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『五十年目に廻り来るしき』 作者: sako

五十年目に廻り来るしき

作品集: 7 投稿日時: 2013/03/31 15:02:50 更新日時: 2013/04/01 00:02:50 評価: 4/5 POINT: 430 Rate: 15.17
 不意に夜の散歩に出発した。




 持ち物はカメラ一つっきり。財布も持たず誰かに連絡も取らず、ぶらぶらと足の向くまま気の向くまま夜道を歩く。山を下って人里の方へ。出逢う人もなく、夜の道は私のモノだった。空に月はなく、星もなく、雲だけがいくつか浮かんでいた。けれど、雨の気配はない。空気は澄んでいて、気温は程良く、茂みから聞こえる虫たちの鳴声が耳に心地よかった。とても、とても散歩向きの良い夜だった。あまりに良い夜なので私は散歩するだけではもったいないと思った。

 歩幅を調節してみる。

 からんころん、からんころん。

 こんなものか。

 からんころん、からんころん。

 虫の合唱に靴の音を合わせる。

 からんころん、からんころん。

 ついで鼻歌なんぞも口ずさんでみる。

 からんころん、からんころん。

 今夜の私は音楽家みたいだ。

 からんころん、からんころん。

 歌は私。琴は虫たち。笛は蛙たち。太鼓は私の下駄だ。

 からんころん、からんころん。

 夜の大合奏。カメラの重みも忘れてしまう。

 からんころん、からんころん、ざく。

 今宵は上機嫌。趣味と仕事の事なんて忘れてしまおう。

 からんころん、ざく、からんころん。

 だっていうのに、

 からんころん、からんころん、からんころん、ざくざく。

 異音が私の邪魔をする。

 私は足を止めた。
 あれだけ沢山鳴いていた虫たちは何処かに行ってしまったのか、辺りは静まり返っていた。葉擦れの音もせせらぎも聞こえず、静寂。なるほど、これじゃあ、鼻歌も下駄の音も不都合だ。こんなに静かじゃ音を立てるのがものすごく悪いことをしているように思えてしまう。ああ、だからでしょう。この静かな夜にあんな嫌な音をたてている人を見つけてすぐに悪い奴だと分ってしまったのは。

 ざくざくざくざく。

 心地よかった空気も今はタールのように粘ついている。風呂でも焚いたみたいに湿度は高く、気温も不快なほど高くなっていた。とても良い夜じゃない。とても悪い夜だった。空に月はなく、星もなく、雲だけが浮かんでいる。足下がおぼつかないほど暗く、街灯だけが頼りだった。

 ざくざくざくざく。

 だっていうのに、街灯は今にも切れそうに点滅している。電気が不安定なのか、それともフィラメントが切れかかっているのか、明暗を繰り返しては夜道の影を濃く映している。明暗陰影。電柱も、草葉も、街路樹も、観覧車も、何もかもが影絵になる。

 ざくざくざくざく。

 その影絵の風景の中。
 グレーと黒で作られた風景の中。

 ざくざくざくざく。

 たったひとりだけ鮮明な紅に彩られた彼女がいた。

「―――ッ」

 私は思い出す。私がなんなのかを。私は音楽家じゃない。真夜中の遊歩者でもない。私は、私は――






 パシャリと首に提げたカメラのシャッターを切り一目散に逃げ出した。
<1>

「たまにはこういうのも良いですね」

 人々の往来をその喧噪をBGMに四季映姫は一人、歩いていた。
 時刻はお昼を過ぎた三時頃。町にはまだまだ人は多く出ており活気に満ちていた。道行く人々は談笑を交わしあい、店先では店員が威勢の良い呼びかけをしている。膝小僧を擦りむいた子供たちが前も見ず走り回り、郵便配達員の自転車にぶつかりかけ怒鳴られている。時折、人外のものを目にするが、獣の耳を持つもの、幽体であるもの、一世紀の齢を重ねるものも町の営みに溶け込んでいる。いや、寧ろそれさえも営みの一部だ。幻想郷の日常光景。
 その日常の中を映姫は特にこれと言った当てもなく歩いている。なんとはなしに目に付いた店を軒先から覗きこみ、往来に人だかりを作っている大道芸人のパントマイムに感歎を漏らしたり、甘味処を見つけては団子を頬張ったりしていた。映姫は幻想郷の住人ではなかったがそれなりに日常に溶け込んでいるようだった。

 適当に市中を歩き回ったところで映姫は川沿いの甘味処や酒房、サ店が並ぶ一角にタバコ屋を見つけた。ふと、そう言えば今日、市中を歩き回っているときも妙にタバコ屋が目に付いたな、と映姫は思った。次いで連想か、そう言えば、と口を開いた。
「巷では煙草が流行っているのでしたっけ」
 部下である小野塚小町がそんな事を言ってたことを思い出した。今時、煙草の一つや二つ飲んでいない奴は流行遅れ、とも。今、幻想郷は空前の煙草ブームなのだ。
「ふむ。煙草ですか」
 呟いてふらふらと誘われるようタバコ屋に近づいていった。店の前の長椅子には白髪を短く刈り揃えた初老の男が座りキセルを吸っていた。しかめっ面であまり美味しそうには見えなかったが、何故か映姫にはそれがしっくりしているように思えた。煙草とは不味いものでそれを楽しむのだ、と。
「ほう。一口に煙草と言っても色々種類があるのですね」
 店の中には入らず入り口から中を覗きこむ。まだ日が高いからか特に灯りらしい灯りを点けていない店内は薄暗かったが目を懲らせば腰の高さまで薬棚が、その上からはぎっしりと小箱が詰められた棚が天井まで伸びていた。それ以外にも見事な彫刻が施されたキセルや紙煙草用の巻紙などが置かれている。興味深げに映姫がそれらを眺めていると不意に店の奥から声がかけられた。
「いらっしゃい…ってなんだいお嬢ちゃん、お遣いかい?」
「失礼な店ですね。帰りますよ」
 店主と思わしき男の言葉にむっとする映姫。男は目を丸くした後、こりゃ失敬、とすぐに謝った。
「それで、お嬢さん。帰らないところを見ると少なくともお客って事でOKだな。何をお求めで? うちの店は農家直送の純正品から当店独自ブレンド、大陸産から洋物、吸うと仙人みたいに落ち着くものから戦の最中みたいに気分が高まるものまでなんでもそろっているぜ」
 軽快な口調で映姫に話しかける店主。なかなか商売上手ですね、と映姫は半ば呆れつつ半ば感心しつつ思った。この分だと映姫を子供扱いしたのも話を弾ませるためにあえてだったのかも知れない。
 興味があったのは本当の事だしここで帰るのも野暮か、と映姫は店主に向き直った。
「そうですね。煙草、と言えば煙に含まれるタールや各種発ガン性物質による肺や気道へのダメージや、本人は元よりその周りにいる人にも害を与える副流煙、吸い殻のポイ捨てや場所をわきまえない喫煙といった喫煙者のマナーなどが問題になっていますが」
「お嬢さん、冷やかしなら帰ってくれないか…」
「これだけ流行っているのですからそれを補ってなお余りある何かしらの魅力が煙草にはあるのでしょう。喫煙を禁止する教えもありますが、それはどちらかというと先に述べた問題そのものを問題視しているのであって喫煙それ自体が何かしらの問題があるというわけではありませんし」
「えっと、つまり…なんだ?」
 映姫の長たらしい講釈に頭が付いていかず要約を求める店主。はい、と映姫は頷き、
「まぁ、つまるところ私はそんな普遍的な意見しか煙草についての知識を持ち合わせていないので、店主。何かオススメはありますか」
 そう言った。足払いでもかけられたように店主の身体が傾く。
「ああそうかい。亜阿相界。つまるってところお嬢さんは煙草を吸ったことがないから俺に意見を求めてると、そういうことか」
 ええそうです、と頷く映姫。店主は姿勢を正し、だったら、と店内を見回す。もう既にその顔は商売人のそれだ。
「これなんかおすすめだ。軽くて味も香りも爽やかだ。女性に人気だな」
「ほう」
 そう店主に薦められたもののいまいち歯切れの悪い言葉で返す映姫。煙草なんて吸ったことがないのにお薦めだと言われてもどうしていいのか分らない、そういう考え。それを見取ったのか、店主は試飲するかい、と映姫に勧めてきた。是非、と応える映姫。
「吸い方はどうする? 紙巻きかい」
「はい。あ、いいえ。キセルが出来るのでしたらそちらでお願いできますか」
 店先で吸っていた初老の男のことを思いだしそう申し出る映姫。はいよ、と店主は店の奥から真新しくシンプルなデザインのキセルを取り出してきた。綺麗な布で吸い口を拭う。
「消毒してあるけど一応な」
 言いつつ店主は自らが勧めた煙草を薬棚からひとつまみ取るとそれを指先でこね、器用に丸めた。それを火皿の中に詰め映姫に手渡す店主。
「えっと、これはどうやって火を点ければ…」
「ああ、そうか。悪い悪い。そこの火鉢の炭に近づけて火を点けてくれ。傾けて中の煙草を炭に近づければ火は付きやすいが…落とすなよ」
「はい」
 店主に言われた通り火鉢に歩み寄り、慎重にキセルを赤熱した炭に近づける映姫。丸め方が絶妙だったのか、熱線に当てられ程なくしてちぢれた煙草の先に火が灯った。それを見ていた店主が演技がかった口調で慌てるように、
「吹かせ、吹かせ」
 と映姫を急かした。こちらは本当に慌てて吸い口を加え、ゆっくり慎重に息を吹き込む映姫。酸素が多量に供給され火が回る煙草。キセルの先から白煙が立ち上り始めた。
 これでいいのですかと確認を取るよう店主に映姫は顔を向けた。腕を組みしたり顔で頷く店主。
「ではさっそく」
 新しい玩具を与えられた年頃の子供のように嬉しさを隠そうとして隠しきれないような様子で映姫は吸い口を加えた。確か、あの初老の男性はこうしていたなと記憶を頼りに真似て思いっきり息を吸い込んだ。途端、
「ごほっ、げほっ…!」
 案の定、咽せる映姫。慌てて店主が駆け寄る。
「吸い込んじゃ駄目だよ。こう…口の中で味わうみたいに止めておかないと」
「けほっけほっ、そ、それならそうと早く…」
 涙目になりながら非難がましい目を向ける映姫。幸いなことに火の付いた煙草や灰は吸い込まなかったらしい。
 落ち着くまで待ってから映姫は店主に言われたように吸い始めた。
 瞬間、肺の中に広がる爽やかな香り。煙たっぽさがまだ吐き気を覚えさせたが、身体に染み渡っていくような芳香にすぐに忘れてしまった。まるで、高原に作られた香草畑を歩いているような心地よさを感じる、歩き回ったことで身体に蓄積された疲れが薄れていくようだった。
「どうだい?」
「ん−、よく分りませんが、煙草を吸っているという感じはありますね」
「そうかい。じゃあ、しっかりと味わうといいよ」
 そいつは店からのサービスだ、そう言って店主は気を利かせてか店の奥へ引っ込んでいった。どうも、と頭を下げ映姫は店先の長椅子に腰を下ろした。あの初老の男性はもう姿を消していた。座っているのは映姫だけで独り占めだった。
「………」
 煙草を吹かしながらなんとはなしに川の流れを眺める。
「平和ですね。ホント」
 呟いて紫煙を口から吐き出しつつ天を仰ぐ。すっかり、いっぱしの喫煙者に映姫はなっていた。空には雲一つなく、烏が一羽、飛んでいるだけだった。川原の対岸では人力車を引く男や着物姿の女性の一団が見える。普段から地獄の最高裁判長として人々の魂を裁き、小さなものから大きなものまで罪悪を検分している映姫としてはこんなありふれた日常でさえも平和の具体例に思えて仕方ないのだ。町行く人たちは多少の罪は犯しているだろうが、地獄に堕ちるのが確実のような大罪人はおらず逆に産まれたときから免罪符を握りしめているような聖人もいない。気負わなくても良い場所。心身ともに休ませるには良いところだった。
「む。あれは…」
 いや、どうやらそうでもなさそうだった。土手を下った河川敷でなにやら諍いごとが起っているのを見つけたのだ。ため息をつきつつ映姫は腰を上げた。遠目で誰が言い争っているのか分らなかったが聞こえてくる声は子供特有の甲高い声だった。子供の口げんか、だろうか。実際の所、子供同士の喧嘩なんてものは寧ろ平和の側に属するようなもので、放って置いても自然に解決するだろうし、そうでなくとも親兄弟が止めるであろう事柄だった。映姫には無視するという選択肢もあった。だが、基本ではなく絶対的に正義の人である映姫は見て見ぬ振りなど出来ない相談だった。


◆◇◆



 タバコ屋の店主にありがとうございました、と礼を言いキセルを返して土手に造られた階段を下っていく。河川敷はそこそこの広さがあり、椅子を持ち込んでのんびり釣りをするにはもってこいの場所だった。ただ、今は釣り人はおらず両岸の土手を繋ぐように伸びている橋の下で数人、子供や妖精が大声を上げあっているだけだった。
「お前のせいだろ!」「ちゃんとキャッチしなかったアンタが悪いんじゃないの!」「僕のボール…」「なんだと!」「やるっていうの!」「ひぐっ、僕のボールが…」
 言い争っている数人のうち、リーダー格の少年と妖精が同時に腕を振り上げた。口げんかでは飽きたらず暴力に訴えでようとしているのだ。振り上げられた拳は相手の顔面を殴りつけるまで降りそうにない。二人は怒りで顔を真っ赤にしながらも目を逸らすまいと相手を強く睨み付け、間合いをつめ、そうして…
「これ。やめなさい」
 殴り合おうとした二人はそれより先に第三者の手によって殴られた。あいたー、と頭を押さえのたうち回る少年と妖精。予期せぬ方向から不意打ちのように殴られたのだ。その痛みは推して知るべし。
「なにすんだよ!」「なにするのよ!」
 二人同時に身体を起こして映姫を睨み付ける少年と妖精。なんだ、仲がいいじゃないですかと映姫は内心で思った。
「暴力はいけませんよ。暴力を振っていい相手は異教徒にも化け物にもいませんよ」
「なんだよお前は」「そうだ。いきなり現れて」
「私は閻魔。貴方たちが喧嘩しているからそれを叱りにやって来たのですよ」
 閻魔、と名乗られ少年の方はたじろいだ。祖母から嘘をつくと閻魔大王さまに舌を抜かれると教え込まれているのだろう。対して妖精の方はそんなまともな教育は受けていないのか立ち上がると野獣のように恐れ知らずに映姫にくってかかってきた。
「なによ。えんまだかやんまだか知らないけどえらそーにしないでっ」
「えんまもやんまも実際にそこそこにえらいのですけれどね。まぁ、私のことはどうでも。それで、どうして喧嘩していたのですか?」
「フン。コイツがアタイが投げたボールをちゃんとキャッチしなかったの。で、ボールが川に流されちゃったのよ!」
「違うよ! コイツがノーコンだったんだよ!」
 映姫の質問に素直に応えてくれたところを見ると二人とも根は素直そうだった。ただ、遊び道具がなくなってしまったのは相手のせいだと責任を押しつけあっているのだ。ふむ、と映姫は頷いた。実際の所、現場を見ていないのでボールを川に落としてしまったのはどちらの責任なのか映姫には分らなかった。罪人の過去を映し出す浄玻璃の鏡があればその程度のことすぐに分るのだが、あの手鏡は映姫専用とは言え私物ではなく是非曲直庁の備品であり、今は持っていないのだ。ならばここは矢張喧嘩両成敗か、と映姫が考えていた所でこの場にはもう一人、子供がいたことに気がついた。少し離れた場所でベソをかいている少年よりも更にもう一つ、二つほど小さそうな何処か気の弱そうな男の子だった。そう言えば、と映姫は思い出す。この子は少年と妖精の言い争いには参加せずずっと俯いていただけだった。
「どうしたのですか?」
「僕の…僕のボールが…」
 映姫が声をかけると途端に堰を切ったように泣き始める男の子。流石の映姫も面食らった。
「泣かないで。流されてしまったボールは貴方のなんですか」
 洟を啜りながら、ひぐひぐと嗚咽を漏らしつつ頷く男の子。映姫はハンケチを取り出して涙や鼻水を拭ってあげる。
「うん。うん。お父さんにもらった…ひぐっ、ボールで…お父さんが昔、使ってた奴で…それで、大事にしろって、言われてたのに…」
 男の子の嗚咽混じりの説明を頷きながら映姫は聞いた。成る程、男の子は大切な物を失ってしまい泣いているのだった。
「わかりました。ありがとう」
 立ち上がり、男の子の頭を撫でてあげる。それで少しだけ気分が落ち着いたのか男の子の泣き声は小さなものになった。
「さて、二人とも。よろしいですか。ボールをなくしてしまったのは投げた方とキャッチする方、どちらが悪いのか分りませんが、それ以前に貴方たち二人はこの子の大切なボールを川に流してしまっているじゃないですか。まずはそれを謝りなさい」
「あ…」「う…」
 思い出したように泣いている男の子に視線を向ける二人。怒りに我を忘れ今の今までその事実を忘れてしまっていたようだ。暫く二人は俯き加減に視線を彷徨わせていたが、一喝するような映姫のさぁ、というかけ声に二人そろって男の子の方へ向きなった。
「ごめん」「ごめんなさい」
 ぺこり、と頭を下げる。目元を拭い、ううん、と首を振る男の子。どうやら許してくれたようだ。その様子を見て映姫は満足げに頷いた。
「さて、ではボールを探しに行きましょう」
 映姫の提案にえっ、と三人は同様の顔で振り返った。
「どこかに引っかかっているかも知れません。探す価値はあるでしょう」
 三人は顔を見合わせるとぱぁっと太陽のように顔を輝かせた。もう、ボールが見つかったような笑顔だった。
 妖精と少年を先頭に四人は歩き始める。少し遅れて映姫が男の子と手を繋ぎ歩いて行く。端から見れば年の離れた姉と弟のように見えた。弟とその友達の面倒を見ているお姉さん。無邪気な子供たちと妖精につられて映姫も笑みを溢した。
「みつかんねーな」「ないね」「………」
 けれど、歩けど歩けどボールらしきものは見つからなかった。川はまっすぐ伸びておりボールが引っかかりそうな葦や岩などはまったくなく、流れも段々と速くなってきている。これはボールはもう遠くに流されてしまい見つからないのでは、と映姫は男の子たちに覚られないようにしながらも思った。安易なことを言うべきではなかったかもしれませんね、と反省もする。さて、どうしようかと映姫は歩きながら思案した。
「こんにちわ」
「えっ、あ、こんにちわ」
 と、いきなり挨拶をされた。見れば大きな石を椅子に川面に釣り糸を垂らしている仙人じみた風貌の老人がいた。考え事をしていて彼の存在に気がつかなかったのだ。あわてて挨拶を返す。子供たちも映姫に習ってこんにちわ、と。釣りの邪魔をしても悪いので映姫たちは老人の後ろを静かに通り過ぎていった。
「見つかりませんね」
 諦めの言葉が映姫の口からも漏れた。がくりと肩を落とす子供たち。男の子はまた鼻をぐずらせ始めた。代わりの物を用意して…それでどうにかなる訳じゃありませんね。そう映姫は思う。取り敢ず、捜索は諦めて茶屋にでも行きましょうか、そう考え始めたところ、はと映姫はある事柄に思い当たった。
「おじいさん、すいません」
「ん? なにかね」
 通り過ぎた老人の所まで映姫は戻っていった。声をかけると老人は顔を上げ、落ちくぼんだ眼窩に隠された優しげな瞳で映姫を見上げてきた。
「おじいさんは今日、ずっとここで釣りをなさっているのですか」
「そうじゃが。それがどうかしたのか」
「それでしたら、この子たちが誤って自分のボールを川に落としてしまったのですよ。ここを流れていきませんでしたか?」
 ここで川面をずっと見ていたのなら流れてきたボールに気づいてもおかしくはない。それがほんの少し前の話ならばまだ流れていったボールには追いつくはず。そう思い映姫は老人に声をかけたのだ。だが、老人からは予想外の答が返ってきた。
「ああ、それなら…」
 竿を置き、ごそごそと釣り上げた獲物を入れるための魚籠をまさぐる老人。釣果は坊主だったのか、魚籠の中からは生きのいい魚が暴れるような音は聞こえてこなかった。代わりに…
「それはっ!」
「さっき、流れてきたんでな。拾ったんじゃが…」
 老人は魚籠の中から薄汚れた、けれど、大切に使われてきたことが伺えるボールを取り出した。ああっ、と声を上げたのは映姫だけではなく子供たちもだった。
「僕のボールだ!」
「ああ、お前さんのじゃったか」
 老人からボールを受け取りはしゃぐ男の子。よかった、と友達二人も顔を綻ばせる。
「ありがとうございます、おじいさん。ほら、貴方たちもお礼を言うのよ」
 映姫に言われ深々と頭を下げる三人。いいってことよ、と老人はまた釣りに戻った。もう一度、映姫たちは頭を下げて老人の邪魔にならないよう離れることにした。
「いいですか。今回は見つかりましたがおじいさんが拾ってくれていなかったらボールはなくなってしまっていたことでしょう。今度から、ボール遊びをするときはもっと広い原っぱみたいな場所で遊ぶんですよ。いいですね」
 川原から上がってから映姫は三人にそう強く言い聞かせた。子供たちは素直なものではーい、と声を揃え返事してくれた。その様子を見て映姫は顔を綻ばせると、もうそろそろ日が暮れますから今日は早めに帰るんですよ、と子供たちを促した。
「ありがとうお姉さん」「ありがとう」「ふん、アンタがいなくてもアタイひとりで見つけられたんだからね。まぁ、でも、あんがと」
「いえいえ。それじゃあ」
 口々にお礼を言って帰っていく三人。その背中が見えなくなるまで映姫は手を振り続けていた。


◆◇◆


「さて…」
 そう言って映姫は辺りを見回す。『さて』自らの行動を促す言葉。だが、その言葉はこれ見よがしぐらいに大きな声であった。まるで、誰かに聞かせているように。ぐるり、と視線を一周させたところで映姫は目に映る光景に微細な違和感を憶えた。その方向…一見すると何もないその場所をジッと睨み付け、そうして、
「で、さっきから何なんですか彼方は?」
 何もない空間に向かって声をかける。
 すわっ、気でも違えたかと思われた瞬間、あろう事か何もない空間から驚きを伴った声が返ってきたのだ。
「あややっ? 見つかってしまいましたか」
 次いで、電子音が聞こえ唐突に何もなかった空間にシーツのおばけが現れる。子供が遊びでするあれだ。ただ、シーツと言うよりは大きな布は光沢を持っておりシートという方がしっくりときた。その中に潜んでいた人物は流石にもう隠れている気はないのか、するりとシートを脱いだ。中から現れたのは…
「ややや、どうも。毎度おなじみ清く正しく美しく、幻想郷の伝統ブン屋、射命丸文でございます」
 一人の鴉天狗であった。カメラを手に挨拶代わりと言わんばかりにぱしゃりとシャッターを切る。
「しかし、流石の洞察力ですね、閻魔さま。姿の見えない私の姿を見つけるなんて」
「そんな高下駄で石が敷き詰められた河川敷を歩いていれば誰だって気がつきますよ」
 あやや、と足の裏でも見るよう片足を上げてみせる文。
「うーん、カッパ特性のステルス迷彩も音だけは隠しきれませんか。原作通りですね」
 言いつつステルス迷彩なるシーツを丸める文。材質はかなり薄いのか丁寧に折りたためば一反程の大きさのシートは鞄に詰め込めるほどの大きさになった。そいつをしまう文。
「それで、何用ですか新聞記者さん」
 今一度、どうして姿を消して自分を追いかけていたのか問いかける映姫。いえ、大したようじゃありませんが、と顔に笑みを張り付けながら文は応える。
「何か記事のネタになるような事はないかなと飛び回っておりましたら、すわっ、あそこにおわすは楽園の最高裁判官じゃありませんか。里では滅多に見ぬお人。そんな方がこんな片田舎くんだりまで来ていると言うことはどんな大事件が起っている事やら、と思い後を付けさせてもらった次第であります。ところがずっと後を付けていても閻魔さまは茶屋で団子を食べたりタバコ屋を冷やかしたり、あまつさえ子供たちとお戯れになったりと事件の臭いなんてひとつまみも発せないじゃありませんか。これはアテが外れたかな、と思っていたところでして…で、暇なんですか?」
 囃したてるよう事情を説明する文に映姫はため息をついた。そんな前から見られていたなんて。壁に耳あり障子にメリー。内心で猛反省する。
「まぁ、暇と言えば暇ですね。今の私は閻魔としてここに来ている訳じゃありませんから」
「ほう」
 頷いていそいそと文は愛用のメモとペンを取り出した。ペン先を舐めて映姫の言葉を一言一句聞き逃すまいと気合いを入れる。目元に力をこめ、新聞記者の顔つきになる文。はたして、閻魔としてではない、という言葉の真意は果たしていかな物か。ゴクリと生唾を飲み込む。
「して、来郷の理由は?」
「長期休暇を戴いたので小旅行に来たまでです」
 ズコー、とこれが漫画なら大きく力強い自体で擬音が画かれるほど身体を斜に傾ける文。思わず手が滑りメモ帳にミミズのような横線を引いてしまった。
「休暇…ですか…?」
 姿勢を正しつつ問い返す。
「ええ。もう暫くすると忙しくなりそうなので、その前にと思いまして。だから別段、それ以上の他意はありませんよ」
 きっぱりと言い放つ。これは記事にはならないなと文はメモを閉じた。
「ははぁ。私はまさかあの子供が後々に大犯罪者になるから今のうちから矯正でもしようとしているのかと思いましたよ」
「まさか。あの子たちの喧嘩を止めてボールを探してあげたのはただの好意ですよ」
「好意?」
 その言葉にぴくりと文の眉尻が上がった。
「好意ですか。それにしても面倒見がいいですね。もしかして、閻魔さまは案外、子供がお好きだとか?」
 予期していなかった文の質問に映姫は瞳を丸くし目蓋をパチクリと開閉した。えっと、と映姫は言葉を詰らせる。言いにくいことを言わなくてはならない、そんな雰囲気。けれど、彼女は閻魔で言葉を濁すという言葉は彼女の辞書には載ってなかった。
「まぁ、好きですよ。そりゃ。子供はかわいいものじゃないですか」
「ほほう」
 にんまり、と文は笑みを形作った。閉じていたメモを開いてサラサラと何事かを書き込んでゆく。
「何を書いているのですか…?」
「閻魔、まさかのロリコン疑惑…って、冗談ですよ冗談」
 映姫が握り拳を固めたのを見て慌てて書いたばかりのメモを塗りつぶした。はぁ、とため息をつく映姫。
「私は地蔵菩薩からの出向組ですからね。子供好きなのは昔からですよ」
「へぇ、閻魔さまは昔、お地蔵さまだったのですか」
 成る程、頭が固いところはその当時から、と新たに失礼なメモをとる文。最早、怒る気力が沸かないのか映姫はそれを無視した。
「もう、いいですかね。そろそろ宿に行きたいのですけれど」
 そう言いつつも文の了承など取らずに映姫は踵を返した。あっ、待ってください、と文は慌てて映姫の後を追いかける。
「もう少し取材させてくださいよ。どうです、今日、食べたお団子の中で一番美味しかったものは?」
「御劔屋の物です。これでいいですか」
 足早に歩く映姫に追いつき、器用にメモを広げながら話しかける文。当然、映姫は足を止めない。それどころか加速して文を置いていこうとするが、幻想郷最速のブン屋からは逃れられる筈がない。
「いいじゃないですか。ちょっとした取材ぐらい。『密着、ヤマザナドゥの休日』なんて見出してちょっとした記事を書きたいんですよ」
「今思い付いたでしょうソレ。私には分りますよ」
 早足で市内を駆けていく二人は非常に目立っていたが、傍目からは女の子二人がじゃれ合っているようにしか見えず町衆はすぐに興味をなくした。
「助けると思って。慈悲深いのが閻魔さまでしょ」
「しつこい! 今ここで十王の裁きを受けたいんですか!?」
 ぎゃあぎゃあと言い争いながらもう殆ど走る速度で進む二人。文は追いかけているだけだが、映姫はそれでも一応、宿を目指して移動していたようで町中を突っ切った二人は小高い山を背に立つ大きな旅館の前にやって来ていた。
 門代わりの見事な松の脇を通り、踏み石を辿って玄関へ。それでも文は付いてきていた。
「ねぇ、お願いですから。ネタがないんですよ、ネタが」
「あーっ、もう、ネタなら…」
 二人して旅館の入り口をくぐる。瞬間、鼻を付いたのは―――




「何、これは…」



 赤。
 赤い匂い。
 赤くて赤くて赤い匂い。
 赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い、赤い匂い。






「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 
 旅館の床を染め上げる夥しい量の血だった。
<2>

「さて、どうしましょうかしらん」
 すいませんすいません、と何度も頭を下げる番頭と女将の声をバックに何とも言えぬ顔をしながら映姫は今日泊まるはずだった旅館を後にした。だが、足は道に出て壁代わりに植えられている椿の垣根に向かって折れたところで止ってしまった。椿の花は生えておらず緑々とした肉厚の葉が生い茂っているだけだ。花が咲き出すにはもう暫くかかるだろう、と映姫は現実逃避するように思った。
「はぁ、楽しみにしていたのに」
 名残惜しそうに夕日を受けて朱く輝く旅館を見上げる。あの二階の客室から見る夕日は格別の物だったのだろう。そんな風に暫く休んだ後は市中を歩き回ってついた埃を洗い流すために檜の風呂に。綺麗さっぱり汚れも疲れも洗い流した後はお待ちかねの夕食だ。山や野の幸をふんだんに使った料理に舌鼓を打ち、お腹が一杯になれば今度は露天風呂に行き月を見ながら軽く一杯。そんなプランが休みが決まったときから映姫の頭の中にはあったというのに、それが一転、今では今夜の宿すら怪しい始末だ。
「何処か泊まるところを探さないと」
 気持ちを切り替え、兎に角、今日の宿を探すことを決める映姫。自身の能力どおり、彼女は中途半端に迷う、ということはないのだ。だが、それでも矢張声には何処かしら元気がなかった。後ろ髪引かれる想いがまだ映姫の中に残っているのだ。
 いや、それだけではない。それに加えて自分が口にしたことがあまり現実的でない事を映姫は理解していたからだ。
 幻想郷は完全、とは言わないが閉鎖的な社会である。それは幻想郷という特殊な場所の性質上、仕方のないことではあるが、基本的にこの郷を訪れると言うことはそれはそのままここに永住するということを意味している。元より、住処を追われ、存在意義を失った妖怪たちが移り住むための楽園なのだ。来客、というものは性質上少ない。そして、客が少ないということはそれはそのまま旅館や民宿といった宿泊施設の需要が全くないことを意味している。需要と供給は自然とバランスがとれるようになるもの。映姫が泊まろうとした旅館も悲しいかな、泊まる客は滅多になく、いつかは経営が行き詰まり廃館に追い込まれることになるだろう。
「…いえ、今日の件でそれは早まりそうですけれど」
 悲しそうに呟く映姫。この旅館は元は外の世界で隠れ宿的にやっていたそうだが、余りに隠れすぎていて人々から忘れ去られ、そうして他の忘れ去られた品同様、幻想郷に流れ着いたという経歴を持つそうだが、その最後がこんな異郷の地で経営不振とは。世の不条理を感じずにはいられない映姫ではあった。
「あ、そうだ」
 垣根の前に立ち、これからの事を考えていた映姫はぽんと手を叩いた。渡りに船…とまではいかないが渡りに桟橋程度の宛てがあることに気がついたのだ。
「ブン屋さん、申し訳ないですがここいらで他に宿をご存じないですか」
 餅は餅屋、馬は馬方、情報は情報屋、もとい新聞記者に聞くのが一番であると考えたのだ。民宿の一つや二つぐらい幻想郷に住んでいる文なら知っているのでは、そう期待しての問いかけ。美味しい料理も見晴らしのいい景色も露天風呂もなくなり旅館よりは格段にランクが落ちたとしても野宿よりはマシだ。雨風が凌げるのならばそれでいい。
「はぁ…はぁ…え、や、宿ですか…?」
 隣にいた文は垣根に手を突いて俯いていたが、映姫に声をかけられ顔を上げた。その顔は血でも抜いたのかと思えるほど真っ青になっていた。
「ないですよ、そんなもの。この旅館が出来たとき『幻想郷に初の宿泊施設が』って新聞の記事になったぐらいなんですから」
「ああ、その記事を見て私、ここに来たんですよ」
「それ書いたの私です」
 みょんな縁もあるものだ、と映姫は目を丸くした。そう言えばと思い出す。アレは確か仕事をサボって読んでいた小町から取り上げた新聞だ。成る程、それなら冥府に幻想郷の記事が書かれた新聞が存在していたのも納得できる。
「それはそうと閻魔さま…よく平気な顔をしていられますね…」
 素朴な疑問と言うよりは半ば呆れに近いような言葉だった。言葉の真意が分らず、どういうことでしょうと聞き返す映姫。
「だって、あんな、あんなむごたらしい人の……を見て、そんなケロリとしてるなんて…」
「あぁ」
 合点。
「まぁ、職業柄、地獄より地獄らしい現場は視てきているので…」
「なる…ほど。そういうことですか」
「貴女も、まぁ、だらしないとは言いませんけれど案外弱いのですね。いえ、寧ろ個人的には驚きですよ。あんな惨状、新聞記者なら豪勢な食卓にさえ見えるでしょうに」
「食卓…うぷ…い、いえ…ああいうえげつないのはちょっと私の好みじゃありませんよ…あれははたての趣味です…ええ、あんな…あんな…首無しの死体が壁に磔にされてる現場なんて…うぷっ…」
「………」


◆◇◆


 首無し死体が壁に磔にされている。
 ほんの数刻前、映姫と文が揃って目撃した惨状だ。
 あの時、敷居を跨ぎ、エントランスホールに足を踏み入れてまず二人が気づいたのは息が詰るような血の臭いだった。鉄のように冷たく、それでいて生き物特有の生臭さを覚える血の臭い。それを感じ取ったのだ。おかしいとお互い会話を止め、次ぎに認めたのが赤い色だった。最初、映姫はエントランスに鮮やかすぎる紅の絨毯が敷き詰められているのかと思った。悪趣味だ、とも。だが、すぐにそれが間違いだと気がついた。向かって真正面にある壁に血の源の一つであるオブジェが飾られていたからだ。
 オブジェは白装束で両腕を肩より高く上げ、足は重力に引かれるままにだらんと伸ばしていた。まさしく磔刑に処された罪人のようだった。ただし、本来、赦しを請うように項垂れているはずの頭はそこには付いていなかった。ギロチンで切り落したように綺麗さっぱり見事な断面図を晒し、そこから多量の血を溢していたのだ。
 そんな凄惨な光景に文も映姫も凍り付いたように固まった。日常というフィルムの中に急にスプラッター映画の一コマが挿入されたのだ。観客も映写機もスクリーンの中の役者でさえも動きを止めるだろう。そんな膠着状態から真っ先に抜け出したのは映姫だった。一時停止を解除したように再び歩き始めようとして、それを邪魔するよう天井から降ってきた雫に足を止めた。雫は運悪く一歩踏み出した映姫の靴の上に落ちた。ブーツに刻まれる赤い染み。見上げれば天井にも、左右の壁にも、廊下にも、受付のカウンターにも、そこらかしこに首無しの死体が磔にされていた。



 ――斬首磔刑展示会。



 長年、罪人の魂を裁き、その過去の悪行を視てきた映姫とて戦慄するような凄惨たる光景だった。



 その場で凍り付いたように固まり続けていたのは何も映姫たちだけではなかった。従業員もまた同じように目の前で起っていることが理解できず思考停止に陥っていた。心臓が弱い者などは気を失い、誰も彼もが顔面を蒼白にただ呆然としていた。映姫が指示を出さねばあと四半刻はこの状況が続いていたことだろう。兎に角映姫は気絶した人を介抱するよう旅館の従業員に命令し、足の速い文に駐在を呼びに行かせるなどして、現場を取り仕切った。駐在と自警団の人間が来てからは流石にそちらに任せたが映姫は彼らに色々根掘り葉掘り質問された。もっとも文も映姫も犯人の容疑がかけられたからではない。第一通報者だったからというだけだ。旅館で働いていた多くの人間も容疑から外れた。皆、仕事中でこんな大それた殺人を犯せるほどのの長い時間、アリバイが不明な者はいなかったからだ。
 また、旅館の人間は仕事中で絶えず行ったり来たりしており、それは誰か不審な者が旅館内にいれば嫌でも気がつくはずということ。そして、同時にそれは事件現場である一階ホールとその付近にも目が行き届いていたと言うことだ。旅館の人間で惨状に最初に気がついたのは仲居の一人だったが、その仲居は事件発覚直前、ホールの掃除をしており、その最中にトイレに行って戻ってきたところホールがあんな有様になっていたというのだ。正確な時間は分らないがトイレにかかる時間など女性といえど長く見積もっても十分程度。たったそれだけの短時間で十人からなる人間の首を落とし、すぐに壁や天井に貼り付け、そうして、十数個の頭をホール以外には血の一滴もこぼさず、犯人は現場から持ち去ったことになる。そう、現場に頭は残されていなかったのだ。犯人共々、未だにそれは捜索中である。
 もっとも、そう易々と見つかると思っている者はその場には皆無であったが。犯人共々。

 事情聴取が終わり、映姫たちは解放されたがさてそのまま宿に泊まる…ということには当然ならなかった。遺体の検分と現場保全のため旅館は一時閉鎖が決まった。すいません、すいませんと女将と番頭が何度も頭を下げていたのはそのためだ。それについては流石に文句は言えなかった。むしろ映姫は同情したほどだ。


◆◇◆



「まぁ、確かにひどい有様ではありましたね。首の断面図なんて江戸の幕府が解体されてからほとんど見なかった代物ですよ」
「断面図…うぷっ…!」
 唐突に文は自分の口を押さえた。その顔は蒼白から一転、酒でも呑んだように赤く、更に一転して緑だとか青だとか形容できるような血色の悪い顔へと変化していった。うっ、と文の頬がどんぐりを詰め込んだリスのように膨れ上がる。それも一呼吸もしない間だけのことだ。文は下を向くとその場で嘔吐した。あの凄惨たる現場を思い出し、胃がひっくり返ったのだ。
「大丈夫ですか」
 映姫が駆け寄って介抱するが、文は返事さえ出来ないでいた。うつむいたま、口から苦酸っぱいものを土の上に落としている。昼を食べてから何も口にしていなかったのか、出したものの量は少なかったが、それでも五、六分はうつむいたままえづき続けていた。
「す、すいません…」
 それからもう暫くしてやっと文は顔を上げた。映姫が差し出したハンケチを受け取り汚れた口元を拭う。
「大丈夫ですか」
 もう一度尋ねる。文ははい、と頷いたが青白い顔はとても大丈夫そうには見えなかった。顔は上げているものの手は両膝についたまま、文はその場から動こうとはしなかった。心配そうに文の背を撫でながらその顔を覗き込んでいた映姫は、ややあってから思いついたように口を開いた。
「お家はどちらでしょう。天狗なのですから山の方だと思いますが」
「え?」
 映姫の言葉の意図がわからず聞き返す文。
「その有様では一人で帰るのは危ないでしょう。ついて行きますよ」
「えっと…」
 文は迷った。そこまでしてもらうには悪いと素直に思ったのだ。けれど、体調の悪さはどうにもしがたいレベルにまで達していた。これでは飛んでさっさと帰ることもできないだろう。暫く迷った後文は結局、
「おねがいします」
 そう頭を下げた。


◆◇◆


 山に至るまでの道中は宿に行くまでの道と違い口数少なくまたゆっくりしたものだった。当たり前だ。片方は病人も同然で、時折立ち止まって休憩しなければいけないような有様だったからだ。
「大丈夫ですか、って台詞はもう聞き飽きましたよね」
「ええ、大丈夫ですって応えるのも飽きました」
 ぐったりとしながらも軽口の応酬をしあう映姫と文。けれど、やはりキレはない。そんな風に一言二言、何かを言い合ってはまた口を閉ざすという感じが道中続いていた。今度もまた同じようにそれ以上は会話は続かなかった。
「………あの、閻魔さま」
 いや、そうでもなかった。たっぷり三呼吸分間を開けてから文は再び口を開いた。一本道なので僅かに先行していた映姫は足を止め振り返った。また、気分が悪くなったのだろうか。
「アレはいへ…いえ、大事なのでしょうか」
 いや、違う。映姫と同じように足を止め、僅かに身体を前のめりにしながら文は問いかけた。疲れ瞼が落ちかかっている目をそれでも見開き、まっすぐに映姫に向け。
 対し、映姫もまたじっと文を見返していた。振り返ったままの姿勢で、僅かに文より高い場所に立ちながら。まるで天上の存在が下界の者を見下ろすように。
「大事、とは?」
 僅かな間を置いて映姫は口を開いた。静かな、それでいて妙に腹の底に響くような声だった。
「私は冥府に仕える者ですが、全知全能ではないんですよ。現世の出来事の一部始終を理解しているわけではありません。アレが大事なのか小事なのか、分かるはずがないでしょう」
 そうきっぱりと映姫は言った。それを聞いて僅かに文の肩が下がったのは映姫の応えに望むものがなかったからなのだろうか。
 暫く二人はにらみ合うよう、或いは見つめ合うようジッとしていたが文の方がそうですか、と口にし再び歩き始めたことでそれも終わった。


◆◇◆


「トマーレ!」
 山に入り文がもう少しで着きますと映姫に説明した直後、不意に二人の頭上からそんな声がかかってきた。何事、と上を見上げる映姫。けれど、声の主の姿は見えない。見えるのは月光を影にする木々のアーチだけで小鳥の一羽もとまっていなかった。
「はぁ…まったく。仕事熱心なんだから」
 声の主を捜し視線を彷徨わせる映姫とは裏腹に肩を落としながらため息加減に文はぼやいた。口調も何処かぞんざいで映姫に話すときのような丁寧さは全くなかった。
「ちょっと、駄犬。私の姿が見えないって言うの!?」
 苛立ちげに大声を上げる文。何処へ、と言うわけでもない。文も声の主が何処にいるのか分らないのだ。ただ、声の主が誰なのかは分っているようだった。
 ガサガサと枝葉が擦れ合う音が聞こえてきたかと思うと文たち二人の前に小柄な影が一つ、落ちてきた。
「誰が駄犬ですか、誰が」
 文の言葉に食ってかかってきたのは武装した白狼天狗の椛であった。
「身内かどうかも分らず吠える犬は番犬じゃなくって駄犬って呼ぶのよ。知らなかったの椛」
 更に喧嘩をふっかけるようそんな言葉を吐く文。
 と、
「これ」
「あいたーっ!」
 椛に向け挑発的な笑みを浮かべていた文の後頭部を叩く手が。映姫だ。
「なんですか。この方はお知り合いなのでしょう。でしたら、そんな口をきくとは何事ですか。親しき仲にも礼儀あり、ですよ」
「あ、いや、親しくは…」
 弁明しようとする文を眼力だけで黙らせる映姫。
「ううっ。そっ、それで犬走さん。こんな夜更けに同じ天狗お仲間であるワタクシに何か御用でしょうかしら」
「ヤケクソ臭いですがまぁ、いいです」 
 開き直ったかのように文は無理矢理胡散臭い丁寧語を使い始める。映姫は何か言いたげに目を細めたがそれ以上、特にお説教はしなかった。
「用? お前に用はない。用があるのはそっちの…」
 文の質問に応える椛。だが、椛が手にしている山刀の切っ先を向けたのは文ではなかった。
「不審者だ」
「私、ですか?」
 映姫だ。
 刀を向けられても映姫は物怖じなかったが、流石に疑問符を浮かべた。自分がまさか不審者呼ばわりされるとは思ってもいなかったからだ。
「そうだ。見慣れない顔だな。何者だ?」
「ちょっと、椛。私と一緒にいるんだから不審者なわけないじゃない」
 失礼よ、と憤る文。だが、それを椛は鋭い眼光で制す。
「昔、何人も里の人間を連れ込んでいた奴がよく言う。さぁ、応えろ。人間禁制だった天狗の里に何用で来た」
 文と映姫の動向を交互に見比べる椛。山刀を構え腰を低く、まるで今から戦うつもりでもあるように鬼気を発している。そんな殺気だった椛を見て映姫はため息をついた。
「私の名前は四季映姫。冥府で閻魔をやっている者です。幻想郷に観光に来ていたのですが、こちらの射命丸さんが具合が悪いと言うことなので家まで送ってあげている途中です」
 それと人に刃物を向けるとは何事ですか、と声を上げる映姫。音量はさほど大きくなかったがまっすぐとしたよく通る声に気づかない内に一歩、椛は後ずさってしまう。
「え、閻魔だと…?」
「ええ、そうですよ。だから、通してください」
 退いた椛の代わりに文は一歩、前に出る。威圧を態度でも表したのだ。
「むぅ」
 分が悪いと感じたのかさしもの椛も顔をしかめた。
「いいだろう。通ればいい。ただし、天魔さまには文が閻魔を名乗る変な奴を連れてきたって報告させてもらうからな」
「どうぞご自由に」
 ひらひらと手を振りながら椛の脇を通り過ぎる文。その場に威圧感たっぷりに仁王立ちする椛に会釈し、映姫も後に続く。
「すいません。身内が乱暴働いて」
「いえいえ。あの方は職務を全うされていただけでしょう」
「まぁ、そうなんですが…どうにも私とは犬猿の仲、と言う奴でして」
「犬猿…あの方はイヌでしたから、サルが貴女ですね」
「…閻魔さま」
 そんなやりとりをしている内に不意に山道の中に立派な瓦葺きの門扉が現れた。戸は閉まっておりこちらにも椛と同じ白狼天狗が立っていたが、文が軽く挨拶すると彼女らは快く戸を開けてくれた。どうやら仲が悪いのは椛だけのようだ。
「おぉ…」
 門扉を潜った先に広がっていた光景に映姫は息を飲んだ。
 天狗の里は山中にありながら麓の人里と比べても、いや、人里よりも更に発展した集落だったからだ。家々には蝋燭や油の揺らめくようなものではない電気由来の確かな灯りが輝き、道は踏み固められた土などではなくレンガやアスファルトが敷き詰められしっかりと舗装されていた。人里でも大通りでは珍しくはない街灯がここでは側道、小道にさえ配置され提灯など必要のない明るさを保っていた。
 そんな明るい道を文に案内され進んでいく映姫。ともすれば止まり、観光にいそしみたくなるのを堪えさせているのは偏に文を家まで送らなければいけないという使命故だった。
「ここです。ここの四階、四〇七号室が私の部屋です」
 文の家は天狗の里の外れの四階建ての建物の一室だった。この建物も近代の丁をしており、石造りのエントランスホールの最奥には折りたたみ式の格子を扉にした巻き上げ式のエレベーターが備え付けてあった。二人は丁度良く一階入り口に止まっていたエレベーターに乗り込み、文が手馴れた様子で自分が住んでいる階のボタンを押した。ひとりでに扉は閉じ、ぐぉんぐぉんという力強いウインチの回転音を伴ってエレベーターはわずかに揺れながら二人を載せて上昇していった。
 あがった先は石造りではなく木造の廊下だった。歩けば軋み声が上がった。成程、近代的な山里にあっても全てが真新しいわけではないようだ。文が言った部屋の扉も廊下同様に古びていた。クリーム色のペンキが剥げかかり、真鍮製のドアノブもくすんでいた。そこへ大きな鋳造の鍵を差しこみ回し、ドアを開ける文。
「はぁ…ありがとうございました。本当に助かりました」
「いえいえ。どういたしまして。今日は白湯でも飲んでゆっくり休んで下さい」
 それではと映姫は踵を返した。背中を文に向け来た道を戻っていこうとする。と、
「あれ?」
 瞬間、どうしてか廊下の電灯の一つが明暗したかと思うとぷつり、と消えてしまった。どうやらフィラメントが寿命を迎えてしまったらしい。まるで出鼻をくじかれたかのように足を止める映姫。丁度消えた電灯は文の部屋とエレベータまでの廊下を照らすために配置された電灯だったのだ。文の部屋の前あたりまでは明るいがそれから先はどんよりと墨でもまいたかのような暗闇が広がっていた。
「それじゃあ、これで」
 仕切り直すようまた文にそう言ってから映姫は闇に向かって歩き始めた。こう暗くてはエレベータの操作も難しいだろうに、それ以前にここをでてそれで宿はどうするのだ、と文は闇の向こうに消えていこうとする映姫の背中を見て思った。思って、
「あのっ」
「?」
「その、よろしかったら泊まっていきませんか? ソファーでよろしければ貸しますよ」
 そう声をかけた。


◆◇◆


「しかし、いいんですか」
「ええ、ここまで送り届けてもらったお礼です」
 文の部屋に招き入れられながらも外で聞いたことと同じ事をまた映姫は聞き直した。応えもまた同じだった。
「ちょっと、散らかってますけどどうぞ」
 言って部屋の明かりをつける。言うほどではないが、確かにどちらかと言えば散らかっている部屋だった。
 文の部屋は長方形の形をした2DKで建物同様洋風の造りをしていた。玄関から伸びる廊下沿いにキッチンとバス、トイレがあり突き当たりで左右にわかれるよう二つの部屋があった。通されたのはキッチン側に面した右側の部屋で広さは八畳ほどだった。キッチンとはカウンターで繋がっており、部屋の真ん中に丸いガラステーブル、向かって正面に窓がありその下にソファーが、左手には高足のベッドがあり、下に片袖の事務机と本棚が置かれ、左側には衣裳箪笥が壁に面していた。事務机の上にはタイプライターが置かれ、その周りにはメモや筆記用具が散乱していた。ソファーの上のガラステーブルにも空の酒瓶が置きっぱなしになっていた。
「どうぞ、座っていてください」
 酒瓶をとって文はキッチンへと引っ込んでいった。お茶を入れますね、とキッチンにも灯りがつくと同時に文は映姫にそう声かけた。おかまいなく、と社交辞令のように返しながらも映姫は言われたとおりソファーではなく直に床に腰をおろした。映姫の家は和風ではないが東洋風で家具もそれに揃えておりソファーなどという外来の座椅子は持っていないのだ。それに正座のほうが落ち着くということもあった。
「あれ、ソファー使ってくださってよろしいですのに」
「いえ、こちらでかまいません」
 案の定、お茶を乗せたお盆を持って戻ってきた文は映姫にそう言った。客人を下座にしかも地べたに座らせるのはなんだか気が引ける文ではあったが、本人がそう言っている以上仕方なかった。テーブルの上に自分と映姫の分のお茶を置き、ソファーに腰掛ける。
「あー、やっと帰ってきたって気がしますね」
「旅行して戻ってきたみたいな言い方ですね」
 暖かなお茶で喉を潤す二人。実際のところ、帰ってきてやっと文は元気を取り戻してきたようだった。
「それにしてもひどい事件…あー、いえいえ、この話はやめましょう」
 自分から旅館での事を話題にしようとして思い出したように文は首を振ってそれを反故にした。また、あの血河屍山たる有様を思い出して気分を悪くする必要もないと思ったのだ。
「事件ね」
「? どうかしましたか」
「いえ。でも、旅館の前でも聞きましたけどああ言った惨たらしい出来事は新聞の一番のネタでは?」
「ゴシップは軽い不倫沙汰でも私は嫌ですね。駆け落ちならまだしも、刃傷沙汰、心中、なんてもう耳に入れるのですら嫌ですね。 ――胸糞が悪くなりますから」
「ほう。それは意外」
「意外、なんでしょうね。はたては――あ、いえ、私のライバルを自称しているどうしょうもないダメ新聞記者なんですが、はたてはそういうのは好んで追っかけていますけれどね」
 そこで言葉を区切るよう文はまたお茶をすすった。
「このところ平和続きで事件なんて起ってもせいぜい窃盗ぐらいで『連続猟奇殺人でもおきないかなー』なんて吠えてたんですよ」
「……その方も一度、説教する必要があるようですね」
 ええ、たんと十時間ぐらいお願いします、と文。
「でも、本当に『連続猟奇殺人』が起きるなんて」
 が、それも一転。明るい声でライバルの不幸を願っていた文は声のトーンを落とし同じように視線を湯飲みの中へと落とした。結局、この話題に行き着いてしまうのだ。それほど旅館で見た光景は脳裏に染み付いている。
「…連続?」
 と、映姫が不意にそんな質問を文に投げかけてきた。文は顔を上げ一瞬、しまった、とでも言うように顔をしかめた。
「ええ、実は少し前にバラバラ殺人がありまして。いえ、同一犯の犯行かどうかは知りませんけれど」
 それでも流石に閻魔を前にごまかしは効かないと思ったのかすぐに説明してくれた。立ち上がって、本棚の前まで歩み寄り、並べられたファイルの背に指を這わせて検索する。
「あ、コレです」
 その内の一冊を抜き出し、開いて映姫に手渡す。受け取った映姫はスクラップされた記事の内、一つに『恐怖! 斬殺魔現ル』との見出しのある記事を見つけた。見れば山と人里を繋ぐ道で大小十七の肉片に分割された人間の死体が発見された、という記事だった。現場一帯は血の海と化し、遺体は身元の判別が不可能なほどバラバラにされていた、とある。
「ヤダヤダ。起きるならもっとこうせめて後で笑えるような事件がいいですよ」
 映姫にファイルを返して貰い、それを戻した後、文はソファーには戻ろうとはせず再びキッチンの方へと足を向けた。
「気分転換に呑みませんか。いえ、呑みましょう。呑まないとやってられないですよ」
「吐いた後で呑もうなんて、酒造家や酒屋の方々に申し訳ないと思わないんですか」
「吐いた原因は呑み過ぎじゃないからいいじゃないですか。ね、お願いですから」
 映姫は文の物言いにため息を付いた。それを了承と受け取ったのか文はブーンと音を立てる冷蔵庫から酒瓶を取り出してきた。瓶麦酒だった。


◆◇◆


「つまりですね、真実を追い求めるということはそれほど、それほど、難しい事なんですよ」
「うんうん」
 数刻後。小さなテーブルの上にはスキマがないほど呑みかけのコップや食べかけのツマミが置かれていた。床には空の酒瓶がいくつも転がっている。
 あれから映姫は文に付き合って呑んでいるのだがいったい如何ほどの量を呑んだのか文はすっかり酔っ払ってしまっていた。口から半ば以上理解不能で支離滅裂な言葉を発し、けれど、映姫がそれに相槌を打たないでいると、ちょっと聞いているんですか閻魔さま!、と怒鳴り声を発するようになっていた。無視することもできず、映姫は適当にそうですね、とか、はいまったく、と言葉を返しながら普段の自分の行いを振り返っていた。

 ――勢いが過剰すぎるお説教も逆効果ですねっ…!

