしながら天井の染みを見つめるのがフランドールの日課となっているわけである。


 昨日は自室で過ごした。今日も自室で過ごしているし、おそらく明日も自室で過ごすのだろう。
 昨日も今日も明日も、同じことの繰り返し。それなら本当に明日は明日なのか。今日も明日も変わらないのではないだろうか。
 鬱々とした考えが循環し、思わずため息が大きくなる。何一つ変化の無い、退屈した毎日。


「ずいぶんおっきなため息だね。何か嫌なことでもあったの?」
 ベッドの淵からひょっこり顔を出した人物がいる。最近よく地下室に遊びに来る少女だ。名前を古明地こいしといった。
 たまたま迷いこんだという奇妙な理由で部屋を訪問したこいしは、それ以来何が面白いのかフランドールの元に通い続けている。
 酔狂な人物なんだな、とフランドールは思う。同じ人と何度も会うのは初めての経験だった。

 古明地こいしは「変なやつ」という認識に落ち着いたのだが、こいしの話はすこぶる面白いものだった。紅魔館の外の話、外の地下にあるという旧地獄の話、そしてこいしが住んでいる地霊殿の話。どれもフランドールにとっては新鮮で、興味深い話であった。
 そういうわけで、フランドールはいつしかこいしの訪問をなんとなく楽しみにするようになったのである。


「フランちゃん?」
「ううん、なんでもないよ」
 フランドールは上体を起こした。
 こいしが来訪したことで、先ほどまでのどんよりした気分は消え去っていた。そんなことより今は、こいしの土産話が気になる。

「はい、これ」
 こいしが差し出してきたのは、ピンクのリボンでラッピングされた透明なビニールだった。
「お姉ちゃんに話したらね、二人で食べなさいって」
 中に入っているのは、茶色いクッキー。所々にチョコチップが彩られている。包みを開けると、食欲をそそる甘い香りが部屋いっぱいに広がった。

 こいしの姉、名前はさとりというらしい、の好意に甘え一枚いただく。生地はサクッとしていて、作った日が近いことを感じさせる。館のものより甘味が強いが、フランドールはむしろそちらの方が好みだった。


「うん、甘くてとってもおいしいよ」
 率直な感想を伝える。
「でしょ!? お姉ちゃんの作るお菓子って、甘くて、それで美味しくって。私もすっごく好き!」
 まるで自分が褒められたかのように、得意気になるこいし。そんな姿を見ていると、羨ましく思う反面、少し妬ましくもなる。

「いいなぁ、こいしのお姉さまは。外に出してくれる上に、お菓子まで作ってくれるなんて」
 一方の姉は妹に自由に外出許可を与えて、さらに手作りのお菓子まで包んでくれる。もう一方の姉は妹にプレゼントを渡したことが無いばかりか、生まれてから外にすら出したこともないのだ。少しばかり不公平ではないのか。

「そんなことないよ。きっとフランちゃんのお姉ちゃんも、何か考えがあるんだって」
 こいしが励ます。ただ、そう言われても納得できるものではない。


 少し前までは、自身の境遇に何の疑問も抱かなかった。
 生まれて以来数える程度しか地下室から出ることを許されなかったのも普通であったし、紅魔館の敷地から一歩とて出たことが無いのも普通だった。

 そういうものだと思っていた。

 だから屋敷から出てみたくなっても、少し鬱憤を晴らすぐらいで我慢していた。
 屋敷からの外出はわがまま。フランドールの認識はそうだった。


 ところが、こいしの話を聞くとそんなことは無いのだという。
 家から外に出ることなど日常茶飯事であるし、むしろ一歩も出たことが無い方がおかしいと言われたときは、少なからず衝撃を受けた。
 最初は嘘だと思ったが、生きた証拠であるこいしが言うのだから信じざるをえない。

 そういうわけで、フランドールは姉に対して疑惑の念を覚えずにはいられないのだ。
 しかしながら、レミリアに常々「外に出てはいけない」と言われているのもまた事実だった。そういうわけで、腑に落ちない箇所もあるが未だに外へは出ていない。


「フランちゃん?」
「ん、あ、ごめん。なんでもないよ」
 少し考え事をしすぎたようだ。こいしの丸い瞳がフランドールの顔を覗いてくる。
 心配されるのも悪いので、軽く笑顔を作ってから片手に残っていたクッキーを頬張る。こいしの好みに味付けしてあるであろう菓子の甘みが、口いっぱいに広がった。

「そうだ、私も紅茶淹れてあげるね」
 貰ってばかりというわけにもいかないので、部屋にあるティーセットを準備する。
 こいしが頻繁に訪ねてくるようになってから、メイド長に無理を言って使っていなかったものを譲ってもらったのだ。


「すごいねー、フランちゃんは」
 こいしが、乾いた口内をフランドールの淹れた紅茶で潤して言う。
「すごい? 私が?」
 思わず目を瞬かすフランドール。
「うん、紅茶淹れられるなんてすごいよ。私はできないもん」
「そんなこと言うなら、こいしの方がすごいよ。私は道に咲いてる花の種類も知らないし、鳥や動物と遊ぶやり方も分かんない。たくさんの人の前で戦ったことだってないし、そもそも屋敷を出たことすらないんだもん」

「じゃあ、出てみない?」
 こいしの手が差しのべられる。
「話したことあるよね、私の能力。これなら、簡単に外に出られるよ?」
 こいしの能力。誰にも気づかれずに移動できる力と教えられていた。
 まだ見ぬ世界へ、優しく誘うこいしの手。この手を取れば外へ出ることなど造作もないだう。


 日傘を差し、こいしと門を通り抜ける。
 ただ広い原っぱを走り回ったり、草と花で冠を作ったりして遊ぶのだろう。その情景を想像してみると、心が踊る。

 しかし、その事実を知って怒りに身を震わす姉の姿も脳裏によぎった。
「ごめんなさい。お誘いはとっても嬉しいんだけど、お姉さまに駄目って言われてるから」
「そっか、しょうがないね」
 そう言いながら俯くこいしは、心底残念そうだった。こちらまで悲しくなってしまうほどの落胆ぶりだ。
「こいしったら、そんな顔しないでよ。お外は駄目でも、お話なら聞けるの。だからいつもみたいに、あったことを私に教えて?」
「……うん、そうだね」
 口ではそう言うものの、こいしの顔は曇ったままだ。


「もう、そんなこいしはこいしじゃないよ!」
「わっ」
 がっかりしたこいしは見たくないので、体重を乗せて抱きつく。二人してカーペットにごろん、と転がった。
 そのとき、フランドールの衣服が軽く捲れる。

「あれ、そのお腹の傷どうしたの?」
「あ、これ? お姉さまの大事な花瓶割っちゃって、そのときのお仕置きの痕なの」
 自分の横腹をさする。たしかに、白い肌に細長い真っ赤な傷痕は目立つ。
「……お仕置きって?」
「うーん、鞭とかで叩かれるんだけど……
 ってこいし、どうかした?」
「あ、ううん、なんでもないよ」
 顔をしかめながら話を聞いていたこいしだったが、ハッとしたように笑顔になる。その笑みにはどことなくぎこちなさも感じたが、こいしが笑顔になったのでやっとフランドールも笑うことができた。





「それじゃ、もう今日は帰るね」
 話が弾むと、時が経つのは早い。
 もう日が暮れているであろう時刻を確認して、こいしが帰り支度を始める。


「また来るよね?」
「もちろん。今度は、私手作りのキャンディーなんて持ってきちゃおうかな」
「あっ、ちょっと待って」
 帽子を被って出ていこうとするこいしに、フランドールが近寄る。

「どしたの?」
 こいしの隣へ来たフランドールが、めいっぱい背伸びをする。背の高さは、フランドールの方がこいしより指三本分ほど低い。
「んっ」
 こいしの頬にふんわりと口を付ける。親愛の証だった。


「えへへ、待ってるから」
「まっかせなさい。今まで食べたこと無いぐらいに、美味しいキャンディーを持ってきてあげるからね」





「外出だ? 駄目に決まってるじゃないの」
 フランドールの頼みごとへの返答、レミリアの第一声がこれであった。
「ちょっとぐらい許してくれたっていいじゃん。ねぇー」
 玉座にふんぞり返っている姉の肩を揺らす。不満が声にまで滲み出ていた。


「駄目ったら駄目。こないだまではそんなこと言わなかったのに、今日にどうしたのよ?」
「だって――」
 だってこいしが、と言おうとして慌てて口を紡ぐ。こいしと会っていることは、誰にも言っていない。

