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『lisping』 作者: nogiku
〈1〉
ギリと胃が痛み、私は腹をさすった。
周囲に散乱するボトルの山、空けたばかりの缶を投げ付ければからりと音を立てて頂上が崩れた。
まだ眠くない。
吐き気がするほど摂取したカフェインは、体内をまわりまわって私から眠気を消し去ってくれる。
それでいい。
携帯の画面を点けると、可愛いうさぎの壁紙に重なるように現在の時刻が表示された。
AM2:47、夜明けにはまだ遠く、散歩に出掛けるにもままならない時間帯だ。蓮子だって寝ている筈。
狭いワンルーム、フローリングの床にはただコーヒーの空きペットボトルだけがあり、布団一式は押入れにしまったまま。
あんなに素敵な寝床を撤廃するなんて、以前の自分には理解出来ない行動だろう。
一人暮らしの女子大生にとって、お布団とは切っても切れない親密な関係であるにも関わらず。
それでも私には眠れない事情があった。
と言っても、夜通しパソコンに張り付いて、サーバー上に構築された電脳世界で時間湧きのボスを狩るとか……そんな微笑ましい理由ならどれほど気楽だったろうか。
むしろそんな動機でも作ってしまえば、この徹夜ももっと楽になるかもしれない。
そんな下らない事を考えては現実を再度見て、重い溜息を零す程度に私は追い詰められていた。
まだ眠くない。少しだけ眠い。ううん眠くない。
どうせ、元々誰にも理解出来ない理由なのだ。
唯一『自分寄り』の存在である蓮子ですら、信じてくれたところで今度は助けにならない。
ならば、残された選択肢は精神病院?好き好んで鉄格子の向こうに入りたがる人間がどこに居る。
よしんば入ったところで、現実の物質である鉄の棒が自分を守ってくれるとは思えなかった。
白状しよう。
私が逃げ回っているのは、自分の『夢』からだ。
夢、というのも少し違うかもしれない。
それは私の持つ能力に起因する。結界を見る能力。夢の中で幻想の郷を探索出来る程度の能力。
この能力が強まり始めたのは、いつからだろう。
蓮子を連れて鳥船遺跡を回り、サナトリウムで療養させられる羽目になった頃?
きっと、恐らく、その頃から。
夢の中の出来事なんて、その夢を見る本人ですら操ることは難しい。
幻想を見る能力もまた、本当は難しいものなんだろう。
はしゃいでいた私が今まで気付かないでいただけで。
とにかく私は逃げている。
あんなに幻想を求めた人間が、今度は幻想から逃げている。まったく変な話ね。
だって、私は何も知らなかった。
幻想の中からこちらを追ってくる奴がいるなんて、誰も教えてくれなかった。
ああ、お酒が飲みたい。
すべて忘れて、逃避してしまいたい。
でもアルコールを摂ると眠くなる。もう暫くの我慢。
暫くっていつまで?
逃げ切るまで?
どうやって……?
〈2〉
それは紅い館から始まる。
私は覚えている。
この館は、私の能力が本格的に開花を始めた頃に、一度だけ訪れたことのある場所だった。
背中に羽の生えた少女たちが女中服を纏い、清掃器具を手に忙しなく廊下を駆け回る。
私はいつの間にかその廊下の傍らに立ち尽くしているのだ。
少女たちは私の姿が見えているのかいないのか、こちらに視線を向けることなく駆けてゆく。
廊下は果てしなく長く、その終点には一つの扉が見える。
突き当たりに存在するその部屋は、行くべきではないと私の勘が告げていた。
だから、扉に背を向けて反対側に歩き出す。
鳥のような羽ばたきの音を立てて、腰ほどの高さに浮いた少女たちが私の横を抜き去った。
大したスピードでもないのだから、歩いて移動すればいいのに。
彼女たちは頭が弱いのだろうか?
あてもなく歩くうちに女中の姿が疎らになり、やがて人っ子一人いなくなる。
聞こえるのは自分がふかふかの絨毯の上を歩く、サクサクという音だけ。
一度、二度と角を曲がり、やがて玄関口に着く。
ここは確かに異界だろうけれど、それ以前に私の見る夢。
明確に何処に行けばゴール、といった物は設定されていない。
私は迷うことなく扉を開けて外に出た。
季節は夏だろうか。温い空気が体に纏わり付いて、体が汗ばみ始めた。
館の中は何らかの手段で除湿が為されていたのだと思う。
じくじくと汗の染み出る首筋を何度も素手で拭いながら、私は歩く。
人の手で管理された庭園の中を抜け、大理石の立派な彫像が備わる噴水のもとへ。
水分を多く含んだ冷たい空気が剥き出しの腕に触れて心地良い。
噴水の淵に腰掛ける私の視界には、何人たりとも映り込まない。
見上げれば、真っ暗な夜空に点々と星屑が煌めいて、真っ赤に染まった月の周囲を賑わせていた。
こんなに紅い月だから、人も人でないものもこの月光に身を晒すことを恐れているのだ。
私は何の理由もなくそう思った。
きっとあの子でも、この異常な月と星の下ではその能力を存分に発揮することは難しいかもしれない。幻想の月に、幻想の星座たち。
私は蓮子にはこの夜空を見せたくなかった。
現の夜空が広がる地上は彼女の天下だが、だからこそ幻の夜空を見せてしまえば、それはきっと望遠鏡で太陽を覗き込むのと同じ。
蓮子の気持ち悪い目はきっとその能力の所為で潰れてしまうだろう。
そしてそれは私の望むことではない。
そう思案に耽るうちに、私とあの女は出会ったのだ。
「こんなに月も紅いから、素敵な出逢いも起こるというものなのかしらね」
「……誰?」
「それは貴女が一番知っているはずじゃない?」
遥か上空に向けていた視線を戻すと、いつの間にか私の正面には一人の女が立っていた。
年頃は私と同年代だろうか。
しかしながら私のこれまでの経験と照らし合わせると、とても彼女はヒトとは思えなかった。
少なくとも私の知る人間の女には、ただ立っているそれだけでこんなにも禍々しい気配を出せる者はいない。
紅く光る対の瞳が私を捉えている。
その視線は意志を持つように私の体を拘束し、指一本動かすことすら出来なくなった。
だが、直ぐさま取って食おうというつもりでもないようだ。
仕方なく、唯一動かせる口を動かす。
「あなたはヒト?」
「唯のしがない妖怪よ」
「悪いけど、私はこれから帰らなければならないの」
「そうね。貴女の還る場所はここだもの。……おかえりなさい。ずっと待ってた」
「ちょっと何を言っているか分からないんだけど……」
本当に言っている意味が分からなかった。
もしかしたら、やはりこの女は私を食うつもりなのかもしれない。
胃袋の中にお帰りなさい、だなんて意味で言っているなら、悪趣味な冗談にも程がある。
ともあれ、このままでは何も出来ないので仕方なく女の観察を続けることにした。
胸元まで伸ばした髪に、つい先程見覚えのあった女中服姿。この館の従業員だろうか。
不審な侵入者である私を咎めに来たと考えれば、その行動に何ら不思議なことはない。
ただ不可解なのがやはりあの台詞だった。
この女と私は正真正銘今が初対面である。
何の根拠を以ってして、私の帰る場所がここであるなどとのたまうのか、得体の知れない女を前にして、緊張が解けない。
「ねえ、この花壇、どうかしら……綺麗に見える?」
「はい?」
訝しむ私を余所に、女は微笑んだままそう言った。
どうしよう。こいつの目的が見えない。
そもそもこんな台詞は侵入者に向けて言うものではないだろうが。
女は私の隣に腰掛けて、まるで懐かしむような目で庭園を見渡した。
いつの間にか拘束が解けている。
「今までずっと私が管理してたのよ、ここ」
「あ……そう……なの。……」
「とは言っても、私には今でも花の名前が覚えきれなくてね。ただここにはこの花、あっちにはあの花。そうして当時の景観を残すことだけを考えてた」
「…………」
「そうすればきっと、あなたが還って来た時の目印になってくれると思ってたから。残しておいて良かった……」
「…………」
「とっても、永かった。もう会えないんじゃないかって思ってたから……ねえ、私のことまだ思い出せない?」
「…………」
その語り方はまるで、旧来の友人に話しかけるよう。
私はと言えば、その様子に苛立ちと気味の悪さすら覚えている。
見も知らぬ女に、まるで知り合いの如く話し掛けられるのは気分が悪い。
そう、気分が悪いのだ。
元来、私は人付き合いというものが好きな性質ではない。
家族も、友人も、誰ひとりとして私と同じ世界を観ることが出来なかった。
どこにでもある空間の歪み、あの禍々しい色彩の裂け目を観測出来るのは自分だけ。
そのことに優越感を感じた時なんてなかった。
