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『井戸の底』 作者: henry

井戸の底

作品集: 11 投稿日時: 2014/08/07 16:09:06 更新日時: 2014/08/08 01:09:06 評価: 4/6 POINT: 460 Rate: 13.86
※この作品には微スカ表現や鬱要素が盛り込まれています。
 閲覧の際はご注意ください。






 井戸の底

 濁りのない水を口に運ばれて、それを弱い力で飲み込んだ。
 魔法の森にも雪の結晶が舞う、珍しい冬の午後だった。霧雨魔法店は、光の乱反射する大雪の中にぽつんと取り残されていた。店を彩る売り物――雑多に置かれた魔道具、蒐集物達は霜が降りたように温度を失って、まるで弔花に入り組んだ棺桶の中を彷彿とさせる。
「大丈夫? 生きてる?」
 魔法店の二階、魔導書に埋もれた寝室に臥せる影があった。先に口を開いたのは、見舞うようにベッドに傍立ったアリスだった。
「もっと水飲む?」
「いや、もういい。……平気だぜ。これくらいの風邪」
 言い終わる直前に痰が絡み、横になっていた魔理沙は詰まった咳を何度も吐き出した。
 暖炉は一階の実験室にある。熱は遠く、寝室には冷気の逆棘が渦巻いていた。冬の間の暖房は、おそらくは八卦炉を使って行われていたのだろう、この部屋には毛布くらいしか暖かいものはない。
 人間は脆弱にできている。アリスは、眼前で青い顔をしている普通の魔法使いを見てそう思った。
 魔法の森の中に棲む人間は、たったひとり。魔理沙だけだ。アリスは生まれた時からすでに種族の違う魔法使いであり、捨虫の法により長大な寿命を携えている。
 ウイルス、細菌、寄生虫、ちょっとした外部からの影響は、人間にとっては脅威だ。
「うっ」 痙攣するように唸った魔理沙は、ほとんど水だけになった吐瀉物を撒き散らした。アリスは寝床に備えた洗面器を掴んで、それを受け止める。
「強がらないで。何でもひとりでできるなんて考えはよして」
 上半身をもたげた魔理沙の背中をさすりながら、優しく声をかける。再びびくん、と震えた魔理沙は、洗面器の水かさを少しだけ増やした。
「……私は、何でもしたいんだ。ちっぽけな人間のままなんて、嫌だぜ」
 答えを聞いて、アリスは内心大きな溜息を吐いた。そういうことが云いたいんじゃないのに。
 無謀な好奇心にあてられたこの人間は、今回もそう、自分の手に負えない無理をした挙句、つまらない病気を持ち帰ってくる。
「身の程を知ったほうが自分のためよ? イカロスってわかるでしょ? 蝋でできた翼じゃあ、太陽にはたどり着けないのよ」
 しかし、それが愛おしいのであった。完全な魔法使いになり、食事も睡眠も必要としなくなったアリスが、進んで、人間らしく、パンを食べたり、夜に眠ったりするのは、ヒトのどこかに憧れを感じているからだった。
「人間は進化する。大昔と今じゃ、事情が違うんだぜ」
 こうして会話を重ねるほど、アリスの胸中は安心感に満ちていった。魔理沙の心は、何かを言い返せるくらいに元気なのだ。
「あ……」 声を洩らし、顔を歪ませて、魔理沙はベッドから立ち上がろうと毛布から身体をずらした。アリスはふらふらと揺れる彼女の体を支える。
「無理はしないで。寝てなさいよ」
「違う。そうじゃなくて……」
 補助のために触れた手を伝って、魔理沙の腹部の内側から嫌な脈動が鳴り響いた。
「あっ……。大丈夫? 歩ける?」
「うん……」 一気にその語気が弱くなった。
 二人三脚のよう傍らに立ち、ゆっくりと部屋を横断していく。凍てつく冬の寒気にあるのにも関わらず、魔理沙の寝間着はしっとりと汗ばんで匂い立っていた。
 目的地は一階にあった。蒐集物で荒らされた急な階段を降りなければならない。そんな心配がアリスの脳裏によぎった瞬間、ピタ、と歩みが止められた。
 倒れこむように上半身を丸めて、魔理沙は震えながら硬直してしまった。内股になり、口をぎゅっと結ぶ。
「ん……!」 吐息が声になり、続いて立ち昇ったのは、匂いだった。
 有機物の、臭い。そして一呼吸の間を置いて、汚らしい排泄音が部屋に満ち溢れた。みるみるうちに下半身の寝間着が染まっていき、大量に垂れ落ちた汚物は床に茶色い水溜りを作った。
 ああ、はあっ、……はあ……、はあっ……!
 苦しそうな嗚咽が跳ねるたび、門は決壊して、どろどろとした未消化物を下着に吐き出していく。一気に体温を失ったせいか、力失って魔理沙は自分の汚泥の中にへたり込んだ。
「大変……。雑巾持ってくるわ」
 起こってしまった痴態に慌て、アリスはその、魔法使いの軽い足取りを浮かせた。後ろから、魔理沙が涙によろめいた声を小さく上げた。
「……アリス……ごめん………………」
 アリスが散らかった一階で後始末の道具を探しているとき、二階からは苦しそうな吐瀉の音が何度も飛んできた。それは、ウイルスによる感冒症で、看病するものが人間ならば容易に飛沫で感染していただろう。
 霧が凍り付き、森が静まる枯れた冬。そのひとりの人間が回復するまで、2週間の日々を要した。
 ベッドのシーツも、魔理沙の寝間着も、果てはアリスの普段着さえも捨てなければならないほどに汚れて、雪が通り過ぎる頃には様々なものが新調されていた。
 まるで人間の代謝のようだった。外側のデザインを変えず、複製して劣化したものを捨て去る。しかし、限度はあるのだ。
 冬は更に深まり、元気になった魔理沙がきのこ魔法の研究を再開したときにそれは起こるのだった。

