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『追跡する我が身』 作者: sako
草木も眠る丑三つ時。異様に暗い夜であった。空に月はなく星が二つ三つ輝いているだけ。風もないせいで街は死んだように静まりかえり、まるで絵画か写真の中の光景のようでさえあった。当然、動くものは皆無。
いや。
西瓜ほどの大きさの何かがすぅーっと音もなく道を横切っていった。
犬か猫の子か。いや、犬猫は宙を飛ばない。稀に飛ぶものがいるが、それは魑魅魍魎の類だ。そして、往来を横切った影もやはり常世のものではない。犬猫の化生でもない。
人の頭だ。肩より上、申し訳程度に首が付いている人間の頭が、火の玉のような赤い髪を揺らして飛んでいるではないか。速さは人の走るそれ程度か。それが昼間なら人夫や荷車、駕篭が行交っている路をまさしく我が物顔でまっすぐに飛んでいる
もし、この場に妖魔に詳しい者がおれば『あれは飛頭蛮也』と説明してくれただろう。東亜…越南(ベトナム)や羅宇(ラオス)に伝わる妖怪で、普段は人と同じ姿格好をしていながら皆が寝静まった夜ともなれば首が胴体より離れ、風任せに飛び回るという怪異である。蟹や虫を食べ、夜明け前に胴体とくっつかなければ死んでしまうと物の本に書いてある。日の本に渡り頭を切り離す替りに首を伸ばす“ろくろ首”という怪異になった者もいる。ここ幻想郷においても西の倉庫街やそのすぐ側の水路、特に縁に植えられた柳の木の下に出て人々を驚かせている。
成る程。飛翔する首などとても正気で見ていられる光景ではない。かの将門公の打ち落とされた首も世を呪って飛び回ったと聞く。二の腕が総毛立ち、脊髄に氷柱を突き刺されたような激しい寒気を憶える恐怖。この場に目撃者がいなかった事を神仏に感謝する。迷信を信じぬ科学蒙昧な輩もいの一番に敵陣に突入する蛮勇の雄もこの恐怖を見れば怖気震えだし、顔の筋肉という筋肉を引き攣らせたに違いない。
そう。
飛び回っている赤蛮奇の顔のように。
「ひぃぃぃぃ」
荒々しく息をつく蛮奇。だが、それでも彼女は唸り絞り出すような悲鳴を上げずにはいられなかった。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひ」
食いしばった歯の隙間から漏れ出す悲鳴。吐息と同じリズムだが、それは合っていると言うより合わせている風。そう。タイミングがずれれば呼吸は乱れ、飛ぶ蛮奇の首は力を失い倒れ込むように地に落ちる定めにあるのだ。
ならば休めばいいのに。こんな夜分。軒下の桶にとんと生首が置かれていても誰も見やしない。妖怪ださぁ退治してくれようと弾幕を飛ばしてくる巫女も今は寝ているに決まっている。
「ううっううっ、はぁはぁはぁ!」
だが、出来ない。出来ないのだ。
休むことは出来ない。呼吸を整える暇はない。止ることは不可能。無理強いしても飛び続けるしかないのだ。その理由は、ああそうだ。恐怖に引き攣った蛮奇の顔を見ればおのずと想像は付く。
「ひぃ、畜生、まだ、まだ…」
飛びながら振り返る蛮奇の首。夜分、月明かりさえもない暗い夜道に何者がいるというのか。少なくとも今、動く者の姿はおろか影すら皆無。足音も…否。
ざっざっざっ。
規則的に踏み固められた道を刻む音。それがだんだんと蛮奇が飛び退った方向へと近づいてきている。そうして、音は最大になりついに、塀の端に積まれていた木箱を蹴散らしながら何者かが路地へと躍り出てきた。
「うわぁぁぁぁぁ!! くそっ! くそっ!」
