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『幻想の早苗』 作者: 海

幻想の早苗

作品集: 5 投稿日時: 2012/10/09 13:37:07 更新日時: 2012/10/28 02:33:19 評価: 8/11 POINT: 890 Rate: 15.25
「東風谷早苗さん、一診にお入り下さい。」
 看護婦がマイクを使って待合室にいる早苗に診察室に入るよう促す。八月の暑さから隔離された医院の冷房は少し早苗には寒すぎる。カバンと薄手のストールを持って、早苗は深いソファーから立ち上がった。もう3時間は待っているのだ。いつも長く待たされる度に予約制にすればいいのにと思っているが、精神の病を抱えた患者達は時間通りに来るとは限らないだろう。
 ソファーに深く腰掛けて眠っているように見える者、本を読んでいる者、母親に連れられた若い女性。お互いに干渉せず、ただ静かに順番を待っている。前の病院は椅子が痛くて長い時間座っているのは苦痛だった。それに比べればこの医院はまだ患者に優しい待合室だ。そのためかいつも患者が多くて待たされることになるが。元々神経科の病院だから、老人が多く通っているのも理由としてある。


 ノックを三回。どうぞ、という声を聞いて診察室に入る。無機質なスチール机に半身で向かい、こちらと対面する医師と目が合う。こんにちは、と一声かけて席に座る。
「どうですか、最近の調子は。」
 医師が早苗に尋ねる。お定まりのやり取りだ。
「最近はよく眠れています。仕事も、うまくこなしていると思います。」
 この言葉も何回言ったことだろう。
「そうですか。それは良かったですね。食欲はありますか。」
「はい。食べたい、と言うほどではないですけど、普通に三食とれていると思います。」
「なるほど。」
 この間、医師はサラサラとカルテに記入している。なんて書いてあるのだろう。「前と同じ」だろうか。

「最近は、『声』の方はどうですか。」
 医師は、早苗の病とされる、核心に触れる。
「時々、聞こえます。ただ、最近は私にあまり興味が無いのか、私が呼ばなければ、以前ほど口を挟んでこないです。」
 ありのままを早苗は答える。医師はカルテへの記入の手を止めずに、話を続ける。
「そうですか。何か印象に残った話はありますか。」
「時々、『この地を離れる』というような話をしてきます。うまく言えないですけど、なんだかお別れをしているような感じです。」
 カルテが改行された。
「それはきっと心が回復してきたのかもしれないですね。」
「はい、私もそう思います。その分仕事もできている感じです。」
「それは良かった。では、薬はこの前と同じにしましょう。2週間分でいいですか?」
「はい、それでお願いします。」
 カルテの右の欄に薬の名前を書き、医師はペンを置いた。
「では血圧を測りましょう。」
 促されて、早苗は右腕を台に乗せる。この間、およそ10分もない位だろうか。この僅かな診察時間のために数時間待たされるのは、もう慣れている。

 一礼して診察室を出て、早苗は再び待合室のソファーに腰掛ける。1分も経たないうちに次の患者がマイクで呼ばれて立ち上がる。みんな私ぐらい「話のわかる」患者であれば良いのに、と早苗は思っていた。
 処方箋が渡されたのは、それから30分後である。この受付をやっている女性達はちゃんと働いているのかいつも疑問に思う。医師から渡されたカルテに沿って処方箋を印刷するだけだろうと思うのだ。だから早苗は、医師や薬剤師にはありがとうございましたと礼を言うが、この事務の者達には言わない事にしている。


 日が落ちて幾分涼しくなった夕方の小道。神社へと帰る道すがら、「声」が聞こえてきた。
「早苗も私たちとお別れして、嬉しい?」
 神奈子の声だ。周りに人がいないのを確認して、早苗は声に出して答えた。
「わかりません。だって、私が小さい時から八坂様達の声は聞こえていましたから。ちょっと寂しいかもしれないです。」
「早苗は特別だったからね。東風谷の一族でも、私たちの声が聞こえるかどうかは半々ってところだったよ。」
 直接頭に響くと言うよりも、実際に耳もとで話しているかのような声だ。
「父も母も、私に声が聞こえるのはすごいと褒めていました。」
「だろうね。その割には、早苗はあまり信心深くはないけどね。」
「だって、お二人とも私は声しか聞こえてませんし。時々、本当に頭の病気かなと疑ったりもします。」
「姿を見せるのは、この時代では無理かな。そこまで信仰を集められなかったからね。」
 信仰を集めるとは、どういう気分なんだろう。そのようなことを時々早苗は考える。昔の風祝は、どのような扱いを受けたのだろうか。
「それで、その信者を求めて『幻想郷』へ行くんですよね。」
「そうだよ。そこでは、現実から遠ざかるほど力が強くなるところらしい。きっと、私も実体を現せると思うよ。」
 神奈子の姿を早苗は知らない。彼女の声から、大人の女性のような姿を思い描いている。