    *    *    *    *

 霧雨魔法店には、魔理沙が訪れる前から存在しているものがある。
 もともと、霖之助の協力によって魔法店の住居は作られた。建てられたのでなく、改装された。
 ここには、もともと廃屋があった。先住者の魔女か、妖怪か。ともかく、誰かが居たことは確かなようだった。霖之助曰く、
「施設は研究のために作られたようだ。それ以上は判らない」
 荒れ果てていた廃屋には魔道具もなく、生活の痕跡すら見つからず、完全なもぬけの殻であったそうだ。しかし、湿度の高い魔法の森にあって、その骨組みは腐っても、朽ちてもおらずまるで、新しく木材や石から切り出したままのようであった。
 住居は、今も研究のために使われている。魔法の研究だ。
 唯一、昔の名残があるのは、横手にある深い、深い井戸だった。
 土壌が腐敗し、場所によっては瘴気を放つ大地に、なぜか湧き出る精錬された井戸水。一方、アリスの洋館にある井戸は、設置魔法により不純物を撤去してようやく濁りの消える代物で、この設備の異常性を物語っていた。おそらくそれは並大抵の深度ではなく、まっすぐに地下を穿つ楔のような存在のはずだ。
 井戸前にある装置のレバーを引くと、ポンプによって綺麗な水が蛇口から溢れ出してくる。人体に有害な毒もなく、ただの水。
 何ひとつ問題はなかった。それ自体が、異常なことでも。好意に甘えるだけでも、好奇心で場を乱そうとも、強がろうとも省みずとも、人間でいる限り、魔理沙は永遠の幼年期であった。
 彼女の持つヒトの幸運が、途切れるまでは――――
 すでに霧雨魔理沙の失踪から、3週間が経っていた。
「ねえ、魔理沙がどこに行ったか知らない?」
 早朝、博麗神社で境内の掃除をしていた霊夢に向かい、アリスは問いかけた。焼きたてのパンの詰め込まれたバスケットを持ち、肩に人形を載せて、その魔法使いの青眼を周囲に巡らせる。
「そういえばここ最近、見てないなあ。なに? また何かやらかしたの?」
「んー…………」 少し考え、「今日はパンを焼き過ぎちゃって。色々おすそ分けに回ろうかなって思ってたのよ」
 アリスは虚実の入り混じった返答をした。同じ蒐集家として、魔法研究者としての話ができないのを、少し寂しく感じていた。
「じゃあもらっていい? 魔理沙は和食派だからあまり食べないだろうし、その、半分くらい」
「食い意地張ってるわね」
 苦笑して、差し障りのない会話をした。今日の天気だったり、博麗神社にくる妖怪の話だったり、人形の服飾の話だったり、深入りはせず、お互いにあった日常を、まばらに伝えあっていく。
 日は昇り、博麗神社を後にしたアリスは霧雨魔法店に寄ることにした。空になったバスケットは上海人形に持たせて、魔法の森の湿った土壌に降り立った。
 晴れやかな空は濃密な木々の葉を滑り、魔法店に幾何学的な影模様を作り出していた。新芽を折ったような緑の匂いが立ち込めていて、アリスはゆっくりと呼吸をした。
 玄関前にあるベルを鳴らすが応答はない。扉をノックしても、誰の声も上がらない。開け放たれたままになった二階寝室の窓を訝しがって、アリスはドアノブを捻ってみることにした。
 魔法店に施錠はされていなかった。
「あれ? 魔理沙ぁー? 居るのー?」
 返事はない。泥棒でも入ったのかな、と自分に言い訳して、許可を得ずにアリスは彼女の家に侵入した。
 そこには、何もなかった。蒐集物に占拠された廊下や室内は、3週間前となんら変わりなく雑多で散らかり、衣服や下着も棚に入ったままで引っ越したようにも見えず、ただ二階で窓際のカーテンが揺れているだけであった。
 まるで、う化した鳥が巣を飛び立っていったように見える。
 一階キッチンには魔理沙の生活していた形跡だけが残り、漬けられたお酒や、埃の薄く積もった食器類、3週間からほったらかしなのかシンクには黒く濁った水の入った皿が放置されていた。
 どこか、出先から帰ってきてはいないのは、明白だった。
 手掛かりとなるものはなく、ひと通り回ったあとアリスは魔法店から踵を返すことにした。
 帰り際に、ひとつ目を引く色があった。
 それは青い色をした花だった。
「こんなものあったかしら?」
 井戸の周りから環を描くように、青い花弁をつけた薔薇のような植物が群生している。アリスは近寄り、ひとつ摘み取ってみせる。棘のある茎は水々しく折れ、はらはらと花びらが散り、それは紛れもなく普通の花だった。
 顔に近づけてその香りを楽しむと、アリスは黙したまま魔法店に背を向けた。森に消え入る前に青薔薇を一瞥して、魔法使いは自分自身の日常へと戻っていく。
 今や風だけが、霧雨魔理沙の部屋に唯一訪れる来客だった。