一際大きな悲鳴を上げる蛮奇。それは見てしまったからだ。自分を執念深く追い続ける者の姿を。その手に握られた夜光に鈍く輝く鎌の切っ先を。そうだ。赤蛮奇はこの追跡者から逃れる為に街の暗闇と静寂を破り、飛び回っているのだ。
「ちくしょう。やっぱりまだ追いかけてきてる…っ!」
ほんの数分前、蛮奇は追っ手を視界から消すことに成功した。追っ手との体格差を利用して家と家との間、普通なら猫ぐらいしか通り抜けられない狭い隙間を使いうまく逃げ出したのだ。けれど、その喜びと安堵は長く続かなかった。追っ手は猟犬の様な執拗さと毒蛇の執念でもって蛮奇に追い付いたのだ。しかも、鎌などと言う禍々しい得物を携えて。恐らく農民か剪定業者の忘れ物を拾ったのだろう。雑草の茎を刈るための包丁ほどの鋭さもない丸い刃ではあるが…首だけの蛮奇にとっては十分に凶器たり得る得物だ。それを振りかざし、荒々しく走る様は生命の危機を十分に憶えさせる。
おのずと蛮奇の速度が上がった。恐怖が加速度に加わったのだ。ならば、このまま飛び続けていれば逃げおおせるか。いや、そう事が上手くいくはずはない。
「はぁはぁはぁ…く、そ…はぁはぁはぁ」
速度が上がったのは僅かに一時。その後は指数関数的に速度が落ちていく。あっという間に速度は加速以前まで減速してしまう。加速を維持できるほどの力の持ち合わせがないのだ。蛮奇の頭部には。より激しくなった息はその証左。悪態さえつけず、血のように濃い汗を滴らせる。
それでも僅かばかりは距離を離すことが出来ただろうか。否。蛮奇の後頭部を捉えた追跡者もまた速度を上げた。そうして、その持続力は頭だけの蛮奇にとっては無限と思えるほどのタフネスを備えていた。気がつけば凶刃を携えたその姿は蛮奇に手が届きそうな距離まで迫っていた。
「もう、駄目…ヒッ!?」
力尽き、そのまま勢いを失ったボール球のように高度を下げる蛮奇。遅れて一瞬。風切り音が聞こえ、数本、蛮奇の赤い髪が宙を舞った。追跡者が手にした鎌を蛮奇めがけ振り下ろしたのだ。その軌跡はもし力尽きるのが僅かにでも後ならば袈裟に蛮奇の後頭部を切り裂く曲線を描いていた。
「うわぁぁぁ!」
悲鳴をあげまたも加速する蛮奇。だが、今度のそれは足で喩えるなら大きく一歩踏み出した程度の加速に過ぎない。追い付く、などという説明すら必要ない。距離はまったく離れていないからだ。現に追跡者が振った鎌はまた何本か逃げ遅れた蛮奇の髪の毛を切り飛ばしている。そして、切っ先と蛮奇の距離は確実に縮まりつつあった。次の一振りは蛮奇の薄皮を裂き、次の一撃は骨まで達することだろう。
「っ…!!」
見開かれた蛮奇の目が何かを捉える。同時に頭は全速力のまま右舷に大きく舵を切った。進行方向、向かって右下へ蛮奇の頭は滑り込んでいく。向かう先にあるのは垣根だ。茂みに飛び込む寸前、蛮奇はきつく目を瞑った。頬や耳にひっかき傷を作りながらも幹と幹、添え木の間を通り抜けることに成功する蛮奇。
「へぶしっ!?」
勢い余り飛び込んだ庭に鼻から着地する。そのままごろりと転がり今し方自分が開けた穴を通して追跡者の姿が見えた。どうやら追跡者もまた垣根に突っ込んだらしい。だが、蛮奇の頭のように小さくない追跡者では垣根をすり抜けることは出来ない。やがて、追跡者は玩具を取り上げられた子供のように癇癪を起し、無闇矢鱈に鎌を振い垣根の枝葉を切り飛ばしはじめた。しかし、垣根自体はその程度では壊れはしない。雑草や稲を刈取る用の鎌では無理だ。追跡者が拾った凶器が鉈や山刀でなくてよかったと蛮奇はない胸をなで下ろした。
だが、追跡者とて頭の悪い餓鬼や駄犬ではない。自分の持っている鎌では突破できないと理解するや否や、無理矢理に垣根を昇り始めた。その程度の考える力は持ち合わせているのだ。
