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『第一夜〜第七夜』 作者: ただの屍
第一夜。
再思の道。その上空。空に新月。萃香は雲と一体となって星見酒を楽しみ、当て所もなく漂っている。
遠方に雷が落ちた。悪天候でもないのに続けざまに数発。落雷の止む気配は無く、発生地点が徐々に萃香に近づいてくる。萃香はあくびをする。
一際大きな雷が萃香にぶち当たる。その刃は肌を滑り、臓物を揺らす。
雷の中に屠自古がいた。屠自古は萃香の朧な胴を抱え落下する。萃香は怒り、身体を密にする。萃香の脳天が大地に激突し、全身が埋没した。
萃香の目論見通り、衝撃で屠自古の両腕の霊的な骨が粉砕した。屠自古は萃香から離れ、内丹術によって自己の損傷を超克する。
萃香は霧となって土から抜け出し、身体を再構築する。萃香の頭部は微塵も割れていない。萃香は殺意を固め、視線を固め、拳を固める。「どうした亡霊。星の瞬きに誘われるままに逝きたくなったのかい」
「化け物め」屠自古は呟いた。
萃香は炎を萃め、屠自古へと射出する。明光が空に届いた。
屠自古は炎の軌道を曲げて直撃を避けたが熱風を浴びた。鬼の力を退けるという無茶による消耗は激しく、戦闘の続行は不可能だった。勝敗は分かたれた。
「伊吹さん。こんばんは」傍から神子の声がするのと同時に屠自古が逃げ出した。星空の下、神子の輪郭は二本の角を持つ鬼のごとく映る。「天を仰いでご覧なさい。星降る夜という言葉がぴったりではありませんか」
萃香は腰を低くし、足場を固めた。「あんたも物狂いか。酌を邪魔したんだ。死んでもらう」
神子は両手を広げ、合わせた。「応」萃香を見下ろす神子の目に満天の星が映り込んでいた。
俄に夜風が吹き、神子の耳に直に触れた。
萃香が踏み込み、正拳を放つ。小手調べの炎撃とは比べものにならない、一撃瞬殺を誇る鬼の打拳である。神子が微塵に飛び散ることを信じて疑わなかった。
神子は半歩ほど体位をずらして攻撃を避け切り、萃香の丹田に掌底を打った。完璧なタイミングでの反撃だった。
「え」萃香は驚きの声を上げ飛び退き、形だけの構えを取る。神子は追撃を行わず、萃香を見据える。
萃香は急いで考える。どうして目の前にいて拳が届かない本気の拳を人間が見切れるわけがないつまり人間じゃないならば何だ妖気は感じないむしろ神々しいそういえばさっき殴られたいやそれがどうした痛くも痒くもないこちとら泣く子も黙る鬼神だぞ。萃香は歯噛みする。
神子は萃香の欲を聞き取ることで攻撃を躱していた。前座、屠自古によって火を点けられた萃香は闘争本能を抑えることができなくなっていた。今も萃香は屈辱を味わいながらも逃走を良しとせず、勝利への切っ掛けを探している。
直情に身を任せた萃香が神子に駆け寄り拳を突き出す。きっと見てからでも躱せただろう。神子の一撃によって萃香を巡る気は乱れていた。鬼といえども悪しき気を抱えていては弱体が著しい。
萃香の心は曇っていた。体軸はぶれていた。在ってはならぬ三撃目を神子は片手で受け止め、もう片方の腕で萃香を抱き上げる。霧化を道術で抑えこむ。
萃香はもがき、叫ぶ。「離せ」それは力を持たない弱者の振る舞いで、とても鬼の取った行動、吐いた台詞とは思えなかった。
神子は神霊廟に至る空隙を作り、身を投じた。
夜に取り戻された束の間の静寂を星影に濡れた烏が切り裂く。黒翼を振り乱し地に下り立った文は興奮冷めやらぬ手付きで生々しい破壊の跡を撮影する。凪の中、シャッター音もフラッシュも無い。暗撮モードを解除し忘れていた文は設定をいじり、改めて撮影した。
第二夜。
魔法の森。魔理沙がアリスの家からの帰り道を歩いていると森がざわめき、重く湿った風が吹きつけてきた。
風が木々を揺らしているのではない。瘴気が森を扇いでいるのだ。
魔理沙は眉間に皺を寄せる。森が常識を外れることは幾度かあったが、今夜の瘴気はひたすらに濃い。肌が粟立つ。
魔理沙は森の中でほとんどの魔法を使えなくなっていた。密な瘴気が仇なすのである。熟練の魔女ともなればそのような障害は無いも同然なのだが普通の魔法使い程度では影響を無視できない。故に魔理沙は凡人らしく脚に疲労をせっせと溜め込んでいる。
泥が服に跳ねた。「ああ、もう」魔理沙は舌打ちし、近くの木を殴る。
木を殴っても気分は晴れなかった。もっと柔らかくて、もっと人間っぽいのが良い。妖精とか最高だ。手とか足とか折ってやりたい。
荒れ狂う瘴気に引き寄せられた負の感情が次から次へと湧き上がってくる。
瘴気がここまで隆盛した原因は究明できていない。アリスはそう言った。アリスが分からないなら魔理沙に分かるはずがない。ここにも種族の壁が立ちふさがる。
魔理沙は立ち止まる。前方で何やら動く音。屍肉の臭い。狗だろうか。狗でも面倒だ。相手したくはない。人間に夜の森は物騒だ。