 成程、客観視すれば今の文の様子は興が乗っている時の自分の説教によく似ていた。私の説教を何処か嫌そうな顔で聞いていた連中は今の私と同じ気分であったのか、と映姫は身につまされる思いに陥っていた。同時に、説教はやはり短くとも心に響くものでなければ、とも。こんな状況においても真面目な閻魔であった。
「だからね、だからね、私は…あの事は黙っておこうって決めたんですよ」
「ハイハイ」
 もはや受け答えも適当。だが、映姫が何か言葉を返していればそれで満足なのか特に気にした様子もなく文は続けていた。
「ですから、ですから――――――」
「成程。それは興味ぶか――――?」
 と、映姫はあれだけ勢い良く壊れたスピーカーのように繰り返されていた文の雑言がピタリと止まっていることに気がついた。遅れてグゥグゥと規則正しい寝息が聞こえてきていることにも。
 見れば文はソファーに身体を倒し、すっかり眠ってしまっていたようだ。その眠りは相当に深いのか手に持っていた空っぽのグラスが床に落ちて音を立てても文は身動ぎしなかったことからも伺える。ヤレヤレと映姫は肩を竦めた後、立ち上がり文が落としたコップを拾い上げた。次いで部屋を見回すと、ベッドにかけられた梯子に足をかけた。映姫の背丈では立ち上がってもベッドの様子を伺えなかったからだ。ベッドの上には布団が敷きっぱなしで、その上にはシーツが枯山水を成し無造作に置かれていた。
「まぁ、この狭い部屋では万年床は仕方ありませんか」
 呟いて手を伸ばし、シーツを引っ張り降ろす。それを持って自身も梯子から降りると映姫はシーツを深い眠りに落ちている文の身体の上にかけてあげた。
「お酒の力を借りないと眠れないなんて、余り褒められた行いではありませんけれど」
 今日ぐらいは許しておきましょう、と映姫。
 さて、と再び部屋を見回した。
「ソファーを貸してくれると言われましたが、そのソファーは結局、部屋の主人が使ってしまいましたね」
 誰ともなしに呟く。要は今日、自分は何処で寝ればいいのだという意味。その場所は探すまでもなくすぐそこにあった。
「まぁ、仕方ありませんか。これも」
 そう言って再び映姫は梯子を登り始めた。今度は中途半端に一段、二段だけではなくベッドの上まで。申し訳ないがベッドを使わせてもらおうという考えだ。
「それじゃあおやすみなさい」
 言って、映姫は部屋が昼間のように明るいことに気がついた。
「そう言えば明かりはどうやって消すのでしょう」
 蝋燭や油なら手で扇いで火を消せばいいが電灯はよく分からない。どうやって文が電灯をつけたのかも映姫はよく見ていなかったのだ。
「まぁ、明るくても寝れますか」
 そう呟いて映姫は目を閉じた。程なくして言ったとおりスヤスヤと規則正しい寝息が映姫から聞こえ始めた。映姫もまた文と同じように疲れていたのだ。
<3>

「頭痛い…」
 こめかみに鈍痛をおぼえながら文は目をさました。悪心もある。呑みすぎだ。二日酔いの苦しみは体験した者だけにしか分らない。焦点の合わぬ瞳のピントをなんとか合わせようと努力しつつ、どうしてこんなにも呑みすぎてしまったのかを思い出そうとする。
 確か酷い現場をまた目にして、無理矢理寝るために無理に呑んで…
「……おはようございます」
 声をかけられたお陰か、覚醒が早まった。ぼやけていた視界がクリアになり、そうして、
「ふぇ?」
 文は目の前に映姫が寝ているのに気がついた。
 綺麗に切りそろえられた眉毛。知性的な瞳。童女のような小柄な顔。小さな唇。それに反応してかゴクリと文の喉が鳴り、朝の日が差し込む部屋に奇妙な沈黙が産まれる。
「どわぁぁぁぁぁ!? えっ、閻魔さま!?」
 それも一瞬。悲鳴じみた声を上げながらがばちょーと身体を起こす文。
「なっ、なんで閻魔さまが私の隣で寝てるんですか!? しかも、そんな薄着で!? って、私もだ!? な、ナニコレ!? ドユコト!? きっ、昨日の晩ナニがあったって言うのぉぉぉ!?」
「ナニもありませんよ」
 ぺしり、と文の額を叩く映姫。文と同じように身体を起こす。
「私が薄着なのは服が皺になるのが嫌だったからです。貴女も同じ理由なんじゃありませんか。で、服を脱いだ後、寝ぼけていつものように先客がいるのにベッドに登ってきたと、そう言う訳では」
「あ…」
 映姫にそう説明され、確かに朧気で断片的な記憶を思い返してみればそのようなことをした憶えがあった。かぁーっと後ろからバーナーで炙ったかのように赤面する文。そのままぷしゅーっと湯気を立てつつ完全にオーバーヒートしてしまった。
「どっこいしょ…っと」
 その脇を通り抜け先に下に降りる映姫。シャワー借りても宜しいですか、と文に尋ねる。
「ど、どうぞ…」
 壊れたラジカセを叩いたら一瞬だけテープが回ったような文の返事だったが映姫はどうも、と頭を下げバスルームにへと入っていた。戸が閉まる音が聞こえたと同時に文はベッドの上でゴロゴロと転がり身悶えた。
「…うわっ、閻魔さまが寝てた後、なんかいい匂いがする…っ」
 次いで自分の未だに酒気が籠もった吐息の匂いを嗅いで文は暫くの間、ゾンビのような唸り声を上げていた。


◆◇◆


「どうしたのですか、まだ気分が優れないのですか?」
「ええ、まぁ…」
 項垂れ、がっくりと肩を落としながら文は映姫と並んで歩いていた。ここは山中の天狗の里ではなく人の里だ。あれから身支度を済ませた二人は朝食を摂るために里まで下りてきたのだった。
「家で寝ていた方が良かったのでは?」
「いえ、体調はもう悪くないんですけれどね…」
「?」
 どうして文がげんなりしているのか今一理解できない映姫であった。
「まぁ、体調が悪くないのならいいですけれど、何処で食べます?」
「あっ、そうですね」
 言って文は何故かメモ帳を取り出した。指先を舐めて湿らせ、使い込んだ感のある黒い牛革のカバーがかけられたメモをペラペラと捲っていく。
「そうですね。西の通りの定食屋が美味しいそうですよ。毎週火、木、土は生卵サービスだそうで」
 目当てのページを見つけてそう説明する文。映姫が感心した様子で文の方に視線を向ける。
「そんなこともメモに取ってあるんですね」
「ええ、流行の美味しあのお店からあの有名人の隠された努力まで何でもメモっていますよ」
「メモは仕事の基本ですからね。聞いたこと、やらなければいけないこと、したこと、なんでもメモしておけば忘れても思い出すことが出来るでしょう。ただし、メモに取るのは事実だけに留めておいた方が身のためですよ」
 昨日の取材内容のメモの件について釘を刺され、ハハハと乾いた笑いを浮かべる文。
「まったく…」
 そんな風に会話しながら歩いていると件の定食屋についた。文は西の通りと言ったが実際は西の通りから一区画裏通りに入った場所にあり、一見すれば民家と見間違えるような造りのお店だった。道上に無造作に置かれた看板に書かれた飯処という文字となかなか上手な定食のイラストだけがここが飲食店だと言うことを示していた。文に続いて引き戸を開け、中に入る映姫。
「まいど、おはようございます」
「おはようございます」
 もっとも民家と替わらぬ体をしていたのは外見だけで戸を開ければ魚を焼く香ばしい匂いが鼻をつき、厨房とホールの区切りにカウンターが、ホールには椅子とテーブルが四組ほど並べられ、既にカウンター席には三人ほど先客が座り定食を食べていた。
 カウンターには座れそうにないので文と映姫は空いていたテーブルに腰掛けた。
「なにしやしょ」
 厨房から店主の決して大きくはなくけれどはっきりと聞こえる声が飛んでくる。
「魚が美味しいらしいですよ。なんでも大将の弟さんが漁師をやっているそうで」
「流石に詳しいですね」
 では、焼魚定食でと映姫。文は壁に打ち付けられた札に書かれているメニューをざっと見てから煮物定食で、と注文した。あいよ、と店主。
 店内は朝一とは言え映姫と文を含めて七人もの客がおり、待っている間にも更に一人客がやってくるほど繁盛していた。店主の妻だろうか、女性店員が配膳し終わった料理を器用に両手に持ち「おまちどうさま」と客の元まで運んでいっている。客の方もどうも、と頭を下げると美味しそうに注文した定食を食べ始めた。朝一だというのにしっかりと味わって食べている風なところを見ると文の取材通り、味の方はかなり期待できそうだった。映姫は空腹感を覚え、まだかまだかと料理の到着を待ちわびた。と、対面に座っている文の空腹感はそれ以上なのか店の中の喧噪に混じりくぅぅぅ、という可愛らしい音が文の方から聞こえてきた。つい、映姫は文の方に視線を向けてしまうと文は恥ずかしそうに顔を赤らめながら笑った。
「い、いやぁ、せっかちな腹の虫ですねまったく」
「ま、無理もありませんよ」
 笑い合う二人。と、目当ての料理が届いた。
「おまちどうさま。焼魚と煮物。ごゆっくりと」
 四角い盆に乗せられた定食がテーブルの上に置かれる。それぞれが注文したメインと白米、葱の入っていない茄子の味噌汁、それと香の物の一汁一菜の基本通りの定食。ごはんは炊きたてなのか白い湯気が白米の上から立ち上っていた。
「「いただきます」」
 テーブルに置かれていた箸を取って、礼儀正しく手を合わせてから食べ始める二人。映姫は味噌汁から、文は煮物から手を付け始める。
「おお、これは…」「あ、おいしい」
 異口同音に美味なり、と二人は賛辞の言葉を贈った。味噌汁はしっかりと出汁が取られており、煮物も見事な面取りで芋も人参も煮崩れ一つおこしていなかった。
「これはうちの社員食堂にも見習わせたい味ですね」
 うちの、とは是非曲直庁にある食堂のことだ。元・料理人だった罪人の魂を雇って運営されている社内食堂で映姫の言うとおりあまり評判は良くない。出てくる料理のクオリティはそう低くないのだが、ご飯が綺麗すぎるほど丸く盛られた上に箸をぶっ刺した状態…所謂仏さんに備える時の状態で出され、加えてどの料理も作られてから何時間か置いていたように固く冷たくなっているため職員の評判は悪い。たびたび、改善要求の書類が提出されるが受理された試しはないし、今後、受理されることもないだろうと映姫は思っている。映姫がこの料理に舌鼓を打ち、心の中では感涙しているのも無理はない話だった。
 と、
「これは侮ってましたね。かなり美味しい」
「む、行儀が悪いですよ」
「あ、すいません…」
 文を咎める映姫。食事中だというのに文が箸を置いてなにやら書き物をしているのに気がついたのだ。けれど、文はすぐにメモを閉じることなくいそいそと筆を動かし書ききってからいやぁ、すいません、と筆記具をしまった。
「何を書いていたのですか」
「いやぁ、ちょっと味についての雑感を。今度の新聞のネタにでもしようかと思いまして」
「それはいいですけれど、せめて食べ終わってからにしましょう」
「でも、こういうのは食べてすぐに書かないと臨場感のある言葉が出てこないんですよね。『炊きたてのご飯は甘ささえ感じられ…』って」
「減らず口を。まぁ、貴女が常に記者として行動していることには敬意を払いますけど」
 ずずず、とこれ見よがしに音を立てて味噌汁を啜る映姫。箸を取り、改めて文は食べ始めた。
「矢張、昨日の“事件”の様な記事を書くよりかはこういった日常の延長についての記事を書く方が得意なのですか?」
 と、映姫がそんな質問を投げかけてきた。煮物の芋を口に運ぼうとしたところでそんな質問が来るとは思わず文の動きがぴたりと止る。ぽろりと芋が落ちる。運良く、器の中に戻っただけだが。
「ああ、すいません。いえ、ただの好奇心ですよ。せっかく、こうしてお知り合いになれたのですから少しは貴女のことを伺っておこうかと」
「はぁ」
 今一、対応の仕方が分らず文は気の抜けた返事をすることしか出来なかった。普段から質問に質問を重ねる立場なので逆に質問されることに慣れていないからなのかもしれない。
「まぁ、そうですね。以前は異変が起る度にその後を追っかけて調査して記事になんかしたりしていましたけど、この処、平和ですしね。取っつきやすいネタがないというのもありますけど、日常と非日常の境目、あたりを狙って書くのが私のスタンスですから。そこ行くと幻想郷の住人じゃなくてそれでいて有名な閻魔さまの――」
「あ」
 不意に文の話の最中に映姫が声をいれてきた。すわっ、また何か言われるのかと文は身構える。
「閻魔さま」
「はい?」
「いえ、その、そろそろその“閻魔さま”と呼ぶのは止して頂けないでしょうかね。もう、そこまで他人行儀な仲でもないと思うのですが」
 気分が悪くなったところを介抱し、そのお礼に一晩泊めて貰い、朝同じベッドで起きた二人だ。今もこうしてそれなりに打ち解け合って話している。映姫の言うことも一理あった。
「私も貴女のことを文と呼ばせてもらいますから、貴女も。文」
「うーん」
 それでも流石に閻魔という雲の上の存在にそこまでフレンドリーに接するのも気が引けたのか文はすぐに返事はしなかった。暫くの間、難しそうな顔をした後、
「では、映姫さまとお呼びさせてもらいます」
 文の中では中間点と思わしき所で妥協した。まぁ、それでもと映姫は少しばかり不満を覚えながらもそれ以上は強要できず、こちらもそんなところで妥協を示したのだった。
「それで、話の腰を折って申し訳なかったですけれど、続きをお願いします文」
 名前で呼ばれるのが何処かしらむずがゆいのか背中に虫でも入ったかのような顔をする文。それでも言われたからには、とこほんと咳払いをして口を開く。
「えっと、有名な閻魔さまの――あ、いえ、映姫さまのご旅行について、なんて格好の記事になると思いますよ。有名人のお忍び旅行。絵になるワンシーン。あの方オススメの観光スポット。そして、オフだからこそ出来るお忍びの出会い…うん、ローマの休日ですね」
「アン王女と閻魔ではかなり差があると思いますけれど…」
「そこはまぁ、私の腕の見せ所ですよ。どうです。昨日はああ仰ってましたが、これも縁。今日一日、映姫さまのご遊行にご一緒させてもらっても構いませんかね」
 話の流れから取材が出来ると踏んだのか、途端に積極的に話し始める文。今度は映姫の方が口ごもるような有様だった。
「どうです? ご迷惑はおかけしませんから」
 面食らったのか、それとも考えあぐねているのか。映姫は唇をひん曲げて手にしたお茶碗の中身をじっと見つめている。ご飯はもう残っていない。
 と、そこへ…
「あー、疲れた。あ、テンチョー、チキンタッタとライスLで、って席空いてないじゃない! マジ最悪ーっ!」
 そんな事を一人で言いながらテンション高めの客が入ってきた。映姫はマナーの悪い人ですね、ここは一つお説教を、と。文は面白いお客さんが来ましたね、ここは一つ記事のネタにでも、と同時に入り口の方へ視線を向ける。もっとも、入ってきた客の姿を見て同じ考えを持ち続けられていたのは映姫の方だけだったが。
「あ、はたてじゃないの」
「うわっ、文!?」
 店にやって来たのは文と同じ鴉天狗の新聞記者姫海棠はたてだった。互いに顔を合わせたままなんでこんな所にと言い合っている。
「私は朝ご飯食べに来てただけ」
「ふん、私もよ」
 軽口の応酬。幻想郷の少女たちの間では最早挨拶だ。普段ならここから更に言葉の応酬なり弾幕ごっこなりが始まるのだろうが、生憎とここは飲食店。どちらもここでするにはマナー違反だ。それに文は兎も角はたては空腹の極みのようで、気張っていた顔をすぐに崩した。
「お知り合いですか?」
「え、あっ、はい。昨日話していた私のライバルと言いますか…」
 文の方も映姫に話しかけられて顔を戻す。店内の雰囲気もそれで元に戻っていった。
「あーあ、でも、満席じゃしかたないわね。じゃね、文」
 踵を返し立ち去ろうとするはたて。その背中に声をかけたのは、
「待ってください。相席で良ければこちらに座りませんか」
 映姫だった。動きを止めるはたて。それに文。
「構いませんよね。お知り合いなんですし」
「ええ、まぁ」
 事後承諾だが、別に否定意見もないのか文は頷いた。文もそう言っています、とまたはたてに向き直る映姫。はたてはしばし呆然とした後、
「いいけど…アンタだれ?」
 至極真っ当なことを聞き返すのだった。



「うっそ!? 閻魔さま? マジで!?」
 うわーっ、うわーっ、と声を上げるはたて。空いていた椅子を借りてきて文の隣に座った彼女は自分に相席を勧めた人物が何者なのかを知ってそんな驚きの声を上げていた。懐から愛用の小型カメラを取り出すと許可も取らずパシャパシャとフラッシュを焚き電子シャッター音を鳴らし写真を撮り始めるはたて。
「命知らずですねまったく…」
「へ、なんで? 閻魔さまが怒るのって私らが死んだ後じゃん。生きているうちは別に怖くないわよ」
「それ以前にマナー違反だと思いますが」
 あ、ごめん、とカメラをしまうはたて。反省の色はあまり見られない謝罪であった。
「なんで文が閻魔さまと一緒なのかは気になるけど…今はいいわ。超疲れてるしね」
 テンチョー、はやくーと臆面もなく店主を急かすはたて。あいよ、と店主はあしらう風でも怒った風でもなく、至って普通に返事した。客の我が儘に一々、目くじらをたてていられないと分っているのか、それともはたてが常連でいつものやりとりだったのか分らないが、急かしたとおり、いや、急かさなくともかなり早く料理が運ばれてきた。
「はー、半日ぶりにまともなご飯にありつける〜 いっただきまーすっ!」
 一応、手を合わせた後にがつがつとご飯をかっ喰らい始めるはたて。そこまでお腹が空いていたのだろう。とても朝食とは思えない食べぶりだった。
「半日ぶりって、何かしてたの?」
 こちらはもう食べ終えている文がお茶を飲みながらはたてに尋ねてきた。ん、とお茶碗から顔をあげるはたて。
「ええ、そうよ。事件の取材…ううん、大事件の取材をしてたの!」
 大、の部分にイントネーションを置いて殆ど叫ぶような大声を上げるはたて。ご飯粒が文の方に飛んできた。グレイズしながらなんとか回避する文。
「きったないなぁ…で、大事件って、何?」
 怒りを露わにしたかと思えば、文はすぐに表情を切り替えはたての話に食いついていく。おや、と映姫は湯飲みから視線を上げ文の方を見る。腐っても新聞記者、と言うことですかと内心で納得する映姫。好奇心が感情を勝ったのだ。
「へっへっへ、聞いて驚けー まだ、巷にはあんまり出回ってないオフレコ情報なんだけど南町の泊めてくれるトコ…旅館、だっけ? あそこで殺人事件が起ったのよ」
 耳打ちするため顔を寄せて勿体ぶった言い回しで極秘情報を伝えるはたて。けれど、それを聞いた途端、文はがっくりと肩を落とし…
「…なんだ、あの件ですか」
 そんな風に失望の色を隠しもしない落胆の言葉を発した。これにははたても苛立った顔を見せる。その理由は二つ。一つは自分が自信満々に伝えた特ダネをなんだ、なんて切り捨てた件について。もう一つは自分が極悲中の極秘だと思っていた情報を文も知っていたことについてだ。はたての情報元、幻想郷の警察機構…自警団からはオフレコですから、と言われて仕入れた情報だというのに。
「むむむ、じゃあ、この情報は知ってる?」
 流石に腹の虫が治まらないのかはたてはそう声に力をこめて言った。なんですか、と尋ねたのは文ではなく映姫だったがはたてはそのまま続ける。
「旅館で殺された人ってのはなんでも首をピチューンと切り落されてたって話!」
 これは自分の新聞、花果子念報の記事に使おうと最初は黙っているつもりの情報だった。加えて殺害方法については余りに惨たらしいため自警団から絶対に他言無用ときつくきつく釘を刺されていた情報だった。秘中の秘。自警団内部でもお偉方と現場鑑識に当たった人間しか知らない情報だ。どうだ、とはたては胸をはったが…
「首を切り落されてから、磔にされてた」「しかも、十人からの大人数で、犯行は人の手ではほぼ不可能な状況だった、と」
「なっ、ナニソレ!?」
 文、それに映姫の口から自分も知らない事件の情報を知らされはたては驚きに震えた。
「な、なんでそんなこと知ってるのよ!」
 椅子を倒しながら勢いよく立ち上がり指を突き付けるはたて。自分が知らないことを文が知っているのが悔しいのか目尻には涙が浮かんでいる。
「なんで、って言われてもねぇ」
「実は昨晩、私は件の旅館に泊まるつもりだったのですよ」
 その際、文とは一緒に旅館に入りまして、と映姫。なんじゃそりゃー、とはたては大声を上げた。
「くぅ、そんなラッキーな手段で特ダネをゲットするなんて。マジむかつく!」
「……ラッキーなものか」
 吠えるはたてに文はぽつりとどこか呪いじみた呟きを漏らす。だが、怒り心頭悔しさ滅却のはたての耳には届いていなかったのか続けて地団駄を踏む音が聞こえてきた。
「あーっ、もう! まぁ、いいわ。一回戦はアンタがリードってことで。ね、文。せっかくだからこの大事件をネタに新聞で勝負しない? 同じネタで記事書いて評判が良かった方が勝ちって感じで。どう? ここんところ、アンタとタイマンで勝負してなかった気がするし!」
 一人で吠えていたはたては、そこから先に一人で勝手に話を進め始めた。弾幕ごっこ以外で文とはたての間だけで通じる勝負、新聞記事勝負。山の天狗たちの新聞大会ではどちらがよりいい賞を貰えるのかで勝負はしていたが、自分たちの新聞だけで直接対決する戦いははたての言うとおり久しく行われていなかった。
「ふん、今度こそ因縁の関係に引導を渡してやるわ」
 はたての中では既に決定事項なのかそう息巻く。けれど、対照的に文は冷め切った様子で軽くため息をついた。
「やりませんよ」
 そして、短く一言だが、きっぱりと断わりの言を入れた。えーっ、と当然のように不満に満ちた声を上げるはたて。
「なんでよっ。どーして! さては私に負けるのが…」
「ええ、そうですよ」
 先手を打ち、はたての軽口に寧ろ同意するところをみせる文。それは寧ろ負けを認めていると言うよりは自分は話には乗らないのだと間接的に、それでいてはっきりと応えているようなものだ。ぐぅ、とさしものはたても言葉を詰らせる。
「いっ、いやでも…」
 それでも食い下がらないはたて。そこにあの、と声をかけたのは文ではなく映姫だった。
「はたてさんは文の好敵手的キャラクターだと伺ってますが…」
「む、そうよ…そうですが、それが何か?」
「いえ、ライバル同士、互いに互いを高め合う関係というのは素晴らしいものだと思いますが、流石にはたてさんの言う勝負方法はいささか、文に不利では?」
「どうしてよ…ですか?」
「貴女の書く新聞は件の殺人事件のようなゴシップを主にしていると聞きました。つまり、今度の事件を題材に記事を書くということは完全にはたてさんのホームで勝負するということです。どんなに強いチームでも敵陣で戦うことは格下の相手にさえ負けかねないこと。それを対等なライバルに強いるというのは流石に卑怯では?」
「む、ぐぐぐ…」
 勝負の内容について映姫に鋭い指摘を受けこれまたはたては閉口した。まったくもって映姫の言うとおりだったからだ。
「だっ、だったら私も文の得意分野で記事を書くわ。これでおあいこでしょ」
「私の得意分野で、って言われても。ねぇ…」
 尚も食いついてくるはたて。まるで蛇のような執念深さ。けれど、それは純粋に文に勝ちたいという気持ちの表れでもあった。
「と、兎に角、はたしジョーは出したわよ! 一戦目は私の得意分野! 旅館で起きた…ううん、この所、起きてる殺人事件についての記事ね。二戦目はおいおい決めていくからいいとして、もうこれは決定事項だかんね! いい、分った! めんどくさいからってテキトー書いたら『射命丸新聞記者、閻魔さまと極秘密会。不倫か』って書くからね!」
「私は未婚ですよ」「私も」
 二人の突っ込みを無視し分った! と大声で怒鳴るはたて。もはや、相手にすることすら疲れたのか文も映姫もそれ以上、何も言わなかった。
「ちょっと」
 いや、そうでもないのか。立ち上がったまま、既に勝利を確信しほくそ笑んでいるはたてに物言いが入る。
「さっきから五月蠅いんだけれど。それと、もうすぐで朝の営業は終わりだから、早く出てってくれないか」
 はたてにそう決して大きくはないがよく聞こえる声で注意したのは文でも映姫でもなくねじりはちまきに腕組みと威圧的な格好をした店主だった。あ、と声を上げはたてが店内を見回せば成る程、客の数はまばらで僅かばかりいる人も苛だしげな視線をはたてに向けていた。
「大将、お騒がせしました」「すいません。お料理美味しかったですよ」
 店主に睨まれ固まっているはたてを尻目に文と映姫は代金をテーブルの上に置いくとさっさと身支度を済ませ店から出て行った。まっ、待て、とはたては文たちを追いかけようとするがはしっ、と店主に首根っこを捕まれてしまう。
「お勘定」
「あ、うーっ」
 店主の鋭い眼光に射抜かれはたては萎縮してしまう。それにテーブルの上に視線を向ければまだ注文した竜田揚げ定食は半分ほど残っているのだった。
「と、兎に角、分った! 逃げたら承知しないんだからね!」
 暖簾をくぐってでていく文の背にそう捨て台詞を、去っていくのは文の方だが、を残しはたては倒した椅子を元に戻すとまたバクバクとご飯を食べ始めた。事件の話で夢中になっていたが昨日から今朝にかけて情報収集に奔走していたため何も口に入れてなかったのだ。腹が減っては戦は出来ぬとはたてはご飯粒が付いたままの茶碗を店主に突き付け、
「おかわり!」
 と叫んだ。店主はもうやれやれと肩をすくめるしかなかった。




「あ、そうだえん…じゃなかった、映姫さま」
 店を出て少し歩いたところで文が声を上げた。はい、と振り返る映姫。
「私の方も返事を戴いていないのですが」
「返事? ああ、取材の件ですか」
 映姫は唇に指を当てて暫く考えた後、文に向き直った。
「お受けしても構いませんが、条件があります」
「条件…ですか?」
 許可は貰えたものの条件付、と言うところに文は警戒を抱いた。みょんな事は書くな、と言われるのか。それとも記事にする前に全文を提示しろと言われるのか。文は身構える。
「いい写真が撮れたら後で私にもください。休暇の思い出にしたいので」
「へ」
 が、映姫の口から返ってきた言葉は思いの外、普通の条件だった。むしろ、それぐらいは文は言われなくてもしようと考えていた事だった。
「はいはい、よろこんで」
 文の返事ににっこりと微笑む映姫。さっそく文はパシャリと一枚、写真を撮った。


◆◇◆


「いいですね。それで、こう…少しだけ、疲れた様子を見せつつ、ええ、普段の激務から解放された感を出したいんですよ。あ、その顔で。それで、ちょっと遠くの方を眺めてもらいますか。おー、ディモールト・ベネです」
 柵に手をかけながら緑を飾られた瀑布を眺める映姫にピントを合わせシャッターを切る文。ここは妖怪の山にある滝の中腹。絶景だと言うことで文が案内したのだ。かつては人間禁制だった山も今では山頂にある神社へ至る道から枝分かれするように人が入り込みやすい場所ができ、所によっては観光地化されている。もっとも、外界からの来客が少ない幻想郷ではいつも人が少なく、今は文と映姫の二人でほぼ貸し切り状態だったが。
「この場所の記事を書けば宣伝効果で少しは来客が増えるでしょうかね」
「いやー、どうでしょう。それなら彼岸の方にも読んでもらえるよう多めに刷りましょうか? 地底や魔界、仙界でも我々の新聞を取ってもらおうと天狗一同頑張っているのですがこれがなかなか難しくて。地底は兎も角、魔界や仙界なんかは『紙媒体なんて古くさい』なんて仰るんですよ。紙じゃない新聞紙って一体何? って感じですよホント」
「うーん、経営拡大のお手伝いをするのは構いませんが、私メインの新聞を身内に読まれるというのは少し恥ずかしい気がしますね」
「そうですか? ふむ。『閻魔さまは恥ずかしがり屋。だけど…』っと」
「そのだけどの後はなんですか、後は」
 そんな風に談笑を交えながら写真を撮り、感想を聞いては取材メモを記す文。映姫もまんざらではない様子だった。
「この道は山頂に続いているのですか」
 次の場所に行こうとして映姫は上へ登る道を見上げて文に尋ねた。はい、と応える文。
「神社…守矢神社に続いてますね」
「ふむ」
 両側を木々に囲まれた階段状の道だ。苔むしてはいるが石がしっかりと組まれており悪路ではない。足腰が強い人間ならハイキングコースにでも出来そうだ。
「行ってみますか? 大きな湖と石造りの巨大八角柱などがあって、上もなかなか壮観ですよ」
「そうですね。ここまで来たのですからついでに」
 二人して山道を登っていく。木々の間から差し込んでくる日が眩しく、山間の澄んだ空気が運動で温まった身体には心地よかった。
「ここですか」
 それから三十分ほど山道を歩き二人は山頂に到着した。飛べば五分で済む距離だが、のんびりと行く道中はそれはそれで趣があった。
 石造りの鳥居をくぐり境内に入る二人。ふと、振り返ると境内からは幻想郷の大部分が見渡せ、映姫は自分が今、飛んでいるような錯覚を覚えた。
「…誰もいませんね」
 白砂を敷き詰めた広い境内には人影は見えなかった。社務所や離れ、本堂にも人の気配は感じられない。きょろきょろと視線を彷徨わせる映姫。二人以外に参拝客はいないようだ。一抹の寂しさをおぼえる二人。
「廃社…しているわけではないですよね」
「ええ。今も三柱の神さまが…確かおられるはずですよ」
 けれど、やはり人の気配は無い。いや、この場合は神の気配か。勝手に参っていいものかと若干迷う二人。誰かいませんか、と声を上げるが返ってきたのは誰もいませんよーという山彦だけだった。
「…山彦はいるようですね。向こうの山に」
「山彦はいてもしょうがないでしょう。あ、いえ、誰もいない訳じゃないようですね」
 そう言って本堂の裏手に顔を向けている映姫。文もそちらの方に目を向けると確かに人影が見えた。
「すいませーん」
 大声で声をかける。本堂の裏にいた人物は文たちの方へ歩いてきているようだが、その足取りは呼ばれたから、というよりはただ進行方向に二人がいただけ、と言った方が正しそうなほどまっすぐとしていた。
「あの、すいません。こちらの神社の方でしょう…か?」
 歩いて来た人物は小柄な女性らしき人だった。らしき、と表現が曖昧なのは頭からすっぽりと分厚いコートを羽織りうつむき加減で歩いているからだ。シルエットから小柄な女性であろうと推測できるだけで本当のところは定かではなかった。着ているものは僅かに光沢のある合成繊維のコートで、けれど、それはレインコートと言うよりはまるで消防士の防護服に見えるほど分厚い材質をしていた。いや、それより異だったのは…
「あのぅ…」
 文が声をかけてもまるで聞こえてませんと言わんばかりに、いや、言わずにその人物は完全に沈黙を保ち二人を無視し続けている事だった。歩調を弱めることも顔を上げて一瞥することさえもなく謎のコート姿の人物は二人の脇をすり抜け神社の出口の方へと歩いて行く。
「ちょっと、こちらが声をかけているのです。無視するというのはあまりに礼儀知らずなのでは?」
 声に若干の苛立ちを含ませつつ、映姫がお得意の口調で説教を垂れてやろうとするがコート姿は足を止めない。そのまま鳥居の側まで歩いて行き、わざわざ鳥居の外側を回って神社から出て行ってしまった。
「もう、非常識な人ですね」
 その背中を見送る形になってしまった映姫は腰に手を当て憤慨する。文は同意するよう頷いていたが、そこにもう一つ、疑問符が投げかけられた。
「誰がですか?」
「うわっ!?」
 驚いて飛び退く二人。謎の人物に意識を向けていた所為で第三者が、四人目だが、現れたのにまったく気がつかなかったのだ。
「あ、貴女は…」
「はい、こんにちわ、新聞記者さん。お久しぶりですね」
 にっこりと笑って挨拶したのは緑髪翠眼、守矢の主神、東風谷早苗だった。あの謎の人物と同じく、何処か神社の裏手にでもいて、来客に気づかぬぐらい作業に没頭していたのだろうか。
「こんにちわ、早苗さん」
 早苗に遅れて頭を下げる文。映姫もそれに倣う。
「えっと、今の方は…?」
 記者らしく、兎に角、今、気になっていることを尋ねる文。ああ、えっと、と早苗は一拍おいてから今の方はですね、と説明する。
「うちの参拝客で、身体障害者…盲目聾唖の三重苦の方なんですよ。あのようなハンディを背負っておられるのに毎日のようにうちにお参りに来てくださって、いや、ホント。祀られる側ですのに思わずあの方の身体が治るよう奇跡を願わずにはおられませんね」
 ほろり、と涙を拭う真似をしてみせる早苗。ふむ、と文は頷いた。見えず聞こえず喋れずであれば成る程、先程の文たちを無視するような行動も頷けた。気がついていなかっただけなのだ。
「今日は何か御用ですか新聞記者さん。守矢神社特集記事についてのインタビューならいつでもお受けしますよ」
「あははは、それはまた今度。今日は普通にこちらの…えっと、閻魔さまと一緒にお参りに来ただけですよ」
「閻魔さま…?」
 早苗が僅かに小首をかしげつつ映姫の顔を見る。
「ええ、冥府で閻魔をやっております四季映姫です。以後お見知りおきを」
「はー、閻魔さまって本当にいたんですね。あ、守矢神社の巫女兼神、東風谷早苗です」
 こちらこそよろしくお願いします、と早苗。
「しかし、閻魔さまがお参りですか」
 閻魔といえば早苗と同じく祀られる側の存在だ。それが神社にお参りに来るなんて、と早苗が訝しむのも無理はない話だ。
「お参りと言いますか、観光ですね」
 中期の休暇を頂いたので、それで、と補足説明する映姫。成程、と疑問が瓦解し早苗は頷いた。
「観光でも見学でも結構ですよ。閻魔さまが来ていただけたとあれば私の神社も箔が付きますから」
「箔、ですか」
 そう言ったのは文だ。既に手にはメモとペンが用意され、すっかり取材モードに入っている。
「確かに、このご様子ですと箔をつけて参拝客を呼び寄せたい、というお気持ちはわかりますね」
「うっ、痛い所を」
 ああ、と辺りをもう一度見回す映姫。やはり、境内に人影はない。ここに来るまでの道中も参拝客らしい人間や妖怪とはすれ違わなかった。映姫が見た自分たち以外の参拝客といえば先程の三重苦の方だけだ。道中の石造りの階段は苔むし、道端には落ち葉が土に還るまで積もっていた。あまり、人が足を踏み入れていない証拠だ。境内もどこか荒んで見える。屋根瓦に草が生えているだとか、壁や柱が白くなっているだとか、そういう訳ではないのだが、ついもの悲しさを覚えてしまうのだ。閑古鳥が鳴く有様、とはこのことだろう。今日、この後他の参拝客が来るかどうかも怪しい気がする、と映姫は内心思った。
「引っ越してきた当初は毎日のように参拝客や信者の方が来られてたんですけれど、このところはご覧の有様で」
 乾いた笑いを浮かべる早苗。沈鬱な気持ちを隠そうとしてだろうが、初めて会った映姫にもそうと分かるほど早苗からは気疲れのようなものが見てとれた。
「大変ですね。神社仏閣は人々が通ってこそ。特に信仰がそのまま存在意義になる神はいうなれば食い扶持がなくなったも同然。貴女も神だと聞きましたが、お辛いでしょう」
「えっ、ええ。私はまだ何%か人間なのでこうして姿を保っていられますが神奈子様と諏訪子様は…」
 それ以上は口には出せなかったのか、消え入るように言葉を濁らせる早苗。それを聞いて文は眉を潜めた。確かにあの二柱の姿をこのところ見かけない。行動力も求心力もあり、それでいてフランクな一面もあった神奈子も童女のような姿ながら老獪な精神をしていた諏訪子も言われて初めて気がついたが、いなくなってしまったという事実に文の胸は痛んだ。誰であろうとやはりいなくなってしまうのは悲しく辛いものだ。
「まぁ、でも…」
 と、重く沈み始めていた場の空気を吹き飛ばすよう、元気の篭った声が上がった。
「今のうちだけですよ。今に以前のようにここを参拝客でいっぱいにしてみますよ。そうすればきっと神奈子様も諏訪子様もまた、姿を現せてくれる筈ですから」
 決意――とは少し違うようだが、早苗はなにも諦め、現状を受け入れているわけではないようだった。みなぎる力が沈まぬ限り、ということか。早苗の瞳には炎のような力が篭っていた。どんなことをしてでも神社に活気を、そして消えてしまった二柱を取り戻す、そんな覚悟があるようだった。
「ええ、うん…それなら、私たちも微力ながらお手伝いさせてもらいましょう」
 そんな早苗の様子を見て僅かな迷いを見せたもの、映姫は励ますようこちらも早苗に負けず力がこもった声でそう提案した。
「『閻魔さまが来ていただけたとあれば私の神社も箔が付きますから』…とおっしゃっていましたね。それならば丁度、今度文が出す新聞に私の観光旅行についての記事を掲載する予定なのです。そのついでと言っては何ですが、特にこの神社での写真や記事にスペースをさいてもらいましょう。――構いませんよね、文」
 そう言って文に目配せする映姫。ええ、それは全然構いません、と文。二人の間ではその提案は決定事項となった。早苗も断る理由もないのか、お願いしますと頷くのだった。
「そうと決まれば早速見学させてもらいましょう。えっと、本堂はあちらですか」
 善は急げと行動を開始する映姫。
 と、

 ―――デデデデデ…

 不意に何処からかそんな音楽が聞こえ始めた。
 特に驚いた顔をしたのは文で、音楽は彼女の持ち物から聞こえてきているようだった。すいません、と申し訳なさそうに映姫と早苗に謝ってから文は小走りに二人から離れた。鳥居の柱の根本辺りまで行ったところでポケットから板状の何かを取り出す。
「はい、もしもし」
 ボタンを押してそれを耳に当てそう誰もいないのに話しかけ始める文。これは遠く離れた相手とも無線で会話することが出来る機械、かつて外の世界では多く使われていた携帯可能な電話だ。と、言ってもその仕組みは外の世界のそれとは大きく違っている。河童たちが無理矢理それらしい機能をでっちあげたに過ぎないのだ。もっとも使い勝手は十二分に携帯電話と呼んでも差し支えないものだが。もちろん防水性。
「ああ、なんだはたてか…なんか用?」
 どうやら電話の相手はあのライバル記者だったようだ。これならわざわざ電話に出る必要はなかったわね、とあからさまに落胆の表情を見せる文。ところが電話口の相手は文とは逆に相当興奮冷めやらぬ調子で、弾三者にも聞こえるような大声で話し始めた。
『文っ! またよまた!』
「またって何よ? また、抱え落ちでもしたの?」
『馬鹿言ってんじゃないわよ。コロシよコロシ』
「564? 何処のアイドル事務所ですか?」
『それはアイドル事務所じゃなくって893さんの事務所だと思う』
 兎に角、と耳を劈くような大声をはたては上げた。
『また、人殺しが起きたんだって!』
「!?」
 電話口の向こう、遠く離れたその場所、はたてはバケツで頭から水を被ったようにびしょ濡れの格好で…スカートから水と薄まった血を滴らせながら叫んだ。
 囃したてるよう、それでいて言葉足らずにはたては説明し始める。興奮しきっていて頭がまるで回っていないそんな様子が電話口から伝わってくる。


◆◇◆


 はたての話は要約すればこうだ。
 文と映姫が幻想郷のあちこちを観光して回っていた頃、はたては食堂で啖呵を切ったように殺人事件について調べて回っていた。その最中、運良くと言っていいものか、はたては事件そのものに遭遇したのだ。

 情報収集のため、移動中だったはたては集落と集落を繋ぐ道、畑と野原が広がる場所でそれに遭遇した。最初に気がついたのは様子のおかしい農夫だった。道のすぐ脇に建てられた粗末な小屋の前で尻餅をつき、その体勢のまま震えていたのだ。はたては最初、そんな農夫のことなど風景の一部だとしか感じ取っていなかった。歯牙にもかけず素通りしようとしていたのだ。その足が農夫のすぐ側で止ったのは鼻をつく嫌な匂いを感じ取ったからだ。生臭く生温い、生者の発せぬ匂い。とても無視できぬその匂いにはたては怪訝に眉を顰めながら、農夫にどうかしたのか、と尋ねた。アレ、と農夫は震える指先で小屋をさした。粗末な小屋だ。この辺りで働いている人間の共用のトイレか農具入れとして使われているものだろう。幻想郷のあちらこちらで見かけるなんら珍しいものではなかった。窓もなくぴたりと扉は閉められている。うろんげな視線で小屋を眺めていたはたてはその扉の下の僅かな隙間から何かが漏れ出しているのに気がついた。粘つく臭気を放つ液体。農業用機械の燃料だろうか。いいや、違う。それは燃料ではない。厳密に言えばそれは燃料を運ぶための液体だ。かつては人間の身体の中を流れていた液体。血液。それが扉の隙間から溢れ出してきているのだ。見れば扉だけではなく屋根のつなぎ目や壁の穴からもドロドロと流れ出してきている。異様な有様。農夫が腰を抜かすのも無理はない。さしものはたても言葉を失い、呆然と立ち尽くした。と、そのはたてを我に返したのはみしりという小屋が軋む音だった。気がつけば小屋の壁は内側から強い力で押されているようひん曲がり釘が飛び出してきている。一体中に何が詰め込まれているのだろうか。事の真相を確かめるため、いや、半ば無意識にはたては扉に手をかけた。
 
 瞬間、

 小屋が爆ぜた。
 フッ飛ばされるはたての身体。衝撃はそれほど強いものだった。強かに身体を地面に打ち付け、一瞬前後不覚に陥るはたて。すぐに身を起こすが異様に身体が重い。それに鼻をつく血の臭いはいよいよもって呼吸困難に陥ってしまいそうなほど濃くなっていた。なんだ、これはとはたては口の中に入ったゴミか何かを吐き出そうとして、濃厚な血の味を舌先に感じた。遅れて自分がびしょ濡れであることにも気がつく。どうして、と自分の身体を見たところではたては悲鳴を上げた。自分が、いや、辺りが血まみれだったからだ。ひきり、とはたては戦慄する。なんだこの地獄の様な光景は、と。一面は文字通りの血の海であった。夕立の後の様に辺りは手の平が沈むほどの血が広がっていた。その血の水溜まりに小屋の残骸に混じり浮かんでいるのは肉片や骨片だ。手首から先だけの腕が、なんの冗談が助けを求める様に突き出され、はたての首にはマフラーのように腸がかかっていた。爆発の衝撃でついに気絶してしまったのだろうか、地面に身体を横たえた農夫の頭にはまるでカツラのように人の頭の鼻より上半分が被さっていた。女性だったのだろうか、血と肉と脂に汚れた長い髪が広がっていた。なんだこれは、ともう一度、呟いてはたては立ち上がろうとして自分の手が何かをつぶしてしまったことに気がついた。恐る恐る手を血の海から引き上げてみる。つい掴んでしまっていたそれは潰れた眼球だった。手の平に血糊に入り交じりこぼれた水晶体が広がっていた。臓腑から酸っぱいものがこみ上がってくるのをはたては押さえきることが出来なかった。

 それからやってきた自警団の事情聴取の合間にはたては文に電話を入れたのだった。今日ほど河童製品の防水性の高さに感謝したことはなかった。
『もうすんごいの、阿鼻叫喚の地獄ってこのことね』
 大きな声で電話口の文に話しかけるはたて。興奮冷めやらぬ様子。いや、そうでもしないともたないのだろう。精神が。話を聞く文もはたての精神状態が伝播し手の平に嫌な汗をかくのを禁じ得なかった。自分の同じように地獄の光景を見てきているからだろう。今夜は寝れないでしょうね、と文ははたてに同情した。一体、何杯の杯が必要になる事やら。それは自分にも言えることだったが。
『でも…これってもうアレよね。アレ』
「……アレって何」
 僅かに電話先のはたての声の調子が変わった。どうの、と口で説明できるような変化ではなかった。相変わらずはたては興奮しているし、その裏には怖れを抱いている。恐怖の裏返しに大声を上げ、気丈に振る舞っているのだ。だが、今のはたては更に別の覆しようのない真実に気づいてしまったような、そんな口調をしていた。ごくりと文は生唾を飲み込む。神社の空気が酷く湿気づいてそれでいて冷たく感じるのは文の気のせいではないだろう。そうして、本当は今更語るべきでもない、けれど、口にさえしなければ固定化されなかったであろう事実がはたての口から語られた。

『異変―――よね、コレ』

「………」
 返せる言葉もなく押し黙る文。
 そうして、そのまま文は通話を終了させるボタンを押してしまった。それ以上、はたてとは話したくない、いや、その話題を口にしたくないと言わんばかりに。


◆◇◆


「すいません、どうも調子が悪いみたいで」
 市中の洋風甘味処。対面に座りパフェに細長い専用スプーンを突っ込もうとしている映姫に文は頭を下げた。
「いえ、まぁ、そういう時もありますよ」
 そう文をたしなめる映姫。あれから電話を終えた文は話し合いの通り、守矢神社で撮影と取材を始めたのだがそれは素人目にも上出来とは言えないような有様だった。むしろ、まともな編集ならボツを出すような代物だった。
 映姫にポーズを指定し撮影する場所を選ぶがどれもしっくり来ないといった様子でリテイクを出す。取材のための質問も的はずれなものばかりで、むしろ映姫のほうが困惑するような状況だった。結局、撮影と取材はそこそこ程度に終わってしまった。まったく集中できていないと自ら悟った文の方から中止を求めてきたのだ。
 結局、どうにも取材は上手く行かず、早苗に謝ってから二人は山を降り、麓にあった喫茶店に入ったのだった。
「………」
 甘いものでも食べれば元気を取り戻すだろうという映姫の考えだったが、はたては珈琲を頼んだだけで、しかもそれには口を付けていない。会話も続かず気まずい沈黙が流れる。
「……先程、誰かと話していたみたいですが、アレはなんだったんですか」
 沈黙に耐えかねたのか、それとも文の消沈ぶりを見かねたのか、ある意味で確信に迫るようなことを映姫は問いかけた。あ、と珈琲カップから視線をあげる文。
「あっ、えっと、はたてから電話がかかってきまして、それで…」
 やはり、あまり言いたくはないのか、文の言葉は歯切れが悪かった。ここに来るまでの道中も文は敢えてその話題を避けていた。
「電話?」
「はい。電話…ですけれど…」
「電話って、アレの事ですよね。そんな大きなもの持ち歩いていたんですか? いえ、それ以前に線とかはどうしていたのですか?」
 アレ、と映姫が指さしたのは店の入口にある会計カウンターの上に置かれた大型の電話だ。十円硬貨を入れると一定時間、通話ができるピンク色をしたダイヤル式の物だ。
「庁でも最近、導入したのですが便利ですねアレ。番号を押すだけで遠く離れた人と話が出来るのですから。でも、文はあんな大きなのを持っている風には見えませんでしたよ。うちのもアレほどは大きくはありませんが鞄でもないと持ち運べるような大きさではないですし」
「あー」
 暫く唸った後、文はポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。
「これが電話なんですよ。無線式で、小型軽量防水機能付き」
「なんと」
 驚いた顔をする映姫。見せてもらっても、と文に尋ねる。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような視線を向けてくるので文は断ることが出来ず携帯電話を映姫に手渡した。
「はー、すごいですね。幻想郷の科学技術は」
「河童の作品ですけれどね」
 ためつすがめつ、文の携帯電話を眺める映姫。そんなに珍しいものかしら、と文は一瞬思ったが思い返せばこの喫茶店のように電話が幻想郷に普及し始めたのはつい最近だ。それに通常の電話なら市中の道具屋に行けば手に入るが、携帯電話なんて代物は余程の金持ちか河童に近しい人しか持つことができないでいる。幻想郷内と言えど貧民街で同じようにこれが携帯できる電話です、と説明したところで映姫と同じ反応が返ってくることだろう。あまり、笑っていい話ではなかった。
「これは素直に驚きです。こんな便利なものもあるのですね」
 ありがとうございます、と携帯電話を文に返す映姫。
「これは何処からでも電話をかけることができるのですか?」
「えっと、そうですね」
 メモを取り出す文。
「『亜空間パケット通信方式で同一宇宙上なら何処からでも何時へでも通話が可能』とありますね…」
「亜空…? なんでしょうかそれは」
「…さぁ?」
 この電話を受取る時、使い方ついでに仕組みも聞いてメモしておいたものだがその内容は文にもちんぷんかんぷんだった。もっとも作った河童もちんぷんかんぷんだったようだが。昔、スキマ妖怪が作った通信機をばらしてそのままコピーし電話に組み込んだのがこの携帯電話なのだ。作った本人たちでさえ仕組みを理解していた訳ではなかったのだ。その仕組みを理解できる者はスキマ妖怪以外はほとんどいないと言えよう。兎も角、それさえわかれば、といった様子で映姫はそれ以上、何も尋ねず一人でふむ、と考え始めた。
 話題は終わったかな、と文はそれまで飲まずにいた珈琲に口をつけた。すっかり冷めてしまった珈琲はあまり美味しくはなかったが、それでも少しだけ心が落ち着いたようだった。
「落ち着きましたか?」
 それを見越したように映姫が声をかけてきた。僅かに間を作った後、文ははい、と頷いた。
「それはよかったです」
 もしかすると映姫は文が気落ちしているのを見て、携帯電話について話しかけてきたのかもしれなかった。気を紛らわせるためにそうしたのだと。映姫にしては回りくどいやり方だが、そうでもしないとダメだと思うほど落ち込んでいたのだろう。そう文は思った。すいません、と文は心のなかで映姫に謝る。
「…はたてがまた人殺しがあったと、私に連絡をくれたんです」
 ならば、胸の内を吐いてしまおうと文は思った。誰かに言った時点で悩みの八割方は解決している…なんて話ではないがそれでも閻魔として罪人の魂を裁いてきたこの女性に話せば少しは気が晴れるかもしれないと。
「今度のは三本木道…ここから三十分ぐらい行ったところですかね、で起きたそうです。何でも小屋に何十人分もの死体が、それこそ小屋が爆発してしまうぐらいに無理矢理詰め込まれていたそうです」
 続けて事細かにはたてから聞いた話を説明する文。それを聞いていた映姫の顔は見る見る間に険しいものになっていった。
「人が…?」
 映姫は想像し、それでも実際に及ばぬことを悟った。悟り、全身を総毛立たせた。神なるこの身ですら考えの及ばぬ鬼畜の所業。そんなことが起こっていいものか、と打ち震えたのだ。

 ――ネクロ・コンプレス。
 邪悪なる技法で造られた醜悪なる物体。一度封を切れば辺りに地獄を再現する。

「そんな事が可能なのでしょうか? そこのシュガーポットにお砂糖を詰めるのとは訳が違います。人並外れた行い…いえ、並の妖怪でも無理でしょう」
「ええ、ですからはたては…」
 言いかけ、そこで言葉に詰まる。
「? はたてさんがどうかしましたか」
「…はたてはこう言ってました。『異変』だと」
「…異変」
 文につられるよう言葉をつまらせる映姫。
 異常な事変。異変。春が訪れず夜が開けず怨霊や神霊が湧き出て、外の世界から神が訪れ空を巨大な船が航行するような人知を超えた、一個人はおろか警察組織も権力機構もまるで役に立たず、まとまな手段では解決できぬ大事件を指す言葉。異変。今回のそれもそこにカテゴライズされるべきだとはたては言ったのだ。そうして、文も口には出したくはなかったが同じ考えだった。
「まぁ、確かにそうですよね。一件目はまだ常識の範疇…それでもバラバラ殺人なんてえげつない方法でしたけれど二軒目は首を斬って張り付け、三件目は小屋にぎっちぎちに押し込めるなんて。とても、まともじゃ、ない。異質で異常で異駆れてる」
 いつもの調子の文だが、その言葉はどこか歯車がずれている様だった。動揺、いや、脅えを隠しきれないのだろう。飲んでいた珈琲のカップを置こうとして文は手を滑らせてしまった。かっん、とコーヒーソーサーの上でカップが倒れる。幸い、中身は残り少なかったので珈琲がテーブルの上に広がることはなかった。
「文…」
 映姫が何か声をかけようとしたところで、それを制止するよう文は椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰りましょう。どうします? 今日も泊まっていきますか? あっ、遠慮なんてしなくていいですから。といううか、人恋しいんで泊まっていって貰えません? また、呑みましょうよ」
 そう再び映姫を誘う文。映姫に断る理由はなかった。
「お願いします」
 同じく立ち上がり軽く頭を下げる。或いは映姫は自分のためではなく文のために今日も泊まろうと決めたのかも知れなかったが。
<4>

「はい。ええ、そうです。その写真と取材メモでしたら新聞部の私のデスクの右の引出に…え? 『お前の机は海底鬼顔城バリに危ないから近づきたくない』? あはははは。この前片付けたところだから安全ですよ」
「……」
 翌朝。文の部屋で映姫はぼうっとしながらバタートーストを租借していた。トーストはこんがりと焼けて芳ばしく、バターの風味と相まって大変美味しそうだが、映姫は余り味わっている風ではなかった。映姫の朝がいつも和食だから、どうにも口に合わないのだろうか。いや、それはない。朝食を作るとき文は和食がいいかパンがいいかと映姫に尋ねているのだ。では、どうしてあまり美味しそうに食べていないかというと食事よりも他に興味そそられるものがあるからだ。
「はい。はい、ではお願いします」
 一時廊下に出ていた文が戻ってきた。手にはあの携帯電話が握られている。
「すいません。お騒がせしてしまって」
「いえいえ」
 文は電話で天狗新聞部にいる上司と話をしていたのだ。電話は朝食の用意を終え、さぁ、食べようとしたところで向こうからかかってきた。先に食べていてください、と映姫に言って文は着信音をかき鳴らす携帯電話を持って廊下にへと出て行った。成る程、確かに顔を付き合わせている場面ではああいう風に廊下に出るなり離れるなりした方が五月蠅くなく、相手に電話の内容を聞かれる心配もありませんね、と映姫。ああするのが携帯電話を使う上でのマナーなのだろうと一人納得していた。
「? どうかしましたか」
「あっ、いえ。それにしても矢張その携帯できる電話というのは便利そうですね」
 じっと映姫が自分の携帯電話を見ていることに気がつき疑問符を浮かべる文。理由はそんな簡単なことであった。
「そうですね。まぁ、今みたいに予期せぬタイミングで電話がかかってきて美味しい朝食を逃すこともありますけど」
「ふむ」
 確かに電話を持ち歩いていると言うことは留守だという概念がないのと同じ事だ。食事中だろうと入浴中だろうと弾幕ごっこ中だろうと電話はかかってくる。ある意味で拘束されているのも同じだ。だが、それを補って余りある利便性があると映姫は思った。
「欲しい…」
 ぽつり、とつい本音が漏れてしまった。しまったと思うが遅い。それを聞いてしまった文は二三度、目をパチクリすると、
「これはあげれませんよ」
 そう言って自分の携帯電話を庇うようポケットにしまいこんだ。
「いえ、そういう意味で言ったのでは。ああ、でも欲しいのは確かに本心ですけれど…」
「でしたら、今日は買いに行きましょうか」
「え?」
 聞き取れなかった訳でも理解できなかった訳でもないのに思わず映姫は聞き直してしまった。
「口添えしますよ。映姫さまなら素性がはっきりしていますし、きっと安値で売ってくれますよ河童も」