「だって、何?」
「だって、おかしいじゃない。生まれてから一度も外に出たことないなんてさ」
「そんなことないわよ。これまでずっとそうだったじゃない」
「じゃあ、これまでもおかしい」
 食い下がるフランドールに、やれやれとレミリアが肩を竦める。


「そう言われたのかしら? あんたに会いに来た子に」
 レミリアに事情を的確に言い当てられ、心臓が跳ね上がった。
 ごまかさなきゃ。咄嗟にフランドールは取り繕った。


「な、何言ってるのよ。誰とも会ってなんて……」
「へぇ、それならこれは何かしらね?」
 レミリアが見せびらかしてきたのは、クッキーの包みだった。頬杖をつきながら、にやにやと笑っている。

「私のとっても優秀なメイドがね、わざわざゴミ箱から拾って報告してくれたのよ」
「そ、それは……」
「それとクッキーの食べ滓、薄い緑の髪の毛、二人分のティーカップ。反論があるなら聞くけど」
「っ……」
 返答に窮したフランドールを見て、レミリアは満足げに笑った。

「ほら、何黙ってるのよ? 言いたいことがあるなら、言ったらどう?」
「ええそうよ、会ったわよ。分かってるなら、最初からそう言えばいいじゃない」
「それじゃあ、つまらないわ。フランの悔しがる顔も見られないしね」
 腹の立つことを言う。無断で人と会っていたのが、それほどいけないことなのか。


「とにかく、金輪際そいつと会うのは禁止」
「なっ、横暴よ!」
「横暴で結構。どこの鼠か知らないけど、あなたを外に出すだなんて危険思想を持った輩を、これ以上あなたと会わせるわけにはいかないわ」
「そりゃ私の能力は確かに危険だけど、そんな言い方……!」
「分かってないわね。ま、いいわ」
「よくない!」
 語気を荒げるフランドール。それを見たレミリアは、呆れたように欠伸をする。目尻の涙を拭いながら、自分の妹を指差して言った。


「私は口答えなんてするように教えたかしら。罰として部屋で謹慎処分」
「ふざけないで! そんな勝手に決めないでよ!」
「勝手でも勝手じゃなくても、決めたことは決めたこと。咲夜!」
 レミリアが従者を呼ぶ。次の瞬間には涼しげな顔で佇む、銀髪のメイド長の姿があった。

「フランを部屋に連れていきなさい。鍵をきっちり掛けてね」
「承知しました」
「ちょっと、話は終わってないわよ!」
 フランドールが抗議の声を上げるが、気がつけば既に自室にいた。咲夜の能力で時間を止められている間に、運ばれたのだろう。


 慌ててドアへ駆けていき、ドアノブを回そうとする。ガチャガチャと音がするが、ノブは回らない。
 まだ咲夜は離れた場所にはいないだろう。そう考え、ドアを叩きながら呼びかける。
「ねえ、ここ開けて」
「いけません、お嬢様の言いつけですよ」
 扉の向こうから声が聞こえてくる。やはり、まだそこにいる。

「そんなの知らない。開けてくれないんなら、扉を壊すわ」
「それも駄目です。お嬢様のお仕置きがひどくなりますよ」
 お仕置きがひどくなる。そう言われると黙るしかない。


「あまり聞き分けの無いことを言って、お嬢様を困らせないでください」
「でも――」
「では失礼します」
 地下室の階段を登る音が聞こえる。どうやら、行ってしまったようだ。

「どうして……」
 冷たく無機質な地下室にフランドールは取り残された。
 何故自分が外に出てはいけないのか、姉の考えが分からない。たしかに能力は危険だ。だが、それだけではないか。
 それに、ただそれだけの理由で自分の交友関係にまで口を出されるのは、納得がいかなかった。


「こいし……」
 もう会えないのかと思うと、無性に会いたくなる。
 外部との繋がりが一切遮断された地下室の中で、友人の名前を呟いた。








 姉に挨拶をする。家を出る。洞窟を抜ける。地上へ飛び出す。野を駆ける。古明地こいしは上機嫌であった。手にはキャンディーの入った袋が握られている。
 霧のかかった湖を脇に通りすぎ、悪趣味なまでに紅く染まった屋敷へと踏み込む。湖の妖精も屋敷のメイドも、門番ですらその存在には気がつかない。

 広大な館の中を迷うことなく進んでいく。初めて訪れたときには、まるで迷路のように感じた館だ。だが幾度も足を運ぶにつれ、ただ一ヶ所だけは場所を覚えた。
 入り口から遠く、まるで隠されているかのように配置された通路に入る。その突き当たりにある地下への階段。そここそが、こいしの目指している場所であった。


「到着っと」
 地下室へ続く巨大な扉を前にして、身だしなみを整える。髪は乱れていないか、服は汚れていないか。
 続いて念のために書いてきた紙で、味ごとの個数を確認してみる。こんなの書いてきて、昨日の自分はよほど張り切っていたのだろう。ペンまで一緒に入っていた。
 よし、大丈夫。こいしは扉のノブに手をかけた。

「あれ?」
 前日は開いていたはずの扉が、開かない。押すのではなく引くのだったか、そう考え実践するが、ドアはぴくりとも動かない。
 まさか引戸だったかと思って横に滑らせようとするが、やはり開く気配は無い。


 おかしい。
 これまで何度も訪問してきたが、扉に鍵が掛かっていたことは一度も無かった。心に不安が過る中、ノックをしてみる。

 一度叩く。反応は無い。
 二度叩く。反応は無い。
 三度叩く。やはり反応は無い。

 ひょっとして不在なのか。そう思って声を発してみる。
「フランちゃーん、お留守?」


 ややあって反応があった。
「こいし、そこにいるの?」
 ここ数日で聞き慣れた、鈴を転がすような声。フランドールだ。

「うん、私だよ。キャンディー作ってきたんだ。ここ開けて?」
「……ごめん、開けられないの」
 悲しそうな声色だった。


「どうかしたの?」
「うん。それがね、こいしと会ってたことがお姉さまに知られちゃって……」
「こないだ言ってた、フランちゃんを閉じ込めてた人?」
「うん。それで、もう会っちゃ駄目だって……」

 意味が分からなった。フランドールの言っていることが、ではない。フランドールの姉の考えていることが、だ。
 たしかに無断で出入りしていたのは、いけないことだと自覚はある。しかし、フランドールへの無断訪問が発覚しただけで「会っちゃ駄目」というのは、少し変だ。
 それにフランドールの部屋に外から鍵を開けられているのが、なおさらおかしい。これではまるで監禁だ。
 昨日見たフランドールの傷にしてもそうだった。花瓶を割っただけで、普通妹を殴りつけるだろうか。


「鍵のある場所は分かる?」
 助けなきゃ。こいしは直感でそう思った。

「ええと、咲夜が持ってるのと、あとお姉さまの部屋にあると思うんだけど……」
「そのお姉ちゃんの部屋はどこ?」
「二階のどこか。扉が豪華だから、すぐに分かると思う」
 それだけ分かれば十分だ。こいしは帽子を深く被る。
 気分は邪悪な魔物からお姫様を救出するナイトだ。

「ちょっと待っててね、すぐに助けてあげるから」
「取ってくる気!?」
 ドアの向こうで、驚く声がする。
「やめた方がいいよ! お姉さまってとっても怖いし、もしこいしが捕まったら殺されちゃうかも……」
「平気だよ、かくれんぼは得意だからね」
「でも!」
「そんなに心配しなくてもいいって。そんなことより、キャンディーの何味を最初に食べるか考えといて」

 フランドールの返答を聞かず、こいしは駆け出した。
 脳裏にはもう、キャンディーを嬉しそうに口に入れるフランドールの姿が浮かんでいる。



「なんか、拍子抜けだったなぁ」
 地下室の鍵を手にしたこいしの感想は、それだった。

 フランドールの姉、レミリアの部屋には鍵が掛かっておらず、侵入は容易だった。そして部屋の机、その一番上の引き出しにぽつんと鍵が置いてあった。
 それを拝借して、こいしはレミリアの部屋から立ち去ったのだった。無論、誰にも見つかっていない。


 地下室の前に立ち、再びドアをノックする。
 だあれ、というあどけない声が聞こえた。
 鍵を持ってきたことを伝える。入って、と元気な口調が響いてきた。

「おじゃましまーす……」
 こんな言葉を使ったのは、久々だ。やっぱり少し、緊張しているのだろう。
 音がして誰かに気づかれないように、ゆっくりドアを閉める。


「こいしっ!」
「わっ」
 部屋に入った瞬間、小柄な吸血鬼が胸の辺りに突進してきた。よろめきながらも、なんとか受け止める。
「もう会えないかと思った……」
 腰に手を回され、ぎゅっと抱きつかれる。その金色の髪を優しくなでた。