「ああっ、もう」
くそ、と悪態をつき浮かび上がる蛮奇。この一時の間が僅かにではあるが休憩になってくれたようだ。辺りを見回し、すぐに何かに注意を向ける蛮奇。
頬や耳の傷、切り落された後ろ髪を授業料に普通に飛び回っていては絶対に逃げられないことを蛮奇は学んだ。追跡者から逃れるにはこの小柄な身体を利用するしかない。
「畜生。猫や鼠じゃないんだから」
もう一度悪態をつく蛮奇。そうしてそのまま低空飛行で進み、踏み石の上を通り家の中へ…は行かない。替りに先程の自分自身の呟き通り、蛮奇は小動物のように床下の暗闇の中に頭を押し込んだ。
「思った以上に暗いわね」
蛮奇は闇夜に人を驚かせるタイプの怪異ではあるが、星明りさえない真の闇の中で物を見るほど目は良くない。いや、これだけの暗闇だと必要なのは強力な聴覚や第六感じみた空間把握能力となってくる。生憎と蛮奇はそんな力は持っていない。妖怪草の根ネットワークで知り合った影狼ならできそうだが。
「わっぷ、ナニコレ…蜘蛛の巣…? げぇ」
床下は暗い上に狭く、その上、様々な物が蛮奇の行動を阻害してきた。見えない柱にぶつかったり、建築する時そのまま忘れ去られていた釘に引っかかったり、時折、何か(恐らく鼠か蛇の類だろう)が蛮奇の側を通り抜けて行ったりした。怖気を催す。それでも生命の危機を感じる事はないだけましだ、と蛮奇は自分に強く言い聞かせた。
「……このままやり過ごせればいいんだけれど」
呟きは願ってのものだったが、同時に諦念も含んでいた。こんなに簡単に逃げられる筈はない。そんな想いが油汚れのように蛮奇の心にはこびり付いていた。
案の定、頭上、床板を通して声が聞こえてきた。この家の住人だろうか。床下をもぞもぞ這い回っている蛮奇の物音に気付いたのだろうか。猫か鼠だと勘違いしてくれれば良いのだが、と蛮奇は動くのを止め、息を潜めながら思った。追跡者だけでもやっかいなのにこの上、人間にまで見つかってしまったら、生きてこの街から逃げ出すのは不可能になってしまう。どうか、気のせいだったともう一度布団を被って寝てくれ。
けれど、物事はいつだって悪い方向へと転がるものだ。住人の声はますます大きくなり、ついで荒々しい足音まで聞こえてきた。床板が軋み声を上げ、埃が蛮奇の頬の上に落ちてきた。
「…?」
自分が立てた物音に苛立っている、にしてはおかしい。『なんだ』とか『だれだ』とかいう怒声が床板越しに聞こえてきた。怪訝に眉を顰める蛮奇。なんだ、ともう少し上の様子を詳しく知りたいと思い床板に耳を押し当てる。瞬間。
『ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!』
硝子板を引掻いたような大絶叫が聞こえてきた。次いで何か、重く大きな物が倒れる衝撃が伝わって来た。上で一体何が起こっているのか。まったく状況が理解できず混乱する蛮奇。そんな蛮奇に説明するよう、何かどろりとした生暖かいものが顔にかかってきた。床板の隙間から染みこみ、滴り落ちてきたものだ。それが蛮奇の唇まで伝わり、ほんのちょっぴりが口の中に入ってしまう。その味で蛮奇は自分の顔を汚した粘液が何かを悟った。
「まさか。いっ、いやぁぁぁぁ!!」
血だ。それも人体から流れ出して間もない真新しい鮮血。薄い床板一枚挟んだ上で家の主人は殺されたのだ。誰に? 決まっている。執拗に蛮奇を追い回していたあの追跡者にだ。無慈悲に。追跡の邪魔になったという理由だけで。それだけ追跡者は蛮奇の頭部に執念を抱いているということか。
そして、その執念を果たす手助けを蛮奇は知らずの内にしてしまっていた。悲鳴だ。全くの偶然ではあったが、今し方殺した邪魔者のすぐ側に蛮奇が隠れていることを追跡者は知ったのだ。
