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『フィラデルフィア・エクスペリメント』 作者: sako

フィラデルフィア・エクスペリメント

作品集: 4 投稿日時: 2012/06/17 13:12:53 更新日時: 2012/06/17 22:12:53 評価: 6/9 POINT: 620 Rate: 14.33
 姫海棠はたては薄闇の中を携帯電話機能付きカメラを構えながら息を殺し、おっかなびっくりと進んでいた。
 視界は五メートルも効かない。隣に誰か立っていても誰だかわからないような距離。行灯でも持ってくればよかったとはたては内心で毒づいた。だが、はたての準備不足も無理はない。今はまだ正午過ぎ。本日の天気は快晴でこんな時刻に提灯なんて持って歩いていればそれこそ気でも触れたのかと思われてしまう事だろう。それでどうしてはたてが歩いている場所は真っ暗なのかといえば、なんてことはないここが閉めきった屋内だからだ。明かりといえば隙間から差し込んでくる僅かな陽光だけで、烏天狗ではあるけれど鳥目ではないはたてはしかし夜目は効かないのであった。おっかなびっくり闇の中を進んでいるのも無理強いからぬ。
 否。

「……」

 はたての顔には闇の中を手探りで進んでいる以上の恐怖の色が張り付いていた。一寸先が見えぬことを異常に恐れている顔。見えぬからこそ闇の中に何かいるのではといらぬ想像を抱きありもしない幻影に怯えているのだろうか。
 いいや、違う。ゆっくりと、しかしながら踵を返したいという強い誘惑にかられながらも歩を進めるはたての顔には恐怖と同じく確信的な色があった。

――この闇の中に何かがいる…!

 闇を見据えるはたての眼はたしかにそう言っていた。何よりその右手に構えられたカメラがその確信の現れである。

 ここはカッパの里の外れ。一見すれば倉庫か何かに見える寂れた建物の内部だった。はたては先日、ある情報を入手しその真偽を確かめるためにここにやってきたのだ。むろん、調べ上げ自分が発行している花果子念報の記事にするために。その情報とは…

『カッパの里の外れの廃屋にバケモノが住んでいる』

 というものだ。
 バケモノと聞いて幻想郷の事情をあるていど知りながら外の世界に住んでいる者なら小首を傾げることだろう。天狗から鬼、ゾンビから吸血鬼、果ては正体不明のスキマ妖怪までが跋扈する幻想郷。魑魅魍魎化物なんてそれこそ石を投げれば当たるぐらいありふれているじゃないか、と。けれど、幻想郷の中に住むものはその話を聞けば訝しそうに唇を尖らせるであろう。バケモノ? 化け物じゃなくてバケモノ? 化かす物ではないんだな、と。そう幻想郷には人を化かし驚かす物は数多くいるが化かしもせずただただ近隣住人から怪しく思われている物なんて存在は外の世界同様、あり得ぬものなのだ。わかりやすく言うならはたてが耳にした情報の文面自体が間違っている。正しくは、

『カッパの里の外れの廃屋に怪物が住んでいる』

 だ。
 怪しい物。妖怪ではないかといって人間でも妖精でも神さまでもない怪しげな物。それがこの廃屋に生息しているというのだ。
 この話を耳にした時のはたての顔は山中で一人松茸が生えているのを見つけた時のような笑みだった。外の世界でネス湖の恐竜やイエティなどが話題になるよう、幻想郷でも不可思議で怪しげなモンスターの話は最高のネタになるからだ。全身像を写真に収めるなりバケモノの正体を見極められれば文の文々。新聞にも勝てる、とそうはたては思ったのだ。その後、数日周辺で聞き込み取材を続けて情報収集に務めたはたてはこうして本日、ついにバケモノの住処と思われる廃屋に足を踏み入れたのだった。
 だが、勇み足だったのは入ってものの数歩までだった。埃っぽく暗い室内。微かに鼻につく腐臭。そして、この奥に何かがいるという事実がはたての足をすくませたのだった。うず高く積上げられた廃材の陰…その先がどうなっているのかわからない扉…ダクトらしき天井に設けられた穴…そこらかしこにはたてはバケモノの幻影を見た。実際にではない。暗闇と静けさで増幅された想像力が生み出した幻だった。けれど、近隣住人から聞いた『夜中に叫び声が聞こえた』『子供が壁の穴から覗き見したら何かが動いていた』『迷い込んだ野犬が数日後、死体となって発見された』などの話からやはりこの廃屋内に何かがいるのは間違いなかった。
 そして、極めつけは…

「ひやっ…!?」

 恐る恐る歩いていたはたては何かに足を取られ滑って転んでしまった。暗闇で見通しが悪かったせいもある。恐怖心で身体が竦んでしまっていたのもあった。そして何より鼻がひん曲がるような耐え難い悪臭がはたての運動神経を殺していたのだった。

「あいたた…もう、何よ…」

 強かに打ち付けた尻をさすりつつ身体を起こすはたて。と、その時、はたては自分の体がベッタリと何か泥のようなもので汚れているのに気がついた。

「うわっ、臭い、臭いわ。ナニコレ!?」

 このあたりに漂っている悪臭のもとはどうやらこの汚泥…のようなもののせいだった。思わず汚れた自分の指を鼻先に近づけてしまい、とたんに顔を背けるはたて。

「うぇぇぇ、気持ち悪い。こんなにくっさいので汚れたんじゃ、洗濯しても服に臭いがこびりついてそう。捨てなきゃ…ううっ、シャワーも浴びたい。こんな事なら行灯と…椛の奴でも連れてくればよかった…」

 ぐずり後悔するが全て後の祭りだった。はたてが今取れる選択肢は諦めて汚れた格好のまま帰って後日再調査するか、それともここまで汚れたのだからせめてその対価にバケモノの写真を一枚だけでも納めてみせようと先に進むかのどちらかだった。
 けれど、転んだダメージが大きかったのか、それとも心折れてしまったのかはたてはすぐには動かずグジグジ文句を言い続けているだけだった。

「くそぅ…ホント、最悪っ。くそっ、くそっ、く…ん?」

 と、悪態をついていたは立ては自分の手にこびりついている汚泥の中に何かが混じっていることに気がついた。なんだろう、と泥を拭ってみる。

「骨…?」

 それは確かにはたての言葉通りのものだった。小さな骨の欠片。見間違えではなかった。ガラスープなんかを作るときによく目にするからだ。なんだろう、とはたては自分が足を滑らした辺りも調べてみる。そこには汚泥がこんもりと小山をなしておりはたてはそれに足をとられたのだった。自分が足を踏み入れた部分に目を凝らせばそこにも骨やなにかしら野菜か果物の種のような物が混じっているのがわかった。

「まさか…これって…うんこ!?」

 その事実に気が付き、うっ、とはたては唸り声を上げた。両手で口を抑えようとして慌ててカメラを握りしめていたためまだ綺麗だった方の右手だけで抑えるも間に合わず、その場に嘔吐してしまう。

「ウゲェェェ…クソッ! クソッ! んで、こんな、トコに…うんこが…クソッ! クソッ!」

 えづきつつ悪態をつくはたて。もはや、はたての頭の中には取材のことなどこれっぽっちも残っていなかった。今はただただ一身に身体を清めたい気分であった。

「クソッ、しかも、なんて量よ。何? 熊でもいるの? この分だとお腹を壊してるみたいだけどねそのクマ。ああっ、クソ…クソ…」

 だからだろうか、その事実にはたてが気が付かなかったのは。排泄物の量は当然、摂取する食物の量に比例する。消化器官の構造に寄って前後はするだろうが食べて栄養分を吸収した残りが出てくるのだから。多く食べれば食べるほど沢山、出るのは当然だ。そして、たくさん食べられるということはそれだけ身体が大きいということだ。はたてが言った『熊でもいるの』という言葉はある意味正しい。ただ、里の外れとはいえこんな場所に熊がやってくるのはほぼあり得ないことだし、それ以前にはたては一体、何を探しにこの廃屋に足を踏み入れていたのか、それを忘れていたのはどうなのだろうか、という話だが。
 そして、もう一つはたてが気づかなかったことがある。

「クソックソックソッ…く…ん?」
――■■■■■■!

 それの接近だ。
 形容しがたい息遣いが聞こえはっ、とはたてが顔を上げるとそれはのっそりと廊下の角から半身を覗かせているところだった。はたてのわめき声を聞いて侵入者を排除しに来たのだろうか、それともまた排泄しにきたのだろうか。それはわからない。だが、確かにソレはそこに、いた。

「――――――――――ッッッ!!」

 瞬間、言葉にならぬ悲鳴を上げるはたて。人語を発する者の喉からこんな声が出るのかと疑わずにはいられない声だった。

――――――――――■■■!!

 呼応するようソレ…バケモノもまた声を上げた。悪魔にとりつかれた技師が愛妻の骨と愛娘の髪で作り上げた人体製のバイオリンを奏でたような声だった。三半規管に泥を流し込み、心さえも汚し、ニ分と聞けば自分で自分の耳を引きちぎりたくなる邪悪きまわりない叫びだった。

「ひぎぃやぁぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁ!!!!!!!?????」

 そこで悲鳴をあげつつもはたてが立ち上がったのは彼女の精神の強さ故ではなく全くの偶然だった。混乱し汚染し尽くされ発狂寸前だった彼女の神経がどこでどう伝え間違えたのか足に逃げろと命令したのだった。
 踵を返し、振り返ることなく、がむしゃらに、無我夢中で、それこそ右手と右足を同時に前に出しつつもはたては逃げ出した。

――――――――――■■■■■■■■■

 それを追うバケモノ。墓穴に死風が流れ込んだような声を上げ、ビチャリ、ビチャリと己がひり出した汚泥を勢い良く踏みつけ走る怪物。その巨体に反し、怪物の動きは機敏であった。当たり前か。熊はあの巨体で平地なら時速三十キロ程度で走ることができる。こんな狭い場所ならそこまで早く走るのは難しいだろうが、バランスを崩しながら必死に走るはたての背に追いつくのは時間の問題と思われるような速さだった。背後から聞こえてくる音がだんだん大きくなってきていることに気がついたはたては振り返り、今度こそ発狂したような悲鳴を上げた。

