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『産廃創想話例大祭A『霧雨の国』』 作者: pnp

産廃創想話例大祭A『霧雨の国』

作品集: 8 投稿日時: 2013/07/07 13:17:16 更新日時: 2013/07/24 13:10:19 評価: 12/15 POINT: 1260 Rate: 16.06
 幻想郷を管理する者の一人である博麗の巫女がいる博麗神社。そこ母屋の縁側に腰掛けて、魔法使いである霧雨魔理沙と、巫女を務める博麗霊夢が取り留めのない雑談で盛り上がっていた。そんな中、
「ごめんくださーい!」と、明朗たる声が聞こえて来た。
 おや――と、霧雨魔理沙は声の聞こえて来た方を向いた。方向的に、発声源は境内であることは明白であった。
 しばらくじっと、境内の方向を見ていると、またもやごめんください――と金切り声が上がった。境内からこの縁側は見えない位置関係にあり、客人としては目当ての人物がいるかどうかさえ分からない状態なのだから、こんな動作も致し方ない。
 まるでその声が呼び寄せたかの様に、不意に風が吹き抜けて行った。霧雨魔理沙の金色の髪を、愛用の黒を基調とした帽子と、同じ色のエプロンドレスのフレアーが揺れる。
 魔理沙はくるりと後ろを振り返った。視線の先には博麗霊夢がいる。
 普段と変わらない紅白で独特の形をした巫女装束を纏っている。
 湯呑みを持つ手は口元で固定されている。両目は、境内をうろつく幼い客人を幻視しているかのように厳しく光っていて、やはり微動だにしない。
 あまりにも動かないものだから、まるで時が止まったかの様だと魔理沙は思った。――摩訶不思議で神聖なこの神社ならば、或いは不可能ではないのではないか?
 しかし、そよと吹き抜けた風が、彼女の黒い髪を、赤色の大きなリボンを揺らし、時間停止と言う認識が誤りであったと言うことを知らせた。
 その風を号砲としたかの様に、霊夢の眼球だけがじろりと動いて、魔理沙を見つめた。両者の視線がぶつかる。
 魔理沙が先に開口した。
「客が来たみたいだけど?」
 親指を立て、後ろ手に境内の方を指し示す。
 途端に霊夢が深い溜め息を吐いた。その陰気な感じの吐息は、口元に運ばれていた湯呑みの中に滞る。霊夢は、その陰気さも一気に飲み下す様に、茶を流し込んだ。随分無駄話に精を出していたから、茶はすっかり冷めてしまっていた様だ。
 茶を飲み終えると霊夢は、まるで杯の酒を飲み干した酒豪の様に豪快に息を吐き、コトンと音を立てて湯呑みを傍らの盆に置いた。そして、ぴょんと腰掛けていた縁側から飛び降り、うんと体を伸ばした。
 随分大儀そうにしている霊夢に、魔理沙は苦笑を見せる。
「待ち侘びていた私以外の客人じゃないか」
 しかし霊夢は浮かない顔で、肩をすかした。
「声を聞いたでしょ? 子どもよ。どうせ大した用事じゃないわ」
「いくら信仰獲得競争が熾烈だからって、そんなに打算的になるもんじゃないよ」
 魔理沙がこう助言するが、霊夢ははいはい――と、適当にあしらった。
 最近は幻想郷に多種多様な宗教家が出現しており、その誰もが信仰の獲得というものに心血を注いでいる。これまでは競争相手も無く、安泰であった博麗霊夢も、この面倒事に巻き込まれる結果となっている。博麗と言う箔はそう易々と崩される程脆弱なものではないが、霊夢も一応危機感を持って、この競争に参加している。
 ただ、危機感を持つことはいいことだが、それがあまりにも高じ過ぎると、人間的な温情を失った、酷く冷徹な信仰獲得マシーンと化してしまう。その一例が、先程の霊夢の客人に対する苦言であり、今朝方神社へ遊びに来た魔理沙に対して見せた冷ややかな態度である。
 あんな風に構えてはいるけど、心底の所ではちゃんと周囲を気遣っている――魔理沙は霊夢の本性を知っているから、そんな態度をとられても何とも思っていない。
「偉大な先輩商人の話を無碍に扱いやがって」
 だからこんな風に茶化した様な態度がとれる――何でも屋である『霧雨魔法店』の店主は先輩風を吹かせて頬を膨らませて見せた。霊夢は軽く笑んで肩をすかした切りである。
「ちょっと待っててね」
 そう言い残して、霊夢は境内の方へ歩いて行った。のろい歩みだ――建物の影へ消えて行った霊夢を見て、魔理沙は思った。

 霊夢の姿が見えなくなった地点で視線を落として見ると、ついたばかりの足跡。それをなぞって行くと、当然のことながら、霊夢が座っていた位置に到達する。そこからまた足跡を辿れば、彼女の姿が隠れた建物の影。――あまりにもやることがなく、魔理沙はこんな無意味な思考を巡らせて暇を潰していた。
 足跡を帰って、行って――五順目に入ろうとしたその時。建物の陰からぬっと人の脚が現れた。魔理沙は視線を上げる。博麗霊夢であった。意図せずして視線がぶつかった。
「どうしたんだ?」
 魔理沙が首を傾げると、先程魔理沙がそうした様に、霊夢が自分の背後を右手の親指で指し示した。
「お客さん」
 魔理沙は眉を顰めつつも、縁側からぴょんと飛び下り、霊夢へと歩み寄る。
「私に?」
「そう」
 霊夢が頷き、歩み出した。魔理沙はその一歩後ろに立って霊夢を追う。
「あんたの家に行ったけど留守だったから、きっとここにいるだろうって思ってうちに来たんだってさ」
「へえ。そりゃ申し訳無いな」
「ま、そんなに重大に事を捉えることはないと思うわよ」
 霊夢は飄々とした口調でこう言った。その言葉の意図が分からず、魔理沙は首を傾げたが、どうせすぐに分かることであろうから、とやかく問うことはしなかった。

 縁側は神社を囲繞する木々に向いているから、木々と母屋に挟まれた細道を歩み、母屋をぐるりと回るのが、境内への道である。右手に木々、左手に建物――こんな具合の道を歩いていれば、一分もしない内に境内へ辿り着く。
 小広い境内に人影は無い。魔理沙は思わずきょろきょろと辺りを見回したのだが、それを制する様に霊夢が開口した。
「賽銭箱の近くで待って貰ってるから」
 言われて魔理沙の視線は一気に賽銭箱へ向けられる。目を凝らしてみると、確かに賽銭箱の隅に、ちらちらと人の頭らしきものが見えた。座れば賽銭箱の陰に隠れてしまえる程の矮躯であることが分かる。声からして子どもの客であるとは認識していたが、まさかここまで小さいとは思ってもいなかった。
 客人の姿をちらりと確認した途端、魔理沙の歩みが速まった。商売人の気質で、客人を待たせるのをあまり好んでいないのである。霊夢は歩調を合わせることはしなかった。魔理沙への客なのだから、自分が出張る必要は無い――そう思っているのだ。

 小走りの状態で客人の元に到達した魔理沙は、
「やあ、待たせたな」
 賽銭箱の陰に隠れている客人に声を掛けた。
 すると、身を縮めていた客人“達”が一斉に立ち上がった。立ち上がっても、その身の丈は魔理沙の腰程度にしか届かない。魔理沙は少女であり、おまけに割と小柄な方であるから、この客人達は極めて小さな者達であることが分かる。何せ、賽銭箱の陰に三人が形を顰めることが出来るくらいなのだから。
 魔理沙は先ず三人全員に目を配った。一見すると身長差は認められないが、一人として余さず身の丈が低い。また、三人全員、その背中からは半透明の羽が生えている。
 先頭に立っている者に着目した。
 玩具の様に小さな女の子ものの黒い靴が足の小ささを、靴に付着している泥や草の切れ端がその子の快活さを表している。
 身に纏っている乳白色のワンピースはかなり薄手のものである様で、汗ばんだ肌にぺっとりと付着して、未成熟な身体の線が露わになっている。尻の形、くびれの無い腰回り、膨らみの無い胸。しかし、まだそんなことを恥じらう様な年齢ではないことくらい、魔理沙は一目で見抜いている。両手が後ろへ回されているのを見るに、少しばかり緊張しているか、または照れているのかもしれない。
 薄い緑色の髪は肩へ届くか届かないかくらいの所で綺麗に切り揃えられている。その色彩通りの軽さ、細さを持った上質な髪質をしている様で、申し訳程度の涼を運ぶ風でもさらさらと上品に揺れる。
 閉じたまま「へ」の字に曲げられたた口に、つり気味の目。三白眼の気質も認められる。とても気の強そうな女の子だ。
 向かって左の奥――先頭に立つ妖精の右手側の後ろに立っている妖精は、風呂桶一杯ぶんのグレープジュースをぶちまけた結果、奇跡的に出来上がったと言った具合の鮮やかな紫色の斑模様が描かれている白を基調としたブラウスと、同じく紫色の短めのスカートを着用している。
 脚には、単なる嗜好や拘りなのか、自然の象徴としての彼女の宿命なのかは不明だが、やはり紫色をしたロークルーのソックスを履いている。靴は白いが、驚くほど汚れが目立たない。
 顔に視線を上げてみて、魔理沙は靴の汚れが少ない理由が何となく分かる様な気がした。眠たそうに半開きの目が微かな曲線を描いている、実におっとりとした感じの垂れ目である。青色の瞳は見る者に余計に安らぎと安心を与えて来る。髪は艶やかな濃紺で、前髪は眉に掛かる直前で、後ろ髪は首の中程辺りの所で綺麗に切り揃えられている。
 紫色の子の左隣に立っている子は、所謂セーラー服を模した服を着ている。白を基調とし、要所要所に引かれている青色のラインがアクセントになっている。この色合いが、今の暑い季節に一つの涼感を投じている。本人にその自覚があるとは、魔理沙には到底思えなかったが。
 他二名がスカート型の服を纏っているのに対し、この子だけはキュロットを着用していることが分かった。ふくらはぎの丈まである長めのソックスもやはり白と青。靴まで真っ白だ。
 黒色の髪は後頭部で一つに束ねてある。尻尾の様にびよんと背中の方へ伸びている髪の束は、肩甲骨くらいまでの長さがある――吹き抜けた風が魔理沙にそっと教授し、去って行った。
 凛とした顔立ちは、男の子の様な雰囲気を醸し出している。やや吊り目がちな双眸、瞳は綺麗な黒色をしている。こんなに聡明そうな子も日夜悪戯に励んでいるのか――魔理沙は少しおかしな気持ちになった。

「あの」
 先頭の子が口を開いた。すっかり客人の値踏みに夢中になっていた魔理沙はハッと我に帰り、咄嗟に笑んで見せた。
「ああ、すまないな。ぼーっとしてた」
 それからすぐに謝罪をし、すかさず質問をする。
「お前達は妖精、だよな?」
 一目見た時から気付いてはいたが、一応魔理沙は確認をした。身体が小さく、羽があると言うだけで、妖精と決めつけるのは今の幻想郷ではやや尚早だ。驚くほど幼い見た目をした妖怪もいる。
 三人はめいめい頷いて見せた。言葉は無い。全員、妖精には珍しく少しシャイなのかもしれない。
 種族の確認が終わると、早速魔理沙は本題へ入る。
「私に用があってここに来たんだって?」
「そう!」
 いち早く反応したのは紫色の妖精。次いで白と青の妖精が開口した。
「魔法の森の家に行ったけど、いなくて、じゃあここかなって思って、ここに来ました」
「よく『ここかな』って発想に行き着いたな」
 魔理沙が思ったまま疑問を口にすると、先頭の妖精が、
「いつも博麗の巫女さんと仲良さそうにしてるもん」
「へえ。そんな風に見えているとは気付かなかったよ」
 意外な観察力を見せつけられ驚いたことや、照れ臭さもあって、魔理沙は苦笑を浮かべた。
 話が逸れたな――と、再び話題を戻す。
「用事ってのは何なんだ?」
 すぐに返事は無かった。三人全員、誰かが言ってくれるのではないかと期待してのことである。先頭の妖精がさっと後ろを振り返った。後ろに立っていた二人は目を丸くし、振り返った妖精を見る。二人分に視線に刺され、妖精は己の顔を指差し、首を傾げた。紫色とセーラー服の二人はこっくり頷く。
 如何にも不満げに、先頭の妖精が再び魔理沙の方を向いた。視線がぶつかる。お前は何の為に先頭に立っているんだ――などと言う野暮な問いを掛けることはしなかった。
「森の中に私達の家があるんですけど」
 先頭の妖精が切り出した。
「先日妖怪が私の家の真ん前で急に喧嘩をし出したんですけど、その時に木が倒れてしまって、生活の邪魔になっているんです」
「それをどうにかして欲しいと?」
 魔理沙が先走って核心を尋ねると、妖精達は全くの同時に頷いた。
 聞く限りでは、それ程多大な労力を要する作業では無い印象を受ける。だが、魔理沙からすれば、それが却って怪しく思えてしまうのであった。
「どうして私にそんなことを相談したんだ?」
 彼女にとってはとても重大な意味を持つ問い掛けであったつもりなのだが、妖精達は一様に不思議そうに首を傾げた。なんでそんなことを聞くんだろうと、顔に文字が浮かび上がって来る様だ。
「知らない人に相談するなんておかしいし」
 セーラー服の妖精が言う。魔理沙は苦笑し、肩をすかす。
「おいおい。私とお前達だって知り合いでも何でも無いだろ。いつ会ったんだよ」
 ああ――と、妖精はようやくそのことに気付いた様に口をぽかんと開けての棒立ち状態に陥ってしまった。一方的に知っているから、向こうもこちらを知っていると思い込んでしまっていたのだ。この辺りは実に妖精らしい。
 彼女を援助する様に口を開いたのは、紫色の妖精だ。律義にも右手で挙手をしてから発言をした。
「知り合いの妖精が魔理沙さんに助けられたーって言っていたんです」
「知り合いの妖精」
 魔理沙が口に出して繰り返すと、妖精は頷いた。魔理沙は腕を組み、宙を見やり、己が記憶を掘り返してみる。それ程時を待たずして、一つの案件が浮かび上がって来た。
「思い出した。サニーミルクとか、あいつら三人だな?」
「そうです、そうです」
 紫色の妖精はまるで自分のことであるかの様に、飛んだり跳ねたりして魔理沙の想起を喜んでいる。
 魔理沙は過去に妖精三人組の問題を解決してやったことがあったのである。サニーミルク、ルナチャイルド、スターサファイアの三名である。この三人は、今目の前にいる三名よりも幾らか大人びていた。
「あの三人から魔理沙さんのことを聞いたんです。妖精だろうが何だろうが、分け隔てなくお願いごとを聞いてくれるって」
 紫色の妖精がこう言い終えると、
「博麗の巫女さんは結構お仕事を選ぶし、最近出て来た霊廟とか、大きなお寺とかは、何か怖いし……だけど、あなたなら大丈夫かなぁと思ったんです」
 先頭に立っていた妖精が言下に付け加えた。
「何者の願いも分け隔て無く聞き入れるなんてことを公言した覚えは無いんだけどな」
 魔理沙は苦笑を浮かべて言う。しかし、信頼されていることそれ自体は嬉しかったので、悪い気はしなかった。それよりも、博麗神社や神霊廟、命蓮寺に対する妖精達の印象の方が興味深かった。魔理沙はこれら三つの施設が行っている様な信仰争奪戦には参加してはいないものの、民衆の悩みや問題を解決すると言う業務においては競合している。明らかに魔理沙の霧雨魔法店はこの競争において劣勢であり、何かしら強みを見つけたいといつも思っていたのだ。
 妖精と言う、考えてもみなかった味方が自分に付いていると分かると、俄然魔理沙もやる気が漲ってきた。
「そこまで信頼されているんじゃァ、断る訳にはいかないな」
 魔理沙はそう言い、とんと胸を叩き、ウインクなどして見せた。
「どれ、私が出来る範囲で解決してやろう。現場に案内しな」
 あっさりと願いが受諾されたことに、妖精達は些かの戸惑いと大いなる喜びを感じている様で、互いを見合って、何だかぎこちない笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、こっちに来てください」
 そう言っていの一番に動き出したのはセーラー服の妖精である。それを追って先頭にいた妖精が動いた。おっとりとした風な紫色の妖精は、去って行く二人と魔理沙を見比べたりしている所為で、出発が少し遅れている。

 魔理沙が二名の妖精を追おうと箒に跨ろうとした時、
「どっか行っちゃうの?」
 背後から霊夢が魔理沙に声を掛けた。魔理沙は箒を股下から離し、後ろを振り返る。霊夢が早歩きで近づいて来ている。妖精達と話す魔理沙を遠くから見ていて、一段落ついたのを見計らって魔理沙にその仔細を問おうとしている様だ。
「おう。少しな」
 魔理沙が返事をする。
 程無くして霊夢が魔理沙の傍らに到着した。
「妖精からの頼み事? 前も同じ様なことしてなかった?」
「そうなんだよ。どうやらあの時の因縁らしいぜ」
 魔理沙はやれやれ――と言った具合に首を横に振り、肩をすかす。
「妖精に慕われるなんて、珍しい人間ね。保育士? ベビーシッター? 結構似合ってるわよ」
「おいおい、勘弁してくれよ」
「何でも屋なんでしょ。子守りも請け負わなきゃね?」
 言下に霊夢はケラケラと笑った。魔理沙は、脹れっ面をぷいとそっぽへ向けた。
「あのぅ、魔理沙さん。そろそろ」
 またも背後から声。紫色の妖精だ。魔理沙を待っていたのである。
 魔理沙は咄嗟に振り返り、悪いな――と軽く謝り、そしてまた霊夢を向き直した。実に忙しい動作である。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。すぐ終わると思うから、また戻って来るよ」
「分かった。気を付けて」
 霊夢はひらひらと手を振る。大きく広い袖が艶やかに揺れる。
 魔理沙はまた後ろを向き、
「じゃあ、行くか」
と、妖精に囁く。妖精は頷き、魔理沙を先導するべく空に浮かんだ。魔理沙も後を追う様に箒に跨り、空へ飛び立った。
 去り際、地表を見てみると、霊夢がまだ手を振っているのが見えた。魔理沙は会釈だけして、別れの挨拶とした。


 紫色の妖精ののろまな飛行に合わせて、彼女等の住処へ向かう。前を行く妖精の着用している紫色のスカートが、飛行に際してばたばたとはためいている。下着は見えそうで見えない。見えたところで魔理沙にとって何か喜びが生まれる訳でも無いので、別に残念でも何でも無かったが。
 時々妖精は後ろを振り返り、ちゃんと魔理沙がついて来ているかどうかを確かめて来た。その都度、魔理沙は微笑んで見せたり、肩をすかしてみたりした。見た目通りに優しい子だと思った。
 空へ飛び立って十分程経過した頃、妖精が降下した。魔理沙もそれを追い、高度を下げる。二人は鬱蒼とした森へと落ち込んで行く。木の葉の間隙が成す穴から、森の中へと飛び込む。この着地に、魔理沙は少しばかり手間取った。体が妖精程小さくない故に、密集する木々の間隙を行くのはやや難儀なことであったのだ。

