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『Lunatic Kitchen3』 作者: pnp

Lunatic Kitchen3

作品集: 6 投稿日時: 2013/01/14 07:48:14 更新日時: 2013/01/21 14:35:27 評価: 23/30 POINT: 2440 Rate: 16.43
 幻想郷――この異形の者達が跳梁する世界で、人間達が寄り添いあって暮らす人里と呼ばれる場所がある。その傍らには、とても広大な森林がある。食料となる動植物が獲得できることから、人間もちょくちょく立ち入る場所である。同時に、生い茂る木の葉が遍く光を遮り、昼はほの暗く、夜はより深い闇に包まれるものだから、暗所を好む妖怪にも人気の場所である。
 どれだけ歩いてみても木々が密集しているばかりで、同じような光景が続く為、景観としての面白味はまるで無い。しかしある一角だけ、その退屈な法則から逃れた場所がある。
 直径二十メートル程度の円形状に、木々が伐採されて開けている場所があるのだ。自然に出来たものでないことは火を見るよりも明らかであるが、誰が何の為にこのような円形の空間を作ったのか、それは不明である。
 木や森を見ていれば、ただ単に円形に木が伐採されただけの場所であるが、天気のいい夜にそこに寝転ぶと、夜空がまるで樹木の織り成す額縁にはめ込まれた様に見え、何とも幻想的な光景を拝むことが出来る。開け過ぎておらず、それでいて狭苦しすぎない、絶妙な視界ならではの景観である。
 しかし、こう言った貴いものには危険が付き物で、先程も述べた通り、この森林は妖怪にも好まれている場所なので、不用意に立ち入るのはあまりにも危険である。
 そんな価値と危険が共存するこの場所に、この日、複数の人間がいた。子どもが六名。大人が二名。この内、純粋な人間は子ども達だけで、大人二名は、人間ではあるものの、少々訳ありの純粋でない人間である。
 その不純な人間二名――上白沢慧音と藤原妹紅は、草の絨毯の上に仰向けになって星空を見ている子どもたちを眺めている。

 上白沢慧音は半獣と呼ばれる存在であり、満月の夜には完全な獣となる。その時以外は人間の姿をしていて、人里で寺子屋の教員をやりながら生活をしている。特殊な人間でありながら、人間からの信頼は厚い。
 もう一人のおかしな人間、藤原妹紅は、不老不死と言う特性を持つ。長年に渡る修行の成果で、魔力由来の炎を操る。今も彼女の掌には、篝火のような小さな炎がちろちろと燃えており、時たま流れて行く夜風に煽られて揺れている。この炎はこの場において、野生動物や妖怪を牽制したり、手元を明るくしたりする役割を持ち合せている。
 今日、この八名がこの場所を訪れたのは言うまでもなく、この絶景を是非、寺子屋に通う子ども達にも見せてやりたいと言う慧音の願望から来ている。しかし、我が子を妖怪蔓延る森へやると言うのは、いくら慧音の同伴があれども、子ども達の保護者達にとっては不安であった。そこで、妹紅も同伴することとなった。妹紅からこの同伴を買って出たのである。慧音と妹紅の付き合いは非常に長い。慧音の為に一肌脱いでやろう言う、妹紅の計らいである。
 保護者達の不安を払拭し切ることは出来なかったものの、子ども達からの熱い要望にも後押しされ、この課外実習は決行された。
「案外静かなものだな。動物の声も聞こえて来ない」
 慧音が安心したように声を漏らす。
 普段は騒がしい子ども達も、幻想的な夜空に心を奪われているのか、まるで目を開けたまま眠ってしまっているかの様に静かである。先程から聞こえてくるのは葉擦れの音ばかりなものだから、慧音の呟きはよく通った。
「本当にね」
 妹紅も辺りを見回しながら言い、慧音に同意を示したが、
「だけど、あんまり油断しちゃいけない」
 すぐにこう戒めた。
「分かっているよ」
 慧音が頷く。
 それから、等間隔に並んで仰向けになっている子ども達の方を向き直した。
「どうかな、みんな。楽しい?」
「とっても!」
 慧音に最も近くにいた子どもが即座に返事をした。それを号砲としたかの様に、子ども達は口々に、この縁取られた空の絵画を見た感想を言い始めた。収集が付かなくなっておろおろする慧音。妹紅はそれを見てくすくすと笑う。
「ねえ先生、星座って分かる?」
「星の並び方で、羊とか三角形とかに見えるんだって!」
「何それ? 俺も見たい! 星座ってどれ?」
 子ども達に問われた慧音は、
「星座か」
 何とも頼りない声を絞り出した。
「ここは空全体が見えないし、私は歴史が専門だからなぁ……」
「分かんない?」
 はっきりと分からないと言うのは職業柄、少々癪であったので、慧音も子ども達に並んで空を見上げてみた。しかし、視界が限られている上に、知識が無いのでは、星は好き勝手に散らばっている様にしか見えず、そこから図形性を見出すことは、慧音には出来なかった。
「うーん……。よく分からないな。申し訳無い」
 そう言うや否や、と子ども達から非難の声が上がる。
「先生なのに分からないの?」
「分からないことがあるのにどうして先生になったんだよぅ」
 慧音は体を起こし、少し不貞腐れたように頬を膨らませた。
「先生だからって何でも分かる訳ではないよ。私だって毎日勉強しているんだぞ?」
 少し大人気無くこう弁明したが、子ども達には分かって貰えず、しばらくは子ども対応に追われていた。妹紅はやはり、それを微笑ましげに眺めているばかりであった。


 森林の中にある円形の広場では、この様な穏やかな時が流れていたのだが、その円形のすぐ傍を、一直線に駆け抜けて行く黒い小さな影があった。茂みを突っ切り、木々の間隙を縫い、点在する木の根や石を猛烈な速度を維持したまま軽々と跳び越えて行く。
 子ども達は勿論、慧音や妹紅でさえ、その闇の中へ放たれた一矢の様な影を察知することは出来なかった。


*


 慧音らのいる森林の最深には長い岩壁が横断している。その岸壁の上はまた広大な土地が広がってはいるが、そこに森林は無く、だだっ広い平野となっている。平野から見下ろせば――岩壁の上から眼下を眺めてみれば、森林がまるで海の様に広がっていると言う絵面になる訳である。
 この長い岩壁にはいくつかの洞穴げ開けているのだが、その空かれた洞穴の一つの前に、一匹の黒猫がやって来た。猫は自分が駆け抜けて来た道を振り返った。紅い瞳をきらりと輝かせ、黒々とした森林の闇をじぃっと見つめる。
 沢山の人間がいた――ある地点を通った時見えた光景を想起する。黒猫は舌舐めずりを禁じ得なかった。
 黒猫の癖に随分残酷で邪な思想を抱いているものだとお思いであろう。言うまでも無く、この黒猫はただの猫ではない。二手に分かれた尻尾。真っ赤なリボン。そして先程の残忍な思考――単なる野良猫でないことは明白である。
 しかし黒猫は、人間の群れをどうこうしてやろう等とは考えず、くるりと方向を百八十度変え、洞穴の中へ入って行った。闇に溶ける様に黒猫の姿が世界から消えてしまう。足音すら響かないものだから、本当に闇と同化したかの様な錯覚を覚える。
 その闇の中で、猫がちょっと念じてみると、猫はその姿をあっと言う間に人型の少女に変えてしまった。長く赤い髪を纏めて出来た大きなお下げ二つを揺らしながら、洞穴の奥へ奥へと歩んで行く。その道は、ミミズが這った跡の様にぐねぐねとひん曲がっている。
 やがて洞穴の突き当たりに到達したのだが、その隧道の終末の壁には木製の扉が付いている。その扉も煤色に塗装されていて、闇との同化に成功している。
 猫の少女はその取っ手に手を掛けた。慣れた手つきは、彼女がここを訪れるのが初めてではないと言うことを如実に物語っている。

 扉を開いた先には、横長の長方形をした小広い部屋が広がる。部屋に立ち入った時点で、右手側は壁で、左手の方に大きく部屋としての空間が広がっている。
 部屋の中にはテーブル一つに椅子四つで一組となっている座席が四組程置かれている。漆塗り、ログテーブル、スチール製、廃材をリサイクルしたと思われる明らかにお手製のものと、その調度品にはデザインに統一感が見られず、如何にも寄せ集めと言った感じがして、やや落ち着きが無い。デザインを統一している余裕が無かったのであろうと推測できる。
 猫の少女が入って来た扉と同じ辺の反対側の端に、もう一つ扉がある。鉄製でかなり無骨な扉であるのだが、そこには可愛らしく丸みを帯びた文字で『STUFF ROOM』と記された、楕円形のプレートが掛けられている。
 猫の少女はその鉄製の扉に手を掛けて、
「お邪魔しまーす」
 溌剌とした声でそう言いながら部屋へ入って行った。


*


 竈の中に効率良く火が起こせるように薪を組み立て終えた所で、夜雀は困り果ててしまっていた。薪を見下ろしながら腕を組み、うんうん唸っている。
 時折、ちらりと後ろを振り返る。その視線の先には、銀色の無骨なテーブルがある。銀色とは言っても絢爛さなどとはまるで無縁で、ただの長方形の作業台とでも言った方がお似合いである。
 その作業台の様なテーブルの上には、人の子一人が容易に横たわれる程大きな俎板が一枚置いてある。そして実際に現在、猿轡を噛まされ、手首足首を細い縄で縛られた、人の子の様な姿をした幼子が一人、まな板の上に寝かされている。背中から薄い羽が飛び出していることから、少なくとも人では無いことが分かる。事実、この子は妖精である。目を閉じているが、あまり穏やかな表情はしていない。それもその筈、この妖精は、夜の森で遊んでいた所を運悪くこの悩める夜雀に殴打され、昏倒し、拘束され、ここへ運ばれたのだから。
 俎板の上とあれば、これからこの妖精がどうなってしまうかは、容易に想像して貰えることであろう。
 勿論この夜雀も、この状況を見た者の十中八九が考えることであろう行いをこれからやろうとしているのだが、その仔細が決まらず、困ってしまっているのである。

 相変わらず悩ましげに唸りながら、あれこれ思案していると、
「お邪魔しまーす」
 不意に背後から溌剌とした少女の声が聞こえた。夜雀は弾かれるように振り返る。そんなあまり穏やかでない歓迎を受けた客人は、制圧を受けたかの様にサッと両手を上げた。
「あたいだよ、あたい!」
 大袈裟な調子で叫んだこの客人の耳には黒猫の耳。臀部には二股の尻尾。髪と瞳は燃えるように赤い。
「何だ、燐か」
 夜雀はふっと相好を崩した。燐と呼ばれた客人は、引き攣った笑みを浮かべながら胸を撫で下ろし、それから両手も下げる。
「あんたって勢いで誰彼構わず殺しそうで怖いんだよ」
「そんなことする訳無いでしょ」
 夜雀は穏やかに笑みながら反論する。地底世界から遥々この場所へやって来た客人、火焔猫燐は、夜雀の反論を無視し、辺りをきょろきょろと見回した。そして、俎上の妖精を見つけて目を輝かせる。
「捕まえたんだね!」
 素っ頓狂な声を上げた後、妖精に駆け寄る。やや苦しげな寝顔で横たわっている妖精を眺めるその瞳は爛々と輝いている。誰もいない台所に忍び込んだ猫の眼そのものである。
「捕まえたよ」
 夜雀が答えると、
「流石ミスティア! あたいはあんたなら今日こそやってくれてるって信じてたよ!」
 こんな調子で夜雀を褒めちぎる。
 夜雀は、名をミスティア・ローレライと言う。歌で人を惑わせる能力や、他の生物を鳥目にする能力を駆使し、詐欺紛いの鰻屋台など開いている。しかし、最近はそちらがかなり安定し始めてしまい、面白味が失せてきてしまった。そこで、この森林の岸壁に穿たれた洞穴の深奥にひっそりと設営した厨房で、大好きな料理を行って楽しんでいる。

 竈の前でうろうろしていた夜雀は、ようやく竈から離れ、雑然と調理器具を並べている棚の方へ歩み寄り、がちゃがちゃと音を鳴らしながら調理器具の選定を始めた。
「どうやって食べようかって悩んでたんだけど、食べたいものとかある?」
 そんなことを言いながら、一際大きな骨切り包丁を手に取り、壁に掛けてある照明にその白刃を照らした。反射したランタンの橙色の光の眩さに、ミスティアは思わず目を細める。
 骨切り包丁を照明に掲げるミスティアと、未だ目覚めない食材たる妖精を忙しげに見比べて、燐は大袈裟にうーんと唸った後、
「野菜炒めにしよう! ご飯が食べたい!」
 フィンガースナップなどと言う粋な演出を交えてこう言った。
「庶民的なんだね」
 ミスティアはこんなことを言って微笑んだ。
「分かった。じゃあ、野菜炒めにしよっか」
 そう言うとミスティアは更に二、三個の調理器具を引っ張り出して、作業台の様なテーブルの上にがらんがらんと並べた。

 その音で、ようやく俎板の上の妖精は目を覚ましたのだが、自身の置かれている状況を瞬時に察することができなかったと見え、しばらくは半開きの目をきょろきょろと宙に泳がせることしか出来ていなかった。
 ややぼやけ気味の視界に映ったのは、森で屋台を開いていた記憶のある夜雀が、濃紺のデニム地エプロンを着用している姿であった。ほとんどいつも被っている小豆色をした特異なデザインの帽子も、同色のワンピースも身に着けておらず、暗色を基調とした衣服を身に着けているから、何となく雰囲気が違うように思えた。
 覚醒が僅かに進んだ所で、妖精は自分の動きがかなり制限されていることに気付く。声が出せない、手足も動かせない、羽の駆動さえ行えない――これは一体どういうことなのだと、見知った夜雀に聞くことも許されないので、必死に目で自分の意思を訴えていると、夜雀ではなく、火車である火焔猫燐が妖精の顔を覗き込んだ。
 妖精は燐のことを知らない。それもその筈、火焔猫燐は忌み嫌われた妖怪が封じられている地底世界に住まう妖怪である。そこで今尚燃え続けている地獄の焔を絶やさない為、地上から燃料となる死体を運んで来るのが燐の仕事である。割に地底世界と地上を頻繁に行き来している妖怪ではあれども、妖精との接点など無に等しい。
 この不可解な状況に見知らぬ者がいることそのものが先ず恐ろしいことであるし、それに加えて燐が赤黒い斑点模様の付いた白色のエプロンを身に着けていることが、余計に妖精の恐怖心を煽った。どう見ても、その赤黒い斑点が血にしか見えなかったからである。
 エプロン、血、夜雀――この三つの言葉は驚くべき親和性を持って溶け合い、混ざり、妖精に多大なる絶望と恐怖を提供する。
 何となく状況が見えてくると、芋づる式にいろんな情報に勘付いてしまう。忙しげに動いている夜雀は料理の準備をしているのだと言うこと。後頭部の疼痛は夜雀によって齎されたものであると言うこと。そして、自分が俎板の上に寝かされているということ――。

 全ての情報を綯い交ぜにした末に、妖精は猿轡越しに絶叫を上げることを選んだ。
 唐突な絶叫に燐が驚いて後ろへ飛び退く。
「びっくりした! まったくもう、驚かさないでよね!」
 妖精からやや距離を置き、燐が金切り声を上げる。
「食べ物相手に何話してるのよ」
 ようやく調理器具の準備を終えたらしいミスティアが燐の傍に立ち、声を掛ける。
「あの子を押さえてて欲しいんだけど」
 巨大な骨切り包丁の峰を右手の中指でこつこつと叩きながらミスティアが言う。
「一人で出来ないの? そんなことじゃいつまで経っても一人前になれないぞ」
「やろうと思えば出来るけど、どうせ人手があるなら楽をしたいもの。あなたもさっさとご飯食べたいでしょ? 手伝ってよ」
 燐の了解を待たず、ミスティアは妖精に歩み寄る。燐もせかせかとミスティアの後を追う。

 骨切り包丁を携えたミスティアを見て、いよいよこの妖精の絶望感は絶頂へ到達した。手足を縛られながらも、どうにかここから逃げ出そうと芋虫の様に這おうとしたのだが、燐がそれを押さえ付けた。
「放して、放して」
 必死にこう訴えかけるが、猿轡が邪魔でうまく言葉になっていないし、そもそもちゃんと喋ることができた所で、この二人がこの酸鼻極まり料理を止めることは無い。
「ちゃんと押さえててね」
 ミスティアが念を入れる。
「あたいの手まで切らないでよ」
 燐が念を押す。
「善処するわ」
 やや不安の残る返答。燐は苦笑を漏らした。

 まずミスティアは妖精の羽を切り取ってしまった。トンボの羽の様に薄く、そして細長い。付け根の少し上の方で切断した。血は出ないが、やはり妖精は痛いようで、くぐもった悲鳴を上げて身を捩らせている。
 切り取った羽を、ミスティアは四角いトレイへ移した。
「羽、食べれるんだ?」
 トレイに移された羽を見ながら燐が言う。
「この手の妖精の羽は味が無いし、あのまま食べても喉に引っ掛かる感じがするだけで全然美味しくない。だけど、揚げるとパリパリになるの。肉でも包んで餃子っぽくするとか、野菜炒めのアクセントにするとか、そういう使い道があるよ」
 なるほど――と感慨深げに呟く燐。彼女もそれなりに料理は得意で、住居たる地霊殿では時折食事当番を買って出たりもしているが、ミスティアの知識には到底及ばない。

 こんな具合に、夜雀と火車は実に微笑ましげな時を過ごしているのだが、妖精からすればたまったものでは無い。主要な移動手段たる羽を奪われてしまった。おまけにこの暴虐はまだ続くようで、燐の手による拘束がまだ解かれない。相変わらず猿轡を噛まされながらも泣き叫び、抵抗しているのだが、燐からは逃れられない。
「もうちょっと静かに出来ないかなあ」
 暴れまくっている妖精を見て燐はやや不機嫌そうにこんなことを言った。しかし、ミスティアはすっかり慣れているようで、別に嫌な顔一つしないで、脚の切断に取り掛かった。
 妖精が身に着けていたズボンを脱がせる。下着も放った所で、燐が目を向く。
「あれ! 男の子だったんだ、この子!」
 露わになった花の蕾を彷彿とさせる未発達な可愛らしい男根を見て、燐が声を上げる。身に着けていた服が先ず女の子用のものであった上に、容姿も声も女児とさして変わらないものであったから、男児と判断するのは難しかったのである。
「まさか男だったとはね」
 ミスティアも見抜けていなかった様子であるが、特に狼狽えることはなかった。
 妖精を仰向けにし、燐に上半身をがっちり押さえ付けさせる。そして、しなやかな大腿に刃を宛がう。仰向けにされてしまったものだから、妖精は自分の脚の付け根辺りに巨大な白刃を押し付けられているのが見えてしまう。その恐ろしさは何より耐え難いものであった。
 妖精は本来死を恐れない。死など、一回休み程度の認識しか無い。だが、むざむざ殺されるのは妖精としても苦しいし、恐ろしいのである。
 有らん限りの声を上げ、精一杯身をくねらせて抵抗したが、それは徒労に終わった。包丁の峰に、夜雀がありったけの力を込めて拳を振り下ろしたのである。
 ドン。グシャリ――聞くに堪えない生々しい音。それを追うように血が吹き出し、燐のエプロンにまた新たな染みが付く。そしてミスティアのデニム地のエプロンにも、見えにくいが確かに新たな戦績が刻み込まれた。
 そういった事象への意識は、次の瞬間放たれた妖精の絶叫によってはぐらかされた。聞くに堪えない大声に、燐は思わず耳を押さえる。一方、ミスティアは何とも無いと言った風である。切り離した脚を別の大皿に移すと、そのままもう片方の脚も切断した。
 妖精は遂に体を動かすことが出来る部位を奪われてしまったこととなる。逃亡への意識は増々高まってきているのに、まるで動きが伴わない。今までやってきたように脚を動かして、どうにか俎上から脱そうとしているのに、感じられる筈の俎板のざらつきを、脚は感じ取ってくれない。それもその筈、脚は既に切り取られ、別の容器に移されてしまっているのだから。
「ありがと、燐。残りは私がやるから、お味噌汁作っててくれるかな?」
「はいよ」
 これだけ残忍なことをしておきながら、二人は何とも微笑ましく、仲睦まじい会話を繰り広げている。非現実に晒されて悶え、苦しんでいるのは妖精只一人なのである。
 血に塗れたエプロンはそのままで、燐が味噌汁作りへ向かった。ミスティアはそこに留まり、妖精の解体を続ける。

 身体の中でも強靭な部位に当たる脚を失った妖精の機動力はもはや無に等しい。加えて腿を通る重要な血管が断裂したことで夥しい血が流れ、猛烈な勢いで意識が薄まっている。次から次へと体が思うように動かなくなっていくのに、妖精は心底恐怖した。自分が自分でなくなっていく――これぞまさに、死と言うものなのか。
「死にたくない……死にたく、ない……っ!」
 絶え絶えとした呼吸の合間を縫ってこんなことを言ってみたが、願いは届かない。
 まだ自分の意志の元にあるということを確認するように開閉を繰り返していた手が、ずどんと言う音と同時に切り分けられてしまった。痛みも勿論あったのだが、そんなことより、これ以上自分の体を自分の制御できる範囲から遠ざけないで欲しいと言うのが妖精の本音であった。
「やめて。もう、こわしちゃ、や」
 懇願の言葉半ばで首に刃が突き立てられた。
 今度の一撃は苦しむ暇さえ無く、妖精の命を奪って行った。


*


 解体したての妖精の肉を使った野菜炒めに、燐が作った味噌汁。それから白いご飯――ややボリュームには欠けるが、立派な夕食が完成した。
 いただきます――とミスティアが手を合わせる。燐もそれに倣った。食べられる運命となった生き物への感謝の意が、この動作には込められていると言う。ついさっき妖精を解体した二人は、この動作が随分神妙なものに感じられるのであった。
 野菜と妖精の肉を口に運んだ。
「美味しい!」
 燐が感嘆の声を上げる。
「うん。お味噌汁も美味しい」
 ミスティアがそれに続く。
 燐はせかせかとこの質素な夕食を平らげた。対してミスティアはゆっくりとしている。早々に食べ終わって手持無沙汰になった燐は、ミスティアにこんな話を持ちかけた。
「ミスティア。あたいさあ、どうしても食べたいものがあるんだ」
「何?」
 食事の手は止めず、ミスティアが問い返す。
「それはねえ、人間さ!」
 妙に演技がかった口調で燐が言う。
「食べればいいんじゃない?」
 言下に放たれた夜雀の声は冷やかである。燐はぶんぶんと首を横に振った。
「違う違う。ただ食べられりゃいいってもんじゃない。あんたに料理された人間が食べたいのよ」
「まあ。それは光栄なことだわ」
 こんなことを言っているが、声色は冷め切っており、喜ばしさなどまるで感じられない。脈無しと判断しつつも、燐は懸命に自分の胸の内を明かしていく。
「あたいとあんたが出会って何カ月か経つじゃない?」
「よく覚えてない。覚えられない」
「もう、そこは分かんなくても理解してよ」
「分かってるよ。そんなに怒らないで」
 ミスティアは苦笑し、燐を宥める。

 火焔猫燐がこの隠された厨房を見つけたのは数か月前のことで、本当に単なる偶然であった。
 死体を探しに地上へ出てきた燐が、死体集めの作業中に見つけ出したのだ。死体に敏感な彼女は、ミスティアの狩った“食材”に反応してしまったのである。
 初めて厨房に立ち入った時、燐はそれはそれは驚いてしまった。何せ、血塗れのエプロンを身に付けた夜雀が、そこらを徘徊している妖怪を挽き肉にして、塩やら野菜やらパン粉やらを混ぜて捏ねて楕円形にして、いざ焼かんとしている場面に遭遇してしまったのだから。
 仕事柄、そして所有する能力の関係で、燐は今までに数多くの死体を見て来たが、この時台の上に載せられていた、食材になり切れなかった妖怪の骸は、目を背けたくなる程の陰惨さを放っていた。
 そんな場面を見られても、ミスティアは別段慌てることもなく、
「こんばんは。よくここを見つけましたね。しかし、勝手にスタッフルームに入ってくるのは少々頂けません」
 薄く微笑みながらこう言っただけであった。次の瞬間には、楕円形のミンチの塊と化した妖怪の腕は、予定通り熱されたフライパンの上に投下され、じゅうじゅうと音立て始めた。
 燐も立ち入った瞬間こそ驚いたものの、すぐに立ち直った。そして、彼女の作る料理に興味を示した。ミスティアも誰かに食べて貰えることを喜んで、一つだけの肉料理を気前よく燐に振る舞った。
 これの味が、燐の想像を遥かに超えるほど美味であった。これはいい場所を見つけてしまったと、燐は心底喜んだ。
 これ以降彼女は、暇さえあればこの厨房を訪れるようになった。時々材料となる妖怪をお土産に持って行ったりもする間柄である。
 二人の出会いは、このような出来事を経てのことである。

「出会ってから今までの間、あんたは一回も人間を料理してないよね?」
「してないね。人間は後が面倒くさいもん。一人死んだ、一人いなくなったってだけで、吹き零れるパスタの鍋さながらに騒ぎ立てるから」
 ミスティアは人間が妖怪に殺され、戦々恐々たる雰囲気に包まれていた頃の人里を回想し、思わずぷっと吹き出した。その一件にミスティアは何ら関与していなかったが、鰻屋台の経営の為の買い出しの時に、その場面に出くわしたのである。彼女も妖怪であるが故に、あの頃は随分と警戒されたものだと、懐かしい気持ちになった。
「それならさ、久しぶりにどうかな、人間料理! 大変なのは分かるけど、たまにはいいじゃないか。ね?」
 燐が言う。
「……まあ、考えておくわ」
 ミスティアはこう言って茶を濁した。『作る』と明言した訳ではないのに、燐はもう作って貰えることになった気になっているようで、耳と尻尾を忙しくなく動かして喜びを表している。
 最後に人間を調理したのはいつだったかを、ミスティアは思い出そうとしてみた。だが、物覚えの悪い彼女がそんなことを思い出せる筈がなかった。
 暫く考えた後、どうでもいいか――と、そう心中で自身に言い聞かせ、それ以上の思考を止めた。

 そうこうしている内に、ミスティアの食事も終わりに近付きつつあった。空に近づいて行く皿を眺めていた燐であったが、
「あーっ!」
 燐が素っ頓狂な声を上げた。ミスティアは驚いて燐を見やる。
「どうしたの?」
「ミスティアだけてんぷらなんて食べてる!」
 燐が指摘した通り、ミスティアの茶碗の中には小さなてんぷらが三つあった。目ざとい燐は、それを発見したのである。
 燐が指摘した傍から、ミスティアがてんぷらに齧り付いた。
 燐はまた先程と同じような金切り声を上げる。
「言ってる傍から一人占め!? ひどい!」
「ごめんね。欲しかった? 食べ掛けでいいなら、いる?」
「いる!」
 燐があーんと口を開けた。食べさせて――と言う合図である。
 ミスティアはそれを燐の口の中へ運んでやった。もごもごと小さなてんぷらを咀嚼する燐であったが、随分独特な食感と味をしているものだから、顔を顰めた。
「これ、何のてんぷら?」
「陰茎」
「ふぇっ?」
 燐の咀嚼がピタリと止まった。
「い、陰茎って」
「男性器ね。妖精の。男の子だったでしょ?」
 目を丸くしている燐に、ミスティアはにっこりと微笑んで見せる。
「吐いたら承知しないからね」
 ミスティアが言うと、燐は目尻に薄っすら涙を浮かべ、それ以上咀嚼しないでごくりとてんぷらを飲み込んだ。本当は吐き出したかったが、食べ物のことでミスティアを怒らせると恐ろしい気がしていたし、それ以上に人間料理の約束があったものだから、ここで彼女の気分を害するのは得策ではないと判断したのである。
それでも気色悪さには耐え切れず、飲み込んだ後、グラスに水を注いでがぶ飲みした。
「こっちのてんぷらも食べる? これは陰嚢。要は白子みたいなものね」
「い、いや……いい。いらない」
 燐が大袈裟に手を首を振った。
「ほんとに要らない? 二つあるから遠慮しなくていいよ?」
 そう言ってミスティアは、二つある小さな球状のてんぷらの片方を、箸で摘まんで差し出した。燐はぶんぶんと首を振る。
「いらない! 本当にいらない!」
「あら、そう? 食わず嫌いなんて勿体ない。美味しいのに」
 人生……いや、妖怪生三割損してるよ。甚大な損害だよ――こんな言葉を付け加えた後、球状のてんぷらをぽいと口に放り込んだ。
 美味しそうに咀嚼をしているミスティアに奇異の目を暫く向けた後、体内から込み上げてくる気色悪さを無理矢理体内へ押し戻すように、燐はまた大量の水を胃袋に送り付けた。彼女はミスティアのことを食の達人として尊敬してはいるが、さすがにこの雑食性は理解し難いものであった。


*


 燐との夕食会から数日後、ミスティアは夜の森へと狩りに赴いていた。
 彼女の厨房には、食材を保存しておくための設備などが存在しない。だから材料を保存したい場合は、生け捕りにして、牢屋のような作りの食糧庫に入れておくと言う方法を取っている。
 一度捌いたら保存は出来ない。だからと言って、生け捕りにしたら生かしておかねばならず、食費なんかが嵩んでしまうし、生物を管理しなくてはいけない手間が生まれる。それ故に、生かすにしろ殺すにしろ、一度に大量に狩りをするのは非効率的だと考えていた。
 だから、なるべく貯蓄しないと言うのが基本的な彼女のスタンスである。必要な時に、必要な分だけを獲るというものだ。
 吸血鬼の館や、天狗達の住む山なんかには冷蔵庫と呼ばれる便利な機械がある。ミスティアも実物を見たことは無いが、そう言った外界の利器の噂を耳にしたことがあった。だが、そんな珍品を、夜雀である彼女が手に入れられる筈が無い。とある人間が営んでいる、外界の物品を売っている店に時折売られていることがあるのだが、ミスティアの財力では到底手が出せない代物である。

 ミスティアは、あの洞穴の奥深くに隠されている厨房に訪れた者には料理を振る舞うことにしてはいるが、しかし、料金などは一切受け取らない。商業目的で料理を作っている訳ではないし、あの場所はレストランではないと思っているから、金を受け取る義理は無いのである。もしも誰かが来た時の為に、不揃いなテーブルや椅子は用意してあるが、使う機会は全くと言っていい程無い。
 あの厨房の場所を、ミスティアはなるべく他人に知られない様にしている。彼女が楽しんでいる、自由な料理が阻害される可能性がある為である。あの厨房は誰かを喜ばせると言うより、彼女の飽くなき料理への探求心を発散させる場として機能しているのだ。それ故に、洞窟の深奥と言う不便な立地にあんな厨房を構えているのである。
 万が一手に負えない程にあの場所が人々に知れ渡ったら、移転することも吝かでないと思っている。しかし、新しい調理場となる場所を見つけ出し、実際に移るのはかなり骨の折れる作業であるので、なるべくこの手段は使いたくないと言うのが彼女の願いだ。
 こんな風に様々なことを憂慮してはいるが、あの厨房に燐以外の誰かが来たことは一度も無い。見つからない様に作ったのだから、当然と言えば当然である。
 だが、燐に見つけられたと言うことは、やはり第三者に発見される恐れが付き纏っていると言うことの証明に繋がる。いろんな策を講じておくことに損は無い。

 隠された厨房でミスティアが作りたい料理と言うのはもはや説明するまでも無いであろうが、牛や鶏や豚ではない、知的生命体を材料とした料理である。
 妖怪は人間や妖精を食うものであるが、その実、料理と言う七面倒臭い手順は経ずに食している場合がほとんどである。故に妖怪達の食文化と言うのは、彼奴等の古い歴史とは裏腹に浅い。ミスティアはその研究を兼ねて、この陰惨な料理を行っている。
 知的生命体とはつまり妖精や妖怪や人間の三種が挙げられる。だが、彼女が狩るのは基本的に妖怪や妖精である。一人二人いなくなっても、誰も騒がないからだ。昨日の燐との会話の中にもあった通り、人間は“事後処理”が面倒なのである。
 おまけに妖怪や妖精をひっ捕らえられれば何でもいいと言う訳でもない。美味い不味いはある。見かけた妖怪が悉く食う気になれない者ばかりであった――と言う理由で狩りに失敗する日も多々ある。

 この日は丁度それに該当する日であった。夜の闇に、樹の影に、茂みの中に身を潜め、闇夜を跳梁する妖怪を狙い続けていたが、どいつもこいつも低級な妖怪ばかりで、とても美味そうとは思えない者ばかりであった。
 天狗や河童などの強力な古い妖怪ならば、味は保証されるが、狩るのに非常な手間と労力がかかる上に、あれらも最近は“人間化”の兆候が見られ、一人いなくなると俄かに色めき立ってしまう。リスクが多すぎて狙う気にもならない。

 その内、ミスティアは狩りを早々に諦めることに決め、手ぶらのまま厨房のある洞穴へと戻ることにした。
 獲物が見つからないのが早期帰還の最大の要因だが、燐が提案していた「人間料理」について考える時間が欲しかったと言うのもある。思考と狩猟を両立させようとすると大概どっちつかずになってしまう為、今日の所は考え事に専念することにした。


 あれこれ考えながらミスティアは洞穴に帰って来た。
 扉を開くや否や、客室の体を取った部屋の椅子に何者かが座っていて、少しばかり驚いてしまった。だが、見慣れた人物の後ろ姿であったから、その驚きはたちまち消えて行った。
「やあ。お邪魔してるよ」
 客人――火焔猫燐が、体を捻ってミスティアの方を向き、挨拶をする。どこか覇気が足りていない印象を受ける声であった。
「来てたのね。でも残念。今日は妖怪料理は出せないよ」
「ええっ? 何で?」
 燐が素っ頓狂な声を上げた。妖怪料理が目当てであったことは明白である。
 ミスティアは、空っぽの手を顔の横くらいまで上げてひらひらと揺らして見せて、
「お手上げですわ」
 こう一言添え、狩猟に失敗したと言う旨を伝えた。
 この悲しい知らせを聞いた燐はがっくりと肩を落とし、その勢いに潰されるように机に突っ伏してしまった。ここぞと言わんばかりのタイミングで、腹の虫がぐうと鳴り響く。しかし、恥じらったような様子は一切見られない。
 突っ伏したまま微動だにしない燐に、ミスティアは呆れたように息を漏らし、
「用が無いなら帰って欲しいんだけど」
 と、つっけんどんと言い放った。
 燐は突っ伏したまま、
「お腹空き過ぎて動けない」
 こんなことを言って、その場を動こうとしない。
 そう言うと思った――と悪態をつきながら、ミスティアは厨房へ姿を消して行った。

 ミスティアが姿を消すや否や、燐はパッと顔を上げ、それからにんまりと笑った。あの様子なら、簡素ながら何か食べる物を作ってくれるに違いない――と確信したのだ。
 そんな図々しい思いが脳裏を駆け廻る最中、早速がちゃがちゃと調理器具を弄り始めている音が厨房から聞こえてきた。これは料理が始まる合図に他ならない。
 駄々をこねてよかった――燐はくつくつと笑う。
 厨房の騒音が止んだと思ったら、ミスティアが厨房から出て来た。燐は慌てて再び机に突っ伏した。素早い動作である。実に猫らしい。
 突っ伏したまま動かない燐の背後にミスティアが立った。何をするつもりだろうと、燐はやや訝しんだが、相変わらず机に突っ伏して不貞寝を装ったままである。
 ――眠る燐の背に、ピタリと大振りの和包丁が宛がわれた。
「ひえっ!?」
 背中の一点に感じた冷たく鋭利な感触。燐は心底驚いて顔を上げた。しかし、後ろを振り向くことがどうしても出来ない。
「空腹で動けないのね、可愛い火車のお嬢さん。そんな風に隙を見せていると、私が食べてしまうわよ?」
 演技がかった優しげな夜雀の声。
「冗談、でしょ? 冗談でしょ!?」
 燐が問う。背筋や腋の下に発汗が感じられた。
「うん。冗談」
 ミスティアは素っ気無く返事をした。それから、ゆっくりと突きつけていた刃物を燐の背中から離した。離した刃物を、奇術師さながらにくるくると器用に手の中で弄んだ後、革製のカバーにすっぽりとそれを収めた。手慣れた手つきである。

 燐は自身の安全を確保する為に、勢いよくテーブルを跳び越えた。そしてすぐさま振り返り、さしたる心得も無い白兵戦の構えを見せた。
 本気で怖がっている燐を見て、ミスティアはくすくす笑う。
「冗談だってば」
「あんたがやると冗談に感じないんだよっ」
 まだ信用されていないことを感じたミスティアは、ケースに収めた刃物をテーブルにぽんと放って置いて、『狩りに失敗した』と同じ動作を示した。
 ここまでやってようやく燐も安心したようで、ふぅと息を吐いて臨戦態勢を解いた。
 ……が、次の瞬間、ミスティアが長い袖の内からすっと小型の果物ナイフを取り出したものだから、燐は叫び声を上げて飛び退き、またしても白兵戦の構え。
 ミスティアは堪え切れずにけらけらと声を上げて笑う。
「いちいち大袈裟なんだから」
「大袈裟なもんか! もうちょっとあんたは自分の身分ってもんを弁えろ!」
「高々一料理人でしょ」
 隠し持っていた果物ナイフもテーブルに置いた。そして三度『狩りに失敗した』のポーズ。
「もう何にも無いよ」
「信用できない。……その場でジャンプして」
 ミスティアが言われた通りに二度その場で跳ねた。金物の音は無い。
「ほら。何も無い」
「いや、靴の底とか膣に凶器を仕込んでるとか……」
「膣? 何それ。馬鹿じゃないの?」
 流石にミスティアも呆れた様子である。
「燐は臆病ね。……それじゃあ、お詫びの証に、何か作ってあげるから」
 こう夜雀が提案すると、火車は僅かに警戒の色を残しながらも、緊張を解いた。
「何を使ってさ? 狩りは失敗だったんでしょう?」
「干し肉があるよ。鹿だか、猪だか、何だったか。よく覚えていないわ」
「危なっかしいな。食べ物なんでしょうね」
「肉だし」
「まあ、背に腹は代えられないね。いただきます」
 燐の返答を聞いて、ミスティアはよしきた――と、自身を鼓舞した。
 次いでテーブルに置いた包丁を拾い上げたのだが、途端に燐がさっと戦闘態勢に入った。
「何もしないってば」
 と苦笑しながら言い残し、ミスティアは厨房へと消えて行く。
 ようやく緊張から完全に解放された燐は、ふー、と長いため息をついた後、崩れるように最寄りの椅子に腰かけた。
 散々弄ばれたのが少々癪に感じられので、今日は料理は何も手伝うことはせず、完全にお客さんでいようと決め、そのまま客室の椅子に座って料理を待っていた。
 厨房から聞こえる愉快な料理の音。それに合わせて、木製のテーブルを長い爪でこつこつと叩いてリズムを取り、小さな演奏会を繰り広げて暇を潰していた。

 その最中である。
 突如として、背後の扉ががちゃりと音を立てた。
 燐は硬直してしまった。リズミカルに愉快なビートを刻んでいた指も空中でぴたりと止まり、かなり不自然な状態を維持している。
 聞こえて来たのは確実に、出入り口の扉を開ける音であった。この狂った厨房の主たる夜雀の次に多くここを出入りしているのは、他ならぬこの火焔猫燐であるのだから、音を聞き間違える筈が無い。
 出入り口の扉のノブが回された音がした――それは即ち、この場所を誰かが発見したと言うことである。
 勿論、燐はここのことを誰にも話していない。賑わってやかましくなるだけだから、燐にとってもミスティアにとっても迷惑なだけであると思っていたし、それに加えてミスティアからは、この場所を濫りに他言しないようにと釘を刺されていた。この場所を誰かに知らせたらどうなるか――それははっきりと聞かされていた訳ではないが、肉団子になっている未来を容易に想像することが出来た。
 空耳かもしれないと思い、振り返って確認しようと思ったのだが、その勇気がまるで湧いてこない。
 動くことができないまま、燐が椅子に座って硬直していると――
 ぎぃぃ……と、古めかしい蝶番が苦しそうな金属音を立てた。すっかり聞き慣れた扉の軋む音。いよいよ空耳と言う線までもが完全に断絶されてしまった。
 この狂った厨房に、遂に新たな来訪者が現れたのである。


*


 時は少々遡って、丁度、ミスティアが今日の狩りを諦めて、隠れ家たる厨房へ戻り始めた時になる。この頃、偶然にもミスティアと同じ森の中を歩いている人間がいたのである。
 半獣――上白沢慧音と、蓬莱人――藤原妹紅である。
 慧音は小さめの天体に関する書物を、妹紅は手頃な大きさの望遠鏡を抱えている。慧音は以前、子どもらを連れて天体観測に訪れた際、生徒からの質問に何ら答えられなかったことを気に病んでいたのである。
 そこで、空いた時間を工面して、天体の勉強をしていたと言う訳である。
 妹紅は慧音に誘われ、それに同行していた。星など対して興味は無かったが、友人たる慧音の誘いは断り切れなかった。あんな狭い空間で星を観察しても仕方が無いではないか――と、行く前はさして乗り気でなかったものの、いざ勉強を始めてみると、限られた空間ではそれ特有の面白さを見出せたので、特に後悔はなかった。

 星空教室――とでも言うのだろうか、とにかく野趣に富んだ勉強会を終え、二人はそれぞれ解散した。
 慧音は真っ直ぐ人里に足を向けた。
 妹紅は有意義な勉学の時間のお陰であろうか、とにかく頭が冴えてしまってちっとも眠りたいと思えなかったので、森の中をほっつき歩くことに決めた。
 暗い森の中を、魔力で起こす炎を灯りにして気ままに歩いていた。
 散策している内に、森の末を横断している巨大な岩壁に到達した。岩壁の上にもちらほら木はある様で、崖っぷちに生えた木々の根が突出しているのが分かったが、今彼女がいるような森林は無い様であった。
 どうせ暇だから自力でここを登ってみようかな――等と好奇心旺盛な少年の様なことを考えていた最中、不意にやや強い妖気を感じ、妹紅ははっとして手燭としていた炎を消し、雑然と多種多様な植物が生い茂る森に身を潜めた。
 そこから目を凝らし、様子を窺ってみると、闇の中をとぼとぼと歩く一人の妖怪の姿が辛うじて確認出来た。
「夜雀……か?」
 紛うこと無く、歩いていたのは夜雀であった。感じた妖気の割に大した妖怪では無かったので、妹紅はやたらと警戒してしまった自分がやや恥ずかしく感じられた。

 そのまま監視をしていると、夜雀は岩壁に空いた洞穴へと入って行った。更に睨みを利かせていたが、いつまで経っても夜雀が出て来ない。
 妹紅は隠れ蓑たる植物の群れから脱し、夜雀が入って行った洞穴へ駆け寄った。中には灯りの類など一切無く、ただただ黒色にどっぷりと染まっている。深さの見当がつかない程の闇である。
 妹紅は訝しんだ。
 ――ここへ入って行った夜雀が出て来ないのはどうしてだろう。相当深いのか。それとも、中に何かあるのか。

 疑心と好奇心に囚われた蓬莱人は、再び掌に炎を宿し、この不思議な洞穴に足を踏み入れた。炎のお陰で洞穴の全容が良く見えた。
 人間二人がやっとすれ違えそうな程に細い道は、踏み入ってから暫く歩くと、ぐにゃりと左へ曲がるようになっている。それを曲がってまた暫く行くと、今度は右へ曲がる。灯りが無かったら進むのは相当苦労するだろうと妹紅は思った。見た所、ここへ入って行った夜雀は手燭の類は持ち合わせていない様であった。それなのに、夜雀はこの道を易々と歩んで行ったらしいのである。証拠に、先に入った夜雀の姿が前方に全く確認出来ない。妖怪の瞳は闇に慣れているのだろう――と、妹紅は解釈しておいた。
 蛇の様にうねうねと曲がりくねるこの暗闇の道の終わりを迎えると、妹紅は驚きのあまり「あっ」と小さく声を上げてしまった。
 隧道の終末には、この洞穴にはひどく不似合いな扉が設えられていたのである。
 元々、夜雀が出て来ないことから怪しいとは思っていたが、こんなものがあるとなれば、その怪しさは一入だ。

 多大な好奇心と微細な正義感が、妹紅に扉の取っ手を握らせた。
 一体、扉の先に何が待ち構えているのだろう――。
 暴れ回り、高鳴る心臓を冷ますかのように、ごくりと唾を飲み込むと、妹紅は扉を開いた。

 開けた視界は今までの道とは打って変わって明るい空間であった。
 並べられた不揃いのテーブルと椅子。
 そこには――赤い髪から猫の耳を飛び出させている妖怪がいた。

 ――食事処か?
 これが、狂気に満ちたこの厨房に対して抱いた、藤原妹紅の第一印象である。


「お、おい」
 妹紅が先客の赤い髪の人物に声を掛けた。先客たる妖怪――火焔猫燐は、体をびくりと震わせた。それからやけに素早く振り返り、咄嗟に作り出したものであることが見え見えの、引き攣った笑顔を浮かべて、
「あはは。こ、こんばんは……」
 こんな当たり障りのない挨拶をした。
 燐はなるべく愛想良く振る舞おうとしているが、妹紅の方にはそう言う気兼ねが全くと言っていい程感じられない。緊張感と猜疑心の織り成す、いたく険しい表情をしたまま、燐を観察するように睨めている。
「お前、妖怪だな?」
「そうだよ。そういうお姉さんは……あれれ? だか不思議な体してるね」
 妹紅は人間だが、蓬莱の薬を服用したことによって不老不死の特性を得ている。その人間ならざる力が醸し出す特殊な気配を、燐は敏感に感じ取った様である。何せ燐は、日夜死体探しに明け暮れる火車なのだ。この世にも不思議な特性など簡単に見破れてしまうのである。
 不思議だとかおかしいとか、そういう類のことを言われるのに慣れっこの妹紅は、別段気を悪くした様子も、燐が見事自分の特性を見破った絡繰りを知りたがる様子も無く、問いを重ねる。
「ここで一体何をしているんだ?」
 なるべく聞かれたくなかった一問をあっさりと口にされ、燐はまた狼狽えた。あまり怪しまれない様にと、自分なりの平静を意識しつつ、慎重に、かつ性急に当たり障りの無い言葉を選定して、開口する。
「あたいは別に何もしてないよ? ただ、お腹が空いただけで」
「腹が減った? じゃあ、ここは食事処なのか」
「うん、まあ、そんなところ」
 やっぱりそうか――と妹紅は呟いて、改めて食堂の様なこの一室をぐるりと見回した。その際、入口とは異なる扉――即ち厨房への扉が目に止まった。