    *    *    *    *

 魔理沙が目を覚ますと、あたりは闇に静まり返っていた。
 八卦炉から僅かな炎を出し、明かりにして周囲を照らすと、そこには全く同じ姿の人間が、白黒のエプロンドレスが、自分と肩を寄せあわせて眠りこけていた。
 すでに時間の感覚はなくなっていた。
 ここは井戸の底だった。
 まず冒険心を奮い立たせて未知の奥へと旅立った彼女を待ち受けていたものは、延々とつづく石造りの闇路だった。八卦炉をランタン代わりにして進んでいくと、やがて方角が失われた。
 曲がりくねって先の見えない道を更にいくと、次には距離感が消えていった。しかしそれは一本道だった。迷いのない道は、魔理沙の足をどんどんと最奥へと誘った。
 なに、いざ帰りたいとなれば、来た道をただ引き返すだけでいい。そんな安直な考えが、いつの間にか地下へ、地下へとくだるようになった階段のさきで、魔理沙に邂逅を与えた。
 出会ったのは自分自身だった。
「お前は誰だ! 動くと撃つ!」 言い放ったのは両者同時だった。
 それは壁面に反射して返ってきたわけでも、鏡に映った像でもない、紛れもない、もうひとりの彼女自身だった。
「私は霧雨魔理沙だ。お前の名前はなんだ?」
「私は霧雨魔理沙だ。お前の名前こそなんだ?」
 初めにあった緊張感は、言葉を重ねていくにつれ、少しずつ薄まっていった。聴けば聴くほど、まるで生き写しなのだ。声、性格、姿形、目的、記憶………………
「ということは、お前は別の世界の私ってことだな」
「そうみたいだぜ。一体どういうことだ?」
 つまり、このままどちらかが、どちらかの道へと引き返せば、もうひとつの世界に出られる、ということだった。魔理沙はここで肩違えて、双方、まだ見ぬ別世界へと旅立つようなことはしなかった。
「な。驚かせてやろうぜ。ふたりでさ」
「面白そうだな。で、どっちに帰るんだ?」
 魔理沙は子供のような悪戯心から共謀して、そして、意志の決定はじゃんけんで行われた。しかし、今となっては、どちらが勝とうと、どちらへ向かおうと、なんら運命に変化がないことを、受け入れるしかなかったのだった。
 出口は一向に見えなかった。魔理沙は互いに研究や蒐集の話題に花を咲かせて、どれだけ時間が経過したかなど忘れていたのだった。やがて、歩く足に疲れを感じて気付く。
「なあ、これ、いつ、光が、見えるんだ?」
 まるで、飛び込んだ井戸に蓋でもされてしまったかのように、道は暗闇に閉ざされていた。だが、記憶を辿ってみると、そもそもスタート地点は袋小路だったはずだ。足を止め、魔理沙は唾を飲み込んだ。
 それから、魔理沙は気が済むまで道なりに歩んでいった。それでも出口はなく、ある休憩を境目に、来た道を延々と戻り始めてもみた。環状の回廊をぐるぐると回るように、一向に事態は進展の兆候を見せなかった。
 ひとつだけわかることがあった。それは、段々と降りていくことだ。巨大な悪魔に飲み込まれたように、道は方角や傾斜を次々と変化させ、稀に訪れる下り階段で奈落へと誘っていく。
 空腹に襲われ、魔理沙は互いに責任を押し付け合って、その沸き上がった暴力で殴りあった。争いが無意味だとわかると、やがて闇の先に向かって問いかけを始めた。
「わかっているんだ! お前が、わたしたちを陥れているくらい」
 しかし答えを運んでくる声はなく、
「そうだ、私の八卦炉が欲しいんだろ!? これくらいくれてやるから早くここから出せ!」
 威勢のあった言葉は、
「頼む、わたしたちを帰してくれ! 心が、折れそうだ……」
 沈黙へと移り変わっていった。
 道の脇で排泄をして、気の遠くなるほど歩き、冬の気候に震えながら浅い眠りにつき、乾いた喉で空気を吐いて、魔理沙の間には言葉が浮かばなくなっていった。
 代わりに生まれたのは粘ついたキスだった。
 足を進めることをやめ、冷たい石畳に腰を下ろして互いの身体を重ねた。衣服はそのままで、唯一闇の中にある柔らかい感触を何度も何度も楽しみあった。股ぐらの間に利き手を潜り込ませて、生理現象によって充血した性器を愛撫する。
 喉の渇きで唾液は少なくとも、どんどんと性の衝動は溢れてその下着を濡らしていった。拭うものもなく、排泄物に汚れた尻の穴すらまさぐって、諦めの快楽に溺れていった。
 何日経ったのかわからない。行為は麻薬のように途切れず激しく続いたが、徐々に交合への興味も、衰弱して粘膜が快感を失っていくにつれ萎えていった。
 魔理沙の眼は獣のように光るようになった。憎しみを闇に向け、しかし歩み出す足はなかった。すでに無力さは手足の自由を奪っていた。
「いっそのこと、殺しあうか?」
「ははっ。手の込んだ自殺か。いいぜ」
 時間の消失した点の渦中で、何度目かのかすれた声をあげた、そのときだった。
 道が歪み、まるで蜃気楼のように目の前に扉が現れたのだった。
「……どうする? 信じるか?」
「いや。もう信じない」
 魔理沙にはそれが幻覚に見えた。すでに度重なる幻聴に襲われて、これくらいの錯覚は当然のものだと感じていた。
 が、立ち上がった魔理沙は、二人してその扉を押したのだ。
 信じない。助かることを、信じない。魔理沙を動かしたのは、自分が罠に誘い込まれていく虫であると自覚した、自虐的な、自殺願望だった。
 そこは、終点だった。
 部屋があり、見たことのないような設備がところ狭しと並べられている。近づいて手で捉えると、それは高度な魔道具であることに気がついた。探索は加速していき、その隣室が、食料となりそうな菌糸類や植物の実が生っているプランターになっていることに驚愕した。
 生きられる。上擦った声を空気音としてヒューヒューと漏らしながら、魔理沙は互いに抱き合った。八卦炉の火で明るくなった末端の部屋が、宝石のよう輝いて色づいて見えた。