 少しばかり遅れて着地した魔理沙に、妖精が駆け寄って来た。
「悪いね、遅れちゃって」
 魔理沙も駆け寄って来る妖精の方へ歩み寄る。彼女の真ん前で立ち止まった妖精が、頭を指差した。
「葉っぱが付いていますよ」
 言われて魔理沙は帽子を脱いだ。なるほど、白色のリボンに深緑の木の葉が引っ掛かっている。人差し指と親指でそれを摘まみ上げ、傍らの茂みへぽいと放った。
「それで、お前達の家は――」
 魔理沙が問おうとしたが、左手側から聞こえて来た金切り声に、言葉は遮られた。
「二人とも何してんの?」
「こっちですよ、こっち!」
 声のする方を見てみると、先に飛び立っていた二名の妖精が、飛んだり跳ねたりしながら大声を上げている姿が見えた。青々と茂る森の中で、丁度木漏れ日が強く射す地点にいるらしく、二人の姿は妙に鮮明に映る。
 魔理沙はぶんぶんと大袈裟に手を振って、声への応答とした。それから、傍にいる紫色の妖精の背中をぽんと叩いた。妖精は驚いた様に魔理沙を見上げる。
「さ、行くか」
 見上げて来た妖精ににこりと笑んで見せた後、魔理沙は歩き出した。妖精も小さな歩幅で、懸命に魔理沙に付いて歩き出した。二人の歩みののろさに痺れを切らした二名の妖精が早くしろだの何だのと喚き立て始めたが、魔理沙はそれを一切無視した。
 視線は真っ直ぐ目的の方向へ据えたままで歩みながら、
「名前は何て言うんだ?」
 魔理沙が問うた。
「名前」
 紫色の妖精は目を丸くしてまたも魔理沙を見上げた後、視線を足元に落として少しばかり考え込んだ。
「分からないです」
 結局導き出された答えはこれである。
「名前が無いのか?」
「あるかもしれないですけど、使ったことはないです。あなたとかあんたとか呼ばれているし、私は私を私って呼んでます」
「私は私を私って、ねえ」
 妙に軽快で何処か物悲しいこの一節が、魔理沙はいたく気に入ってしまった。その後数回、この一節を繰り返していると、妖精に変な眼で見られてしまい、流石に慎んだ。
 しかし、名前が無いと言うのは由々しき事態だと感じた。
「何か名前が欲しいな」
「そうですか?」
「そうとも。少なくとも仕事をする上では名前はあった方が便利だ」
「じゃあ魔理沙さん、名前ください。何でも屋さんなんでしょう?」
 魔理沙は困った様に笑った。
「命名まで依頼されるとは。何でも屋も楽じゃないな」
 目的の地点――先に行った妖精二人がいる場所まで、目算して八十メートルと言った所まで到達している。乳白色と、青と白――二つの人影がまだ尚元気にぴょんぴょん跳ねている。その二色を見ている内に、魔理沙は安直で便利な命名の術を思い付き、そのまま口にした。
「便宜的に決めてしまおう。お前の名前はグレープ」
「グレープ」
 妖精が反芻する。魔理沙は頷いた。
「ブドウを英語で言った言葉だ」
「ブドウじゃ駄目なんですか?」
「それじゃ可愛くないだろ」
 言下に「それから」と付け足して、魔理沙は話を続ける。
「あの緑の髪の子。あれがミルクだ」
「ミルク」
「同じ様な名前の妖精がいるが、気にするな。どうせ今だけしか使わないんだし。……それで、残りの子はソラ」
「ソラ? ソラって、あのソラ?」
 妖精が視線を真上へ向けた。残念ながら彼女の示そうとした『ソラ』は、木の葉に阻まれて見えない。だが魔理沙はその意図を汲んで頷いた。
「そう。そのソラだ」
「どうしてソラだけ日本語?」
「スカイじゃ可愛くないから」
「かわいくない……魔理沙さんは可愛さを大切にするんですね」
「そうだとも」
 二人の会話が途切れた。目的地まではもう三十メートルも無い。待っている二人は耐え切れず、歩いている魔理沙達の方へと駆け寄って来た。
「遅いよ、二人とも!」
 “ミルク”が先ず開口した。“ソラ”も何か言いたげだが、不機嫌そうにへの字にひん曲がった口が開くことは無かった。
 “グレープ”は不機嫌な二人と、澄ました顔をしている魔理沙を順繰りに見やった。それから、己が胸元に視線を落とし、最後にまた魔理沙の方を見た。
「名前、服の色で決めたんですね?」
 魔理沙は微笑む。
「アタリ」
 正答したことを喜ぶ様に、グレープもにっこり微笑み返す。二人の会話の意味が分からず、ミルクとソラは顔を見合わせて首を傾げた。

 合流してからは、三名の妖精が群を成して前を歩き、魔理沙を先導した。魔理沙は横一列に並ぶ妖精三名のおよそ二メートル後方を歩いている。
 道すがら、グレープは魔理沙が自分達に与えてくれた名前について説明していた。二人はやけに神妙な面持ちで彼女の話に耳を傾けていた。説明が終わるとサッと後ろを振り返り、魔理沙の顔色を窺った。視線がぶつかると照れ臭そうにまた前を向いた。実に安直な名前ではあるが、まんざらでもない様子で、互いにグレープとかソラとかミルクとか、別に用事も無いのに楽しそうに呼び合っている。
 ミルクとソラは、魔理沙達を散々急かしていたと言うのに、名前を話題にしたこの帰路があまりにも楽しいらしく、妖精達の歩みは非常に遅かった。もう少し速く歩かないか――と、魔理沙は打診したくなる衝動に駆られたものの、すんなり聞き入れてくれるとは思えなかったし、楽しそうな雰囲気を壊してしまうのも気が引けたので、周囲を見回しながらのんびりと彼女らを追って歩いた。
 魔理沙は、居を構えている魔法の森と、今歩いている森を比べていた。薄暗さや体感温度は同じくらいだが、空気の質がまるで違う。一概にどちらがいいとは言えないのだが、今いるこの森は幾らか呼吸がし易く感じられた。魔法の森の大気が汚染されていると言う訳ではないが、瘴気の所為であろうか、やや息苦しいのである。この森にはそれがない。肺を洗浄するかの様に、魔理沙は大きく息を吸い込んでおいた。
 また、草木の造形も大きく異なる。良く言えば純正、悪く言えば単純――瘴気に当てられて独自の進化を遂げたものや、突然変異を起こしてしまった異様なものが一切無い。目には優しいが、好奇心に訴求するものが無く、観察のやり甲斐が少ないと思った。
 そんな森林浴で退屈を紛らわすのにも限界が見え始めてきた頃、
「ついたよ!」
 グレープが素っ頓狂な声を上げた。途中見つけた石頃を蹴りながら歩んでいた魔理沙が、視線を足元から前方へと上げてみると、そこには一つの家らしいものが見えた。それは大きな木で出来ている。周囲と高さはそれ程違わないが、幹の太さが全然違う。鴉天狗が三人集まって大風を吹かせてもびくともしなさそうな屈強さが認められる。造形は、以前世話を焼いた三人の妖精達のものとほぼ同じだ。巨大な木に大小の穴を開け、中身をくり抜いたか掘り進めたかして、家としての空間を作り出したのだろう。

 木の上の方には穴が開けてあり、無地の布のカーテンが引かれている。簡素な造形のこの窓は、魔理沙の立っている地点から三つ程確認出来た。
 視線を下におろして行くと、玄関口がある――筈なのだが、今はよく見えない。巨木が三本、折り重なる様に横たわっているからである。巨木の向こうに玄関口があるのは分かるのだが、全貌は見えない。
「退かして欲しい木ってのはこれか」
 魔理沙が倒木に歩み寄り、ばしばしと叩く。苔むした倒木はしっとりと濡れており、やや冷たい。この季節には嬉しい感触だ。
「そう。これ」
 ミルクが答える。それから忌々しげに木を蹴飛ばした。
 魔理沙はもう一度視線を木の上部で向けた。見えるのはカーテン付きの窓だけである。
「今はあそこから出入りしているのか」
 木を見上げたまま魔理沙が問う。三人の妖精達も倣って木を見上げた。頷いたのはソラ。
「そう。この通り、玄関は塞がってしまっているから」
「あそこから出入り出来るならここの入口は要らなくないか?」
 魔理沙がこう言うと、グレープが首を横に振った。
「玄関が無いお家なんておかしいでしょ?」
「おかしいな。おかしいけど、別に無くても……」
「駄目! お家への出入りは玄関でするものなの!」
 グレープが可愛らしく吼える。二人は同意する様にうんうんと頷いた。固定観念の様なもんか――と魔理沙は説得を諦めた。どうせここまで来てしまったのだから、木をどかしてやろうと決めた。

 前に記した通り、木は全部で三本倒れている。近くには切り株――切り株と呼べる程鮮やかな切り口では無く、強い外力によって派手に折れた様な感じである――も発見できた。
 家として使っている木も去ることながら、倒れているものもなかなか立派な木である。妖精三人が押したり引いたりした所でびくともしないのは明白だ。同様に、魔理沙の腕力で何とかなるものでないと言うことも、火を見るより明らかである。
 魔理沙は顎に手をやって考え込み始めた。その背後三メートル辺りには妖精三人が放列を成し、問題解決の瞬間を今か今かと待っている。
「どうですか?」
 待ち切れなくなったのか、思案に耽っている魔理沙に疑心を抱いたのか、グレープが恐々と問うた。
 魔理沙は振り返り、うん――と頷いた後に言う。
「家に傷が付かなければ何でもいいかな?」
 魔理沙の提案を聞くと、三人は順繰り順繰り顔を見合わせた。それから、ほとんど同時に全員首を縦に振った。
「家は傷付けちゃ駄目だよ!」
 ミルクが念を押す。
 分かってるよ、と魔理沙。
 魔理沙はスカートを揺さぶった。すると、スカートの内側に隠し持っていたマジックアイテムが一つ、どさりと地面に落ちた。幼い妖精達にはそれが手品の様に見えたらしく、驚きと感動を湛えた眼差しを送っている。
 魔理沙はそのマジックアイテムを拾い上げる。木で出来た八角形の手のひらに丁度収まるくらいの小道具――ミニ八卦炉と呼んでいるものだ。
 それから、妖精達の宅を前に構えていた所を、宅が左手側に来る様に立ち位置を変えた。
 中心に空けられている穴を倒木に向ける。そして、体内に漲る己の魔力と、空気中に漂う魔力を、八卦炉を持った手に集中させる。
 彼女の手のひらが少しだけむず痒くなる頃に、八卦炉の中心の穴が翡翠色に輝く。それから程無くして、爆音と共に小規模な爆撃が執行される。
 突然の爆音に妖精達は皆一様に驚いた様子で、ミルクはびくりと肩を震わせ、ソラは頭を抱えて蹲り、グレープは「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
 倒木は跡形も無く吹き飛んでいた。
 魔理沙が視線を家の方にやると、妖精達が言っていた通り、玄関口らしき大穴があった。但し、そこに扉は無い。上部の子窓と同じ布で作られた暖簾が掛けてあるだけである。
 こうして魔理沙は、この妖精三人の住まいの全貌を目の当たりにした訳であるが、家だと言われてみれば確かに家っぽいが、何の予備知識も無く見せられたら人里の子供が作った秘密基地か何かと間違ってしまうだろう――と思えて来てしまう様な、実に粗末な作りの家であった。
 以前世話を焼いた三人の妖精の家と比較すると、かなり劣って見える。妖精としての能力の差の表れであろう、
 魔理沙が妖精達を向き直してみると、彼女達は、吹き飛んで行った倒木と、久しぶりに人前に姿を表した玄関口と、魔法が穿った地面の大穴を忙しげに見回していた。
「おい、どかしたぞ」
 魔理沙が一声掛けると、妖精達の視線は一斉に魔理沙の方を向いた。ビー玉の様に目を丸くしているのは、やり方に文句があるからなのか、魔法の力に驚愕してくれているからなのか、よく分からない。
 この疑問に答えたのはミルクで、先ずぺこりと一礼した。妖精の癖になかなかどうして礼儀正しい。
「あ、ありがとう。こんなに荒っぽく解決するとは思ってなかったけど」
「どういたしまして」
 魔理沙はにっこり微笑んでやった。やり方に対して抱かれてしまった不満を払い除ける様に。妖精もぎこちない笑みを浮かべて魔理沙に応えた。
 このまま何にも気付かないふりをして済ましてしまおうかとも考えたが、魔理沙は思い留まった。店の威信に関わるからだ。
「この穴が気に入らないんだな?」
 分かり切っていることだが、魔理沙は確認の為に問うた。妖精達はお互いの顔を見比べて、おずおずと首を縦に振った。やっぱりな――と、魔理沙は先程魔法で穿った大穴を見やった。大の大人三人くらいは入れそうな広さがある。但し、深さは十センチくらいのものだ。だが、邪魔であることに変わりは無い。我が家の庭にこんな穴をあけられてしまったら、流石に頭に来るだろうと魔理沙も思った。
「まあ、おいおい埋めてやるよ」
 口約束を取り付けて、魔理沙はさて――と、一連の動作に区切りを付ける様に腰に手をやり、周囲を見回し、それから空を見上げた。犇めく木の葉の所為で空の様子は全く見えないが、あれから大して時間も経過していないから、神社に戻っても平気だろうと決め付けた。
「それじゃ、私は帰る。今回の依頼の支払いは……そうだな、木の実の盛り合わせ三食分で頼む。どうせ金なんて持ってないだろうし。明日の夜までに持って来てくれ。来ない場合は取り立てに行くから、覚悟しておけよ」
 早口に魔理沙はこう告げ、箒に跨った。妖精達が慌てた様子で口々に御礼の言葉を述べている。稚拙な言葉ばかりであるが、悪い気はしなかった。
 箒に跨ってふわりと宙に浮かぶと、そこから一気に加速する。見る見る内にその姿が点になって行く黒色の魔法使いを見送る妖精達の眼もまた同じ様に点になっている。
 猛スピードのまま、まるでゲームを楽しむ様に木々の間隙をするすると抜けて行くと、あっと言う間に森へ突入した時に用いた木の葉の穴に辿り着いた。高度を急上昇させ、森を抜ける。
 陽の光が眩しい――長らく薄暗い森の中にいた所為だ。帽子を目深に被り直した。目が明るさに慣れるまでの間、魔理沙は森の上空をゆっくりと漂った。
 目が陽光に順応すると、また帽子を元の位置に戻した。それから、博麗神社の方角を向き、再び猛スピードでそちらへ飛んで行く。陽光を浴びて汗ばんだ体が風を受けて程良く冷え、心地良かった。

 霧雨魔理沙は再び博麗神社の境内へ降り立った。今日二度目の着陸である。
 辺りを見回したが、参拝客の姿も、博麗霊夢の姿も、それ以外の何者かの姿も無い。相変わらず賑わいの足りない神社だ。
 魔理沙は母屋の縁側に向かって歩き出した。すると、それを見計らったかの様に、母屋である建物の陰から博麗霊夢がひょっこり姿を表した。
「ややあ、お出迎えか?」
 魔理沙が冗談めかして言う。霊夢は肩をすかして見せた。
「偶然よ、偶然」
「ああ、そうかい」
 魔理沙はこう答え、霊夢の元へ駆け寄った。


*


 物珍しさから購入した目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、霧雨魔理沙は覚醒を余儀なくされた。追われる様に、ベッドの脇に置いてある小さなテーブルに置いてある目覚まし時計目掛けて猿臂を伸ばした。惰眠の最中で時計を止めてしまうことが無い様に、そのテーブルは少しベッドから遠ざけてあるから、状態を起こさねば手は届かない。背にあるスイッチを押して、モーニングコールを止める。
 その動作の流れで時計を見た。当然の様に針は七時を指し示している。しかし、眠気がひどい。自分でこの時間に目覚める様に仕向けておきながら、魔理沙はうるさく鳴り響いた目覚まし時計を呪った。
 我儘なことを考えながら彼女は、再びベッドに横たわり、時計を止める動作に伴って乱れた掛け布団を整え、肩の所まで引き上げた。
 窓を見ると、カーテンの向こうから陽光が漏れていた。午前七時でありながら、外はもうすっかり明るいことが分かる。分かるが、魔理沙は起床と言う決断を下せなかった。目を閉じる。お手製の闇の中、ちかちかと煌めく残光を追う。
 半睡半醒の頭で、昨日のことを思い出した。妖精達からの急な依頼を終え、博麗神社に戻った後、再び霊夢と一時間程駄弁った。話の種が尽きかけていた頃合いだったのだが、丁度いい具合に妖精達が話題を提供してくれたので、話は大いに弾んだ。それはそれで楽しかったのだが、その日の予定は崩れた。あまりにも娯楽に傾倒し過ぎた。お陰で、やろうと思っていた魔法研究はほとんど出来なかった。だから、翌日――即ち今日は、昨日出来なかった分までがんばろうと決めた。
 しかし身体は正直で、まだまだ眠り足りないと魔理沙に訴え掛け、彼女を惰眠へと誘う。
 昨晩の決意と、現在の欲求が激しくせめぎ合い、瞼の開閉が繰り返される。怪しいキノコを煮詰めて出た煙によって毒々しく着色された我が家の天井が、見えたり消えたりを繰り返す。
 起きなくちゃいけない。いや、眠いのならば眠ればいい。また妥協してしまうのか。しかし眠気を残したまま何かしても中途半端な結果が生まれるだけだ。だから――。


 視界から汚れた天井が完全に消え失せ、頭の中の天使と悪魔の闘争に完全な決着がついてから三分が経過した時、霧雨邸の玄関扉が叩かれ、大きな音を立てた。この音は魔理沙にとって想定外のモーニングコールとなった。目覚まし時計の時よりも遥かに質の高い覚醒が、霧雨魔理沙に齎された。魔理沙は時計を見た。七時五分を指し示している。妙に心がウキウキした。五分なら、まだ昨日立てた予定通りに動ける誤差だ。
 掛け布団をどけて、躍動的にベッドから飛び降りる。寝起きの身体はその運動に思う様につい来てくれず、着地の際に足を捻りかけた。寝間着のままで客人を迎えるのは流石に無礼かと思い、何か寝間着の上に引っ掛けられる衣料を探して辺りを見回したのだが、生理整頓のなされていない家の中でそんなものを迅速に見つけることは出来なかったので、結局寝間着姿のまま小走りで玄関へ向かった。
 玄関扉まで後八歩――と言った辺りで、また扉が殴られた。ドンドンと音を立て、そしてがたがたと揺れているのが見えた。
「今開けるよ!」
 扉の向こうの客人に向かって魔理沙は声を張り上げる。扉へ到達すると、施錠を解き、ノブを回して扉を開け放った。日当たりの悪さを解決する為に自分で樹木を伐採して作った森の禿げた部分から射す陽光が、寝起きの魔理沙の目を容赦なく刺激する。光に当てられて半開きの目は、何とか客人の姿を捉えた。
「グレープ?」
 客人――紫色の服を来た妖精――昨日、グレープと即席で命名した妖精が、深々とお辞儀した。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
 魔理沙は目を擦り、軽く頭を下げた。お辞儀が終わると目が合った。グレープはまん丸く眼を見開き、両手を後ろに回して突っ立っている。少しだけ息が乱れている様だが、口は一文字を描いているので、肩だけが過剰に上下している。緊張の面持ちが見てとれる。
「どうしたんだよ」
 緊張を解いてやるべく魔理沙から問うてやると、グレープは「はい」と元気よく返事をし、後ろに回していた手を魔理沙目掛けて伸ばした。その手にはカゴが握られていた。スイカが一玉と半分くらい入りそうな大きなものである。中には球状のものがぎっしり詰め込んである様だが、布が被せてあるので全貌は見えない。しかし魔理沙は中身をすぐに察した。
「昨日の謝礼か?」
 魔理沙が憶測を口にすると、グレープはこくこくと頷いた。魔理沙は喜んでカゴを受け取ったのだが、予想以上の重量に引かれてつんのめってしまった。地面にカゴを置き、被せられている布を捲って中身を確認する。
「おいおい……。三食分くらいって言わなかったっけ?」
 魔理沙が苦言を漏らすと、グレープは「はあ」と生返事。どうやら苦言の真意を理解していない様子だ。
「私はこんなにいっぱい食べないよ。六食は持つぞ、こりゃ。もうちょっと少なくていい」
 かごを突き返したのだが、グレープは手を後ろへ回し、首を横に振った。受け取る意思が無いのだ。
「持って帰るのも重たくて大変だから、魔理沙さんが食べてください」
「持って帰るのが大変って……あのなあ」
「私達は平気ですし、昨日のことはとても感謝していますから」
 そう言い、グレープは屈託なく笑った。相手の善意をないがしろにするのも気が引けたので、魔理沙はそれ以上、この謝礼を突き返すことはしなかった。
「そっか。じゃあ、在り難く頂くよ」
 貰えるのは嬉しいのだが、こんなにも多量の食糧を保存しておく環境や設備が、この邸宅には備わっていない。腐らせる前に何とかしなくてはならない。

