「ふふ、なかなか美味しいじゃない」
大妖怪八雲紫は、満開の桜と、丸く満ちた月を眺めながら、一人呟いた。
いつか見た、あの寂れた神社の境内の、小さな桜の木を思い出しながら。
「ごきげんよう。お腹の虫は元気にしてるかしら」
玄関からでも無く、突然居間に現れた紫は、いつも通りの挨拶をする。
玄関に鍵をしても、結界を張っても、この妖怪の前にそれは意味を成さなかった。
プライバシーという概念の存在しないこの登場の仕方に、霊夢はもう慣れていた。
「何よ。昨日から何も食べてないのを笑いに来たの?お米の一粒でも持ってないなら帰って頂戴」
万年参拝客の無い博麗神社の巫女は、相変わらず貧しい食生活を送っていた。
その昨日の食事も、玄米に大根の田楽、そして余った葉の味噌汁という、決して豪華とは言えなかった。
そんなところに、こんなご挨拶である。当然、いい気分はしなかった。
「あら。そんなこと言うとプレゼントはなしになりますわ」
首を少し傾け、意地悪そうな笑みを浮かべると、紫は目を霊夢から少しずらし、障子の方にやる。
「悪かったわ!お茶いれるわね!」
現金な巫女である。仮にもこれが神に仕えるものであると思うと、祀られた神がいささか不憫に思える。
誰よりも信仰心に欠ける巫女は、嬉しそうに立ち上がった。
「お米じゃないけど、しばらくは餓えに苦しまない差し入れを持ってきたわ」
「飢えって程じゃないわよ。人間は意外と死なないの。3日4日食べなくても、あんたくらいなら倒せるわ」
「なら5日目には、私が勝つのね」
そう言うと紫は、もう一度霊夢の方に視線を移すと、開いた軽く鉄扇を振り、隙間を開く。
「何が出てくるのかしら?面白みはないけど米俵なんかがいいわね。牛肉なんかも素敵だわ。長らく食べてない」
キラキラと目を輝かせる霊夢は、お茶を運びながら隙間を見つめる。
「残念。「お芋は大切な食料」、ですわ」
もう一度鉄扇を振ると、目の前のスキマから馬鈴薯がごろごろと山のように出てきた。
重さにして、1両5貫はあろうかという大量の馬鈴薯は、どんどんと居間の中央に積み上がっていく。
「ちょっと!畳が!まだ土が着いてるじゃない!嬉しいけど何か敷いてから出しなさいよ!あー!もう!」
怒るに怒れない巫女は、感謝と不快感の入り交じった感情を、怒号という形で吐き出した。
口では怒っているものの、なんだかんだで嬉しそうな目をしている。
「これは失礼。でもこれでしばらくは腹の虫が泣かないんじゃなくて?」
「確かにそうだけど・・・こんなに沢山あると、食べきる前に芽が出ちゃうわ。それに、これから毎日馬鈴薯生活ね」
「あら。馬鈴薯の保存方法すら知らないなんて。人間は相変わらず無知で困るわ」
偉そうに講釈を垂れる紫ではなく、馬鈴薯の山を見つめながら、少し機嫌を取り戻した霊夢は聞く。
「どうやんの?」
「澱粉を抽出して、水飴にするなり焼酎にしたりするのよ。手伝ってあげましょう」
「で、あんたはその焼酎を半分貰っていくと」
「ご名答」
パチン、と鉄扇を畳み、霊夢の方に向ける。なんだか嬉しそうな口元を見るに、どうやらこの大妖怪は相当暇を持て余していたようだった。
「芋焼酎って甘薯じゃなくても出来るのね。で、どうやるの?さっそく作るわよ!」
「昨日から食べてない割には元気がいいのね。まずはふかし芋でも作ってあげましょうか?」
「明日から馬鈴薯生活だから遠慮するわ」