    *    *    *    *

 研究の日々だった。扉のさきの道に出てしまったら、いつ戻ってこられるかわからない。幸いここには、あつらえられたように、素晴らしい設備が整っている。魔理沙は、部屋の中から地上に戻る方法を探し始めた。
 隣室にある植物や菌糸類は、それがどれもみな見たことのない種で、また毒もなく食用であり、更に魔術的に有用なものですらあった。
 魔理沙は、用途をいくつか試しながら魔道具を熟練していき、互いに相談し、魔法を研究し合い、笑顔を交えながら、その成果がくる日を待ち望んだ。末に部屋脇に積み上がった自らの排泄物すら使いつつ、狂ったように探求を続けた。
 異変は、溶液の調合中に起きた。
 一滴垂れた水の跡から、花が咲いたのだ。
 それは、地上では破壊を齎す『力』しか創造できなかった、彼女の組んだ魔法とはとても思えない代物だった。
 まるで妖精や神々の扱うような、無から有を存在さしめるような、革新的な魔法調合だった。
 ここにある材料のおかげか、施設のおかげか、はたまた狂気じみた固執心からか、ともかく、それ以降、技術は爆発的に向上していった。
 すべての始まりとなる、青い、薔薇のような植物は象徴としてそこに残された。生み出した有により、ボロボロになった服も縫われ、汚れきった身体も清め流された。
 魔理沙の髪は後ろで束ねられるほどになっていた。
「ついに、完成したぜ」
 部屋の中央には、二人の魔理沙と、改造された箒が集まっていた。彼女の魔法技術の結晶は、今ここにあった。
 魔理沙は軽く互いにキスをした。もうここに戻ってくることはないだろう、感情の昂ぶりがそうさせた。
 生温い、体液の感触が唇に満たされた。
 キスを終え、眼を開いたとき――――――
 あったのは死体だった。
 口から血を吹いて倒れこむ魔理沙が、眼前にあった。胸には短い刃物が貫通していて、生き残ったほうの魔理沙は一歩、場から足を引いた。自らの口に渡されたのは唾液でなく、真っ赤な、血だった。
 ひとりを殺したのは、黒い、隙間から伸びる手。
 ズズ……と空間を割いて現れたのは、妖怪の、紫だった。
「なに……、するんだぜ…………わたしたちは、これからっ」
「何様なの。あなた、どうしてこんなものを作ったの!?」
 死んだ魔理沙の持った箒を奪い、紫は異空間の隙間に投げ込んだ。その眼は怒りに吊り上がり、今にもその膨大な妖力の矛先を向けてきそうだった。
「なにを云って……。わたしたちは脱出するために…………」
 正直に吐露しかけて、ふと気付いて魔理沙は息を呑んだ。
「いや、紫、そうか、ああ、そうか。お前がわたしたちを閉じ込めたんだな。わかったぜ。お前のせいかッッッ!!」
 魔理沙の中に蓄積された、長い、長い鬱屈が、怒りに変わって爆発した。崩折れて血を失っていく魔理沙を一瞥して、自身を殺された痛みに全身を奮わせた。箒が幾筋もの光に包まれ、瞬時にその準備は整った。
「あなた、狂ったの? 何でもひとのせいにするのは良くないわよ」 云い、紫は迎撃の姿勢を整えた。真っ白いアンブレラを取り出し、くるくると回す。
「妖怪だけに、嘘が得意なんだな。どうする? スペルカード勝負でもするか?」
「いいえ。あなたは幻想郷を崩壊させる恐れのある魔法を作り上げてしまった。だから、これは殺し合いよ。それも、一方的な」
 言葉が切れた一瞬。紫はその場から姿を消した。力を込めた魔理沙の一振りは空振りに終わり、部屋には、数秒にも満たないが長い、沈黙が訪れた。
「そう、死ぬのはあなた」
 ズっ、と刺し込まれたのは、魔理沙を殺害して紅く濡れたナイフだった。再び魔理沙を貫通し、それはほとばしる血の流れとなって散り落ちた。紫が出現したのは彼女の真後ろ、刺す瞬間すら見えないような、瞬きの間すらない刹那。しかし――
「がっ」
 呻いたのは紫だった。心臓から気道まで裂け、昇ってきた血をボタボタと吐き戻す。確かにナイフは魔理沙に突き立てられたはずだ。再度見遣ると、まるで、自分がスキマを使って手品をするような……
「急所は外したから、安心しろ。……私は、ここに来たときに死ぬほど経験したんだ。終わりないループを。ここから出るには空間を捻じ曲げるくらいしないとダメだ。この魔法の箒は、紫、お前自身の力に似せたんだ」
 ――そんなことは知っている。だからこそ、幻想郷を守らなければ。喉を溢れ出る血液に塞がれて、紫は低く唸った。
 想定はしていた。時空間どころか、張られた結界にすら穴を開ける、それどころか、現実と夢の境界という概念すら、揺らがせるパワー。対策は立てたはずなのだ。破壊によるダメージも、空間歪曲による自滅も、時間加速によるトリックも、あらゆるボーダーラインを超える行為に対して、それを無意味にする罠を張ったはずだ。しかし、現実はどうだ。
 魔理沙は、刺されたという事象そのものを、移し替えたのだ。
 物理を完全に無視し、概念上の存在を繰る。めちゃくちゃだった。おそらく、彼女自身は、その力の真価に気づいていない――――空間を操った程度にしか感じていないだろう。だから今も、急所を外したと思い込んでいる。この胸の傷は、向けた殺意が、そのままに跳ね返った証拠だ。
(奪わなければ。命を賭けて)
 衣服を赤く染めながら、紫は魔理沙を後ろから羽交い締めにした。標的がもがいて抜け出さない内に、小さく、その耳元で囁いた。
「ごめんね」
 抵抗する暇を与えず、異空間、スキマの中に自分ごと投げ入れたのだった。まだ魔法の箒の全てを知らないうちは、避けられないだろう、紫は、薄れ逝く意識の中で、霊夢や、藍、橙に、幽々子、様々な幻想郷の顔ぶれを思い出し、そして、小さく謝った。

    *    *    *    *

 ここは地獄だった。
 地底にある賑やかな旧地獄ではない。物質的に作られた世界とは程遠く、ただ、血のように真っ赤な空と、奈落にひきずりこもうとする蠢く黒い大地があるだけの暗黒郷だった。
 決して腹が空くことはなく、決して息ができることもなく、決して誰かに出会うこともなかった。
 足元に転がった紫の死体を見下げて、魔理沙は踵を返した。どこへ向かうもなく、箒に跨がり、無の世界を駆けた。
 どこまで進んでも、あの井戸の底の回廊のように、景色が快いものに変わることがなかった。速度を早め、空間を越えて行こうが、現れるものは地獄の光景のみだった。
 新しく研究できる素材はなく、有り体のもので過ごさなければならなかった。地に足をつけると、すぐさま亡者のような黒い塊が手の形となって襲いかかってきた。
 魔理沙はその名状しがたい物体を、箒で幾度も、幾度も祓い潰した。蜘蛛の糸に群がる死者のようなそれは、感触も匂いもなく、ただ暗雲を払っているように手応えを感じなかった。
 眠気も起きず、まぶたを閉じることも忘れそうで、恥部に這った手は快感を伝えることはなかった。夢よりも五感は薄く、音はなく、寒気も暑さも、風すらも感じず、自分自身の皮膚を引っ掻いてみても傷になることはなかった。
 それは、魔理沙の思う、死、に一番近かった。
 黒いモノを何千と屠ったのち、魔理沙は過去を回想し始めた。もうひとりの自分が居たからこそしなかった後悔が首をもたげて、無作為に引き入れていた好奇心を恥じた。
 無茶な注文をしてにとりを困らせたり、
 蒐集のためにパチュリーに迷惑をかけたり、
 意地を張って強がってアリスに心配させたり、
 無謀な挑戦を繰り返して霊夢を呆れさせたり、
 自分にできないことを霖之助に押し付けたり、
 子供っぽい根拠のない憧れで、両親を悲しませたり――
 みな因果は繋がって、今のような報いを受けているのだろうか。
 それとも井戸の底さえ覗かなければ、まだ勘違いしていられただろうか?
 答えはない。あらゆる思考は結論と呼ぶにはまだ早く感じられて、目の前にある闇を、自分の構築した魔法理論で蹴散らして逃げ続ける。
 そのうち、身体があるのも忘れて、魔法の箒を抱いて、掴みかかる黒い腕に沈み込むようになった。もはや存在するは自分自身の心のみだった。
 贖罪の暗雲に呑まれ、光を失った。溺れようにも、息をする必要はなくなったため、ただ乾きいくミイラのよう、胸を抱いたままに堕ちて、墜ちていく。
 過去の海を彷徨い、現状を諦観し、最期に残るものを探し求める。光。光が欲しい。
 ひかりが欲しい。そう思った。
 星のモチーフを魔法に込めるようになったのも、マスタースパークが彗星の尾のように光を放つのも、コンペイトーに憧れて菓子作りを始めたのも、みな、みな綺麗だったからだ。
 綺麗だったからだ。蒐集も、人付き合いも、みな、理屈抜きに心から惹かれるほどに綺麗だったからだ。
 ――自分自身が、白と黒の地味な服を身に纏うのは、それは