◆◇◆


「性能は一緒だからデザインで選んでもらっていいよ」
 並べられた携帯電話を見比べつつ、ふむ、と映姫は考え込んだ。赤、青、緑、白、黒、色も様々ながら形も折りたたみ式の板状の物からチョコバーの様に細長い物、マッチ箱のように小さな物まである。総数は二十は下らないだろう。
「まだ、奥にいくつか置いてあるけど、それも出してこようか?」
「あっ、いえ、結構です」
 そこにまだあると聞いて映姫は首を振った。さしもの映姫もこれだけある中から一つを選べと言われてコレですとすぐに応えられるほどの要領の良さは持ち合わせていなかった。どちらかと言えばこれは美的センスに関する選択なので無理はないといえばそうなのだが。
 ここは妖怪の山の麓の一角。河童たちの集落がある場所だ。滝壺の側の切立った崖からその下流の葦原に至るまでに自然の地形に溶け込むよう粗末な小屋が連なるように建っている。そのうちの一棟、河城にとりの住処兼製作所に映姫たちはやって来ていた。今朝、話していた携帯電話を譲ってもらう為だ。
「やはり、小さい方が持ち運びには便利ですか」
「うーん、作っておいてなんだけど小さすぎるとなくしちゃう事があると思うよ。ある程度、大きい方が使いやすいと思うし」
 映姫の質問に応えるにとり。フランクで打ち解けているような言葉遣いだがこれでも文が紹介したときは漏らしそうな程、顔を青ざめさせ土間で土下座するほどへりくだった調子を見せていたのだ。ところが、映姫が『今日はオフなので、今の私は閻魔ではないと言っても過言ではないです』と言ったところ、なんだそうですか、と顔を上げケロリとした表情を見せるにとり。案外、お調子者なのだ。もっとも、下手に畏まれるよりはこれぐらい砕けた調子の方が映姫としても有難かった。せっかくのオフなのに仕事中のように堅苦しい言葉を使われるのも気疲れしてかなわないからだ。
「ふーむ、となるとこのマッチ箱みたいなのとピンバッジみたいなのは除外ですね。でも、うーむ」
 顎に手を当て考え込む映姫。消去法で選ぼうという考えだがそれでもまだまだ数は残っており、ピンと来るようなものもなかった。
「文のはどれでしたっけ?」
「私のは…あれ、ないですね」
 続いて文にも意見を求めようとしてか、そう尋ねる映姫。けれど、確かに並べられた二十数個の中に文と同じデザインの携帯電話はなかった。
「ああ、文さんに渡したのと同じのはまだあったかな…」
 そう言って家の奥へひっこむにとり。がちゃがちゃと引っかき回すような音が聞こえてきた。在庫の山から探してくれているのだろう。暫く経ってからにとりが戻ってきた。
「よかったよかった。最後の一個だったよ」
 にとりが持ってきたのは確かに文と同じ形をした携帯電話だった。受け取り、持ち心地などを確かめるよう触ってみる映姫。
 二つ折りの開閉式で丸みを帯びた可愛らしいデザインをしている。液晶画面も大きく使いやすそうだ。
「それがいいの?」
「ええ、昨日、見せてもらった時からいいな、とは思っていましたから」
 これ、頂けますか、と映姫。まいど、とにとりが応える。
「しっかしまぁ」
「?」
 にとりが何処か下品そうな笑みを浮かべる。半目に前歯を見せながらにしし、と笑う。意味が分らず映姫と文はそろって疑問符を浮かべていたが…
「文さんのと一緒がいいって、あぁ、まったく、仲がいいねぇ」
 にとりの一言に片方の顔がかぁっ、と赤くなった。
「なっ、なに言ってんのにとり!」
 だん、と机を強く叩きながら文はにとりに抗議する。置かれていた携帯電話が跳ねた。
「いや、ほら夫婦茶碗とかペアリングとか、そーゆーのと一緒じゃないの。おそろいなんて」
 ひひひ、と笑いながらにとりは文を茶化す。ふだん、どちらかと言えば文とにとりの力関係は文の方が上だ。だからか、にとりはまるで弱みを握ったかのようにこうして仕返しじみたことをしているのだ。
「それで、二人の仲はどこまで進んでるの? ちゅーぐらいはした?」
「してないしする予定もないっ。私と映姫さまはそういう関係じゃないの。まったく。ねぇ、映姫さま」
 これは分が悪いと思ったのか、文はそう映姫に助けを求めた。映姫は、そうですね、と受け取った携帯電話にまだ視線を向けながら口を開いた。
「一緒のベッドでは寝ましたけれどね」
「ひぇーっ」
 そんなことなんでもないと言わんばかりの映姫の落ち着いた物言いに今度はにとりが赤面するぐらいだった。茶化せるような子供っぽいお付き合いじゃない。オトナの恋愛だ。そんな桃色をした淫靡でそれでいてクールな妄想がにとりの頭の中に広がる。
「そっ、それは私が寝ぼけただけでしょ、映姫さまっ!」
「そう言えばそうでしたね」
 慌てて事実無根だと文が叫ぶ。やはり冗談のつもりだったのかあはは、と映姫は笑みを浮かべた。
「まぁ、文にはいろいろお世話になっていますから仲がいいことは認めますけれどね。携帯電話は純粋に私がこのデザインを気に入っただけですよ」
 他意はありません、と映姫。まぁ、ですよねーとにとりは肩をすくめる。
「文さんが恋愛なんて。人の恋愛を追っかけて記事にしている方がよっぽど似合ってますよ」
「………」
 にとりの言葉に唇を尖らせる文。それは最後の最後まで自分のことを揶揄されていたからか。それとも…
「ああ、いや、違うか。文さんはもっとこう携帯電話の新機種とか今年の胡瓜の出来具合とかそういう記事ばっかりですよね。色恋沙汰から刃傷沙汰へ、なんてのははたてさんの新聞ですよね」
「私の花果子念報がどうかした?」
 そこへ別の声がかかった。三人して入り口の方へ視線を向けると扉にもたれ掛かるようはたてが立っていた。おはようございます、と真っ先に声をかけたのは映姫だった。つられてにとりもいらっしゃい、と。文だけは黙ったままだったが。
「あー、いえ、はたてさん。ちょっとはたてさんと文さんの新聞の方向性? みたいなのが話題に上がっただけですよ」
「ふーん。まぁ、いいわ」
 興味なさそうな様子を見せるはたて。その顔はすこしやつれ目の下に隈を作っていた。疲れているのだろうか。
「ちょっと、文、いいかしら」
 どうやらはたては文に用事があってわざわざここに来たらしい。外を指し示すよう顎をしゃくるはたて。一瞬、怪訝そうな視線を文ははたてに向けたが、断わり追い返すような理由も思い付かなかったのか、ちょっと失礼しますね、と映姫たちに断わりを入れてからはたてに続いて外に出ていった。
「なんなんでしょう?」
「……さて」
 にとりは同じく残された映姫にそう尋ねてみるがそんな返事が戻ってきただけだった。
「まぁ、立ち入るような話でもないでしょう。それより、使い方を教えて頂けませんか」
 なにぶん、ここに来て初めて見た機械なので、と映姫。いいですよ、とにとりは映姫から携帯電話を受け取り説明をし始める。
「まずは電話のかけ方ですけど…」


◆◇◆


 にとりの家の外。先行くはたてはどんどん家から離れていってる。それが余りに早歩きだったため、遅れて出てきた文ははたての姿を見失いかけ慌てて見つけた背中を追いかけた。
「何、一体?」
 はたてに追いついたのは細い道が五つ交わっている場所だった。そこではたては足を止め文を待っていた。人の姿はなく四方にあるどの家も裏側になっている場所で木製の壁や垣根の向こうにも気配は無かった。
「これ」
 そう言ってはたては手にしていた新聞紙を文に手渡した。印刷したてなのだろうか。受け取った文の手に僅かにインクの煤がついた。
「花果子念報…? これ、貴女の…」
「テスト刷りを一部持ってきたの。今、印刷所で本稿をガリガリ刷ってもらってるわ。今日の夕刊として配ろうと思ってるの。でも、それじゃあ、遅いと思ってね」
「遅い? 何が」
 尋ねるがはたては応えない。いいから、読めと言うことだろうか。文はその場で新聞を広げ、まず見出しから読み始める。
「『連続猟奇多殺人異変、発生』静かだった幻想郷を騒がせる異変が起っている。兎のように耳の長いものは聞き及んでいるだろうが、立て続けにとても常識では考えられない事件が起った。一件目は妖怪の山へ至る山道で。二件目は幻想郷唯一の旅館で。そして、昨日、ついに三件目が発生した。そのどれもが筆舌にしがたい無惨にして残酷なもので…これって」
「そう。アンタと私が勝負してるあの“異変”についての記事」
「…私は受けるなんて一言も言ってないわよ」
「……」
 文の言葉にあからさまに不機嫌そうに顔を歪めるはたて。無造作に歩み寄って文の顔を睨み付ける。
「腑抜けてるわね文」
 今にも殴りかかりそうな、その感情を押し殺してまるで絞り出すようそうはたては文に話しかける。文は一言も返さず、けれど、対抗する意思はあるのかはたてをにらみ返していた。
「この所、ずっとつまんない記事ばっか書いてる。当たり障りのないクソみたいな記事」
「貴女も相も変わらず嘘だらけ誇張表現だらけの大仰な醜聞を書いてるじゃない」
「…悪口で言ってるんじゃないの、文」
 はたての言葉に僅かに悲しみのような物が混じる。怒りに紛れ彼女に近しい者でなければそうと分らぬ機微な感情ではあったが。
「ホント、あなたずっと腑抜けてる。文々。新聞はあれだけ大会で鳴らしてたのに今じゃ発行部数は最低、誰が読んでるのか分らない配付した傍から廃品回収に回されるゴミだって言われてんのよ。あんたがそんな腑抜けじゃライバルの私が迷惑するの。私の格が落ちるのよ」
「…そう? 最近、よく読まれてるみたいじゃない。貴女の花果子念報」
 今度のも部数良さそうね。これは私の負けだわ。そう言ったところではたての怒りが爆ぜた。激情に駆られるまま文の胸ぐらを掴みあげるはたて。
「巫山戯んなァ! 私の知ってる射命丸文は、私のライバルの文はそんな腑抜けたことをいうキャラじゃなかった! いいから、書け! 書いて、記事にしなさいよ! アンタなら私より面白くて真実に近い記事を書けるでしょうが!」
「ッ…!」
 一方的にはたてに怒りを向けられている思われた文だったが、けれど、その顔が憤怒に歪んだ。手が伸び、自分の胸ぐらを掴んでいるはたての手首を掴み返す。
「巫山戯てるのはどっちよ! アンタ、自分でこれは異変だって言ったじゃない! だったらもう、終わるまで誰も異変には手出しできない。解決できる人間以外にはね。そういうルールじゃないの!」
 はたてと同じく、文も激情に任せるままに叫んだ。顔は朱。大口を開けて、眉間に渓谷のように皺を寄せてはたてを睨み付ける。はたても負けじと睨み返す。
「だから何? そんな下らない理由で書かないって言うの? バっカじゃないの? 第一、博麗の…っ!?」
 はたてが何かを言おうとした瞬間、その体を強く突き飛ばす文。後ろ向きに倒れはたては尻餅をつく。すぐに顔をあげ、何すんのよ、と怒鳴ろうとするが…
「………」
 目の前に立ち、握り拳を作り震える文に気押され何も言い返すことは出来なかった。
 暫くの間、はたてを睨み付けていた文だったが踵を返すと無言で歩き始めた。方向はにとりの家とは真逆だった。
「何処行くのよ」
 体を起こそうともせずはたては文に問いかける。
「異変を解決してくれる人の所ですよ」
 けれど、返ってきたのはとりつく島もないようなぶっきらぼうな物言いだった。
「だから、それは…っ!」
 追いかけるつもりか、はたては体を起こす。けれど、文の足は止らない。
 と、
「何を騒いでいるのですか」
 にとりの家の方からそんな声が聞こえてきた。映姫だ。はたてが振り返ると映姫とにとりがこちらに歩いて来ているのが見えた。文も映姫が近づいてきているのは分ったのだろう。ふわり、と浮き上がるとそのまま文は逃げるように飛び立っていった。颶風が巻き起こり、辺りは一瞬、嵐の模様を見せる。風の強さによろめき目を被うはたて。遠くにいた映姫たちも同じような目に逢う。
「…今のは? はたてさん、文は?」
「……知らないわ。いもしない探偵の所へ行ったみたいだけど」
 親の敵でも見るよう、空を睨み付けるはたて。既に文の姿は芥子粒のように小さくなってしまっていた。


◆◇◆


「心配ですけれど…かといってしてあげられそうな事はなさそうですね」
「何か言った?」
「いえ、別に」
 独白に口を挟まれ、映姫は何でもない風を取り繕いながらはたてを軽くあしらった。正直なところ、彼女には早く何処かに行って欲しかったからである。
 文が颶風を残し何処かへ飛び去っていった後、取り残された映姫は一人で観光しようとこうして町中を歩いているのだった。ただ、映姫自身の考えとは裏腹に観光には随伴者がいた。はたてだ。映姫を追いかけるようはたてもまた山を下りてきたのだ。
 映姫は最初、偶然、道が同じだけかと思った。だが、それにしてはいつまでもはたては映姫の後ろを歩いており、何処かへ行く気配は見せなかった。それどころか声こそ向こうからかけてくることはなかったが、あからさまに意識を向けられていた。背中に刺さる視線が心地いいのは露出狂だけだ。針のむしろにされたような心地に、けれどかといって何か悪事をしでかしている訳でもないはたてを映姫は追い払うような事は出来ず、そのままにしておくしか他なかったのだ。
 だが、流石にそろそろ鬱陶しくなってきたようだ。苛ただしげな顔と冷たい反応で暗に何処かに行ってくださいと告げるが効果の程は現れないようだ。いっそ、本心を包み隠さず言おうかと、そんな考えが映姫の頭を過ぎる。『鬱陶しいので何処かに行ってくれませんかね』もっともそんなことは口が裂けても言えない。和をもって尊しとなす、は絶対に守らねばならないことの一つだ。争いごとを自ら招くなんて閻魔としてあるまじき行為。なんとか温和に済ませなくてはならない。さて、どうしたものかと内心で首をかしげる映姫。
「鬱陶しいので何処かに行ってくれませんかね」
「へっ!? えっ!? えぇ!?」
「あっ、すいません。つい本音が」
 驚きの余り失敗した福笑いのように顔を崩すはたて。一拍おいて馬鹿にされたのだと気がついてアンタねぇ、と怒鳴り声を上げた。
「ふぅーん、ああそう。閻魔さまだから嘘だとかおべっかだとかオリーブに包むとかはできないわけなのね」
「まぁ、基本そうですね」
 それとオブラートです、とはたての間違いを訂正する映姫。あっそう、とぶっきらぼうな物言いのはたて。映姫はため息をついて足を止めた、あそこまで言ったのならむしろはっきりと言った方がお互いのためだと思ったのだ。振り返り、はたてと向き合う。
「本音ついでに聞きますけど、どうしてついてきているんですか?」
「……勝負の後半戦」
「え?」
「だから、新聞記事記事勝負のこと。前半は私の得意分野で後半は文の得意分野でやるって決めたでしょ」
「ああ」
 昨日の朝の話のことか、と映姫は合点がいき頷いた。確かにそのような話をしていた憶えがある。だが…
「今度は文がやっているみたいに私のオフの記事を書くと。その割には取材メモも写真もとっていない様ですが」
「うっ、だ、だって…何聞いて何撮って何書けばいいのかまったく分らないから…」
 泣きそうに顔を歪めるはたて。やれやれと映姫は肩をすくめた。
「本当に貴女はゴシップ専門なのですね。文とは大違い」
「むっ」
 そう映姫ははたてを評価した。途端、はたては眉を顰める。
「そんなことないわよ。アレでも昔は幻想郷で一番、異変の真実に近いことを書くって評判だったんだから」
「そうなのですか?」
 興味が湧いたのか、素直に聞き返す映姫。まるで自分のことのように誇らしげにはたては頷く。
「そうよ。昔は凄かったんだから。幻想郷の異変については射命丸に聞けって言われてたぐらい。コネとかもすごい持ってて、まぁ、解決した本人たちに裏を取ると細かいところが合ってなかったりしたけど…それでも…」
 誇らしげに語るはたて。その言葉には憧れに満ちていた。嫉妬なんてものは一抹もなかった。本当にはたては文を尊敬していたのだろう。それが映姫にも伝わってきていた。
 けれど、同時にはたてのその感情には懐かしさが混じっていた。かつてという接頭語を付けなければいけないでいる、懐古の念。
「ああ、でも今は駄目ね。ダメダメね。腑抜けちゃってる」
 そうして、自分から見てかつてほどの力を発揮できなくなってしまったライバルを酷評するはたて。両手を広げ、大仰に首を振ってみせる。
「今は社説以下の末尾ページ掲載の下らない家庭菜園レベルの記事ばっかり…昔はホントに面白い記事をいっぱい書いてたのに」
 罵るよう高らかだった声も後半に至っては消え入るように小さく弱いものになってしまっていた。他ならぬはたて自身が現在の文の各記事について嘆いているのだろう。その悲しみと怒りがひしひしと伝わってくるような言葉だった。
「ハッパかけるつもりで前みたく勝負を挑んだんだけど…効果ナッシングね。まったく文ってば…」
「………」
 悪態が強がりなのは目に見えて明らかだった。ぶっきらぼうに言い放つはたての瞳には涙のようなものが浮かんでいたからだ。腐っている好敵手の不甲斐なさを嘆く涙。が、
 ――まったく、腐っているのはどちらですか。
 映姫はそうも思った。これではまるでミイラとりがミイラではないか。つられて自分までふてくされてどうすのか、と。
「まぁ、でも、文もやはり気になっているようですよ」
 助け船を出すようそう話し始める映姫。説教、そして救済こそが彼女の本質なのだから。
「何を?」
「今回の“異変”ですよ」
 かたる言葉は本心だ。真実かどうかは定かではないがこの数日、文の様子を見ていた限り確かに彼女は異変について少々、いや、かなり気をもんでいる様子だった。その事をしっかりと映姫は覚えていた。思い過ごしではないだろう。異変の続報が入る度にああも動揺していたのだ。まず間違いない。
「勝負云々は兎も角として気にはなっていたようです。でなければ、貴女の挑戦をあそこまで頑固に拒否するはずはないでしょう」
「そう…なのかな」
 興味があることの裏返し。映姫には文の様子はそう見えた。はたてはその言葉を聞いて最初こそ訝しげに眉を顰めていたが、段々と自分の中で考えが変わっていったのか。そうよね、と頷き始めた。
「あの取材キチガイの文がこれだけの大事件…異変になんにも思うところがないなんてあり得ないわよね。うんうん。まぁ、書いてくれないのは残念だけど、情熱が失われてないってんならまぁ、それでもいいわ」
 そのはたての言葉はむしろ自分の心中の蟠りを吹き飛ばすために語られているようなものだった。力強く何度も頷き、それが事実であると思い込もうとするはたて。
「そうよね。いつだって文は異変を追っかけて取材してきたんだから。まぁ、ちょっと今回のは血なまぐさすぎて文の趣味じゃなかったってことかしらん。もう少し、イージーな異変が起れば文もまた記事を書いてくれるかもね」
「そうですね。そうなるといいですね」
 沈鬱だった気分もすっかり回復させ、躁の余りその場で踊るようくるくると回るはたて。高下駄で短いスカートを翻しながら、それでもドロワーズの裾さえも見せないのは流石は天狗か。と、
「ん、今回?」
 ダンスの途中でぴたりと動きを止めるはたて。片足立ちのまま疑問符を浮かべ、そのまま首をかしげる。つられて映姫も。
「どうかしましたか?」
「んん〜っ、今回もってか、前もこんな事があったような〜」
「へぇ」
 そう言うはたてだがそれ以上は何も思い出せないのか、首をかしげ腰を曲げ、なんだか前衛芸術的なオブジェよろしく身体を捻りきったところで流石にバランスが保てなくなったのか両足を地面に付いてしまう。
「ダメだ。思い出せないわ」
「そうですか。まぁ、些細な事件だったのでしょう」
「かもね」
 姿勢を正すはたて。ダンスの時間は終わったようだ。
「今回の事件が大げさすぎるのよ。ホント、ヤになっちゃう」
 何とはなしに町を見回すはたて。空気が重く感じるのは自分の気が滅入っているからではないだろう。
「解決できる名探偵なんていないのに…」
 呟きはけれど、逆にその登場を願ってやまないものだった。
△◆▽


『むむむ、もうちょっとなんですが…』
 垣根の下に隠れ、ファインダーを覗いている。カメラは柵に固定し、ピントもきちんと合わせて、羽毛のように軽くしたボタンにはずっと指をかけていていつでもシャッターを切れるようにしてある。朝から六時間。ずっと、今か今かとそのタイミングを待ち望んでいる。
 身体は汗だくだ。茹だるような暑さの中、影の中とは言え気温は三十度を大きく上回っている。服はインナーまでバケツの水を被ったように濡れており、顎先からは時折、ぽたりと汗の雫がこぼれていた。
 水分は背中のリュックに詰め込んだ水筒から取り出さなくても構わないよう、首元までストローを伸ばして飲んでいたが、それも一時間前に空っぽになってしまった。これだけ汗をかいているせいか尿意を催すことはなかったが、空腹のあまり胃がキリキリと悲鳴を上げている。
 体調も今日のために万全に整えてきたが、それでも体力は暑さのため、時を追うごとに減ってきている。身体も大きく動かせず、血が関節のあちらこちらで滞っているのが分る。それ以外にも藪蚊が格好の栄養源とばかりに何匹も肌に吸い付き血を啜っている。刺された場所は赤く腫れ上がり、身悶えするような痒みを訴えている。
『がんばれ…がんばれ私』
 それでも尚、文はその場から動こうとはせず、ジッとファインダーを覗き続けていた。
 レティクルに区切られた視界に映っているのは縁側だ。開け放たれた廊下の戸。外に比べれば薄暗い室内が見える。軒の下には風鈴が飾られ、風に揺れ優美な音をたてている。
 そこへ二人は腰を下ろし何かを話し合っていた。声は聞こえない。文のいる場所まで距離があるからだ。それでも時折、風に運ばれて楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 縁側で談笑する二人の少女。
 一人は縁側から庭の方へ足を下ろし、もう一人は影になっている家の中、柱に背を持たれかけさせている。二人の間には硝子の茶器に入れられた冷たいお茶と菓子が置かれている。 
 それだけで十分絵になる代物。カメラに心引かれた者ならこの瞬間を切り取って永遠にしたいと誰しも思うだろう。
『もう少し…もう少し…』
 けれど、文はシャッターを切らない。この絵ではまだ足りないと言っているのだ。
 それはカメラマンの本能ではなく記者の理性が、いや、文の正義がそう言わせているのだ。撮りたいのはこの一葉ではない。もっと、確実なもの。
 と、
『む!』
 動きがあった。片方の少女、縁側に腰掛けていた方の少女が茶菓子を取ろうとしてか手を伸ばした。必然、もう片方の手の位置も動く。それが柱にもたれ掛かっている方の少女の手に触れた。その、微妙なふれあいに当然、二人は気がついた。ごめんなさい、とでもい言い合っているのかお互い顔を合わせ頬に朱を浮かべている。視線は逸れない。じっと、目を逸らしてはいけないとでも言う風に相手の顔を見つめ続けている。その距離がどちらともなくだんだんと近づいてきているのに彼女たちは気がついているのだろうか。まるで磁石のように、そうするのが自然だと言わんばかりに。相手の瞳に自分の顔が映る距離まで近づく。恋人の距離。そうして、顔を近づけあった二人は更に唇を寄せ、その距離を零に。

 カシャリ、とシャッターを切った。二人がキスする一瞬をカメラに収める。愛の証。幻想郷の守り手、博麗霊夢と吸血鬼、レミリア・スカーレットの禁断の恋の。

 その熱愛報道が幻想郷における博麗霊夢の最期の情報だった。
 その報道があった後、彼女は―――


△◆▽
<5>


「熱愛報道…か」
 ――射命丸文は昔を思い出しながら辺りを見回す。寂れた風景。生い茂った緑。所々から草が伸びている白砂。忘れ去られた、その形容が似合う場所だった。
「…ここに来るのは久しぶりですね」
 独白は寧ろ自分に聞かせたものかもしれなかった。かっんかっん、と静寂に高下駄の足音を響かせながら文は歩き始める。苔が所々に生え土埃が積もった石造りの道。風に吹かれることもなく、そこに落ちていた枯葉を踏みつける。
 まっすぐに進んだ文は記憶に残っていた光景から随分と色あせてしまった建物を見つけた。風雨に晒され骸骨のような白さを見せる壁や柱。浄財の字が掠れ朽ちかかっている賽銭箱の上には鈴緒が死んだ蛇のように乗っていた。鈴は見当たらなかった。何処かにいってしまったのだろうか。
 少しだけ迷った後、文はポケットから財布を取り出し小銭を賽銭箱の中へ放り込んだ。カラカラと箱の中を小銭が転がる音が聞こえ、入れたはずの小銭は箱の底に開いた穴からまた転がり出てきた。文の足に当たってそれは止る。まるで、入れる必要はないと言わんばかりに。
「誰かいませんか?」
 転がり出てきた小銭を拾うともせず、文はそう声をあげた。けれど、人の声の返事はなく文に応えてくれたのは小鳥だけだった。その小鳥も文がもう一度、大きな声で同じ事を繰り返すと何処かへ飛んで行ってしまったが。
「……まぁ、そうですよね」
 諦念と自嘲が入り交じった独白を漏らす文。誰に聞かせるでもなく吐き出された言葉は風に乗って消えてしまった。もう一度だけ辺りを見回し、誰もいないことを再確認すると文は踵を返し拝殿から遠ざかっていった。
「さて、どうしましょうか…」
 着地した鳥居の処まで戻ってき、更にそこから少し進んで麓へ至る階段の一段目へ腰を下ろす。一度だけため息をつくと、懐から愛用のメモとペンを取り出した。シャープペンシルのペン先を舐めて適当に開いたメモの空白ページに何かを書き込んでいく。

 ☆ 巫女
 ☆ 魔法使い
 ☆ 庭師
 ☆ 現人神

 箇条書きのそれは何かの一覧だ。四つ、役職か何かを書いたところで文は眉を顰め思案するよう唇をまげ、そうして…

 ★メイド

 そこにもう一つ書き加えた。
 だが、それは書いてすぐに上からぐちゃぐちゃとペンを走らせ塗りつぶしてしまう。次いで巫女の字も横線二本で消す。
「妖夢さんと早苗さん…か」
 じっと庭師、そして現人神の文字を見つめる文。
 以前、弾幕ごっこを仕掛けたことのある相手。取材もしたことがある。幽霊と神。種族は違えど共に半分ほど人ではない人たち。それ故に役不足感がいなめなかった人たち。片方は既に幻想郷を離れて久しく、もう片方は人をほぼ辞めてしまっている。庭師は兎も角、既に現人神は役不足もいいところだ。文は続いて庭師、現人神の文字も横線で消した。
 残っているのは……
「………」
 眉を顰め唇を曲げ、歯を食いしばり頬を歪めながら考え込む文。放っておけばいい、と自分の中の悪魔が囁く。だが…
「はぁ、そうもいきませんよね」
 ため息をつきながらも文は立ち上がった。ここで安易に楽な道を選べば自分に必ず返ってくる。だから、嫌だが行くしかない。そういう決意だった。いや、決意というのもおごがましい打算的な考え。よりベターな方へ物事を動かしていこうとする文なりの考えであった。
 ペンとメモをしまいふわりと浮き上がる。ある程度、高度をとったところで燕のように飛び始めた。今度は近場だ。文が飛ばせば五分とかからず到着する距離。けれど、やはり、気の迷いが行動にも出ているのか、倍の十分、いや、十五分以上かけて目的地へと向かった。
「…確か、この辺りだったんですけれど」
 目的地上空で停止し、見おろす文。眼下に広がっているのは深い緑。地平の彼方まで広がる緑は乱立する巨木の枝葉。ここは魔法の森。原生林が鬱蒼と生い茂り、滅多なことでは人間はおろかテリトリーの違う妖怪も足を踏み入れぬ場所だ。
 上空からは海原のように緑が広がっているように見えるだけで地表は殆ど見えない。こんな何もない場所に文は何の用があるのか。
 と、文の鷹のように鋭い目が木々の間に何かを捉えた。有機的な曲線で作られた森の中では違和感を憶える直線、人工物だ。あれは、と文は下降していく。
 枝葉の隙間を縫い、当たらないよう注意しながらゆっくりと降りていくが、まったく、というのはさしもの文にも難しかったようだ。蜘蛛の巣を腕で引っかけ、足で木の枝を折ってしまい、頭や背中に葉っぱや小さな虫をひっつけてしまう。それでもスカートを引っかけてめくり上げない辺りは流石は鴉天狗か。
 地表を被うほど敷き詰められた苔の上にゆっくりと着地する文。ぐじゅり、と水音が鳴る。苔はスポンジのように水分をたっぷりと蓄え、雨後のようにぬかるんでいた。湿度も非常に高く肌寒い。何処か遠くで得体の知れない妖鳥がぎゃぁぎゃぁと不気味な声を上げている。同じ木に囲まれた場所でありながら明らかに妖怪の山とは違った空気にスンスンと文は鼻を鳴らした。
「向こうでしたよね」
 暫くの間、森の中に佇んでいたのはその雰囲気を味わいたかったからではないだろう。足取りはここまでの飛行と同じく快速とはいいがたいものだった。泥濘とその下に隠された木の根や石ころに足を取られているから、だけではないだろう。それでも足を前に出せば進むもので程なくしてほんの僅かに開けた場所に文は小さな一軒家が建っているのを見つけた。上空から見つけた直線、人工物がこれだった。家は石造りでこの湿度の高い森の中にあっても長く持つよう造られていた。だが、それでも壁から屋根まで至る所に蔦がびっしりとへばりつき、かつては庭であったであろう場所には人の背丈よりも高い草やゆくゆくは大木になるであろう若木が領土侵犯するように生えていた。一応、玄関と思わしき扉から伸びる踏み石の回りにはそんな巨大な植物は生えていなかったが、石の回りをなぞるよう雑草が生い茂っていた。
 はたしてこんな場所に人は住んでいるのか。一瞬、その考えを信じ切り文は帰ろうかと思ったがそれではいかんと頭を振った。
 雑草を飛び越え、家の戸の前まで進む。
「すいません。いらっしゃいますか?」
 古び、色あせた戸を叩く。こんな扉だったかしらん、と自分の記憶と照合するが思い出せない。そもそもこうも荒れ果てていていると合っているのかどうか確かめることすら出来ない。
 そんなことを考えながら続けて、二度三度とノックし呼びかけを続けるが家の中からは返事も人が動いているような気配も伝わってこなかった。留守――というよりは最初から誰も住んでいないのでは、そう思えるほど静かであった。
「……いませんか」
 言葉には残念さと、一抹の安堵が含まれていた。自分は努力し行動したのだ。結果が伴わなかったとしてもそれは自分のせいではない。そう言い訳できる条件が揃ったことに対する安堵。或いは彼女と顔を合わせなかったことに対する…
「何か私の家に用か?」
「ひゃっ!?」
 と、完全に不意打ちに声をかけられた。後ろからだ。思わず一メートルも飛び上がってしまう文。
「泥棒か?」
「い、いえ…」
 気を取り直し、恐る恐る振り返る文。はたしてそこにいたのは…
「あれ…?」
「何?」
 一人の老婆だった。頭のてっぺんから足先まで黒衣に身を包み、大きな花をつける向日葵の茎のように腰を折り曲げ、古びた竹箒を手にしまるで絵本から出てきた魔女のような風貌をしている老婆だ。
「えっと…」
 途惑いを見せる文。老婆は文が会いたかった人物ではなかった。さすがの文もこうなるとは思いもせず、先ほどの驚きも相まってついうろたえてしまったのだ。視線を彷徨わせどうしようか、何を言うべきかと考える。
「あの、私、新聞記者をやっております射命丸文ともうしまして…」
 取り敢えず、自己紹介。もっともただの時間稼ぎで意味は殆どなかった。
「射命丸…?」
 なのに老婆は文の名を聞いて露骨に眉をしかめた。萎びた芋のように落ち窪んだ眼窩から覗く目を文に向けてくる。そこには明らかに敵意の炎が揺らめいていた。
「えっと…」
 老婆の反応にこれまたたじろぐ文。なにか、老婆の機嫌を損ねるyようなまずい事でも言っただろうかと自分の言動を反芻するが、思い当たるフシは全くない。
「……どいてくれないか。家に入れない」
「あっと、すいません」
 言われ、邪魔になっていると気づき、横に飛び退き道を譲る文。老婆は文に一瞥さえくれずドアのところまで歩み寄るとそのままドアノブを回した。鍵はかかっていないようだった。
「あ、そうだ。お婆さん」
「……何か?」
 老婆の身体が家の中へと消えて行く直前、文は呼び止めるように声をかけた。
「実は私、今、里で起こっている殺人事件の取材をしているのですけれど、何か御存知ありませんか?」
「殺人事件?」
「はい。首を斬られて張り付けにされたり、何十人も狭い小屋へ押し込められたり、と惨たらしい異変が起こってまして…」
 質問は答えを期待してのものではなかった。文としてはこの魔法の森に住む老婆の耳にあの異変の話を入れたかっただけだ。老婆の交友関係は知らないが、魔法の森に住んでいる老婆が他のこの森に住んでいる誰かに話してくれればそれで構わない。その誰かがまた別の誰かに話し、そうしてゆくゆくは文が一番伝えたかったあの人の耳にまで届けばいい、そういう考えだった。回りくどくそれでいて他力本願なやりかたは文がやはりその人物に会いたくないからそんな策を取らせたのだろう。
「なにか知りませんか? 些細なことでいいので」
 質問の答えは知らぬ程度でよかった。もとから情報収集が目的ではないのだから。答えを待ち。視線を注いでくる文に家の中に入ろうとする格好のままじっと固まっていた老婆は肩越しに一瞬だけ振り返った。その目が憎悪にぎらりと光ったように見えたのは文の勘違いではない。
「――まだ、そんな三文記者みたいなことをしてるのか文」
「え…?」
 三度目。また、文は老婆の言動についていけず疑問符を浮かべた。何かがおかしい、と疑念が心中を渦巻く。老婆は耄碌しているのか。そんなはずはない。足取りはしっかりしており言葉も明瞭に聞こえる。それにボケていたなら文の姑息な情報伝達手段は無為に帰してしまう。いや、その心配はない。老婆は理性でもって文に敵意を向けてきているのだ。勘違いや馬が合わぬ程度のものではない。明らかに老婆は理性由来の感情を文に向けてきているのだった。
「えっと、お婆さん…?」
 訳がわからず問いかける。どういうことかと。けれど、老婆は答えなかった。その枯れ木のように細い指のどこにそれほど力がるのかと思えるほど強く扉を叩きつけるように閉め、家の中へと消えていく。
「ちょっと、お婆さん、お婆さん!!」
 追いかけるようドアにすがり力強くとを叩く文。何かが彼女を焦燥させている。老婆の言葉か。いや、もっと根深い何かが。
 と、
「また」
 扉の向こうから老婆の声が聞こえてきた。ともすれば文が戸を叩く音にかき消されてしまうような小さな声。ただし、その声はまた文の耳にはっきりと、確かに届いた。耳に良い音程と音階だったからだろうか。いいや違う。文はその声を以前、何度も聞いていたからだ。耳がその声を憶えていたからだ。顔は忘れてしまっていても、声は――
「まさか、貴女は…」
「また、霊夢を殺した時のような事をするつもりか」
 声は魔理沙のものだった。
 年老い、一見すればそうとは分からぬほど変わり果ててしまった魔理沙のものだった。
 がくりと、その場で膝をつく文。
 異変解決の後押しのため、久方ぶりに会おうとした知人にそうとは知らず既に出会っていたのだ。


◆◇◆


「どころでさぁ」
「はい?」
 そう映姫に話を切り出すはたて。顔には僅かに苛立ちらしきものが浮かんでいて、映姫を糾弾しようとしている様子がみてとれた。
「いつになったら観光? してくれるの? さっきからずっと歩いてばっかじゃん」
「あー」
 彼女にしては間抜けな声を上げる映姫。確かに観光目的で市街地まで出てきたのだが…先程からずっと道を歩いているだけで何処かの商店に入ったり何か景色を眺めたりしているわけではない。これでは散歩…いや、暇そうにぶらついているだけだ。
「そう言われましても…」
 困り顔で映姫は辺りを見回す。幻想郷に来て今日で三日目、前々日、前日で市街地と妖怪の山付近のめぼしいスポットは回ったように思える。かといってそれ以外の場所に行こうにも土地勘がなさすぎるのだった。以前にも幻想郷をぐるりと(お説教をしながら)一回りしたことはあるがそれは相当前だ。それにその時は飛び回って、手当たり次第に弾幕ごっこを仕掛けていたため地理なんてものはまったく憶えていない。
 何かいいアイデアはないかしらん、と視線を彷徨わせるが…
 と、
「なんだか人が少ないですね」
 映姫はぽつりとそんなことを口にした。
 町民は道を往来し商店は戸を開け人々の喧噪は耳に届いている。一見してこれと言って町に異常は見いだせなかったが確かに映姫の言うとおり目に付く人の数は数日前と比べて明らかに少なかった。
「そうかな? そうね」
 はたても同意する。いや、単純に人の数が少ないだけではない。普段なら威勢のいい商人たちの呼び込みの声は今日は小さく弱々しいく聞こえる。人混みの中を操作巧みにベルを鳴らして走る配達の自転車も今日は降りて押して歩いている始末。行交う人々の話し声もひそひそとしたものだった。町に活気がないのだ。だが、それは何故だ?
「…子供の姿がありませんね」
 ざっと見回し、子供好きだからか、映姫が先にその事に気がついた。往来には確かに子供の姿はなかった。道ばたの馬の糞をつついて遊ぶ悪ガキも教科書片手に寺子屋へ行く真面目そうな子も風車を持ってはしゃぎ回る幼子の姿もなかった。やっと見つけた子供はもうそこそこ大きい子なのに父親らしき男性に腕を引かれていた。どこか不安げな顔をしている。我が子と手を繋ぐ父も顔に険しさをみせていた。
「なんか、ふいんきもものものしいわね」
 父親だけではない。往来を行く人の顔にもそれがあった。警戒心。或いは不安。その根底にあるのは恐怖だった。まるで戦時下のような暗く重苦しい雰囲気に町は満ちている。よくよく人の様子を見てみれば子供だけではなく女性の数も少ない。単純に考えて町に住む人の半分ほどが外に出てきていないのだ。その出てきている男たちでさえ険しい顔をしている。町の雰囲気が悪いのは当然だ。
「ん、あの人たちは…?」
 と、映姫はそんな物々しい雰囲気の町から特に異様を放っている一団を見つけた。威容、と言うべきか。人数は三人。いずれも屈強そうな男たちで、同じ意匠の藍色をした分厚く丈夫そうな半纏を着ている。手にはそれぞれ長い棒を持ち、先頭の男は帯刀さえしていた。
「ああ、あいつらは人里の自警団ね。泥棒とか喧嘩とかを取りしまってんの。でも、なんだろ。大抵は事件が起ってからすっとんでいくのろまなのに、今日はアレ、見回りでもしてるみたいね」
「………」
 一団は確かに三人ともが絶えず瞳を動かし鋭い視線をあちらこちらへ送っていた。はたての言うとおりパトロール中のようだ。何か怪しい奴が現れればすぐに追いかけてあの棒で叩きのめしてやる――そんな雰囲気が一団から伝わってくる。
「ん、おい、そこのお前ら」
 向こうも映姫たちの視線に気がついたのか自警団の方が声をかけてきた。いや、声をかけてきたなどと親しげなニュアンスで伝えられる言葉ではなかった。声には相当の威圧がこめられており、逃げるか、逃げられないかの二択を迫られているかのようだ。
「なんでしょうか」
 そんな自警団の雰囲気には飲まれず至って普通に返す映姫。その後ろでは何故かはたてが今まさに踵を返しているところだった。まるで逃げ出すかのように。自警団も一瞬、はたての動作につられるよう動きを早めたが、先にそれに気がついた映姫がむんずとはたての肩を掴んだ。
「どうして逃げるのですか。やましいことがないのなら別に彼らに脅えることはないでしょう」
「あははは、ま、まぁ、そうよね」
 何故か乾いた笑いを浮かべるはたて。そうこうしている間に自警団が近づいてきた。
「見慣れない顔…と、そっちのは山の天狗か? 人里に何の用だ」
 近づいてきた自警団の一人がそう高圧的に話しかけてくる。髪を短く刈り込んだ青年だ。普段は力仕事をやっているのか、腕が太く胸板も厚い。他の二人も同じような体格をしていた。背丈も大きく背の低い映姫の目の高さから見れば相当の威圧感を憶えることだろう。
「何の用、と言われましても…ただ、歩いているだけですよ」
「その付き添いってところかしら」
 青年の威嚇するような物言いにさしもの映姫も少し腹が立ったのかそう説明少なく返す。はたてに至っては茶化しているような有様だ。
「フン」
 青年は綺麗に形の調えられた眉をへの字に曲げた。映姫たちの態度がやはり不服だったようだ。
「逆に聞き返しますが、自警団の方ですよね」
 これは少し子供っぽかったかな、と映姫は内心反省する。無闇矢鱈に因縁をつけるものではないのだ、と。すかさずフォローのためか今度は映姫の方からそう問いかけた。
「なにか町が物々しい雰囲気ですけれど、何かあったのですか。自警団の方がパトロールをしているなんて珍しい、とこの子から伺ったのですが。何か事件でも」
 よもや映姫の方から何かを言われるとは思っていなかったのか青年は一瞬、目を丸くした。が、それも一瞬、目を瞑るとしたり顔で頷いた。
「なんだ、知らないのか。事件なら…いや、異変があったんだ。コロシだよコロシ。それも大量にな」
 あれだけの事件が起ったのだ。普段は後手で立ち回っても十分であるはずの自警団たちが前もってこうしてパトロールしているのも納得できる話だ。女子供たちが往来を歩いていないのは無闇矢鱈に外に出るのは危険だと考えているからか。この物々しい雰囲気はすべてあの二つの異変に起因しているのだ。
「ああ」
 合点がいき嘆息を漏らす映姫。
 目を開けた青年は難しそうな顔をする。
「なんたらって旅館と三本木道で…ああ、それとすぐそこの山から下りてくる道でもあったな。それで警戒のため俺らが出張ってる訳なんだが…」
 クソ、と悪態をつく青年。
「あんなの人にどうにかできる訳がねぇ。畜生、なんだって俺らが…」
 そこから先は愚痴じみた独白のようだった。勇敢そうな青年の顔に怖れが滲む。もしかすると――と映姫は考える。この青年はあの二つの異変のうちのどちらか、或いは両方の現場を目にしているのでは、と。圧倒的な悪意を目にした人間は多かれ少なかれそれに心を犯される。憤怒からの過剰興奮、恐怖からの攻撃性の増加、或いは賛同からの覚醒。悪貨が良貨を駆逐するよう、悪意は人の心を狂わせるのだ。
「俺らが…? ちょっと、貴方は自警団の団員。自ら警護をかってでる者でしょう」
 そんな青年の心情とはまったく関係なく、ここで映姫の悪い癖が発動した。説教癖だ。自警団の面々に負けないほど威勢を張り、声を荒げる。
「それを嫌そうに…町の平和を守るのが貴方の役目でしょう!」
 かっ、と一喝。後ろでははたてが頭を抱えながらあちゃーと擬音を口にしていた。
「泥棒とか喧嘩程度ならな。アレは…あんなひでぇのは博麗の…」
「オイ」
 と、そこへ別の団員が青年を肘で小突いた。はっ、と我に返ったような顔をする青年。
「行くぞ」
「あ、ああ」
 仲間に促され映姫たちから離れていく青年。これ以上、構う必要はないだろうとパトロールに戻っていったようだ。最後に一瞬だけ何か言いたそうに振り返ったが、結局、捨て台詞の一つもその口からは発せられなかった。
「まったく。最近の若者は。正義感が足りない」
 その背中を仁王立ちで見送る映姫。言いたいことの十分の一も言えなかったのか不満そうだった。
「これが噂の説教テロ…うーん、私も気をつけないと…」
「何か言いました?」
「いいえ」
 処で、と閑話休題。映姫は疲れた顔をしているはたてに質問しようとした。
「自警団の方も言っていましたが、これだけの大事件…異変ならあの方々の管轄ではないのでは? 詳しくは知らないのですが幻想郷には専門の異変解決役職があったと思うのですが」
「………」
 映姫の質問にはたてはすぐに応えなかった。難しそうな顔をしてマネキンのように固まる。
「はたてさん?」
 疑問符。はたては暫く呻るように考えた後、うん、と頷いて見せた。
「いたよ。そーゆー仕事の人。今はいないけどね」
「今は?」
 けれど、出てきたのは歯切れの悪い言葉。促すよう映姫は更に疑問符を続ける。
「今は。ずっとだったからすっかり忘れてたけど、ずっと平和だったからいなくても良かったんだけど、ああ、うん、確かにそーゆー仕事の人はいた。いたんだ」
 びゅうーと人の少ない町に木枯らしのような風が吹いた。それを吹かせたのは果たして誰か。はたては現在の異変解決役について話す。
「博麗の巫女は、いま――不在なの」
「不在?」
「うん、不在。何十年か前に死んでからずっと不在のまんま。私の記憶が確かなら大体、一、二年で代わりが出てくるんだけれどね。なんでかしら、ずっといないのよ」
 まぁ、その代わり異変らしい異変もこの所、ずっとなかったけれどね、とはたて。
「…それで名探偵なんていないのに、と言ったんですか」
「ん、まぁ、ね」
 映姫の言葉に肩をすくめるはたて。少し悪ふざけを咎められたようだ。
「まぁ、別に異変解決は博麗の巫女の専門って訳じゃないわ。人間全体の仕事よ。妖怪が異変を起こして、それを人間が解決する。そういうルール。参加は自由よ。解決できるかどうかは別問題だけど」
「なら」
 そう前置きして映姫は話し始める。が、途中で何か思い付いたのか否定の言葉を入れる映姫。
「今回のこの異変も妖怪の仕業…いえ、それならそうでとっくに動いていますよね。博麗の巫女が不在と言っても解決役の探偵がいないわけではない。それが動いていないと言うことはまだ誰にも犯人の目星が付いていないと、そいうい事ですね」
「…自己完結してんじゃないの」
 それなら一々口にしないでよ、とはたては呆れ顔で言う。
「まぁ、異変の犯人が妖怪って限ってるって訳じゃないけどね。ときどき、妖怪じみた人間が異変を起こすこともあったし…あーうー、こういう話こそ文に聞け、なんだけれど」
 おおよそ異変と断定された大事件に文が詳しいのはかつては彼女がその解決役と太いコネクションを持っていたからに他ならない。
「だったら、今、異変解決に一番貢献できる人物というのは文ですね。ここ数十年異変は発生しておらず、解決役はいない。ああ、でも文は天狗ですから直接異変解決は出来ないのですね。それでも、間接的に解決を促すということも」
「…そんな上手くいくかしらね」
 ワトソン警部みたいな立ち回りをしつつ実際はホームズより事件の全容をよく知っている。そんなアンバランスな役回りが成功する訳がない。
「第一、さっきもいったけどここ何十年も異変なんて起きてこなかったのよ。巫女が居たときは他にも魔法使いとか辻斬りとか他にも解決役はいたけど、今はてんで姿を見ないわ。まったく、何処に行ったのかしらね」
「……何十年も経っているのでしょう。相手は私たちと違う人間なのですからもう結構なお年、下手をすれば存命していないのでは」
「あ」
 自分が何百年も生きている妖怪だからか、ついついその定規で測ってしまっていたはたて。確かに人の命は彼女らからすれば短く儚いものだ。何十年も経っているというのに彼女たちがあの当時のままの姿でいるはずがない。いたとすればそれは…
「ニュージェネレーションに期待しないとダメってことかー」
「そんな都合良く現れますかね」
 はぁ、と二人してため息。探偵役は不在。なのに前代未聞の大異変が起っている。こうも町の雰囲気が重く、自警団の連中がくだを巻きながらもそれでも必死に犯人を捜して走り回っているのはそういう訳だ。
「結局、手出し無用、って事なのかもね」
「………」
 何か言いたげな映姫ではあったが喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。滅多なことは言う物ではない。そう、『自分たちで解決してやればいい』なんてことは。おそらく、文とはたて、二人の鴉天狗とコネクションを持つ映姫は現在、幻想郷を騒がしている異変についてもっとも多くの情報を知る立場にあるだろう。だが、かといって解決役を買って出るわけにはいかないのだ。
「みんな蚊帳の外ってカンジ。私は蚊帳の外から取材。文は蚊帳の外から無駄に探偵を捜し回ってる。閻魔さまも現世の出来事にはノータッチって決まりがあったわよね」
「…ええ」
 世の中には破ってはいけないルールというものがある。それは道徳や正義と行った善き行いの垣根の上に位置するもので、それを破ると言うことは喩えるなら、肉食獣を他の動物を襲って食べてしまうからと言った理由で殺してしまうような事だ。肉食獣がいなくなれば天敵がいなくなった草食動物は大いに増えることが出来るだろう。だが、増えればその分食料が必要となる。増えすぎた草食動物は餌となる植物を食べ尽くしてしまい、結果――全ての生き物が死滅する羽目になる。これは草食動物、植物、或いは肉食獣を含めたそれらの死骸を分解する微生物などに当てはめても一緒のことだ。
 天上に座し全てを知るものならざる身では、そのルールを破ると言うことが一体何処に影響を及ぼすのか、まるで見当が付かない。バタフライ効果により全ての因果は繋がっているのだ。映姫が下手に動けず臍をかんでいるのも無理はない。
「面白くないですね」
「どーかん」
 映姫の言葉に同意を示すはたて。
「せっかく、休暇を満喫しにきたのに。こんな異変が起るなんて」
 肩をすくめ、言葉こそ軽いが気に病んでいるような顔を映姫は見せる。現世の出来事には不可侵、とはいえ映姫とてこんな事が解決の見込みなく起き続けることに心を痛めているのだ。
「結局、本当にみんな蚊帳の外なんですね」
「殺された人たちも含めてね」
 どうしようもない、とはたては肩をすくめる。映姫もそれに倣いたい心情だった。
「蚊帳の外なら蚊帳の外で、我々は出来る事をしますか」
 と、閑話休題。映姫ははたての方へ振り返る。
「そろそろお昼時ですが、どうします? ご飯ついでに取材でも」
 そう言えばそんな話をしていた、と映姫に言われ思い出すはたて。文との新聞記事の勝負の為に映姫に付いてきているのだった。もっともそれは建前で実際のところはたては文に昔のようにやる気を取り戻してくればそれで良かったのだが。
「んー、いや、いいや」
 そして、それは少なくとも文が情熱を失っていなかったことが分っただけでも十分だった。はたては携帯電話を取り出すとそのディスプレイを眺めた。液晶画面には現在の時刻が表示されている。正午過ぎ。昼食には遅いぐらいの時間帯だ。
「もうそろそろ私の新聞が刷り上がる頃だと思うからちょっと具合を見てくるわ」
「そうですか」
 特に引き留めるような理由もないので見送る映姫。それじゃあ、と言ってはたては踵を返した。別れる二人。
「…さて、昼食はなににしましょう」
 お店が開いていればいいのですが、そう杞憂する映姫。いや、杞憂しているのは自分の腹具合ではなく今、幻想郷で起っている異変。それと…
「文…」
 飛び出していった彼女のことだ。けれど、こちらも蚊帳の外だ。映姫は今、文が何処にいるのかも何をしているのかも知らない。心配ではあるが、けれど、それは彼女自身の手で始末をつけなければならないことなのだろう。


◆◇◆


「…それは」
 扉の向こうから聞こえてきた言葉に文は打ち震えた。
 数十年前の過去から届いた糾弾の言葉。
『また、霊夢を殺した時のような事をするつもりか』
「それは…でもっ、だって、あんなことになるなんて露にも思わなかったんですっ! いいえ、私だけじゃない。あの記事…霊夢さんとレミリアさんの仲を報じた記事を書いたからって、それで霊夢さんが死ぬなんて誰が予想できたって言うんですか! わ、私のせいじゃない。あんなのお天道様にだってわかりっこないです!」
 顔を上げ、腕を振るい、そう訴えかけるよう声を振り上げる。自分の正当性を示すように。けれど…
「だから? 霊夢が死んだのはお前の所為なのは変わりない」
 扉の向こうの相手には弁明じみた言い訳にしか聞こえなかったようだ。暗く固い、数十年前から暖め続けられていた怒りが篭った言葉を魔理沙は口にする。
「お前が原因だ。お前が、あんな記事を書かなければ霊夢は死なずに済んだ。殺されるなんて言うまっとうじゃない死に方をせずに済んだはずだ」
「ちが、私は…私の所為じゃ…」
 否定の言葉を口にしようとする。だが、出てこない。気圧されているのだ魔理沙に。
「そうだ。全部が全部、お前の所為というわけでもない。霊夢も悪かった。レミリアも悪かった。だがな、二人共責任は果たしてるんだよ。霊夢は死んで、レミリアは犯人を裁いた。身内だったのに。むしろ、だからこそ。で、お前はどうなんだ?」
 扉の向こうから聞こえてきているはずの魔理沙の声は、けれど、直に言い聞かされているかのようにはっきりと文の耳に届いていた。
「お前は、何か、したのか。何か罰を受けたのか。何か裁かれたのか。何か反省したのか。数十年ぶりに会ったがなにか変わったように私には見えなかったがな。どうだ。何もしてこなかったんだろう。お前自身が犯した罪を、今の今まで忘れて、のうのうと生きてきたんじゃないのか」
「そ、そんなことは…」
 ない、とは言い切れない。言葉に詰まる文に追い打ちをかける魔理沙。
「じゃあ、なんで私のところへ“取材”なんてしにきたんだ」
「それは…」
 魔理沙に今、幻想郷で起きている異変のことを伝え解決してもらうためだ。だが、言えるわけがない。そんな理由。文は失念していたがかつては異変解決に尽力してくれていた魔理沙は今や年老い、魔法使いというよりは絵本の魔女のような姿になっている。異変解決なんて役柄ではないだろう。いいや、それ以前に数十年来の文に対する不信はもはや常識のように魔理沙の考えに根付いているのだ。何を言った所でその心に文の言葉が届くはずははないだろう。
 ましてや、異変解決の件についてはあくまで文はノータッチでいこうと心に決めているのだ。幻想郷のルール上もそうなっている。だが、だからと言って『異変が起きています。解決して下さい。お願いします』なんて虫のいい話、魔理沙が聞き届けてくれるはずがない。そんなことを言えば魔理沙の心の奥底で滾っていた文に対する怒りが噴出するだけだ。話は平行線どころか決裂。同じ土俵にすら立てなくなる。
「ふん…」
 文の沈黙を図星だと受け取ったのか嘲りの笑いを上げる魔理沙。扉の向こうからとんでもない悪意が伝わってくる。数十年前に生まれた怒りは今やその形状を変え、呪いじみたものとなって文に向けられる。蛇に睨まれた蛙のように居竦む文。
「結局、お前はただのパパラッチだ。三文記者だ。自分の記事に責任を持たない煽動者だ」
「………」
 そうして、最後に魔理沙は、文の心に深々と突き刺さるような言葉を言い放ってきた。
「帰れ。これ以上お前の話を聞くつもりも何かを言うつもりもない」
 文は、魔理沙のその言葉に従わざるえなかった。


◆◇◆


 その後、何処をどうやって進んだのか文はまるで憶えてなかった。歩いて来たのか、それとも飛んできたのか。兎に角、気がつくと文は人々の集落にいた。傾いた日に照らされながら往来を行く人々の間をふらついていた。
「………」
 魔理沙に言われた言葉が心に重くのし掛かっている。あれは確かに文も自分でも思っていたことだった。だが、それは形なく漠然としたものだ。それが魔理沙に直に言われたことによって明確な形を成し、文の心に重くのし掛かってきたのだ。
 まるで囚人に取り付けられた枷のように自己嫌悪は心に、身体に重くのしかかってくる。幻想郷最速が聞いて呆れる鈍重さで文は目的地もなく歩き回っていた。
「私だって…気にしていなかったわけじゃないんですけれどね…」
 呟きはけれど、言い訳じみたものだった。
 と、その言葉に気を取られたのか、一人の男が文にぶつかりかけた。文は慌てて避ける。気を付けろよな、と怒鳴る男にすいません、と頭を下げた。
「ったく」
 不機嫌そうに吐き捨て、ついでに男は手にしていた紙の束を投げ捨てた。風に吹かれ文の方へと飛んでくる紙…新聞紙。記者だからか、僅かに気になり文はその新聞を拾い上げた。
「これは…」
 見慣れた大字と見出しの新聞。それははたての『花果子念報』だった。昼前にはたてに読ませて貰ったものが刷り上がり、配布されたのであろう。ざっと、町を見回すと読んでいる人を何人か見つけた。だが、それ以上に…
「…どうして?」
 ゴミ箱や道端に花果子念報は無造作に捨てられているのだ。ぼうっと文が町の様子を眺めていると茶屋の長椅子に腰掛け花果子念報を読んでいたカッターシャツの青年が、駆け寄ってきた似たような歳格好の人と二三語話を交わすと勢い良く立ち上がり新聞を捨ててお代を払って何処かへ走りだして行ってしまった。どうしたというのだろう。
 確かに今回の花果子念報の情報はそのどれもが一般人でも知ることの出来るレベルの内容ばかりだった。だが、それでもその全てを統括した情報というのは警察機構以外、はたての花果子念報にしか書かれていないはずだった。目新しい情報はないが資料としては十分価値がある。その筈だった。それがこうしてゴミのように興味なく捨てられているなんて…
「あの、何かあったんですか?」
 文は自分の落ち込み様も今は心の端に追いやり、記者根性で茶屋の娘に話しかけた。
「どうかって…?」
「ほら、この新聞。巷を騒がせている事件について書かれてますのにみんな興味なさげですから…」
 ああ、と文の説明に頷く店員。
「だって、その犯人、捕まったって話でさ」
「ええっ!?」
 驚きは自分の落ち込み様さえも忘れてしまう程だった。