 妹紅が発見したこの扉の向こうでは、今まさに、この謎に満ちた空間の主たる夜雀――ミスティア・ローレライが料理をしている。幸い、今日は狩りが失敗したので、如何わしい食材は使っていないし、切り開いた妖怪の肉を天井から吊るしたりもしていない。
 それでも、厨房を見られることが、燐にはあまり好ましく思えなかった。
 燐は藤原妹紅と言う人間と会うのは初めてであるが、その特異性を一目で見破った。おまけに火車たる自分に物怖じする様子も無くいろんなことを問うてくる。こういう面倒くさそうな人間には、この場所について必要以上に知られない方がいいと判断したのである。もしも扉を開けようとしたらすぐに止めに掛かろうと、心密かに身構えていた。
 幸い、燐がそんな心配をせずとも、妹紅には扉に掛けられた『STUFF ROOM』のプレートは見えていた。関係者以外立ち入り禁止とされている部屋に濫りに入って行く程、妹紅は非常識ではない。――ただ、その扉の向こうに甚大な怪しさを抱いてはいたけれど。

 扉を眺めている妹紅と、その姿を見守る燐。
 二つの視線は交わってほぼ一つになって、厨房へ続く扉に注がれている。
 その最中。
 薄い岩壁の向こうで鳴っていた、忙しげな音が止んだ。
 次いで、二人分の視線を受けていた扉のノブがぐるりと半回転した。何も知らないミスティア・ローレライが、完成した料理を持って厨房から出てきた。
「お待た……せ?」
 もはやお決まりとなりつつあった言葉は、最後まで言い切られるかそれより前に、ぷっつりと途切れてしまった。燐以外の者がいたことにミスティアも驚愕してしまい、言葉を失ってしまったのだ。
「いらっしゃいませ」
 不自然な沈黙を打ち破ろうと、どうにか出せた言葉がこれだった。ここはレストランなんかではないと、いつもミスティアは自負していたのに。


*


 あっと言う間に食事を終わらせた燐は、再び岩壁の向こうにある厨房で始まった料理の音に、ぼんやりと耳を傾けていた。
 せっかくの美味しいミスティアの手料理も、藤原妹紅と言う得体の知れない人間の登場と、監視されている様な視線と雰囲気のお陰で、すっかり味が損なわれてしまった。
 妹紅はまだ帰っていない。猜疑的な眼差しで持って、この洞窟の深奥にある謎めいた食事処を観察している。
「お前は帰らないのか?」
 不意に妹紅が燐に声を掛けた。燐はまたもぴくりと肩を強張らせ、振り返った。
「うん。ミスティアを待ってるんだよ」
 本当はこんな居心地が悪い空間には長居したくなかったのだが、ミスティアにあの人間は自分が招いた者ではないと言うことを早めに知らせておきたかった。だから燐は、ミスティアが妹紅に食事を作り終えるのを待っているのである。
「ここへはよく来るのか?」
「そこそこね」
「名前は? 見た所妖怪のようだけど」
「火焔猫燐。妖怪だよ。火車」
「火車……か」
 地上ではあまり聞かないし種だし、見ない顔だな――妹紅はこう付け加えた。燐はまあね――と簡素な返事で茶を濁した。

 妹紅はこの食事処に一歩足を踏み入れた時点で大いなる疑念を抱いていたが、その念は増々膨らんで行くばかりであった。
 まず、こんな誰の目にも留まらないような場所に店を構える時点で何かがおかしい。お得意さんらしい客は妖怪で、おまけに地上ではほとんど姿を見ない火車の少女。挙句の果てに、店を切り盛りする少女は鰻屋台で有名な夜雀ときた。
 何がどう怪しいのかと言うことを逐一説明することは出来ないが、とにかく妹紅の中の危険信号が警笛を鳴らしている。だから、店の様子を見るついでに夜食としてミスティアの料理を振る舞って貰うことにしたのである。

「お姉さんは何て名前なんだい?」
 一方的に個人情報を聞き出されてばかりでは不公平だと、燐はおかしな対抗意識から妹紅に質問を飛ばした。
「私は藤原妹紅と言う」
「ふぅん。人間みたいだけど、少し変わってるよね?」
「よく分かったな。私は不老不死なんだ」
「不老不死! それはご立派なことで」
 主に人の死体に興味を抱いている燐にとって、死ぬことのない妹紅は著しく魅力に欠ける。
「しかし、どうやってここに辿り着いたんだい? 普通にしてたら絶対見つけられないでしょ、こんな所」
「夜雀がここへ入っていくのを見かけたんだよ。いつまで経っても出て来ないから、何があるのか気になってね」
「ああ、そう」
 燐は些かほっとした。この場所が割れてしまったのは、どうやら自分の責任ではないと言うことが判明したからである。
 しかし、安心ばかりしていられないと、勢いよく席を立ち、ミスティアのいる厨房へ続く扉へ歩んで行く。
「おいおい、そこは入っていい場所なのか?」
 妹紅が咎める。
「あたいとミスティアの仲なら平気なのさ」
 振り返ってそう言うと、すぐに扉を向き直し、厨房へと消えて行った。


 果たしてミスティアは、料理の只中であった。燐に作った料理が焼き肉の定食であったのに対し、今作っているのは麺料理のようである。夜食と言うテーマを彼女なりに考慮した結果であるらしい。
 鼻歌など交えて楽しそうに料理しているミスティアに、燐がきいきいとやかましい甲高い声――を上げたくなるのを我慢したような煮え切らない控え目の声で語り掛ける。
「そんな呑気にしてる場合じゃないよミスティア!」
「あら、どうして?」
 料理の手は止めず、そして燐の方を向き直すことさえしないでミスティアが問い返す。
「あの紅白のお姉さん、ただ者じゃないよ。普通の人間じゃないんだよ。聞いて驚け、不老不死なんだ!」
「へえ。“真人間”よりは接し易くていいじゃない?」
「それに明らかにこの場所を怪しんでる」
「それはそうよ。こんな所にあれば誰だって先ず怪しむわ。燐だってそうだったでしょ」
 何を言ってもミスティアは平然としている。
 燐は段々、自分が抱いていた諸々の危惧が、実は全て杞憂だったのではないかと感じられ始めた。
「ねえ、本当に大丈夫なの? あんな部外者にこの場所のことを知られて……」
「今日は別に妖怪や妖精なんかを調理してる訳じゃないし」
 ちょっと失礼――と言下に付け加え、ミスティアはフライパンの中で躍らせていたパスタを皿に盛り付けた。
「だけど、確かにちょっと厳しそうな女性ね」
「そうだろ」
「小うるさそうなお口は、美味しい料理で封じてしまいしょう」
 こんもりと盛りつけられたパスタに仕上げの香草をまぶすと、それが盛られた皿を銀色のトレイに載せた。そしてそのトレイをハイと燐に手渡す。成り行きで受け取ってしまった燐は、行動の意味が理解できない――と言った具合にミスティアを見つめ返す。
 ミスティアが食堂へ続く扉を指差す。
「冷めちゃうでしょ。早く運んで」
「な、何であたいが!?」
「厨房に入って来た以上、何か手伝わないと不自然でしょ? ここはスタッフルーム。ここへ立ち入ったと言うことは即ち、あなたもスタッフの一員なのよ。さあ、行って行って。私は後片付けしてるから」
 ミスティアはそう言って話を打ち切り、使っていた調理器具の後片付けに入った。
 燐は何か言いたげに地団太を踏んだが、結局ウェイトレス役として、妹紅の元にこの料理を運びに行った。

 頼んだ食べ物を運んできたのが、つい先程まで雑談を交わしていた妖怪であったものだから、妹紅は些か驚いた。
「なんだ。ここで働いてたのか、お前」
「うん。まあね」
 事の次第を説明するのも面倒であった燐は、適当にそう返事をした。仏頂面で妹紅の前にパスタの盛られた皿を置く。ウェイトレスにしては不慣れな手付きだなと妹紅は思ったが、妖怪ならば仕方が無いか――と割り切った。

 料理を運び終えた燐は、一体自分がどうしていいのか分からず、トレイを持ったまま両手を前面で重ね、妹紅の傍に直立し、彼女の食事風景を見守ると言う奇行をとった。燐の中に漠然と存在する『給仕係』とか『メイドさん』のイメージが、そのまま行動となって発露した結果である。
 この行動も妹紅にとってはやはり非常に奇怪なものであったのだが、こちらもやはり妖怪だから仕方が無いで片付けた。
 燐の視線を感じながら、妹紅が出されたパスタの山の一角をフォークで器用に巻き取って口に運んだ。
「美味しい」
 咀嚼の後に漏れ出した一言がこれである。妖怪の作る料理と言うことで、やや警戒していたのだが、至極まともな質であったことに、妹紅は驚いている。
 険しい表情がほつれ、妹紅は楽しそうに食事をしている。その様子を見て、燐までほっとした気持ちになった。
 そんな最中、
「燐」
 後ろから声がした。燐が振り返ると、ミスティアが厨房の扉を少し開け、手招きしているではないか。燐は慌てて一礼して「失礼します」と早口に言い残し、厨房へと退いた。

 燐が足早に厨房へ駆け込むや否や、ミスティアの控え目な笑い声が飛んだ。
「あんな所に突っ立って何してたの? メイドさんごっこ?」
「ああならざるを得なかったんだよ! あいつの雰囲気的に!」
 燐がほのかに顔を赤らめて言う。ミスティアは空のトレイを燐から受け取ると、尚も馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、トレイでこつんと燐の頭を叩いた。


 頃合いを見計らい、二人は厨房を出た。
 妹紅はすっかりパスタを食べ切っていた。満足げにふぅと一息吐くと、ミスティアの方を向いて軽く頭を下げた。
「美味しかったよ。ご馳走様」
「お粗末様でした」
 ミスティアも会釈を返す。
「お代はいくら?」
 妹紅が問う。ミスティアは首を横に振る。
「不要ですよ」
 非常に美味い料理を食わせて貰ったにも拘らず、お代を取らないと言われて、妹紅はすっかり困惑してしまった。
「不要って……ただなのか?」
「ここは食堂やレストランではありませんから」
「その赤い髪の子……燐は食事処みたいなものだと言っていたが」
 妹紅が燐を指して言う。
 勝手なことを言うんじゃない――と、ミスティアは横目で燐を睨んだ。燐は白を切るようにミスティアから視線を逸らしている。
「とにかく、お代は頂きません。但し、一つ約束して欲しいことがあります」
「約束」
「この場所のことを他人に知らせないと言うことです」
「どうして?」
 妹紅の瞳に懐疑の色がさっと蘇った。知られたくないと言うことは即ち、何かやましいことがあるということではないか――そんな考えが脳裏を過ったのである。
 しかし、ミスティは飄々とそれに応える。
「私自身の流儀と言いましょうか。信念の問題です」
「信念、ねえ」
 信念――憶測で侵害するには少々重い言葉であった。そんな青臭くて、また便利な言葉を口にされても、つい納得してしまうような高質な料理を、ミスティアは確かに作っているから、余計にそっとしておきたくなる。
 しかし、人間と幻想郷の平和と秩序を省みると、ここをこのまま見逃してよいものかと言う念に、妹紅はどうしても囚われてしまう。

 考えた挙句、妹紅は一つの提案をした。
「一人だけ――一人だけ、この場所を知らせたい人がいるんだが」
 ミスティアは眉を顰める。夜雀があからさまに嫌悪感を示しているのを感じつつも、妹紅はそれについては触れず、更に言葉を紡ぐ。
「妖怪二人で、しかもこんなにひっそりと営んでいるこの場所は、はっきり言ってあまり印象が良くない。認めるな?」
「まあ、認めざるを得ないですね」
 ミスティアは渋々頷いた。
「私は特に人間への影響を懸念している。このまま野放しにしておくことは、どうしても不安だ」
「はあ」
「だけどここが絶対に黒と言う証拠も無いし、横紙破りに調べる権利なんて私には無い」
「そうですね」
「そこで、だ。人間の中で最も信頼されている人物を一人、ここに招いて、白か黒かを判断して貰うと言うのはどうだろう? その者がここを白と認めらならば、私はもう何も口出ししない」
 燐が横槍を入れた。
「お姉さん、一体何の権利があってそんなことを言えるのさ?」
「別に何の権利も無い。ただ、自衛、自治の観点から言っているだけだよ。私は人間で、人間が好きだからね。悪い芽――いや、悪そうな芽はなるべく先んじて積んでおきたいんだよ」
「従わない場合はどうするつもりです?」
 臆した様子も無くミスティアが問う。
 言下に妹紅は、右手の人差指の先から大きなろうそくの火を彷彿とさせる炎を見せつけた。
「焼き払うと言う選択肢を選ぶと言うのも可能な訳だが――それでも従わないのか?」
 揺らめく炎を映す妹紅の瞳がぎろりと二名の妖怪を睨み付ける。
「結局横暴なんじゃないか」
 燐が辟易したようにぼやいた。
「やましいことが無いなら従ったって平気な筈だろ?」
 妹紅が淡々と言い返す。
 ミスティアはややあって、凛と同じようにうんざりとしたようなため息を吐くと、肩を竦めた。
「分かりました。認めましょう」
 そう言うと、妹紅は炎を収めた。
「ありがとう。私としてもこんなにいい場所を失いたくはない」
「但し、一つ誓ってください。私はあなたの要求を呑んだのですから、あなたもちゃんと約束は守ってくださいね? 破ると言うのなら、私だって相応の処置を取らせて頂きますよ。何せ、店を焼くぞとまで脅されたんですから」
 ミスティアの口調は静かだが、しかし厳格さを秘めたものであった。
 妹紅とミスティアの視線がぶつかる。一触即発の空気に、燐はひたすら事無きことを天に祈り続けていた。
「誓うよ。絶対にその一人にしか、この場所のことは教えない」
「その教える方にも、絶対に他言しないでくれと確実に伝えてくださいね」
「ああ。分かってる」
 そう言い終えると、妹紅は席を立った。
「改めてご馳走様。いろいろ怪しいし、いけ好かないけど、料理は美味しかったよ」
 こんな言葉を残し、この狂った厨房を出て行った。
 バタン、と言う扉の閉まる音の余韻が、妙に物悲しく、そして重々しく感じられた。



 扉の閉まる音の余韻も、客人の気配も完全に消え去った頃になって、燐は妹紅との雑談から得た種々の情報をミスティアに伝えた。
「なるほど。この場所が割れたのは私が原因だったんだね」
 ミスティアは自身の失態を悔いるように唇を噛んだが、
「だけど、まあ、燐以外にも料理を振る舞う機会を得られたと考えれば、それ程気に病むことは無いかもね」
 穏やかに笑んでこんなことを言う。
「本当に悠長だな!」
 燐はミスティアの飄々とした態度にどうしても不安を感じるらしい。
「人里のお偉いさんにバラされるって言うのに!」
「偉い偉くないは別に重要じゃないよ」
「いやいや、もしかしたら世にも恐ろしい偉大な退魔の達人がやってきて、あたいらをけちょんけちょんにしてくるかもよ?」
「そうなったら燐、地底に封じられた妖怪の力を存分に発揮してここを護ってね」
「ベストは尽くすよ」
「何それ。頼り無い」
 ミスティアは相変わらず楽しそうに笑っていた。
 しかしその笑いも長くは続かず、静かな洞窟の中で名残惜しげに反響し、そして消えて行く。
「あの不老不死のお姉さん、いつ来るつもりなんだろう」
「何も言ってなかったね。不意打ち気味にやってきて揚げ足取るつもりかも」
 言下にミスティアははぁっとため息を一つ吐き、客用の席を立ち、スタッフルーム兼厨房へ向かった。燐もミスティアを追う。

 厨房の片付けは全て済んでいるので、作業台も水回りもすっきりとしている。
 大雑把に見ればきちんとしているが、細かに見て何か人間様の逆鱗に触れてしまうような不備、不足は無いかと、ミスティアは重箱の隅をつつくように厨房の見回りを始めた。
 やっぱりちょっと不安なんじゃないか――燐の不安は晴れない。


 厨房に踏み入って左手奥の壁には大きなくぼみがあり、縦に鉄棒が並べられている。くぼみの右端には無骨な鉄の扉。一見すると牢屋の様な体を成しているのだが、ここが生け捕りにした獲物を管理する食糧庫である。
 ミスティアはその前に立った。燐はミスティアの肩越しに、その牢獄の様な食糧庫を見る。
「これに突っ込まれたら何て弁明するのさ」
「食糧庫です。冷蔵庫が無いので野生動物を生け捕りにしてここに保管しておくことがあるのです。これでどう?」
「そんな風に見てくれるのかなぁ」
 言いながら、燐はちらりと横に視線をやった。視線の先には、沢山の刃物が収納されている棚が置いてある。果たしてこんなに使い分けるシーンが存在するのか、燐はいつも疑問に思っている。
 その刃物棚と一緒にこの牢獄食糧庫を見てみると、どうしても処刑場の様な陰惨さが感じられてしまうのであった。

 食糧保存と関連して燐は一つの問題に思い至り、ハッとして燐にその問題を提示した。
「ねえ、人間料理はどうするの?」
「そんなことやってる場合じゃないに決まってるでしょうが。人間は愚か、妖怪や妖精だって当分禁止だわ」
 これ以上に即答と言う言葉が似合う返答があるのかと思える程の即答である。声色には呆れの色が強い。燐は頭を木槌でぶっ叩かれたような衝撃に見舞われてしまった。
「そ、それじゃあ、人間料理は延期?」
 呆然と問う燐。ミスティアがこっくり頷いた。
「人間が監視に来るって言ってるのに、人間なんて食べてる場合じゃありません」
 ぐずる子どもを諌める様な調子である。
「そもそも延期って何よ。作るなんて言ってないでしょ」
「え? い、言ったでしょ、この前!」
 燐は声を荒げたが、言ってません――と、ミスティアはどこか澄ました口調。
「考えておくとは言ったけど、作るとは言ってないよ。いくら物覚えの悪い私でも、これだけは絶対自信があるわ」
「そんなぁ!」
 いろんな楽しみが一挙に奪われてしまい、燐はよろよろと最寄りの椅子に腰かけ、がっくりと項垂れてしまった。
 本当に大袈裟だなァ――ミスティアはくすくすと笑った。


*


 洞穴の深奥において奇妙な体験をした翌日の朝、藤原妹紅は人里を訪れた。ミスティアに宣言した『頼れる人物』を尋ねに来たのである。
 何となく察しはついているであろう。妹紅がミスティアの料理場の視察役としたのは、上白沢慧音である。完全な人ではないながら、人里の自治や防衛、それから寺子屋の教員なんかをやって人々の信頼を得ている慧音には、この事実を知らせておくべきだと考えたのである。
 慧音が働いている寺子屋に妹紅が訪れた時、慧音は授業の準備をしている最中であった。
「忙しい時間にけしかけて申し訳無いな。どうしても早めに伝えておきたいことがあって」
 妹紅が言うと、慧音は首を横に振った。
「構わないよ。話って?」
 準備の手は止めないで慧音が問う。妹紅は少し周囲を窺うと、やや声を潜めて話を始めた。
「森の奥に、大きな断崖があるだろ」
「うん」
「そこの洞穴の奥に、夜雀と火車が、食事処みたいなものを開いていたんだよ」
「夜雀が、食事処? 洞穴の奥に?」
 思わず慧音は素っ頓狂な声を上げた。妹紅は慌てて鼻先に人差し指を当てて「シーッ」と静粛を促す。只ならぬ妹紅の雰囲気に、慧音は思わず息を呑んだ。
「夜雀と約束しているんだ。そこの存在を絶対に他者に知らせるなと」
「何だそれ。あからさまに怪しいじゃないか」
「そうだろう?」
「で、お前はその約束を律義に護っていると」
「黒って証拠は無いんだよ。それに、相手は妖怪だ。逆上したら何をしてくるか分からない。……話を戻すぞ。さっきの説明だけで、明らかに怪しいのは分かってくれた筈だ。だから後日、お前を連れて、やましいことが無いか視察をしに行くと警告しておいたんだよ」
「なるほどな」
 事態が飲み込めた慧音は、一先ず落ち着いて、授業の準備を再開した。
 ややあって、
「何かおかしな点があると言う確証は無いんだ?」
 こう問うた。
「無い。無いけど、立地の段階で十分すぎるくらい怪しい。実際に行ってみれば分かって貰えると思う」
 妹紅の返答に、なるほど――と首を縦に振った後、
「隠蔽工作の猶予を与えない方がいいな。今日にでも行ってみようか」
 このように提案した。妹紅もそれを了承した。
 こうして二人は、夜にこの寺子屋の前で落ち合おうと約束を交わした。
 この約束は何の滞りも無く実行された。
 妹紅が指定された時間のおよそ五分前に寺子屋へ来てみると、既に慧音が玄関で立っていた。妹紅はきょろきょろと辺りを見回している半獣の元へ駆け寄る。
「待たせてしまったか?」
 慧音は首を横に振った。
「気にしなくていいよ。私が少し早く来てただけだから」

 合流して間もなく、妹紅が先導して、あの洞穴の奥にある謎の厨房へと二人は出発した。辺りを念入りに見回し、自分達の姿が見られていないかどうかを確認しながら人里を出る。慧音以外の何者にもあの洞穴の奥のことを教えないと言う約束の厳守していると言うよりは、この約束を破ってしまった場合の夜雀の報復活動に対する懸念がこの行動を起こしている。
 二人の表情にはこれから食事処へ行く道とは思えない緊張感が漲っている。ほとんど会話もしないで、問題の洞穴へ向かった。

「あそこだ」
 人里を出て数十分後、妹紅がうすぼんやりと見えてきた岩壁にぽっかりと穿たれた空虚を指差した。慧音はぐっと目を細め、夜の闇と同化しようとしているその虚を見据える。
 一見すると、ただの洞穴にしか見えない。しかし、その深奥には、夜雀と火車が屯している怪しい調理場がある。
 妖怪の考えていることはよく分からない――こんなことを考えた所で、慧音は自分も妖怪であることを思い出した。
 妹紅は、自身の指先に炎を灯してそれを手燭とし、洞穴へと足を踏み入れて行った。考え事に耽っていた慧音も慌ててその背中を追う。
 初めて歩むこの暗がりの道に、慧音はどこかおっかなびっくりしている様子で、妹紅の服の足を引っ掴んで離さない。妹紅はやや歩きにくさを感じたものの、振り払う訳にもいかないので、慧音の腰の引けたのろまな歩みに歩調を合わせた。
 随分時間は経過してしまったが、やがて二人は暗がりの道の終着点に辿り着いた。
 妹紅が指先の炎をそっとどん詰まりに近づけると、そこに銀色のノブがぼうっと浮かびあがった。慧音が目を剥く。
「ここなのか」
 慧音が問う。妹紅が黙って頷き、
「開けるよ」
 そう言って指先の炎をふっと吹き消し、扉のノブを回した。



 扉の先に待っていたのは、以前妹紅が見たものと何ら変わりの無い客室の様な体をなした空間である。綺麗に拭かれた不揃いなテーブルと椅子。壁に掛けられた燭台のお陰で、室内はこれまでとは打って変わって非常に明るい。厨房へ続く扉に移るノブの影が、炎の動きに合わせて揺れている。
 初めて妹紅がこの奇怪な光景を目の当たりにした時と同じように、慧音も驚愕と当惑に打ちのめされ、言葉を失ってしまっている。
「な? おかしいだろう」
 妹紅がどこか不敵な苦笑を浮かべながら言う。慧音は黙って頷くと、ゆっくりと数歩前進した。手持無沙汰に最寄りのテーブルを撫で上げた。手には埃一つ付かない。手入れが行き届いている証である。手入れされていると言うことは、誰かに使われていると言うことに繋がる。
 別に妹紅の言葉を疑っていた訳では無かったが、想像していた以上にしっかりとした場所であったものだから、そのギャップに慧音は当惑している。

 そんな中、二人が入って来た扉とは異なる扉――スタッフルームに厨房、食材庫までも兼ねた部屋へ続く扉がバンと開かれた。二人は反射的にそちらに目をやる。
 扉の解放よりやや遅れて出て来たのは、赤い髪と黒い猫の耳の少女である。冷製の麺料理が入った器を乗せた銀色の安っぽいトレイを両手で持っている。口には箸を一膳咥えている。これから食事をしようとしていることが一目で分かる。
 食べるのが大好きなのであろうか、その表情は幸せに満ちていたのだが、ふと横に目をやってみると、一体いつの間にやって来ていたのか、忌々しい不老不死の人間と、見知らぬ白髪長髪の女性である。驚愕であんぐりと開かれた口を箸が離れて、地面へと落ちて行った。
「ふ、不老不死のお姉さん!?」
 箸を失って御暇を得た口から金切り声が放たれた。
「こんばんは。火焔猫燐」
 妹紅はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて挨拶をする。
「食事中にすまないが、宣言通り来させて貰ったぞ」
「せっかちだねえ、全く。どうせずっと死なないんだからそんなに生き急ぐ必要無いのに」
 そんな憎まれ口を叩きながら燐は箸を拾い上げ、トレイに載せた。
「そっちのお姉さんが、昨日言ってた信頼のおける人?」
「そうとも。上白沢慧音と言う人だ」
「人……? まあ、人かな? お姉さんも変な体してるんだね」
 燐は慧音の半獣と言う特性を見抜いた様である。
 類は友を呼ぶってとこかな――こんなことを言い残し、燐は元いた部屋と引っ込んで行った。
「ミスティア! お客さんだよ! 昨日の不老不死のお姉さんと、そのお友達の偉いお姉さん!」
 どうやらミスティアを呼びに行ったらしい。扉を開けたままにしていたものだから、燐の声はよく通った。

 ややあってミスティアが厨房から姿を表した。水仕事の直後であったようで、“まともな”染みが散見される白色のエプロンを着用していて、点々と水に濡れた跡が見られる。
「こんばんは。昨日ぶりですね」
「ああ、こんばんは。忙しかったか?」
「こんな所、忙しくなることなんてありませんよ」
 妹紅の言葉にミスティアは飄々と応対する。それから、慧音の方を向き直した。
「こんばんは」
 律義に挨拶をし直す。慧音もやや遅れて礼を返した。
「夜雀だったよな? 前に鰻を焼いていた」
「まあ。知っているんですか」
「人里でお前を知らない者なんていないよ」
「光栄です」
 ミスティアはそう言い、また恭しく礼をする。
「お前の店なのか?」
 慧音が問う。
「正確に言えばお店ではないんです。あくまで個人利用している調理場と言うだけで。けれど、お店と呼びたいのであれば、そう呼んでくれて構いませんけど」
 店主の穏便な様子に、慧音は一先ず安心した。しかし同時に、明確な怪しさと言うものが薄れてしまったものだから、何だか少し面倒なことになるかもしれないと、ふぅと息を漏らした。

 慧音の視線は自然と、ミスティアや燐が出て来た扉の方へ向けられた。立ったまま先程運んでいた麺料理を食べている燐が、ちらりと顔だけを出して三人の様子を窺おうとしている瞬間に遭遇してしまった。目が合った途端、燐はまた部屋へ引っ込んで行った。心底、脅威たりえるこの人間らと関わるのが嫌であるらしい。
「あの部屋は?」
 慧音が問うと、ミスティアはちらりと部屋の方を振り返り、
「厨房兼スタッフルームです」
 と答えた。
「中を見せて貰っていい?」
「どうしてもと言うのなら、仕方が無いですね」
 口ではそんなことを言っているが、ミスティアの表情や動作、それに口ぶりには、少しの躊躇いも感じられない。
 こちらへどうぞ――言下にミスティアはくるりと身を翻し、元いた部屋へと歩いて行く。慧音と妹紅はそれに続いた。

 厨房とスタッフルームを兼ねていると言う空間は、課せられた激務にしては不相応な狭さを誇っている。
 部屋としてはほとんど正方形である。
 立ち入った地点から右手の壁際には水道や食器棚等と言ったものが立ち並んでいる。
 部屋の真ん中に巨大で無骨な銀色の作業台。
 その向こう――即ち入口から見て正面の壁には牢屋の様な食糧庫。その横には大量の刃物が収められた棚。……やはりこの牢獄と刃物棚の二つは、見る者に陰惨で血生臭い想像を提供してしまうらしく、人間二人はほとんど同時にハッと息を呑んだ。
 慧音が牢屋食糧庫に歩み寄る。妹紅もそれに続いた。他のものには目もくれていない。とにかく、刃物と牢屋が二人の心を大いに刺激してしまった様子である。
 地面は黒ずんだ土である。出血の跡でも見つけようとしているのか、二人はじっと地面を睨んでいる。
 ミスティアは端然とした様子でその様子を眺めている。
 燐は食べかけの麺料理をそっと銀の台へ置いた。万が一に備えて、戦闘できる体勢を整えたのである。
「これは一体何なんだ?」
 しばらくしてから慧音が問うた。
「食糧庫です。冷蔵庫が無いので野生動物を生け捕りにしてここに保管しておくことがあるのです」
 燐に対して行った予行練習と全く同じ調子で、全く同じ言葉を放った。
 それらしい説明をされたので、二人とも特に言うことは無くなってしまったらしい。
 しかし妹紅は、何としてでも粗の一つでも探し当てたい所存であるらしく、適当な質問を吹っ掛けた。
「使うことはあるのか?」
「時々」
 夜雀の即答。
 妹紅の嫌悪感や猜疑心があからさまな所為であろうか、二人の間にはどこか険悪な空気が流れる。

 その後も慧音と妹紅がこの厨房を隈なく調査したが、特にやましいものは見つからなかった。
 一度、四人は客室へと移動した。
「満足したかい?」
 何故か得意気に燐が開口した。
 慧音と妹紅は顔を見合わせた。立地や人員の関係から、どうやっても払拭し切れない怪しさや思うことはあるのだが、それを裏付ける証拠は見当たらない。怪しいだのなんだの言っても、それは結局二人の直感的な意見でしかないのである。
「まあ、今日の所はこんなものなんじゃないか?」
 慧音が言う。妹紅も渋々それに同意した。ミスティアはにっこりと微笑む。燐も安堵はしたが、いずれまだ来るつもりなのかと、心密かに落胆していた。

「そうだ、もしよろしければ、何か食べて行かれませんか?」
 帰ろうと踵を返した慧音に、ミスティアがこんな提案をする。
 慧音がミスティアの方を向き直した。妹紅は、唐突な提案であるので、僅かながら懐疑的になっている。
 どうするべきだろう――とでも言いたげに、慧音は妹紅へ目配せした。その視線に気づいた妹紅も、困った様に肩をすかした。ミスティアの料理は以前振る舞って貰ったことがあり、美味いことは知っている。だが、彼女やこの洞穴の深奥に不信感を抱いている彼女は、それを認めるのが少々癪なのである。
 妹紅が口出しする様子が見られないので、慧音は縋るものも無く、返答に窮し、しばらく腕を組んで考えた。
「まさか毒でも盛って口封じしようとか、そんな腹じゃないよな?」
 慧音が引き攣った笑みを浮かべながらこんなことを問うと、
「とんでもない。料理を人殺しに使うだなんて」
 やや怒気を含んだ夜雀の即答が返って来た。慧音は素直に失言を詫びた。
 この場所の怪しさはかなりのものであるが、夜雀が行っている活動の一端を知れる機会でもあるし、夕食がまだであったと言うことも加味し、二人は夜雀の料理をご馳走になることにした。
 そうと決まると、ミスティアは人間の客人二名を椅子に座らせ、厨房へと引っ込んで行った。燐もその後を追った。


 燐が厨房の扉に鍵を掛ける。そして、いかにも疲労困憊と言った具合のため息をついた。
「本当に面倒くさい奴らだね……」
 あまり客室と厨房の壁が厚くないことを知っている燐の声は小さい。
「あの様子だとその内またここに来ちゃうよ、あいつら」
「そうだろうね」
 炒飯を作る準備をしながらミスティアが答える。
「ねえねえ。いっそのこと、ここらでぱぱっとやっつけておいた方がいいんじゃない?」
「不老不死のお姉さんは不老不死なんでしょ? 倒せないじゃない。それに上白沢慧音は人里で信頼されてる半獣。いなくなったら人里が大騒ぎになっちゃうわ。綿密な調査の末にここへ辿り着かれたら……燐、あなた責任とってくれる?」
 それは無理だわ――と燐は乾いた笑いを漏らす。
 と、不意にその笑いを打ち消した。急に笑うのを止めたものだから、ミスティアは野菜をみじん切りにしていた手を止め、不審がって燐を見やった。
「どうしたの?」
 思わずこう問うてしまった程だ。
「いやね。ミスティア、慧音って人に意外と詳しいんだって思ってさ。知り合い?」
「宴会とか屋台で何回か会ったからね」
「へえ。だけど、それだけで物覚えの悪いあんたがあれこれ覚えてるってことは、何かものすごいインパクトがあったんだろうね。何だろ、酒癖が悪いとか? お酒飲むと泣き上戸になるとか、裸で踊り始めるとか」
「そんなおかしな癖は持って無かったと思うけど」
 燐の頓珍漢な憶測を密かに想像してみたミスティアは、脳裏に想い浮かび上がらせたその珍妙な光景に、思わず口の端を釣り上げてしまった。
「だけど、それじゃああんたが覚えてることの説明がつかないよ」
「心外だなあ。そんなに私を馬鹿にして」
「事実じゃないか。いろんなことをぽんぽん忘れるんだから」
「お客の顔くらい覚えられます。現に燐だって忘れてないよ」
「あたいらはほら、ちょくちょく会ってるし、出会いが運命的で衝撃的で――」
「そんな壮大なもんじゃ無かったでしょ。死体に釣られてここへ来てハンバーグ食べただけのことでしょうに。過去の美化と捏造は忘却よりも性質が悪いわ」

 そんな話をしている内に、料理が完成した。燐にも配膳を手伝わせ、二人は厨房を出る。
 至ってシンプルな炒飯が手元に置かれ、慧音は若干拍子抜けしてしまった。妖怪の手料理と言うのだから、もっと歪なものが提供されるのではないかと思っていたのに、出てきたものはこんなにも簡単な料理であったからである。
「ごゆっくりどうぞ」
 ミスティアがそう言って一礼する。燐も追うようにして頭を下げた。
 慧音がスプーンで飯の山の一端を崩し、口に運んだ。
「ああ、美味しい」
 すぐさまこの一言が漏れた。ミスティアはありがとうございます――と、またも一礼する。
 妹紅は複雑そうな表情をしながら飯を食っている。美味いのは事実であるが、認めたくないと言った感じである。
「驚いたよ。まさかこんなに料理達者だなんて。鰻だけじゃなかったんだ」
「恐れ入ります」
 スプーンで掬った炒飯を、慧音心底感動した様子でまじまじと見つめている。
「寺子屋の子ども達にも食べさせてやりたいな」
 唐突にこんなことを言うものだから、
「何を言ってるんだよ、お前は」
 妹紅が思わず慧音の脇腹を小突いた。
「こんな所に子ども達を連れて来れる訳無いだろ」
「分かってるよ」
 慧音は苦笑し、二口目を口にした。
 二人のおかしな人間の、対極的な様子での食事は続いた。


*


 大量の紙類と教科書を積み重ねたものをとんとんと音を立てながら整理している上白沢慧音を見た寺子屋の生徒の一人が、不思議そうに問うた。
「先生、いいことがあったの?」
「は? 急にどうしたんだ?」
 慧音がきょとんとして尋ねる。
「何だか嬉しそうだから。ねえ?」
 いち早く慧音のささやかな異変に気付いた生徒が周囲に賛同を求める。すると、他の生徒も次から次へと同意を示した。帰属意識故の反応である可能性もあるから、一概に全員が慧音に異変を感じたとは言えないかもしれない。とは言っても、少なくとも初めに声を掛けて来た一人には、自分の心の持ち様を見抜かれていたと知り、慧音は少し恥ずかしそうに自分の頬を抓ったりしてみた。
「何があったの?」
 確証を得た生徒は更に深く、慧音の心情を探ろうとする。
 慧音は苦笑を浮かべた。
「いや、別に何てことはないよ。ちょっと美味しい物を食べたってだけのことさ」
 美味しい物とは言わずもがな、昨晩ミスティアに振る舞われた料理のことだ。妹紅と一緒に自警の意を込めて洞穴の奥にある怪しい料理店へ訪れたのだが、結局求めていた、或いは思っていた様な成果は上げられなかった。但し、予想外の収穫もあった。それが、慧音をも笑顔にしてしまう、夜雀の手料理である。
 人里の自衛の要である慧音がそんな調子なものだから、洞穴からの帰り道、危機感が無いだの何だのと、妹紅に散々叱責を喰らってしまった。
 しかし、気に入ったものは気に入ったものである。覆すことはそう易々と出来るものではない。
 慧音は夜雀の料理に心酔し、翌日となった今日も、その魔力から未だ解放されていないのである。

 子どもたちには、後日にまで尾を引く程美味しい物と言うのがなかなか想像できないらしい。お互いに顔を見合い、首を傾げ、各々の頭の中で、翌日まで幸せになれる程美味しい食べ物と言うのを思い描き始めた。何で出来ているのか。どんな味付けなのか。どこで食べたのか――考えれば考える程、謎は深まっていく。
 結局、自分達では解決できる事柄ではないと悟った子ども達は、
「どんな食べ物?」
「何の味なんですか?」
「どこで食べたんですか?」
 口々に疑問を投げかけた。
 慧音は何から説明すればいいのか分からず、落ち着け落ち着けと囁きながら子どもたちを宥めた後、ゆっくりと説明をした。
「ご飯を炒めた料理だよ。至って普通の。どこで食べたかは教えられないけど」
 慧音がその料理を仔細に語らないのは、本当にシンプルな食べ物であったから、説明のしようが無いと言うのが事実である。勿論、こんな説明では子ども達は納得しない。更なる説明を恩師に求めて騒ぎ立てる。だが、慧音はこれ以上の説明をすることが出来ず、とにかく場の鎮静化に努めた。
 要領を得ない説明を受けて、次第に子ども達は『百聞は一見に如かず』と言う結論に辿り着く。食ってみれば分かるだろうと結論付けた子どもの一人が声を上げた。
「私も食べたい!」
 その一言は種火となり、周囲の子どもたちの欲望にもぽつぽつと火を点けて行く。
「私も!」
「あ、俺も!」
 再び大混乱に陥った子どもたちを、再び慧音は懸命に宥めた。

 はしゃぐ子どもたちに囲まれて困り果てている慧音を遠巻きに見つめる者がいた。
 金の髪に赤いリボンを付けた、この場にいる子ども達とそう変わりない背丈を持つ、幼げな妖怪である。名前をルーミアと言った。彼女の様な幼い妖怪も、時々寺子屋に姿を表し、勉強の真似事をして暇を潰していることがある。
 人ごみのど真ん中で人を襲うとどうなってしまうかは熟知しているので、彼女が生徒を襲うことは無い。仮に人を襲ったとしても、ルーミア程度の低級な妖怪であれば、慧音に簡単に熨されてしまうことだろう。
 いつまでも熱の冷めない子ども達に囲まれたまま、慧音は「どいてどいて」「もうお帰り」と言った言葉を投げかけながら、どうにか寺子屋の外へ出た。
 外へ出てしまうと、くっ付いていた子どもたちも堪忍し、まるで蜘蛛の子を散ら帰路へ辿っていく。
 そんな中、たった一人の妖怪の生徒であるルーミアだけが、独りとなった慧音に歩み寄り、そのスカートをちょいちょいと引っ張った。慧音が振り返ると、ルーミアと目が合い、彼女はにっこりと笑んだ。
「ねえ、どこで食べたの? 美味しい物」
 食に人一倍の興味を抱く彼女は、どうにかして慧音が食べた料理を食べてみたいらしい。
 しかし、慧音はその場所を教えることは出来ない。昨晩、食事を終わらせて帰ろうとした時、ミスティアにこの場所のことを広めてはいけないと釘を刺されたからである。
 だから慧音は申し訳なさそうに首を横に振った。
「残念だけど、それは秘密だ」
「どうして?」
「そういう決まりだからさ」
「そっかあ。残念」
 心底残念そうに呟き、視線を地面に落とすルーミア。しかし、そんな悲しげな表情をしたのもほんの数秒だけのことで、再びパっと顔を上げた。そこにはいつも通りの無垢な少女の若々しく瑞々しい表情が戻っていた。
「私も食べてみたいな」
 ルーミアが無垢な笑みを湛えて一言。
「ああ。いつかきっと、な」
 慧音は適当にそう言って茶を濁した。
 言下に横から人間が一人、慧音に小難しい相談を持ちかけた。ルーミアは妖怪故に、子ども達はさておき、人間からはあまり好かれていない。何か嫌悪感をぶつけられるのは御免だと、さっさと人里を出た。
「美味しいものかぁ」
 慧音をも唸らせる絶品とは一体何なのだろう――ルーミアは思慮を巡らせた末に、
「人間かな?」
 如何にも妖怪らしい結論に辿り着いた。


*


 夜の闇の中を、火焔猫燐が一人で歩いていた。
 普段、彼女はねこぐるまを押していることがほとんどである。そのねこぐるまに、発見した人間の死体を積み込んで、地底へ持ち去ってしまうのである。しかしこの日はねこぐるまを押していない。仕事をしている訳ではないことが窺える。
 彼女は歩きながら、あれやこれやと考え事をしている。視線は地面ばかりを捉えており、若干の前傾姿勢。時々「んー」とか「あー」とか、一人で唸っていたりもする。宵闇の所為でよく見えないが、かなり小難しい顔をしていることだろう。
 こんな状態であっても、帰巣本能のようなものなのであろうか、彼女の足はミスティアのいる洞穴の深奥の厨房へと向かっている。地面から飛び出ている木の根や、足を取りそうな蔦を無意識の内に器用に避けながら。

 いつも通りに、いつもの洞穴の道を歩き、いつもの扉を開き、いつもの椅子に座り、いつものように机を指でリズミカルにとんとんと叩いていると、いつも通りミスティアが厨房から現れた。
 ミスティアが持ってきた盆には、二人分の夕食が載せられている。出来上がってから少しばかり時間が経っているが、冷めても美味しく食べられるような工夫が施されている。
「いつもより遅いね。お仕事忙しいの?」
 ミスティアの問い。
「んー。まあ、ぼちぼち」
 燐は生返事を返した。
 異変を感じたミスティアが燐の表情を見てみると、天真爛漫な燐にしては珍しく、何かに思い悩んでいる様子だった。
 ミスティアは燐の前の席に座ったが、燐はミスティアを見ようともしない。
 二人分の夕食の乗った盆を、分けることをせずに自分の前に置いて「いただきます」と言って手を合わせると、
「待った待った。これはあたいのでしょ」
 燐はすぐさま皿の一つを摘まんだ。やっぱりここだけは譲ることは無かった。
 ミスティアは「やっと元気になった」と、心底安心した様に言うと、一人分の夕食を燐の前に置いた。置かれた皿にはパスタが盛られている。ミートソースである。ミスティアを目の前にすると、その赤さの中に何か惨たらしさを発見出来そうだ。
「妖精とか妖怪とかは無いの?」
「無いよ」
「そう……」
 それっきり、再び燐は黙りこくってしまった。
 ミスティアがそっと燐の夕食へフォークを伸ばすと、すぐさま燐が皿を引いた。テーブルを捉えたミスティアのフォークが、コツンと快音を鳴らす。

 今日の燐は、食い意地以外は明らかに異常であることが認められる。異常の原因を聞かねば解決もできないと悟って、ミスティアはようやくごく普通に質問を投げかけた。
「燐、どうしたのよ?」
「んー」
「んーじゃ分からない。何かあったの? 何を悩んでいるの?」
「ちょっとね。……あの慧音って言う半獣のお姉さんがここへ来てから、ずーっとあたいは考えてることがあるんだよ」
「まあ! あの半獣に恋でもしたの?」
「そんな訳無いだろ! 何言ってんのさあんたは!」
「冗談だよ」
 薄く笑いながらミスティアは言った。
 燐はコホンと、わざとらしい咳払いをし、四六時中考えていた自らの考え事を口にし出した。
「あの半獣のお姉さんは人里に住んでいるんだろ?」
「うん」
「半獣と言うんだから純粋な人間では無いよね。あいつは紛れも無く妖怪の一人だ。それなのに人里にいるってことは、きっと人間からものすごく信頼されているんだ」
「その通り。慧音さんはいろんな人から信頼されてるよ」
 ここまでの持論にミスティアが同意してくれたことに、燐は安心したらしい。表情からもそれが読み取れる。
 心に余裕ができたようで、ようやくフォークを手に取って、皿に盛られたパスタをぐるぐるとフォークで巻き取り始めた。しかしそれを口に運ぶことはせず、更に言葉を続ける。
「改めて言うけど、あいつは妖怪なんだ。私らとほとんど一緒でね」
「そうだろうね」
「そう。だから、あいつだってやっぱり人間が好きなんだよ」
 燐がぐるぐるとパスタが絡まったフォークを持ち上げる。
「食べ物として、ね」
 意味深な間を置いて放たれた一言。ぼたりとパスタが皿へ降下して行った。
 ミスティアはうーん……と唸って宙を見やった後、
「まあ、そんな可能性も無くはないかもね」
 こう答えた。
「そうでしょ!」
 燐が一気に表情を明るくし、
「だからさ、あいつを――慧音を上手く使えばさ、私らって人間にありつけるんじゃないかな!?」
 一息にこう言ってのけた。
 人間に信頼されている慧音を上手く使って、人間を手に入れてはどうだろうか――燐はこう提案したかったのだ。燐は数日間、このことばかり考え続けていたのである。
 ミスティアは顔色も表情も変えずに「なるほどね」と呟きながら、何度か相槌を打った。
 脈あり、と受け取った燐は、目を爛々と輝かせながら、ミスティアの返事を待っている。
 ミスティアはパスタを一度口に運んだ後、口内にパスタを残したまま、
「どう使うつもりなの?」
 ともごもごと問うた。
 燐は腕を組み「そうだなあ」と呟くなど、勿体ぶった様子を見せた後、不意にぱちんと指を鳴らした。――四六時中考え続けていたことなのだから、考えなど既に纏まっているであろうに、いちいち白々しい演技を交える燐を見て、ミスティアは口の中で細かくなっているパスタを噴き出しそうになっていた。
 そんなことは露知らず、燐は人差し指をぴんと立てて、一日中考えていた自身の計画を口にする。
「魅了する――って言うのはどう? あいつに一度、絶品の妖怪料理を食わせて、その味を覚えさせるの」
「ほほう」
 ミスティアの声は淡々としたものである。感情が読み取れない。
「魅了してから発破を掛けてやるんだ。人間はもっと美味しいんだぞ、人間は妖怪とは比べ物にならない程美味なんだぞ――ってな具合にね」
「なるほどねぇ」
 ミスティアの言葉を受ける度に、燐の演説にどんどん熱が入っていく。先から、この計画を誰かに言いたくて仕方が無かったことが窺える。しまいには大袈裟な身振り手振りまで入り始めた。まるで舞台に立つ役者の様な様相だ。一応食事中なのだから自重して欲しいとミスティアは思ったが、その仕草がなかなか見ていて楽しいので、何も言わないことにした。
「良心と欲望に小突かれて揺れ動く心!」
 遂に台詞まで劇的になり始めた。
「しかし! 人間の三大欲求の一つと謳われる食欲に勝れる良心などある筈がない! ……まあ正確に言えば妖怪だけど、あたいらも同じようなもんよね」
「そうだね」
「そして――ッ!」
「慧音は人食いたさに、人間をひっ捕らえてくれる。人間を調理すると言う私達の罪にも目を瞑ってくれる」
 締めの台詞はミスティアに盗られてしまった。燐は勢いを崩されて大袈裟にずっこけた姿勢を見せた。しかし、とりあえず言いたいことは全て伝わった様であったので、
「そう! そういうことなんだよ!」
 等と言いながらぶんぶんと首を縦に振り、再び椅子に座って、大きく息を吸った。若干息が上がっている。
 熱っぽさや若干の疲労感もあったので、最高の出来栄えの『人間料理実現の為のプレゼンテーション』だと、燐は実感していた。自分の想いの全てを出し切ることが出来たと言った感じの清々しい表情で、ミスティアの返答を黙って待った。