 食品の未来に就いての思慮から我に帰り、客人を今一度注視してみると、妖精は魔理沙の身体の横から、家屋内を覗き見る様な仕草をとっている。魔理沙は後ろを――自宅内を振り返ってみる。奥には寝室へ続く扉がある。左からはカーテンの引かれた窓から微かに入った陽光が見え、右には本やら書類やら試験管やら、とにかくいろんなものが散乱している大きな木製のテーブルがある。見慣れた我が家なので真新しさは無いが、グレープにとっては初めて見る他人の家であり、珍しいことだらけなのだろう。
「上がって行くか? お茶でもどう?」
 あまりにもグレープが熱心に中を見ようとしているので、ついついこんなことを言ってしまった。途端にグレープが丸い目を爛々と輝かせた。
「いいんですか!?」
「駄目だったら提案しないよ。どうぞ」
 そう言い残すと、魔理沙は踵を返し、家の中へと歩み入った。グレープはそれを追う様に霧雨邸へと入る。

 霧雨邸へ入ると、妖精は音がしない様に丁寧に扉を閉めた。屋内は随分暗くなってしまった。魔理沙は謝礼である木の実が入ったカゴをテーブルに置くと、窓へ駆け寄り、カーテンを開いた。それだけで屋内は随分と明るくなった。
 光が差したことにより鮮明に映し出された霧雨邸を見回すグレープを見て、魔理沙は妙な微笑ましさを感じた。
「散らかっていてすまんな。こっちに座って待っていてくれ」
 魔理沙は椅子を勧めておいて、自分は雑然としたテーブルの向こう側にあるキッチンへと向かった。魔法道具を応用して作ったキッチンは、比類なき便利さを誇る。湯を沸かすも、沸いた湯を冷ますも思いのままだ。食糧保存も近い内に実装したい所存だが、残念ながらそこまでの技術力はまだ体得していない。
 瞬く間に湯を沸かし、その湯で茶を淹れる。緑茶派だ。洒落た感じは無いが、誰の口にも合う所が気に入っている。出来上がったそれを、今度は瞬間的に冷却する。コップを二つ用意してそこに注いで、トレイに乗せ、客人の待つ多目的室――玄関扉を開けてすぐの一番広い部屋。魔法研究、商談、食事等、いろんなことに用いている――に戻る。
 グレープは椅子に座っておらず、未だ物珍しげに辺りを見回していた。
「そんなにうちは珍しいか?」
 魔理沙が声を掛けると、グレープは瞬時に魔理沙の方を向き直した。
「珍しいです。あんまり人の家に入る機会がないので」
「ここは一般的な人間の家とはかけ離れてるけどな」
 そう言いながら魔理沙は、二人分のお茶を乗せたトレイを、胡乱なテーブルのかすかな隙間に置いた。さすがにグレープは観察を止めて、勧められた椅子に腰かけた。
 キッチンに続く入口の横に置かれている戸棚から菓子を取り出し、トレイの傍に置き、魔理沙も愛用の椅子に座った。
 どうぞ――と魔理沙が菓子と茶を勧めると、グレープは躊躇い無くその両方に手を付けた。特に菓子に感動したと見え、次々にバタークッキーを口に運んでいる。流石は紅魔館から借りて来た菓子だ。食い付き方が違う。
 しばらく、朝から健啖な妖精の食べっぷりを眺めていた。
「他二人はどうしたんだ?」
 適当な頃合いを見計らって魔理沙は問うた。グレープの手が止まった。但し、口は動いたままだ。
「飲み込んでから喋れよ」
 即座に魔理沙が忠告する。グレープはこくこくと頷き、小動物が木の実を齧る様に懸命に素早く咀嚼した後、口の中のクッキーを飲み込んで、開口した。
「他二人……ミルクとソラですね?」
 昨日の適当な命名がいたく気に入っていて、わざわざ二人の名を口に出している様に感じられた。
「そう。その二人」
「家にいますよ」
 言下にグレープは言った。
「昨日、じゃんけんで誰が魔理沙さんの家に御礼を持って行くかを決めたんです」
「負けたのか」
「はい。一人だけチョキで負けました」
 グレープは照れ臭そうに笑み、頭を掻いた。濃紺のさらさらした髪が細かに揺れる。魔理沙は思わず自分の髪に手を伸ばしていた。目の前の妖精の様に滑らかそうな指通りは感じられなかった。
「だけど、負けてよかったです。魔理沙さん家に入れたし、こんな風にお茶とお菓子まで頂けるなんて」
 そう言い終えるとグレープは、またせかせかと菓子に手を伸ばした。よっぽど気に入っているらしい。そんなに美味いのかと思い、一つ食べてみた。――なるほど、かなり美味い。一つ食べてみて、この菓子をグレープに食い尽くされるのが勿体なく感じたが、しかし客の前で無節操に食べまくる訳にもいかないので、それとなく手を出していた。

 数分で菓子はすっかりなくなった。グレープは満足そうに息を吐き、思い出した様に茶を啜った。
「菓子はもう無いからな」
 一応魔理沙は忠告しておいた。グレープは飲みながら頷き、その後コップをテーブルに置いた。コップは空になっている。
「お茶ならあるけど、飲む?」
 魔理沙が問う。
「いただきます」
 妖精ははきはきとした返事をした。魔理沙はコップを持ってキッチンへ行き、茶を注いで戻って来た。コップを手渡すとグレープは「ありがとうございます」と頭を下げた。
 ――礼儀正しいんだか、厚かましいんだか。
 おかわりした茶を少しだけ飲んだ後、グレープが開口した。
「魔理沙さんは一人でここに暮らしてるんですよね?」
 唐突な質問に少しだけ面食らった。妖精の眼差しは真剣そのものである。魔理沙はその物々しい雰囲気に少しばかりの緊張を覚え、お茶を飲んで喉を潤した後、
「そうとも。ここで一人暮らしだ」
 答えるとグレープは「はあ」と曖昧な返事をし、ぐるりと室内を見回したが、ふとした瞬間に視線が止まった。魔理沙もそちらを見てみると、そこにはカーテンが開き切られた窓があった。窓からは瘴気によって特殊な造形と化した魔法の森のほんの一部分が見える。グレープにはその窓がまるで絵画の様に見えているのかもしれない。すっかり見慣れた光景だが、部外者の目にはこの森は異様に映るものだから。
「それがどうかしたのか?」
 魔理沙が尋ねるとグレープは視線を窓から離し、家主を見た。少しだけ逡巡を見せた後、
「寂しくないのかなって思って」
 遠慮がちにこう言い、せかせかとお茶を飲み始めた。
「なるほど。寂しくないのか、ね」
「はい」
 グレープは申し訳なさそうな声色で答えた。
「そう思ってしまうのも分からないでもないな」
 と、魔理沙。
「確かにほんのたまに寂しいこともある」
「やっぱり!」
 何となく抱いていた予感が的中したことが、グレープを勇気づけた様で、次なる質問を飛ばすに至った。
「ここで何をしているんですか? こんなに寂しい場所で」
「こんなに寂しい場所とは酷い言われようだな」
 魔理沙は苦笑いを浮かべたが、グレープの表情はやはり堅い。二人の仲間と、明るくまともな森で暮らすグレープには、こんな辺鄙な場所に一人で暮らす意味が理解出来ないのだろう。
「霧雨魔法店って言う何でも屋をやってるよ」
 言下に魔理沙は家屋そのものを指し示す様に人差し指を立てた。グレープはしっかり頷いて見せた。
「それは知っています」
 だろうな――とぼやいた後、
「それから魔法の研究もやってる」
 こう付け加えた。するとグレープはまた室内を見回し始めた。魔法研究の痕跡を探しているのだろう。魔理沙は手近にある魔導書を一つ手に取った。縦およそ三十センチ、横はおよそ二十センチ、厚さがおよそ五センチ。魔導書としては標準的な大きさだ。その背表紙で、辺りを見回しているグレープの頭を小突いてやった。急な衝撃に驚いた様で、グレープは目を丸くしてこちらを見やった。
「こういうもんを学んでんだ」
 魔理沙は魔導書を手渡した。先刻、玄関先で木の実の入った籠を受け取った時そうなってしまった様に、グレープも魔導書の重さに引かれ、少しだけ体勢を崩した。恐々とした面持ちで、グレープは魔導書を開いた。
「何か分かるの?」
 魔理沙が問う。グレープはぶんぶん首を横に振った。
「さっぱり分かりません」
「そうだと思った」
 魔理沙はけらけら笑って、グレープの手元から魔導書を取り上げ、本を閉じ、元あった位置に戻した。グレープの視線はしばらくその魔導書に注がれていたが、特に脈絡も無く視線はこちらへと向けられた。
「その、お店とか、魔法とか……うまく行っているんですか?」
「ほほう?」
 思わず魔理沙は眉を吊り上げた。飲もうとしていた茶の入った湯呑みがテーブルの上へと戻される。両方の肘をテーブルに置き、両手の指を組み、口元をその組まれた手へ近付ける。
 目だけを動かしてグレープを見やる。彼女は何だか申し訳なさそうに、ただでさえ小さくて狭い肩を余計にすぼめて、俯き加減でこちらを見返して来る。
「うまくいってなさそうに見える?」
 魔理沙が問う。グレープは素直に頷いた。散らかり放題の店舗兼実家である家屋を見回してみる。確かに、この惨状からは明るいものを見出すことは出来そうも無い。
「はっきり言って、うまくはいってないな」
 言下に自虐めいた笑みを浮かべた。グレープはどう反応するべきか困惑している様で、視線を方々へそわそわと泳がせている。
「一応何でも屋ではあるけど、客なんて来ないし、私の方で仕事を捕まえることもそんなに多くない。何か見つけてみたって稼ぎなんて微々たるもんだ。魔法研究も大発見とか大発明とか、そんなもんとは縁遠い」
 ここで言葉を切り、茶で喉を潤した。調子づいてべらべら喋り続けてしまうと、気が滅入ってしまう様な気がした。それに、一応目の前の妖精は客人なのだ。あまり自分の店のことを貶めて聞かせるのはよくない。
「だけど、まあ、私はこうして生きている。生活は出来ているんだ。だから大丈夫だよ。うまくいってなくても平気だ」
 自身の胸をとんと叩いて魔理沙は言った。グレープは少しだけ相好を崩したが、やはり表情は晴れない。
「そんな顔するなよ。私まで悲しくなっちゃうぜ」
 魔理沙は苦笑を漏らして妖精を宥めすかす。グレープはぎこちない笑顔を浮かべた。相当無理をしている。虚勢を張ってでもうまくいっていると言ってやればよかったかもしれない。
 重苦しい沈黙が霧雨邸の中に満ちた。さすがの魔理沙もこの空気には耐えかね、先ず自身の茶を飲み干した。それから客人のコップを見た。まだ茶は少しばかり残っているのが見えた。
「お茶のお代わり、いる?」
 魔理沙が問う。グレープは少しきょとんとした顔を見せた後、大急ぎで茶を飲み干し、コップを差し出して来た。ちょっと待ってろ――と言い残し、キッチンへ向かう。
 二人分の茶を注ぐと、丁度作った分の茶が無くなった。そろそろ帰らせてやれって言う天啓かな――そんなことを思った。
 茶のパックを捨て、容器を流しで軽く水洗いし、そこに放置した。コップを持ち、再び妖精の元へ。
 グレープは本を読んでいた。先程、何も分からないと言っていた本だ。茶を持って来ると、そっと本を閉じて、元あった場所に置いた。
「そんなにその本が気になるか?」
 お茶の入ったコップを手渡ししながら魔理沙が尋ねると、グレープは曖昧な笑みを浮かべて「少し」とだけ言った。
「何も分からないのに? 本当は何か分かる癖に、何か隠してるんじゃないのか?」
 やや意地の悪い質問をすると、グレープはぶんぶんと首を横に振った。
「本当に何も分かりません。魔理沙さんがどんなことをしているのかが気になっただけです」
 グレープはこう釈明したが、魔理沙は腕を組み、意味深な笑みを浮かべて妖精を見やっている。グレープに焦燥の色が強まって行く。己が失言を悔いている様に見える。妖精にしては臆病であるらしい。
「何がそんなに気になることがあるんだよ」
 魔理沙は次なる質問を飛ばす。この妖精の一喜一憂を見ているのがとても楽しく感じた。軽度の弱い者いじめだ。こんなことだから私は何時まで経っても成長しないのだろうか。
「高が私のことだろうに」
 組んだ両手を後頭部へやり、倒れてしまわない限界まで椅子の背もたれに身を委ねた。問いへの答えを探して俯き加減で頭を悩ませているグレープを黙って待った。
「魔理沙さんは優しいですから」
 三十秒程経過して放たれた答えがこれであった。
「優しい? 私が?」
 背もたれに凭れかかっていた状態から勢いよく姿勢を戻し、魔理沙はきょとんとグレープを見やった。体に押された椅子が大きく揺れ、がたんと音を立てた。幼い客人はこの音に驚き、顔を上げた。目が合うと、こくこくと細かく素早く頷いて見せた。
「妖精のお願いもちゃんと聞いてくれましたし、代金もお金意外のものでいいって言ってくれました」
「それはそうだけど……。いやいや、それが私だけの施策かどうかは分からないだろう。霊夢だってそうするかもしれない」
 言いながら魔理沙は落ち着きなく両手の指を絡めている。グレープは首を横に振って見せた。濃紺の髪がさらさらと揺れる。しかし動くのを止めれば、何事も無かったかの様に元の形に戻る。これも、完全無欠の自然の象徴であるが故の賜物だろうか。
「きっとそうはなりません。私達のつまらない悩み事に耳を傾けてくれる様な暇は、あの人達には無いのです」
「つまり私は暇だと言うことか」
 事実暇だけどな――と言う一言は飲み込んだ。
「悪い言い方をすればそうなりますが、逆に言えば余裕を持って生きていると言うことです。魔理沙さんには余裕がある。だから、博麗の巫女さん達には出来ないことをするチャンスがあるんです」
 熱弁するグレープに、魔理沙はしばし見惚れてしまっていた。小さな幼い客人であった筈の妖精が、何だか急速に大人びて見えた。濃紺の艶やかな髪も、紫の斑のブラウスも、紫のスカートも、全てが大人びて見えた。
「何だよ、小さい癖に生意気なこと言いやがって」
 魔理沙は猿臂を伸ばし、グレープの頬をつねった。驚く程に柔らかく温かい頬だ。頬をつねられた状態で放たれる「痛いです」は、少しだけ上ずっていた。指を放してやると、グレープはつねられた頬を摩り始めた。それから、
「そろそろ帰らなくては」
 こう言った。
「つねったのは悪かったよ」
 この客人をもう少しこの場に留めておきたい一心でこう進めてみたが、
「いえ、それとは関係無く、帰らなくちゃいけないのです」
 あっさり断られてしまった。
 こうなってしまっては魔理沙も彼女に従うしかない。グレープは一気にお茶を飲み切って、ふぅと一息ついた後、「御馳走様でした」と深々と頭を下げた。
「おう。お粗末様でした」
 魔理沙は先んじて玄関へ赴き、去りゆく客人を迎えた。グレープが少し遅れて玄関へやって来た。一歩外に出ると、また彼女は振り返り、礼を言い、頭を下げた。本当に礼儀正しい妖精だ。
「お店、上手くいくといいですね。応援しています」
 こんな激励までよこしてくれる始末だ。
「ああ。また何か困ったことがあったら、いつでも来てくれよ」
 さりげなく店をPRしておいた。
 グレープはまた頭を下げ、その後振り返り、深い魔法の森の深奥へと向かって歩いて行った。
 魔理沙はしばらく、妖精の姿を玄関先に突っ立って見守っていた。その姿が完全に木々に飲まれて見えなくなってから、家の中へ戻った。
 先程使用したコップを持って台所へ立ち入ったその瞬間、雷撃を受けた様な衝撃に見舞われた。目に飛び込んで来たのは、謝礼として受け取った山盛りの木の実である。それ自体はどうと言うことは無いが、問題はその容器だ。この籠はあの妖精達のものではないか。木の実だけ別の容器に移して籠は持って帰らせるつもりだったのに、無駄話に夢中になっていてすっかり忘れてしまっていたのだ。
 魔理沙はコップを流しへ置くと、調理台に置かれている木の実入りの籠を引っ掴み、中身を傍に置いてあった適当な大皿へ移した。乗り切らないものは無造作にも調理台に直に置いた。
 それから籠を右手に玄関口まで駆けた。あの調子でのんびり帰ってくれているなら、まだそれ程遠くへ行っていない筈だ。急げば追い付けるだろう。
 玄関口へ到達すると、小指に籠の取っ手を引っ掛け、残りの指で傍の壁に立て掛けてある箒を引っ掴んだ。次いで左手を玄関扉の取っ手に掛けたのだが、そこでぴたりと脚を止めた。どうしたものか、自分の今現在の恰好を思い出したのだ。無礼と知りつつ寝間着のまま接客を始めて、それから変えていない。このまま外へ出るのは幾らなんでも憚れる。別に知り合いに会うことなんてほとんど無いが、問題なのは恥のことではない。瘴気蔓延り、異形の植物や生物の蔓延する魔法の森に寝間着姿で飛び出す――普段着で登山をする様なもんじゃないか。
 取っ手からゆっくりと手を離し、手に取った箒を壁に戻した。踵を返し、ばたばたと動き回ったことで少しばかり乱れた呼吸を整えながら台所へと歩み戻って行く。籠はテーブルの上に無造作に置いた。台所でコップを洗った。二人分の食器を用意したのは随分久しぶりのことだ。
 洗い終えたコップの水気を布巾で取り、物干し場に置いた。
 台所にいるついでに朝食を作ってしまおうと決めた。食材は貰ったばかりの木の実達である。幸いにも、木の実の内容はありふれたものばかりで、メニューの選定にも、調理にも困らなかった。
 出来上がったお菓子の様な朝食をテーブルへと運ぶ。籠が目に入った。その横っちょに朝食を置き、いただきます――と手を合わせる。
 食べている最中、何度も籠が目に入った。いつ渡そうか。何かのついでに渡しに行こうか。そんな予定はあっただろうか。……そんなことを、このあまりにも静かすぎる家の中でぼんやり考えながら食事をしていたのだが、そうしている内に徐々に気が変わった。
「まあ、ここに置いておけばいつかあいつらが取りに来るだろう」
 魔理沙は独り言を呟いた。



*



 随分と甘ったるい朝食を食べて、その片付けを終えると、魔理沙は木の実を適当に見繕って、籠に詰めた。いつぞやかに、魔法の森の頑強なシダ植物を用いて暇つぶしで作った手製の籠である。
 それから寝室へ向かい、寝間着から、白黒のエプロンドレスに着替え、同じ配色の帽子を手に取って被る。あいにく鏡を持っていないので、服や帽子の乱れが確認出来ない。己が感覚を信じて、適当に身なりを整えた。
 それが終わると寝室を出て、テーブルに置いた木の実入りのお手製の籠を手に取り、玄関口へ向かう。扉を開け、次いで箒を手に取り、外へ出たら後ろ手に扉を閉めた。箒に跨ると、さっき客人が歩いて行った方とは真逆の方向へと飛び出した。
 森と言うだけあって樹木がとても多いので、箒に乗ってもあまり速度を出すことは出来ない。しかし、こう言う所で障害物を避ける訓練をしておくことで、弾幕ごっこにおける回避力を養うことが出来るのではないか――と思っているので、出来るだけ素早く、森の中を突っ走る様にしている。
 そうしている内に、魔理沙は僅か数分で目当ての場所へと辿り着いた。魔法の森に存在するただ二つだけの家屋、その中の霧雨邸では無い方だ。
 見た目も中身も、霧雨魔法店よりも遥かに立派な家屋だ。おまけにここの家主と言うのが、自由自在に召使を作り出せてしまう魔法の指先の持ち主だから、いつ何時もこの家屋は中も外も丁寧な清掃が施されている。綺麗さでも圧倒的大差で敗北している。
 この日も例外ではなく、人形屋敷とも揶揄されるアリス・マーガトロイドの家は美しくその場所に佇んでいる。薄気味悪くて視界不良な魔法の森――その粗悪さから豁然と現れるこの人形屋敷は、見る者に夢と驚きを与えてくれる。すっかり見慣れた風景であっても、まだその片鱗を味わうことが出来るくらいには、この景色は美しい。出来過ぎだ。