衝撃と…頬に感じた鋭い痛み。床板を貫き鎌の切っ先が蛮奇を切り裂いたのだ。次いで床板が悲鳴のような軋み声を上げる。鎌は攻撃の為ではなく床板を引っぺがすために振り下ろされたのだ。めきめきと音を立て床板がめくれ上がる。追跡者の姿が露わになる。
「くそっ!」
蛮奇が逃げ出すのと追跡者が腰を屈めるは同時だった。追跡者は自分が開けた穴に腕を差し込み逃げ出した蛮奇を捉えようとする。
穴は小さく、そうして床下は追跡者の腕の長さより十分に広い。逃げ切れる。その筈だった。逃げるのを急いてしまった蛮奇が柱にぶつからなければ。
悲鳴と暗闇の中で瞬く火花。ほんの一瞬だが蛮奇の気が遠くなった。それが完全に昏倒の世界へ落ち込まなかったのは火で炙られたようなおでこの痛みだ。逃げなきゃ、と頭を浮かせる。けれど、やはりこの事故は致命的であった。猛禽の爪のような荒々しい力でもって蛮奇は捕まえられてしまった。そのまま畑から芋でも引き抜くよう、床下から引き摺り出される蛮奇の頭部。
「クソッ、離…!?」
離せ、という言葉の通り追跡者はたった今捕まえたばかりの蛮奇の頭を離した。いや、蛮奇の言葉に従った訳ではない。それに離したという言葉にも語弊がある。離したのではなく放り投げたのだ。壁に叩きつけられ、そのまま跳ね返り、毬の様に転がる蛮奇の頭。たたらを踏んだような激しい足音が室内に響いたが、蛮奇には聞こえなかった。
「っあぁぁぁ…」
床下でぶつけたおでこの何倍もの痛みを覚えながらも蛮奇はもう一度逃げだそうとした。それは考えての行動と言うより最早本能だった。だとすれば、追跡者の行動原理は執念だろう。何故かボディブローでも喰らった後の様なふらつく足取りで蛮奇に近づくとその頭を床に無理矢理に押さえつけた。
「離せっ、離しなさいよ!!」
今度は離さない。先程、捕まえたばかりの蛮奇を投げ飛ばしたのは、今まで散々追いかけ回させてくれた駄賃だろう。けれど、今度のは違う。もがき叫び自分を押さえつける指の間から追跡者を睨み付けた蛮奇が見たものは鎌の鈍く光り切っ先だ。自由の女神の右手のように高々と掲げられているそれを追跡者は躊躇いなく振り下ろした。
「んぎぃぃぃ!!」
その寸前、蛮奇は小さな反撃に出ていた。自分を押さえつけている指に噛みついたのだ。ありったけの力を込めて。ところでご存じだろうか。人体を構成する筋肉の内、もっとも力が強いのはアゴの筋肉だと言うことを。生命の危機を肌身に感じるこの状況下。火事場の馬鹿力、ではないがこの時の蛮奇の咀嚼力はケーブル用カッターばりの力を持っていた。ぶちりぶちり、と追跡者の指が噛み切られる。
「ぎゃあぁぁあ、ごぁ、がはっ」
振り下ろされた鎌の切っ先は…運良く逸れた。拘束も外れる。が、蛮奇はすぐには逃げなかった。いや、逃げられなかったと言うべきか。蛮奇の頭はその場で小刻みに震えていた。まるで、痛みを堪えるように。
「っ、逃げないと…」
数秒後、ぺっと何かを口の中から吐き捨てる蛮奇。噛み切り落した追跡者の指だ。そうして、のろのろと蛮奇は死にかけの蝶々のような様で浮かび上がった。後ろでは切り落された自分の指を押さえつけながらも追跡者が行動復帰していた。
弱々しく飛びながら廊下を進む蛮奇。初めて入った家だ。間取りなど当然知らず、出入り口が何処にあるかなど見当も付かない。いや、飛び疲れ、体中に傷を負い、生命の危機にさらされている状況ではまともに頭を働かすのも難しい。蛮奇は風に流されるよう適当に家の中を進んでいった。廊下を曲り、扉にぶつかり、階段を登り二階へ。
と、
どたん!