 暗くなってきた農道を歩きながら、早苗はぼんやりと水田を眺めた。一面の首を垂れた稲の穂。こうした風景は、その幻想郷にもあるのだろうか。
「八坂様?」
「なんだい、早苗。」
 心持ち歩く速度を落としながら、早苗は尋ねた。人通りのない農道は、「二人きりで」話すには好都合な所だ。
「その幻想郷には、人間っているんですか?」
「ああ、少ないらしいけど、いるはずだよ。もっとも、この現実の人間とは違うかもしれないけどね。」
「どういうことですか?」
「幻想の人間ってことさ。簡単に言うと、今はもう過去に過ぎ去ったような生活をしている人間達だね。もしくは、それこそ妖怪を討伐するような猛者もいるかもしれないね。」
 妖怪退治。昔話の中に出てくるような武士を思い、早苗はクスりと笑った。
「へえ。じゃあ私がそっちに行けたら、どうなるんでしょう。」
「なんだい、早苗。もしかして付いて行きたいのかい?それは難しいよ。何しろ、現実ではなく、幻想の存在にならなくてはいけないだろうね。ちょっと、その手段は思いつかない。」
 本当に神奈子は知らないのだろうか。最近はこの話題ばかりである。神が幻想郷に行けるならば、現人神たる早苗だって、行けてもいいと思っているのだ。神奈子は、私を連れていきたくないのか。そう疑う早苗だった。


「ただいま。」
 森の中の小さな神社にある自宅の戸を開き、奥にいるであろう両親に帰宅を知らせる。居間でカバンを置き、奥の台所にいる母親のところに行く。
「おかえりなさい、早苗。どうだった?」
「別に。いつもと一緒の薬をもらって、終わり。ああ、疲れた。」
 冷蔵庫の扉を開けながら早苗は答える。
「そう。お医者さんは何か言っていた?」
「何も。私の話を聞いて、はいはいってだけ。処方箋だけくれればすぐ帰れるのに。」
 それだけ告げて、自室に行く。夕食までの間、特にすることなど無い。昔読んだ漫画の棚に目をやるが、読む気もせずにベッドへと倒れた。
 明日は日曜日だが、予定は無い。実家住まいの早苗には、溜まっている家事を片付ける必要はないし、昔の遊び友達も最近は自分の旦那と子供で忙しい。
(暇だな……)

 早苗はもう30歳を越えている。神社の仕事をしながら、非正規社員として幾ばくかの給料を得るだけの生活。大学を出て帰って来てすぐの頃は、地元の友人とも遊べた。20代半ばになり、友人が次々と結婚していき、疎遠となっていく。早苗は神社の家業を継がなくてはならないから、長時間拘束される仕事には就けなかった。
 その上、彼女には「声」が聞こえるのだ。神奈子や諏訪子の声は物心ついたときからずっと聞こえている。子供の頃は、誰もいないのに話しかけている変な子と見られることもあった。幾たびも恥をかき、早苗は人前では話さないようになった。それから中学、高校と問題なく普通の学生として過ごしてきたのだ。
 しかし、歳を重ね話し相手が段々減っていくにつれて、自然と一人の時間が増えていく。そのときに、神奈子や諏訪子の声が響く。


 目を開ける。少し眠っていたようだ。夕食までまだ間があるので、神社の拝殿へと向かう。何故かはわからないが、諏訪子は神社でしか話しかけてこないのだ。
 人気のないガランとした板の間。この空虚さが諏訪子の顕現する場所として相応しいのかもしれない。
「諏訪子様、いらっしゃいますか。」
 早苗は座って返事を待つ。わずかな間を置いて、諏訪子の声が聞こえてきた。
「なんだい、早苗?こんな時間に珍しいね。何か、嫌なことでもあったのかい?」
 神奈子と諏訪子は声しか聞けず、性格を慮るのは難しいが、早苗は何となく諏訪子の方が親しみやすい。
「いや、嫌なことじゃないですけど、何となく諏訪子様の声が聞きたくて。」
「わざわざ私を選んでくれてありがとう。まあ、話を聞くぐらいしかできないけど、ね。」