 ミスティアは、フォークでパスタを絡め取り、口へと持ち上げる。そして、口の寸前で手を止めて、
「保留」
 と一言、素っ気無く呟いて、パスタを口へ入れた。
 最高のプレゼンを終えた筈であった燐は、心底驚いたように目を見開き、テーブルをどんと叩いて起立した。
「どうして!? あたいのこの計画、そんなにダメ!?」
「四十点」
「は、配点を……」
「計画としては、私達以外の誰かを巻き込んだ時点で話にならない。それもその相手が人里に精通する半獣だなんて。論外。零点」
「……じゃあ、四十点て何?」
「熱意三十点、演技力十点」
 がっくりと肩を落とし、席に着く燐。起立と同時にテーブルを叩いた際、水入りのコップが倒れてしまった様で、テーブルに小さな水溜りが出来ていた。
 それを布巾で拭きながら、燐はぶつくさと文句を垂れ始めた。
「だって、じゃあどうすんだよ、人間料理……。狩りにも出てくれないし……」
「こんな時代だから、そう簡単に人は食べられないのよ。それに、人なら何でもいいって訳じゃないんだから」
「分かってるよ。どうせ強いお兄さんお姉さんじゃなきゃ大した味にならないんだろ」
「ブー。人の場合はちょっと違うんだな」
 燐の知らない料理の知識をミスティアが披露しようとしていると言うのに、彼女は「そうかいそりゃ初耳だ」と呟いただけで、まるで興味を示していない。味わえない珍味なぞには構っていられるかと言った具合である。テーブルの拭き方もものすごく雑で、ちっとも綺麗になっていない。完全に不貞腐れている様子だ。
 燐が全然聞く気が無いことなど分かっていたが、ミスティアは一応情報を彼女に伝えておいた。
「人間の場合、肉の美味い不味いは、力の強い弱いはあまり関係ない。何故かと言うと、強い人間と言っても、強さの高が知れているから」
「差があんまり無いってことね。どんぐりの背比べ」
「そう。では美味しい人間とは如何なる者か。分かるかな?」
「知らないよ」
 即答である。考える気さえ無いのが分かる。
「ならば教えて進ぜよう。正解は、子どもです。純粋無垢で、生命活動による穢れの少ない子ども。これこそ、最高の味を持つ人間なんだよ。分かったかな?」
 ミスティアなりに、教育的な口調を意識してみたつもりだったが、やり慣れていない故にその口調はぎこちなく、そもそも燐が興味を示している様子がないので空回りしている。
 燐は相変わらずぶすっとした表情のままテーブルを拭きつつ、
「はいはい、子どもね。子ども子ども……」
 と適当に反芻していた。

 不愉快そうだから、今日は食事が終わったらこのまま帰ってしまうかな――とミスティアが思ったその瞬間、テーブルを拭いていた燐の手がぴたりと止まった。
 そして、またもどんとテーブルを叩いて起立した。今度はミスティアのコップが倒れた。折角拭いていたテーブルがまたも水浸しとなった。
 そんなことは意に介さず、燐は声を上げた。
「子ども!?」
 急に声を荒げた慧音に、ミスティアは怪訝な表情を見せた。
「どうしたのよ、急に」
「子どもなら尚更慧音の出番じゃないか!」
「何で?」
「あいつは寺子屋で先生やってるんだろ? 子どもとの関わりだってあるに決まってる!」
「ああ、そんなことも言ってたっけ」
 ミスティアが数日前を思い出しているかのように宙を見ながら言う。
 人を食いたいと思った頃に邂逅した上白沢慧音。しかも極上の材料となる子どもとの深い関わりも持っている――燐にはもう、これは運命だとしか思えなかった。
 興奮で紅潮した顔を手で押さえ、何度も深呼吸し、席に座ってまたもテーブルを拭き始めた燐。あまりにも都合のいい巡り合わせに狂喜し、そして混乱している様子だ。
 粗方拭き終えると、燐は布巾を置いて、真っ直ぐミスティアを見据えて言った。
「ねえミスティア、考え直してよ! これは神様の下さった好機なんだよ! そうとしか思えない!」
「好機と言ってもねえ……」
「何でそんなに消極的なのよぅ! 鴨が葱を背負って来たのも同然なのに、みすみす逃しちゃうの!? ミスティアは人間料理を食べたくないの?」
「食べたいよ。人間美味しいし。だけど散々言っているでしょう。人間料理は調理してハイお終いとなれないんだってば」
「いいものにリスクは付き物だろ! 虎穴に入らずんば虎児を得ず! あれが危ないこれが危ないって言ってたらもうずっと人間料理なんて食べられやしないよ! 今を逃したら絶対後悔するよ。あの時慧音を使って人を食っとけばよかったって! あの時燐の言うことを聞いておけばよかっ……」

 燐の熱弁がピタリと止まった。
 ミスティアが右手の人差し指を立て、それを鼻の前に添えたのだ。誰にでも伝わるであろう。“静かにしろ”と言うサインである。
 無言で『黙れ』と指示するミスティアの表情に、冗談の色は無い。燐は思わず手で口を押さえ、こくこくと頷いた。
 ミスティアは強張った表情のまま、ゆっくりと頭を縦に振り、手を降ろした。燐も次いで手を降ろす。
 その直後、外部と食堂を繋いでいる扉のノブが回った。
 扉が開け放たれて、洞穴の闇が顔を覗かせた。闇の中から現れたのは、白い長髪の半獣である。
「こんばんは」
 ミスティアの食堂を訪れた上白沢慧音が、微笑しつつ挨拶をした。
 燐は冷や汗とぎこちない笑みを浮かべながら「こんばんは」と返した。不自然さが無いように返せていたか不安であった。
 ミスティアは笑んで、こくりと会釈をするだけに留まった。所謂『営業スマイル』と言う奴だろう。彼女は燐よりも幾分か笑い慣れている。
「また視察ですか?」
 ミスティアが席を立ち、問う。しかし、慧音は首を横に振った。
「今回は違うよ。ただ食事しに来ただけ。大丈夫かな。食事中だった?」
「食べ終わってからでもいい?」
「勿論」
 慧音は他のテーブルの付近に置いてあった椅子を移動させ、二人の近くに座った。

 暫く燐は黙って食事をしていたが、次第に堪え切れなくなって、おずおずと問うた。
「あのさ、先生……さっきの私らの話、聞いてた?」
「ん?」
 言われた慧音は、小首を傾げて燐を見つめた。
「扉を開ける前に何か話をしているのは聞こえたよ。何を話しているかまでは分からなかったが」
「そ、そっか! あはは……」
「聞かれてはまずい話でもしていたのか?」
「え? 別に! 何でもないよ、ねえミスティア!」
「ただの惚気話よ。この子、ついこの間恋に落ちてしまっていてね。その相手がなんと……」
「こら!」
 慧音に胸の内を知られていないのに安心したのも束の間、ありもしない出鱈目な恋心を晒されそうになり、燐は紅潮しつつそれを阻止した。
 ミスティアは「言わないから安心して」等と意味深な言葉で適当に燐を宥めた後、食事に集中し出した。一応、客を待たせているのだから、なるべく早く食事を済ませなくてはいけないのである。
 この堅苦しい半獣と二人きりになるのなんてまっぴら御免だと、燐も大急ぎでパスタを掻き込んだ。数度噎せて、慧音を心配させた。
 先に食べ終わったのはミスティアで、皿を持ってさっさと厨房へ向かった。
 遅れること僅か数秒、どうにかパスタを無理矢理口に詰め込んだ燐も皿を持って席を立ったが、
「別に手伝ってもらうことは無いから、そこにいて」
 こうミスティアに足止めされてしまい、空になった皿をミスティアに奪われてしまった。渋々、燐は席に座った。

 ミスティアの料理が完成するまで、この半獣と二人きりにならなくてはいけないのか――。
 燐はうんざりしていたが、反面、好機だとも感じていた。
 ミスティアは食材となる人間集めに、非常に消極的だ。ならば、こちらはこちらで勝手に動いて食材を入手し、ミスティアに提供すればいいのではないか――燐はこんな風に思い始めていたのだ。
 生きた人間を渡したことは無いが、今までだって食材の提供くらいなら何度かやってきた。それが生きた人間になるだけだ。
 ただ、勝手な行動をとることでミスティアの機嫌を損ねる様なことになったら、恐らく料理は作って貰えない。そうなっては、身を賭して人を狩る意味が失せてしまう。……それどころが、激昂したミスティアが燐の要望を聞き入れないと言う程度の制裁で済ませてくれるのかさえ判然としない。
 自身の身勝手な行動に、ミスティアは怒るか、否か――この判断が、燐にはどうしても出来なかった。
 友好的な関係は築いているとは言え、燐はミスティアに料理を作って貰っている身だ。料理に関してミスティアに強く物を言える立場では無い。彼女に出来ることと言えば、彼女が料理を作りたくなってくれる様な言葉を掛けたり、材料や環境を提供してお膳立てする程度が関の山だ。
 やはり、一人では非現実的かと、燐はますます意気消沈してしまった。
 そんな心境の燐に、慧音は平然と雑談を吹っ掛けてくる。
「ここは昼間来ても暗いんだろうな」
 それがどうしたって言うんだよ――ただでさえ不機嫌なのに、話したくも無い者に話しかけられ、燐の心は増々ささくれ立っていく。
 どうにか舌打ちを堪え、
「うん。暗いね」
 こう簡単に返した。だが、会話はそこで終わらない。
「外はもう真っ暗だよ」
「そりゃそうだ。夜だからね」
「そうそう。洞穴の前に森があるだろ? そこのある場所が円形に開けてるんだ。そこに寝転がって空を見ると、すごく綺麗なんだよ。木々がまるで額縁の様になるんだ。……今日は天気が悪くて見られそうに無いけど。明日は晴れるかな」
「さあねぇ。晴れだろうが曇りだろうが雨が降ろうが槍が降ろうが、地底に住むあたいには関係の無い話さ」
「地底に住んでいるのか。地上へ来て平気なの?」
「多少はね」
「星とか空に興味は?」
「無いね。天気も星も月も、全然興味無い」
 燐の口調にはどこか棘が含まれている。気持ちが苛立ち、意味も無く攻撃的になっているのだ。
 慧音はそんなことは全く気にしていない。
「星くらいは見てみるといいぞ。なかなか楽しい」
「うんうん。気が向いたらね」
 ミスティアを手伝いに厨房へ逃げることは出来ないし、だからと言ってここで慧音と無駄話をしていても何も楽しくない。
 本当は人間料理の創作意欲を湧かせる為にミスティアを説得したかったのだが、今の気分だと首尾よく事が進まないことに苛立って寧ろ逆効果である可能性さえ感じた燐は、
「じゃ、あたいは帰ろうかな」
 強引に話を打ち切り、席を立った。
 あまりに急な燐の行動に、慧音は少し戸惑っていたが、
「ああ、また今度」
 と一言。
 あたいはお前になんて会いたくないわ――と言う心の声を飲み込んで、燐も「またね」と、素っ気無く返した。
「空、見てみるといいぞ」
 慧音はまだこんな言葉を掛ける。
 燐はもう無視を決め込んで立ち去ろうとしたのだが、
「明日、私も晴れたら子ども達とまた見に行こうかな」
 この一言を耳にした瞬間、ぴたりと足を止めた。

 心臓が再びばくばくと強く脈動し出した。これは密談を慧音に聞かれたのではと勘繰っていた時とは全く異なる脈動だ。
 前者を絶望による動悸とするならば、後者は希望による動悸と言えるだろう。
 秘密裏に人間の子を狩る必要が、燐にはあった。しかし、妖怪の跋扈するこの世界で、誰が我が子を連れて危険な道を歩むものか。
 だからと言って人里へ下りてみれば、やれ妖怪だ何だと大騒ぎになる。ミスティアと共闘したところで、人間達の防衛策を崩すことなど不可能と言っていい。
 しかし――慧音は確かに言ったのだ。
 子どもらをその防衛の範疇から連れ出してやりたい――と。

「ねえ、半獣のお姉さん。あんた、どこで夜空を?」
 燐が突如振り返って問うたことに、慧音は困惑したようであった。
「何だ? 興味が湧いたのか?」
「うんうん。たまにはいいかなって」
 適当な理由を付けて、燐は慧音から、その夜空が綺麗に見える森の一角を聞き出した。
 その場所を知るや否や、燐は御礼もそこそこに、客室を飛び出して行った。

 燐が出て行って数分後、ミスティアが料理を作り終え、厨房から出て来た。そこでようやく、燐がいなくなっていることに気付いた。
「あら? 燐はどこへ?」
 慧音はぼんやりと考え事をしていた様子で、急にミスティアに声を掛けられるとやや驚いた様に、テーブルに落としていた視線を上げた。
「さっき帰ったよ」
 そう言って洞穴へと続く扉を指差した。既に扉はしんと静まり、その場に佇んでいる。
「そうですか」
 怒らせてしまっただろうか――ミスティアはそんなことを考えた。燐は温和な性格だが、れっきとした地底の妖怪である。恐ろしい存在であることは言うまでも無い。あんまり怒らせてしまうと、ミスティアも手の付けようが無くなる可能性がある。
 どうにかして埋め合わせをしておかなくては――慧音の前に料理を置くと、そのことを忘れない様にと、しっかりとメモ帳に記しておいた。


 食堂を後にした燐は、慧音に教えて貰った場所へ一目散に駆け付けた。
 地面から飛び出る木の根も、蔦も茂みもひょいひょいと飛び越えて行く。猫らしいすばしっこさを惜しみなく生かしながら。
 そうやって森を駆け抜けている内に、息切れがしてきた。足もだるくなってきた。額から汗が滴ってきた。正真正銘の全力疾走である。
 しかし、そんな息苦しさも疲労感も汗もお構い無しに、燐は走る。自身の夢を叶えてくれるかもしれない、森の一角を目指して。
 慣れない過剰な負荷に、身体は悲鳴を上げている。しかし、逆に燐の顔は、心は、どんどん晴れやかになっていく。
 いつ頃到着できるのかほとんど見当が付かなかったが、それでも我武者羅に走り続ける。
 全力で走りながら薄ら笑いを浮かべる少女。その笑みは純粋無垢な残虐性と欲望に塗れている――表情を見ることができたら、さぞや気味が悪かったことであろう。
 木の枝から垂れている蔦を払い除け、態勢を低くして木の葉を避けた、次の瞬間、視界が開けた。

 不自然に円形に切り開かれた森の一角。
 木々が茂る森とは異なり、月の光が少しだけ闇を打ち消している。
 汗だくで、足が棒のようになった燐は、ふらふらとその円形の中心へ歩いて行き、どさりとその場に前のめりに倒れ込んだ。
 そして、ごろんと転がって仰向けに姿勢を直し、大の字になって空を眺める。まばらに浮かんでいる雲の間隙で、数多の星が瞬いている。
 周囲の木々は、確かに額縁のような働きをしていて、夜空の絵画と言う、なんとも贅沢な光景をそこに横たわる者に与えてくれる。
 ――なるほど。こりゃ魅了されるのも無理もないかもしれないね。
 星にも空にも、まるで興味が無い燐だったが、今の彼女は夜空に瞬く星々が妙に美しく、そしてありがたいものに見えた。人を食えないことに対する憤りも、身体の疲労も、全てこの星の輝きが癒してくれる――そんな感覚に陥っている。
 夜風が汗ばんだ体を冷やして行く。
 次第に落ち着きを取り戻して行きつつあった燐は、体の深奥で燻ぶる喜びの火種を爆発させる様に、
「あっはははは!! はははっ! あっははははは!」
 大いに笑った。笑い転げた。
 ここが夢の始まりの地。
 ここに――悲願であった人間がやって来てくれる。

 やがて熱が完全に発散され、冷たさが厳しくなった頃、ふうと一息付いて、ゆっくりと立ち上がった。
 もう一度、空を見上げる。雲は多い。しかし、地底育ちの燐は翌日の天候を見極める術など持ち合わせていない。
 しかしそんな彼女も、たった一つだけ、天候に関して出来ることがあった。彼女は、いつか聞いたことのある、明日の天気を晴れにするおまじないをしておくことにした。
「明日天気になあれ」
 ぽんと飛ばされて燐の足から離れて宙を舞った靴は、程無くして地面へ落ち、泥や草の切れ端で汚れた足の甲の面を見せた。
 燐は靴を拾い上げ、そらを見上げ、また不気味に微笑んだ。


*


 幻想郷は今の季節には珍しい霖雨に見舞われた。多くの人間や妖怪は、連日の雨と高い気温が織り成す蒸し暑さにげんなりとしている。
 火焔猫燐がミスティアに対して人間料理実現の為に決行した、熱の籠ったプレゼンテーションを行ったあの日以降、雨が続いている。突如として傾いた天候は、何か不吉な兆候を内包している暗澹さを秘めている様にも感じられる。果ての無い曇天は、やけに禍々しく幻想郷の住民達の目に映った。

 外はそんな具合だが、洞穴の深奥に設えられたミスティアの厨房は、陽光に当たらないお陰で、そう言った暑気から逃れることが出来る。故に涼しく、おまけに人が来ないので静かであるし、加えて美味しい料理にありつける。
「絶好の避暑地だな」
 上白沢慧音は満面の笑顔を浮かべてこう呟いた。その横にいる藤原妹紅は、同意すべきか諌めるべきかの判断に迷った挙句、何も言わずに食後のデザートとして提供された餡蜜を口に運んだ。

 慧音と妹紅が二度目の視察に訪れたのは、燐がミスティアに対し、人間料理について熱弁した三日後のことである。
 ミスティアが慧音らの再来を警戒し続けていた為、今回の視察でも、慧音らはやはり如何わしいものを発見するには至らなかった。
 この視察をそこそこにして、慧音はミスティアに料理をねだった。妹紅に、慧音は料理が目当てでここへ来ているのではないかとさえ思わせる程の熱の入り様である。

「あの猫の子はいないんだな」
 妹紅がふとこんなことを言った。
「最近来ないんですよねぇ」
 ミスティアが答える。
 霖雨の始まる前日を最後に、燐はこの洞穴の深奥へ一度も姿を見せていない。
 ミスティアは何だか悶々としたまま今を過ごしている。軽い喧嘩別れの様な状態で今に至っているのもあるが、それとは別に、燐がここを訪れないことが、何かの凶兆である様に思えて仕方が無かったのである。人間料理について議論したのを最後に別れていると言うことも大きく関与している。
 そんなミスティアの心配など露とも知らない二人は、ミスティアの作る料理に舌鼓を打っている。

 料理を済ませた客人を見送った後、ミスティアも料理の後片付けを済ませて厨房を出た。
 洞穴の出口に近づくに連れ、そぼ降る小雨の陰気な雨音が強くなっていく。
 出口の直前で立ち止まったミスティアは、手だけを洞穴の外側へ出してみて、雨足の強さを測った。掌が少しだけ濡れた程度で、それ程強い雨では無い。
 思い切って洞穴を出て空を見上げてみると、一面黒色であった。夜なので黒色であるのは当然のことなのだが、宵闇だけでは彩れるものでは無いくらいの漆黒である。月も星も全く見えない。
 睫毛に付着する細かな雨滴を鬱陶しげに拭ったミスティアは、いそいそと自宅へ向かって駆け出した。


 同じ頃、火焔猫燐は地底世界と地上の境目に立ち、不愉快な雫をべちゃべちゃと大地へ降り注がせている黒雲蔓延る大空よりも、よっぽどどんよりとした面持ちで、暗黒の夜空を眺めていた。
 慧音が寺子屋の生徒を交えて天体観測を行うといった様なことを漏らしてから、一日たりとも晴れた日が無い。
 たった一日だけ晴れてくれれば、燐の悲願は達成されるかもしれないと言うのに、そのたった一日がなかなか訪れてくれない。燐の歯がゆさ、もどかしさは並々ならぬものである。
 食材たる人間を手に入れるまで、燐は敢えてミスティアの元を訪れないことに決めていた。喧嘩別れのような形でミスティアの元を去ってしまったと言うことを、燐自身も理解していた。燐は夜雀に対して怒りなど微塵にも覚えていない。ただ、もしかしたらミスティアは自分に対して申し訳無さを感じているかもしれない――と言う希望的憶測の元、不貞腐れた駄々っ子の真似事の様な態度をとってみることに決めたのである。こうしておけば、次にミスティアに会った時は、向こうが機嫌直しの為に人間料理をしてくれるかもしれない――と言う、随分楽観的な魂胆である。これはある種の賭けでもある。
 そんな燐の計画を嘲笑う様に、雨は降り続ける。
 地底に暮らしていて、これ程にまで天気を気に掛けたことは無かったものだから、完全に世界の気まぐれである天候と言うものが、ことさら忌々しく思えた。
 止みそうも無い雨を眺めていることが馬鹿馬鹿しく感じられ、燐は不機嫌そうに踵を返し、住まいたる地霊殿へ戻ることに決めた。猫故に、雨滴に濡れるのは不本意である為、死体探しに行く気さえ起きて来なかった。
 一歩を歩み出す前に、燐は片方の靴を少しだけ脱いだ。そして、その脚を振りかぶる。
「明日天気になあれ……っと」
 ぽんと、靴を宙に放る。
 ――着地した靴は、泥だらけの裏面を見せた。
 燐は深いため息をついた。
「履物まであたいの敵をするのか!」
 忌々しげに呟き、思わず靴を蹴飛ばした



 不穏な空気を孕んだ雨は四日目にまで尾を引いた。まるで燐の発する禍々しい邪気を吸収して成長したかの様などす黒い雨雲は、留まることを知らぬかのように、じめじめ、じとじとと世界中を陰気に濡らし続けている。
 雨に降られては、ミスティアの狩りも捗らない。そもそも雨に濡れることそのものがストレスである。食材を手に入れようという気持ちさえ沸き立って来ないのである。
 夜、ミスティアは自宅たる家屋から速足に件の洞穴まで駆け付けた。分厚い雨雲に憎悪の一瞥をくれてやると、洞穴の奥へと消えて行った。
 手慣れた様子で扉を開けて――開き切る前に異変に気付き、手を止めた。
 扉の隙間から光が漏れ出して来たのである。
「誰?」
 半開きにした扉にミスティアが声を掛ける。元々扉の蝶番は古く、開ける度にきぃきぃと小うるさい金属音を発する。ミスティアが扉を開いたことは、その先にいるのであろう何者かに既に知られていることは明白であったから、敢えてミスティアは牽制の意を込めて声を掛けたのである。
 ズズ――と、椅子を引き、地面が擦れる音がした。
「夜雀か?」
 返答の声色は聞き慣れたものであったが、それでもミスティアは驚きを隠せなかった。
 扉を開き切ったその先には、ミスティアが声を聞いて憶測した通りの人物――上白沢慧音がいて、呑気に椅子に座っているではないか。持参したらしいランタンをテーブルに置いている。扉を開いた時に漏れ出した光の正体である。
「慧音さん……何してるんです、こんな所で」
「決まっているじゃないか。食事しに来た」
 平然と言ってのける慧音。ミスティアは小さくため息をつく。
「前にも言いましたが、ここはレストランの類では無いのですけど」
「だけどやって来た者には食事を提供してくれるんだろ?」
 飄然とした慧音の態度。
 この様子では返ってくれそうも無いな――と、ミスティアは堪忍し、今ある食材で何かしら料理を提供することにした。

 最近は客人が多い上に、雨が続いて食材を狩ったりもしないものだから、この調理場の食材は枯渇しつつあった。当然、料理のグレードは下がって行く。
「大したものではございませんが」
 この日ミスティアが提供したのは粗末な定食である。雑穀を交えて嵩を増したご飯に、色どりのあまりよくない野菜の入った汁物、それから、消費期限や入手した日も判然としない野生動物の干し肉のソテー。
 元来、洞穴の奥地と言う少々変わった場所にあるが故に部屋が暗く、壁の燭台も意匠などとは無縁で、ひたすらに無骨なものだから、その光が作り出すシルエットもまた非常に味気無いものである。その為、客室として使っているこの部屋はかなり薄気味悪い空間となっている。それに加えて、昨今のじり貧状態から出される粗末な料理となると、それはそれは見栄えが悪いことこの上無い。
 しかし慧音は嫌な顔一つしない。一度、ミスティアのしっかりとした料理を経験しているにも関わらず、貧相な料理も実に美味そうに食べる。
「何を作っても美味しいんだな」
 幸せそうな笑顔を湛えて慧音が言う。
 褒められていることは間違いないのだが、慧音は人間の平和の為に生きる妖怪で、ミスティアとの間には深い溝がある存在である。こんな風に連日の様に来られても、素直に喜べる客人ではない。
「随分私の料理を気に入ってくれたんですね」
 些か呆れた風にミスティアが漏らすと、慧音はこくりと頷いた。
「驚くくらい口に合うものだから。毎日食べたくなる味だ」
 恐縮です――言下にミスティアは言い、
「一体全体、私の料理の何があなたの琴線に触れてしまったんでしょう。燐にもよくご飯を作ってあげますけど、あなた程喜んでくれたことはありませんよ」
 こんな言葉を付け加えた。
「さあね。だけど、私はお前の料理がすごく好きだ」
「恐縮です」
 先程と同じ口吻で、同じ言葉を繰り返す。

 大した量を作れなかったので、慧音の食事はすぐに終わってしまった。皿に付いたソースまで舐め取ったのではないかと思える程、綺麗な完食である。
「夕食にしては量が足りなかったでしょう」
「いや、何、量なんて関係ないよ。私は空腹を満たすことより、この味を求めてここに来ているんだから」
 慧音は微笑んで言う。
「それじゃあ、また来るよ。ご馳走様」
「はあ。また来るんですか。……お待ちしています」
 本音と建前が忙しく入り乱れた送別の句で、ミスティアは客人を見送った。
 慧音が去った後、綺麗過ぎる使用済みの食器を流し台の水を張った桶に放り込んだ。汚れを浮かせている間に使ったテーブルを拭く。その間、慧音の異常とも言える自分への料理への執心ぶりについて、根も葉も無い憶測を立てていた。

 その最中、背後にある扉のノブが回った音が響いた。
 即座にミスティアが後ろを振り返る。思わず腰に手をやったのは、狩りの際はいつもそこに凶器を携えているが故の習慣である。今はそこに得物は無く、湿った服を掴むのみであった。
 洞穴の暗がりからぬっと姿を現したのは、ミスティアの見知らぬ者であった。
 ――どうして最近、こんなに客が多いんだろう。
 多くの者を相手にしたくない一心でこんな不便な場所に調理場を設けたと言うのに、この有様では本来の目的が達成できていないではないか――ミスティアは辟易した。
「へえ。こんな所にこんな場所が」
 そんなミスティアの悩みなどどこ吹く風と、幼き妖怪の客人は物珍しげに客室たる空間を見回した。幼さ故の緊張感、警戒心、先入観と言ったものの欠如――それらが綯い交ぜになって、悩めるミスティアの精神を逆撫でする余裕と飄然さをこの客人に齎している。
「……いらっしゃいませ」
 向かっ腹を立たせたミスティアは自棄になってこんな風に客を出迎えた。
「こんばんは」
 客人は律義にぺこりと挨拶を返す。金色の短髪と、それに巻かれたリボンが、お辞儀に合わせてちょこんと揺れた。幼い妖怪と言う、無礼の極みを尽くした様な存在でありながら、意外と礼儀が備わっていたことだけが、ミスティアにとって不幸中の幸いであった。
「こんな所のこんな場所へようこそ」
 客人の言葉を引用してミスティアが言ったものの、このあからさまな嫌悪感を客人は読み取れていないのか、あっさり受け流したのかは不明だが、とにかく嫌な顔一つしなかった。
「本当にね。先生、よくこんな所見つけられたなあ」
 感心した様に少女は言い、物珍しげに辺りを見回している。
「先生?」
 ミスティアが咄嗟に聞き返す。妖怪少女はミスティアの方を見てこくりと頷く。
「さっきここへ来ていたでしょう? 慧音先生」
 少女は事も無げに言ってのけた。
「あの人に教えて貰ってここへ?」
 夜雀にこう問われた妖怪少女は首を横に振った。
「違うよ。私が勝手に後ろから付いて行っただけ」
「どうして」
「何か美味しいものを食べて幸せそうだったから、気になっちゃって、つい」
 習慣的な来店が、慧音の警戒心を弱めたのであろう。
 ろくなことをしてくれない――ミスティアは心中で深いため息をついた。

 この妖怪少女――ルーミアは、夜雀が営むこの料理店らしい場所のルールを知らない。だから、ミスティアが耐え難い憤りに苛まれていることなど知らず、無邪気に微笑んだ。
「ねえ、何か食べさせてくれる?」
 元来の食い意地が、泰然自若の姿勢をなかなか崩さない半獣の顔をも綻ばせる料理に対して尋常でない興味を生じさせている。瞳は無垢な光できらきらと輝き、体はそわそわと落ち着きなく微動している。
 見ているだけで期待に応えてやりたくなるような愛らしい仕草であるが、今のミスティアは非常に不機嫌であったし、何より食べさせるものが何も残っていないので、
「申し訳ありませんが、今日はもう料理はできません」
 こうぴしゃりと言い切った。
 途端にルーミアの顔が悲しみに覆われる。眉はハの字にひん曲がり、食べたい食べたい……と駄々をこねる声は容姿にも満たぬ程幼い子どもの様な調子である。
 やかましくて敵わなかったが、とにかく料理はできないと粘り強く説得を続けた結果、数分してようやくこの妖怪少女は落ち着きを取り戻した。
「仕方が無いなあ。それじゃあ、今日は帰るね。次来た時はちゃんと料理作ってよ」
 口を尖らせながらルーミアは言う。
「食べるものがあれば必ず」
 無根拠な口約束を交わした後、
「それから、ここの存在を誰かに言うのは控えてください」
 決まり文句と化している注意をこの妖怪少女にも知らせておく。
「何で?」
 予想通りの返答がやってきた。
「何でもです」
 心底うんざりした口調でミスティアが投げやりに言うと、
「よくないものを食べてるから?」
 ルーミアがこんな問いを返してきた。
 ミスティアは無言で、じっと目の前に立っている妖怪少女を見つめる。妖怪少女もミスティアの瞳を見つめ返している。
「よくないもの、とは?」
 ややあってミスティアが問うた。
 その冷然たる口調から、ルーミアは幼いながら、自身が何か失言を犯してしまったことを悟った。すぐにでも言い訳をするべきだとは思ったものの、ミスティアの冷血な眼差しに心は凍てつき、放つべき言葉がなかなか見つからない。
 一触即発の危険性を孕んだ淀み切った空気が二人の肌を撫で上げる。動揺を隠してはいるが、お互いにこれ以上無い程の緊張状態に達している。
「――こんな場所でも、衛生管理には十分気を使っていますから」
 殺気を多分に含んだ張り詰めた静寂を緩めたのは、またもや夜雀であった。
「よくないものなんて出しませんよ。料理人として、そんなことはできません」
 ミスティアが薄い笑みを湛えて言う。
「そう」
 ルーミアはしかし、にこりともせずにこう短く返事をして反応するに留まった。
「それじゃあ、また今度」
 結局ルーミアは顔を強張らせたまま、逃げるように洞穴の深奥を出て行った。

 帰路たる真っ暗闇の洞穴の道を歩くルーミアは、内心穏やかでは無かった。何だか、背後から鬼の形相、若しくは能面の様な冷たい無表情を湛えた夜雀が、明確な殺意を抱いて、音も無く自分を追い掛けてくる――そんな感覚に陥っていたのである。
 妖怪の彼女はこれまで闇を恐れたことなど一度も無かったのだが、今日生まれて初めて、闇が恐ろしいと感じた。後にも先にも立ち塞がる漆黒から、ぬっと夜雀が現れる――そんな妄想が頭の中を支配し、しかもそれがとてつもない現実味を持っているのである。
 後ろを振り返れば妄想だと確認できる。さっさとこの闇の道を抜けてしまえば暗中の脅威から逃れられる――そうは思っても、振り返る勇気も、駆け抜ける気力も、驚く程に湧いて来なかった。居もしない敵を恐れて、音を殺して道を歩いた。

 気付いたら洞穴を抜けていた。ぱらぱらと降っている雨の雫の冷たさが、ルーミアを陰惨な空想から引っ張り出した。
 弾かれるように空を見上げる。星一つ見えない曇り空。
 後ろを振り返ると、闇の中にある更に濃い闇が、ぱっくりと大口を開けて佇んでいる。
 ――匂いがした。
 ルーミアは回想する。
 ――動物のものではない。他の生物の血の匂いが。



 無人の洞穴の深奥で、ミスティアは一人、椅子に座ってぼんやりと時を過ごしていた。すぐにでもここを出て家に帰ることができる状態ではあるが、何だか足取りが重たかったのである。
 一気に増えた客人。火車が抱く人間料理への執着。名も知らぬ妖怪少女がにおわせた厨房に潜む秘密の看破。終わりの見えない蓬莱人の懐疑――いろんな問題が夜雀の頭を悩ませる。
 どれがどんな風に自分に作用してくるのか。最も警戒すべきなのはどれなのか。
 ――いっそ全てが同時にぱっと襲い掛かって来てくれた方がましかもしれないわね。
 こんな捨て鉢な発想にも見舞われたのだが――

 ――夜雀のこの願いは、翌日になって叶えられることとなる。

 多様な欲望を貪欲に吸収し尽くしてすっかり膨張してしまったこの慄然たる膠着状態は、遂にその密度に耐えることが出来ずに炸裂し――そして暴走するのである。



 闇の妖怪少女が洞窟の深奥を訪れたその翌日。
 幻想郷は目が痛くなる程の快晴に見舞われた。
 凶兆を孕んだ不穏の黒雲は去った。
 そして――凶行を映し出す眩い陽光が、遂に幻想郷で燦々と輝き出したのである。



*



「確かに連日の雨は鬱陶しかったが、急にこう晴れて貰ってもなあ」
 藤原妹紅は着衣の襟首を引っ張って、そこに団扇でぱたぱたと風を送り込みながら愚痴っぽく言う。
 それを聞いた上白沢慧音は、薄く笑んで口を開いた。
「わがままを言うものではないよ、妹紅」
 こういう慧音の口調はやけに嬉しそうである。霖雨がようやく収まり、晴れ間が見えたことがそんなに嬉しいのか――妹紅は疑問を抱いた。
「やけに嬉しそうだね、慧音。晴れると何かいいことでも起こるの?」
 疑問をそのまま口にすると、慧音は机の上に置いていた一冊の本を手に取り、無言のままその表紙を妹紅へ向けた。天体に関する本であった。それを見た瞬間、妹紅は、
「ああ、なるほどね」
と一言添えて、何度も頷いて見せた。
「久しぶりの天体観測だ」
 そう言い、慧音はその本を小さな肩掛け鞄に納めた。

 ここ最近、空を見ても黒雲がのさばるばかりの日が続いていて、寺子屋の子ども達を連れた天体観測が滞っていたのである。生徒らの質問に答えられなかった雪辱を晴らすべく、あれこれと勉強を重ねて来ていたのに、それを発揮する機会がなかなか訪れず、慧音も痺れを切らしていた。そしてようやく訪れたこの快晴である。彼女が張り切るのも無理はない。
「今夜行くの?」
 妹紅が問う。
「そのつもりでいる」
 慧音は言下に答えた。
「勿論、妹紅も来てくれるよな?」
「嫌だなんて言わせてくれないんだろ」
 苦笑しながらこんなことを言い、同行を承諾した。

 慧音が授業開始の前に天体観測へ行く旨を伝えると、教室内は鼎の沸いたような大騒ぎとなった。急な提案故に都合がつく者、つかぬ者がいたが、内容は違えども、騒々しさはほぼ同等であった。
 大騒ぎしている子ども達を宥めようとした慧音の服を引っ張る者がいた。
 金髪に赤いリボンの妖怪少女――ルーミアである。
 この日は偶然、寺子屋に勉強の真似事みたいなことをしに、人里へ遊びに来ていたのである。
「ねえ、私も行っていい?」
 夜を愛するこの少女にとって、宵闇も星空もさして珍しいものではないのであろうが、勉学的な側面から星を見ると言う機会は無かったので、慧音の企画したこの一件が非常に気に掛かるらしかった。ただ単に彼女らと行動を共にしたいと言う気持ちも少しばかり含まれている。
 慧音はにっこり微笑んで、彼女の頭を撫でた。
「勿論だとも」
 同行が許されると、ルーミアは心底嬉しそうに笑んで、慧音に抱き付いた。

 課外授業へ対する興奮が齎す騒々しさは何とか収拾がついたものの、子ども達の落ち着きの無さは相当なものであった。天体観測と言うやや変則的な勉強を行うと言う点においても、妖怪と言う厄介で恐るべき存在故に、なかなか夜の幻想郷を歩くと言う機会が無いと言う点においても、とかく子ども達にとって、この夜間の天体観測と言うのは珍事なのである。
 ざわつく心を抑えながら昼間の授業を消化して行く。当然、こんな状態では身に入って行くものなど何一つとして無かった。誰もが外の様子ばかりを眺めていた。早く暗くなれ、早く夜になれ――と。

 授業が終わり、家に帰る。それからしばらくすると陽が傾き、世界が茜色に染まり始めると、そのもどかしさはいよいよ深刻なものになる。普段は日が長いことを喜んでいる子ども達も、今日ばかりは太陽の緩慢な動きに歯痒さを感じざるを得なかった。
 しかし、どれだけ願おうとも、沈む太陽は加速などしない。ゆっくりと西の空に沈んで行き、遍く生き物達を夜の世界へと招待していくのである。


 そして遂に――待望の夜が訪れた。
 天体観測と言う提案が急なものであったので、都合がつかない子どもも多く、慧音と妹紅、それから妖怪のルーミアを含め、八名での課外授業となった。五人の人間の子どもの内、三名が男、二名が女と言う内訳である。
「絶対に隣の子の手を離すんじゃないぞ」
 子ども達は手を繋いで歩き、皆とはぐれるのを防いでいる。歩みが速い子と遅い子がいるが、とにかく早く星を見たいと言う思いが、彼、または彼女らの歩みを速める。
 森に入ると、夜の闇は一層深くなる。連日の雨が地面をやや緩くしている。時折転びそうになったり、濡れた木の根に足を滑らせたりしながらも、五名は楽しそうに歩んで行く。目的地は言わずもがな、前回の天体観測の会場であった、森の一角である円形に切り開かれた、あの空間である。

 足場の状態が悪かった所為でやや時間はかかったものの、八人は森の天体観測場に到着した。先走った子ども達が、わっとその場へ仰向けに寝転んだ。乾き切っていない草の湿り気で衣服が濡れることも厭わずに。相変わらず、円形の木々に縁取られた美しい星空が見えた。
「気が早いんだから」
 慧音は苦笑しながら、持参したレジャーシートを鞄から取り出した。
「ほら、寝転がるならこの上に寝なさい。まだ草が湿っているだろ。体が冷えて風邪なんて引いたら大変だ」
 慧音が取り出したレジャーシートを、子ども達がわいわいがやがや言いながら広げて行く。
 妹紅は相変わらず所謂『ともし火』の役に徹している。手の上で起こしている炎は、森の深い闇を打ち消し、人間達に安心感を与えている
 が、闇をこよなく愛する妖怪少女は、このともし火をやや毛嫌いしている様である。
「ちょっと眩しすぎない?」
 眉を顰めながら妹紅にこう言ったのはルーミア。妹紅は困ったような苦笑を浮かべた。
「ごめんな。人間にはこれくらいの明りが必要なんだよ」
 こう言うと、ルーミアは仕方が無いと言った感じに小さなため息をついて、妹紅から離れて、慧音の元へ駆け寄った。
 慧音は持って来た図鑑を取り出した所であった。
「星の図鑑?」
「そうだよ」
 二人の短い会話を聞き付けた子どもの一人が声を上げた。
「先生、星について勉強したの?」
「当然だ」
 慧音が自慢げに言う。
「完全では無いけど、前より確実に知識は増えたよ。……さて、この場所からどれ程空が見えるかね」
 そんなことを言いながら慧音は本を参照するべく、妹紅を手招きした。灯りが無くては、本は読めないのである。妹紅が慧音に近づいてきたものだから、ルーミアはそこも離れざるを得なくなった。

 図鑑の群がる子ども達を遠巻きに眺めるルーミア。やや仲間外れにされている感じが否めなかったが、光に群がることはしたくないので、仕方が無いと割り切った。闇の中で生活し慣れている彼女は、暗中でも本を読む程度のことは出来るので、図鑑が空いたら自分も読んでみようと決め、それまではそこらをほっつき歩いていることにした。
 草に付着している霖雨の名残たる水滴が明々たる月光に照らされてきらきらと輝いている。それをぽんぽんと蹴飛ばして、光を発散させて暇を潰していたルーミアであったが――ふと、視線を前へ向けると、猫が一匹、こちらを見ているのが分かった。
 紅い眼をした猫である。茂みから体の前部だけを出し、じぃっとルーミアを見つめている。
 ルーミアは猫に近寄り、屈んだ。それでも猫は臆することなく、ルーミアの眼を見つめ続けている。
 変わった猫だ――ルーミアはそんなことを考えていた。

 次の瞬間であった。
 猫がルーミアの顔目掛けて跳んだ。
 突拍子もない猫の行動に、ルーミアは思わず甲高い悲鳴を上げる。図鑑の傍にいた人間達全員が、何事かとルーミアを見た。
 月明りに照らされて、闇の中にぼんやりと映っているのは、尻餅をついているルーミアと、足元にいる黒猫。黒色ながら闇の中でもその存在を確認できたのは、燃えるように――不自然に紅い眼のお陰である。
 ルーミアと猫のことは見えていたものの、しかし何が起こったかまでは察知できない。
「ルーミア? どうしたんだ?」
 慧音が声を掛ける。
 少女の返事の代わりに、猫の鳴き声が聞こえてきた。
 そして次の瞬間、猫が瞬く間の不気味な閃光を放つや否や、人間と猫の中間に位置する化け物にその姿を変えてしまった。
 人間達は勿論、ルーミアもぎょっとして、大地に立った猫の少女を見やる。
 赤い髪を撫で、黒いリボンの位置を直し、二本の尾をふりふり振って――簡素な身支度を整えた火焔猫燐は、欠伸を交えてうんと背伸びをした。
 伸びを終えた燐の浮かべた笑み――それを間近で見たルーミアは、とてつもない悪寒に見舞われてしまった。そして、瞬時に察した。この黒猫女は、自分達の敵である――と。
「燐じゃないか」
 それ故に、背後から聞こえた慧音の驚きに満ちた声を聞いた瞬間、ルーミアは半獣の顔を見ずにはいられなかった。本能が敵と定めた妖怪に、人里を護る半獣が随分親しげに話し掛けたのだから、無理も無い。
「どうもね。こんばんは慧音先生。それから不老不死のお姉さんも」
 いやに機嫌よさそうにこんな挨拶をする燐に、慧音は勿論、傍にいた妹紅も違和感を覚えたらしく、やや眉を顰めたが、とりあえず適当に挨拶を返した。
 慧音らの傍にいる子ども達は、突然の見知らぬ妖怪の登場に動揺したものの、慧音らの知り合いと知るや否や、その緊張を僅かに緩めた。
 燐は、妹紅の炎に照らされて闇の中に浮かび上がっている子ども達を品定めするように順繰りに見て行く。不安そうな表情が、燐の異常な食欲に加えて、嗜虐性までをも刺激する。
「可愛い子ども達だね。寺子屋の子?」
 燐が気さくな調子で慧音に問う。
「ああ。そうだよ」
 慧音は素直に応対した。
「へえ。子ども達を連れて、こんな所に何しに来たの?」
「前に言っただろう。天体観測だよ」
「ああ、星ね。言っていたね。確かに、今日の夜空はやたら綺麗だ」
 口ではこんなことを言っているのだが、その対応は随分と素早い。初めからこう言うことを決めていたかのようである。