迂回すると決めたとき、暗い塊が持ち上がった。夜目を凝らすと人間のどす黒い屍体だと分かった。
魔理沙はたちまちにして相手を侮る。虎や熊なら糞尿撒き散らして逃げているところだが人間ならどうとでもなる。それにもう死んでいる。殺すまでもない。
「黴だか茸だか虫だか。黒いの。人間様の言葉が分かるか。ぶちのめすぞ」余裕の態度で話しかけてみるも、有意な反応は返ってこない。噛みつくためか、まさか笑いかけたのか、だらしなく開かれた屍体の口はひどい悪臭を放つ。
魔理沙は初歩の肉体魔法を唱え、右腕に魔力を込める。外は無理でも内でなら何とか魔法を使える。ごく単純なものに限るが。
もはや何の恐ろしさも感じさせない、よたよたと近づく屍体の頭部に拳を打ち込み魔力を拡散させた。腐敗した肉体は豆腐のように手応えがない。潰れた頭蓋から不潔な汁が飛び散り、屍体はぐずぐずに崩れ落ちた。魔理沙は屍体に唾を吐いた。「一生地面を這いつくばってろ、ゴミクズ」
ハンカチで拳を拭いた魔理沙は異常事態に気がつく。右手が暗黒じみた色合いに覆われていた。直接触れなかった掌にまで瘴気的な染みが広がっている。
右手がぶらんと垂れ下がった。それから痙攣がはじまる。「あ、やばい」
魔理沙はさっきまで動いていた養分の塊を見下ろす。「やばい」
魔理沙は走った。右腕が激痛を発する。叫ぶ。とにかく意識を空にし、身に迫る危害から目を逸らす。痛覚を認識してはならない。一度立ち止まってしまえばそのまま倒れてしまうに違いない。
魔理沙はアリスの家を目指す。魔理沙ではどうにもならないことでもアリスならどうにかできる。できるはずだ。
獣じみた叫び声が森を揺るがす。
第三夜。
地底界。空はつるはしを振るう左手を止めた。額の汗を右腕で拭う。「さとり様。わたしたち、なんでこんなことしているんでしょうか」その質問はもう三度目だったが、愚痴ではなく本当に忘れてしまっている。空は決して馬鹿ではない。頭と身体を同時に動かすのが苦手なだけである。
「説明してあげるから、手動かしながら聞いてね」さとりは地面に突き立てた角シャベルに体重を預けている。「昨夜から地底の火気が高まってきたみたい。ほら、暑いでしょう。身体動かしてるのとは関係無く」シャベルに汗が伝う。
「確かにそうですね」そう言った空がぱっと振り返ると汗がさとりの顔にかかった。空の心には恐れが広がっている。「わたし、仕事、やらかしましたか」
「そうじゃない。あなたは何も悪くないから」さとりは顔を伝う汗を舌で受け止めた。「今、地底の火は灯りの供給源程度にしか燃えていない。それでこれなのよ」
さとりの言葉を聞いた空は安心して壁掘りを再開した。「じゃあ何が原因なんですか」
「さあ。それが分かってる人はいないし、ほとんどみんな自然現象だと思ってる。わたしもそういうものだと思ってる」
「そんなものなんですね」空は一瞬だけ止まる。「そういえば、ここにいるのってわたしとさとり様だけなんですね。他に誰かいないんですか」
「こいしは最初の十分くらいはいたんだけど、どっかに消えた。つまらなくなったんでしょう。お燐は瓦礫の運搬中。いっぺんに来ても邪魔なだけだから他の人たちは待機中で、あと一回運べば交代」
「わたしの力でどばーって掘り進むのは駄目なんですか。何故か手作業でやってますけど」
「ますます暑くなるじゃない」三度目ともなればやりとりも滑らかである。「反対側から鬼が掘ってて、そっちが本命だから焦らなくてもいい」
空は三秒ほど止まった。「これって、どこに向かって掘っているんですか」
「どこに向かって、というか気脈に沿って掘っている。火気を逃すにはそれが良いって誰かが言っていた。物質的な抜け穴があった方が気の通りやらがどうたらこうたらで、地上に繋がる気脈と合流すれば云々かんぬんって」
空は首をひねる。「さっぱり意味が分からないです」
さとりは天井にランタンを吊るす。ランタンに地底の火が点る。車輪の音が聞こえてきた。「お燐が帰ってきたみたいね」
「いやー、案外疲れますね。これが屍体だったらどんと来いなんですけど」燐が腰を下ろすと汗溜まりができる。
さとりはシャベルで手押し車に瓦礫を運ぶ。「まだ載せられるわね。もうちょっと掘ってちょうだい」
「はーい、頑張りまーす」
「あっついねえ。もうこんなもん重たいだけだよ」燐は全裸になり、べちゃりと敷いた服の上に寝そべった。「なんでこんな暑いかな」
つるはしが壁を叩く小気味いい音が響く。
第四夜。
命蓮寺。正座した白蓮と文が相対している。どちらも同じような姿勢だが白蓮のほうがしゃんとしている。
「現在、里で山神といえば誰を指すとお思いですか」文が口を開いた。
白蓮は口元に手をやり少し悩んだ。「守矢神社に祀られし神、八坂神奈子でしょうか」