「イヤッ! 来るなァ! 来るな! 来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るなァァァ!!!」

 けれど、願いは虚しく、腐肉に包まれた怪物の豪腕がはたての背に触れ、そして…



◆◇◆



「で、なんで死んでないのアンタ」
「酷いッ!」

 黙って話を聞いていた文はそこでそんな外道じみた言葉を口にした。椅子ごとひっくり返りそうなほどのけぞり声を上げるはたて。

 ここは人里にある喫茶店。はたてが文に話があるといって連れてきた場所だった。

「いや、なんでかわからないけど、間髪、逃げ切れたの。どうやらあの怪物、明るいところは苦手みたいでで外に出たら追いかけて来なかったし」

 ふーん、とアイスコーヒーをずずず、と音を立て啜りながら気のない返事をする文。
 話の内容は説明するまでもないと思うが、冒頭のはたての恐怖譚だ。
 ここから先、はたての言葉より先に説明するならば命からがら怪物から逃げ切った彼女は糞尿まみれでカッパの里を放心状態で彷徨いているところを保護されたのだ。その後、身体を綺麗にしてやっても怯えるばかりで話すらまともにできなかったため、そのまま永遠亭の診療所へ入院させられたのだった。退院し、はたてが我を取り戻したのは永琳先生特製の向精神薬のおかげで今ではなんとか日常生活を送れるまで回復している。それでも、明かりを消して眠ることができなくなり、トイレの悪臭などを鼻にすればひどく気分が悪くなってしまう後遺症的なものはまだあるのだが。

「大変面白いお話だったわ。上手く文章にしてまとめれば結構部数擦れるんじゃないの。ホラー小説として」
「だから、事実だって!」

 ホラ、と言って左手を突き出すはたて。その指先、爪は白い部分が全くないほど深く切られていた。その五指すべてを見てから文はシャル・ウィ・ダンス? と小首をかしげてみせた。

「なんでよ。臭い嗅いでみてよ。あれから何遍も何遍も洗ったのに未だに臭いの! これが証拠よ!」

 そうはたてが手をつきだした理由を説明した途端、文は露骨に嫌そうに顔をしかめた。次いでテーブルに備え付けられた紙ナフキンを一枚とって汚物でもそうするようはたての指を摘み押し返した。

「遠慮するわ」
「ううっ、何よりその仕打ちが心に痛い…」

 涙目でウェットティッシュを取り出し丹念に自分の手を拭うはたて。実際に臭うかどうかは不明だが、少なくともあの強烈な悪臭は今もはたての鼻孔にこびりついているのだろう。どんな強力な石鹸でも濯げぬトラウマとして。

「大体、貴女も記者の端くれなら写真の一枚ぐらい納めなさいよ。それを貴女の亡骸と一緒に私が発見して『はたて…貴女の死は無駄にしないから』って展開が王道なのに」
「なんでそこまで私を亡き者にしたがるの、文ぁ…」
「嫌いだから。で、写真は?」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ。あー、うん、で、写真…てか、カメラね。それがね…」

 言葉尻になるにつれ小さくなっていくはたての言葉。苛立ちげに文は「聞こえないからもっと大きな声で喋って」と怒鳴ったが、はたての声は大きくなることはなかった。仕方なく、溜息混じりにはたての方に耳を寄せる文。

「…たの」
「え?」
「だから、落としたって言ったの!」

 最後の最後で音量を上げたはたて。さしもの文も驚き、慌てて顔を離す。どうやら、はたての仕返しだったようだ

「っう…落としたって、その廃屋にですか?」

 苦虫を噛み潰したような顔で再確認を取る文。はたてはうん、とどこか申し訳なさそうに頷いた。それを聞いて文は呆れ顔で額に手を当てたまま天井を仰いた。

「記者がカメラ落とすって、それ兵隊さんが鉄砲落とすのと一緒でしょう。本当にありえない。アンタバカぁ?」
「ううっ」

 元祖ツンデレの真似をしてはたてを指さし嘲りの視線を向ける文。はたては借りてきた猫より身体を小さくするほかなかった。

「だって、あんな風に襲われちゃ、誰だって一々、落としたもの拾っていられないわよ。生死に関わるもん!」
「そもそも手放すのがおかしいんですって」

 はぁ、と文はため息。もはやはたては何も言い返せない様子だ。

「大体ですね、怪物なんて物騒なものの取材、二、三日周辺で聞き込みしただけで徒手空拳で行くなんてのがおかしいんですよ。それ相応の準備と情報収集をしてからでしょう普通は」
「中に入って五分で私も同じ結論に達したわよ…」
「それ以前に不法侵入じゃないの、ソレって。記者たるもの正々堂々不法侵入するならまだしも本当に人知れず忍びこむのはどうかと思うわよ。それで特ダネ掴んでも情報の出どころを追求されたら次の日の朝刊は自分の緊急逮捕の記事になるじゃないの」
「いやいや、後半の屁理屈はいいとして前半は私が言うべきじゃないけど明らかにおかしいよね」
「どの口が言うのかしらねルーキーが。兎に角…」

 言いつつ文は立ち上がった。不思議そうに文の顔を見上げるはたて。

「さっさと行くわよ」
「行くって…どこに?」
「その廃墟の今の持ち主の河城にとりのトコ」
「えっ、ええ?」

 文の言葉に今度こそはたては仰天しひっくり返った。


◆◇◆


 話を聞けば実は文も件の怪物の件を追いかけている途中だったのだという。ただし、はたてなどとは違いその取材は念密なものだったが。聞き込みの取材に関してもはたての倍以上の時間をかけており、また件の廃屋に突入する準備も怠ってはいなかった。
 その最後の下準備として文はカッパの里での聞き込み調査の上で発覚した廃屋の持ち主――河城にとりの所へ行こうとしていた処だったのだ。

「まぁ、多分、留守でしょうけれど」
「なんで? もしかしてもう何回か会いに行ってたとか?」
「うんにゃ。行くのはこれが初めてですよ。ただ…」

 聞き込み中も本人の姿は見ていないし、そう言えば最近にとりのことを見ていないなぁ、と応えるカッパも何人かいた、と文。その言葉にはたては薄ら寒いものを覚える。

「行方不明…ってこと」
「断定は出来ませんが可能性は大ですね」

 怪物が住み着いている廃屋の持ち主が行方不明。ここで安易に恐ろしい想像をしてしまうのは記者として失格なのであろうがはたてはあの薄暗闇の中で横たわるカッパの死体を思い浮かべずにはいられなかった。それにむしゃぶりつくあのバケモノの姿も。

「もしかすると自分の敷地内に入り込んだ怪物を倒す手段を講じるため家から離れているのかも。ま、記者たるもの自分の目で見たもの以外は当てにしちゃ駄目ですよ」

 そうね、と文に相槌をうつはたて。程なくして件の河城にとりの家が見えてきた。
 にとりの家はカッパの里では一般的な平屋でカッパの技術力の高さに反比例してみすぼらしいなりをしていた。庭はおろか道との境界線などなく、家の側には何に使うのであろう一見するとよくわからない機械類が野ざらしのまま放置されていた。錆び付いていないところを見るとアレもカッパの発明らしく完全防水性なのだろう。その錆び付いた機械に一本、竹箒が無造作に立てかけられていた。

「ごめんくださーい」

 玄関前に立ち、文が声を上げた。小さな家だ。大きな音を立てる機械で作業していないか寝ていない限り聞こえる音量だった。

「すいませーん、河城にとりさんー」

 もう一度、声を上げる。けれど、家の中から返ってきたのは沈黙ばかりで「はいはいただいま」なんて声も慌てて廊下を走る音も聞こえてこなかった。

「留守かな?」
「どうかしら」

 言って文はちらりと視線を扉横の壁に向けた。そこにはブリキで作られた郵便受けがかけられている。河城宅の郵便受けだろう。そこには口からはみ出すほど大量の葉書や新聞が詰め込まれていた。

「これがにとり流『玄関の素敵な飾り』じゃないとすれば十数日は彼女は手紙や新聞なんかを見なかったってことになるわね」
「ホントだ。二週間前発行の文々。新聞があるって、にとりって子アンタの新聞の読者じゃないの!?」
「……大勢の人にとってもらってるからね。誰かさんの新聞と違って。一々、誰に渡したかなんて覚えてないわよ」

 嫌味を交わし合った後、しばし沈黙する二人。これからどうするのか考えていたのだ。
 と、

「…?」

 もう一歩、河城宅の玄関に足を近づける文。どうしたの、とはたてが問いかける。

「シッ! 物音が聞こえました」
「それって…!」

 なおも何か言おうとするはたてを睨みつけて黙らせ、文は玄関の戸に耳を寄せる。けれど、物音らしきものは何一つ聞こえて来なかった。幻聴だったのだろうか。それでも聞き耳を立てる文に倣うようはたても戸に耳を近づけようと手を伸ばした。すると、

「あれ、開いてる…?」

 戸は特に苦もなく開いてしまった。ガラガラ、と音を立て引き戸が数センチの隙間を作る。

「鍵かけてなかったのかしらん。無用心だなぁ」
「…どうでしょ」

 開いた戸とその鍵を見て訝しげに眉をひそめながら文は呟いた。どういうこと、と視線だけではたては文に問いかける。文の応えもまた視線だけだった。

――そこ見てみなさい。

 そう言わんばかりに玄関の鍵穴に視線を向ける文。穴の周りには明らかに最近ついたと思わしき傷が刻まれていた。鍵はかかっていなかったのではない。誰かが壊した後だったのだ。互いに顔を見合わせる文とはたて。バケモノ、というどちらかと言えばゴシップに属するようなネタを追いかけていたらどうにも関係者が行方不明でその上、その行方不明者のの家の鍵が壊されているという明らかな犯罪行為の跡を発見してしまったのだ。さしもの二人も怖じけつかざるをえないのだ。

「行きましょう。開いてるなら、好都合です」
「…えっ、いや…うん」

 それでも二人共腐っても、いや、腐った記者か。これを好機と見て文は戸に手をかけた。はたても一瞬、文を止めるようなことを口に仕掛けたが結局、その言葉は飲み込んでしまった。開けた戸に文が先に入り、はたてが後に続く。

「ッ…」

 室内は当然、薄暗かった。それでも目を凝らさなくても薄ぼんやりと何が置いてあるのか分かる程度の明るさはあった。文は土足のまま躊躇いなく玄関から上がり、姿勢を低く息を殺しながら進んでいく。

「あ、文ぁ…」

 その背にはたてが声をかけてきた。なんですか、と苛立たしげに振り返るとはたては未だ玄関に一歩足を踏み入れたところで止まっており、それ以上は進めないと言わんばかりに小さく震えていた。まるで吊り橋を前にして足がすくんでいるかのようだった。
 いや、それはあながち間違った例えではなかった。はたては恐ろしいのだ。この程度の薄闇でも。あの廃屋での出来事を思い出してしまって。

