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『魔理沙の場合』 作者: ただの屍
さて、何から話したものやら。外で陰陽師をやっていたことなどは今更でしょう。とにかくその日は山にいました。
山の中で破れを発見したときは目を疑いましたが時折ここいらから不思議なものが見つかっていたので時間を置かずとも合点がいきました。破れは結界の破れです。それにしても一目で分かるほどの立派な結界でした。
分かりますとも。腕には自信があります。だからこそ今まで結界の存在に気づけなかったこと、不安定になった今ですらその裏側を覗けないことで結界の強大さをすんなりと理解しました。
究明のために結界へ飛び込み、ええ、好奇心もあります、そこで真っ先に感じたものは重圧でした。重たい空気が脚を押さえつけ、肺に溜まっていきました。わたしは時間が重いのだと考えました。そのような性質を持つ結界を知っていましたから。
魔法瓶の真空部分のような場所でした。辺り一面は闇で一筋の光明さえありませんでした。根を下ろすべき大地も低頭せしめる大空も見当たりませんでした。それを意識しだすと自身が落ちているのか寝転がっているのか見当もつかなくなって腰骨が浮つきだしました。
いざというときの命綱もありましたし、一目散に逃げ出そうとは思いませんでした。確かに奇妙な次元ではありましたが血が五感を満たす魔界に比べればさほど命の危機は感じておりませんでした。
そのうち視覚あるいは第六感によってあの目に浮かぶ糸くずのようなものがちらほら漂いはじめました。煙のように揺らめくそれを見て煙草を切らしているなと思いました。わたしは口をすぼめているのに気がついて、笑ってしまいました。
目を凝らし、結界に働きかけたものの代わり映えはありません。薄氷を踏む思いで目の位置を幾度か変えてみますと右目の奥がちりちりと痛みだしました。そこが結界の焦点だったのです。わたしは眼底に押し当てられた架空の錐に真っ向から挑みました。切っ先が眼底の表面に食い込むと涙が溢れました。痛みが原因なのではなく身体機能に狂いが生じたのです。
濡れてひん曲がった視界の中、糸くずが蜘蛛の巣のような配置に変わっていきました。見抜くならここだと、糸くずを注視すると錐が眼底を貫いた感覚がありました。耳鳴りと共に、糸くずが渦を巻いていきます。わたしは恐怖に耐えかねて力を緩める、そのようなことは決してしませんでした。傷口は霊的なもので、苦痛も出血もありませんでしたがみるみるうちに体力が奪われて底冷えを起こしました。わたしは凍える息を吐き、震える体を摩りました。
広がり続けた穴の大きさがとうとう眼窩を上回り、右目は根となった糸くずの群れの中に落ちていきました。言い間違いではありません。わたしの内に転がったものが外へと落ちていったのです。
わたしは左目を右目のあった位置まで動かしました。まだ結界を看破していないのです。片目を失ったくらいでは退却の理由に成り得ません。目なんてどうとでも替えが利きます。
そういう覚悟をしたものの結界を見破ったのは身から出た右目でした。右目は根の根瘤となって結界と交わり、わたしは心眼を得たのです。その様子は深い霧がまとめて晴れたようでした。水面に落ちた血の一滴がどこまでも広がりゆくようでした。背中に集る蝿の群れを残らず追い払ったようでした。
糸くずと思われていたものが見開かれ目が現れました。優に万を超えるであろう目は一見規則正しい間隔によって並行に列しているのですが瞬きは不規則に繰り返されるものですから、言いようのない気持ちに包まれて、わたしの形がどこからともなく崩れていくように思われました。このとき煙草が吸いたくなったので中座することにました。
とまあ、これで粗方は終わりです。結界から出たらここにいました。
何々、煙草を切らしていたせいで下級妖怪に殺されかけた男がいる。みっともないひともいたものですね。ところで誰からその話を聞きましたか。