文はかぶりを振った。「豊饒の神、秋穣子です。普段の信仰はそう篤いものでもありませんがね。数日前から里の土壌が肥沃化しているそうですが、どういうわけだか秋穣子の御業だと考えられている模様です」
「良いことではないでしょうか。少なくとも悪い話とは思えません」
文の目が笑う。「これがですね。拾われる神あれば捨てられる神あり、とでも言いましょうか。一方では面白くないと感じていらっしゃる方がいるわけでございまして。山におわす五穀豊饒を司る神のことなんですが」文は一呼吸置く。文の顔つきが変わった。「その守矢神社が異教徒の弾圧を決意しました」
「冗談でしょう」白蓮の表情は険しい。
「八坂神奈子が言いました。間違いはありません」文の口調は静かで、揶揄するところは無い。
「何故にそのようなことを」
「ぶっちゃけた話、秋穣子はそんなに関係無いんですが」文の差し出した数枚の写真には神子と萃香の戦闘風景や、萃香を抱え神霊廟に消え入る神子が写っていた。「三日前の出来事です。神霊廟への通行手段が分からず、向こうの連中も捕まらないのでいかなる理由でこれが起きたのかは存じません。裏付けの取れた事実を紙面上でこねくり回すのがわたしの流儀なので、守矢には特に何も言わず見せました」
白蓮は写真を注視している。
文は続けて喋る。「守矢の理由ははっきりしています。遅れを取ること勿れ。有事を危惧しての信仰の緊急確保。傭兵の召集は後日、新聞を通じて妖怪を対象に行われる予定です」文は両手を振る。「言っておきますがわたしは所属しません。食い扶持には困っていませんから」
白蓮は顔を上げ、写真を返した。「どれも大変綺麗に撮れていると思います。この星月夜を見上げる構図の写真が一番美しい。両者の表情もばっちりです」
文は褒められて嬉しかったが、話題を逸らせたくなかったので笑って会釈しごまかした。「食い詰める妖怪共に人を襲う口実をくれてやれば喜んで守矢を崇拝するでしょう。天からの施しというわけです。妖怪の救済と聞いて思い出される名は何となりますかね」
「わたしはただ人間と妖怪の平等を乞い願う者です。救い主になりたいという強欲は持ちあわせておりません」
「神霊廟は何事かを起こし、守矢は実力行使する。手をこまねいていたら命蓮寺は廃れますよ」
「なったらなったで結構です」白蓮は事も無げに言った。
文は白蓮の目を見た。積み上げられた記者の経験で、話者の目を見ればおおよその意図が分かる。白蓮の視線のあり方、瞬きの仕方は本音のそれだった。
だが疑う。本心を語る目の前の人物が白蓮であるとは限らない。もっと言えば文は壁とお喋りしている可能性すら有る。命蓮寺にはぬえがいる。マミゾウがいる。
一旦会話が途絶え、二人は同時に姿勢を正した。
白蓮は低いトーンで切り出した。「わたしは誠に欲深い存在でした。行動原理は徹底して利己。死ぬるを恐れ不老を得たつもりでしたが、妖怪を敬い妖術を不滅としたつもりでしたが、老いという死の尖兵は違えることなくやって来たのです。そのときようやく悟りました。永遠の安らぎなどこの世に有りはしない。不老不死など気の迷い。遅ればせながらわたしも死後に備え、執着を捨て去る心境に至りました。わたしは縄張り争いをする気など、そもそも主張すべき縄張りが無いのです」
「それでは組織が成り立ちません」
「命蓮寺とは寺の名前です。そこには己の救いのために仏教を信仰する人たちがいるだけです。命令系統など有りません」
「個々が勝手に集まっているだけだと」文は今一度確認を取る。
白蓮は頷く。「ええ」
「あなたが言うからには、真実なのでしょう」文は礼をする。「本日はどうもありがとうございました」
白蓮も深々と頭を下げる。「こちらこそ貴重な話を聞かせていただきありがとうございます」
文は立ち上がった。「では約束通り命蓮寺の、いや聖白蓮の見解を守矢に伝えておきます。わたしの推測ですが弾圧は過酷なものにはならないでしょう。一方的な虐殺を行ってしまうと却って信仰が高まってしまいますから。かといって根絶も困難でしょうし」
立ち上がった白蓮は仏の微笑みを湛えて合掌した。「お仕事頑張ってください」
白蓮の所作はありふれたものでありながら文を嬉しくさせた。忘れて久しい感動だった。これこそ白蓮の人徳が為せる業、やはり目の前にいるのは名の通りの聖人なのだと文は思った。
文は時間を掛けてお辞儀をした。それから一吹きの風を残して姿を消した。
第五夜。
妖怪の山。細々とした月明かりの下で人間の男が一歩一歩、極めて慎重に歩いている。
とある場所で金脈が発見されたとの噂を耳にした男は情報を確かめ、計画を立て、山に入った。善だろうが悪だろうが、急がねばならなかった。
人間が周りにいないというだけで世界はどこまでも静かに思えた。男は腰まで伸びる草の間をそよ風のように抜ける。
