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『少女の親指星』 作者: すな
早苗の左足親指の腹には、昔から小さな星形のほくろがあった。
それに気が付いたのは小学4年生の頃である。女子というものは男子よりも早く成長期が訪れる。背は先月より少し高く、しなやかに伸びていく手脚。十にもならない子供特有の危ういバランスの上で早苗は日々育っていた。
育っていると言う事は当然足も大きくなる。去年は普通に履けていた靴も窮屈になった足は、時折ぼろぼろと皮が剥けるようになった。親からの指摘で足の裏の異変を知った時に、早苗は自分の左足親指の腹中央から少しはずれた場所に、小さな星形に見えるほくろがあるのを見つけたのだった。
当時の早苗は星形のほくろなどどうでもよかった。自分のつるつるすべすべしていたはずの足の裏がぼろ雑巾のようになっている事の方が重要だった。すわこれが噂の水虫か、と一瞬戦慄したが、早苗の母に質問すると柔らかく否定された。
成長してるのよ、皮が剥けて大きくなってるの。蛇だって皮を脱いで大きくなるでしょう。あれと同じよ。
そっかーなるほど。早苗は自分が水虫でないことに心底安堵したあの日のことをよく覚えている。今思えばとても馬鹿げた勘違いでおののく早苗の頭を撫でている母の顔は、苦笑しているような何とも言えない微妙な表情だった。
たとえお気に入りのスニーカーでも1年で履き捨てざるをえなかった小学生の時も、大人っぽいローファーに喜んだものの踵の靴擦れに閉口した中学生の時も、そしてこの幻想郷に来る時も、早苗の左足親指はいつだって早苗の左足に収まっていた。変わったほくろこそあったものの、膨らんでくるとか大きくなるとかいったこともなかったので、別段気にも止めずにいた。
夏の日のことだった。裸足で縁側をひたひたと歩く。蒸し茹だるような暑さのせいで木の板はぬるく緩んでいた。早苗の思考もぬるく緩んでいる。ああ暑い暑い――日射しが強くて日焼けしちゃうのが嫌でたまらないわ――――肩の皮が剥けてしまったら巫女服を着るのが恥ずかしいなあ――汗もたくさんかいてて服が貼り付いて気持ち悪いったら――――こんな日には――やっぱり冷たいものよね――かき氷とかアイスとかおそうめんとか――でももうそろそろおそうめんは飽きたなあ――たまにでいいからさっぱりしたパスタが食べたい――――ぽと。
ぽと?
後ろの方で小さく間抜けな音が聞こえたので早苗が振り返ると、丁度音がした辺りに小さな肌色のかたまりが転がっていた。ひたひたと数歩戻って拾い上げてみるとそれは早苗の左足親指に違いなかった。指の腹中央から少しはずれた場所にあるほくろが何よりの証拠だった。
自分の左足を確認してみると、そこにはきちんと親指が生えている――はずであったが、ない。ぽっかりと親指が消失している。
拾った方の足の親指を確認してみると、想像していたような輪切りになった断面はなく、つるりとした皮膚が張っている。そして、星形のほくろがある。指の腹中央から少しはずれた、いつもの場所に。
早苗は緩んだ思考のまま、その場でちょっと混乱した。
「取れちゃったんですけど」
「うん?」
「左足親指……」
「おやおや」
早苗は経験則でよくよく知っていた。こういう訳のわからないことは、身近で知っていそうな人に相談してみるのが一番早い。暑さで茹だった頭でもそれくらいは分かった。
そういう訳で早苗が神奈子に取れてしまった親指を差し出して見せたので、差し出された神奈子はそれをつまみ上げてしげしげと眺めていて、同席している諏訪子は神奈子の右側からそれを覗き込んでいるのだった。