 魔法の箒が、無の宙空の中でも、はっきりわかるように強く輝き始めた。それは魔理沙の軌跡だった。否定しようのない、歩んだ道だった。
 馬鹿正直に、まっすぐ、したいように。その結果、生まれた光は、暗雲を引き裂き上昇し、そして魔理沙の身体を空高く打ち上げた。
 力のすべてを理解し、引き出したその魔法を遮るものは何も存在しなかった。魔法の箒を繰った魔理沙はスターボウになり、赤い空の時空間を穿ち貫いた。概念世界のロジックを書き換えて、その理想の中にある幻想郷へと座標を合わせる。
 鏡面状になった世界の果てを粉々に打ち砕き、無限に広がった暗闇を眩い恒星となって照らしていく。無に加速度が生まれ、色が滲みだして、見えない粒子は風と舞い、重力と、物体の質量が五体を埋めていく。
 太古の現生物が、互いのDNAを結びつけるように、魔理沙の輝きは現世の光とリンクした。上昇するさきに空が見え、青色を得て、そして、勢いよく井戸を飛び出した。
 魔理沙は幻想郷に戻ってきたのだ。
 春の陽気が満ちていた。

    *    *    *    *

 そこは幻想郷だった。
 出力のコントロールが上手くいかなかったのか、最高の魔法の箒は地上に降りると共にボロボロと崩れ炭化していった。
 井戸の周りの青い薔薇を踏みしめ、大きく森の空気を吸い込んだ。懐かしい、匂い。変わらず霧雨魔法店はそこにあった。
 魔理沙はまず、博麗神社に向かうことにした。魔法店外に立て掛けられた手頃な鉄の標識を手に取ると、小さく呪詛を放った。標識にまたがると、それは魔法の箒のようにふわりと浮き上がった。どれくらいの時間研究したのか、もはやこれくらいの魔法は朝飯前だった。
 まだ捨食の法も得ていない。魔理沙は人間のまま、魔法使いの種族に近い存在になったのだ。
 久方ぶりの幻想郷の空は、少し違和感があった。無理もない、長い間、狭い世界に押し込められていたのだ。長い髪に通す風が気持ちがいい。
 博麗神社は、前にも増して閑散としていた。
 境内は掃除されたあとがなく冬の枯れ葉がまだ残っており、雨の名残の小枝や流れだした泥で汚れていた。賽銭箱の角には厚い埃が乗っていて、人の気配がまるでなかった。
 裏手にまわった魔理沙は霊夢の姿を探すが、誰もいない。
 無人だった。留守、というより、誰も住んでいないとでもいうような………………
 訝しがった魔理沙は次いでアリスの洋館に向かった。魔法の森を俯瞰し、季節の色を楽しむ。それはすぐに見つかった。
 洒落た飾りドアには、不在の札が掛けられていた。少しずれて窓から中を覗きこむが、本当に誰も居ないようであった。
 寂寥感を覚えて、一度魔理沙は自宅で体制を立て直すことにした。戻ってきた魔法店の玄関を開けると、幾重にも積み上げられた火山灰のような埃がぶわっと立ち上がった。
 結構、長い時間地下に居たようだ。キッチンやダイニングは全て清掃を必要とするくらいに汚れていて、床を踏みしめるたび、魔理沙の履いた靴の足跡がくっきりと残った。
 二階のベッドは、窓を開けていたせいか、雨に朽ちてボロボロになっていた。魔導書たちもカビ臭くなっていて、片っ端から天日干ししろということらしい。
 違和感があった。少し荒れすぎている気がする。
 よく見ると、キッチンの保存食や発酵物はすべて食用にならないくらいに腐敗が進んでいた。一体何ヶ月家を空けたのだろう。
 不安になって、魔理沙は親しい友人をすぐにも探すことにした。アリスはどこに行ったんだろうか?
 霧の湖に向かう。目的地は赤い悪魔の居る、紅魔館だ。パチュリーならいつも引き篭もっているし、出会えないことはないだろうと踏んだ。
 強い違和感を覚えた。春ならば妖精で賑やかなはずの湖が、しんと静まり返っている。空気も、どこか饐えた匂いだ。
「よっ。美鈴。邪魔するぜ」
 堂々と紅魔館の正面門に立ち、その門番に挨拶をした。妖怪の美鈴の姿は以前と変わりなく、魔理沙の姿を見て驚く素振りすら見せなかった。
「あなたは……! 生きてたのか」
「そうだぜ。なんなら弾幕勝負しようか?」
「いいえ。やめとく。色々謂いたいこともあるけれど、パチュリー様に会ってやって。今なら歓迎されるでしょう」
「じゃあお構いなく」
 鉄門は容易に開き、赤い館に侵入していく。以前来たときと、一切変化のない、不死の住処だ。地下に向かい、大図書館へと潜り込んだ。
 古い、ホコリ臭く、カビ臭い、いつもの雰囲気に満ちていた。本を運んでいる途中の司書の小悪魔に短く声を掛け、長机とその魔女の姿を捜した。
 ダークイエローの精霊照明の向こうに、ふたつの影が伸びていた。それは、アリスとパチュリーだった。
 本を積み上げ、何かを話し合っている。魔理沙は足を踊らせて、会話の中へと割って入った。