「まったく」

 その事に文も気がついたのか、ため息を漏らすと彼女は玄関まで戻っていった。そして、はい、と手を差し出す。その手と文の顔を交互に見て不安げに青ざめていたはたての顔はぱぁっと明るくなった。

「デレだ! あややがデレた!」
「ほう、随分と余裕じゃないですか。じゃあ、一人で行けますね」
「わぁぁぁ、ごめんなさい。マジスイマセン。お手を拝借してもらってもよろしいでしょうか」

 さっさとして、と吐き捨てる文の手をとってなんとか玄関から家の中にあがるはたて。

「ありがと、文。でも、土足でいいのかな」
「いいでしょ。先客が居るみたいだし」

 言って視線を下げる文。薄闇の中、まっすぐ伸びる廊下には土の跡が残っていた。もちろん、一本歯の高足下駄を履いている文が残した跡ではない。きちんとした普通の靴の跡だ。先に来客があったという証拠だ。それもこそ泥のような侵入方法で。
 腰をかがめ足跡に触れてみる文。まだ、土は湿気っている。侵入者は何時間も前にこの家に入り込んだのではないという証拠。もしかすると、いや、ほぼ確実に侵入者は文たちが来るほんの数分前に鍵を壊してこの家の中に入り込み…そうして、まだ出てきていない。誰かがこの家の中にいる。文はそう確信する。

「……」

 ごくり、とはたては生唾を飲み込む。いよいよもってあの時と状況が似てきた。悪臭や異様な暗さはないが、それでもこの薄闇の中に正体不明の何かが居るということははたての足をすくませるのに十分だ。

「いきますよ」

 そう言って先にいく文。心なしか声が緊張しているように固いのは決して怖気づいているはたてに苛立ちを覚えているから、ではないだろう。薄暗い廊下を進んでいく文。人の気配は…一応、ない。ただ、それは家の中にいる誰かが生活音を立てていないというだけだ。息を殺し、ロッカーの中や木箱の裏に身を潜めているのであればその限りではない。いや、おそらくそうであろう。さしもの文の顔にも緊張の色が浮かんでいた。
 どこに隠れている。一定の歩調で視線を左右にゆっくりと動かしつつ、特に自分の死角になっている部分に注意する。にとりの家は発明家らしく廊下だろうと構わず色々なものが置かれていた。スパナやドライバー。何かの部品。大きな木箱や大きな樹脂フレーム。注意しないと歩くのさえ危うい。
「……」
 ただ、それら廊下に置かれた邪魔っけな物は特に荒されている様子はなかった。工具箱や大きな廃エンジンの上にはうっすらと埃が積もっており誰かが触れた形跡はなかった。足跡だけがこの家の中に侵入者があった事を示す明確な証拠だ。だが、この薄暗い中をこれらの物品に手も触れず足もぶつけず歩くことははたして可能なのだろうか。文でさえもう何回も壁に立てかけた木材や棚に手を置いてそれらにぶつからないよう歩いている。はたてなんてもう何度もボルトやナットが入った小物入れを蹴飛ばしたり、膝を用具棚にぶつけたりしている。こんなごちゃごちゃとした中をすんなりと歩けるのは勝手知ったる我が家の持ち主だけだろう。それか勝手知ったる他人の家を地で行く人物か。
 侵入者が一体何者なのか、それを考えつつも文はまっすぐ危なけなぐ薄闇の中を進んでいく。その後ろをおっかなびっくり腰を低くしながらはたては付いて行っていた。文とは対照的な警戒心に満ちた動き。視線を左右にキョロキョロ、聞き耳を小動物のように立てている。だが、逆にそこまで過剰に周囲を警戒していればむしろ足元がお留守になりかねない。案の定…

「うわっ…!?」

 見落としていた大きなドライバーの柄を踏みつけバランスを崩し前のめりに倒れるはたて。

「きゃっ!?」

 それに重なる悲鳴。自分の前方だけに注意を払っていた文が後ろから聞こえてきた物音に驚き上げた声だ。いや、それだけではない。

「うわっ!? クソッ!」

 もう一つ、更にそこに声が重なる。悪態混じりの驚きの悲鳴。はっ、と文が振り返ればそこには来る途中には全く気が付かなかった収納スペースから半身を出している黒衣の姿があった。

「クソ、見つかった!」

 存在が露見したことが分かると黒衣の人物は一目散に逃げ出した。隠れていた収納スペースから出ようとしたまさにその瞬間にはたてが転び、その物音に驚いて声を上げてしまったのだろう。もしそうでなければまんまと黒衣の人物は文たちから見つからずにこの家から出ていくことに成功したはずだった。

「待てッ!」
「ぐぇ!?」

 踵を返し黒衣を追いかける文。途中、響いた蛙を踏みつぶしたような悲鳴ははたてのものだ。狭い廊下では避けることかなわず、躊躇いなく文がはたての背中を踏んでいったからだ。
 黒衣の人物はかなり小柄なようで雑多に物が置かれた廊下をネズミのように進んでいく。足には自信がある文だったが流石にこの狭い場所では逃げる侵入者に追いつくのは難しそうだった。侵入者は逃げざまに棚や鋼材を倒していきバリケードを作って更に文の足止めを試みる。

「くっ…だったら…ド、ドロボー!」

 行く手を遮る大きな樹脂フレームの前で足止めを食らった文は走る代わりにそう大きな声で叫んだ。それこそ外にまで聞こえるような大きな声で。なんだと、と一瞬、逃げる黒衣が振り返る。自分は泥棒ではない、不法侵入しただけだと言わんばかりに。だが、そうは思わない人物は当然いるわけで…

「何っ!? 泥棒!? 逃すかっ!」

 のーびーるアームが家の外に踊りでた黒衣の侵入者を捕らえた。悲鳴をあげ、大きなマニピュレーターで地面にへと押さえつけられる黒衣。

「クソっ、離せ…!」

 大きな手の平に押さえつけられながらもがく黒衣。頭に被っていた三角帽がずり落ち、綺麗な金髪が白日のもとにさらされる。その顔は遅れて何とか障害物を乗り越え外に出てきた文もよく知っている顔だった。はっ、とその人物の名をくちにする。正体がバレた黒衣もまた逆光で見えにくくはあったが自分の身体を押さえつけているカッパの少女の名を呟いた。

「魔理沙さん?」
「にとり…?」

 だが…

「? 違うよ」

 後者だけは不正解であった。



◆◇◆



「で、こいつは一体、何を盗んだんですか?」
「いやぁ、どうもそういう訳ではなかったようで」

 訝しげに眉をひそめるカッパの少女に文は職業訓練で身に着けた人当たりのいい笑みを浮かべながら曖昧に応えた。

「どうもスイマセン、私たちの勘違いだったみたいで」
「はぁ…」

 訝しげそうなカッパ少女の眉尻は下がりっぱなしだ。それでも文にそれ以上、何か追求しないのは面倒事に巻き込まれたくないからか、興味が無いからか、それとも妖怪の山でのカッパと天狗のヒエラルキーの差ゆえか。判断はつかない。

「まぁ、いいですけれど。ところで…」

 カッパの少女は文に向けていた視線を今度は別の人物に変えた。視線の先にいるのは魔理沙だ。のびーるアームではなく荒縄でしばりつけられ、地べたにあぐらで座っている。その口は糊付けされたように閉ざされていた。

「……」

 少女の言葉に魔理沙は一言も言葉を返さなかった。黙秘権を行使しているようだった。

「キミ、私のことにとりと間違えてたけど 。もしかしなくてもにとりの知り合いなの?」

 だが、黙り込んでいるだけでその表情には大きく変化が現れていた。ブラックのコーヒーを飲んだようなしかめっ面はカッパの少女がにとりについて問いかけるにつれだんだんとエスプレッソでも飲まされたように、それからとても人間の舌では味わえないような劇薬じみた濃さの物を無理矢理飲まされたように変わっていった。粘着く脂汗を流し、歯を食いしばり、親の敵見るような目で地面を睨みつけ始める魔理沙。

「あの子、最近見ないんだけれど…」
「や、やっぱり家に帰ってきてないのか!?」

 少女の言葉にハッと顔を上げる魔理沙。それも一瞬、すぐにしまったと顔をしかめる。

「やっぱり知り合いなのね。しかも、なんか知ってる様子。ねぇ、にとり一体どうしたの? カッパ仲間も心配してるんだけど。ねぇ、なにか知ってるならお願いだから教えてよ」
「し、知らない。知らないぜ。にとりのやつなんて。私は…そう、私はただそこの家にドロボウに入っただけだぜ。さぁ、警察でも岡っ引きでもどこにでもつき出しやがれ!」

 そっぽを向き、そんな演技がかかった負け惜しみのようなセリフを吐く魔理沙。まるで我儘な子供のようだ。悪事がバレたのに未だにシラを切り通しているように見える。

「キミねぇ…」
「まぁまぁまぁ」

 呆れ顔をしながらもしっかりと怒りのこもった目でカッパの少女は魔理沙を睨みつける。もう一言でも魔理沙が彼女の神経を逆なでするような言葉を発すればそのまま掴みかかりそうな勢いだった。だからだろうか、そこに文が割って入ってきたのは。

「知らないとおっしゃってるんですから、本当に知らないんでしょう」

 助け舟のような言葉に魔理沙は文に顔を向ける。その顔に微笑み返す文。が、

「ところで魔理沙さん、実は私もお聞きしたいことがあって。にとりさんが行方不明になる前に、里の外れの倉庫を借りていたそうなんですが、最近その倉庫にですね、『バケモノ』が現れるらしんですよ。その件について何かご存知ありませんか?」

 口から出たのは質問、というより尋問じみた圧力が込められた言葉だった。さーっと栓を抜いたように魔理沙の顔から血の気が失せていく。明らかに何かを知っているという証拠だった。

「ば、バケモノ…」
「ええ、そうです。バケモノです」

 青白い顔をしてカタカタと震える魔理沙の口からぽつりとその単語が飛び出る。恐怖に心を蝕まれたものの反応。その様子を見てはたてははっと気がついた。

「魔理沙、まさかアンタも…」

 そうはたてだからこそ魔理沙のこの反応が何に起因しているのかすぐに理解できたのだ。ただ、はたてもその事実を確認するのには少々の労力がいった。生唾を飲み込み、恐る恐る触れるように手を伸ばしそうして…

「アンタもアレを見たの?」

 勢い良く顔を上げた魔理沙の反応がそうだと応えていた。
 そうだ、この背骨に氷水でも流し込まれたように顔を青くしてガタガタ震え、そのくせ油のようにねっとりとした汗をかく有様…それこそが心に癒しがたい恐怖による傷を負った者の反応なのだ。はたてがそうであったように。