わたしがここに留まっている理由ですか。それは最も価値の無い話題ですね。
その言葉を待っていました。わたしはあの結界に繋がる門を拵えてしまったのですよ。不法侵入ですがこの程度なら問題無いでしょう。恐らくですが。
今、門を開きました。この右瞼が門なのです。じきにあちらとこちらの境界が無くなります。店には結界を張ってあるので時間内なら外に漏れません。両目を塞がずとも、だんだんと物が見えなくなり、朧気なものが姿を織り成し、気が遠くなります……。
……時間です。さて、何が見えましたか。
魔理沙の場合。
「死体や血、蛆に蝿が大集合でスプラッタだった。おまえが血だの蝿だの言うから」魔理沙は溜息を吐いて、目を押さえた。「変な例えだと思ったんだよ。知ってて言ったんじゃないのか」
結界から帰ってきて、まだ周囲の認識が曖昧な中で吸う煙草は「艮」の店主の楽しみだった。煙と一体になった自我が部屋の隅々まで広がる感覚がたまらなく好きだった。「わたしは様々な状況で結界を覗きましたが直接的なものが現れたことはありません。意識に捕らわれているのではないでしょうか。それとも人によって見えるものが決まっているのかもしれません」
魔理沙は嫌がってみせた。「それじゃわたしは貧乏くじを引いたのか。あんなもん、もう見たくない」
店主は幸せそうに煙を吐いた。店に渦巻く紫煙の名残を眺めては、結界での時間を思い返している。
魔理沙は悦に入る店主から目を逸らし、改めて店内を見回す。商品として並べられているのは蝙蝠の鰓、鬼の嘴、幽霊の足、兎の牙、河童の髭、黒猫の蹄、蛙の角、天使の尻尾、妖精の甲羅、人魚の羽根、人形の肌、胎児の鱗といった胡散臭く呪わしげな品々である。
「大体天使って何だよ。いないぞそんなん」
「頭の中の産物に形を与えることこそ物づくりの快楽ですよ」
「まあな。ところでこれ誰が買うんだ。インテリアにしちゃ悪趣味だし、作り物なら魔力も無いだろう」
「買う人が買いますし、無力でもありません。試しに一品どうですか。例の、死ぬまで借りるというのでも結構ですよ」店主は二本目の煙草に火を点けた。
「ありがたいが遠慮するぜ」
店主は身を乗り出し煙草を口から離した。「お守りとして買い求める方もいますよ」
「ああいったのって結局は気の持ちようだろ。わたしはそんな気にはなれないな」
「魔女らしく誰かを呪ってみてはいかがですか。呪術道具としての役目も果たすものだと自負しております」
「わたしは至って普通の魔法使いだぜ」
「そうですか」店主は椅子に深く座り直し、煙草を楽しみだした。「ごゆっくり」
魔理沙は入ったときから気になっていた水槽に目をつけた。水だけが入った、妖精を楽に閉じ込めておけるくらいのサイズのその水槽は蓋をされているのに水面が緩やかに波打っていた。
店主に水槽について尋ねようとしたとき、底から一匹の魚がぬうっと昇ってきたかと思うと水面から飛び出した。蓋に弾き返された魚は泳ぎ直し、泡を残してどこかに消えた。魔理沙が水槽に駆け寄り覗きみると、水底に透けて見えるはずの台座は見えず水平方向には遠大な広がりがあった。「ん」咲夜みたいな力だろうかと魔理沙は思った。
魔理沙は店主に顔を向けて水槽を指さした。「魚が出てきていなくなった。なんなんだこれ」
「ああ、それは」店主は煙を吐いた。「霧の湖と繋がっているのです。わたしの右目のようなもので、良き鑑賞物です」
「向こうから見たらどうなってるんだ。四角くへっこんで見えるのか」
「そうです。ただあそこは視界が悪いので誰も気づかないでしょう。見せかけの繋がりにすればその心配もなくなりますが」
「なあ、こっちを貸してくれよ」
魔理沙にとって借用交渉は弾幕を用いない弾幕ごっこだった。持ち主との舌戦であり、持ち主が見当たらない場合は八百万の神を相手取る。店主もそれを承知していたのでただ突っぱねるような真似はしなかった。
