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『死にたがり妖怪』 作者: 赤間

死にたがり妖怪

作品集: 2 投稿日時: 2012/02/04 02:28:32 更新日時: 2012/02/04 11:48:48 評価: 7/7 POINT: 680 Rate: 17.63

 雨に降られていた。土砂降りの雨だ。あちらこちらにわだかまる水の群れが地面をゆるく溶かして重たい泥を作り出し、わたしの足に纏わりついている。追い払おうとその足を降りあげてみても、揺らしてみても、靴底に入り込んだ泥は簡単に剥がれてくれなかった。ああ、新しいボーダーの靴下が泥色の水玉を身につけて笑っている。それだけで心が報われる。ちょっとおしゃれさんな気分になった。傘なんて、いらなかったのだ。
 帽子の淵に溜まる水滴がずしりと重たくて、わたしは俯き加減に歩いていた。寒い日と雨の日は、少しだけ視線が落ちる。だからかな、よくふらふらしてる、なんて言われてしまう。まっすぐ歩きたくても、歩けないのだ。なんでかな、と思う。きっと、泥を避けるためとか、寒くて首が縮んで死んでしまいそうだからとか、そういう理由なんじゃないかな。
 だからわたしは今日も俯いている。こうしていることで、周りの視線も自然と上を向いて。わたしのことなんか路傍に転がる小石のひとつだと思い込むのだ。わたしの名前とおんなじ。わたしの名前を誰がつけたのかはよくわからないし、お姉ちゃんからも教えてもらったことはないけれど、うまいこと今のわたしに合っていると思う。わたしの存在とわたしの名前が溶けあって、わたしになるんだ。それって、すごく大事なことなんじゃないかしらん。
 たとえば、わたしのお姉ちゃん。さとり、なんて大層な名前をつけられていても、その名前とお姉ちゃんは釣りあっていない。お姉ちゃんはひとの心を読むことに慣れ過ぎて、うんざりして、いっぱしの引きこもりになってしまっている。もしわたしがお姉ちゃんのように心が読めるなら、もっとたくさんの場所にいって、たくさんの声を聞いて、見て、触って、嗅いで、わたしの一部分にしてしまうのにな。ちょっと残念。どうしてわたしの瞳が閉じちゃったのかわからない。考えてみようとしたら、心の奥がちいさく反発している。自分自身に遠慮してしまっている。なんだか、おかしい。
 そんなことどうでもいいか。今は雨の日を楽しまなきゃ。地底に雨が降るなんて珍しいことではないけれど、こうして泥遊びをするのは雨の日にしかできないんだから。