何かが盛大に倒れる音、それと身体に衝撃を憶え蛮奇は動くのを止めた。振り振り返り物音の正体を確かめる。見れば追跡者が階段の下で倒れているではないか。足を滑らせたのだろうか。いいや、違う。立ち上がり階段の一段目に足をかけ、二段目に足をかけようとして、足を上げすぎてつま先で三段目の角を踏みまたも前のめりに倒れた。
「ああ、そうか」
その酔っ払いじみた追跡者の行動に蛮奇はすぐに合点がいった。
「見えるはずがない、ものな」
見えないだけではない。聞くことも、今は意味がないが嗅ぐこともできないのだ。道や廊下を歩くことぐらい出来るし、無理矢理に垣根を越えることも何とか出来るが、階段を登るのは追跡者にとってはかなり難しい事らしい。
「ははっ、ざまぁ」
階段を登ろうとして失敗する追跡者の姿を見て笑う蛮奇。その嘲笑が癪に障ったのだろう。頭を持ち上げるような動作をする追跡者。まるで鬼か竜に睨み付けられたようにぶるりと震える蛮奇。その驚愕と恐怖は次の瞬間、更に増大する事になる。四つん這いのまま追跡者は階段を駆け上ってきたのだ。四足の獣…いや、トカゲのような不気味ささえ憶える移動方法。だが、少なくともこの方法なら躓いて転ぶ可能性は低い。やがて、蛮奇が逃げなくてはと我に返った時には追跡者は要領を憶え恐ろしい速度で階段を昇り始めていた。くそ、と悪態をついて蛮奇は先んじ階段を登り切った。
「何処か隠れる場所は…無駄か」
階段の上は屋根裏部屋で倉庫として扱われているようだった。木箱や古びたタンス、何かのガラクタが詰め込まれている。何処にでも隠れられる場所はありそうだが、その手は通じないと蛮奇は理解してた。
追跡者からは逃げる他ないのだ。隠れてやり過ごすことも返り討ちにすることも出来ない。いや、実際には逃げることも出来ない。どうしようもない。本当に唯一蛮奇が取れる手段は一つしかないのだ。
「来た…」
床板が軋む音で追跡者の来訪を知る蛮奇。飛び続けるのも疲れたので、窓枠に降りる。
「ね、ねぇ」
おずおずと話しかける蛮奇。階段の踊り場から姿を現した追跡者も話を聞く気があるのか、そこで足を止めた。
「貴女が怒る気持ちも分かるわよ。そりゃ、私だって我が身可愛さに危険な目にあわされたらキレるわ」
そう、様子を伺いながら蛮奇は話を続ける。返答はない。いや、出来ないことは分かりきってる。一方的に話すしかないのだ。
「でも、私の立場にもなってよ。ああするしかなかったじゃない。そうでないと私は殺されてた。それもかなり惨たらしい方法で。いや、もっと酷い目にあわされてたかも知れない」
眉を顰め、感情たっぷりに、情に訴えかける。感情的な相手に感情で訴えかけて効果があるのか。人を驚かせることぐらいしか能のない蛮奇にその是非は分からない。自分たちをこんな死の追跡劇に陥れた尼公や皇子ならイージーのステージ1の様に簡単な問題なのかもしれない。
「兎に角、あの時、とりえた最善の策がアレだったのよ。それにほら、お互い無事なわけだし、過去のことは水に流して、また、手と手を取り合って…って今の私に手はないけれど、そんな感じで、ね。そうじゃないと失敗した私やテロ未遂を起こした貴女を殺そうとあの怖い人達が躍起になるわよ」
そう今後の展開も説明する。これで相手の頭が悪くなければ、少なくとも渋々だろうが言うことを聞いてくれるはずだ。蛮奇はそう考えた。
頭が悪くなければ。頭が、悪くなければ。頭が、悪く、なければ。
「ねぇ。だから、元に戻っ」
なければ。あれば。頭があれば。追跡者に、その、頭はなかった。
「!?」
頭のないボディに説得が通じるはずもない。アレを動かしているのは頭脳により理性的な判断ではなく心臓に滾る感情、つまり自分をこんな目に合わせた頭への憎悪だけだ。
顔が付いていれば雄叫びを上げていただろう。だが、頭のない追跡者は無言のまま蛮奇の頭に飛びかかった。逃げようとする蛮奇。だが、遅い。頭と身体は窓ガラスを突き破り、外、中空へと躍り出た。
「きやぁぁぁぁ!?」
自由落下に恐怖の声を上げる蛮奇。自由に空を飛べる彼女が体験したことのない感覚。それもものの数秒間だけだ。二階から地上までの距離など大してない。すぐに着地の衝撃が襲ってきた。
「うぐぐぐ、くっ…はぁはぁ」
ころころと庭を転がる頭が荒い息と共に悪態をついた。その姿は埃と蜘蛛の巣と土、そうして血に塗れなんとも無様だった。
ああ、それでも大分、だいぶとマシだろう。着地の衝撃で腕があらぬ方向に曲がり、足が折れ、手にしていた鎌の切っ先が肩に深々と突き刺さっているボディに比べれば。