私だけがおかしいのだと、私だけが違うものを見ているのだと、幼少期からこれまでずっと劣等感に苛まれて生きてきた。
唯一の例外と言えるのが宇佐見蓮子だ。
彼女も特殊な目を持つある意味同類だという理由から、私の在り方を、苦しみすらも理解してくれた。
私の閉じた世界に優しく入り込み、嫌味を感じさせない程度にそっと近付いてくれた。
そして、慎重に慎重を重ねて今の秘封倶楽部があるというのに。
この女はまるで蓮子とは逆の存在だ。
初対面から図々しくパーソナルスペースを破壊し、まるで自分がここにいて当然と言った風に擦り寄って来やがる。
気色悪い。
気色悪い。
情感たっぷりに語りかけるその声、その台詞。
どこか薄ら寒くて、独りよがりで、ともすれば茶番劇めいて感じられる。
これ以上聴き続けるのは、ただの苦痛だった。
私は女の話が途切れるのを待って、口を開いた。
「……人違いだと思う。私は何も分からない。あんたが何処の誰なのかも知らない」
「そう、でも私は知ってるわ。貴女だってその魂がきっと覚えているはず。だから、これからゆっくりと……」
「知らないっつってんでしょう!?」
「ッ」
のらりくらりとこちらの言い分を躱す女に、私は思わず怒鳴り声を上げてしまった。
しんと静まった空間に私の大声がよく通る。
突然の声に驚いた女が目を丸くしていた。
誰か不審に思った館の住民が出てくればそれで良い。
早くこいつを私から引き離してくれとさえ思う。
何を言われようと自分の思ったことが真で、それ以外は偽だと信じ切っている。
何が魂だ。
何がこれからゆっくりとだ。
真面目に狂人の相手をすることこそ無駄に他ならない。
私はその場から立ち上がり、館の敷地から外を目指して一目散に歩き始めた。
後ろから縋るような女の声が聞こえてくる。
「……待ってっ!貴女はまだ器の記憶と一緒くたになって混乱しているだけなのよ!」
「そんなもの、私には関係ないわ」
「だめ、お願い、行かないで!」
もう、うるさい。
今回は気分の悪い夢だ。
いつもはもっとワクワクして、新鮮なもので一杯で、ああ昨晩も楽しかったなと惜しむ思いで目覚めていたのに。
何が悲しくて夢の中で電波さんの話し相手を務めなければならないのだろう。最低だ。
こんなものは蓮子への土産話にもなりやしない。
本当に無駄な時間。
無人の門を抜けて、その先の湖のほとりへ。
女は外まで追ってくる真似はしなかった。
門の付近で境界線でも存在するかのように、敷地から外に出ようとしない。
女は狂ったように泣き喚いていた。
「イヤ!戻って来て、私謝るから!お願い!」
その声を無視したまま私は歩いていく。
古くから伝わる神話では、こういった時につい情に駆られて背後を振り返ると、そのまま夢に取り込まれてしまうのだと聞いたことがある。
そんな与太話を全面的に信じている訳ではないが、それを抜きにしても振り向こうとは思わなかった。
湖の中へ一歩。
踝を冷たい水が洗う。
もう少しでこの夢から抜けられる気がした。
形容し難い解脱感がこの身を包む。
私の足は既に水底に着いていない。
「知らないなんて言わないで!ずっと待ってたのに!嫌よ、行かないで、行かないでっ!“メリー”!!」
〈3〉
「そりゃあんた、何かに取り憑かれてるんじゃないの」
「そうなのかなぁ……最近毎晩こんな夢ばかりなの」
「銀髪の電波な女の子に口説かれまくって困るって?あらそうですかー。メリーさんはモテモテで羨ましいなぁー」
「ちょっと蓮子、笑い事じゃないんだってば。真剣に考えてって……」
「んなこと言っても、その夢はメリーしか見れないんだし、何とかしてあげたいのはやまやまだけど、私はカウンセリング紛いのことしか出来ないわよ。おおかた夢の中で異世界に行きまくった報いが来てるんじゃない?」
「やめてよ、本当参ってるんだから……」
翌る日、行きつけのカフェテラス。
私の目の前に座る友人、秘封倶楽部のメンバーである宇佐見蓮子は神妙な面持ちでカフェオレを一口含み、何事か考えるように眼をキョロキョロさせた。
あの夜以降、銀髪の女、そして真紅の館は幾度となく私の夢に登場するようになった。
居てもたってもいられなくなった私はついに、私の能力の凡その事情を知る蓮子に相談を持ちかけたのだ。
「そうねぇ。貴女のことを“メリー”と呼ぶ人間は少ないわよね。というか私が最初に呼び始めたんだから、ほぼ居ないと言ってもいいはず」
「あいつが人間かどうかも怪しいわ。だってその館の中には人外たちしかいないんだもの。それにあいつの雰囲気が完全に人間離れしてた」
「ふむ、ふむーーーじゃあ仮に人外としましょう。その女はあんたをメリーと呼び、旧知の友人然として振舞う。けれどメリーはそいつの事を知らない」
「間違いなく知らないわ。今までの友人関係を思い返してみたけど、絶対にあいつとは会ったことがない」
実際のところ友人関係、と表現するのも語弊がある。
あの銀髪の女の発する甘ったるい声、蕩けるような表情……あれは単なる友人に対するそれとはかけ離れており、まるでそれ以上の。
勿論、そんなことを蓮子に告げるのは抵抗があった。
なので便宜上友人……と表現する。
私にとって、マエリベリー・ハーンにとって宇佐見蓮子という存在こそが唯一無二のかけがえのない人間であり、それを口にすることは蓮子自身に対する感情を冒涜することだったからだ。
「そして、舞台である紅い館とやら。その建物に見覚えはある?」
「……いつかの夢で見たことがあるわ。あの時も、大勢の羽の生えたメイドたちが彷徨いてて、多分同じ建物だと思う……」
「じゃあメリー、これまで夢の中で結界を越えた時に、同じ世界の同じ場所に辿り着いた経験は?」
咄嗟に質問の意図が掴めず、きょとんとした。
「そういえば、ないかも。だって、衛星トリフネの場合は座標が確定していたから指定は可能だったけれど、基本的に夢を経由して結界を越える時は私が自在に行き先を決められる訳じゃなくって、完全にランダムだから」
「ならば、今回の紅い館はメリーの記憶から呼び起こされたイメージが基となって再生された可能性も有る」
蓮子の的確な質問により、私の能力の細かな仕様が明らかにされていくのは、不思議な気分だった。
星を見て時間が分かり月を見て場所が分かる蓮子の能力と併用することで、私たち秘封倶楽部は様々な結界を越えてきた。
私の結界を見る能力が強まっている……それは薄々感じているが、今のところ私個人で自在に行きたい場所に跳べたケースは存在しない。
なら、一番最初に紅い館に跳んだあの時が私の本当の能力発動時であり、今回の一連の出来事はその記憶が基となった単なる夢ではないか?
蓮子はそう言いたいのだろう。
「それらを踏まえて今のところ私が考え付くのは、メリーが脳内で作り上げたイマジナリーフレンド説。嫌な脳内友人もあったものね。または、これまでの神社仏閣暴きで何かに祟られちゃったか取り憑かれた説。これら二つのどちらかなら、まあ私は何とかなると踏んでるのよ」
「その心は?」
「前者なら適切なカウンセリングで、あ、私なんかの似非カウンセリングじゃなくてね?そういうので解決する筈だし、後者ならばそれはそれで本職の人に祓って貰う」
「……本当にそれで解決すると思う?」
返す声の調子が上向かないことに気付いたのか、蓮子は私の目を見つめ、言い聞かせるように付け加えた。
「このケースの肝は、メリー本人がとことん信じることだよ。精神的に参っていると、効くものも効かなくなるからね。大丈夫、私も一緒に信じてあげる」
そう言って微笑む蓮子の笑顔はとても尊く、力強くて、私に勇気を与えてくれる。
しかし次に発せられた言葉は、そんな芽生え始めた私の勇気を綺麗さっぱり打ち消すものだった。
「問題なのが、これが本当にメリーの能力に関わってくるケースである場合。すなわち、メリーは眠って夢を見ているのではなくやはり異世界に行ってしまっていて、そこに生きる何者かに魅入られてしまったという場合」
「…………うん」
私とてその可能性を見落としていた訳ではない。
むしろ、こちらを危惧していた。
しかし、実際に言葉で告げられると、やはりつらいものがある。
自分の打った相づちが更に一オクターブ下がったのを感じたが、こればかりはどうにもならないようだった。
私にとっての夢とは、レム睡眠の際に脳の働きで生み出された単なる記憶の再構成の産物に留まらない。
境界を見通す私に於いて、それはそのまま顕界と異界を結ぶ扉であるのだから。
魅入られてしまった。どこに?どうして?