「私達、あの建物に住み着いたバケモノについて記事を書こうと思って調べてるんだけど、何か知ってるの? だったら教えてよ。アレは一体、なんなの?」

 はたても魔理沙ににじり寄り詰問する。その声が張りつめて聞こえたのははたては純粋に真実を知りたいという欲求以外に、自分の心にヘドロのようにこびり付いたトラウマを拭いたいという思いがあったからだ。自分を襲ったあのバケモノがなんなのか、その正体の一端でも分れば少しは気分が軽くなるのでは、そう無意識のうちに想いそれを声に出していたのだ。

「あれは…」

 顔を上げ、震える声で話し始める魔理沙。その目の焦点は合っていない。まるで麻薬中毒か精神病患者のようだ。そんな魔理沙に詰め寄り期待の籠もった目を向けるはたて。さしもの文も平静を装うことは出来ないのか横目でまじまじと魔理沙を見ている。カッパの少女だけは興味なさげにしていたが。

「ううっ…」

 けれど、待てど待てど魔理沙の口からは説明らしい説明は出てこなかった。なにか、はたてを上回るトラウマによって魔理沙の口の蝶番はがっちりと錆び付いてしまっているのだ。半開きの口からは苦悶の声のようなものしか出てこない。
 これはダメだと文は内心でため息をついた。経験上、魔理沙のように酷い鬱状態になった取材相手から何か有用な情報はまったく引き出せないことは分っていた。心が死にかけているのだ。説得も情に訴えかけることも、金銭などで取引することも無理だ。理性的、感情的、合理的、すべての判断が出来ないのだから。
 それだけ思いを巡らせた時、もう既に文の頭の中から魔理沙のことは綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。これ以上、なにかを聞き出すのは無理なのだから取材対象として見る必要はないとばっさりと切り捨てたのだ。頭の回転が早い彼女はもう既に次の事を考え始めている。はたてを連れてあの廃屋に行くか、それとももう少し情報収集するか。
 と、

「あの、天狗さまたち、あの里の外れのバケモノについて調べてるんですか?」

 それまで黙っていたカッパの少女がおずおずと話しかけてきた。ん、そうですよ、と軽く返事する文。既に文はカッパの里である程度、聞き込みをしておりこれ以上彼女らから有益な情報は手に入らないと思っていたのだ。この少女からも他のカッパたちから聞いた話以上のことは聞けないと、特にその件について聞こうとは考えていなかった。

「それなら里の自警団の人たちが一番よく知っていると思います。山から野犬が下りてきた時とか危険な妖怪が迷い込んできた時、対策に当たるのがあの人たちの仕事ですから」

 案の定、少女がまず語った言葉は既に文の知るところだった。カッパの里自警団には真っ先に取材に行った。そこで聞いたのは『里の外れにバケモノがでる? ああ、らしいですね』程度のものだった。少女は自警団をその名の通り自らを警護する団だと考えている様だが文の見立てではあれらが出来るのはせいぜい、火の用心の見回りぐらいだ。対策は勿論、大した情報収集もしていない無能者の集まり――そう思っていた。だが…

「ああ、でも、今日あたり退治しに行くって話も耳に挟んだような…」

 思いもがけぬ事を少女は口走った。
 その言葉を聞いた時の文の反応は『あら、意外』程度のものだった。自警団から話を聞いていたときは名ばかりの天下り機関じみた役に立たない団体だと感じたのだが一応やることはやるのだと思ったぐらいだ。はたてもそれに近かった。むしろ、自分を殺しかけたバケモノなど早く殺しちゃってよとさえ考えた。思いもがけなかったのは鴉天狗の記者二人ではなく…

「そんな…嘘だろ!?」

 魔理沙であった。
 あれほどの鬱状態から一転、魔理沙は立ち上がり動揺と驚きの籠もった目をカッパの少女に向けていた。

「いや…だって、里でも襲われた人が何人かいるって話だし、夜な夜な不気味な声で鳴いて寝れないし…いくら大らかな私たちでも、里にアンナのがいるのは耐えられないよ」

 魔理沙の態度の急変に困惑した表情を見せながらももっともなことを言う少女。確かに、自警団の行動は間違っていないだろう。それが彼らの仕事であるのだから。

「クソっ!」

 けれど、どうやら魔理沙はそれが許せないようだった。後ろ手に縛られたまま走り始める魔理沙。けれど、人間、手を縛られていてまともに走れるわけがない。ものの十メートルと進まないうちに無様に魔理沙は倒れた。手を付くことも受け身を取ることも出来ずに顔から地面の上に倒れる。

「ああ、もう! 大丈夫!?」

 魔理沙に駆け寄るはたて。魔理沙は倒れてなお進もうと芋虫のように藻掻いていた。顔に付いた土や擦り傷はまるで気にしていない様子だった。それほどの焦りを感じているのだろう。

「ちょ、じっとしていて。取り敢ず、縄、解いてあげるから」

 拘束を解いてやって譲歩すれば一体どうしたのか、話をしてくれるとでも思ったのだろうか。だが、はたての打算、或いは善意を魔理沙は無下に打ち払った。拘束が解かれたばかりの手ではたてを突き飛ばし、勢いよく立ち上がると魔理沙はにとりの家の玄関の方に平手を翳した。手に小さな魔方陣の輝きが灯る。と、玄関先に置かれていた機械に無造作に立てかけられていた箒がまるで磁石でも仕込まれていたようにまっすぐに魔理沙の方へと飛んできたではないか。立てかけられていた箒は魔理沙愛用の物だったのだ。それを魔法で呼び寄せたのだ。魔理沙は箒に跨がるとはたてから逃げる勢いを利用してそのまま飛び去って行ってしまった。

「あっ、逃げるな!」

 慌てて後を追いかけようとするはたて。その肩をむんずと掴む者がいた。文だ。

「…大丈夫です。行き先は分ってます。それより今度はちゃんと準備していった方がいいですよ」

 頷くと文は魔理沙を追いかけるではなくにとりの家の方へと歩き始めた。焦りながらも魔理沙が何処に行ったのか分らずはたては文が戻ってくるまで待つしかなかった。せめてもの救いはそれは短い時間で済んだということだけだった。

「はい。これで大丈夫でしょう」
「はいって…ナニコレ?」
「ランタンですよ。暗いと聞きましたから」

 戻ってきた文の手には古めかしい灯光器具が握られていた。


◆◇◆


「さっきのは一体、なんだったんだ?」

 訝しげな視線で割れた窓を眺めながら老カッパは呟いた。さぁ、と隣の若いカッパも同じような顔つきで頷き返す。

「それで、どうします? もう、予定の時間は過ぎてますけど」
「うむむ…しかしなぁ」

 腕を組み首をかしげる老カッパ。普段は温和そうな、縁側で孫の相手でもしているのがお似合いのカッパはけれど今、とても重要な決断を迫られようとしていた。
 彼らはカッパの里の自警団だ。お手製の防護スーツ(防水性)に身を包みある建物を団員全員でぐるりと取り囲んでいる。その建物とは…言うまでもなくあのバケモノが出ると噂の廃屋じみた倉庫だ。少女が話していた通り彼らは今日、廃屋に出現するというバケモノを退治しにやって来ていたのだが、あらかたその準備を終えたところに思わぬ闖入者が現われたのだった。闖入者は黒い影でまっすぐに獲物を狙うハヤブサのような速度で窓を突き破って倉庫の中にへと入っていってしまった。
 不測の事態に備え様々な準備をしていた…とはいいがたいもののそれでもこの闖入者の登場は彼らにとって完全に予想外であった。元より平和主義者で発明以外はちゃらんぽらんに考えるカッパたちにとってバケモノ退治だけでも気の滅入る作業であるのにその上、黒い影の乱入があったとなると完全にお手上げ状態になるのも無理はない。自警団の長である老カッパが方針を決めかねているのもふがいない話ではないのだ。

「あの…団長」

 そこに更に頭を抱えるような問題がやって来た。団員の一人が更に困惑した面持ちで老カッパの所にやって来たのだ。

「どうかしたのか?」
「それが、お客様で…」
「どうも、毎度おなじみ清く正しく美しく射命丸文でございます」「姫海棠はたてよ」

 必要以上に脅えるカッパの後ろに鴉天狗の記者二人が立っていた。




 バリケードを退けて貰い、文とはたては倉庫の中へと入っていった。相も変わらず倉庫の中は腐臭と埃っぽさに満ちていた。光といえば僅かに差し込む陽光だけで、殆どは暗闇に満ちていた。
「はたて、灯りを」
「言われなくても…はい」
 しゅっ、とマッチを擦ってランタンに火を灯す。多少、暗闇は見通せるようになったがそれでも見えるのは数歩先のみだ。それでも二人はその微かな明りを頼りに進まなくてはいけない。
 自警団が取り囲む廃屋にやってきた二人は老カッパを説き伏せ、『バケモノ退治』を一時中断して貰った。中に勝手に入ってしまった魔理沙の身を案じて、というより無論、取材のためだ。妖怪でも八百万の神でもましてや人間でもない紛れもない『バケモノ』。簡単に退治してしまうにはあまりに惜しい特ダネだ。それにあの霧雨魔理沙がそのバケモノと何か関係があるらしい。その事も文の興味を引いた。絶対にモノにしてみせる。餓えた鷹のような目を光らせる文であった。
 逆にはたてはどちらかと言えばさっさと退治して欲しいところではあった。この倉庫にももはや二度と入りたくないと思ったぐらいだ。入るのならば今度こそ死んでしまいたいぐらいだと。だが、そうもいかなかった。やはりはたてにも記者としての野望があったし、本人は自覚していないが自分と同じように『バケモノ』の姿を見て心に深い傷を負った魔理沙に同情もしていたのだ。
 かくして二人は弱々しい光に照らされた廃屋の中を進む。バケモノと魔理沙を捜して。

「…どこら辺でアレに遭ったか憶えてませんか?」
「憶えてないわよ。真っ暗だったし。入った場所も違うから。ああ、でも…」

 クマがしたような大きな糞の山があったことを思い出し、はたては恐怖ではなく嫌悪感で顔を青ざめさせた。文が急かすように声を上げたがはたてはなにも言えなかった。

「まぁ、いいけれど。兎に角、闇雲に歩き回って探すしかないかしらん」

 そうはいいつつもランタンの光に照らされた文の顔は険しかった。確かに特ダネを求めてバケモノの住む廃屋にやって来たものの当のバケモノに襲われる可能性もあるのだ。注意して進まないと、はたての二の舞、或いはそれよりも酷い事になりかねない。今回ばかりは突撃取材、とはいかないようだ。