「ははっ、ひどい有様」
そんな様子を見て笑う蛮奇の頭。これもある種の自嘲か。そこまで自分の身体を痛めつけなければいけなかった自分自身への嘲り笑い。そう、追跡者は他でもない、蛮奇自身、頭部が離れた身体だったのだ。それが殺意と憎悪をむき出しに一晩中、蛮奇を追い回していたのだ。
だが、それも終りだ。再び蛮奇の首が収まるべき場所に収まれば、身体は勝手に動き出したりはしない。主導権は頭が持っているのだ。
「さてと、兎に角、身体に戻らないと、夜が明けてしまう」
つぶやき、蛮奇はもうタンポポの綿毛さながらの弱々しさで浮かぶと倒れた身体に近づいていった。空中で向きを変え、車の車庫入れのように後ろ向きに身体に繋がろうとする。
「ん?」
違和感。
普段なら目が覚めた時のように体のすべて、指先から内蔵にまで自分の意思が行き渡る、その感覚が全く感じられない。どうしてだ、と蛮奇は困惑する。まさか、身体の方は死んでしまったのか。いいや、それは有り得ない。文字通り頭と身体は同体。一心ではなかったかもしれないが、身体が死ねば頭もまた地に落ちる定めだ。蛮奇の頭部がこうして動いているのなら身体もまた生きている。辛うじてではあるが。ならば何故。
「まさか…」
一旦、身体から離れる蛮奇。暗い洞になっている自分の首が収まる場所を覗きこむ。果たしてそこには…
「畜生、畜生、畜生!!」
首が入らないようボロ布や石ころがぎっちりとつめ込まれていた。頭のない身体がこんな最終手段を講じていたなんて、と蛮奇は恐怖した。実際のところそれは作戦ではなかった。頭部に対してあまりに深い憎悪を抱いていたボディは本能じみた行動原理で持って自分の首にゴミを詰め込んだのだ。そう簡単に収まる事ができないように。
「うわぁぁぁぁぁ!」
半狂乱になりながら蛮奇は自分の身体に顔を突っ込んだ。手足が繋がっていない蛮奇はこうやって口を使ってゴミを取り除くしかないのだ。
「クソ、クソ、クソ!!」
ボロ布の端を喰み、石ころを口の中に入れ、なんとか胴体から取り除いていく。だが、詰め込んだ後に杵で突いたのかと思うほどゴミはガッチリと胴体の中に詰まっていた。尖った石片や針金に噛み付いたせいで唇や口の中が血だらけになる。その痛みを無視して、必死に、今夜何度目かの必死さで蛮奇は作業を続けた。
「ああっ、畜生」
その顔に光が差し込む。朝の訪れだ。一日の開始、或いはコウモリのように睡眠時間の訪れ、別の誰かにとって希望に思えるその輝きはけれど、蛮奇にとっては死刑宣告に等しい輝きだった。
飛頭蛮は夜の訪れと共に胴体より離れ飛び回る怪異である。そうして、朝の訪れまでに身体に戻らなければ――
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
絶叫、混乱、必死。もはや、喰らうような勢いでゴミ屑を掻き出し始める蛮奇。いそげいそげいそげいそげ。繋がっていない心臓が早鐘を打つ。死にたくない死にたくない死にたくない。その一心。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない殺死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない殺し死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない殺してや死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない殺してやる――!
「え?」
一心のはずの思考にノイズが交じる。いや、それはもう一つの一心だ。ボディの。とてつもない憎悪と憤怒、それらの総意、殺意、その感情が流れ込んできたのだ。
ごろり、と地面に転がる生首。身体が起き上がったため、転げ落ちてしまったのだ。
「あ」
つぶやきは朝日の輝きを受ける鈍い刃の切っ先を見ての事だった。その声が蛮奇が最後に発した声、その瞳が見た光景が最後の光景だった。
死因は振り下ろされた鎌の鋭い一撃か、それとも伝承通り朝が訪れてしまったからなのか。知るものはいない。
END
作品情報
作品集:
10
投稿日時:
2014/07/20 10:38:19
更新日時:
2014/07/20 19:38:19
評価:
6/6
POINT:
600
Rate:
17.86
分類
赤蛮奇
自分自身での決死で必死の鬼ごっこ!!
頭一つ抜きん出ていたはずだが、憎悪が知能を上回っていたようだ。
そして……、どうあがいても、ゲームオーバー……。