 燐がゆっくりと前へ歩み出した。その眼は子ども達を捉えて離さない。子ども達は少しだけ退いた。
 ――子ども達と燐の間に割って入ったのは、ようやく立ち上がったルーミアである。人類は十字架に架せられました――両腕を左右に大きく広げ、燐の前に立ちはだかり、キッと目の前の脅威を睨め付ける。
 見知らぬ妖怪少女にいきなり睨まれ、進行を妨げられた燐は些か驚いて目を剥いた。
 突拍子も無く、こうも威嚇的な態度をとられては気分がいいものではない。しかし燐は努めて平静を装い、穏やかな、どこか困惑したような口調で、
「何?」
 こう短く問い、小首を傾げて見せたりもしてみた。
「ルーミア、どうしたんだ?」
 慧音も後ろから問うてきた。
 闇の妖怪が咄嗟にとったこの行動は、本能や直感に基づくものである為、何とか、どうしたとか問われても、上手く答えることが出来ない。だからルーミアは無言のまま、両手を大きく広げ、燐の前に立ち塞がるしかなかった。
「ああ、さっき驚かせちゃったことを恨んでいるのかな?ごめんよ。だけど、そんなにまでいきり立つこと無いじゃないか」
 燐は苦笑いを浮かべて言うが、ルーミアは首を横に振る。
「あれ、違うの? じゃあ何なのさ」
 燐が困ったような口吻で言う。
「近づかないで」
 恐々と放たれた言葉は、やや震えている。ルーミアは燐との面識は無い。無いのだが、広義には彼女と燐は妖怪と言う種族で同族である。それ故に、この地底暮らしの火車の恐ろしさを、第六感のような感覚で見抜いているのである。
 しかし、広義には同族と言うのは、燐も同じである。ルーミアが感じていること、そして放たれている警戒心――伊達に地底で暮らしてきた訳ではない、易々と見通せている。
「慧音先生、この子も寺子屋の?」
 燐は立ち塞がった妖怪少女を無視し、その背後にいる半獣に問うた。
「まあ、そんな所だ。時々遊びに来る」
「ふーん。人里の寺子屋は妖怪も受け入れているのか」
 燐は物珍しげに、自身より背の低い妖怪少女を見下ろして――にんまりと笑った。
「地上の妖怪ってのは、随分人間になめられてるんだねぇ」

 そう言うや否や、燐はルーミアの腹に蹴りを放った。
 突然の暴行に一同は言葉を失ってしまう。
 暴行の的となったルーミアも、呻くことさえ出来ず、地面に倒れ込んだ。
 人間達が、自分達が窮地に置かれたと気付いたのは、――一体いつの間に現れていたのか――大量の死した妖精に囲まれていることに気付いてからのことであった。一様に死んだ魚の様な目をし、頭上に輪っかを浮かばせた、不気味な愛嬌を振り撒く大量の妖精。それらが、円形に樹を切り倒して出来たこの小広い空間を囲繞しているのである。
 死した妖怪達の容姿からはさしたる凶悪さは認められないのだが、燐の謀反の最中に姿を表したこの不吉で不可思議な存在に警戒心を抱かない者は、恐らくいない。生後間もない赤子であっても、本能的に危機を察し、泣き喚くことであろう。
「燐!」
 混乱と困惑の極みの最中から、やっと慧音が絞り出せたのはこの一言のみ。
「何?」
 燐は飄然たる態度で応える。しかし、それ以上の言葉はお互いに出て来なかった。パニックに陥った子ども達を制するので、慧音は精一杯であったのである。

 代わって前へ歩み出たのは妹紅である。今宵、照明くらいにしか使われていなかった炎が、妖怪に対する己が油断への後悔と、自分達を欺き続けていたらしい火車への激憤で、一気に勢力を増し、眼前に立つ地底の妖怪を消し炭にせんとばかりに猛り狂う。
 しかし、その猛々しい炎の柱を目の前にしても、燐は怯むことさえしない。美しい花でも見るかの様な眼差しで焔を眺め、紅の瞳がより紅く、煌々と輝くばかりなのである。
「おお、おお。お姉さん、あたいを炎でやっちゃおうってのかい?」
 燐はくつくつと笑った後、パチンと指を鳴らして、自らの身辺に死した妖精を出現させた。
「慧音! 今の内に子ども達を!」
 妹紅に命ぜられ、慧音は周辺を見るのだが、自分達を取り囲む妖精達の輪に、逃げられそうな隙間が見当たらない。加えて、この場から一番に遠ざけるべき存在である子ども達は、唐突な敵の出現ですっかりパニック状態に陥っている。これらをうまく誘導して逃げるのは至難の業である。

 今のままでは逃げられないと言うのなら、道を切り開くのみ――妹紅が燐に躍りかかった。掌の上で踊り狂っていた炎で巨大な弾丸を精製し、火車の少女目掛けて撃ち放つ。
 狙いは的確であったが、弾丸は燐を射止める前に、死した妖精が身を呈して作りだした防壁に阻まれ、消えた。
 炎の弾に撃たれた妖精は空中を漂っていたが、次第に透き通った体内にぽっとほの白い炎を瞬かせるや否や、何事も無かったかの様に燐の防護壁としての任を続行し出した。
「死ねないことの素晴らしさくらい知ってるだろう?」
 妖精の防壁の向こうで燐が笑う。
「まあ、別にこんな防火壁、無くっても平気なんだけど。――煉獄の焔に囲まれて生きてるあたいが、人間の利器なんて枠に収まってる炎を恐れる道理は無いんだよ」
 そう言うと燐は、目の前に浮いている妖精の背をトンと押した。押された妖精は猛然たる勢いで妹紅へ体当たりを繰り出して行く。紙一重でそれを避けたが、避けた先にはまた別の妖精がいて、同じような攻撃を仕掛けて来る。個々の動きは単調だが、その陣形と連携は考え抜かれた秀逸なものである。忽ち妹紅は防戦を強いられることとなる。
 読んで字の如く『命知らず』の攻撃を繰り出し、死しては再生し、また攻撃して死んでいく――狡猾で執拗で猛烈な妖精達の攻撃を掻い潜りつつ、妹紅は未だ尚動くことが出来ていない慧音らにちらりと目をやる。
「お姉さん? 他人に気を配ってる余裕なんてあるの?」
 攻撃も防御も妖精に任せ切りの燐はこんなことを問う余裕がある。

 妹紅の相手を妖精達に委ねた燐が、改めて慧音の方を見た。自分にしがみ付いている子ども達を庇うように手を伸ばしながら、慧音は燐を見据える。
「おお、怖い目」
 燐はわらう。
「どうして、こんなことを」
 慧音が問う。言下に燐がじりじりと慧音との距離を縮め始めた。その後ろでは藤原妹紅が、羽虫の様にうじゃうじゃと湧く、死した妖精の対処に追われている。
「どうしてって、簡単なことだよ。あたいは妖怪だからね。人間を食べたいなぁって思うのは自然なことなのさ」
「ずっとこうすることを狙っていたのか?」
「願ってはいたよ。この好機をくれたのは、紛れも無く慧音先生、あんただよ。こんな所へ子ども達を連れて来てくれるなんてねぇ。本当にありがとう」
 くつくつと笑いながら燐が距離を縮めるに連れ、慧音もゆっくりと子ども達と共に後ろへ退く。
「あんたさぁ――仮にも人間なんだろう? 何でもかんでもぺらぺらと妖怪に話さない方がいいんじゃないの? ……いや、それとも、あんたもやっぱり妖怪で、教え子が食べたくてたまらないのかな?」
 恐慌に見舞われている子ども達は、燐のこの一言を受け、皆一同に慧音の顔を見上げた。命の危機に瀕し、敵と味方の見極めに敏感になっているのである。
 慧音は怒りの表情を露わにした。懐疑的になっている子ども達への怒りでは無い。目の前で憎らしいことを言う火焔猫燐に対する怒りである。
「馬鹿なことを言うなッ!」
 藤原妹紅と死した妖精の激闘の渦中で鳴り響く爆音に負けないくらいの慧音の声。普段教師としての上白沢慧音が見せるものとは全く異質の気迫に、子ども達は思わず委縮する。しかし、燐はけらけらと笑うばかり。
「そうかい、そうかい。いや、その方が助かるよ。私は妖怪です人間食べたい、なんて言われた暁にゃ、貴重な人の肉を分けなきゃいけなくなるからね。分け前が減るのは本意じゃない」
 言下に死した妖精を新たに自身の身の周りに従えた燐が、口の端を不気味に釣り上げる。
「ねえ、先生。子ども達を寄越しなよ。痛い目に遭うのは嫌だろう?」
 気さくで人当たりのいい燐が見せる、妖怪としての恐ろしさに、慧音まで気圧されてしまった。しかし、当然のことだが、慧音も黙って子ども達を差し出すことなどする筈も無い。
「渡すものか」
 命に代えてでもこの子ども達を護り抜くと言う固い決意が――彼女の心の中にある。
「面倒くさいなぁ」
 毅然とした慧音の瞳を見た燐が不機嫌そうに声を漏らした。穏便に事を済ませる気は無いことが、口に出さずとも察せられたのである。

 譲渡する気が無いのであれば強奪するまでだ――と、燐が慧音らに踊りかかろうとしたその瞬間、蹴りを入れられて倒れていた闇の妖怪が再起し、またも燐と慧音らの間に割って入った。
「ああ!? 何なんだよあんたは!」
 燐の苛々が頂点に達した。少女らしからぬ声を上げて、立ちはだかる闇の妖怪少女を睨み付ける。
 妹紅とルーミアの二名に支援を受けた慧音は、自らの薄情さに心を痛めながらも、子ども達を誘導して更に燐との距離をとった。周囲には妖精が揺曳しているからやはり逃げ道など無いのであるが。
 逃げられることは無いと高を括っている燐は、憎悪に満ちた表情を務めて穏やかに緩め、両手を広げてルーミアに話しかけた。
「ねえ、あんた妖怪だろ? ちょっと落ち着いて考えてみなよ。こいつら食べたくない?」
 同じ妖怪であるのならば、人間を食べたいと言う強い願望を持ち合せている筈――と考えた燐は、ルーミアを抱き込もうと試みたのである。
「いらない」
 しかしルーミアは首を横に振る。赤いリボンが勇ましげに揺れる。
「何でさ? 人間の子どもは美味しいんだよ? 知り合いの料理人が言ってたから、これはもう間違いない。しかもただ食べるだけじゃないよ。しっかり調理して食べるつもりなの。友達に料理の得意な妖怪がいてね。きっとあの子ども達を食材として差し出したら、それはもう大喜びで料理してくれる筈さ。何になるかは知らないけど、あれだけいればリクエストくらい応えてくれると思うんだよねぇ。……ねえ、どう? 食べたくない? そこどいてくれたら、ちょっとくらいお裾分けしてあげるけど」
 ルーミアも妖怪である。あの子ども達に秘められた食材としての魅力に気付いているであろうし、燐の話も多生気になることであろう。しかし、その汚れた欲望を振り払うかの様に、
「いらない! ほしくないッ!」
 声を張り上げる。
 燐の表情が無に帰した。作り笑いをしているのが馬鹿馬鹿しくなったのであろう。
「ああ、そう?」
 冷然とこう言い放つや否や、猫らしい瞬発力を生かしてルーミアとの間にあったおよそ五メートルの距離を瞬く間に縮めた。その猛烈な勢いを殺すことなく、膝頭を妖怪少女の腹へとめり込ませた。白兵戦の経験も知識もないルーミアはその一撃に抵抗する技能も力も身体も持ち合わせておらず、ほとんど無防備のまま膝蹴りを喰らわされたこととなる。弾幕勝負ではおよそ経験することの無いこの衝撃に耐え切れず、ルーミアはまたも腹部に深刻な疼痛を与えられ、腹を抱え、地に膝を付いた。
 間髪入れず、彼女の頬に燐が蹴りを加えた。この一蹴に対してもルーミアはやはり防御が行うことができなかった。意識を失ってしまったようで、蹴り飛ばされてからルーミアは地面に横たわり、ぴくりとも動かなくなってしまった。
 今の状況においては非常に強力な味方の一人であったルーミアを失ってしまったこの瞬間、人間の子ども達に降り掛かった絶望感は相当なものである。

 入れ替わりに、どうにか死した妖精の猛撃をいなし、隙を作った妹紅が、燐に急襲を仕掛けた。
 背後から放たれた炎の弾丸を、燐はまるで背に目でも付けているかのように、易々と回避して、飄々と妹紅を真正面から見据えた。
「旧地獄に住んでるあたいを焼き殺すには、ちょっと火力が足りないと思うよ。この森全部焼け野原にするくらいの意気込みが無きゃねえ?」
 草に燃え移り、もくもくと白煙を吐き出している炎を、燐は造作も無く踏み潰した。無言のままふっと浮かべた微笑には、ちゃちな炎で必死の抵抗を試みている蓬莱人に対する挑戦と嘲笑の意がありありと感じられる。
 己が能力を貶されて奮い立たぬ者はそうそういないであろう。妹紅も例に漏れず、その一人であった。地底世界と呼ばれる場所が如何なる場所かは熟知しているし、そこに住まう燐がどれ程危険な妖怪であるかも察しが付いている。しかし、激震した心に身体はあまりにも愚直に従属してしまう。能力と能力者は似るのであろうか――妹紅はどこか、業火の如く気性の荒い烈女の気質を持ち合せている様である。
 両方の腕に紅蓮の炎を纏わせ、燐に向かって猛進する。
 敏捷性で猫と競うつもりか――燐は心に過った嘲りの念を強くすることを抑えることが出来なかった。抑え切れなくなったその念は、人を小馬鹿にしたような含み笑いにまで昇華した。それが余計に妹紅の気を立たせる。
 大きく腕を振りかぶって放たれた炎を纏った殴打は易々と回避され、夜の暗闇を打ち消す照明の役にしかならなかった。燃え滾る炎の光に誘われてふらふらと寄って来た羽虫どもが、次々に灰塵と化して消えて行く。
 しかし、燐の回避は想定の範囲内の出来事であったと見える。腕の周囲を渦巻く炎を操り、まるで鞭の様に伸ばし、そして撓らせて、火車へ追撃を仕掛けたのである。
 この攻撃は燐も想定していなかったらしく、炎の鞭――この径では、鞭と言うより龍とでも言った方が適切かもしれない――は、確かに火車の身体を打った。しかし、蜷局を巻く業火の中から聞こえて来たのは絶叫でも断末魔でもなく、哄笑であった。

 アッと言う声を放ったのは、遠巻きに妹紅の奮闘を手に汗握って眺めていた子ども達の中の一人である。いかにも子どもらしい目敏さとでも言うべきであろうか、その子は、渦巻く炎を潜り抜けた黒猫の姿を見たのである。
 しかし、この非常事態にそんなことを事細かに助言する程の話力は子どもには無く、事を目撃しただけで悪戯に声を上げてしまったことが、逆に妹紅を動揺させるだけの結果となってしまった。
 燐は人型と猫の姿を自在に操る術を持っている。元々は猫であったものだから、猫の姿の方が動き易いと言う節さえある。しかし、生きていく上では何かと便利であるから、人型の姿をしていることの方が多い。
 猫になることで一気に体の大きさを縮め、おまけに人型とは比肩できない瞬発力や敏捷性を得た燐は、放たれた矢の如し速度で、炎の鞭とも龍ともとれる妹紅の腕から伸びる火炎を脱し、勢いをそのままに、子どもの「アッ」と言う一声に動揺している炎の操り手たる人間の股下を潜り、背後を取った。
 その瞬間に人型に戻り――ガラ空きの背面から後頭部へ曲芸的な跳躍と共に蹴りを見舞った。
 燐は別に肉弾戦の心得がある訳では無いのだが、猫と言うだけあり、人並外れた――まさに化け物染みた運動神経を秘めている。それを適当に生かしていれば、人間程度を相手するのは造作も無いことなのである。

 脳震盪を誘発されてしまった妹紅であったが、ふらついている場合では無いと、地面に手を付き、立ち上がろうとしたのだが、その最中、腹部に蹴りを加えられ、再び地面に仰臥した。霞む視界の中で、燐がにんまり笑っている。頬にやや煤が付いている。服の一部がちりちりと爛れているのは、先程の攻撃が命中したと言う証拠であろう。
「いい攻撃だったよ。だけどさ、さっき言ったでしょ? 火が弱い――火力が足りてないんだってば」
 それだけ言うと、燐が思い切り妹紅の顔を踏み付けた。殺さない程度に、何度も。

 蓬莱人が気を失ったことを確認すると、慧音の方を見た。
 妹紅までやられてしまったとなっては、慧音にこの難敵から逃走することなど不可能であると言っても差し支えない、絶望的な状況だ。しかし、慧音はこの圧倒的な劣勢による狼狽をひた隠しにしながら、尚も子ども達を庇うように燐を見据えた。
 鬱陶しく、また腹の足しにさえならない輩をのしてやった燐は、その嬉しさを顔に浮かべている。満面の笑みを浮かべ慧音を見やり、開口する。
「先生、もう無理だって分かってるでしょ? さあ、子ども達を――」
 子ども達を頂戴――右手の掌を星の瞬く空へ向け、すっと差し出す。
 慧音は黙って首を横に振って見せた。
 燐は笑顔を見せたまま、ちょいと首を傾げ、同じ様に手も動かした。無言、笑顔。しかし、その裏にあるのは残虐な心。それらは絶大なプレッシャーとなって慧音を圧する。
「渡さないぞ。絶対に。誰がお前なんかに!」
 圧力を撥ね退けるかのように慧音が言う。
 燐はその満面の笑顔に、さてどうしたものかといった具合の困惑の色を混ぜた。非常に秀麗な面立ちであるが、その内に潜む心は、もうどうしようも無い程にどす黒く、そして血生臭い。
「先生さ、歴史が好きなんだっけ?」
 燐が突拍子も無くこんなことを言った。
 慧音は何も答えず、相手の出方を窺い続けている。
「歴史ってのは過去を学ぶことだよね?」
「それがどうしたと言うんだ」
「学問では後ろを振り返ってばかりなのに――現実では昔とか背後になんてあんまり興味が無いんだ?」
 
 言下に、慧音の後頭部に、何かがぺたりと張り付いた。
 虫や木の葉では無い。大きさが違うし、何より、そういう物質的な感触がしない。しかし、何かがくっ付いたと言う――何とも不思議な、この世のものとは思えぬ感触である。
 事実、後頭部にあり付いたそいつは、この世のものではない。慧音の後頭部に張り付いたのは、死した妖精であったのだから。
 燐が密かに操作していた妖精は、そっと慧音に張り付いて――自ら爆散した。命を持たないこの妖精達は、自傷による攻撃を厭わないのである。
 元々は弾幕ごっこに使う攻撃方法である。接近しつつ爆散して弾をばら撒き、敵の動きを制するのが主目的である。
 今回の慧音はそれを直に当てられたのだから、その衝撃は相当なものであった。背後から木材でぶん殴られたのも同然の衝撃を与えられ、一声さえ発することが出来ないままその場に伏してしまった。無傷では済まなかったと見え、頭から血が流れている。白色の長髪に赤はよく映える。

 遂に最後の守護者を失ってしまった子ども達は、泣きながら恩師の体を揺するのだが、起き上がる様子は無い。
 測り知れぬ絶望と恐怖のどん底に突き落とされた子ども達に、燐が悠々と歩み寄る。妹紅との諍いで点々と燃えている炎の塊に照らされた火車の少女は、実に麗しく、その麗しさがいたく不気味に感じられた。
「お姉さん、逃げる子には容赦しないよ?」
 そう言いながら見せたのはほぼ毎日手入れを欠かさない自慢の爪である。真っ赤なマニキュアが毒々しい艶めかしさを醸し出している。
 冬を越さんが為に身を寄せ合う蜜蜂の様に犇めき合っている子ども達は、傍に倒れている恩師と、遠くで仰臥しているその友人、それから地に伏している妖怪少女を順繰りに見やった。誰かが起き上がり、また自分達を助ける為に戦ってくれるのではないかと言う一縷の期待を抱いて。

 子ども達が儚い望みを湛えた瞳で辺りを見回しているその間に、火焔猫燐は近場に隠していた猫車をこの広場に押して来た。
 少し考えた後、昏倒しているルーミアと慧音と妹紅ら三名を、猫車に押し込んだ。一人も殺してはいないから、変に捨て置くと厄介なことになると思ったし、夜雀の手に掛かれば、全員何かしらの料理へと変貌してくれるだろうと考えたから、わざわざここに置いておくことは無いと判断したのである。
 三名を積んだ猫車を指差し、燐が子ども達に言う。
「さあ、乗って。大丈夫、大丈夫。黙ってお姉さんに着いて来てくれれば、お姉さんは酷いことしないから」
 お姉さんは、ね――燐は心中でその一節を強調した。


*


 燐が沢山の人間と一人の妖怪を載せた猫車を押してやって来たのは、言うまでも無く、ミスティアがいつも個人利用していろんな料理に勤しんでいる、あの洞穴の奥にある厨房である。狭苦しい暗がりの隧道も、何とか猫車が通る程度の道幅はあった。時々、壁に車体の脇をガリガリと擦り付けながらも、燐はたっぷりの材料を搭載した猫車を、洞穴の深奥にある扉の付近にまで持って来た。
 流石に厨房及び客室の体をなした空間へ猫車を入れることは出来なかったので、先ずは子ども達を降ろし、死した妖精に見張りをさせながら、奥へと誘った。
 客室たる部屋を見た子ども達の反応は、一様に『困惑』の一言で片付くものであった。そもそも、洞穴の奥に扉があることそのものが不可解であるのに、その先に食堂の様な設備の成された部屋があるとくれば、当然の反応と言えるであろう。彼、彼女らの敬愛する半獣の教師も、その友人も、時々寺小屋へ遊びに来る妖怪少女も、皆、ここを始めて見た時は驚いていたものだ。
 妖精の監視はそのままに子ども達をそこに待機させておいて、燐は昏倒させた三名をせっせと運び出した。全く意識が無い『物体』と化している三名を運ぶのは骨の折れる作業であったが、底無しの食い意地が燐を鞭打った。
 厨房へ続く扉を開ける。中は真っ暗で、何者かがいる気配は感じられない。
「誰かいる?」
 燐がほとんど冗談で誰何してみた。厨房内は当然と言った具合にしんと静まり返ったままであった。つまり、この厨房の主たるミスティア・ローレライは、今夜はまだここへ来ていないか、もう帰ってしまったかのどちらかであるらしかった。
 とりあえず燐は、慣れた手つきで厨房に灯りを点けた。それから、あの牢獄の様な食糧庫に何も入れられていないことを確認すると、隣室に待機させていた子ども達を厨房へと誘った。

 厨房に足を踏み入れた幼き人間の群れは、あからさまな嫌悪と不安を表に露わにした。いくら彼、彼女らが子どもであるとはいえども、厨房くらいはその短い生涯の中で一度くらいは見たことがある。また、そこで何が行われるかなど容易に察しが付く。寧ろ、察した行い以外にここで何かすることがあるかを列挙する方が困難である。
 厨房は料理をする所。そして、妖怪は人を食べるもの――二つの常識がピタリと符合して導き出される不吉で凄惨な未来。どの子も、その模範解答に行き着いてしまった様うで、すっかり青ざめてしまっている。

「さあ、ここへお入り」
 燐は牢屋の様な食材庫を指差して言う。しかし子ども達が間誤付いてしまったものだから、燐はじれったくなって無理矢理子ども達を食材庫へと押し込んだ。
 子ども達を入れ終えると、闇の妖怪ルーミアと、半獣の上白沢慧音をも詰め込んだ。暗くてよく見えないのだが、よくよく目を凝らしてみると、意外と食材庫には奥行きがあって、中に入れられた食材達には少しだけなら身動きをとる程度の余裕が用意されている。
 そういう機能のことも考え、燐は藤原妹紅だけは敢えて中に入れなかった。他人の眼の及ばぬ暗がりで、何か良からぬことを企てられては困るからである。燐はそれ程妹紅に恐れをなしている訳ではない。現に、先程の森林地帯での戦闘では難なく勝利を収められた。だが、もしも敵に回すとしたら、今一番恐ろしいのは、この藤原妹紅であると言うことは感じていた。だから、彼女だけを特別視することにしたのである。

 では、食材庫に入れない妹紅はどうやって管理していけばいいのだろう――ちょっとだけ考えたが名案は浮かばなかったので、とりあえずこれでもかと言う程の死した妖精を動員し、この蓬莱人を見張らせておいた。
 食材庫の格子状の扉に錠を掛け、専用の鍵を壁の元あった位置のフックに掛けておく。
 ようやく一段落ついたと、燐はふぅと満足げに息を漏らし、壁の際に掛けてある粗雑なパイプ椅子を広げて、それに腰掛けた。そして、ぼんやりと食材庫を眺め始めた。この粗末で無骨な食材庫が、これ程の高級食材で満ち満ちたことは一度も無い。そして、今後、二度とこんなことは無いであろうと、燐は確信している。

 しかし、燐の安息は長くは続かない。
 次いで彼女が危惧し始めたのは、ミスティア・ローレライについてである。
 こうして首尾よく食材を入手することには成功した。しかし、あの夜雀が自身の身勝手な行動を許し、この人間どもを料理してくれるのかどうか――燐にはこれがどうしても読めなかった。
 “後始末”が面倒だから人間はあまり料理したくない――とミスティアは言っていた。一人いなくなっただけで里を挙げて大騒ぎする、その結束力と心配性が、ミスティアの言う『面倒』な点である。
 一人行方不明になったらもうそのような状態に陥ってしまうのに、燐は今回、子どもについては五人、それ加えて半獣の教師まで拉致してしまった。合計六人の人間が一気に人里から消えてしまったことになる。人間は一体どれくらい騒ぎ立てるか分かったものではない。
 捕縛の瞬間のリスクは最小限に留めることはできたが、捕縛後にその効能は適用されない。六名の人間に起きた異変を知らせる者がいないことは、発見を遅らせる効果はあるものの、あくまで遅れると言うだけであるし、それ程絶大なものではない。きっとお天道様がちょっぴり世界に顔を覗かせ始める頃には、人里は火に投じられた玉蜀黍の如し騒ぎを始めることであろう。
 そんな状態でも、ミスティアは果たして自分の願いを叶えてくれるだろうか――燐は思わず緊張感漲る熱いため息を漏らした。
 今回の人間狩りは燐の独断で行ったものであり、ミスティアは一切関与していない。……妖怪の言うことを人間がどれ程信じるのかは不明瞭であるが、万が一この事態が発覚し、燐の力を持ってしても追及から逃げ切ることができず、人間の厳罰が始まった時、ミスティアは燐が今夜捕えた人間に手出ししない限り、自らの潔白を主張することが出来るのである。
 いやいや――全てが明るみに出てから潔白を主張するどころか、一切手出ししなかったほぼ無傷の人間を全員、即座に人里に返納し、その上で燐の暴走を告白することで、この一件において有利な立場を得ることも可能である。
 加えてミスティアには、人妖問わず人気の鰻屋台を経営していると言う実績と信頼がある。同じ人外なる存在を見ていると言うのに、人間達の夜雀と言う妖怪を見る目と、火車と言う妖怪を見る目は全く異なるのである。
 見知った信頼のおける妖怪の言葉ならまだ耳を傾けようと言う気になるであろうが、大罪を犯した燐の言葉など、よしんば聞いて貰えたにしても、信用されないことは明白である。


 燐がこんな具合に、ほとんど勢い任せに行った自分の行動に軽く後悔を覚えつつも、もう少しの所まで近付いた夢の人間料理について想いを馳せていると、厨房の外でパタンと扉が閉まる音がした。思わず、燐はびくりと体を震わせ、ピンと背筋を伸ばした。
「燐? いるのね? もう、扉の前にあんなでっかい猫車置かないでよ、邪魔くさい」
 次いで、ミスティア・ローレライの不満げな声が聞こえて来た。今日はやや遅めの出勤であったらしい。
 只でさえミスティアの逆鱗に触れかねないことを仕出かしてしまったと言うのに、会う前からこうも不機嫌そうにされてしまっては、燐は生きた心地がしなくなる。
「ああ。ごめんね」
 聞こえているのか聞こえていないのか分からない様なか弱い声で室外にいる夜雀に詫びを入れる。

 ややあって、厨房の扉のノブが回され、開閉の音が鳴った。いよいよ燐の緊張が高まる。ごくりと生唾を飲み込み、更に背筋を真っ直ぐにして、両手を行儀よく脚の上にちょこんと乗せたりなんかして、今まさに立ち入って来ようとしている、当厨房の主を出迎える。

 僅かに扉が開かれ、客室の暗闇が縦にか細く姿を表す。その黒色の隙間に、夜雀の姿が映る。見知った妖怪の姿であると言うのに、燐の心臓はまるでこの世のものとは思えない恐ろしいものを見たかの様にびくりと跳ね上がった。
 程無くして扉が全開されて、夜雀の全貌が、厨房の明りで薄く照らされた客室を背景にして現れた。
 ――入室直後のミスティア・ローレライの表情を見た瞬間、燐は自分の仕出かしたことを後悔せずにはいられなかった。
 ミスティアの目は燐など見ていなかった。厨房の中央に置いてある銀色の作業台、それの向こう側の壁際に空いた窪みに格子を嵌めて作った、牢屋の様な食材庫の中に犇めき合っている人間達を、目を大きく見開いて見やっているばかりなのである。まるで扉を閉める術も、その場から動く方法も忘れてしまったかのように、ミスティアはその場に呆然と立ち尽くしてしまっている。
「こんばんは」
 燐は恐る恐る挨拶をしたのだが、夜雀は返事もしなかった。

 しばらくそんな風に凍りついていたミスティアが、やっと燐の方を見た。ぎょろりと動いた夜雀の瞳に捉えられた瞬間、燐は生まれて初めて蛇に睨まれた蛙の気持ちを――猫に睨まれた鼠の気持ちを痛感した。
 なるほど、動けない――。
 普段は口達者な燐が、弁解や軽口の一つさえも発することができない。
 ミスティアはしかし、燐に何か言葉を掛けることはなく、静かに扉を閉めると、つかつかと食材庫へ歩み寄って行った。
 食材庫の中に蹲っている子ども達は、皆一同に不安げな表情を浮かべて、ミスティア・ローレライを見上げた。彼女のことを知っている子どもも中にはいる。しかし、今の夜雀にはその子ども達の知っている穏やかさや愛嬌は無い。いかにも、この陰気な洞穴の奥に隠される様に設えられた厨房の利用者らしい、恐怖に満ちた陰りばかりが、その面に散見されるのである。
 その無言の威圧感から、夜雀の顔を直視することが出来ず、さめざめと泣きながら俯いてしまう子どもまで出て来た。
「奥に誰かいるの?」
 夜雀が独り言の様に問う。緊張と絶望の極みに到達していた燐は、微かに体を震わせながら地面に目を落としていた所為で、この問いにすぐに反応できなかった。
 子どもの一人が燐よりも早く応答した。
「先生と、ルーミアちゃん」
 こう短く答えて、のろのろと座っている位置を横にずらした。周りにいた子ども達もそれに倣って、食材庫の奥に横たわっている半獣と妖怪が夜雀に見える様にと、左右の何れかにずれた。
 暗がりの中でもきちんと機能する眼を持っているミスティアには、食材庫の奥に横たわる二人の状態がよく見えた。
 次いでミスティアは、食材庫の前に立ったまま左に目をやる。食材庫のある辺の壁の左端に置かれている棚と、その辺とほとんど直角に伸びる壁際に置かれているロッカーとの隙間にある狭い空間に、見知った白い髪の女性――藤原妹紅が、壁に凭れてぐったりとしているのを確認した。周りには死した妖精が揺曳している。

 厨房で起きている種々の変異を粗方見終えた所で、ミスティアは深いため息を付き、ぽりぽりと頭を掻いた。表情は暗い。不機嫌さが隠し切れていない。
 燐はやはり何も弁明出来ずにいたのだが、
「燐」
 ミスティアが捕えてある妹紅の方を向いたまま名を呼んできたので、
「何?」
 おずおずと応対した。
「この人間達は、あなたが捕まえたものね?」
 こう言った所で、ようやくミスティアが燐の方を向き直した。冷然たる光を多分に湛えた瞳に射竦められた燐は、まるで空間に縫い付けられたかの様に動けなくなってしまう。
「うん。そうだよ」
 隠しても仕方が無いから、燐は素直に己が愚行を認めた。
「どうしてこんなことを?」
 言下にミスティアが問う。
「食べたかったからに決まってるだろ。それ以外に何に使うんだよ、人間なんて。曲芸でも仕込んでサーカスでも開くのかい?」
 燐なりにユーモアを利かせた返答をして、この息が詰まる様な圧迫感を緩めようとしたのだが、今の夜雀には全く効果が無く、くすりと笑うことさえしてもらえなかった。生半な冗談は余計に場の空気を重くする結果となり、燐はそれ以上言葉を紡げず、閉口してしまう。

 怒りも呆れも通り越した――そんな倦怠感を醸し出しながら、ミスティアはのろのろと歩き出し、銀の作業台の近くに置いてある椅子に腰かけた。それからタンタンと指先で作業台を叩きながら、燐の弁明を待ち始めた。
 燐はしばらく考えていたが、結局気の利いた言い訳は浮かんで来ず、自棄を起こして自らの腹蔵の無い所を夜雀に語って聞かせた。
「前から人間が料理が食べたいって言ってただろ?」
 物騒な切り出しである。牢獄の中の子ども達が一斉に身を引いた。
「うん。言ってたね」
「だからだよ。あたいは人間料理が食べたいんだよ。あんたの作った人間料理がね」
「私が作った?」
 ミスティアの素っ頓狂な声。――演技の色が強い。
「何で私がそんなもん作らなきゃいけないのよ。恐ろしい」
 夜雀のこの返答に、火車は思わず目を剥いた。
「そんなもん? 恐ろしい……って?」
「人間を鳥やら何やらと一緒くたにして調理なんて、私に何をさせるつもりだったのよ」
「何言ってんだよミスティア。あんた、今まで散々……」
「変なこと言わないで頂戴」
 夜雀がピシャリと火車の言葉を遮った。
 人間がいる手前、ミスティアは自分の過ちを暴露したくないらしい。まだミスティアは“逃げ切る”つもりでいるのだ。今回のこの騒動と自分は一切無関係であると押し通す気でいる。自分に人間を料理する意思は皆無であるし、それに準じたことを行ったことも無い――と言うことを、彼女は主張しようとしている。
「私はそんな訳の分からない料理はしないよ」
「ふ、ふざけないで、ミスティアッ!」
 堪らず燐が怒声を上げる。料理してくれない可能性については考えてもみたが、ここまで無関係を装われてしまうと、向かっ腹も立ってしまう。
 しかし、ミスティアはうるさそうに耳を抑えるばかりで、とり合おうともしない。また一つため息を付くと、席を立った。
「あーあ。本当にもう、最悪だよ」
 こんなことを言いながら、ミスティアは厨房を出るべく、扉へ向かって歩いて行く。燐も席を立ち、夜雀を追う。

 客室たる部屋で、燐がミスティアの手首をひしと握った。
「待てったら! ねえッ!」
 手首を掴まれたミスティアがぎろりと燐を睨む。元々、この夜雀に並みの妖怪らしからぬ威圧感や凄みを覚えていた燐であったが、この日のそれらは一入であった。夜雀と殺し合って遅れをとるとは思ってはいないが、あの蓬莱人以上の損傷を受けるであろうことは、戦う以前からそれとなく察しがついた。
「待って」
 その威圧感が燐の饒舌を凍結させ、威勢を奪ってしまう。
 一体何と言葉を掛ければいいものかとしどろもどろしている燐の手を、ミスティアが振り払った。
「……人間は面倒だから慎重にって、前に言ったじゃない」
 ミスティアが声を小さくして言う。燐はハッとミスティアを見た。人間のいない場でなら、どうやら今の心境を包み隠さず語ってくれるらしかった。
「ご、ごめん」
 先ず燐は素直に謝った。無論、声は出来る限り潜めている。
「ちょっと軽率だったってことは、後になって気付いたんだけど」
「やる前から気付くべきだったわね」
「だけど、その……人間を捕まえられる、おあつらえ向きの環境ってのが用意されたとなると、これを逃す手は無いなって気分になっちゃって」
「どうやって捕まえたの?」
「森の中に、丸く樹を切り倒した、ちょっと開けた場所があるんだよ。そこで、寺子屋を上げて星を見ようって勉強会を催してたんだよ」
「天体観測?」
「そう。そんな感じ。森の中だから空の全貌は見えないから、正確にはそうとは言えないと思うけれど。それで、その場所が人里からは離れているんだ。森の中だから目撃者も少なくもなる。おまけに子どもがいっぱい手に入るときたもんだから、絶好の機会だと確信した。実際その通りだったし」
 ミスティアは腕を組みながら燐の話を聞き、目を瞑って俯いている。場面を想像しているようである。
「誰にも見られてない?」
「無い。辺りはちゃんと妖精達に見張りをさせたもの」
 燐の言う『妖精達』とは、かの死した妖精のことを指す。
「と言うことは、事の次第と、この場所を知るのは捕えた人間達だけってことになるのね」
「そうだね」
「ま、不幸中の幸いって所かしらね」
 そう言い、ミスティアはまたも深いため息を付いた。
 二人の会話が途切れる。この無言の間がどうしようもなく不快に感じられる燐は、夜雀を説得する意も兼ねて言葉を紡ぐ。
「はっきり言って、これ以上安全に人間の子どもを捕まえる方法なんて無いと思う。ううん、間違い無い。それくらいあたいは注意をしていたんだもの。ミスティア、これは紛れも無く好機なんだよ」
「好機ねえ」
「だってそうだろ? これ以外にはどうやったって穏便に人間をひっ捕らえることなんて出来やしないよ。足が付くことだって無い。誰がこんな洞穴の奥を怪しむって言うのさ。さっきもあんたが言ってたけど、この場所とこの事を知ってるのは、あの人間どもとあたい達だけなんだ。みんな食っちゃえば口封じにもなるし、料理もできる」
「蓬莱人は死なないけど?」
「あいつはあたいが責任もって処分するよ! 約束する」
 燐の必死さには、人間料理と言う夢を叶える意味の他に、ミスティアの激憤から逃れると言う意味までも含まれている。もはや、以前行った白々しい演技を交えたプレゼンテーションなど児戯に見えてくる――そんな迫真さが、今の燐の口ぶりにはある。
「どんなに私がすっ呆けても、あいつらも馬鹿じゃないしねぇ……。もう生かして里に帰す訳にはいかないかなあ」
 希望を包含したミスティアの言葉。燐の表情が晴れ渡る。
「少し考えさせて」
 ミスティアはこう結論付けた。


*


 燐に意思を告げると、ミスティアはすぐに洞穴の厨房を出て、自宅へ戻った。何名もの望まない現物人がいる中では、至極真っ当な料理をすることも憚れた。
 森の深みにある自宅へ帰ってみても、燐の持ち込んだ諸問題が気に掛かってしまい、何をやろうと言う気にもなれなかったので、適当な夕食を胃に詰めて、さっさと眠るべく床に就いたのだが、眠りに落ちるまでには時間を要した。

 翌日、目が覚めたのは昼前のことであった。元々遅起きなので、特に後悔や反省の念は芽生えなかった。
 昨晩にも引けを取らぬ程粗末なブランチを終えると、ミスティアは買い物袋を携えて、人里へ向かって飛び立った。鰻屋台の為の買い出しに行く必要もあったのだが、燐が仕出かしたあの所業が、人間達の社会に如何なる影響を及ぼしているかを確認する意図もある。
 ミスティアは妖怪であるが、鰻屋台経営のお陰で人間達には一目置かれており、信頼もそれなりに得ている。見知った者からはすれ違いざまに挨拶をされるくらいの存在である。何か、妖怪に懐疑的になっているのであれば、その対応はあからさまに変化するであろうから、人間達の現状を測ることは容易である。
 ミスティアはなるべく心を掻き乱しているあの食材庫の問題を考えない様にと自分に言い聞かせ、人里へ足を踏み入れた。努めて無関心、無関係を装うのも、やはり自然では無い。真に無関係であることを周囲に知らしめるには、何も演じないことが一番なのだから。

 人里へ入って数分歩いた、ただそれだけのことで、何だか里が騒めき、浮足立っているような雰囲気が感じられた。意識せずとも、ミスティアまで何だか不安になってくる。ちらちらと辺りを見回しながら、行き付けの食料品店へ向かう。
 食料品店の店主は、髪の毛を短く刈り込み、浅黒く日焼けしているいかつい男である。見た目に反して根は優しく、妖怪であるミスティアにも人間と何ら変わらない接客をしてくれたので、屋台経営を始めてすぐのミスティアは何度この男に助けられたか分からない。
「やあ、夜雀。こんにちは」
 ミスティアが来店すると、男はいつも通り挨拶をしてきた。
「ええ。こんにちは」
 ミスティアも穏やかに微笑んで挨拶を返す。
 それから男は、今日の品物の品質やら、一品一品に纏わるエピソードなんかをあれやこれやと語り始めた。
 一通りその話が終わった所で、覚えている範囲で語られた話を参考にして買い物をしながら、ミスティアはこの男に、人里の落ち着かない雰囲気の正体を問うた。
「何だか里全体がそわそわしている気がするんですけど、何かあったんですか?」
 言下に男は眉を潜めた。
「そうなんだよ。よく気付けたねぇ。やっぱり何かこう、人間に無い感覚みたいなものが働くのか?」
「まあ、少しくらい」
 適当な返答である。しかし男はそうとは知らないで、事の次第を語った。
「昨日の夜、人里の寺子屋の先生と、そこの生徒の子ども五人が、星を見に行って出掛けたらしいんだが、まだ帰って来て無いんだよ」
 男は既婚者で子どももおり、しかも寺子屋へ通っているが、昨日の天体観測へは付いて行っていない。どうしても外せない用事があったのである。――男はこのこともミスティアに語って聞かせた。
「こう言うのもなんだけど、行かせなくてよかったと思っているよ」
 男はこの何とも複雑な心境を、困ったような苦笑いで表した。
 言下に二人は、品物と代金を交換し終えた。その直後に、ミスティアが更に問いを重ねる。
「里の人達で探しているんですね?」
「勿論。手の空いてる者は総動員しているよ。だけど、どこの辺りで星なんて見ているのかが分からなくてね。捜索は難航してるみたいだ」
「それは大変ですね」
 ミスティアが神妙な口吻でこう言った後、うちの女房もそっちに出払ってるんだよ――と、男は付け加えた。
「しかし、慧音さん、いくら完全な人間でないとは言っても、この世界で夜に出歩くなんて、やっぱり無茶だったんじゃないかなあ」
「子ども達に星を見せてあげたかったのでしょう」
「そうだけど、慧音さんにだって完全な人間だった時期があったんだからさ。妖怪の恐ろしさは身に染みて分かってるだろうに、わざわざ出掛ける様なことがあるかなとも思うんだ」
 ミスティアはぼんやりと今後のことを考えていたのだが、ふと男が言った言葉が気に掛かり、顔を上げた。
「完全な人間だった時期、とは?」
 男は驚いた様に目を丸くした。
「あれ、知らない? 慧音さんは後天性の妖怪なんだよ」
「こうてんせい?」
 ミスティアは小首を傾げる。
「そう。生まれた時は人間だったのが、生きている内に妖怪になってしまったらしい。何を切っ掛けにそうなったのかまでは、俺は知らないけどね」
 ミスティアの知らない情報であった。
 不思議なこともあるものなんですね――この言葉を最後にして、ミスティアはこの店を後にした。

 その後もミスティアは、必要なものを買い揃える為に人里の様々な店を回り、その都度人里を震撼させている六名の里人失踪事件についての情報を収集したが、大体は一番初めに話を聞いた男が言ったことと同じ様な内容であった。行方不明になっている子どもの親類や知り合いに出会うことが無かったことは幸いであったと言える。妖怪蔓延る幻想郷の夜に姿を暗ましたと来れば、助かる見込みなどほとんど無いと言っていい。ミスティアは出会わなかったが、親族などの憔悴ぶりはかなりのものなのである。まだ行方を暗まして一日も経過していないとは到底思えぬ程の消耗具合は、見る者の心に手痛い苦痛を与えて来る。
 それを目の当たりにしたからと言って、今までの行いを悔いるなどと言うことは絶対に無いだろうと夜雀自身は思っているが、しかし彼女だってカラクリでは無く、血と涙と心を持った知的生命体である。かすかな躊躇や後ろめたさくらいは感じても不思議ではない。

 買い物も情報収集も終えて自宅へ帰る道で、夜雀は改めて燐の行ったことの重大さを噛み締めた。
 家に帰ると、買った物の整理もしないで、無造作に買い物袋をテーブルに放り、愛用のロッキングチェアに凭れ掛って、思案ともとれぬ思案を始めた。


 ミスティア・ローレライが以上の様な悩ましい一日を過ごしている間、火焔猫燐は洞穴の深奥にある厨房で、捕えた食材達を監視していた。
 しかし、まさかずっと起きて八人を睨み続けている訳にはいかない。眠っている間の監視は死した妖精達に任せて、固いパイプ椅子に座り、冷たい銀色の作業台に突っ伏して眠り、夜を過ごした。燐は自在に死した妖精達を召喚できる。彼奴等は命令が無くては動けない傀儡の様な存在である。自分で考えることなどは一切しない。逆に言えば、命令さえすれば止めろと言うまでその命令に従い続けると言うことになる。食材庫を見守る群、藤原妹紅を見守る群、誰かが暴れたりしたらすぐに燐を起こす群――この三つの小隊を用意しておけば、一夜をやり過ごすことくらい容易であった。

 燐が目覚めたのは明け方近くであった。正確には、彼女は死した妖精に揺り起こされたのである。妖精が矮躯を肩へぶつけるようにして燐を揺らす。その衝撃で燐はすぐに目を覚まし、
「何だよ、もう」
 と不機嫌そうに寝惚け眼を擦っていたのだが、すぐに自分が『何かあったら私を起こせ』と死した妖精に命じていたことを思い出し、一気に覚醒し、辺りを見やった。

 先ず目が行ったのは、今一番厄介な存在である藤原妹紅であった。彼女の手首と足首には頑丈な鎖がぐるぐると巻き付けられていて、動きの自由を奪ってある。
 この束縛作業の最中に、一度妹紅は目を覚ました。そして、ありったけの殺意と憎悪を秘めた睥睨を燐にくれてきたのだが、それ以上のことはしなかった。寺子屋の子ども達がいるこの場所では、思うように炎を使って暴れ回ることが出来ない様であった。
 何とか脱する隙を窺っていた妹紅であったが、結局人間の三大欲求たる睡眠欲に打ち勝つことは出来ず、眠りに落ちてしまった。両手と両足を鎖で縛られ、湿った地面に座り、ごつごつした岩肌に凭れて眠るのはさぞや不快だろうなあ――などと、眠る妹紅を見て燐は思ったものである。
 その妹紅は、まだ眠っていた。昨晩の死闘による疲労が意外と尾を引いているのである。死なぬ、朽ちぬといえども所詮は人間か――燐は心中でほくそ笑んだ。