「そう。重労働よ?倒れないでね?」
馬鈴薯の山を指差し、あまり心配しているとは思えない口調で言う。
「だから人間は丈夫だって言ったじゃない。それで焼酎ってどうやって作るの?」
「まずは皮をむいて、おろし金ですりおろすのよ」
「・・・これ全部?」
目の前に積まれた馬鈴薯の山を見て、霊夢は途方にくれた。それもそうだ。なにせ自分の体重より遥かに重そうなくらい積まれていたのだから。
台所に運ぶだけでも一苦労である。
「お酒が飲みたくないのかしら?」
「わかったわよ・・・。はぁ。夜までかかりそうね。」
「まぁそう言わず。外の世界にはこんな便利なものがあるのよ。ピーラーと言って、皮むきが簡単に出来るわ」
「すりおろすのに便利な道具はないの?」
「あるにはあるけど、電気を使うから」
「河童に頼めばなんとかならない?」
「なんでも機械に頼る姿勢は、褒められたものじゃない」
この馬鈴薯も、元を辿れば外の人間のその姿勢からきたものだ。そして河童が核エネルギーを扱い始めた今、幻想郷でも他人事とは言えなくなっている。
幻想郷にも押し寄せ始めた科学の波は、だんだんとその幻想を奪いつつある。人が妖怪を、怪異を恐れなくなったのは、科学によってその存在の否定を証明していったからだ。
いつか終わるであろうこの幻想を、紫は憂いていた。
「別に褒められたくなんてないわ」
「苦労は最高の調味料、ですわ」
「はいはい。労せずお酒が飲めるなら、私はそっちがいいんだけど」
「はい。ピーラー。ならすりおろしは私がやるから、皮をむいて頂戴」
「わかったわ。でもその前に、あんたは汚れた畳を綺麗にしなさいよね」
大妖怪八雲紫が、人間の命令で鄙びた神社の畳を雑巾がけする様は、いささか滑稽に見えた。
よっこらせと、少女とは思えない掛け声と共に、馬鈴薯を台所に運ぶ霊夢の姿と、同じくらいに。
黙々と作業を続けていると、夜の帳は大地に皺を作るほどに垂れ下がり、雀の声は鵯に、鵯の声は烏に、烏の声は梟に変わっていた。
「はぁ。こんなに長時間台所に立ったのははじめてよ」
ふと目をやると、もう時計の針は未の刻を少し過ぎたあたりをさしていた。
「私も腕が棒になりそう。思ってたよりきつかったわね」
すりおろした馬鈴薯は神社にあった鍋にはとても収まりきらず、最後にはたらいまで動員された。
この二人には、衛生観念というものが無いようだ。
「次はどうするの?」
「これを水につけて絞って、澱粉を抽出する。所謂片栗粉作りね」
「あれってカタクリで作らないの!?」
「残念ながら、今出回ってる片栗粉は、全て馬鈴薯澱粉よ」
「なんか、知りたくなかった。私の中の片栗粉の何かが死んだ。・・・ってそれなら最初から片栗粉持ってきなさいよ!」
「外の世界で、馬鈴薯が大量に廃棄されたのよ。なんでも土が汚染されたとかなんとかで。ここに来る前に配り配っても余ったから、可哀想な巫女に、優しい優しい大妖怪様が、食料を恵むついでに焼酎を作りに来たの」
「へぇ、外の世界も大変なのね」
どうやらこの恩知らずの可哀想な巫女は、後半の話には触れないようだ。
「ほら、もう沈殿したわよ」
「うわ、あの量からこんなにとれるの?」
底の方にずっしりと溜まった白い沈殿物は、想像していた量よりも遥かに多かった。
「これを揉むと、なかなか気持ちいいのよ。やってみる?」
紫はたらいに手を突っ込み、もにゅもにゅとそれをいじっている。