◆◇◆


「さて、どうしましょうかしらん」
 遅めの昼食を終えた所で店を出て映姫は呟いた。はたてと別れてから暇つぶしにとあちこち歩きまわり、そろそろ疲れたかな、とやっと店に入ったのが二時過ぎ。更にそこでゆっくりと店主と話しながら食事をし終えた所でもう時刻は四時にさしかかろうとしている頃だった。日は傾き始め、この雰囲気だからだろうか既に店を閉めようとしているところもある。逆に今からが本番だと気合を入れなおしているのが自警団の面々だった。逢魔が刻から丑三つ時までは悪党の時間だ。こういう時間にこそ犯罪は発生する。その意気込みで予防と現行犯逮捕、即時解決を目指しているのだろう。もっとも発生した異変はそれぞれ深夜、夕刻、日中とバラバラの時間帯で起きている。時刻がどうのこうのはあまり関係がなさそうだ。
「いえ、それを言うなら場所もですね」
 山道、旅館のエントランスと村道。大きく場所が違うが逆に言えば何処でも起きるということではないのか。今、この瞬間、映姫の目の前で人知を越えた殺戮が行われても不思議ではない。
「まぁ、流石にそれは悪い冗談ですか」
 肩をすくめる映姫。自分の発想に呆れかえったのだ。
「第一、ここで起ったら私も被害者になりますね」
 往来を行く人の表情は固く、帰路を急いでいる者も多い。まるで嵐の前のよう。いや、ある意味で無差別に行われる殺人事件は天災も一緒か。
 町がこんな雰囲気ではとても観光という気分にもなれず、かと言って戻ろうにも泊めてもらっている文は今、何処かへ行ってしまっているのだ。帰りようがなかった。
「電話番号、聞いておくべきでしたね」
 手に入れたばかりの携帯電話を取り出してなんとはなしに眺めてみる。電話番号が登録できる機能が付いていることはにとりから説明されている。もっとも登録してあるのは携帯電話の機能の使い方がわからなかったり故障した時などに連絡するカスタマサポートセンターがわりのにとりの番号と先ほど半ば無理矢理に番号を交換させられたはたての分だけだが。
「会ったときにでも…」
 そう映姫は当たり前のようにこの後、確実に文に会えると考えてはっ、と気がついた。文の家にはもうかれこれニ日も厄介になっているのだ。今日も当然のように泊めてもらう、というのは流石に厚かましくないだろうか。いいや、素面でそんなことをするのは厚顔無恥だ。 
「む、しかし…」
 かといって他に泊まる当てもない。これは申し訳ないがもう暫く泊めてくださいと文に頭を下げなければいけないだろう。或いは宿泊料がわりに何か贈り物でも送らないと…
「…どうにも思考がずれますね」
 いま考えないといけないのは文に今日の夜までに会えなかった場合の宿だ。幻想郷にやってきた初日のようにまた路頭に迷って野宿か、切り上げて冥府に帰るか悩むことになる。どうしたものか、と腕を組み映姫は考える。だが、名案妙案は浮かばない。いや、どちらかと言うと思考がまとまらない感じだ。どうにも集中できないでいる。うんうん唸りながらそのまま映姫は足の向くままに任せ、町中を出鱈目に歩いて行く。大通りを歩いていた足は気がつけば側道に折れ、更に裏通りに向き、そのまま路地裏へと入り込んでしまった。
 と、
「うん?」
 異様な匂いが鼻についた。
 それは鉄のように冷たくそれでいてかつての温かさを想い起こさせるような生々しい血の臭い――ではなく、腐臭だった。
「っ…」
 いや、そこには鉄の匂いも混じってはいるが大部分は肉が腐ったような鼻が曲る匂いだ。さしもの映姫も不快感を露わに顔を歪め鼻孔を手の平で被う。ここは飲食店の裏口で生ゴミでも捨ててあるのだろうか。実際、それで正解で間違いないような場所だった。薄暗く狭い路地には更に道を狭めるように大きなゴミ箱らしき汚いコンテナが置かれ、足下には黄色く変色した菜っ葉の切れ端や魚の首が落ちていた。建物と建物のほんの僅かな隙間から顔を覗かせていた野良猫が映姫の存在に気がつき、鳴声も上げずに引っ込んでいった。普段でもすえた臭いに支配されている場所であることは容易に想像が付く。だが、それにしても異様な匂いだ。店内の側溝でも浚って出たゴミが捨てられているのだろうか。
「…アレは?」
 どうやらそうではないらしい。匂いの元を探すようもう少しだけ足を進めた映姫は路地裏のどんづまりに人影を見つけた。明らかにここ数年は開けられていないであろう扉の下の踏み石に腰掛け俯いている人物を。
 何処かで見たことがあるような人物だった。分厚いコートを羽織り頭もフードですっぽりと被っている。女性らしきシルエット。暫く考えてああ、と映姫は合点がいった。守矢神社で会ったあの三重苦の女性だ。
「もし。大丈夫ですか?」
 こんな所でなにをしているのだろうか。気になった映姫はそう声をかけたが、すぐにそれでは駄目だと悟った。この人は耳が聞こえず目も見えないのだ。声をかけても映姫に気がつくはずがない。だったら、と映姫はコート姿の女性に近づいていった。匂いはもう、鼻が麻痺してしまったのか気にならなくなっていた。
「どうかなさったのですか」
 映姫はコート姿の肩を軽く叩きつつそう大きめに声をかけた。彼女の聾の具合がどの程度なのかは分らないが触れられたのなら気がつくだろう。案の定、コート姿の女性は僅かに顔を持ち上げ映姫の方を向いてきた。
「ちょっと、すいません」
 一言断わりを入れてコート姿の女性の手を取る。彼女は特に抵抗もなく映姫にされるがままだった。手の平を上に向けさせる映姫。ひび割れ僅かに血が滲んでいるほどコート姿の手の平は荒れていた。皮膚病も患っているのだろうか。これは気をつけないと痛いかも知れませんね、と映姫は心の中で思う。だが、放っておくことも出来ない。映姫は人差し指を立てるとその指でコート姿の女性の手の平をなぞりゆっくりと字を書き始めた。
(だ・い・じ・よ・う・ぶ・?)
 映姫は以前、盲目聾唖の人とはそういう風にコミュニケーションを取るのだと聞きかじった事を思い出したのだ。女性には確かにその方法で意思を伝えられたのか、こくりと小さく頭を下げた。
(ま・よ・つ・た・の・で・す・か・?)
 目も見えず耳も聞こえないこの人がこんな場所にいる理由なんてそれぐらいしかないと映姫は考えた。恐らく間違ってこの細く障害物の多い路地裏に入り込み、出られなくなってしまったのだろう。映姫の考え通りだったのかまたコート姿の女性は頷いてくれた。
(た・て・ま・す・か・?)
 手の平に続けてそう書く。頷く女性。映姫はそのまま彼女の手を取ると立ち上がりやすいよう力を込めた。
「あれ――?」
 立ち上がった女性に映姫は僅かに違和感を憶えた。なんだろう、と彼女の手を取ったまま考え込む。
 と、
「ああ、すいません」
 立ち上がらせるだけ立ち上がらせて何もしない事に不安を覚えたのか、三重苦の女性はぎゅっと映姫の手を握ってきた。慌てて映姫は手の平を上向かせると(つ・い・て・き・て)と女性に伝えた。
 女性が理解してくれたのを確認して映姫は彼女の手を引いてゆっくりと歩き始めた。
 路地は案の定狭く、盲目の女性を連れて歩くのは一苦労だった。女性は映姫よりも頭二つ分ほど背丈が大きく、自分との身体のサイズの違いも彼女を誘導するのに苦労する要因であった。それでも映姫は自分自身は膝にゴミ箱をぶつけたり、袋から漏れ出した生ゴミを踏みつけたりしながらも女性を安全に路地裏から導き出すことに成功した。
「ふぅー、ここまで来れば一応、安心ですね」
「アリガと、う」
 狭苦しい路地裏から脱出し、新鮮な空気を胸一杯に吸う映姫。遅れて三重苦の女性は眩しそうに腕で顔を覆いながら出てくると映姫の隣に並び、軽く頭を下げた。
「ついでなのでお住まいのところまでお送り…あれ?」
 家まで送ろう。そう提案しようとした所でまた違和感。いや、今度のはもっと明白だ。すぐに映姫はそれに気がついた。だが、言葉にするより先にコート姿は動いていた。自分の方から手を離し、家まで案内しなくてもいいと言うように首を振った。そうして映姫とすれ違うよう自らの足で歩き始める。その瞬間、
「おレイに――コロさな、い」
 酷く、そう酷く聞き取りにくい声ではあったがそう確かに映姫に耳打ちした。
「ッ―――。」
 さしもの映姫も身体を震わせ思わず己の肩を抱きしめる。脊髄に氷柱を突き刺されたような猛烈な悪寒に襲われる。
「この感覚…この感覚ッ」
 それに映姫は憶えがあった。この冥府の最高裁判官を震わせるおぞましいほどの絶意に。百年に一度程度の割合で開かれる限界態勢下の特殊裁判。荒くれ者の獄卒たちでさえ背筋を伸ばし、閻魔たちが嫌な汗をひっきりなしにかかざるえないあの法定の場で憶えた絶意。そこに被告として立たされるのは特級の罪人。百年に一人の…
「貴女はッ!!」
 映姫は恐怖で凍り付いていた身体をただの理性だけで動かした。同時に鼻をつく鉄の冷たさと喪われゆく温かさに満ちた匂い。猛烈な血の臭い。次いで視認した光景に再び映姫は全身を凍らせた。
「……“人でなしの地図”?」
 映姫が目にしたものは悪夢が具現化したようなものだった。縦幅は道一杯、横幅は一区画分。そこに老若男女人妖を問わず何十人という人が産まれたままの姿に、そうして、棺桶に入る直前の格好に並べられているのだ。椅子に座るよう膝を折り手を伸ばした男の間に女性が。頭足頭と交互に川の字になるよう並べられた子供。大の字に広げられた手足と首の間に胎児のように丸まった形で収まっている人狼羊頭獅子面。ピッタリと隙間なく多数の人々が路上にパズルよろしく並べられている。その全てが心臓や頸動脈、眉間、急所を切り裂かれ絶命していた。不毛の大地を思わせる恐ろしい光景。
 うあ、と映姫は嗚咽を漏らし、その場に膝をついた。
「これが描けるって事はテキサスチェーンソウや八ッ墓村の彼らと一緒と言うことですか…」
 臓腑を鷲掴みに捻り上げられたように苦悶に満ちた表情をする映姫。それは彼女が稀代の大量殺人犯の魂を裁いたときにも浮かべる表情と同一であった。
「………」
 愕然と、その場で動けずにいる映姫。その耳に悲鳴のようなものが聞こえたのは一体、どれほどの時間が流れてからだったのだろうか。一分? 一刻? 兎に角、その声に反応しやっと映姫は金縛りを解くことが出来た。緩慢な動きで声の方に顔を向ける映姫。そこに立っていたのは市中を見回っている自警団の面々だった。まさか、巷を騒がせている怪異の現場に出くわすとは思っていなかったのか、三人組のうちの二人は顔面を蒼白に。残り一人は一拍を置いてその場に堪えることすら出来ず嘔吐し始めた。
「なんだ…これは…」
 自警団も映姫と同じく恐ろしい光景に自我亡失も当然の状態に陥っていた。それでも三人の中央に立っていた青年は自分も我を忘れるわけにはいかないと自警団としての責務を果たすつもりなのか辛うじて自我を保っているようだった。僅かに一歩踏み込み、映姫を指さす。
「これは…これは…」
 喉の奥から絞り出すよう発せられる声。
「これはお前がやったのか?」
 ちがう、と言いたかったが映姫の喉からは掠れた声しか出なかった。


◆◇◆


「捕まったって…どういうことです!?」
「どうもこうも…そのまんまの意味でさ」
 ほとんど詰め寄るような勢いで文は店員に問いかける。たじろぐようにお盆を抱えたまま後ろに一歩引き下がる店員。
「三つ向こうの通りでまた事件があったってそうで…詳しくは知らないけど、そこでとっ捕まったって話でさ」
「………」
 先ほど、この茶屋で飲んでいた青年が仲間から話を聞き急いで出ていったのはその事件…異変の現場を野次馬根性で見に行くためだったのだろうか。店員もそんな風にして異変の話を断片的に客や通りすがりから聞いただけのようだ。詳しく知りたいのなら異変現場に行くしかない。
 文は適当に礼を言うと踵を返し走り始めた。ちょっと、と後ろから文を止める声がかかるが足は止まらない。無視したわけではなく、既に文の耳には届かなくなっていたからだ。
「店に来たんだったら団子の一本ぐらい食べていきなよ! まったく!」
 店員の怒鳴り語から逃げるよう、文は疾走する。


 異変現場の詳しい位置は聞いていなかったがそれはすぐに何処だか分かった。黒山の人だかりができていたからである。人々の喧騒に乗って僅かに血の匂いも漂ってきた。そうして…
「アンタっ! アンタっ!!」
「畜生、なんだってこんな子供が…」
「兄貴ィ、何処だよ! い、いないよな、オイ!」
 その中には怨嗟の声も混じっていた。集まっている人たちは怖いもの見たさの野次馬ばかりではなく、被害者の知人親族、いなくなってしまった人をもしやと探しに来ている者もいるようだ。
「すいませんっ…通して下さい」
 現場は人の山に隠れよく見えなかった。人々をかき分け現場に近づく文。異変現場は等間隔に杭が打たれ道を横断するようにロープが張られていたがそれだけでは押し合い圧し合いしている人々を防ぎ切ることができないのか自衛団の面々が両手を広げ押し止めようとしていた。その向こうに広がっていたのは悪夢のような光景だった。
「………ッ」
 絶句する文。
 異変の現場は知恵を持つものがどれだけ想像しても及ぶことができないほど醜悪で残酷なものだった。無造作に裸の状態で並べられた人々。硬直した身体がぴったりと収まるようにパズルのように並べられている。一見すれば趣味の悪い前衛芸術作品のようだ。だが、そうでないことは腹部から溢れる赤黒い血やどんよりと淀みもう何も映さなくなった瞳、廃井戸の様にぽっかりと空いた口が物語っている。
「ッ、クソ…!」
 現場保持よりも兎に角、この狂気の沙汰たる光景を潰してしまおうとしているのか、既に端の方に置かれていた亡骸は青竹の間に布を張って作った簡易担架に乗せられ、更に大きな荷車に積まれ何処かに運ばれて行っているようだった。だが、亡骸は前述のとおり石垣の様にしっかりと組まれており一人分の亡骸につき大の男がニ、三人がかりで取り組まないと動かせない有様だった。
「もう少し置いておいて死体が柔らかくなってから運んだほうがいいんじゃないのか…?」
 死体を運び出している自警団の一人がそう額の汗も拭おうとせず、悪態をつく様言い捨てた。すぐに一緒に働いていた同僚が非難するような目を向ける。
「お前がこの中にいるとして死後硬直が解けるまでこんな風に見世物にされたいと思うか?」
「前言撤回だ」
 それだけ言うと二人はまた黙しながら作業にへと戻った。異様な緊張感に満ちた作業を無言で続けられるほど男の精神はタフではなかったのだ。それは別にこの男に限った話というわけではなく、他の自警団の面子の口からも時折、思い出したかのように悪態や嗚咽、不謹慎とさえ思えるようなブラックジョークが飛び出していた。作業が辛い、辛すぎるからだろう。隊長格も黙って仕事をしろと怒声を飛ばすが声には張りがなかった。黙々と作業を続けることは不可能だということぐらいわかっているからだろう。
「そんな、そんなXXXちゃん!」
 人ごみの中から一際、悲痛そうな幼子の声が聞こえてきた。はっ、と文はそちらに視線を向けると妖精の少女がロープから身を乗り出し必死に腕を伸ばしながら大粒の涙を流しているのが見えた。その視線の先には同じような年格好の人間の子供が、けれど、こちらは悪い寝相の様に奇妙な姿勢のままピクリとも動かないでいる。あの泣いている妖精の友人だろう。親友の変わり果てた姿にただただ妖精は涙を流すしかなかったのだ。
「さっきまで…一緒に…遊んでたのに…どうして…」
「……」
 聞けば誰しもが胸を押さえ、世の不条理に憤るような悲痛な叫び。けれど、文の冷静な部分は妖精の言葉に何処か違和感を覚えた。
「“死後硬直”、“さっきまで遊んでいた”そう言えばはたてが前言ってたわね」
 自警団と妖精、それにライバルがかつて自分に話した言葉を思い出す文。
『死後硬直ってのはね人間が死んでから何時間か経ってから起こる現象なの。で、それを使ったトリックが…ってちょっと文、聞いてるの?』
 死体が完全に硬直するのにかかる時間を文は知らない。だが、それでもさっきまで一緒に遊んでいた少年の身体が今現在、既に硬直しきっているというのはおかしい話だ。実際、かの武蔵坊弁慶のように激しい運動の後に急死した場合はすぐに死後硬直を始めるそうだが少年がそこまで激しい運動をしていたとは考えにくい。加え、これほどの人数の死体を同時に硬直するよう時間調節し解ける前にパズルのように並べるというのは一体、どんな人智を超えた計算のもと行われているのだろうか。知れば知るほど、寒気が止まらない異変だ。
 けれど、それも茶屋で聞いた話が真実ならばこれで終わりの筈だ。
「あのっ! すいません!」
「あ?」
 文は野次馬の声に負けないよう、大きな声で防波堤がわりになっている自警団の青年に声をかけた。知っている顔だった。普段は川や湖で魚を捕って魚屋や飲食店に卸すことを仕事にしている青年で、何度か取材したことがあった。
 向こうもそれを憶えていたようで、ああ、天狗の姉ちゃん、と少しだけ顔をほころばせ応えてくれた。
「異変の…事件の犯人は捕まったと聞いたのですが!」
「ああ、犯人っていうか容疑者だけど。そこで一人、生きたまんま立ってたらしい。重要参考人だってさ」
 彼の口が軽いことは取材の経験から分っていた。聞けば何か重要なことを話してくれると文が踏んだ通り、そう犯人について話してくれる青年。
「どんな人だったんでしょうか?」
 会話の勢いのまま質問を続ける。有効な取材方法の一つ。けれど、今回はどちらかと言えば取材ではなく興味本位に近かった。いや…
「ああ、それが女だ」
「女性…?」
 文はどこか胸騒ぎを憶えていたのだ。天狗としての第六感が文にもっと詳しく青年から話を聞けと告げてくる。青年の方は文の必死さに気がついていないのか、いつもの取材と同じようなものだと思い受け答えしているようだ。
「まさかの、な。こんなことをしでかすんだから身の丈2m近いバケモンみたいな大男だと思ってたんだが…違ったらしい」
「それで、その女性というのはどんな…!」
 はやる気持ちを抑え、それでも押さえきれずロープから身を乗り出して尋ねる。文の態度に一瞬、青年は面食らったように瞳を丸くしたがすぐに説明を続けてくれた。
「小柄な、緑髪の女だったそうだ」
「緑髪…」
 脳裏によぎるここ数日ずっと見てきた顔。文より頭二つ分は小さな背丈。菖蒲の若葉を想わせる髪。まさか、まさか、と文は首を締付けられるような想いに捕らわれる。
「ここ数日、見慣れない奴だってあちこちで目撃されてたらしい。俺の考えじゃ…アレは黒だな」
 得意げに語る青年。けれど、文は礼もなく踵を返していた。近づいた時同様、人ごみをかき分け現場から離れていく。
「黒なはずがない。だって、だって、ずっと一緒にいたのに…!」
 異変現場に集ってくる人の流れに逆らい走る文。人と人の隙間を縫い、疾走する。向かう先は、自警団の詰め所。
「クソっ、番号、聞いておけばよかった…!」
 昼前の自分の行動を呪う。あの時は執拗に異変についての記事を書けと迫るはたてに苛立ち、そこまで気が回っていなかったのだ。けれど、過去を悔やんだところで何かが発展するわけでもない。畜生、と悪態をつき文は更に急ぐ。
「スイマセンっ!」
 詰め所は現場同様、ものものしい雰囲気に包まれていた。長丁場になることが分っているのか女たちが炊き出しを行い、自警団幹部たちが膝を突き合わせ小さな机で向かい合いながら今後の方策を練っているようだった。伝令係の若いのがひっきりなしに入れ替わり立ち替わり詰め所にやってきては経過を報告、新しい命令を聞いて持ち場にへと戻って行っている。そこへ文はやってきた。
「アンタは?」
 髭を短く刈り揃えた強面の初老の男が問いかけてきた。柔術道場の師範で自警団の団長もやっている男だ。ここまで走ってきたせいで上がった息を調えつつ文はああ、と嘆息を漏らした。
「すいません。文々。新聞です」
 言って鞄から腕章を取り出しそれを見せる。団長の眉間の皺が更に深くなった。
「ブン屋か」
 この忙しいときに、そう口には出さなかったが顔にはあからさまに現れていた。適当な理由をつけて帰ってもらおう、そう言おうと団長は口を開こうとする。
 と、その団長に隣の席に座っていた眼鏡の小太りの男が耳打ちした。彼は自警団の患部の一人、参謀役だ。
「団長、下手に追い返さない方が宜しいかと。ここで記者を追い返して有ること無いこと記事に書かれるのは混乱の元です。それに事件は解決したんだという記事を新聞にしてもらった方が市民も早く安心するのでは。小生はそう愚考しますが」
 文の耳には聞こえなかったがおおよそ参謀は団長にそう提言した。団長としては仕事の邪魔をする記者など早く帰って欲しい処ではあったが参謀の言うことも一理ある。市民のためです、という言が効いたのか団長は渋い顔で頷いた。
「で、なんだブン屋さん」
「あのですね…えっと……捕まえた容疑者を見せてもらいたいのですが」
 団長の態度に臆せずそう尋ねる文。十中八九、それは誤認逮捕であることを文は確信していた。すぐにでもその人は犯人ではありませんと訴えでたかったが、万が一捕まえた容疑者が文の考えている人物とはという可能性もある。兎に角、顔を見てからでないと事態がややこしくなると思ったのだ。
 だが、団長はすぐには応えず一度、参謀と顔を見合わせた。アイコンタクト。それだけで二人は意思の疎通を図ったようだ。団長は文に再び向き直り、机の上に肘をついて手を組んだ。次いでソイツなら、と口を開く。
「ここにはいない。…別所に移した」
 予期していない応えではあったが思いがけぬと言うほどでもなかった。負けじと文は机に手をついて殆ど睨み付けているようなきつい視線を団長に向けた。
「移した? それはどういう事です?」
「どうもこうもない。事件が事件だから安全かつ確実に自供させるため場所を移したのだ」
「それは…何処です?」
 無意味だと思いつつ文は尋ねる。先程から団長は移送先の名を意図的に口にしていない節が見られたからだ。
「悪いがそいつは言えない。他のことなら兎も角、こと下手人に直接関係することだからな。もし、アレに仲間がいて…俺の考えだと確実にいるが、その仲間にアンタから下手人の居場所が伝わるとも限らないからな」
「…ははん、成る程。確かにそうですね」
 頷く文。だが、とても殊勝とは言い難い態度だった。
「他に聞きたいことはあるか? なければそろそろ帰ってもらいたいのだが、我々も忙しいのでね」
「…一応、もう一つだけ。その容疑者というのは緑色の髪をした小柄な女性だとお伺いしたのですが本当ですか」
 その質問に団長は僅かに眉尻を下げた。参謀役の表情などはもっとあからさまだった。どうして知っている? そう、口にするよりも雄弁に語っていた。
「誰から聞いたんだ、そんな話」
「情報提供者の身元を保護するため、黙秘権を行使します」
 舌打ち。団長は机から身を離すと詰め所の入り口付近に向かって怒鳴り声を上げた。
「下手人についてのことは一切漏らすなって皆に言っておけ! クソが。余計なことを言うんじゃねぇよ」
 窓ガラスを震わせるような大きな怒鳴り声だった。入り口付近に立っていた自警団の若い衆は自分が怒られたかのように萎縮しながら鼠のように駆けだしていった。
「それで、どうなんです?」
 脱兎の如く走り去っていった若い衆とは逆に怖気もせず更に問を重ねる文。あぁ、とあからさまに不機嫌そうな声を団長は上げたが、文のまっすぐ自分を睨み付けてくる目とその態度に怒鳴った程度では逃げ出さぬと悟ったのか、また小さく舌打ちした。
「そうだよ。ありゃ、人間じゃねぇな。普通の妖怪でもなさそうだ。手前のこと“閻魔”だなんて言ってやがったが、閻魔って言えば赤い顔した強面だろ。嘘をつくなら女学生とでも言っておいた方がまだ真実みがあったぜ」
「嘘じゃないですよ」
「あ?」
 団長の何か言ったかという言葉を無視し文は肩を怒らせながら詰め所から出て行く。
「あの人は嘘なんかつきませんよ。つけないんですから」
 険も露わに足早に進む文を止める者はいなかった。止める理由もなかったが。
「…映姫さま」
 呟きは、喧噪に飲まれ消えていった。


◆◇◆


「お前がやったんだろうが!」
「いいえ、やってません」
 薄暗く冷たい部屋だった。壁は打ちっ放しのコンクリートにぞんざいにクリーム色のペンキが塗られているだけで窓はなく、天上からは埃がうっすらと積もった小さな傘が乗っているだけの電球がぶら下がっており、それだけが部屋の光源だった。調度品は古びた、けれど頑丈そうな机だけで映姫はそこに座らされていた。対面には右眉の上から頬骨のあたりまで一直線に走る傷跡がある男が身を乗り出す様に座っており、その傍らには髪を短く刈り揃えた若い男が。入り口付近には背の低い骨ばった初老の男が壁にもたれかかりながら立っていた。
「しらばっくれるな!」
 傷跡が強く机を叩いた。ドシン、という大きな音。驚いたように机が跳ねる。元よりこういう使い方のために頑丈な机が置かれているのだろう。位置がずれてしまった机を一瞥した後、映姫は対面に座っていた男に視線を戻した。
「あの場所にはお前以外、生きてる奴なんざいなかった。その理由が手前が犯人だってこと以外に何か説明できるのか?」
 ああ、と傷跡はよく息が続くなと思えるほどの大声を張り上げた。案の定、話し終えた後は全力疾走したかのように荒い息をついており、顔は耳まで火で炙られたかのように真っ赤になっていた。
「ですから、何度も説明しているじゃないですか。私はあの時、身体が不自由な方を案内していたと…いえ、どうもその方は不自由ではなかったようなのですが、兎に角、その方と別れた後、気がついたら回りがあのようなことになっていたと」
「お前、それでハイそうですかと自分でも納得できるのか? 少なくとも俺は意味がわからんね」
 そう言ったのは傷跡の傍らに立っていた短髪だ。短髪の言葉にそれは…と口ごもる映姫。確かに、自分の今の説明は支離滅裂だ。嘘だと言われても仕方がない内容をしている。だが、それが事実だった。
 あの第三の殺人異変が発生した後、映姫は自警団の面々に拘束されてしまった。その場で何度も弁明したが聞き入れられてもらえずこの場所にまで連れてこられたのだった。わざわざ場所を変えたのだから少しは話しが分かる人物が応対に出てくれると映姫は思ったのだが、どうやら甘かったらしい。薄暗く狭く寒いこの部屋に押し込められた映姫はそのまま質問…いや、尋問攻めにあっていたのだ。
「お嬢さん…アンタが自分の事を犯人じゃない無関係だと言いはるのは結構じゃが、自分の無実を証明したいのならきちんとワシらに説明してくれんかの。そもそもお前さん、ここいらじゃ見ない顔だがいったい、何処の誰かね」
 今度は老人だ。老人の言葉は他二人に比べれば温和にさえ聞こえるトーンの低いものだったがそれでも映姫はうんざりとした顔をした。既に老人からは何度も同じ事を聞かれているからだ。
「ですから、私は是非曲直庁に務める閻魔で休暇中だったので幻想郷に観光に来ていたのです」
 老人のそれはいつから、という質問に先んじ三日前から、と口にする映姫。この答えも既に三度目だ。
「観光だァ? こんな寂れたところにか? 本当は人殺しにやってきたんじゃないのか?」
「そんなわけないでしょう!」
 傷跡の物言いにさしもの映姫も目くじらを立てる。もっとも傷跡や短髪の怒りに比べればどうということはない感情の変化だったが。
 実際のところ、映姫はあらぬ罪の疑いをかけられているだけだとある意味でタカをくくっているだけだが、傷跡たちの場合はそうはいかなかった。傷跡たち自警団は何が何でも映姫が犯人であると決定づけたい、或いは決め付けたい理由があるのだ。言わずもがな、事件の早期解決のためだ。ここで映姫が犯人でないとすればまた捜査は振り出しに戻る。ここ数十年、平和で異変らしい異変なんて発生して来なかった幻想郷。異変の解決役たる巫女は存ぜず、それ類する者も不在。市中にいる警察機構はせいぜい盗人や喧嘩していた酔っぱらいをしょっぴく程度の事しかしたことがないのだ。捜査らしい捜査の音頭など誰も取れず科学的実地的調査の仕方もだれも知らないのが現状。ここで捜査が振り出しに戻るということはもはや彼らにとって八方塞がりにも等しい状況なのだ。
 もしそうなれば市民の不安は不満へと変わりそれが向けられる先は自警団の面々であるのは明白だった。『早く解決しろ』『能無しめ』『巫女の代わりも出来んのか』この状況、ある意味で異変の解決を一番望んでいるのは自警団たちなのだ。だからこそ彼らは映姫が犯人である、犯人でないと困ると執拗に尋問を繰り返しているのだ。
「くっ…」
 映姫も普段は罪人の魂を裁く立場からか自警団の考えについては薄々理解が及んでいた。だが、同時に確かに自分は自分の無実を証明する術を持ち合わせないことも理解していた。おそらく、閻魔と名乗っていることも嘘だと思われているに違いない。他の言も怪しまれている。その理由は何よりあの異変現場で自分だけが生き残っていた理由を説明できないからだ。だが、無理もない話だ。映姫自身がどうして自分は殺されなかったのかあまり理解できていないのだ。あの時、助けた三重苦の女性に『コロさない』と言われたことは覚えている。ならば彼女が真犯人だということも想像がつく。だが、その事を傷跡に話してもあの現場にいた自警団団員はお前以外誰も見ていないと突っぱねられた。まだ、彼らのところには届いていない情報だが実際、事件発覚後目撃された怪しい人物は映姫以外いなかったのだ。
 加え、映姫自身あの瞬間、何が起こったのか理解できずまったく説明不能になってしまっている。路地裏から出てきた瞬間のことを鮮明に覚えているわけではないが、あの時大通りは至って普通の状況だったはずだと映姫は思う。あんな道いっぱいに悪夢みたいな光景が広がっていれば誰でも気がつくはずだからだ。だが、実際は映姫があの三重苦の女性を連れて出てきたときは別段、気に止めるような出来事は起きていなかった。その筈だ。三重苦の女性を家まで送ろうとして断られ、そうして次の瞬間には既にあの惨状が広がっていたのだ。
 そんな人知を超えた出来事をいくら説明したとして自警団の面々が理解できるはずもない。体験した映姫さえ理解できないのだから。
 どうすれば、と映姫は半ば罵倒じみた質問攻めにあいながらも考える。映姫は幻想郷ではよそ者だ。圧倒的に立場が不利だ。何を言った所で彼らに信じてもらうのは難しいことぐらいわかっている。弁が立つからこそこの場があまりに映姫にとって不利で口を閉じざるえないとわかっているのだ。
 せめて自分の身元を証明できれば、と眉をしかめる映姫。だが、身分証明書など持ち合わせていない。その様なものを是非曲直庁が発行していないわけではないが、それを使うのは異教の冥府や地獄に研修や視察に行く時だけだ。よもや旅行先で自分の身分を証明しなければならないとは思いもよらぬのは当たり前のことだ。
 なにか、なにかないか、と頭を捻っている処で、
「あ、そうだ。そうです!」
「あん?」
 映姫は自分の身分を証明し、更に二度目の異変の際のアリバイも証言してくれる人物がいることを思い出したのだ。
「文を…妖怪の山に住む烏天狗、新聞記者の射命丸文を呼んで下さい」
 傷跡がなにか言っていたようだがそれを遮り椅子から立ち上がってそう自警団団員に求める映姫。
「妖怪の山の…新聞記者…?」
 傷跡が怪訝そうな顔をした。はい、と応える映姫。
「文なら私が言っていることが本当だと証明してくれるはずです。お願いです、彼女をここに」
 毅然とした態度で告げる映姫。一瞬、たじろいたのは傷跡の方だった。
「な、何言ってやがる、そんなこと出来るわけねぇだろ」
「どうしてです? 私には貴方が文を呼んでくれないまっとうな理由なんて持ちあわせているようには思えませんが」
「ッ!」
 それは事実だ。実際の所、傷跡は自覚していないだろうが映姫の言う通りなのだ。呼べばこの犯人を逃してしまう。半ば無自覚に傷跡はそう判断しできないと突っぱねたのだ。
「彼女を呼んでください。お願いします」
 これで何とか無実を証明できると傷跡を急かす映姫。煮え湯でも飲まされたかのように傷跡の顔が歪んだ。一瞬で攻守を逆転され、更に劣勢に追い込まれたようなものだ。元より口論で説教を趣味にしている映姫に勝てるはずがないのだ。犯罪者扱いされそれを覆す証拠も弁護人もいないという圧倒的不利な状況だったからこそ映姫が言いくるめられていただけで光明が見いだせた今、立場は逆転している。肩を震わせ、腕が真っ赤に成る程、傷跡は拳を握りしめていた。
「さぁ、はやく文を呼んで…」
「だっ、黙れ!!」
 怒声。遅れて打撃音。ただ、後者の音を映姫は聞いていなかった。頬に受けた強烈な衝撃に一瞬、意識が飛んだからだ。
「なっ…!」
 驚きに目を見開く映姫。目の前に座っていたはずの傷跡はいつの間にか立ち上がり握り拳を震わせていた。一体、何が起こったのか。違和感を憶える右の頬に触れた瞬間、思い出したかのように激痛が走ったことで映姫は自分が殴られたのだと気がついた。
「はっ、犯罪者の癖に命令するんじゃねぇ!」
「ちょ…貴方ッ!」
 机越しに傷跡の腕が伸びてくる。映姫は逃げようと下がるが椅子の背もたれが邪魔をした。胸ぐらをつかまれ、無理矢理に引き寄せられる映姫の身体。
「手前はいいから黙ってホントのことを言えばいいんだッ!!」
 そのまま平手打ちを喰らう。殴られた方向に映姫の身体は倒れようとするが服が破けるほど強く握った男の手がそれを邪魔した。
「この巫山戯んじゃねぇぞ! この! この! 畜生が!」
「や、やめ…」
 返す刃で更に殴打を見舞われる。痛みに瞳に涙が、口の中に血の味が溢れる。
「ぼっ…暴力はいけません…」
「あぁ!?」
 殴られながらも涙目で抗議する映姫。それが更に傷跡の気分を逆撫でしたのか、黙れという言葉と共に何度も殴打が飛んできた。
「何十人も殺しておいて暴力はいけませんだァ!? 手前ェ何様だ!」
 傷跡は胸ぐらを両手で掴むと映姫の身体を床に引き倒した。怒り肩で映姫に近づこうとする傷跡。その瞬間、同僚の激高にあっけにとられていた短髪がはっ、と我を取り戻した。
「ちょ、ちょっと重蔵サン、やり過ぎじゃ…」
 鬼の形相で暴走する同僚を止めようとする短髪。と、それを、
「待て」
 更に老人が止めた。振り返り、泣きそうな顔でどうしてと短髪は老人に訴えかけた。
「ご隠居っ!」
「いいから、やらせておけ」
「っ」
 老人の小さくけれど鋭い命令の声に言葉を詰らせる短髪。どうやらここでの立場は彼が一番下らしい。逆に老人はここの班長役をやっているのだろう。短髪は不服そうではあったが老人の言葉に従うしかないのだ。
 そんな二人のやりとりもまったく意に介さず傷跡はボールでもそうするよう倒れた映姫を蹴りつけ始めていた。
「テメェ巫山戯んじゃねぇぞテメェ、この、テメェ」
 自分よりも二回りも三回りも小さい映姫の身体に足蹴を加える傷跡。興奮しすぎているのか呂律が怪しく、目は悪鬼のように血走っていた。口から唾を飛ばしつつ悪態をつき、衝動に突き動かされるまま暴力を振う。
「ッ…止め…ぐふっ、うぐっ…!」
 映姫はされるがままだ。いや、抵抗など出来るはずがない。普段は強力な力を扱える彼女だが、それは閻魔としての役目に置いてだけだ。休暇に当たって過剰に現世に影響を与えないためと映姫は権限と共に閻魔としての力の殆どを封じて幻想郷にやって来たのだ。今の映姫は見た目と同じ程度の力しか持ち合わせていない。人間の女性と同じ程度の。屈強な男の暴力の前には身体を丸めただただ耐えるしか出来ない程度の力しか。
「チッ、何防御してんだァ、アァ!!」
 適当に足を振っても折り曲げた映姫の腕や脛にしか当たらないと分ったのか傷跡は身を折ると映姫の腕を取った。何度も蹴りつけられ骨の芯まで痺れた腕は若木の枝よりもすんなりと曲った。そのまま映姫の身体を仰向けに倒し、馬乗りになる傷跡。
「オラッ、オラッ、オラッ、何とか言えよ、オラッ!」
 その体勢から映姫の顔面を殴り始める。執拗に。陰湿に。過激に。いつの間にか傷跡の顔には笑みが浮かんでいた。元来のサディスト気質がここで目覚めてしまったのか。連続して起った凄惨な事件も彼の精神状態に影響を及ぼしていたのかも知れない。兎に角、暴走の果てに傷跡は映姫をいたぶることに快感を覚え始めた様だ。
 右頬。左目。鼻っ面。出鱈目に腕を振い握り拳が痛くなったと思うや否や今度は胸ぐらを掴んで映姫の頬を何度も往復しながら平手打ちする。既に映姫の顔は赤く腫れ上がり口端からは血が滴り、左の目などは腫れ上がって目蓋が開けないほどになっていた。
「あぁ、どうだ? これでお前は悪者、犯罪者、異変を起こした悪い妖怪だって事が分ったか?」
 無理矢理映姫の身体を起こす傷跡。肩で息をし顔には狂気の笑みを張り付けている。
 と、
「……たの…う……」
「あ?」
 映姫が裂けた唇を小さく動かし何事かを呟いているようだった。映姫の身体を引き寄せ耳を澄ませる傷跡。
「悪者は貴方だ…こんな事をしていると、地獄に堕ちますよ…」
「カーッ!!」
 今度こそ心の底から傷跡は激怒した。胸ぐらを掴んでいた手を離すとそのまま傷跡は映姫の身体を床に叩きつけ、鉤のようにひん曲げた指を喉元に突き付け首を締め上げた。そうして、
「ぶっ、ぶっ、ぶっ殺してやる!!」
 強烈な努気から殺気を生じさせ、空いた手を大きく振り上げた。そんな一撃が振り下ろされれば確かに映姫の脳に多大なダメージを与え最悪の場合、死に至ることだろう。うぉぉぉ、と野獣じみた唸り声を上げ傷跡が己の拳を振り下ろさんとする。その瞬間、
「そこまで」
 横から伸びてきた骨ばった手が傷跡の豪腕を掴むとまるで花でも摘むような軽い動作で捻り上げてしまった。
「ぐぎっ、誰だ……ご、ご隠居…ッ?」
 自分の腕を捻り上げた不届き者は誰だと言わんばかりに首を後ろに回し睨み付ける傷跡。そこにいたのはあの老人だった。途端、傷跡は頭を満たしていた怒りも何処へやら、急に恐ろしいものでも見たように顔を青ざめさせる。
「終わりにせい。ホントに死んじまうぞこの娘」
 言われ、はっと気がつく傷跡。自分の股の下で映姫は確かに虫の息寸前の有様だった。痙攣するように身体を小刻みに震わせている。その様子を見て老人は傷跡の腕を解放してやり次いで退けい、と命令した。逃げるように映姫の身体の上から退ける傷跡。
「おい、お嬢ちゃん。分ったか。こっちはもうとっくにお前さんの生殺与奪を握ってんだ」
 入れ替わるように老人は映姫に近づき、耳元にそう話しかけた。老人が傷跡の暴走を止めなかったのはこのためだ。暴力による自白の強制、つまりは拷問。このままでは埒があかぬと踏んだ老人はそんな強硬手段にでたのだ。
「分ったんならいい加減、ホントの事を…」
 ただ、言葉は最後まで続かなかった。途中で言うのを止めると老人は映姫の顔に手をやり軽く二、三度、その頬を叩いた。反応は返ってこなかった。一瞬だけ小首をかしげると今度は枯れ木のような手を広げそれを映姫の鼻先に持っていった。干上がった沼地の様にひび割れた手の平に僅かに吐息の触れる感覚。
「チッ…今日は駄目か。おい、こいつを牢に入れておけ。ただし、女だからって気ぃ抜くなよ。百人近く殺してんだからなコイツは」
 ウッス、と頷く自警団員二人。傷跡は捻り上げられた腕を庇いながらも短髪と協力して気絶してしまった映姫を室外へと運び始めた。
「――ブン屋なんて呼んだら、新聞に一体何を書かれるか分らん。なし崩し的に釈放なんて話になったら目も当てられん。これが最善策か?」
 運ばれていく映姫を見ながら老人は独白した。


◆◇◆


「ッ…」
 転がされていた床の冷たさを憶え、映姫は目覚めた。息を吸い込もうと口を開こうとすると唇が糊づけされたように張り付いていた。血が乾いてにかわのようになっていたのだ。指先で触れると唇が酷く痛んだ。鏡を見ないと分らないが腫れているようだ。唇だけではない。左の目はうっすらとしか開けることが出来ないし、身体のあちらこちらは動くだけで思わず唸り声を上げてしまうほど打撲や擦過傷を負っていた。
 あの後も映姫は拷問じみた尋問を受けた。暴力を与えられ、やってもいない罪の自白を強要された。だが、映姫は屈しなかった。元より屈すると言うことは嘘をつくと言うこと。映姫の行動原理にそんなものはなかった。
 しかし、自警団の尋問担当はそんな映姫の態度が気にくわないようで暴力はより過剰に、強要は苛烈に、映姫の心身を痛めつけた。いや、映姫の行動が気に食わなかっただけではない。自警団も怖れを抱き、その裏返しで映姫を過剰に傷めつけていたのだ。もし、映姫が犯人でないとするなら、自分たちが非難されることは元より、まだ殺戮は続くのだと。更に人は死ぬのだ、と。それは自分に近しい人物かもしれないし、自分の愛する人かもしれない。或いは自分自身。その恐怖を抱え、彼らは攻撃的になってしまったのだ。
「……」
 映姫もその点は理解していた。むしろ、閻魔たる映姫だからこそ理解しえたのかもしれない。自警団たちの苦悩は分かる。だが、かと言って自警団が強要する通り自分が犯人ですと名乗りでるわけにはいかず、けれど、他に打開案もなく映姫は黙って苛烈な尋問と拷問に耐えるしかなかったのだ。
「……私が捕まっている今、もう一度、異変が発生すれば疑いは晴れるのでしょうけど」
 それは最悪の無実の証明だ。これ以上、無為に人が死ぬのは幻想郷の住人ではない映姫とてごめんだった。だが、こうして捕らえられ、自分の語る口の全てが自警団に疑われている以上、自分の無実の証明は他者に任せるしかない。しかし、それはあまりに他力本願だ。悔しさに歯噛みするが、だからと言って事態は好転するはずがない。全ては運任せ。それもとてつもなく分の悪い賭けだ。
「……っ」
 知らずの内に映姫は自分の体を抱いていた。自分が窮地に立たされているということを自覚し、心細さを憶えたのだ。それを更に自覚して映姫は泣きそうに顔を歪めた。自分は今、よく知らない土地であらぬ疑いをかけられ、話も聞いて貰えず、理不尽な暴力を受け、こうして自由を奪われ冷たい床の上に転がされているのだ。回りは敵だらけで誰も自分の言うことを聞いてくれない。地蔵菩薩だった時も閻魔に転属してからもおおよそ感じたことのない孤独感。そして、ともすれば疑いが晴れぬまま過剰な暴力や誤審、私刑によって殺されてしまうかもしれないという恐怖が映姫の心の上を蟲のように這い回ってくる。
「……っぐ」
 それらの感情は統合すれば絶望という名前になる。心の上を這い回る絶望という蟲の怖気に耐えるため映姫は歯を食いしばった。閉じかけていた唇の傷がそれで開き、刺すような痛みが広がる。抱きしめる己の身体もあちこちから鈍い痛みが伝わってくる。痛みも絶望の銃爪だ。悪循環。だが、耐えるため身体に力を入れていないとそれだけで心が蟲に食い荒らされ身体は融解してしまうような脅迫概念に囚われる。それさえも矢張絶望の香辛料。ありとあらゆる要素が映姫の心を蝕んでいった。隙間から入り込んでくる冷たい風。虫たちの小さな鳴声。部屋の隅を走り抜けていく鼠の気配。聞こえるはずのない幻聴、足音。孤独と不安と恐怖、絶望に身体が押しつぶされそうになる。それでも泣き叫び、震え、男たちに頭を下げないのは映姫の精神の気高さの表れか。
「ッ…文」
 いや、それだけではない。たった一人、たった一人だけだが自分を助けてくれるかも知れない彼女の存在が映姫の心の中にあったからだ。幻想郷に来て知り合った彼女の存在が映姫を絶望の淵から堕ちていくのを支えてくれているのだった。彼女が来てくれれば…
『アヤ? ああ、いま探しているところだ。だが、見つからんな。なにぶん、足の早い天狗だ。簡単に捕まるとは思えん』
「くッ…」
 脳裏に蘇ってくる嘲りを含んだ言葉。無意識化に閉じ込めていた言葉が文の姿を思い起こしている途中で蘇ってきたのだ。尋問中に老人から告げられた言葉だ。その雰囲気から映姫は老人の嘘だとそれは思ったが、自分の力はそうだと肯定した。“白黒はっきり付ける程度の能力”が老人の言葉の真偽を証明したのだ。冷静になって考えれば確かにありえる話だ。映姫も文が一体何処に行ったのか知らないのだ。はたてと何か話していた後、そのまま逃げるよう突風を起こして飛び出していったっきり、今日はその姿を見ていない。はたして、何処に行ったのか、何をしに行ったのか。飛び出していったときの文は様子がおかしかった。もしかしなくとも自分のことで手一杯になっているのかもしれない。もしそうであるなら映姫の無実を証明しに来るどころの話ではないだろう。そもそも、映姫が一方的に文を頼っている状況なのだ。文に来てくれと願うのはあまりに身勝手ではないか。それに余所者の映姫を助けようとして文の幻想郷での立場が悪くなる可能性だってあるのだ。映姫は今、幻想郷を恐怖のどん底に陥れている大量殺人犯として逮捕されているのだ。そんな映姫を庇い、けれど、それでも無実を証明できなかった場合、殺人犯の仲間と見なされかねない。
 頭のいい文ならそれぐらい簡単に想像が付くだろう。だから、文は自分の立場を守るために自警団から逃げ回ったり、映姫のことなど知らないと嘘をつく可能性もある。映姫を見捨てる事だって有り得るのだ。そんな筈はないと感情では否定したがるが、この場においてなお冷静な理性はその可能性を肯定する。
「文っ…」
 絶望の泥沼に足を取られ、映姫の心は負のスパイラルを描き落ち込んでいく。思考した可能性は妄想へと変化し、更に映姫の中では事実であるように変異する。文は来ないのだと。自分は助からないのだと。そんな考えが映姫の心に満ちる。ここで自分は死んでしまうのではないか。有らぬ疑いをかけられたまま、不当な裁判で、私刑じみた方法で。地獄の最高裁判長の末路としては余りに皮肉が効いているではないか。効き過ぎて笑うに笑えない。絶望の余り、寒さに凍えるよう、身体を震わせる映姫。啜り泣くような声が冷たい部屋に反響する。
「ひぐっ…ぐすっ…ああ…」
 いつの間にか映姫は涙を流し、泣いていた。一度溢れ出した涙は止めようがない。こうして映姫は次の尋問まで床に涙の雫を落とし続けるしかないのだ。その心が枯れ果てるまで。或いは―――死ぬまで。
「嫌だ…こんな所で死ぬなんて…嫌っ…」
 文ぁ、と映姫は声を上げた。藁を掴むような、情けなく、小さく、弱い声で。
 もちろん、そんな声が文に届くはずもない。泣き言だ。部屋の壁に反響して消えていくのが定め。けれど…
 〜♪〜♪〜♪
「…?」
 代わりに応えるものがあった。
 電子音。それと振動。映姫のポケットの中からだった。


◆◇◆


「ああっ、もう!」
 吐き捨てるように言いながら文は中空でターンした。高度はそれほど高くない。屋根の更に倍上、十メートルもいかない程の高さで地上に張り付いている人々の顔ぐらいは伺える高さだ。先程から数時間、文はその高さを飛び回り、地上を睥睨していた。言わずもがな、映姫を探すためだ。自警団の詰め所で別の場所に連れて行かれたという情報を得た文であったがそれが何処なのかはまったく見当がつかず、けれど、焦る心を抑えきれず、闇雲に飛び回っていたのだ。しかし、もうタイムオーバーもいいところであった。当に日は落ち、辺りは暗くなっている。もし、文の真下を誰かが歩いていたとしても灯りを持っていない限り、文はそれを見つけることは出来ないだろう。
「何処にいるの…映姫さま…」
 泣きそうに顔を歪めながらもうこれ以上飛び回るのは無策だと悟ったのか中空に停止する文。持ち前の頭脳も焦りに焦ったこの状況では回転力を発揮できない。最早、途方に暮れ頬を涙で濡らすしか他ない様だった。
「どうしよう…どうすれば…」
 俯き、肩を落とす文。徐々に重力に引かれるよう高度も下がってきている。まるで諦念のバロメーターのように。こうなれば自警団本部に掛け合って自分の弁で映姫の無実を訴えようか、と文は考え始めた。その手を最初から使わなかったのは他でもない。それが容易ではないと考えが及んでいたからだ。捕えた異変の犯人。喩えそれが実際には誤認だったとしても自警団のメンツを保つためには映姫が真犯人でなければ拙いという想像ぐらい文には安易に考えが及んだ。自分も組織に属している一員だからだ。組織のメンツを保つという事は時に個人のそれを超えて狂信的になる傾向がある。結果、自警団はどんな手段を使ってでも映姫を犯人に仕立て上げかねない可能性があるのだ。そうなる前に映姫の無実を証明しないと。
「ああっ、もう!!」
 だが、その為の手段を文は持ち合わせていなかった。こうして映姫を闇雲に捜し回っているのも明確な解決手段があるわけではなく単にじっとしていられないだけだった。焦りを意味のない行動で打ち消そうとしていただけだ。だが、その誤魔化しも夜の訪れと共に終わりを迎えた。闇雲に探し回っても無駄だと文は気づいたのだ。だが、打開案が思い付いたわけではない。焦りだけが堆積する泥のように心を見たし、不安が抑えきれず身体の震えと涙となって体外に溢れ出す。
 どうすれば…どうすれば…
 と、
「!?」
 自身の身体を抱き震えていた文を驚かせる電子音が幻想郷の夕焼け空に響き渡った。携帯電話の着信音だ。
「何よもう、こんな時に…!」
 苛立ちながら携帯電話を取り出す文。ディスプレイに表示されている名前はまたか、と文がため息をつかざる得ないものだ。
「何か用、はたて?」
『もしもしってわぁ!?』
 電話に出た瞬間、明らかに不機嫌そうな声を集音装置に伝える文。マジカル信号化された音声は亜空間を通り遠く離れた電話口の相手の発音装置に届く。電話口の向こう、はたては聞こえてきた文の不機嫌そうな声に逆に驚きの音を上げた。
「私、今忙しいの。それじゃあ」
『ああっ、待ってよ! ちょっとぐらいは話聞いてよ! あの異変の犯人が捕まったんだって! 今、聞いたんだけどマジチョー吃驚なんだけど!』
「音速が遅いわね。そんなのとっくにみんな知ってるわよ。……それが映姫さまだって事も私は知ってる」
 それじゃあ、と今度こそ通話を終わらせようとする文。が、それを邪魔する耳を劈くような大声がスピーカから聞こえてきた。
『ええっ!? 映姫って閻魔さまの事だよね!? な、何やってんのあの人!?』
「違う。誤認逮捕に決まってるじゃないの」
 はたての反応に文は呆れかえり嘆息を漏らした。かいつまんではたてに説明する文。
『…それってかなり拙い事なんじゃないの』
「ええ、だからこうして映姫さまを捜し回ってるのよ」
 早く、捜索の続きをしたくて溜まらないのか文の言動は投遣りそのものだった。もっともはたては気がついていないようでホント、拙い、拙いわね、なんてことを電話口で繰り返している。
『電話とかは? さっき、閻魔さま、ケータイ買ったトコじゃん』
「……自分を呪いたいところなんだけど、番号聞きそびれてね」
 それにまさか、通じるとは思えないし、とはたてに否定的な意見を述べる文。それでも対応が僅かながらに真意なのはもしかすればそれが光明になるのではと言う僅かながらの期待があったからだろうか。その文の言葉を聞いてそれなら、とはたては伝えてきた。
『私、知ってるから』
「何を?」
『閻魔さまの番号』
 なっ、と驚愕に満ちた声を上げる文。
「な、なんで貴女が知ってるの!?」
『いや、アンタがどっか行った後、折角だからメアド交換しといたの』
「今すぐ教えろォ!」
 洞窟から出てきたコウモリたちを追い返す程の大声を上げる文。遅れて電話口から大きな声出すなァ! と返ってきたがお互い様だと文は思った。
「いいから、教えて」
『分ったわよ。いい?』
 肩と首で携帯電話を挟んでメモとペンを取り出す文。十一桁程度、文ならそらで憶えられるがメモを取るのは最早、癖のようだ。電話口から聞こえてきた映姫の番号を復唱しメモに取る文。
「ありがとう。かけてみるわ」
『あっ、ちょっと』
 電話の向こうでははたてがまだ何か言おうとしていたようだがそれを無視し、通話終了のボタンを押す文。さて、と気持ちを切り替え今し方聞いたばかりの番号を入力する。
「…お願いだから出てくださいね映姫さま」
 スピーカーからコール音が聞こえてくる。トゥルルル…トゥルル…ワンコール、ツーコール。時間にすれば一ループ辺り僅か一、二秒程の短い音。だが、文にはその一節が数分に感じられる程、長く聞こえていた。
「映姫さま…っ」
 三度、四度。まだ出ないのかと文は唇を噛んだ。そもそも映姫は今、捕まっているのだ。身体検査をうけて、携帯電話が取り上げられている可能性の方がどちらかと言えば高いだろう。分の悪い賭だった。それでもこれぐらいしか映姫に通じる糸を見つけられなかった文はカンダタよろしくそれに望みを託すしかなかった。
 そして…
「っ!? 映姫さまっ!」
 七度目のコールでコール音が消えスピーカーから人の気配が漂ってきた。
「私ですっ! 射命丸文です!」
『あ、ああ…』
 喋りにくそうな、それでいて寝起きのようなしゃっきりとしない声。だが、電話口の相手はまず間違いなく映姫だった。
『文ですか…ふふ、初めての携帯電話の相手が貴女だなんて…ッ』
 苦悶の声が電話口から聞こえてきた。映姫さまっ、と叫ぶ文。
『ああ、すいません。口の中を…切っているみたいで』
「口の中を…?」
 思わず頬の内側を強く噛んでしまった、などという話ではないだろう。電話口の映姫の声はどこか辛そうに聞こえる。なにかされたのだろうか。心配ではあったがそれよりも映姫が何処にいるのか確かめるのが先決だっだ。
「映姫さま、今、ご自分がどちらにいらっしゃるのか分りますか…?」
『えっと…市街地から少し離れたところだと思います。馬車で連れて行かれたので詳しくは…』
 映姫の話を聞きつつ文は頭に幻想郷の地図を思い浮かべる。異変の現場であった集落から馬の足で向かわなければならないような場所を探す。けれど、候補が多すぎて容易には絞り込めない。
「他には? 川の音を聞いたとか、こんな種類の妖精を見たとか」
『そう、ですね…あっ!?』
 と、電話の向こうから短くはあるが驚嘆の声が聞こえてきた。
『自警団の人が来ます』
 そう小さな、けれど、はっきりした声がスピーカーから聞こえてきた。遅れてゴソゴソと布ズレの音。映姫さま!? と文は問いかけようとして口をつぐんだ。第三者の声が聞こえてきたからだ。
『オイ! なにしてんだ!』
 粗野な男の声。文にはまだ全容が理解できていないが携帯電話の着信音と映姫の話し声を聞きつけて傷跡がやって来たのだ。とっさの言い訳も出来なかったのか、映姫は黙りこくるしかなかった。それを傷跡は反抗的な態度だと受け取ったのか、瞬間湯沸器のように怒りを頂点にした。
『こい!』
『きゃっ…!?』
 固い床を踏みつける足音。それが反響して聞こえてくる。続いて男の鋭い声と映姫の絹を裂くような悲鳴。思わず声を上げそうになるのを文は唇を噛んで耐えた。口端から血が滴る。
 そのまま無理矢理人を引きずって行くような音が聞こえ、それも遠ざかると後は携帯電話は何も音を拾わなくなった。険しい表情を浮かべたまま通話終了のボタンを押す文。恐らく映姫はとっさの判断で自分の携帯電話を何処かに隠したのだろう。通話終了のボタンを押さなかったのは映姫がまだ使い方を憶えていなかったからかも知れなかったが、むしろそれは客観的に見れば幸運だった。スピーカから聞こえてきた音、が映姫の居場所の大きなヒントになったからだ。男が映姫に近づく前に聞こえた二種類の金属音。あれは金属製の頑丈な鍵と扉…おそらくは鉄格子を開ける音だった。
 よくよく考えれば映姫が捕えられている場所からそんな音が聞こえてくるのは当たり前だ。自警団の面々は映姫を異変を起こした者、犯罪者として捉えているのだ。ならばそんな彼女を拘束する施設なんて一種類しかない。拘置所だ。固い床と足音を反響させるような固そうな壁。頑丈さを伺わせる建物の造りもその推理を補強してくれる。
 自警団の留置所の詳しい場所は文は知らなかったが、そういう場所について詳しい人物は心当たりがあった。電話帳機能を起動し、登録されている番号を選ぶ文。電話の相手は僅かワンコールで出てくれた。
「もしもしはたて。ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」