 とりとめのない雑談。仕事のこと。家族のこと。これからのこと。
「……八坂様は、神社を離れたがっています。そうすると、もう私は八坂様の声は聞こえなくなるんでしょうか。」
「神奈子がそんなことを言っていたのかい。まあ、そうだね。神奈子がどこかに行けば、あいつの声は聞こえなくなるよ。それに私もこの神社を独り占めできるかな。」
 諏訪子が笑った、ような気がした。
「……諏訪子様は、神社を離れたくはないのですか。」
「私は別にどうでもいいよ。神社がなくなっても、それだけのことだ。適当に野良神としてふらつくだけさ。今は、早苗もいるし、ここが住みやすいからね。満足してるよ。」
「……そうですか。もし、私と八坂様がいなくなったら、諏訪子様も付いてこられますか。」
「そんな話になっているのかい?まあ、一緒に行ってもいいよ。」
「わかりました。では、私は母屋に戻ります。そろそろ夕飯ですので。」
「ああ、バイバイ。早苗」


 夕食後、部屋で神奈子と話をする。
「……諏訪子様は、この地を離れることに異存はないみたいです。」
「そうか。じゃあ、できれば神社ごと移りたいところだね。早苗は置いてけぼりになるけど、早苗なら大丈夫だろう。」
 子供のときから使っている壁の掛け時計を眺めながら、早苗はポツリと言った。
「……私も、行きたいです。」
 数秒の沈黙の後、神奈子は答えた。
「……普通の人間は、行くことはできないよ。」
「私は、普通の人間じゃありません。神様の声が聞こえる、この神社の風祝です。それでも、だめですか?」
 神奈子がため息をついた、ような気がした。
「現実にはいない者の声が聞こえる人間は、世の中に沢山いるよ。早苗だって、病院で見ているだろう?」
「私は、最近眠れないから通っているだけです。それとも、私は頭がおかしいのですか。」
「現代人から一般的に見たら、そうかもしれないね。神の声が聞こえるっていうのは、もう昔話の中だけだよ。そういう意味では、時代遅れなのかもしれないね。」
 それを聞き、早苗は食後の錠剤を飲んだ。
「……置いていかれたら、私は、本当に一人ぼっちになってしまいます。八坂様だって、巫女は欲しくないのですか。」
 神には、この人間の、置いてきぼりにされる恐怖はわかるのだろうか。それでも、早苗は問わずにはいられない。
「……早苗。お前は一人じゃない。両親だっているし、仕事の仲間もいるだろう。早苗がいなくなったら、悲しむ人たちはお前が考えているよりずっと沢山いる。わかるだろう?」
「……三十路の独身女が、親の愛情にすがるのはどうかと思いますけど。」


 数日後。
「――そういうわけで、東風谷さんは、今日までです。今までお疲れ様でした。」
 古びたビルの中にある、事務室にて。早苗は人生何度目かの辞令を受け取った。
「……ありがとうございました。」
 この地方都市では、首都圏と比べても非正規社員とは大変不安定な職である。それでも結構な割合でいるのは、実家での仕事や兼業農家などが多いからである。別の収入源があるので、皆こういう仕事でいいのだ。
 早苗は整理された机を後にして更衣室に向かう。せっかく仕事を覚えてきたところなのにな、と思っていたりもするが、そんな若い娘のような感傷は自分に似合わない、と独りロッカーの小さな鏡の前で苦笑する。


 夕方の街を早苗は歩く。人通りがないのは、子供の頃と比べても尚更である。早苗が子供の頃は、もっと街にも人がいたような気がする。年を経て、皆都市部への仕事などに行ってしまったのだろうか。眼前を走るのは、街中を通り抜ける自動車だけである。

 ――みんなどこに行ってしまったのだろう。

 最近、早苗はこの自分の育った街中を歩きたくないのだ。穴の開いたバケツから漏れる水のように、知人は早苗を離れていく。別に早苗が嫌われているわけではない。ただ、みんな「自分の人生」を手に入れて、歩き出したというだけだ。何も手に入れていないのは、自分ばかり。そのようなことを思い知らされる。
「……神奈子様。聞こえていますか。」
「なんだい、早苗。仕事に疲れたの?」
 神奈子の声。
「……その仕事も今日までです。明日からは、神社に専属です。良いでしょう?」
「やけになってはいけないよ。また、別の仕事ができるさ。」
「現人神を解雇するとは、あの会社にも罰が当たるといいですね。」
「……人間の仕事を馬鹿にしちゃ駄目だよ。ただ、早苗は暇になった。それだけのことと思った方がいい。」
 車やトラックの走る轟音の中、早苗と神奈子は会話を続ける。二人の沈黙を埋めるようにエンジンの音が混ざる。
「幻想郷に働き口はありますか。」
「面白いことを聞くね。私は、まだそこに行ったことはないから何とも言えないけど、多分人間は皆仕事をしていると思うよ。霞を食べて生きる仙人ばかりというわけではあるまいしね。」
「そうですか。私もそういうところで永久就職したいです。」
 自嘲気味に早苗は話した。