煙草に代わる楽しみを見つけた店主は灰皿に煙草を置いた。「わざわざ借りなくても見に来ればいいのではないでしょうか」
「見に来るほうがわざわざなんだけどな」
「ではあなたの目をここに置きましょう。技術は既に見せています」
「間違って誰かに買われたら困る。見たいだけじゃなくて移動手段としても使いたいんだ」
「あそこの水には浸からないほうが良いです」
「魚を捕まえたい」
「密漁は犯罪です」
「妖精を捕まえたい」
「直接行って攫うほうが簡単です」
「丁度これくらいの大きさの重石を探していたんだ」
「かなり苦しいですね」
「ああ」魔理沙は両手を上げた。「駄目だ。負けた。諦めた」
店主は満足気に煙草を吸いだした。
「じゃ、さよなら」買いたいものもなかったので魔理沙はそう言って艮を出た。
「またのお越しを」魔理沙の背後で閉まりゆく扉の隙間からそんな言葉が聞こえてきた。
魔理沙は一旦自宅に帰って、人里へと茸の販売に出かけた。物売りの一座に加わった魔理沙は籠に入った茸を種類毎に、更に森で採取したものと自家栽培とで分けて並べた。
その日の売れ行きは良く、日暮れを迎える前に完売した。
「なあ、魔理沙」魔理沙が仕事道具を片付けていると隣の山菜売りが話しかけてきた。山菜売りに限らず物売り達とは気安い間柄だった。山菜売りは魔理沙より先に来ていたがどうも売れ行きは良くないようだった。「一つ、賭けをしないか」
魔理沙は手を止め山菜売りに顔を向けた。「聞かせてくれ」
「賭け金は今日の売上の一割で」
「おいおい、そりゃないぜ。賭け金に差があるじゃないか」
「違う、そうじゃなくて、おまえが勝ったらおまえの売上の一割をおれが出す。おれが勝てばおれが貰う」
「それならいい。で、何で勝負するんだ」
「そっちで決めてくれ。こっちから持ちかけた話だ」
魔理沙は籠を一つ手元に寄せ、ポケットからサイコロを取り出した。「籠に投げて目の大きいほうが勝ち。これで良いか」
「調べるぜ」
「ああ」
山菜売りが籠とサイコロを調べている間に魔理沙は帰り支度を済ませた。
「よし、やろう」山菜売りはサイコロを掌で転がしながら言った。「おれからな」山菜売りの出した目は3だった。
魔理沙はサイコロを拾い掌でゆっくりと転がした。「3か。期待値は3.5だから、人並みの運があれば。頼む」出た目は2だった。「あれえ」
「これで今日も酒が飲める」山菜売りは手早く荷を纏めた。「これやるよ」山菜売りはそう言って、売れ残った山菜を魔理沙に手渡した。
「ぜひとも美味い酒を飲んでくれよ」魔理沙が賭け金を渡すと山菜売りは浮かれ足で去っていった。
賭けには負けたが売れ行きは良かったんだと気を取り直し、魔理沙は森へと飛んだ。自宅に帰る前に採取場所を訪れ毒茸を探す。茸は良い物から売りに出してしまうので自分が食べるのはもっぱら傷んだ商品や、知識と手間の要る毒茸だった。
「ここも見つかったか」食用茸も毒茸も、鳥虫獣や野良妖怪に尽く食われていた。採取場所が野生動物に荒らされることはままあることだった。その度魔理沙は新たな採取場所を探した。面倒だが仕方ないことだと割り切っていたし仕事抜きで考えれば自分の住んでいるこの森を歩きまわるのは好きだった。
日が暮れはじめた。魔理沙は辺境に住む者の心得として夜目が利いたが、人間らしく続きは明日にすることにして帰宅した。
自分用の茸が切れていたので魔理沙は自家栽培している茸の一番品質の劣るものを山菜と一緒に調理して食べた。魔理沙は茸を採るのも育てるのも食べるのも好きだった。一番好きなのは売ることだった。
食後、栽培中の茸の様子を見て、一日の汚れを落とし、その他やるべきことを済ませると床に就いた。目を閉じ、行き詰まっている元気になる茸の研究について思考を巡らせていると安らかな眠りを得た。
戸を叩く音で魔理沙は目が覚めた。差し込む月影の下、時計を見るとまだ日は変わっていなかった。再び戸が叩かれた。急ぎの気配を感じたので魔理沙は起きがけの恰好で表に出た。するとそこにいた文がいきなりフラッシュを浴びせてきた。