妖怪は恐ろしい。天狗はもっと恐ろしい。決して悟られてはならない。男は念入りに体臭を消し、光学迷彩で身を隠してはいたが。無法者として培ってきた歩行術で足音を消してはいたが。果たして通用するのか。
男の必死の思いも虚しく、椛に気づかれていた。男は白狼天狗の持つ千里眼のことを無形の眼を中空に生み出す能力だと思っていたがそうではない。山に生きる者の、研ぎ澄まされた五感を駆使した索敵技術だった。
白狼天狗が千里眼と、妖術を思わせるような名で呼ぶのは何故か。その方が通りが良いからである。説明が一言で済み、言われたほうも何となく納得してしまう。種を明かすわけにはいかないのだからごまかしたほうが良い。
男が前進すると四半里後方で椛も前進する。千里先まで見渡せるというのも方便で、実際は一里も離れれば五感が十分に働かなくなり、三里離れれば目標を見失う。白狼天狗にとって四半里という距離は目と鼻の先だった。
椛が第一に察知したのは音だった。いくら忍んだつもりでも男から出る音が無くなることはなく、出た音が山に馴染むことも無かった。山は急な来訪者を受け入れない。
生臭い体臭が鼻についたが男生来のものではなく河童の臭いだ。河童の臭いは水では落ちない。消臭するには日光浴をすればいいのだが白狼天狗の嗅覚から逃れられるレベルまで落とすとなると丸一日は必要だった。日陰者。そんな嘲りの言葉が浮かんだ。
河童の道具である光学迷彩も、視覚頼みの人間が相手なら然るべき成果を上げただろう。周囲の魔力を取り込み動くその道具は山の一部分を寡黙に傾かせ、魔力に心得があれば肌で感じ取れるほどの変化をもたらしていた。
はっきりとした形が残されていなくても、積もった葉の僅かなへこみや微かに折れ曲がった草は足跡と呼ぶのに十分だった。
椛は男の軌跡を正確に辿り、時折残り香を舐め取る。男の呼気や汗は恐怖の味がした。その美味を植物や畜生が持つことはない。
一羽の梟が男のいる辺りに飛んでいる虫を目で追っていた。男の汗に引き寄せられた虫は男の血を吸おうとしていたが、光学迷彩の虫除け機能によって男の近辺をじれったそうに円を描いて飛んでいた。まるで類を見ない動きに梟は首を傾げた。
椛からすれば男は微笑ましいほどに抜けており、山を相手取る悪党の器とは思えなかった。それ故に男は椛に殺意を抱かれずに済んだ。
放っておいても害にはならないだろうが、これだけあからさまな侵入者を黙って見逃すわけにもいかない。サボっていると思われる。椛は浮き上がり、木々を避けながら飛ぶ。梟が飛び去り、虫もどこかへと逃げた。草が波打ち土埃が舞い上がる。椛は存在を隠そうとはしない。知ったところで何もできないだろう。
男は息を呑んだ。椛が接近するまでに男にできることは死の覚悟が精々だった。迫り来る何者かについて、あれは天狗ではない、よしんばそうであっても見つかったと決まったわけじゃない、などという根拠の無い希望で己を欺くことは到底できなかった。運悪く妖怪に食われた者の数々の物語を男は思い出した。
椛は男の近くに着地し、隙もなしに距離を詰めてきた。「面を見せよ」
男は椛に背を向けたまま固まっていた。問答無用で斬り殺されるものだと思っていた男は放心状態にあって、言葉が届いていなかった。椛は剣を腰に差し、男の背を叩いた。「面を見せよ」
ふと我に返った男は光学迷彩を解いて言われた通りにした。逆らう気力など一片も沸き起こらなかった。男は恐ろしさのあまり椛の顔を見ることができなかった。視線は腰の剣先に引き寄せられていた。
「夜分だな」椛は言った。
「ええ」男の声は小さく、そして震えていた。顔色は死人のように青ざめていた。
「妖怪の山だな」
「ええ」男の声は更に小さくなった。視界が歪んだ。立つことさえ辛かった。
「何もかもが人間と縁遠い。何故ここにいる」
あの、と前置きしてから答えようとした男の頭を椛が背伸びをして撫でた。「一つでも嘘があれば、頭を引き裂いて殺す」
「へ、へい」男は最大限の注意を払い、ゆっくりと喋る。「三日前。里から西へ、歩いて四時間ぐらいの所にある洞窟でですねえ、金脈が見つかりやして。そりゃあ吉報に違えねえんですが、あそこは人間にゃべらぼうに危ない。妖怪が出るんで治める人もおらんから、我先、てな按配になりやした。でも人喰いの出る場所になんざ誰だって行きたくねえってんで他人を騙してすかして帰り道を襲うのが主流になりやして、金脈を見つけたやつも昨日、ぶっ殺されて根こそぎ奪われちまいやした。あっしはけちな小悪党で腕っ節にもまるっきり自信がありやせんから、ちょいちょいくすねることで口に糊をしていやす。それでこの度はちと金脈の辺りまで足を運ぼうと思いやして。人間が相手なら口八丁手八丁で事足りやすが、妖怪となるとてんで頼りない。この隠れ蓑は古い話、河童の知り合いに作らせたんですが仕事の前に一度見てもらおうと思いやして。あっしから押しかけたことは無かったんですが時は金なりと思うと居ても立ってもいられず、山に足を踏み入れちまったわけです」