 玄関扉まで約二十メートルの地点に着地した魔理沙は、惰性で数歩駆けた後、ようやく静止した。扉までは後十五メートル。屋根に登って、二階の部屋の窓を拭いている複数の人形――家主の召使の正体だ。だが、この働く人形のことを召使と言うと、彼女ちょっぴりは機嫌を損ねてしまう――が見える。アリスももう起きているらしい。
 入口まで伸びている石畳の細い道を歩み、玄関扉へ到着すると、呼び鈴を鳴らした。しばらく待っていると扉の向こうで解錠の音が響いた。次いでガチャリと音がして、ノブがゆっくりと周り、勿体ぶったのろまな動きで扉が開く。手首の太さ程だけ開かれた扉の隙間から、金髪の人形が顔を覗かせて来た。
「客くらい家主が出迎えろ!」
 扉の隙間へ向かって魔理沙が声を張り上げた。人形は微動だにせず、見知らぬ者を見上げる猫の様な目つきで魔理沙を見つめている。この人形が今見せている生物めいた仕草も、アリスの人形操作の範疇なのだろうか。
「あら、魔理沙なの?」
 アリスの声が聞こえて来た。客人に負けじと声を張り上げた感じがありありと伝わって来る。声を追う様にしてぱたぱたと速足な足音が響き出した。人形と睨めっこしながら、家主直々の出迎えを待ってやることにした。
 足音が段々大きくなって来たかと思うと、不意に人形が家の奥へと引っ込んで行った。次いで扉が全開される。家主のお出ましだ。金色の髪、青色の瞳、乳白色のフード付きのローブ。
「おはよう、アリス」
 魔理沙はにこやかに朝の挨拶をする。アリスは驚いている様子だ。客人を出迎えた人形を大切そうに胸に抱いて頭を撫でながら、私の帽子の先からつま先までをじろじろと見やった。その後、
「ええ、おはよう」
 と思い出した様に一言。視線は手元の籠に留まっている。
 魔理沙は、アリスの視線が注がれている籠を持ち上げ、ずいと差し出した。当惑を眉宇に示しながらも、アリスは籠を受け取ってくれた。
「これは何?」
「名前は分からない。だけど全部美味かったぜ」
「木の実の名前も美味しいことも分かるわよ。どうしてこんなものをくれるのかって話」
 魔理沙は、昨日の博麗神社での事、妖精達の住処での事、それから今朝あった事を語って聞かせた。その間にアリスは人形を使って籠を家の奥へと移動させていた。
 話を語り終えると、アリスは感慨深げに息をついた。
「それはいい商売だったわね。倒木を魔法で吹き飛ばしただけで、あんなにいい木の実をお裾分け出来るくらい貰えるなんて」
「ようやく霧雨魔法店にも光明が差し込んだって感じだ」
 少しだけ話を大袈裟にしてこんなことを言ってみた。しかしアリスはからかう様子も無く、薄く笑んでこっくり頷くのだ。
「そうかもしれない。相手が妖精であれ、妖怪であれ、人間であれ、信頼を獲得するのはとてもいいことだと思うわ」
 妙に真面目な返答が来たので、魔理沙はどぎまぎしてしまった。慌てふためいている最中でも、アリスは優しげな微笑を浮かべている。まるで子の成長を見守る母親の様な笑顔。この真面目腐った空気をどうにか茶化してやろうと、必死に思慮を巡らせた。
「この際、保育園でも営んでみたらどう? 霧雨保育園」
 どうやら間にあってたみたいだ。
「冗談じゃないぜ。何であんな奴らの面倒を見なきゃいけないんだ」
「好かれてるならいいじゃない」
「よくない」
 魔理沙は吐き捨てる様に言った。アリスはまだ人をからかう様にくすくすと笑っている。
 しばらくしてその笑いを止めると、体を横に逸らして家の奥を手で指し示した。
「立ち話もなんだから、お茶でもどう?」
 魔理沙は首を横に振った。
「昨日神社でサボってしまった分、今日はがんばらなくちゃいけないんだ」
「そうなの」
 アリスは何ともない様に言った。事実、何ともないのだろう。彼女はもう普通の人間ではない。だから、常人が感じる様な寂しさとか孤独とか、そう言うものから卒業しつつあるのだ。
「そうなんだよ」
 魔理沙は肩をすかして言った。
「幻想郷屈指の努力家だからな」
 うんうん、とアリスはにこやかに頷いた。心優しくも私の戯言に同意してくれているのか、それとも、ただ呆れて付き合ってくれているだけなのか判然としない。
 さて――と音頭を取り、魔理沙は会話を打ち切って、空を見上げた。建造物の為に更地にしたこの森の一角からは、ちゃんと空を見上げることが出来る。快晴だ。天気がぐずつき易い季節でありながら、雲一つ無い。
「それじゃ、私はこれで」
 魔理沙は踵を返した。箒に跨り、浮上しようとした瞬間、背後で「あっ」とアリスが声を上げた。唐突である上に声量がすごかったものだから、危うく箒から転げ落ちそうになった。どうにか無事に着地はしたから、大事には至らなかったが。
 魔理沙が振り返る。
「急に大声を出すな。何だよ」
「籠、籠!」
 アリスは家の奥を指差している。
「木の実をくれたのはありがたいけど、籠まで貰う訳にはいかないわ」
 魔理沙は目を細め、アリスが指し示している家屋の奥を凝視した。照明が点けられていない家屋の深奥はただ薄い闇が広がっているだけで、何も見つけることが出来ない。籠の現在地すらよく分からない。
「待ってて、すぐに別の容器に移して、籠だけ持って来させるから」
 アリスの口調は焦燥の色が強い。指をひょいひょいと動かしているのは、人形を操っている証拠なのだが、その動きもいつになく機敏だ。急いでくれているのだ。
「ああ、いや、いいよ」
 魔理沙が言う。アリスの手の動きが、まるで大きな音に反応した猫の様にピタリと止まった。きょとんと丸く大きく見開いた目でこちらを見やっている。
「いいって何? くれるの? 籠」
「違う、くれてはやらん。また後日取りに来るって話だ。それまでは使っていていい。ほら、見えない所の人形を操るのは難儀だろう?」
「そんなに大変なことじゃないけど」
「いいから使っていてくれ! 私は早く帰らなきゃいけないから! な!?」
 堪らず魔理沙は大声を上げた。当然と言うべきだろう、アリスはすっかり驚いてしまった様子で、さっきにも増して呆然とした感じでこちらを見やっている。こんな大声を上げたのは久しぶりのことだ。先程客人の出迎えを疎かにしたアリスへの喝とは比較にならない大きさだと思う。だから、今訪れているこの静寂が、随分と恥ずかしいものの様に感じられた。
 いそいそと魔理沙は踵を返した。「それじゃあ、また今度」の一言は出来る限り平静を装ったものだ。
 空を見上げ、箒に跨る。ふわりと視線の位置が高まったその瞬間、後ろからアリスの声が聞こえた。
「近い内に籠を返しにそちらにお邪魔させてもらうわ」
 なんだよ、バレバレじゃないか、私の心。顔が熱い。
 魔理沙は相手を振り返ることもしないで、軽く右手を振ってそれに応えると、あっと言う間にアリスの自宅の庭から飛び去った。
 魔法の森を抜け出して、視界の狭苦しさが解消された。晴れ渡った空が与する解放感が、胸中のいい知れぬわだかまりをすっと溶かしてくれた。火照った顔を撫でて行く風が心地よい。安堵し、つい溜め息などついてしまったその瞬間、己が失態に気付き、思わず額に手をやった。
「早く帰らなくちゃいけないんじゃなかったのか、お前は」
 勢い余って魔法の森を抜け出してしまったが、目指していたのは我が家だったのだ。最短距離は元来た道を戻り、アリスの家から我が家へ向かう道だが、そうするのはあまりにもきまりが悪い。
 魔理沙はとろとろと魔法の森上空を飛び、大きく遠回りして自宅を目指した。
 自宅に到着したのはそれから十分後のことであった。
 玄関扉を開けて中に入ると、すぐさま左手側の壁に箒を立て掛けた。帽子を脱いでテーブルに投げ捨て、キッチンへ向かい、手洗いとうがいをする。まだ真っ当な人間だから、体調不良は点滴なのだ。それらを終えると、わき目も振らずに先程帽子を置いたテーブルへと向かった。客人や朝食の為に脇へとどけていた書物や書類、文房具などを手元に引き寄せる。
 書類に目を通し、今行っている魔法研究の進捗状態を確認する。思っていたよりも進んでいなかった。しかし、だからと言って今日もふいにする訳にはいかない。
 魔理沙は頬を二度程叩き、「よしっ」と音頭を取って気合を入れ、魔法研究を開始した。
 昨日から今日に掛けていろんなことがあった所為でなかなか集中することが出来ない。何かの拍子に、今朝ここへやって来た妖精の言葉や、アリスの前で演じてしまった失態が思い起こされ、腹の底が締め付けられる様な不快感を覚えた。そんな感触に陥る度に、それらを振り払うべく頭を振ったり、呼吸の調子を変えたりした。

 魔理沙が魔法研究を始めて九十分程経過した。
 魔法の森で採取した珍しいキノコを乾燥させた後に擂り潰して粉末にしたものを、アルコールランプで熱されてくたくたと煮えたくっている赤色の液体へ投入していた最中である。
 玄関扉が叩かれ、どんどんと音を立てた。
 分量を誤ってはならない、緻密な作業の只中であったものだから、ひどく驚いてしまった。しかし、分量は誤ることなく入れることが出来た。安堵しつつ、玄関扉の方を見ると、また扉が殴られてがたがたと揺れるのが見えた。
「ごめんください!」
 客人の声が遅れて聞こえて来た。何だか、嫌な予感がした。
 魔理沙は火が点いているアルコールランプに留意して、慎重に椅子から立ち上がった。それから、誤ってキノコの粉末を口に入れてしまわない様に装着していた白の布製のマスクを外してテーブルに置いた。駆け足で玄関扉へ向かう。その最中、また扉が殴打された。
「今出るから!」
 少しだけ語調を強めてしまった。客商売は印象が命だと言うのに。
 玄関扉を少しだけ開ける。その隙間から見えたのは、小さな女の子がいた。白いブラウスに赤いスカート、赤い靴。肩ほどまで伸びたアイボリーの髪は、狼の様な勇ましさを持って波打っている。
「こんにちは」
 丸くて大きな瞳でこちらを見上げて、元気な挨拶を飛ばして来た。何だか、軽い眩暈の様なものを覚えた。



*



 アリス・マーガトロイドは博麗神社を訪れた。特別な用事がある訳ではない。単なる暇潰しである。三日前、魔理沙がこの神社で妖精達に仕事を以来され、豪勢な報酬を貰ったと言う話を聞いたこと、その報酬の一部をお裾分けと言う形で貰い、それを消費したことで、何となく博麗神社と言うものの存在が強く意識され、久しぶりに足を運んでみようと言う気分になったのである。
 三体の人形を従えて家を出た。上を見上げると、切り開かれた森の一角から、曇りがちな空が見えた。しかし雨の気配は無いので、アリスは宙へと浮遊した。魔法の森を歩いて抜けるのはあまりにも難儀なので、森だけは空から抜けるのだ。森を出たら歩行に移転する。飛んだ方が明らかに速いのだが、別に急ぐ必要は無い。
 のんびりとした歩調で歩くことおよそ三十分。博麗神社の境内へ続く長い階段に到達した。一度歩みを止め、階段の果てを見上げた。これが妖怪の体を持ってしても、なかなか難儀な階段なのだ。
 アリスは階段を上がり始めた。一段一段を踏み締める様に、ゆっくりと。
 階段を登り切ると閉鎖的だった視界が開けて、境内の全貌が現れる。ほんの微弱な達成感が胸の中を駆け抜けた。
 アリスはその場に立ち止まり、久方ぶりに目の当たりにした境内を見やった。正面に拝殿、右手側には社務所、左手側に手水舎。拝殿へ至る参道の中程に、見慣れた紅白の衣装を纏った巫女がいて、せっせと箒で参道を清掃している。黒くて艶やかな黒髪と、衣装と同色の大きなリボンがよく揺れていて愛らしい。彼女が今現在行っているそれが掃除のふりなのか、本当に掃除をしているのかが、いまいちよく分からない。元々、なかなかどうして大胆と言うか、大雑把な所があるから、掃除と言うものが博麗霊夢にはあまり似合わないのだ。
「こんにちは」
 アリスが声を掛ける。こうして霊夢はようやく来客に気付いた様で、地面へ落としていた視線をぱっと上げた。きょとんとしている。
「あらら、久しぶりじゃない」
 霊夢が明朗な声を上げた。がさがさと乱雑に箒で地面を掃きながらこちらへ歩み寄って来る。あの様子だと、やはり彼女の動作に、清掃という観念はさほど含まれていない様に思える。
 アリスは軽く手を振って霊夢の挨拶に応えた。人一人分程度の間を開けた所で霊夢は立ち止まった。
「しばらく見なかったけど、ずっとあの辛気臭い森の家にいたの? たまには外に出なさいよ。魔法使いったって心は弱っちいんだから。あんな陰気な場所に長居してると、今に精神を患うよ」
 口も手もよく動く。竹箒に撫でられている参道はがさがさとやかましい。何だか霊夢の口ぶりに違和感を覚えた。こんなにも彼女はお喋りだっただろうか。久しぶりに会うからそう感じるだけのことだろうか。
「今日は何だかよく喋るわね」
 思ったことをそのまま口に出した。霊夢は「そう?」と首を傾げ、口に手をやった。が、「ま、いいや」とすぐに手を離した。
「そんなことより、あんたに丁度聴きたいことがあったのよ」
「私に?」
「正確に言うと別に誰だっていいんだけど、今回はあんたが一番信頼できるからね」
 アリスは少し佇まいを直した。霊夢の口調はいつも通り、呑気で飄々としたものだが、その軽快さの中に何か厳粛なものが感じ取れたのだ。先程の捲し立てる様な言葉の連続も、これが原因なのかもしれない。
「あんた、魔理沙に会わなかった?」
「魔理沙に?」
 アリスは拍子抜けたした様な声を出してしまった。咄嗟に見せてしまったこの態度が気に食わなかったと見え、霊夢はムッとした表情を見せた。
「何よ。近場に住んでるあんたは毎日でも会えるだろうけど、私はそうはいかないの」
「ごめんなさい。別にそう言う意図があった訳じゃないの」
 アリスは慌てて詫びを入れた。霊夢もそれで一先ず怒りを収めてくれた様だ。さて、次に気になるのは質問の意図だ。
「魔理沙がどうかしたの?」
 当然の様にアリスが問う。霊夢は「うん」とぼやいた後に頬を掻き、目線をそっぽに向けた。
「別にどうかしたとか、何か急用があるって訳じゃないんだけどね。最近見ないからさ。ちょっと気になったのよ」
 はあ――と、アリスは生返事をするに留まった。妥協点だ。意外や意外、アリスは結構な動揺を受けている。まさか霊夢が他人の身を案ずるなんて。しかもその相手が、あのがさつで、怖いもの知らずで、元気の塊の様な霧雨魔理沙であるなんて。本当はもっと驚いたって罪は無いだろう。それではあまりにも失礼だから、そうしないだけのことだ。
「いや、別に何か変な気があるとかそういうんじゃないのよ? 本当に、ただ最近見ないなって言うのが気になってるのよ」
 この気遣いは、霊夢にとってみれば却って居心地が悪いものだった様だ。口調の真剣さが強いから、彼女の言っていることに偽りは無いだろう。
「一回会った。三日前にね。あなたも三日前なら会っているでしょう? 妖精が来たとかで」
「よく知ってるわね」
「本人と直接会って聞いたもの」
「それで、それ以降は?」
 アリスは無言のまま首を横に振った。霊夢は難しい顔をして、口をへの字曲げて唸った。落胆こそしていない様子だが、気掛かりが少しも解消されなかったことが、至極気持ち悪い様だ。
「会ってないんじゃ仕方が無いわね」
 暫くして霊夢はこうぼやいた。その声色には諦めの色が強い。
「まさか死んでる訳でもあるまいし、気に病むこともないか」
 己に言い聞かせる様な調子で言った。アリスは一先ず頷いて同意を示した。
「ところで、あんたは何の用でうちへ?」
 人が変わった様に、いつもの飄々とした調子で霊夢が問うて来た。あまりの変貌ぶりに些か驚いてしまったくらいだ。
 魔理沙に神社での一件のことを聞いたので、ふと思い立って来たくなったのだ――と言う旨を伝えた。霊夢は特に何を糺すこともなかった。
 アリスは暫く神社に留まり、霊夢と取り留めの無い雑談を交わした。霊夢は相変わらず、箒を使って掃除の真似事の様なことをしながら、雑談に取り合ってくれた。天気のこと、気温のこと、魔理沙の行方――そんなことを話題にしながら。