 ふと。
 足元に何かが転がってきた。丸くて、でもちょっといびつな形。なんだか毛を纏っているみたい。この雨で萎れちゃってる。可愛そうに。毛玉かな。捨てられちゃったのかな。いつの間にか地底に暗がりが満ちて、店から零れ落ちる灯りがわたしの足もとを滲ませていたから、そのまんまるい、わたしのこぶし一個分ぐらいの毛玉には影が落ちていた。ちょっと不用心だったかもしれないけれど、その日のわたしは雨が降っていて上機嫌だったから、そんなこと考えもしなかったんだ。
 おもむろに拾い上げると、想像通り、それは毛玉のように、短めの毛をぺったりと雨に濡らしておとなしくなっていた。ごつごつとした肌触り。これは、たぶん、骨みたいだなあ。なんて思いながら、滲み出る屋台の灯りにその毛玉をあててみると、ああ、なんか、案の定という感じだった。
 それは猫の頭だった。首から下がない。ついでにいうと耳もない。瞳もない。髭は……短くなっているが、ある。空っぽだった。振ってみても、からからという音がしない。脳もなくなったみたいだ。どこかに落としたか、あるいは食べられたかのどっちかだろう。こんな雨だから、この子が助けを呼ぶ声も雨音に吸収されてしまったのだ。千切れた胴体はどこかに転がってないだろうか。血も綺麗に流れて泥の一部分になってしまっているのだろうか。昂っていた感情が急速に冷やされていくのを感じた。重たい土砂の中にこの子の血も脳漿も、そういうものもすべてないまぜになってわたしの足もとに纏わりついているのだとしたら、とんだ不幸である。
「あーあ、さいあく」
 わたしは猫の頭部を放って、地下都市を歩き出した。ひょっとしたらあの子が地面に落ちて、水たまりの滴る音が聞こえてくるかもしれないと思ったけれど、そんなことはなかった。わたしの頭を押さえつける雨粒は勢いと大きさを増して降りかかってきた。帰ろう、と思った。家に帰ろう。
 ぐりんと体を回転させて、帰路につくことにした。踵を返すってことは、帰路につくってことは、あの子の横を通り過ぎるってことだ。今日ほど、俯き加減に進むこんな日を憎んだことはない。ただの死体だ。ただの死体なのに、心の中にはもやもやが自分でもびっくりするほど蓄積されていって、張り裂けてしまいそうだった。ばりばりと音を立てて、わたしの心臓部分からあの子の心臓が飛び出してくる。そんな妄想をしてしまうぐらいに。
 一歩、一歩、地面を踏みしめるたび、ぬかるんだ土がまたわたしにじゃれついてくる。振り払うこともできなかった。そうするのが怖くなっていた。なんでだろう。よくわからないや。でも、あの子ともう一度会いたくないっていうのは、すごく大きくなって、わたしの体全体を蝕んでいた。
 どうしてあの子は死んでしまったのだろう。なんて思いはじめた。手のひらに余るほどの小ささだったから、まだ子猫だったんじゃないかな。母猫とはぐれたところを、襲われた、とか。いや、もしかしたら、母猫に襲われたのかも。まだ生まれてまがないのに、どうして死ななければいけなかったのだろう。かわいそう。かわいそうに。誰からも気づかれることなくこの子は土に還っちゃうんだ。
 それでも葬ってやるなんて発想はわたしに備わってなかった。食い散らかされた死体のごみくずの中から生まれたようなわたしたちにそんな優しさは持ち合わせていない。そんなものはどこかに落としたか、あるいは食べられてしまったか、あるいは自分で食べてしまったかのどれかだった。
「なんで死んだんだろうね」
 そしてなんでわたしは生きているのだろうと考えてしまうが、この都では誰もが一度は死んだようなふきだまりの集まりばかりだから、そんなことを思うこと自体愚かだった。わたしも一度死んでいる。瞳を閉じたことで一度死んだ。肉体が生きているのは、今が少し面白いのと、雨の日が嬉しいからだと思っている。
 けれど、そんな雨の日も、ついさっきの出来事でぐちゃぐちゃに踏みつぶされてしまった。ああ、こんな気持ちをどこかゴミ箱に捨てられないかしらん。
 気づけばわたしの目の前には大きな屋敷がそびえ立っていた。いつ見ても陰気で暗い影を落としている。屋敷の主そのものを代弁しているような雰囲気が好きではない。けれど、屋敷の中に足を踏み入れるときに漂う暖かみのある匂いは嫌いじゃなかった。
「ただいまぁ」
 重たい滴をエントランスにぼたぼたと落としながら、わたしは靴下を脱ぎ始めた。