何分そうしていただろう、あるいは数十秒であったかもしれないが、とにかく神奈子はじっと親指を見つめているので、早苗は居心地の悪さを感じながら誰かが話すのを待っていた。病気なのかはたまた異変の前触れなのか。きっとどちらかが答えを出してくれる筈だ。ゆるゆると神奈子の口が動いたので、早苗はそちらへ注目する。
「ああ、取れてしまったのかい……残念だね」
溜め息混じりの“残念”。
残念とはどういう意味だろう――――――早苗は数秒かけてやっとそれだけ考えてから、その思考の通りに神奈子へ尋ねる。
「残念って」
「ん?」
「残念って、どういうことですか」
「そのままの意味さ」
「残念ですか」
「そうだねぇ、実に残念だ」
「あーうー、早苗、今回はちょっと運がなかっただけなんだよ。誤差の範囲内だと思えばいいよ!」
「誤差?」
「そう言っても差し支えないだろうけどね。ただでさえ短い人間の寿命の中の、ほんの数年程度だし」
ようやく早苗は、ああこのふたりはやっぱりなにかしっているのだなあ――――と思い至った。早苗の判断は正しかった。やっぱり知っていたのだ。早苗の左足親指が取れたことが残念な事である、と認識する程度には。
誤差とは何の事だろう――基準値はどこにいるのかしら――どういったことが原因で親指がぽろっと落ちたりするのだろう――何だか元々取れる予定であったような言い方だけれど――――何ひとつ分からない早苗にとっては全く要領を得ない会話の間、神奈子も諏訪子もずうっとつまんだ左足親指ばかり見ている。
――――あれ、何か変。
早苗は漠然とそう思う。何の前触れもなく取れてしまった早苗の左足親指。左足親指が取れたのにまるで元々なかったかのような左足親指のあった辺り。残念がってはいるものの大して驚いていない様子の神奈子様と諏訪子様。
やっぱりよく分からないふたりの会話を聞きながら、このままではふんわり言いくるめられて何となくそういうものらしい、という辺りに話を丸め込まれそうな気がしているので、早苗は訊こう訊こうと思っていることをぼうっとした頭で反芻している。
早苗は現人神であり、奇跡を起こす程度の能力を持っている。それを活用するべきなのは今ではないのか。もしくは巫力を活かして治癒を司る神様でも下ろせば期待出来るのではないだろうか。自分の左足親指を再び生やすのに、どれほどの祝詞が必要になるのかは検討もつかなかったが。
「ま、死ぬわけでなし。気をしっかりもつんだよ早苗」
「はあ、まあそこまで落ち込んでいるわけではないのですが」
――励ましの言葉はもういいんだけど。
実に気の抜けた神奈子の一言で、取り留めのない会話は一段落したようだった。取り敢えず死なないらしいということだけは分かった。とはいえ早苗はもっと具体的な話を聞きたかったのだが。さなえ、さなえ、と呼ぶくせにふたりの視線はやはり早苗の左足親指にばかり注がれていて、左足親指をなくした早苗自身には一瞥もくれない――――
そろそろきちんとした話を聞きたいなあと思ったので、早苗は会話を再開させる。
「あのー神奈子さま」
「ううん、次には少し早いようだが」
「諏訪子さ」
「そうだねぇ……でもこうなってしまってはもう」
「あの」
「急いで準備を整えるとしよう、ね、諏訪子」
「そうだね神奈子、選別はいつも通り私でいいね?」
「ああ、頼むよ――――さて、これからお前のことは何て呼べばいいんだろうねえ?」
無視――無視か――何だか今日のおふたりは変――次、何の次なのだか、今の状態、何かが良くないらしい――――準備、多分次の準備だろう、選別、何の、何の為の?