「名は」椛は問うた。
男は即答した。「呪と申しやす。まじないと書いてじゅ、です」
「河童の名は」
「粘波といいやす」
「ほうほう」椛は唇を舐める。真実味はあるが、呪にとっての真実にすぎない。「わたしが立ち会う。先を歩け」
「わかりやした」断れるはずもなし、呪は腹に手を当て先導を始めた。
「傷か」椛は聞いた。
呪は遠慮がちに言う。「いえ、天狗様の視線が、こう、ずうっとあるとですね、胃が、なんというか、痛みまして」
「我慢せい」
そうきっぱりと言われてしまっては、我慢するしかなかった。呪は犬歯の裏を舐めはじめた。
第六夜。
紅魔館。地下にある図書室で読書をしていたパチュリーはページの質感が気になった。湿気を吸ってよれている。
パチュリーは小悪魔を呼んだ。「適当に何冊か取ってきて」
運ばれてきた本も同様に湿気を吸っていた。パチュリーは掌に魔力を転がしてみる。水行が強い。どこから流れこんできているのだろう。「美鈴を呼んできて」
命令を受けた小悪魔が図書室を出ると、破壊の衝撃と音が地下に響きわたった。
「あ」パチュリーは声を漏らした。
扉の向こうで小悪魔が絶叫し、すぐに止んだ。
パチュリーは椅子に座ったまま魔法で図書室の扉を開き、外にいるはずのフランに向かって言った。「フラン、上に行っちゃ駄目よ。こっちに来なさい」
小悪魔の首を持ったフランが出入口に立った。「どうしよう、死んじゃった」フランの目は何かに怯えていた。そして狂っていた。この狂気の為にフランは体面を重んじるレミリアによって地下室に監禁されているのだが、姉妹は好き合っていたのでレミリアがフランを疎ましく思うことは無かったしフランがレミリアを憎むということも無かった。
「大丈夫。明日になれば新しいのが来るから」パチュリーが手招きするとフランは小悪魔の首を捨てて図書室に入った。
パチュリーはこういうとき用の魔法一式を作動させる。本棚は土行の結界に守られ、館に妹様警報が発せられた。
レミリアは警報を受けても自室から動かなかった。狂気を発現したフランはレミリアを拒絶する。姉の望まないものを姉に曝けだしてしまうことはフランにとってこの上ない苦痛だった。もし出会ってしまえばフランの破壊活動は罪悪感によって対象を曲げられ、自傷行為へと変わってしまう。改めて考えてみれば、フランの内に棲む怪物をここまで育て上げたのはレミリアに他ならないのではないだろうか。警報発令の通知音が止んだ。レミリアは決心した。もうこの警報は出させない。レミリアは咲夜を呼び出した。
パチュリーは立ち上がった。「ねえ、遊ばない。わたしがこんなこと言うの珍しいから、乗っておいたほうがいいわよ」
フランは無邪気に笑った。「遊ぶ」
パチュリーは扉を閉める。「何して遊ぼっか」
「鬼ごっこ。わたしが鬼」フランは元気よく宣言し、突進した。尋常の速度ではない。怖気づいて逃げようとすれば三歩の内に背をえぐられるだろう。
フランを正気に返すには気の済むようにさせるか気を失わせればいい。パチュリーは後者を選んだ。呪文を唱えると両者の間に炎の柱が建ったが、フランは中心を素早く突っ切った。吸血鬼を焼ききるには規模も温度も足りていない。衣服ですらほとんど無事だ。やはり火行は水行に剋されている。
パチュリーの次なる土行魔法によって一枚天井がフランの頭上に落ちてきた。フランは軽く払いのけるつもりで天井を片手で受け止めたがパチュリーの追加の言霊により天井の質量が倍の倍へと増した。フランが両手を使うと天井は砕けたが、足を止めることには成功した。
手を伸ばせば届きそうな距離までフランが接近していた。フランが動き出す前に、床から生えた金串がフランの肛門から脳天まで勢い良く貫通した。第二第三の金串が手足を狙う。パチュリーはフランを天井に磔にするつもりでいた。
フランが伸ばした手は無駄な足掻きかと思われたが、足りない距離を分身が補った。躱すには間に合わず、フランの指先がパチュリーに触れた。吹き飛んだパチュリーが壁に叩きつけられると同時に金串が消え、フランの肉体が再生を始めた。
フランがその場でくるくる回り、血があちらこちらに飛ぶ。「次はパチュリーが鬼だからね」
受け身に失敗してまずい具合に壁にぶつかったせいで発作が始まった。パチュリーは両膝を突き、何度も咳をした。
一山いくらの小悪魔と違ってパチュリーは貴重なのでフランはそれなりに心配した。「ねー、だいじょーぶー。動ける。別の遊びする」
フランが勝手に暴れたりしないよう手綱を握っておく必要があったがパチュリーの咳は止まらず、何もできずにいた。咳止め薬が机の上にあったが、そこまで動けなかった。