◆◇◆


「いい加減!」
「くっ!」
「白状!」
「ぎゃっ!」
「しやがれ!」
「ごふっ…!」
 暴力/罵倒/悲鳴。暗い部屋に三つの音が轟く。
 牢から別室に連れてこられた映姫はまたも尋問を受けていた。いや、もはやこれは尋問でも拷問でもなかった。ただの暴力だ。
 映姫は椅子に座らされた後、更に荒縄で拘束された。椅子の脚に脚を、後ろ手に回された腕は縛り付けられ、身体は背もたれから離れなくされてしまった。その上で頭からすっぽりとずさ袋をかぶせられた。元は肥料用の鶏糞でも詰めていた袋なのだろう。埃っぽい匂いが鼻についた。それも気になったのは最初だけだ。ポキポキと指の骨を鳴らす音が聞こえたかと思うとすぐに腹部に強烈な衝撃を感じたのだ。腹を殴られたと悟ったのは無理矢理吐き出された吐息を吸いなおした時だ。遅れて内蔵が燃えるような痛みを訴え、悶えようとする。だが、ぎりり、と身体を縛り付ける荒縄が軋み声を上げるだけだった。拘束はどう考えてもただ殴りやすいように映姫を固定しておくのが目的だったのだ。そこに更に二度、三度と連打が加えられた。今度は腹部を重点的に。内蔵へのダメージは尾を引き、自警団が罵倒じみた尋問をする間も鈍い痛みを持ち続けていた。
「どうした。何か言ったらどうだ?」
「わ、わたしは…やってな…」
「聞こえないなぁ!」
 当たり前だ。腹を殴られてまともに息も出来ないのに、そこに袋を被せられているのだ。声など聞こえるはずがない。分っていてわざと聞いたのだ。
「オラッ! オラッ! オラッ!」
 執拗に腹部に打撃を加える傷跡。顔には狂気の笑みが。この男は最早、映姫に暴力を振うことを心底楽しんでいた。柔らかな腹部にめり込む拳。袋越しに聞こえてくる苦悶の声。悲鳴。誰にも咎められることなく、その上可愛らしい女性の形をした者を嬲る、その快感に酔いしれているのだ。
「……」「……」
 その様子を無言で眺める六つの視線。最初と同じく壁にもたれ掛かっている老人と短髪の二人だ。老人の方はまるで新聞でも読んでいるかのように無感情に目の前で繰り広げられている暴力を眺めており、逆に短髪の方は…
「ご、ご隠居…」
「なんだ?」
 不意に短髪の方が口を開いた。いや、不意ではないのだろう。少なくとも短髪の中では。彼は再び映姫の尋問が始まったときからまるで腹痛を起こしているように苦しげな顔をしていた。それは傷跡が暴力を振い出すといよいよもって大きくなり、終いには脂汗を流し苦悶に顔を歪めるまでになっていたのだ。勿論それは実際に腹が痛かったわけではない。
「そろそろ止めさせた方が…」
 見るに耐えなかったのだ。映姫が乱暴され、暴力を受け、悲鳴を上げているのを。短髪とてアレが自分たちの認識においては犯罪者、それも大量殺人犯だということは分っている。死罪にしてもまだ罰しきれぬ悪だと。だが、それにしても短髪は傷跡とは逆に可愛らしい女性の形をした者が嬲られているのを黙って見ていられるような心は持ち合わせていなかったのだ。
「いくら何でもやり過ぎッスよ…」
 立場が上の者に意見を言うなど無遠慮な行為。だが、短髪はそれよりも自分の善の心を優先したのだ。まるで怒られるのが分っていながらも仕方なく自分がしでかしてしまった悪さを告白する幼子のように短髪は肩を小さく震わせながら老人の反応を待っていた。一呼吸の間。やがて、老人は思わせぶりに口を開いた。
「駄目だ」
 応えを聞いて短髪が愕然としたのは言うまでもない。
「そんな! だって、それじゃああの子、死んじまいますよ!」
 思わず反論してしまう短髪。しまった、とすぐに口をつぐもうとするがもう遅い。老人は顔を暴力の現場から短髪の方に向けてきた。
「死んだなら死んだで別にそれは構わん。秘密裏に処刑したと言えばいいだけだ。大量殺人犯だぞ。死刑にしたって誰も文句は言うまい。アレで『私がしました』と吐いてくれるのが一番楽なんだが…多分、無理だろうな。ありゃナニされても言いなりにならんタイプの女だ」
 嫁にすると苦労するタイプの女だな、と老人は冗談を口にした。だが、抑揚のない声で冗談には聞こえなかった。
「……」
 けれど、短髪が黙りこくったのは老人に対し呆れかえったからではないだろう。最早、何も言えぬと悟ったからだ。そのまま短髪は歯噛みするような顔を老人から背け、鍵を開け尋問室から出て行った。これ以上の暴行を見るに見かね、見ぬ事を選んだのだ。
 老人はそんな短髪の行動にさしたる感想はなかったのかすぐにまた視線を真っ正面に戻した。
「ひゃははははは、どうだどうだぁ! ああ、まだ足りねーのか! あ? あ?」
 そんな老人と短髪のやりとりがあったことに気づいていなかったのか傷跡は未だ暴力を振い続けていた。完全に周りが見えていない状態。それほどまでに映姫をいたぶることに集中していたのだろう。ゲラゲラと哄笑し腕を振り上げ罵声を飛ばし、殴りつける。
「なんだ? オイ、気絶したのか? だらしねぇな! 起きろ! コラ! 俺はまだまだ手前の悲鳴を聞きたいぞォ!」
 そんな傷跡の様子をやはり老人は無感情な瞳で見ていた。これは本当にあの女、死んでいるかもな、とぴくりとも動かず悲鳴の一つもあげなくなった映姫を見てそう心中で考える。まぁ、予定通りか、とも。
「……やっと開いた」
 そして、三対目の瞳の持ち主はそう呟いた。風の様な静かに流れる動作で尋問室に入り、音もなく老人に近づく。
「ッ!?」
 瞬前、その気配を感じ取ったのは彼が自警団団長の義父でかつては道場の師範をやっていた程の猛者であったからだろう。だが、そんな彼でも風の様な静かな動作で姿が見えず、しかも前回はそれで失敗した足音を完全に消している相手の存在などはっきりと知覚できようはずがない。そのまま老人の意識はホワイトアウトしていった。
「あ?」
 大きな物音を聞き振り返る傷跡。だが、やはりそこには何も見えない。ただ、傷跡は老人が倒れているのを見つけてあっ、と声を上げた。
「ご隠居!? どうした!?」
 倒れている上司にそう声かける傷跡。けれど、それに返答したのは老人ではなかった。
「お前は気絶じゃ済まさない」
「!?」
 すぐ傍から聞こえてきた声に獣の速度で反応し、腕を振う傷跡。その先が何かに触れた。何も見えない空間を凪いだはずなのに。傷跡の視界、壁や天井が歪みを見せる。否、傷跡が振った腕が通り抜けた空間に布が一枚、置かれていたのだ。それは周囲の光を屈折させ、内に覆い隠したものをまったく見えなくする河童化学の結晶、ステルス迷彩だ。
 ステルス迷彩の後ろに隠れていた彼女は傷跡の攻撃を回避したと同時に腰を座るかのように落とし、床に付いた手を支点に水面蹴りを放った。見えない位置からの足払いを受けかしずく傷跡。そこへ更に立ち上がりからの掌底が命中する。颶風を纏ったそれは猪突の一撃に等しい。仰け反りながら宙に浮く傷跡の身体。その体を更に葉団扇が凪いだ。
「ツイストしろッ!」
 瞬間、吠える声と同時にびゅん、と旋風が巻き起こった。小型の竜巻だ。中空に発生したそれは横に伸びる竜巻であった。電灯を揺らし、埃を巻き上げ可視状態になる竜巻。渦巻く突風の壁の向こう、恐ろしい力でもって回転する螺旋の中。そこに打上げられた傷跡の身体は収まっていた。
「うぎっ! ぎゃっ! ぐぎゃぎゃぎゃ…!?」
 化け物じみた悲鳴。それと同じく吹きすさぶ風の音に紛れて聞こえてきたのは関節という関節が外れ、骨という骨が折れ、筋という筋が断線する音だった。
 巻き起こった風に煽られステルス迷彩の布地もめくれ上がる。その下から姿を現したのは…
「私は貴方の悲鳴なんて聞きたくないですね」
 文だった。はためくステルス迷彩をその手に掴み、険しい顔をしている。
 その目の前に傷跡が落ちてきた。いや、もう跡などではない。彼は顔はおろか体中が傷だらけで身体は足から指の先まで蛸を洗濯機にかけたようにねじくれていた。
 絞ったボロ雑巾のようになった傷跡を睥睨し、小さくため息をつく文。多少は溜飲が下がったようだ。そしてすぐにステルス迷彩をしまおうともせず椅子に縛り付けられた状態でぐったりしている映姫に駆け寄る。
「映姫さまっ、大丈夫ですか!?」
「うぁ…あ、あや…」
 頭に被せられた袋を外すと映姫は酩酊したように頭をふらつかせながらも文を見上げてきた。どうやら生きているようではあったが、その様は目を背けたくなるような状態でもあった。鼻血と吐瀉物で顎から下は汚れきっており、縛り付けられた手足は暴れたせいか、血が滲む程の酷い擦過傷を負っていた。ボタンが取れボロボロになった服の下は形容するのが躊躇われるような状態になっていることだろう。息を吸う度に苦しそうな顔をしているところを見ると肋骨が折れている可能性もある。
「待っててください。今、縄を解きますから」
 キチキチに縛られた縄を何とか手だけで解こうとする文。だが、縄は岩のように固く結ばれている。文の指ではそう簡単にはほどけないだろう。爪が割れ、それでも解こうと力を込める文。
「どうして…来たのですか…?」
 作業中の文にそう問いかける映姫。言葉には僅かに憤りが含まれていた。
「もしかして、来て欲しくなかったとか」
「……そんな訳はありません」
 文の軽口に映姫はそう漏らす。およ、と視線を上げる文。予想ではそうですね、から如何に自分が馬鹿なことをしているか説教されるのだと思っていたのだ。
「来てくれて…ありがとう。助かり…ました」
 映姫の顔から澄んだ雫が落ちてくるのを文は見た。けれど、何も言わなかった。拘束され、袋を頭から被せられ、手ひどく暴行を加えられていた映姫は本当に自分が死んでしまうのではと思っていたのだ。いや、それは恐らくあのままでは現実になり得る不安だった。もし、文が助けに来なければ…その先を想像し、映姫はソレからの解放に安堵し、落涙せずにはいられなかったのだ。
 それ以上はお互い何も言わず、少し前まで暴力と狂気に満ちていた部屋には優しげな沈黙が漂っていた。
「よしっ、やっと全部外れました」
 それから数分。指を血だらけにしながらも文は何とか縄を外し終えた。立てますか、と差し出された手を取り弱々しくも立ち上がる映姫。だが、一人では歩くことはままならないようで文の胸元へと倒れ込む。
「あっ…」
 その嘆息はどちらが漏らしたものだったのだろうか。暫くの間、支えた者と倒れ込んだ者は視線を絡ませながら互いに顔を見合わせていた。
「……どうして助けに来たのですか」
 先にそのバランスを崩したのは映姫だった。まっすぐ、文の顔を見ながらそう問いかける。
「それは…」
 同じように、まっすぐ映姫の顔を見つめながら文は口を開いた。映姫は自分の口の中が確かに乾いていくのを感じていた。緊張しているのだと自分自身できちんと理解していた。だったら文は。文も緊張しているのか。ごくりと映姫は唾を飲み込み文の返答を待った。そして…
「そりゃ、そうですよ。昨日今日の仲じゃないでしょう。映姫さまもお友だちがピンチの時には颯爽と格好良く助けに現れたいって思うものでしょ。ええ、なんたって私は清く正しく美しくがモットーですから」
 そんな風にあっけらかんと笑いながら応える文。はぁー、と映姫が盛大なため息をつくのは無理もない話だった。
「…私を助けに来たって事は大体、事情は飲み込めてるとみて大丈夫ですね。その上で問いますけれど、ど・う・し・て・助・け・に・来・た・の・で・す・か・?」
「うひゃっ、映姫さま、顔が怖いですってっ!」
 ぎろり、と文を睨み付ける映姫。
「私は犯人として捕まっているのですよ。弁護に来るなら兎も角、こんな風に無理矢理助けに来るなんて…確かにカッコイイですけど…いいえ、閑話休題。兎に角、余りに軽率ですよこの対応は」
「いや、あーうー、でも、かなり危ない処だったじゃないですか…」
 実のところ、文とて当初の計画では秘密裏に少なくとも一夜は誰にもばれないよう映姫を助け出すつもりだったのだ。尋問が終わり、また映姫が独房に移された後に助け出すのが本来の文の計画った。だが、尋問室の扉の前で様子を伺っていた文は映姫が酷い暴力を受けているのを見て計画を変更せざるを得なかったのだ。
 それでもまだこれは穏便に済ませた方だろう。もう一分でも短髪が鍵のかかった扉を開けるのが遅かったら文は扉を蹴飛ばし部屋の中に侵入し、一暴れしてでも映姫を助け出すつもりだった。姿を見られず自警団団員を気絶させられたのは僥倖だった。
「他に安全な方法は取れなかったのですか。或いは確実にばれない方法か」
「あー、いえ、ホラ。人攫いは天狗の十八番ですから。私的にはこれが一番確実且つ安全な方法だったんですよ」
「貴女は記者でしょう。強引に救出するより、寧ろ自分の新聞を使って穏便に事を済ます、という方法の方が良かったと思わなかったんですか」
「あー、いえ、それは…と、取り敢ず早くここから出ましょう。お説教は後でも聞けますからっ」
「む」
 文の言うことも一理あると押し黙る映姫。そのまま文は映姫に肩を貸し、歩き始めた。
「文、この人たちは…」
「大丈夫。一応、殺してませんよ」
 この時ばかりは抑揚のない冷たい言葉で映姫に返す文。殺したい程、私は怒ってますけれど、と未だに心の奥で殺意は燻っているのだと文は吐露する。
「……早く行きましょう」
 映姫もそれを読み取ったのか、急くようなことを口にする。
 二人三脚のような足取りで部屋の扉を潜る二人。
 と、
「あっ…!」
 出た瞬間、廊下の向こうからそんな声が聞こえてきた。視線をそちらに向ければ短髪が文たちを指さし立っているではないか。
「チッ」
 舌打ち。映姫の身体を構えつつ葉団扇を構えようとする文。
「文っ!」
 その腕を映姫は強く掴んだ。やめろという合図。しかし、と問い返す代わりに文は映姫の顔を見た。
「行きましょう。早く逃げないと」
「っ…!」
 そのまま文は映姫の身体を抱きかかえると二、三歩助走をつけて飛んだ。風を巻き起こしながら廊下を飛翔する文。後ろからは短髪が待てと追いかけてくるが速度が違いすぎる。そのまま突き抜けるよう、拘置所の入り口まで飛び、夜空にへと消えていった。
「だっ、脱獄だァ!!」
 叫ぶ短髪。だが、それは山彦が拾って叫び返しただけの虚しい叫びだった。


◆◇◆


 夜風吹きすさぶ神社の境内。動くものといえば風に揺られる枝葉だけで人の気配はない。明かりといえば天蓋に映る三日月だけで、それも時折、薄雲の向こうに隠れ地上を暗くしていた。こんな場所にいるものといえば妖怪と相場が決まっている。だが、実際の所、この場所に多くの妖怪たちが集まっていたのは昔のことで今は誰も、人も妖怪も近づかぬ場所となっていた。
 そんな人寂しいはずの場所にいつの間に現れたのであろう。小柄な影が一つ、拝殿の前に立っているではないか。月は雲に覆われ周囲は暗く、もし仮に誰かが通りかかったとしても影の顔を伺うことはできなかっただろう。いや、晴天の下でも同じだったはずだ。何故の影は頭からすっぽりと目深にフードを被っていた。身を包んでいるのはコートだ。陽の光も通さぬような分厚いコート。そんな格好をした人物がジッと拝殿の前に立っているのだ。コート姿は何かをしているわけでもない。お参りに来たような様子ではない。学術的な興味でこの神社に訪れた訳でもない事はすぐに分かる。足元に硬貨が一枚、落ちていたがそれにも注意を向けることはなかった。気づいていないだけかもしれなかったが。コート姿の人物はただただジッと立ち、強いて言うなら何かに想いを馳せているかのようだった。それは過去か。或いは故人か。開くべき口も持っていないのか只管にコート姿は黙し、ただただジッと立ち続けていた。
「こんばんわ」
 そこへコート姿と同じく、一体いつの間に現れたのであろう別の人物が立っていた。女だ。こちらは夜道で挨拶するような口ぶりで言葉を発した。
「なんでここに居るのかしら」
 と、絶対に喋れない、いや、喋らない筈であったコート姿がそう何処か苛立ちげに女に向け口を開いた。ああ、とあっけらかんな調子で返す女。
「そこの裏手にうちの分社がありますから。何十年か前に建てさせて貰ったんですよね」
 懐かしいなぁ、と女は笑い声を上げた。コート姿の方はそんな女の懐古の念に興味などわかなかったのか、そう、とだけ短く返した。
「質問が悪かったみたいね。何か用かしら?」
 今度は余計なことを言わないで頂戴、イライラするから。その言葉を付け加えつつコート姿は女に真意を問うた。あはは、とすぐには質問に答えず笑う女。最初からコート姿が何を聞きたがっていたのか解りきっていたのにわざと間違った反応を示していたのだ。
「これ、夕刊なんですけれどお読みになりました?」
 そう言って畳まれた紙の束を手渡す女。コート姿はほんの一瞬、疑うように躊躇ったが結局、ひったくるよう女の手から紙の束を受け取った。がさがさと、風に煽られながらもそれを広げてみせるコート姿。どうやらそれは新聞のようだ。だが、こんな月明かりも差し込まぬ暗闇の中では字を読む事なんてとても出来ないだろう。だと言うのにローブ姿は紙面に視線を落とした後、女に顔を向け感想を呟いた。
「“アレ”の事が載っているわね」
「“アレ”だなんて酷い。“貴女たち”でしょう」
「“我々”だ」
 本人たちにしか分らない皮肉を口にしあい敵意を露わに睨み合う二人。
「それで」
 先に折れたのはコート姿の方だった。新聞紙を畳んで突き返す。
「これがどうしたの?」
「この記事、かなり詳しく書かれてますよね」
「そうね。優秀なブン屋だわ。それで?」
 回りくどい女の言い方に苛立ちげに声を荒げるコート姿。女は肩をすくめた。
「いえ、もしかすると貴女たちに迫るのでは、と思いまして」
「……まさか」
 言葉は驚きではない。あり得ないと嘲笑するものだ。ただ、それを提言した女の方はそうは思っていないようで言葉を続けた。
「万が一と言うこともあります。それにもう一つ情報が」
 また、女が勿体ぶろうとしたところでコート姿は鋭い眼光を飛ばしてきた。紅い瞳。睨み付けられあは、乾いた笑みを浮かべる女。これ以上怒らせるのは身の危険だと冷や汗を流したのだ。
「異変の“犯人”が捕まったそうですよ」
 コート姿にそう告げる女。今度こそフードの下に隠された眉尻が下がる。
「何言ってるの? “アレ”は…」
「いえいえ、違います。人違いだと思いますよ恐らく」
 町で人相を尋ねたところあの人とは全然違っていましたから、と女。
「こちらの方は放っておくと拙いんじゃないでしょうか。勝手に“解決”されたことになりかねませんよ」
「………」
 コート姿が言葉を返さなかったのは思案していたからだ。暫くの間、そうしていたコート姿を見やると女はうふ、とまた笑みを浮かべた。どこか淫靡さを感じさせる笑みだった。
「まぁ、情報は伝えましたからどうするかはお任せしますよ」
 それでは、と頭を下げ女は立ち去ろうとした。
 それを…
「待ちなさい。もう一つだけ、聞きたいことがあるのだけれど」
 コート姿が呼び止めた。一瞬、疑問符を浮かべた後、女ははい、なんでしょう、と問い返した。
「貴女はどうして私に協力してくれるのかしら?」
 問いかけは平凡なものだったが、どこか言い逃れ出来ないような迫力を秘めていた。足を止めた女はそのままジッとコート姿に視線を向けた。
「言ったじゃないですか、だから」
 今更そんなことを、そう言いたげな口調だった。
「博麗の巫女の復活は私も望んでいる事です、って」
 けれど、そんな言葉は信じられないのか胡散臭そうな視線を送るコート姿。
「冗談かしら。商売敵でしょうに、貴女」
「だからですよ」
 いいですか、と前置きし女は語り始める。
「巫女が亡くなってから五十余年。ここは元より私の神社も寂れる一方です。その間、何も手を打ってこなかったわけではありませんが全ては失敗に終わりました。そこで私は気がついたのです。矢張、幻想郷には博麗の巫女が必要なのだと。そして、その博麗の巫女に対抗することで同じく私の地位も向上、神社も活気を取り戻せるのでは、と」
「………」
「つまり、ギブアンドテイクなんですよ。結局。貴女の目的もそうじゃないですか。博麗の巫女の復活。いえ、厳密に言えば違うかも知れませんけれど」
 それだけ語るとそれ以上、言うことはないと言わんばかりに女は踵を返した。コート姿もそれ以上、何も聞くことはなかったのか口を開かなかった。無言で闇に消えていく背中を見送る。
「それじゃ、これからも異変を起こし続けていてくださいね」
 その言葉を最後に、女は完全に神社の境内から姿を消していた。それに呼応するよう、月を覆っていた雲も風に流された。月光が差し込み、境内が明るくなる。その眩しさに目を細めながらコート姿は呟いた。
「霊夢…」
 かつて、ここの巫女だった少女の名を。かつて、そう愛を囁いたように。



 それらかもう暫くの間もコート姿は境内に立ち尽くしていた。過去に想いを馳せながらも未来についてどうすべきか、そう思案しているのだろう。
「……ん?」
 その思考を邪魔するノイズが混じる。他人の気配。コート姿が振り返ると何者かが上空から近づいてくるのを見つけた。一人…いや、二人。飛翔する一人の腕にもう一人が抱かれているようだった。近づいてきた二人はまだコート姿には気がついていない様子。見つかると面倒だ。そう言わんばかりにコート姿は一歩後ろに下がった。その姿が闇に溶けるようにして消えていく。入れ替わりに近づいてきていた者達が神社の境内に着地した。
「大丈夫ですかっ、映姫さま!」
「っ…はい、文」
 それは拘置所から逃げ出してきた閻魔と鴉天狗の二人であった。
 映姫の肩を抱き、その身体を気遣いながら文は神社の住居、離れの方へと歩いて行く。その様子を紅い瞳は闇に溶け込みながらジッと見ていた。


◆◇◆


「ここは…」
 自分が何処に連れてこられたのか分らず映姫は辺りを見回しながら呟いた。が、途端、苦悶に表情を歪めた。暴行で負った傷跡が痛むのだろう。
「博麗神社ですよ。兎に角今は大人しくしていてください」
 映姫を窘める文。そのまま文は映姫を庇いながら半壊した建物へと近づく。人の住んでいない家はすぐに悪くなる。その言葉を示すように築百年以上を数えていた神社の住居部分は本殿と同じくかなり朽ち果てていた。草だらけの庭。風化し白く脱色された壁。外れたままに風雨が入り込むのに任せたままになっている雨戸。住居部分は既にその体を為していなかった。それでも野宿よりはマシだろうと言うことか。文は裏口と思わしき戸に手をかけた。
「あれ?」
 が、戸はうんともすんとも言わない。横にスライドさせるタイプの戸だから押したり引いたりを間違えているわけではないのはすぐに分った。溝が土埃で埋まってしまっているのだろう。文は一瞬悩み、二、三歩後ろに下がってから足を上げた。そうしてそのまま、四度、五度と戸に向けて足蹴を繰り出した。もう戸の枠自体が脆くなっていたのだろう。文が蹴りつけるだけで簡単に戸は外れ家の中の方へと倒れていった。つもりつもった埃が舞い上がり、ソレを吸い込んだ文は咳き込んでしまった。
「戸は蹴るものじゃないでしょう」
「蹴破るものですよ。さ、汚いですけれど中へ」
 倒れた戸を踏みつけ二人は家の中へ。土足のまま土間から上がり、適当な部屋を見繕い、そこへ。床の上に静かに映姫を座らせる文。
「不便な所で申訳ないのですけれど…我慢して頂けますか」
「いえ、大丈夫ですよ。逃亡者にはお似合いの場所ですし」
 薄暗く埃だらけの部屋を映姫は見渡す。実際、二人はここに逃げ込む以外の選択肢を持ち合わせていないのだ。映姫は今や重犯罪者のレッテルを貼られている。しかも、捕まっていたところを脱走してきたのだ。人相書きがこんなに早く出回るとは思えないが、本当の犯罪者よろしく日の当たる場所を悠々と歩ける状況ではない。
「すいません。天狗の里にもじきに人里の自警団から連絡が入ると思うので…」
 幻想郷の妖怪と人の関係は以前程、互いに不可侵という状況ではなくなっている。多少は交流も進んでおり、特に文明的な天狗のグループは有事の際には互いに協力し合うという協定も結んでいる程だ。ある意味で有事の現在、異変の犯人が捕まり、けれど、脱走したという話は天狗たちの側にも届いていることだろう。はたてが犯人逮捕のニュースをかなり早い段階で知っていたことがその裏付けだ。天狗の里にも既に事件のあらましは伝わっていると考えて間違いないだろう。そこから犯人捜索に天狗たちが人に手を貸すかどうかは分らないが少なくとも人間禁制だった天狗の里も安全とは言い難いのは確かだ。あの場所の環視の目は人里の比ではない。千里眼を持つ白狼天狗と河童の技術で造られた防水監視カメラがあちらこちらで目を光らせているのだ。のこのこ文の家に帰っていってそのまま逮捕…では冗談にすらならない。結局、人目を忍び二人はこんな寂れた場所に隠れるしかなかったのだ。
「……傷の手当てが出来ればいいんですけれど」
 流石の文も映姫がこれほどまで手ひどく痛めつけられているとは思わなかった。早々に治療が必要だ。だが、その為の包帯や消毒液、軟膏なんてものは持ち合わせていない。里に行って手に入れるという方法もあったが映姫一人を置いて買い出しに行くというのも危険な話だ。それに脱出の際、短髪の自警団団員に文も顔を見られているのだ。一瞬のことだから顔を憶えられているという可能性は低いだろうが、それでも映姫程にないにせよ文もまた指名手配されているかもしれない。
「取り敢ず、この家に何かないか探して…」
 と、立ち上がろうとした文を邪魔するよう、電子音が鳴り響いた。携帯電話の着信音だ。
「え、なんで? 電源は切ってた筈なのに」
 ステルス迷彩で姿を消して拘置所に侵入する際、下手なタイミングで電話がかかってきては拙いと文はそうしていたのだ。あわてて懐から携帯電話を取り出す文。けれど、ディスプレイは消灯したままでうんともすんともいっていなかった。音楽は未だ鳴り響いているが。
「…私のでは」
 そう言う映姫。携帯電話を取り出そうとしてか身を捩ったところで短く苦悶の声が漏れた。やはりまだ、まともに動けるような状態ではないのだろう。すいません、と一言断わりを入れて文は映姫のポケットから携帯電話を取りだした。
「またですか…」
 ディスプレイに表示された名前を見て文は肩を落とした。三度目ともなると流石に変な笑いが出てくる。
「もしもし」
『もしもし閻魔…じゃない!? えっ、その声は文!?』
 電話の相手ははたてだった。
『どうしてアンタが電話に出るのよ』
「電話にはでんわ、とでも言えと」
 お寒いわよ、と文。
『お寒いのはどっちよ! で、結局どうなったの?』
 スピーカーから怒鳴り声が返ってきた。
「とりあえず映姫さまは無事よ。拘置所から助けだして匿ってるところ」
『助けだしてって…脱獄じゃん』
「私の中じゃそうなってないけれどね。そっちは?」
『こっち? ああ、うん、人里からなんか緊急の連絡が入ったみたい。椛たちが騒いでたわ』
「あのワン公たちが」
 椛は天狗の里の警備の任に付いている。哨戒部隊だ。その椛が騒いでいるということは山に侵入者があったか、ある可能性が高いかのどちらか。やはり、当に映姫が脱走したことは既に山の天狗にも伝わっているのだろう。これは早々に手を打たないと拙い、と文は親指の爪を噛んだ。白狼天狗たちの捜索範囲が妖怪の山だけならまだしも人里…幻想郷全域にまで及んでいる場合、隠れ続けていることは不可能だと分かっているからだ。千里眼に狼の嗅覚。群れることで飛躍的に上昇する高い戦闘能力。彼女らから逃げる難易度はハードだ。
 どうすべきか、携帯電話を握りしめたまま文は思案しようとする。脳内でキーワードが回り始め問題点と解決法、その関連性を構築しようとした所で…
「…映姫さま」
『? 文? どったの?』
 何よりも先に解決しなければならない問題があるのを思い出した。
「はたて、ちょっとお願いがあるんだけど。包帯と傷薬と消毒液、絆創膏……それと何か保存食と飲み物持ってきてくれない」
『分かったけど…結局、文たち何処にいるの?』
 あ、と声を上げる文。そう言えばはたてには伝えていなかった。


◆◇◆


「はぁ、よくもまぁこんな所に隠れようと思ったわね…」
「昼前にちょっとヤボ用で寄ってたから。それで思いついたの」
 それから一時間ほどしてはたては手に荷物を持って博麗神社に現れた。文が頼んだものを揃えて持ってきてくれたのだろう。ありがとう、と受け取る文。映姫も床に腰を下ろした格好で同じように礼をする。
「はぁ、しかしまぁ…最初、助け出した、って聞いたときは何を馬鹿なことをって思ったけどこれじゃあ、仕方ないわね」
 映姫の様子を見て露骨に不機嫌そうに眉をしかめるはたて。ゴシップ好きの彼女ではあるが流石に見知った顔がこれほど酷い暴行を受けたことには腹を立てているようだ。
「閻魔さまへの暴行。まさに大スキャンダルね。自警団、ジュネーヴ諸条約違反。うは、解散級のネタね」
「はたて」
 今はそんなことをしている場合じゃない、そういう突っ込みを入れる文。はたてはわかっているわよ、と肩をすくめ唇を尖らせた。
「それで、どうするの文?」
「兎に角、映姫さまの疑いを解かないと…」
「……」
 言葉尻が消えて行くような台詞を吐く文。はたてとしてはその先、具体案や方向性などを聞きたかったのだが。まだ文の中でそれらが纏まっていないのだろうか、と訝しげに眉を潜めた。文の頭の速さなら当に解決案ぐらい導き出していそうなものなのだけれど、とも。
「まぁ、いいわ」
 自分が考えても仕方がないと思ったのだろう。気持ちと場の空気を切り替えるよう、すこし大きめの声を上げるはたて。
「取り敢えずは閻魔さまの怪我を診ないと」
「そう…ね」
 はたての持ってきた荷物を広げる文。食料は少なめだったが医療品については十分な数が詰め込まれていた。いや、量はもとより質もいいものだ。ガーゼは滅菌パックされたもので、蒸留水や縫合用の糸と針のセットとそのマニュアル、抗生物質に解熱剤、腹痛止め、それどころか簡易注射針がついたモルヒネまであった。
「ヘヘン、哨戒部隊の医務室からギってきたの」
「まぁ、むしろ家庭用のしょっぱいのよりはありがたいけれど」
 はたてが持ってきた医療品の中から使えそうなものを文は選別する。専門的な知識は持ち合わせていないのだ。それでも傷の手当てぐらいは出来る。灯りも部屋の中で蝋燭を見つけたのでそれに火をつけた。
「すいません、文」
「いえいえ。これぐらいどうってことないですよ」
 自分が何も出来ないことを恥じてか、映姫はそう文に頭を下げた。顔を綻ばせ消毒薬とガーゼ、ヨードチンキを用意する文。
「……」
 その様子をはたては棒立ちに、黙って見ていた。そんなはたてに気がつき文は声を上げる。
「ちょっと、手伝ってよはたて」
「ん〜、うん。いや、私は外で見張りをしてくるわ。誰か来るかも知れないし」
 そう言って返事も聞かずはたては部屋から出て行った。もう、と唇を尖らせる文。
「まったく。我が儘なんだから。あれは絶対、一人っ子で甘やかされて育てられてますね」
 空気読んでくださいよ、と憤る文。
「…空気は読みすぎてるぐらいだと思いますけれど」
「?」
 そこへ映姫がフォローを入れたが文には今一、理解できていない様だった。
「映姫さま、じっとしていてください」
 準備が終わったのか、文は消毒液をたっぷりと染みこませた脱脂綿をピンセットに挟み映姫の顔に近づけた。言われた通りじっとする映姫。
「っ」
「あっ、すいません」
 傷口に消毒液が滲みたのか、小さく声を上げる映姫。けれど、すぐに大丈夫ですから、と応えた。
「傷は滲みるものです。大丈夫ですから、続けてください」
「…わかりました」
 そこから先は映姫は特に声は上げなかった。それでも我慢しているであろう事は薄明かりの元でもすぐに分った。文としてはなるべく映姫が痛くないよう出来るだけ優しく手当てするしかなかった。
 傷口を消毒し、小さな傷にはヨードチンキを塗り、大きな傷には軟膏を塗った上でガーゼを貼る。腫上がった左目にも眼帯をつける。
「お顔はこれでOKですね。次は…」
 そう言った処ではっ、と文は口をつぐんだ。
「空気読んだってこの事か…」
 畜生、と小声で毒づく文。
「どうしたのですか?」
「あー、いえ、次は体を診ます」
 映姫が疑問符を浮かべたが文は適当に誤魔化すような言葉を返した。
 二度目の尋問の時は執拗に体を殴られていた。服の上からではそうとは分らないが、相当酷いことになっているのは間違いない。
「服、脱がせますね」
 断わりを入れて文は映姫の服に手をかける。映姫も手伝おうとしたがまだ体が痛むのか苦悶の表情を浮かべた。一人で大丈夫ですから、と文。映姫はもう文に任せきることにした。
 ベストのボタンを外す。ボタンはいくつか千切れていた。殴られた際に破損したのだろう。文は映姫に余計な負担をかけないよう気をつけてベストを脱がせた。次はブラウス。と、そこでまた文の手が止った。
「文」
「は、はいっ」
 映姫がそんな文に幼子を叱るような口ぶりで声をかける。
「これは医療行為ですから、余計なことは考えないで」
「うっ、は、はい…」
 怒られているわけではないだろうが、何故か文は肩を落とした。
 むぅ、流石にこのクラスの御仁になると手玉に取られてしまう。普段なら他人を手玉に取るのは得意なんだけれど。そう心中で思う文。
 医療行為、医療行為と繰り返しながら上から順にブラウスのボタンを外していく。胸元がはだけ黒いレースのブラが露わになる。白い肌と黒い下着。白黒。うむむ、と文は唸り声を上げた。が、すぐに医療行為、医療行為とまた繰り返す。
「…文」
「はっ、ハイ!?」
 また、映姫が声をかける。今度は素っ頓狂な声を上げる文。手を止め、まるで怖い教師に当てられた生徒のように肩を強張らせている。
「いえ、作業は続けて。そう、大したことじゃありませんから」
「あ、はい…」
 窘められ文の手が再び動き始めた。ブラウスを広げ完全に前をはだけさせる。瞬間、文の顔が歪んだ。白い肌に浮いた紫色の痣。それが幾つも出来ていたのだ。黒い下着に白い肌、それに紫の痣。明らかに最後の一つは余計だった。あってはならぬものだった。黒い下着と白い肌だけで完全じゃないか。紫色の痣なんてあってはならない。それを付けた者に対し、文の心に再び憤怒の炎が灯る。
「やっぱり、殺しておけば…」
「文っ」
「……はいっ」
 今度は言われずとも手を動かした。皮膚が裂けている場所を消毒しヨードチンキを塗り、更にガーゼに打撲傷用のジェルを染みこませ湿布をつくりそれを患部に貼り付ける。
「文、ところでこれからどうするつもりなのですか」
「これから、ですか」
 ええ、と文の手を見ながら応える映姫。もう、文は作業に集中出来ているようで手は止ることはなかった。
「そう…ですね。兎に角、映姫さまの疑いを晴らさないと」
「確かにそうですね。いつまでもここに隠れているわけにはいきません。でも、その具体策は? 私はそれを聞きたいです」
 どうやって、私の無実を証明するのですか、と映姫は問うた。文の手は止らない。体中の痣に湿布を貼り終えたので今度は折れた肋骨を押さえるために体を包帯で巻くことにする。折れているのは右の胸の下辺りの肋骨のようだった。左肩から袈裟懸けになるように包帯を回し、次いで胴を二重三重…と包帯を巻き付けていく。
「自警団の人たちに訴えますか。それとも探偵のように真犯人を見つけますか。或いは、異変を―――」
 解決するのですか、その言葉は映姫の口からは発せられなかった。映姫の身体の治療を終えると文は脱がせていた服を再び着せ始めた。ボタンを留めつつ文は顔を上げ、はにかむような笑みを映姫に見せた。
「大丈夫ですよ、映姫さま」
 何故か誇らしげな口調。自信があるということなのだろうか。全てのボタンを留め終えると文は立ち上がった。
「映姫さまの疑いはすぐに晴らしますよ」
 それは、と口にする映姫。文が証人になって映姫の無実を訴えでるということだろうか。だが、その方法は既にかなり難しくなってきてしまっている。当の文本人が拘置所に忍び入り自警団員一人を昏倒、もう一人に重傷を負わせ、更に別の一人に顔を目撃されているからだ。仮に顔を憶えられていなかったとしても映姫も尋問の時に身元の照会を文に聞くよう自警団に訴えでているのだ。証人と襲撃者を結びつけて考えるのは客観的に考えればそう難しい話ではないように思われる。今更文が出て行っても狼少年ではないだろうが話を聞いてくれるかどうか。映姫はそれが心配であった。だが、文は人差し指を立てると何故なら、と得意げな顔を見せた。
「私、真犯人を知っていますから」
<7>


「ぬわ…」
 みょんな寒さを覚えはたては目を覚ました。
 はて、ここはと身体を起こし視線を右へ左へ。見えたのは見慣れた自分の部屋や新聞部の休憩室のヤニで黄ばんだ壁ではなく、そびえ立つファイル棚だった。ああ、そうか、とはたては思い出す。昨日、夜遅くに天狗の里へ戻ってきてそれからこの資料室で資料を漁っていたのだ。どうやらその途中で眠ってしまったらしい。
「あー、背中痛い…」
 固いリノリウムの床で寝ていたのだ。当たり前の話。身体の節々が軋み、床に面していた背中は血の気が通っていないように感じられた。立ち上がり、具合を確かめるよう身体を捻るはたて。
「結局、まとまり切らなかったね…」
 枕代わりにしていた資料の山を見てため息。床には汚い字でメモ書きが散らばっている。寝起きで頭が回っていないのか、はたては後頭部をボリボリと掻きむしりながらどうすっかなー、と呻るような声を上げた。
「あ、いました」
 と、そこへ声がかけられた。振り返るはたて。
「ああ、椛。おはー」
「おはようございますはたて先輩」
 そこにいたのは白狼天狗の椛だった。こちらは寝起きのはたてと違って完全に目が覚めているようでしゃっきりとしている。
「…こんな所で寝てたんですか」
「山の中で寝なきゃいけないアンタらよりマシだと思うけど」
 椛の呆れるような口ぶりに肩をすくめてみせるはたて。哨戒部隊である椛は時として落葉を布団に山中で休息を取ることもあるのだ。
「ところで先輩」
 わざわざ資料室で寝ていたはたてを尋ねてきたのはどうやら何か聞きたいことか言いたいことがあるかららしい。椛はそう話題を切り替えるように話しかけた。なに、と欠伸混じりにはたては返す。
「昨晩、哨戒部隊の備品が一部盗まれるという事件が発生したのですが…なにかご存じないですか」
 哨戒部隊の備品が盗まれる、その部分でぴたり、と欠伸を止めてしまうはたて。椛の瞳が僅かに細まる。疑惑の目。はたては凝り固まった身体をほぐすため腕をぐるぐると回すと、ああそれは、と口を開いた。
「文の仕業よ」
 そう軽い感じで応える。途端、目の前に美味そうな肉塊でも置かれたように椛が迫ってきた。
「文の所在をご存じなのですか!?」
 そう大きな声で問いかけてくる椛。あまりに急な椛の変化にはたては一瞬、面食らった。もっとも一瞬だ。内心でしまった、と己の軽率な行動を反省する。
「まさか。冗談よ冗談。文の知人が怪我をしたんで盗ってきたなんてそんな馬鹿な話はないわ」
「…備品が医療品だとは一言も言ってませんが」
「…そう言えばそうね」
 唇を尖らせるはたて。じっ、と椛は固い表情ではたてに視線を向け続ける。
「…兎に角、はたて先輩は文…先輩と仲が宜しいようですから、もし彼女の所在について何か情報がありましたら私か哨戒部隊のメンバーに教えてください」
「……何かあったの?」
「いえ、大したことは。人里の自警団の連中から最近巷を騒がせている異変について文が何らかの関係性がある、との連絡を受けまして。異変解決のために話を聞きたいので合わせてくれ、と。しかし、昨日から文先輩は姿をくらましていまして、目下捜索中なのですよ」
「ふぅん」
 特に興味なさそうなフリをするはたて。表面上はそうなってるのか、と内心で思う。実際は引渡要求ぐらい届いていることだろう。そうでなければわざわざ自分の所に椛が来るはずがない、とはたては踏む。
「まぁ、お願いしますよ。今朝も人里から『まだ見つからないのか』って催促の連絡が来たぐらいなんですから」
「せっかちね人間って。のろまな癖に」
 まったくです、と同意してあっ、と目を開く椛。立場上、そんな意見は口にしてはいけないのだ。それを聞かなかったことにするつもりか、まぁ、わかったわよ、とはたてはしゃがみ込んだ。床に散らばった書類やファイルをまとめ始める。これで話は終わりだというポーズ。
「そういう訳でよろしくお願いします、先輩」
「んーラジャー」
 ぺこりと頭を下げる椛。それでは、と挨拶する椛に顔こそ向けなかったが作業を続けつつ手を振るはたて。こつこつ、と床を踏む音が離れていって最後に扉を閉める音で椛ははたての元から去っていった。その音を聞いてからふぅ、とため息をつくはたて。
「朝一で『見つかってないのか』って連絡が来たって事はまだ『見つかってない』って訳ね、文たちは」
 誰も傍にいないことは分っていたが誰にも聞かれぬようそう小声で呟くはたて。顔には僅かではあるが安堵の表情が見て取れた。
「んー、まぁ、でも急いで記事を書かないとね。文の部屋にも行かないといけないし…」
 文に哨戒部隊から盗んできた医療品や食料を届けた後、はたては一人天狗の里へと戻ってきていたのだ。ある記事を書くために。
「まったく。記者が新聞を書けなくなったら終わりよ…文」
 ため息混じりの独白はけれど心中の不安が混じっていた。
 昨晩の事を思い出すはたて。


◆◇◆


「何してるのはたて」
「チッ、ヘタレに見つかったか」
 住居の外、闇の中、朽ちた壁に耳を当てていたはたてにそう文は呆れ半分苛立ち半分といった様子で声をかけた。とたん、舌打ちを返すはたて。
「折角、閻魔さま深夜の密会、ってタイトルの記事を書こうと思ったのに」
「そんなの書いたら冥府から死神がアンタのとこへ大挙してやって来そうだけど」
「それが閻魔さま放って置いて外に出てくる奴の言う台詞?」
「くっ…映姫さまなら流石にお疲れなのか、もう寝てしまったのよ」
 寝袋か毛布も持ってきてもらえば良かったと文。ゴムも要ったかしら、と下世話な笑みを浮かべるはたて。ぎろりと文ははたてを睨み付けた。それで軽口の応酬は終わり。二対四で文の負けであった。閑話休題。
「で、さっき言ってたことは本当なの」
「真犯人の事? ええ」
 何でもない風に応えてみせる文。壁から身体を離し、はたてが文に詰め寄るのは当たり前の行動だった。
「何よソレ。どういうこと!?」
「…第一の異変、ううん、あれはまだただの事件だったけれど、あれの現場に居合わせてたのよ。じつわ」
「……」
「で、その時、偶然持ってたカメラで犯人を写してたの。現像はしてないけどね」
 あっけらかんと文はそうはたてに説明する。憎悪さえ瞳に込め、はたては文を睨み付けた。既に忘却の彼方にありつつあるが新聞記事勝負の件だ。はたてが幻想郷中を飛び回って編集した記事よりも最初から明らかに注目を集める情報を文は握っていたのだ。それなのに勝負に乗らず記事も書かなかった文に殺意じみた敵意を抱くのは無理のない話だ。だが、その事を問い詰めるより先に文ははたてに向かって頭を下げた。
「はたて、お願いがあるの。ちょっとの間、映姫さまを守っていてくれない」
 文は基本的に取材の時は相手に対しへりくだり、実力が上の者に関しては常に敬語を使い見下せる相手には嘲笑的な言動を取る。対等に暴言を吐くのははたてに対してだけだ。それがこうも丁寧な態度を見せるとは、あり得ない行動だった。
「アンタは…アンタは何をするの?」
 そんな文の態度に不気味さを憶えたのかはたては承諾も拒否もせず逆に質問した。
「その写真で新聞を書いて幻想郷中に真犯人を知らしめます」
 それで…映姫さまの無実を証明する、と文。表情は決意に満ちていた。
「といううわけで私は一旦、写真を取りに自分の家へ戻ります。その間、映姫さまをお願いするわねはたて」
 それで話は終わったのだと言わんばかりに文は歩き始めた。
「ちょ、おま!」
 待ちなさい! とはたては大声を上げる。
「アンタ、それホントに出来ると思ってるわけ!? 天狗の里じゃアンタの家に閻魔さまが泊ってたことは知れ渡ってんのよ。明らかにアンタも重要参考人じゃん。そんなとこへ戻ってもとっ捕まるのがオチじゃないの!」
 文の腕を掴むはたて。はたての目には文が自殺しに行くようなものに映っていたのだ。
「だからって…それしか方法はないでしょ!」
 今更、自警団に直接掛け合っても無意味だと文は考えていた。事件の早期解決に加え犯人を逃がしたという失態、それに今更それが人違いでしたと簡単に自警団が認めるはずがない。彼らにとてプライドはあるのだ。下手をすればそれが暴走し、陳情に来た文をの仲間として逮捕しかねない。現にそれで映姫は過剰な暴力を受けていたのだ。やるならば間接的に、且つ民衆に大々的に知らしめ世論を操作するしかない。危険だが、それが唯一の方法だと文は考えたのだ。
「分ったわ」
 はたても文の考えを理解したのか深く頷いた。同じ記者だからこそ世論というものの強さを知っているのだ。だが、それを文が行うということは納得がいかなかったらしい。
「だったら、その記事、私が書くわ」
 腕を組み、仁王立ちに宣言するはたて。え、と文は足を止め振り返った。
「学級新聞レベルのアンタのじゃ、今更そんなネタを記事にしても町衆は見てくれないわよ。凶悪事件専門の私の新聞じゃないとね」
「はたて…」
「か、勘違いしないでよね。私は自分の栄誉のために言ってるのよ。凶悪事件を扱うのが得意な私が凶悪な異変の真犯人をすっぱ抜く。うん、鰹のタタキにおろし生姜と土佐酢ってぐらい見事な組み合わせね。だから、アンタは引っ込んでなさい。そう言ってるのよ」
 はたてと完全に向き合う文。そのまま文ははたての肩を掴んで…
「ツンデレ?」
 そう小首をかしげながら疑問符を浮かべた。途端、耳まで真っ赤にするはたて。
「ばっ、バッカじゃないの! 私の何処にデレがあるっているのよ!」
「ツンは認めるんですね」
 でもまぁ、と閑話休題。
「確かに私が書くよりは効果がありそうですね」
 そう顔を綻ばせる文。安堵と信頼の笑みだ。
「だったら、お願いします」
 そう言って文は鍵を一つ取り出した。それをはたてに手渡す。
「私の部屋の鍵です。写真のネガと資料は机の一番上の引出に入ってます」
「ん、分ったわ」
 鍵を受け取りはたては頷いた。そのまま文とすれ違うよう歩き始めるはたて。その背中をお願いします、と文は見送った。


◆◇◆


 その後、急いで天狗の里へと戻ってきたはたてではあったが未だその目的は殆ど果たされていなかった。その理由ははたてが疲労困憊状態であったことに加え文の部屋に見張りがつけられていたからだ。文の言った写真を取りに先に文の家を訪れたはたてはそこでばったりと哨戒部隊の白狼天狗と出くわしてしまったのだ。その時は今の椛とのやりとりのように上手く誤魔化せたのだが、結局、文の部屋に入ることは出来ず泣く泣くその場を去るしかなかったのだ。仕方なく、こうして取り敢ず自力で下準備だけしておこうと新聞部の資料室に籠もっていたのだが、前日からの異変についての記事を書くために奔走していた疲れがここでドッと現れたのか気がつくと床で眠ってしまっていた、という訳だ。
「んー、ホントにどうしよう」
 ポーズで始めた資料整理を続けながらぼやくはたて。どうせ今も文の部屋の前には見張りが付いていることだろう。何とかその見張りを突破して文の部屋に入らないと異変の真犯人についての記事が書けない。今度ばかりははたてが得意とする憶測による記事を書くわけにはいかないのだ。一〇〇%真実でなければ民衆の意向を味方につけられない。
「取り敢ず見張りを騙してなんとか…」
 うーん、と呻りその手段をあれこれ思案する。と、思考に没頭しすぎていたせいか手元が疎かになりファイルを一冊落としてしまうはたて。中に挟まれていた新聞のスクラップ記事や誰が書いたものか分らない取材メモなどが床に散乱した。ああもう、とはたては毒づく。
「駄目だ。頭回ってないわね。朝ご飯でも食べてこようかしらん…ん?」
 散らばった資料をぞんざいにかき集めている最中、はたてはある記事に目が行ってしまった。古い黄ばんだ新聞。その見出しには『幻想郷で連続殺人事件発生』と書かれていた。
 映姫の無実を証明する異変の真犯人についての記事を書くためはたては過去の殺人事件の資料を集めていたのだった。規模は違えど同じ殺人あらば何かしら記事作成の手伝いになるのではと思ったのだ。ただ、はたて本人もそれは暇つぶしでしかないと考えていた。実際に明確な証拠の一つである文の写真を手に入れなければ話は始まらないからだ。ならば何故、そんな多少の参考程度にしかならない記事に目がいってしまったのか。
「……やっぱり、同じ様な事件があったんだ」
 それははたてが映姫についていって市中をぶらついているときに思い出しかけていた事柄であった。あの時、開かなかった記憶の引出の中にはやはりこの事が隠れていたのだ。他の資料をほっぽりだし、そのスクラップ記事を読み始めるはたて。
「ナニコレ。似てるってか…殆ど同じような事件じゃない」
 記事に載せられていたのは四つの殺人事件だ。いや、一件は未遂。夜道で男性が一人、刃物で切りつけられたという事件。二軒目は首を斬られ張り付けにされた遺体が見つかったという事件。三件目は道に捨てられていた樽に死体が詰め込まれていたという事件。そして、四つ目は…
「路上で全裸の男女人妖四人の遺体がパズルのようにピッタリと組み合わされた形で発見された…まったく同じ…ううん、今回のグレードダウン版って感じじゃないの!」
 夜道バラバラ殺人(殺人未遂)
 斬首磔刑展示会(一人)
 ネクロコンプレス(樽に一名)
 ひとでなしの地図(最低サイズ)
 起った事件は全てそのような関係であった。明らかに今回の異変と無関係だとは言えない。
「…なんで、こんな事件があったのに思い出せなかったの、私」
 自己批判を口にして、すぐにその理由に気がつく。新聞の日付は今から五十年も前のものだ。いくらはたてのような鴉天狗が長寿だとは言え流石に半世紀も前のことをすぐに思い出せる訳がない。
「結局、どうなったの。この事件…」
 読み進めていくが記事は前半部分は事件について紹介し、後半は妄想じみたアクロバティックな論法で犯人の動機について言及しているだけで事件そのものがどうなったのかについては一切書かれていなかった。投げっぱなしにも程がある三文記事だ。
「まったく! 誰よこんな記事書いたの!」
 新聞の題字を見る。そこにはポップな字体で『花果子念報』とあった。
「って私ジャン!」
 そりゃ微かにでも憶えているはずよ―ともんどり打って倒れるはたて。折角、詰め直したファイルを放り投げてしまう。ひらひらとプリントが宙を舞う。その内の一枚が倒れたはたての顔の上に落ちてきた。
「……そっか」
 その文面をなんとはなしに見てはたては呟く。
「博麗の巫女が死んだのも同じ時期だったっけ」
 記事はその事について書かれているものだった。記憶はより大きな出来事の記憶によって塗りつぶされてしまう。あの時は天に地に大騒ぎになった。それこそ些末な殺人事件のことなど誰しも忘れてしまうように。
「あーもー、まったく。最初っから文が全力だして書いていてくれればこんな面倒なことにならなかったんじゃないの!」
 倒れたまま駄々っ子のように手足をばたつかせるはたて。顔の上から新聞紙がずり落ちる。その題字は『文々。新聞』文が最後に書いたはたてが読むに価すると思う記事だった。