 およそ三十分が経過した時、アリスは霊夢と別れた。アリスにはアリスの、霊夢には霊夢の事情と言うものがあり、この三十分と言う時間は二人の都合に上手く合致する時間であった。
 長い階段をゆっくりと下り切った所で、ふとアリスは足を止めた。空を見上げる。陽はまだ高い。一日と言う限られた時間に、まだまだ猶予がある。魔理沙の家へ立ち寄ってみようと思った。霊夢が随分心配していたものだから、何だかこちらまで心配になって来てしまった。どうせなら、お裾分けの時に彼女が置いて行った籠を返却したい所であったが、一度家に戻ってまた出掛けるのは大儀であったので、直行することにした。
 逸る気持ちが歩行と言う手段を奪った。アリスは空を飛んで、早々と霧雨邸を目指した。鬱蒼と広がる魔法の森を空から見やる。見慣れた景色だ。霧雨邸がどこの辺りにあるかも、おおよそ見当がつく。アリスは脇目も振らず、その目星を付けた地点へと降り立った。狭苦しい木々の間隙を上手くすり抜け、無事に着地する。肩や髪にくっ付いた葉っぱは人形を用いて払い落した。一息ついて、辺りを見回す。果たして霧雨邸はすぐに目に入った。廃材が乱雑に置かれている裏口が見える。感覚に狂いは無かった様だ。
 アリスは早歩きで、木々の合間からその姿を覗かせている霧雨邸を目指した。白い壁と黒い屋根と言う建造物は、魔理沙の普段着ている服そのままで、嫌でも彼女のことが連想されてしまう。着地地点から霧雨邸へは距離にして僅か百五十メートル程度のものだが、それだけの距離が随分と長く感じられた。
 我が家がそうである様に、霧雨邸の周囲も木が倒されていて平地が形作られている。木々によって狭められている視界は、家屋に近付くことでたちどころに開ける。
 霧雨邸の裏口に到達すると、すぐに何者かの声が聞こえた。若い女の声だ。玄関の方から聞こえて来るが、何を言っているかまでは聞こえない。しかし、裏口まで届いているから、声量だけは立派なのは確かだ。怒鳴っている様な印象を受ける。
 アリスは、一応従えた人形達で臨戦態勢を作って玄関口へ向かって歩き出した。少しずつ声は大きく、鮮明に聞こえて来る。それに伴い、足取りも気持ち慎重に、ゆっくりと、潜める様な感じを心掛けた。段々と大きく聞こえて来るその声は、あまり愉快な調子では無いからだ。
 霧雨邸の側面の壁に身を隠し、アリスはちらりと玄関口の様子を窺った。目に入ったのは、全体的に青色で纏まった少女だ。背丈はあまり大きくない。肩にポケットが付いた水色の衣服、やはりポケットが――今度は大量に――付いた水色のスカート、同色の長靴。背中には緑色の大きなリュックサック。これまた水色の帽子の下からは、青色の髪で作った短めのツインテールが飛び出している。何やら喚きながら玄関扉を叩く手には黒色の指抜き手袋がはまっている。
 思わず胸を撫で下ろした。見知った者だったからだ。
 険しい表情を浮かべて頭上、肩、右足元に配置していた人形達の臨戦態勢を解く。人形達はいつもの穏やかさを取り戻した。なるべく自然な風を装って、家の影から姿を見せた。しかし、先客はこちらに気付いていない様子だ。
「にとり? 何してるの?」
 頃合いを見計らってアリスが声を掛ける。先客――河城にとりは、やけに勢いよくこちらを向き直して来た。ふわりとしたツインテールがぶんと空中で荒ぶる。にとりは、まるで人見知りの猫の様に目をまん丸くしてこちらを見ていたが、やがてほぅと安堵した様に息を吐いた。
「アリスか。奇遇だね」
「あなたも魔理沙に会いに?」
 宴会で知り合い、横紙破りの魔理沙にいろいろと苦労を強いられて来た仲だ――アリスは気さくに話し掛ける。にとりはこっくり頷いた。
「そうとも。盗まれた工具をそろそろ返して貰わなくちゃと思ってね。……だけど駄目みたい」
 そう言い、大袈裟に肩を竦めて、親指で玄関扉を指し示して見せた。玄関に向かって声を張り上げていたのはこの為か。
 その直後、アリスはようやくにとりの傍に立ったのだが、そこである奇妙な光景を見つけた。遠くからでは見えなかったが、庭先に飾られている大きな植物の陰に、妖精が四名腰を降ろしていたのだ。こちらに好奇の眼差しを送って来ている。にとりがそれに気付き、ああ――とぼやいて、「先客だよ」と簡素な紹介をした。
「この子たちも魔理沙に会いに?」
 アリスはにとりに問うた。にとりは首を縦に振った。
「私が来る何十分も前からここに待機してたんだってサ」
「留守だと分からなかったの?」
「確認した上で待ってたみたい」
「じゃあ留守と分かっててあなたは玄関を叩いていた訳?」
「魔理沙のことだからね。居留守決め込んでるかもと思ったんだよ」
 あっと言う間に納得出来た。ああ、分かるわ――とぼやくと、にとりはそうでしょ――と、苦笑を浮かべた。そのままの表情で肩を竦めた。
「だけど、駄目だね。本当にいないみたいだ」
 にとりは親指で玄関扉を指し示した。扉を見やる。精密にその形状を覚えている訳ではないが、一見すると前と何ら変わり映えしない、ごく普通の木製の扉だ。この板チョコみたいな色と形がいいんだと、魔理沙が嬉しそうに語っていたのを思い出した。
 アリスは失礼――と一言添え、扉へ歩み寄った。にとりが一歩退いて場所を譲ってくれた。
「無駄だと思うよ」
 にとりが諦めの強い声色で言う。確かに、魔理沙が居留守を決め込んで中に籠っているとして、あそこまで派手に扉を叩いているのを我慢出来るとは思えない。恐らくいないのだろう。しかし、一応確かめておきたく思った。
 アリスは扉の前に立ち、佇まいを直した。
「お、おい。まさか蹴破ろうとかそんなこと考えてるンじゃないだろうな?」
 慌てた口調でにとりが口を挟んで来た。
「そんなことする訳無いでしょ」
 ちょっとだけ語調を強めてしまった。この河童は私を何者だと思っているのだろう。
 右手をすっと差し出し、軽く握る。曲げた中指を少しだけ前面へ突き出し、第二関節の所で扉を叩く。コンコン――と、にとりが打ち破らんばかりの勢いで扉を殴っていた時よりは、幾分か上品な音が鳴った。しかし、それに追随する音は、家屋内から聞こえて来ない。吹き抜けた風が奏でる葉擦れの音ばかり空しく木霊する。
「魔理沙! いないの?」
 アリスは声まで上げた。瞬く間の騒然さ。そこからまた森の静寂へと帰すると、その静けさが一層際立つようだ。その場にいた六名は一様に耳を欹て、中から何か音がしないものかと待機した。

「いらっしゃい。団体客かな?」
 背後から突然頓狂な声がした。驚きのあまり、心臓がぎょくんと跳ね上がった。
 アリスは即座に後ろを振り返る。河城にとりも、見知らぬ妖精達も、全員声のした方を向き直していた。
「魔理沙っ!」
 にとりが驚きの声を上げ、待望の霧雨魔理沙に駆け寄って行く。それに四名の妖精がわっと追随した。
「何だよ、えらく盛大に歓迎してくれるな。ここは私の家なのに」
 魔理沙は困惑している。無理も無い。恐らく帰宅したのであろうが、それだけでこんなにも待ち侘びていたかの様に群がられては、惑いもするだろう。ただでさえ一人暮らしで、人肌恋しい身分であるだろうから。
 アリスも少し遅れて、ゆっくりと大集団に向かって歩み出した。
「何処へ行ってたんだよ」
 にとりが憤然と尋ねている。魔理沙は困惑の色を更に強めた。
「どこって、別に? 仕事してたんだよ、仕事。雨漏りを直してたの。そうだ、丁度資材が足りなかったんだ。後で木材を都合してくれよ」
「雨漏り? あなた、いつから大工なんて始めたのよ」
 遠巻きにアリスが尋ねる。魔理沙はこちらを向いた。
「私は何でも屋だからな。頼まれれば何だってやってみるんだよ。……いやまあ、実の所『家の中に雨が降るからどうにかして欲しい』とか面白そうな依頼を受けて現場に行ったらただの雨漏りだったと言うオチなんだが」
 こう語る魔理沙は、何だか楽しそうに見える。何にせよ、元気そうだから何も心配することはあるまい。霊夢の杞憂に過ぎなかったのだ。アリスは安堵し、ふっと息をついた。

 魔理沙は詰め寄るにとりを引き剥がし、玄関扉へ向かって駆ける。にとりはそれを追う。妖精四人もせかせかとそれに追随する。その様相は、まるで鴨の親子だ。アリスは思わず笑みが浮かべだ。
 魔理沙は玄関扉の鍵穴に鍵を差し込んで解錠し、扉を開けた。相変わらず汚い部屋だ――と自虐を一つ挟んだ後、くるりと後ろを振り返った。
「さて。客が多いな。どいつが一番初めに来てたんだ?」
 にとりの後ろに立っていた妖精集団が口々に「はーい!」と喚き散らし、手を上げたりその場で跳ねたりした。途端ににとりが渋面を作った。あわよくば割り込もうと思っていたに違いない。
「私が最後。にとりが二番目ね」
 アリスがそっと手を上げて言い伝える。
「妖精達、にとり、アリスだな。分かった。順番に対応するからな。プライバシーの問題があるから、お前達は悪いけどそこで待っていてくれ」
 魔理沙はそう言うと、妖精達を家の中へ招き入れた。「お邪魔します」「結構狭い」「暗い」「もっとお掃除しなきゃ駄目なんだよ」「余計なお世話だ」――こんな言葉が飛び交っていたが、次第に扉が閉まって聞こえなくなった。
 沸いた様に賑やかになり、そして静かになってしまった霧雨邸の庭。にとりが面倒くさそうに頭を掻き、そこいらをうろついた末に、玄関扉の横の壁に背を預けた。消極的にではあるが、中の会話を盗み聞きしようとしている風に見える。
「魔理沙、何だか忙しそう」
 しばらく経ってから、暇を潰すべくアリスが開口した。急に話を吹っ掛けられたことに驚いたのか、にとりは少したじろいだ後、うん――と頷いた。
「忙しそうだね。何だろう、妖精の客を捕まえる術でも見つけてボロい商売でも始めたのかな」
 腕を組み、神妙な面持ちでにとりが言う。
「どうしてそう思うの?」
 アリスが疑問を口にする。にとりは、面持ちはそのままで、商談が行われているのであろう方を向いて言った。
「家ン中に雨が降ると言うから、現場に行ってみたらただの雨漏りだった――こんなお粗末な勘違いするやつ、幻想郷のどこを探したって妖精くらいのもんだろ?」
 こう言うにとりの声からは嘲りの色が感じられる。印象がどの様なものであれ、彼女の言うことは確かに的を射ている。
 思い起こされるのは、魔理沙が博麗神社で妖精達の依頼を受けたと言うことである。もしかしたら魔理沙は、本当に妖精達から贔屓にされ始めたのかもしれない。――別段用事を持たずにここを訪れたが、一つの話題を獲得出来た。

 話題を転換しようと思案している最中、玄関扉が開いた。にとりは驚き、逃げる様に扉から遠ざかる。妖精達がぞろぞろと出て来た。皆、表情が明るい。それを追う様にして玄関口に魔理沙が現れた。妖精達はきっちり横一列に並んで、深々とお辞儀をした。
「それじゃあ、よろしくお願いします!」
 右端に立っている妖精が快活な声でこう言った。緑色の薄手のワンピースに、若草色のサンダル。墨色の長い髪がお辞儀に合わせてさらりと揺れる。随分仰々しい態度をとられた魔理沙は少しばかりうろたえながらも、何とか霧雨魔法店店主の威厳を保ち切った様子だ。ちゃんと謝礼は払えよ――とか、そんなことを厳しい口調で言い付けている。妖精達は間延びした返事をして、四人そろって去って行く。果たして謝礼の約束は果たされるのだろうか。
 去って行く妖精達の後ろ姿を見送り、アリスは再び霧雨邸を見やった。
「次はにとりだな」
 魔理沙は、玄関扉に程近い所に突っ立っているにとりを見て言った。にとりは少しばかりぎこちない笑顔を浮かべた。盗聴未遂の罪悪感があるに違い無い。
 にとりはすぐに霧雨邸へ入ろうとはせず、ちらりとこちらを見て来た。何だか表情が冴えない。
 河童の行動の意図が読めず、アリスは首を傾げて見せた。
「どうしたんだよ。早く来いって」
 魔理沙がにとりを催促する。彼女もやはりにとりの挙動に疑問を抱いている様で、随分怪訝そうな顔をしている。それでもにとりはその場を動かない。動けない――と言った方が正しい様に見える。浮かない顔をして、魔理沙とこちらを順繰り見回している。
 その様子を眺めている内に何となく彼女の心理が読めた気がした。盗聴未遂の現場を見られた彼女は、私に対して負い目を感じているのではないか。
「早く用事を済ませて頂戴」
 アリスは努めてたおやかな声でにとりに言った。にとりの喉仏がぐりりと動いたのが微かに見えた。私は何も気にしていないと言う意思表示のつもりだったが、あまりにもあからさまだっただろうか。
「アリスも来なよ」
 唐突ににとりが開口した。驚きのあまり「えっ」と声を上げてしまった。
「どうせ聞かれてマズイ話なんてしないし、庭先で待ってンのもいい加減疲れたでしょ。ねえ、魔理沙、別にいいだろ?」
 にとりは玄関口に立っている魔理沙の方を見やった。魔理沙は一も二も無く頷いた。
「アリスがいいなら私は構わないよ。どうだ、アリス?」
 きっとにとりは密告を牽制したに違い無い。そんなに用心深くならなくても、告げ口などするつもりは毛頭無い。しかし、屋内に入れて貰えるのなら、それは実にありがたいことだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」
 アリスはにっこり微笑んで、スキップの様に軽快な足取りで霧雨邸の玄関口へ駆け寄る。にとりは疲労感の包含された息をつき、玄関口へ歩み寄る。魔理沙は何も気にしていない様で「ようこそ、霧雨魔法店へ」と、満面の笑みを浮かべて客人を迎えた。



*



 霧雨魔理沙の背を追い、河城にとりは霧雨邸へ踏み入った。久しぶりに訪れた霧雨邸を、にとりはじろじろと観察した。
 立ち入って最初に来る部屋は横長の長方形をしている。正面には扉――寝室に繋がっているが、今は閉まっていて先が見えない――がある。左手側の突き当たりには窓がある。右よりもこちらが奥行きがある。窓へ至るまでの間には本だの石だの小物だの、いろんな物が置かれている棚が並んでいる。右手側には大きなテーブルが置いてあり、その先には台所へ至る入口がある。テーブルはまるで家屋の縮図の様な雑然さだ。ビーカー、フラスコ、アルコールランプ、鍋、小さな壺、大量の書類、分厚い本――そんなものが広がっている。商談はここで行われるのだろうか。
「相変わらずごみごみとした家だなァ。お前さんには整理整頓って概念は無いのか」
 にとりが毒づいた。
「おいおい、お前に言われたくないぞ」
 台所から魔理沙の声が聞こえた。確かに、ここを嗤える程私の家は綺麗じゃない。返答に窮し、黙り込む。後ろからアリスの控え目な笑い声が聞こえた。この人形師の家へ行ったことは無いが、何となく整理整頓について言い争っても勝てる気がしないので、突っ掛かるのは止めておいた。
 にとりはテーブルへ歩み寄り、書類に目を落とした。天狗達が書いている新聞と同じくらいの大きさの紙に、奇怪な魔法陣や図式、数式がぎっしりと書かれている。魔法の心得がまるで無いので一つとして理解が出来ない。
「ねえ、アリス。これ何か分かる?」
 宴会などで見知った仲でありながら、アリスの魔法使いとしての能力と言うものをいまいち知らなかったので、試す様な気持ちで問うてみた。アリスは「どれどれ」と言いながらこちらへ歩み寄って来た。すぐに場所を譲る。アリスが広げられている紙を覗き込んだ。顎に手をやって「ふーん」とか「へえ」とか「ああ」とか、神妙な面持ちで呟いている。
「何なのか分かる?」
 にとりが糺す。それでもアリスは難しい顔をして、
「分かるけど、何と説明してあげればいいのやら」と一言。それっきり黙り込んでしまった。
「おいおい、あんまり人の研究をじろじろ見るんじゃない」
 悠長にしていた所為で魔理沙が来てしまった。手にはお盆を持っていて、お茶らしい液体が入ったコップが三つ載せられている。そのお盆をテーブルに置くと、難しい顔をして紙面を覗き込んでいたアリスを押し退かした。それから素早く書類を纏めた。
「企業秘密、トップシークレットの類だぜ。盗み見は重罪だ」
「こんなにもオープンなトップシークレットがあってたまるもんですか」
 アリスが呆れた様に言った。
 纏めた書類を棚へしまい込むと、「適当に座ってくれ」と魔理沙が言った。テーブルと椅子を見やる。テーブルは四隅が丸められた四角形の様な形をしていて、人間の大人が長い辺に沿って寝転んだら、膝の裏に淵が来るくらいの大きさだ。その状態で端から端まで目一杯使えば、寝返りも打てそうだ。
 椅子の配置は、台所寄りの方へ一つ、その反対側に三つ。どれもこれもデザインや材質が統一されていないのは、急ごしらえで数だけ用意した所以であろう。
 ちらりとアリスの方へ目をやる。目が合った。
「ああ、私はどこでもいいわ。お先にどうぞ」
 アリスが身を引き、手で椅子を指し示した。円滑に事を進めるべく、ここは好意に甘えることにした。
 三つ並んだ椅子の真ん中に腰掛ける。続いてアリスが、私の左隣に腰掛けた。それと同時に魔理沙が窓側の棚から戻って来て、研究用具を壊さない様には留意しつつも豪快にテーブルの端っこへ押し退けた後、お茶を配って、台所側の椅子に座った。長らく外で待たされていたから、丁度喉が渇いていたのだ。脇目も振らず、一気にお茶を飲み干した。
「さて! 大変長らくお待たせてしまって大変申し訳無い。改めて霧雨魔法店へようこそ! 今日はどんな御用でここに?」
 魔理沙が啖呵を切った。
 ちらりとアリスを見やる。また目が合ってしまった。アリスは微笑み、そっと手を差し出して「どうぞ」と意志表示して来た。前々から思っていたが、実にしっかりした女の人なんだと思う。
 にとりは会釈して、空咳を一つ介した後、今日ここを訪れた用件を語った。
「工具か。そう言えばお前からの借り物だったな、あれは」
 魔理沙はあっけらかんと言い放つ。
「盗んだんだろ。そろそろ返してくれないと私が困る」
 にとりがやや強い口調で言う。すると魔理沙は苦笑して、まあまあ――と両掌を見せて来た。
「返してやりたいのはやまやま、丁度工具を使う必要性が出て来てしまったんだよ」
「何だよそれ」
 にわかには信じ難い話だ。返せと言いに来た途端に使う必要が出て来た、だなんて。
 にとりが懐疑的な眼差しを魔理沙に向ける。すると、横から擁護する様にアリスが口を開いた。
「さっき言っていた雨漏りの話?」
 魔理沙が「そう。そうなんだよ!」と頓狂な声を上げた。
「それもあるんだが、それ以外にもいろいろ使う場面が出て来ちゃってんだ。窓枠とか、扉とか、郵便受けとか、鳥籠とか」
「そんなのじゃァ本当にただの大工じゃないか。何でも屋だから何でもするのは分かったけど、不自然すぎるよ」
にとりはこう指摘した。魔理沙は苦笑し、肩をすくめた。
「別に大工しかやってない訳では無いよ。他の仕事だってある。……まあ、とにかく、今はどうしても必要なんだ。もうちょっと辛抱してくれ」
 魔理沙は神仏でも拝む様にパンと両手を合わせた。釈然としないが、誤魔化そうとしている様子も無いから、黙認してやることにした。
 勢いを削がれてしまい、にとりは決まりが悪くなって、ふんと熱っぽい鼻息を漏らした。
「お茶飲む?」
 気を遣ったのか、魔理沙が尋ねて来た。いらない――と、にとりは首を横に振った。
「ねえ、随分とご依頼が立て込んでいる様だけど、もしかしてお客は全員妖精なの?」
 アリスが不意に開口した。何だかこの場を取り繕うかの様な、演技めいた調子が感じられた。
「そうとも。よく分かったな」
 魔理沙が頷いた。どうやら、妖精を得意客にして商売していると言う憶測に間違いは無かった様だ。
「どうして急に妖精を? 何か阿漕な方法でも見つけたの?」
 興味と期待が入り混じった様な声色でにとりが問う。魔理沙は首を横に振った。
「いやいや、そんな悪辣な真似はしてない。ただ、妖精の客が急に増えたってだけで」
 何で急に増えるんだよ――と問い質そうとしたが、
「神社での一件が効いたのかしら?」
 アリスに阻まれた。言下に彼女はお茶で喉を潤わせた。
「今の所そうとしか思えんな。明らかに変化があったのはあの日からだし」
 魔理沙は屈託なく笑って言った。心底嬉しそうだ。
 神社での一件と言うのが分からないので、にとりはそのことを尋ねた。魔理沙は懇切丁寧に事のあらましを説明してくれたので、大体の事情が掴めた。
「へえ。そんな簡単に贔屓される様になるなんて。羨ましいもんだ」
 便利な――筈の――機械製品を作っても、どうも皆に評価されないものだから、魔理沙の躍進は妬ましい程に羨ましく思える。これが何でも屋と小間物屋の差なのだろうか。いやいや、きっと幻想郷が時代に追い付けていないだけだ。
「だけどあんまり無理はしちゃ駄目だよ」
 にとりは魔理沙に忠告する。
「おいおい、お前に言われたくないぞ」
 魔理沙は苦笑した。無理してるからこそ心配してあげてンだよ――と付け加えたが、分かってくれていない様子だ。
けらけらと笑った後、お茶を飲んだ。
「しかし、とてつもない盛況ぶりね。神社に行けなくなるくらいなんて」
 アリスが言う。
「もう妖精達はあなた無しじゃ生きていけないのかもしれない」
「大袈裟なんだよ、お前は」
 魔理沙は苦笑を交えて言った後、
「ところでアリス、お前は何をしに来たんだ?」
 こう続けた。急に自分に話題が移ったのを、アリスは少しばかり驚いている様子だ。四分目くらいまでお茶が入ったコップを弄びながら、
「霊夢に会いに行ったら、最近あんまり姿を見ないって言っていたから、様子を見に来ただけよ」
「何だいそりゃ。死んでるとでも思ったのか?」
 魔理沙が呆れた様に言う。
「私は思わなかったけど、霊夢は思ってたかもね。あの様子だと」
 博麗霊夢とは宴会で度々会うし、いつぞやかには起きた異変では河で弾幕を交えたこともある。他人を心配する様な玉じゃ無い様に記憶している。
「あの霊夢がそんな心配をするのか。人ってのは分からないモンだね」
 にとりは感慨深げに頷きつつ言った。
「少なくとも河童よりは分かりやすい生き物だと思うぜ」
 すぐさま魔理沙が悪態をついてきた。アリスはくすくす笑っている。魔理沙に同意しているのか、ただ単に可笑しいだけなのか。
 二人は霊夢を話題にして雑談を始めた。博麗霊夢と言う人物を全く知らない訳ではないが、二人程の情報を持ち合せている訳でも無い。博麗の巫女の知られざる事実を聞いている分にはなかなか面白いので、しばらくにとりは耳を傾けていた。しかし、それ程時を待たずして、飽きて来た。
 当初の目的が達成出来そうに無い上に、魔理沙がご多忙の身とくれば、さっさと退散してあげた方が彼女の為にもなる。長居する必要も全く無い。帰ることにした。
「そろそろ私は帰ろっかな」
 にとりはそう言って席を立った。二人は会話を中断し、こちらを見て来る。アリスが気を遣って席を立ち、道を開けてくれた。ありがとう――と小さく礼を言い、テーブルを離れる。続いて魔理沙も立ち上がった。
「すまんな、にとり。工具はまたその内返すから」
 魔理沙の口から「その内返すから」なんて言葉が出るのが驚きだ。
「うん。まあ、待ってるよ。あ、でも絶対壊すなよ!」
 魔理沙は任せておけ――と、胸をトンと叩いた。ちょっと不安だ。
 にとりは茶と時間を割いて貰ったことに簡素な礼を言い、玄関へ向かった。魔理沙とアリスが後ろから付いて来た。見送ってくれるらしい。
「ねえ魔理沙、私も帰った方がいいかしら? 忙しいんでしょう?」
「そうだなぁ。……今日の所はそうしてくれた方が助かるかな」
「そう。それじゃあそうするわ」
 こんな会話が聞こえて来た。冗談でも誇張でも無く、本当に魔理沙は忙しいらしい。