フランの出血が止まった。「んー。休んでていいよ。咲夜を追いかけまわしてくるから」
フランが扉を開けると、警報を聞いて駆けつけた美鈴がいた。「わたしも交ぜてください。さあさあ、何します」美鈴はフランを押し戻しながら図書室に入った。
「パチュリーが動かなくなっちゃった」フランの言葉に美鈴はぎょっとしたが、パチュリーが咳に苦しんでいるのだと分かると薬を飲ませて背中をさすってやった。
「あー」フランが美鈴を指さした。「パチュリーが鬼だったのに美鈴が触ったから、美鈴が鬼だよ」
パチュリーは美鈴の手を借りて立ち上がった。「ありがとう。楽になったわ。少し休むから代わりに遊んでおいて。すぐ戻るから」パチュリーは椅子に腰を下ろし呼吸を整え、調和魔法の詠唱を開始した。
「じゃあ、いきますよ」美鈴の言葉を受けて、フランは逃げ出した。美鈴は追いかける。
二人は真っ直ぐに伸びる中央通路を駆ける。左右に並ぶ無数の本棚は、棚板の伸びる方向が通路の伸びる方向と垂直になるよう配置されている。左右にしても前後にしても、十の先に百がある。上であっても、地に足を付けていては届かない高さにまで本が並べられている。
脚力差は歴然としていた。フランが左に折れ曲がって本棚と本棚の間に入り、美鈴がその後を追おうとしたとき、フランは既に壁側の通路にいた。そして見失った。
すぐ見つけなければ。走りながら前と左に交互に見る。いないいないいないいない、ここにもいない。もっと奥か。いや待て。美鈴は止まり、振り返る。もし本棚の裏に隠れてやり過ごされていたら。外に向かっていたりするかも。耳を澄ますが誰の足音も聞こえない。美鈴は最悪の事態を想定し一度戻ることにする。
途中、風に乗って移動するパチュリーと出会った。
「来る途中でフランドールお嬢様を見かけませんでしたか」パチュリーの様子が慌てた感じでもなかったので返答の予想はついたが一応聞いておく。
「見なかったけど、見失ったの」
「ええ」
「任せなさい。面白いものを見せてあげるわ」パチュリーは本棚の上まで飛ぶ。美鈴も三角飛びを繰り返して天板に上がった。
追われる身でなくなったパチュリーは時間の掛かる呪文を複雑に縒り合わせ、上位魔法を繰り出す。どこからか湧き上がった水が床一面に広がり、更には出入口を除いた壁面、遂には天井までをも覆い尽くした。
「ちょっ、ちょっ」遠くで、そんな声と共にフランが本棚に飛び乗った。「ちょっとこれ、清流じゃん」
「流れるってのはこういうことを言うのよ」栄えし水行は木行を生じる。木行の性質は成長、発育。パチュリーの下方の水が切り株の形に盛り上がり高速で伸びる。水柱が天井にぶつかり生み出された水しぶきの一つ一つが始原の株の写し身となり、同じことを繰り返す。
水柱の一つがフランに向かったが難なく躱される。それでも空間に残された水柱はフランにとって即死級の障害となる。数十秒が経つと、フランは網目を潜り抜けて広いスペースへと移りながら毎秒二三本のペースで全方から襲い来る水柱を避けねばならなくなった。
「弾幕ごっこみたいですね。労力の割には、周りくどい感じがします」美鈴は実戦派で、技の第一基準はそこにある。
「そもそもがフランとのお遊びだから。雨を降らせたら虐待でしかないし」
「そろそろいいですかね」もうここからでは水柱に阻まれてフランが見えない。
「ゴー」パチュリーの号令で美鈴は飛び出した。
美鈴はこの水柱をまさに柱だと思っていたが、寄ってみると川だった。美鈴が水柱に手を差し入れると結構な威力で弾かれた。「急流だけど、これくらいなら」美鈴は水柱を飛石のごとく軽やかに渡っていき、フランへと近づいていく。
パチュリーは今ある水柱を残したままにして、新たな水柱の発生を止めた。そして風に乗って移動する。
水柱の気合避けに夢中になっていたフランだったが水柱がもう飛んで来なくなったのと目に見える位置まで近づいてきた美鈴に気づき、鬼ごっこの最中であることを思い出した。フランは逃走経路を探す。一見逃げやすそうな場所は実は美鈴に抑えられている。捕まりたくない一心で、フランは美鈴に背を向け目の前の水柱をまとめて破壊した。
水を叩いても水は壊れない。フランが壊したのは水を閉じ込める枠だった。回避不可能の水撃がフランに放たれる。
「あ」パチュリーが水を止めようとしたが、間に合わない。美鈴が飛んだが、間に合わない。フランは気を失った。
次の瞬間、フランを包み込んだのは咲夜だった。遅れて、大量の水が咲夜の背面を濡らした。
「すまないわね、咲夜」パチュリーは水を引き上げ、警報を解除した。
「いえ、お構いなく」咲夜はフランを美鈴に託す。「お嬢様からあなたに話があるそうよ」咲夜は身震いした。「着替えてきます。寒いので」咲夜はくしゃみ一つだけを残して去った。