 次いで壁のくぼみに作られた牢獄の様相を呈した食材庫に目をやる。死した妖精が異変と捉えた小変化の在り処はここであった。
 牢屋の様な食材庫から、何か、ガリガリと音が聞こえてきている。燐が闇へ目を凝らして見てみると、薄ぼんやりと、金色の髪が闇の中で蠢いているのが分かった。ルーミアである。闇の妖怪が、懸命に格子たる鉄棒を引っ掻いているのである。どうやら食材庫から逃げようと画策しているらしかった。闇の妖怪であるが故に、闇の中にいることには慣れており、眠りこけている燐の姿を見て、逃走を企てたのであろう。周囲で食材達を見張っている、死した妖精達には気が回らなかったと見える。
 燐はふぅ、と、睡眠を阻害されたことによる倦怠と、食材達に生じた異常事態の規模の小ささを確認できたことによる安堵の二つの念が綯い交ぜになったため息を漏らした。そして椅子を降り、壁に掛けてあるランタンを手に取り、食材庫に歩み寄った。

 どうにかして鉄格子を破ろうと必死になっていたルーミアは、燐が目を覚ましたことに気付いていなかったらしく、ランタンを取ろうと歩み出した燐の足音を聞くと、びくりと体を強張らせ、慌てて人間の子ども達の密集地帯へと紛れ込んで行き、狸寝入りを始めた。しかし燐にはお見通しであった。
「おーい。バレバレだよ」
 警告の意を込めてルーミアに囁き掛けたが、ルーミアはきゅっと目を瞑ったまま動くことはしなかった。
 燐は明度控え目のランタンを食材庫の中に掲げたまま、努めて眠った振りをしている闇の妖怪をじっと眺めた。
 口封じの意も込めて一応人間共々ひっ捕らえてしまったが、こいつも他の人間と同じように美味いんだろうか――燐は彼女のことを一食材としてしか見ていない。

 食材のことについて思慮を巡らせたことに関連し、改めて燐は、ミスティアの今後の動向が気に掛かった。
 夜雀は、考える時間を頂戴と言い残して去って行った。これまで燐は様々なミスティアの思わせぶりな言動をすっかり鵜呑みにし、糠喜びを何度か味わわされてきたものだから、今回は愚直にミスティアの言葉を受け止めたり、自分にとって都合のいい解釈をしたりすることはしなかった。
 ミスティアはまだ、このことの発覚による影響を恐れている。だから、絶対にこいつらを料理するとは限らない――今の燐はそのくらいの疑心を抱いて、夜雀の出方を窺っている。
 そこで何よりも問題視されるのが、ミスティアの裏切りである。……裏切りと言っても、ミスティアの抱く憂慮に背いて、勝手に人間を捕えたのは燐であるから、自業自得だと言われても仕方が無いのであるが。
 燐の身勝手な行動と、自分は何ら関与していない――この考えを貫き通されてしまうのが、燐にとっては最悪の展開である。こうなってしまうと、苦心して入手した人間を食うことが出来なくなる上に、前にも述べた通り、今回の件におけるありとあらゆる罪を、燐一人が被ることになってしまう。人里の人間六名を、料理して食う為に捕まえた――情状酌量の余地など、燐本人がどれだけ考えてみても全く見当たらない。
 故に燐は、ミスティアの裏切りを頭の片隅にでもいいから留めておく必要がある。もしもミスティアが、やはり今回は人間料理はやらない、この人間達は全員人里に返すなどと言い出したら、どうするかを考えておかなくてはいけない。
 場合によっては、夜雀を殺さなくてはいけない可能性さえあると、燐は考えている。恐らく、殺すことはそう困難なことでは無いと燐は思っているが、彼女にとって夜雀は、そんなにパッと殺してしまうにはあまりにも惜しい妖怪であった。最高峰の料理人を失ってしまうことは勿論であるが、結局燐は料理のことを省いてもミスティアのことがなかなか気に入っているのである。
 しかし、命あっての物種とも言う。やはり、自分が生きていなくては、ありとあらゆる事物が無意味になってしまう。

 今の燐にはあまりにも敵が多い。
 先ず、左手側の奥の壁に凭れて眠っている藤原妹紅。
 それから、目の前の食材庫の中で眠る妖怪と半獣と子ども達。その子ども達にはきっと全員親がおり、その親達は気が気で無い思いをしながら我が子を探していることであろう。かわいい我が子を食おうとした妖怪に掛ける情けなど持ち合わせている筈も無い。
 そして、逆鱗に触れてしまったまま別れてしまった夜雀は、敵とは言わないが、完全な味方とは言い難い存在となっている。
 思わずため息を漏らした。今度のやつは、先程のような倦怠と安堵が混ざったものでは無く、吐いたため息が鉛の塊となって、ごとんと足元に落ちてくるかの様な、そんな重苦しいため息である。
 一人でこれ程の大人数に警戒をしておかねばならないこと。それが燐の気を重くしている最大の要因である。どこかに人間料理に執心してくれる同志はいないものかと、燐は小広い厨房の中で、待ち合わせでもしているみたいにきょろきょろと周囲を見回す仕草などしてみた。

 ――その時である。ふと燐は、自分に最も近い妖怪が目の前の食材庫に留置されていることに気付いた。
 もしかしたらこいつは使えるんじゃないか――そう思った燐は、格子の隙間から手を伸ばし、狸寝入りしているルーミアの足を、人差し指でとんとんと叩いた。
 先程まで後ろ暗い行為に勤しんでいたルーミアは、燐に突かれて生きた心地がしなかったのであろう、ぴくりと体を震わせたが、目を開けることはしなかった。しかし緊張で体は強張っていて、もはやどう贔屓目に見ても、眠っているようには見えない。
「おい、妖怪、妖怪。ルーミア、だっけ? ちょっと起きなよ」
 他者を起こしてはならぬと、燐は努めて声を潜めている。
「別に食ったり打ったりしようって訳じゃないんだ。話があるんだよ。あんただけにね」
 ややあって、ルーミアがゆっくりと目を開けた。その瞳には懐疑と恐怖と色が濃く表れている。話しかけて来ている相手は、自分の腹や顔を蹴ってきた妖怪なのだから、普通に接する気が起きないのは致し方あるまい。

 ルーミアは恐る恐る、格子型の扉に這い寄った。鉄製の隔たりを一つ挟んで、妖怪二人の密談が開始された。
「あんたも寺子屋の子なんだって?」
「一応」
 ルーミアも燐に倣って、声を潜めている。何となく、周囲に聞かれてはいけない話であると言うことを察している様子である。
「どうして寺子屋へ? いい子ぶっておいて、隙あらば子どもの一人や二人をガブリ……って腹かい?」
「そんなこと無いよ」
 大声が出せないのがもどかしそうに、ルーミアが言う。だが、そのややむきになった様子こそ、この金髪の少女もれっきとした妖怪であり、人を食うことへの欲求を捨て切れていないことの何よりの証拠となっている。心の中に潜んでいる、卑しく醜い暗黒の部分を燐に言い当てられるのが悔しく感じられるのである。
 目敏い火車の少女は、それを的確に見抜いている。
「別に否定することは無いよ。あたいらは妖怪なんだから。人を食いたくなるのは本能と言っても差し支え無い。遺伝子に刻まれてるよ、きっと」
「……それがどうかしたの?」
 ルーミアが話を進める。
 あんまり長々と話をしてる場合じゃなかった――と、燐は自戒し、ルーミアの問いに答えるべく、自身の考えを口にする。
「実を言うと、あんた達は食材なんだよ」
「分かってるよ、そんなこと」
 ルーミアの眼球がきょろきょろと動いて厨房を見回した。
「いつになるか知らないけど、あんた達は食われるかもしれない。だけど、食われないかもしれない」
「食われないって、どういうこと?」
「料理をするのはミスティアなんだけど、あの子、あんまり乗り気じゃ無いんだよ。人を食ったことがばれるのが嫌だって」
「こんな所、ばれるの?」
「さあね。でも、万が一ってことを恐れてるみたい。人間は妖怪イコール暗い所って先入観を持ってるだろうから、森でいなくなったと知れば、森の近くの洞穴なんて隈無く調べて行くだろうから、はっきり言ってこの厨房が絶対ばれないなんて保証は無い」
「どうしてそんなことまで考えておいて私達を捕まえたのよ」
「どこでどんな風に捕まえたって、人間を食べるのはリスキーなの。今回は一番リスクが少ないって判断したんだよ、あたいは」
 ここまで言って、ああまた話が逸れそうだ――と、二度目の自戒をした後、燐が再び開口する。
「それで、だ。あたいは今ものすごい危機に瀕しているんだよ。当然のことだけど、あんた達には恨まれているだろうし、そうなれば人里にも恨まれてくるだろうね。そんで、さっき言った通り、夜雀にも大なり小なり恨まれてる」
「自業自得よ」
 ルーミアはにべもなく言い放つ。
「そうだね。自業自得だ。否定出来ない。否定は出来ないけど、それをすんなり受け入れたくは無いんだ。……こうも四方八方から恨まれてるとね、生きた心地がしないんだよ。だから今、あたいは猛烈に味方が欲しいのさ」
 ルーミアが目を細める。
「私に味方になれ……と?」
「そういうこと」
「馬鹿じゃないの? 冗談じゃないわ」
 ルーミアは鼻で笑って言い放つ。
「どうしてこんな酷いことをするあなたの味方にならなくちゃいけないのよ」
 しかし燐は気を悪くした様子も無く、こう付け加える。
「無償でとは言わないよ。先ず、あんたを料理することは絶対にあたいが止めてあげる。あたいと結託してくれたら、あんたは生き延びることができる。してくれないなら、全てはミスティアの裁量に掛かって来るけど――まあ死ぬだろうね。すごく悪い形でこの場所のことを知っちゃったんだから」
 ルーミアの瞳に動揺が奔った。
「それから、もしもミスティアが人間料理を行わなかった場合――あたいはあの夜雀を殺すかもしれないってとこまで考えてる。きっと料理しないと決めたら、あいつは人間達をすっかり人里に返して、今回の件で無関係を主張するだろうからね。現にあいつは、あんた達に何の危害も加えちゃいない。……その殺害ってやつの伏兵を、あんたにしておきたいのさ」
 そう言って燐は、傍にある刃物が陳列してある棚から、最も小ぶりな刃物を手に取り、ルーミアに手渡した。ルーミアは恐る恐る、その刃物を受け取る。
「それを持っていることは誰にも知られちゃいけないよ。ミスティアが料理をしないことを確信したら、あたいはどこかのタイミングでこの牢を解放する。あんたは死に物狂いで、夜雀にこれを突き刺しておくれ」
「意外と行き当たりばったりなのね」
 ルーミアは動揺をひた隠しにしようとするうおうに、声を震わせて言う。燐はふっと静かに吹き出した。
「他人の心を相手取ってるんだ。計画性なんていくらあっても無駄なんだよ」
 こう言った後、燐は一息置いて、
「もしも首尾よく夜雀から逃れることが出来たら……」
「出来たら……?」
「こいつらを二人で山分けしよう」
 こいつら――と言って燐が指差したのは、ルーミアの後ろで眠る人間達である。
「どっちにしたってあたいは、こいつらを生かしておけない身なんだ。拉致したことが露呈するだろうからね。料理されないんだったら、あたいは確実にこいつらを殺さなくちゃいけない。あんたがうまく手伝ってくれたら、こいつらを二人で分け合って、食べよう。ね?」
 燐が首を傾げる。ルーミアは、手に持った刃物と、燐と、後ろで眠っている人間の群れを順繰りに見やり、瞳孔をぐっと開き、こくこくと壊れた人形の様に頷いて見せた。燐はにんまりと微笑んだ。
「約束だよ」
「ああ。約束だ」
 かくして、二人の密約が、人知れず交わされたのであった。


*


 劣悪な環境と気の抜けぬ環境に置かれながらも、泥沼に沈み込んで身動きが取れない様な深い眠りに落ちていた自分を、藤原妹紅は恨めしく思った。不老不死となり長らく生きてみても、なかなかこう言った生理現象には抗い難いものなのである。
 目覚めた部屋の中は一切の明りが無く、真っ暗であった。目が闇に慣れないものだから、何処を見ても黒一色で、自分が昨日不本意ながら眠りに落ちてしまった部屋から移動させられたのか、そうで無いかの判断も出来ない。
 部屋が変わっていないのなら、慧音が近くにいる筈だ――妹紅はそう思い至り、
「慧音、いるか?」
 闇の中へこう問うてみた。
 直後、すすと、いずこからか衣擦れの音がした。
「慧音か?」
 妹紅がもう一度問うたが、返ってきた声は彼女の求めた半獣のものでは無かった。
「妹紅さん?」
 それは子どもの声であった。男児である。
 慧音の声は聞けなかったものの、とりあえず子どもが無事であることが分かり、妹紅は安堵した。
「大丈夫? 怪我は無い?」
 返事をした男児へ妹紅が語り掛ける。
「うん、何とも無い」
 不安げではあるが、しっかりとした声。
 しかし、妹紅が安心したのもの束の間、
「僕達は大丈夫なんだけど、先生が」
 不安を包含した声を一層怯えたように震わせて、男児がこんな言葉を付け加えた。
 妹紅は両手足が束縛されて身動きがとれないことも忘れて身を乗り出そうとし、その場に倒れてしまった。子ども達も妹紅がどのような状態かは見えないらしく、転倒に際して響いたバタンと言う音にいくらか不安を覚えた様で、
「大丈夫?」
 等と言って妹紅を気遣っている。
 しかし妹紅はそんな気遣いは後回しにした。
「慧音がどうかしたのか?」
 親友の身を案じたこともあるが、それ以前に、今の妹紅達にとって、上白沢慧音はこの場を脱するのに不可欠と言っていい人材なのである。彼女が動けないとなると、増々ここを逃げ出すのが困難になってしまうと懸念した。
 妹紅の怒号に近い声色の問いに答えたのは、別の女の子であった。
「ずっと目を覚まさないの。あの、星を見てた場所で気を失ってから、ずっと」
「生きては、いるんだよな?」
 焦燥感溢れる妹紅の声。追い立てられる様に、子どもの中の一人が、慧音の左胸にさっと手を当てた。
「心臓は動いてます」
 素早い返答。
「息もしてます」
 言下に他の子がこう付け加えた。死んでいる訳ではないことが分かり、妹紅はひとまず胸を撫で下ろした。
「頭に怪我を負ってるみたいで……血が出てるんです」
 また別の子どもが泣きそうな声で言う。
 洞穴の深奥にあるこの厨房からでは、外の様子を見ることは叶わない。また、時計の類も無い――あってもこの暗さでは確認することが出来ない――ので、時間が全然分からなかった。
 しかし、早朝であろうが、真昼であろうが、ここに拉致されて結構な時間が経過していることは、腹の隙具合とか、そういうことで何となく分かる。慧音は純粋な人間では無いから、ちょっとやそっとでは死ぬことは無いであろうが、それでもあまり長く血を流し続けることが、体に何ら影響を及ぼさない等と言うことはあり得ない。
「血を止められそうなものは無いのか?」
 妹紅に問われ、子ども達はガサゴソと有用そうなものは無いものかと探索してみたものの、こんな暗所では満足な探索は行えなかった上に、所詮は牢獄染みた食材庫、手の届く範囲にあるものなど、他者の体や土や石ころ、それから冷たく立ちはだかる鉄格子くらいのものであった。
 収穫無しという旨の言葉を伝えられ、妹紅もこんな不自由な身ながら、何か探してみようかと動き出そうとした瞬間、闇の中の遠い場所で、ガチャリと音が鳴った。
 さっと、厨房内に緊張が奔る。泣きそうになるのを堪えている子もいる様で、耳を欹ててみると、張り詰めた静寂の中にやや荒れた息遣いが聞こえてくる。
 厨房に入ってきたのは火焔猫燐であった。調子外れの鼻歌など奏でながら、壁に掛けてあるカンテラに火を灯した。ぼうっと闇の中に浮かび上がる火車の少女の顔は、麗しくもどこか残酷で、それでいて人間達からすれば憎らしくもあった。
「御機嫌よう、みんな。おとなしくお留守番できたかな?」
 飄然たる調子でこんなことを言いながら、死した妖精を一杯連れ立って、燐はカンテラ片手に厨房内を徘徊し、食材たる人間の様子をじっくりと見て回る。
 初めに行ったのは藤原妹紅の元である。しっかりと手足が鎖で縛られているのを確認する。燐にとって、今最も警戒すべき人物は、相変わらずこの藤原妹紅なのである。
「どうもね、お姉さん。良からぬことを企てちゃいないだろうね」
 燐が問うが、妹紅はメッと火車の少女を睨み付けるばかりで、返事はしなかった。
 おお怖い――と、全然怖く無さそうに燐が言い、からからと笑った後、
「あたいがどんなに憎くても、感情的になって焼き殺そうとか、そういうことは考えない方がいいと思うよ。こんなに狭くて暗い場所だもの。不用心に炎なんて起こしちまうと、あんたの大好きな半獣も、その生徒のもタダじゃすまない。まあ、子ども達の丸焼きなり燻製なりが作りたいってなら、話は別だけどさ。あっ、あたいはそっちでもいいよ?」
 こんなことを言って、またけらけらと笑った後、死した妖精数体を更に妹紅の監視に宛がわせ、去って行った。

 次に牢獄の様な食材庫の前に立つ。
 子ども達は燐に恐れをなしている様子で、皆固まって、燐をじっと見つめている。その子どもの群の先頭には、ルーミアがいる。彼女は自ずとこの場所を選んだのか、それとも何かしらの意図でここへ追いやられたのか、燐には判然としなかった。集団意識が、知らぬ間に妖怪の子どもであるルーミアを排斥し、最も危険なこの位置に追いやったのではないか……こんな天邪鬼な考えが浮かんだ。
 裏切りや、醜い生存競争なんかが起きてくれるのではないか――等と言う、余興の可能性を夢想した燐は、思わずにんまりと意味深長な笑みを浮かべてしまった。子ども達はぞっとして、余計に寄り添い合って、この恐怖に耐えようとしている。
 食材庫の鉄格子の扉がきちんと閉まっていると言うことを念入りに確認した後、燐は密かに、ルーミアへと意味深長なアイコンタクトなんて飛ばしたりしてみたのだが、当の闇の妖怪はそれに全く気付いていない様子であった。
 闇の妖怪との連携性の脆弱さなど物ともせず、燐は食糧庫から離れて行った。

 カンテラを厨房の真ん中に配置された銀色の作業台の上に置くと、さて――と音頭を取り、腰に手をやって厨房内をぐるりと見回すと、いつの間にか作業台に置いていた布製の袋を開いた。中から出て来たのは、どこから調達したか、米がいっぱいに詰め込まれている。
 燐は鼻歌交じりに、勝手知ったる厨房の調理器具を使って、その米を炊き始めた。食材庫の中の子ども達は、遂に料理されて食われてしまう時が訪れたのかと、絶望感に苛まれながら、楽しげに料理をしている火車を眺める。
 暫くして、米が炊き上がった。燐はそれで、せっせと握り飯など作り始めた。
 完成したそれを皿に載せると、とことこと小走りに食材庫に近づいて行き、皿ごとそれを差し出す。子ども達は燐の行動の意図が全く理解出来ていないらしく、ぽかんと燐を見上げている。もどかしくなった燐は、
「ご飯だよ、ご飯。ちょっと遅めの朝と、お昼ご飯兼ねた……あれだ、ブランチってやつだよ」
 こう説明を加えた。
 餓死した者の肉を食らうと言った様な、下賤な獣みたいな真似はしたくないと言う、ミスティアの美徳を知っている燐の独断による行動である。燐としても、どうせ食べるなら健康的な人間がいいと言う気持ちがあったので、わざわざこんな手間暇を掛けたのである。
 制作の過程は全て見えていたものの、流石に差し出されて躊躇なく食うことは出来ない様で、子ども達は、疑心と空腹に板挟みになりながらその握り飯を見つめていたが、しばらくしてようやく、一人の子どもが恐る恐る、燐お手製のおにぎりを手に取った。
 暗がりの中で、カンテラの頼り無げな灯りが闇に浮かび上がらせる銀色の米の塊を、尚も用心深く眺めていたが、意を決した様に、三角形の一角に齧り付いた。周囲にいた子ども達がぐっと息を呑む。
「お味は如何?」
 ややあって燐が問う。
「美味しい」
 しばらくの咀嚼の末に出た一言――これが子ども達をすっかり安心させてしまったらしく、子ども達はわっと更に群がって、握り飯を掻っ攫って行った。
 どうせ後々食い殺す予定である存在であっても、手製の料理を喜んで貰えるのは嬉しいことであり、燐の顔には喜びの色が満ち満ちる。
 その最中、刺々しい視線を感じた燐は、ふと左を見やった。藤原妹紅である。彼女も空腹なのであるが、別に握り飯を求めて燐を睨め付けている訳ではない。これから食おうとしている子ども達に食事を与えている光景が、まるで家畜に餌を与えるかの様な光景に映り、それが堪らなく気に入らないのである。
「ああ、ごめんね。お姉さんのは無いんだよ」
 妹紅の心中などお見通しである燐は、白々しく、それでいて的外れな謝辞を述べた。
「敵に塩を盛る訳にゃいかないからね」
 憎悪の睥睨など見つめ返していても嬉しいことなど何一つ無いので、燐はすぐに食材庫へ視線を戻した。
 中では子ども達が、今尚目を覚まさない慧音に群がっている。
「先生、ご飯だよ」
 どうやら目覚めない恩師の身を案じ、どうにか食事をさせようとしているらしいのである。しかし、どれだけ子ども達が体を揺すっても、小さく割った握り飯を口元に近づけても、慧音は一向に目覚める気配が無い。
 しばらくして子ども達は、慧音を目覚めさせることを一度諦めたらしく、また元いた位置へと戻って行った。握り飯は、相談の末に、小さく分け合って子ども達で食べることとなった。いつ目覚めるか分からない、冷めてしまったら美味しく無い、置いておく場所がない、傷むかもしれない――いろんな理由が連ねられたが、結局の所、皆腹が減っていたと言うのが事実である。


 細やかな至福の時を終え、また退屈で窮屈で陰鬱な時が始まった。握り飯を食っていた時は夢中になっていて気にする余裕が無かったらしいのだが、冷静になって、いずれ食われる身である自分達に、どうしてこの妖怪は食事を与えているのだろうと言う疑問に対面し、子ども達は改めて、自分達の置かれた状況の恐ろしさと言うものを痛感しているようである。
 緊張の連続から来る疲れでうとうとし始める者、家や親が恋しいのか啜り泣きだす者、何を考えているのかぼんやりと牢の外を眺めている者、様々である。こう言う行動によって味が変わったりもするのかな――そんな凄惨たる想いに耽りながら、燐は人間達を見張り続けた。


 時は経ち、夜が訪れる。
 食べ盛りの子ども達はそろそろ腹の減る時間帯である。朝飯とも昼飯ともとれない唯一の食事の機会が、握り飯一つくらいのものであったのも災い、空腹の度合いは凄まじい。
 夕飯は出ないのだろうか――食材として囚われている身でありながら、こんなことを心密かに考えている子どももいる。
 昼間は食材たる人間達の恐慌の時であったとするならば、夜雀がやって来るであろう夜は、火焔猫燐の緊張の時である。ミスティアはどんな決断をしたのか、それを知れる時なのだから。
 カンテラの弱々しい光の傍で、コツコツと、銀の作業台を人差し指で叩きながら、燐はミスティア・ローレライの来訪を待っていた。

しかし、そうやって何もしないで待つのも退屈であったので、燐は何の気無しに、椅子を食材庫の前まで持って行き、子ども達に雑談を嗾けた。
「先生はまだ起きない?」
 燐に問われた子ども達は驚き、そして恐れ戦いている様子であった。慌てて慧音の様子を確認する。
「まだ起きてない」
 やや震えた小さな声。
「そんなに怖がらなくていいのに」
 と、燐は言うのだが、今のこの状況は燐が用意したものなのだから、土台無理な話である。そもそも人間にとって、妖怪とは恐ろしいものである。
「半獣の先生だって妖怪だろう? あたいばっかり怖がるなんて、何だかおかしくない?」
 燐はこんな質問をしてみた。どんな返答が返って来るかが気になったのである。
 子ども達は返答に窮していたが、
「先生は、人間だもの」
 しばらくして、カンテラの光が及ばない、やや暗い所から、女の子の声がした。
「満月の夜は妖怪になるみたいだけど、それ以外の時は人間だし、人里では優しいし、私達のことをすごくよく気に掛けてくれる」
 なるほど――と燐は言うや否や、子ども達の目の前でどろんと猫の姿に化けて見せた。ひっと、幾つか小さな悲鳴が漏れる。燐はにゃあにゃあと数度鳴いて見せた後、また妖怪の姿に戻って、からからと笑った。
「さっきのあたいは猫だったけど、ずっとあの姿ならあたいも猫として人里に受け入れて貰えるかな?」
 子ども達は一体どう答えるのが最善であるかの様に、お互いに顔を見合わせていた。
「その様子じゃ受け入れては貰えないみたいだね」
 こんな落胆の言葉を愉快げな口吻で言い放ち、尚も燐はけらけらと笑う。
 一頻り笑い終えた後、
「先生が好きなんだねぇ」
 燐はやけにしみじみとした雰囲気で言った。
「好きだよ」
 割と早く返事があった。
「厳しいけど、優しいもん」
 ふうん――と、燐は素っ気無い返事をした。
「先生なら、ここから自分達を救ってくれると思う?」
 意地の悪い質問――答えは出て来なかった。しかし、どこか凛然とした光を湛えている子ども達の瞳は、助けてくれると信じているように、燐には見えた。
 その質問を最後に、燐は食材庫を離れた。大した暇潰しにはならなかったな――などと考えながら。

 燐がやや平静を欠き始めてから、たっぷり三時間は経過した頃。
 微かではあるが、燐は厨房の外で何か物音がしたのを聞いた。頭髪を分けて突き出ている猫の耳をピンと立てて、頬杖など付いていていた体をしゃんと伸ばす。
 死した妖精達による食材庫と藤原妹紅の見張りが万全であることを確認した後、燐はカンテラを持って厨房を出て、客室たる空間へ移動した。


 果たして、そこにはミスティア・ローレライがいた。
 黒色を基調とした衣服を身に纏った夜雀は、頬や手に大量の血を浴びている。カンテラに照らされ、ぎらぎらと残虐性ある輝きを放っている双眸と、キュッと閉じられて一文字を描く口から発せられる厳格な雰囲気――一目見ただけで、夜雀がいつもと全く異なる雰囲気、出で立ちであることが分かる。
 そして、その威風堂々たる風貌に勝らずとも劣らない存在感を示しているのが、右手に握られた巨大な鉈の様な様相を呈した狩猟用の刃物と、左手で襟首を掴んで字面に引き摺っている妖怪である。よくよく見てみれば、妖怪の首には切創か刺創か知らぬが、とにかく致命傷にしか見えない傷が刻まれていて、血が滴るのを防止するべく、乱雑に手拭が巻かれている。巻かれたその手拭は既に真っ赤である。絞ってやれば景気良く、ぼたぼたと血が溢れ出てくることであろう。
「ミスティア……?」
 出迎える前から、誰がやって来たかくらい分かり切っていたが、あまりにも夜雀が普段の夜雀らしからぬ雰囲気でいたものだから、燐は思わずそれが自分の知るミスティア・ローレライであるかどうかを確認してしまった。
「こんばんは、燐」
 燐はすっかり聞き馴染んだ夜雀の声である。明朗とした若々しさがあり、それでいてどこかあどけなさが残る、魅力的な愛嬌に満ちた声。しかし今日はその中に、どこか冷然とした響きが入り混じっている様に感じられたのは、前に述べた通りの厳格な雰囲気と、諸手に収まる冷たい二つの物体の所為であろうか。
「それは?」
 燐が左手に掴まれている妖怪を指差して言う。ミスティアはそれに目を落とし、
「これ? 食べるんだよ」
 こう答えた。
 それから、右手に握っていた巨大な刃物を腰の革製の鞘に納めて、ずるずると妖怪を引き摺りながら歩き出した。燐はその後を追う。
「人間は? 人間達はどうするのさ?」
 ミスティアが料理をする気でいることは実に喜ばしいことであるが、燐にとって最も重要なのはこの一点である。久しぶりに狂気の料理をすると言っても、人間が食えないのでは燐の飢えは満たされないし、安寧も得られない。
「食べるよ」
 夜雀は淡々と返答した。
「しばらく人型のモノを調理してなかったからね。この妖怪でちょっと勘を取り戻す」
 抑揚の無い夜雀の語り口は、燐に茶々を入れる気さえ湧かせなかった。


 ミスティアが厨房の扉を開く。
 中にいた人間達の視線が一斉にミスティアへと向けられたが、厨房には光源が無く、黒衣を纏ったミスティアは闇に紛れて満足に視界に入り込んで来ない。
 遅れて入ってきた火焔猫燐が持っていたカンテラが、夜雀の姿を闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。
 即座に食材庫から悲鳴が上がった。左手が掴んでいる妖怪の陰惨な死体は、無垢な子ども達には少々刺激が強過ぎたようである。
 藤原妹紅さえも、その凄惨たる死体と、全く感情が読みとれない夜雀の冷酷な顔色に、思わずぶるりと身を震わせてしまった。
 気のいい鰻屋台の女将たるミスティア・ローレライの本性を目の当たりにした子ども達は、いずれ自分達もあの左手に掴まれている妖怪の様になってしまうのかと、堪え切れずに一人残らず泣き始めた。さめざめと泣く者もいれば、恥も外聞も無くわんわんと声を上げて泣いている者もいる。その多様な泣き声は、己らの終焉の開幕を告げるブザーの様でもある。
 ミスティアはそんな耳に痛い人間達の声を一切無視し、厨房の真ん中にある銀色の作業台に、狩って来た妖怪をどすんと載せた。それから、壁に設えられている篝の全てに火を灯した。厨房はあまり望まれていない明るさを手に入れた。

 鍋に水を張り、火に掛ける。次いで、解体や調理に使う刃物を取りに食材庫の横にある棚に近づいて行く。すると子ども達は、狭い食材庫の中で懸命に後退りし、夜雀から距離を取った。よほどこの夜雀が恐ろしいと見える。しかしミスティアは、そんな行動にさえ目もくれない。数ある刃物から必要な物を選定し、最終的に四本の刃物を持って、また作業台へと戻って行った。
 その後はしばらくぼんやりと妖怪を眺めていたが、鍋に張った水が煮沸を始めると、調理器具を一式その中へ放り込んだ。衛生面に気を使っているらしい。
 頃合いを見計らって調理器具を水で冷まし、最も大きな刃物を手に取った。
 妖怪を眺めている間、解体の手順を頭の中で組み立てていたと見え、何の躊躇も無しに、ミスティアは妖怪の体に刃を入れた。刻まれた切創から血が溢れ出る。子ども達の反応は様々である。すっかり恐怖してしまい、耳を塞ぎ、顔を伏せている者もいれば、怖いもの見たさなのか、かっと目を開いて解体の様子を眺めている者もいる。藤原妹紅は、しれっと開始されたこの血生臭い所業を見ながら、いよいよどうにかしてここから脱さねば子ども達の命が危ないと焦燥し始めた。

 テキパキと妖怪を切り刻んで行く、その手際の良さに、燐は圧倒されていた。
「何か手伝うこと、ある?」
 やや躊躇いがちに、燐が問う。不用意に声を掛けて、ミスティアの集中を途切らせていいものかと迷ったのである。
「ううん。無い。大丈夫」
 作業の手は止めず、ミスティアが言う。それ以外、一切言葉を紡ぐことは無かった。
 そう――と、燐は聞こえるかどうかも判然としない様な小さな声で言った後、椅子にすとんと腰掛けて、ミスティアの作業を黙って見守っていた。
 泣き喚いていた子どもも次第に泣き疲れてしまい、啜り泣きへと移行していった為、厨房は先程とは打って変わってしんと静まり却ってしまった。その啜り泣きの声の他、篝火の中の燃料が爆ぜる音、死んで間もない妖怪の新鮮な肉が切り分けられていく音、流れ出る血の鳴らす水音、時折挟まれる夜雀の充足感と疲労感の綯い交ぜになったため息――血生臭い静寂の中で響くのはこんな音ばかりである。

 それ程時間を要さず、妖怪は頭、胴、腕、脚に分けられた。
「腐らせずに食べ切れるかな」
 ミスティアはこんな苦言を漏らしつつ、一先ず一番調理し易いと自負している脚だけを作業台に残し、残りの部位は金属製のフックを突き刺し、天上に吊るした。蝿取り紙さながらに天井に吊るされ、ぷらぷらと揺れる妖怪の断片――その圧倒的な嫌悪感と存在感は、その場にいる者ほとんどの注意を惹きつけてしまう。
 唯一、夜雀だけが、その存在感に囚われること無く、調理を続けている。
 解体に使った刃物よりも小ぶりな包丁に持ち替えて、脚を更に細かく刻んで行く。飛び散る血に狼狽えることも、靭帯などの固い部分に惑うことも無く、妖怪の脚は見る見る内に『生物の身体』から『食材』へとその姿を変えて行く。
 沢山の小ぶりな肉片に切り分け終えると、それを全て大皿に移した。食べられない部分や骨などはよそへ除けられ、ここへ来てようやく誰もが知る『料理』の段階へと移行する。
 これまでの血生臭く、現実離れした解体劇から一変、至極ありふれた料理風景へと変わったものだから、遍く見物人は大いに困惑する。先程は残虐非道の殺人狂――正確には彼女が殺めたのは人ではないが――であった夜雀が、瞬く間に一料理人へと変貌してしまったのである。
 自分へ向けられている眼差しの変異を感じたらしい夜雀が、にこりと笑んだ。ようやく訪れた表情の変化であるが、誰の気も休まることは無い。
「恐れることはないわ。同じなのよ」
 笑顔を湛えたままミスティアが開口する。
「人や妖怪か、そうで無いか――ただ、それだけのことだよ」


 細切れにされた妖怪の脚の肉は、あっと言う間に簡素なサイコロステーキに姿を変えた。
 血の匂いと芳しい料理の香りが交錯する。元は同じものであったとは思えない香りの差である
 大皿に山と盛られたそれを、銀色の作業台へ乗せた後、棚から小皿を数枚と、それと同数の小ぶりなフォークと、それから菜箸を一膳取り出した。
 菜箸で適当に小皿に肉を移し、フォークを添え、燐に手渡す。
「どうぞ、召し上がれ」
 妖怪の解体から調理までの流れる様な作業に圧倒されていた燐は、惚けた様にミスティアを見ていたのだが、小皿を手渡されてハッと我に返った。
「ああ、うん。ありがとう」
 早口に礼を言い、小皿を受け取る。渡し終えるとミスティアは、自分が食べる分として、別の小皿に肉をぽんぽんと盛った。
 受け取った肉料理を、燐が口へ運ぶ。
「うん。美味しい」
 燐の口からは、これと言って気の利いた感想が出て来なかったが、盛られた肉を次々と口に運んでいる様子から、如何にこの料理が彼女の気に召したかが窺い知れる。
 猛烈な勢いで食事をしている燐の傍で、ミスティアも自作のサイコロステーキを口に運んだ。言葉は発していないが、納得の出来栄えであるらしく、うんうんと一人で何度も頷いている。

 あっと言う間に小皿を空にした燐は、新たに大皿から肉を移した。
 おかわりを食べようとした時、ふと食材庫から発せられる羨望の眼差しに感付き、食事の手を止め、そちらを見てみた。見てみれば、闇の中から総計十二個の眼が、じぃっと燐を見つめているではないか。
 燐は、肉を盛った小皿と、食材庫の中の子ども達を順繰りに見つめた。食われる身でありながら、子ども達はこの肉料理に飢えているのである。
 流石は三大欲求と言われるだけのことはある――燐は子ども達の並みならぬ食欲がおかしくてにやりと笑ってしまった。
 そこで、別の小皿を一枚拝借し、適当な数のサイコロステーキを載せ、おもむろに食材庫へ近づいた。ミスティアの暴虐に恐れ戦き、ほの暗い牢の隅に寄り添い合って固まり、震えていた子ども達であったが、給仕役たる燐に対してはその様な態度を見せることは無く、ただただ、近付いて来る絶品料理に、控え目ながら双眸を輝かせている。
 食材庫の前へ辿り着いた燐は、すっと小皿を差し出した。
「食べたいんだろ?」
 子ども達は、燐が握り飯を差し出した時と同じ様に、不安げにお互いの目を見合った。しかし、今度は不安の内容が異なる。食べ物自体への不信感から来る不安ではなく、差し出されているこの料理を食べると言う行為そのものへの、倫理的な躊躇いから来る不安を抱いている。
「気にすることはないよ」
 遠くからミスティアが言葉を添えた。
「さっきも言ったでしょ。あなた達の知る料理と別に変わらない。同じなのよ。鶏や魚が妖怪になった――それだけのこと」

 この一言に後押しされたらしく、子どもの一人が燐から小皿をひったくる様にして受け取った。受け取るや否や、子ども達はわっと小皿に群がった。
 しかし、やはり最初の一口は躊躇があると見える。誰も食べようとしない。闇の妖怪たるルーミアは別に抵抗感など無いのだが、子ども達の醸し出す躊躇いの雰囲気に呑まれており、手を出そうとしない。
 結局、燐から小皿をひったくった子が、一番乗りで妖怪の肉を食べた。どこか懸命そうに咀嚼をしているその顔に、一同の視線が集中する。
 ごくり――喉仏が鳴動し、遂に妖怪の肉はその子の胃へと降りて行った。
「どう?」
 こう問うたのは、食べた子の横にいた子である。
 やや間を置き、ぼそりと感想が放たれた。
「うまい」
 ――こうなってしまえば、食べ盛りである上に空腹である子ども達をせき止められるものなど存在しない。死肉に集る獣の如し勢いで、子ども達は小皿の肉を口へ運んで行く。もう順番を守るのも、食器を使うことも億劫であると見え、全員が手掴みして、夢中で妖怪の肉を食べている。
 椅子に座ってゆったりと食事をしている燐は、その凄絶な食事の現場を眺め、やや辟易している。しかし、料理人たるミスティアは、人間の子ども達が、自分が作った料理を目の前にして、まるで小さな暴徒の様に変貌したことが嬉しいらしく、穏やかな表情でその下品な食事風景を見守っている。
 藤原妹紅は複雑な心境で、食材庫の中の子ども達を見ている。鶏や魚が妖怪になっただけ――と夜雀は言っているが、どうしても妹紅にはそういう風には捕えられないのであった。それに、牢の様な食材庫の中で妖怪の肉を貪る子ども達が、まるで飼い慣らされた獣や家畜の様に映り、あまり見ていて気分がいいものでは無かった。

 あっと言う間に小皿は空になった。口の周りをソースで汚した子ども達は、また燐に熱い眼差しを向ける。
「あらら、おかわりをご所望かい?」
 燐が問うた。ややあって、子どもの一人が頷いた。それに倣うように他の子ども達も次々に頷いて――結局、食材庫の中に囚われている子ども達全員が首を縦に振った。
 燐はちらりとミスティアに目配せする。それに気付いたミスティアは、
「いいよ」
 こう一言。
 燐はまた小皿に、先程よりも沢山の肉を盛って、子ども達に与えた。また子ども達は、わっと小皿に群がり、肉を喰らい始めたのだが、
「待って」
 不意に子どもの一人が声を上げた。ぴたりと食事の手が止まり、遍く視線がその子に注がれる。食材庫の中だけに留まらず、ミスティアも、燐も食材庫に目をやった。子ども達の蛮行に耐え兼ね、顔を伏していた妹紅でさえ、何事かと顔を上げた。
「先生にも食べさせてあげた方がいいんじゃないかな」
 こんな意見が出されるや否や、今度は全ての視線が、まだ尚目覚めない上白沢慧音に向けられた。
 こんなに美味しい物の分け前を減らすのはやや不服であったが、そこは恩師へ対する忠義や好意が勝った。
「そうだね」
「それがいい」
 子どもたちは異口同音に、この意見へ賛成の意を示した。
 あっと言う間に半分程にまで数を減らした肉料理が盛られた小皿が、食材庫の中の暗がりへと運ばれて行く。
「先生、ご飯だよ」
 そう言い、肉の盛られた小皿を、横たわっている慧音の顔の前へ差し出す。
「……目覚めて早々肉料理ってちょっと重たい気がするけどなあ」
 燐はこんな苦言を漏らした。しかし、胃もたれなんかとは無縁の若々しい胃袋を持つ子ども達には、そこまでの配慮は出来なかったと見える。燐の言葉は聞こえていたであろうに、それに構うこと無く、恩師の目覚めを信じ、肉料理の載った皿と、慧音をじっと見つめている。
 しかし、慧音が目覚める気配は感じられない。子ども達の表情に落胆の色が濃く表れて行く。


 何の動きも無いまま時ばかりが過ぎ、妖怪の脚の肉を粗方平らげた所で、ミスティアがはあ、とわざとらしいため息をつき、沈滞化していた厨房内の空気に動きを齎した。
 食材庫の中で恩師に群がっていた子ども達が。退屈凌ぎに半獣の目覚めの瞬間を拝もうと、ぼんやりと人間達を眺めていた火焔猫燐が。脱出の術と機会を窺い続けていた藤原妹紅が――ミスティア・ローレライへ視線を向けた。
「燐。まだお腹は減ってるね?」
 ミスティアがぽきぽきと手の指の関節を鳴らしながら問う。
 燐は緊張で少し身を固くしつつ、こくりと頷いた。
「勿論だよ」
「そう」
 ミスティアは簡素な返事をし、椅子から立ち上がり、壁に掛けてある食材庫の鍵を手に取った。
 その瞬間、子ども達は我に返ったようにハッと目を見開いた。夜雀のその行動は、至福の時の終焉を表しているに他ならない。『食材』と言う自分達の立場を、子ども達はすっかり忘れていたのである。それが、ミスティアが食材庫の鍵を手に取ったと言う行動で、瞬く間にぶり返してきたのである。
 再び食材庫の中を恐慌が渦巻き始めた。夜雀の手の及ばぬ所へと、誰もが必死に食材庫の中へ中へと後退して行く。

 ミスティアは手に取った鍵を、ぽんと燐に投げて渡した。薄暗い宙に曲線を描いて飛んできた鍵をどうにかキャッチした燐は、きょとんとミスティアを見つめる。
「食べる子はあなたが決めていいよ」
 夜雀の口から『食べる』と言う言葉が飛び出し、いよいよ子ども達の混乱は絶頂を迎える。再び泣き出す者も出てきた。
 燐は鍵とミスティアと食材庫を順番に見つめた後、にんまりと残酷な微笑を浮かべ、
「ありがと」
 と一言。そして、臀部から伸びる二本のしっぽを陽気にひょいひょいと動かしながら、食材庫へと向かい始めた。

 入口の所で屈んで、恐怖と絶望に歪む子ども達の顔をじっくりと見て、品定めを始めた。男か女か、痩せ形か小太り型か、泣いている子がいいか、毅然としている者を選ぶか――美味たる人間の条件と言うものが、燐にはよく分からなかったが、彼女なりにあれこれと考えた挙句、一番手前にいる、一番背の高い男児を選んだ。
「あんた、あんた。あんただよ、そこの大きい男の子。ちょっとおいで」
 燐はそう言って、満面の笑顔を浮かべて手招きするのだが、彼女の言葉に子どもが従う筈も無い。
 しかし燐はそんなこと別段気にもしないで、子ども達にまるで見せびらかす様に、夜雀から受け取った鍵を誇示し、それを鍵穴へと差し込んで、一捻り。がちゃん――と鳴り響いた軽快な金属音は、泣き、騒めき、叫び、慄く子ども達の織り成す狂騒の中で、一際異質で目立った音となって、厨房内の者達の耳朶に響き渡った。
 きぃぃ――と、草臥れたような音を鳴らしながら扉が開かれる。篝火の恩恵が薄い、ほの暗い食材庫の中に燐が手を伸ばし、見定めた男児の手をひしと握った。少女の様な姿形ながら、その力は人間を遥かに凌駕する。人間の男児如きが、振り解いて逃げられる程やわでは無い。しかしそれでも、男児は必死に抵抗し、どうにか食材庫から出ないようにと踏ん張っている。
「ほら、もう諦めなよ」
 手を煩わされているが、人間料理が食えることの喜びがその煩わしさを上回っているようで、燐の口調は穏やかである。ぐっぐっと、何度も男児を引っ張って、食材庫の外へと引き出そうとする。

 ――こんな具合で食材を出すことに執心し切っていたのだが。
 これが、仇となった。

 燐が選定した子と同じく、子ども達の群の先頭にいた闇の妖怪ルーミアが、一瞬の隙を突き、燐に体当たりを食らわせたのである。
 あっ――と声を漏らしたのは燐ばかりでは無い。食材庫の中にいた子ども達全員が、ほぼ一斉に、その突発的な敢行に驚嘆の声を上げた。せっせと料理の準備をし、平行して前の料理の後片付けなどもしていたミスティアも何事かと振り返った。