 玄関扉を開き、外へ出る。元々日光の入りが少ない魔法の森は相変わらず薄暗い。人々の営みと言うものからも隔絶されているから、景色がほとんど代わり映えしない。時間の経過と言うものがほとんど感じられない。本当に魔理沙の家で過ごした時間と言うものが存在したのか? ――おかしな衝動に駆られて後ろを振り返った。そこにはしっかりと霧雨邸があり、魔理沙とアリスがいる。
「帰り道、気を付けろよ」
 魔理沙が言う。
「うん。ありがとう」
 ぼんやりとした頭でそんな返事をした。気を付けるべき対象など見当が付かないと言うのに。
 何だか、思考が覚束ない。ここは魔法の森にある魔理沙の家で、初めて訪れる場所では無い。この場にいるのは見知った魔法使い二人で、初めて会う人でもない。それなのに――この違和感はなんだろうか? まるで、異界に迷い込んだかの様に、いろんなものが私を惑わせて来ている様な、この感覚は。
 魔理沙が変わったからだろうか――と、にとりは見当を付けた。いつも暇そうで横暴な少女だった彼女が、多忙で気優しい少女に変貌した。その影響なのだろうか。――いやいや、たったそれだけのことが、こんなにも感覚を狂わせるものだろうか。

「あら!」
 アリスが素っ頓狂な声を上げた。訳の分らぬ空想の海からにとりは瞬く間に摘まみ出され、弾かれた様に顔を上げた。雑然と立ち並ぶ木々の間隙に、微かに人影が見えた。段々とそれは明瞭になって来て、次第に完全にその全貌が露わになった。妖精だ。
「新しいお客さんね」
 アリスがくすくすと笑っている。参ったな、こりゃ――と、魔理沙は頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
 先程のおかしな感覚の影響もあって、魔法の森がえらく不気味な場所の様に思えて来たので、私はさっさとこの場を立ち去ることにした。
「そんじゃ、お仕事がんばって」
 にとりはそう言い、そそくさと歩み出した。歩調が速い。
「またな!」と後ろから魔理沙の声が聞こえてきたが、振り向くこともしてやれなかった。
 新しい客人たる妖精とすれ違う。人数は三名。セーラー服の青を赤にとっ替えた様な服の短い茶髪の子。濃い紫のイブニングドレスの裾を手で引き千切った様な衣装の長い黒髪の子――こいつは妖精にしては背が高い。それから、白いブラウスに黒のスカートと服装は地味ながら、オレンジ色のツインテールが特徴的な子。
 皆一様に目を輝かせている。彼女等もまた、霧雨魔法店と言う、いろんな願い事を叶えてくれる夢の様な場所に魅せられた者達なのだろう。お菓子の家を見つけたヘンゼルとグレーテルの様な感動。そんな、希望に満ちた目。こんなにも薄暗くて変てこな森で。
 にとりは身震いをした。更に歩調を速め、一秒でも速く魔法の森を出ようと腐心した。懸命に木々のまばらな場所を探した。魔法の森を空から抜けるには、緑の薄い場所を探さねばならない。不用意に抜けようとすると、瘴気で異様な進化を遂げた木に掠め取られてしまうのだ。
 森はどれだけ歩いても薄暗い。心なしか闇が深まって来ている気さえする。視線を空に向けてみても、外と中を隔絶せんばかりに犇めく深緑が映るだけで、空の模様など見えない。
 にとりは身震いした。ぐるぐると辺りを見回す。どちらを見ても黒に近い緑が視界を埋め尽くしてくる。先程感じた不可解な薄気味悪さが段々と色濃くなって、心の中に浸透し始めて来ている。おかしいのは私じゃない。間違い無く、この森だ。
 堪え切れなくなって、にとりはとにかく森から速く抜け出してしまおうと思い、駆け出そうとしたのだが、
「あのぅ」
 不意に声を掛けられ、思わず急停止した。よもや悲鳴を上げてしまう所であったが、それは堪えることが出来た。
 一人の妖精がいた。クリーム色の布切れを繋ぎ合せた様な粗末なワンピースを身に付けている。どうしたものか裸足だ。茶褐色の長髪は好き放題に伸びていて、後ろ髪は尻にまで届いている様だし、前髪はもう少しで目を完全に覆い隠してしまいそうだ。
「ど、どうしたんだい?」
 にとりは恐々と尋ね返す。髪に隠れそうな双眸は眠たげな半開きだ。
「霧雨魔理沙と言う人の所へ行きたいのですが、どっちか知っていますか?」
 妖精は消え入りそうな声で言った。また魔理沙なのか――にとりの心臓がばくばくと脈動する。この心拍は一種の警鐘だと思う。本能がこの妖精を恐れている。妖精如きに、慄いている。
 にとりはぎこちなく、今歩んで来た方向を指差した。
「あっちの方にあるよ」
 呂律が上手く回らない。茶をがぶ飲みして潤った筈だった口の中はすっかりカラカラになっている。しかし、妖精には何とか伝わったと見え、妖精はぺこりとお辞儀をした。茶褐色の長髪が荒々しくなびいた。
「ありがとうございます」
 そう言うと妖精は歩き出し、私の横を通り抜けて行った。霧雨邸へ向かうに違い無い。
 にとりは振り返り、一人ゆっくりと歩いて行く妖精の背中を見やっていた。しかし、それが黙視し難い程に小さくなるまでは耐え切れず、前を向き直して歩み出した。
 倒木、落ち葉、朽木、切り株――雑多なオブジェクトはあれども、全ては森に纏わるものであり、森を素として形作られている物。どれだけ歩いても、似た様な景色が続いた。何もかもが単調だ。見えるものは森の一端ばかりで、聞こえてくるのは葉擦れと自分の足音ばかり――。
 そんなことを考えた瞬間、右から茂みが揺れる音がした。神経が針の様に尖っている状態のにとりは、そんな音を聞いただけであるのに、まるで銃声でも耳にしたかの様に飛び上がった。音がした方を見る。樹木の陰からひょっこり姿を現したのは――妖精だ。三人いる。一人は赤い服、もう一人は緑の服、最後の一人は桃色の服。何やらわいわい話ながら、およそ私が歩んで来た方へと向かって歩いて行く。
 あんな奴らに構ってやることは無い――にとりは気を取り直して歩み始めた。なるべく横を見ない様に。なるべく正面だけを見て。周りに囚われない様に。
 緑と黒にまみれた森の退屈な情景を映し続けていた視界の片隅に、目が覚める様な黄色が掠った。思わず目玉はそちらへぎょろりと動いてしまう。妖精がいた。腿まで隠れてしまうくらい大きな黄色いフード付きパーカーを着ている。ポケットに手を突っ込んで、気の強そうな眼をこちらに向けている。
 にとりはそれに気付かなかったふりをして歩み続けた。視界がぼやけて来た。泣いている。涙が出て来ているのだ。恐れているのだ。この森を。何故だ? たかが森ではないか。通い慣れた、魔理沙の家がある、魔法の森。
 ――否。ここは異世界だ。最早、既知の魔法の森ではない。

 何者かに追われているかの様に、にとりの歩みは速くなる。森の情景が高速で移ろう。移ろう先は同じ様な景色だが――いつも何か、森の一端とは思えぬものが配置されているのだ。それは、赤だったり、青だったり、黄だったり、翠だったり、白だったりする。色は万別だが、共通していることがある。妖精である――と言う点だ。
 もうにとりは目を瞑りたい衝動に駆られた。ぼろぼろと涙を零しながら、ひぃひぃと息を荒げて――遂に森を駆け抜け始めた。超高速で移ろい、揺れる森の情景。しかしそこにはやはり妖精がいるのだ。ある者は突っ立ち、ある者は倒木に腰掛け、ある者は朽木に背を預けて、とにかくこちらを見ている。
「何なんだよ」
 恐怖と怒気を綯い交ぜにした声でにとりはぼやく。しかし、声が届いていないのか、興味が無いのか、妖精達は微動だにしない。私は何をこんなに恐れている。何をこんなに怒っている。妖精なんて自然さえあればどこにでもいる様なありふれた生命だ。魔法の森だって、静謐とは言い難いが、森なのだ。に妖精がいても、何も不思議なことは無い筈だ。
 無い筈なのに――今はどうしてもそう思えない。こいつら、どうしてこんなにもこの森にいやがるんだ。

 息も絶え絶え走り続けていたにとりは、遂に白い光を目に捉えた。ゴールが見えて、走る速度が更に増した。白い光に誘われる様に空へ舞い上がり、にとりはようやく魔法の森を脱した。
 空はどんよりとした雲に覆われていた。魔法の森がいつになく暗く感じたのも、きっとこれの影響だろうと思った。
 目元や頬に付いた涙を手の甲でごしごしと拭いとった後、にとりは魔法の森を見下ろした。一見すると禍々しい木の葉が海の様に広がっている、実に暗澹とした場所だ。しかしその実、今やあの中には色とりどりの妖精がいる。鬱蒼としている森には丁度いいアクセサリーじゃないか――森を歩むことをせず、そんな話だけを聞いていただけだったら、こんな風に捉えることも出来たであろう。
 にとりはふらふらと自宅に向かって飛び始めた。もう森など見ていたくも無い。努めて視線を真正面に固定した。少しだけ魔理沙やアリスのことが気掛かりだった。だが、私がこれだけ尋常でないものを感じたと言うのに、二人は別に変わった様子を見せていなかった。これが森に住む者と、部外者の差だろうか。
 にとりはそこで考えるのを止めた。目をぎゅっと閉じて、ぶんぶんと首を横に振った。――もう、そう言うことにしておいてしまおう。次に目を開けた時には、もう魔法の森を目路に捉えることが出来ない場所まで到達していた。にとりは息を吐き、ぐんとスピードを上げた。



*



 可愛げの無い目覚まし時計の嘶きを、霧雨魔理沙は迷惑そうに唸りながらストップさせた。すぐにはベッドから脱さず、寝具の中にぼんやりと籠った。耳を欹ててみると、雨音が聞こえた。
「おいおい、今日もなのか」
 うんざりとした口調で独り言を漏らす。言下に掛け布団を蹴り飛ばし、ベッドから降りた。うんと背伸びをし、寝室の窓から外を見やる。やけに白っぽい雨が降っている。所謂『霧雨』と言う奴だ。
 魔理沙は寝起きの働かない頭のまま、ぼーっと窓を見ていたのだが、ややあってふらふらと窓に近付いた。外をよく見てみる。
「うひゃあ。すごい霧雨だな」
 感嘆の声を漏らした。雨粒が極めて細かい。こんなにも綺麗な霧雨にはなかなか出会えないだろう。三日も雨が続いてうんざりしたばかりだったが、こんなにも綺麗なものに出会えるのなら、雨と言うものも悪くないかもしれない。
 寝室を出て、先ずは台所へ向かった。乾かしたまま置きっ放しにしていたコップに作り置きのお茶を注いで一杯程飲んで、その後顔を洗った。洗い終えてからタオルの準備を忘れていたことに気付いた。顔を水で濡らしたまま寝室へ駆け戻り、箪笥から適当なタオルを引っ張り出して顔を拭いた。睫毛に付いていた水滴まで取れて、視界が良好になる。視線が自然と窓へ行った。美しい白い霧雨が見える。揺曳する細かな雨滴がゆるゆると宙を行く。動くに連れて濃淡に変化が芽生え、この家屋を囲繞する木々が少しだけ見える瞬間がある。白ばかりの景色だからであろうか、気まぐれに目に飛び込んで来る緑色はやけに鮮明に見えた。とても綺麗だ。今までこんなにも綺麗な魔法の森を見た記憶が無い。まるで、世界が変わったみたいに、美しい。
 しばらくの間、白亜の世界に見惚れていたのだが、次第にこんなことばかりしていられないと気付いた。
 寝室を出て、再び台所へ赴く。食材を入れている棚を見やる。途端に思わず「げげっ」と唸ってしまった。
 少しだけ開いた観音開きの棚の扉を全開にする。一見空っぽ同然の棚は、開け放ってみてもやはり空っぽ同然だった。研究やら、立て込んだ依頼の達成やらに没頭していた所為で、食材の備蓄がほとんど無くなっていたことを失念していた。元々食材の保存に向く様な環境では無いから、買い置きはしない主義なので、小まめに買い出しに行かないとこう言う状態に陥ってしまう。
 幸いにして朝食一回分くらいは賄える程の食糧があった。名も知らぬが美味いことだけは知っている木の実、『タッパー』と呼ばれる外界の利器に入れられた、全長十五センチくらいのぶつ切りにされたベルトみたいな薄っぺらい干し肉が一枚。それから卵が一つと、厚さ二センチ程のパンが一枚。一つ一つをよく調べた結果、黴などは生えていなかった。全部食べても問題無い状態だ。
 先ず、小さめのフライパンを火に掛けた。それからマジックアイテムの応用で自作したトースターにパンを投げ込んだ。目盛りを適正な値にセットする。すぐに中のコイルが真っ赤に焼け始めた。今日はキゲンがいいみたいだ。
 よくやったぜ――とトースターにウィンクなど投げ掛けてやった後、主菜の調理に取り掛かる。加熱したフライパンに少しだけ油を引き、そこに干し肉を投じる。頃合いを見計らって卵を落とす。程無くしてベーコンエッグモドキが完成した。白い皿にメインディッシュを盛り付けてやる。野菜が無いので何だか見栄えが悪く見える。だが、文句は言っていられない。
 主菜を乗せた皿を一先ず端に寄せておいて、見知らぬ美味しい木の実を水で洗う。洗い終えると同時にトースターが終業の快哉を上げた。何てナイスなタイミングだろうか!
 木の実を置いて、皿を一枚用意し、トースターに駆け寄る。中からパンを取り出す。何だか黒が強い。
「おいおい、張り切りすぎだぜ」
 パンを皿に乗せる。それから、端に寄せていた主菜の皿に木の実を乗せた。フォークを一本と、二枚の食器を持って、愛用の散らかり放題のテーブルへ向かう。
 焦げ気味の主食、見た目が悪い主菜、名前を知らないデザート。これらをテーブルに並べる。実に質素な朝食だ。でも、私は元々小食だしこれくらいが丁度いいよな――思い込みの力で食を細める努力をしてみる。
 いただきます――と呟いた後、先ずフォークをベーコンエッグモドキに突き刺して齧り付いた。見た目の割には美味い。肉自体に過剰な味付けがあったのが救いだ。きっと冥界からのお裾分けだろう。あそこの飯は味付けが濃いから。
 主菜の齎した塩気が消える前に、パンに齧り付いた。焦げの薄らとした苦みが却っていい味を出している――様な気がする。
 ベーコンエッグモドキもパンも、あっと言う間に胃袋に収まった。ぽつねんと食器に残った、握れば手の内に隠れてしまうくらい小さな木の実から漂う哀愁が、妙に私を空しくさせた。
 木の実を手に取り、そのまま齧り付く。皮ごと食べられることは経験的に知っている。一口で半分削られてしまった木の実を見る。果肉は赤い。味はライチに近しいものを感じる。
 二口目で木の実を食べ切った。木の実を咀嚼しながら、魔理沙は二枚の食器を重ね、その上にフォークを乗せ、椅子を立った。台所へ行き、流しに置いてある水を張った桶に食器を全部滑り込ませる。付近の屑籠に木の実の種を吐き捨てた。起きてすぐに使ったものと同じコップで一杯お茶を飲むと、そのコップも桶へ落とした。桶の中の食器はたったの四つ。そこに乗せられていた内容が思い起こされる。魔理沙はげんなりと溜め息を吐いた。――洗いは昼食のものと一緒にやってしまおう。
 沈んだ気持ちを振り払う様にぶんぶんと首を横に振って、台所を出た。
 テーブルに置いていた手帳を開く。急増した依頼の仔細をメモした細かな文字を見て行く。目覚めてそれ程時間が経っていないからか、朝食が足りてないのか、何だか読み取りがスムーズにいかない。文字が虫の様に見える。今にもうねうねと動き出しそうだ。
 おかしな妄執を、一人笑って払拭し、改めて手帳に目を落とす。読み返して改めて分かることが、日常の中のささやかな困りごとの解決がほとんどということだ。それもその筈、――現段階では――依頼主の百パーセントが妖精なのだから、そんなに大それた問題事を持ち込む筈が無いのだ。かの有能な妖精である三妖精にしたって、ツチノコ退治などと言う可愛げな依頼だったのだから、有象無象の妖精達とくればこれが関の山だろう。でも、だからと言って手を抜く気などさらさらない。
 すぐに出来そうな依頼と、少し時間がかかりそうな依頼、それから私事。これら三つを効率よくタイムテーブルに配置して行く。雑然とした依頼の山が少しずつ見栄えのいい開拓地へと変貌して行く。これ程多忙だったことが今までに無かったから、これはこれで楽しく思えて来る。
 十数分で一日の予定が完成した。魔理沙は手帳をテーブルに放り、椅子を立ち、寝室へ向かった。衣装棚から白黒のワンピースドレスを引っ張り出した。傍の衣桁には同色の帽子が引っ掛けてある。緻密なスケジュールだから、すぐにでも動かなくちゃいけない。
 手早く着替えを済ませ、寝間着をベッドの脇の籠へ放り込んだ。箪笥の一番下の段を引き、マジックアイテムを見繕う。選定したそれをポケットに入れて、更にベッドの脇の小さな机から家の鍵を拾い上げ、寝室を出た。
 テーブルに置いておいた手帳を、マジックアイテムを入れたポケットとは反対の方に滑り込ませると、すぐさま玄関へ向かう。傍の壁に立て掛けた箒を引っ掴み、玄関扉を開ける。
 外は相変わらず白亜の世界だ。霧雨は私が起きた時から少しも変わっちゃいない。妙に冷たい水の粒子が、露わになっている頬や手を撫でて行く。この季節にはぴったりの天候じゃないか。
 魔理沙は玄関扉に鍵を掛けた。それから箒に跨った。ふわりと宙に浮かぶ。最寄りの外出用の緑の穴を目指して飛び出した。しかし、視界が悪いからいつもの様にとはいかない。なるべく急ぐが、しかし慎重に、魔法の森を飛行する。
 感覚を頼りに魔理沙は霧雨の中を進んだ。何かが横からワッと出てきそうなくらい、視界は白く染まっている。