「大丈夫。どれだけ閉じ込められても、何度だって会いに来るから」
 フランドールはいっそう強く、こいしを抱きしめた。



「このいちご味、甘酸っぱくておいしいなあ」
「でしょ? これはお姉ちゃんがね……」
 それからは、いつも通りの時間が流れていった。
 フランドールが閉じ込められていたことや、会うことが禁止されていたことは、もう大した問題ではなくなっていた。

「こいしー、この緑のは?」
 フランドールがキャンディーの一つをつまみ上げ、尋ねる。
「それはメロンだよ。ペットのお燐が好きなんだ」
「あ、前言ってた猫の?」
「そうそう」


 穏やかな時間だった。
 こんなことが、ずっと続けばいい。こいしはそう思う。

「ねえ」
 フランドールが呼びかける。
「なあに?」
「これからも、私に会いに来てくれる?」
「当然だよ。絶対に約束する」
 そう断言すると、フランドールははにかんだように笑った。その笑顔がいとおしい。



「なんか変な音しない?」
 突然そう言われ、辺りに耳を傾ける。
 吸血鬼というのは、どうやら耳もいいらしい。それほど身体能力が発達していない覚り妖怪には、特に何も聞こえなかった。

「なんだろう、水が流れる音みたいな」
 そう言われてもっとよく耳を澄ますと、たしかにそんな音がする。
 先ほどまでは聞こえなかったが、今でははっきりと聞こえてきていた。音が近づいている。

「水洗トイレでも増設したんじゃない?」
「近づいてくる水洗トイレなんて、怪奇以外の何物でもないわね」
 などと冗談を言っていると、ドアの下から水が浸入してきた。隣で流水が苦手な吸血鬼がビクリとするのを感じる。


「な、なによこれ……」
 服の裾を掴まれる。その手はかすかに震えていた。
「雨漏りかなんかじゃないの? 気にすることないって」
 フランドールを安心させようと、できるだけ呑気な口調で話す。
 吸血鬼は流水に触れると力を失うそうなので、水に浸からないようにベッドに移した後、一人でドアに近づく。


 外から発せられる水音は、もはや轟音の域に達していた。部屋に浸入する水の量も増している。
「こいし、危ないっ!」
 ベッドの上でなるべく水から遠ざかっていたフランドールが叫ぶ。地下室のドアが水圧でガタガタと震えていた。
 水音に、ドアの軋む音が混じる。部屋に大量の水が浸入してこようとしているのは明白だった。

「フランちゃん! このドア以外に出入口は!?」
 フランドールが青ざめた顔で首を振る。フランドールを閉じ込めていた部屋だから当然か、と思考に諦観が混じる。


 ドアのつがいが外れた。水が怒涛の勢いで流れてくる。背後で悲鳴が聞こえた。
 後ろの友達を守らなきゃ。きっと吸血鬼は泳げない。
 そこまで考えたところで、こいしの身体と意識は濁流に呑み込まれた――








「パチェ、フランと侵入者は無事?」
「ええ。意識はないけど、呼吸は安定してる」
 地下室が水で満杯になったのを確認してから、薄紫のローブを身に纏った魔導師は魔法の泡で包み込み、中の二人を引き上げた。二人とも水を大量に飲んでいるようだが、命に別状は無さそうだった。

「にしても、パチェの言う通りだったわね。フランを閉じ込めて鍵を分かりやすい場所に放置しておけば、必ず侵入者は鍵を開けてフランの部屋に入ってくる」
「結局、侵入者の目的地は分かってるもの。ならそこに誘導してあげるのが、一番手っ取り早いだけよ」
 パチェと呼ばれた魔導師は、銀髪の少女にぶっきらぼうに言った。


「さてレミィ。この妖怪は地底の重鎮よ。妖精程度ならともかく、こいつを殺すと後々面倒なことになるわ」
 そう言われると、レミィと言うらしい少女は形のいい顎に親指を当てる。

「ふーむ。それならこいつには、フランを嫌いになってもらうしかなさそうね。フランには少し気の毒だけど」
「どの口が言うのかしら。溺れさせた張本人なくせに」
「私はいいのよ。姉だから」
 やれやれ、と言うように魔導師は肩をすくめた。


「咲夜、この二人を図書館に運びなさい」
「ただちに」
「ってレミィ、なんで図書館なのよ」
「そっちの方が都合がいいから」
「あなたの?」
「あなたの。それでパチェには、今から言う物を用意してもらいたいんだけど……」
 魔導師とメイドに指示する少女の顔には、邪悪な笑みが広がっていた。








「うっ、うぅん……」
 こいしは、体に生じた異物感に叩き起こされた。水が耳に浸入してくるような感覚、というよりそれそのものだ。
 どうやら水の張っている場所で寝てしまったらしい。髪も服も水分を吸って重くなり、肌に張りついている。
 寝起きのぼんやりとした頭で、どうして寝てしまったのか考える。そうしてようやく、自分が紅魔館の地下室で溺れたことを思い出した。

 とにかく状況を確認しよう。
 そう思って横たわった体勢から起き上がろうとするが、上手くいかない。両手が背中で固定されたまま動かないのだ。足も同様に、閉じたまま押さえつけられたように自由を奪われている。
 嫌な予感がして首を背中の方に回すと、手首に囚人がつけるような手錠が嵌められていた。足首には同じ形状の足枷。
 攫われちゃったのかな。こいしはため息を吐きながら思う。
 それと同時に、一緒に溺れたフランドールが気になった。そうだ、あの子はどうしてる。

 自由にならない体でなんとか膝立ちになって辺りを見回すと、隣に自分と同じように気絶しているフランドールを発見できた。手錠に足枷、自分と違うのは指にまで拘束具を装着させられていることと、首輪がついていることだった。
 いや、ひょっとしたら自分にも首輪はつけられているのかもしれない。


 何度か名前を呼びかけると、フランドールは目を覚ました。そして、やはり自分と同じような反応をして、拘束された体に驚く。
 そこで思い浮かんだ疑問をぶつけてみた。

「ねえ、これ壊せたりしないの? フランちゃん吸血鬼なんでしょ?」
フランドールが力なく、首を振る。
「この鎖、銀が使われてるみたいで力が全然入んないの。せめて指さえ動けば、こんなの一発できゅっとしてドカーンなんだけど……」
 言われて、フランドールの能力と施された拘束を思い出す。指錠をされてしまうと、手は握れない。


 使えそうなものが無いかと辺りを観察すると、今いる場所が水槽のようになっていると分かった。部屋に置かれた水槽の中に拘束されて、入れられている。水槽はそれほど大きくない。
 水槽の下部には自分とフランドール、そしてうっすら溜まった水。上部はぽっかり空いていた。壁はガラス張りで、奥にはさらに巨大な本棚がいくつも見える。

「上から出れるよ!」
 現状を把握したフランドールが嬉しそうに叫んだ。水槽の上部は3mほどだ。空さえ飛べば脱出は難しくない。
 善は急げとばかりに、フランドールは翼を羽ばたかせ、宙を舞った。


 その姿を見ていたこいしは、ふとフランドールの首に目が移る。
 首輪が嵌められていて、さらにそこから鎖が伸びている。どこに繋がっているのか。目で追おうとしたところで、金属と金属の擦れあう音が聞こえた。
 それとほぼ同時だった。首が勢いよく地面に引っ張られる。

 頭が床にぶつかった。顔が水に浸かり、頬をぶつけた痛みで思わず声が出る。
「だ、大丈夫!?」
 悲鳴を聞いて、フランドールが慌てて戻ってきた。どうやら、フランドールの鎖の先は自分の首輪であるらしい。


「平気だよ、ちょっとびっくりしちゃっただけ」
 フランドールを宥めながら、鎖の仕掛けを見る。二人につけられた首輪が、床の出っ張りを通して鎖で繋げられていた。片方がこの場所から動こうとしても、もう片方がつっかえて動けない仕組みだ。
 誰が、何のために。疑問が頭を過る。


 そのとき、外から声が聞こえた。
「あら、もう起きてたの」
 落ち着き払った少女の声。見れば、フランドールによく似た少女がそこに立っていた。その背後には、分厚い本を手にする無表情な魔女。