生まれつき持つこの特異な目が、この能力がそうさせるのだろうか。
だとしてもそれは私に何の責任があるのだろう。
分からないことはまだ多い。私を『器』と呼んだあの女は、何の理由をもってそう呼んだのか……。
気の利いた台詞を発せずに思わず黙りこくる私に、慌てて蓮子が更に畳み掛けるように言葉を投げかける。
「あ、いや、でもいざとなれば、私もどうにかしてついていくわ!この前二人で鳥船遺跡に飛んでいった時みたいにあのノリで私がメリーと一緒に行く。それで、直接私が言ってやればいいの。メリーはこちらの人間だから、あんたには絶対に渡さないってね!」
その慰めは空虚だ。
私はあの館の座標を知らない。あの夜の月は真っ赤に染まり、地球上のどこかとも思えないのだから、GPSだなんて文明の利器も役立たないだろう。
それに、先程自分で言っていたではないか。
蓮子を連れて行くことは、出来ない。
慌てたように付け加える蓮子の言葉もどこか遠いまま、私の騒めく感情の表面を掠り抜けていくだけだった。
また何かあれば、直ぐに連絡を入れて欲しい。
そう言って、申し訳なさそうな表情の蓮子は午後の講義に出かけていった。
残された私はどうしようもなく、ただ漠然とした不安を感じながらぼんやりと俯く。
手にしたマグカップの中で飲まれることなく残るカフェラテの泡が、ゆらゆらと揺れている。
〈4〉
それから、それから私は毎晩夢を見る。
紅い館が月光に照らされて妖しく浮かぶ、あの中庭で。
最初の夜のように噴水に腰掛け、隣にはあの女の姿。
私の姿を認めた彼女はまるで花が咲いたような笑みを向けて、何かを思い返すように語り掛けるのだ。
幾度となく繰り返される果てのない一方的なお喋り。
最初の晩のように罵声を浴びせ、逃げ出すことは最早かなわなくなっていた。
その場に縫い付けられた様に体は言うことをきかず、口は開かない。
思い出話はやがて愛の囁きへ変わっていった。
「ねぇまだ思い出してくれないの?私はずっとずっとあなたを覚えていたのに、ねえ“メリー”、早く思い出して私の隣へ戻って来て、私はあなただけを愛している……好きなのずっと好きなのよ今も、あなたが人間だって構わない。直ぐに妖にしてあげる。私がかつてヒトから妖になったようにそれはいとも容易く出来るの。お願い、私を好きと言ってまた抱き締めて欲しい。こんなこと他の誰にだって言えない、あなたにしか言えない……。またやり直しましょう?あなたの愛したこの館で今度こそ永遠に生きていくの、今度こそあなたを手離さない見送りたくないの分かってくれるでしょう?面影がすっかり変わってしまったって関係ないわ、あの時あなたが言った通りなんだもの私には直ぐに分かった。あなたは約束を守ってくれたこうして辿り着いてくれたんだから、その魂は確かにこの館に深く強く結び付いているのよ今はまだ思い出せないだけで。ねえ今がいつだか分かるかしら?あの頃から671回花が咲いて枯れて、244945回の夜をひとり過ごしたのよ。私は忘れられなかったあなたが戻ってくるその日まで滅びることは出来なかった。だって約束したんだもの、そのうちお嬢様はすっかり素敵な淑女になってしまってパチュリー様は何もお変わりなく過ごしている、妹様はもういないわ。ええ当然よねあなたが居なくなってからというもの落ち着いていらっしゃった気性も元の木阿弥、結局のところ信じ切ることが出来なかったのよあなたの言葉を約束を。いつの間にやら朝日の差し込むバルコニーに灰の山が出来ていたわ、可哀想で可愛らしいフランドールお嬢様はもういない。ええでも別にそんなことはもういいのよ私は賭けに勝ったのだからそれだけで。あの時とっくに喪ったチップが今こうして何百倍になって戻ってきただけ。ねえ知ってる?ヒトが妖になる時って凄く痛くて苦しくて辛いのよポジティブな想いだけでは楽に生まれ変わるのは難しいのね。妖怪伝説に数多くあるようにヒトは途轍もない苦痛や僻み嫉みを経由してじゃないと種族なんてそうそう変質しないんですって、だから私は凄く頑張ったのあの子を挑発して早々に半身を吹き飛ばされて。ふふ……やはり精神的に幼く情緒不安定とはいえ地上最強の種族は侮れなかったわだけどどうにか懐に潜り込んで逆に喉笛に噛み付いてやったのよ。ミイラ取りがミイラね、呪われた血肉をこの身に受け容れたあの瞬間の感覚……全身の痛覚という痛覚に焼けた針を突き込まれてかき回されたようだったし、内側から肉が捲れ返って内臓が口からボトボト出てくるような耐えられない痛みだった。実際に出てたかもね。それを越えて今の私があるの。ふふふ本当に可哀想で可愛らしかったあの子は今では私の肉の一欠片、血の一滴。あなたと仲良くしていたから憎たらしく思った日もあったけれど今では全てが愛おしいのよ、何せもう自分の体なんだから労わらないとね。ねぇ“メリー”、思い出話は楽しかった?懐かしかった?そろそろ全部思い出してくれた?私を変わらず見てくれる?愛してくれる?あの日のように私を抱きしめてキスをして、二人でもう一度深く混ざり合いましょう……愛してるわ……」
女は狂っていた。
奇術を掛けられたとでもいうのか、私はいつの間にか指一つ動かせず、その場に腰掛けたまま硬直していた。
瞳が渇いて涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのにも知らぬ素振りで、女は私を見つめてたおやかに笑っていた。
すっと女の顔が目前に近寄ったと思うと、桃色の壁が視界いっぱいにひろがり、不愉快な感触が襲う。
眼球の表面を舐られるというこの方経験した事のない愛撫に、心底怖気を感じた。
綺麗に並んだ白い前歯が赤い粘膜の横から垣間見える。もし、今、悪戯に歯を立てられたら、私は。
「怯えてるの?……なんだか不思議ね。今は何もかも昔と反転してしまったみたいで。でも平気よ、直ぐに理解する。それにもうあなたを見つけてしまったもの」
唇に触れるだけのキス。
どこまでも狂った女の、どこまでも慈愛を感じる口付け。
「もう離さないわ」
「あああああ!!!ああああああああああああああああ!!!!!!うわああああああああっ!!!!!」
〈5〉
見慣れた部屋、散らかったペットボトル。タオルケットを跳ね飛ばして起き上がり、ようやくここが自分のアパートであることを知る。
「蓮子っ、蓮子っ、蓮子!!いやあああっ、嫌っ、嫌だ嫌だ嫌だっ助けて蓮子!!あ、あ、あ、携帯どこっ、たすけ、助けてっ、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌だあぁぁああ……うああ、あぁぁああ助けて助けて助けて……」
ドンドン!隣の住人が苛立ち混じりに壁を叩きつける音も構わず、震える手でバッグを漁り、不要な内容物を放り出して携帯を握った。
画面の端に映った内蔵時計、その時刻はまだ早朝と言うにも早すぎる。ショートカットから蓮子の番号を呼び出してひたすら待った。
『……ぅぁい、宇佐見蓮子ーーー』
「蓮子助けてっ!連れて行かれる!あの女に囚われる!こわい、こわい怖いよっ!あの女に捕まってしまう!助けてお願い助けて助けて助けて……」
『ーーーへ、え、メ、メリー?何?どうしたって?』
電話の向こう、蓮子の寝惚けた声が私の切羽詰まった様子に気付き、普段の凜とした声に戻る。
ああ、それだけで今の私にとってどれ程救いになっただろうか、彼女は知らない。
恐怖が若干引いた代わり、堰き止められていた感情が溢れた嗚咽の混じる鼻声で蓮子に現状を伝えた。
「また、また夢を見たの、あ、あの女が、もう離さないって、もう私を見つけてしまったからってっ、う、う、うううう……」
『なんっ?……な、何よそれは!見つけただなんてそんな……ああ待ってて!三十分で行く!絶対に三十分で行くからそのまま待ってなさいメリー!絶対寝るなよ!』
「うん、うんっ、お願い、早く来て、怖い、怖いよ」
バタバタと走る音が聞こえ、通話が切られた。
寝るなんてとんでもなかった。私は部屋の電灯を煌々と点けてその場に蹲り、タオルケットに包まって、嗚咽を堪えてひたすらに蓮子の到着を待つことしか出来なかった。
「はぁっ、ぜえっ、ジャスト、三十分ねっ、うん、車道がスカスカで、良かったわ」
誰でもない彼女本人が夜明けの星空を見ながらそう言うものだから、きっと間違いないのだろう。
寝間着代わりのジャージの上に上着を羽織っただけの蓮子が絶え絶えの息で自転車でアパートに駆けつけたのは、しかし私には三十分にも感じたし三時間にも感じられた。
「どうしよう蓮子……どうすればいいのか、分かんないよ……」
「また、あの女に会ったのね。夢の中で」
「違うわ……あれは夢なんかじゃない。私は呼ばれているんだ……あの女に求められているから、いつまでもあの世界に誘われ続けてる、私は結界の向こうから手招きされている、そうとしか考えられないっ……」
「…………今日の講義、一緒に休みましょう」
「はぁ?当たり前でしょっ、そんなもん行けるはずないわよ!それどころじゃないって言ってる!」
此の期に及んで常識の範囲で話を続ける蓮子に対し、思わず感情的な声をあげてしまった。
しかし蓮子は首を横に振ると、私の両肩に手を置いて、諭すように話しかけてきた。
「そうじゃない、そうじゃないメリー。とにかく落ち着いて。片っ端から原因と考えられるものをあたるの。或いは、どうにかして私がついていく方法を探す」
「そんな、そんなの出来るわけが」
「やる前から諦めるな!メリー!!」
喝を入れられたように、私の体がびくりと震えた。
強く強く肩を掴んだまま蓮子は続ける。
「あんたのことをメリーって呼んでいいのは私、宇佐見蓮子だけなのよ。どこの誰とも知らない馬の骨に呼ばせていい名前じゃない。今の私の気持ち、あんた分かる?悔しいし、腹立つし、憎たらしいのよ!?分かってよ!」
「蓮子、蓮子、蓮子……」
「絶対に、メリーは渡さない、絶対。絶対っ!」
確かめるように、決意するように、蓮子が強く宣言する。
突き動かされるように前に体を傾けた。
噛み付くような激しいキス。
互いを貪るようにひたすら唇をぴたりと合わせて、舌を絡ませ合う。流れ込んでくる蓮子の匂い、味。
何時しか私の肩を掴んでいた蓮子の腕は、背中に回されていた。
ひとつに混ざり合おうとするかのように強く。
呼吸が苦しくなれば、僅かに空いた隙間から新鮮な空気を取り込み、それでも延々と唇を求め続ける。
私と蓮子はそのまま、朝日がカーテンの隙間から差し込み始めるまで長い長いキスを続けていた。
「これ、飲んどきなさい」
そう手渡されたのは、一シート八粒入りの錠剤。
裏返して名称を確認すれば、それは私もどこかで聞いたことのあるものだった。
「メリーの部屋、コーヒーの缶だらけで酷い有様だったじゃない。飲み物はお腹に溜まってしんどいでしょう?だからコレよ、カフェイン錠。またの名を論文作成のお供とも言う」
「……ありがと」
「空きっ腹だと胃に悪いから、一緒になにか食べた方がいいわね。ブロックしか無いけど」
二粒を手に取り、ミネラルウォーターと共に含む。
ひんやりしたとした水が体内に取り込まれていく感覚が、いやに心地良かった。
冷蔵庫の中から取り出したブロック型の栄養食をかじりソファに腰掛ける私の目の前で、いつもの服装に着替えた蓮子はカバンに荷物を詰めている。
夜明けと共に私たちはアパートを出発した。