「どれ。あ、ほんと。新感覚。これは癖になるわ」
二人はニヤニヤしながら、しばし無言で鍋の底に溜まったものを揉んで遊ぶ。
「で、次の工程なんだけど」
2分程揉んでいただろうか。まだ手を動かしながら、紫が切り出した。
「麹を入れるんでしょ?」
「いいえ?まだその前に一階工程があるの」
「なに?もうめんどくさいのはごめんよ」
「めんどくさくないわ。こうするのよ」
そう言うが否や、紫はまだ濡れた手を霊夢の頭に回し、ぐいっと引き寄せると、霊夢の唇に自分のそれを重ね、舌をねじ込んだ。
「ちょっと!何すんのよ!お酒つくるんじゃないの!?」
急な接吻に驚いた霊夢は、紫を引き剥がし、頬を赤らめつつ眉に皺を寄せる。
「唾液にはアミラーゼという澱粉を糖に分解する酵素が含まれている。そしてお酒を作るには糖と水と酵母が必要。ならまず何が必要で、これから何をするかおわかり?」
ぐっ、と紫と自分の唾液のついた唇を袖で拭うと、バツの悪そうな顔で、鍋に目を落としつつ霊夢は言った。
「・・・さっさと続きするわよ」
自分の口元に手をやり、にやりと笑うと、紫は霊夢の顔にその手を優しく添える。
「物分りがよくて助かりますわ」
二人は馬鈴薯デンプンを集めた鍋の上で、また唇を重ねた。わざと唾液を垂らすように絡めた舌は、淫靡にてらてらと輝いた。自然と、霊夢も紫の背中に手を回す。
「・・・ん。ねぇ、ちょっとそういう気分になってきたんだけど」
目を蕩かせ、もじもじと足をくねらせる霊夢を余裕の表情で見つめると、紫は遠回しな誘い文句を紡いだ。
「アミラーゼが最も活発に働く温度は60℃前後。火を消した釜戸の中にいれたら、しばらく放置。しばらくね。この量だと、”ちょうど”一晩はかかるわ」
「・・・布団敷いてくる」
立ち上がり、ぱんぱんとスカートについた土やら澱粉やらを払うと、霊夢は後ろを向いた。その真っ赤な顔を見られないように。
「よろしくー」
嬉しそうに笑い、首をかしげ、ひらひらと紫は手を振る。
「そっちは任せたわよ」
「はいはい」
まだ口の中に少し紫の唾液の味を感じる。悶々とした気分が、煎餅布団にシーツをかける手を、いつもより早く動かした。
床の準備を終えると、霊夢は風呂に入り、普段は節約して使わない檸檬の香りのシャボンで、体と髪を丁寧に洗う。
これからすることを考えると、湯船に浸かった自分の身体が、なんだか自分のものではないように感じ、不思議な気分になった。
湯船から上がると、火照る体に水を浴びせ気持ちを落ち着け、風呂が空いたことを紫に伝えようと台所にいく。
しかしそこに紫の姿はなかった。
少し水を飲んでから髪を乾かし、床の間で待っていると、一旦自分の家で風呂に入ってきたのか、神社には無い金木犀のシャボンの香りをまとった紫が、寝巻き姿でどこからともなく現れた。
「あら、お酒も入ってないのに顔が赤いわよ?どうしたの?」
余裕の表情でニヤニヤ笑う紫とは対照的に、霊夢の顔は紅潮し、鼓動は早くなっていた。
「うるさいわね、ちょっとは恥じらってるのよ。察しなさい」
「まだまだ子供ね」
そう言うと、紫は指を絡め、台所でしたそれよりも熱く、口付けをした。
ぼーっとした表情の霊夢の服を脱がし、まだ膨らみきっていない胸を優しく揉む。
「紫ぃ・・・」
霊夢は何かをせがむように、いつもの性格からは考えられないような甘い声で名前を呼んだ。
「あら。こんなところから芋焼酎が」