◆◇◆


「んっ…」
「おはようございます文」
 文が目を覚ますと目の前に映姫の顔があった。まだ覚醒途中の頭でどうして隣に映姫さまが寝ているのだろうと考え、次ぎに何にせよお顔が近すぎます、と思い羞恥心が膨れあがってきたところで…
「っう…お、おはようございます」
 あくまで落ち着き払った様子を取り繕って朝の挨拶を返した。流石に同じネタで二度も狼狽えるのは馬鹿がすることだと悟ったのだ。
「ふふ」
 顔を付き合わせたままでいると映姫が顔に微笑を浮かべた。理知的な瞳が細められ、えくぼができる。ああ、クソ、絆創膏とかガーゼが邪魔ね、と文は憤りを憶える。傷なんて必要ない。優しげに笑っているだけで一面を飾れる…いいえ、個人的にずっと置いておきたくなるような写真になるのに、とそこまで考え結局文は赤面した。
「ど、どうかしましたか」
 頬に熱を憶えつつも文は笑みの理由を尋ねる。ずっとそのまま映姫の笑顔を眺めていたくはあったが、なんだかそれは麻薬のように手を出してはいけない心地よさのように思え、自ら否定したのだ。
「いえ、このところ、ずっと目が覚めると文の顔がすぐ傍にあるな、と思って」
「ぐぅ…」
 映姫の笑みが深くなり、対応するよう最早ぐぅの音も出せないよう文は耳まで真っ赤にした。
「と、取り敢ず起きましょうか。私たちは隠れて待っているだけしか出来ませんがだからといって朝寝坊はよくありませんし」
「私は一時間ぐらい前から起きてましたけど」
 彼女にしては珍しく悪戯っぽく笑んでみせる映姫。はて、こんなフランクな方だっただろうか、とか一時間も前に起きてどうして起こしてくれなかったのだろう、だとか、その間何をしていたのだろう、だとか色々な考えが入り交じり文は瞳をぐるぐると回転させた。混乱しているのである。
「お、起きますよ!」
 こうなれば力業だ、と文は身体を起こした。いや、起こそうとしてそれが無理だと悟った。自分の片腕は今、映姫の頭の下に敷かれているのだ。
 昨晩、はたてとの話合いから戻ってきた文は眠ったと思っていたのに起きていた映姫に迎えられた。眠ろうと思ったがどうにも寒くて眠れないのだと映姫は言った。だが、前述の通り寒さをしのぐ毛布も寝袋もなかったのだ。あの暗さの中では布団など見つけようがなく、仮に残っていたとしても五十年間放って置かれた布団は黴ときのこと虫の住処になっているのは確実だった。仕方なく二人は身体を寄せ合い寝ることにしたのだったが…
「あの、映姫さま」
「何ですか」
「頭、退けて貰えませんか」
「嫌だと言ったら…?」
 ぐぬぬ、と文は臍をかむ。強キャラは苦手だがここまで手玉に取られるとは、と苦虫を噛み潰したような顔をする。
「すいません。冗談が過ぎたようですね」
 そんな文の顔を見て映姫も悪いと思ったのだろうか、片方しかさらけ出されていない瞳を伏せた。
「起こして貰えますか。身体が、まだ痛くって動けなかったんですよ」
「あ…」
 そう言えば、と文は今こそ全てを悟った。映姫は今、重傷を負っているのだ。本来なら今すぐにでも病院に連れ込まなくてはいけないのだ。それが不可能だからこんなほこり臭い場所に隠れ、素人の手当を施して痛みに耐えてもらうしかないのだった。悪いのはどちらか。映姫の身を案ぜず、文は自分自身に憤りを感じた。
「すいません映姫さま」
「何がです?」
 映姫の身体を起こしながら謝る文。全て分っていながらも何も分っていない風を装う映姫の優しさに胸が痛む程だった。
「こんな感じで大丈夫でしょうか」
「ええ、胸の辺りが痛いだけなので座っている分には」
 文が見た限り映姫の怪我は昨日よりは幾分腫れもひき、マシになっているようだった。意識もしっかりしている。傷口からばい菌が入って熱を発している、ということもなさそうだ。治療が功を制したのだろう。
「取り敢ず、朝食にしましょうか」
 はたてに持ってきてもらった物の中には食料品も含まれていた。缶詰やパウチ、干物などだ。ちゃんとした食事、とは言い難いが無闇矢鱈に外を出歩けない今、食べ物があるだけでも有難い話なのだろう。
「どれにします?」
「余り食欲がないので、そのフルーツの缶詰を頂けますか」
 桃やオレンジ、サクランボのイラストが描かれた缶を映姫に手渡す文。これも哨戒部隊から盗んできた物なのだろうか。フルーツ缶は缶切り不要スプーン付属タイプの物だった。
「私はチョコバーにします」
 ヘーゼルナッツ入りの異様に甘い物だ。栄養価が高く携帯性も優れているのでフルーツ缶同様、サバイバル的な仕事の多い哨戒部隊ならではの食料だ。二人は膝をつきあわせてもそもそと食べ始める。
「それで…私たちは当分の間、待機ですかね」
「ええ、はい。はたての成果待ち…ですね」
 投げかけられた質問に応える文。ある程度は昨日、映姫に寝る前に話しておいたが丁度いい機会だからすべて説明しておこうと文は考える。チョコバーを手にしたままはたてには…と説明を始める。
「異変の真犯人は別にいる、という記事を書いてもらっています。映姫さまの無実を晴らすために」
「文は真犯人を知っていると言ってましたね。誰なんですか」
「ああ、いえ。正確に言うと『真犯人が映っている写真』を撮っただけです。きちんと映っているとは思いますが、現像していないので誰か…までは分りませんが」
「そんな曖昧な写真一枚で私の嫌疑を晴らせるのですか。世間的に見れば私は脱獄し行方までくらましているのですよ。生半可な証拠ではとても証拠にならないのでは」
「大丈夫です。写真以外にもある程度、犯人に結びつく情報は集めていますし。それとはたての持っている情報を合わせれば真犯人を断定出来るはずです」
 ふむ、と考え込む映姫。文の説明は十全ではない。写真一枚と情報だけで本当に真犯人を断定することが出来るのか、そう疑ってしまう。だが、文が大丈夫と言っているのだからそれを信じる他ない。
「結局、当分の間、待機ですね」
 ため息をつくよう、最初と同じ言葉を口にする映姫。文ははい、と頷いた。
 薄暗く埃っぽい部屋の中でやることもなく、自警団の人間たちに脅えながら、結果を待ち続ける。長い時間になりそうだ、と映姫は目を細めた。
「……本当なら今日も貴女に幻想郷を案内してもらおうと思っていたんですけれど」
「いやぁ、すいません。でも、あらかた回るところは回りましたよ」
「回れるんならどこでも良かったんですけれどね」
 今度こそ映姫は本当にため息をついた。
「まぁ、いいです。でしたら、お話でもしましょう。いえ、異変に付いてではなく、もっと他愛のないお話を。何か話してくれませんか」
 こういうのをガールズトークと言うのでしょう、と映姫は得意げに言った。少し困ったような顔を浮かべる文。
「えっと…うーん、話を聞くのは商売柄得意なのですが、話すとなると…」
 記事にするならまだしも自ら何かを話す、というのは文はあまり得意ではないようだ。それ以前に、何か話してくれと言われてもとっさには何も思い付かない。うむむ、と唸り声を上げている。
 それを見かねたのか、それなら、と映姫は話を変えてきた。
「私を取材してみてください」
 え、と文は疑問符を浮かべる。
「当初の話では私の旅行記を書いてくれると言っていたではないですか。その延長ですよ」
「はぁ」
 気のない返事。だが、それなら文の得意とするところだ。文はこんな状況でも忘れず持ってきていた取材メモとペンを取り出し、それでは、と映姫に向かい合う。
「ご趣味は?」
「お説教です」
 そんな風に二人は時間をつぶしていった。


◆◇◆


「このッ! このッ!」
 暗い暗いお屋敷の暗い暗い地下暗い暗い牢の中で暗い暗い呪怨に満ちた声が響きわたっていた。
 三方を湿気った石壁に囲まれ、鉄格子が嵌めこまれた地下室。凍えるほど寒く、鼠や蟲が這いまわるすえた臭いの漂う場所で行われているのは折檻だ。ヒュンヒュンとしなる鞭が空を切り、肉を打ち据える乾いた音を立てる。それらが石壁に反響する中、鎖につながれた召使いが小さく苦悶の声を漏らした。大声を上げ喚き立てぬのは堪えているからではなく、その唇が縫合されているからだ。惨たらしい有様。いいや、口だけではない。耳は削がれ、目は潰されている。三重苦。
「お前がッ! お前がッ!」
 空を切る鞭。怒鳴り声を上げる主人。叫ぶこともままならず責め苦を耐える召使い。
 振り下ろされた鞭が召使いの背中を裂いた。鞭の先に付いている錘は歪な星の形をしている。音で脅しつけたり、尻を叩いて急かすための鞭ではなく完全に相手を傷つけ苦痛を与えるためだけの拷問道具だった。それが百を下らぬ数でたたきつけられている。もはや、召使いの背中や尻は鋤で耕したようになっていた。骨が顕になり、肉が晒され、おびただしい量の血が流れ出ている。
「畜生め! 畜生め!」
 酷い苦しみを味わっている彼女にこれ以上、苦痛を与えてどうしようというのか。だが、紅い瞳の主人の心には召使いに対する激しい怒りに満ちていた。それは五十年を経ても未だ消えぬ煉獄の炎が如きドス黒さを誇る感情。いや、もはや感情などという呼び名は相応しくない。それは呪いだ。召使いを“殺したくなくなってしまうほど”憎み続けるという強烈な、呪い。
「ハァハァハァ…クソッ!」
 一晩以上続いていた激しい折檻がやっと終わりを告げた。主人の気が晴れたからではない。主人の体力が尽きただけだ。憎悪は決して尽きることはない。
「どう? 痛い? 苦しい? 辛い?」
 荒い息をつきながらサディスティックに笑む主人。ぐったりと項垂れた召使いは、応えない。応えられない。それがまた琴線に触れたのか、主人は召使いに歩み寄ると血糊で汚れた鞭を皮がめくれ上がっている背中に突き立てた。肋骨と肋骨の隙間。そぶり、と金属錘が肉に沈む。ぐちぐちぐちと血と肉をトゲだらけの錘で混ぜ合わせる主人。徐々に切っ先は沈み込んでいく。そうして…
「あっ、ごめん」
 鞭は到達してはいけない深さまで潜っていってしまった。脈打つ心臓がある場所。主人は謝罪の言葉を口にこそすれ決してそんな感情は抱いていなかった。そのまま中身を攪拌するように鞭を大きく回すと無造作に一気に引きぬいた。葡萄酒が詰まったオーク樽を穿ったよう、勢い良く召使いの背中から血が吹き出す。おっと、とおどけた調子で血飛沫を避ける主人。
「ああゴメンゴメン。心臓、潰しちゃったみたいね。まぁ、でも…」
 召使いから離れ、噴水でもそうするよう主人は吹き出す血を眺めようとした。だが、それは無理な話だった。鉄格子の向こうまで届く勢いで噴き出していた血は、けれど、今は軽く蛇口を捻っただけかのようにちょろちょろと流れ出ているだけであった。それも十を数える間に止まる。
 吹き出していた血だけではない。見ればあれだけ滅多矢鱈に打ち据えられ地の肉を晒していた背中に、今は薄皮が張っているではないか。再生、しているのだ。召使いの身体は。
「そうでなきゃ。殺したくないからね。ああ、だからお前みたいな思い上がりも甚だしいクソ駄犬を我が眷属に加えてやったのよ。本当は! 本当は!」
 身を捩り、口唇を弧月に開き、十指をてんでバラバラな方向に曲げながら憎悪をさらけ出す主人。だが、感極まったのか、言葉の途中で感情のベクトルが一気にすりかわる。
「あの子を…仲間に、本当の家族に、迎え、入れたかった、のに…」
 今にも泣き出しそうな顔をして主人は頭をたれた。全ての呪い、憎悪の始まりは嘆きだ。血糊の溜まった床の上に冷たく悲しい雫が一つ、こぼれ落ちた。
「それを…それをお前がァァァ!!」
 咆哮。嘆きは再び憎悪へ流転する。主人は腕を振り上げると召使いに歩み寄った。鋭く伸びた爪は鞭の比ではない殺傷力を秘めている。一度、振り下ろされれば召使いの身体はそれこそ千の肉片と化すほどの暴力となる。
「アァァァァァァァァァ!」
 激情に駆られたまま主人は召使いめがけその凶爪を振り下ろそうとした。刹那。
「やめてお姉さま!」
 後ろから伸びてきた細い手が凶爪伸びる腕をつかみ、押さえた。主人の妹だった。
「離せッ!」
 暴れるが拘束はほどけない。押さえつけてくる二本の腕には強固な力が、主人が召使いに向ける憎悪と同じく強固な想いが籠もっているからだ。
「もう止めてよ! 彼女だって十分罰を受けたじゃない。もう赦して、赦してあげようよ」
「赦す…?」
 と、不意に主人は暴れるのを止めた。今にも倒れそうなほど脱力し頭をふらつかせる。
「お、お姉さま…?」
 くくっ、と主人の口から小さな声が漏れていることに主人の妹は気がついた。恐ろしくなり、つい、手を離してしまう。
「赦す? ええ、私は当に赦しているわよ。当たり前じゃない。何年経ってると思ってるのよ…」
「じゃ、じゃあ…」
「赦したわよ! 何度も! 何度も! 何度も! それこそ数え切れないぐらいに! 今だって赦していい加減、殺してあげようと思った!」
 実際の処…それは真実であった。主人の妹が止めに入らなかったとしても凶爪は召使いの肉に深々と突き刺さってもその命を奪うまでには決して至らなかったであろう。
「でも駄目! 赦したその次の瞬間からまた赦さないっていう新しい気持ちが湧いてくるの!ドクドクってドクドクって! ああもうクソ! 私だってもうこんなこと終わりにしたいのにどうしたって、どう赦したって、また赦せなくなるのよ!」
 最早それは暗示であった。殺しても殺してもなお厭きたらぬ。その憤怒と憎悪の果て、主人は己に真逆の命を発する枷を仕掛けたのだ。これもまた呪いであった。五十年前から続く浄め拭いようのない呪い。
「あ、ああ…」
 妹は二、三歩、よろめき後ずさった。姉の余りに強大な絶意に怖れを抱いてしまったのだ。それを鼻で笑う主人。お前にこのドス黒い感情が理解できるのか、と。出来るはずがないだろう、と。最愛の者を喪った悲しみを背負ったことがないお前に理解できるはずがないだろう、と。
「もういいわ。今日のお仕置きは終わりよ。仕事の時間よ」
 そう言うともう妹には興味を抱かなくなったのか主人は牢から出て行った。待って、と妹は縋るように手を上げた。けれど、足は動かない。姉に追いつける筈がないのだと身体が理解してしまっているかのように。そうこうしているうちに、
「ひっ…!」
 金属が断ち切れる甲高い音が牢の中に反響し、次いで泥の詰ったずだ袋を引きずるような音が聞こえてきた。
「なんで…貴女まで…そんなにまでなってるのに…」
 嘆きの余りそのばに膝をつく妹。
 そうして、召使いまでもが妹に興味など抱いていないかのように足を引きずりながら主人の後を追うよう牢から出て行ってしまった。
 暗い暗い呪いに満ちた暗い暗い地下室に暗い暗い顔をした妹は一人取り残されてしまった。いいや。暗い暗い、紅いお屋敷で取り残されているのは本当は―――。


◆◇◆


「不味いお茶だぜ」
 顔を渋く歪めながらぺっぺっと今しがた口に含んだ茶を庭に向けて魔理沙は吐き出した。
「ちょ、魔理沙婆さん、それ玉露だぜ玉露」
 そう突っ込みを入れたのは商人風の格好をした金髪の若い青年だった。不味いものは不味いんだ、と声を荒げる魔理沙。
「まったく。この茶の良さが分からないなんてそろそろ舌が狂ってきたんじゃないの?」
「オイオイ、私はきのこの欠片を舐めただけで毒かどうか見破れる舌を持ってるんだぜ。見破れるじゃなくって味破れるだけどな」
 かんらかんらと笑う魔理沙に青年は頭を抱えながら盛大に溜息をついてみせた。
「なぁ、魔理沙婆さん」
 と、青年は少し固い口調で魔理沙を呼んだ後、縁側に座る彼女の隣へと近づいていった。ただ、腰は降ろさずその後ろに立つ。
「そろそろあんな危なっかしい森から出てきてここに住まないか?」
 青年は真面目そうに、そんな提案を魔理沙に告げた。
 青年は魔理沙の甥、そして、現霧雨商店の店主だ。魔理沙は今日、朝から久々に甥っ子の元へとふらりと寄っているのだった。
「婆さんもいい歳だ。そろそろ一人暮らしは厳しくなってきたんじゃないのか。もう当に親父も爺さんも亡くなったんだ。別に婆さんに文句を言う人間は残ってないよ。だから…」
 熱っぽく説得する青年。その視線の先にはすっかり小さくなってしまった魔理沙がいた。曲がった腰。くすんだ金髪。シワだらけの手足。齢七十に近い魔理沙は確かに老いていた。青年の言う通り、一人で暮らしていくには少々不安がある歳だ。
「なぁ、婆さん」
「嫌だぜ」
 それを、魔理沙は無下に断った。
「私は家出したんだ。もう二度とここに帰ってくるつもりはない」
「俺もしたけれどよ…いい加減、帰ってこいよ。何十年経ってると思ってるんだ」
「六十年とちょっとかな」
「知ってる」
 俺の親父が生まれた頃の話だ、と青年。そのままため息を付いてまた縁側から部屋の方へと戻っていった。実は青年が魔理沙に霧雨の家に住まないか、と言ったのはこれが初めてではない。もう何度も顔を合わす度にその話を持ちかけ、そうして断られているのだ。あまりしつこく言うと魔理沙が怒り出すのは経験済みなので今回もまた無理だったと青年は素直に折れた。
「そう言えば細君とチビ助はどうした?」
 今日は静かだが、と庭を見回す魔理沙。青年の妻とその間にできた子供のことだ。いつもならばぁば、ばぁば、と魔理沙の元へ駆け寄ってくる鼻垂れ坊主の姿が見えない。
「ああ、二人なら…」
 少し険しい顔をし瞳を伏せる青年。
「葬式に行ってる。アレと仲の良かった子が、亡くなったんだ」
「……」
 固い言葉で青年はそう説明する。場に何とも言えない重々しい空気がたちこめ始める。
「ほら、最近、恐ろしい事件が起こってるだろ。昨日も町のほうであったんだが…それにその子が巻き込まれてな。朝からその手伝いに行ってる」
 それでか、と内心、魔理沙は合点が行った。今日は店で働いている人間が少なかった。そして、それ以上に客も。皆、各々の葬儀に行っているか喪に服しているのだろう。
 いいやそれだけではない。
「なぁ、婆さん。本当にこっちで一緒に住まないか…?」
「だから…」
 もう一度、同じようにそう提案する青年。反射的に魔理沙は苛立ちを見せながら断ろうとするが更に青年はそこに口を挟んだ。
「心配なんだよ」
 泣きそうに顔を歪めながら訴える青年。
「あの現場に…道一面に死体が並べられてたって話だけど、もしその中に妻や息子がいたら…婆さんがいたらどうしようか、って考えずにはいられないんだよ」
 だから、と再び青年は魔理沙の元へ近寄ろうとした。それを制するよう、よっこらしょとかけ声をあげて魔理沙は腰を上げた。
「人間、死ぬときは死ぬんだ。そういうルールだ。たまに破る馬鹿な奴もいるけどな」
「それはそうかも知れないけれど…でも、だったらせめて最後ぐらいは看取りたいじゃないか!」
「そいつが唐突だったとしても何も不思議じゃない」
 私の親友は昔、唐突に殺されたんだ、と寂しげに魔理沙は呟いた。何も言えず、青年は悔しそうに握り拳を作るしかなかった。
 暫く無言のまま立ち尽くす二人。視線を落とす青年と顔を上げている魔理沙。
「んじゃま、そろそろ帰るとするよ」
 その均衡を破ったのは魔理沙の方であった。青年の肩を叩き、それじゃ、と歩き始める。
「あ、ああ。それじゃあ。気をつけて」
 反応が遅れながらもそう青年は魔理沙を見送った。
 と、
「まぁ、犯人は捕まったみたいだから、取り敢ずは安全だろうけどね」
 最後に青年は魔理沙を安心させようとしてか冗談のようにそんなことを口にした。捕まったから、その言葉を聞いて肩をすくめる魔理沙。
「捕まった? そんな方法で異変が解決するかよ。異変はボスを倒して解決するものだぜ」
 幻想郷の空を飛び回り幾つもの異変を解決してきた少女はそう得意げに呟いた。


◆◇◆


「やっほー」
「や、やっ…おはようございますはたて先輩!」「オザッス!」
 はたてが声をかけると驚きながらも二人組の白狼天狗は深々と頭を下げた。鴉天狗と白狼天狗では種族そのものの地位に差があり、加えてはたては今や天狗の里一の新聞記者だ。まるで入りたての運動部員が高学年のエースに接するような態度も別段おかしなものではない。はたてもまんざらではないのか頬の端っこをひくつかせながらそう妙にいやらしく見える笑みを浮かべた。
「見張り、ご苦労だねぇ」
 ハイ、有難う御座います、アザーッス、と白狼天狗二人。
 ここは天狗の里の端にある古びた建物の四階。その四〇七号室前だ。電灯が一つ切れているせいで薄暗い廊下に狭そうに三人は立っていた。
「えっと、それで先輩…今日はなんの御用ですか」
 白狼天狗の一人がそうはたてに問いかけた。その顔には大きくまたか、と描かれている。
「今日? 今日はねー」
 アハハハ、と浅い笑いを浮かべるはたて。彼女がここに来るのは昨晩に引き続き、二度目だ。そう、ここは文の住むマンション。はたては昨夜取り逃した異変の真犯人が映っている写真を今度こそ回収しようとここへやって来たのだ。
 あれから更に色々と調べたはたてではあったが結局、決定的とも言えるようなネタは掴めないでいた。分ったことと言えば五十年以上前にも同じような事件があったということだけだ。結局、映姫を救うための記事を書くには文の持つ証拠写真が必要だと悟ったのだ。悟ったのだが…
「あの先輩、昨日も申し上げましたが、この部屋には誰も入れるなと犬走隊長からきつく命令されているんですよ」
「あーうんうん、昨日も聞いたわよ」
 昨夜訪れたときもはたてはこの白狼天狗にそう言われ写真回収を断念したのであった。今日、別の隊員が居れば何とか丸め込んで、最悪、賄賂でも渡してでも通してもらおう。そう思っていたのだが事は甘くなかったらしい。よりにもよって彼女のシフトはまだ終わっていなかったのだ。
 さて、どうするか、と適当に相づちをうちながら考えるはたて。
「あー、そうそう」
 と、なにやら妙案を思い付いたようだった。愚案かも知れないが。
「その犬走隊長から許可をもらってきたのよ。文のライバルであるこの私が部屋の中を調べればもしかするとアイツの所在に繋がる手掛かりを見つけられるかも知れない、ってね」
「はぁ」
 気のない返事をする見張り番。今一、はたての言葉を信じていない様子だった。
「…少し、待っていてくださいませんか。隊長に確認をとってきますので」
 案の定、そんなあからさまに疑いを抱かれているような事を言われた。クソ堅物め、とはたては内心でこの白狼天狗に向け中指を立てる。
「あーちょい待ち。椛、忙しそうだったわよ」
「隊長が、ですか?」
 はたての横をすり抜け哨戒部隊の本部にでも行こうとしていた白狼天狗を止めるはたて。
「ええ、天狗の里に怪しい奴がまた進入した形跡が見つかった、って。場合が場合だから警戒レベルを強めなきゃ、って言ってたわ」
「そう、なのですか」
「そうそう」
 動揺が顔に出ないよう、笑みを作ってみせるはたて。
「椛の奴、自分の仕事邪魔されるのが嫌いだからね。下らないことを聞きに行ったら怒鳴られるんじゃないの?」
「うっ…」
 はたての言葉に白狼天狗は身体を強張らせた。身に覚えがあるのだろう。
「ってことでそこ、退いてくれる。私もちんたらして椛に怒られたくないからね」
 最後の一押しにとまた椛の名前を出す。自分の管轄外の下っ端に言うことを聞かせるにはボスの名前を挙げるのが一番だ。大抵の奴は失敗し自分が怒られることを恐れて、まるでそこに上司が居るようほいほい言うことを聞くようになる。
「わかりました」
 案の定、頷く白狼天狗。よし、とはたては心の中でガッツポーズをとった。ありがと、とお礼を言って二人が退けたドアの前に立つ。
「えっと鍵は…」
 文から預かってきた鍵を取り出し鍵穴に差し込もうとする。
 と、廊下の端からうぉんうぉんと呻るような音が聞こえてきたのをはたては耳にした。それがウインチがワイヤーを巻き上げる音だと気がついたのはエレベーターがこのフロアに到着したのと同時だった。この階の住人でも帰ってきたのかしらんと思いつつも鍵穴に鍵を差し込み、回そうとしたところで…
「はたて先輩?」
 よく聞く声を耳にした。はっ、と顔を上げるはたて。はたしてそこにいたのは、部下を二人引き連れた椛だった。
「も、椛!? なんでここに…?」
「いえ、そこの銀杏と南天がそろそろ交替の時間だったので替えの者を…ついでに文さんの部屋を調べようと思いまして…」
 銀杏と南天、とは見張り番をしていた白狼天狗の名前だろう。上手く口車に乗せ言いなりにした二人の白狼天狗は今やはたてに困惑と疑いの目を向けていた。
「はたて先輩は…?」
 明らかにはたてがここに何をしに来たのか知らない様子の椛。当然だ。さっき、はたての口から出た言葉は全て出任せの嘘だったのだから。銀杏と南天もはたてと椛の言い分の矛盾にすぐに気がつき完全に顔色を疑惑のそれに変えた。
「隊長、はたて先輩は隊長の命で文先輩の部屋を調べに…」
「あああああああ!!!!」
 椛に銀杏が説明しようとしたところで奇声を上げるはたて。何事かとその場にいた五人の白狼天狗の視線が集る。はたては引き攣るような笑みを浮かべると、最早これまで、と悟ったのか…
「ごっ、ごめん!」
 そう大声で謝ると同時に椛を突き飛ばし一気に走り始めた。あっけにとられる白狼天狗たち。そうしてそのままはたては椛たちが乗ってきたエレベーターに飛び乗ると扉を閉め一人で一階まで降りて行ってしまった。
「え、えっと…た、隊長?」
 遅れて隊員の一人がどうすれば宜しいのですかと言わんばかりに疑問符を投げかけた。椛はボリボリと頭を掻いた後、ため息をついた。
「放っておきましょう。鍵を壊す必要がなくなったんですから好都合ですよ」
 見れば確かにはたてが文から借りてきた鍵は鍵穴に刺さったままだった。はたては抜くのを忘れていたのだ。
 そのままドアノブを回す椛。開いた先は丸一日以上、主人不在の部屋だった。
「……」
 そして、椛が嫌っている鴉天狗の部屋でもあった。今回の騒動に部屋の主が関わっているということも更に嫌悪を加速させた。開かれた扉の前に立ったまま眉を歪める椛。
「いえ。すいませんがここは貴女たちに任せます。私ははたて先輩にもう少し詳しくお話を伺ってきます。何かご存じのようですし」
 そう言って椛は部下の否応も聞かずに部屋の前から離れた。部下たちに命令したことも真実だが、それ以前に矢張、嫌いな天狗の部屋に入るというのがどうしても我慢できなかったのだ。未だに事情が飲み込めず、棒立ちになっている銀杏たちを残し一人、廊下の端まで歩いて行く。
「文の奴め…ッ」
 呟き、忌々しげに椛は自分の爪を噛んだ。
「ど、どうする?」
「どうするったって…言われた通りにするしかないだろ」
 取り残された白狼天狗の隊員たちはため息をついた後、顔を見合わせぞろぞろと雁首並べて文の部屋の中へと入っていった。さて、どこから手をつけたものかと先頭の銀杏が居間の戸を開けたところで、
「え?」
 言葉を失った。それが彼女のこの世で最後の台詞だった。


◆◇◆


「しまったぁ…」
 外に出てそのまま周囲を伺い、細い路地に身を隠すように入り込むはたて。ある程度、文のマンションから離れたところで壁にもたれ掛かり上がった息を調える。
「あーもーちょべりばータイミング悪すぎっ!」
 地団駄を踏み、はたては悔しそうに唇をひん曲げる。
「まったくもう椛ェ…あーもー、これでますます文の部屋に入りにくくなっちゃったじゃないの…!」
 もはやああなってしまっては見張りに袖の下を渡しても文の部屋に入るのは難しいだろう。嘘をついて白狼天狗を騙しあからさまに不審な手段で進入を試みたのだ。今頃、あの銀杏と南天は椛にお説教され、絶対に絶対に、仏様でも神様でも通すなと厳命されているだろうな、とはたては考える。それどころか文に続き自分もチェックリストに追加されているんじゃ、と身体を震わせた。
「ううっ、写真は手に入りにくくなったのに更に自分の疑いも晴らさなくっちゃならないなんて…」
 マジ最悪ーっ、と吠えるはたて。
「畜生ーっ。こうなったら文リスペクトで強行突入するしかないのか…」
 そう口に出して自分自身に提案してみたもののまったく乗らない話だった。文は姿が見えなくなるステルス迷彩を着こんでしかも明らかに弱い人間を相手に強攻策をとっただけだ。同じ事を白狼天狗たちにしたところでとても通用するとは思えない。下っ端だが白狼天狗も天狗の端くれ。人間のように軽くあしらえる強さではない。加え彼女らは鼻がいいのだ。姿を消して近づいてもすぐにばれてしまう。目も耳もいい。だからこそ山の警備を任せられているのだが。
「うーっ」
 八方塞がりだ。仮に文の部屋の前の警備を突破して写真を手に入れたとしても襲撃はすぐに哨戒部隊に伝わり晴れてはたても映姫と同じブラックリストに仲間入りだ。そうなっては新聞を書くどころの話ではない。
 どうすりゃいいのと唸り声を上げ続けるはたて。新聞のことに異変の真犯人のこと。かつて程のやる気を見せなくなった文に傷だらけの映姫。それにおそらくは自分を疑って居るであろう椛の事。頭の中には様々な考えや思いがぐるぐると渦を巻いており、とても集中出来ないでいる。連日の疲れがそれに拍車をかけていた。
「あーもー、チョーエムエムぅ…」
 考える事さえ放棄し、そのままずるずると壁に背を擦らせながらしゃがみ込んでしまうはたて。そのまま脱力し、膝の上に置いた腕を枕にうずくまるはたて。
 と、
 でれれれれれェ、でれれれれれェ♪
 不意にはたての懐から電子音が鳴り響いてきた。わわっ、と慌てて顔を上げるはたて。電話がかかってきたのだ。
「もしもし」
 ディスプレイ表示も見ずに電話に出るはたて。はたして相手は…
『もしもしはたて。文だけど』
 神社に隠れているライバルからだった。なんだ、と肩を落とすはたて。椛からかと思って身構えていたのだ。
「何? 文」
 相手が文なら別に今は言い逃れのための嘘を考える必要はない。
『何? じゃないわよ。どうなってるの? 連絡の一つもくれないで』
「あー」
 そう言えば文と別れてから一度も連絡をした記憶がなかった。逐次連絡、と約束していたのにも関わらずだ。
「いやー、じつはちょっと困ったことになっちゃって…」
『困ったこと?』
 自分のミスを文に話すのは普段なら絶対にしないような事だが場合が場合だ。はたては包み隠さず今までの出来事を文に説明した。
『アンタ馬鹿ァ?』
「うぐっ」
 案の定、そんな呆れかえるような文の言葉がスピーカーから聞こえてきた。
「いや、だって文ぁ。あんなタイミングで椛が現れるなんて思ってもいなかったの!」
 泣きそうな声で弁明めいたことを言うはたて。自分は悪くないのだと言い訳しているのだ。そんなはたてに対してか電話口の向こうからあからさまに大きなため息が聞こえてきた。
『アンタ馬鹿ァ?』
「二回目!? いやっ、だから文ぁ。あれは不可抗力で…」
『私はアンタの失敗について呆れてるんじゃないの』
「へ?」
 いや、それもあるけど、兎に角、と文ははたてに言い聞かせるよう語気を強めた。
『わざわざ私の部屋に写真を取りに行かなくても念写すれば良かったんじゃないの』
「あっ!?」
 つい、はたては大声を上げてしまった。
 そうだ、どうして忘れていたのだろう。はたては念写をする程度の能力を持っているのだ。いや、実際はそれは携帯電話の機能だがそれを使いこなせるのは長年、部屋に籠もって写真と憶測だけで記事を書いてきたはたてだからこそだ。最早、○○する程度の能力、と言っても過言ではない。
「あー、いやー、このところずっと外に出て自分で写真撮ってたから忘れきってた」
『まったく』
 いつぞやかのダブルスポイラー勝負の後、はたては文をリスペクトして自前で新聞記事用の写真を用意するようになっていたのだ。忘れていたのも無理はない話だった。
「ごめんごめん。まぁ、でも、アリガト。これで記事が書けるわ」
『ホント言うと資料もあった方が良かったんでしょうけど、まぁ、OKよね』
 うん、OKOKとはたて。倦怠は既に何処かに。大スクープを掴んだようにはたては目を輝かせていた。
「んじゃまぁ、一端電話切るね。念写してみるから」
 おねがいね、と文が言ったのを聞いてから通話終了のボタンを押すはたて。さて、と気を取り直して携帯電話を操作し始める。
「久々ね。まぁ、私にかかれば写真の一枚ぐらい…」
 念写アプリを起動しキーワードを入力。すぐにはたては件の写真を発見した。
「うひゃーこれね。怖そうな顔が映ってんじゃん。今まさに殺しましたよってナイスタイミングね。ピュリッツァー賞も取れるんじゃないの」
 映っていたのは街灯の下、大ぶりのナイフを手に自分の身体の下にバラバラの死体を敷いている分厚いコート姿の女だった。撮影者…文の方に顔を向けているがその目は潰れ、口は縫合されている。惨たらしい顔つき。さしものはたても胃の辺りが締付けられるような想いにかられ…
「さっそくプリントアウトして…え?」
 それと同じ顔が自分の前に立っていることに気がつき、絶句した。


◆◇◆


「あ、はたてさんには連絡が付きましたか?」
「ええ、映姫さま。あいつってば今の今まで私が撮った写真を手に入れてなかったみたいなんですよ」
 廊下から戻ってきて文ははたてとのやりとりを映姫に説明した。
 はたてから余りにも連絡が来なかったのでしびれを切らした文がこちらから電話をかけたのだった。
「な、成る程」
「これはもう少しかかると思った方がいいみたいですね…」
 はぁ、と盛大にため息。文は映姫の傍まで寄るとどかりと腰を下ろした。苛立ちが態度に表れている。
「まったく、はたての奴ってば…」
 言葉にもだ。唇をとがらせ、ぶつくさとぼやく文。
「仕方ないでしょう。何か予想外の出来事があったのかもしれません」
「予想外というならまだ写真を手に入れてないってのが予想外ですよ…」
 またため息をつき、なんとはなしに床に広げたままの荷物に目を向ける文。あの後、お昼を食べる前にもう一度、映姫の包帯やガーゼを取り替えたのだが、それで殆どはたてが持ってきた分は使い切ってしまった。僅かにガーゼや消毒薬が残っているだけだ。それに…
 ぐぅぅぅ…
「あっ」
 顔を赤らめお腹を押さえる映姫。その直前に聞こえたのはお腹が鳴る音だった。
「どうかしましたか、映姫さま」
「い、いえ」
 聞いていない風を装いそう映姫に声をかける文。はたては文に言われたとおり食料を持ってきてくれていたのだがその量は余りに少なかったのだ。こちらはもう夕食の分はない。
「まだかかるならもう少し物資が必要ですよね」
 立ち上がる文。どうしたのですか、と映姫。
「もう一回、はたてに電話をかけて包帯とか缶詰とか持ってきてもらいますね」
 できれば寝袋とかも、と。昨日の夜、寝にくかったことを思い出したのだ。
「何か必要なものは有りますか? 伝えておきますけれど」
「そう、ですね…出来れば着替えをお願いしたい処です」
「あー、そうですね」
 映姫に言われ昨日はお風呂に入っていない事を思い出す文。言われるとなんだか身体がべたつきとても汚れているような気がしてきた。
「わかりました。ちょと待っていてください」
 腰を上げまた廊下まで出て行く文。人の前で携帯電話で話さないのは基本的なマナーだ。
 立て付けが悪くなり、完全に閉めるのも難しくなった戸を閉め携帯電話を取り出す文。通話記録からはたての番号を呼び出し、コール。けれど…
「ん…?」
 スピーカーからなんどもコール音が繰り返し聞こえてきてもはたては電話に出なかった。
「なんで? 大体、いっつもすぐに電話に出るのに…?」
 文はみょんな胸騒ぎを憶えた。


◆◇◆


「えっと…」
 一体、いつの間に現れたのだろう。はたては目を丸くして目の前に立っている人物を観察する。
 頭からすっぽりと分厚いコートに身を包み項垂れるような格好で立っている。覗きみた顔は酷い、の一言だった。皮膚病か、ただれた頬や額からは血や膿んだ汁が止めどなく流れ出している。そうして、それよりも恐ろしかったのは目と口だ。かつては丸い眼球が収まっていたであろう眼孔は今はぽっかりと孔を晒し、口は乱雑に太い糸で上下の唇を縫合されていた。僅かな隙間から涎と吐息が洩れている。体つきからかろうじて女だとわかったが、妖怪でもそうはいない恐ろしい容姿をしていた。
 鼻をつく腐臭はコートの下も顔面同様、恐ろしい有様になっていることを表していた。コート自体も乞食でも捨ててしまうのでは、と思えるほど汚れてしまっている。特に前面は黒い汚れがこびり付きまるでにかわのようになっている。なんの汚れだ、とはたては訝しみ、いつぞやか取材した屠殺場の旦那が身につけていたエプロンも似たような汚れ方をしていたな、とそんな事を考えた。血と脂が固まったものだ。問題は何のものかということだ。
 いいや、そんな事、考えるまでもない。これが、コレこそが異変の真犯人だとはっきりとはたては悟った。直前に念写した文が撮影した犯人の画像を見ていたからではない。仮にまだ見ていなかったとしてもはたてはコレが犯人だと直感しただろう。恐ろしい容姿と汚らしい格好、見るからに怪しげな人物だから、だけない。小奇麗な格好をしていてもコレが犯人だということは分かった。何故ならば、凄まじい殺気が、目に付くもの、生きとし生けるもの、全てを殺してしまうような殺意をコレは放っていたからだ!
「あ…!?」
 謎の人物、異変の犯人、コート姿の女の腕がゆっくりと持ち上がる。その手の中に白刃を認めた刹那、
「っぶないわねェ!!」
 はたては飛び退いていた。いいや、飛び退くという形容で足りない。瞬きするほどの時間ではたては二軒向こうの民家の庭まで移動していたのだ。瞬間移動じみた動き。腐ってもそこは烏天狗。足の速さで幻想郷で右にでるものはいない。
「クソ。なんだって私の所に…痛っ…?」
 筈だった。体を起こしさてどうするかと考えようとした瞬間、はたては自分の右手が全く動かなくなっていることに気づいた。赤い液体と一緒に愛用していた携帯電話が手の中から滑り落ちる。運悪く落ちた先は石の上で携帯電話は破片を散らし壊れてしまった。遅れて身を捩るような激痛。見れば右の肩口に深々とナイフが突き刺さっているではないか。
「そ、そんな…はっ!?」
 物音が聞こえ振り返ると先ほどと同じくコート姿の女が庭の真ん中に立っていた。今度は両手にナイフを構え、はたての方へにじり寄ってくる。じりり、と後退するはたて。まるで猛獣を前にしているようだ。気を抜けば次の瞬間、喉笛を引き裂かれる、というのは行き過ぎた考えではないだろう。はたては二歩、三歩と後ろに下がり、踵が垣根に触れた所でそれ以上は下がれないと理解した。もう、逃げ場はない。
「なんじゃ、お前らは!」
 どうする、とはたてが逡巡しているとそこに第三者が現れた。おそらくはこの家の主であろう高い鼻と赤い顔をした老天狗だった。助かった、とはたてが天狗の方へ顔を向けた瞬間、その天狗の頭にいくつものナイフが突き刺さっていた。
 はたてはコート姿の女がナイフを投げるところを見ていなかった。いや、見えなかった。ただ、投げたのは事実のはずだ。何故ならコート姿の右腕はナイフを投擲した後の形をとっていたからだ。手の中にナイフはない。
 頭を己の流血で更に真っ赤にした天狗はそのままもんどり打って倒れた。いくら妖怪といえど無数のナイフで頭蓋骨を貫かれてはひとたまりもない。即死だろう。
 次はお前だ、と言わんばかりにコート姿が再び歩を進めた。その瞬前はたては庭から跳躍し屋根の上に逃れた。
「畜生…畜生!」
 そのまま屋根瓦を踏みつけ走る。走る。疾走る。
 身体が動く度に突き刺さったナイフが肉をえぐり耐えがたい痛みを放つ。だが、泣き言は言っていられない。兎に角逃げねば。動かない片腕を庇い、血の雫を瓦の上に残しながら走る。その速度は風のようだ。目にも留まらぬ、とはまさにこのことだろう。軽く道を飛び越え向こう側の家の屋根へ。着地しても速度は落ちない。それどころか更に加速。進行方向に並び立つ二棟のビルを見つけるとはたては走る勢いを利用して大跳躍した。アーチを描き飛ぶはたて。速度は衰えていない。そうしてそのままビルの壁面にぶつかるかと思われた瞬間、はたては壁を蹴って更に上昇した。それを都合二度。十階建てのビルの屋上へとギリギリながらに到達する。
「ハァハァハァハァ…こ、ここまで来れば…」
 荒い息を付き、その場で膝をつくはたて。流石に体力の現界であった。
「クソ…あれは、完全に私を狙っていたわね。どういうこと? まるで文と私のやり取りを聞いていたみたいな…ッぐ」
 息を整えようともせず、口を動かしているのは興奮のあまりか。はたては肩口に刺さったナイフの柄を握るとぐっ、と力を込めた。いつまでも刺しておくわけにはいかないと思ったからだ。ずるり、と自分の肉の内側を金属が擦る感触に怖気を覚えながらナイフを引き抜く。兎に角、止血しないと。このビルの人に助けてもらおう。そう考え無造作に血まみれのナイフを放ったところではたては…
「あ…?」
 逃げ切れていないことを悟った。
 投げ捨てたナイフはコンクリートの上を転がっていき、そうしてコート姿の靴にあたって止まった。当に追いつかれていたのだ。
「何アンタ。長距離の金メダル持ってるの? 足早スギ」
 よろめきながらもはたては身体を起こした。まだ息は上がっており、足元はふらついている。加えナイフを引きぬいたせいで傷口からは止めどなく血が流れ出ている。とてももう一度、逃げられるような力は残っていなかった。
 それでも、
「畜生…」
 逃げざるをえなかった。再びナイフを手ににじり寄ってくるコート姿。その歩みは亀のように遅く、生まれたての子鹿のように力ないものだった。だが、どうしてもそんな緩慢な動作のコート姿から逃げ切れるイメージがはたての頭には沸いて来なかった。そしてそれは事実だ。二度逃げてその度に一瞬で追いつかれているのだ。とんでもない速さだった。まるで時を止めているような…
「畜生ッ!!」
 唐突にコート姿から背を向け走り出すはたて。ほんの一縷の望みをかけての行動だった。しかし、それは無為に終わる。
「…嘘、でしょ」
 振り向いた先には更なる絶望が待ち受けていたからだ。
 空間を埋め尽くすように並べられた無数のナイフ。その全てが切っ先をはたてに向け中空に静止しているのである。
「……」
 目を見開き逡巡。はたては並べられたナイフの位置と角度からこの弾幕を抜ける唯一の道を見つける。だが、それは身体が十全に動いていても十度に九回は被弾しそうな針の穴を通す超高難易度の道だった。
「これも弾幕ごっこって訳ね。畜生」
 毒づき泣きそうに顔を歪めながらはたては走った。
「うぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
 そして動き出すナイフ。
 その配置は絶妙。はたての足を止める物。はたての進行方向に飛んでくる物。はたての背中を狙う物。そして、はたての命を確実に奪う物で構成されている。はたてはその僅かな隙間やほころびをかいくぐって進む。身を捩り、横っ飛びに躱し、低姿勢で最大速を出す。だが、避けきれる筈がない。頬を刃が掠め、動かない右腕を切り裂かれ、腿にナイフが突き刺さる。
「ッ、ぐ、そ!」
 かしずく身体。ともすれば膝をつきそうになる足。流れる血液。満身創痍。幾つもの傷を負いながらもはたては何とか絶対死の弾幕をくぐり抜ける。
「あっ…」
 いや、くぐり抜けた自分の背中をはたては見ていた。
 血まみれの服。左腋に刺さったナイフ。動かない右腕。倒れそうになりながらも尚も歩を進める足。もう少しでビルの端だ。その向こうには隣の同じ高さのビルの屋上が見える。離れているが軽く飛び越せる距離だ。けれど、虚しく傷だらけの身体はビルとビルの隙間にへと落ちていった。当たり前だ。落ちていった身体には首から上がついていなかったのだから。
「あや…」
 体感時間でゆっくりと狭くなっていく視界。自分の身体が完全に見えなくなったと同時に全ては黒く染まった。
「ごめん…」
 呟きは果たして本当に発せられたものだったのか。はたての最後の思念だったのかも知れない。ぐしゃりと泥を詰めた頭陀袋を落としたような音がビルの合間に反響した。


◆◇◆


「おかしいなぁ…まだ出ない」


◆◇◆


「―――」
 椛は巨木のようにじっと立っていた。別段、なにかをしているわけではない。ただ、虚空を睨みつけるよう、視線に力を込めながら立っているだけである。だと言うのに、まるで抜き身の刀を構えているような絶意を全身から放っていた。無防備に近寄ればそのままなますに切られてしまうのでは、そんなそう想わせる鬼気を。阿修羅像が如き威圧感だ。当然、誰もそんな椛には話しかけられずにいた。
「隊長、こぇぇぇっ」
「なんで、あんなキレてるん…?」
「いやだって、ホトケさんは隊長の…しかも、見つけたのは…」
 ひそひそと内緒話でもするよう小声で言葉を交わしているのは椛の部下の白狼天狗たちだ。この二人は地面にしゃがみこみ鼻をひくつかせピンセットで遺留品をつまみ上げたりしている。彼女たち以外にも街路樹を利用して黄色と黒色のストライプのテープを張ったり、ブルーシートを広げたりしている一団がいる。ビルの壁面に手をつき嘔吐している者も。普段は哨戒の任務を与えられている彼女らがどうして現場検証の真似事などをしているかと言えばその目と鼻を買われてのことだ。下手人を捕まえ制裁を加えるための一切の証拠を見つけ出すために。
「はたて先輩…」
 椛の視線の向こう。今はブルーシートに隠されている場所。ビルとビルの隙間の猫の額程の土地にはたては、あった。
 コンクリートの上に叩きつけられた身体は無惨な程に潰れていた。飛び出した骨。地面にこびり付いた腸。広がる血。地上十階の高さから無防備に落下した結果だろう。本来なら刺傷や切傷などがその体には刻まれていたはずだが、検死の知識を持つ者が視なければ分らない程、身体は損壊していた。頭部以外は。
 地面にへばり付いているはたての身体には頭部がついていなかった。頭部は身体から離れること数メートル。歩道とビル間の土地との境界上に置かれていた。落ちていた、と言うのではなく置かれていたというのは顔が真正面を向いていたこと、二つにまとめられた髪の毛が綺麗に調えられていたこと、そして、身体の状態に比べ明らかに頭部だけが生前の状態のまま――目立つ痕跡と言えば頬の切り傷だけ、だったからである。はたては首を切り落された後、身体だけビルから落し、その後、綺麗な首をこの場所に置かれたのだ。下手人の手によって。
「クソ…」
 悪態を漏らす椛。
 はたての遺体の第一発見者は彼女であった。
 文のマンションから逃げるように去っていったはたてから事情を聞くためにその後を追いかけて行った椛はある民家の庭で天狗の他殺死体を発見した。はたての匂いを追っていたのだが、途中でそれが途切れ仕方なく飛んで捜索しようとしたところで発見したのだ。庭にはそれ以外にもはたての携帯と血痕を見つけた。匂いが途中で途切れたのは何者かに襲われ、はたてが超高速で逃げたためだと判断した時、既に椛ははたての残した血の痕を追いかけ走り出していた。
 事情聴取の為だけではなかった。純粋にはたての事が心配だったのだ。椛が今の哨戒部隊の隊長の座に納まっているのははたてのお陰でもあるからだ。
 その昔、妖怪の山に逃げ込んだ犯罪者を拿捕する任を椛達白狼天狗が受けたとき、はたてもそれに付いていったことがあった。白狼天狗の仕事を紹介する記事を書くためだ。結果から言うと大捕物は椛の活躍で成功し、その事について仔細且つ過剰に書かれた花果子念報が後日配付され、それは増刷がかかる程の人気を呈した。そこから大天狗の目にも止り椛は隊の中でも一目置かれるようになり、その後も成果を上げこうして椛は白狼天狗哨戒部隊のリーダーに任命されているのだ。はたての記事が椛の出世の発端だったのだ。恩人、と言っていいだろう。いや、そんな感謝の気持ちだけでは足らぬ想いを椛ははたてに抱いていた。
 その感情が椛を走らせた。はたての残した血痕を辿り、民家の屋根を突っ切り、道路を飛び越え…そうして、けれど、ついに見つけたはたては無惨にも変わり果てた姿となっていた。
「先輩…」
 もっと早くに見つけておくべきだと悔やまずにはいれなかった。いや、それ以前に文の部屋の前で引き留めておくべきだったと。はたてに悪い印象を与えたくなくて、わざとあの場は見逃してしまったのだ。部下たちの前では毅然とした態度を取らなくてはならない。その後でやはり話ぐらいは聞いておかなければ、と思い直し追いかけたのだが、既に時遅し、だった。
「……」
 悔しさに歯噛みし握り拳を固く作る椛。いよいよもってその雰囲気は近寄りがたいものになり、現場にいる隊員たちは責が飛ぶのを恐れ皆黙りこくった。
「あ、あの…隊長…」
 そこへおずおずとした態度で白狼天狗の一人が椛に話しかけてきた。勇気ある行動、とは誰も褒め称えなかった。今の椛は回りから爆弾のように思われていて、なんであれ下手に刺激を与えるのは危険だ、というのが隊員たちの共通認識だったからだ。話しかけた隊員もそれが分っている。
「……何?」
 だが、仕事だ。黙っているわけにはいかない。彼女は自分に仕事を押しつけた上司と自分自身の真面目さを呪いながら口を開いた。
「その射命丸文の部屋の見張りを任せていた者達がですね…」
 それでもまだ恐ろしいのか報告に来た隊員の口調ははっきりとしないものだった。ぎろり、と椛は彼女を睨み付けた。きちんと喋れ、とういう視線。
「そっ、その…殺されて、まして」
「なんだと!!」
 瞬間、作業していた者達の手さえ止めるような大声を上げる椛。怒られたと思ったのか、それを伝えに来た隊員は身をすくませた。
「どういうことだ!」
 隊員の腕を掴み尋問でもしているかのような剣幕で問いかける。
「は、はい。四人とも射命丸文の部屋でそ、そのばら、バラバラに…されていました」
 泣きながら事情を説明する隊員。彼女もその現場を見ている。四人の白狼天狗がどれが誰のパーツか分らない程、身体をバラバラに切り落され部屋中にばらまかれていたのだ。
「…!」
 言葉もなく顔を引き攣らせる椛。そのままわなわなと身体を震わせながら椛は膝をついた。そうして…
「畜生! 畜生! ちくしょぉぉぉぉ!!」
 大絶叫を上げながらアスファルトに拳を叩きつけた。拳骨が裂け血が噴き出すがお構いなしに、畜生、畜生、と怒声を上げながら椛は地面を殴り続けた。やり場のない感情を発露するために。だが、己の身体を傷つけてもなお追いつけぬ量の怒りが心の奥底から沸き上がってきていた。
 はたてに嫌われたくなくて逃げるのを見逃した―――結果、はたては死んだ。
 文の部屋に入るのが嫌で調査を部下に任せた―――結果、部下たちは死んだ。
 全ての行動が裏目に出ている。亡くなったのは意中のけれど自分の意思を伝えていなかった恩人と信頼する部下だ。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
 狼の遠吠えが如き咆吼を上げ椛は腕を振り上げた。その拳はもう血まみれだ。それでもなお行き場を失った感情は彼女に自傷行為を助長させる。
「ッ…やめ、やめてください隊長!!」
 腕が振り下ろされようとするその寸前、報告に来ていた隊員が椛の腕を押さえた。あっけにとられ傍観していた他の隊員も走り寄ってきて混乱する椛を押さえる。
「お気持ちは分りますが…落ち着いてください…!」
「ッ………!」
 押さえられた腕を振りほどこうと椛は藻掻いたが部下に諭されやっと暴れるのを止めた。隊員たちもそれ以上、掴んでいる必要はないと腕を放した。肩を落とし項垂れた格好のまま椛は立ち上がった。
「………ろ」
 椛の唇が動き、何事かを言った。だが、小さすぎてその場にいた誰の耳にもその声は届かなかった。
「え?」
「里の自警団に連絡を取れ、と言ったんだ!」
 隊員の誰か一人が迂闊にも疑問符を漏らした瞬間、ついに爆弾は爆発した。先程の方向と同様の大きな声で、けれど明確な方向性を持った感情をのせ。
「私たちも異変の犯人捜索に加わる。いいや、人間なんぞに任せていられるか! 復讐するは我にありだッ!! 仲間を殺されたんだ! その命を持って償わせてやる!」
 椛の咆吼に一瞬、場は静まりかえった。だが、どこからかざわめきが起り、次第にそれは大きなものとなり狼の咆吼へと変った。
「やるぞ、やるぞ…!」「制裁を! 悪逆非道な下手人に制裁を!」「奴に鉄槌を加えろ! 我らの仲間の命を奪ったことを地獄で後悔させてやる!」
 腕を振り上げ大声を上げる白狼天狗たち。同じ隊の仲間を殺されているのだ。隊長である椛と皆同じ気持ちだった。合戦前の武士たちの陣営の様に場は熱気に包まれる。
「……文ッ」
 そこから一人、椛は離れていった。これだけの熱気の最中、皆がある意味で浮かれ上がっているというのに、いの一番に吠えた彼女の顔は、けれど何処か冷たさを保っていた。
「…絶対に絶対に許さないぞ!」
 未だに真犯人の影は掴めていない。だが、そこに至る手掛かりはあった。
 文だ。椛の部下もはたても死ぬ直前に文の部屋を訪れている。文が犯人と何らかかの関わりがあることは間違いないと椛は考える。人里の自警団からもたらされた犯人像も数日前、天狗の里の入り口で文に連れられやって来た女性と一致する。
 以前からの敵対心と此度の疑惑が入り交じり椛は完全に文が異変の犯人の一派だと信じて疑わなかった。異変を起こしたのも、はたてを殺したのも今は落ち目な自分の新聞を盛り上げるためにスクープを自ら作り、はたてを殺すことでライバルを蹴落としたのだろう。浅く自分勝手な行動だと椛は考えた。
「行くぞ! 地の果てまでも追いかけて奴を殺してやる!」
 おおっ! と鬨が上がった。一個の意志に統率された彼女らはまさしく猟犬部隊である。そこから逃れられる者など、いようはずがない。