 水田の中に神社の森が見えてきたところで、神奈子は語りかけた。
「……早苗。幻想ってのはね、過ぎ去った日々の記憶なんだ。もうこの現代では存在を許されなくなった場所、生き物、人々、その他諸々。忘れ去られたものの残響さ。夢の世界とは違う。それなりに残酷なところだよ。」
 忘れ去られたもの。その言葉が早苗にしみる。
「私は、こうやって周りから取り残されていきます。昔の友人達から見たら、私なんてまさに昔の人なんじゃないですか。……それでも、幻想郷には行けませんか。」
「早苗。これだけは強く言っておく。お前は、現代の人間だ。たとえ現人神と呼ばれた者の血筋であろうと、風祝であろうと。現実の仕事をし、自分の手で働かなくてはいけない。そうしなくては、生きることを許されない世界にいる。それは現実の世界であろうと、幻想郷であろうとね。だから、生きることから逃げてはダメだ。……わかったかい?」
「……納得できないけど、わかっています。」


 その夜の神社にて、古びた柱に背もたれて、早苗は諏訪子と話をしている。
「まあ早苗は、できる子だから、また仕事も見つかるさ。あんまり気にしない方がいいよ。自分の家だってあるし、気楽にしなさい。」
 そう言って諏訪子は早苗を励ました。
「もう何度目でしょう、仕事を首になるのは。慣れる気分じゃないです。」
「誰だってそうさ。『お前はいらない』と言われるのは嫌なことだよ。でも大事なのは、そんなことを言う相手じゃない。自分がどうあるか、さ。流浪の民でも大いに結構じゃないか。生きるってことは難しいようでいて、気持ち次第で楽になるものだ。」
「諏訪子様は強いですね。私は、若かったら泣いてるところです。」
「まあ私だって捨てられた神だからね。誰も彼もが忘れていても、それでもこうやって存在できている。」
「それは、八坂様がいるからじゃないですか。」
「そういう考え方はしたことがなかったけど、なるほど、確かに。私の信徒は実は神奈子だったってことか。これは愉快だね。ふふ、私が消えないでいるのも納得できる。」
 諏訪子はカラカラと笑った。

「幻想郷に行く人間というのは、どういう人なんでしょう。」
「どうだろうね。もうとっくの昔に死んだ人間とか、伝説になってるような人間じゃないか。」
「伝説、ですか。」
「うん。人々の記憶に焼き付けられた姿ってところ。歴史のエコーみたいなものかね。」
「……現代の人間で、幻想郷に行ける人っているんでしょうか。」
「『あの人は幻想になった』って信じる人が多ければ多いほど、行き易くなると思うよ。私風に言うなら、『たたりをおそれて』って感じかな。」
「たたり。」
「まあ大抵はそういうのは死んだ後のことだからね。生きている人間が幻想になるってのは、ほとんど無理じゃないか。」
 そんな時間を待ってはいられない。言葉には出さなかったが、早苗はそう思うのだった。


 朝の祈祷を終え、早苗は自室に戻っていた。現在社には早苗独りだけである。小さな神社の仕事だけでは生活できないため、初老に差し掛かる両親共に働きに出ていた。早苗は日々の儀式も執り行う、名実とも宮司という扱いだが、わざわざ貧窮している神社に婿入りするような話はない。街中の仕事がなければ、ただ一人、神社の小森の中で取り残される。
 もっとも早苗自身にとっては、神奈子と諏訪子がいるので、それを寂しいと思う感情はなかった。