パチュリーはフランが来る前、美鈴を呼びだそうとしたことを思い出した。「わたしもあなたに用事があったのよね。でも頼んだのは向こうが先だし終わったらこっちに、いや新しい司書が先か。じゃあ、明日で。明日、呼びにいかせるから」
美鈴はフランを抱えたままレミリアの部屋の前まで来た。紅い扉をノックする。
「入りなさい」レミリアの声。
美鈴は入室する。「失礼します」
床が紅く、壁が紅く、天井が紅い。紅い絨毯の上に、紅い応接セットがある。レミリアは館の中で最も紅い椅子に座っていた。「フランはまだ寝ているのね」レミリアは手渡されたフランを膝の上に座らせた。「ありがとう美鈴。あなたの日々の仕事に感謝しているわ」
美鈴は拱手を以って答礼した。
レミリアはフランのうなじを嗅ぐ。「焦げ臭い。いや今はそんなこと関係無い。美鈴、座りなさい」
美鈴は紅いソファに座り、緊張の面持ちで次の言葉を待つ。咲夜によって出された紅茶をレミリアは一口飲んだ。
「フランを外に出すことにした」
美鈴は反射的に立ち上がり臨戦態勢に入った。美鈴は自分の取った行動を理解すると慌てて土下座した。「お嬢様の方針に異を唱えるつもりはございません。ただ驚きのあまり取り乱し、はしたない姿を曝してしまいました」
レミリアは吹き出した。「それくらいで謝らないで。全然気にしなくていいから。あの咲夜もこの話を聞いたときびっくりしすぎて時間を止めたと言っていたし、むしろわたしよりずっとまともな危機感を持っているんじゃない。うん。やはり美鈴に任せよう」
美鈴はおずおずと席についた。「何をでしょうか」
レミリアはフランの手を握る。「さっき言ったじゃない。フランが外に出るからそのお守りよ。門番には適当に誰かあてがうから、あなたには紅魔館の門よりも遥かに大事なものを守ってほしい。本当はわたしが付いて行きたかったんだけど、周りとの温度差を考えるにどうも楽観的らしい。多分浮かれている。最初はキチッとしておかないと」
美鈴は頷く。「承知いたしました」
「じゃあ行き先の話をしましょう。もう決めてあるの」天狗の新聞を紅いテーブルの上に広げるためにレミリアが前かがみになったとき、フランがぼんやりと目を覚ました。
フランはレミリアに抱かれていることに気がついた。あれ、確か遊んでいる途中だったような。遊ぶって、何して。誰と。どこで。遊びはおしまい、そんな気がした。そうだお姉様がそばにいる。いい子でいなきゃ。これは夢、そんな気がした。夢だったらもう少し寝ていなきゃ。お姉様が起こしてくれるまで。
「フランお嬢様がお目覚めになられたようですね」
「そのようね」レミリアはフランの顔を覗き見た。「あれ、もう寝てる。何度も起こしたら悪いな」レミリアは咲夜を呼びつけ、フランを寝室に運ばせた。
レミリアは椅子から身を乗り出す。「それで、山に連れて行ってほしい」
美鈴はレミリアが指し示す記事に目を通した。「これに参加させるということでしょうか」
「フランがつい人間を殺しちゃうかもしれないし。てか殺すだろうから。同教徒は殺しちゃいけないけど、それぐらいなら誘導できるでしょ」レミリアは先程咲夜に取りに行かせた緑色のお守り二つをテーブルに乗せた。「で、これが、なんつったっけ、守矢教だっけかな、の証」
美鈴はお守りを手にとって眺めた。
「ところで大丈夫なの。形だけとはいえ守矢の門徒になるけど」レミリアは尋ねた。「わたしもフランも信仰心なんかこれっぽっちもないから平気だけど、あなたは何か信奉してたりしないの。道教とか」
「無問題です」
「よし決まった。それじゃ、よろしく」レミリアは立ち上がり、寝室へ向かった。「紅魔館の威名を轟かせてくるのよ」
美鈴が他の記事を読んでいるとレミリアが走って戻ってきた。「一番大事なことを言うのを忘れていた。山で天狗にフランの写真を撮らせて、その写真をもらってくるのよ。これくらいの小さなやつとこんぐらいに引き伸ばしたやつ。いい、絶対、必ずだからね」
第七夜。
無縁塚。ナズーリンの住む小屋の戸が叩かれた。
「石ころでもぶつかったんだろう」ナズーリンは何ら気にかけることなく、星の盃に酒を注ぐ。再度戸が叩かれた。
ナズーリンは声を張り上げる。「誰だ、こんな夜中に」
声は無く、戸を叩く音だけが返ってきた。
「出ます」星が小声で言い、立ち上がる。
戸が叩かれた。
はいはい。今開けますから。星は戸に手をかける。
戸が叩かれた。
戸が開かれると同時に酒の臭いが雪崩れ込み、萃香の拳が星の腹をぶち抜いた。「こんばんは。鬼の伊吹です」
一瞬で酔いが醒めた。星は倒れることなく萃香の右腕を抱え込みその身に固定した。星は叫んだ。「逃げなさい」
ナズーリンは星の力になろうとした。星を見て、萃香を見た。萃香の額には札が張り付いている。何か書き込まれているようだが札がめくれ上がっていて読み取れない。
星は血を吐いた。「ナズーリン。為すべきことを為しなさい」それは命令だった。