「なんだよ」魔理沙は苛立ちを堪えて目を擦った。
「良いニュースと悪いニュースがあります。どちらから聞きたいですか」
「良いニュース。くだらなかったら怒るからな」
文は胸を張った。「それはわたしが幻想郷最速だということです」
「は。何言ってんだ」魔理沙は怪訝な顔をした。
「悪いニュースを聞けば分かります。それはですね、魔理沙さん」文はにたりと笑った。「あなたの売った茸で集団食中毒が起きました。死人も出ました。大事件です」
魔理沙の心臓が縮み上がった。
「親や子、恋人を失くし怒りに身を任せた者達がここを目指しています。自警団付きで。わたしだからこそ、いの一番に伝えられたというわけです」
「ちょっと待ってくれ」一度喋りはじめると次々と言葉が出てきた。「本当にわたしのせいなのか。今日売り物の茸を食べてみたがなんともなかった。出すのは特級品だし、毒茸と見間違えるなんてありえない。誰かにはめられた」
「魔理沙さん」文は魔理沙の言葉を遮った。「わたしに言っても無駄です。わたしはブンヤに過ぎません。そして彼らに言っても同じことです。彼らは聞く耳を持たない」文は唾を飛ばしながら喋る。「彼らを黙らせるには殺すしかない。愛する者の待つ場所へきちんと送り届けてやるのがあなたの責務。おっと、逃げようだなんて思わないでくださいよ。無駄ですから。どこまでも追い詰めますから」
魔理沙はひとまずドアを閉めることにした。「わかった。それじゃ準備があるからこれで」
「十三」ドアの向こうで文が叫んだ。「向こうの頭数です。せめて半分くらいは殺してから死んでくださいね」
魔理沙は無性に怒りが湧いてきて椅子を力任せに蹴飛ばした。文が笑い声をあげた。烏天狗の笑い声は聞く者をどこか不安にさせる響きを持っている。
魔理沙は自分の選別眼に自信を持っていたが、文の言ったことを信じる気になっていた。あの文の振る舞いは魔理沙のよく知る清く正しい文だった。文が自ら話してみせた取材風景を酒の肴にしたことがあったが、いざ自分に向けられると全く笑えない。
何よりも恐ろしいのは自警団だった。自警団は正義の味方などではない。平和の使者だ。人里に不穏を齎すものあればありとあらゆる力で以って排除する。里の人間を殺せば確実に殺される。毒物をばら撒いた殺人鬼ともなれば虐殺が行われるに違いなかった。魔理沙は他人の命などどうとも思っていないが、自分が殺されるのは絶対に嫌だった。
魔理沙は物置部屋から等身大の魔理沙人形を持ちだして寝室へ向かった。人肉で出来たその人形はアリスという妄執の果てに狂い遂げた女から送りつけられたものだった。おぞましいながらも生き写しと呼べるほどの出来栄えだったので捨てるのが惜しくなり今まで物置に眠っていた。
寝室に着いた魔理沙は人形に布団を被せた。魔理沙の案は家を燃やして身を隠すというものだった。運がよけりゃ社会的に死ぬことができる。魔理沙はこの事件を誰かの陰謀だと思い込んでいた。そうとしか考えられなかった。その誰かというのは分からないが自分より強いだろうと思った。だから大人しくほとぼりが冷めるのを待つことにした。
魔理沙は被害者共がやって来るのを待つつもりだった。文がどこから見ているかは知らないが、文に知られずに逃げるには周りが静かすぎると思った。仮に逃げられたとしても文は魔理沙の自殺を怪しむだろう。
魔理沙は家中の窓を開けて外の音を取り込むと、他に役立ちそうなものを探しに物置へ移動した。魔理沙はそこに積み上げられた品々を見て申し訳無く感じた。「死んだら返すって言ったのに」
使えそうなものは無かった。借金してでもあの水槽を手に入れておくべきだったと思った。
木々が不自然にざわめいた。物置から出た魔理沙は戸口から目を離すことなく窓に忍び寄り耳を欹てた。