(もうすぐ秋の祭の準備が必要だわ……)
 細々とした神社でも、周りの農家などからの援助を得て神事を執り行うことぐらいはできるし、やらねばならない。神奈子や諏訪子はそういった神事を行う度に息をついでいるのかもしれない。早苗は今年も各家に頭を下げて、初穂を調達せねばならない。
「……神奈子様。おられますか。」
 不意に投げた言葉がどこに届いたのか、しばらくして返事が帰ってきた。
「なんだい、早苗。何か相談事でもあるのかい。」
「今年ももうすぐ秋です。また方方を回って初穂を頂かねばなりません。」
「そうだね。早苗には苦労をかけるが、私としても仕方ないからね。よろしく頼むよ。」
「……昔は氏子の人たちからどういった物を頂いていたのですか。」
「米ばかりではなかったね。それこそ山で穫れた獣とかもあったよ。」
「そういう物を貰うと、神奈子様は何か力が湧いてきたりするのですか。」
「上手く言えないけど、『やる気が出る』ってところかな。ふふ、神の力ってのは、そういうものだよ。」
 神奈子はそう言って笑った。
「……幻想郷に行くのには、何か儀式とかは必要ないのですか。」
 その言葉を早苗が告げたとき、神奈子は沈黙した。
「……八坂様、どうしたのですか。」
「……いつかは、言わなければいけないと思っていたのだけどね。現実の存在から、幻想へと変わるためには、現実を破棄しなくてはならない。……つまるところ、この社を捨てるってことだ。」
 それを聞き、早苗は尋ねた。
「神社から神様が消えるのですか。そうしたら、ここは、ただの古い小屋になるのでしょうか。」
「……すまない。これは謝らなくてはいけないね。そうなったら、もうここは取り壊して、廃社とする方が良いと思うよ。」
「廃社……。でも、幻想郷に行っても、そちらに神社があるわけではないのでしょう。社ごと持って行けないのですか。」
「社を幻想の存在にするには、綺麗サッパリ現実から無くしたほうが良いんだろう。そう考えると、取り壊した方が、向こうでも住む場所があって良いかな。……壊すとなったら、早苗に手伝って貰わねばいけないね。」
 社を取り壊す。そういう手段によってしか、現実から幻想へは移れないのか。早苗はそう考えていた。


「社を壊すのか。神奈子も随分と荒っぽいやり方を言うね。まああいつらしいかな。」
 諏訪子は特に驚く風でもなく、そう答えた。
「諏訪子様は、幻想郷には行かないのですか。」
「どうだろうね。私自身はどっちでも良いけど、もし神奈子が社ごと移住したら、自然と私も向こうに行く事になるかな。」
 そう言う諏訪子に、早苗は疑問を投げかけた。
「……壊された物は、みんな幻想郷に行くのでしょうか。」
「そんなことをしたら、許容量を超えてしまうんじゃないか。聞いた話では、忘れられることも重要だと思う。言うならば、他の人がどう思うか、ってことだ。」
「……どう思われれば、いいんでしょう。」
「無くなって残念に思う気持ち、可哀想に思う気持ち。そういう人の感情が、集まって幻想になるんだと思うよ。人が無関心であるならば、ただ消えゆくのみだね。」
「……残念、可哀想ですか。……氏子の人たちは、神社が無くなって、そう思ってくれるでしょうか。」
「人の気持ちは移ろうものだけど、無くなったその時、一瞬でもそう思ってくれれば一時の幻想になるだろう。あとは向こうで好き勝手に生きていくってことだ。」
 残念、可哀想。そういう風に自分を思ってくれる人は、ここにどれだけいるのだろう。


 睡眠薬と抗鬱薬を服薬し、ベッドに入って2時間。まだ早苗は眠れない。夜になるほど、暗闇であるほどに眠気がなくなり頭が冴える気がする。眠れないということで、日中の活動にも支障をきたしているから、仕事を首になったのかもしれない。早苗はそう考えてしまう。
(結局、現実を変えなきゃ、安眠なんてできないのよ……)
 睡眠薬で得る眠りでは、ほとんど夢を見ない。自然な眠りではなく、強制された眠りであるからか。そして休日などに昼寝はできるのに、その時には悪夢ばかりを見る。一時期は悪夢を怖れて、昼寝も出来なかった。
(現実、現実。仕事を探さないと、お父さん達にも迷惑をかける……)
 職業安定所に行っても、結局はまた同じような不安定な仕事を紹介されるだけだろうが、ないよりはましだ。
 こんな思考の迷路では、いつも同じような論調で考えてしまう。
(結婚できたら、良かったのにな……)
 若い頃には、お見合いもあった。恋愛だってしたことはある。しかし、結婚という段になると相手は皆離れていった。一度だけ相手の親に、はっきり「貧乏神社に息子はやらん」と言われたこともある。早苗自身では変えようもない、家の格という現実。
(……駄目だわ。悪いことばかり考えている。これだから眠れないのに。)
 早苗が自分を取り巻く「現実」を見るほどに、心は澱んでいく。どうしようもないのだ。