紫は優しく霊夢の秘部を愛撫すると、その割れ目に舌を這わせた。
「冗談まで悪趣味ね。んっ・・・」
「ツマミは豆でいいかしら」
「最低だわ。全然上手いこと言えてない」
「あらそう?でもこっちのテクニックには自信がありますわ。そこそこ上手な筈」
「床上手とかけてるの?」
「無意識だったわ。あなたの方がジョークのセンスに欠けるんじゃなくて?」
「いいから早くしなさいよね」
くだらない会話で霊夢の緊張を解きほぐすと、紫は霊夢の耳元でまた冗談めいた口調で囁いた。
「では大妖怪の妙技をご賞味あれ」
そう言うと、鎖骨からへそを伝うように、だんだん下の方へと長い舌を這わせ、優しく陰核を甘噛みしながら、指で中をかき回す。
「あっ、ちょっと紫!ダメだったら」
「上の口と下の口が正反対のことを言ってる。嘘つきはどっち?」
「もう!ムード崩さないでよね!」
「余裕のない霊夢ちゃんを、私がリードしてあげているのに」
「余裕がないですって?朝になっても同じセリフが吐けるかしら」
やられっぱなしは性に合わないようだ。霊夢も負けじと、大きな乳房に吸い付き、湿った割れ目に指を這わせる
「んっ・・・、ふふ、乗ってきたじゃない」
「あんたももっと弄りなさいよ。自慢のテクニックとやらを披露するチャンスよ?」
「先代の博麗より、積極的だわ。あの子はもっと慎ましかったのに」
「他の女の、それも母親の話をするとか、あんた最低よ」
霊夢は一層激しく、紫の中をかき回した。
「くっ・・・やるじゃない。それは嫉妬?燃えてきたかしら?」
「ええ、燃えてきたわ。朝には吸血鬼よろしく、灰にしてあげる」
「あら。それはこっちのセリフですわ・・・!」
-永い夜が始まった。
「・・・ん、紫?」
暖かい日差しの中、霊夢が目覚めると、隣に紫はいなかった。
「おはよう寝ぼすけさん。もうお昼よ?」
「起こしてくれればよかったのに」
「可愛い寝顔を見せられたら、そんな酷なこと出来ませんわ」
「・・・。」
次の言葉を紡ぎ出すのを照れくささに邪魔されて黙っていると、鰹だしの香りが漂っているのに気付く。
「あ、いい香り。朝ごはん作ってくれたの?」
「ええ。玄米、ふかし芋のそぼろあんかけ、馬鈴薯とワカメの味噌汁、絞り殻を混ぜたお焼き、それとジャーマンポテト。そしてもう朝ごはんじゃなくてお昼ご飯よ。寝ぼすけさん」
「二回も言わなくていい。・・・それにしても見事に馬鈴薯ばっかね」
「芽が出る前に食べきらないといけないから」
髪を手櫛で整えると、リボンを結び、服を着て布団を畳む。
「あ、そう言えば焼酎は?」
「ええ。もう水飴になってるわ」
「水飴ってこうやって作るのね。・・・もしかして子供の頃駄菓子屋で食べた水飴にも、あのおばあちゃんの唾がはいってたの?」
「いいえ?アミラーゼは大根なんかにも含まれてるから。どうとでもなるわ。それに売り物に唾なんていれる訳ないじゃない」
「騙したわね!」
「嘘はついてないわ。それにほら、これは二人だけで飲めばいいでしょ?蜜月の前にでも」
よくもまぁ恥ずかしげもなくそんなセリフが言えるものだ。霊夢にはとてもではないが、真似出来なかった。
「どっかの酔っぱらいが、「もうこの瓢箪から沸く酒は唾と同じだ」なんて言ってたけど、まさか自分の唾で作った酒を飲まされることになるとはね」
「半分は私のよ」
「はいはい」
布団を片付け終えた霊夢は台所に向かう。
「で、どのくらいで飲めるの?」