ナズーリンは星を見捨てることを心の中で詫び、体当たりで壁を壊して命蓮寺へと駆けだした。
萃香は逃げたナズーリンを追いかけようとしたが右腕が全く動かなかった。星は鬼の形相をしていた。
「やられたんだから、素直に死んでくれ」萃香は左手の小指から順に握り込み正拳を作る。死後硬直の進んだ身体だが鬼の膂力で押し通す。
「あなたがそれを言いますか」星は札に書かれた文字を読み上げる。「勅令随身保命。酒の臭いの裏に死臭がします」
星の爪が萃香の腕に深く食い込んでいたが萃香は痛みを感じていなかった。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。鬼の、山の四天王の名が泣きますよ」
「死ねば分かるさ」萃香の上段突きが星の頭部を粉々に吹き飛ばした。
萃香はナズーリンを追う。視線の先にあるのはナズーリンが呼び寄せたであろう鼠の大群だった。
鼠が多すぎて、群れの中にナズーリンがいるのかどうか見えない。まさか囮ではないだろうな。萃香は分銅を投げつける。
群れの最後尾が切り離され、鎖に食らいついた。鼠の歯に鎖が削り取られる感覚が指に伝わる。「わ、ばかばか」萃香は鎖を大きく揺さぶって鼠を落とす。
振り落とされた鼠は群れに合流することなく萃香へと襲いかかってきた。
萃香は三つの分銅を操り、身体を駆け上がってくる鼠を叩き殺す。この鼠の動き、札が狙いか。額の札が剥がれれば萃香は死体に戻る。それだけは避けなければならない。
鼠を相手している分、向こうのほうがわずかに速くこのままでは追いつけそうにない。萃香は道中で岩石を萃め、象ほどに巨大な岩をぶん投げた。
岩を防ぐように五つの大きなペンデュラムが現れたが役割を果たせず木っ端微塵に破壊された。
萃香は四股を踏む。地響きによって動きを止められた鼠の群れに岩が直撃した。
わずかに生き残った鼠は四方に逃げた。所詮は野鼠。頭を失えば野に帰る。萃香は岩をどかしてナズーリンの死を示す証拠を探したがそこにあったのは一様な血肉だけだった。死体が原型を留めず身元不明状態になるのは仕方がないとしても、衣服や持ち物が見当たらないのはおかしい。
恐らくは逃げられた。だとすれば鼠が散ったのも見過ごせない。ナズーリンを早く殺さなくては。どうする。霧となって探すのは直線方向の速度に劣る。真っ直ぐに向かわれていた場合追いつけない。でかくなるのは悪目立ちする。命蓮寺に先回りして霧の網を張る。これでいこう。
夜天に霹靂が飛び、少し先に落ちた。心覚えがあった。萃香がそこへ行くと屠自古と感電死したナズーリンがいた。
萃香は息をついた。「助太刀感謝するよ」
「やはり気になってな」屠自古はダウジングロッドを拾い、捨てた。「良い素材だ。おかげで狙いがつけやすかった」
布都がやって来て、靴裏にへばりついた鼠を見せた。それはナズーリンが尻尾に下げている籠に入っていた鼠だった。「最後の最後まで抜かりのないやつであったな」布都はナズーリンの顔に靴裏を擦りつけた。
布都は袖から札を取り出しナズーリンに貼り付けた。念じると、ナズーリンが燃え上がった。「宝塔は無事であろうな」
「無事さ」萃香は火の粉が札に付かぬようナズーリンに背を向けた。
三人はナズーリンの小屋へと向かった。
燃え盛る中、まだ生きている命があった。ナズーリンの胎にいる二十の妖怪鼠の半分は落雷と火傷で死んだがもう半分は死別した兄弟姉妹を盾とし、糧とし、三人が去るまで耐え忍んでいた。その時が来ると母の腹を裂いて断末魔のごとき産声を上げた。炎から抜けだすまでに六匹が死んだ。生き残った四匹は一つの意志によって統率され、命蓮寺へと駆けだした。
第六夜、偽。
パチュリーが水を止めようとしたが、間に合わない。美鈴が飛んだが、間に合わない。咲夜は神奈子の昔話に付き合わされており、全然間に合わない。フランは絶叫した。
目に見えないほど小さな飛沫がフランの顔を覆う。フランの面の皮が白煙を上げながら灰と化す。爛れたフランの面の皮がずるうっと落ちて筋繊維が剥き出しになった。
次に散弾のように飛んできた大量の水滴がフランの顔面を穿つ。あばたともえくぼともそばかすとも似つかぬぼつぼつとした穴ぼこの奥から血が湧いてきて凝固しこれを塞いだ。その見目は蓮の花托を思わせた。
そして水塊が押し流してしまうとフランは七色に輝く灰となった。
ただの屍
- 作品情報
- 作品集:
- 12
- 投稿日時:
- 2015/03/04 10:29:42
- 更新日時:
- 2015/07/27 19:26:34
- 評価:
- 3/3
- POINT:
- 300
- Rate:
- 16.25
- 分類
- 物滅
「ぶつめつ」。仏滅じゃなく物滅と書くところに今後への期待が高まります。
恐らく続きますよね…?