戸口が開いた。魔理沙はミニ八卦炉を取り出す。現れたのはアリスだった。魔理沙は頭が痛くなった。
「胸騒ぎがしたから会いに来たの」アリスに付き従う人形は血に塗れていた。「家の外に文がいた。何故いるのか本人に聞けば良かったんだけど文の姿を見た途端頭に血が昇っちゃって、気がついたら殺してた。文はどうしてここにいたのかしら」
アリスの話なのでどこまで真実かは疑わしいが文が死んでいるかどうかは確かめる価値があると思った。「文の死体を持ってきてくれないか」
「バラバラにしたから特徴的なパーツは残ってない。羽根とか肉片は残ってるだろうけどそれでいいかしら」
「それじゃ見ても分からん。カメラはあるか」
アリスから渡されたカメラは文のものに似ていた。カメラに詳しくないので絶対の自信は無いが、おそらく文のカメラだろうと判断した。カメラのフィルムは抜き取られていた。
アリスは興奮した口調で言った。「あいつ、魔理沙のことを隠し撮りしてたに違いないわ。いやらしい」
文が死んでいるならより良い策が採れるはずだ。魔理沙は考え込んだ。
「昨日、里で人形劇をやったんだけど皆褒めてくれた。わたしたちの愛の物語を皆が祝福してくれたのよ」
魔理沙はアリスを愛してなどいない。アリスが愛だと信じているものは、魔理沙にとっては森に住みはじめて心細かったが故の一夜限りの過ちだった。
「そう言えば、魔理沙がこの時間に起きているなんて珍しいわね。玄関の鍵も開いていたし、灯りも点けずに何してたの。知りたいわ」
魔理沙はこの際アリスも始末するべきだと思った。どこへ逃げても、姿を変えても探しだされそうな気がした。アリスと一緒に逃げる選択肢は無い。アリスはいずれ暴発することが分かっている拳銃だ。
魔理沙は恥ずかしげもなく言った。「一緒に寝てくれないか。寂しいんだ」それはあの夜、魔理沙がアリスを誘ったときの言葉だった。
あまりに唐突だったがアリスにとっては極めて自然な申し出だった。
顔を赤らめたアリスは何も言わず、操り人形のように真っ直ぐと寝室へ歩き出した。だから狙いを付けるのは簡単だった。魔理沙の放った熱線がアリスの頭を貫き、家に火を点けた。
魔理沙はアリスを抱え、魔理沙人形の側に寝かせた。魔理沙はアリスの服を脱がした。アリスはダイナマイトを着込んでくるくらいのことは平気でする女だから確認の必要があった。
魔理沙は襤褸に着替え、長い髪を切り落とした後、魔導書を鞄に詰めて家を出た。「とりあえずこれだけでも返すか」
他に鞄に入っているのは、日記、家計簿、研究ノート、鉛筆、ナイフ、白黒でない衣服といったものだ。ミニ八卦炉はポケットにある。足りないものは盗めば良い。これからは借りる余裕などないだろう。
外に出た魔理沙は家にいくつか火を点けた。森が湿っているから炎は木々に燃え移らない。燃え崩れているのは自分の家だというのに、魔理沙はその美しさに見とれていた。森の魔力と、家に残された様々なマジックアイテムと反応した炎が色彩豊かに舞い踊る。燃え尽きるまで見ていたかったが追手の存在がそれを許さず、魔理沙は森を出た。
夜が明けるまでに何とかしなければならなかった。事が大きく動くのはそれからだ。何年も身を隠せて人里と関わりを持たない場所という条件で魔理沙が思いついたのは紅魔館、白玉楼、永遠亭、地底界、天界、魔界、外界だった。
飛ぶのは闇が深まっていてもなお目立つからと、魔理沙は紅魔館に徒歩で向かった。普段どこからでも入る魔理沙が門の前に来るのは久しぶりのことだった。
「よう、美鈴」魔理沙は美鈴に声をかけ、身の上を明かした。「てなわけで雇ってほしいんだ。レミリアに会わせてくれ」
「大変な目に遭いましたね」美鈴は笑顔で魔理沙の腹部を蹴りあげた。
魔理沙は一瞬気を失った。倒れたまま起き上がれず激しい痛みと強烈な吐き気に苦しみ悶えた。魔理沙は喋ることもできず、腹を抱えて縮こまった。
美鈴は変わらず笑顔だった。「あなたが不法侵入を繰り返したせいで給料を減らされた。咲夜さんにも馬鹿にされたし。いい機会だからこれでチャラにしてあげますよ」