◆◇◆


「おかしいな…」
 呟き、文は何度目かのはたてへの電話を切った。今度もはたては電話に出なかった。
「もう、なにやってるんでしょうねはたては」
「記事の制作に手一杯なのかもしれませんよ」
 苛立ちを見せる文とそれを窘めるため、まっとうな予想を口にする映姫。その実、はたては電話に出ないのではなく絶対に出られないのだとは二人とも夢にも思っていなかった。
「…お腹空きましたね。それに怪我の具合は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
 そう言う映姫ではあったが文は納得していないようであった。丸一日、安静にしていたが場所は廃屋と化した神社の一室だ。布団もなく昨日は固い床の上で身を寄せ合って寝ている。健康体でも下手をすれば風邪でもひいてしまいそうな状況だ。
 朝、一度、包帯やガーゼを取り替えたがまだ映姫の傷の多くは塞がっておらず化膿している箇所もあった。出来れば清潔な医療品、なくてもせめて食事ぐらいは摂りたいところではあったがそのどちらとも手元にはなかった。
「…うん」
 暫く立ったままでいた文は不意にそう頷いた。どうしたのですか、と映姫が尋ねる。
「ちょっと、物資の調達に行ってきます」
 どうやら立ったままでそんなことを考えていたらしい。
「大丈夫なのですか?」
 すぐに問い返す映姫。ええ、と文は自信に満ちた笑顔を見せた。
「ステルス迷彩着ていきますから大丈夫ですよ。これなら街中でもばれずに行動できますから、なんでも手に入りますよ」
「それは…姿を消して泥棒を働くということですよね。駄目です。そんなことは。窃盗は罪ですよ」
「あやや…い、いえいえ、はたてに連絡がつかないのでにとりの処へ行くつもりだったんですよ。ホントですよ映姫さま。清く正しく美しい私が盗みなんて…」
「盗み聞きはしていましたけどね」
「あやや…」
 がくりと肩を落とす文。流石に映姫に嘘は通じないようだった。けれど、とっさに出した言い訳は代案として十分なものの様だった。
 文は一度部屋を出てしまっていた携帯電話を取りだすとにとりの番号を呼び出し発信ボタンを押した。二回、三回とコール音が聞こえた後、がちゃりと受話器を上げる音が聞こえた。
『はい、もしもし、河城にとりです』
「あ、にとり。私、文なんだけれど…」
『げげぇっ!?』
 と、そんな当たり前の挨拶を交わしたところで電話口のにとりは素っ頓狂な声を上げた。
『あ、文さんっ…!?』
「ええ、その文さんですが何か?」
『いやっ、そのっ…あのう…』
「?」
 にとりの様子がおかしい事に文はすぐ気がついた。狼狽えているというか脅えているというか。人見知りが激しいにとりが初対面の人を前にそうした態度を取ることを文は知っていたが、文は勿論初対面などではないし、それ以前に言葉を詰らせる程狼狽えているのは異常だ。どうしたの、と文は問いかける。
『そ、その…さっき、天狗の里の人が来て、携帯電話を…』
「電話を?」
 にとりはそう説明し始めたが、落ち着かない様子で内容はとても言葉足らずなものだった。文程の頭をもっていても理解が追っつかず眉を顰め疑問符を浮かべてしまう。
『電話を治してくれって。じゅ、重要な情報が入っているかも知れないからって、それで…』
「今一、話が飲み込めないんですけれど…その携帯電話を持ってきたのは誰なんですか?」
『は、白狼天狗の人たち。凄い剣幕で…仲間の敵討ちがかかっているんだ、って』
「白狼天狗…哨戒部隊の?」
 眉間の皺を更に深く刻む文。ますますもって話が掴めない。着地点はおろか出発点さえどこからなのかよく分らないのだ。いや、分らないのは話すにとりの方もだろう。それほど混乱するような状況に陥っているのだと文は悟る。にとりを落ち着かせないと話にならない。だが、もう少し話を聞かない限りはその落ち着かせるような言葉も出てこない。
『そう。絶対に捕まえてやる、って。あのはたてさんの…』
「はたて? はたてがどうかしたんですか?」
『白狼天狗の人が、持ってきた携帯電話はその、は、はたてさんので、それで…』
 成る程、と文は内心で頷いた。電話が通じなかったのははたての携帯電話がどういうわけか壊れていたからか。全て合点がいっ―――――――――――――――っていない。
『はたてさんは…』
 駄目だ、その先は聞くなと文の第六感が告げる。聞けば恐ろしい目に逢うぞと。そいつは死刑を宣告されるように恐ろしく、短い余命を告げられるよう絶望するものだと。だが、止めようがない。文の理性はにとりの話を聞きたがっていたし、それ以前に喋っているのは電話口の相手なのだ止めようがない。
 そうして、
『はたてさんは…殺されたって』
 文は臓腑をねじ切られるような事実を突き付けられる。
「なッ―――!」
 絶句。文字通り言葉を、いや、思考さえ失う文。呆けたように口は開きっぱなしになり、瞬きを止めた瞳が虚空を見つめる。
「な、何? え、? それ?」
 辛うじて口から漏れた言葉は日本語の体をなしていないなかった。同じか、と文の中のどこか冷徹なまでに冷静な部分――記者として培ってきた客観性、が納得する。こんな事実を突き付けられたのでは誰しも言葉を失い次いで混乱してもおかしくはないだろう、と。
『その詳しくは私も…でも…ああ…』
 言いよどむにとり。これ以上、躊躇う何かがあるのかと文は泣きそうに顔を歪めた。
『その、はたてさんを殺した…はん、にんが…文さん、だって』
「え――」
 そして、聞かされた言葉は打ちのめされた文の心にとどめを刺すような鋭いものだった。
 はたてが殺され、そうして、その犯人が私? どういうことなの?
 そんな疑問が坩堝のように入り交じる。
『ち、違いますよね。文さんはそんなことする、人じゃ…ないですよね…?』
「あ―――あたり前よ…!!」
 死にかけていた心が辛うじて自分を信頼してくれているにとりの言葉で甦った。電話に向かって大きな声を上げる文。
「だ、誰がそんなデマを流しているの。記者である私に向かって。どうせ、はたてが殺されたってことも嘘に決まってるわ。ああそうか。ははぁん、はたての奴ね。そんな下らないデマを流しているのは」
 あははは、と乾いた笑いを上げる文。だが、その瞳は笑ってなどいなかった。そんなデマなど流してもまったく意味がないことは混乱した頭でもすぐに分った。それにはたてが殺されていなかったとしてどうして白狼天狗が壊れたはたての携帯電話をにとりの処へ持ってくるのだ。はたてはあのカメラ付携帯電話を昔から愛用していた。ただの商売道具以上の愛着を持っていたはずだ。それが壊れたからと言って修理を他人に頼むような娘ではない。いいや、それ以前ににとりの話は額面通りに受け取らなければ一切合切、辻褄が合わないのだ。
『あ、文さん…』
「くそっ! 分ってるわよ。ええ、本当の事なのねにとり。はたてが死んだのも、私が犯人にされてるのも。全部」
 はい、と力ない声が電話の向こうから返ってきた。クソ、と悪態をつく文。
「いいわ。有益な情報をありがとうにとり。それで…」
「文」
 と、もう少しにとりから話を聞こうとしていた文に唐突に戸を開け映姫が声をかけてきた。映姫はさしたる理由もなく電話中の人に声をかけるような人物ではない。何かあったのだ。
「にとり、ちょっと待ってて。……映姫さまどうかしたのですか?」
「外から足音が聞こえてきました。誰かいるようです」
「誰か…?」
 文は難しい顔をして思案する。自警団がここまで捜索に来たのだろうか。人間ならなんとかあしらえるかも知れない。だが…
「逃げましょう、映姫さま」
 小声で文は映姫に耳打ちする。
 にとりの元へやって来たという白狼天狗は文がはたて殺しの犯人だと言っていた。昨晩、はたてから話を聞いたときは文の扱いは重要参考人程度だった。どういった理由で評価をある意味で格上げされたのか想像さえつかないが、そんな変動があった以上、天狗の里にも大きな動きがあると考えるのは妥当だ。外にいるのが文たちを捜索している警察機構でその中に天狗の一派がいる可能性は否定できない。それがもし鼻の利く白狼天狗ならば、こんなおんぼろの建物の中に隠れているのは目の前に出て行くことと等しい。
 文は映姫の手を取ると電話先のにとりに後でもう一度、連絡するとだけ告げすぐに通話を終了した。待機している間にこの建物の構造はおおかた把握していた。映姫の手を引き裏口へ。映姫が何とか歩けるまで回復してくれているのが幸いだった。
「文っ…」
「追っ手だと思います。静かに」
 映姫を制し朽ちかけた廊下を進み、裏手の林に出る二人。
 と、
「なんだこれは…?」
「やはり、ここにいたのは間違いないようだな」
「天狗の匂いは追えるか?」
「…大丈夫です」
 そんな声がたった今、立ち去ったばかりの部屋の中から聞こえてきた。
 苦虫を噛み潰したように顔をしかめる文。嫌な予想が当たったのに加え犬猿の仲の相手が捜索隊のメンバーに加わっている事が分ったからだ。椛だ。
「それじゃあさっそく追いかけないと」
「いえ、二人程ここに残ってください。逃げたと思わせて戻ってくるかもしれないので」
 くそ、と内心で舌打ちした。それは文も考えていた手だったからだ。自分一人なら兎も角、怪我人の文を連れて白狼天狗の、しかも、彼女らのリーダーである椛からまともに逃げ切れられるとは考えられなかったからだ。裏をかく。それが唯一取れる逃走経路だった。だが、出鼻を挫くよう初っぱなからその方法はつぶされてしまった。こうなっては闇雲に逃げるしかない。すぐに捕まると分っていても。
「……行きましょう、映姫さま」
 だが、やるしかない。
 文は映姫の手を引いて暗い森のなかへと足を踏み入れた。
「あっちだ!」
 それを猟犬じみた緻密さで椛たちが追いかける。僅かな安息の時間は終わりを告げたのだ。
「………はたて」
 彼女の死をもって。


◆◇◆


「文っ…!」
「走って、映姫さま!」
 日が傾き始めた幻想郷。森の中とあっては既に夜のように暗い。その中を映姫の手を引いて走る文。いや、走るなどという早さではない。森の中は道などなく茂みや梢が行く手を阻み、落葉の下に隠された石や木の根が足を掬おうと待ち構えている。加えてまだ映姫の具合は十全ではないのだ。怪我人の手をとりながらではどうしたって足は遅くなる。
「くそっ…!」
 それでも文は出来る限りの速度で走った。枝を払い、草をかき分け、腐葉土を踏みつけ。走る。走る。走る。すぐ後ろから追っ手が迫ってきているからだ。
「こっちだ! 逃がすな!」
 既に自警団と白狼天狗の混成部隊は文たちがどちらに逃げているのか把握しているようだった。目鼻の利く白狼天狗たちがいるのだ。彼女らにとってつい先程まで隠れていた相手の後を追う事など落としていったパンくずを辿るより容易いことだ。加え山中は彼女らがもっとも得意とする場所だ。小柄な身体は枝葉や幹の隙間を容易く通り抜け、力強い足腰は悪路を諸戸もせず、枝葉を打ち払う山刀の一振りはそのまま逃亡者を打ちのめす一撃になるのだ。文の言っているよう、彼女らから逃げ切るのは事実上不可能なのだ。
「文っ! 文っ!」
「ハァハァ…!」
 だが、だからといって諦めるわけにはいかなかった。文は兎も角、異変の犯人と疑われている映姫は捕まれば今度こそ拷問の果てに殺されてしまうかもしれないからだ。文もその仲間としてただでは済むまい。逃げるしかないのだ。
「文っ!! 文っ!!」
 本当にそれだけだろうか。
 走る文の顔には酷い焦燥が浮かんでいた。逃げているのだから当然と言えば当然なのだが、人を食ったような態度の裏にいつも冷静な思考を忍ばせている彼女らしからぬ顔だった。心底脅えているような苦しんでいるような、そんな顔つき。
 だからか、
「文ッ!!」
 映姫が自分の名を何度も呼んでいるのに気がつかなかったのも。
 呼びかけに応えてくれなかった余り強攻策に出たのか、映姫は文の手を振り払い立ち止まった。二歩三歩と走ったところで手が離れたことに気がつき、慌てて戻る文。映姫によって自発的に結束が解かれた、とは気がついていないのだ。
「映姫さまッ、早く逃げないと!」
「分っています。ですが、落ち着いてください。なにか今の貴女は貴女らしくないですよ!」
 文が差し出した手を取らない映姫。荒い息をついたまま二人は向かい合う。
「どうしたのですか? 追われているのは分っていますが、焦りすぎです。いつもの冷静な貴女はどうしたのですか!?」
「あ…」
 言われて文はやっと自分が精神的に不安定な状況にあることに気がついた。身体にもそれがありありと現れている。枝葉や茂みによって文の身体につけられた無数の擦過傷。こんな森の中を走ればそうなるのは当然だろうが、それにしたって文の手足や顔は傷が多すぎた。山中に住み、風を自在に操る鴉天狗としてはあるまじき傷の多さ。無我夢中で走ったからだろう。それに映姫も巻き込まれ彼女の身体に新たな傷を刻み込む結果となっていた。これもあれだけ映姫の身体を労っていた文らしからぬ行動だった。
「……」
 しばし黙りこくる文。自分の失態を恥じているのだろう。
「どうしたのですか…本当に」
 だが、そんな場合でもない。映姫は促すよう、もう一度、文に向けそう言った。
「はたてが…」
「え?」
 自分を助けるための記事を書いてくれている文のライバル記者の名前を聞かされ疑問符を上げる映姫。一瞬、躊躇った後、文は再び口を開いた。
「はたてが殺されました」
「それ…は…」
 今度は映姫が愕然と言葉を失う番だった。
「見つけたぞ!」
 そこへ後方から怒声が聞こえてきた。先程より遙かに声は近い。慌てて映姫の手を取り再び走り始める文。
「にとりに、にとりに電話をかけたらそう言われました。恐らく…異変の真犯人の手で…」
「くっ…はたてさん」
 口惜しそうに歯噛みする映姫。自分が助かる道筋が潰されてしまったことに対する憤りだけではないだろう。文程でないにしろ映姫もまたはたての事は知っている。つい昨日、色々と文について話していた仲なのだ。ショックは隠しきれない。映姫でさえこうなのだ。長年ライバルとしてやってきていた文の心中は察するに余りある。文のおかしな態度も頷ける話だった。
「私の所為だ…また、私の所為だ…」
「え?」
 いや…それだけではないのか。走りながら文は自傷するような声を漏らした。
「はたては…私が殺したんだ…」
「文、何を言っているんです…?」
 問いかける映姫。けれど、またも文はまた聾に、自己嫌悪に落ち込んでいるようだった。映姫の問いかけにも言葉を返さず泣きそうな声を上げている。
 文の足が動いているのだけが幸いだった。混乱していても逃げることは逃げている。愕然と足を止めるような真似はしていない。
 いや…
「私の所為だ。また、私の…だから、嫌だったんだ。異変になんて関わるのは…殺人事件になんて生臭い話に関わるのは…畜生、畜生…!」
「文…っ」
 逃げているのは過去と未来からか。がむしゃらに走っている。だが、逃げられる筈がない。過去は常に付いて回るものだし、未来とは常に先行くものなのだから。変らず停滞することだけが唯一の逃げ道だが、それは永遠の生を持つ身でない限りたどれぬ道だ。過去からも未来からも追っ手はやってくる。
「射命丸文ッ!!」
 そうして、現実での追っ手もまたやってきているのだ。はっ、と映姫が振り返れば木々の間に山伏のような白装束が見えた。椛だ。他に自警団や白狼天狗の姿がいないところをみると一人、先行してやってきたのだろう。建並ぶ木々や茂みを諸戸もせずそれこそ野山を駆ける狼の速度で迫ってくる。
「追っ手が…っ!?」
 不意に映姫は文に握られている手が強く引かれるのを感じた。走る速度を上げたのか。飛んで逃げようとしているのか。否。
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
 文が足を取られ斜面から転がり落ちたのだ。引っ張られ釣られるように映姫も落ちていく。天地が逆転し、左右が判別不能になり、絶え間なく衝撃が襲ってくる。口や耳の中に落葉の欠片や土が入り込み、小枝や石がむき身の肌に突き刺さる。
「グェ、ッ!?」
 どれほどの距離を転げ落ちたのだろうか。カエルを踏みつぶしたような悲鳴と共に転落は停止した。
「ッ…あ、や」
 凄まじい痛みを耐えながら映姫が瞳を開けると目の前に文の顔があった。ぐしゃぐしゃになった髪に落葉をまとわりつかせ、しかめっ面で深く目蓋を閉じている。
「大丈夫ですかっ、文!」
 映姫は身体を起こし文に声をかけた。胸が非道く痛む。折れていた肋骨が肺腑を傷つけたのだろうか。息をするのも苦しい。
「うぁ、あああ…」
 文もまた無事ではなさそうだった。身体を丸めたまま、声にならぬ唸り声を上げている。苦悶の表情。見れば文の背中には太い松の木があった。斜面を転がり落ちた文の身体はこの木に当たって止ったのだろう。偶然か、映姫の身体を庇うような形で。だが、この様な形とは言え斜面の途中で転がり落ちるのが止ったのは寧ろ僥倖だった。顔を上げて映姫は自分たちがどんな場所にいるのかやっと悟った。文が背中をぶつけた松より向こうに大きな木は生えていなかった。それどころか三、四歩も行けば雑草どころか何もない空間が広がっている。耳に届くのは川の流れる音。斜面の下は崖だったのだ。
「っ…!」
 顔を強張らせる映姫。先は崖。後ろには追っ手。前後を阻まれている。兎にも角にも早く逃げなくては。
「文っ、文っ、起きてください! 起きて逃げないと…! 逃げないと!」
 文の肩を揺さぶる映姫。けれど、余りに強く背中を打ち付けたためか文は何の反応も返さなかった。
「いや、だ…いやだ…」
「え…?」
 いや、それだけではない。
「いやいやだいやだいやだいやだいやだいやだ…」
 身体を丸めたまま何事かを繰り返す文。
「いやだ」
 否定の言葉。拒絶の言葉。忌避の言葉。何を疎んじているのか。全てだ。過去の出来事。待ち受けている未来。自分の失態。かけられた疑い。迫る追っ手。そして、不条理な運命。全てだ。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
 もう射命丸文は立ち上がることが出来なかった。壊れたラジカセのように同じ事を繰り返し、映姫が幾ら声をかけ揺さぶったところで自分の殻に閉じこもり出てこようとはしなかった。
「文っ!」
「文ッ!」
 奇しくも重なる声。映姫が声を上げた瞬間、後ろからも同じ声が上がった。はっ、と映姫が振り返るとそこには雄叫びを上げ山刀を振りかざしながら斜面を駆け下りてくる椛の姿があった。血走った瞳には敵意が。振り上げた山刀には殺意が。駆け下りる速度だけではなくその精神が既に止らない勢いを持っていた。
「殺してやる! 殺してやるぞ! はたて先輩の仇だッ!!」
「ッ、止りなさい! 文はやってません!」
「黙れ! 退けッ!!」
 文を庇うよう立ち上がり両手を広げる映姫。だが、斜面を駆け下りる椛は物理的にも精神的にもその程度で止る余地など持ち合わせていなかった。おそらくは文の元へ辿り着くまでその足は止らないだろう。
「くっ」
 突っ込んでくる椛に対し映姫は両手を広げることを止め身構えた。押さえつけようという魂胆だろうか。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 狼の雄叫び。止らない勢い。止らない敵意。映姫の傷だらけの小さな身体ではとても太刀打ちできない。ならば、どうするのか。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 椛の雄叫びに負けじと叫ぶ映姫。己を奮い立たせるためだ。腰を低くした映姫はそのまま突っ込んできた椛に相撲取りがそうするような形で迎えうちタックルした。真っ正面からではなく僅かに斜め方向から。
「ッ!?」
 確かに映姫の小さな身体では椛の突撃は止められなかった。だが、僅かに機動をずらすことには成功した。恐らくは文の身体のように松の木の幹で自分の身体を止めるつもりだったのだろう。けれど、途中で映姫の妨害を受けた椛はそのまま崖の方へと半ば転びながら突っ込んで行ってしまった。
「文…逃げて…」
 椛の身体にしがみつきながらそう告げる映姫。
「あ…」
 やっと、文が顔を上げる。だが、遅い。
 文が体を起こしたのと大きな水音が聞こえたのはほぼ同時だった。すぐさま崖に近寄り、下を覗きこむ文。眼窩には白くうねる激流があるだけだった。落ちていった映姫も椛もその姿を見せなかった。
「えいきさ…ッぐ!?」
 背中を強かに打ち付けた痛みも忘れ起き上がろうとする文。だが、その直前に更なる衝撃を背中に受けた。
「被疑者確保ッ!! クソ! 動くな射命丸文ッ!!」
 遅れてやって来た白狼天狗だ。文の上にのしかかり肩や頭を押さえつけてくる。
「椛隊長が落ちたぞ。二人、探しにいけ!」
 文を押さえつけつつそう仲間に命令を下す白狼天狗。副隊長的な立場なのか、言われた通り、二人が崖下へと身を躍らせた。
「はな、せ…! 映姫さまが! 映姫さまが!」
 自分も同じように、とでも言うつもりか文は顔を上げた。
「暴れるなって言っているだろうが!」
 拘束を解こうと出鱈目に身体を動かす文。だが、転落のダメージが響いているのか力が入らない。そうこうしているうちに更にもう一人が文にとりつき、完全に動きを封じられてしまった。
「畜生! 離せ! 離せェ!!」
「黙れ!!」
 瞬間、目の前に星が散る。それが棍棒で強かに頭を突かれた所為だと分ったのは遅れて痛みがやってきたからだ。
「この裏切り者め! 仲間殺しめ!」
 更に攻撃が加えられる。頭と言わず背中、尻、足。押さえつけている白狼天狗二人も相当の憤りを抱えているのか、鷲掴みにした頭を土に埋めるように押しつけ押さえつけている腕を関節とは逆方向に曲げてくる。
「おっ、おい、やめろ! 死んじまうぞ!」
 更に遅れてやって来た自警団の面々が止めなければ実際にそうなっていただろう。やっと、白狼天狗の拘束から解放された文は虫の息だった。
「えいき…さま…」
 血だらけの唇からぽつり、と小さな声が漏れた。誰も返事をしなかった。


△◆▽


「もしもし、パチュリー。うん、うん。久しぶり。そっちはどう…? うん、うん。へぇ、そうなんだ。こぁは? うん、うん。もう、相変わらずねあの子。でも楽しそうで良かった。魔界って案外、住み心地よさそうね。私もそっちに……ううん、そんなわけないよ。一人には…してられないもの。うん。うん。ええ、そうかも。えっ? こっち? うーん、そうかな。特に、変わりは…うん、ごめんなさい。そんなことないの。うん、今日はちょっとそのことで電話したの。うんうん。そう。貴女が出て行った後、美鈴にも辞めてもらって、妖精メイドも大勢解雇して…うん。うん。あれから何もかも変っちゃったから。うん、でも、私たち姉妹はなんにも変ってない…そう思うの。ねぇ、パチュリー、どうしたら、いいのかな…私も、私たちも変るべきなのかな。お姉さまは変ってしまわれたし…うん、うん、そうね…魔理沙に相談してみるわ」


◆◇◆


「ん、なんだお前らは。こんな寂れた神社に何の用だ?」
「…それはこっちの台詞だ。今ここは大捕物の真っ最中だ。お前のような婆ァはさっさと帰った帰った」
「失礼な奴だな。婆ァに向かって婆ァとは」
「怪しい奴だな。なんなんだ、一体」
「ちょっと大親友の所に服を借りに来ただけだぜ。五十年ぶりにな」


◆◇◆




「ふぁぁぁぁ、よく寝たわ」
「おはようございます、お義母さま」




△◆▽

<8>



「起きろ」
 脇腹を蹴られ文は目を覚ました。眠っていたのではない。気絶していたのだ。
 神社裏手の山で拿捕された文はそのまま拘束され映姫が留置されていたあの施設に連れてこられた。
 施設が襲われ映姫を逃がしてしまった反省からか今回は前回以上に厳しい監視体制が引かれていた。同時に尋問も映姫の時以上に輪をかけて激しいものが文に加えられた。ただ、少しばかり勝手が違っていたのは映姫が幾ら問われようと罪を否定し続けていたのに対し文は何も言わなかったという点だ。殴られはっ倒され耳元で怒鳴られても文は一言も返事をしなかった。黙秘権を行使した、という訳ではないだろう。虚ろな目。呆然と開かれたままの口。力なき四肢。自我亡失、と言うのだろうか。まるで死んだように文はあらゆる責苦をなすがままに受けた。己の罪を黙認するように。
 自警団と白狼天狗の連盟もそう感じ取ったのだろう。一言も発さぬ文を蚊帳の外に勝手に話を進めた。映姫の代わりに文を異変の真犯人とする、その方向で。
「そらっ、身体を起こせ」
 やってきていたのは禿頭の男と二人組の白狼天狗だった。禿頭がそう命令したが文は身体を起こさなかった。いや、起こせなかったのだ。森の中を走り斜面を転げ落ちて受けた傷はろくに治療もされず、その後も言葉にするのも憚れるような手ひどい暴力を受けたのだ。身体などまともに動かせるわけもない。禿頭は更に二三度、文の身体を蹴りつけたがどれだけ痛めつけても動かないことを悟ると強かに舌打ちした。白狼天狗に目を向け、スンマセンと声をかけ、コイツの身体を起こしてやって下さい、と続ける。無言のまま二人の白狼天狗の少女は頷くと文に歩み寄りその身体を物でも扱うように乱暴に起こした。
「OKそんな感じで。腕も上げてもらえますかね」
 言って禿頭も文に近づく。その手には蝶番と金具、鍵がついた穴の開いた板を持っていた。枷だ。首と両手を同時に拘束するタイプの罪人に架す枷。見れば枷には梵字らしき文字が描かれたお札が何枚も張られていた。妖怪の力を封じる札だろう。そこまでせずとも今の文は見た目以下の力しか残っていないというのに。
 両手首を首を穴に通し、ガチャリと大きな鍵をかける禿頭の男。鍵にも細かな文様が刻まれている。そういう意匠でないとすればこれもまた魔封じの呪文か何かだろう。元より録を浮かせているものの頑丈そうな鍵は鬼の様な怪力がなければとても壊せそうにないように見える。
「おらッ、立て」
 枷に更に鎖をつなぎ禿頭はそれを引っ張った。海老反りに上半身だけを無理やり持ちあげられさせられる文。首が苦しいのか僅かに顔に苦悶が浮かんだ。
「面倒くさいヤツだな。立てって言ってるだろうが!」
 怒鳴り声を上げたのは白狼天狗のうちの片方だった。そのまま文の身体に腕を通し無理やり立ち上がらせる。
「あと五分寝かせて、って顔ね」
 きひひ、と更にもう一人の白狼天狗が笑う。
「まぁ、もう少し我慢しなさい。後でたっぷり寝させてあげるから、永遠にね」
「……」
 それはどういう意味、と尋ねるように文は視線をその白狼天狗に向けた。心は死にかけていたが好奇心だけはまだ生きてようだ。文の意図に気がついたのか身体を支えていた白狼天狗は死刑執行人の様な凄惨な笑みを浮かべた。
「アンタは処刑されるの。はたて先輩と…その他大勢の人を殺した罪で。みんなの前でね!」


◆◇◆


「人殺し!」
 罵声と怒号と怨嗟。その真っ直中を歩かされている科人。沿道に立ち並んでいるのは町衆。幻想郷中の人々が集っているのではと思える程多くの人間や妖怪が立ってた。その目には一様に敵意の炎が浮かび、全てがたった一人の鴉天狗に向けられている。
「裏切り者!」「殺人鬼め!」「私の子供を返して!」
 文だ。
 拘置所から外へと出された文は拘束されたまま徒歩で市街地まで連れてこられた。傷の手当などなく、服は着たまま。昨晩からの暴行の痕が色濃く残っている状態で一切の情けをかけられず、寧ろ嫌がらせじみた仕打ちを受けながらだ。
 靴を履いていない足は石やガラス片を踏みつけたことで傷だらけ。足跡に血の痕を残している。体力も限界だ。だが、立ち止まろうものならひどい暴力を受け強制的に両手と首を繋ぐよう嵌められた枷を引かれ強制的に歩かされた。それはつまずき、体力の限界を迎え膝を折っても止らなかった。腕を拘束されているため受け身など取れるはずもなく何度も文は顔面から無様に倒れ、口内に土を含んだ。
「罪人め!」「呪われろ!」「くたばれ!」「外道が!」
 文の身体で傷を負っていない場所などなかった。むき身の腕や足には幾つもの打撲痕や擦過傷が刻まれ、目の周りには青痣が作られ前歯の内の一つは欠け、両手両足の爪はひび割れ、昨日、強かに打ち付けた背中には腫上がる赤黒い痣が出来ている。そして、内股からは血の紅が滴り落ちていた。尋問、いや、拷問という名目で拘置所で文は女としての辱めさえ受けていたのだ。
 これほどの仕打ち。並の精神の持ち主ならば憤怒の余り修羅と化すか絶望の余り幽鬼と成り果てるかのどちらかだろう。だが、文の顔にはなんの感情も浮かんではいなかった。茫然と虚を見つめる瞳はある意味ではゴルゴダの丘を登る聖人のようでさえある。自分はやっていないのだと怒りにかられるのではなく最早望みは絶たれたのだと諦めているでもなく、ただ凡てを受け入れる様はまさしくそれだ。
「貴様の! 貴様のせいで!」
 そうだ、と文は心の中で頷いた。
「お前が殺したんだ!」
 そのとおり、と文は内心で同意した。
「異変の真犯人め!」
 私が真犯人だ、と文は想い叫んだ。実際に。
「私だ! 私が殺したんだ!」
 一瞬、水を打ったように静まりかえる場。文を引いていた白狼天狗さえも足を止め振り返り茫然としている。
「映姫さまも、はたても! 私が殺したんだ! 霊夢さんも! 咲夜さんも! みんなみんなみんな、私がッ! 殺したんだ!」
 顔を歪ませ身体を軋ませ、狂人のように涙を流しながら文は告解した。誰も彼もがその告白を聞いていた。膝を付き、審判を待ち望むよう天を見上げる文。まるで啓示でも待つように。だが、神はいても絶対神のいないこの地にて明確な神託など降りてこようはずがなかった。
 代わりに、
「やっぱりか…」
 誰かがぽつりと漏らした。
「お前か」「お前がやったんだな」「異変を起こしたんだな」「お前が殺したんだな」
 それを皮切りに雨が降り出すようざわめきが広がっていく。声は徐々に大きくなり、感情が込められていく。憤怒と敵意。やがて、それは声を上げるだけには厭きたらず行動にまで発展する。
「死刑だ!」
 一際大きな叫び。次いで円弧を描いて飛来する礫。手の平に収まるサイズの石。誰かが投げたであろうそれが文の傍に落ちた。当りはしなかった。だが、民衆は誰か他人の行動を真似るものだ。
「そうだ、そうだ!」「死刑だ!」「死刑にしろ!」
 後に続くよう文に向かって様々な物が投げつけられる。小石。空き缶。握り潰した煙草の箱。腐ったトマト。多くは文まで届かなかったがいくつかは当たる。鶏の卵が文の顔に命中し、悪貨が頭に当たり跳ね返り、酒瓶が砕ける。傅く文の身体。そこへ握り拳大の石が投げつけられた。
「ッ…!?」
 倒れる。だが、罵声と投石は終わらない。このまま殺してしまえと町衆の敵意が牙を剥く。
「やめろォ!!」
 馬の嘶きと共にそんな声が上がった。先行していた自警団団長だ。団員たちも暴走している民衆を抑えにかかる。
「この女は外法によって外道を行ったのだ! 俺たちが同じように法にそぐわぬ事をしてどうする! 外法には法を持って制裁を加えるのが人の道だ! この女の死刑は決定している。嬲り殺すなどと言う手ぬるい方法ではなく、斬首でだ! 石を投げつけるのは晒し首になってからでもいいだろう!」
 ただの言葉だけで町衆を黙らせたのは荒くれどもを一纏めにしている団長だからこそか。言われた通り町衆は今まさに投げつけようと振りかぶっていた腕をおろし、手にしていた石をその場に落とした。団長の言うとおりだと納得したのだ。
 ただし、団長は全てを語った訳ではなかった。私刑を良しとしなかったのは順法精神だけではなく、暴動じみた混乱の結果の死など町衆の記憶に明確に残らないということを団長は知っていたからだ。誰かが投げつけた石で気がついたら死んでいたなどでは余りに曖昧すぎて終わりとは言いがたい。もっと明確に、鋏で断ち切るような分りやすい場面がなければ心底、異変が終わったのだと知らしめることは出来ないのだ。
「さぁ、立て、罪人。断頭台まで自分の足で歩け!」
 馬上から地面に突っ伏している文に向かってそう命令する団長。もぞり、と身体を動かし春先の亀のようなのろまさで文は立ち上がった。
 その満身創痍の身体を立ち上がらせたのは他でもない。
「…分ってる。私は、私は死刑になるべきなんだ」
 町衆や自警団、白狼天狗の面々よりなによりも己自身がそう罰せられる身分なのだと文が思っているからだ。再びすり足で歩き始める文。罵声は鳴り止まず、それは文の足が中央区の広場に辿り着いても続いていた。
「………」
 どうしてこんな事になったのだろう。そう文は考える。全てがたった一つの記事から始まったのだとすればある意味でこれは記者冥利に尽きるということなのだろうか。だが、その結果がこれでは手放しで喜べるはずもない。第一、あれは記者として書いたのではなく友人として書いたのだ。
「霊夢さん…」
 だからか。記者として書いておけばこんな事にはならなかった。真犯人の写真もそうだ。特ダネを掴んだのならさっさと記事にしておけばこんな最悪の結末にはならなかったはずだ。少なくとも大切な人を二人も失い、自分自身も犯人として処刑されてしまうような結末には。
 断頭台の上からは集った人々の顔がよく見渡せた。皆一様に敵意の瞳を文に向けている。針のむしろとはこの事か。文は臓腑を握られたような気分になった。胸が苦しく、頭が痛く、酷い寒気を憶える。辛く苦しかった。これから解放されるのならばどんなことでも甘んじて受けようとさえ思った。それが死でも。否、それしか最早道は残されていなかった。自分の死罰を持ってでしか終わらないのだ、と。
「……まだなの」
 だが、それはなかなか訪れなかった。断頭台に上げられ、枷は外されたものの後ろ手に縛り上げられてから数十分。待てども待てどもむき身の太刀を持った執行人は現れなかった。
 怒鳴られ殴りつけられるかと思ったが文は顔を上げた。見れば台の下で白狼天狗と自警団の団長が言い争っているのが見えた。
「椛隊長が来るまで待ってって言ってるのよ!」
「その隊長さんとやらは昨日から行方不明なんだろ。第一、お前らがアレの首を落とす係なんて誰が決めたんだ」
「椛隊長です。隊長は御自らの手で射命丸文を断罪したいと仰っていたんです」
「その隊長がいないから延期しろってか。馬鹿馬鹿しい。そもそも刑の執行を誰がするか決める権利なんてお前たちにないだろう」
「あなた方にもないと思いますけれど」
「遅刻してくる犬よりかは有ると思うが」
 どうやら誰が文の首を落とすのかでもめているようだった。そう言えば、と文は思い出す。あの時、椛もまた映姫と一緒に崖下の川へと落ちていったのだった。椛は泳ぐのが苦手だったな、とそんなこともついでに思い出す文。映姫はどうなのだろう、とも。
「アイツにも色々、悪いことしちゃったわね…」
 文と椛は自他共に認める犬猿の仲だが、それでも死んで清々したなんて感情を抱く程文は外道ではない。元より犬猿の仲になってしまっている理由は分っている。端的に言えば三角関係がこじれたようなものだ。椛ははたてが好きであった。けれど、はたてはその気持ちに気づかず、文にだけ特別な感情を向けていた。はたての文に対する感情は恋愛感情ではなかったが、それでも強烈なライバル意識はそれに等しいものだった。だから、椛は文に嫉妬し敵意剥き出しの態度をとっていたのだ。文にしてみればいい迷惑だ。はたてに気づいて貰えないのは自分のせいなのに、その憤りを私に向けてくるなんて。それも今となっては笑い話にすらならない。
「貸せッ!」
 文が椛について考えていると段下から一際大きな怒声が上がった。団長だ。言い争っていた白狼天狗の手から太刀を奪い取るとそのまま肩を怒らせながら断頭台の方へと上がってきた。幾ら待っても来ない椛にしびれを切らし、こちらで勝手に刑を執行すると言い張ったのだろう。リーダーを欠いた白狼天狗たちにそれに反論する術はなかった。
 急ごしらえの断頭台は作りが甘かったのだろう。団長が階段を踏みつける度に大きく軋み声を上げた。だが、壊れるようなことはなさそうだ。壊れた隙に逃げ出す、などという芸当も傷つき疲れ果て拘束された文の身体ではままならない。
 全身から努気を立ち上らせながら檀上に立った団長は一息で太刀を鞘から引き抜いた。斬首用の大太刀だ。振う者の腕が確かなら石の柱さえ両断できるような切れ味を持っている。武術の心得がありそうな団長ならば一太刀で文の首を刎ねられることだろう。
「何か言い残すことはあるか?」
「いいえ」
 今更、自分が犯人でないと言ったところで見苦しいと一喝されるだけだろう。元より文は甘んじて濡れ衣を着て裁きを受けるつもりであった。いや、文の心の内では自分こそが真犯人なのだ。罰は受けなくてはならない。自分が死んだところで異変はまだまだ続くと思われるのが唯一の心残りではあったが、もはやどうしようもないだろう。真犯人を知る文は、けれど自らの手で彼女を糾弾する事など出来ないのだ。映姫を助けるためにならそうはいかないと決心していたが、その決意は余りに中途半端で結果、最悪のものとなってしまった。
 だからこその罰だ。始まりは自分。そして解決できる手札を持っていたのにそれを使うのを躊躇い、失敗し、大切な人を殺してしまった。この罪は死をもってしか裁かれない。
「あぁ…」
 嘆息を漏らす文。
 自分が死ねば地獄に堕ちるのは確実だろう。いつぞやか映姫にも言われたことだった。出来れば、死んだ後はその映姫に裁かれたいものだと文はふと思ったがそれは無理な話だ。地獄に堕ちても閻魔殺しの罪で厳しい罰が与えられることだろう。待ち受けているのは阿鼻叫喚地獄か大灼熱地獄か、無間地獄か。それも構わないと文は自嘲した。
「さて、ではこれより刑を執行する」
 言って団長は大上段に太刀を構えた。重い太刀を振り上げればそれだけで相当量の位置エネルギーが発生する。加え鍛え抜かれた筋力から放たれる一撃は首の一つ程度、難なく刎ね飛ばせる事だろう。文は刑を甘んじて受ける事を示すため、首を斬り落としやすいよう僅かに顎を上げた。目は閉じなかった。
「……?」
 その瞳が天から舞い落ちてくる何かを捉えた。ひらひらひら、と。一つだけではない。幾つも空から落ちてきている。
「鴉天狗の羽根……違う」
 それをそう一瞬、誤認する文。違うと気がついたのは落ちてきているのは羽根などより大きく、四角い形をしていたからだ。質の悪いわら半紙だ。何かが書かれている。
 文の断頭を今か今かと息を飲んで待ち望んでいた町衆の中にもざわめきが産まれる。団長も思わず手を止めてしまっているようで刃は振り下ろされなかった。
「これは…」
 舞い落ちるわら半紙の内の一枚が偶然か文の前に落ちてきた。わら半紙には何かが印字されていた。刷りたてなのだろうか。インクの光沢が見える。触れれば指が汚れてしまいそうなその紙は見慣れた物…
「花果子…念報?」
 はたてが発行している新聞だった。可愛らしくデコレーションされた題字。大仰な内容の本分。だが、どうしてこんな所に。驚きつつも文は紙面を読み始めた。
「大スクープ…ついに異変の犯人の姿を捉えた…?」
 そこに書かれていた記事の内容は博麗神社で文がはたてに頼んだものだった。映姫の疑いを晴らすため、世論を操作するための物。それが何故今になって。書き手は殺されたというのに。
 はっ、と文は上空を見上げた。空から降ってきているのならそこにばらまいている人物が絶対にいるはずだからだ。案の定、大きなリュックを背負った影が見える。
「ひぇぇぇぇ、重い重い。はやく撒かないと」
 にとりだ。上空を飛び回りながらリュックの中からのびーるアームで花果子念報をばらまいている。
「貴様ッ!!」
 手にしていた花果子念報を破り捨て自警団団長が声を上げた。振り返る文。
「姑息な手を使いやがって…! 観念しろ!」
 団長が再び凶刃を振り上げた。これも文の仕業だと思っているのだろう。
 振りかざした刀の切っ先ににとりがばらまいた新聞が当り、二つに分かれて落ちた。凄まじい切れ味に今更ながらに恐怖する文。
「っ…」
 自然と身体が逃げだそうとしてしまう。先程まで死刑を覚悟して待ち望んでいたというのに。いいや、ただの生存本能と言うだけではないだろう。こんな事をしている以上、にとりは文に死んで欲しくないと思っているはずだ。それを無下に拒否する真似は文には出来なかった。
「逃がすか! 死ねぇぇぇ!」
 だが、凶刃はそこまで迫ってきていた。阿修羅のような形相を浮かべ咆吼を上げる団長。もはやこれまでか、と文は目を瞑った。雷の勢いでもって振り下ろされた一刀は斬鉄さえ可能にする威力を誇っている。文の骨肉など容易く斬り裂いてしまうことだろう。それを…
「人の刀を勝手に使うなァ!!」
「!?」
 刹那、団長と文の間に入り込み防ぐ白い影があった。
「椛ッ!?」
 白狼天狗のリーダーだ。山刀の半ばまで刀身を食い込ませつつも鯉口と柄でもって斬撃を受け止めている。椛はそのまま裂帛。団長の身体を突き飛ばす。
「どうして…」
「勘違いしないでくれる文。私は頼まれたから先行してアンタを助けただけよ」
「頼まれた…誰に?」
 文の疑問の応えは椛からではなく別の所からあがった。
「文っ、無事ですか!」
 野次馬どもの垣根をかき分け現れたのは映姫だった。包帯やガーゼだらけの痛々しい姿ながらしっかりとした足取りで文の元まで走り寄ってくる。
「映姫さま…これは…」
「貴女が私を助けてくれようとしていたのです。だったら、私が貴女を助けても何も不思議ではないでしょう」
 いまだに自体が飲み込めず茫然としている文にどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべる映姫。
「…これで借りは返しましたからね閻魔さま」
「ええ。ありがとうございます」
 照れたようにそっぽを向いたままそう映姫に礼を言う椛。借り、と文。
「ちょっと溺れていたところを助けただけですよ」
 文に微笑みかけながら映姫は人差し指を立ててみせる。
 崖下の川に転落した後、流され行く椛を助けたのはなんと映姫であった。
 水面で藻掻く椛を一度映姫は水中へと引きずり込み完全に溺れさせ半ば気絶させた後、川岸まで泳いで連れて行ったのだ。もっとも助け出せたのはそこまでで二人とも川岸に辿り着いた途端倒れてしまっていたのだが。
「こう見えて泳ぎは得意なんです。地蔵菩薩をやっているときは賽の河原で溺れた子供の霊を助けてたりしていましたから」
 珍しく自慢げに語る映姫。誰に対してのアピールなのか。
「と、兎に角、無事で良かったです」
「それはお互いに言い合う台詞ですね」
 死んだと思っていた大切な人が生きていた。それだけで文は感涙を零しそうになっていた。
「貴様等ッ!!」
 そこへ自警団の団員や白狼天狗たちが集まってきた。武器を手に険しい顔付きをしている。文を逃すまいとしてだろう。だが、白狼天狗たちは襲撃者の中に自分たちのリーダーの顔を見つけて動揺した。
「ふん」
 その様子を見とってか、椛は文の手を縛り付けていた縄を切り落とした。仲間の天狗に自分は文を助けに来たのだとはっきりと行動で示したのだ。白狼天狗たちは更に困惑し武器を下げてしまう。動揺が自警団員にも伝わる。
「文、引き上げて下さい」
「あ…はい」
 その間に映姫は壇上へと文の手を借りて登る。アレはッ、と映姫の顔を知っている団員が声を上げたが手は出せなかった。
 空から降ってきた異変の真犯人を示す新聞。死刑囚を強襲、助けに入った二人組。その内の一人は白狼天狗たちのリーダー。もう一人は以前犯人として捉えていた女だ。その場にいる誰も彼もが全く事情が飲み込めないでいる。助けられた文でさえ呆然としているのだ。冷静なのはおそらくただの二人。
「静粛に!」
 映姫が甲高い声を上げ、続いてハンマーを打ち鳴らすよう椛が床を踏み鳴らした。言われたとおり、静まり返る場。
「私は楽園の最高裁判官、四季映姫・ヤマザナドゥ。今回は現在発生している異変の犯人として自警団に逮捕された射命丸文被告の裁判について判決を下すためにやってまいりました」
 よく通る声でそう告げる映姫。数百からなる目が映姫に集る。だが、映姫は物応じ一つしなかった。彼女の背はそう高くない。壇上に登っても自警団の中にいる大男と同じ目線の高さぐらいだ。けれど、この大人数に加え敵陣のまっただ中とさえ言える状況にあって堂々としたその態度は見る者に巨大であると思わせるようなプレッシャーを与えていた。地獄の裁判長、閻魔、その威光は伊達ではない。傍聴人たちは皆、畏怖の念を抱きその権力と威光を前に心の内で平伏した。判決は覆しようがなく絶対的に正しく完全に白黒はっきりつけられるものだと誰もが理解した。
 静まりかえった広場は極度の緊張で満ちていた。誰も彼もが瞬きを忘れ、カラカラに喉を渇かせ、息さえ止めて見入っていた。ごくり、と耐えきれなくなったのか誰かが喉を鳴らす。そうして、判決を言い渡す、と映姫は高らかに叫んだ。
「被告射命丸文は…無罪とする」
 場の沈黙が刻限に達した。広場からは一切の音が消え消え去った。まるで音を伝える空気のない宇宙空間だ。極限の緊張の果てに告げられた信じられない一言により人々は自我を消失、己を虚空へと変えてしまったのだ。故の静けさ。音を発せる者がいなくなってしまったのだ。
「なん…だと…ッ!!」
 それを壊す叫び。
 最初に音を発生させたのは自警団団長だった。抜き身の太刀を手にしたまま、顔を赤くし吠える。
「バカを言うな! ソイツが犯人じゃないだと! 理由を。理由をい…」
「静粛に!」
 団長の叫びを遮り一喝する映姫。ゆっくりと振り返り段下の団長を睥睨する。
「貴方に発言の許可を与えた憶えはありません。ですが、一応、質疑は受け取っておきます。判決理由は証拠不十分。文が異変の真犯人たり得る証拠は一切合切ありません。全てはあなた方の都合と取捨選択による意図的な情報操作、それとでっち上げだ。あなた方は異変と深い関わりを持ち、私を助けてくれた文を捕まえ犯人に仕立て上げたのだ。不服だというのなら文が真犯人だという証拠をここに提示しなさい」
 ぐっ、と団長は臍をかんだ。が、それも一瞬、太刀を映姫に向けて突き出し団長は吠えた。
「だったら、だったらお前はどうなんだ! 死体だらけになっていた向こうの通りでお前だけが生きて立っていたのは! アレはお前が犯人だという証拠じゃないのか!」
 文を犯人にするという目論見が失敗し、団長は最初期の予定通り映姫を糾弾し始めた。眉を顰めあからさまに嫌悪を表す映姫。
「同様です。私はの場所に偶然居合わせ偶然殺されなかっただけです。私は幻想郷に観光に来ただけであのような非道な行いをする動機もないですし、凶器も力も持ち合わせていません。それ以前にあの場に居合わせただけで私が異変の犯人だと断定するのは早計すぎます。それに第四以外の異変が発生したとき私にはアリバイがあったのですから」
「アリバイだとぅ?」
「ええ。文と一緒に行動していましたから。文では信用に足らないというのでしたら、彼女が撮った写真があります」
 言って映姫は写真を取りだした。日付や時刻が印字されているわけではないが太陽の位置や影の向きで時刻の判定は可能だろう。そこまでは分らなかったが団長は腹でも切ったかのように苦しそうな表情を浮かべた。映姫の自信に満ちた表情とその威光から確かめるまでもなく真実だと思い知ったからだ。
「動かぬ証拠、と言うやつです」
 写真は昨晩、椛に頼んで天狗の里から持ってきてもらったものだった。川岸へほうぼうの体で辿り着いた映姫はなおも自分を捕えようとする椛に全てを打ち明けた。犬猿の仲である文ではなかったことと自分を助けてくれたことが理由か、椛は映姫の話を一応最後まで聞いた。聞いて納得した。はたて殺しの犯人は別にいるということを。そこから映姫は協力してくれそうなにとりともう一人、偶然その場に居合わせた人間を交え四人で自分と文にかけられた疑いを晴らすための作戦を練ったのだ。今更、普通に訴えでたところで解決しないことは重々承知していた。世論が既に映姫や文を犯人であると決めつけているのだ。こうなっては正論でさえも誰も聞き入れてくれない。劇的な世論誘導が必要だった。
 そこで映姫たちは一計を案じた。皆の注目が集る最高のタイミングで民衆に真実を告げ、完全に世論を味方につけようとしたのだ。死刑執行の瞬間に文を助けだし、その上で無実を訴える。効果は覿面のようだった。
 ざわつく民衆の口からは困惑に混じり、自警団を疑うような声が上がってきている。執行人が一転、糾弾される側に回りつつあり明らかな狼狽を見せる団長以下自警団員たち。
「その方の…」
 そこに更に決め手となるような一言を上げる者が現れた。
「アリバイは私が証明します」
 民衆のどよめきの中にあの人は、という声が混じる。人の山をモーゼの様に割って現れたのは翠を主とした身こそ装束の女性は、
「守矢神社の…」
 早苗だった。予期せぬ助け船に驚く映姫。
「三回目の異変が起ったとき、その文さんと閻魔さまは私の神社に一緒に来られてました。間違いありません」
 最近は参拝客は少ないとは言え一時は早苗は幻想郷を二分する神社の巫女だったのだ。その言葉は大衆には下手な論理的説明より説得力がある。
「どうです。これでもまだ私たちを犯人だと言い張りますか」
 一歩、前に出て団長を威圧する映姫。既に雌雄は決していた。これ以上、自警団の面々が何かを言ったところで言い訳としかとられないであろう。
「だっ、黙れェ!!」
 だと言うのに団長は叫んだ。見苦しい激昂。
「死刑だ! 貴様らは死刑にしてやる!」
 ぎらつく目には明らかな殺意が灯っていた。山刀を構える椛と文を庇うようその前に立つ映姫。
「何がアリバイだ! 何が証拠だ! そんなものは必要ない! お前らが犯人なのに間違いはないのだ!!」
 刀を振り上げ自警団団長は断頭台の階段を登った。
「殺して  /  やる………!?」
 その行為が斬首刑の執行合図であると最後まで気がつかず。
「え?」
 疑問符を上げたのは一体誰だったのか。団長を論理的説明と世論操作で論破した映姫か。彼の斬撃を防ぎ突き飛ばした椛か。それとも寸前まで首を落とされそうになっていた文か。もしくはつめかけた民衆か。団長自身か、或いはその全てか。ごろり、と団長の首が転げ落ちた。
<9>




 東風谷早苗には目的があった。守矢神社を復興させるという目的が。

 幻想郷に移住して暫くの間は安泰だった。山を統べる天狗たちと取引をし、幻想郷唯一の神社だった博麗神社と対立しそれからも様々な手をうち信者獲得に努めてきた。毎日のように信者や参拝客が山の上の守矢神社まで訪れ大きな賑わいを見せていた。だが、霊夢が死に暫く経ってから風向きが変わってきた。徐々にではあるが信者や参拝者の数が減ってきたのだ。十年もすればはっきりそうと分かるほど信者の数は激減していた。元より交通の弁が悪い場所だ。イベントを開くなど色々小細工をしたが余り効果はなかった。何より人々の足を遠ざける一番の要因となってしまったのは早苗の売春だった。彼女は信者獲得という名目のもと幻想郷の権力者たちに股を開いていたのだ。それが幻想郷中に知れ渡ったのは早苗が相手をしていた男の一人、さる豪商の妻が嫉妬にかられ早苗が何をしていたのか、吹聴して回ったからだ。火のない所に煙は立たぬ。逆説、くすぶっていたところを炊きつければあっという間に火は回る。追随するよう他の男達の妻や妾たちも同じように有ること無いことを含めあれやこれやと言いふらし始めたのだ。実際、早苗が身を捧げて信者獲得に奔走していたのは確かだったが、誘ったのは男の方からであり早苗はとても断れぬ状況にあった。けれど、当然、女たちはそんなことは一言も口にしなかった。糾弾すべきは男ではなくその相手の早苗であり、同情の余地を与える必要性はなかったからだ。早苗は弁明さえ許されぬ状況へと陥った。抗弁すればそれは結果、権力を持った男たちの顔に泥を塗る事になる。それはつまり彼らの縁故で少なからず来ていた参拝客の足が完全に絶えてしまうことを意味していたからだ。二柱も既にこの時には姿を保つのがやっとで、早苗の汚名をそそぎ神社の名誉を回復させる力など残っていなかった。早苗は淫売巫女と蔑まれ、女たちは汚物を見るような目を向け、男たちは卑し気な笑みを浮かべた。茂みや水車小屋の中へ連れ込まれることさえあった。それが更に悪い噂を呼び、そしてついに…守矢神社への客足はついに完全に途絶えてしまった。二柱の姿は消え、博麗神社同様、守屋神社も廃社寸前の状況にへと落ち込んでいったのだ。
 それから四十年。早苗の売春を覚えている者は少ない。早苗の無念が知らずの内に呪いとなって関係者に不幸をもたらしたからだ。だが、それで神社の人気が復活するわけもなかった。社は寂れたまま、二柱は消えたまま、いつかは早苗自身も消えてしまうことだろう。
 それは嫌だと、早苗は決意した。
 かつての栄光を、力を、信仰を取り戻そうと。
 その為ならばこの手を汚すことを厭わぬ、とそう早苗は決心したのだ。
「チャンスですねふふふ」
 その機会がついに訪れた。