 家を出て多分五分は経過した。
 おかしい。明らかにおかしい。
 魔理沙は一度飛行を止め、地面に降り立った。周囲を見回す。辺りを漂う霧雨と、その只中に佇む木々。視線を落とせば、冷たい細やかな雫にしっとりと濡らされた草花がある。全貌は見えずとも、それらは確かに見慣れた魔法の森の景色の一端であり、ここが魔法の森であることを証明している。
 一夜にして土地勘が狂ったのだろうか――目的地に辿り付けない。進めども進めども、記憶にある緑の抜け穴に辿り付かない。まさか、迷った?
 ぶんぶんと魔理沙は首を横に振る。そんな筈が無いと心の中で自分に言い聞かせる。確かに先が見えない程深い白色に辺りは包まれている。だが、夜中に外出することもあるから、この程度の視覚情報の欠如はそれ程苦にならない筈だ。森を抜け出すことが出来る、緑が薄まっている場所を感覚的に覚えている。幾度と繰り返して来たんだから、その感覚をたやすく忘れる筈が無い。
 魔理沙は後ろを振り返った。次に左を見て、右を見て、ぐるりとその場で一周回って、挙句上を見た。どちらを見ても白、白、白。霧状の雨が漂っているだけで、その先には何も見えない。東西南北、上下左右の概念は、この濃い霧雨によって封じられてしまったのだ。
 突如として、不安が津波の様な怒涛の勢いをもって押し寄せて来た。立ち止まっているだけでは何も解決出来ないことは分かっている。しかし、動き出すことが出来ない。その勇気が湧いて来ない。間違ったまま動いて、間違いを深めるのが恐ろしい。
 絶望で塗り固めた様な表情で、魔理沙は周囲をこれでもかと言う程見回した。何か、この森から脱するのに役立つ道標は無いものかときょろきょろと周囲を見回した。しかし、視界は相変わらず真っ白だ。その白を強く認識すればする程、不安は自重を持つかの様に存在感を強めて行き、心を蝕む。腹の底がずしりと重くなって行く。
 数分間、魔理沙はその場に立ち止まって辺りを観察していた。だが、視界には何の変化も無い。霧雨が晴れる気配も無い。結論として、もはや『正しい道を選ぶ』なんてことは出来そうに無いと言うことを悟った。今出来ることは『正しい道であることを祈って進む』ことくらいだ。
 魔理沙は進んで来た道を思い返した。目を閉じて、瞼の裏に自宅と周辺の地図を夢想する。培って来た感覚を頼りに進んだルートを考えて、大体自分がどこにいるかに目星を付けた。この空想が正答であることを切に祈った。
 魔理沙は歩み出した。飛行はしなかった。一歩一歩を踏み締める様に、魔法の森を進む。白亜の間隙からぬぅと姿を表す木、その一本一本を注視する。何か見覚えが無いかどうかを確かめて、道標になりえるものを探索する。残念ながら、魔法の森の木々はみんながみんな奇怪な進化を遂げているから、もはや個性など無に等しい。おかしいことが標準なら、おかしいことに意味が無くなるのだ。
 そんな調子でまるで異界から脱するかの様な緊張感を抱きながら歩くこと十分。
 霧雨の彼方に、何か森に似つかわしく無いものの巨大な影を見た。ようやく出会った視界の変化だが、こんな状況だから恐ろしさばかりが先行してしまう。
 魔理沙は足を止め、緩やかに濃淡を変化させる霧状の雨の先へじっと目を凝らした。少しだけ薄まった白の中で、その物の一端がちらりと姿を露わにした。
 刹那、動悸が激しくなった。呼吸まで苦しくなり始めた。身体の震えを感じた。
 魔理沙は呆然と歩み出した。霧雨の中に潜む巨大な異形へと少しずつ近づいて行く。そいつは視界の中でどんどん大きくなる。だが、恐れることはない。世界中、どこを探したって、『我が家』に恐れを成す様な奴はいないだろう。
 異形へ到達し、魔理沙はそいつを見上げる。ついぞ二十分程前に後にした、見慣れた我が家だ。異形と言う認識に誤りは無いと思う。この霧雨邸及び霧雨魔法店は、魔法の森と言う自然の中に造られた人工物なのだから。
 魔理沙は引き攣った笑顔を浮かべた。視界が滲んだ。涙が出て来ているのだ。帰宅することが出来た――この喜ぶべき現実を、私は恐れている。何せ私は、『自宅に戻るルート』を歩いていたつもりなんて毛頭無かったのだ。仮に――奇跡的にこの我が家へぶち当たるルートを歩んでいて、その結果帰宅出来たとする。だからと言って、家屋の真正面の、玄関扉へ続く石畳の丁度ど真ん中に到達なんてするだろうか? まるで何かに導かれたみたいに、こんなにも狂いなく、ぴったりと真正面に到着出来るものだろうか?
 魔理沙は箒を取り落としそうになるのをぎゅっと堪えた。身体の震えまでも抑えつけるかの様に。白い雨の中に佇む自宅が、もっと別なおぞましいものに見えて来る。いやいや――そもそもこの魔法の森自体が、住み慣れた森でなく、異界の様にさえ感じられた。見知らぬ世界に閉じ込められたかの様な絶望感。頭がくらくらする。
 ――落ち着け、私。
 魔理沙は先ず目を閉じた。それから、一度深呼吸をし、気持ちを落ち着ける努力をした。忌まわしい霧雨も、異界となって自分を囲繞する森も、モンスターハウスの様に思える家も、全てを視覚野から遮断した。思考を阻害されない為だ。
 頃合いを見計らい、目を開ける。雨も森も家も変わらずそこにあった。変わったものと言えば、私の心持ちくらいのものだ。
 魔理沙はくるりと振り返り、再び歩き出した。しっかりと辺りを見回して、しっかりとした足取りで。霧雨に隠れる森の一つ一つを確認しながら、緑の抜け穴を目指す。今度は迷ったりするものか。今度こそ失敗するものか。高が霧雨だ。高が天候に、惑わされるものか。
 頭の中に大まかな地図を描き、それに沿って歩を進めて行く。怪しくなったらその都度立ち止まって進むべき方角を熟考した。今までに無い程慎重に、魔法の森からの脱出を図った。

 およそ十分が経過した時。彼女が辿り着いたのは、自宅の庭先だった。白い靄の中に静かに屹然と佇む我が家は、何ら変わらない様子で目の前に現れた。玄関扉が大口に見える。今にもぐんにゃり曲がって笑みを作って「おかえり」を言ってくれそうだ。
 遂に魔理沙は箒を取り落とした。それを拾おうともしないで、やにわに我が家に向かって駆け出した。扉に衝突する様に停止すると、ポケットに手を突っ込み、鍵を握って乱暴に解錠した。蹴破らんばかりの勢いで扉を開け、後ろ手に勢いよく閉める。逃げる様に寝室に駆け込むと、靴も脱がずにベッドに飛び込み、ブランケットに包まった。そのままそこでがたがたと震えていた。
 しばらくすると、ドンドン――と玄関から物音が聞こえて来た。間違い無く、扉が叩かれた音だ。つまり、来客だ。
 魔理沙はやにわにブランケットを突っ撥ねた。また扉が叩かれた音が聞こえて来た。自分以外に、この尋常でない魔法の森にいる者があったとは。あまりの異常事態に、自分以外の誰かのことなどまるで考えが及ばなかったのだ。
 魔理沙はベッドから飛び出して玄関へ行こうとしたのだが、寝室を出る直前になってピタリと足を止めた。真正面には玄関扉があって、三度目の殴打を喰らってガタガタと揺れ、ドンドンと音を立てている。あの扉の向こうにいるのは、一体誰だ?
 魔法の森の住人は私の他にはアリスだけだ。アリスがこの異常事態を察知し、来てくれたのだろうか? あいつはこんな切迫した状況で、いちいち在宅確認をする様な玉か? 一回くらいならするかもしれないが、三度も繰り返すか? 不用心だが、ここに帰ってから鍵を掛け忘れていた。扉を叩いて、反応が無ければ強引に扉を開く――それくらいの決断力は、あいつには備わっている筈だ。しかし、今向こうにいる何者かは――今、四度目の殴打を決行した。
 魔理沙は生唾を飲み込んだ。穴が開くほど扉を睨み付けながら、恐々とした足取りで玄関扉に近付いて行く。あと五歩くらいで扉に到達すると言った頃に、五度目の殴打がなされた。思わず立ち止まり、様子を窺う。あまりにも執拗に思える。直接見て確認してやりたかったが、そうすることがここへ来て急速に恐ろしく感じられた。
「誰だッ!」
 扉に向かって魔理沙が吼えた。
「魔理沙さん?」
 声が返って来た。幼い女の子の声だ。勝手に想像していた、巨大な化け物や、狂った殺人鬼とはかけ離れた声。私のことを知っているらしい。でもだからと言って安心は出来る訳じゃない。見た目が幼くても中身は残酷な奴なんて、この幻想郷にはごまんといる。
「誰だって聞いてるんだ!」
 恐怖心を制する狙いも込めて、魔理沙はまた声を上げた。今度はすぐに返事が返って来ない。挑発する様な真似はよくなかったか――魔理沙は一人焦燥していた。その最中、
「先日お世話になった妖精――あっ、グレープ! グレープです」
 こんな声が聞こえた。グレープ――あんな即席で考え付いた簡素な名前が、まさか私をこんなにも勇気づけてくれることになるとは。
 魔理沙は一も二も無く駆け出して、玄関扉を開いた。その先には、見紛う筈も無い、あの紫色を基調とした妖精がいた。ブドウのジュースが奇跡的且つ芸術的な零れ方をして描かれた様な模様の白いブラウス。同じく紫のスカート。脛の辺りまでの長さの靴下。前髪が切り揃えられた濃紺の短髪。おっとりとした垂れ目に、青の瞳。
「おはようございます」
 何かに惑う様に幼き客人は言った。あの恐ろしき霧雨は相変わらず森に萬栄しているが、一先ず今はどうでもいい。
 魔理沙は力強く、グレープを抱き締めた。
「ちょっと、苦しいです」
 グレープは困った様に言った。しかしすぐには離してやる気になれなかった。
 しばらくしてようやく魔理沙は妖精を解放した。グレープはほぅ――と小さく息を吐いた後、後ろを振り返った。
「すごい霧雨ですね」
 彼女の冷静な一言を受けて、自分以外の誰かとこの異変を共有出来ると言う喜びから一度離れて、冷静な考えが出来る様になった。
「とりあえず上がりなよ」
 魔理沙はそう言い、グレープを家の中へ連れ込んだ。扉を閉め、今度はしっかり施錠をした。振り返ると、グレープがじっとこちらを見ていた。いちいち施錠したのが不思議なのだろうか。
「ちょっとおかしなことが起きてるんだ。これぐらい用心するに越したことはない」
 魔理沙が強い口調で言う。グレープは「そうですか」と静かに言って頷いた。聞きわけがいい子で本当によかった。
「適当に座って」
 魔理沙が言うと、グレープは最寄りの椅子に腰かけた。次いで魔理沙がそれに対面する席に腰を降ろした。いつもの商談の形式と何ら変わらない。私がキッチン側に腰掛け、その対面に客人が座る。奥には窓も見える。但し、外は真っ白だ。
「なぁ、グレープ。お前はこの森のおかしな点に気付いてないのか?」
 魔理沙が問う。妖精は首を横に振った。
「出られません」
 明快な答えが飛び出した。あまりにも明快過ぎて不気味さが際立つ。
「そうだ。出られないんだ」
 確認する様に呟いた魔理沙の声は震えている。対してグレープは酷く落ち着いている。魔法の森がどんな場所かをよく知らないからだろう。現状がおかしいと言うことにさえ気付いていないのだ。
「おかしいとは分かってたのに、ここまで来たのか」
 魔理沙はテーブルの上で落ち着きなく両手を揉み合せながら問うた。
「森を歩いている最中に霧の雨が出て来て、自分がどこにいるのか分からなくなりました。それで、帰ろうと思って引き返してもどうしても出口に辿り付けなくて……歩き回っていたら、急にここに辿り着いたんです」
 グレープはおっとりとした口調で言った後、
「どうして出られないのでしょうか?」
 こう付け加えた。実に無邪気な調子で。
「そんなの分からないよ」
 魔理沙はこう言う他無く、首を横に振った。
「初めてなんですか?」
「そうとも。こんなことは初めてだ」
「誰の仕業なのかも……」
「ああ。分からない」
 うんざりした様子で魔理沙は頷いた。グレープが口を噤んだ。苛立ちを察したのだろう。
「お前はどうしてこの森へ?」
 間が持たないので、魔理沙も大したことのない質問をした。グレープは驚いた様に目をまん丸く見開いて、
「籠を取りに来たんです」と言った。思わずキッチンの方を向く。以前、謝礼として木の実を貰った時に置きっ放しにしていた籠のことだ。待っていればその内取りに来るだろうと踏んで放置していたものだ。ここ最近あまりにも忙しかったから、そもそも存在を失念していた。
 魔理沙は再びグレープの方を向き直した。
「本当は、他に二人――ミルクとソラです。覚えていますか?」
「ああ、覚えているとも」
 実際の所、記憶は結構あやふやだ。短期間の内に多くの妖精と接した所為だ。
「あの二人も一緒だったんですが、途中ではぐれてしまって」
「雨のせいか」
 魔理沙が言葉を遮った。グレープは頷いた。
「それじゃああの二人、この霧雨の中で迷っているのか」
 深刻そうな声で魔理沙が言うと、グレープはさっきと同じ様に頷いた。窓を見た。外は相変わらず霧雨に包まれている。この霧雨こそ、この森にいる者を惑わす力を秘めているのかもしれない。では、この霧雨の出所と言うのは、果たして何処なのだろう。少なくとも、単なるお天道様の気紛れと言う訳ではないことは明白だ。ただの雨に人を惑わす力なんて備わっていない。
「まさかアリスか?」
 魔理沙が呟いた。途端にグレープが目を見開いた。
「アリス、とは?」
 そうか、こいつはアリスを知らないのだ。
 魔理沙は見知った魔法使いを簡単に紹介した。グレープは熱心に話に耳を傾けてくれた。
「あいつが何かおかしな魔法を使ったか、意図せず魔法の研究中に事故でも起こしたか、そんなことなのかもしれない」
 紹介した後、魔理沙はこう憶測を付け足して結んだ。グレープはなるほどと呟いた。何だかあまり信用していない様子だ。
「アリスに家に行ってみるか」
 そう言うと魔理沙は席を立った。
「待ってください!」
 グレープが金切り声を上げる。
「あの、本当に行けるんですか?」
 トーンを落としておずおずとこんなことを言う。言われてみればそうだ。進んでも不可思議な力でもって元の場所に戻されてしまう今、アリスの家に辿り着くことなど、出来るだろうか? 出来ない気がする。しかし。
「やってみなきゃ分からないだろ」
 なるべく声の震えを抑えて魔理沙は言い、玄関へ向かった。グレープも後ろに付いて来ている様で、ピッチの速い足音が聞こえた。
「お前はここで待ってろ」
 玄関へ至るや否や、魔理沙は後ろを振り返って、追って来た妖精にこう告げた。グレープは薄くて細い眉を不安げに八の字に曲げてこちらを見上げている。少し逡巡を見せた後、ぶんぶんと首を横に振った。
「駄目だよ。道中に何があるか、何と出会うか分かったもんじゃない」
 魔理沙は膝を床に付け、グレープと目線の高さを合わせた。潤んだ青の双眸が実に可愛らしい。
「アリスは私より優秀な魔法使いなんだ。あいつが原因じゃないにしたって、きっとこの異変の解決に一役買ってくれる。あいつに会えても、会えなくても、どうにかしてここへは帰って来るから……だからさ、頼むよ」
 魔理沙はそう言い、妖精の頭を力強く撫でた。グレープは釈然としない様子で佇んでいる。こんな所に、こんな幼い子を一人残すのは確かに酷だが、私とて何か大敵と鉢合わせてしまった時、一人を守りながら戦うなんて出来そうも無い。
 魔理沙はゆっくり立ち上がり、くるりと真後ろを向いた。玄関扉のノブを回す。少しだけ扉を開けると、隙間から霧状の雨粒が微量入り込んで来て、頬を冷たく優しく撫で上げて来た。何とも不気味で忌々しい愛撫だ。
 家を出る前にもう一度魔理沙は後ろを振り返った。グレープはその場に立ち止まり、不安げな眼差しを向けて来ている。
「どんな結果であれ、なるべく早く戻るから」
 そう言い残し、魔理沙は外へ出て、扉を閉めた。