美鈴が帽子の星マークに触ると咲夜が門の内側に現れた。美鈴は転がっている魔理沙を指さした。「魔理沙がここで働けるかどうかお嬢様に聞いてきてください。指名手配犯有望なのが懸念ですね」
「分かったわ」咲夜は頷くとその場からいなくなった。
美鈴は改めて魔理沙の身なりを確認した。「それって変装なんだよね」落ちぶれた魔理沙に対する美鈴の口調は多少砕けたものになっていた。
魔理沙はとりあえず喋れるまでには回復した。「自分ですら自分に見えないんだ。他人が気付くわけがない」
「ほう。ところではめられたって言ってけど誰にやられたの」
「分からない。でもいつか殺す」
「確かに分かってたら逃げる必要ないもんね」
「魔理沙」咲夜が二人の前に現れた。「お嬢様が、無理だって」
「えっ」美鈴は驚いた。「駄目なんだ。ならシメなきゃよかった」
「良い運命が全く見えないって笑っていましたわ。言っておくけど、お嬢様の決定は覆らないから」
「あーあ、人里と戦争したかったな」美鈴が不満そうに言った。
「原因はあなたね」
魔理沙は咳き込んだ。そして鞄から魔導書を取り出し、咲夜に手渡した。「これさ、返しといてくれ」
「構わないけど、あなたが借りたものを返すってことはこれから死ぬのかしら」そう言い残して咲夜は消えた。
「それでさ、どうするの」美鈴が尋ねた。
魔理沙はよろよろと立ち上がった。「正直ここが一番可能性有ると思ってたんだよな。ここで駄目なら白玉楼も永遠亭も無駄足だし、天界、魔界は端から無理だし、外界の行き方知らないし行きたくないし、地底にでも行くさ。あそこなら宿無しでも目立たないだろうからな」魔理沙は美鈴に背を向けた。「じゃあな」
美鈴は業務用の体勢を取り、業務用の口調で言った。「お達者で」
魔理沙は痛む体に不安を抱えながら紅魔館を発った。
紅魔館から離れて三分も経つと妖怪が絡んできた。人目の無い場所を選んだから当然なのだが、紅魔館周辺は治安が悪かった。自慢であろう、尖った牙と爪で魔理沙の肉を食い千切らんとした野良妖怪だったが、素早く向けられたミニ八卦炉によって頭部を吹き飛ばされた。こういう手合は殺し残しが怖いので少し強めにやる必要がある。魔理沙は計算し、このペースで妖怪が湧いてくるとまずいと思った。
遠くではちりちりと鳴き、近くではぶんぶんと唸る虫がひたすらに鬱陶しかった。虫は魔理沙の目や耳、鼻に入り込んだ。魔理沙は絶えず手を動かす、目を細めるなどして抗ったがささやかすぎた。虫が毒を持っている可能性を考え、飛んで虫から逃げた。
虫ごときに大分長い距離を飛ばされた。箒無しで飛んだため、箒有りと比べて数倍近くの魔力を消耗した。体の痛みを無視したことのツケも五割増しで返ってきた。今のくたくたな状態で妖怪に会いたくないなと思っていたら妖怪に出会った。言葉を知らないその妖怪は太い腕を振り回し立ち向かってきた。
疲弊した魔理沙が放った魔力は妖怪の腕の毛を焼き払う程度のものだった。伸びてくる剥き出しの赤黒い腕に命の危機を感じた魔理沙は残る魔力を衝動的にミニ八卦炉へ注ぎ込んだ。妖怪は轟音と共に爆散し血の一滴も残らなかった。少し強めどころではない。明らかにやりすぎだった。
魔理沙の魔力は尽き、体力は底が見えていた。現状の無力さに絶望し、落ち着きを無くした魔理沙は何度も後ろを振り向いた。柳の下に幽霊が見え、夜風が足音に聞こえた。今にも気が狂いそうだった。
後方から聞こえる草を踏む音に魔理沙は振り返った。幻聴ではなく、包丁を持った男がそこに立っていた。魔理沙は持てる力を振り絞って駆けだした。何かを考えるよりも速く、体が動いていた。
魔理沙が振り向くと、男が奇声を上げながら追いかけてきていた。魔理沙は泣きながら、男に追いつかれる前に心臓が止まるかもしれないと思ったがやっぱり先に追いつかれるかもしれないと思い直した。今にも足がもつれて転びそうだった。