「お姉さま!」
 フランドールがその姿を見て驚く。
 あれが噂の「レミリアお姉さま」か。なるほど、姉妹と言われれば雰囲気が似通っているのにも納得がいく。
 問題は、その「レミリアお姉さま」が何故仕切りの外から自分達を見ているか、だった。


「初めまして、侵入者さん。私がこの屋敷の主レミリア・スカーレットよ」
「初めまして、フランちゃんのお姉ちゃん。状況がいまいち飲み込めないんだけど、これは一体どういうこと?」
「そうよ! それに私の部屋を水浸しにしたのも、お姉さまなの!?」
「侵入者さん。あなたが紅魔館に侵入した経緯とか理由とかは、この際どうでもいいの」
 屋敷の主は、こいし達の質問にはまるで耳を貸さずに話し始める。お前と話すつもりは無い。そう言われている気がした。
「単刀直入に言うとね、あなたにはもうフランに会ってほしくないのよ」

 何故そんなことを指図されるのか。こいしが口を開く前に、すでにフランドールが食ってかかっていた。
「どうしてそんなのお姉さまに言われなくちゃいけないの!? 私が誰と会ってても私の勝手でしょ!」
「フラン」
「それとも何、私はどんなことでもお姉さまに許可を取らなきゃいけないの!? こんな調子じゃ、ご飯を食べるときや寝る前にだってお姉さまに――」
「フランドール」

 レミリアが、ずしりと重い口調で妹を呼ぶ。声を荒らげたわけではない。
 それにもかかわらず、フランドールは怯えた表情で口をつぐんだ。そのまま目を伏せ、姉の姿を見ないようにする。
 実の姉を怖がっているのだ。こいしならさとりを相手に、絶対にしない表情だった。


 レミリアが再びこいしに視線を移す。
「フランは情緒不安定で、あんまり刺激してほしくないの。今は大事な時期なのよ。分かってくれないかしら?」
「そんなこと言っちゃってさ、フランちゃんのことなんて全然考えてないのは分かってるんだよ。猫被るのやめたら?」
 思わず口をついて言葉が出ていた。
 今のフランドールは、レミリアを本気で怖がっているのだ。このまま、はいそうですかと引き下がることはできない。

「……なんですって?」
「その、いい姉を演じてる風をやめろって言ってるの。本当に大事に思ってたら、生まれてからずっと地下室に放っておくなんてしないし、花瓶割ったぐらいであざになるまで殴らない。そんな演技じゃ猿でも騙せないよ」
「へえ、言うじゃない」
「それにそう言うだけなら、なんで私とフランちゃんを縛ってこんな水槽みたいなとこに入れる必要があるのさ。どうせ言って聞かせるつもりなんて無いんでしょ?」


 こいしの反論を聞いていたレミリアが、鼻で笑う。そして愉快そうに言った。
「あー、残念。もうちょっと聞き分けのある子ならよかったんだけどねぇ、パチェ」
 ずっと黙っていた魔女への呼びかけだった。名前を呼ばれた魔女は呆れたように、はいはいとだけ返事をした。

「それなら、二度とこの屋敷に立ち入る気がなくなるようにしてあげるだけよ」
「ふーん。別に何が起きても、フランちゃんに会いたくないとは思わないだろうけどね」
「こいし……」
 不安そうにしていたフランドールに、笑顔を見せる。この暴虐な姉にフランドールを渡すつもりはなかった。


「これから一つゲームをしましょう」
「私はともかく、フランちゃんも?」
「当然、強制参加よ」
 隣で緊張しているフランドールを見る。自分が勝手に会いに来たのだから、フランドールにまで巻き込まれるのは心苦しかった。

 この姉もそれが狙いなのだろう。レミリアが話を続ける。
「ルールは簡単。あなたがフランともう一生会わないと約束すれば、二人ともその中から出してあげる」
「約束しなかったら、犬か猫みたいに一生ここで飼われるってこと?」
「動物よりは淡水魚ってところね」
 口を出したのは、背後の魔女だ。魔導書を開いて何かやっている。


「期間を決めてあげるわ。一日の間そこに居続けたら、あなた達の勝ちでいいわよ」
「飲まず食わずってこと?」
 そう疑問を口にしながら、こいしは考える。24時間飲食が禁止なのは、たしかに辛い。しかし、我慢できないほどでもなさそうだった。
 ひょっとして、実は会うことを認めてくれているのかもしれない。だから軽い条件を出したのか。
 隣を見るとフランドールもそう思ったようで、顔に希望が灯っている。

「いや、食べ物は無いけど飲み放題よ」
 レミリアが宣言した直後、魔女の本が発光した。こいしとフランドールのいる囲いの中にうっすらと張っていた水、その水位が上がる。
「じゃあ始めね。せいぜいがんばってちょうだい」
 屋敷の主は、ニタリと笑った。





 二人が繋がれている水槽の中、じわじわ水かさが増していく。水位の上昇はゆっくりで、すぐにこいし達を飲み込んでしまうほどの速度はない。
 しかしフランドールにとっては迫ってくる水そのものが恐怖の対象と映っているようだった。ときおり小さく悲鳴を漏らしながら、怯えた顔で水を見つめている。

「フランちゃん、大丈夫だから」
 落ち着かせなきゃ。そう思ってできるだけゆっくり声をかけると、フランドールがぎこちなく頷く。
 後ろ手に嵌められた手枷が邪魔だった。安心させようとしたところで、頭をなでることも抱きしめてやることもできない。


 水が二人のスカートを揺らしながら、腿を半分ほど呑み込む。
 こいしもフランドールも膝立ちで水から逃れている。首輪と繋がっている鎖が短すぎて、片方が立とうとすればもう片方が水に潜ってしまうことになるのだ。
 水位が膝立ちの二人の身長を越えたとき、片方が息をするためにもう片方が水に沈まなくてはならなかった。



「こいし、水が上がってきて……。いやぁ……」
「落ち着いて、大丈夫だから……!」
 水槽の中では、恐怖に震えるフランドールをこいしが必死に励ましていた。
 その様子を見ていたパチュリーが質問する。

「ねえレミィ。あの子泳げるのかしら」
「まさか。ああやって水に浸かるのも今日が初めてなんじゃない?」
 水、流水が吸血鬼にとって天敵なのは、フランドールも本能的に知っているのだろう。だからこそ、あれだけ水を怖がっている。


「今のフランにとっては、水は自分をじわじわ呑み込む怪物にしか見えないでしょうね」
 含み笑いをしながら、レミリアは用意させた椅子に深く座る。
「しばらくはこのままか。ま、一日あるんだし気長にやりましょう」
「じゃ、何かあったら言って。私は本を読んでるから」
「はいはい」
 パチュリーも近くの椅子に腰かけた。



 カチャ、カチャ。
 魔術によって無音で水が増えていく水槽の中で、金属の擦れる音だけが響く。
 首輪を一刻も早く外さなくてはならないのに、手すらも自由にできていない。焦りながらフランドールを見ると、指錠からなんとか指を引き抜こうと必死になっていた。
 水は、胸を半分以上飲み込んでいた。もうすぐ顔に接触してしまう。

 どうしようもなかった。
 元々この水槽に閉じ込められた時点で、レミリアに生殺与奪を握られているのだ。今はただ、こいしを紅魔館へ出入り禁止にするための悪趣味な余興に付き合わされているだけにすぎない。


「ねえフランちゃん。このままじゃ二人とも溺れちゃうよ。だから私がフランちゃんのお姉ちゃんに……」
「それはダメ!」
 もう会わないように約束する、と言おうとしたところで首を振って否定された。

「こいしと一生会えないなんてイヤ! だって、だって……!」
 その目には涙が溜まっていた。
 今日地下室に入ったとき、抱きつかれた感触とフランドールの喜びようを思い出す。それと同時に、何度だって会いに行くと約束したことも頭に蘇った。
 あの笑顔がもう見られなくなるのは、こいしだって嫌だった。


「ごめんね、フランちゃん。変なこと言っちゃって……」
「ううん、いいの」
「お二人さーん。いい雰囲気のところ悪いんだけど、状況理解してるかしら?」
 外からの野次で、ハッとした。すでに水が首の部分まできている。

 どうにかしなくてはと考え、思ったことを咄嗟に言った。
「フランちゃん、顔のところまで水が来ちゃったら、私が潜るからその間に上まで浮かんで」
「でもそれだとこいしが……」
「私が苦しくなったら、鎖を引っ張って合図するから。そしたらフランちゃんが潜って私と交代して?」
「かわりばんこに息をするってこと?」
 フランドールの疑問に、頷いて答える。これなら、二人とも溺れずに済むはずだった。