 ◆



 煌々と燃える暖炉の灯りが、カーペットに赤みかかったひかりの色を落としている。ふわふわと浮かんでしまいそうな暖かさがじんわりと肌に染み込んでいく。手に持ったマグカップにはココアがたっぷり入ってずしりと重かった。かじかんだ指先が触れる。痺れて痛い。感覚が戻ってくると同時に、わたしは生きているのだな、なんてことを感じた。
 頭にかぶさったこわごわしたタオルの重みが心地いい。薪が燃えてちいさな爆発みたいな音と外から侵食してくる雨音以外この部屋には音が感じられない。ひかりも暖炉にしか存在しない。そういう、小ざっぱりとした必要最低限の環境がわたしには合っているみたいだ。嫌いじゃない。お姉ちゃんがわたしのために用意してくれたものだということも知っているが、知らないフリをしている。なんだか悔しいから。
「いつもずぶ濡れで帰ってくるのはどうにかなりませんか」
 暗闇の中からじとっとした声が聞こえた。お姉ちゃんの声だ。水っぽくて息苦しくなる。あんまり好きじゃないのに、なんだか妙に耳朶をくすぐってくる。
「いつもいつも靴下が汚れてなかなか落ちないのですよ。せっかく買ってあげた新品の靴下も、今日の雨で泥んこです。まったく、まったく」
「いいじゃない。あの模様、けっこう気に入ってるのよ」
「じゃあ、こいしが自分で洗いますか?」
「それはちょっとめんどう。だから、お姉ちゃんにまかせます」
「なら、もっとお姉ちゃんに気を遣ってくれてもいいじゃないですか」
「それもめんどう」
 苦虫を噛んで飲みこんだみたいに渋い顔をするお姉ちゃんをみて、きゃははとはしたなく笑った。意味のあるようなないような、どうでもいい駆け引きをするのがわたしとお姉ちゃんのコミュニケーションなのだ。触れることもなく探ることもなく見えることも見ることもない、ただ言葉の表面上だけを見つめるとてもとても簡単な初歩のやりとりに、数え切れないほどの時間を費やしている。
「今日の雨はどうでしたか」お姉ちゃんが呟く。こんな雨の中外に出たがるあたまのおかしいひとはわたしぐらいだから、こんな会話の始まりをするのもわたしたちぐらいだろう。
「んー……強かったね。けっこう、どばどばってくる感じ。バケツの水をひっくり返したような、っていう表現がピッタリ」
「そうですか。今日は、買い物に行っていたお燐も濡れて帰ってきまして、それはそれは酷い濡れ鼠ようでしたから、かなり酷いのだろうとは思っていました」
「お姉ちゃん、お燐は猫だよ」
「そうでしたね」
 ふふ、と面白いのか面白くないのか、よくわからない表情でお姉ちゃんは笑い声を漏らした。
 猫だよ、と口に出した瞬間、ちいさな鳥肌がぽつりぽつりと立ち始めているのを感じた。寒さのせいではない。そんなことわかっている。忘れかけていたことに気づいて、すこし驚いただけだ。
 あれほど暖かかったココアの中身が、途端にどす黒い液体に近付いているように見えて、わたしはぞくりとした。心が重くなっていく。わたしの体よりも重く。深いところに沈んでしまいそうな。
「こいし」
 その言葉に肩が震えた。お姉ちゃんの無機質でまっさらな表情の真中にある、瞳そのものをくりぬいてしまったような黒々とした目がわたしを見つめていた。お姉ちゃんの感情を読み取ることは難しい。この薄暗い部屋の中で、お姉ちゃんを見つけることすら難しいというのに。
「こいしは、ちゃんとそこにいますか?」
「お姉ちゃん。わたしが見えていないの?」
「いえ。そういうわけでは」
 わたしとお姉ちゃんの距離は、腕を伸ばせば届くぐらいの距離だ。お互いの姿が見えていないわけではない。そんなことはあり得ないのだ。あり得ないのに。
「ただ、いつも不安になります。あなたは雨が好きだから、いつかわたしとの会話に飽きて、またどこかへ出かけてしまうのでは、なんてことを、思ってしまう」お姉ちゃんは口許を歪めた。「ひとりで待つのも、すこし寂しいのです。すこしだけ」
「ふうん」わたしもちょっぴり笑った。「お姉ちゃんも、寂しいなんて思うんだ」
「失礼な。お姉ちゃんにもそのぐらいの気持ちはあります。お姉ちゃんですから」
「あ、今わたしを侮辱したね」
「そんなことありませんよ」
「棒読みがいやらしいなあ」
 でも、そんなお姉ちゃんが嫌いではない。
 わたしはもぞもぞと動いて、お姉ちゃんに近付いた。細すぎる体のラインがくっきりと映し出される。頼りなさげで折れてしまいそうな手の中に、紅茶の入ったカップが揺れている。背中を丸めて正座をしているお姉ちゃんの腕と膝の上にするりと入り込んだ。驚く顔を見つめてもよかったけれど、まっすぐ見つめられない気がしたから、暖炉のほうに視線を投げた。温いお姉ちゃんの膝の上に頭を乗せて、縦横がぐちゃぐちゃになった世界を見つめていた。
「こいしも寂しくなったのですか」
「ちがうよ」
「いけず」
「ちがうってば」
 別に雨の日が憂鬱になってもいい。それがわたしであってもいいのだ。雨の日が好きなこいしでもかまわない。そういった魔法にも似た心の動かし方は、雨の日特有なんじゃないかって思う。
 枯れ木のようなお姉ちゃんの指が、わたしの髪に触れた。まだしっとりと濡れているであろう頭を、梳くようにやさしく撫でていく。お姉ちゃんの指先は暖かかった。驚いた。昔触れた、あの冷たさがどこかに吹き飛んでしまったかのような熱を帯びていた。触れるたびに焼けつくほど、お姉ちゃんの指と、手のひらは熱い。驚きに目を開いて、ゆっくりと閉じていった。お姉ちゃんにもこんな変化があってもいい、と思えた。
 包まれている。お姉ちゃんのすべてに、わたしは今身体全てを預けて、お姉ちゃんそのものに包まれていた。暖かくて、懐かしい匂いがする。マグカップにココアが満ちる。甘い香りが鼻を掠めて、優しい気分になる。このまま眠ってしまいそうだった。
 わたしは、あのとき死にたかったのかもしれない。あの子の代わりに死んでしまいたかったのかもしれない。けれどわたしが死んだところで、あの子の胴体が見つかることはないし、あの子が生き返ることもあるはずがないのだ。わたしにだってそれぐらいはわかる。死んだものは生き返らない。
 わたしも生き返ることはない。
「あのまま死ねばよかったのかなあ」
 呟くと、お姉ちゃんの体がふるりと震えた。
「物騒なことを言いますね」
「今日、変なやつに会ったから」
「何か言われたのですか?」
「うんにゃ。……いや、言われたのかもしれない。よくわかんない」
「こいしの心を動かすほどですから、何か強く伝えるものがあったのでしょうね」
 羨ましいです、とお姉ちゃんはひとりごとのように言って、そのまま押し黙った。それきり言葉が続かなくて、ただぱちぱちと暖炉から漏れる音が部屋中を支配していた。
 わたしはいったいどうすればよかったのか、段々とよくわからない方へ思考が飛んでいく。それが今まで考えていたこととまったく違う方向へ向かっていることに気づいて、考えることをやめることにした。なんだかごちゃごちゃ考えるのはめんどうだ。わたしらしくない。
 ゆっくりと瞼を閉じて、少しお姉ちゃんの鼓動に耳を傾けてみよう、と思った。わたしと違ってお姉ちゃんは今も生きている。ゆっくりと、鈍重な速度で、それでも、生きている。暖かさが、その手のひらには蟠っている。
 とろとろ瞼が重くなって、すぐにふわりと浮きあがるような気分になった。遠くで、お姉ちゃんが何か言いかけたような気がする。おやすみ、かな。こいし、かな。どちらでもよかった。どちらでも嬉しい。