「これはまだ水飴よ?ラムで言うならサトウキビを絞った段階。これに井戸水と麹を入れて、窓際に置いて発酵させてから、それを蒸留して初めて焼酎になるの」
「いったいいつまでかかるのよ・・・」
「そうね。月末には飲めるんじゃないかしら?」
「お、意外と早い。私作り方わからないから、また様子見に来てよね」
「ええ。床を敷いて待っていて」
「この助兵衛」
お盆に載せた朝食、もとい昼食を運ぶと、小さなちゃぶ台を挟んで紫が急かす。
「ほらほら。早くしないと助兵衛の作ったご飯が冷めますわ」
「はいはい。いただきますよ」
「めしあがれ」
味噌汁の味つけが、なんだか少し濃く感じたのは、いつも味噌をけちっているせいだろうか。
久々の食事に、紫の作ってくれた食事に、麗らかな春の昼の食事に、霊夢は小さな幸せを感じていた。
「ごきげんよう」
あれから3週間が経ったあたりだろうか。
また紫が、神社の居間にひょっこり現れた。
スキマから上半身だけを乗り出し、縁に肘をつき、両手を組んで顎を支えている。
「様子見に来るとか言って、なかなか来ないから心配したわ」
「寂しかった?ちょっと結界の管理が忙しかったのよ」
「そう。ちなみにあんたの心配じゃなくて焼酎の心配。で、もうこれは出来てるの?」
「ええ。なんなら飲む?」
「もう飲めるの?なんかどう見てもただの腐った液体なんだけど」
「度数はまだ14度程度だけど、れっきとした馬鈴薯酒よ。汚い泡だらけで見た目はアレだけど、ほら。こうして器に注げばそれっぽく見えるでしょ?」
「どれ」
発酵して泡が立った瓶から小皿に注がれた、出来たばかりの馬鈴薯酒に鼻を近づけ、恐る恐る霊夢は匂いを嗅ぐ。
「腐ってないわよ。私、信用ないのね」
ふてくされる紫を無視し、意を決し少し口に含んだ。
「おぉ!芋臭いけどちゃんとお酒になってる!やるじゃない!」
微量の炭酸を含んだ淡く濁った液体からは、確かにアルコールのその香りがした。芋の臭みはあるものの、これはこれで悪くない、力強い味だった。
なんだか妙に美味しく感じたのは、「最高の調味料」とやらのおかげだろうか。
「私も一口。ふふ、この蒸留前の味見も、 焼酎作りの楽しみの一つね」
「今から何するの?」
「今蒸留って言ったじゃない。すぐ終わるわ。晩酌に間に合うくらい」
「それはよかったわ!早速一杯やるわよ!」
「はい。お駄賃。これで肴でも買って来なさいな。私はここで作業してるから」
「気が利くわね!ふふ、行ってくるわ!」
「行ってらっしゃい。怖い妖怪に気をつけて」
「留守番任せたわよ。泥棒と飲兵衛に気を付けて」
嬉しそうに里に向かう霊夢を見送ると、紫はスキマから蒸留釜や冷却器を引っ張り出し、一人作業を始めた。
3時間程経っただろうか。霊夢が玄関を開ける音が聞こえた。
「ただいま。ベタに煎餅に佃煮。あとちょっと奮発して鮎。色々買ってきたわ。」
「あら?もう少し渡したはずだけど」
「気のせいよ。あー、懐があったかい」
「半々にしようと思ってたけど、焼酎の取り分は六四でいいわね」
「ごめん!お釣りは返すから!」
「冗談よ。鮎があるなら火鉢の準備をして頂戴」
「焼酎はもう出来たの?」
「ええ。ほら。もうこんなに」
台所には、何やら螺旋状の管をガラスに閉じ込めた不思議な道具や温度計やらが並び、見慣れた台所はまるで実験室のようになっていた。
そして紫が指を指すあたりには、一升瓶が3本と、中瓶が3本並んでいた。