 勢いをつけて、深く潜る。
 顔が床の出っ張りに触れそうなほど近づいたところで、鎖が引っ張られる感触がした。フランドールが上昇したのだろう。

 十分に息を吸って潜ったはずだったが、少し時間が経つだけで予想以上に苦しくなってくる。
 まだフランドールにも余裕があると考えて、早めに合図をする。首を動かして、鎖を引っ張った。
 少しして、フランドールが同じ位置まで沈んでくる。それを確認したこいしは、床を蹴って浮き上がった。


「ぷはっ」
 新鮮な空気を精一杯吸い込む。肺が酸素で満たされていくのを感じた。

「あら、なんだか面白いこと始めたじゃない」
 外野から声がする。レミリアだ。
「素潜りの練習でもしているのかしら?」
「あなたがやらせてるんじゃない!」
 愉快そうに笑うレミリアに言い放つ。

「一つ、いい方法を教えてあげるわ。下のフランを踏みつけて、あなたがずっと上にいるの。そうすれば、そんな煩わしいことしないですむわ」
「そんなこと、言われてそのまますると思う?」
「すれば面白いのに」
 こいしは、レミリアを睨み付ける。この姉の思い通りになどなるものか。


「泣きつくんなら、今の内がいいわよ。あなた達がどんな状態になっても、そこから出す気は無いから」
「ふん、妖怪が水に溺れた程度で死ぬと本気で思ってるの?」
「覚り妖怪はどうだか知らないけど、吸血鬼は死ぬわよ」
 その言葉で、首輪で繋がったフランドールのことを思い出す。

 やり口が汚い。そう思いながら、こいしは鎖の振動を感じ、再び底へ潜った。





「ぷはあっ。はぁ、はぁ……」
 何度も潜水したことで、乱れた呼吸を整える。まめに酸素を補給しているものの、確実に息は上がってきていた。
 つらい。くるしい。
 こんなことをしていたら、息が続かなくなる。あとどれだけ続くのだ。


「あらあら侵入者さん、顔が赤いわよ?」
「じ、時間は……」
「ん?」
「時間は、あとどれくらいなの……?」
「そうねえ、あとどれだけだと思う?」
 レミリアが嘲るように言う。

「ふざけないで!」
「ふざけてないわよ?」
「そうやって、はぐらかして――」
 こいしから捲し立てようとしたところで、首輪が揺れた。フランドールからの合図だ。
 潜水から合図が来るまでが短い。フランドールも苦しいのだろう。


 肺に酸素を溜め込み、深く潜る。
 途中で浮き上がるフランドールと目が合った。
 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、触れられない。声を出せば聞こえる距離にいるのに、喋れない。それが堪らなくもどかしかった。

 フランちゃんはどう思ってるんだろう。こいしはぼんやりと、そんなことを思う。
 この悪趣味な遊戯を止める手立ては、フランドールには無い。こいしがレミリアに約束しなければ、これは一日中続くのだ。

 そもそも自分がフランドールに会いに来なければ、鍵を開けなければこんなことにはならなかったかもしれない。
 そう考えると、申し訳ない気持ちになる。
 友達を巻き込んでしまった。それならその分、今頑張ろう。


 でも。
 フランドールはひょっとしたら、もうこの拷問を終わらせたがっているのではないだろうか。いつまで続くかも分からない責めに、参ってしまっているかもしれない。

 見上げると、顔だけ水面から出しているフランドールの姿があった。手首を必死に揺らして、枷を外そうと必死だ。
 ごめんね、フランちゃん。こんな目に遭わせちゃって。


 鎖を解こうと躍起になっていたフランドールが、地面を蹴った。そこから水流が発生し、こいしの顔を打つ。
 鼻腔から水が浸入した。ツンという感触に痛みを感じ、思わず声を出そうとする。しかし飛び出てくるのは、水泡だけだった。体内に溜め込んでいた酸素を全て吐き出してしまう。
 咄嗟に呼吸をしようとしたが、それがいけなかった。
 酸素の代わりに大量の水が浸入してくる。飲み込んだ水を吐き出すこともできない。
 パニックになったこいしは、酸素を求めて地面を蹴っていた。水面がどんどん近くなる。


「ぐっ、ぷっ、げほっげほっ!!」
 水を吐き出すとともに、空気を吸い込む。水が体の中にまで入ってしまっていた。
「ごほっ! がほっ!」
 何度も咳をして息を整える。まだ酸素が足りない。

 こいしの首輪が激しく振動した。合図という意図ではなく、鎖を懸命に引っ張っているようだった。
「あ……」
 こいしは繋がれている鎖のことを思い出す。
 合図も無しに水中へ引っ張りこまれたフランドールは、潜水の準備ができていなかったのだろう。大きな気泡が水面に上がっていて、フランドールが限界であることを伝えていた。


 フランちゃん、ごめん。申し訳なさでいっぱいになりながら、こいしは水中に潜った。万全の体勢ではなかったが、フランドールをこれ以上水底に置いておくわけにはいかない。

 フランドールは水や銀の鎖で弱っているのだろう。こいしはそう感じた。
 だから、自分が鎖を無理やり上に引けばフランドールは下に引っ張られるし、上にいる自分がフランドールの合図を無視すると彼女は上がってこれなくなる。
 やろうと思えば、レミリアの言う通りフランドールを下敷きにすることができる。少しだけそう考えた自分に嫌気が差した。


 そうやって思考を巡らせていると、潜水に限界が来ていた。首輪を軽く引く。
 しかし、フランドールが潜る気配は無い。合図が届いていなかったのか、そう考え今度は強めに引く。
 ややあって、フランドールが潜水してきた。目を合わせようとすると、目を反らされる。悪いことを親に隠す子どものようだった。


「交代するスパン早くなってるけど、そろそろ限界なんじゃない?」
 浮上した直後に、レミリアに言われる。二人の様子を観察できるレミリアには、状況がよりはっきり分かるのだろう。
「だったら何? そんなこと言っても――」
「フランがねー。苦しい苦しい、早くやめたいって言ってくるのよ」
 レミリアがこいしを遮るように話し出す。

「堪え性の無い子でね。私も困ってるの」
「嘘だ!」
 こいしは即答した。
 さっき、あんなに自分と会えたことを嬉しがっていたのだ。これはレミリアの嘘に違いない。そう思った。


 でも、それが本当だとしたら。こいしの心が暗くなる。
 フランドールと会話がしたかった。直接言葉で、気持ちを聞きたい。


 フランドールから合図が来る。最初のような小さな振動ではなく、鎖をガタガタと揺らすような合図だった。
 早く代われ。そうぶっきらぼうに言われたように感じる。

 そんな意図ではないのだろう。こいしは頭を振って、考えを追い出した。
 レミリアに妙なことを吹き込まれ、考え方がおかしくなっている。
 さっさと潜って、フランドールに息を吸わせよう。そう思いながら、何十回と繰り返した潜水を始める。


 レミリアが言ったことは、どういう意味だったのか。
 水の中で、ついそう考えてしまう。
 こいし、こいしとじゃれついてくるフランドール。外の話をせがむフランドール。お菓子を頬張って、幸せそうな顔をするフランドール。
 どれも楽しい一時だった。そう考えていたのは、自分だけなのだろうか。


 息が苦しくなってきたので、軽く鎖を揺らす。反応が無かった。
 大きく鎖を揺らす。またしても反応は無い。
 なんで、どうして。私は合図してるのに。
 苦しさも相まって、半ばフランドールを引っ張り込むように首輪を引く。ようやくフランドールが潜水してきた。

 たしかに呼吸を整えたいのは分かるが、苦しいのは自分だけではないのだ。一度の合図で分かってほしい。
 交代際にそう目で訴えると、目を伏せられた。何を意味しているのか、分からない。声が出せないだけで、手が使えないだけで、お互いの距離が果てしなく遠く感じられた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」
 荒くなった息を整える。途中で水を飲んだのが、尾を引いていた。何度浮き上がって呼吸しても、一向に苦しさから解放されない。

「もう飽きたんだけどさ、そろそろギブアップしてくれない?」
「それは、あなたの、ほうよ」
 息が続かず、返答が細切れになる。酸素が足りてないせいか、目が回った。


「フランはギブアップしたがってるんだけどねぇ。強情な侵入者のせいで散々酷い目に遭わされて……。哀れな妹」
 含み笑いをするレミリア。飽きたなどとは全くの狂言、楽しくて仕方がないといった様子だ。
「あなたは――」
 首輪がガタガタと震える。まだ十分に休めていないというのに。こいしは内心毒づいた。