 こいし。
今日も生き延びちゃった。
赤間
作品情報
作品集:
2
投稿日時:
2012/02/04 02:28:32
更新日時:
2012/02/04 11:48:48
評価:
7/7
POINT:
680
Rate:
17.63
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こいし
さとり
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POINT
1. 100 名無し ■2012/02/04 18:18:52
失ったものは美しく感じ、手に入れたものは汚らわしく感じる。
姉妹の微妙な距離感が、思った以上に温かいものに感じました。
2. 100 名無し ■2012/02/04 19:27:08
こいしちゃん可愛いなぁ
切ないような不安なような、それでいてどことなく優しい話ですね。
3. 100 名無し ■2012/02/05 00:21:54
よい雰囲気のお話でした
4. 100 at ■2012/02/05 04:51:47
凄く日記です!
こういうの何かすきなんですよね…
5. 100 NutsIn先任曹長 ■2012/02/05 13:00:04
雨。
土砂降りの雨。
浄化の雨。
地底世界では無縁の雨。

道端の小石の罪が洗い流されることを、聡い隠者は怖れているのだろうか。
6. 100 んh ■2012/02/05 21:28:50
死骸も等しく濡らしてくれるなんて、雨はやさしい
7. 80 pnp ■2012/02/06 06:44:23
言い知れない魅力があるというのであろうか。
古明地姉妹は、こういう不安定な状態と言うか、べたべたしすぎないのも似合ってる
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