「八坂様。私は、現実を捨てます。幻想郷に行く方法を教えて下さい。」
 数日後、朝の祈祷を終え、早苗は座して一際強く神奈子に告げた。
「……そんな方法は私は知らないよ。何度も言っただろう――」
「嘘を仰らないで下さい!!」
 早苗は叫んだ。同時に目からはらはらと涙が流れ出る。
「そんなに、幻想郷のことを調べているのに、知らないわけないじゃないですか!!私だって神の端くれです。八坂様が行けるなら、私だって行けます!!……だから、そんなこと言わないで下さい……」

 幾分間をおいて、神奈子は答えた。
「可能性が高い方法は知っている。だけど、それは早苗にとっては引き返せないものだ。……それを聞きたいのかい?」
 早苗は涙を袖で拭い、きっぱりと答える。
「私は、もう楽しかった過去には引き返せません。どこに踏み入れようと、後悔なんてありません。」
 それを聞き、神奈子は告げた。
「じゃあ教えよう。……世間に忘れられない傷跡を残し、自らも果てる。そういう手段しかない。」
「やはり自殺ですか。……そんなところだと思っていました。当然ですよね。」
「前にも言ったように、幻想郷とは、『今は亡いもの』の集まりだ。もし早苗がこの現実から消えれば、最後の風祝はここに潰えるということで、幻想になると思う。そして、ただ果てるだけではだめだ。世間の人に、あの人は可哀想、残念だと思わせなくてはいけない。」
「……どんな死に方が良いんでしょう?」
 神奈子がため息をついた。ような気がした。
「そういうことを言ってるのではないよ。でも、ここまで話したら、全部言っても同じだね。だから隠さず教えよう。早苗。神の力は信仰の力。それは重々分かっているだろう?」
「はい。身にしみて分かっています。」
「では、一年のうちで、私が一番力を増す時とはいつだか、わかるかい。」
「……今度の初穂を納めた時ですか。」
「正解だ。私はそういった人間の収穫によって信仰を得てきた。収穫といっても今は穀物ばかりだがね。」
 そこで、神奈子は言葉を切った。
「どうしたのですか、八坂様。続きを。」
「……神前に捧げた供物は、私にとって、どういう風に力を与えているか、わかるかい?」
「……食べてるわけでは無いですよね。現に残るわけですから。やる気、ですか。」
「惜しいね。正解は、『幻想の供物』となっているということだ。氏子が奉納した供物は、その後でどうなろうと、氏子たちは『八坂神奈子が手に入れた』と思っている。つまり、幻想に近い物になった訳だ。」
「なるほど。でもそれが、私の幻想郷行きとどう繋がるのですか。」
 間を置かず、神奈子は続けた。
「はっきり言おう。早苗。お前を供物として、私に捧げるということだ。」

 沈黙。

「人身御供。ああ、なるほど。すべてわかりました。つまり、今度の祭では、私も供物の一角に据えれば良いのですね。それで幻想の存在になると。」
「そうすると、世間ではかなりの悲劇として伝聞されるだろう。早苗を知らない者でさえ、お前の死を悲しむ者も多くいるだろう。それらのエネルギーが、早苗自身を幻想の存在へと生まれ変わらせる。」
「なるほど……」
 早苗は合点がいった。それで、神奈子は私を幻想郷に連れて行きたくなかったのだと。
「これができるのは、ひとえに早苗が風祝だからだけどね。」
「わかりました。神社はどうしましょう。」
「できれば、破壊したほうが良い。伝え聞いた人が悲しむという、悲劇性が高まるしね。」
 何故、神社で物騒な話をしているのに諏訪子は口を挟まないのだろう。そう頭によぎる早苗であった。


 ――もしも生まれ変われるならば、私は何になりたいのだろう。

 早苗は自分の出自を恨んだことはない。どんなに貧乏でも、人の話題に上らなくても、私は現人神だ。そういうプライドは生まれた時から、いや、神奈子と諏訪子の声が聞こえた時から持っている。
 だから、幻想の存在に生まれ変わっても、自分は風祝をしよう。神奈子と諏訪子の世話をしよう。彼女たちだけが、最後まで早苗を見捨てなかったのだから。



 早苗はそれから祭りまでの二週間程、あまり諏訪子とは話さなかった。多分止められるだろうし、もしかすると儀式を邪魔されるかもしれないと考えたのだ。実際に諏訪子は知らなかったのかわからないが、止められることはなかった。
 祭りの日に合わせて、早苗はなけなしの貯蓄を使い、両親に旅行をプレゼントした。両親は娘との最後の別れになるとも知らず、楽しそうに旅立って行った。早苗はその姿を見て、ついに自分では得ることができなかった、結婚生活というものを羨ましく思うのだった。