「こんなに減っちゃうのね。で、どう?美味しかった?」
「まだ味見してませんわ。全部終わってないし」
「ふふ、抜けがけしてたら、額に御札を貼ってたところよ」
「怖い怖い」
「もうすぐ終わるわ。ほら。さっさと鮎の準備をして?」
「うーん、楽しみだわ!」
鮎を串に刺し、塩をまぶしている間も、霊夢は蒸留装置が気になって仕方がないようだった。火のそばで様子を見る紫の方をちらちらと目配せするのに忙しいのか、手があまり動いていない。
「はい。これで全部。こっちが保存用の50度。こっちが25度」
「どっちが美味しいの?」
「さぁ。それは好みですわ。とりあえず今日は25度の方を頂きましょうか」
中瓶の一つを手に取った紫と、その後ろをついていく霊夢は、火鉢を置いた縁側に向かった。
空は雲一つない、見事な満月だった。少し縁側からは遠いものの、境内に植えられた桜は、その月明かりを浴び、儚げに光っていた。
しばらくすると鮎の焼けるいい香りが漂ってくる。炭が弾けるパチパチという音は、静かな境内に優しくこだました。
「いい夜ね」
「ええ」
どこから持ってきたのか、漆塗りの高そうな盃に、紫は手酌で出来立ての焼酎をに注ぐ。
「なによ。お酌くらいするわよ。そこまで気の利かない女じゃないわ」
「あなたも自分で注ぐのよ」
「気の利かない女ね」
「これから盃を交わすんですもの。手酌じゃないと、手酌になってしまいますわ」
「ああ、そういう。あんた変なところでロマンチストよね」
霊夢はろくに手元も見ずに、紫から渡された赤い漆塗りの盃に瓶の中身を注ぐ。
「ふふ。では現金な巫女と、二人の愛の雫に」
「口煩い助兵衛な妖怪と、苦労の賜物に」
「「乾杯」」
くぴりと一口飲み、にやりとしながら互の顔を見つめる。
その味は、見つめ合った二人の表情を見る限り、想像するに容易かった。
あれから73年と134日。
博麗霊夢は、自らの子にその役目を任せ、今日、最後まで人間として、この幻想郷から姿を消した。
紫は涙は流さなかった。
何度も、何度も、そしてこれからも辿る運命に、それに抗おうとせず最後まで笑っていた博麗の巫女への、敬意のようなものだ。自身も心を乱さず、口元に笑みをたたえていた。
紫は、あの日作った馬鈴薯焼酎を詰めた茶色の中瓶を蔵から持ち出すと、鮎と、佃煮と、それから里で買った安い煎餅を並べた。
ひとり盃に焼酎を注ぎ、目をつむり、長いようで短かった日々を、ゆっくりとなぞる。
五分ほど、そうしていただろうか。薄く目を開くと、遠く優しい眼差しで、空に向けて独り呟いた。
「ねぇ霊夢?もしふわふわその辺を漂っているなら、この盃にいらっしゃいな。もう一度、あの日のように一つになってみませんこと?」
春の風が心地いい。
「返事くらい、してくれたっていいんじゃない?どっかの誰かに負けないくらい、相変わらず天邪鬼ね」
月明かりは桜を通して、あたりを優しい色に染めている。
「せっかくいい月と夜桜なのに、一人じゃ寂しいじゃない。いらっしゃいな」
また目をつむり、盃を持つ手を少しあげて微笑むと、最後の言葉を続ける。
「私の愛したあなたに、乾杯」
桜の花弁がひらりと1枚舞落ち、返事をするように、盃に小さな波紋を作った。
良い話です。
良い話です!
キスの味、甘酸っぱい唾液の味。
僕にはネーミングセンスも文力?も全然ないので、こういう作品が書けるというのはとてもいいことだと思います。