「私が何かしら?」
 面白がるレミリアを無視して、潜水する。その顔が憎らしかった。


 水底に辿り着いて感じる。もう息が続かない。こいしは体の息を吐き出した。
 限界であったために、大きめに鎖を揺らす。反応が返ってこない。さらに大きく合図を送る。再び無視される。
 いい加減にしてくれ。苦しいのはこっちも一緒なんだ。思い切り鎖を引っ張った。


「ぐぅっ、げほ! ごほっ、ごほっ!!」
 浮上するなり咳き込んでしまう。あと時間はどれほどなのだろう。
「あんまり無理すると、本当に死ぬわよ?」
 せせら笑いながら、レミリアが口にする。反論したかったが、こいしはそれより聞きたいことがあった。

「時間を教えて! ちゃんと、今すぐに……!」
「んー、そうねえ」
 レミリアが懐から懐中時計を取り出した。焦らすように顔を見てくる。
「えーっとねえ……」
 首輪がぐいぐいと引っ張られるのを感じる。無視したのだから、少しぐらい我慢しろ。そう思いながら、こいしはレミリアの次の言葉を待つ。


「この時計によると、5分経過といったところよ」
「……は?」
 こいしは言葉を失った。これだけの時間をかけて、5分なはずがあるものか。
「随分進むのが遅い時計ねえ、困った困った」
「ふざけないでっ!」
 手錠が嵌められた手に力が籠る。鎖がなければ殴りかかっていた。


「あなた、最初から騙すつもりで……!」
「そんなこと無いわよ。そもそも騙すって何かしら、人聞きの悪い」
「だって一番初めに、一日ここで過ごしたらフランちゃんと会うのを許してくれるって!」
「パチェー、私そんなこと言ったっけ?」
 レミリアが本を読んでいた魔女に呼びかける。
「言ったかもしれないわね、私は聞いてないけど。それに、契約書も証人も無いんじゃねえ」
 魔女が心底興味無さげに言った。

「そういうことよ、侵入者さん」
「この、悪魔……」
 元々自分のことを許す気など無かったのだ。ただ暇潰しに利用された、それだけだった。
 相手の底意地の悪さと、まんまと騙された自分の間抜けさに腹が立つ。


「たしかに私は悪魔ね。ちなみにあなたの下にも悪魔がいるんだけど、気づいてるかしら?」
「あ……」
 そういえば、首輪を引っ張られてからフランドールを放置していたことを思い出す。途中で鎖の振動が止まったので、気にもしていなかった。
 おそるおそる下を見ると、うつ伏せで力なく倒れている金髪の少女の姿があった。ぐったりとして、意識は無い。

 しまった、ここまでやるつもりじゃなかった。
 急いでこいしは、水中へ潜った。
 少し無視して、自分の辛さを分からせるだけのつもりだったのだ。レミリアの話のせいで、すっかり意識から飛んでいた。


 自由にならない体で、フランドールをなんとか持ち上げる。そのまま水面に運ぼうとしたが、鎖が邪魔で上がらない。
 仕方なく、一度水面に上がった。

「ねえ、水を抜いて! フランちゃんが!」
「失神してるわねー。これであなたは呼吸し放題じゃない」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!? 本当にこのままじゃ死んじゃうよ!」
「あらあら、それはとても好都合ね」
「ぐ……」
 何を言っても通じそうになかった。この姉は、妹が死のうがなんとも思っていないのか。


「そこの妹様が死ぬかどうかは、あなたにかかってるのよ。古明地こいし」
 本を閉じた魔女が口を挟む。
「あなたが今後一切妹様と関わらないと誓うのなら、水を抜いて鎖を外してあげてもいい」
「パチェ、これだけ私に手間をかけさせたんだもの。それだけでは足りないわ。絶交を自分の口から言ってもらおうかしら」
 ニヤリと笑うレミリア。

 こいしは、フランドールを見た。
 ここで自分が突っ張れば、フランドールは死んでしまうのだろう。もうこの姿を目にすることができないと思うだけで、今まで一緒に過ごした時間が蘇る。離れたくない。
 だが、もう選択の余地は無かった。


「分かったよ。私は、古明地こいしはフランドール・スカーレットにもう近寄らない。だからフランちゃんを殺さないで」
 目が霞んでいるのは、長時間水に浸かったからだけではなさそうだった。








「予想以上に楽しかったわ。ありがとう」
 鎖を外された後、フランドールは意識を失ったまま銀髪のメイドに運ばれていった。
 図書館に残っているのはこいしとレミリア、それにパチェと呼ばれている魔女だけである。


「あなた、最低のお姉ちゃんね」
 こいしは渡されたタオルで髪と体を拭きながら、吐き捨てた。
 レミリアは意に介さない。薄ら笑いを浮かべながら提案してくる。
「そうだ。愉快な見せ物のおひねり代わりに、一つ教えてあげる」
「いらない」
 即答し、床に落ちていた帽子を手に取る。

 構わずレミリアが話を始めた。
「フランの言ってたことはね、本当は『どれだけ苦しくっても、こいしと会えなくなるのは絶対にイヤ!』よ」
 その言葉を聞いて、帽子を取り落とした。
「『苦しい』とか『辛い』みたいな泣き言は一つも言わなかったの。立派よねえ」

「それ、本当なの……?」
「本当よ。今さら嘘なんて付かないわ」
 「堪え性が無い」だなんて、真っ赤な嘘じゃないか。
 フランドールが自分を思ってくれていたことを知らされ、嬉しくなる。少しでも疑ってしまったことが、情けない。
 同時に、レミリアへの怒りも沸いた。落とした帽子を深く被り、拳を強く握る。


「そうそう。ところで途中、あなたの動きがおかしくなったわよね」
 そうだ。こいしは思い出す。
 途中から、フランドールが合図をしても中々反応を返さなかったのだ。フランドールが、こいしより自分の体力の回復を優先したと思っていたのだが、まさか。

「……フランちゃんに何か言ったの?」
「ふふ、私があなたの代わりに言ってあげたのよ。『私は余裕があるから、鎖で合図を三回するまでは顔を出してていい』ってね」
 その瞬間、こいしは理解した。
 どうりでフランドールが潜らないわけだった。その後のアイコンタクトも通じないはずだ。
 心底やり口が汚い。


「あなた達のこと、見てたらとっても面白かったわよ。フランはあなたのことを何よりも大切に思ってるのに、あなたは勝手にフランのことを疑ってかかってたのよねぇ」
 その口を閉じろ。私達のことを語るな。
「フランは最後、どんな気持ちだったのかしら。きっとあなたが助けてくれると信じてたのに。フランがあなたに抱いたのは、怒り? 悲しみ? それとも――」


 体が勝手に動いていた。体重を乗せて突進する。
 肩からぶつかり、レミリアがよろめいた。すかさず拳を振り上げる。

 成功したのは、不意討ちだけだった。
 振りかぶって開いた体に、レミリアの肘を受ける。息がつまった。
 体勢を立て直す暇すらなく、背中に痛みが炸裂する。
 背中を蹴られた。そう気づいた瞬間には、床が急接近していた。
 赤いカーペットに全身を打ちうけたかと思うと、両腕が背中に回される。不自然に捻られ、肩の関節が悲鳴を上げた。
「身の程を知れ、地底のもやし妖怪! 私をぶん殴りたきゃ、鬼でも連れてくるんだな」
 動こうとすれば、腕に激痛が走る。あまりの痛みにうめき声が出た。


 情けない。友達を助けるつもりが、逆に迷惑をかけてしまった。
 悔しい。散々に弄ばれ、怒りに身を任せてみても手も足も出ない。
 悲しい。これで本当に、フランドールとは会えなくなるのだ。
 視界がぼやける。うめき声に嗚咽が混じった。

「おい泣き虫。逆に聞くが、何故妹に拘る? 破滅的な能力を持ち、頭がおかしいと噂されるような奴にどうして近づくんだ?」
「かわい、そう、だから」
「フランが?」
「だって、花も鳥も、見たことないんだよ? してくれるお話だって、本のことだけ。そんなの、悲しいから」
 うまく言葉を話せない。嗚咽が止まらない。


「フランを外に出すなんて、断じて許さないわ。危険なのよ」
「能力が?」
「あの子がよ。日光、流水、妖怪、魔物。外には危険が多すぎる」
「なら、フランちゃんを、一生屋敷に、閉じ込める気?」
「そうよ、あの子はそれで十分なの」
 レミリアが言葉を切る。口調は熱を帯びていた。