 夜雀が振り返ったのと、ルーミアが隠し持っていた刃物を、燐の太腿に無我夢中で突き刺したのがほぼ同時であった。まさか厨房内に火焔猫燐の絶叫が響き渡る日が訪れようとは、一体誰が予想したであろうか。
 ルーミアが燐の脚に突き立てた刃物は、紛れも無く、燐が『保険』としてルーミアと密約を交わした際に手渡した、あの刃物である。それをこんな形で利用されてしまったことがどうしようもなく悔しく、この上ない激憤に見舞われてしまったのだが、その怒りが燐から冷静さを奪い取ってしまった。
 ルーミアは刃物をぐりんと回転させ、燐に更なる追撃を加えた後、彼女の体を飛び越える様にして食材庫の外に出た。しかし、それ以降のことは何も考えていなかったと見え、あたふたと辺りを見回すばかり。ほの暗い厨房のやや遠くで、ミスティアが呆然とこちらを見ているのを確認するや否や、反射的に銀の作業台に置かれていた、妖怪の解体に使われていた巨大な刃物を手に取った。そして、その剣のような刃物を使って敵との応戦に備えるべく、夜雀の方を向き直す。
 その直後であった。
「ルーミアッ!」
 背後から名を呼ばれ、はっとルーミアが後ろを振り向くと、手首と足首を鎖で巻き付けられた藤原妹紅がいた。
「腕を! そいつで私の腕を切ってくれ!」
 妹紅はこんなことを言う。ルーミアは彼女の発言の意図が分からず、小首を傾げたのだが、
「早くしろッ!」
 妹紅に気圧され、ほとんど反射的に、その巨大な刃物を、地面へ投げ出された妹紅の腕の肘辺りへと振り下ろした。力任せに振り降ろされた刃は、硬質な地面と結託し、妹紅の腕を強引に断裂させる。不幸にもその切断の瞬間を目撃してしまったらしい子ども数名が、今までにも増して大きな声で泣き始めた。

 腕の断裂とほぼ同時に、燐が激情に任せてルーミアを蹴り飛ばした。脚の刺し傷からぴゅっと血が噴き出した。巨大な刃物が手を離れ、がらんがらんと大きな音を立てる。
 燐は蹴り飛ばしたルーミアに更に追撃を加えようと駆け出したのだが、その行動は突如として足元から吹き上がってきた火柱に遮られた。鼻先が焦げるのでは無いかと言う所でキッと立ち止まり、燐はもどかしげに、そして憎々しげに火柱を見上げたのだが、ふと足元で何かが動いたのを視界の隅で感知し、すぐさま柱の根元を見た。
 火柱の根本には藤原妹紅がいた。腕を切り落とされた後、舌を噛み切って素早く自殺し、再生と同時に完全な腕を手に入れた彼女は、まんまと炎を立ち上らせて見せた。脚にはまだ鎖が巻かれてはいるものの、手の自由を手に入れたお陰で安定的な炎の運用ができる様になったことの利点はあまりにも大きい。一番無力化しておきたかった者が活性化してしまい、燐は些か狼狽えた。この隙にルーミアは部屋の真ん中にある銀の作業台の影へと駆け込んだ。遠巻きに燐と妹紅のことを眺めていたミスティアは、ここは燐に加勢しなくてはなるまいと、近くにあった刃物一本を引っ掴んで駆け出した。燐の命がどうとかそう言うことよりも、先ずこの厨房を防衛しなくては――と言う念が強い。

 子ども達や慧音がまだ食材庫にいることを承知しながらも、妹紅はかなり大胆に炎を撒き散らして燐とミスティアを牽制していた。このまま消極的な攻撃で防戦を続けていた所で、この絶望的な状況は打開できないと踏んでいたからである。
 脚を負傷した上に、うねり狂う炎と対峙してもたついていた燐はしばらくして、食材たる子ども達を盾に使うことを思い付いたのだが、それを見越した妹紅は、燐の動きを阻害する様に炎を操る。自由奔放な生き方は恐らく猫の本能である。それを見事に妨害されてしまった燐の苛立ちは並々ならぬものである。
 上手く動けない燐に代わって果敢かつ大胆に、この蓬莱人に攻め入ったのはミスティア・ローレライである。猛る炎の間隙を縫い、妹紅に近づいて行く。妹紅も夜雀を灰塵にせんと炎を操るが、手が塞がっていることが影響しているのか、精度が普段よりも幾らか欠けている。
 遂に妹紅の眼と鼻の先にまで詰め寄ったミスティアが、手にしていた刃物を妹紅の片腕へと突き刺した。殺しても復活してしまうので、とりあえず攻撃力を奪うことを主目的とした一撃である。
 料理人だから炎など怖くないんだろうか――などと燐が場違いな思慮を巡らせた、次の瞬間であった。

 燐の背後で微かに、鉄と鉄のぶつかり合うような音が聞こえたのである。
 即座に振り返った燐の目に映ったのは、ルーミアの先導で食材庫から逃げ出そうと駆けている人間達であった。いつの間に目を覚ましたのか、上白沢慧音までいるではないか。
「あっ!」
 燐が声を上げた。無理も無い。念願の人間料理の材料達が、厄介な敵を相手している内に、買収したつもりであった妖怪の先導で逃げようとしているのだから、ただ単に逃げられるよりも遥かにその衝撃は大きい。
 燐の声に、交戦していた夜雀と妹紅も何事かと振り返り、同じ様に驚いた。
 燐が人間を追おうとしたのだが、その行く手は落下してきた巨大な火球に阻まれた。危うく火球に直撃して丸焦げと言った所であった燐は、炎の塊の真ん前ですっかり腰を抜かしてしまった。死した妖精達に追わせようとしたが、気付けば皆焼け爛れており、すぐには動けない状態になっている。その間にも人間達はどんどん逃げ去って行く。
 ミスティアも事の真相が暴露されては面倒であった為、人間を追いたかったのだが、やはり藤原妹紅の休み無い攻撃への対処が精一杯で、そちらまで手が回らない。
 おまけに妹紅の妨害行為が進めば進む程、厨房内は火に包まれて行くのである。蓬莱人に対処している内に、辺りはすっかり火の海となっているではないか。
「ここもお終いか……」
 こう言うミスティアの口吻は非常に惜し気である。
 妹紅と睨み合っていたミスティアは、突然身を翻した。
「燐、さっさと逃げなよ」
 へたれている燐の襟首を掴んで駆け出した。が、意外と重くて動かせなかったので、すぐに手を放した。燐が顔から地面へ突っ込んだ。
 呆然自失状態であった燐も、燃え滾る炎の熱と、ミスティアの中途半端な善意で我に返ったらしく、
「ああああああぁぁぁぁッ! 畜生ッ! 畜生畜生ッ!」
 こんなことを喚き散らした後、あっと言う間に姿を猫に変え、脚を引き摺るようにしながら出口へ突っ走って行った。逃げ出した人間達が律義に戸締り等している筈もなく、猫の姿をしながら、燐は厨房を逃げ出すことが出来た。
 戦うことを止めて逃亡を選んだことを察した妹紅は、尚も二人の逃走経路の封鎖に尽力したが、それ程功を奏さず、燐に続いて、ミスティアも出口まで辿り着いた。逃走経路の最中で、持ち出せるだけの調理器具を持ち出そうと画策したが、結局ほとんどのものを見捨てて逃げる羽目となった。
 厨房を出る前に、ミスティアはもう一度振り返り、慣れ親しんだこの空間を見回した。煌々たる炎の装飾が目に痛いくらいの自己主張をしている。最後に見る厨房が今までに無かったような凄絶な状態であることが悲しくもあった。
 さようなら――と心の中で小さく呟き、包丁とフライパンと小さな鍋蓋を一つずつを持ち出し、ミスティアもこの厨房を出た。


 部屋に取り残された妹紅もここから逃げようとはしたのだが、夜雀に与えられた腕の負傷は思ったよりも深刻なものであり、おまけに脚の自由は相変わらず無かったので、満足に動くことが出来なかった。おまけに、調子に乗って撒き散らした炎が邪魔で、もはや逃亡経路など残っていないに等しい。これからは身体を離れた後、自分を傷付けない炎を出せるような努力をしよう――などと考えながら、その場で静かに目を瞑った。

 炎は勢いを衰えさせることなく厨房内を蹂躙し、ありとあらゆるものを焼き尽くした。夜雀が残して行った調理器具、様々な調理設備、炎の中に座り込む藤原妹紅、天上から吊るされた妖怪の体、刃物の棚、食器の棚、格子状の食材庫――その全てを、等しく。


*


 洞穴の奥でひっそりと演じられた陰惨たる寸劇の翌日、火焔猫燐は再び、全ての始まりとも言える森を歩いていた。闇の妖怪ルーミアに刻まれた刺し傷は、さすがは妖怪と言ったところであろうか、既にほとんど治りかかっている。しかし、一歩歩むごとに少しばかり体を傾けているその姿から察するに、まだまだ本調子ではないと見える。
 彼女が向かっているのは、件の洞穴である。
 藤原妹紅が激情に任せて炎を撒き散らし、右往左往している火車と夜雀の目を盗んで食材たる人間達が逃げ出した。結局、このままでは厨房は火の海となり、もたもたしていると焼け死んでしまうからと言うことで、彼女らもまた逃げ出したのである。
 洞穴の外は、まだまだ明けるには時間が必要であると一目見て分かるような深い宵闇に包まれていた。一応燐は辺りを見回して、逃げた人間達を探したが、真夜中の森の中で遂に食材の群を見つけ出すことはできず、捜索を諦め、現場から撤退した。
 しかし夜が明け、太陽の光が脚に与えられた傷を露わにすると、ルーミアの如きに出し抜かれたと言う事実になんだか無性に腹が立って来てしまい、一体何を求めているのか、今は単なる不審火に蹂躙された焼け跡と化しているのであろう、狂った厨房へと、傷付いた脚を引き摺らせながら赴いたのである。
 洞穴は以前と何ら変わらないままでそこにあった。藤原妹紅の炎は、外観まで爛れさせる程の勢力は持ち合わせていなかった様子である。深奥でのみ散々暴れ狂って消えてしまっていたのである。だから洞穴の入口には何の異変も無い。

 燐は些か緊張しながら、洞穴に足を踏み入れた。長いようで短かった、夢の様な昨夜の出来事が現であったことを、容赦なく鼻孔を突いてくる焦げ臭さが教えてくれる。洞穴の湿っぽい独特の臭気と合わさったそれは、お世辞にもいいものとは言えない。
 しかし、細い道を洞穴の道を進んで行くに連れ、その嫌な臭気は消えて行く。と言うのは、火元である厨房が近づくと焦げ臭さが強まって行くので、感じられる臭気が焦げた臭いばかりになって行くからである。
 しばらくして、客室の様な空間へと続く扉に辿り着いた。ノブを回し、少しだけ扉を開けて、その先の様子を窺ってみるのだが、光源の無い部屋は相変わらずひたすら暗く、そして真っ黒で、何も見えない。そこで燐は、死した妖精を一匹召喚し、中へ入れた。妖精の中に揺らめく生命の炎――所謂鬼火と呼ばれるものである――が、ほの白く室内の一部を照らし出す。薄気味悪い白光を発するお供と一緒に、燐は客室に足を踏み入れた。
 客室はそれ程炎の魔の手が及ばなかった様である。厨房からほど近い一部のみが焼けているばかりで、ほとんどの机や椅子なんかは、燐の記憶の中と違わぬ状態を保ったままである。見慣れた景色なので、積極的にここで何かを調べる意味は無かった。
 次いで彼女の視界で一際大きな存在感を示したのが、厨房へ続く扉であるのだが、扉は閉まっておらず、開け放たれている。この解放された扉から炎がはみ出て、客室の一部を燃やした様である。
 燐は傍に死した妖精を引き寄せると、ごくりと生唾を飲み込んで、厨房へ入った。

 果たして、厨房は完膚なきまでの焦土と化していた。見上げても見下ろしても見回しても、黒、黒、黒――。死した妖精の鬼火がどこをどう照らしてみても、見えてくるのは爛れた天井や床や壁、醜く変形した作業台や棚ばかり。自身の記憶と何ら一致してこないこの空間の醸し出す陰惨さに、燐は思わず身震いしてしまった。

 この厨房に何か有用性あるものを求めているなんてことは決して無いが、この焼け焦げた空間に何が残ったのかが気になった燐は、探索の為に奥へと歩み出した。爛れた地面を踏み締める度に、くしゃ、くしゃと、脆く儚げな音が鳴った。
 食材庫の前に到達した。炎で焼かれた格子はすっかりひん曲がっている。今なら意図も簡単に壊せてしまいそうである。中に何があるのかと、死した妖精を中に入れ、しゃがんで格子の間から中を覗き込んだ。
 食材庫内部の闇は他とは比較にならない程に深く、鬼火の灯りをもってしてもほとんど何も見えない。死した妖精にあれこれと指示を出しながら、じっと目を凝らし、食材庫の中を覗き込む。
 その最中である。
 燐の左手側で、くしゃ――と音がした。燐はぎょっと肩をびくつかせる。その音は紛れも無く、この厨房内を何者かが歩いた時に鳴る音であったからである。
 パッと左を向いてみると、全裸の女性が立っているのが辛うじて見えた。が、洞穴の暗闇が邪魔をして、その全貌をすっかり見ることは叶わなかった。
 しかし、すぐに燐はその女性の正体を知ることとなる。何と女性の手から火が放たれたのである。
 傷付いた脚など物ともしないで、燐は放たれた炎を避けた。地面で燃え残って焚火の様になっている真紅の炎が、闇の中に潜んでいた女性を映し出す。
「あ、あんた、不老不死の……!」
 燐の驚愕の一声は、二度目の炎によって疎外された。放たれた炎から燐はまたも素早く身をかわし、因縁の人間と対峙する。闇の中に照らし出された、蓬莱人の藤原妹紅の表情は、無であった。しかし、その無表情から放たれる激しい炎の攻撃は、変に猛り狂ったりするよりも、よっぽど彼女の心情を表しているように感じられる。
 藤原妹紅は無言のまま、燐を焼殺せんと炎を操る。脚に傷を持つ燐は攻撃に転じることなど出来ず、ひたすらに自分に向けられた殺意の炎を避け続けるのみである。
 これじゃあ二度目の火災が起きてしまう――などと燐は危惧したのだが、途中でぱったりと攻撃の手が止まってしまった。攻撃は止んだが、燐は警戒を緩めず、妹紅と十分に距離を取り、相手の出方を窺っていた。

 それ程時を待たずして――妹紅がばたりとその場に倒れてしまった。燐はそれでも近づく勇気が湧いて来ず、遠巻きに妹紅を眺めていた。
 炎の熱気と、恐怖による緊張で、燐はびっしょりと汗をかいている。汗の雫がつつと頬を伝い、地面へ一滴落ちた。その直後、
「くそ……っ」
 俯せに倒れている妹紅が開口した。
「こんな時にお前を殺す気力すら湧いて来ないなんて」
 小さな声で妹紅はこんなことを言う。歯痒げな口吻である。
 燐は、倒れている蓬莱人に近づくことはせず、会話を試みた。
「不老不死のお姉さん、どうしてこんな所に?」
 問われた妹紅は一度鼻で笑った。
「お前が連れて来たんだろうが」
「……もしかして、あれから一度もここを出てないの?」
「ああ。出てないよ。お前達が逃げてから、自分の炎で焼け死んで、生き返って、また焼け死んで……繰り返してたらここから出る気力も無くなる程消耗してしまったんだよ」
 自嘲気味な口調である。全裸であるのは、服が全部焼けてしまったからであろう。
「お前こそ、ここに何をしに来た? お前の求めた人間はもうここにはいないだろ」
 間髪入れず、妹紅は燐に問い返した。
 しかし、燐は妹紅の問いに対する明確な答えを持っておらず、返答に窮してしまった。
「あたいは、ええと……」
 などと言いながら、それらしい答えを思案していると、
「追われて逃げて来たのか?」
 妹紅がこんな憶測を立てて来た。それから、ゆっくりと起き上がり、焦げた壁に背を預けた。かなり苦しげである。
「人里の人間六人を拉致して食おうとしたんだ。博麗の巫女が黙っちゃいないぞ」
 それは言われなくとも燐が最も危惧していることである。人里に帰った慧音達が巫女に事の全てを告白する――それだけで燐はあっと言う間にお尋ね者である。その現実を突き付けられるのが恐ろしくて、彼女は人里へは近づいていない。それ故に人里に今現在、どのような空気が渦巻いているのか、燐は全く知らない。

 直視し難い現実の話をされ、無言のまま立ち尽くす燐と、その絶望的な表情を見てほくそ笑んでいる妹紅。
 ――その重苦しい静寂の中で、二人は確かに、厨房外で物音が鳴ったのを聞いた。その証拠に、二人は何かに感付いた様に、厨房と客室を繋ぐ開きっ放しの扉に同じ様に目をやっている。
 誰かがここへ近づいて来ているのを察した二人は、黙ってその解放された扉を見つめていた。
 暫くして二人の前に姿を現したのは、ミスティア・ローレライであった。手にはカンテラが握られている。
「ミスティア!」
 燐が思わず声を上げる。頼もしい仲間がやって来てくれた――とでも言いたげな声色である。
 当のミスティアは、燐と、奥で壁に凭れて座り込んでいる妹紅を見て、眉根を潜めた。
「みんな本当にこの場所が好きなのね」
 露骨に辟易しての一言。
「誰が好きなもんか」
 妹紅は心底憎々しそうに言い放った。
「ミスティア、ここへ何しに来たのさ」
 決まり事であるかのように燐が問う。
「どうしても何も、長年連れ添った大好きな厨房なのよ?あれからどうなってしまったか気になったのよ」
 そう言うと、はぁ――と重々しいため息をついて、ランタンを翳しながら辺りを見回した。
 見事に焼け爛れてしまったわね――哀愁漂う声色、そして切なげな瞳は、事の発端と言っても過言でない燐の心をちくちくと攻め立てる。

 ミスティアは焼けて変色、変形した銀色の作業台にランタンを置き、燐と妹紅を交互に見やった。
「燐は、何かしら? 直前に解体した妖怪の燻製でもちょろまかそうって魂胆?」
 そう言いミスティアは天上へ目をやったのだが、吊るしてある妖怪の肉は、強過ぎる火に焙られ、原形も留めていないくらいボロボロに朽ち果てている。食べる気など一切湧いて来ない。
 ぶら下げられたそれからすぐに目を離し、ミスティアは次いで妹紅を見やる。
「妹紅さんはどうしたの? 裸だし。まさか慧音さんの帰りでも期待しているんですか?」
 ミスティアの一言に、妹紅が眉を顰めた。
「どうしてこんな所で慧音を待たなくちゃいけないんだ。命の危機に晒されたんだぞ。いくら慧音でも、もうお前の料理への執着心なんて消えているさ。こんな所に来る筈無いだろう」
 こう言う妹紅の声色には覇気は無いものの、表情からは殺気が満ち満ちている。気力が尽きているからよかったものの、今彼女に普段通りの余力があったとしたら、間違い無く厨房は瞬く間に火の海となっていたことであろう。
 ミスティアは臆する様子は無く、しかしいちいち暴れられても面倒だとでも言うように、首を横に振った。
「ああ、いえ、違うんです」
 穏やかな声色。
「慧音さん、あれから人里へ帰っていないみたいなので」
 さらりとミスティアがこう言い放った。
「だから、一番最後に慧音さんといたこの場所に戻って来てみたのかなと思って」

 強烈な殺意を醸し出していた妹紅も、二人の一触即発の空気をおどおどと見守っていた燐も、表情が一気に驚愕の色に塗り潰されてしまった。
「慧音が人里に帰っていないだって?」
 妹紅が問う。声色にほのかに生命力が舞い戻ってきた様に感じられる。ミスティアは言下に頷いた。
「人里に寄ってみたんです。慧音さんが帰って人里がどんな空気になっているかが気になって。そしたら、まだ慧音さんも子ども達も見つからない、もう生存は絶望的かな――とか何とか、随分悲観で湿っぽい空気に包まれていましたよ」
「どうして? どうして帰っていないんだ! 昨日、慧音達はちゃんとここを逃げ出したじゃないか!」
「そんなこと私に聞かれましても」
 ミスティアはまた眉を顰めた。
 慧音達は助かり、彼女らの証言によって夜雀と火車の悪行が明るみに出ると信じ切っていた妹紅は、想定していなかったこの事実に、大いに困惑した。
「人里へ帰る最中に妖怪に襲われて全滅したとか、そんなところじゃないですかねぇ。慧音さん、逃げる直前まで気を失っていましたし、本調子じゃ無かったから」
 ミスティアが冷静に憶測を述べる。なかなか有力な説であるが、妹紅はそんな有力さなど微塵にも望んではいない。
「でも、子ども達はルーミアも一緒にいたんだ。慧音が駄目でも、あの子がいれば……」
 ミスティアの憶測を否定したいが為に放った一言。
「そうだよ、ルーミアだ!」
 言下に声を上げたのは燐である。ミスティアと妹紅が燐を見やる。
「ルーミアが人間食いたさに子ども達を食っちまったんじゃないかな」
 ああ、なるほど――と呟いたのは夜雀。
 あり得ない――と金切り声を上げたのは蓬莱人。
「どうしてあの子がそんなことをするんだよ!」
「どうしてもこうしても、ルーミアは妖怪だろ。人間は妖怪にとって珍味なんだ。すぐ傍らに、自分に対して警戒心を抱いていない人間が六人もいれば、そりゃァ食べてしまいたくもなるよ。いなくなったのは全部あたいらの所為に出来るしね」
 あっけらかんと言い放つ燐。妹紅は反論の言葉を失い、「嘘だ、嘘だ」と譫言の様に繰り返している。
「基本的に人間は妖怪なんてもんは信用しない方がいいんだよ、お姉さん。大体、あんたはあたいとミスティアに騙されたばっかりじゃないか。ルーミアもあたいらと同じ妖怪だもの。信用に値するような奴じゃないことくらい分かってくれたかな?」
 燐の容赦無い追い打ちを喰らって、遂に妹紅は譫言さえ吐かなくなった。ミスティアは燐の言葉に同意を示す様に、うんうんと頷いた。
「だけど、まあ、まだそれが真実だと決まった訳ではないし、妹紅さんもあんまり気を落とさないでね」
 申し訳程度の夜雀のフォローがあったが、妹紅の気が晴れることなど無かったことは言うまでも無い。

 落胆する蓬莱人の世話もそこそこに、さて――とミスティアが切り出した。
「まだ慧音さんが人里へ帰っていないなら、さっさと見つけて対処しなくちゃね」
「対処?」
 燐が言下に問う。妹紅もじろりとミスティアを睨め付けた。
「帰る道すがら妖怪に襲われて全滅したとか、燐の言う通り、ルーミアに食い殺されているのなら別に問題無いよ。だけど、万が一そうで無かった場合、生きて人里に帰られてしまう可能性があるからね。口封じしないと私の身が危ない」
「探して殺すの?」
「殺すなんて人聞き悪いわね。食べるのよ。ただの一度さえも私は人を無意味に殺したことなんて無いわ。夜雀の名が廃る」
 ちょっと頬を膨らまして言うミスティア。まさかここへ来て人間料理の可能性が再生するとは思っておらず、燐の瞳に希望の光が満ちた。
 それを聞いて黙っていられないのは藤原妹紅である。
「お前達、まだそんな馬鹿げたことを!」
 威勢良く吼えるが、身体の状態は猛る心に伴わず、ちっとも動いてくれない。面倒な人間を相手にしてしまったものだ――そんな感情が見え見えの冷然たる目つきの夜雀と火車が見守る中、何とかその場に立ち上がった妹紅であったが、攻撃など愚か、直立状態を保つことさえできず、ややあってまたどさりとその場に崩れ落ちた。
「まだまだ快復には時間がかかりそうだね」
 操り糸の切れた傀儡を思わせる情けない有様の妹紅を見て夜雀が一言言い放った後、全焼する以前、沢山の刃物を置いていた棚の方へと歩んで行き、その残骸を探索し出した。
「あーあ、あんなに手入れしてたのに、火に呑まれればやっぱりこんなになっちゃうのか」
 炎に焼かれて見るも無残な状態になった愛用していた刃物達を一つ一つ手にとって、心底残念そうな声を漏らす。
 その我楽多を三本持ち出して、妹紅の前まで戻って来ると、壁に凭れて座ったまま投げ出している妹紅の脚に、その刃物の残骸を突き立てた。妹紅の絶叫も何のそのと、ミスティアは突き立てた刃物をぐいぐいと押し込んで行く。次第に刀身は妹紅の脚を貫通し、地面へ到達した。間髪入れずにもう片方の脚も同じように刃物を突き立て、残りの一本は腹部を貫かせ、刃先を壁まで到達させた。ガラクタの刃物を用いて壁と地面に妹紅を縫い付けたのである。

 事を終わらせると、夜雀は悪びれた様子も無くふぅと軽く息を吐き、踵を返した。
「さあ、燐。慧音達を探しに行こう」
 燐の返事を待たずにミスティアは歩み出した。虫の息の妹紅が何やら声を絞り出していたが、その言葉は夜雀にも、容赦ない追撃に些かの憐憫の情を催しながら妹紅を眺めていた燐にも届いていない。その燐も、やや遅れてミスティアを追って駆け出した。念の為、灯りの代わりに呼び出しておいた、死した妖精を番人に任命して。


 洞穴を出ると、陽光が眩く二人を照らした。もう快晴はいいからもう少し曇らないかな――燐はこんな風に考えている。
 ミスティアは特に陽光に辟易すること無く、ずんずんと歩みを進める。
「探すって言っても、ミスティア、当てはあるの?」
 燐が問う。
「まあ、何を言っているの、燐。あなたがいるじゃないの」
「へ? あたい?」
「死体捜しはお手の物でしょ?」
「死んでることが前提として探すのか」
「そうしないと当てが無くなってしまうし、死んでくれていた方が好都合だし。それじゃあ、よろしく頼んだわよ。とりあえずこの森から探してみよう」
 ミスティアがぽんと燐の背中を叩いた。燐は仕方が無い――と、持ち前の死体探索のセンスを発揮させつつ、森の中を歩み出した。

 確かに燐は死体を探す能力に長けてはいるが、何の死体かどうかを事前に知ったりすることはできない。自然の中には、様々な生き物の死体が転がっている。彼女らの見知らぬ所で、いろんな生物が生き死にしているのである。
 初めに彼女らが見つけた死体は、鹿の死骸であった。他の肉食動物に食い殺されたと見え、腹が大きく裂かれている。
「ハズレかぁ」
 燐が頭を掻いた。そんな死体に構っている意味は無いので、二人はさっさとその場を後にした。
 暫くしてまた新たに死骸を見つけたものの、それもやはり野生動物の死骸であった。
 気を取り直してまた別の方へ向かい、次に見つけたのもまた動物。今度は小動物のものであった。
 その次は鳥類、その次はまた大型の動物。
 死体の群れがある――と向かった先には、沢山の虫の死骸が転がっていた。
 予想通りの難航具合であった。燐はうんざりし始めているが、ミスティアは別に気にしている様子は無い。
「いろんな生命が死んでいるわね」
 呑気にこんなことを言う。
「そりゃね。沢山の命があるんだから、沢山死んでもおかしくは無いよ」
 燐はこう答えた。
「何かに食べられた死骸も沢山あった」
「日常茶飯事だよ。妖怪や人間は食物連鎖に関与しないから知らないだけで、みんな食うか食われるかの世界でがんばって生きてるんだよ。それなのに人間ときたら何さ、一人二人食われただけでぎゃーぎゃーと……」
「おお、流石は元動物。厳しい言葉」
 ミスティアに煽てられて、燐は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「さあ、その野生で鍛えた勘で、お目当ての死体を探そう」
「あるかどうかもまだ分かんないだろ」
 喜んだのも束の間、再び途方も無い死体捜しに話が戻り、またも燐はげんなりと肩を落とす。

 しかし、二人の死体捜索は、意外にもそれから大して時を経たずして終わることとなる。
 その後も二人は、燐の第六感を駆使して森の中をあちこち歩き回り、祈る様な気持ちで、食材と定めた人間達の死骸を探した。やはりどれもこれも的外れな死骸ばかりで、その都度二人は落胆していたのだが、遂に二人は、今回の大騒動に関与しているであろう者の死体の一つを発見したのである。

 それは洞穴の中に転がっていた。ミスティアの愛した厨房を彷彿とさせる、ほの暗い洞穴の深奥だ。
 少女の死体であった。全裸であるから容易に判断出来た。
 両腕、両脚、首が切断されており、腕と脚だけは残骸が傍に転がっていた。頭は見当たらない。それだけでもなかなか猟奇的で恐ろしいのだが、輪に掛けておぞましいのは、腕と脚はただ単に切断されたと言うだけではなく、明らかに肉を削ぎ落そうと腐心した痕跡があると言う点である。おまけに相当慣れない手つきでやったようで、肉は付いたままであったり、切り離されていたりを繰り返しており、骨と血肉の斑模様を描いている。
 加えて、両腕両脚を失った胴体の腹部も豪快に切り裂かれている。途中まで食って飽きたのか、必要な分だけ取り去って行ったのかは定かでは無いが、中途半端な所でぷっつりと断裂している臓物が、粗い切り口からドロリと顔を覗かせている。
 蛆が犇めき、蝿が踊り狂うこの凄惨極まり無い死骸を、燐は口に手を当てて呆然と見下ろしていた。確かに彼女は数多の死体を見て来た。しかし、ここまでこっ酷く傷つけられた死体など、そう簡単にはお目にかかれない。
「こんな死に方、自然界で起こるもんなの?」
 燐の口からやっと漏れたのはこの言葉である。
「死体に関しては燐の方が詳しいと思うんだけど――僭越ながら言わせて貰うと、こんなこと、偶然では滅多に起こらないと思うよ」
 ミスティアが否定の意を示し、胴体の横に転がっている右腕を拾い上げた。
「骨から肉を削ぐ生き物が自然界に存在すると思う? ……いやいや、そもそも腕や脚や頭を切り落とす様なのさえいるかどうか」
 それだけ言うとミスティアは、切断されている右腕を、そっと胴体の腕のあった部分へと置いて戻した。しかし、ごっそりと肉を削ぎ落とされた腕を元あった所へ置いてみても、もはや生前の人間の少女の面影をそこに認めることは叶わない。
 死体を凝視していたミスティアは、その傍らに転がっているある物を見つけた。それは、小さな刃物であった。紛れも無く、燐が保険の為にルーミアに握らせた、あの小型の刃物である。余す所無く血に塗れたそれは、べったりとした嫌な粘性を持っている。
「食べる為に、何者かが手を加えたんだね、これは」
 ミスティアが抑揚無く言い放つ。燐は思わず息を呑んだ。
 対して夜雀はそれ程この目の前に広げられている陰惨な光景や、それが齎す衝撃をあまり気にしていない様子で、血で汚れた小振りな刃物を手の中で器用にくるくると回転させて暇を弄んでいる。
「これが凶器みたい。こんな小さい刃物でこんな解体するなんて……考えてみるだけで嫌になるわねぇ。本当にご苦労なことだわ」
 時たま手遊びを止め、小さな刀身を傷口にぴたりと当ててみたりしながら、ミスティアが苦笑を交えて言う。

 そんな夜雀を眺めていた燐が、しばらくしておずおずと問うた。
「ねえ、ミスティア。こいつを解体したのって――」
 燐の言葉の終わりを待たず、ミスティアは言う。
「昨日逃がした人間達の誰かだろうね」
 燐が息を呑む。
「この刃物がある時点で、あの厨房から逃げた食材御一行がここを訪れたのはほぼ間違い無いと思う」
「どうして?」
「この刃物、ルーミアがあなたの脚に刺したものだから」
「分かるの!?」
「分かるよ。刃物はパートナーだからね。区別は付くようにしているの。火災のどさくさに紛れて逃げ出した食材御一行の誰かが身を守る為に拾ったんだろうね。どうしてこれがルーミアの手にこれが渡っていたのかは分かんないけど。燐、何か分かる?」
「さあ、何でだろうね。全然分かんないよ」
 燐はしらを切った。ミスティアは特にそれについて言及せずに続ける。
「仮に、ここへ逃げてきた食材御一行が、何の関係も無い妖怪に襲撃されてこの有様だとしても、こんな粋な食い方を試みる妖怪なんていないだろうし」
「だからこの子は、あの逃げ出した人間達の中の一人で、この子をこんなことにしたのもその中の一人であろうってことか」
 ミスティアは頷いた。
「具体的に誰か――って言う察しは?」
 更に燐が問いを重ねる。
「先生かルーミアだろうね」
 ミスティアが即答する。燐も同じことを考えていた様であるが、しかし、何かしら末恐ろしいものを感じ、身を震わせた。
「流石に人間の子どもにこんなことはなかなか出来ないと思うし、やる理由も感じ無いかな」
「出来る出来ないは別として、理由ならあるよ。ミスティアの料理に魅せられたからがんばってみたとか」
「それはとても嬉しいんだけど、違うと思うな」
 ミスティアが死骸の傍に屈んだ。
「――この死体の感じだと、解体の知識が皆無と言う訳ではない様に見えるの。雑ではあるけど、基本がある程度出来ている。薄暗い所為でちょっと手間取ったのかもしれないけど、それでも、聞きかじった程度の知識があるか、それとも久方ぶりに記憶の奥底から知識を引っ張り出して行使したか……そのくらいの技量は持ち合わせている感じがする」
「流石に人間の子どもが人体解剖の知識なんて持っちゃいないかな」
「正確には人体解剖では無くて、人型の生物を食べ物として解体する知識ね。……それに、凶器はこんなに小さな刃物なんだから、人間の子ども達の力じゃ、ちょっと実現は出来ないよ」
「だから先生か、ルーミアなんだ」
 燐が少し躊躇いがちに言う。ミスティアは頷いてそれを肯定した。
「だけどさ、先生がこんな惨たらしいことするかな? そもそもそんな知識を持ってることがおかしくない?」
「慧音先生も妖怪だから人間を食べたくなるのは自然――って、燐が言ってなかったっけ?」
「言ったけどさ……教え子だよ? 必死に護ろうとしていた」
「普通はそう考えるね。あくまで可能性の話だよ」
「……じゃあ、闇の妖怪はどう? あんな小さい子がこんな小難しいこと出来ると思う?」
「夜雀の女の子だって小さい頃から花嫁修業として、こういうことくらいするわ。あの子がちょっとくらいそう言う知識を持っていても別に不思議じゃないし、その気になればこれくらいは出来るよ」
「……夜雀って花嫁修業でこんなことするんだ」
「まあね」
 ミスティアがどこか誇らしげな声色で言う。
 
 燐は一度閉口し、またそう経たぬ内に口を開いた。
「頭が無いのは何でだろう?」
「手土産にしようと考えたとか?」
 ミスティアが飄々と答える。
「手土産?」
「うん。髪を掴むと持ち易いんだよ、頭って。しかも脳みそとか目玉とか、ぱぱっと食べられる部位もある」
「別の場所で食べる為に持ち去ったってこと?」
「その通り」
「まるでお弁当だね……」
 燐が苦言を漏らしたが、ミスティアは無視した。
「それから、頭が無いと死体の身元を隠せるね。現にこの死体、誰のものか全然分からないでしょ。私はいちいち顔を覚えていられないから、顔があっても誰かは分からないけれど」
 こう言われて燐は、思わず死体に目を落としてしまい、慌てて目線を逸らした。
「犯人が先生であるにしてもルーミアであるにしても、死体の身元を隠す必要性なんて見出せないから、これは手土産で間違い無いと思うね」
「そんな残酷なことを知ってるってんなら、やっぱりルーミアがやったんじゃない?」
「うん。決めつけることは出来ないけど、そんな気はするなあ。流石にこれは人間の生活の中では取り扱われない知識だと思うし」
「頭弁当云々も花嫁修業で習ったの?」
「うん。忙しい夜、寝坊しちゃった夜、お仕事に赴く旦那様の為の最終手段として」
「一体どんな花嫁を目指してんだよ、あんた達は……」
 燐は何だか眩暈がしてきて、どしゃりと湿った地面に腰を降ろし、石質の壁に背を預け、額に手をやった。

 気分悪そうに俯きつつ、またも燐が問う。
「人間達が人里に帰っていないのは?」
 燐はもう自分であれこれ考えるのが面倒になって来ていると見える。ミスティアにそれらしい回答を求め、それで完結しようとしている。
「ルーミアに食われて全滅。見知らぬ妖怪に襲われて全滅。先生に食われて全滅。若しくは、ルーミアと慧音さんが結託して、彼奴等に食われて全滅――これのどれかじゃない?」
「ああ、ルーミアが先生を唆したってのは――あり得るかもね」
 燐はやっとそれだけ返事をした。
「ここには死体が一つしか無い。別の場所に囚われているのか、場所を変えて全員食われたか……」

 ミスティアはしばらくの間、凶器たる刃物を弄びながら考え込んでいたが、不意にその手を止めた。
「このまま死体と睨めっこして考えていても何も始まらないわ」
 洞穴の外へ歩み出した。燐が立ち上がり、それを追う。
「もしかしたら、私達がこうして探偵ごっこをしている間に、慧音さんかルーミアが、やること済ませて人里へ行って、あること無いこと暴露してるかも知れないし」
「それはまずいじゃないか!」
 燐が素っ頓狂な声を上げる。
「逆に考えれば、私達が慧音さん達を探す労力を払う必要が無くなるってことにもなるけど」
「そんなポジティブな発想はいらないよ! 代わりにあたい達、人間達の怒りを買ってお尋ね者になっちゃってるかもしれないんだよ!」
「だから安易に人間に手を出すなって忠告してたのよ」
 ミスティアは呆れた口調。今更のように燐は自らの軽率な行動を後悔した。
 ミスティアは森林まで歩んだ後、
「一回人里に行ってみようか」
 と提案した。しかし、燐は首を横に振る。
「嫌だよ、恐ろしい」
「だけど、慧音さんが帰ったことを知らないで慧音さんを探すってあまりにも無駄だし、途方も無いことじゃない」
 ミスティアはこう言ったのだが、燐は断固として人里へ帰ってみようと言う提案を受諾しようとしなかった。暖簾に腕押しの説得を数分間続けた後、ミスティアは燐の説得を諦めた。
「分かった。じゃあ、私だけで帰ってみる。燐は来なくていいよ」
「あたいはどうすればいいの?」
「妹紅さんを見張っておいてよ。あの人、私達に都合が悪い形で今回に関わってるから」
 藤原妹紅の監視――これまたはっきり言ってやりたくない仕事であるが、人里へ行くよりはいいかと、渋々燐は了承した。

 お互いのやるべきことが決まった段階で、二人はそれぞれの持ち場へ向かうべく離別した。ミスティアは人里へ、燐は厨房の焼け跡へ向かって、それぞれ歩み出した。


*


 ミスティアも人里へ向かうことに何の躊躇いも抱いていない訳では無かった。慧音が帰っている可能性も十分に考えられたからである。もしも自身の悪評が既に人里全体に知れ渡っていたとしたら、ミスティアはまさに飛んで火に入る夏の虫である。
 人里へ近づくに連れて緊張感は高まって行く。激しく脈打つ心臓を抑える様に胸に手をやり、深呼吸し、着実に歩を進めて行く。
 見慣れた人里の風景を遠巻きに目路に捉えた瞬間、ミスティアはふと足を止め、里の様子を窺ってみた。
 ――慌ただしい様子は無いかな。
 人里の人間六名を拉致した――もしかしたら五人殺したことになっているかもしれない――妖怪の存在を知っていれば、きっと人里は大騒ぎになっているであろうから、この静けさは、まだ夜雀と火車が引き起こした惨事を知らない証拠であると言える。
 些か安心はしたが、それでも警戒心は緩めること無く、ミスティアは人里へ更に近づき、そして足を踏み入れた。さも、屋台の為の買い出しに訪れたかの様な顔をして。

 果たして、人里は平穏であった。殺してしまいたくなる程憎い存在であるかもしれない夜雀が堂々の大道を歩いてみても、何一つ咎められたりすることは無く、寧ろ挨拶など飛ばされた程である。流石に、遍く人間に自身の心を隠蔽する演技力は備わっていないだろうから、本当に人間達は何も知らないのだろう、とミスティアは察した。そして恐らく、慧音もまだ帰っていない――。
 事実の確認の為、ミスティアは行き付けの食料品店を訪れた。店主は相変わらず精悍そうで、人里の子ども五人を料理しようとした夜雀に景気良さそうな挨拶をしてきた。
 ミスティアもそれに応対し、適当に品定めをし、ややあって、昨今の人里を混迷の渦に巻き込んでいる寺子屋の人間達の大掛かりな失踪について尋ねた。途端に店主の表情が曇った。
「まだ帰って来ていないんだよ。痕跡もありゃしないとさ」
「一人も生還者がいない?」
「ああ」
 それはお気の毒に――口ではこんなことを言っているが、ミスティアは若干安堵している。
 仕入れるべき情報を仕入れ、欲しくも無い食材をちょこちょこと買って、ミスティアは人里を後にし、厨房の焼け跡のある洞穴へと向かってのろのろと歩き出した。
 慧音が人里へ帰っていないと言うのは、子ども達の処理に手間取っているのか、それとも何か別の理由があるのか――。
 何はともあれ、一先ず事なきを得た様だと、ミスティアは楽観的にこの結果を捉えた。
 森を歩いている最中、自分の不注意の所為で藤原妹紅に厨房の場所を割られてしまったことを思い出し、警戒を強めながら、ゆっくりと慎重に厨房へ向かった。
 いつもより多く時間を掛けて洞穴に辿り着いた。通り慣れた暗い道を歩き、扉を開け、黒焦げの厨房へと立ち入る。

 ――その刹那、ミスティアは思わず足を止めた。
 元厨房内が真っ暗であったのだ。
 燐が先に帰っているとばかり思っていたのに、中がこうも暗くては驚きもしてしまう。人里での購入品を適当な高さの爛れた台の上へ置き、ミスティアは警戒心を強めつつ部屋の中央へ歩み寄って行く。
「燐?」
 この空間にいる筈の友人に声を掛けるが、自分で発した声があちこちへ跳梁するばかりで、返事など一つとして無い。焼けた地面を踏み締める音、己が呼吸音――そんな些細な音が大きく感じられる程、元厨房内は闃寂の世界の様相を呈している。
 ミスティアは真っ暗で真っ黒の世界の中で頻りに手を動かし、照明を求めた。以前、ここが現役の厨房として利用されていた頃、カンテラを掛けていた辺りに手をやる。
 果たして、カンテラはその位置に掛けられていた。偶然にも人里で購入していた燐寸を擦って、カンテラに火を灯す。
 ようやく手に入れた光に照らされた元厨房たる空間は――蛻の殻になっていた。
 火焔猫燐も、彼女が使役している死した妖精も、捕えていた藤原妹紅さえもいなくなっている。燐だけがいなくなるならばまだしも、妹紅までもが姿を消す理由が全く分からず、ミスティアは困惑するばかりであった。
 ――燐の裏切りか? それとも、妹紅を“責任持って処分”しに行っているのか?
 そんな推測もしてみたが、結局推測の域を越えない。実に不毛であった。

 仕方が無いのでミスティアは、焼け爛れた厨房で、ただぼんやりと、無益なのか有益なのか判然としない時を過ごした。
 上白沢慧音の消息を知るどころか、日中行動を共にしていた火焔猫燐も、厨房から動かさない様に対処していた藤原妹紅までもいなくなってしまった。これからどう動けばいいものやら見当が付かず、この三人に最も縁の深いこの厨房で、誰かが帰ってきやしないかと居座り続けることに決めたのだ。
 しかし――誰かがやって来ることは無かった。
 随分長い時間居座っていたが、次第に椅子に座っているのも嫌になり、暇潰しに適当にそこいらをほっつき歩いて、焼け跡の探索など始めた。だが、ありとあらゆるものが炎の蹂躙によって黒ずんでいたり、焼け焦げたりしていて、もはや目ぼしいものや有用なものなど、何一つありはしなかった。

 その探索の最中、何の気無しに牢獄の様な食材庫を覗いてみた所、ミスティアはあるものを見つけた。
 それは、焦げ切った一枚の皿である。
 少し記憶を辿ってみて、どうにか思い出せたのは、ここが全焼する直前、妖怪で料理を作り、その料理を燐が食材庫の中の人間に少しだけ分け与えていたことであった。その分け前を載せた皿が、今食材庫内で発見した焼け焦げた皿であった。
 子ども達が気を失っている恩師たる上白沢慧音に料理を与えようとしていることも、関連して思い出した。次いで、慧音は気を失っていたから食べることもなかったことも思い出せたのだが、ミスティアが発見したこの皿には、焦げた肉の残骸が少しも無い。つまり、皿は中身を完食された状態で火に焙られたと言うことである。
 慧音へ肉料理を与えようとした後は、いよいよ人間達へ手を回そうとしていた頃であり、呑気に食事などしている場合では無かった筈である。それなのに皿が空っぽと言うのは、一体どういうことだろうか――?
 ……こんな異変に執心したのも束の間のことで、すぐにミスティアは、慧音が見つからないことによる身の危険などに頭を切り替えた。

 何ら収穫の無かった探索の後も、もう少しだけ厨房に居座ってみたが、何の音沙汰も無い為、痺れを切らした夜雀は、やっとこの場所を離れる決心をした。燐も、妹紅も、慧音も、何を考え、どう動いているのかが分からない今、不用意に幻想郷をほっつき歩くのは危険な様にも感じたが、流石にこんな焦土にいつまでも居続ける訳にもいかない。
 厨房を出た所で、一体どこへ行けばいいのかは分からなかったが、それでも、ここへ固着する必要は無いと判断し、ミスティアは厨房を後にし、客室を抜け、暗い洞穴の道を通って、森へ出ようと歩き出した。

 もう世界は夜を迎えていた。
 洞穴の道を抜け切った所で辺りは真っ暗なのだろうと思っていたのだが――出口を目路に捉えたその瞬間、ミスティアは真夜中の幻想郷に異変を見出した。洞穴の形に切り取られた森の上に広がる空が、やけに赤いのである。
 一体何事かと、ミスティアは隧道を駆け抜け、外へ出た。
 外へ出てみて、すぐに理解した。赤いのは空ではなく、地上であると。地上の赤が、空をも赤く見せているのである。そして、その赤色を背景に仕立て上げ、濛々と自己主張するのは黒色の煙。
 何かが焼けている。だが、野焼き焚火の範疇に留まるもので無いことは、赤く染められた空を見れば明らかである。
「これは――人里の方向かな」
 ぼんやりと独り言を口にした次の瞬間、ミスティアは人里に向かって駆け出していた。

 暗い森を器用に駆け抜け、到着した人里は――果たして、猛火に包まれていた。人里の入口に突っ立って廃人へと帰して行く人々の住処を眺めてみても、火元がどこなのかなど判然としない程、里の端から端まで満遍なく炎が蹂躙している様子から見るに、不注意による出火では無いだろう、何者かが火を放ったのだ――と、ミスティアは推測した。それが誰なのかは、一夜雀でしかないミスティアには全く分からなかったのだが、最近は人里の住民と危うい関係を築いた日々が続いていたものだから、この見計らった様な不審火も、自分と無関係であると思うことが、どうしても出来なかった。