追い詰められて吹っ切れた魔理沙は活を入れて弱気を挫き、妖精を探した。妖精は自然の孤児でありそれ自体が魔力の結晶なのである。
きっと普段から妖精を虐めていたご利益なのだろう、魔理沙は茂みの中にいる妖精を見逃さなかった。希望を見つけやや元気になった魔理沙は道から逸れ、男との距離を確認した。
こちらに気づいた妖精は逃げだそうとした。「動くな」魔理沙の怒号に射抜かれたのか、男の手にした包丁に度肝を抜かれたのか、妖精は言葉通り固まってしまった。
魔理沙は妖精の腕を取り、ミニ八卦炉に押し付けた。妖精の腕は先端から徐々に魔力へと変換され、ミニ八卦炉を通して熱線へと変わる。「腕、腕が」妖精は削れゆく腕を見て号泣した。「あああああ」
男を炭にした魔理沙は妖精の断面を焼いて止血した。貴重な魔力源である。血の一滴さえ無駄にはできない。魔理沙は腕一本分軽くなった妖精を抱えて歩き出した。魔理沙は妖精の悲痛な泣き声を止めようとはしない。当然、辺りのやくざ者が呼び寄せられた。
「もうてめえらなんて怖くないんだよ」いつもの調子を取り戻した魔理沙は妖精の頭をミニ八卦炉に押し付けた。妖精の頭はミニ八卦炉より大きいので、野菜を下ろすように擦り付ける。「びびらせやがって。死ね」脳を失った妖精は唸り呻き、炎を纏ったやくざ者は踊り狂い、魔理沙は高笑いする。
三者三様の叫び声が止んだ後に生きているのは魔理沙だけだった。魔理沙はすっかり軽くなった妖精とやくざ者を解体して食べた。口に広がるのは血の味ばかりで全然美味くはなかったがいくらかの魔力と体力は取り戻せた。魔理沙は妖精の骨を鞄に収め、地底界を目指した。
遂に地底界への入り口に立った魔理沙へ冷たい風が吹きつける。魔理沙は身震い一つして地底界へと下っていった。
まだ陽の昇らぬ地上よりも地底界の方が明るかった。日の光とは無縁の地底界の通り道には常灯が点々と立っている。その光量は必要最低限で、道筋から外れると命が覚束なくなる。常灯と常灯の間には縄が渡されていて、地底界の住人はこれを蜘蛛の糸と呼んでいる。
蜘蛛の糸を伝う魔理沙は小さい頃を想起した。怖い話を聞かされた夜、一人で便所に行けなくて、父親に手を引いてもらったことがあった。魔理沙は苦笑した。一体それが何だというのか。
「血の匂い、火の匂い。怨み憎しみ、妬み嫉み」常灯と常灯の中間の暗がりにパルスィが立っていた。「素晴らしいわ、あなた」
「おまえに褒められても全く嬉しくないんだが」
パルスィはむっとした。「あら、知り合いだったかしら」
「魔理沙だぜ。霧雨の」魔理沙はミニ八卦炉を見せた。
パルスィは大笑いした。
「どうしたんだ」
「だってその恰好。無様。好い気味だわ。追い剥ぎにでも遭ったの。ああ、言わないでよ。しばらくはあなたの不幸を想像して楽しむから」
魔理沙は呆れた。「うん、まあ、おまえってこんなやつだったよな」
パルスィはあっけらかんとしている。「あら、わたしだけじゃなくて、みんなこんな感じよ」
「こっちは不幸の身だってのによ」
「不幸を嘆くなんて馬鹿げてるわ。落ち込む暇があったら他人を陥れるべきよ」
魔理沙は乾いた笑いを浮かべた。顔に貼り付いていた、その笑みと同じくらいに乾ききった血液がぱりぱりと剥がれ落ちた。「それじゃ、わたしは行くぜ」魔理沙はパルスィの横を通り過ぎた。
パルスィは独り言のように言った。「ここの連中は他人を歓迎なんかしないんだけど、一応の礼儀としてわたしがみんなを代表して一度だけ言っておくわ」パルスィの緑眼がぎらついた。「地獄へようこそ」
- 作品情報
- 作品集:
- 11
- 投稿日時:
- 2014/10/05 05:15:50
- 更新日時:
- 2014/10/05 14:15:50
- 評価:
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心持ち心広め魔理沙ちゃんですね