着の身着のまま飛び出してきた蓮子の格好をなんとかする為に、いの一番に向かったのは彼女の暮らす学生寮。
倶楽部活動の合間にはよく蓮子の部屋で宅飲みをした。
見慣れたワンルームのフローリングにはあらゆる物が散乱しており、普段の整頓された部屋の面影はない。
一体中に何を詰めればそうなるのか、蓮子は不恰好に膨れ上がるカバンを抑えつけて無理矢理にチャックを閉じた。
「さて、食べ終わったなら出かけようか……と言いたい所だけど、まずは行き先を決めないとね」
「でも私、何もアテなんて無いよ」
「そうねぇ。敵は超常現象だから、そっちの方向で行きましょう。北東に向かうわよ」
「北東?」
「東京にいる私の親戚に寺の住職がいるの。ぶっちゃければ神頼み。行く前に京都駅で数珠も買って行きましょうか。構内のお土産処に綺麗な数珠屋さんがあるのよね」
「こっちから離れても、良いのかしら」
「私は問題ないと思ってる。下手に京都に留まるよりマシだわ。とにかく行動を起こさないと」
時刻表はどこだっけと言いながら、折角閉じたチャックを開きカバンを探る蓮子は、独り言のように喋り続ける。
「夢と現実の境界を曖昧にされているのか……気絶するように眠れば夢を見ない?いや、下手な手を打つべきじゃないな。ノンレム睡眠も夢を見ると言われているのだから、うたた寝も危険ね。薬局でカフェイン錠を買っておかないと危ない気がする」
「蓮子……ごめんね」
「何言ってんのよ、私とあんたの仲じゃない……よし、今から迎えばそこそこ良い時間ね。新幹線に乗るわ。準備はいい?」
くしゃくしゃに折り曲がったハンディ時刻表をぱたりと閉じ、蓮子は強い眼差しで私を見つめた。
「そうだ、これだけは強く念じてなさい。貴女はマエリベリー。マエリベリー・ハーンなのよ。メリーと呼ぶのはこの私、宇佐見蓮子だけ。言霊って言うのは馬鹿に出来ないくらい強いから、自分の名前を手放しちゃいけないの。私以外にあんたをメリーと呼ぶ奴は偽者だってこと……絶対に忘れないで」
玄関を出る前、もう一度だけ唇を重ね合わせた。
〈6〉
午前10時34分。
ふらつく足でヒロシゲを下車した私たちは東京駅の構内を少し歩き、駅ナカで軽く朝食を済ませてから蓮子の親戚の住む町へと向かった。
住宅地から少し外れた場所に存在するそのお寺は、何世紀も前の木造建築を用いて建てられたのだと言う。
敷地内に立ち入ると、周囲よりもほんのりと柔らかい空気がまとわりついて気持ちよく感じた。
聖域という空間の為せる効果だろうか。
事前に電話連絡を入れていたので、寺に隣接する住居の方へと向かい、玄関のインターホンを鳴らして待つ。
やがて私たちを迎え入れてくれた、蓮子の叔父だという住職だが、特に厳格という印象は感じない。小綺麗に整えられた短髪と眼鏡の似合う、優しげなおじさんだ。
寺の娘に婿入りした人だから、生まれながらに決められたがちがちの住職ではないのだと、応接間でお茶を待つ間に蓮子がこっそり教えてくれた。
歴史の教科書でしか見られないような、古めかしい囲炉裏を囲みながらお茶を楽しむ。
夢だの追われているだの、そういった事情は伏せておくべきだと、軽食を摂った際に示し合わせている。
だから今の私たちは、里帰りしたついでに親戚の家に顔を見せた姪とその友人でしかない。
軽く世間話と緑茶の風味を楽しんでから、そう言えば……と、蓮子が何でもないような風を装って本題に入る。
「折角お寺に来ている訳ですし、もしお時間の都合さえ良ければ、少し仏様にお参りさせて頂きたいのですが」
話題の転換に物珍しげな視線を向けた蓮子の叔父は、しかし、そろそろ就職活動も始めなければならない時期なので、という蓮子の機転により納得した表情を見せる。
「彼女、マエリベリーという私の友人なんですけど、この子も此方で職を探さなきゃいけなくって」
此方、というのは、東京や京都やこの世界と言った類の話ではなく、単にこの日本のことを指しているのだろう。
日本生まれ日本育ちとは言えども、金髪に碧眼という典型的外国人の容姿をした私に、叔父は優しげな微笑みを湛えてしたり顔で頷いた。
……蓮子のアドリブはこんな時でも役に立つ。
これで何ら不自然な部分を見せることもなく、私たちは御堂に踏み込むことが可能となった。
この善意の塊のような男性を、ある意味で騙しているのだという罪悪感を胸中に押し込み、私はただただ頭を下げる事しか出来なかった。
中に持って入るには大きすぎる二人の手荷物を応接間で預かって貰い、蓮子の叔父の案内を受けて廊下を進む。
住居部分とお寺を繋ぐ細い通路を抜け、それに従って踏み締める床もつるりとしたフローリング材からゴツゴツした木の板へと変わる。
通された広大な広間は、天井が高く作られており、何となく薄暗い。そして若干の冷たい空気を感じる。
これが厳かというものなのだろうか。
奥には火の点いていない蝋燭が立てられた燭台が幾つか配置されていて、それらの燭台が囲み、守るかのように、鈍く輝く立派な仏壇が存在していた。
法衣に衣装替えをした蓮子の叔父が仏壇の下へと歩み寄り、次々と燐寸で蝋燭の火を灯して回る。
それを横目に私たちは廊下寄りの壁に積まれた座布団を持ち、畳の上にふたつ並べていた。
当初は簡単なお参りで済ませるつもりだったのが、予定が入っていないから、と、急遽お経をあげてくれることになったのだった。
本当に、感謝をしてもまだ足りない。
各々の位置に着席し、静まり返る空間の中。
やがて、流れるような強く太い声が始まる。
幻想的に響く鐘の音。
私は数珠を両手で固く握り、ただ一心に念じる。
全く、学業成就、就職成就の願い事かと思いきや、蓋を開ければこの世界に留まりたい、人ならざるものに連れて行かれるのは嫌だ、そんなお祈りだなんて……参られる側の仏様も開いた口が塞がらないだろう。
しかしそれでも私には縋るべき場所が見つからない。
だから、ひたすらに念じた。
私を連れて行かないでくださいと。
大層な望みは抱いていません、ただ蓮子と共に笑い合えるこの日常を、まだ私は続けていたいのです。
……私が願うのはそれだけ。
どうか私をお護りください……。
長く長く続いた念仏の詠唱に、これほど感謝した日はあるだろうか。
私はやがてお経が終わり、折角だからとホワイトボードを使ってありがたい説法まで聞かせてくれる蓮子の叔父の声を聞きながら、ついに御堂を後にするまで一心不乱に同じ願いを念じ続けた。
〈7〉
「ねえメリー、眠気は大丈夫?眠くない?」
「平気よ。なんだか少し心が軽くなった気がするわ」
それは良かった、と蓮子は胸を撫で下ろした。
蓮子の親戚のお寺を後にした私たちは、バスを乗り継ぎ、電車に乗って、そこそこ大きな都市の駅に移動していた。
ここまで来れば東京駅まで戻るのも容易である。
そこで、これからどうするかの話し合いの為に、一先ず目にとまった喫茶店へと入店したのだった。
もはやカフェイン錠をアイスコーヒーで服用するという私の暴挙も何処吹く風。
蓮子は持参して来た活動日誌を参考書代わりに捲っては、あーでもないこーでもないと頭を掻きむしっている。
そわそわする蓮子とは対照的に、現状では私の方が落ち着いているように感じられた。
恐怖の峠が越えたとでも言えばしっくり来るのだろうか。
あるいは、既に私は麻痺しているのか。
半ば突発的に行った御参りだが、これがなかなか、私のメンタルに一時の安らぎをもたらしてくれたのだ。
そう思い込んだってバチは当たらない。
だからこの時の私は、今や知らず知らず微笑みを浮かべられる程に心が凪いでいた。
思えば今朝……夕べと言うべきだろうか。
とにかくこの半日に渡って、私は蓮子の都合も知らずに自分の事だけ考えていた。
この埋め合わせは、近々しようと思う。
そう。私はこの世界に生きる。
この世界で笑い、泣き、足掻き、時に打ちひしがれようとも前に進む、少しおかしな考える葦。
ただのマエリベリー・ハーンだ。
その隣に並び立つのは、宇佐見蓮子以外にあり得ない。
あり得てはいけないのだ。
「例えば逆転の発想はどうかしら」
「つまり?」
「メリーが眠る間、その能力で別の異世界に行く。夢の中の世界とはまた違う新天地に。何ならトリフネだってアレはもう異界のひとつよ」
「そして私を迎えに来ようと息巻いていた何某は、如何してか私を捉えられずにたたらを踏むのね」
「これ、結構悪くない発想だと思うんだけど」
「追跡者が一体から二体にならなきゃいいけどね。あの合成獣はちょっとまずい気がする」
「うーん……」
ぺらぺらと大学ノートを眺め、ページを戻り、また読み進める。
細められた蓮子の目は真剣で、茶々を入れる空気はない。
「……博麗神社……」
徐に蓮子の呟く声が聞こえた。
咥えていたストローから口を離して、私は正面を見た。
蓮子も私を見返す。
その瞳は何らかの決意に満ちていた。
開かれていたのは、日誌の初期のページ。
東北地方、その山の奥で廃屋と化した博麗神社へと訪れた際の活動内容。
及びそれに関して収集したデータの切り抜き。
妖怪退治に於いては右に出る者のいないという巫女が管理していたと伝えられる、伝説のオカルトスポット。
「……向こうに到着すれば夜ね。私の目が使えるわ。ねぇ、行ってみる価値はありそうじゃない……?」
私たち秘封倶楽部のその出発の原点とも言える、博麗神社での活動。
その土地に、こんなにも頼りになる逸話が伝わっているとは、運命の巡り合わせを感じざるを得ない。
私の頭の片隅に置いてあった一欠片の記憶、それを引き出して脳裏に展開する。
博麗神社と呼ばれていたあの廃墟には、大小多くもの結界が散見された。あまりの質量に驚いて自分の目の故障を疑った記憶がある。
けれど、あの穏やかな輝きは、悪意を孕んだそれとは根本的に在り方が異なっていた。
どのような外的要因にあっても染まらない、宙に浮いたような白。
魔を祓う力を裡に秘めた、力強く安心感を与える赤。
博麗神社はこの科学世紀においても依然として、紛れもなく博麗の巫女との縁を保っているのだと。
そう主張しているかの如く、煌煌と。
穢れを祓う清浄な気配を多分に含んだあの結界ならば、あるいは、あの女も。
力強い蓮子のその言葉に、私の中に一筋の光明が見えた気がした。
ああ。
だから、正にこの選択こそが最悪の指し手だったのだと、私たちはその時が来るまで気付かなかった。
〈8〉
時計の針は午後9時を過ぎ、利用客も極めて疎らとなった、東北地方のとある無人駅。
私たちはある種の期待と不安を胸に、ホームへ降り立つ。
此処へのアクセス方法が日誌に残されていたのは不幸中の幸いだった。
初めて訪れたあの時は、駅へ辿り着くまでにも多くの聞き込みと地図との照らし合わせに丸一日を掛け、滞在の最終日にようやく判明したものだ。
そんな何でもない活動も今となればとても大切な思い出だが、今回ばかりは無駄に時間を浪費している余裕はない。
タイムリミットが近付いていることを、他の誰でもない自分自身の体で感じていた。
胃がギリギリと痛む感覚と共に、もはや錠剤では抑えきれない眠気が私の脳を苛む。
もう少しだけ耐えて、私の体。
今日さえ乗り切れば、博麗神社にさえ辿り着けたなら。あとでたっぷりご褒美をあげる。
気の済むまで惰眠を貪ったっていい。合成じゃない本物の食材をふんだんに使った料理も食べよう。全てが解決した後の食事なら、蓮子と一緒なら、想像さえつかないほどにきっと素敵なものになるでしょ……?