 はたてが案内出来ないと分ったのでランタンを手に先行する文。ランタンの光は通路を薄ぼんやりと照らす。だが、その弱々しい光のせいで影はむしろ色濃く映った。
 これは――と文は知らずの内に生唾を飲み込む。
 成る程。文ははたての事を馬鹿にしていたが、確かにこれは精神力を削られる探索だ。いつ襲われると知れぬ故に常に気を張り続け、そのせいで集中力は最大限に発揮せねばならず、自分の管理下を離れた想像力は勝手に脳を酷使しいらぬ妄想をかきたて心の力を奪い去っていく。歩く速度は昼間、舗装された道をそうする時の七割方、と言ったところか。遅い。天狗がこんな暗がりでおっかなびっくりのっそりと歩くなんて、と文は自尊心を傷つけられたように或いは自嘲するように顔を歪める。だが、足は早く動いてくれない。まるで関節が錆び付いてしまったかのように。だが、文などはまだマシな方だろう。

「ま、まってよ…文ぁ…」

 後ろから泣きそうな声をかけられ文は足を止めた。また、はたてが尻込みし進めないでいたのだ。
文は一瞬だけ思案したように首をかしげると、黙って来た道を戻りはたての手を掴んだ。

「あ、ありがと…」
「いいから早く行きましょう」

 文の行動に少し面食らった顔をするはたて。また、何か嫌味か小言かを言われると思っていたのだ。だが、はたての予想に反して文はすぐに彼女の意を汲んで行動してくれた。やっぱり、やさしいなぁ、文は、と声には出さずそう考えるはたて。二人で来れて良かった、とも。

「……」

 だが、魔理沙はそうではない。一人でここにやって来たのだ。しかも、装備らしい装備もなく。あの時、はたてが見た限り、魔理沙は手ぶらに近い状態でろくな装備をしてないなかったように思えた。しかも、魔理沙は人間だ。魔法が使え妖怪たちと弾幕ごっこで渡りあえるといっても所詮は人間。バケモノに襲われればはたてや文以上にひとたまりもないだろう。灯りに関してはそういう辺りを照らす魔法のようなものが使えるかも知れないが、せいぜいそれだけだ。早く見つけて合流しないと、魔理沙の身が危ない。同じくバケモノに襲われた物同士かはたては魔理沙に奇妙な親近感や仲間意識を持つようになっていた。

 だが、その想いも虚しく、二人の耳に悲痛な叫び声が聞こえてきたのだった。

 顔を見合わせる二人。
 ――今の声は?
 ――魔理沙さん?
 と視線で語り合う。建物内で反響し聞こえてきた声は確かとは言えなかったが魔理沙の声によく似ていた。いや、常識的に考えれば魔理沙で間違いない。そして、恐らくはバケモノに襲われた、ということも。

「はたて」「うん」

 頷き、足を速める二人。この暗さと狭さでは走る事は出来ないがそれでも命一杯速度を上げた。叫び声が聞こえてきた方に向かって。進むにつれ、鼻孔に届く臭いははっきりと悪臭と形容できるものに変わっていった。否応がなしに緊張感が高まる。

「ここは…っと、とまって文」
「どうしたんですかっ?」

 その道中、不意にはたては足を止めた。耐え難い悪臭が引き金となって廊下の作りや無造作に置かれていた廃材が見たことがあるものだということを思い出したのだ。それを確信づけるため、もう少し先を照らして、と文に言う。

「やっぱり。ここで私、襲われたんだ」

 高く掲げたランタンが照らし出したのは山のように盛られた悪臭の発生源たる糞便の山だった。そのすぐ傍にははたての携帯電話型カメラも落ちていた。

「危ないところでしたね。このまま進んでたら誰かさんみたくうんこの山ですっころぶ所でしたよ」
「その言い方は酷くない?」

 はたての言葉には何も言い返さず糞便の山を迂回し進み始める文。はたても落していった自分の携帯を拾い上げると、具合を確かめることなく取り敢ずポケットにしまい込んだ。
 ここははたてが襲われた場所。だとすれば、おのずと先程の叫び声もまた、という考えに至る。そこから先、二人は示し合わせたわけでもないのに息を殺し忍び込むよう足音も立てずに進んでいった。まるでそうすることがこの場所に課せられた新たなルールであるように。否、あながち間違いではない。気づかれてはいけないのだ。大声を上げてはいけないのだ。石のように黙り闇のように静かに。ここでは静寂こそがルール。ルールを破っていいのは家主だけで、まかり間違っても大声など上げてしまえば…

「ッ…魔理沙さん」

 こうなる。
 廊下を進んだ先、木箱がうずたかく積まれ迷路のようになった場所の一角、ドラム缶を背もたれに魔理沙は倒れていた。生きているのか死んでいるのか、ランタンの弱々しい光に照らされたその姿はぴくりとも動かずどちらともつかない。ただ、エプロンドレスの前掛け部分は朱に染まっていた。酷い怪我をしていることは確かだった。そして、魔理沙にそんな大怪我を与えた相手が近くにいるのも。注意しなければ。自分の頬を伝わる汗の気持ち悪さに顔をしかめながらも冷静に文はそう思った。

「魔理沙!」

 それとは相反する直情的な声。はたてだ。はたては先にいた文の脇をすり抜けるように走り出すと一直線に倒れた魔理沙の元へと駆け寄っていった。莫迦ッ、と声を荒げようとして慌てて口を紡ぐ文。その時既にはたては魔理沙の元へと駆け寄ってしまっていた。はたての行動にあからさまに憤りの表情をしなながらも左右を見渡し危険がないことを調べてから遅れて魔理沙の元へ近づく文。

「あ、文、どうしよう…」
「あーもー、ほんっとうに考えなしですね。取り敢ず、意識の有無…以前に、生死の有無を調べないと」

 そんなどこか冗談じみた文の声が聞こえたのだろうか。死んだようにぐったりしていた魔理沙がのそりと寝起きの緩慢さで顔を上げた。よう、といつもの調子で挨拶しようとするが手は持ち上がらず、その顔は白粉を塗ったように青白かった。

「大丈夫?」
「これで大丈夫だったらナンジャコリャーも無事だぜ」

 で、ナンジャコリャーってなんだ、と魔理沙。だが、死相の浮いた顔で笑っても己の運命を皮肉った自嘲にしか見えなかった。
 抱き起こしたはたての手が赤く粘つく液体で汚れる。その感触に思わず顔をしかめるはたて。赤い色は命の色だ。決して身体の外に流れ出してはいけない量が出てしまっている。

「文、どうしよう」
「兎に角手当…といきたいところですが、クソっ」

 泣きそうな顔ではたては伺いを立てる。こんな状況でも冷静に指示を出そうとする文ではあったが、その顔は台詞の途中で途端にくもった。原因はその一瞬前に文たちの耳に届いた奇っ怪な叫び声。それと巨重がのそりと歩く気配だった。・

 ――近くにいる!!

 顔を引き攣らせる文。まるで首筋に抜き身の青竜刀でも押し当てられたように背筋に悪寒が走る。どうやら魔理沙を襲い大怪我を負わせた何者かはまだ遠くには行っていないらしい。安心できる状況ではまったくないのだ。

「はたて、魔理沙さんを立たせて」
「で、でも…」

 小さな声で、それでもしかと語気を強く命令する文。バケモノに気づかれないため、それでいて強制力を持たせるためにそんな口調になったのだろう。対しはたての言葉も同じぐらい音量は小さかったが、それはどちらかと言えば文の意見に不服だったからだ。

「いいから。三人揃ってメンチカツにはなりたくないでしょ」
「ああ、アイツならフライヤーぐらい持ってそうだ。でも」

 文の焦燥感たっぷりのジョークを更に上乗せしたのははたてではなく今や息も絶え絶えな魔理沙だった。身体を押さえつつ、何、とはたては魔理沙の顔を覗きこむ。

「メンチカツになるのは私だけでいい。お前らは早く逃げろ」

 精一杯、勝ち気な顔を作る魔理沙。傍目、いや、どんな鈍感な者にも無理をしていると分る顔だった。

「それならそうさせて貰いたいところですけれど」
「文っ…ほら、魔理沙。馬鹿なこと行ってないで行くよ」

 自分が汚れるのも厭わず、腕を腋の下に通し半ば無理矢理に魔理沙を立たせるはたて。そんな彼女の献身もどちらかといえば納得できない風であったが、あらがえる力なく魔理沙はされるがままにまかせるしかなかった。文もまた少し不服そうだったがそれでもランタンを掲げ、先導してくれるつもりのようだった。魔理沙に肩を貸したはたてに視線を送りながらも周囲に気を配りつつ歩き始める。

「…ッ、元来た道は戻れませんか」

 ランタンの輝きが積み上げられた木箱の向こうからゆっくりと近づいてくる巨体の影を捕える。その進行方向は文たちが入ってきた開きっぱなしの扉と一致した。慌ててはたてに制止するよう手で示しつつ方向転換する。

「文、どこ行くの!?」
「知らない! 兎に角、離れないと!」

 ずた袋を引きずるような足音。踏鞴(たたら)場を想わせる吐息。強烈な気配。それから逃れるよう、文はか弱い光を頼りに木箱で出来た迷路の中を進んでいった。心臓は早鐘を打ち、ともすれば駆け出したい誘惑に駆られるが、そうしたところで逃げることはおろかむしろバケモノに自分の明確な位置を教えてしまう結果になるのは明白だった。恐怖をただの理性で無理矢理押さえつけ文は静かにそれでいて足早に進む。だが、バケモノは逃げる文たちを追ってきているのかその気配は一向に薄まらなかった。

「クソッ!」
「だから…言ったろ」

 はたてに身体を任せた魔理沙が文の悪態に追随するようぽつりと漏らした。

「私を…置いて、逃げろ、って。いいんだよ。私なんかは…責任とって、死んだ方が。そっちの方が…」
「ちょっと黙っててよ。ただでさえ集中力、使うんだから!」

 ぶつくさと無駄な体力――生命力を浪費する魔理沙を叱咤するはたて。無駄口を叩く前に自力で歩いてくれと切に願う。けれど、魔理沙の口は閉じなかった。

「お前たちだけで逃げろよ…ああ、でも、そ、とのカッパたちに言っといてくれ。アイツは放って置いてやれ、って。ちょっかい出さなきゃ無害だから。いや、それ以前に…アイツは仲間なんだから、ってな」
「?」