 祭壇に今年の秋の収穫を供えた後、早苗は神社の中を歩きまわり、灯油を撒いた。自分の死と同時に、燭台が倒れ、神社が火の海となるように。そうすることで、この地から一つの神社とその守り手は消えるのだ。

 早苗は儀式殿の中央に戻り、空のポリタンクを祭壇に乗せて神奈子に問いかけた。 
「神奈子様、準備ができました。これで、すべて終わりです。儀式を始めてもよろしいですか。」
「……ああ。始めよう、早苗。最後の儀式、いや、旅立ちの儀式を。」
 神奈子はそう答えた。


 神楽もない、静かな一人舞台。そこに早苗は舞い、祝詞を唱えた。
 それは、この世界に別れを告げる、あらん限りの呪詛だったかもしれない。


 舞いを奉納し、祝詞を唱え、儀式は終わった。そして早苗はこの日のために用意した、縄を首にかけた。
「……さようなら、みんな。私は、私たちは、幻想の地で楽しく生きていくわ。……八坂神奈子様、この身を御柱に捧げます。」
 そう言って、早苗は燭台を蹴り、台座から飛び降りた。






 この日の地方紙の社会面。
 ――神社で火事、女性一人が遺体で発見




 悲しむ人は、沢山いた。





「……早苗。早苗。起きなさい。」
 遠くから声がする。懐かしい、誰よりも近くで聞いてきた声。

「……八坂様……?」
 早苗は目を開いた。そして、初めて「彼女」と対面した。早苗はその顔を見て、声を聞き、彼女こそ「八坂神奈子」であると瞬間で理解した。
「八坂さま……!」
「おめでとう、早苗。ここが幻想郷だ。お前の儀式は正しく行われた。ありがとう、早苗。」
 紺色の豊かな髪、赤く山吹色の衣服。間違いなくその姿は山の神、八坂神奈子だ。
「ああ、とうとうお姿を拝めました。なんて神々しい。八坂様、ここが幻想郷なのですね。」
 早苗は儀式殿の中央に倒れていた。起き上がって見渡してみると、大分広い。元の神社の数倍はあろうかという広さである。
「……ここは、どこですか?」
「『守矢神社』さ。かつて、早苗が産まれるよりもずっと昔に失われた、幻想となった社。それがこうやって、幻想郷に建っている。昔はこんなに広かったんだよ。」
「……素晴らしい。本当に、夢のようです。……え?」
 早苗は神奈子の胸に飾られた鏡に自分の顔を見た。そこにいたのは。

 緑色の髪。まだ十代と思しき少女の顔。

「……神奈子様。これは……?」
 早苗は神奈子のそばに寄り、鏡をまじまじと覗き込んだ。
「ふふ、早苗を驚かすつもりはなかったのだけど、遊び心が出て黙っていたのさ。早苗、お前の今の姿は『お前が幻想になった』姿なんだよ。失われた若さ。遠い血の髪の色。それが、幻想の早苗の姿だ。」

 幻想の早苗。

 ――ああ、私は、今、生まれ変わったんだ――

 早苗は泣いていた。悲しみの涙ではない。失われたものへの惜別の涙でもない。それは、感謝の涙であった。
「神奈子様。神奈子様。……ありがとうございます……。」
「礼には及ばないよ。これは、早苗の努力によって、できたことなんだから。」
 神奈子はそう言って笑い、早苗の頭を撫でた。

「いや、私の配慮も評価してくれてもいいんだよ、早苗?」
 もう一人。懐かしい声。早苗は入り口を見てその姿を拝んだ。
「……諏訪子様……!一緒に、来られたのですね……!ああ、嬉しい。こんなに嬉しいのは、何年ぶりでしょう。」
「……止めるべきか、迷ったんだけどね。でも、もしそこで止めたら、早苗に私たちは孤独な一生を背負わすことになる。そう考えて、やめた。それに私たちは三人揃って最大の力を発揮するしね。」
 諏訪子はそう言って袖を振った。


 神社の境内に出て、あらためてその広さに驚く。これほど大きな神社だったとは、早苗の想像以上である。
 そして、神社のそばに広がる、巨大な湖。神奈子の説明によると、埋め立てられて失われた、かつての湖がここにあるということだった。ただただ驚くばかりである。