改札を抜けて、駅前の寂れたコンビニで夕食代わりのブロック食品を買い込み、タクシーを拾う。
某山道の入り口へ、と注文を受けたドライバーはまるで不思議なものを見るように眉を顰めた。
それも当然だろう。普通の人間なら自殺行為だ。
けれどお生憎様。私たちの目はちょっと普通じゃない。
昼間には覆い隠されて見えないものが、私たちには、蓮子の瞳には見える。天然のGPSは太陽光に弱いのだ。
何も問わずに目的地まで送り届けてくれたタクシーに料金を支払い、下車する。
迎えは要らないのかと親切に申し出る運転手に、丁寧に辞退の旨を告げ、私たちはついに山と対峙した。
ここから先は生きた人間の立ち入る事を許さない、神聖な土地。
それ自体が途轍もなく巨大な結界。
何も言わず、蓮子が先導するように前を進んでいく。
偶然にもこの日の履き物がスニーカーであることに安堵して、私も山道の入り口へと足を踏み入れた。
ある程度登ってきたと思われる頃、蓮子は不意に整備された道から脱線し、道無き道を掻き分けていく。
丁寧に隠された博麗神社の座標へと向かうなら、獣道を真っ直ぐ突き抜けることが必要だった。
蓮子は何も言わない。何も語らない。
対して私も、限界まで近付いた疲労と眠気に辛うじて抗いながら足を進めることに必死で、口を開く余裕がない。
お互いに無言のまま、真っ暗闇の中を月の光だけを頼りに進んでいる。
そうするうち、私の中に根源的な恐怖が湧き上がった。
……本当に私を先導しているのは、蓮子なのか?
蓮子の後ろ姿を見つめる。
上から下まで真っ黒の普段着を着た蓮子は、目を凝らさないとすぐに闇と同化してしまう程。
蓮子はこちらを振り向かない。
私はゆっくりと歩幅を縮める。
蓮子との距離が少しずつ開けていく。
蓮子はこちらを振り向かない。
蓮子はこちらを振り向かない。
私の足がついに止まる。
……あの女は狡猾だ。もし今まさに、私は深淵の闇に連れて行かれようとしているのなら?
確かめる術はある。あの後ろ姿に一声、かければいい。
けれどそれで振り返った彼女が見慣れた黒髪でなく、肩までの銀髪で。
黒の外套の中に女中服を着ていて。
こちらを浮かされたような熱の灯る目で見つめたならば。
私はそれで終わってしまう。
蓮子、お願い、私を守って。
私に今、この瞬間、勇気を与えて……。
両の手のひらで顔を覆い、私は無音の闇の中、しゃがみ込んでしまった。
しかしその直後、暖かな感覚を伴う小さな手が、私の肩に触れた。
「ひっ」
「……もー、何やってんのよ、メリー。疲れた?もう少しで完全に置いて行っちゃうとこだったじゃない」
「……っ、……蓮子ぉ……」
恐る恐る目を開き、顔を上げれば、その正面にいるのは、紛れもなく宇佐見蓮子だった。
心配そうな声色で、私の体をそっと立ち上がらせる。
けれど私は、大丈夫だと返事をしようとしても叶わず、ここで感情の箍が外れてしまったかとばかりに、半分泣いたような顔のまま蓮子にしがみついた。
「蓮子っ……蓮子、ごめんね。わがままばっかりでごめん。私今急に、あなたがあなたじゃないような心地になって……ごめんなさい……」
「メリー……」
蓮子は私の名を呼び、ひとつ鼻を鳴らしたと思うと、私の頭をしっかりと抱え込んできた。
自分の目の前が真っ暗なのは変わりない。
けれど、蓮子の匂いと温かさに包まれている。
それだけで他のどんな言葉よりも、蓮子が今ここに存在していることを、強く強く実感する。
急速に私の恐れる気持ちが和らいでいくのを感じた。
「さぁ、あと少しだよ、頑張れメリー。もう少しで博麗神社に到達するからね」
「……ん、……うん……」
そうして暫くの間抱き締めあううちに、今度はなんだか恥ずかしい気持ちが沸き上がって、私はゆっくりと蓮子から体を離した。
蓮子の方を見つめれば、向こうも真っ赤に染めた頬を月光に浮かび上がらせていて、なんだか照れ隠しをするように笑っていた。
「ほら、手。繋いでいきましょ?そうすればメリーも怖くない。魔王になんて連れて行かれない」
「蓮子ぉ、あんたねぇ……その詩のオチって結局最後は息子が連れて行かれちゃうでしょうが。冗談にしてもやめてよね!」
「あはは、やっぱり知ってたか。ジョークのいいネタが浮かばなかったのよ。ごめんごめん」
「蓮子のおバカ。なによ、折角さっきは格好良かったのにさ、いつも肝心なところで笑わせてきて……」
「でもさ、辛い時こそ笑うべきなんだよ?自分はまだ平気だ、まだ笑っていられる。そういう心構えは大事なの。まぁ本で読んだ受け売りだけどね」
「なにそれ。そんなのただの空元気じゃない」
けれどそんな蓮子の話を聞いているうちに、何時しか私の口元には笑みが浮かんでいた。
「ん。メリーのその笑顔、久方ぶりに見れた。そうやって笑ってるメリーが一番素敵だもの」
「〜〜〜っ!蓮子やめてよ!こっち見んなー!ほら、もう行くわよ!」
「うわっ、急に歩かないでったら!足元見えないんだから本当転んじゃうって!メリーっ!」
私たちは手をつなぎあい、何の翳りもない本当の意味で笑顔を振りまきながら、山道を進んでいった。
まるであの日のように。
お互いの能力で出来ないことはないと信じていた、あの日の秘封倶楽部のリプレイ。
やがて博麗神社の寂れた境内が、藪の隙間から見えた。
心身ともに疲弊した私たちは、転がり込むように階段の下へと走り寄る。
博麗神社もまた、あの日と何ら変わることなく、崩壊しかかったその全貌を月の下に晒していた。
有りっ丈の小銭を掻き集めて、本来の役目をとうに終えた賽銭箱に投げ込み、両手を合わせて拝みに拝む。
私の心の深いところに堆積していた黒いもやが、すっきりと取り払われていく気がしていた。
やはり、当時この地に生きた博麗の巫女は、守り神となってこの神社を守り続けている。
「メリー……あなたの目には、なにか見えてる?」
「うん……見えるわ。この建物を、私たちを覆い包むようにして、とても澄んだ結界が……」
「そっか。うん。本当に……良かった。これできっと、魔除けの神様がメリーを守ってくれる」
邪な気を一切含まない、穢れを祓う紅白の気質。
この地の唯一異物である私たちを排除するのではなく、受け入れるように周囲を揺蕩う。
その気の流れを感じ、自分の身を同化することで、怯えや不安といったマイナスの感情が抜け落ちていくような感覚に浸っていた。
「……ふぁあ、なんだか安心しちゃったわ。急に眠くなってきた……」
「蓮子、そういやあんた、カフェイン錠もコーヒーも無しに、今まで起きてたんだっけ」
大きな欠伸をしながら荷物を投げ下ろした蓮子が、賽銭箱の隣に腰掛けて、半身を箱に預ける。
そのまま眠り始めそうな彼女の体を無理やりに引っ張り、一先ず雨風をしのげそうな拝殿まで運びあげた。
「そうよぉ……ぜーんぶ、メリーにあげちゃったからねぇ……錠剤代を請求、する……あと交通費……」
「うん、うん。何でもしてあげる。ありがとう蓮子。本当にありがとうっ……」
「……なーに、また泣いてんだか……今回も、実のある、良い遠征だったわよ……そういうこと。だって、私たち……ふたりでひとつの、秘封倶楽部なんだから……」
「そうよねっ……うんっ……ありがとう……」
「……もー……泣くなって……」
一足先に夢の中に旅立ちつつある蓮子の頭を膝に抱え、その頬に涙を次々と零しながら、私は蓮子に感謝の想いを伝え続ける。
「……良い夢見ろよ……マエリベリー……ぐう」
「……ふふ、今度は何の受け売りなんだか」
最後の最後に親指を立てて、こちらに腕を伸ばした蓮子は、それを後にぷかぷかと寝息を立て始めた。
本当に、私が挫けずにここまで来れたのは、すべて彼女のお陰だった。
気持ちよさそうに眠る蓮子の頭を優しく撫でて、その寝顔を眺める。殆ど一日ぶりだもの。しかも私の膝枕付きだ。その眠りはさぞや心地良いだろう。
涙を拭い、膝枕の体勢を崩さないように注意して拝殿の壁に寄りかかった。
聖地だからなのか、木造建築のこの建物内には虫の一匹も見当たらない。私にとっても有難いことだ。
さて、蓮子はもう寝てしまった。
次は私の番だ。
おそるおそる目を瞑り、呼吸を穏やかにしていく。
大丈夫。もう怖くない。