「あの子の目は私の姿を見るためにある。あの子の耳は私の声を聞くためにある。あの子の身体は私のことを感じるためにある」
 レミリアは、こいしの手を放す。

「私があの子の全てなのよ」
「狂ってる」
 歪んだ愛情。そんな言葉が脳裏をよぎる。
 痛む肩を抑え、よろよろと立ち上がった。


「ふん、どうとでも言いなさい。あなたには関係の無いことよ。いや、これから関係なくなることか」
 レミリアは邪悪な笑みを浮かべる。
「フランに、心底愛想が尽きたように振る舞いなさい。フランが一生あなたに会いたくないと思うようにするの」
「私にも、あなたみたいな猿芝居をさせるつもりなの?」
 その言葉を聞いたレミリアが、両手を広げ抑揚をつけて語る。

「全ては演劇、屋敷は劇場、あなたは俳優。この悲劇は最大の裏切りでフィナーレを迎えるの」
 反吐が出る。劇作家にも、劇作家に従う自分にも、だ。


「なら、お手洗い行ってきていい?」
「逃げるつもりじゃないでしょうね」
「ここで逃げたら、フランちゃんがどんな目に遭うか分かんないから逃げないよ。ただ今からする演技は、泣き腫らして真っ赤になった目じゃ説得力ないから」
 レミリアが、今まで黙っていた魔女に視線を向ける。魔女は「好きにさせれば」とだけ言って、再び黙りこんだ。

「いいわよ、行きなさい。でも戻ってきたら、フランにさよならを言う時間よ。あなたが、あなたの言葉で、ね」





 フランドールは、自室のベッドで目が覚めた。
 重力に従った態勢で空を見上げると、灰色の天井に混じっていくつかの染みが見える。
 右の染みは煙突、左のものは魔方陣。今はそう見えた。


 体を起こすと、頭がぐらぐらした。
 失神する直前のことを思い出す。水底に打ちつけられて呼吸できない体。戒められて自由の効かない両手。助けを呼んでも振り向いてくれない友人。

 思い出すと、悲しい気分になった。
 ひょっとしたら夢なのではないか。そんな一抹の希望にすがってみても、普段着からパジャマに着替えさせられていたことが現実であると物語っていた。有能なメイド長が、濡れた服を着せ替えたのだろう。


「こいしに、嫌われちゃったのかなぁ」
 初めての友人のことを思うと、ため息が出る。
 姉の遊戯に付き合わされた最後、こいしは自分のことを見捨てたのだろうか。
 「何があっても会いに来る」、「会いたくないと思うことは無い」と言い切ってくれたこいしを疑うことは、したくなかった。しかしあんなことの後なのだ。こいしの心変わりがあってもおかしくない。

 それとも、一緒に過ごす時間がこいしはそれほど好きではなかったのだろうか。外の話を聞いたり、お菓子を食べたり、フランドールはその時間が堪らなく好きだった。
 こいしも同じ気持ちだったと考えたいのだが、実は遊んでくれていただけだったのかもしれない。


 嫌われたのなら、それでもいい。せめて一言謝りたかった。嫌われるようなことしちゃってごめんなさい、今までありがとう、と。

 鬱々とした考えが循環し、思わずため息が大きくなる。
「ずいぶんおっきなため息だね。何か嫌なことでもあったの? なーんてね」
 こいしがこの前訪問に来たときは、それが挨拶だった。今は当然、こいしの声は聞こえない。


 こんこん、とノックの音がした。
「こいし!?」
 思わず、期待が高まる。しかし現れたのは、今最も見たくない人物であった。
「お姉さま……」
 自分と友人の仲を引き裂いた諸悪の根源。自分を縛る最も大きな鎖。
「私で悪かったわね」
 悪びれる素振りのない姉の声。

 つかつかと自分に向かってくる姉にフランドールは敵意をむき出しにしてみたが、レミリアが怯む様子はない。
「ああ、怖い怖い。あんたが一番会いたがってる人を連れてきてあげたのに。入りなさい」
 姉が背後に声を放つ。
 姉の後から入ってきたのは、黒い帽子に明るい緑髪。最も会いたかった人物。


「こいしっ!!」
 もう会えないと思っていただけに、喜びが大きかった。声のトーンが上がったのが、自分でも分かる。
 どうしたのだろう。もう会えないのではなかったのか。それとも自分が気を失ったあと、こいしが何かしてくれたのだろうか。
 嬉しさで気分が舞い上がる。
 しかし、こいしに近づくにつれ、その異様さを感じるようになった。

「こいし……?」
 浮かない顔。まさにそう形容できる顔をしながら、こいしがぽつりと言う。
「お別れの挨拶に来たの」
「え……」
 どうして。フランドールは思考が止まった。
 何か、いけないことがあったのか。それとも、姉に会うなと言われたのか。なんにしろ、そのまま引き下がるつもりはなかった。


「なんで? お姉さまに言われたの? そんなこと気にしなくていいよ。また遊びましょ。
 それとも、本がもっとあった方がいい? 今度紅茶だって新しいのを――」
「わざと言ってるの?」
 初めて聞く、こいしの低い声だった。
 いつも弾むような声で、こちらまで楽しくさせてくれるこいし。しかし今は、沸き出る怒りを抑えこんでいるような声。

「フランちゃん、私のことなんてちっとも考えてないでしょ?」
「こ、こいし? 何を言って……」
「あなたのせいで、私は死にかけたのよ!?
 そんな人のところに、もう一度遊びに来ると思う!? 思わないよね!? ちゃんと分かってるの!?」
「ひっ……」
 こいしが、怖い。そう感じたのは初めてだった。怒鳴りながら近づいてくる。


「しかもそれに対する謝罪も無し。非常識にも程があるよ」
 迫ってくるこいしに気圧されて、フランドールは下がっていく。やがてベッドに足が当たると、力なくそこに座り込んだ。

「聞いてるのッ! フランドール!!」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい……!」
 パジャマの襟を掴まれて、無理やり立たされる。
 その迫力と強烈に嫌われたという事実に、涙がぽろぽろと零れ落ちた。

「泣いたら許されると思ってるんだ?」
「ちがっ……! ご、ごめんなさい……」
 頭が真っ白になってしまう。謝ることしかできなかった。
 こんなにも自分は嫌われてしまった。こんなにも好きな人を怒らせてしまった。そのことがショックで、他に何も浮かばない。


 こいしが舌打ちをしながら、フランドールを突き飛ばした。
「あなたと一緒にいて、こんな酷い目に遭うとは思わなかったわ。知ってたら来なかったのに」
「ごめん、こいし。本当にごめんなさい……」
 目の前の友人の怒りをどう静めればいいのか、分からない。
 ただ「ごめんなさい」としか、言うことができなかった。

「まあ、いいや。もう二度とここには来ないんだし」
「え……」
「はあ? 最初からそういう話でしょ?」
「そうだけど……」
「さようなら、フランドール・スカーレット。あなたとは二度と会いませんように」
「ま、待って……!」
 こいしが踵を返す。去ろうとするこいしを、フランドールは慌てて追いかけた。
 こんな別れ方はしたくない。もっと、一緒にいたい。


 話したいことがたくさんあった。
 持ってきてくれたキャンディーのこと、キャンディーを作ってくれたこいしの姉のこと、先日読んだ本のこと、好きな紅茶の味のこと。
 何か言わなければと思うほど、考えが纏まらなかった。話したいことが次々浮かぶ。
 それに、遊んでくれたお礼も言っていないのだ。このままこいしに何も言わないのは、嫌だった。
 腰の部分に抱きついて、こいしを引き止める。

「なにすんのよ!」
 こいしが勢いよく体を動かして、フランドールを突き飛ばした。振りほどかれて、尻餅をつく。
 こいしはフランドールを忌々しげに睨むと、黙ってドアへ歩き出した。待って、お願い。必死の思いで、こいしの足にしがみつく。

「触んないで!」
「きゃあっ!」
 足を大きく動かされて、振り払われる。固い床の上で一回転した。
「虫酸が走るのよ! あなたに触られると!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 涙ながらに謝ることしかできない。どうしてこいしをこんなに怒らせてしまうのだろう。


「あなたのそういう無神経なところが嫌い。あなたのそういうしつこいところが嫌い。あなたのそういう自分勝手なところが嫌い」
「うっ、ごめんな……ひっく、ごめんなさい……」
 涙が溢れて止まらない。ただただ、悲しい。


「それじゃ、今度こそさよなら」
「や、ヤダっ!」
 再びドアへ歩き出すこいしに、フランドールが這い寄る。
「近寄るな!!」
 こいしが帽子を床に叩きつけた。その音で、体の動きが止まる。