「よ。ひさしぶり!」
 話したいことは山程あった。井戸の底での出来事、紫の暴走のこと、アリスやパチュリーが今何をしているか、そして、同じく魔を探求するものとして、制作した研究の最高傑作のこと。
「あら、どうしたの?」 まず反応したのはアリスだった。
 魔理沙は眉根を寄せた。どこか、余所余所しい。
「え、いや、帰ってきたんだぜ」
「そう……」
 照明の補色によって青白く映えた表情は、微動だにせず魔理沙に向けられた。違和感が確信に変わる。おかしい。まさか、もうひとりの魔理沙の世界なのか、と思案を巡らせていると、パチュリーが詠唱のように早口を捲し立てた。
「どこをほっつき歩いていたの? たかが人間をやめるのに何年かけたのよ」
 その宣告は、続く言葉で残酷な事実に変わっていく。
「私は人間のままだぜ? 何を云っているんだ」
「人間如きがそんなに長生きできるわけないじゃない。霊夢だってもう十年以上前に死んだのよ?」
「は?」
 横からアリスが割り込んでくる。
「霊夢は心配してたわよ。命蓮寺にお墓があるからお参りでもしていったら?」
「はは、冗談キツイぜ。そんなわけ、」
「そんなことより、魔法使いならそれらしく、私達と一緒に焚書しましょうよ」
 そんなことより? 焚書? 魔理沙には理解できなかった。パチュリーは補足する。
「魔導書なんて今やゴミ同然。霊夢が死んで、結界がなくなって、せいせいしたわ。外の文化は幻想郷より遥かに便利」
 どれだけの時間経過が、彼女達を狂わせたのだろう。そう感じた魔理沙は後ずさり、口端を引き攣らせた。
「おいおい、死んで、せいせいしたとか、どういう心境の……」
「魔法も、もう科学の一部に過ぎない。私はそのとき、人間を心底憎んだわ。けどね。気付いたの。生き物として優れているのは、私達の方なんだって」 魔女のパチュリーが謂い、
「古い世界を、焚くのよ。私達はそうして進化していく。人間も同じでしょ? 叡智は氾濫し、一握りの賢者が海を割る時代は、もう終わったのよ」 魔法使いのアリスが重ねた。
 物質が酸化するように、絵の具が日光で分解されるように、思想は変質していた。その原因は、
「いまは、暴力の時代よ。強いものだけが愛を語れる。あなたも、自分のために他者を犠牲にした事があるでしょう? 隠しても、顔にそう書いてあるわよ」
 吐き気を覚えて、魔理沙はパチュリーの言葉を必死に耳から追い出そうとした。殺すつもりはなかった――なんて言い訳だ。結果は目の前にある。節制を失った妖怪達の文化が、ある。
 一向に同意の素振りを見せない魔理沙に向かって、アリスは聴いてわかるよう、大きく溜め息をついた。 
「蒐集も、研究も、馬鹿みたい。魔法使いが不死だなんて思い上がりを、過去に戻って諌めたいくらい。無価値。ある一点を境にして魔法も科学も、思想も歴史も精神活動さえも、手詰まりを迎えてしまう。なぜなら、」
 アリスは腕を不意に上げ、何かを誘導するように指先を揺らした。
「私達は結局世界に縛り付けられる。生きるものは、まず自分を知らなければならない。存在の本質は、誕生に遡る。人間は、脳機能を越える電磁波を情報化できない。私達も同じく、魔法使いという『環境』に操られていた」
 本棚の影から、金色の髪をした少女が現れた。それはひとりでなく、二人、三四、次々と増えて隊列を組んだ。黒い三角帽子に、白黒のエプロンドレス……
「だからね。壊してしまうことにしたの。型を捨てて、孤独になれば、種の本質が浮き彫りになるでしょ?」
「おい、パチュリー。アリスに何をしたんだ!」
 冷徹に言い放つ人形遣いには、きっと何か理由があるはず。声を荒らげて、七曜の魔女に強く問い正した。
「……? スペルカード勝負の、何がおかしいの? これは、真実を追い求める行為よ? 本や研究から矛先が外れただけ」
 意に介しない。微動だにせず、パチュリーは真摯な魔理沙の眼を冷笑した。アリスは大図書館の空洞、高い天井に垂直に浮遊して、上から誘いを投げかけてくる。
「薄々感づいていたんでしょ。意地が悪いわ。だって魔理沙、ずっと霊夢との勝負に固執してきたじゃない。わたしたち、魔法使いの本質、答えが、闘いの中にあるものだって知ってたのよね?」
 白紙のグリモアを持ち、アリスは樹のように連なり輝く十種の魔法陣を展開した。本気のようだ。魔理沙の持つものは、即席の鉄製標識のみ。積み重ねられた智慧と魔法はあるが、構築されたスペルカードや、魔道具は一切ない。身構え、思考を巡らせた。
「さ。しましょ。強引に求め合うセックスみたいに、激しく」
 アリスが魔法使いの光を放ったと同時に、魔理沙は手に持つボロボロの標識に力を込めた。