◆◇◆


 広場の中央に噴水が出来た。赤い水を噴き上げる大きな噴水だ。びちゃびちゃと段の上に赤い水を降らせる。けれど、それもほんの少しの間だけだった。辺り一面を真っ赤に染め上げたところで噴水の水は止ってしまった。ポンプ、が止ったからだろう。そのまま団長だった男は自分が作った水溜まりの中に倒れた。身体を支えようと手も伸ばさず、受け身を取ろうと身体も捻らず、まっすぐに。倒れた身体が赤い水に半分まで浸かる。けれど、苦しくはないだろう。何故なら、息をする口は首ごと断頭台の下に転がってしまってるから。
「な、なんだありゃ…」
 誰かが呟きを漏らした。続いて断頭台の上の方を指さす。何もない空間。何もなかった空間。今はそこに無数のナイフが四方八方に切っ先を向けながら出鱈目に並んでいるのだ。
「ッ! 映姫さま!!」
「クソ! 下がれ!」
 叫んだのは二人。文と椛だ。文は映姫の手を掴むとそのまま躊躇いなく自ら断頭台から転げ落ちた。椛もそれに倣うよう身体を小さくしつつ横っ飛びに跳ねる。だが、僅かに遅かった。寸前、時を止められていた全てのナイフが動き出したのだ。
「クッ!?」
 ひゅんひゅんと空を切って四方八方十六方三十二方六十四方百二十八方二百五十六方五百十二方一千二十四方二千四十八方に飛ぶナイフ。なめし革の盾でさえ容易く貫くような速度で飛来したそれは無差別に無造作に無遠慮に、
「あ」
 広場の回りに集っていた民衆の身体を射抜いた。遅れ、上がる悲鳴。
「キャァァァァァァァァァ!!」
「痛い…いでぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「ぎゃぁぁぁ、血がッ! 血がッ!」
「―――――――――――――――。」
 混乱が広がる。ナイフが突き刺さった己の腕を押さえる男。口から血の泡を吹きながら倒れる女。血まみれの幼子を抱く老人。眉間にナイフを突き刺したまま地に落ちる妖精。胸に刺さったナイフを引き抜きそのまま絶命する妖怪。辺り一面は血の海となり身体を濡らしている血は他人のものなのか自分のものなのかまるで分らない状態となっていた。
「もういい…」
 悲鳴と苦悶、絶叫と嗚咽の最中、どこからかいやに通る声で一つの呟きが漏れた。一体、いつの間に登ったのだろう。分厚いコートを纏った小柄な影が断頭台の上にあった。
「こそこそとしたのはナシよ」
 コート姿は一人、そんなことを口にする。気がつけば混乱はなりを潜めていた。未だに民衆の間からは苦悶の声が上がっているがそんな声を発しているのは死にかけの連中ばかりだ。息のある者、怪我の浅い者、まだ死んでいない者は皆一様に文の処刑の時同様、断頭台の上にいる人物に注目していた。
「出てこないのは目立たないから、って事ね。じゃあ、派手にいこうかしらん。やっぱりこういう芸当の方が私には似合っているわ」
 じゃあ、とコート姿は腕を上げた。人差し指を立てすぅーっと水平にそれを動かした。適当なところでその指が止る。指が指し示した先には妊婦のように腹を膨らませた肥満漢がいた。俺、と自分の顔を指さす男。次の瞬間、樽のようなその腹に右から左から後ろからも出鱈目に何本ものナイフが突き刺さった。そのまま倒れる男。亡骸を中心に円を描く空間が出来る。周りにいた人が驚き、恐怖し離れたのだ。
「次」
 その輪のうちの引き攣った顔で男の死体を見ていた中年女性のこめかみからナイフが生えた。自分が見ていた物と同じ死体になってしまったことを最後まで理解できず中年女性もまたその場に倒れる。
「次、次、次」
 無造作に指を動かし民衆を指さしていく檀上の指揮者。まるで棚の商品のうち、目についた物を片っ端から購入する良家のお嬢さまのような動作だ。指を指された者は恐怖におののくのも一瞬、首を斬られ、腹を裂かれ、心臓を一突きに次々と絶命していく。
「アハハハハハハハ! 良いわね良いわね。この光景」
 既に広場の混乱は極限に達していた。誰も彼もが我先にと広場から逃げだそうとしていた。その背にナイフは無慈悲に突き刺さっていく。死んだ人、まだ死んでいない人の身体を踏みつけ、時に倒れ、踏みつけられながらも人々は逃げ出していく。檀上で笑う少女の哄笑をBGMに。
「ああやっぱり“異変”ってのはこうでなくっちゃ。人々を恐怖と混乱の渦に叩き込む。ええ、そうよそうよ。さぁ、早く解決しに来なさい。博麗の巫女!」
 檀上から降り、逃げ戸惑う人々をゆっくりと追いかけながら小気味良く指さす手。悲鳴も上げる間さえなく彼らは絶命していく。阿鼻叫喚の地獄がここに表現されていた。


◆◇◆


「ッ…クソ…」
 身体を起こしながら椛は毒づいた。その半身はバケツの水をぶっかけられたように赤く濡れている。肩口にはナイフが柄の当りまで深々と突き刺さっている。檀上のコート姿の攻撃を避け損なったのだ。
「大丈夫ですか」
 映姫が声をかけるが椛は何も言わなかった。無視したわけではない。大丈夫ではないと無言で返したのだ。
「なんなんだアレは…いきなり現れたぞ…」
 白狼天狗は種族的に目鼻そして耳が良く利くように出来ている。それ故、哨戒部隊が任せられている種族なのだ。その椛があのコート姿の少女が檀上に現れるまでまったく接近に気がつかなかったのだ。その事に一番驚いているのは椛であった。
 だが、と椛は服の袖を捲り上げ縛ることで止血帯の代わりにしつつ考えを巡らせた。どうやったかは分らないがあの場には何十人も自分と同じ白狼天狗や腕に憶えのある自警団の人間がいたのだ。そんな自分たちにまったく気がつかれず断頭台の上まで登る程度の能力があるならば警戒態勢下の天狗の里へ潜り込むのも簡単な筈。文の手など借りずとも里に忍び込み自分の部下やはたてを殺すことなど造作もないだろう。あんな卑怯な力を使っていたのかともう一度、クソと椛は悪態をついた。
「アレが異変の真犯人なのか…」
 既に少女の姿はここにはない。断頭台から降りた後、椛たちには目もくれずに回りに居た自警団や白狼天狗たちを殺し、逃げ戸惑う人々の後をゆっくりと追いかけていったのだ。
「畜生…みんな、みんなアイツに…なんなんだアレは…」
 悔しそうに歯噛みする椛。
「指を指すだけで斬りつけたり刺したりしていましたね。あの力なら確かに旅館の異変も起こせるでしょうね」
 椛を介抱しつつそう映姫は言った。
「……はたて先輩も鋭利な刃物で斬られていました。間違いないと思います」
 思い出すのも苦しいのか、けれど、顔を歪めながらも椛も付け加える。ああ、と文は頷いた。
「あんな手品みたいな能力をつかうなんて…」
 瞬間移動のように断頭台の上に現れる。中空にナイフを並べる。指し示すだけで投擲刺突斬撃を放つ。コートの少女の能力だと思われる不可思議な現象を思い浮かべ、その無敵さに身体をこわばらせる椛。
「手品?」
 そこに疑問符を挟んだのは文だった。自警団や白狼天狗たちから受けた傷が痛むのか苦しそうな顔をしている。だが、それでも文は腰を下ろさず立っていた。
「あれには種も仕掛けもある…アレは“時を操る程度の能力”…死んだと思ってたのに…」
 何事かをブツクサとぼやき、頭をかきむしる文。失念していた、と悔しそうに口にする。
「文?」
 映姫が心配そうに声をかけるが返事はない。それどころか映姫を無視するよう文は不意に踵を返し走り始めた。


◆◇◆


「そこまでだ! ウォォォォ!」
 武器を掲げ咆吼を上げ白狼天狗や自警団団員が少女に迫る。
「ソイツ等」
 だが、誰一人として少女に辿り着く者はいなかった。全員が後一歩で辿り着くという所で同時に首にナイフを突き刺され絶命したのだ。
「次はアイツ。その次はアレとソレ」
 少女は失敗したとはいえ反撃されたという事実を意に介さず逃げ戸惑う人々に一方的に死を与えていった。いや、襲いかかってきた白狼天狗や自警団でさえ彼女にとっては異変の被害者に過ぎないのだ。男も女も子供も老人も人間も妖怪も関係ない。そこにいるから殺す。目に付いたから殺す。意味も配慮もなく殺すのだ。
 少女という死をばらまく異変を前に人々は逃げ戸惑うしかなかった。不可解で理不尽な異様な変事。故に異変。為す術もないとはこの事だろう。
「アハハハハハ、アハハハハハ、アハハハハハハハハハハハ!!」
 逃げる人々の悲鳴と怒号をバックに哄笑を奏でる少女。一人殺せば一歩進むのだと言わんばかりに。目標に近づく喜びを隠しきれない様子で。それが人の死だというのだ。笑い声は悪魔のソレに相違なかった。顔を歪め唇を孤月にひん曲げ紅い瞳を光らせながら少女は笑った。
「耳障りですね」
 隠れていた長屋の前を少女が通り過ぎていった後、早苗は忌々しげに呟いた。
「まぁ、でもそれもここまでです」
 次いで笑みを浮かべる。少女が浮かべているのと酷く似通ったソレを。非道な手を使って目的を叶えようとする者が皆一様に浮かべる笑みだった。
「これ以上、異変は続けさせません」
 言って音もなく外に出る早苗。少女は既に一区画ほど向こうまで歩いていた。その背に追いつくよう早苗は走り始める。
「異変ごっこはここで終わりです。散って私の神社復興の礎になってもらいます」
 武器を取りだす早苗。左手に荒縄。今日のために特別に縒った魔を縛りあげ動きを封じる縄だ。並の妖怪なら息も出来ぬ程に拘束することが出来る強力な代物。そして右手には白樺の杭を握る。後ろから襲いかかり動きを封じて必殺の武器でとどめを刺す。完全な作戦が早苗の脳内に描かれていた。指さされただけで殺されるという絶対死については何の心配も抱いていなかった。手品の種は分かっている。あれはそういう能力ではなく、少女が凶手にそう命令しているだけだからだ。凶手は少女の忠実な僕ではあったが、言われずとも何かをする程度の自我を殆ど持ち合わせていないことは知っている。白痴も同然なのだ。凶手は主人の身が危険に晒されてもすぐには動かない。動く程の自我を持っていない。そう早苗は推測する。一瞬の隙を突けば勝機は十分にある。早苗は臆することなく突き進む。
「もらった!」
 荒縄を放つ早苗。中空に放たれた縄はけれど、重力に引かれ地に落ちる事なく水面を泳ぐ蛇のようにくねりながら一直線に少女に迫った。そうしてそのまま大蛇が獲物を締め上げるよう、少女の体をがんじがらめに拘束する荒縄。哄笑していた少女の顔に僅かに驚きが満ちる。少女は今、鉄鎖を何重にも撒かれたも同然の状況なのだ。殺った、と更に走る速度を速める早苗。その胸に、背中から白樺の杭を打ち付けてやると腕を伸ばす。
 瞬間、
「え?」
 二の腕の半ば辺りで腕が断たれた。
 いや、腕だけではない。白樺の杭を突き立てようと構えたとき既に早苗は転ぶよう身体のバランスを崩していた。腿の半ばより下が身体から離れていたからだ。どうしてという疑問より先に左腕もまた右腕と同じ場所で離れていた。四肢四箇所。全てが同時に斬り殺されていた。
 走る勢いだけは殺されずに前のめりに倒れる早苗の胴体、及びそこに繋がっている頭部。
「やっぱり」
 辛うじて動かせる首だけで振り返り少女は口を開いた。
「裏切ると思っていたわ」
 早苗が地面に落ちると同時に呆れ半分といった調子で少女は応えた。
「いやっ、私の、私の手が! 足が!?」
「ううん。裏切る、とは違うわね。私も貴女も最初から互いに互いを利用する立場で動いていたもの。今の今までそれが完全に同じ方向を向いていたのだけれど今になって貴女が少し方向性を変えただけ。そうでしょう、山の上の元・巫女」
 己が作った血溜まりの上で短くなった手足をばたつかせ暴れる早苗。当に人をやめたその身体はこの程度のことでは死なない。だが、再生は不可能だろう。ぴちゃぴちゃと水音を立てながら早苗は嗚咽をもらす。
「大方、私を倒し異変を解決したことにしようとしたのでしょ。それで人気を得ようと。お馬鹿さんね。人間じゃない貴女が異変解決なんてできるわけないじゃない。役不足よ。自分で異変発生の片棒を担いでおきながら。まったく、抜け目ないわね」
 きひひ、と少女は笑みを浮かべた。浅はかな手を使い失敗した者を嘲う笑みだった。
「でもまぁ、お礼は言っておくわ。貴女のお陰で私は鬱屈を溜めるだけの過去を捨て前に進むことはできたわ。だから、殺さないであげる。感謝しなさい。手足は博麗の巫女が復活して貴女のところの神社もライバルとして地位が上がればまた生えてくるんじゃないかしらん」
「うぁぁぁ、あぁ…畜生畜生っ…! どうして…?」
「うん?」
 芋虫のようにもがく早苗が怨嗟と悪態に混じり疑問をもらした。なにかしら、と少女。
「どうしてっ、どうして…貴女の従者は自意識なんて残ってないって言ったじゃない…!」
「ああ、それで私を抑えつけて殺そうとしたの。無駄なことを。メイドが、主人を守るのは当然のことじゃない」
 そう語るコート姿の少女の背後に一体いつの間に現れたのであろう、同じようなコート姿の女があった。幽鬼のような佇まいと殺人鬼の気配。フードの下に隠れた女の顔を見て早苗は短く悲鳴を上げた。成る程。早苗が彼女の顔を見たのは久しぶりであったが、確かにああなっては自我など存在し得ないだろう。手足を切り落とされた自分が可愛らしく思えるほどの惨たらしい有様。五十年もの間、生かさず殺さず加えられ続けてきた拷問の痕がそこにありありと残っているのだ。
「うわぁぁ、あぁ…畜生っ! 畜生! 神奈子様、諏訪子様、ごめんなさい…ごめんなさいっ!!」
 血溜まりに身を沈めながら幼子のように泣きじゃくる早苗。もう、興味が失せたのか少女は顔を正面へと向けた。
「畜生、畜生! ころし、殺してやるぞ!!」
 その背に呪いの言葉を投げかける早苗。顔に塗りつけた血糊を涙で洗い流しながら、切り落とされた腕や足を動かし亀の様に緩慢な動作で少女に近づいていく。少女は動けなかったが近づく早苗に注意を向けることはなかった。手足をもがれた半死人の半人半神だ。歯牙に掛ける必要はない。何かあった所で彼女の忠犬は健在なのだ。だから、放って置いた。
「レミリア、レミリア・スカーレットォ!!」
 隠されていた己の真名を口に出されたところで。
「やっぱり…」
 しかしながら、そこに更に別の人物が現れた時は少女…レミリア・スカーレットも眉をしかめざるおえなかった。
「貴女でしたか…レミリアさん」
 レミリアの進行方向の先、建物と建物の間の路地から飛び出してきたのは射命丸文だった。


◆◇◆


「ひさしぶりね、新聞記者。五十年前に書いた記事、今も大切に保管してあるわよ」
「やはり、それが始まりですか…」
 苦もなく自分を拘束していた荒縄を引きちぎり、自由になった手でフードを上げる少女。中から現れたのは死人のように青白い顔をした恐ろしいまでに美しい容姿の少女、レミリア・スカーレットだった。不敵に笑みを浮かべるレミリア。
「薄々は感じてました。今回の異変はあまりに五十年前の事件に似ていました。関係がないなんて絶対に言えません。しかし何故、こんなことを。異変を起こしても今は解決役がいないのですよ…?」
 文の疑問に眉をしかめるレミリア。はん、と鼻を鳴らす。
「お前がそれを言うの? 始まりというならお前こそが始まりだというのに」
「……霊夢さん、ですか。やはり」
「そう、それしかないでしょ!」
 霊夢、その名を耳にしたとたんレミリアは激昂した。おそらくは五十年ぶりに発したあの博麗の巫女の名前に文は心臓を握りしめられたような苦しさを覚えた。自分が殺してしまった少女の名前だったからだ。
「あれは…私は…いつまでも貴女との仲を認めたがらない霊夢さんの背中を押してあげようと思って…」
 しどろもどろに、弁明めいた言葉を口にする文。当時、確かにレミリアと霊夢は付き合ってはいたがそれは不倫のような秘密の関係だった。霊夢が、妖怪を退治する役目を負っている巫女が妖怪と付き合っているなんてありえないと公共の場では言い張っていたからだ。それを文はむず痒く感じたのだ。好き同士ならはっきりと付き合ってしまえばいいと。だからこそあの時はそれがいいと思って熱愛発覚の記事を書いたのだった。その結果がどうなるとも知らずに。
「ああ、別に私はあの記事については怒っていないわよ。むしろ、お礼を言いたいぐらいだったわ。でもね、」
 言葉を途中で区切りレミリアは文を睨みつけた。
「でも、アレのせいで霊夢は死んでしまった。殺された。いえ、お前だけのせいじゃない。私にも責任があるわ。まったく。私も飼い主失格ね。犬をきちんと躾けておけなかったなんて!」
 全くの不意にレミリアは足蹴を繰り出した。技術もなにもない感情に任せただけの衝動的な攻撃。だが、その力はまさしく吸血鬼だ。足蹴を受け大砲で撃たれたようにすっ飛んだ。控えるようレミリアの隣に立っていた女が。
「なっ…!?」
 自分が蹴られたわけでもないのに驚きの声を上げる文。いいや、どのみち蹴り飛ばされた女は悲鳴を上げられなかっただろう。何故ならその口は縫合されていたからだ。暫くの間、女は倒れたまま身体を小さく震わせていたがレミリアの立てという一言に従い身体を起こした。偶然か、するり、とフードが脱げる。白昼に晒されたのは拷問によって元がどうであったか判別できなくなった顔と、くすみ荒れ果てているが元は銀だったと分かる頭髪だった。
「ああ、まったく。私もお前もうかつよね。こんな身近に私と霊夢の仲を妬む馬鹿がいたなんて気づきもしなかったんだもの。三角関係って言うのでしょこういうのは。でも、三角関係ってのは普通、先ずは恋敵にちょっとした嫌がらせとかするものじゃないの? 靴に画鋲を仕込むとか、あからさまにイチャついてるところを見せつけるとかね。だっていうのにこの馬鹿はそれを通り越していきなり霊夢を殺すんだもの。ああ、まったく。とんだ狂犬を飼っていたものだわ私も」
「それは…」
 彼女が貴女に仕えているからだ、とは文は言えなかった。彼女は優秀なメイドだった。優秀だからこそ主人の心情を知って恋愛ゲームに参加するような真似はしなかったのだろう。参加せず、心の中に鬱憤を貯めこんで、口では主人を応援しつつ内に秘めた嫉妬の炎で身を焼いていたのだ。それでも二人の関係が秘密裏だったのなら良かったのだろう。公にされていない関係ならば秘密裏で表向きは無いことになっている。そう誤魔化していたのだろう。だが、それが、その最後の砦さえも崩れ落ちた。熱愛発覚の報道で。
「まぁ、その後、きちんと躾け直したからよしとするわ」
 立ち上がった彼女はまるでそうプログラムされた機械だと言わんばかりにすたすたと歩き定位置に戻るようレミリアの傍らに立った。そういう風にしたのだ。血を吸い吸血鬼にした上で普通の人間なら死ぬような拷問を何度も加え、精神を完全に破壊し、自我というものを無くさせただ命令だけを忠実に聞くように。彼女はもはや忠犬ではなくロボットだった。
「それで…それでどうしてこんな大それたことを…!」
「大それたこと?」
 眉をしかめ問い返すレミリア。
「大それていないと駄目なのよ。下々の者が恐れ戦き、戸を閉めきって家の中に籠もり一歩も外に出ず、ガタガタと震えて部屋の隅でお祈りするしかない、そんなそんな、誰も彼もが早々に異変の解決を、博麗の巫女の復活を望むような大それた状況でないとね!」
 復活、その言葉に力を込め言い放つレミリア。まさか、と文は気押されるよう一歩後ろへと下がった。
「まさか、貴女はそれで霊夢さんが帰ってくると思って…そんなことを…!?」
「まさか。でも、小指の先ぐらいは信じているわ。だって、霊夢の死体はあの時、ムラサキ婆の奴がもっていってしまったからね」
 死んでない可能性もあるわ、とレミリア。その瞬間は文も見ていた。熱愛報道を知った霊夢がどう出るのかを確認するためにずっと張り込んでいたのだ。けれど、その際に撮れた写真はレミリアとの仲睦まじい様子などではなくナイフで心の臓を一突きにされた霊夢の姿であった。
 その後、霊夢の亡骸は誰かが駆け寄るより先にその足下に開いたスキマに飲み込まれ、以降その姿を見た者は誰もいない。狂ったように泣き叫んだレミリアはその場で狂った従者を即刻処刑した。いや、したように見えた。実際にしたのかも知れないがその後、彼女を無理矢理蘇生させ今度は殺してしまわぬよう不死者の列に加えたのだろう。それが博麗霊夢殺人の顛末だ。
「苦しいわよ。愛する者がいないって世界は。拷問ぐらいしか手に付かなくなるぐらいにね」
 かんらかんらと他人事のように笑うレミリア。もはや愛する者を喪った悲しみも凶行に走った使用人への怒りも当に摩耗しきって存在しなくなっているのであろう。それでも形骸化した霊夢への想いだけでレミリアは行動しているのだ。
「ええ、だからね。そこのイモムシにこの話をされた時はとても嬉しかったわ。明らかに私を騙して漁夫の利を得ようとしていることが分りきっていてもね」
 言って文に後ろにいる早苗の姿を見せつけるために半身をずらレミリア。そこにいた早苗の姿を見てうっ、と文は嘔吐いた。手足を切り落され自らの血の海で溺れるよう口をぱくつかせる早苗。もはやほぼ意識は残っていないだろう。気絶寸前だ。
「だから一応、お礼として襲いかかってきたけれど殺さないであげることにしたの。こんなんでも生きていて楽しいって思えれば良いのだけれどね」
 レミリアのサディスティックな仕打ちに文は怖気を憶えた。躊躇いなく民衆を殺しておきながら裏切り者をあえて殺さぬその外道さに。
「……はたては」
「うん?」
 ならば、と文は一つ尋ねなくてはいけないことに思い至った。異変のために人々を殺した。仲間であった早苗はあえて殺さなかった。もう一人、どうして殺されてしまったのか分らない人物がいるのだ。
「はたてはどうして殺したんですか!!」
 文のライバル記者であった彼女だ。異変と違い、はたての場合は明らかに目的があっての殺人だった。怒りさえ込めて文は問いかける。
「はたて…? ああ、あの天狗の記者ね。アレはコレの事を新聞にしようとしたから殺すように命令したの」
 博麗神社でお前とあのはたてとかいう記者が話しているのを偶然、聞いていたのよ、とレミリア。そんな、と文は言葉を詰らせた。またも自分が発端となっていたのだ。
「写真の回収もついでにね。見た者、近づいた者も殺しておけって命令しておいたの」
 愕然とし肩を震わせ、ついには膝を付く文。その様子を見てか、レミリアは目を閉じ軽くため息をついた。
「あの時はまだバレるわけにはいかない、と思っていたからね。ああ、でも、もういいわ。人間どもは勝手にお前を犯人だと決めつけて勝手に異変を解決したことにしようとするんだもの。まったく、最近の人間はなってないわね。自力で真実にまで辿りつけないなんて。手加減せざるをえないじゃない。だから、」
 だから、
「姿を表したのよ。ラスボスが表に出てくればもう後は異変を解決する人間が出てこないとダメだからね。後は出てくるまで殺し続ける。それだけよ」
 それで話は終わりだったのかレミリアは腕を組んで仁王立ちしたまま続く言葉を何も口にしなかった。まるで敗者と勝者の構図で戦ってもいないのに、向きあう二人。文とレミリア。やれやれ、とレミリアはため息をつくと少し疲れたような目で文を見た。
「インタビューは以上かしら新聞記者さん」
 返事は、当然ない。
 レミリアは肩をすくめると再び歩き始めた。三歩遅れて彼女がついていく。
「それじゃ。私は異変で忙しいからこれで」
「………私を」
 通り過ぎたタイミングで文はレミリアに振り返りもせずに声をかけた。ん、と一瞬足を止めるレミリア。
「私を殺さないんですか…?」
「殺さないわ。もう一度、私と霊夢の熱愛の記事を書いてもらうから」
「ッ…!」
 レミリアの真意を知り、再び絶句する文。文もまたあえて殺されないのだ。早苗と同じく、責より先に礼があるから。文の場合は霊夢との仲を報じた記事を書いたという礼とその記事の所為で霊夢が死んでしまったという責を。
「ううっ…うううっ…」
 握り拳を作り文は涙を堪えた。
 いいや、堪えているのは身体だ。ともすれば立ち上がり自分から離れていくレミリアを追いかけそうになる身体を。だが、追いかけてどうするのだと自問し答に窮する。レミリアは自分では止められないのだ。レミリアがしていることは異変でそれは妖怪である文には決して止めてはならないし止められない事なのだ。それ以前に傷だらけの今の文の力では追いすがることすら出来ない。そして、事の発端である文には止める権利すらない。項垂れたまま文は遠ざかっていく二つの足音を耳にするしかないのだ。その場に蹲り涙を流し始める文。悔しいのか。情けないのか。恐ろしいのか。もはや人の言葉では表せない負の感情を心という器に満たし、文は地面に爪を立て土を握りしめ声を押し殺して泣き始めた。
「私のせいだ…」
 うずくまり打ち震えているうちに心の中に溜まっていた負の感情が段々と形を成していく。
「霊夢さんが死んだのも…」
 過去の過ちを思い出し、
「はたてが死んだのも、映姫さまが酷い目に逢ったのも…」
 現在の出来事に顔を歪め、
「大勢の人が死ぬのも…」
 未来への絶対的な不安を抱かせるソレに。
「全部私の所為だ」
 負の感情が全て内向く。強烈な自己嫌悪が出来上がる。今現在目に映るもの、過去の記憶、これからの展開、全てが忌むべき現象へと変る。自分に連なるものが酷く見える。当たり前だ。感情、それ自体は己の内側から発生するもの。それが負にベクトルを持ちしかも全て己自身にへと向けられているのだから。あらゆる主観に置いて得るもの全てが己の所為でねじ曲がり失敗し目も背けたくなるような結果に変ったと自己認識するのだ。暴走する己の感情が己を批難する。己が己自身を糾弾しようと罵詈雑言を囃したててくる。耳はふさげない。その声は全て自分自身から出ているのだから。外道。貴様の所為だ。お前が彼女らを殺したんだ。人殺しめ。人殺しめ。お前だ。お前のことだ。お前が…
「異変を…起こしたのは…私だ…」
 真犯人だ。
 絶叫する文。
「うぁぁぁぁぁぁぁ、あぁぁ!!」
 地面に額を擦りつけ涙を流す。落ちた涙は土に吸い込まれていくが、後から後から涙は流れ出ていく。胎児のように身体を丸めるが精神的な寒さは免れない。卵に還りたいと切に願う。或いは土に還りたいと。
「くぅぅぅ…」
 文は歯を食いしばりながら身体を起こした。ぽろぽろと身体に付いた土が落ちていく。自分自身から発生するこの感情に文は耐えられそうもなかった。だからこそ自ら死刑を受け入れ、レミリアに殺してくれと懇願したのだ。そのどちらもが叶わなかったが。ならば、こうなれば自らその命を絶つしかないだろう。崖下へ飛び降りるよう、梁にかけた縄に首を通すよう、お白砂で腹を切るように、自ら進んで死ぬしかなかろう。これ以上、辛く苦しいのは嫌だった。責任を取るという意味でももう一秒だって生きてはいられなかった。殺してくれないというのなら進んで振う刃の前に身を躍り出すだけ…
 文は立ち上がった。レミリアを追いかけようとしているのだ。追いかけて、その邪魔をしようと。レミリアを止めたい訳ではない。それが無理なのは分っている。止めたいと思うのは…
「うぁぁぁぁぁぁ!!」
 己の生命活動だ。
 振り向き様に走り出そうとする。足に力を込める。目を見開く。叫ぶ。身体を強張らせる。腕を振り上げる。肩を…掴まれる。
「自決ならまだしも自殺は大罪です。止めなさい」
 今まさに走り出そうとした文の肩を掴んだ手は女性の細い手だ。傷だらけでいくつも絆創膏が貼られている。掴む力は弱々しい。とても動き出そうとした文を、自ら死のうとする勢いを止めるような力は込められているようには思えなかった。けれど、
「映姫…さま」
 文は足を止めた。自分の肩を掴んだ彼女の顔を見て。
「死んでどうするというのですか」
 まっすぐと文の瞳を見て問う映姫。思わず文は目を背けてしまった。
「だって…私の、私が…」
「自ら死を選んで赦されるのは何かの為だけです。貴女のソレは大罪だ。死して地獄に堕ちて尚も責苦を受ける事になる」
「ッ…それでも、それでも構いません。私はソレだけのことをしてきたのですから」
「? 何をです? 貴女は記事を書いて新聞にしてそれを皆に読ませただけでしょう」
「それで…それで多くの人が死んでしまったんです! だったら、私はその責任を取らないと…! とって死なないといけないんです!」
 頭を振い叫び、映姫を振り払おうとする文。その頬に、
「バカ!」
 平手が飛ぶ。
「そんなものは逃げです。死んで責任を取る? 死んでとれる責任などありはしません! それは卑怯者の考えですよ。生きて負わなければならない謝罪と責務を放棄し、楽に見える死による解放を選ぶのは。そんな逃げを選んでどの口で責任だと言うのですか。言ったでしょう。責任逃れで自殺したところで地獄に堕ちて責苦を科される、と。その罪状には責任放棄の罪も含まれているのですよ死んだところで一切の責任は果たされない。あまつさえ更にその魂には更に罪科が刻まれる。貴女のその選択は最悪のものです!」
 自ら死のうとしている文にそう説教を加える映姫。言葉は苛烈で、脳天を打ち据えるように強烈なものだった。ありとあらゆる卑賤な者が傅きそうですか、と心の底から納得するような正しさに満ちていた。
「あ、ああ…」
 だからか、文は同意の言葉こそ口にはしなかったがもう駆け出すことを止めていた。自ら死に向かうようなことは。
「……映姫さま」
 そのまま力を失う文。疲労と緊張、心労が極限にまで達したのだろう。寸前、映姫が抱きかかえていなければ地面に倒れている所だった。
「もういいです。暫く休んでいなさい。そんなに疲れているからおかしな考えをしてしまうんですよ」
 はい、と文は頷いた。確かに酷く眠く、ともすれば意識さえ落ちそうだった。だが、まだ目は瞑らなかった。また、異変は終わっていないのだから。
「さて…そこの吸血鬼」
「何かしら? さっきから茶番を続けてる人」
 映姫は文を抱いたまま、レミリアの背に声をかけた。足を止め、けれど振り返らず言葉を返すレミリア。
「次は貴女の番です。話は大体伺いました。恋人を亡くされたそうですね。博麗の巫女を。そして、その亡くなった巫女を再び幻想郷に現す為にこんな大それたことをしていると。そう言う訳ですね」
「ええそうよ。それで?」
 あくまで振り返らずレミリアは返事する。それも不躾だと怒りたいのか映姫は強くレミリアの背中を睨み付けた。もっともその感情は些事だ。もっと他に言うべきことがある。
「馬鹿なことを。貴女自身、それが意味のない事だと分りきっているのにするなんて。それを冥府じゃ愚行と呼ぶのですよ」
「現世でもよ。で、何? 貴女? 閻魔だったかしら? 私にも説教する気? 何を言っても私はやめる気はないわよ」
「ええ、それで結構です。貴女は妖怪ですから。人間を震え上がらせとって喰うのが仕事…というか与えられた役割ですから、異論はありませんよ」
 なら良いじゃない、とレミリアは再び歩き出そうとする。それをですが、と否定の声で映姫は呼び止めた。
「貴女には異変を行う権利がある。けれど、理由は? 私にはそれが脆弱なものに見えますが」
「何を言いたいの閻魔?」
 ここに来てやっとレミリアは振り返った。距離こそ離れていたが対峙する二人。
「何故、今異変を起こす必要があるのです? 五十年もの間、何もしていなかったのに。今になって…いえ、今になってというのは問題ではありません。問題なのは何もして来なかった五十年です。早苗さんに助言され、今回の異変を起こしたという話は聞きましたが、どうしてそれまでの五十年なにもしてこなかったのですか」
「だから何が言いたい、と!」
 声を荒げるレミリア。映姫は静かに息をし、そして吐き出す。一拍の間を作る。
「何もしてこなかったのではなくする気がなかった、からでは。貴女は諦めていたんだ。最愛の人が還ってこないと、そう納得し、悲しみに明け暮れていた。違いますか」
「勝手なことを! 私は五十年間一秒だって霊夢のことを忘れたことはなかった! 今も! 閻魔無勢が分かったようなことを言うな!」
「ならば何故、五十年もの間、何もして来なかったのですか!? 外法で巫女を黄泉還らせるような真似も時を遡り全てをなかった事にしようともせずに! そんな事は出来ない、などとは言わせませんよ。貴女は力の強い妖怪だ。五十年もあれば何らかかの行動を起こせる力を持っている筈だ。それが今になって酷く曖昧で不確かな話に乗ったのは、ただ誘われたからだけでしょう。貴女は今の今まで巫女を生き返らせるつもりがなかったんだ。還ってこないと、還ってこなくても構わないと思っていた!」
「黙れ! そんな訳はないだろう!」
「証拠はその貴女の傍らに立っている人です。その方が巫女を殺したのでしょう。だというのに貴女はその方に復讐しなかった」
「節穴かお前の目は。コレに私がどれだけの拷問を加えたのか見て分からないのか。服の下はもっとひどい有様になっているんだぞ!」
「殺していない。それだけで十二分です。いえ、殺すのが惜しかった、と言うべきでしょう。貴女は巫女と同じく自分に深い好意を持ってくれているその方を殺せなかった。殺すことが出来なかった。何故ならその方にも貴女は愛情を抱いていたから。そうではないのですか。でなければ、さっさと殺して全てを精算していたはずだ」
「五月蝿い! 」
「逆に聞きます。どうして貴女は五十年の間、巫女を生き返らせるようなことをせずにその方に罰を与え続けることを選んだのですか。それは貴女の感情がその方にも向いていたからでしょう。いえ、愛情だけではないでしょう。恨みも当然、あったはずだ。貴女の中の向きこそ違えど同じくとても大きな感情が入り混じりその方に向けられていた。或いはその拷問も貴女の愛情表現だったのかもしれない。言い過ぎかもしれませんが」
「黙れ黙れ黙れ! 訳の分からないことをぬかすなァ!!」
 腕を振るい咆哮するレミリア。映姫の言っていることが図星なのかそれとも出鱈目なのか、自分自身でも分からぬというほど感情が暴走している。激高の理由はそれだ。
「私の霊夢への想いは本物だ! 霊夢だけを愛しているんだ! それと同じ物をこんな主人の大切な物を壊してしまった駄犬に向ける訳はないだろ! 訂正しろ! いいや、死ね! 私に詭弁を語った罰だ! お前も殺してやる!」
 爪を伸ばし、映姫に迫ろうとするレミリア。映姫にそれを防ぐ術はない。必死かと思われたその瞬前、
「やめろよ」
 それを止める声があがった。何処かで聞いた声にレミリアが反応する。広場に至る道。その中央。映姫たちよりも更に向こうに一人、直立する影があった。白と赤の町中でも酷く目立つ衣装。かんなぎを執り行う少女の格好。アレは、と刹那レミリアは懐古の念に囚われる。
「………!」
 そしてここにもう一人、同じ想いに囚われた者がいた。彼女の感情は磨耗し理性は死んでいたが、それでも精神の全てが消滅していたわけではなかった。その最深部では堆積した泥に混じるようにかつての想いの残滓が眠っていた。主人への恋慕と恋敵への嫉妬。彼女が一度死に、そうして蘇らせられる直前まで抱いていた最も濃い感情。それが五十年ぶりにつきつけられた主人の心…『霊夢だけを愛しているんだ!』それとあの憎らしい紅白の衣装…巫女が現れたことによって復活する。いいや、復活という大層なものではない。ほんの一瞬、デジャ・ヴの様に錯覚しただけだ。彼女の主観において現在は五十年前のあの瞬間なのだ。
「ッ……ウォォォォォォォ!!」
 縫合されていた唇を無理矢理開放し雄叫びを上げる。人ならざる声。けれど、確かに彼女は人だった。嫉妬に駆られた悲しい人間。
 そのまま彼女は巫女服に向かって走り始める。一瞬で映姫を殺そうと先行していたレミリアを追い越し、更に映姫たちも無視し疾走する。心の暴走が身体おも暴走させている。だからか、
「やめ―――咲夜ッ!!」
 あの時と同じよう、自分を止める主人の声が耳に届かなかったのは。

 そして、時は止まる。

 羽ばたいたまま中空に停止するスズメ。椛の腕から流れ落ちて地面に着く寸前に球状の姿で止まる血。文を抱きかかえたままピクリとも動かない映姫。そして、腕を伸ばし叫び声を上げたその形で凍りついたよう動きを止めているレミリア。世界のすべてが停止している中、彼女はナイフを順手に握りしめ一直線に忌むべき紅白めがけ疾駆する。繰り出すのは刺突。心臓めがけ。痛みも死の瞬間も味あわせずに殺す必殺の一撃。完全なるリプレイで繰り出したナイフはけれど…

 時間停止が解除される。

「…?」
 切っ先が巫女服を貫く寸前で止まった。逆に彼女の胸を白刃が貫く事によって。
「流石に怖かったな。時間止められてちゃ、どうしようもないものな。けど、悪いが対策は取れるぜ。お前にはさんざん昔苦しめられたからな」
 彼女の身体から流れでた血を吸い、ずるりと太刀を隠していたステルス迷彩が地面に落ちた。巫女は自警団団長が使おうとした椛の太刀をステルス迷彩で隠し、それを構えることで不可視のスパイクとしていたのだ。彼女はそこへ自ら助走をつけて飛び込んだのだ。機械的であろうと魔術的であろうと全て反応しなくなる時の止まった世界。そこでも刃物の切れ味は十全に発揮されるのだ。
 巫女服が太刀を引き抜くと同時に倒れる彼女。この程度では吸血鬼と化した彼女は死なぬが胸から腹の上あたり、心臓を切り裂かれているのだ。動くことなどできるはずがない。巫女服は血まみれの太刀を捨てると少しだけ歩き、腰をかがめ早苗の斬り落とされた腕が握り締めているある物を拾い上げた。白樺の杭だ。巫女服は倒れている彼女の元まで戻ってくると胸に空いた刺突痕の上にその切っ先を突っ込み、何処からか取り出したミニ八卦炉をハンマー代わりに叩きつけた。
「すまない」
 三度目の殴打で杭は完全に彼女の胸へと沈み込んだ。あ、と嘆息が櫛のようにボロボロになった口から漏れる。それが彼女の最後の言葉だった。倒れた彼女の身体は一瞬にして石膏像の様に真っ白になり、次いでほんの少しの衝撃で崩れ去り、灰のような白い粉だけが残った。それも風に吹かれ瞬く間に消えて行ってしまう。
「まったく、老体に無茶させるぜ」
 腰を上げ、そうぼやいたのはなんと…魔理沙であった。六十年間いつも身につけていた黒い魔女姿ではなく少し色あせた巫女装束をしている。博麗神社から持ってきたものだ。
「お前…魔理沙か」
「ああ、久しぶりだなレミリア。大きく…なってないな。私はすっかりお婆ちゃんだが」
 五十年前と変わらぬ調子で返す魔理沙。
 振り返り、魔理沙の姿を見てやっときてくれましたか、と映姫は胸をなでおろした。
「どうしてここに…」
 レミリアの疑問はもっともなものだった。それはだな、とゆっくりと歩きながら説明を始める魔理沙。
「私の姪っ子が怖がっててな。お外で遊べないって。だからいい加減こんなけったいな異変は終わらせなきゃ、って思って。今はこんなんだが昔は異変解決でブイブイ言わせてたからな。昔取った杵柄はまだ朽ちゃいないし、そこの閻魔さまも協力してくれるって言うし…それに頼まれたからな」
「誰に?」
 レミリアの問いかけ。魔理沙は何かを想うよう少しだけ目を細めた。
「お前の妹…フランにさ。『お姉さまを止めて』って」
 妹、フランドール・スカーレットの名を聞き目を見開くレミリア。門番だった美鈴を始めとする多くの使用人は解雇し、険悪になったパチュリーも出ていったというのに、頑なに紅魔館に残り続けていたフランドール。その彼女が五十年ぶりに魔理沙に連絡を取り全てを打ち明けていたのだ。
 そこから更に魔理沙は時を操る程度の能力を使う彼女を倒すための道具として博麗神社へ巫女装束を取りに行った所、偶然、映姫と椛と会い四人でこの異変を解決する作戦をたてたのだった。にとりともう一人、とは魔理沙のことだったのだ。
「……フラン、余計なことを」
 忌々しげに吐き捨てるレミリア。そう言うなよ、と茶化す魔理沙。
「ずっと悩んでいたみたいだぜあの子は。お前がアイツを虐めてるのを見てな。それでもそれだけならまだお前の家だけのことだ。フランも何も言わなかっただろう。けれど、お前は他の人にまで手を出し始めた。異変に成り果てた。人々を震え上がらせ無慈悲な死を与える異変にな」
 魔理沙の言葉に怒りが混じる。その源はフランドールの嘆きだ。かつてとなんら変わりない真っ直ぐな気持ちで魔理沙はフランドールの心を受け止め、そして、その願いを聞いてやろうとしているのだ。
「フランは…アイツは前みたいに姉妹で仲良く、皆と一緒に静かに暮らしていきたいだけなのに、って言ってたぜ。お前も霊夢のことは忘れて、アイツも赦してやってそうやってちょっとだけ変わってしまった、けれど、普通の日常を送ってりゃ良かったんだ。それを五十年もうじうじ悩みやがって。ホント、救いがたいよオマエ」
 映姫たちの隣までやってきてそこで足を止める魔理沙。鋭い瞳でレミリアを睨みつけている。皺だらけで腰は曲がっているが、その顔つきはまさしく以前と同じ異変を解決する者の顔だった。頼もしささえ覚え映姫と文は魔理沙を見上げる。
「ああ、もうまったく。今日はどうしてこうどいつもこいつも私に説教ばかりするの。ああ、クソ、忌々しいわ」
 対峙するレミリアはそう悪態をついた。全身から怒気が立ち上っているのがその場にいる全員が肌で感じ取っていた。
「それで、どうしようっていうの魔理沙。アレを倒したぐらいでいい気になるんじゃないわ。まだ、私はまだ五体満足で、それでこれで終わりにしようなんてこれっぽっちも思っていないのよ。殺してやる。殺してやるわ。お前も、閻魔も、新聞記者も、全部全部。鏖殺だ。幻想郷中の奴らを皆殺しにしてやる! 血まみれで泣きながら霊夢に助けを求めるようになるまで! あの子がここに還ってくるまで! 全員だ!」
 くっ、と文と映姫は腕で顔をおおった。強烈な風がレミリアから吹きすさんできたからだ。いいや違う。それは殺意だ。物理的な触覚と誤認するほどの強烈な殺意を全身から放ちレミリアは吠えたのだ。気の弱いものがいればそれだけで嘔吐し昏倒しそうなほどの殺意だ。
「そ、それでどうするんですか魔理沙さん!」
 映姫の腕をしっかりと握り締めながら文はそう問いかけた。レミリアは文が十全であっても勝てるかどうか分からぬほど強力な力も持っている妖怪なのだ。だが、今この場でまっとうに戦えるのは年老いた魔理沙だけなのだ。とてもじゃないが文は魔理沙がレミリアに正攻法で太刀打ちできるとは思えなかった。彼女を倒したよう、何か秘策があるのだと思って問いかけたのだ。だが…返ってきた答えは、
「うん。私じゃどうしようもないな」
 そもそも全盛期でも私、アイツに勝ったことないし、と何でもない風にあっけらかんとしたものだった。途端、脱力する文。
「ま、魔理沙さん! いくら何でもそれは…!」
「まぁ、いつものことだぜ。私はだいたい五面止まりだったからな。庭師にやられたり兎にやられたり、それぐらいまでしか進められないんだ。所詮、B級プレイヤーだからな」
 だが、と魔理沙はそこで言葉を区切った。
「私がここで限界って諦めた所でさっそうと現れてラスボスを倒してきちんとクリアしてたぜ。大魔法使いも大聖人も全部、アイツが倒してた。だから、今回も」
「魔理沙さん…」
「処で閻魔さま、レミリアの奴、こう言ってたよな。『鏖殺だ』って『幻想郷中の奴らを皆殺しにしてやる』って。これってつまりアレだよな。幻想郷存亡の危機。たぶん、考えうる限りで最大の異変だ。並の人間じゃ怯えて震えるだけで、私みたいなヘッポコプレイヤーじゃとても解決できない大異変だ。そんな大異変を解決できるのはたった一人しかいないよな」
 身体から無数の蝙蝠を生み出すレミリア。それら一匹一匹は大妖怪に匹敵する力を持っている。それを幻想郷中に散らばらせ殺戮を開始するつもりなのだろう。それにたった一人挑むよう、魔理沙は一歩前に踊りでた。
「さて、お待ちかねだぜレミリア。お前が恋焦がれて阿呆な事をしでかした原因になった奴が出てくるぞ」
 すっ、と天を指差す魔理沙。そこに空間を割くよう一つのスキマができていた。
「博麗の、巫女だ」
 驚き、振り返るレミリアが目にしたのは、
「れ、霊夢…!?」
「違います」
 金髪の見慣れない顔の新しい異変解決人だった。


◆◇◆


 そこから先、特筆すべきことはない。
 いつものように博麗の巫女が悪い妖怪を退治し、幻想郷に平和が戻った。ただ、それだけだ。
<10>

「おっ、来たみたいだねぇ」
 背後に気配を感じ、小野塚小町は吸っていたキセルの灰を川面へ落とした。振り返りつつ腰をあげる。
「お疲れ様でした…ってえぇぇぇ!? どうしたんですかその怪我!?」
 振り返って相手の姿を認めた途端、小町は素っ頓狂な悲鳴を上げた。あぜ道をゆっくりと歩いてこちらに向かってきている人物が包帯やら絆創膏やらを体中につけていたからだ。
「ちょっと色々ありましてね」
 何でもない風に微笑みながら返したのは幻想郷への観光旅行を終え彼岸に帰ろうとしている映姫だった。ここは賽の河原。彼岸と現世の境目となる三途の川の岸、その現世側だ。無数の大きな石が敷き詰められた河原で親より先に亡くなった子供の霊が石を積み上げているのがよく見受けられる場所だったが、小町が待ち合わせしていた付近にはそれらしい影はなかった。代わりに土手から伸びる大きな桟橋には大きな船が一隻、停泊していた。家のような大きさでフェリーに分類されるような大型船だ。これも小町たち死神が使っている底の浅い川船と同じ三途の川を渡るための船だった。現世に旅行に行っていた映姫の送迎用に用意された船…というわけではなく今回はある大物殺人犯の魂を地獄まで護送する為に用意された船だった。にわかに桟橋のほうが騒がしくなったので映姫が見上げると件の罪人の魂が厳重に拘束され運び込まれているところだった。ただの罪人の魂と違い、あまりにも常軌を逸した真性の悪人の魂は妖怪と化す恐れがあるため場合によってはこうして厳重な警戒の元、大型の船に載せられ地獄まで送られるのだ。
「……命令されてとはいえあれだけの人々を手にかけたのです。無間地獄逝きは免れないでしょうね」
 少し悲しそうにぽつりと漏らす映姫。最後の瞬間を目にした身としては何の感情も浮かべない、という訳にはいかなかった。
「何か言いましたか?」
「いいえ。あ、これおみやげです。向こうで流行っている煙草、だそうで」
 ありがとうございます、と映姫から柄物の封をした紙袋を受け取る小町。
「さて、我々も乗り込みましょう。時間厳守ですよ」
「あぁ、一服してから行きたかったのに」
 早速、封を開け中の煙草を見ようとする小町を置いてきぼりに映姫は桟橋の方へと歩き始めていた。待ってくださいよ、と慌てて映姫の後ろを追いかける小町。
「四季さま」
「なんですか」
 その背中に声をかける。
「ご旅行はどうでしたか?」
 ちょっと色々ありまして、と映姫は答えたがやはり小町としてはどうしてそんなに大怪我をしているのかが気になっていたのだ。映姫の方も小町の考えを見抜いているのか、少しだけ考えこむよう小首を傾げる。
「楽しかったですよ、色々ありましたけれど」
 けれど、口から出てきたのはやはりそんな他愛のない言葉だった。一瞬、呆気にとられたような顔を小町はしたがすぐにそうですか、とこちらも何でもない風に答えた。映姫がそういうのならそうなのだろう。

 二人が乗り込むとすぐにエンジンを始動させ船は発進した。


◆◇◆


「………」
 映姫は船室には入らずそのまま最上部のテラスに出て、手すりに身体を預けなんとはなしに霧がかった川を見ていた。小町も隣に立ち貰った煙草を早速プカプカふかしていた。
「美味しいでしょうその煙草」
「えっ、ええ。そうですね。あたいはもう少し重いほうが好みですけれどね」
「そうですか。私はそれが一番良かったのですけれど。やはりお酒と一緒で個人の好みがありますか」
 煙草は映姫が初日に寄った店へもう一度足を運び選んできたものだった。
「えっ、四季さま煙草吸われるんですか!?」
 驚きの声を上げる小町。堅物の映姫が煙草なんて嗜好品を吸うとは思ってもいなかったからだ。
「いえ、向こうで初めて吸ってみたんですよ。旅行ですから、なにか普段しないようなこともしてみないと駄目かと思いましてね」
 ほへー、とそんな変わった考えがあるのか、とみょんな音を口にする小町。
「他にも色々しましたよ。朝食にパンを食べてみたり、山の中を走りまわったり、子供を助けたり」
 あ、そうそうと映姫は話の途中でバッグに手を入れた。何かを取り出す映姫。
「携帯電話も買ってみたのですよ。便利ですよ、コレ」
「へぇ、なんだが世俗に塗れてますね四季さま」
「なんですかソレ」
「いえいえ、冗談ですよ」
 とはいうもののこの旅行で本当に色々あって垢抜けたな、と小町は内心で思っているようだった。
 と、
「あ」
 映姫が見せていた携帯電話が急に震え背面のランプが明滅を繰り返し始めた。同時に電子音が鳴り響く。
「誰からでしょう」
 ディスプレイを覗き、そこに表示された名前を見る映姫。その顔がかすかに綻んだのを小町は見逃さなかった。
「すいません。ちょっと席を外しますね」
「あ、いえ、そろそろ寒くなってきたのでアタイは先に部屋に戻ります」
 映姫に先んじ踵を返す小町。気を使ってくれたのかな、と映姫が思ったのは小町の姿が船の中へと消えてからだった。後でそれとはなしにお礼を言わないとと思いつつも取り敢えず手の中の急かすように音楽を鳴らす機械の相手をするのが先立った。通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てる映姫。
「もしもし文」
『あ、もしもし映姫さま』
 電話の相手は文からだった。成る程、確かに同一宇宙上なら何処からいつへでも電話をかけられるという説明に嘘はないらしい。既にここは彼岸の側だ。
「どうしたのですか?」
『いえ、ご無事に帰られたのか、と思いまして』
 そう電話口から申し訳なさそうな声が伝わってくる。
『すいません、お見送りも出来ずに』
「いえいえ。貴女は私よりひどい怪我だったんですから、養生して下さい」
 文は竹林ある病院の中庭から映姫に電話をかけてきているのだった。あの後、映姫、文、椛の三人は他の多くの怪我人たち同様、一斉に病院にへと担ぎ込まれた。映姫はそれからおおよそ一日で、椛は半日足らずで追い出されるよう退院させられたが文だけはそうはいかなかった。これは怪我の酷さもあることながら、一時は異変の真犯人として衆目に晒された文の身を案じてとの病院側の措置だった。映姫が早かったのは丁度、冥府へ帰る予定と退院が重なっただけだが。ともあれ、ほとぼりがさめるまで文はこうして幻想郷の多くの面々でも早々に手出しできない場所に匿われているのだった。
「こちらこそ貴女には色々と迷惑をかけてしまって…本当にすいませんでした」
『いえいえとんでもない』
 映姫が謝ると電話口から慌てた様子で首をふるような音が聞こえてきた。
『謝らなくちゃいけないのは私の方ですよ。映姫さまがいなかったら私…今頃、首と胴がお別れしてるところでしたよ』
 アハハ、と笑う文だったが冗談ではなく本当にそうなるところだったのだ。
「それを言うなら私も文に助けてもらっていなければどうなっていたことか」
 未だに身体のあちこちは痛む。一週間もすれば完治するだろうと医者は言っていたが、あの時、文が助けに来てくれていなかったら、その先は想像すらできない。
「だからお互い様ということで」
 そう締めくくりこの話を終わらせようとする映姫。続けて旅行中に撮った写真もそのうち、まとめて是非曲直庁の私宛にまで送って下さい、と違う話をする。
『はい、分かりました』
 けれど、どうやら上手くいかなかったようだ。電話口の文はそう頷いたが続く言葉はなかった。映姫もつい黙ってしまう。妙な沈黙が生まれてしまった。
『あの、映姫さま』
 その沈黙を先に破ったのは文だった。控えめの声。映姫ははい、と応える。
『今回の異変は五十年前に書いた私の記事から始まっています。映季さまは昔、おっしゃられましたよね“自分が記事が引き起こした事件の罪も全て被らなければいけない”と。私は今回の事でその罪を被って、どんな罰を受ければいいんでしょうか』
 自殺、は認められませんでしたし。その言葉は流石に発しなかったが言わずとも映姫には伝わった。
 映姫は肩の力を抜き、遠くを見つめ、そうして…
「人の話はきちんと覚えておくように。私が言ったのは“自分が記事が引き起こした事件の罪も全て被る覚悟がなければいけない”です。責任を取れとは一言も言ってません」
 えっ、と電話の向こうから驚きの声が返ってくる。
「第一、記事を書き、それを配布するとします。その読者は何百何千といるのですよ。その何千何万といる読者の考えが貴女一人でわかりますか? 無理でしょう。神様じゃないのですから」
 つまり、と映姫は言葉を区切った。
「私が言いたかったのは新聞記事を書く時は明確に一切の記入漏れなく事実だけを並べ、しかも、それを読んだ読者が良からぬ考えを持たぬ最大の配慮を図り、更にその上で仮に何かがが起こったとしても自分の所為ではないと言い切る覚悟を持て、と言っているんですよ」
「えっと…」
 何かを言おうとして文は言葉をつまらせる。言いたいことを言い終えたのか満足した顔をした映姫だったが、何ですか、と煮え切らない態度の文をせっつくよう言葉をかけた。
「その、最初と言っていることが矛盾しているような…」
「構いません。全知全能なんて机上の言葉ですよ。一々、ああやこうやと悩んでいては記事などとても書けないでしょう。ですが、書かない、というのは駄目です。貴女は――」

 新聞記者なのですから。

 そうはっきりと映姫は文に向かって言った。
「新聞、記者…はっ、ハイ! そうですね」
 電話の向こうから返ってきた言葉は明るく自信に満ちたものだった。五十年前から失われていたものをやっと取り戻したのだ、文は。
「では、早速、退院しましたら新しい巫女の記事を書くことにします。今度の巫女は金髪碧眼ですからね。人気が出そうですよ」
「そうですね。ええ、でも、それ以外にもう一つ、スクープになりそうな異変が起こりますよ」
 えっ、と驚きの声を上げる文。それには応えず映姫は現世の側の岸に目を向けた。永久に伸びる川岸は紅い色に染まっている。彼岸花の紅。そして、映姫たちを乗せ彼岸の側へ進むのとは逆方向に数えきれぬほどの川船が三途の川を渡っている。六十年前と違い、今回は予定通りにことが運びそうだと映姫は頷いた。今は外の世界から多くの人の魂がやってくる時期なのだ。映姫はその前にと長期の休みをいただいていたのだった。
「さて、それではお互い忙しくなりそうですね。また、暇がありましたら会いましょう文――」
「はい、映姫さまもお元気で」
 それじゃあまた、そう言って二人は電話を切った。
 遠く、現世の側の岸では彼岸花が風に揺れているのだった。



END
一昨年の冬コミで配布した薄くない薄く本をUP。
某氏に妹を人質に取られて書きました。
sako
作品情報
作品集:
7
投稿日時:
2013/03/31 15:02:50
更新日時:
2013/04/01 00:02:50
評価:
4/5
POINT:
430
Rate:
15.17
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2. 100 NutsIn先任曹長 ■2013/04/02 00:06:15
過去、時が止まり、
現在、時が止まり、
未来、予定通り。

オフデューティーでもマイペースな映姫様。
例え命の危険に瀕しても、地蔵は意志を曲げなかった。
落ちぶれた鴉天狗。
再び筆と翼が幻想郷を舞う事になるでしょう。
時間が様々な距離を克服しました。

映姫様の拷問シーンは胸が締め付けられる気分でした。
まあ、ヤッた連中はくたばったでしょうがね。ケケ。

最初、年代を伏せていましたね。
徐々にそれが明らかになるにつれ、物語が加速しだす演出はなかなかでした。

庭師の辻斬りは武者修行に出たのかな?
普通の魔法使いは、普通に情に動きましたね。
弱体化した現人神は、その人生はさておき、小物でしたか。
従者は……、まあ、ボンボヤージュ……。



ニューフェイスは、
ひょっとしたら、
お披露目の舞台――ドギツい異変が整うまで、
ママがデビューを控えていたのかな……。



時の流れは紫煙の如く。
ゆらりゆうらり。
好きな人もいれば嫌いな人もいる、死へ向かう狼煙。
だが、たまに味わいたくなる物。
3. 100 名無し ■2013/04/04 03:23:06
これが早苗クオリティ
4. 100 名無し ■2013/04/06 20:53:32
映姫さまこんなにかわいいとは
5. 100 名無し ■2013/06/02 03:47:55
文ちゃんもえいきっきも可愛いなあ
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