 別に人間に肩入れする義理など無いし、何か想い慕う者が住んでいると言う訳でも無いのだが、この未曽有の大惨事の収束を目の前にしていると、何もせずに去ることが何だか憚られ、自然とミスティアは、炎が猛り狂う人里へ向けて更に歩みを深めていたのだが――

「夜雀ッ!」

 ――不意に呼び止められた……様な気がして、反射的に声がした方へと向き直した。

 蓬莱人がいた。藤原妹紅である。人里を蹂躙する炎に照らされているお陰で、真夜中ながらその姿を容易に確認することが出来る。憎悪、激憤、苦悶、執念――表情にはいろいろな感情が浮かんでいるが、とかく自身に不利益を被りそうなものばかりと、ミスティアの目には映った。
 ――昨今のごたごたの全てはこいつが起源なんじゃないか?
 業火の熱気と夏の暑気でぼんやりとしてきた頭で、ミスティアは投げ槍にこんなことを考えた。


 藤原妹紅と言えば、思い起こされるのは炎である。愛用の厨房はこの人間の発した炎によって全焼してしまったのだから、ミスティアにとっては憎くもあり、若干のトラウマでもある。
 ミスティアは、蓬莱人と、今まさに焼け落ちている真っ最中の人里とを交互に見やった。まさかこの蓬莱人が――とまで考えた所で、
「これも、お前がやったのか?」
 妹紅にこう問われてしまったので、浮かび上がった推測を即座に棄却した。そもそも、妹紅が人里を焼く理由が一つとして見当たらない。
「私じゃありませんよ」
 ここ数日でいろんな罪を重ねてしまったが、濡れ衣を着せられてこれ以上の悪者にされてしまっては敵わないから、ミスティアはこう言って自身の関与を否定した。ただこれしきのことで、この蓬莱人の怒りが収まる筈も無い。この火災以外にも、妹紅は夜雀に対し、様々な怒りを抱いているのだから。

 妹紅が臆することなく発している憤怒を、ミスティアはひしひしと感じてはいた。しかし、目の前のこの敵に、それ程の脅威は感じなかった。
 その憤激は張りぼての様なものであったのだ。蘇生と言う、生命の在り方に真っ向から対立する大掛かりな所業――それに伴う絶大な代償を、藤原妹紅は未だに背負っているらしいのである。今目の前で倒れられても、ミスティアは寸とも驚かないでいられる自信があった。寧ろ、これ程の気迫を持って自分に立ち向かって来られる今この瞬間の藤原妹紅に驚きにも似た敬意を覚えていた。
「本当によくがんばりますね」
 ささやかな賞賛の言葉を送った後、ミスティアは疑問を投げかけた。
「ところで、これまでどちらに? あの焼け跡からいなくなっていた時は本当に驚いてしまいました。燐があなたを見張っていた筈なんですけど、どこへ行ったか知りません?」
 大敵に淡々と質問を投げ掛けられた藤原妹紅は、自嘲めいた苦笑を浮かべた。己が身体の衰弱ぶりを、己が身体で感じているからこその苦笑である。弱り切ったこの不死身の体は、目の前の夜雀にとっての脅威にはなりえない――妹紅はそれを分かっている。
 だから妹紅は、“こころ”を攻めた。

「燐は――死んだよ」

「何ですって?」
 いくら藤原妹紅が恐れるに足らぬ敵であったとしても、なるべく動揺など見せたくなかったのだが、妹紅の発した一言を受けたミスティアは、狼狽を隠し切ることはで出来かった。
 蓬莱人の苦しそうな笑みは、勝ち誇った様な、気障な笑みに移り変わる。
「死んだと言っているんだ」
 傍らからは炎、眼前からは凶報――ミスティアは自分の身体がじわじわと熱くなるのを感じた。
「あなたがやったんですか?」
 妹紅は首を横に振る。
「私じゃないよ」
「では、誰が――」
「慧音だよ」
 言下に、淡々と放たれた、二つ目の衝撃。
「慧音が殺したんだ」
「慧音さんが」
 暑気も熱気も、何処かへ消え去ってしまったかの様な――堪え難い悪寒を、ミスティアは覚えていた。


*


 ――彼女は、自身の本名を覚えていない。覚えていないと言うより、意識的に抹消してしまったのである。もはや、この世に生まれ落ち、両親がこの上ない愛と慈しみを持って名付けてくれた彼女と、今現在の彼女は、全く別のものであると思ったからである。
 ただ、全く別物である自分が、両親が考え付いた名を名乗ってしまっては両親に失礼だとか、そんな謙虚な感情などは無い。彼女自身――上白沢慧音その人が、過去の自分を捨て去りたく思い、本来の名を捨てたまでのことである。

 慧音――正確には慧音では無いと言うことに本人はしたがっているが、便宜上こう呼ばせてもらう――は、ごく普通の家庭に生まれ落ちた、人間の子であった。性交による生命の原形の創造、母体内での成長、そして出産……その過程全てに、何一つ不備は無かった。
 生後もこれと言った深刻な病気や大きな怪我をすることも無く、すくすくと健康的に成長した。
 頭の回転が速く、明晰な子で、親類や知人、赤の他人からまで、様々な期待と賞賛を受けた。彼女自身、そのことを誇りには思いつつも、決して鼻に掛けることなく過ごした。そのお陰であろう、同年代の友人らからの信頼も厚かった。多くの優良な友人を持っていた。
 将来、教師になりたいと言う夢はこの頃に抱いたものである。自身の教養を深めることにも繋がると思ったし、他人に自分の知識を与えるのが好きで仕方が無かった。
 勉学も滞りなく進んだ。年齢の割に勤勉すぎる、将来頭の固い人間になりはしないか――と両親が心配した程である。
 何もかもが順風満帆であった。
 だが、その平穏は齢十四にして脆くも崩れることとなる。

 家族も、知人も、友人も、村の長にも、偉大な僧や霊媒師にも、そして慧音自身にも、到底理解出来なかったし、未だに誰一人としてその原因を説明出来ないのだが――慧音はある夜、突如として妖怪化してしまった。頭から二本の角が生え、臀部からは尻尾が伸び、爪や歯が獣の様に鋭く尖った。
 両親にさえ悲鳴を上げられたのだが、誰よりも驚いたのは慧音自身であった。鏡の中の自分が化け物となっているのだから、驚くなと言う方が無理である。
 真夜中に阿鼻叫喚の地獄と化した所為で、隣人や周辺の家々が何事かと慧音宅を訪れて、彼女の姿を見てしまった。

 それから、慧音の日常は一変してしまった。
 満月の夜に妖怪となった少女――この様な異分子と上手く付き合っていくのは、残念ながら人間には難しい。
 夜が明けてみると、慧音はいつも通りの人間の姿に戻ってはいたのだが、それでも彼女への風当たりは酷いものであった。
 外を歩けば白い眼で見られ、家に籠れば壁に石を投げられた。
 元々それ程親交の無かった者は勿論、友人と言う友人が口を利かなくなった。事件直後はまだ気を遣ってくれる者がちらほらといたのだが、次第にその者達も、妖怪に肩入れしていることで村八分される恐れ、彼女から離れて行った。
 親類も憤慨した。
 妖怪の子が生まれたと言うことは、両親の何れかが妖怪か、或いはその遺伝子を継ぐ者なのではないか、等と言う疑心を生み出した。無論、お互いに自分達一族の潔白を主張し、お互いを疑り始めた。両親はどちらも健常な人間であるのだが、口では何とでも言えるとお互いに譲らず、一気に険悪な雰囲気となった。
 親類内での諍いはまだしも、周囲からもそのような眼で見られてしまう羽目になったことが、何よりの痛手であったと見える。やり場の無い錨は全て慧音への並々ならぬ憎悪と言う形で発散された。

 こんな状況で、慧音に残された最後の希望は両親であった。いくら慧音が妖怪と化しても、流石に生みの親二人はそう簡単には彼女を見捨てることはしなかった。周囲からの迫害の手はこの両親にまで伸びつつあったのだが、それでも両親は慧音を庇い続けた。初めは、いくら不慮の出来事とはいえども、両親に申し訳無く思っていた慧音であったが、周囲に味方がどんどん減って行く中では、もはや申し訳無いとか、そんな感情を持ち合わせている余裕は無かった。まるで乳呑児にでも後退したかの様に、慧音は両親の愛情を求めた。これまでに形成してきた人格や、何となく周囲に定着させてきた性格など一切合財捨て去って、両親の求愛を貪った。しゃぶり尽くした。死ぬ程甘えた。
 ――それ故に、両親の企てた一家心中に巻き込まれた時の衝撃は一入であった。人目を忍んで、真夜中に三人で出掛けた。慧音は何の疑いも持たなかった。ただ、自分が他人の目に付くのが嫌なだけなんだろう――そんなことしか思わなかった。
 真夜中の川沿いに茣蓙など広げ、母親の作った夕食を食べた。こんな真夜中に人などいる筈もないから、三人は何の気兼ねも無く雑談をした。やや夜風が冷たく感じられたが、慧音は我慢していた。
 時が経つに連れて慧音は眠気に襲われ、気付いたら父親の腕に抱かれて眠ってしまっていた。
 その間に、両親は慧音を抱いたまま、川へと飛び込んだのである。
 奇跡的に入水直後に目を覚ましてしまった慧音は、状況の理解が出来ず、ひたすらにもがいた。川の水深は深く、加えて流れが速かった。普通の人間であれば到底生きて帰れる様な環境ではない――と言うのが近所の人間の語る所であるが、やはり完全な人間でない由縁であろうか、慧音は生き延びてしまった。たった一人で。
 そもそも、陸に上がってみるまで、両親まで水に落ちたなんてことは知らなかったのだ。誰もおらず、夜風に吹かれて空しげにばさばさと音を鳴らしている茣蓙の如きが、慧音にあまりにも悲惨な現実を教授したのである。

 川の終末たる溜め池に夫妻の水死体が浮かんでいたから、二人の死が発覚するのは極めて早かったし、また狭い村であったことから、人々に知れ渡るのもあっと言う間であった。心中であったことは、家に遺されていた遺書によって判明した。――慧音は生き延びてしまったので、心中未遂と言うこととなる。
 あんな奴の為に死んでしまったなんて――想定通りの罵詈雑言を浴びせられたが、悲しくも何ともなかった。心中とは即ち、両親の慧音に対する裏切りと同義である。裏切り者に抱く感情はただ一つ、憎悪だ。
 両親にさえ愛されていなかったんだ――そう思うことでようやく慧音はいかにも自分本位な涙を流すことができた。

 慧音は一人っ子であったし、父方にも母方にも忌まれていたので、居場所を失ってしまった。完全な妖怪であったならば、人の社会や村なんて捨てて、妖怪らしく生きると言う道もあったであろうが、基本的に彼女が完全な妖怪になるのは満月の夜だけであって、それ以外の時は人間なのである。『人間らしく』生きて行かねば、到底生きて行くこと等出来ない。
 いっそのこと死んでしまおうかとも考えたが、それはそれでなかなか勇気のいることであった。逝った先にも、自分に愛情を注いでくれる人間はいないと思うと、死ぬことに何の価値も見出せなかった。
 ぼんやりと両親のことなんかを思いながら数日を過ごした後、慧音は必死に頼み込んで、村の大家に召し使いの様な形で雇って貰うことに成功した。賃金も労働環境も待遇も、人とは思えない不遇ぶりであったが、生きるには仕方の無いことだと割り切った。

 雇われた大家で、慧音は人並ならぬ労働を強いられた。妖怪なのだから人並以上に働ける筈だ。嫌なら出て行って構わない――と言うのが家主の言い分である。やはり半人半獣と言う特殊な生態が影響しているのであろう、確かに慧音は歳と容姿の割に体力があったし、知恵もよく働いた。それでいて軽蔑の対象とあれば、これはいい労働力である。彼女は人として扱われていなかったのだ。畜生か、絡繰りか、馬車馬か、傀儡か――そんな類である。

 当然のことである様に、働き先でも友人や理解者と巡り合えることは無かった。不憫に思ってくれている程度の人はいたが、特に何か手解きをしてくれる様なことは無かったし、慧音の方から喋り掛けることもしなかった。自分に救いの手を差し伸べる者が不幸になると言うことは、両親が身を持って教えてくれたからである。――両親が最期の最期で慧音に残した教訓は、悲しい程の効力を発揮した。
 寝泊まりは倉庫の空いた空間で行っていた。そこに粗末な敷物を敷き、暑いも寒いも関係無しで眠った。
 雇われた当初は食事も貧相で、塵箱を漁ったり、他人の残飯に手を出したりしていたが、その内、食事だけはまともにとらせて貰えることとなった。と言うのも、飢餓状態にしていると、いずれ人間に手を出すのではないかと警戒されたからである。不愉快な理由ではあるが、食事ができることには素直に喜ばしく思えた。
 賃金は最低限のものであり、且つ衣服などの支給は無かったので、趣味や娯楽に金を使っている暇は無かった。教養を身につける時間も金も無かったから、いつか夢見た教師と言う仕事が急速に現実味を失って行ったのだが、慧音は別に何とも思わなかった。今のこの生活が、自分に最も相応しいもので、これが自分の一生なのだと割り切ったのである。己が凋落ぶりからはただひたすら眼を背け続けた。直視したら、もう立ち直れないような気がしたから。

 そんな牛馬にも鼻で笑われそうな貧相な生活を続けて、およそ一年が経過した頃。
 この頃には、慧音への、よく言えば信頼感、悪く言えば耐久性とでも言えそうな、偏見や先入観の様なものがすっかり定着していた。
 半獣はまともな人間よりも頑丈で、力が強く、体力がある――と言う認識である。慧音は、歳不相応な重労働を任される様になっていた。重たい荷物を遠方まで運んでみたり、山に駆り出され木材やら山菜やらを採集させたり、時には害獣退治にまで連行されたり――大人の男がやる様な仕事を強いられていたのである。いつの間にか、大家の垣根を越え、まるで便利屋の様な存在となっていた。前述した彼女の能力の他に、万が一死んでも文句が全く出ないこと、賃金が安く上がることなども理由の一つである。……これだけやっても、彼女への差別や軽蔑は、一向によくならなかったのだが。

 この重労働の一環で、慧音はある日、真夜中の山を一人、とぼとぼと歩いていた。背中に大量の木材を背負い、手にはぼろい提灯などぶら下げて。
 朝からほとんど無休の状態で働き続けていた為、半獣の強靭な身体を持ってしても、疲労感は壮絶なものであった。まっすぐに歩くことが出来ず、よたよた、ふらふらと、半醒半睡の状態で山を歩いていた。これが終わったら流石に休めるかな――などと、ぶつ切れの意識の最中に思いながら。
 その最中であった。
 前方から何やら二重の悲鳴が聞こえて来た。忽ち慧音は覚醒し、前方を見やった。遠くでちろちろと、提灯の灯りが振り乱れているのが確認出来た。何事だろうと、慧音は棒の様な脚を無理矢理動かし、重たい荷物を背負ったまま駆け出した。生まれ持った正義感なのか、いつの間にか染み付いた隷属性なのかは定かでは無いが、とにかく何かしら困った人間を見ると、助けなくてはと言う思いが働いてしまうのである。
 提灯の灯りまであと十数歩と言う所で、慧音はびくりと体を硬直させ、慌てておあつらえ向きの大木の裏に身を隠した。獣の類であれば何とかなると思っていたのだが、恐怖に顔をひきつらせている人間二人が対峙しているのは、獣などでは無かったのである。
 大の男二人ににじり寄るそいつは、人のような姿をしていたが、決して人ではなかった。人と呼ぶには、あまりにも不必要な要素があり過ぎる。獣の様な耳、鋭利な爪、不気味に輝く瞳に、大きな翼――男達が遭遇しているのは、妖怪であったのだ。
 一応身を守るべく持ち合わせていた護身用の武器を構えてはいるが、使用者がすっかりへっぴり腰になっており、慧音が見る限りは、どう贔屓目に見ても太刀打ち出来そうに無かった。しかし、太刀打ち出来ないのは慧音も同じことである。いくらなんでも妖怪に立ち向かう術など持ち合わせていない。
 慧音は、命運尽きた男達に心中で謝ってその場を去ろうとしたのだが、ふと眺めた妖怪の愛嬌が、何故か慧音の心を捕えてしまった。慧音はその場を動くことが出来なくなってしまった。
 歳は、妖怪の年齢が人間のそれと同等とは思えないが、慧音よりも高く見えた。人間で言えば齢十六程度の頃であろうと、慧音は見積もった。桃色の髪は肩甲骨の辺りまで伸びている。しかしやはり野生に生きる妖怪の性であろうか、髪の質は悪く、艶なんかとは無縁である。
 微かに釣り上がった口元は、何となく残虐性を帯びているが、普通に笑えばさぞや可愛いんだろうな――そんなことを考えていると、
 妖怪が飛んだ。見てくれに関わらず俊敏である。
 長く伸びた爪が男の一人の首を掻っ捌いた。
 一見して助からないと分かるような夥しい血が噴き出し、次いで糸の切れた操り人形の様に、男はその場に倒れ込み、すっかり動かなくなった。落ちた提灯がめらめらと惨めったらしく燃え出した。
 相方の死を受け、もう一人の男はすっかり委縮してしまった。
 持っていた武器を投げ捨て、一目散に背を向けて駆け出したのだが、妖怪に速さで敵う筈が無い。
 翼を豪快に動かし、妖怪はあっと言う間に男の目の前にまで飛び出した。まるで瞬間移動でもして来たかの様な妖怪の俊敏さに、男は女子供の様な叫び声を上げたのだが、それも長くは続かない。またも妖怪の爪が、そのけたたましい絶叫を響かせる喉を切り裂いたのである。

 事の顛末を見届けて、ようやく慧音の中に、至極まともな感情と、思慮が舞い戻って来た。
 ――恐ろしい。逃げなくては。
 一歩退いた、その瞬間。
 足元からポキリと、寂々たる夜の山の中にしては痛快すぎる快音が発せられた。小枝を踏み折ってしまったのである。
 ハッと慧音が足元を見やり、顔を上げた頃には――人間二人を殺めた恐ろしい妖怪は慧音の目の前まで移動していた。音も気配も掻き消した俊敏すぎる移動――繰り返すことになるが、まるで瞬間移動である。
 慧音は退くことも、振り返って走り出すことも出来ず、こてんとその場に尻餅をついてしまった。背中に背負っていた大量の木材ががらがらと地面に落ちる。奴隷の様な生活を続けてきたが故の本能であろうか、慧音は目の前の妖怪を恐れつつも、ばらけた木材を集めようと、それに手を伸ばしていた。手に持っていたぼろい提灯は中の火が引火してめらめらと燃え尽きようとしている。
「見ちゃった?」
 妖怪が問い掛けてきた。慧音はそれに答えることも、首を動かすことも出来ず、ただただ眼前に立ちはだかる妖怪を見上げることしか出来ない。
「その様子だと、見てしまったみたいね」
 妖怪の手が慧音の首根っこを掴んだ。冷酷な殺人鬼の手は、血に汚れているお陰か妙に温かい。
 慧音は抵抗らしい抵抗もすることが出来ず、ひたすら自身の運の無さを嘆いた。
 同時におかしな解放感を感じていた。自ら命を絶ってしまうことは出来なかったが、こうして不幸な事故の中で殺され、この世から退場出来るのであれば、それもそれで悪くないのではないか――と思えたのである。
 人の肉と肌を易々と切り裂いた爪が、慧音の喉を掻っ捌く――その寸での所で、妖怪の手が止まった。
 ぎゅっと目を瞑り、最期の瞬間を迎えようとしていた慧音は、なかなかその瞬間が訪れないことに違和感を覚え、恐る恐る目を開けてみた。
 闇の中で、妖怪の瞳が光っている。よくよくその表情を見てみると、何やら困惑している様子である。
「……人、じゃない?」
 妖怪が眉根を顰める。
「いや、だけど人外でもない。変な子」
 パッと、妖怪の手が慧音の首根っこを離した。
 死の淵から奇跡的に生還した慧音は、壮絶な虚脱感に襲われた。そして、早朝より蓄積してきた極度の疲労の全てが、虚脱の隙を突いて怒涛の勢いで彼女の心身を駆け廻っていく。
 その反動で慧音は意識を失った。



 目覚めると慧音は、焚火の傍らで眠っていた。目を開いて一番初めに映ったのは、煌々と燃えている焚火と、その火で焙られている、竹串に貫かれた肉であった。身体というものはどうしようもない正直者で、火に焙られて程良い焦げ目のついた肉と、それが発する香りに刺激され、慧音の腹はぐぅと場違いに平和な音を立てた。
 もぞもぞと起き上がり、ぼんやりと肉を眺めていると、
「おはよう」
 背後から声がした。
 ぎくりとして後ろを振り返ると、先程の妖怪がいた。桃色の長髪、大きな翼、獣の様な耳、鋭利な爪――付着していた血はある程度拭き取られている――。慧音は即座に逃げようとしたのだが、すぐにどすんと、冷たい石質の壁に退路を阻まれた。よくよく辺りを見回してみれば、狭苦しい洞穴の中にいることが分かった。満足に動き回ることができない。
 取り乱している慧音を見て、妖怪がくつくつと笑った。
「そんなに怖がらなくていいよ。取って食べたりはしないから」
 明朗たる少女の声がそんな残酷なことを言うものだから、慧音は何だか夢でも見ているような気分になった。
「どうして、私は殺さないの?」
 恐る恐る慧音が問う。
「仲間だもの」
 妖怪が即答した。
 仲間――慧音は複雑な気分であった。仲間と言うものとは無縁のまま一年以上の時を過ごしてきたから、理解者が出来ることは喜ぶべきことではあった。しかし、相手は妖怪である。人間と妖怪の狭間をよたよたとバランスを取って歩んでいる元人間である慧音は、妖怪と言われても素直に喜べないのである。
「不服そうね」
 妖怪が言う。
「まあ、人間でもいいよ。あなたは何だか、どちらでもあるようなカラダをしているし」
 自身の異変を知られている――それでもって尚、好意的な態度を取られるのは久方ぶりのことであった。
「お腹空いてるでしょう?」
 妖怪が話の腰を折った。
「それ、食べていいよ」
 それ――と言って指差したのは、焚火の周りで火に焼かれている肉の塊である。
 慧音は返事も御礼も礼儀もそっちのけで肉へ手を伸ばし――しかしその一つを手にする直前でぴたりと手を止めた。
「これ、さっきの……?」
 さっきの……何なのかは言葉を濁したが、怯えた様な瞳が、その意図された空白に当て嵌まる言葉を雄弁に物語っている。
 妖怪は首を横に振った。
「違う。これはあの人間達じゃァないよ」
 一方、妖怪は言葉を隠す気など微塵にも無い様子である。
「ただ、獣でもない。これもまた妖怪の肉」
「妖怪の? 妖怪が妖怪を食べるの?」
「食われそうになったから返り討ちにして食い返してやっただけのことだよ。時々いるのよ、そういう奴も。……さあさあ、遠慮しなさんな」
 間誤付いている慧音に痺れを切らした妖怪は、椅子の代わりとして座っていた岩からぴょんと飛び降り、雑な作りの竹串に刺さった肉を二つ手に取り、一つを慧音に手渡した。
 何も恐れることは無い――と言った具合に、妖怪が肉を齧って見せた。慧音はそれでも躊躇していたが、身体が――胃袋が、固形物を欲してるらしく、またもくぅと可愛い泣き声を上げた。妖怪がくすくすと笑う。
「体が欲しがってるよ」
 言われて慧音は、意を決した様に肉に齧り付いた。慣れない香草や、よく分からない塩気、とにかく不思議で、真新しい味がした。
「美味しい?」
 妖怪が問う。
「うん」
 真新しいのは事実であるが、美味であることもまた事実であった。妖怪の肉と言う嫌悪感が多少あったが、味覚を司る脳や舌も、空っぽの胃袋も、この慣れない肉塊をすんなりと受け入れた。
 食べ始めてからはあっと言う間で、あれよあれよと言う間に三つの肉を食べ切って、慧音は満足げな息をついた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」

 腹が満たされ、うとうとし始めた慧音は、半ば眠ったような状態で妖怪へ質問を投げ掛けた。
「あなたは、その、何と言う妖怪なの?」
「夜雀――よ。夜の雀と書いて、夜雀」
「夜雀」
 特に意味も無く反芻した。
「鳥の雀はお歌が達者でしょ。私達も歌で人間を惑わすの。だから雀なんだって」
 夜雀が付け加えた。慧音はへえ、と生返事。
「どうして私に優しくしてくれるの?」
 夜雀と言うものについてはそこそこで止めておいて、一番の疑問を問うと、言下に夜雀はけらけらと笑った。
「別に優しくしてあげている訳じゃないよ。さっきも言ったけど、闇雲に同胞を殺してしまうのは止めてるのよ」
「じゃあ、このご飯は?」
 夜雀はやや間を置いた後、
「口止め料、ってところかな」
「口止め?」
「そう。あなたは私が人間を殺した所を見てしまった。それを内緒にしておいて欲しいの。あれこれ対策されたり、討伐に乗り出されたりしたら面倒だからね。あの二人は消息不明ってことにして済ませたいのよ」
「死体はどうするのです?」
「私が食べる」
 夜雀はとんと自身の胸を叩いた。
「とにかく、人間は食べたいのだけど、出来るだけ関わりたくは無いのよ。だから、あなたはもしも住まいの村で人が帰って来ないと騒ぎになっても、黙っていて欲しいの」
 お願い――と、夜雀は少女の容姿に相応しい可愛らしい笑みを浮かべた。殺人の間際の残忍な顔とは似ても似つかない。
 不思議と慧音は、この夜雀に恐怖心を抱いていなかった。寧ろ、久しぶりの好意に喜びを覚えた程である。
「分かりました。絶対誰にも言いません」
 故に、こう返事することに躊躇はしなかった。夜雀はほっと胸を撫で下ろしたのだが、
「その代わりに、お願いしたいことがあるんですけど」
 慧音がこう付け加え、やや表情を厳しくした。まさか妖怪相手に条件を突き出してくるとは――と。
「何?」
 ――条件によっては殺してしまおうと、夜雀は心密かに決心した。
「これからも仲良くしてください」
 慧音が出した条件がこれである。夜雀はきょとんと、慧音を見やった。
「これからも、仲良く? あなた、人と生きているんじゃないの?」
「そうですけど、友達がいません」
「その身体の所為?」
「はい」
「それは可哀想に」
「だから」
 だから――その先の言葉は紡げず、慧音はしょんぼりと項垂れた。
 別に妖怪たる夜雀は、人間に対して情けを掛けてやる道理など無いのだが、何となく、この子が哀れに思えて、
「分かった。いいよ。あなたが私なんかで構わないのならね」
 こう返事がきたものだから、俄かに慧音の顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます!」
 こんなに生き生きとした声を出したのは何時ぶりだろう――慧音自身も分からなかったが、とにかく、慧音は嬉しかったのである。


 その後、夜雀に道案内して貰って、帰路を辿れる位置まで来ると、二人は別れた。
 慧音が村へ帰ると、男二人に加えて慧音までもが帰って来ないと大騒ぎになっていた。慧音が帰って来ないとなると、よほど強力な妖怪か、獣か何かが山に潜んでいると言うことになるから、一応、彼女の未帰宅も深刻な問題として取り上げられたのである。
 それ故に慧音の帰還は、村にある種の安心を与えることとなった。
 どうしてこんなに帰りが遅いんだ――と言う、仕事の依頼主の問いに、慧音は「獣に追われた」と嘘を吐いた。とにかく恐ろしい獣であった、近々妖怪化するんじゃないか――とにかく、夜雀と言う存在を、人間達の意識から遠ざける努力をした。
 慧音が恐ろしいと語るとなると、人間では太刀打ち出来ないのは想像に難くない。増々、人間は山へ入りたがらなくなり、慧音の負担は重くなった。しかし、慧音は山へ入ることに喜びと楽しみを抱いていた。夜雀に会う機会なのだから。勿論、それを表に出す様なことはしなかった。彼女は利口な子であったのだ。

 山へ入ってあれこれ仕事をこなす度、慧音は夜雀と会い、いろんな話をした。自然の中に生きる妖怪の生活の模様や、人々の営む生活の様相。慧音は自身の身上を打ち明けたし、夜雀もこれまでにあった喜怒哀楽の“妖怪生”を語った。
 その中で慧音は、本場の妖怪も決して楽なものではないのだと言うことを知った。人間を辞めて妖怪として生きることを忌避したのは英断であったと、心密かに自画自賛した程である。

 夜雀の食事にありつく機会が多くあった。特に、山菜の収集や、害獣駆除の罠の様子を見に行く時等、状況によって仕事を完遂するのに要する時間が変わってくる時は、夜雀が手伝って時間を作って、二人で食事をした。
 夜雀の手に掛かると、どんな粗末な獣の肉も、弱々しく貧相な山菜も、見違えたように豪勢な食事へと生まれ変わった。慧音はいちいち感動しながらそれらを平らげる。
「そんなに喜んで食べて貰えると、私も嬉しいわ」
 夜雀はこんなことを言った。
「いつか食事処でも開けばいいんじゃないですか?」
 慧音がこんな提案をしてみた。
「妖怪の開く食事処ねえ。儲かるのかしら」
「私は毎日行きますよ」
「それはどうも」
 夜雀がくつくつと笑った。割と本気であった慧音は、何だか馬鹿にされた様な気がして、釈然としなかった。
「私より、寧ろあなたが開いた方が懸命なんじゃない?」
 脹れっ面の慧音に夜雀が囁いた。
「私が?」
「そう」
「出来ませんよ」
「そりゃあ今の状態じゃァできないよ。だけど、やろうと思えば出来るようになるかもよ?」
 薄く微笑んでいる夜雀の言葉は、本気なのかそうでないのかが判然としない。加えて、この一年で夢とか希望などと言った言葉からあまりにも遠く離れた生活を強いられてしまっていた慧音は、夜雀からの激励を素直に受け取ることができなかった。
「やっぱり、無理です」
 俯き加減に呟いた一言は、妙に物悲しく響いた。

 その数日後、再び二人は山中で出会った。
 この時もやはり夜雀は慧音に料理を振る舞ったのだが、この日夜雀は、いつも食べることしかしていなかった慧音に、調理の風景を見せてやることにした。
 とっ捕まえた獣を、さほど大きくも、良質でも無い刃物でざくざくと解体して行く様を、慧音は呆然と見つめていた。彼女の住む村にも肉屋がおり、よく獣を捌いているが、見るからに夜雀が一枚上手である。
 途中まで解体した所で、夜雀がぴたりと手を止め、傍らで見物している慧音に刃物を手渡した。
「ちょっとやってみなよ」
 血と錆でぼろぼろに汚れた刃を握った慧音は戸惑った。
「出来ないですよ」
 こう言って手渡された刃物を返そうとしたが、夜雀は受け取ろうとしない。
 渋々、慧音は刃物を半ば肉塊と化している獣の骸に突き立てた。しかし、解体の知識など無いので、刃物を刺してから先は、今までに見てきた記憶を掘り起こし、見よう見まねでやってみるしか手立てが無い。『自信』と言うものがまるで無縁の存在と成り果てていた慧音は、何かに臆するように、おどおどと手を動かした。
 夜雀が見守る中、懸命に解体作業を遂行した挙句、獣の骸は真の肉塊と成り果てた。切り口は醜く、凸凹としていて、夜雀の行った部分とはまるで別々の物体の様である。
「ほら。やっぱり出来なかった」
 慧音の口調は、悲しいとか悔しいとか、そう言った感情は無く、自嘲の色が強い。こうなることを予測していたかの様な口ぶりである。
「まあ、初めてならこんなもんだよ」
 夜雀は穏やかに微笑みながら、バラバラになった肉を一纏めにした。
「これから覚えていけばいいよ」
 この日から、慧音は夜雀の調理風景を眺める様になった。自分で刃物を握ろうとすることは、劣等感が拒絶してほとんど無かったが、見て覚えようとしている意思が、その瞳からはっきりと感じ取れた。元々賢しい子であるので、見て覚える情報量は多い。対して、夜雀と言う妖怪は大抵物覚えの悪いものだから、眺めているだけであれこれ自分のものにして行く慧音に、とにかく驚くばかりであった。
 そんな生活を一月も続けた頃、慧音は再び刃物を握った。
 見て学んだ知識を総動員し、再び解体に挑戦したのである。
 荒は目立つものの、以前と比べるとまるで別人の様な手捌きであった。
「ほら見ろ、やらなくたってこれくらい出来ているじゃない。やり続けたらどれくらいの腕前になっていたことやら」
 少し血に汚れた夜雀の手が、慧音の頭を撫でた。
 久方ぶりの達成感、満足感、充足感――村での待遇は相変わらずなのだが、慧音は少しだけ自信と言うものを取り戻していた。
 もっと上達して、夜雀に褒めて貰おう――元来持ち合わせている人並ならぬ向上心に、再び火が灯った。

 しかし、ようやく得たこの二度目の平穏も、脆くも崩れてしまうこととなる。
 その日も慧音は、仕事のついでに夜雀に会うべく、山へ向かった。ややあって夜雀と落ち合い、その日も獣の解体をする為に獲物を探して二人で山中を散策していた。
 その最中であった。
 がさがさと前の方から音がしたので、二人ははっとそちらを見やった。獣であれば夜雀が狩って、二人の野趣に富んだ料理教室が始まるのであるが――今度の相手は、獣では無く、人間であったのである。
 外道か――と、夜雀は軽く舌打ちをするに留まったのだが、慧音はそうもいかない。遠巻きに見えるその人間達に、見覚えがあったのである。紛れも無く、同じ村の人間であった。
 慧音は確かに人々から、人間として扱われていない。しかし、完全な妖怪とも見られてはいない。中途半端なのである。
 そんな状態で、妖怪と一緒に山をほっつき歩いている所を見られてしまったら――?
 すぐに逃げ去ればよかったのだが、慧音はまるで地面に縫い付けられたかの様に、その場から動くことが出来なくなってしまった。
「どうしたの?」
 夜雀が怪訝な顔をする。
 あいつらにこんな所を見られてはいけない、見られたらそれこそ私は一巻の終わりだ、見られてはいけない、見られては――

 ――あれ、あいつは……?

 夜雀の口を持ってして外道と言わしめた人間が、自分と、自分の傍らに立っている夜雀を見た……と、慧音は確信した。

 ――見られた。
 

 次の瞬間慧音は、夜雀に持っていた刃を突き立てていた。
 戦う心構えさえあれば容易にいなすことのできた一撃であろう。半獣の少女の戦う能力などその程度のものである。しかし、全く想定していなかった拍子に放たれたこの攻撃を、夜雀をもってしても避け切ることが出来なかった。
 錆びた刃物が夜雀の腹を抉る。
 いきなり牙を剥かれた理由が分からず、夜雀は困惑するばかりであったのだが、慧音には迷いも躊躇いも無かった。
 妖怪と一緒に居た事実を隠さなくてはいけない。妖怪との関係など、無かったことにしなくてはいけない。痕跡を、過去を、思い出を、末梢せねば――この一心であった。
 ただただ当惑している夜雀に、慧音は刃物を突き立て続けた。腹部への刺し傷が数え切れぬものとなり、一つの大き過ぎる刺創となって、夜雀の腹に風穴を開けた。
 いかに頑強な妖怪といえども、これ程の傷を受けては無事ではいられない。大量の血を吐き、その場にどさりと倒れ込んだ。それでも慧音は一心不乱に刃物を振るい続けた。
 人間である為に。人間でいる為に。妖怪にならぬ為に。


 いつの間にか慧音は意識を失っており、気が付いたら村に帰っていた。
 人々は挙って慧音の敢行を称えた。
 幾ら純粋な人間でないとは言え、妖怪に敵う程の力は無いだろうと思い込んでいたのに、慧音は見事、妖怪一匹を圧倒した。慧音に新たな存在意義が誕生したのである。この半獣は、人間を妖怪から護ってくれる存在となれるかもしれない――と言うものである。
 手を掛けた夜雀はどうなったのか――慧音の問いに、人々は口々に言った。
 見事お前が殺したのだ――と。

 少しずつ、村での待遇に変化が生じ始めても、慧音は変わらず山へ通った。もしかしたら夜雀は死んでいないかもしれない、生きているかもしれない――そんな一縷の期待を抱いて。
 しかし、二度と夜雀と会うことは出来なかった。朝来ても、昼訪れても、夜を待っても、慧音に希望と温もりを与してくれた夜雀は、彼女の前に姿を現さなかった。

 本当に死んでしまった、もとい私が殺してしまったんだ――会えなくなってようやく、慧音は己が罪の重さを感じ、それに押し潰されそうな気持ちになった。だが、そんな心情を表に出すことは一切しなかった。恩人を殺してまで得た人の社会における平穏――それをみすみす手放すことは、彼女にはどうしても出来なかったから。



 ――それから、長い長い年月が経過した。
 夜雀には一度も会えなかったが、慧音は自分の過ちも、自分に振り掛けられ続けてきた悪意も忘れることは無かった。
 しかし、今は時機でないと、心中で荒ぶる殺意を、執念を、抑えて抑えて、抑え込んで――今までを生き続けてきた。
 妖怪の牽制と言う意味を持ち合わせた慧音への待遇は一変した。彼女は手のひらを返した人々に囲まれて生きた。前のような過酷過ぎる労働からは解放され、自由を得た。そこで彼女は、再び学問の道を歩み出す。人ならざる長命のお陰で、勉学は以前にも増して捗った。
 歴史を食う能力、歴史を創る能力に目覚めたのもこの頃であった。その能力に擬え、彼女は歴史を重点てきに学んだ。
 一端の知識人と言う枠組みを越える信頼感を得た彼女は、人々の守り神の様な存在であり、また教員と言う地位をも手に入れた。そして、長らく平穏の中に生きた。

 この一件は、その平穏の中の、一つの出来事に過ぎない。
 妹紅が洞穴の深奥の厨房のことを知らせて来たのである。
 この時、慧音の中に閃いたのは、人里や人々の危機や危険の可能性ではなくて、自身の記憶との合致の可能性である。
 ――妹紅の言う夜雀は、恩人たる夜雀かもしれない。
 生死さえ定かでない幾百年前の恩人――その人かもしれないと言う一縷の期待を抱き、慧音は妹紅と厨房へ向かった。
 問題の夜雀を一目見て、まず少し落胆することとなる。ミスティア・ローレライは見知った者であったからである。鰻を焼いていることは有名であった。慧音の求める狂気の料理――妖怪料理とは違う。
 慧音はそれでも、縋る思いで当時の面影を探した。厨房を隈なく探索することで、思い出の中の夜雀の痕跡を求めた。厨房内を蔓延する怪しさの中に、何か引っかかるものがある気がして――しかし、慧音は求めている“何かを”見つけることが、どうしても出来なかった。
 それでも諦め切れず、彼女は夜雀の厨房へ通い詰めた。食事や会話を通して、この夜雀が、自身の救世主たる夜雀である証拠を見つけられるのではないかと言う、無根拠な願望にも似た期待を抱いて。
 過去を語って聞かせてしまうと言う手段はどうしてもとれなかった。もしもミスティアが、慧音の探す夜雀と違う者であった場合、慧音は己が罪を知らぬ者に告白することとなる。夜雀の仲間同士の結束力がいかなるものかは知らないが、同志を殺害――若しくは暴行したと言う事実を知らされるのは、あまり気分のいいことでは無いことは明白であったからである。

 積極的な調査が行えない故に、料理を食すことで何かしらの手がかりを得ようと地道に洞窟の深奥に通っていたのだが、日が重なって行く程、慧音の心の中の期待と言うものが薄れて行った。
 それが極めて軽薄になりつつあった頃――霖雨を乗り越えての天体観測が決行され、そこでの想定外のアクシデントに見舞われ、慧音らは拉致・監禁されてしまう。
 火車に喰らわされた痛撃が原因で、長らく慧音は気を失っていた。
 覚醒の原因は周囲を騒々しさであった。半醒半睡の状態でどうにか聞き取った会話は、人を食うとか料理するとか、やけに血生臭く惨たらしい内容であったのだが、そこに夜雀の存在を確認した瞬間、慧音は物騒さも何もかもを忘れてしまった。人や妖怪を調理する奇特な料理を行う夜雀――それは、慧音の心の中にいる恩人たる夜雀と合致するものであったからである。

 生と死を分かつ極限の場面で、誰もが慧音の状態等に感けてはいられなかったと見え、彼女の目覚めに対し、誰も何の反応も示すことは無かった。
 狂騒の只中で、慧音だけは他者とは全く違った興奮に見舞われていた。気の遠くなる程の年月、探し続けた夜雀を遂に見つけたのかもしれない、と。
 ふと手元に眼をやると、皿に載せられた薄切りにされた肉が置いてあるのが分かった。慧音は許可もとらず、それを口にした。
 その瞬間、慧音の身体を駆け抜けた衝撃――それを表現するのは如何なる手法を取っても困難である。法悦とも言える快感があり、しかし電撃の様に鋭く、羹を飲み下したかの様な熱もあり――慧音はこれ以上の感動を覚えたことは無かったし、また、これ以降もそんな感動を覚えることは無いであろうと確信している。

 料理を食したことで、慧音はようやく気付くことが出来た。知らぬ間に――慧音は恩人との再会を果たしていたのである。何もかもから爪弾きにされて生きていた慧音に手を差し伸べてくれた夜雀――長きに渡って謝罪と贖罪をさせて欲しいと願い続けてきた、彼女の救世主だ。



 記憶との繋がりの強固な確証を得たので、すぐにでもミスティアに事実の確認をとりたかったのだが、残念ながら場はそんな空気には包まれていなかった。辺り一面火の海で、夜雀らが睨み合ったまま場は膠着している。
 このままこの場にいたままでは焼け死んでしまう――慧音はここでようやく、食材庫の中で寄り添い合っている子ども達に、己が目覚めを知らせた。
 それから、食材庫入口付近に落ちていた小さな刃物を拾い、睨み合っている友人と妖怪らの隙を突いて、慧音達は厨房を脱した。
 幸運なことに、友人が脱走を後押ししてくれた。また、厨房を出る際、人間に味方してくれている珍しい闇の妖怪の少女も一緒に逃げ出した。
 どうせ友人は死なないので、助ける気など毛頭無かった。一直線に、振り返ることも躊躇うことも無く、外へ向かった。

 洞穴の外に出た慧音は、人里へ向かうことはせず、全く無関係な場所を目指した。これと言った目的地がある訳ではなかった。とにかく、誰の目にも付かない様な所を探し回った。
 おあつらえ向きの洞穴の中で、慧音は子ども達を『隠した』。歴史を食ったのである。
 こうして慧音は先ず食材を確保した。夜雀に対する太古の無礼を詫びる為、彼女は料理を振る舞おうと遥か昔に決めていたのである。それが、自分に料理を教授してくれた夜雀への最大の罪滅ぼしだと自覚していた。夜雀が自分に与えてくれた希望がどれ程に大きく、またどれ程自分が夜雀を敬愛していたかを知らせるには――これしかないと確信していた。

 慧音は手始めに、人間に味方してくれた妖怪――ルーミアを殺した。
 言うなればこの殺害は、『勘』を取り戻す為の行為であった。子ども達を料理するには、まずバラバラに切り分ける必要があるからだ。
 しかし、何百年と言う時を眠り続けた解体の技術は見るも無残な程に錆付いていて、まともに機能してはくれなかった。意図しない所で筋繊維か何かに突っ掛かったり、骨に行く手を阻まれたり、死に際の妖怪に蹴飛ばされたり――苦心しながら作り出した肉塊は、残念ながらおよそ食欲の湧くような代物では無かった。しかし捌いたものは食わねばならないと、慧音は闇の妖怪の肉片を夢中で食った。
 人里では恐らく自分達の捜索が決行されているであろうから、足を付けられては面倒だからと、慧音は殺したルーミアの頭を切り離し、服を全て奪い、その場に放置した。歴史を食うことは出来なかった。既に五名の人間の歴史を食い、『満腹』であったのである。
 頭は森の中に捨てた。後々、その頭は下賤な妖怪の餌となり、この世から消滅すると言う末路を辿る。


 その後も慧音は『解体』を練習した。森の中にある廃屋に子ども達を移動させて、そこで昔を思い出しながら、数いる生徒の中でもあまり美味くなさそうな生徒を独断と偏見で選定し、練習台として定め、切り刻んだ。美味そうな子は『本番』の為にとっておくことにしたのである。子ども達はあれこれ泣いて叫んでやかましかったが、それを我慢するのもまた経験の一つであろうと言うことで、我慢していた。
 しかし、元々卓越した技術を有していた訳では無かったので、何人捌いてみても、昔の様に上手く人体を切り分けることが出来なかった。五人いた子ども達は、一人、また一人と、食欲の湧かない肉塊と化してどんどん死んでいった。慧音は責任を持ってそれを食べ続けたが、三人も食べてしまってすっかり食傷気味である。
 気付けば残りが二人になっていた。三人を生ゴミみたいにしてしまったことになる。決して弄んだ訳では無いのだが、食材を無碍に扱ってしまったことに罪悪感を覚えた。
 そこで慧音はようやく一つの決心をする。
 『食事』を振る舞うことを諦めたのである。
 代わりに『食材』を提供し、報恩と謝罪の意としよう……と決めた。

 ならば夜雀に会わなくてはいけないと思い、慧音はあの厨房を訪れた。夜雀がどこにいるのか想像が付かなかったので、とりあえず、一番に思い付いた洞穴の深奥へ行ってみたのである。
 そこに夜雀はいなかった。いたのは、ぐったりとしたまま壁に背を預けて眠っている藤原妹紅であった。脚には大きな刃物が突っ立てられているのを見て、少なくとも一度、夜雀か火車がここを訪れ、妹紅にこの様な仕打ちをしたのだろうと察した。
 眠りこけている妹紅を眺めている内に、慧音は一つの憂慮を覚えた。妹紅が目覚めて、人里に何か余計な情報を吹き込んだら、ミスティアが何か損害を被るのではないだろうか――と言うものである。
 しばらく考えた挙句、慧音は眠る妹紅の頭に、そこらに放置されていた黒焦げの調理器具で強烈な打撃を見舞った。面倒なタイミングで覚醒されるよりは、もっと長らく気を失っていて欲しかったのである。眠っている状態と何ら変わらないで、妹紅は地面に伏した。
 その後、夜雀をぼんやりと待っていたら、火焔猫燐がやってきた。燐もまた、ミスティアの罪を知る者の一人である。後々面倒なことを招きそうであったし、何より慧音は燐に対して私怨も抱いていたので、闇に紛れて妹紅と同じように強烈な一撃を見舞ってやった。一撃では倒れず、猫の姿になって逃げようとしたのだが、頭部への痛烈な一撃で燐はほとんど意識を失っていたようで、その歩みは朦朧としたもので、追い付いて追撃するのは容易なことであった。