 何を言って、と魔理沙の言葉に気を取られるはたて。そのせいではたてはいつの間にか立ち止まっていた文の背中にぶつかってしまうことになった。

「痛たた、どうしたの文…」

 ぶつけ赤くなった鼻がしらを擦りながら涙目で不平を訴える。だが、文は『ぶつかるのが悪い』みたいな馬鹿にしたような切り返しはしてこなかった。それどころか無言であった。ナニコレ、と小さく誰ともなしに呟いただけだった。明らかに愕然とし我を忘れている雰囲気。どうしたというのだろう、とはたては茫然と立ちすくむ文の肩口から前方を見やった。一体何を見て驚いたのだろうと。その反応は文と寸分違わず同じだったが。

「――ッ」

 文が立っている場所は両側に木箱が積まれた丁度、迷路の出口のような場所だった。そこから先は雑多なガラクタが無造作に置かれているもののそれなりに開けている。十四、十六畳間ぐらいの空間だ。その場所の中央にソレは鎮座していた。いや、在ると形容すべきか。兎に角、大きな物があった。
 それは言うなれば機械、だろうか。成る程。所々から飛び出たパイプやメーター、ランプ類、剥き出しの歯車は機械に見えなくもない。だが、どんな発明家も博士も工学者もコレを機械と形容するのは憚れるだろう。コイツを機械と称せるのは詩人だけだ。それも気が狂った外宇宙と精神の深淵を謡える詩人だけが現せるような。
 機械――あえてコレを機械と呼称しよう。この機械は大多数がイメージする機械とは裏腹に直線の部分が殆どなかった。せいぜい、飛び出たパイプや用途不明の金属製の箱の一部分にのみ過ぎない。殆どの場所は説明しがたい奇妙な曲線を描いていた。あらゆる曲線は一つの数式で表せると言うが、この機械を構成している曲線にあっては高名な数学者も匙を投げ出す、否、匙で己の脳髄を掻き出しそうな奇っ怪な曲線で形作られていた。曲線は見る者の心を蝕む邪悪なラインを描いている。当然、そのラインは二次元ではない。では、三次元かと言えばそうでもないようだ。捻れ狂った曲線はありえぬt軸やW軸へそのベクトルを伸ばしている。三次元存在では知覚できぬはずの四、五次元へ捩れている曲線で形成されているこの機械は確かに永き刻を生きた天狗といえどその心をかき乱す邪悪さを備えているのであった。
 また、その全体像も奇っ怪だ。高さと幅は三メートルほど、だろうか。かなり大がかりな機械だ。全ての部品が一度、ヘドロに沈めたように黒く汚れ、意味があるのだろうか、恐ろしい高さにメーターが取り付けられている。かと思えばコンソールらしきボタンやスイッチが取り付けられた板が床に蔦のように伸びるコードの先に取り付けられている。パイプはまるで拘束具か拷問器具のように伸び、とりわけ目を引くのが機械の大部分を占めている大きな硝子製のシリンダーだった。人一人は優には入れそうな大きなガラスの筒。ただ、ひび割れ打棄てられた塵の様を表してるそれが六十度ほどの角度で危なっかしく本体と思わしき機械に取り付けられていた。床にはその硝子製シリンダーの破片と思わしき煌めきが散らばっていた。
 機械、機械と呼称してきたがこれは機械――機能をもった械(しかけ)とは呼べぬであろう。歯車やボタン、ランプやパイプといった部品をまるで出鱈目に組み合わせただけのような、とてもなんらかかの機能をもっているとは思いがたかった。まだ、退廃的で非道徳的な芸術作品、美と善の一切を排除した物を芸術と呼んでもよいのなら、これはそういう類の物に見えなくもなかった。

「な、なんなのこれ」
「…知りませんよ」

 やっと我を取り戻したはたてと文。それでも二人の顔は流行病を患ったように青ざめている。その気分の悪さを振り払うよう、文はブンブンと頭を振った。

「なんにせよ、今は関係ないです。早く逃げましょう」

 そう促す。だが、名状しがたき奇っ怪なオブジェを前にあっけにとられていたのが災いしたのだろう。バケモノの気配は思っていた以上に近くまで忍び寄ってきていた。顔を引き攣らせながら逃げ道は、と左右を見渡す文。咄嗟に木箱と木箱に僅かな隙間を見つけたのでそこに滑り込む。

「しまった。行き止まり。はたて、戻って」
「う、そうしたいのはやまやまなんだけれど」

 どうしたの、と尋ね返す文の口を押さえるはたて。抗議の声を上げようとした矢先、今し方自分たちが入ってきた木箱と木箱の隙間にのそりと動く巨重の影が見えた。はたての意図を理解し奥歯を噛みしめ口を紡ぐ文。今出て行けばアレに挽肉にされた後、衣を付けて揚げられるのは明白だ。
 息を殺し、ジッとする三人。下手に物音を立てれば確実に見つかってしまう。あのバケモノの太い腕ならこんな木箱、簡単に崩され三人は外に引き摺り出されてしまうだろう。必死の逃走から一転、今は石ころになりきらなくてはいけない時間なのだ。
 バケモノは三人を探しているのかどこからが肩なのかよく分らないなだらかな頭を左右に大きく動かし、あたりを行ったり来たりしていた。その動作は酷く緩慢に見える。狭い視界から現われては消えるを繰り返しており、早く何処かへ行けと文は苛立ちを募らせた。
 やがてバケモノは散策するのを諦めたのか、それともその獣のような脳では長い間、行動理由を憶えていられないのか巣に戻るようまっすぐとあの機械の所まで歩いて行った。

「なにしているんだろう」

 前に立ち、その汚れ節くれ立った指でなにやら機械を弄り始めるバケモノ。歯車を無理矢理埋め込み、色違いの導線をより合わせたりしている。作業は作業だろうが、そこに理性的な意味は見いだせない。真空管を一つ、取り付けたかと思うとそれをすぐに外し、暫くしてから思い出したようにまた取り付けたりしている。どこからも外部の動力が得られない場所に滑車を嵌めたり、意味があるのか配線の繋がっていないスイッチを入れたり切ったりしている。

「アレ、アイツが作ったってことなの?」
「…でしょうね。ここは彼の家なんですから」

 黙っていなければ危ないというのに結局、小声で話し始める二人。新聞記者としての性(サガ)か興味深い出来事には損得勘定ぬきで惹かれてしまうのだ。

「しかし、なんなのかしらアレ」
「さぁ。フライヤーには見えませんけれどね。ジュサーかしらん」
「いや、アレは…クソ。アイツ、まだ作ってたのか」

 文とはたての小さな会話に毒づいたのは魔理沙だった。服毒したように苦しげに、憐憫の籠もった瞳でバケモノが作業する様子を見ている。いや、見ているだけではなかった。狭いところへ入り込むためにはたての腕から離れていた魔理沙はあろうことかふらつく足取りで外へと出て行ってしまったのだ。慌ててはたてが連れ戻そうと後を追いかけようとするがそれは文によって止められてしまう。

「魔理沙、なにやってるの!」
――■■■■■■■■■?

 しかたなくか、はたては声を上げた。当然、その声に反応し振り返るバケモノ。汚泥を塗りたくったような顔面にはめ込まれている小さな眼球が魔理沙の姿を捕える。はたてが声を上げなければ或いは静かに出て行った魔理沙の存在にバケモノは気がつかなかったかも知れない。・いや、そうでもなかろう。

「バカ! もうそんなもん作らなくていいんだよ!!」

 魔理沙は更に自分の存在を誇示するよう大声でそう叫んだのだ。感情に駆られた様子の魔理沙は仮にはたてが声を上げなかったとしても同じ事をしていたであろうことを示していた。
 魔理沙の大声に呼応するようトラクターのエンジンを思わせる叫びを上げるバケモノ。そうして、

「私が悪かったから。許してくれなんて言わないから、だかヘグッ!?」

 バケモノはおもむろに近づくとなおも何かを言おうとしていた魔理沙を打ち払うような動作で薙いだ。丸太のような豪腕から繰り出された一撃を受け魔理沙の身体はそれこそ小枝のようにすっとぶ。地に落ちないのではないのかと思えるような勢いで飛んでいった魔理沙の身体はけれど、木箱にぶつかる事で止った。積まれた木箱はその衝撃を受け音を立てて崩れる。木箱とその破片に埋もれる魔理沙の身体。魔理沙は倒れたままぴくりとも動かない。深手を負っていた上に車にはねられたような衝撃を受けたのだ。事切れていても不思議ではなく、仮に生きていたとしても呼吸は虫のソレだろう。既に死に体だ。

――■■■■■■■■!

 けれど、バケモノは執念深いのか、それとも用心深いのか、とどめを刺そうと雄叫びを上げながら崩れた木箱の山へと近づいていった。腕を高く振り上げ魔理沙の頭部を西瓜のように叩き潰そうとするバケモノ。ブン、と風切り音が聞こえると頭部付近で何かが炸裂する音が暗い室内に鳴り響いた。

「魔理沙から離れろォ!!」

 隙間から躍り出たはたてが手近に落ちていたガラクタを全力で投球したのだ。さしものバケモノも不意打ちを頭部に喰らえばよろめかざるえない。巨体を揺らしバケモノは尻餅をつくよう倒れた。

「今のうちに…!」

 崩れた木箱の山に駆け寄りその中から魔理沙の身体を救い出すはたて。生死を確かめている暇はない。はたてが魔理沙の身体を背負うのと文が隙間から出てきて、逃げますよ、と叫び、そうしてバケモノが起き上がり苦痛の雄叫びを上げたのはほぼ同時だった。

「早く!」「分ってる!」

 ランタンを掲げ木箱の間を迷いなく走る文。逃走ルートは来た道を戻るだけなのですっかり文の頭の中に入っている。はたても魔理沙を背負いながらも遅れまいとその後ろをついていく。更にその後ろからは……

――■■■■■■■■■■■!!!!!!!