    *    *    *    *

 霧雨魔法店の二階寝室に、彼女の影があった。
 それは霧雨魔理沙、だったものだ。腐り落ちでギィギィと軋むベッドに腰掛けて、頭を抱えている。
 鉄標識の存在を犠牲にして、ここまで逃げ延びてきた。命に別条はない。しかしどうだろう。再びアリスに出逢えば、好戦的な言葉を掛けられることは明白だった。
 天候は空の天秤を傾けたように荒れ始め、強い雨が窓から降り込んでくるようになった。春の陽気が、むしむしとした不快な湿気に変質して、呪いのようにまとわりつく。
 紫を殺したのは、私だ。
 幻想郷の境界を管理するものがなくなり、やがて霊夢も死に、世界を隔てていた結界が消失した。早苗やマミゾウが移住した時のよう、外との交流は昔からあったはずだ。変化は、そんな急に訪れるものなのか? いや、時間は経っている。殺したのだ。
 自分が、殺したのだ。
 あまりにも呆気なく、得意げになって、殺したのだ。
 いや、戻りたかったから、仕方ない。そんな言い訳が、通用するとでも? しかしあれ以外方法はなかった。いや穏便に済ませる手段はあったのではないか私の一人は殺されたんだぞ本当にあれは私なのか存在してはいけない魔物ではないか起きたことを悔やんでも仕方ない気休めかならどうすればいい思いつけるか馬鹿な魔法使い受け入れればいいだろう嫌だ私はそんなために帰ったんじゃない時間でも戻すかどうやって不可能だ知ってるだろう井戸の底の万能素材はもうないのだ最高の魔法の箒は作れない死ねというのかどうしてそう極端なんだ考えろ考えろ考えろ、――――探せ!
 これまでキノコを使い研究したように、何度も失敗して料理を覚えたように、魔理沙の奥底から沸き上がる感情があった。
 それは否定だった。意地を張るような、反発心だった。
 そして冒険心だった。
 実験室にあった予備の箒を持ちだして、魔法店二階の寝室に上がった。今着る服以外の衣装は、みな棚の中で虫に喰われていた。空腹が弱く、腹を鳴らした。
 魔理沙は、開け放った窓から箒で飛び出した。真実を確認するために。幻想郷を昔のよう、飛び回るのだった。
 博麗神社は、前見たとおりだった。無許可で座敷に上がり込んで見えたものは、がらんどうとした無人の廃墟だった。
 香霖堂は移転したようで、そこには影形すらなかった。ただ、住居があったという地面の染みが、草も生えずに残されているのみだった。
 人間の里は随分と石に囲まれていた。みな着物でなく西洋かぶれのスーツやパンツを履き、石のオブジェとまるで注連縄のような金属線が道端に等間隔で生えていた。
 白玉楼、永遠亭、妖怪の山……人外の世界は、以前とあまり変わりがなかった。しかし、どれもがどこか存在が薄かった。守矢神社には、寝たきりとなった早苗と、ほとんど透明化した神奈子や諏訪子が黄昏の時間を過ごしていた。
 霧の湖の一部は埋め立てられ、臭い立つゴミが散乱していた。妖精たちの姿はほとんど見えなくなり、博麗神社によく来ていた光の三妖精や、箒で飛んでいるだけで喧嘩をふっかけてくる氷精、自然の力は衰えて彼女達はもう居ない。
 両親はすでに他界していた。命蓮寺の墓には、知り合いの人間の名前が、いくつでも、いくらでも描かれていた。
 何のための力だろう。何のための好奇心だろう。
 自分を発起させて旅立った結果は、その長い、長い時間の喪失で終わったのだ。もっと楽しんでいれば、もっと遊んでいれば。
 魔理沙は、魔法店に篭もりきりになった。井戸の底でしたように、再び研究を再開した。過去手に入れた栄光を寄り戻すために。ひたすらに傾倒した。
 しかし、出来上がったものは破壊魔法だけだった。そうか。魔法使いは、環境によって操られるとはこういうことか。
 最終的に彼女の手にしたものは、改造して火力をあげた八卦炉に、速く移動できる魔法の箒だった。昔から、何も変わっていない。なにひとつ変わっていない。自分だけは。自分だけは。
 家から飛び出して、魔理沙は、アリスの洋館へと向かった。
「来てやったぜ!」
 すでに日常を望む意志は、死滅していた。闘いの中で死ねれば、それでもいい。彼女を傷つけてしまっても、魔法使いの目的が闘うことで満たされるのなら、それでもいい。
 自暴自棄になった行動は、魔理沙にだけは、何も齎してはくれなかった。現れたアリスとスペルカード勝負を始めて、三日三晩、不眠不休で争い続けた。魔法の森が焼け、空雲を穿ち、八卦炉を握る手からは鮮血が溢れた。
 それでも、魔理沙は死ねなかった。勝負を行うたび、アリスはセックスをしているようによがり、悦び、楽しんでくれる。ただ、そこに、以前の子供じみた探究心や日常はなかった。食事をしなくなったアリスはパンを焼くこともなく、魔理沙はひとりで食事をした。
 何度も何度も、暴力的な交合をするたび、魔理沙の精神は蝕まれていった。どうして生きるのだろう。魔理沙は、今やただの道具だった。魔法研究によって作られた性人形と同じだった。
「なあ、また料理、つくってくれないか?」
「いやよ。面倒。それよりも、あなた、人間の匂いをいつまで身体に染み付けてるの? 臭いわ」
 魔理沙は、人間ではなくなっていた。いや、肉体は人間のまま、魔法使いと認識された。魔理沙には耐え難い苦痛だった。しかし、そうでなければ、彼女とのスペルカード勝負すら実現不可能だったのだろう。
 霧雨魔理沙は、もはや霧雨魔理沙だったものに過ぎなかった。
あるとき、魔理沙は湖面に映る、自分の顔を見てしまった。
 それは――――――死期の近い、翁の面のようだった。
 青い薔薇は何十年の時間を経ても、井戸のそこにあった。霧雨魔法店には、もう誰も住んでいない。蒐集物はただ朽ちるのを待つだけ、それはまさに、魔理沙が初めて魔法の森に来たときにあったような、残酷な廃墟にそっくりだった。
 ドポン。深い深い、井戸の奥に、大きな質量が叩きつけられたような水音が響いた。魔理沙の姿を見たものは、それ以来、誰も居なかった。

    *    *    *    *

 八卦炉の明かりを灯す。周囲には誰の姿もなく、自分の着込んだ白黒のエプロンドレスが首の下でヒラヒラと舞っていた。
 無だった。地下へと堕ちる回廊の闇は、彼女の人生そのものだった。乾いた靴音が壁に反響して、自分が歩いていることがわかる。時間は、あまりあるほどに延々と道を伸ばしていた。
 私は誰だ――――
 名前を失った魔法使いは、影の怪物のようになり、井戸の底を徘徊する。終着点にある扉が生まれることはなかった。もうひとりの自分自身に出会うこともなかった。
 欲深な人間の末路だと、その姿を目視した者は嗤うだろう。みすぼらしく老いた姿、あさましく夢を求めた衣裳、過信した能力。潤いを失い、皺だらけになった手のひらを見た。
 憎しみ、苦しみ、寂しさ、悲しさ――――喜び、楽しみ、充足、嬉しさ。過去が闇の鏡に幻視として映しだされる。その生き物は、おぞましい獣のような鳴き声を上げた。涙のような汁が目から滑り落ち、その場に崩折れた。
 もはや、許容しかなかった。嘆きながら、受け入れるしかなかった。そして、死ぬまで彷徨うのだ。
 歩き、立ち止まり、踵を返し、また歩き。
 歩き、立ち止まり、踵を返し、また歩き。
歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた歩き立ち止まり踵を返しまた――――
 緑色の光が見えた。過去の虚像だった。
 歩き、立ち止まり、踵を返し、また歩き。
 緑色の光が見えた。過去の虚像だった。
 歩き、立ち止まり、踵を返し、また歩き。
 緑色の光が――――