 二名の邪魔者を始末――厳密に言えば妹紅は始末出来ていない、もとい出来ないのだが――した所で、慧音はこの厨房を出た。ミスティアが帰って来ると言う確証が無かった故に、待ち続けるのも時間の無駄と感じたのである。
 歴史を食って隠蔽している子ども二人を監禁している、森の某所にある廃屋に、燐の猫車を拝借して妹紅と燐を移動させた。そこからなら、もしも妹紅が目覚めて逃げ出したとしても、そう簡単には人里へは辿り付けないだろうと踏んだのである。森はとても深い。真夜中の森林を、灯りも無く歩いたのでは、いくら妹紅がおかしな人間であったとしても、そう容易く目的の方向へ歩くことは敵わない。
 厨房で仕留めた二人を無造作に廃屋へ置き、妹紅は用心して縄で手足を縛っておいた。燐には何も施さなかった。弔ってやる義理さえ感じていなかった。


 夜雀の秘密を知る者の対処を終えた慧音に残された仕事は、いよいよミスティア探しと、人間達への復讐のみとなった。
 しかし、幻想郷は広い。闇雲に夜雀を探してそこいらを歩き回っていては埒が明かない。
 そこで慧音は、先に『復讐』を兼ねた『後始末』を遂行してしまうことに決めた。
 妹紅と、歴史を食った状態で捕えた子ども達を廃屋に置き去りにし、とぼとぼと森を歩んで、人里へ向かった。
 人里へ着いた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 里は見慣れた平穏に包まれている。いつかの憎々しい生まれ育った村と景色が重なったのは、きっと慧音の思い込みである。

 半獣は里に火を放った。
 人々が身を寄せ合っている里である。炎は家屋から家屋へ次々に燃え広がった。烈火と黒煙が空を染め上げ、地上は民の悲鳴と怒号に彩られる。逃げ惑う人々を眺めながら、人里と外周の境界を歩む。
 いろんなことはあったが――やはり慧音は人と言うものに恨みを抱いていた。
 八つ当たりの感じは否めないが――人が妖怪と言うだけで遍く妖怪を恐れるのであれば、慧音だって人と言うだけで遍く人を恨むのも自然と言える。
 加えて慧音にとって、この人里はもう用済みであったのだ。人間の振りをし、人間の傍で暮らし、人間の信頼を得る必要など、もはや無かった。彼女の悲願は――間もなく達成されるのだから。

 焼失していく人里を粗方楽しんだ後、慧音は再び夜雀を探しに行こうと、人里を離れようとしたのだが――ふとその場に立ち止まった。

 これ程大規模な火災が起きれば、夜雀も何事かと人里の様子を見に来てくれるのではないか――と言う淡い期待も込めて、上白沢慧音は人里に炎を放った訳であるが、果たしてその狙いは的中した。
 ミスティア・ローレライがいた。
 灰塵に帰していく人里を眺めている瞳に、踊り狂う業火が映って、ぎらぎらと美しい。
「ミスティア!」
 慧音が声を掛けると、夜雀の双眸は、廃屋から逃れて来た蓬莱人から、慧音本人へと照準を変えた。


*


「ミスティア!」
 突然、慧音の快活な声が飛ぶ。宵闇と業火が彩る今の雰囲気にはあまりにも相応しくない声色である。夜雀と蓬莱人は一様に言葉を失い、そちらを見やる。
「慧音さん」
 ミスティアはすぐに慧音に気付いたが、声色には抑揚が無い。少し驚いている様にも、慧音には見えた。
「慧音」
 妹紅の声色は潜める様である。この半獣にある種の恐れを抱いているのである。
「これ、あなたがやったんですか?」
 これ――と言い、ミスティアは燃え盛る人里を指差した。
「そうとも」
 半獣の声も飄々としている。
「よく分かったな」
「これ程の惨事ですからね。そんなに落ち着いた様子で里の傍にいられるとなれば、そのくらいのことは察せますよ」
 ミスティアはこんなことを言っているが、しかし慧音の意図は図りかねているようで、その表情には困惑の色が強い。
「お前、やっぱり覚えていないのか?」
 慧音が問う。ミスティアは表情に困惑の色を更に強め、首を傾げて見せた。
「覚えていないみたいだな」
 慧音は何故かはにかんだ。
 それから、訥々と、思い出したことを語り始めた。
「何年前のことかまでは思い出せないけれど……私はお前と出会っていたんだよ」
「私があなたと?」
「そう。山の中で出会った。お前は人を二人殺し、私はその瞬間を目撃した。お前は私も殺そうとしたが、止めてくれたんだ。妖怪――同胞として」
「そんなこと、ありましたっけ」
 者覚えの悪い夜雀がそんな茶飯事を逐一覚えている筈も無い。眉を潜めて、眉間に手を置いた。
 藤原妹紅は置いてきぼりを喰らっているが、しかしそんなことを悲観する心の余裕は無い。慧音の暴露を、信じられないと言った様子で傾聴している。
「人違いではありませんか?」
 長考の末、ミスティアはこう言った。慧音は即座に首を横に振る。
「人違いなもんか。厨房の牢屋の中で食べたあの料理は、間違い無くあの頃に食べた妖怪料理の味だったよ。いや、正確に言えば当時より味はよくなっていたけど――確かな面影を感じた」
 まだミスティアは何一つ思い出せないらしく、怪訝そうな表情で慧音を見つめている。
「お前は、私に料理を教えてくれたんだ。本格的な教授の前に、私は利己的な理由でお前に手を下してしまったから、結局大したことは教われなかったけど。……てっきり私はお前を殺してしまったと思っていたが、生きていたんだな」
「料理を教えた――殺したと思っていた――」
 ミスティアがぽつんと二つの事象を反芻する。貧相な記憶の引き出しの中に、微かに掠めるものを見出したのである。
「……私が教えた子は、もっと幼かった気がするのだけど。あなたはどう見ても私より年上じゃない」
「私は人程短命で無いけど、妖怪程長命でも無いんだよ。人と妖怪の中間の存在だからな。妖怪のお前より老けるのが早いんだよ」
「ああ、なるほど」
 ミスティアが淡々と頷く。
「思い出して貰えたかな?」
 慧音の問いに、夜雀がこくりと首を縦に振った。
 刹那、慧音の表情がぱっと明るくなった。凄惨な大火災を背景にして見るその表情は、あまりにも不気味である。
「通りで――私はあなたのことをよく覚えられる訳だわ」
 ミスティアはいつか燐に指摘されたことを思い出した。
 ――ミスティア、慧音って人に意外と詳しいんだって思ってさ。知り合い?
 ――それだけで物覚えの悪いあんたがあれこれ覚えてるってことは、何かものすごいインパクトがあったんだろうね。
 記憶には無かったが、心の深層は上白沢慧音のことを覚えていたのであろう。初対面では無かったのである。

 慧音に秘められた陰惨な過去を知り、芋蔓式にミスティアは慧音が昔自分に語った過去を思い出した。そこから、この度のこの大火災の真相を察した。
「これは、報復か何かのつもり?」
「そうとも」
「幾百年越しの復讐かあ。当時の人なんて一人も生きていないでしょうに」
「いいんだよ。恩返しが遅れるなら、復讐だって遅れても問題無いだろう」
「恩返し?」
「そうとも」
 慧音は一度閉口した。それから胸に手をやり、少し表情を曇らせつつ、自嘲めいた笑みを浮かべ――決心したように口を開く。
「あの時、お前を身勝手な理由で暴行したことを詫びたい。それから、私に料理を教えてくれた恩に報いたいんだ」
「うん」
「だから――私の生徒をあげようじゃないか」
「生徒を?」
 ミスティアが素っ頓狂な声を上げる。耳聡くそれを聞き取っていた妹紅も怒号を上げた。
「慧音ッ! お前は何を言っているんだよ!」
 しかし慧音は友人の声になど耳を貸さず、言葉の先を続ける。
「そうとも。いつかお前に美味しい人間料理を食べさせてあげたいと、ずっと思っていたんだ。それが――私が教師になった理由だ」
 苦労したんだから――こう付け加え、にっこりと慧音は笑った。
「それはそれは……歪んでるね」
「薄れかけた私の夢を後押ししたのはお前だもの。お前が私に希望をくれたんだもの。この夢は、お前のものであってもいい筈だ」
 ありがとう――澄んだ瞳を湛えて微笑み、言う。

「それはありがたいけれど――子ども達はどこに? 人里はあの有様だけど」
 ミスティアは再び人里を指差して言う。
 慧音は困ったような表情を浮かべた。
「そうなんだよ。お前の厨房から逃げてから、子ども達を別の場所に隠しておいたんだが……妹紅も一緒に」
 慧音の言葉を聞くや否や、ミスティアは妹紅の方を見やった。
「どこにいたかは存じませんが――子ども達がいたそうですよ?」
 妹紅は愕然としたまま二人を見やっている。慧音がしびれを切らして問いを重ねる。
「そもそもお前、どうやってあの廃屋から逃げてきた?」
「焼いた」
「は?」
「腕や脚を縛ってた縄を、家屋諸共、焼いて――逃げた」
 パチ、パチと――焼ける木材が爆ぜる音が、空しく辺りに響き渡る。百幾年ぶりの再会に沸いた直後にこの静まり具合である。その圧倒的落差は、見ていて痛ましく感じられる。
 やっとその静寂を破ったのは、上白沢慧音。
「焼いたって、それじゃあ、あそこにいた子ども達は……」
 言下に慧音が、妹紅を監禁していた廃屋のある方角を見やった。人里から大きく離れた場所ではあるが――確かに、そこもやはり空が赤い。ミスティアも慧音に倣ってその方向を見て、渋面を作った。
「本当だ。何か燃えていますね、あの様子だと」
 慧音がその場に崩れ落ちるように膝を付いた。やっと得た贖罪の機会が、まさかこんな形で奪われてしまうとは思ってもいなかったのだ。妹紅は、赤く染められた空へも、落胆する慧音へも目をくれてやらず、意図的でないにしても、生きた子ども二人を炙り殺してしまったことを悔いた。
 ただ一人、ミスティア・ローレライだけが、平然とそこへ突っ立っていた。誰も彼も好き勝手に動き回ってばかりで、それに振り回されるのに飽き飽きしていた。
「――まあ、そう気落ちすることはありませんよ、先生」
 落胆する慧音に、ミスティアが優しく語り掛ける。
「別に今宵失われた子どもばかりが、人間の子どもと言う訳ではありません」
「だけど、私は――お前に」
「恩を返したい。罪を償いたい――そうでしょう?」
 慧音は無言で頷いて見せる。
「別に今日であなたや私が死んでしまう訳でもありますまい。まだあなたの罪は誰にも見つかっていない。まだ、あなたの機会は失われていない」
 夜雀の穏やかな励ましを受け、慧音はおもむろに顔を上げ、夜雀を見やった。少しばかり成長してしまってはいるが、しかし、相変わらず優しく、そして残酷な光を秘めた双眸を湛えた師の顔が、そこにあった。
「もう少し待ってくれるか?」
 慧音が言う。ミスティアは頷く。
「好きにしてください。ただ、私へ迷惑を掛けない範囲で、ね」
 そう言ってミスティアは慧音の頭を撫でてやった。頭頂に乗っていた煤が伸されて、慧音の白い髪に混じって消える。

 ミスティアはそっと慧音の頭から手を離し、おもむろに妹紅へと歩み寄った。満身創痍の妹紅は、何か嫌な予感はしたが、しかし逃走する気持ちも応戦する気力も無いので、精一杯強がり、夜雀を睨みつけることくらいしか出来ない。無論、ミスティアはそんな虚勢は恐ろしくも何とも無い。蝋燭の火さえ起こせない様な状態の妹紅の前に立ち、はぁと深くため息を吐いた。
「一番の問題はあなただわ。食えない、死なない、黙らない……一体どう処理すればいいものか」
 自分のことを物としか見ていない夜雀に強い憤りを感じはしたが――散々述べてきた通り、今の妹紅は斃死する筈なのに生きているだけの人間に過ぎない状態であり、この怨敵に何か一矢報いてやることなど敵わない。
 悩ましげに首を傾げていたミスティアであったが、
「それは任せてよ」
 こんな声が聞こえ、沈思から脱し、声のした方へ目をやった。
 目をやった方あるのは闇だけであった――様に見えたのだが。急に闇の中から、隻眼赤髪の少女が出でた。ミスティアも、妹紅も、慧音も、一様に目を丸くした。
「燐っ」
 ミスティアが素っ頓狂な声を上げる。頭から血を流し、苦しげな呼吸をゆっくりと繰り返して、そこに立っているのは、紛れも無く火焔猫燐である。
 慧音が狼狽した。何せ、てっきり燐は殺せていたものと思っていたのだから。
「お前、生きていたのか」
 呆然とした表情でこう漏らした慧音を、燐はさも憎々しげな――如何にも妖怪然とした凶悪な目つきで睥睨した。
「死ぬかと思ったよ。暗がりからいきなりガツンとぶん殴られるし、起きてみたら周りは火の海だし」
 妹紅が脱出の為に起こした炎で燐も目覚めたらしかった。
「死ぬかと思ったけど、あたいを殺すには火力が足りてなかったよ。火力が、ね」
 勝ち誇った様にこう言い放った後、ミスティアの方へ向き直した。
「さて――妹紅のことはあたいに任せてよ、ミスティア」
「任せろって?」
「前に言っただろう? 妹紅は責任もってあたいが処分するって」
 燐は妖怪の体ながら、慧音の闇討ちを喰らってかなり消耗している様子である。約束を果たしに来たと言う旨の健気な言葉も、声が掠れていて、信頼感に欠ける。
 ああそっか、あんた覚えてらんないのか――燐はそう言って、くつくつと力無く笑った後、自身よりも更に弱っている妹紅の襟首をひっ掴み、ずるずると引き摺って歩き出した。猫車まで燃やしやがって――などと愚痴を零しながら。
 妹紅は何やら喚き散らしていたが、間も無く集った死した妖精達に群がられ、結局動くことも反抗らしい反抗も出来なくなってしまった。
「妹紅は任せていいんだね?」
ミスティアが問う。燐は振り返って頷いた。
「これだけがんばってやってんだ。人間料理、頼むよ。――先生、本当はあんたをこの場で八つ裂きにしてやりたいんだけど、とりあえず今日は見逃してあげるよ。この延命に感謝するなら人間よこしな、人間。活きが良くて美味しいやつね」
 そう言い残し、燐は気だるげに、目的地に向かって歩いて行き、宵闇の中へ紛れて消えた。

 その場に残ったのはミスティアと慧音。背後の人里はまだ尚、猛烈な炎に蹂躙されている最中である。
 ミスティアがその焼失していく人里を見やった。
「先生、あなたはあそこへ帰るんでしょう?」
 慧音は頷く。
「帰らざるを得ないな。――お前との約束があるから」
「今度は人間として生きる為に私を犠牲にするなんてことはしないでくださいよ?」
 慧音は困ったような笑みを浮かべた。
「ああ。絶対にそんなことはしない」
 それを聞き、ミスティアはふっと微笑んで肩をすかした後、燐と同じように、宵闇蔓延る幻想郷の何処かへと歩んで去って行った。

 慧音は振り返り、燃え盛る人里へと歩いて行く。慣れ親しんだ、人々を思い親しむ化け物の仮面を被って。



*



 上白沢慧音は、ほんの二夜で多くのものを失った。
 まず、郷里としていた人間の里を失った。火災の猛威は結局抑えることができなかった。建てられていたほとんどの家屋は煤塵へと回帰して行った。
 更に、最愛としていた教え子を失った。――その原因を、慧音は「妖怪に襲われた」と、人々に説明した。当然のことなのだが、遺族達がそれで納得する筈も無かった。どうして夜の幻想郷などに子ども達を連れ出したのだと痛烈な批判を浴びた。悪気があった訳では無かったんだから――そんなことを言って、ヒステリックを起こす親族を宥める人々も、慧音を見る視線はどこか冷ややかであった。
 だが、慧音はそんな視線はどこ吹く風と受け止めた。いや、表層には悲壮と後悔の念を惜しみなく押し出していたのだが――別に心の深奥でまで悲しむ必要を感じ無かったのだ。何故なら彼女は――数百年間にも及ぶ胸中の蟠りを失ったのだから。
 こんな具合にいろんなものを一同に失ったお陰であろうか、随分と身が軽く感じられた。気分も高揚した。神妙で沈痛な面持ちでいることが煩わしく感じられる程であった。信頼など地に落ちたどころか、地底の奥深にまで潜り込んで行ったような状態であるので、名誉挽回と言う重圧さえ感じ無かった。
 これ程に解放的な気分になれたのはいつ以来であろうか――焼け落ちた家屋の残骸を片付けたりしながら、慧音は一人でそんなことを考える。
 幼少期は優秀な人間の子と言う箔を張り付けられ、妖怪化してからは生きることに束縛され、夜雀を手に掛けてからは贖罪の意識に苛まれ、己が罪を償う為に幾百年と言う時を大嫌いな人間達に愛想よく振る舞いながら生きて来た。記憶力には自信のある慧音も、こればかりは思い出せなかった。
 考えている内に――そもそも、これ程にまで自由な生活と言うのを、体験したことが無かったのだろうと言う結論に達した。

 人間らしからぬ自由を手にした。慧音は、もう人間らしく生きる必要はほぼ無くなった。最悪、この人里を追われるくらいの仕打ちを受けることになろうとも、慧音は平気であった。――臆病な人間のことだから、そんなことは絶対に無いと思ったが。
 また昔の様に、人らしからぬ扱いを受け始めるのかもしれないとも思ったが、昔の様な絶望感も、恐怖も無かった。慧音は、昔の慧音では無いのだから。
 義務とか、習慣とか、職業とか、そう言う煩わしいものから抜け出せる予感がしていた。そして、やりたいこと、やるべきことだけに専念する日々を送ることが出来る。やりたいこと、やるべきこととは即ち、夜雀への恩返しである。

 焼け跡の片付けをしている間に一日が終わり、夜が訪れた。人里が全焼して、最初の夜である。
 人々が生活できる場所はそこに無かったので、人里の住民らは幻想郷の方々に避難して散り散りになった。
 慧音は一人、焼け跡に残った。火災の跡地と言う不吉な過去を持つ土地には、相応の怨念や厄が宿ってしまう。それは一部の悪辣な妖怪にとっては非常に心地いいものであり、放っておくとあっと言う間に妖怪や怨霊の溜まり場と化してしまうのである。確かに建造物は須らく焼失してしまったが、人間達はこの土地を捨て去ることは、どうしても出来なかった。同じ地に、同じ里を再生させることを強く望んだ。
 だから慧音は、人間達が散っている間に、妖怪達がここを占拠してしまわない様に、見張りの役を買って出たのである。人間達は二つ返事でそれを許諾した。彼女への八つ当たりにも似た憤激を発散させるのには丁度いい役であったのだ。

 慧音は徹宵の番人として、陰気な焦げ臭さが漂う焼け跡に腰を降ろしていた。傍にはぱちぱちと焚火の炎が踊る。ふと、不老不死の友人を思い出した。燐が責任もって処分すると豪語していたが、どんな風に処分したのだろう――少しだけ気になったが、見当もつかないので、すぐに考えるのを止めた。
 座っているのが次第に気怠く感じられ始め、彼女は焦土に背中を預けた。大の字になって、広大な空を眺める。
 星がきらきらと瞬いている。規則的に並んだ千々の光――古代の人々がそれらを何と擬えたか、今の慧音はそのほとんどを言い当てることができる。せがまれたから得た、星に関する知識である。ほんの数日前までは――そんな風に、人間達の為に生きていたのだと言うことを思い、おかしな感慨に襲われてしまった。

 ゆっくりと目を閉じる。美しい夜空も、閉眼によって訪れた真なる闇も、大して光の量に差は無かった。
 パチパチと、焚火の中の燃料が弾ける音が続く。不規則な拍子だが、とても心地良く感じられた。
 焚火の音に耳を傾けている内に、初めてミスティア・ローレライの施しを受けた日のことが思い出された。
 ――焚火の煙が目に染みたのだろうか。
 ――良き思い出の回想の影響だろうか。
 ――胸中を過った感慨の悪戯だろうか。
 慧音の頬を、たった一粒だけ、涙が伝って行った。



*



「さあ、着いた」
 疲労感満点の火焔猫燐の声。燃え盛る人里を離れて向かった先は、同じように燃え盛っている灼熱の大地であった。ただし、その炎は、不審火などと言うちんけな者とは比べ物にならないくらい熱く、そして盛大である。立っているだけで体内の水分が軒並み白旗を上げて逃げて行くかの様な――そんな感覚を、人間である藤原妹紅は、瀕死の体ながら感じていた。燐は流石火車と言う妖怪である為か、この異常な熱にある程度の耐性を持ち合せている様子である。
 燐と妹紅がいるのは、地底世界を管理する覚妖怪の住まいたる地霊殿――その地下にある、火焔地獄跡である。今尚燻ぶり続けるこの地獄跡地は、燐と、もう一人の地獄烏と呼ばれる妖怪によって、その火力が調整されている。火力が弱まったら死体を投げ込んで火力を上げるのが、今燐と妹紅がいるこの場所である。
「お、おい、何をするつもりだ」
 妹紅が問う。この世の光景とは思えぬ――旧地獄なのだから、本当にこの世のもので無いと言ってもいいのかもしれない――火焔地獄を目の当たりにし、心底恐怖を感じているようであった。何となく、燐が今まさに行おうとしていることが、妹紅にも分かったからである。
 燐は苦しそうに笑った。
「何って――決まってるだろ。処分だよ、処分。あんたみたいな面倒くさい奴は、地獄の焔で焼いちまえばいいのさ」
 襟首を掴む燐の手に力が加わり、妹紅は一気に燃え滾る火焔の際にまで移動させられてしまった。
 目と鼻の先で揺れる焔は、妹紅が見て来たどのような火よりも禍々しく、そして耐え難い熱気を放っている。自身の起こしていた炎など、この地獄の火焔と比べれば火遊びに過ぎぬ――妹紅自身、こう思えた。

 軽く六十メートル程はあろうかと思われる高い天井。そこにまで到達する焔の柱。
 じりじりと――燐と妹紅はその柱を成す焔の大地へと近づいて行く。
「じゃあね、不老不死のお姉さん。その身を焦がして、一生ここの燃料になっていておくれよ」
 燐が改めて手に力を込めた。すっかり脱力している妹紅を、その焔の大地へと投げ込もうとした。
「いっせーの……」
 妙に可愛らしい音頭の後に――妹紅の身体が宙に浮いた。
 投げられた――妹紅はどうにか陸地へ残ろうとしたのだが、やはり斯様な力は残されていない。
 死ぬことは無いが――あたかも一端の死者であるかの如く、妹紅の脳内を雑多な記憶が走馬灯の様に駆け巡って行く。
 しつこい様であるが、彼女が死ぬことは無い。無いが――火焔地獄に放られることは、人間の死後の世界と同様の苦痛を味わって行くことになるのに等しいことなんだろうと、妹紅は思った。それ故の走馬灯だろうと、彼女は解釈した。藤原妹紅は――死に、地獄へ落とされたのだ。
 ほんの一瞬のことであろうに、いろんなことが、次々と思い起こされて行く。楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと――本当に、長すぎる一生の中にいろいろなことがあった。
 その中に、ごく最近の、夜雀と半獣と火車に纏わる騒動も含まれていた。長き平穏を狂わせた最低最悪の事件。そして、その中の犯人の一人が、目の前に――


 藤原妹紅が手を伸ばした。生き延び様等とは思わなかった。思わなかったが――己が執念を見せ付けてやりたかったのである。
 間一髪でその手は――火焔猫燐の長いおさげを引っ掴んだ。
 悲鳴すら上がらなかった。
 一人の妖怪と、一人の人間が、地獄の焔に焼かれ、あっと言う間に消えた。
 次の瞬間、踊り狂う焔の中に人の形をした影が浮かぶ。しかしそれもまた瞬く間に焼失する。またも現れ、またも焼かれ、またも消える。三度現れ、三度焼かれ、三度消える。また現れ、



*



 何を焦がせばこんな臭いになるものだろうか――ミスティア・ローレライは、焦土と化した厨房の芳香に鼻孔を攻め立てられている内にこんな疑問を抱いた。魚、野菜、鹿、猪、妖怪、猫、人――何を焦がしてしまったとしても、これ程不快なにおいは出ないだろうと確信していた。
 取り留めの無い考え事に耽っている内に、この厨房には様々な想いが渦巻いていた言うことに気が付いた。火車に瞬いた不純な欲望、妖怪少女が抱いた純粋な食欲、蓬莱人が願った悠久の平穏、半獣が決して捨てなかった悲願の罪滅ぼし――。
 それらが全て、一緒くたに焼かれた。その激臭が、この厨房の香りだろうか――ミスティアはそんなことを思った。彼女の記憶の中に在り合う物質が焦げたのでは、この厨房内の激臭を説明することが、どうしても出来なかったのである。

 上白沢慧音、藤原妹紅、火焔猫燐――彼女を混迷の渦に叩き込んだ三名と人里の前で別れた後、ミスティアはずっと、藤原妹紅によって焼き払われた厨房跡地に逼塞していた。
 彼女もまた、人里の人間達が里の焼け跡を捨て切れなかったのと同じ様に、洞穴の深奥の厨房跡地を捨て切れずにいたのである。
 妹紅は燐が処分してくれると言った。慧音は自分の味方である様子である。燐は人間料理と言う後ろ盾がある限り自分に盾突くことは無い筈だ。ルーミアの安否は不明だが、慧音がこちらの味方ならば恐れることは無いだろう――こんな風に考えれば、この洞穴の奥を捨てる理由は無いし、捨てるには惜しい環境であったからである。
 だが、実際に足を踏み入れてみると、理解し難い異臭が感じられるではないか。妹紅を処分した燐の訪れも期待しつつ、この異臭に慣れようと思ってここを起点に生活してみたが、結局慣れることなど出来そうに無かった。このままここに居座っては鼻が馬鹿になってしまいそうであった。そうなると味を正しく感じることが出来なくなる。料理を作る者としては致命的なハンディを受けることとなってしまう。
 捨てなくてはいけないだろうな――ミスティアは辟易した。

 三人と別れてから一日が経過しようとしている。洞穴の奥からでは分からないが、外はもう真っ暗なのである。
 燐はいつまで経っても現れない。もしや妹紅の処分に失敗したのか――とは言っても、妹紅もやって来ない。そして慧音が来る様子も無い。一時期は客やら食材やらのお陰で大いに賑わった厨房であるから、一人でいることの空しさがやけに際立った。

 浅い睡眠と覚醒を繰り返している内に、時は午前四時となった。ここでやっとミスティアは一つの決断をし、紙布巾を敷いて座っていた、椅子なのか家具なのか判然としない塊からぴょんと飛び下りた。
 この場所を捨てる決意をしたのだ。
 次に厨房と定める場所の当てなど無かったが、とにかく、ここは捨てねばならないと思った。異臭とか以前に、何か悪いものが憑いていそうな気がしたのである。
 鉈の様な刃物と小振りな和包丁、それからフライパンと鍋蓋を器用に体に括り付け、そろそろ芯が尽きようとしているカンテラを手に持ち、いざここを出ようと一歩を踏み出した。その瞬間――

 ボロボロの扉がゆっくりと開かれた。

 ミスティアはカンテラを掲げる。
「――ようこそ、こんな所へ」
 癖でこんな一言を漏らした。
 カンテラに照らされ、闇の中に浮かび上がったのは――見たことがある様な気も、無い様な気もする、一人の少女であった。初潮の経験さえ無さそうな小さな子である。手を後ろに回して突っ立っている。
「……以前お会いしましたっけ?」
 少女の来訪に、ミスティアはいたく冷静に対応した。
 どうせこの場所は捨ててしまうのだ。場所を知られても何も気にすることは無い。
 更にこの場所は、彼女の中でもはや厨房では無くなっているから、この小さな客人に料理を提供してやる義務も無い。
 少女は忌まわしき来訪者でも、厨房を訪れた客人でも無い。ミスティアには何の関係も無いことだ。少女の瞳が人間らしからぬ獣の様な輝きを湛えていても、身につけている衣服が血色そっくりの赤黒い斑点模様を描いていようとも――何も関係無い。全てがどうでもいい。

「夜雀さん」
 少女が開口した。
「何でしょう」
「料理作って」
 年頃の少女らしい明朗さも快活さも抑揚も無い、随分陰気な声である。
「残念ですけどここはもう厨房としての機能を有していないんです。焼けてしまいましてね。食べられるものなんて一つも――」
「食材ならあるの」
 そう言い少女は、後ろに回していた手を前へ持ってきて、その小さな身体で隠していた、とっておきの食材をミスティアに見せつけた。
 生首であった。
 髪が長い。まるでそれが紐である様に、少女は生首を提示している。きっと首を切った時の血がはねたのであろう、その長髪にもべったりと血液が付いている。ギンと開かれた双眸は、被害者が驚愕と困惑の只中で絶命して行ったことを如実に物語っている。口の端から顎へ向かって伝う血は、ぽかんと口の開いた間抜け面のお陰で驚く程に陰惨に欠く。
「あらら、慧音さん?」
 一応ミスティアは、提示された食材たる生首――上白沢慧音に声を掛けてみた。彼女だって妖怪なのだから、もしかしたら首を切断されても、蜥蜴の尻尾みたいにしばらくは動けるかもしれないと思ったからである。しかし、返事は無かった。あったらあったで気色悪いので、無くてよかったと心の底から思えた。

「よくこんなもの手に入れられましたね」
 とりあえずミスティアは、少女の凶行を褒めた。
「寝てたから。簡単だった。首を切るのは少し時間掛かったけど」
 簡潔に少女は経緯を説明した。
「相手に寝てたにしてもこんなことはあんまり簡単にできるものじゃないよ。心理的にね。……あなたは人間よね?」
「うん」
「と言うことは寺子屋へ?」
「うん」
「先生のこと嫌いだったんだねえ。寝てる間に首を切り落とすって」
「先生も私達のこと嫌いだったみたいだから」
「あら、どうして?」
「ここから逃げた後――」
 少女の瞳が、ちらりと、爛れた牢獄を見据えた。
 なるほど――とミスティアは一人で納得する。
 この少女はあの時の『食材』の一人だったのだ。

 少女は訥々と、慧音が子ども達に行った仕打ちを語った。
 次々と寺子屋の友人らは恩師の手に掛かってバラバラになって殺されて行った。何故か二人だけ残され、見知らぬ廃屋へ監禁された。間誤付いていたら火災が発生した。連れ立ったもう一人を見殺しにし、奇跡的に一人生き延びた少女は人里へ向かうが――そこにあったのは、家屋の上で愉快そうに踊り狂う火炎であった。歴史を食われた少女は誰からも知覚して貰うことが出来ず、空腹のまま人里近辺で過ごす。妖怪達にとって人里は不用意に近づいていけない場所と言う先入観があるから、そこが一番安全であったのだ。焼け跡の処理が進んでどんどん殺風景になって行く教理を眺めている内に夜が訪れ、そこには上白沢慧音一人だけが残った。
 少女は焼け跡で偶然、大きな刃物を見つけた。その刹那、少女の中で殺意と言う衝動が起こる。
 眠っている慧音の首に刃を突き立てた。完全に眠っていた慧音であったが、その鋭利さの足りない刃物による一撃による痛みは相当のもので、目を覚ました。
 しかし遅かった。寝込みに喉を貫かれては、慧音でももはやどうしようも無かったのだ。

 人殺しなんて意外と呆気無くてつまらないものなんだな――また一つ賢くなった少女は血まみれのまま、これからどうしたらよいものかと考えた。――少女は気付いていないが、慧音は死んだので、食われた歴史は吐き出され、少女はもう他者から視認出来る様になっている。
 考えている内に少女は、自分が酷く腹を空かせていることに気付く。そこで、死した慧音の頭を切り取って、一番信頼のある料理人――おぞましき夜雀の元へと向かったのである。半獣の首をぷらぷらぶら下げて森を駆け抜ける少女は、妖怪達には人間の様には映らなかったらしく、少女は無事、忌まわしき厨房跡地に辿り着き、今に至る。

 何となく見覚えがあった理由も、こんな年端もいかぬ少女がこの様な場所に辿り着くことが出来た理由も、少女の語りのお陰で理解することが出来、ミスティアはほっとため息をついた。またおかしな靄を抱いてしまうところだった――と。
「なるほど。よく分かりました。それで、先生を料理してほしいと」
「そういうこと」
「どうして頭を?」
「頭よくなりそうだから」
「あはは。何ですかそれは。魚じゃあるまいし」
 ミスティアがけらけら笑う。少女は馬鹿にされた様な気がして少しだけ頬を膨らませたが、次の瞬間左目を小振りな和包丁で貫かれ、表情が凍り付いた。
 それから少女は眉ひとつ動かすことなく仰向けに倒れて行った。後頭部を地面に強打したようで、ぐしゃりと惨たらしい音が響く。
 ミスティアは、少女の左目に突き刺した和包丁を抜き取った。刹那、カンテラの芯が切れ、空間は闇に包まれる。
「もうあなた達に構うのは懲り懲りなんですよ」
 死んだ少女にそう告げておいた。



*



 午前五時。里の復旧作業を始めるべく指導した人々が人里の跡地を訪れた時、彼彼女らは己が目を疑った。
 かつては里の中心を奔る大通りとして賑わっていた場所のど真ん中に、夜雀がいたのである。
 早朝から作業するべくやってきた人々を見て、夜雀は穏やかな笑顔を見せる。
「おはようございます、皆さん。この度は本当に大変でしたね」
 微笑みながらそんなことを言い、夜雀は大皿に大量に持った肉料理を差し出す。食料もほとんどが焼失してしまった人間達の目が光る。
「これは?」
「私が持っていたものから少しだけ都合して作りました。ささやかながら、人里の復活の力になれればと思いまして」
 忽ち、料理を載せた大皿に人々が群がる。まるで砂糖菓子に集る蟻の如し様相である。
 料理の味は――言わずもがな美味であった。不幸の呼び寄せた空きっ腹に、どんどん料理が詰め込まれて行く。
「ところで夜雀さん。ここに半獣の先生はいなかった?」
 一人の女性が問う。ミスティアは首を傾げた。
「何故です?」
「ここを見張っていた筈なんだけど」
「さあ……ここで料理をしていましたが、存じません」
 少しだけ嘘を吐いた。この地に放置されていた首の無い死体が上白沢慧音だと判断するのは容易なことでは無い――筈だったから。
「さては逃げたな、あの半獣め」
 夜雀と女性の会話を聞いていた男が気色ばんで言う。
「もう放っておけばいいよ。あんな奴のことは」
 別の男がそれを宥めた。
「あいつがいなくたって、きっと俺達はやっていけるさ」


 ――そんなことはありませんよ。
 ――先生は、血となり、肉となり、これからあなた達を応援するのですから。
 ミスティアは己が言葉を飲み込んだ。

 次第に皿の料理が食い尽くされて行き、最後の一切れとなった。取り合いになることを懸念し、指揮官らしい男が言った。
「最後の一枚は夜雀さんが頂いて下さい」
 公平性、謝礼の意――そう言った観点から、この提案は採択された。ミスティアは、
「それでは、お言葉に甘えて」
 と、その一枚の肉を口へ運ぶ。
 肉が胃へ落ちて行くと同時に、幾百年前の仕返しが達成された様な気がして――溜飲が下がる思いが、夜雀の中を駆け抜けて行った。
 こんにちは。pんpです。57作目のSSが完成致しました。

 これは夏の頃に書いていたんですが、どうしても物語のいい終わり方を見つけ出すことができず、250kbくらい書いて放置していました。しかし前前から考えていたアイデアが満載だったし、何よりもう書き過ぎていたので捨てるに捨てれず、「こいつをどうにかしないと先へ進めない!」と言う思いの元、一から読み直して展開を練り直し、遂に完成に至りました。
 ようやくSS勢として2012年を越せた気分です。あけおめ。
 前々作、前作と、完成しないまま放置していたSSを完成させると言うのばかりが続いていました。次回からは久しぶりに真っ新なワードパッドに文字を打ち込めます。やったぜ。


 ご閲覧ありがとうございました。
 こんなに長いSSを読んで下さった方々、お疲れ様でした。ありがとうございました。
 今年もどうぞよろしくお願いします。

++++++++++++++++++++
>1 コメントも是非是非

>2 やたら長くなってどうなることかと思ったけれどお気に召して頂けたのであれば幸いです。

>3 ね。こんな強いミスティア、ミスティアと呼んでいいものか時々疑問。

>4 ありがとうございます。文章褒められるとpんpは喜びます。

>5 そう。振り回されてしまった。これは話が面白ければいいのか、シリーズのコンセプト的に許されるのかと迷うところ。

>6 過去に経験した味は時が経っても美味しく感じられる っていうのをテーマにする予定だったのにかなり逸脱した。

>7 誤表現報告ありがとうございます。癖って怖い。

>8 うふふ。

>9 何だこのラノベ!?

>10 つまり同人誌化して250円ならば手に取って貰えたと。

>11 あんまり話の流れに力を入れすぎるとミスティアが目立たないんですよねえ。ミスティアのミスティアによるミスティアの為のSSである筈なのに……。

>12 このSSのお燐ちゃんは我ながらすごい好き。

>13 意外と読めるもんなんですね。これなら20万文字くらい行っても面白けりゃ大丈夫かナ!

>14 全滅はデフォ。 幻想音痴ネタ気付いて貰えてうれc。あなたはpんpファンですね! うふふ。

>15 あんまり関係無さそうなキャラが各々動いて絡み合うのは非常に面白いと思います。

>16 かっこいいミスティア は共通させていく所存ですから。

>17 お粗末さまでした。

>18 ルーミアの脳みそを分けてあげるよ。

>19 思い付けば書きたいですねー、そういうのも。

>20 何か言って貰えると作者がより喜びます。

>21 慧音に食い殺される方向で書いていたけれど、妹紅の処刑方法が無くなるからこうなってしまった。

>22 ミスティアかっこいい可愛い。

>23 次回作ではあなたにおコメントさせてみせる。

>24 お粗末様でした。

>25 今度はすき焼きみたいなのを目指しますね。
pnp
http://www.pixiv.net/member.php?id=1709557
作品情報
作品集:
6
投稿日時:
2013/01/14 07:48:14
更新日時:
2013/01/21 14:35:27
評価:
23/30
POINT:
2440
Rate:
16.43
分類
グロ
ミスティア・ローレライ
上白沢慧音
藤原妹紅
火焔猫燐
簡易匿名評価
投稿パスワード
POINT
0. 180点 匿名評価 投稿数: 6
2. 100 ■2013/01/14 19:19:48
うおお、大作だ……
牛や豚から見た食肉処理場ってのは、こういう風に見えるんでしょうな。だから、我々のネジがちょっと外れると人を食べたい欲求が生まれる。
知的生命体を喰ってしまいたいというのも、ありありと理解できました。

終始一介の料理人に徹していたミスティアが趣深いです。それでいて、最後に僅かに感情を覗かせるところが憎い。彼女のステーキが食べたいですね。
慧音先生は人間と妖怪どちらから見ても半端者、という感じがよく現れていると思いました。食欲もどっちつかずの半端なんですね。
さしづめお燐はトリックスター。相応しい最期でした。

包丁さばきを磨きたくなる、良いお話でした。面白かったです。
3. 100 智弘 ■2013/01/14 19:52:35
pnpさんのところのミスティアは心的強者すぎて、読んでるといつの間にか彼女に肩入れしてる自分がいる。キャラクター描写がステキすぎるせい。

どの場面も惹かれましたが、蓬莱炉心と化した妹紅の最期が特によかったです。
4. 100 汁馬 ■2013/01/14 21:59:29
分類の通りグロテスクではあるけれど、綺麗な文章がそれをかき消して凄い食欲がわいてくる超大作でした
読後、夕食後でしたが無性に肉料理を食べたくなりました
5. 100 名無し ■2013/01/14 22:49:22
燐、妹紅、慧音と客人に散々振り回されたミスティア。最後は自ら動きましたね。
6. 100 NutsIn先任曹長 ■2013/01/15 00:22:18
『大魔神』の如く、別シチュエーションで繰り広げられる夜雀の晩餐、今回もまた面白かったです。

今回のテーマは『回帰』かな?
妖怪が身近な幻想郷で忘れ去られた、彼女達に対する恐怖。
名料理人の供する素朴な料理。
過去の因縁。
星めぐり。
地獄の業火、再生の炎、永遠の転生。



『黄泉竈食ひ』をした者達は、楽園を追われる事となった――。
人間の敵が料理した『半分』の同胞を喰らった者達も、ね。



最後の一口で、料理人の腹の虫が収まりましたとさ。
7. フリーレス 名無し ■2013/01/15 01:14:21
上手く言えないけどとても面白かったです(小並感)
慧音がミスティアの調理場を視察する場面の描写に「立ち入った地点から右手の壁際には水道や冷蔵庫、食器棚などが立ち並んでいる。
」とありますがミスティアの調理場に冷蔵庫はないんですよね……?
8. 70 名無し ■2013/01/15 01:15:43
※7です。点数忘れてました
9. 100 名無し ■2013/01/15 13:02:00
ミスティア・ローレライは静かに料理したい。
10. 100 あぶぶ ■2013/01/15 19:54:43
ケータイで読みました。
週刊少年ジャンプより面白かったです!!
いやジャンプも面白いですけど・・・(つまり二百五十円分の価値はあると)
11. 100 んh ■2013/01/15 20:23:33
お疲れ様でした。容量見てビビったほどの負担はなく、すらすら読めました。
慧音はやっぱり半端者の差別主義者がぴったりですね。燐の短絡的な感じもとても好みでした。
他の配役が出張ってたので、逆に今回はミスティアが前作までより印象薄めかなと、中盤辺りでは思いましたが、オチで全部かっさらっていったので満足いたしました。子供に食育するのかなと予想して読んでいたので、いい意味で裏切られました。
ミスティアは、和食中華フレンチにチャレンジして欲しい。
12. 100 名無し ■2013/01/15 21:35:25
すごいボリュームでしたが、面白くて一気に読んじゃいました。まるでミスティアの料理みたいな作品ですね(はぁと)
焦らされて焦らされて結局人肉料理食べられなかったお燐ちゃんかわいそうで萌え。あとこの慧音先生はバケモノと罵ってあげたくなりますね。
13. 100 名無し ■2013/01/15 22:47:45
すごいボリュームなのに一気読みしてしまいました。すげぇ面白い。静かに淡々と、しかし奥のほうに熱さを持った雰囲気のコック・ミスティアがかっこよかったです。ミスティアとしてはただただ平和に平穏に、普通とはちょっとずれた料理を作っていたかっただけなのに、周りの暴走のせいで滅茶苦茶に・・・。少女を殺した際のセリフはきっと心のそこから出たんだろうなぁ。

そして哀れといえばルーミア。「人食い妖怪」としての立場を捨ててまで同族に立ち向かい子供を助けられたと思ったら、守護者と周りを欺いた悪鬼による解体練習台って報われなさ過ぎる。
14. 100 ばっ ■2013/01/15 23:43:27
ミスティ、やっぱり恨んでたんですね。
300KB以上あるのに長々しいとは感じなかったです。もっと読みたいくらいです。
Lunatic Kitchen1と2から、おそらくだれも生き残らないのだろうなと思っていましたが、そこに行き着くまでに予想出来ないような二転三転があって…面白かったです。
食べたいけど、関わったら死にそうだな…
あと、幻想音痴ネタが仕込んであるのにクスっときました。
この夜雀は絶対美少女だ
15. 100 名無し ■2013/01/16 03:54:33
こんな時間に一気に読んでしまいました。
長さを感じさせず、物語に没頭してしまうほど惹きこまれました。

ああ、うん、やっぱりこのミスティアのキャラ大好きだ。
表と裏を華麗に使い分ける夜雀マジ素敵。惚れる。

これまで通りミスティアが東方キャラをクッキングするのかと思ったら別な人がクッキングもどきしてたという点で意表を突かれました。
ミスティアを悩ませる周囲の人々(人じゃないのもいるけど)がそれぞれの信念に従って行動していて輝いてて良かったです。
人間のことが本当は嫌いだったという慧音も新鮮で、読んでてドキドキしました。
そして頭撫でるシーンにほっこりしたらこのエンド!堪らないですね!!

ミスティアの更なる料理の探求期待してます。
16. 90 ハッピー横町 ■2013/01/16 07:07:50
実際そこまでミスティアは強い訳ではない筈なのにルナキチのミスティアは誰にも負けなさそうな気がしてきますね。
17. 100 名無し ■2013/01/16 09:58:07
 変わらずの面白さで安心です。
 ご馳走さまでした。
18. 100 名無し ■2013/01/16 18:26:42
いやぁ、腹が減ってきますな……
19. 100 名無し ■2013/01/17 00:27:38
お燐ちゃん死んじゃうんだろうなーと思ってたらやっぱり死んでしまった。
いつかこのミスティアを驚かせるようなキャラも見てみたい
21. 100 あっち ■2013/01/17 14:10:36
お燐ちゃんそんな死に方かーい せっかくだから料理されてしまえばよかったのに・・・


ミスティアさんのお料理食べたい
22. 100 ■2013/01/18 12:40:05
ミスティアがマジかっこいい。
24. 100 ギョウヘルインニ ■2013/01/19 13:04:16
ご馳走様でした。
25. 100 名無し ■2013/01/19 20:13:30
生首慧音さんぺろぺろ
食材を詰め込んだ良質な鍋料理みたいな小説でした。すごく面白かったです。
28. 100 おちこち ■2013/02/22 05:45:41
いやぁ面白い。
一見すると可愛い東方キャラたちも、やっぱり妖怪なんだなぁと実感。
夢中になって読んでたらこんな時間だよ……
29. 100 名無し ■2013/04/14 23:56:01
食事描写が少ないのに無性にお腹がすきました。
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