 怒り狂ったバケモノが腕を振り回しながら二人…三人を殺そうと追いかけてくる。積み上げられた木箱の山を崩し、破壊しながら。まるで戦車だ。

「――ない」
「あ?」

 走るはたての耳になにか呟き声のようなものが聞こえてきた。文か、と思ったが先導する彼女は逃げることに必死でそんな余裕はなさそうだった。それに声はもっと近くから聞こえてきていた。

「すま――な、い」
「魔理沙?」

 声は背負った半…八割五分死人からの物だった。止まりかけの呼吸と声帯を何とか動かし魔理沙はか細い風前の灯火のような声を出している。

「ああっ、もう、また!? 黙っててよ! 今度こそ本当の本当に死にそうなんだから!」

 背中の魔理沙を怒鳴りつけるはたて。だが、魔理沙は何かを言おうとするのを止めようとはしない。いや、無視しているわけではない。もう耳が聞こえなくなり、判断能力という物も消失しつつあるのだ。

「――わたしの、せいで、こんなことに」
「後で聞くから、いい加減に」
「――すまない、にとり」
「え?」

 にとり、死にかけの魔理沙は確かにそう詫びたのだ。にとり。行方不明になっているカッパ。この倉庫の借り主。はたてたちが忍び込み、先に魔理沙が忍び込んでいた家に住んでいたらしい。まさか、と思いながらもある一つの台詞がはたての頭の中で繋がった。一度目のバケモノからの逃走劇の時、魔理沙はこう言わなかったか。外にいるカッパ自警団連中にバケモノ退治を中止するよう。アレは――バケモノはお前たちの仲間なんだからと。そして、あのバケモノは不格好で出鱈目で不可解ではあったが機械らしき物を作っていた。機械作りはカッパの得意とするところだ。それを魔理沙は止めるようあのバケモノに向かって叫んだ。もう、作らなくていいと。まるで、魔理沙があのバケモノにまず最初に機械の製作を依頼したように。機械の製作の依頼。天狗ならそこいらのカッパを捕まえて適当に言えば簡単に済む話だ。だが、魔理沙は人間だ。カッパたちは人間を『盟友』と呼ぶがそれでも二つの種族には人間と非人間という明確な隔たりがある。知り合い――友人でもなければカッパが人間のために直接、機械を作る事なんてあり得ないだろう。そして、魔理沙自身は否定していたが彼女とにとりは知り合い、だったようだ。それもただの知り合い程度とは思えない。もしかすると本当の意味での『盟友』だったのかも知れない。或いは――

「まさか」

 断片的だった情報が繋がっていく。点と点がつながり線分に。それらが更につながりを見せついには無限遠へ伸びる直線になる。その先にぼんやりと浮かび上がってきた真実にうぁ、とはたては嗚咽を漏らした。そんなまさか、と何度も頭の中で否定する。声にさえだしもしていた。あり得ないし、あってはならない。そんな邪悪な現象が許される筈はないのだ。だが、だが、提示された条件から導き出された答えはそれが唯一無二の正解だと告げている。はたてが文より新聞記者として優れている点を一つあげるとすればそれは状況証拠から物事を推測する能力だ。今でこそ己の足と目で取材対象を追いかけているはたてではあったが昔は自身の『念写をする程度の能力』で誰が撮ったとも分らぬ写真を手に入れその一枚だけから記事を書いていたのだ。だからか、断片的な情報から事実を推測する能力に彼女は長けていた。文に同じ条件を提示しても回答に辿り着くのはもう少し遅かったかも知れない。ましてや彼女ならこんな非常時になら答えを出すことを後回しにしてしまうだろう。だが、はたてはそうではなかった。こんな非常時でも答えを導き出してしまったのだ。

「あのバケモノは――にとり!?」

 回答に辿り着いたはたては一瞬の自我喪失状態に陥り、自分がどこを走っているのかまた苦把握できなくなってしまっていた。その場所は以前、自分が足を取られて転倒してしまった糞便がうずたかく積もれていた場所だった。同じく足下に注意を払わずそこに訪れた結果は、リプレイだった。
 糞便の山を踏みつけ、それに足を取られ前のめりに倒れるはたて。魔理沙を背負っていたせいか受け身を取ることも出来ない。顔面から無様に倒れ込む。

「ッ…クソ!」

 だが、今回は場合が場合か。少しばかり悪態をついただけではたては身体をすぐに起こした。またも汚濁に汚れてしまった身体は今度ばかりは気にしていられない。ド穢らわしく汚れるよりももっと酷い目がすぐ後ろまで迫っているのだ。身だしなみよりも命が優先。だが、はたては落した魔理沙を探そうと振り返った所で優先もクソも既にないことを悟った。

「あ」
――■■■■■!

 糞便の山を挟んですぐ向こう側にバケモノ――河城にとりが立っていた。
 汚濁を塗りたくったような皮膚。この世の常識では考えられない不気味さを擁する身体。バケモノという呼称が似つかわしい巨躯。感情のない瞳。この巨体にかつてこれがにとりであった証拠は一つも残っていなかった。誰がこの異容を見てコレをにとりだと悟ろうか。だが、事実だ。河城にとりは今や変わり果てた姿と精神でさながら家に侵入してきた害虫を駆除するよう、はたての命を狙っているのだ。
 己が放(ひ)り出した糞便の山を踏みつけバケモノはただの一歩で倒れたはたてに歩み寄ると腕を高く振り上げた。不揃いな一見だけでは何本か分らぬ指から捩れた爪が出鱈目に生えている。爪の多くは折れたり割れたりしており切り裂かれる事はなさそうだ。だが、あの太い腕はそれこそ力自慢の入道や鬼に匹敵するような腕力を備えていることだろう。あれが振り下ろされればはたての頭など柘榴が如く、だ。はたて自身もそれを覚悟し、しかしながら恐怖と絶望の余りか目を瞑ることさえ出来ず、涙を流しながらバケモノの姿を見やっていた。
 そうして、その腕が振り下ろされんとした刹那、

「――やめ、にとり。ダメだ…」

 それを制止するか弱い声が聞こえた。振り下ろそうとした腕を何故か途中で止めるバケモノ。・姿勢を正し、声の主の方へゆっくりと頭を向ける。バケモノを…にとりと呼んで止めたのは魔理沙だった。はたての背中から放り出された彼女は廊下の壁際で捨てられたように倒れたまま顔だけを何とかはたてたちの方へと向けていた。

「――やめろ、にとり。殺すなら、私だけを、ころせ」
――■■■

 短く、この世界の音階では表現できない声で鳴くバケモノ。その鳴声に一体どんな意味が込められているのか。邪魔をするなと叫んでいるのか、それとも或いは――名前を呼ばれたことで己が何者であったのかを思い出したのか。

「喰らえッ、バケモノが!」

 結局、それを確かめている暇はなかった。叫び声と共にまた何かが空を切って飛んだ。光り輝くソレはランタンだ。回転しながら飛んでいくランタンを投擲したのは説明するまでもなく文だ。はたてが追いかけてこないのを察した文は一瞬の逡巡の後、彼女を助けに戻ってきたのだ。自分一人だけでも逃げればいいのに、と毒づきながら。それでも仲間は見捨てられないと。
 はたして文の投げたランタンは再びバケモノの頭部に命中した。・灯光器具であるとはいえランタンは火を使っているのだ。持ち手以外の部位は熱く、またガラスに封じられた内部には燃え続ける芯と燃料が入っている。それを顔面に受ければさしものバケモノも怯まずにはいられなかった。先にはたてが投げつけたガラクタでも傷を負っていたのかも知れない。再び、頭部にダメージを受けたバケモノは激しい痛み故かふらつきながら腕を振って暴れ始めた。バケモノの顔面にぶち当たり破損したランタンも蹴り飛ばされる。無造作に振われたバケモノの腕や足が廊下の壁や並べられていた廃材の山を破壊する。埃が舞い上がりバケモノの一撃を受けた柱が一本、半ばで折れ倒れてきた。今なお火のついているランタンの傍に。柱はシロアリに食い尽くされ中は空洞と化していたようだ。そんな屑木が火に炙られればどうなるか。答えは明白だ。あっという間に折れた柱に火がついた。火は更に勢力を拡大するよう燃えていく。バケモノが蹴りつけた廃材やガラクタの中には油を使っている物もあったのだろうか、柱についた火は瞬く間に燃え広がり、廊下を赤々と照らす炎と化した。

「はたて!」

 立ち上る黒煙を吸わないようにするためか腰を低くした文が倒れたままのはたてに駆け寄ってきた。文っ、と伸ばしたはたての汚れた手を文は躊躇いながらも掴むと力強く引っ張り倒れた彼女を無理矢理に起こした。

「逃げますよ!!」

 またもこの台詞。だが、逼迫感は今までの比ではない。バケモノに加え自らが招いた結果とは言え火の手まで迫ってきているのだ。今度こそ本当に余裕というものはない。これ以上は自分自身の命を守ることで精一杯。だからか、はたても同意するようなそぶりすら見せず文が放した手に名残惜しさも感じれぬまま走り始めた。後方からはバケモノの怒号じみた悲鳴と火の粉の爆ぜる音が聞こえる。走り火照った身体でもそうと分るほどの熱量と、そして敵意が背後で渦巻いているのを確かに感じながら二人は脇目もふらず走り、炎上する廃屋から逃げ出したのだった。









◆◇◆



――わっ、どうしたの盟友?
――痛てて……、ああ、うん。霊夢と紫の奴にやられてな。
――うわぁー、でもいくら何でもあの二人のタッグに挑むのは無謀すぎだよ。
――あー、弾幕はみょうな動きするし、当たり判定は小さいし、喰らいボムの判定長いしな。
――いや、それ以前に自力が…
――なによりワープだよワープ。弾幕ごっこでワープって酷くないか。禁じ手過ぎるだろ。弾幕で囲んでもひょいっと避けて、こっちの死角にもひょいって入ってくるんだぜ。ありえねー
――ワープは確かに有利だね。カッパ仲間でも研究してる人がいるけどあの二人みたいに使えれば日常でも凄い便利だろうね。
――だろ。あー、私も使いたいな、ワープ。次元波動超弦励起縮退半径跳躍重力波超光速航法とかそんな感じの。
――それは宇宙船用じゃ。人間サイズ用だと別の理論を使わないと駄目そう。
――そっか。うーん、なぁ、お前さ、さっきカッパ仲間でもワープの研究してる奴がいるって言ってたじゃん。
――うん。言ってたけど……
――じゃあ、お前もカッパなんだから作れなくはないんだよな。作ってくれないか、私のために。ワープ装置。
――えぇぇ、む、無理だよ。門外漢過ぎるよ。私が得意なのは光学系と工業系だけだよ。ワープは重力制御とか量子スピンとか物質の情報化とかそういうのが必要な分野だよ。
――何を言っているのかさっぱり分らんが、無理なのか?
――う…
――無理なら、まぁ、仕方ないか。パチュリーあたりに聞いてみるかな。そういう魔法もなきにしもあらず、だろ。
――わ、わかったよ盟友。
――ん?
――ワープ装置の件。私が、作ってみせるよ。
――本当か? 言っておいてなんだが、出来るのかそんな物?
――任せてよ。他でもない盟友の頼みだからね。……だ、大好きな盟友の為に。
――そうかそうか。なんか最後の方は声が小さくてよく聞き取れなかったが任せたぞ。何か私にも手伝えることがあったら遠慮なく言ってくれ。お茶ぐらい淹れよう。
――う、うん! お願いするね! 魔理沙。
――おいおい、お願いするのはこっちだろ、にとり。