そうだ。蓮子の言った通りだ。
今夜はきっと良い夢を見よう。
そして目が覚めたら、まあ多分おそらく足が痺れてるだろうから、蓮子に文句を付けよう。
もしかしたらそれ以前に、うっかり蓮子の頭を振り落としているかもしれない。その時はその時だ。
教授からは怒られるだろう。レポート提出の近いこの時期に無断欠席なんて、大変なことだ。グループの子にも迷惑がかかってしまう。
でも、それも全て、これから何とでもしていける。
私はこの世界に生きる。
泣いたり笑ったり、変な活動をしたり、恋をしたり、ちょっと可笑しな考える葦。
でも一人じゃない。
それってとても、幸せなことだ……。
私は自分の思考にちょっと笑って、それから、ゆっくり、ゆっくりと、意識を手放した。
〈9〉
目を覚ました時には、何故か蓮子が私の顔を真上から覗き込んでいた。それも超至近距離。
「へ、ヘロー」
「……おはよう」
目を左右に動かして、日の光が高い角度から廃墟の窓の隙間に差し込んでいることに気付く。
スズメの鳴き声が聞こえた。
「……蓮子、襲っちゃやーよ」
「おおお襲ってなんかないわよ!ちょっとだけちゅってしただけだし!もーメリーさんったら何言ってんの!」
「……あんまり違わないんじゃ……」
強張った体をほぐし、ゆっくりと起き上がれば、そこは博麗神社だった。まあ当然だろう。これが自分のアパートの布団だったらそれは逆にオカルト現象だ。
何時の間にか投げ込んだままだったカバンの口を開き、夕食用にと買っていたブロック携帯食を齧っていた蓮子は、私の意識が鮮明になってきたことを察し、さっとウインクしてみせた。
「良い夢、見た?」
「覚えてないわよもう」
「なんてこったい!」
荒れに荒れた胃袋を宥めながらもそこそこに満たし、胃薬で痛みを散らした私がまず行ったのは、拝殿に向かって気が済むまでの最大級の感謝を捧げることだった。
邪神を拝むかの如く両手を掲げ、正座スタイルでひたすら腰を低くして何度もペコペコと頭を下げる。立っていた蓮子も隣に座らせて続行。
思いつく限りの感謝の言葉を言いまくった気がする。
やがてそれにも満足した頃。
というよりも足が痺れ始めて正座スタイルの維持が出来なくなってきた頃。
その次は何故か神社の敷地内の穴掘りだった。
「甲子園の球児かっ。ていうか、そもそもそんな思惑があったんならっ、スコップのひとつでも買っておけば良かったのにっ」
「あーあーそんな深く掘らなくてもいいよ。表面のをちょいちょいと採取すりゃいいから。聖地の気質はその地面、土にも宿るかどうかってヤツね。メリーの場合はお守りにもどうぞ。肌身離さず持ち歩くと吉」
「溢れて掃除する羽目になるわ!」
蓮子の話によれば、神聖なものというのはその敷地、その空気にのみ宿るものではなく、そこに長い間保管されていた物品や周囲の自然物などにも宿るという。
聖地に生息する木々を削って作られた装飾品などがこれに当たる。其れにしてはそんな有難いものが時には廉価で投げ売りされてたり、雑誌の付録なんかになったりしてるけどね。
流石の私たちも、神社の木材を剥がして持ち帰るような罰当たりな真似は出来なかった。
太々とした大木を斬ったり削るようなことも、この細腕では物理的に不可能である。
なので、土。
「あー掘った掘った、手も汚れたわー……蓮子ー、濡れティッシュちょうだい」
「それが実は……ないでーす」
「ちょっ、……あんた、だから私にやらせたのねっ!」
「待ってメリーやめっ、土投げちゃだめって、目に入る!目に入る!」
行きの道に引き続き、帰りの山道も手を繋いで歩いた。
蓮子はちょっと嫌そうな顔をしていた。
主に私の指先をちらちら見ながら。
私はその視線を完全に無視し、逆に強く蓮子の手を握り締める。
きゅう、と蓮子の喉から不思議な音が鳴った。
在来線と新幹線を乗り継いで、なんとか日の暮れる直前に京都駅へと戻った。
未だ疲労の抜けない私たちは、ふらふらになりつつも辛うじてスーパーで買い物を済ませ、そこから程近い私のアパートに滑り込む。
辺りに散らばるコーヒー缶を部屋の隅に蹴り寄せ、電子レンジで温めた半額弁当をもくもくと収めていく。
お風呂は二人で入った。定員一人の風呂桶に大人が二人というのは、たいへんに狭いと思った。
でも肌と肌が直に触れ合って、幸せ。
そして。
その夜、私たちは初めて結ばれた。
次の日の朝には、とても快適な心地で目覚めることが出来たので、きっと良い夢を見ることが出来たのだろう。
蓮子の寝顔がこんなに愛おしく感じられたのも、初めての経験だった。
それから―――
〈10〉
その後も、私たちは懲りずに、秘封倶楽部を続けている。
とは言ってもそもそも倶楽部活動を自粛した日が今までの私たちにあっただろうか。
古今東西の不思議を求めて、より一層に絆を深めた私たちは手を取り合い、彼方此方を駆け回る。
うん。なんて健全な学生生活なんだろう。
夜はほんの少しだけ不健全だけどね。
そんな何事にも囚われないこの秘封倶楽部であるが、唯一回避不可能で不愉快な行事が差し迫っている。
率直に言おう。
『妖怪・レポートの枚数がちょっと足りない』が耳元で笑っていた。
「あーもう……これ以上文章水増しなんて出来ないっつーの……疲れたー!もう嫌!明日にまわす!」
シャーペンを机に放り投げ、一時期より床面積の増した絨毯にダイブ。万年床と化した布団が私の体を優しく包んでくれた。
……自分の体臭の中に、今ではすっかり蓮子の匂いが混じってしまったお布団である。ここが天国か。
「蓮子、今から行っても大丈夫かなぁ……」
枕に頬を押し付け、すんすんと鼻を動かしながら、片手で携帯を開く。
慣れた手つきで蓮子の番号をコールした。
……まぁ、向こうの学科だって、レポートの時期は同じよね。なんだか取り込み中っぽいし。
呼び出し音が鳴り続ける携帯をちらと見やり、終了ボタンをタッチして、枕元に置いた。
そのままタオルケットを頭まで被る。
仕方ないかとは思いつつも、心ない独り言が次から次へと口を突いて出てくるのを止められない。
「蓮子のばーかばーか。レポートなんかクソ食らえ。もういいわ、提出したらこの分いっぱい取り返すし。蓮子なんかヒィヒィ泣かしちゃるし。ぐむー」
ブツブツ呟きながら布団の中で一人モゾつく。
なんだかんだで蓮子の痴態.mp4は脳内フォルダにたっぷりと保存してあるのだ。
たまには再生したってバチは当たらないだろう。
そうして、ひとしきり満足し。
やがて薄っすら意識が沈みかけた時、突然蓮子からの電話がかかってきた。
「…………タイミング、悪っ」
ずりずりと伸び上がり、指先に引っかかった携帯を耳元まで引き寄せる。
「はいはい、あなたのマエリベリーですよー」
『メリー!?今すぐ神社にっ……ひ、痛、痛痛痛痛い、痛っ、やめろ、ッが、ぁぁぁああああああああ』
「え」
寝惚け頭が産み出した妄想の産物だと思った。
『メ、メリー、……お願い。聞いて、聞けっ!!絶対に寝るな!!あ、あ、あれは、まだ、まだあんたを諦めてないっ!!』
けれど、蓮子の声は、止まらない。
いや、止まった。違う。止まらざるを得なかった。
『ィィィイイイイ……止めろ、止めろ、いやだいやだいやだッ、ギ、』
直後に吠えるような叫び声。
ぼりぼりごり、と、何かが擦れ引き千切られる音。
静寂が続く。
私は何も言葉を続けられない。
口をぴたりと閉じたまま、開くことが敵わない。
『……ア、ア、あ、メリっ、メリー……、いる?ま、まだいるっ?そ、そ、そ、そこにいるっ?』
嫌な沈黙の時間を経て、再び蓮子が通話に戻る。
しかし、支離滅裂で、言語がどこかおかしい。
何事にも物怖じしない彼女が、恐怖を貼り付けた声で、低く、腹の底から捻り出したような声で、必死に電話口の向こうの私に何かを伝えようとしていた。
『ほ、ほんとにね、厄介過ぎるわ、アイツ、夢の向こうからここまでね、付いて、来てッ……よ、よ、ようやく、還って行った。私も、五体満足じゃないけど?はははは、中身出てるんだもん。ぐぶ、きキツいかも……』
「なに、なに、なんなの何なの何なのよ蓮子ぉ?蓮子っ?どう言うことなのよ答えなさいよっ?」
『どうも何もないんだよ!!マエリベリー!!