「あ、魔理沙だ」
 声がした。それは少女の声で、幻と見分けがつかない。
 誰かの名前を読んでいた。黒い生き物は、目の前の闇から現れた緑の瞳に気がついた。それは古明地こいし、遥か昔に知り合った友人のひとりだった。
「――――――」
 魔理沙と呼ばれた生物は、魔法樹の上げる唸り声のような音を出した。もはや自覚できる感情もない。意志は言葉を経ずに、光を浴びた葉のように反応するのみだった。
「どうしたの? あ、そうか」
 こいしは何やら気づいた様子で、その眼前の物体の顔面に当たる部分を手でこねまわした。続いて肩、胸、腕から腰、その性器に至るまで、体表を優しく撫でていった。
 黒いモノは魔理沙の形になった。鼻水とよだれをだらしなく垂らし、目を見開き、排泄物が垂れ流しになり汚れた太腿、しかし、紛れも無く全盛期の、少女魔理沙だった。
「これでよしっ!」
「う……う……………ぁ…………………」
 魔理沙はこいしに手を引かれた。もつれつつも走る方法を思い出し、回廊を奥まっていく。
「出口はあっちだよ」
 こいしが指を挿した先に、星のような、小さな明かりが見えた。魔理沙の瞳に映ったそれは、まばたきの仕方を気づかせる。
「戻ろ? まだ冬なんだし、凍えちゃうよ」
 呼吸を教えられて、肌に風を感じた。心臓の鼓動が聴こえるようになる。
「もうすぐだよ頑張って! もうココに来ちゃダメだよ」
 背中を押されて、自分の足で光に向かい始めた。進むほどにその明かりは太陽のように巨大化して、魔理沙の姿をしっかりと捉えるようになる。背後を振り向くと、彼女の足元から影が一直線に、来た道、井戸の底へと伸びていた。こいしが、手を振って、こちらに笑いかけてきた。
 魔理沙は、ニッコリと笑い、無意識の妖怪に手を振り返した。
 光へ―――――――――――――

    *    *    *    *

 目が覚めると、すでに身体は動かなかった。栄養失調により、指一本すら持ち上げられない。
 魔理沙は、井戸の底で迷い、真っ暗闇の中、壁を背にして倒れこんでいたのだった。意識ははっきりしていた。喉が渇く。もう、何週間も水を飲んでいない。
「…………」
 ああ、と嗚咽を漏らしたつもりだった。声は出なかった。
 眼球が熱く、灼けるようだった。暗闇が燃える紙のように炭化していき、再び眠りのような微睡みに落ちそうだった。意識だけははっきりしていた。
 ああ、
 胸中で呻いた。また気の遠くなるような時間、現実と闘わなければならないのか。眼を閉じたくなったが、黒色の中では、結果は変わらない。
 ああ、息を吐いた。弱々しい呼吸が、凍てつく大気をゆっくりと押し出した。もう、どこにも行けないのだろう。これは、死を受け入れるまでの夢だったのだ。
 やがて、張り詰めた意識の糸が切れる瞬間が訪れ、魔理沙は安堵の溜息を吐いた。最期の最期に、嬉しい幻覚が見えたからだ。
 それは、今にも泣き出しそうな表情のアリスの姿だった。緑色の光を放つランタンを手に持ち、駆け寄ってきて、それから――――

 霧雨魔理沙は、永遠亭の懸命な治療で命を取り留めた。3週間以上絶食を続けたその身体は、アリスが助けに来なければ、明日にも事切れていた事だろうと永琳は語った。
 病室で、ベッドから上半身を起き上がらせるくらいに健常さを取り戻した魔理沙を、アリスは強く抱きしめた。
「良かった。本当に良かった……!」
 あらゆるものが元通りになった。魔理沙は安心して泣きじゃくるアリスに向かって、ひとつ願望を投げかけた。
「なあ、アリス。もう無理はしないと誓うよ。それでな。退院したら私と…………」 アリスは焼き立てのパンの入ったバスケットを持ってこようと思った。一緒に料理でもしようぜ?
 リハビリはかなり早いスピードで進行していった。ガリガリに痩せ細った魔理沙の身体は徐々に体温を取り戻して、一週間もしない内に同年代の少女と同じくらいに血色が良くなった。
 病室には様々な見舞い人が訪れた。興味のない振りをしながら優しく口元を許した霊夢、暇なときに読めるよう魔導書を運んできたパチュリーと騒々しい紅魔館の連中、にとりはリハビリ用の歩行器やら可動式ベッドを無償で提供してくれて、妖夢や早苗は、その連れ添いが病室でがやがや騒いで永琳に怒られたり、霖之助はよく林檎や桃といった差し入れを持ってきて、ベッド脇でグダグダと世間話を巻いて述べた。妖精すらやって来た。
 幻想郷は賑やかな春を迎える。
 ヒトである限り、魔理沙は幸運だった。
 井戸の底にあったものは、何だったのだろう。誰が作り出したのだろう。魔理沙には、悪い夢のようにも、身を持って体験した真実にも思えた。今、生きていて、そして若い。このことが、何よりも素晴らしかった。
 これから魔法店に戻り、まず『部屋の片付け』を徹底的にしようと思った。長い時間を掛けて、蓄積されていたんだ。あくびの出るような日常を続けても、許される。自分そっくりの人間は、もうココには居ない。
 魔理沙はアリスに、ひとつ願望を投げかけたのだった。
 ヒトである限り、魔理沙は幸運だった。
「退院したら私と、『スペルカード勝負』をしないか?」
 ヒトである限り…………
 魔理沙は楽しい。

 傍点を付けたかったとこは『』で囲みました。
 ぐえーっ



 解釈次第でバッドエンド。

 執筆時お世話になった楽曲です。
 PURE-POLLUTION 「AT THE EMBRACE IN」 (東方アレンジ)
 I SHALT BECOME 「REQUIEM」 (アトモスフェリックブラックメタル)
 VINTERRIKET 「WINTERSCHATTEN」 (ダークアンビエント/ブラックメタル)
 TOOL 「ANIMA」 「LATERALUS」 「10000DAYS」 (プログレッシブロック?)
henry
作品情報
作品集:
11
投稿日時:
2014/08/07 16:09:06
更新日時:
2014/08/08 01:09:06
評価:
4/6
POINT:
460
Rate:
13.86
分類
魔理沙
微スカあり注意
簡易匿名評価
投稿パスワード
POINT
0. 60点 匿名評価 投稿数: 2
1. 100 名無し ■2014/08/08 03:47:38
全てが元通りになっても、魔理沙は魔理沙のままでいられるんでしょうか。
青い花を手折るアリスと、真っ赤な世界を飛ぶ魔理沙とが対照的で素敵でした。
2. 100 名無し ■2014/08/08 06:58:53
引き込まれるお話だったなあ
デウスエクスマキナさながらにこいしが元通りにしてゆくくだりが個人的に凄い盛り上がった
3. 100 あぶぶ ■2014/08/09 21:14:48
前このサイトで咲夜さんが旧支配者を取り込んで妖夢ちゃんと結ばれるラブストーリー読んで感動したけど・・・同じ作者さんだろ
5. 100 ギョウヘルインニ ■2014/08/23 07:46:07
これから魔理沙はどうなっていくのでしょう。良いお話でした。
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