◆◇◆




「『その後、河城にとりは自身が作ったワープ装置の実験中の事故によりあのような身体に変質してしまったと思われる。何故、ワープの失敗でバケモノ怪物のような姿になってしまったのかは不明だが河城にとりの残した研究データから読み取るに物質の情報化と再構築、そのいずれかの段階でエラーが生じあのような姿に変質してしまったと推測できる』…っと」

 姫海棠はたてはそこまで書いてうん、と凝り固まった身体をほぐすよう大きく背伸びをした。ここは天狗の里にある新聞部の食堂だ。と言っても時間は当に昼を過ぎて夕方前、いるのは早めの夕食をとっている数人の天狗とはたてだけだった。はたてはこの記事ばかりは人目につく新聞部の自分のデスクで書けず、かといって鬱屈した気分で部屋に籠もって書くのも精神衛生上悪いと思いこうしてノマドワーカーよろしく食堂で仕事をしているのであった。

「『一人の少女の恋が実らなかった、と締めくくるには余りに痛ましい事件である』」

 いや、仕事ではなかった。はたては書き上げた原稿に再度、目を通しざっと誤字脱字の類がないか調べたところでマチと留め具のついた丈夫そうな大封筒に入れた。新聞を印刷する部署に送る際の提出用封筒は決まった形状の物が使われるが今し方はたてが入れたものとは別のもっとちゃちな封筒である。用は今書き上げた原稿は記事にはしないということなのだろう。現にはたての顔には一仕事を終えた者特有の安堵と達成感のようなものは見られなかった。

――書き上げたけれど、世には出せないわね。百年か二百年ぐらい後に誰かが『こんな悲しいお話があったんだね』って感じでフィクションにでも仕立て上げてくれればいいか。

 封筒に視線を注ぎ、小さくため息をついた後、はたては封筒を鞄の中にしまい込んだ。

「はたてフォルダにでもいれておこうか知らん。ん?」

 独白し、また背伸びしたところではたては偶然、食堂に入ってくるよく見知った顔を見つけた。

「あ、文〜」

 同僚兼ライバルの射命丸文だ。文ははたての姿を認めた途端、露骨に嫌そうな顔をして素早い動作で踵を返すと入ってきたばかりの食堂から立ち去ろうとした。

「ちょちょちょ、いくらなんでも酷くないソレ!」
「ああ、はたて、いたんですか」

 慌てて椅子から立ち上がり食堂から出て行こうとする文を追いかけるはたて。出入り口から遠いところに陣取っていたせいか、結局、文を捕まえられたのは一区画向こうのトイレの前だった。

「何か用?」
「いや、えーっと」

 腕を捕まれた状態で肩を落し、そうはたてに問いかける文。その返答にはたてが詰ったのはよくよく考えれば別に文に用事などないことに思い至ったからだ。

「そ、そうだ。あの事件の記事は書いたの?」
「あの事件?」

 小首をかしげる文にはたては言葉を濁しつつもあの廃屋の、と短い言葉で説明した。ああ、と合点がいき、先程食堂ではたてに見せたあからさまなむしろ嘘くさい嫌悪ではなく、本当に忌々しく想った風に瞳を伏せる文。

「……書いてませんよ。あの件ばかりは貴女の方が事件の真実に近づいてたみたいですから」

 あの決死の逃走劇の後、はたては今や家主不在となってしまったにとりの家、そして魔理沙の家に忍び込み、ありったけの資料を集め推測できる限りの事実を突き止めたのだ。先程書いてきた記事はその集大成だった。最もはたてはそれを今は世に出すべきではないと判断し、封印するつもりのようだが。
 文には先んじ、はたてが掴んだ情報の全てを話してあった。共に視線をくぐり抜けあのバケモノを取材しようとした仲なのだ。それぐらいの権利はあるとはたては思った。ただ、それを記事にされるのだけは少し間って欲しいと今更ながらに思ったのも事実。いや、既にはたての口から発した情報を文がどう扱おうと彼女の勝手であり、それが新聞記者としての正しいあり方なのだから文句は言えないのだが、それでも、不幸な終わりをした恋する乙女の物語を易々と新聞記事などにして欲しくなかったのだ。その思いは結局、無用にはなったが。

「そっか。私もそうしようと思ってたところなの。うわべだけ見ればどうせ、大した事件じゃない。人間が一匹、バケモノがでる小屋に入って火事を起こして死んじゃった。それだけの話だもの。私たち敏腕記者が書く記事じゃないわ」
「あ、そうですか」

 はたての妙な強がりに興味なさげに目を細める文。と、彼女は暫く考え込むような動作をとり、

「じゃあ、私が記事にしましょう。ええ、記者にあるまじき事かも知れませんけど、事実を伏せて。上っ面だけで」
「えっ、ええ、なにそれ酷い」

 文の言葉に愕然とし、彼女を指さしながら外道、人でなし、おにちく、と罵詈雑言を並べ立てるはたて。文にはまったくもって馬耳東風だったが。

「冗談ですよ。あの件にはもう、かかわりたくないです。酷いオチまでついてくるなんて…」
「酷いオチ?」

 文の漏らした言葉に疑問符を浮かべるはたて。文はそれにすぐに答えず、しまったと言わんばかりに顔を引き攣らせた。その文に顔を寄せ、どういうことなのと問い詰めにかかるはたて。折角仕入れた特ダネを記事にしないと決心づけても彼女は新聞記者だ。真実を知りたいのはもはや生理的欲求に等しい。その熱意に自身も覚えがあるからかため息をつき、ただの一言だけで文は説明してやった。

「焼け落ちた廃屋から魔理沙さんの遺体が見つからなかったんですよ」
「えっ」

 それはどういうと言う言葉はついぞ喉からでなかった。
 魔理沙の遺体が見つからなかった。火事で全て焼けてしまったのだろうかという推測にはたてはすぐに至った。だが、至った時と同じ早さでそれはあり得ないと結論する。聞いた話によると人の遺体を骨も残らぬほど焼き尽くすには相当の火力が必要らしい。それこそしっかりと煉瓦を固めて作った瀬戸物製作用の釜で一昼夜焼き続けなくてはならない程に。ただの火事如きでは人間一人分の遺体を完全に消失させることなど不可能なのだ。衣服や髪、皮膚ならまだしもその下の肉、脂肪や筋肉は元より硬い骨などは適当に火にくべただけではそう簡単に灰になったりはしない。放水と時間経過でやっとこそ消え失せた廃屋の炭と灰の下に魔理沙の亡骸は埋もれていなければおかしい話なのだ。それが見つからない。一体どういうことだと愕然としながらもはたては薄ら寒いある事実に行き当たる。

「まさか…」
「可能性としてはあるでしょうね」

 あのバケモノと化したにとりは廃屋で何かを組み立てていた。それを見て魔理沙は止めろと叫んだ。もう作らなくていいと。そして、はたてはそれの設計図の走り書きをにとり宅で発見したのだ。確かに大まかな形状はあの機械は魔理沙がにとりに依頼したあの機械に似ていた。

「バケ――にとりが魔理沙をワープさせた…?」
「結果は――考えたくないですね」

 同じ機械――いや、狂い変質したにとりが再び製作した装置に魔理沙は入れられ何処かにワープさせられたのだ。我を取り戻したにとりが炎上する廃屋からなんとか魔理沙だけを助け出そうとしてそうしたのかもしれない。それぐらいしか魔理沙の亡骸がまったく見つからなかった理由には至らないのだ。
 その結果がどうなったか。はたてはそこで思考を無理矢理停止させた。あの機械はお世辞にもまともに動くような形状はしていなかった。それ以前にまともだった頃のにとりが作った装置でさえ失敗し、あのような惨事を招いたのだ。今度のワープで魔理沙の身体がどうなったのかなど、ちらりと思い描くことさえ辛い。
 喉に小骨が突き刺さったような歯切れの悪い結末にはたてはぶるりと身体を震わせたのだった。


END
お久しぶり。
同人誌出したり、悪魔も涙するゲームしたり、戦闘服で出勤してたりしたら超☆久しぶりの投稿になってしまいました。
すいません赦してくださいなんでもしますから。そこにいる緑髪のビッチが。

Twitterで告知してたとおり珍しく姫海棠ほたてちゃんが死にもとんでもなく不幸にもならないお話です。よかったねハタテちゃん。
sako
http://www.pixiv.net/member.php?id=2347888
作品情報
作品集:
4
投稿日時:
2012/06/17 13:12:53
更新日時:
2012/06/17 22:12:53
評価:
6/9
POINT:
620
Rate:
14.33
分類
はたて
魔理沙
にとり
ホラー風味
簡易匿名評価
投稿パスワード
POINT
0. 60点 匿名評価 投稿数: 2
1. 100 NutsIn先任曹長 ■2012/06/18 00:01:28
まるで往年の特撮『ウルトラQ』にでもありそうなエピソードですね。
化け物が誰かはうすうす検討は付きましたが、何故そうなったかまでは流石に察することができませんでした。
心情的なことは、新聞記者の憶測に任せることにしましょう。

この話、海綿体ほたてちゃんを始め、『死者』が出てませんね。確かに。
その代わりに、とんでもないクソな置き土産を残していきやがりましたが。
そんな結末も、また良し!!
3. 100 box ■2012/06/18 21:06:34
ウルトラQと思ったら曹長さんに言われていた・・・
それにしてもわかりやすく面白い猟奇ホラーでした
4. フリーレス 名無し ■2012/06/18 21:36:48
機械を表す文章が凄い。奇っ怪な機械というのが生々しく伝わってきました。

この作品にフィラデルフィアとつくともうアレしか浮かばない
5. 80 pnp ■2012/06/19 21:48:52
にとりちゃん健気かわいい
6. 100 名無し ■2012/06/20 09:56:08
たぶん魔理沙ちゃんはどこかで蛆虫を身ごもってる
7. 90 名無し ■2012/06/21 04:29:37
そして魔理沙は産廃へ飛ばされた
8. 90 んh ■2012/06/28 01:30:14
「電送人間」思い出した。いや本来はアメリカの方を思い出さにゃいかんのだろうけど。
魔理沙ちゃんはしぶといね
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