奴はあんたを捜してるっ!!魔除けなんかで抑えていられたのは今までっ!!……も、もう時間切れなのッ!!……むぐッ、ぐ、げぇ、……ッッ』
何かを撒き散らしたような粘着質の音。
それは通話口越しに、こちらにまでビチャビチャと生々しさを伝えてくる。
また言葉にならない沈黙。ひゅうひゅうと呼吸音が続く。だからまだ生きてる。
……まだ……生きてる。
三度目に通話に出た蓮子は、弱々しくか細い声で、私に必要な事だけを、選んで、告げた。
『だから……博麗神社に行って……守って貰って……でないと……今度こそ、メリーは……、メ…………』
「……蓮子?」
「蓮子?蓮子?蓮子?……嫌よっ、蓮子はどうなるのよ……
……お願いだから返事して蓮子!!うわあああああああ……ぁあああああああ……」
蓮子は何も応えない。
電話はまだ繋がったまま。
私は叫び続ける。蓮子の名を。
もう何も言わない蓮子に向かって、叫び続ける。
無音の通話口に向かって、何度も何度も。
喉が枯れて血が吹き出すまで、何度も何度も。
〈11〉
私は、ぼんやりとタオルケットに包まって、ただ流れていく時を無駄に浪費していた。
自らの命と引き換えに私に為すべきことを伝えた蓮子。
彼女の最期の言葉を、その尊い思いを無意味にすることは、私の中の良心をほんの少しだけ、痛ませる。
けれど、思索すればするほど、今の私にそれを実行することは不可能なのだった。
蓮子の目なくして、私が博麗神社に到達することは出来ない。
蓮子が襲われたその瞬間から、私に為せる術は全て奪われてしまっていたのだ。
完全な、詰み。
行く先を失いその場から動くことを止めたキングは、間も無く首を取られてしまうのだろう。
諦めた私は、目を閉じる。
そうして次に瞼を開けたなら、そこは悪夢。
呪われた紅い館。
あの女中服の女が、私の隣にいた。
「……おかえりなさい……“メリー”……」
紅い瞳を潤わせて、震える声で。
そこには慈愛すら感じられる動作で、女が私の体を強く抱きしめる。
どこにも消えてしまわないようにと、確固たる意志を持って。
何度も何度も私を、『蓮子がくれた、蓮子しか呼んではならない愛称に限りなく近い、別人の名前』を繰り返し呟きながら。
だから、私は壮絶な笑みを浮かべて、最後にこう吐き捨ててやった。
閉じた世界に縛られたマエリベリー・ハーンが出来る、最初で最後の拒絶の言葉を。
「あははは……やっぱりね、ただの人違いだわ。
だって私、そんな奴知らないもの。
私は“マエリベリー”よ。
そいつも知らない。あんただって一切知らない。
私はね、心も体も、もうとっくに蓮子に捧げたのよ。
あんたの物になんか死んでもなってあげない。
あんたなんか大嫌いよ、……この人殺しっ!!」
恋する少女のような表情で私を見つめていた女が、私の言葉を噛み砕き、その意味を遅れて理解した。
ああ、その時の顔と言ったら、傑作だったわ。
見開いた目に浮かぶ感情は、果ての知れない哀しみ。
この世の全ての希望をその手から逃してしまったような、苦渋に歪む顔。
血が流れる程に食いしばられた唇。
涙の滲んだ瞳が忙しなく瞬き、そして力無く閉じられる。
それは諦念。
再び瞼の開かれた瞳は、今度こそ赤く激しく燃え上がる鮮血の色。
これで良い。
私はこれから死ぬほど痛い思いをするだろう。
けれど、それは蓮子の越えていった道だ。
蓮子が先に往った道だ。
ならば私もそれに倣おう。
体が動かない。
哀しみと怒りの光に煌々と輝く視線が、ただの人間でしかない私には痛みすら伴って、刺し貫く。
「どうしてよ……私は貴女をずっと変わらず愛していたのに……ずっと、今でもずっとっ、愛しているのにッ!!」
愛している。
ずっと、永遠に蓮子だけを愛している。
だから女の想いが私に届くことは未来永劫に、無い。
「……思い出させるわ。……可哀想に……外の世界の瘴気に汚されてしまったのね……。……平気よ。いつまでも、貴女を待つから。時間は、いくらでもある……必ず、貴女は還ってくる。何十年でも、それこそ何百年だって待てる。それまで私は、変わらずに貴女を待ち続ける……」
そう。ここからは私と女の根競べ。
私の身も心も朽ち果てるのが先か、女が滅びるのが先か。
私は抗い続ける。
殺された蓮子の為に、彼女への愛情を真実のものと証明する為に。
女は待ち続ける。
私が折れる時を、私が蓮子への愛を諦めるその日を、待ち続ける。
〈12〉
今。
私は、暗く紅い屋敷の地下に幽閉されている。
手足を削がれ、目を奪われ、喉を潰され、もう逃げ出すことは叶わない。
……どうせ、こんな能力、もういらない。
蓮子のいない世界。
戻ったって何処にも私の居場所はないのだから。
女は愛を囁く。
時にはこの身を使われる。
暖かく、血の詰まっているだけの動かない肉を、彼女は宝物であるかのように扱う。
その指に、触れる舌に、在りし日の蓮子の残像を重ねて、私は一時の間満足する。
でも、その至福の時も、ただの一瞬。
女が私を呼ぶ。
私の愛称を呼ぶ。
愛おしげな声で、何度も。
……その名で呼ぶな。
私はマエリベリーだ。
私はもう、“メリー”じゃない。
私を呼ぶな。
私を呼ぶな!
蓮子以外の人間が、私をその名で呼ぶな!
その名で呼ぶのをやめろ!!!
〈0〉
私は紛れも無くヒトで、彼女は紛れも無く妖怪だった。
だから、私たちの間に永遠の別れがやってくるとするなら、それは必ず片方の死。
それがまさかこんなにも、早く。
私ではなく、彼女が。
ヒールが擦り切れて消耗するのにも構わず、私は廊下をひた走る。
今は安定しているという診断に安堵していた矢先の報告だった。
突然容態が悪化したから、と焦った様子で飛び込んできたメイドの言葉を聞き、直ぐに私は時の停まった廊下を駆けた。
長い廊下の突き当たりを、左へ。
数えて四つ目の部屋へと飛び込む。
停めていた時間は自然と本来の流れに戻った。
精神に乱れが生じて、能力が解除されたのか。
せめて最後の時は共に過ごしたいと、無意識に願ったのだろうか。
けれど、この光景は、あまりにも残酷に過ぎた。
顔を青褪めて全身の肉も削げ落ちた彼女は、呼吸を荒げ、筋張った手で胸を押さえていた。
苦悶の表情。
まるで吸気を取り入れようにも気管が塞がってしまったかのように、体を左右に大きく揺らしている。
控えていた月の薬師が平静さを失った顔つきで、脈を計り、急いで骨と皮だけになった棒のような腕に薬液を注入する。
私は扉を開けたその位置から一歩たりとも動けずに、立ち尽くしていた。
これが妖怪の寿命だと言うのか。
これが滅びゆく妖怪の末路だと言うのか。
部屋の端には、フランドールお嬢様とパチュリー様がいた。
もともと白い顔から更に血の気が引いたフランお嬢様が、細い指先でパチュリー様の服の裾を掴んでいる。
パチュリー様はとても険しい表情をされていて、拳を固く閉じ、ただベッドに横たわる彼女を見つめている。
私の体がようやく動くようになったのは、それから僅かに時が流れて、彼女の呼吸のリズムが穏やかになった頃だった。
彼女の横たわったベッドの側へ、足音を立てないよう、おそるおそる近付く。
薬液の作用なのか意識をあいまいに飛ばした彼女が、それでも、私を見た。
その枯れた指先を握る。とてもひやりとしていて、生物がこんなに冷たい体温をしていて良いはずがないのだと、私は泣きそうになる自分を叱咤しながら彼女に語りかけようとする。
「……っふ、うぅ……」
でも。
どうしたって、だめだ。
口を開きかければ、何よりも先に衝いて出るのは、言葉にならない泣き声でしかない。
私に手を握られたまま、もはや握り返す力もないのだろう彼女の唯一自由に動かせる、視線が、ピントを合わせて私を見上げた。
こんなに痛々しい姿になっても、彼女の芯は強いまま変わらない。
「……大丈夫。咲夜さん。ほら……泣かない。……ね?」
「うっく、うっ、美鈴っ、う、ううぅぅっ……」
堪らなくなって、崩れ落ちるようにしがみつく。
抱きしめた体は細くて、妙に固くて、少し力を込めれば、パキリと真ん中から折れてしまいそうだった。
ベッドを挟んで反対側に位置する薬師と視線が合い、向こうが先に目を伏せた。
やがて薬師は立ち上がり、フランお嬢様とパチュリー様に退室を促すと、自らも部屋を後にする。
……でも、フランお嬢様がいやいやをするように首を振っているのが横目で確認できた。
それも全ては閉ざされた扉の向こう側の出来事となる。
残されたのは私たちふたりきり。
私たちが寄り添い合える、最後の時間に違いなかった。
「美鈴。……今、私ね、とても怖い……」
「……ん……」
「私。自分が死ぬ覚悟なら、できてたつもりだったわ。あなたを、お嬢様たちを、この館を残して逝く。そういった覚悟が、できてたのよっ……」
更に身を乗り出して、その痩せこけた頬に自分の頬をくっつける。
体温の差が歴然と感じられて、悲しさが増した。
それを無視して言葉を続ける。
間に合わなくなる前にと、紡いでいく。
「なのに、こんなのって、あんまりだわ……」
腕を放し、ベッドの上から半身を戻した私は、自らの服に手をかける。ボタンをぶちぶちと外して、腹部から上までを全て露わにした。
「ねぇ。食べて……。
……食べてよ。あなた人喰いなんでしょ。……人間の肉は活力って言ってたの、覚えてるのよ。
なら、今食べてっ……食べなさいよぉ……!」