「もうあなたのことは一生見たくないの。声なんて、聞いてるだけで気分が悪くなる」
「うぅ……ごめんな……」
「その薄っぺらな謝罪をやめろって言ってるの。黙れ」
「……」
 自分の心が崩れ去っていくような感覚に囚われる。心にぽっかりと、穴が空いてしまったようだった。


 茫然とするフランドールを一瞥すると、こいしは今度こそ後にした。
 それを見て、レミリアがフランドールに近づく。

「フラン、あいつの本性が分かった? あいつはああやって酷いことばかり言う、嫌われ者の妖怪なの。もう忘れなさい」
「……」
「悲しむことなんて無いわ。代わりに私が――」
「……って」
「え?」
「出ていって! ここから! 二度と入ってくるなぁ!!」


 許せなかった。目の前の姉が。
 こいしとの仲を断ち切ったのは、お前ではないか。それを棚に上げ、こいしを悪く言うな。お前さえいなければ、私は。私は。
 目の前が真っ暗になり、そのまま泣き崩れた。何もかもが、もう嫌だった。



 ふと気づくと、姉の姿は消えていた。もう一生、食べ物を運んでこなければいい。そうすれば、飢えて死ねる。

 地下室には、ただフランドールの泣き叫ぶ声だけが木霊していた。





「これで満足なの?」
 こいしは不快さを隠すことなく言った。先ほどまでのことを思い出すと、吐き気がしてくる。

「ええ、上出来よ」
 レミリアが満足そうに頷いた。
「あなたが罵倒しているときの、フランの顔見た? まるでこの世の終わりって感じよ。なんて哀れなのかしら」
「私は、そんな妹に付け込んで取り入ろうとして失敗する姉の方がよっぽど哀れに見えたけどね」
 レミリアが眉をつり上げた。今さらこいつが怒ろうが、知ったことか。

「口の減らない奴ね。まわりから嫌われるわよ?」
「たった今嫌われたところだよ。おあいにく様」
「ふふっ、あなたには最初から最後まで本当に良いものを見せてもらったわ」
 フランドールの泣き顔が脳裏に浮かぶ。
 あれほど悲しそうな顔は、見たことがなかった。それをさせたのが自分だと気づくと、舌を噛みきりたくなる。


 レミリアが手を二回ほど叩いた。景色が地下室の前から、屋敷のエントランスへと変わる。
 お前はもう用済みだ、とっとと帰れ。そういうことなのだろう。
 お望みどおりにしてやるさ。こいしは出入り口を開けた。
「では永遠にさようなら、愉快な侵入者さん」
「こっちこそさようなら、最悪なお姉ちゃん」
 紅い館の外へ踏み出す。この悪趣味な姉と会うことも、もう無い。
 こいしは振り返らず、飛び立っていった。








「ひくっ、えぐっ」
 フランドールは涙が止まらなかった。
 ようやく出来た友人に、酷い仕打ちを受けさせてしまった。そして嫌われた。二度と会うことはできないのだろう。

「うわぁああ……、ああぁ……」
 言いたいことも、一つも言えなかった。「声を聞くと、気分が悪くなる」。そう突き放されて、言えるはずがなかった。


 こいし。古明地こいし。
 家族以外で自分と何度も会ってくれた、唯一の人だった。こいしと話している時間は、何よりも楽しかった。
 もっとたくさん話したかった。もっとたくさん遊びたかった。
 そう思うと、また頬が濡れる。

「こいし……会いたいよ……」
 こいしは、もう今日は来ないだろう。明日も来ない。明後日も。
 また変わらない、乾燥した日々が始まる。ただ地下で天井の染みを見つめるだけの、退屈な毎日。
 明日を生きる意味なんて、無い。


 こいしの捨てていった帽子を抱きしめる。
 怒りに身を任せ、投げつけられたものだった。しかしそれしか、こいしを連想させるものがない。
 帽子はこいしの匂いがした。そのことで楽しかった日々を思い出し、ますます悲しくなる。
 もう一度だけでいいから、会いたい。

「あれ?」
 帽子を抱きしめていると、中からひらひらと紙が出てきた。「みかん8、りんご7、メロン6」。
 何気なく紙を裏返すと、書いてあることを読んで息が詰まった。見間違いかと思い、ぼやけた視界を手で拭いながらもう一度紙を見る。


『ひどいこと言ってごめん。絶対また来るから』


 走り書きの文面を見て、先ほどの状況を思い出す。
 地下室には自分とこいしの他に、レミリアもいたのだ。ひょっとしたら、こいしは姉に脅されて言わされていたのだろうか。
 帽子をぎゅっと、強く抱きしめた。「絶対また会いに来る」。その言葉が、何よりも嬉しかった。
 こいしが、また来る。きっと笑いながら、弾む声で、お土産にお菓子と楽しい話を持って。

 待ってみよう。そう、思った。
 自分には、待つことしかできない。それなら、ひたすら待とう。こいしがいつ来てもいいように。
 来るのがいつかは分からない。一年後なのかもしれないし、十年後かもしれないし、百年後かもしれない。
 でも、来るのだ。だから、来るまで待とう。
 来るのは一年後かもしれないが、一ヶ月後かもしれないし、一週間後かもしれない。いや早ければ明後日にでも来るかもしれない。
 明日来ればいいな。フランドールは帽子を抱きしめる。


 こいしが来たら、この帽子を返すのだ。そして言う。「ごめんなさい」は言ったから、次は「ありがとう」と。
 そして、たくさんお話をしよう。

 そう考えたら、話の種になる本が読みたくなった。本を読んで、外のことをこいしに聞くのだ。草、花、空。自分の目で見れない分、聞きたいことはたくさんある。
 紅茶を上手く入れなくてはならない。こいしの持ってきたお菓子に合うように。会いに来たこいしの疲れを癒やすように。お話して喉が渇いても平気なように。


 やることがたくさんある。
 こいしが会いに来たときのために、準備をしなければならなかった。悲しむのなんて後にしよう。
 フランドールは立ち上がる。
 明日を生きるのが、少し楽しくなった。
「お姉ちゃんただいまー」
「お帰りなさい、こいし。帽子はどうしたの?」
「え、えーと…… そ、そう、忘れてきちゃったの」
「あらあら、じゃあ今度取りに行かなきゃいけないわね」
「うん、絶対取りに行くよ。どれだけ時間がかかっても」
バルゴン
作品情報
作品集:
9
投稿日時:
2014/03/17 21:03:06
更新日時:
2014/03/18 06:03:06
評価:
5/13
POINT:
650
Rate:
12.27
分類
フランドール
こいし
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POINT
0. 150点 匿名評価 投稿数: 5
1. 100 NutsIn先任曹長 ■2014/03/18 06:43:54
真の友情があれば、
いくらでも忍耐強くなれる。
いくらでもしたたかになれる。
二人の再会は、ド派手にブワァッと愉快にやって欲しいです♪
2. 100 名無し ■2014/03/18 19:55:37
フランちゃんうふふ
4. 100 名無し ■2014/03/19 09:14:57
どこまでも純真で一途なフランとか相方に負担を強いる拷問のギミックとか格好良いこいしとかサイコレミリアとか絶望させつつも希望の残る終わり方が読んでてすごく面白かったです。
7. フリーレス バルゴン ■2014/03/21 01:31:57
>NutsIn先任曹長さん
今こいしちゃんは、がんばって地下室までトンネルを掘っています。その苦労が実るといいです。

>2さん
どうしてフランちゃんは泣き顔がこんなに似合うんでしょうか。

>4さん
産廃としては、最後こいしちゃんの本心がフランちゃんに伝わらない方がいいかとも思ったのですが、
それだとフランちゃんがあんまりにもかわいそうだったので、こいしちゃんに機転を利かせてもらいました。
面白かったと言っていただけて、冥利に尽きるというものです。
8. 100 ギョウヘルインニ ■2014/03/24 22:42:09
鬼を連れて紅魔館に殴りこみですね。
9. フリーレス バルゴン ■2014/03/26 02:34:23
>ギョウヘルインニさん
紅魔と地底の全面戦争をお望みですか・・・!
10. 100 名無し ■2014/04/07 01:55:26
こいふらによるレミリア拷問ペット化ルートを妄想しました
11. フリーレス バルゴン ■2014/04/11 05:36:14
>10さん
そうなった場合フランちゃんは、なんだかんだ養ってくれてたし、といったスタンスで多少優しくしてくれそうです。
ただこいしちゃんは結構えぐいです、やばいです。
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