早苗がそこまでのろのろ考えたところで初めて、神奈子は早苗の目を見て話しかけた。
さてこれからおまえのことはなんてよべばいいんだろうねえ。心底困ったような顔。諏訪子も、全く同じ顔をして早苗の方を見ている。
くわ、と頭全体の軸がずれるような感じがした。
眩暈。
「……あの」
「ええと、急なようだけれど、取り敢えず必要なことを伝えておこうかね」
「神奈」
「いいかい、今この場からお前はひとりの人間だ。今後一切妖怪退治に出てはいけない。これまで使えた力は全て無かったものと思いなさい。例外は無しだ、出来るだけ妖怪と相対してはいけない。顔見知りであっても危ないね、可哀想なようだけれど極力境内で過ごすように」
私の加護が最も強い場所だから、半端に察する妖怪どもも手出しは出来ないだろう。神奈子の言葉に諏訪子も頷いて同意する。
早苗は緩んだ頭で、それでも何とか悟った。
何ということだ――今まで早苗を早苗たらしめていたのは早苗の左足親指であったのだ。奇跡の源。浮力の源。早苗は現人神としての力を失った挙げ句空も飛べない。言わば本体。早苗の左足親指が。いや最早早苗は早苗ではないのだった。早苗のような早苗ではない何か。そんな曖昧模糊な概念が、ひしひしと早苗の左足親指の辺りから早苗――ではない早苗のような何か――を侵食し始める。
神奈子さま。諏訪子さま。
というふうに口を動かしたつもりだったが、もう早苗は2人のことを呼べなかった。
無駄に開きかかった唇は、息の出入り口になって早苗の口内を乾かすばかりになっている。
「それにしても残念だねえ早苗、今回は随分早くだめになったじゃないか」
「うーん……まあ、こうなっちゃったものはしょうがないよねー。準備を整えてこれが子を成したらすぐにくっつけてあげるね。柔らかな子供の肉はさぞ気持ちがいいだろうね、早苗」
神奈子はまた視線を親指の方へ戻してはっきり早苗と呼んだし、諏訪子も同様だった。
緩む頭。
柔らかな脳味噌がとろけて耳から出てきそうなほどの軽くて大きな円を描きはじめる眩暈。
取り敢えずこの場は“お前”とか“これ”とか呼ばれているようだったが、あの自分の左足親指であったものが早苗だというなら早苗はこれからの一生をどう呼ばれればいいのだろう?
今し方私が子を成したらと聞こえたが、私の相手は何処の誰なのだろう?
顔も知らない早苗の父親は一体何処へ行った?
そういえば母親の名前は何だったか?
早苗という名前はあの左足親指のものだ。
相手に心当たりなどある筈もない。
父親は物心ついた時には既にいなかった。
母親は早苗が幼いときからずうっと東風谷さんとか早苗ちゃんのお母さんとしか呼ばれていなかった。
早苗の記憶の中でもやっぱりお母さんはお母さんのまま。
くわん――くわん――と一定のリズムで来る眩暈の中、遡っても遡っても母親の裸足を見た記憶はない。
あの日「成長してるのよ」と早苗を柔らかく否定した母は、あの母の顔は、本当に苦笑していたのか。あれは見ようによっては懐かしんでいるような顔ではなかったか。そっちに行ってはいけない気がする方向に、ふわふわと大きな円を描いて、早苗の思考が近寄っていく。
それでは、それではこれから私は――――
ゆっくりと頭の中の円が傾いていくような、そういう錯覚に任せて放心している早苗の首筋のあたりを、音も無く静かに汗が幾筋か垂れ落ちていったが、早苗はとうとうそれに気が付くことはなかった。
そうやってぐるぐるぐるぐる緩んで廻る思考など関係がある筈もなく、ただの事実として早苗は東風谷早苗ではなくなった。蒸し茹だるような暑さのせいで木の板もぬるむ夏の日の、あまりにもあっけない出来事だった。
超久しぶりに一本
早苗のような早苗でないような早苗の小話でした
誰か元早苗ちゃんに素敵な名前を付けてあげて下さい
すな
- 作品情報
- 作品集:
- 10
- 投稿日時:
- 2014/07/17 15:29:09
- 更新日時:
- 2014/07/18 00:29:09
- 評価:
- 7/7
- POINT:
- 700
- Rate:
- 18.13
- 分類
- 神奈子
- 諏訪子
- 早苗
- のような
ようするに、だ。
アイデンティティが突如意味をなさなくなる事があっても、全体に流されてよろしくやってりゃ、どうにかなるかもだ☆
個人的にはいままで親しかった妖怪たちに手のひら返されて弄ばれて食されると嬉しいです。