手のひらの柔らかい部分を、無理やり口元に押し付ける。
かさかさと乾き、ひび割れた唇の感触が伝わった。
……その唇は、少しだけもごもごと開閉するだけで、直ぐに動かすことを止めてしまう。
私は既に知っていた。全身の筋肉が衰えた彼女には、もう固形物を砕くことができない。
だけど、それでも八つ当たりが止められなかった。
薄っすらと唾液の付着した手のひらを引っ込めて、代わりに自分の唇を合わせる。
自分の頬の内側を鋭く噛み、そこからドクドクと流れ出た血液を、舌を動かして送り込む。
それらの大部分は口の端から溢れ落ちて、薄い寝間着にドス黒い染みを作っていった。
「んく……んんむ、んぅ……」
「……ごめん。……ごめんね。今の私、なんかおかしいわよね……許して……」
弱々しく、咥内で拒否の声が反響する。
口付けから解放してやり、強烈な自己嫌悪に襲われた私は衣装を戻して席を立とうとした。
なのに、その手を引かれたから。
私は思わず振り返ってしまう。
彼女はベッドから上体を起こしていた。
血色の良くない顔で。頭も回らず、そうして身を起こしているだけで辛くてたまらないだろうに。
あろうことか私に笑ってまでみせて。
「……咲夜さんって、……ケホンッ、なんだかこのままじゃ後追いして来ちゃいそうで……私まで怖いです……」
ふざけるような物言いに、眉を下げた情けない表情。
ずっと長い期間見ることのかなわなかった、あの頃の彼女の様子に限りなく近い。
人間の血液を摂取したのが効いているのか。
けれど、それでも気力で持ち堪えているだけで、その細い体はがくがくと震えている。
「だめ、美鈴っ。楽にしていて、起き上がらないで」
「いいから。今だけ、好きにさせてください」
「だめだったらッ……ひゃあ!」
寝かしつけようと両肩に手を置いた、その瞬間逆に腕を掴まれて、二人してベッドに倒れ込む。
何の感情なのかよく分からなくなった涙がまた溢れた。
心の底から目の前の彼女が愛しくて。
だからこそ哀しくて、先の未来が見えなくて。
張り裂けそうな感覚に振り回される。
「う…………
いや……嫌よ……何であなたが、先なの……っ……」
「……咲夜さん。泣かないでください……」
「私っ……ダメなの……ほんとにっ、美鈴がいなきゃ、生きていける自信、ないの……置いていかないでよ……」
「…………っ」
「お願い、私より先に逝かないで。側にいて……。それがかなわないなら……せめて私も、っん」
続けようとした言葉は、人差し指で止められた。
「……聞かなかったことにしてあげます。でも、それは私が許しません。……やっぱり、そういうつもりがあったんじゃないですか……」
「うぅぅぅぅ……んぐっ、ふっ、うあぁぁぁ……!」
今度こそ、嗚咽が止まらない。
決して、彼女に陰鬱な思いをさせたまま往かせるつもりではないのに。
私の言動はやることなすこと、正直な気持ちを伝えようとすればするほど、全てが彼女を悲しませてしまう。
このままではいけないと私の理性的な部分は思うのに、この体は、心は、少しも言うことを聞かずにいる。
「……なら、咲夜さんが前を向いて生きていけるように、私が一つおまじないをかけてあげましょう」
彼女と視線が重なった。
まるで悪戯っ子が楽しい遊びを考えたかのように、片目を閉じ、口角を持ち上げている。
「泣き虫で甘えん坊の咲夜さんは、私がいないとすぐにダメな子になっちゃうんですもんねぇ」
「う、……ひっぐ、だめ、じゃ、ないわよぉ……」
「もう。言ってるそばからだめだめです。
だから……私、頑張って生まれ変わったら、また咲夜さんに会いに来ます」
その時、私の中の世界の色が、変わった。
「ぇ、え……?」
「閻魔様にも本気で掛け合います。がちです。でも、咲夜さんが私無しでも生きていけるようになれば、私は咲夜さんのもとには来ません」
「なっ……なによ、それ……屁理屈じゃない……」
「さてどうでしょうね。全ては咲夜さんに掛かってます。つまり転生した私ですが、その子はダメな咲夜さんのもとにしか現れません。しかも一見して私だとは気付きにくい姿で会いに来ます」
「それじゃ分からないじゃないの……」
「いいえ、きちんと分かるのです。何故ならその子はちょっと他人とは異なるオーラを放っていて、いざとなったら外の世界から幻想郷に飛んで来られるような不思議な能力も持ち合わせてるのですから」
「そんな曖昧な情報じゃ……やっぱり分からないと思うわよ」
「あ、確かに。それではヒントを出しちゃいましょう。その子は咲夜さんの銀の髪と並んだ時に対になるような、綺麗でふわふわの金髪の女の子なんですよぉ」
「別に赤い髪の毛も好きなのに。変えちゃうの……?」
いつしか、私は彼女の語る物語に引き込まれていた。
彼女にとっては、いつまでも子供のように泣き続ける私をあやす為の優しい嘘。
私もそれを知りながら、悲しみに歪んでしまいそうな表情を必死に笑顔に作り変える。
半分泣いて、半分微笑みながら、私は美鈴の言葉にずっと耳を傾けていた。
「それじゃあ、私が美鈴のこと必要なくなったら、美鈴は来てくれないの……?」
「ええ、そうです。だって私無しでも元気に生きていける、素敵な咲夜さんになっちゃっているんですもん。その頃には私が入る隙間も無さそうですしねぇ」
「でも、本当は美鈴に会いたくて、だけど普段はその気持ちを押し殺してるだけの私かもしれないじゃない……」
「あー、それでも大丈夫です。その場合は冥界でまた会うことが出来るんですよ?それも咲夜さんがきちんと天寿を全うしてくれれば、百発百中の確率で」
「……もう、調子のいいことばっかり言う……」
「幾らでも言ってあげますよ。好きな人が泣いている姿を見るのは……ゲホッ、嫌です、からねっ……」
「……美鈴?」
「……だから、次に会う時は……
……きっと笑っていてね。咲夜さん」
私の頬に触れていた手が、不意に落ちていった。
けたたましい悲鳴が部屋に響き渡る。
その声が自分の喉をついて出ているものであることに気付かないまま、私は幾分か軽くなったその体を揺さぶり続ける。そうすれば目を覚ますのだと言わんばかりに。
何度も名を呼んだ。
でも、その目はもう開かない。
二度と私を見つめてはくれなかった。
やがて、薬師とパチュリー様が部屋に飛び込んできた。
フランお嬢様の姿はどこにも見えない。
薬師が、穏やかに逝けたようで良かったのだとか、よく分からないことを言っている。
パチュリー様も、何かを喋っては私の背中や肩を叩いて、それから薬師と何かを話している。
私の脳はスパークしてしまったかのように、それからしばらくの時間、機能することを放棄した。
私は紛れも無くヒトだったし、彼女は紛れも無く妖怪だった。
本来なら私が見送られる立場で、
そういった覚悟だけはもう完了していて、
だから数十年後にそうなるのだろうって、
思っていて、
なのに何で?
どうして今?
なぜ?
ねえ、何で私が残されているの?
目の前が暗く染まった。
ただ、彼女の声が。言葉の内容が。忘れられない。
だから私は、その日からずっと。
ダメな私のままでいようと、決意した。
幻想と化したあらゆるモノを呼び寄せる幻想郷。
私がひとり、“その少女”の存在を信じ続ければ、それはいつか幻想から真実となって目の前に現れる。
私は私の希望を待ち続けることにした。
冥界だなんて広過ぎて、待ち合わせには向いてない。
この紅魔館こそが目印。
きっと“その少女”は、いつかここに現れる。
他でもない私がそう信じている。
私はその時を心待ちにしている。
彼女の死は突然すぎた。
あり得ないことだと最初から可能性を除外していたからこそ、その衝撃は私の心に酷く吹き荒れた。
私の弱く脆い心は、その衝撃から終ぞ立ち直ることが出来なかったのだ。
やがて、私はヒトの身を捨てることを決意した。
その時を待つにあたって、この体では余りにも早く限界を迎えてしまう。
姿形をあの頃のままに保つ為に、私はとある手段を使うことに決めた。
彼女が亡くなってから、再びその気性が荒れに荒れてしまったフランお嬢様。
焚きつけることはいとも簡単だった。
妖となって数千の昼が過ぎ、数万の夜を過ごした。
すこし何処かが壊れた私は待ち続けている。
“その少女”がダメな私の元へいつかやってきてくれる日をずっと夢見ている。
遠い昔に語り合い、ふたりで交わした約束。
あなたとまた逢えるなら、私はいつまでだってここで待っていられる。
ねえ。
そうして、もしまたもう一度、この紅魔館の中庭で出逢うことができたなら。
その時はきっと、あなたの名を呼んで、笑ってあげるから。
- 作品情報
- 作品集:
- 12
- 投稿日時:
- 2015/05/21 12:39:40
- 更新日時:
- 2015/05/21 21:39:40
- 評価:
- 3/4
- POINT:
- 330
- Rate:
- 14.20
- 分類
- マエリベリー・ハーン
- 宇佐見蓮子
- 十六夜咲夜
- 紅美鈴
やっぱり蓮メリはいいね。
狂った女の長ゼリフで鳥肌
力作乙でした。
タイトルの意味――ああ、なるほど♪
行く者には餞を、逝く者からは呪いを。
愛する者が今際の際に真の名で呼んだのに、抗う努力を放棄した遺された者。
愛する者が今際の際に語ったおとぎ話に呪われ、祟りなす者と化した遺された者。
愛する者が囁いた愛称は、舌足らずな呪詛と化した――。