「早苗。神は地を離れて空を飛ぶものだ。きっと早苗も神の一員になったのだから、相応しい生き方、能力が身についているよ。」
 諏訪子はそう言って、フワフワと空中に浮かんでみせた。
「そんなことが、できるのですか?」
「論より証拠。ほら、手を掴んで。」
 そう言って諏訪子は早苗の両手を取り、引き上げた。
「……え?あれ?何でしょう、これは?」
 早苗の体はまさに宙を踏むが如く、空中に浮かんだ。
「そうそう、そんな感じ。飛ぼうと思えば、飛べるはずだ。」
「何か、変な感じです。泳いでいるような、落ちているような。うーん。」
 早苗はそう言いながらも、宙に浮かんで境内をぐるりと回った。


「私や神奈子はしばらくこの神社にいるから、この幻想郷を空から眺めてきたら良いんじゃないか。」
 諏訪子の言葉に、早苗は笑顔で答えた。
「はい!そうします。では、行きます!」
 そう言って、早苗は幻想郷の空へ駈け出していった。


 一面の緑の山、麓には集落のようなところが見える。そして、山陰にあるのは。
 赤い鳥居。

 ――ここにも、神様はいるんだ――

 早苗は幻想の空を舞う。
 三十路早苗というキーワードを目にして、衝動的に書きました。個人的には早苗は永遠の17歳じゃないかなあ、と思います。
 読んで頂き、ありがとうございました。

2.NutsIn先任曹長さん

 常識に囚われないお馬鹿な早苗さんも好きです。ちょっとうざいくらいが早苗さんの本質かな、と思います。

4.名無しさん

 この話では、早苗さんが心に抱いた自分の幻想なので若返ったんでしょう。でも必死で若さを取り戻そうとする三十路の早苗さんの努力も見たいですね。

5.んhさん

 ババ臭さと若々しさの絶妙な配合で、彼女はスーパー現人神になるのでしょう。多分。

6.名無しさん

 早苗さんの魅力として、リアルな世界とのつながりが深いことがあるんじゃないかと思います。自分の地元の寂れていく姿を見ていると、私もやりきれないなあ、という気分になります。


 匿名評価、コメントありがとうございました。

10/21追記

7. ギョウヘルインニさん
ああ、実に良いアイデアです。書けなくて悔しい……力不足を痛感します。

10/28追記
8. 名無しさん
巫女さんの知り合いはいませんが、生活はもうちょっとは楽であって欲しいと思います。
リアリティは難しい課題です。

9. 名無しさん
心の病は恐ろしいものですが、最近は薬で大方リカバーできます。
個人的には、そうあって欲しいです。
作品情報
作品集:
5
投稿日時:
2012/10/09 13:37:07
更新日時:
2012/10/28 02:33:19
評価:
8/11
POINT:
890
Rate:
15.25
分類
早苗
神奈子
諏訪子
三十路
10/21コメント返信
10/28コメント返信
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0. 90点 匿名評価 投稿数: 3
2. 100 NutsIn先任曹長 ■2012/10/09 23:42:24
なるほど。幻想入りの手順の一つではあるわな。それを望んだ心情も。
『だいたい普通の人』である彼女が、常識に囚われない幻想の存在になった経緯も、なかなか小粋ですね。

――で、現実のしがらみから逃れた彼女は、幻想郷で馬鹿をやらかし、洗礼を受けるというわけですか……。
4. 100 名無し ■2012/10/10 19:26:35
三十路のままでもいいのよ?
5. 100 んh ■2012/10/11 00:43:56
なるほど、だからテンテン面白かったとか、セチの成功を祈ってるとか、微妙に発言がババ臭かったのか…
6. 100 名無し ■2012/10/16 18:37:35
淡々と訴えかけてくる文を読んでるとなんだかやりきれない

幻想郷の早苗さんは『正しく現代にまで秘儀が継承されたらいたであろう早苗』だから
現実の早苗さんはおばあちゃんだ

おばあちゃんと襲名し現代にまで存続したかもしれない早苗さんが混じったものが東風谷早苗だろうと
7. 100 ギョウヘルインニ ■2012/10/21 00:19:28
残された両親は、早苗さんかけていた多額の保険金を手に入れてマンションを建てたりしているのですか?
8. 100 名無し ■2012/10/23 20:00:16
こんな巫女が現実にいそう。リアリティの出し方が上手いのだなぁ・・・
9. 100 名無し ■2012/10/25 21:40:29
30前で病気持ちであるからこそ、現実は駆逐されて然るべきだと再認識できました。
10. 100 名無し ■2012/12/03 13:16:47
感動した
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