 前と何ら変わらぬ白さで、霧雨は魔法の森にあり続けている。濃い薄いを目まぐるしく変化させる様が、まるで生き物が表情を変えているかの様に見えて来る。霧雨に嘲笑われているかの様だ。
 やり場の怒りを胸に押し込んで、魔理沙は歩み出した。ここで、取り落としたままであった箒を見つけた。それをむんずと引っ掴み、森を出ようとした時とは真反対の方向――裏口へと歩み進む。裏口には廃材や、使用を待たせている資材が置いてある。寝室の窓もここにある。
 裏口の光景も、正面と何ら変わらないものであった。白亜の霧雨が立ち込めていて、先なんて全く見えない。それだけで絶望感が胸に広がって行くのを感じた。だが、僅かな可能性があるなら、今はそれに賭けていかなくてはいけない。
 前と同じ様に、慎重にアリスの家を目指した。頭の中に地図を描き、細かな現在地想像をし、周囲の景色に繊細な警戒をした。
 その末に辿り着いたのは、無情にも、我が家――霧雨魔法店であった。またも真正面に辿り着くと言うおまけ付きだ。この瞬間、絶望感はピークを迎えた。魔理沙は白けた笑いを漏らした。笑いながら、ふらふらと自宅へ歩み寄る。流れる白亜の中に、薄らと紫色の影が見えた。ああ、あいつ、迎えてくれたのか。
「ただいま」
 魔理沙は紫色の影に向かって言った。刹那、霧雨が薄らと晴れてくれて、影の正体を――グレープの全貌を露わにしてくれた。
「おかえりなさい」
 妖精はぺこりとお辞儀をした。
「駄目、でしたか」
 楽観も悲観も無い、あっさりした口調。
「ああ。駄目だった」
 魔理沙は何もかもを諦めた様な表情を浮かべ、何もかもを諦めた様な口調で言った。グレープは霧雨邸の玄関扉を開けた。
「雨が冷たいです。風邪を引いてしまいます。中へ」
「おう。ありがとうな」
 二人並んで家へ入る。魔理沙が後ろ手に扉を閉めた。箒を壁に掛け、寝室へ向かう。帽子をベッドへ放り投げた後、箪笥からタオルを一枚取り出して、濡れそぼった頭を拭いた。頭を拭きながら寝室を出ると、グレープが立ってこちらを見ていた。
「悪いな。出す茶も菓子も切らしてるんだ」
 魔理沙はそう言いながらも、何かもてなしは出来ないものかとキッチンへ向かった。お構いなく――とグレープの声が聞こえた。一応、空っぽの棚なんかを物色した。やはり食べるものなど何一つ無い。がさつさがこんな所で仇になるとは。こんなんじゃ籠城戦も出来やしない。
 キッチンを出る。グレープは相変わらず棒立ちで私をじっと見つめている。不思議な子だ。
「本当に何にも無かったぜ」
 けらけらと笑って、親指を立てて背後のキッチンを指し示して魔理沙が言う。グレープは困った様に薄い笑みを浮かべた。そりゃぁ、我が家の食糧難のことなど知らされても困るだろう。
「お前も大変な時にうちへ来ちまったもんだなぁ」
 魔理沙はやけに快活な声でこう言った。それからどっかと椅子へ腰掛けた。突っ立っているグレープに席を勧める。彼女は真正面の椅子を選んで座った。
「これからどうするのです」
 グレープがおずおずとした口調で問うて来た。
「どうしようもないよ」
 重苦しい溜め息を一つ介した後、魔理沙はこう返答した。両手を組んで後頭部に添え、椅子の背もたれに凭れ掛かった。椅子が傾く程自重を預ける。天井を注視していれば忌々しい霧雨は目に入らない。少しだけましな気分になれそうだ。
「誰かが助けに来てくれるのを待つしか無いだろう。少なくとも、自力で出られそうにはない」
「誰かって……?」
「さあ。霊夢とか、アリスとか。誰でもいいよ。助けて貰えるなら」
 投げやりな口調でそう言うと、魔理沙はまた深い溜め息を吐いた。目を閉じる。無欠の黒色が何とも心地よく感じる。訳の分からない高揚感が生じた。何をしても無駄、何をしても仕方が無い――今まで、何が出来る様になるかもしれない、何か出来ることがあるかもしれないと思いながら、いろんなことをやって来た。だから、何もかもが意味を成さないと断定できる、この思考停止が許される世界は、却って気楽に思えて来る。
「ありがとうなあ、お前」
 しばらくだらんと椅子に凭れていた魔理沙が不意に開口した。
「何がです?」
 グレープの声。
「こんな時に傍にいてくれて」



*



 博麗霊夢は空を見上げた。灰色の雲が空を覆い尽くしており、非常に不穏な感じがする。視線を地面に落とすと、濡れそぼった参道だ。目で参道を追って行くと、微かな窪みに水溜りが出来上がっている。空に太陽の姿は見えず、地面はこんなにも濡れているのに、涼など一片も感じられない。むしむしとしていて、とかく不快だ。
 霊夢は辺りを適当に見回した後、溜め息をついて母屋へ引き返した。点在する水溜りをひょいひょいと避けて行く。掃除をしようと思ったものの、大抵の汚れは雨が洗い流してしまっていた。掃除などする必要を感じないし、そもそもあんなにもべちょべちょと濡れた地面なんて掃除する気にもなれない。
 母屋へ引き返し、玄関に置いてある傘立てとして使っている壺に箒を柄から突っ込んだ。履物を脱いで母屋へ上がる。丁寧に履物を揃えた後、とりあえずお気に入りの縁側へ向かって、腰掛ける。
 空を見る。灰一色だ。見る者の活動力を削ぐ、よくない色の様に思える。そうでなくたってやることが無いのだ。あらゆることへのやる気が枯れ果てて行く。
 どうせ誰も見ていないから――と、霊夢は縁側に仰向けになった。寧ろ誰か見てくれていた方がよっぽどありがたく思えた。誰かいれば、この退屈を紛らわしてくれるであろうから。
 ころりと寝返りを打って、外に向いて横に寝た状態になる。神社を囲繞する森の木々が目に入る。森と言うワードから、ふと魔理沙のことを思い出した。何だか、随分会っていない気がする。この感覚に間違いは無いだろう。数日前にアリスとこんな話をした記憶があるが、あれからも一度も会っていないから、本当に随分会っていないのだ。
 ぼんやりと霧雨魔理沙と言う人物を思い出した後、再びころりと寝返りを打ち、仰向けの状態に戻した。ひょっこり顔を見せたりしないものかしら――目を閉じ、聴覚と感覚を尖らせる。来客の音と気配を逃さない様に。
 軽く呼吸まで殺して、時機と都合のいい客人を待った。……が、息苦しくなって、大きく息を吐いた。目を開ける。面白くも何とも無い天井が目に入ってくる。視線を横に向けると、やはり面白みの無い森の木々があるだけ。そんな都合のいい展開がある筈が無いのだ。
 暗澹とした溜め息を吐き、大の字になって思慮を巡らせた。やるべきことも無いし、これと言ってやりたいこともない。退屈であると言う事実だけが、心に宿っている。
 ――魔理沙に会いに行こうか。
 考えが変わってしまう前に動いてしまおう。
 霊夢はむっくり起き上がった。寝転んだ所為で乱れた髪とリボンを適当に手直ししながら外出の準備を始めた。廊下を歩み、母屋の最深部にある私室と定めている部屋に行き、何枚かの御札を用意した。魔法の森は何かと物騒だから、これくらいの装備はしておいた方がいい。手土産などあった方がいいかと思ったが、渡すにふさわしいものが無かったので断念した。
 それから鏡を覗き込んで、適当に身だしなみを整えた。魔理沙がそんなことを目敏く気にするような玉ではないと思うが、親しき仲にも礼儀あり――と言う奴だ。
 身だしなみも整え、玄関に向かう。先程箒を突っ込んだ傘立てが目に入った。箒の他に傘が二本突っ込んである。傘は持って行かないことにする。荷物になるからだ。雨は降らないことを祈ろう。
 これですっかり準備は整った。あまりにも準備と言う奴が大したこと無かったものだから、本当にこのまま外出していいものか不安になって来る。
 思慮を巡らせ、不手際は無いかを確認して行く。結局、別段そんなものは見つからなかった。そもそも、高が友人に会いに行くと言うだけのことに、何をこんなにも緊張しているのだろう。少し会わなかっただけのことだろうに。

 母屋を出て、建物に沿って境内へ歩いて行く。その最中、
「霊夢、いる?」
 声が聞こえた。急に名を呼ばれたものだから、びっくりしてしまった。声がしたのは境内だ。
 霊夢は境内に駆け付けた。境内にいたのはアリスだった。何故か全身がずぶ濡れの状態で、ぜぇぜぇと息を荒げている。思わず空を見上げた。確かに空は灰色だが、雨なんて降っていない。
「どうしたの、あんた。何でそんなにびしょ濡れなのよ」
 霊夢はアリスに駆け寄って肩に手を置いた。驚く程に冷たい。艶やかな金色の前髪から水滴が滴り落ちて行く。桶一杯分の水でも被ったかの様だ。
 アリスは呼吸を整える様に一度深呼吸した。
「霊夢、聞いて。魔法の森がおかしいの」
 穏やかでない様子でこんなことを言う。魔法の森と言えば私がこれから行こうとしていた場所ではないか。
「おかしいって……おかしいのはいつものことじゃない、あんな所」
 こんな具合に茶化してみたのだが、アリスの表情は強張ったままだ。何か深刻な問題が起きているらしい。
「ちょっと話を聞かせて」
 霊夢はそう言うと、アリスの手を引いて母屋へ向かって歩き出した。アリスは苦しそうに何度も深い呼吸をしている。随分と消耗している様だ。一体、森で何が起きているのだろうか。
 母屋に到着すると、霊夢はアリスを玄関で待たせ、私室からタオルと着替えを取り出して来た。それをアリスに手渡す。ありがとう――と彼女はか細い声で礼を言った。
「縁側の所で待っているから、準備が出来たら来てね」
 そう告げ、霊夢は縁側へと移動した。そこでアリスを待ちながら、取り留め無く、魔法の森で何が起きているのかを想像していた。
 アリスはかなり手早く事を済ませて縁側へ駆け込んで来た。駆けて来た勢いを利用し、転げる様に眼前にへたり込んだ。紅白の衣装に身を包んだ彼女は何だかとても新鮮だ。だが、今はそんなことはどうだっていい。
「落ち着いて話してね。魔法の森で何があったの?」
 霊夢が問うと、アリスはこっくり頷いて、頼んだ通り落ち着いた口調で語り始めた。
「魔法の森に、霧雨が降ったの」
 魔法の森に、霧雨――これまた何か引っ掛かる物言いだ。霧雨と言えば魔理沙の姓名じゃないか。
 霊夢はなるべく動揺を表情に表さない様に努めた。
「あのおかしな雨が降り始めたのは二日前からだったわ。初めはただの霧雨だと思って無視していたの。ただ、外出が面倒になるってくらいにしか思ってなかった」
「その雨が、ただの雨じゃなかったのね?」
 霊夢の問いに、アリスは恐々と頷いた。
「先が見えなくなるくらい真っ白な霧雨なのよ。ちょっと歩くと、自分がどこにいるのかよく分からなくなってしまうくらい。それでも昨日、森を出る為にその雨の中を歩いたの」
「昨日?」
 霊夢は訝しげに顔を顰める。アリスはギンと目を見開いて、どこを見ているのか分からぬ様な目をしながら更に言葉を紡ぐ。
「雨だから外出する気が起きなくて、霧雨が降り始めた初めの日は、ずっと家にいたの。昨日はどうしても森から出る必要があったから外出したのだけど……出られなかった。ただ歩いてるだけじゃ、何回森から出ようとしても、戻ってしまうの。気が付いたら私の家の庭先に辿り着いているのよ」
「何よ、それ」
 思わず霊夢は引き攣った笑みを浮かべた。こんな冗談は一笑に伏してやりたかったが、アリスの表情、態度、雰囲気はそんな軽薄さを許す様なものでは到底無い。
「だけど、このままじゃいけない、どうにかして森を出なくちゃと思って、いろんな工夫をしたわ。魔術の存在を疑ってこっちも魔術で対抗したり、操り糸で木に目印を付けたり、人形を先へ行かせたり」
「そうして、今日出て来られたと」
 霊夢が糺すと、アリスは「ええ」と小さく呟いた。
「だけど、あの森は今普通じゃない! 操り糸が何回か千切られたし、人形だって幾つか壊された! あの森に――霧雨の中に何かが潜んでる!」
「落ち着いて。それはあなたの話を聞いていれば分かるわ。だから、落ち着いて」
 霊夢はアリスの肩に手を乗せ、緊張をほぐす様に肩を揉んでやった。表情も身体も強張らせていたアリスは、少しだけ落ち着きを取り戻した。妙に消耗している様に見えるのは、そんな未知なる霧雨の中で精神を尖らせていたこと、また、魔術での抵抗を継続的に行っていたからであろう。森を歩く者を迷わせるなんて、魔術か幻術の類に他ならない。
 だけど、それ自体はどうだっていいと思う。妖怪、妖精の悪戯で済まされる場合もある。問題なのは、目印の糸を千切り、人形をぶち壊した凶暴性、暴力性の方だ。これは、奇怪な霧雨に対して精一杯の抵抗を試みたアリスに対して、物理的な悪意が向けられている証拠に他ならない。
 それから、もう一つ大きな問題がある。
「魔理沙はまだ、あの森に?」
 アリスの肩が揺れた。床へ落としていた視線を上げる。
「ごめんなさい。私は、私のことで精一杯で、あの子にまで手が回せなくて」
 アリスは泣きながらこんなことを言った。ヒステリーが度を越している。少し休ませてやらなくてはいけない。
「大丈夫。あんたは何も悪くないよ。よく森の異変を知らせてくれたわね。ありがとう」
 穏やかな口吻で霊夢はいい、アリスの背を叩いた。アリスは感極まって本格的に泣き始めてしまった。もう少し慰めてやるべきかもしれないけど、そんなことをしている時間は無い様に思える。

 霊夢は立ち上がった。アリスが涙を目尻に湛えたまま見上げて来た。
「魔理沙の所へ行ってくる」
 こう告げると、アリスは首をぶんぶんと横に振った。
「いけないわ、霊夢。あの森は、今は――」
「危ないのは分かってる。だけどそう言うのを解決するのが私の役目だから」
 そう言い、胸をとんと叩いた。アリスがよろよろと立ち上がった。
「私は……」
「あんたはここで待っていなさい。少し休んだ方がいい」
 霊夢はそう言い、アリスの肩を押して座らせた。無言でその場を去り、私室へ戻り、御札を補充した。何が待ちかまえているかは知らないが、とにかく、護身用程度では足りない様な気がした。
 玄関へ行くと、アリスが立っていた。両手を組んでそわそわと指を動かしている。
「心配しないで」
 アリスの頭を撫でると、履物に足を突っ込み、颯爽と母屋を出た。
 曇天を見上げる。不穏な空だとは思っていたけれど、まさかこんなことが起こっていようとは。
 魔法の森へ向けて飛び出した。



*



 魔法の森上空に辿り着いた霊夢は、まじまじとそれを観察した。空から見る限り、異常は感じられない。魔法の森はいつもの通り、怪しげな緑を湛えてそこに広がっているだけだ。
 魔法の森は空から入ろうとすると、異常な進化を遂げた木に捕縛され、生気を吸われて絶命してしまうのだと、魔理沙から聞いたことがある。行き慣れた者なら緑の抜け穴なる抜け道が分かるらしいが、残念ながら私には分からない。律義に森の側からお邪魔するしか無い。
 霊夢は森の傍の草原に降り立ち、歩行で森へと近付いた。日光を嫌う森は普段から薄暗いが、今日は曇天の為、その微かな陽光さえ入らず、どうしようもない程に暗い。どれだけ凝視しても、何も見えて来ない。加えてアリスから聞いた魔法の森の異変がある。何だか立ち入る勇気が萎えてしまった。
 しかし霊夢はぶんぶんと首を横に振る。両頬を数回叩いた。挑戦する様に魔法の森を睨み付ける。広がる闇が巨大な化け物の口の様に見える。中からぶちのめしてやるわ、化け者め。
 化け物の口へ、霊夢は一歩踏み入った。手には御札を数枚用意してある。アリスの語った霧雨と言うやつは、ない。幻想郷の曇天を引き摺っていて、ただ単に湿った空気が蔓延している暗所と言った具合だ。
 時々後ろを振り返りつつ、森を歩くこと、十分。どこからともなく冷たい風が流れ込んで来た。まるで杯後から冷たい手で頬を包まれたかの様な不気味な冷感。霊夢は思わず周囲を見回した。しかし、あるのは陰気な森の暗闇と、微かに見える木々や草花の類だけで、冷気を発しそうなものなど何一つ無い。ただ、自然の気まぐれで吹き抜けて行った何の変哲も無い風を、変にアリガタガッテしまっただけか。
 妙に緊張している自分を心密かに嗤いながら歩みを進める。すると。
 どこからともなく、さわさわ――と音が聞こえて来た。聞き覚えがある音だ。丁度一年前くらいだ。花の妖怪がほんの気まぐれで、朝顔をくれたのだ。貰い物を枯らす訳にはいくまいと、毎朝小さな如雨露で水をやっていたのだが――今聞こえている音は、その水やりの時に聞いていた音と酷似している。つまり、水滴が緑葉を叩く音と言うことだ。
 霊夢の悪寒は的中した。程無くして、視界を白い靄が覆い尽くし始めたのだ。
「霧雨……ッ!」
 持っているだけだった御札を一枚、いつでも放てる様に持ち替えた。周辺に気を配る。――ああ、いるわ、いるわ。微弱な妖気が感じ取れる。
「隠れても無駄よ」
 白亜の中に霊夢が語り掛ける。木の影、草の影、茂みの影――それらに上手く擬態している小さき者達がいる。気配は手に取る様に感じられる。なんと詰めの甘い奴らだ。こんなに愚鈍な奴らなんて、姿を見ずとも正体が知れる。
「妖精の分際で、一体何のつもりなの?」
 警戒しつつ、霊夢は更に歩みを進める。実に濃密な霧雨が視界を遮っている為、周囲はほとんど見えない。だが、歩く自分に合わせて、周囲の雑多な気配達もそそくさと動いているのが分かる。監視しているのだ。奴らは、妖精達は、こちらを監視している。
 少し、痛い目に遭わないと分からないかしら。
 霊夢は御札を前方に向かって投げ付けた。何かに着弾した後、妖力に根差した特殊な爆発が起こる。一瞬だけぴかっと光ったが、しかし視界にさしたる変化は無い。ちょっとだけ霧雨が照らされて、それだけだ。
 爆発が収束した刹那、右手側から二名、左手前方から一名、隠れていた小さき者達が急速に近付いて来るのを感じた。ほんの挨拶代わりのつもりだったが、行きすぎた挑発ととられたかもしれない。
 右から飛んで来た石礫を、霊夢は屈んで回避した。あからさまな舌打ちが聞こえた。奴ら、もしかして私を殺す気なのか? いくら石ころと言っても、頭に当たれば無事では済まないことくらいは知っているだろう。弾幕を撃って来ない所に、奴らの明確な殺意と言うものが見え隠れしている気がする。……となると、あまり悠長にしてはいられない。
 左前方からは、遂に本体が飛び掛かって来た。妖精本人が白い雨から飛び出して来たのだ。即座に御札を投げ付けて制裁した。
 退治した妖精は、手に武器を持っていた。大きな石と、尖った木の棒だ。霊夢はそれを拾い上げた。殺傷するには申し分ない凶器だ。これで、この森の異変の根底と、そいつらのやり口がよく分かった。手を抜いている余裕なんてない。
 霊夢はその場に立ったまま瞑想を始めた。命のやり取りが始まってしまった――この事実による動揺を抑え込みながら、有している能力である空を飛ぶ程度の能力を最大限に活用する準備を始めた。これが博麗の巫女の強さの根源なのだ。この能力を応用すれば、如何なるものからも乖離し、一切のものからの影響を受け無くなる。博麗の巫女の敗北の可能性が潰える。
 ――そう。応用すれば、の話だが。
 霊夢は瞑想を取り止めた。そして、大きく息を吐いて、また歩み出す。自分を取り巻く白亜の霧雨が、今は酷く恐ろしいものに思える。
 能力が上手く機能しない。宙に浮くことができない。
 霊夢は自嘲的な笑いを零した。今も尚、どこからともなく自分を監視している妖精達に目配せする。
 妖精だと思って甘く見ていた。思えば、彼彼女等は自然の象徴なのだ。一体一体の力は大したものではないかもしれない。だが、結束するとほとんど自然そのものとなってしまうのだ。自然と一言に言っても、そこには様々な要素が含まれている。その要素の象徴が妖精達なのだ。この魔法の森と言う閉鎖的な世界で、妖精達はどうしたものか結束し、一つの自然を作り上げた。ここでは彼女らが法だ。この森は今や彼女等の“国”なのだ。郷に入り手は郷に従え――私の能力はこの“国”では御法度らしい。
「とんでもないモンを相手にしちゃったわ」
 一先ず霊夢は森を歩んだ。移ろう景色は全部同じに見える。おまけに土地勘など無いので、今どこにいるかなど分かったものではない。既に完全に迷子だ。アリスの言い分によれば、いつの間にか所定の位置に戻されてしまうとのことだが、あんな盛大な爆破テロを起こしてしまった私が、無事に森の外へ導いて貰えるとは思えない。結局、アリスの語った自宅の庭先に戻されたと言うのも、妖精達の大掛かりな悪戯なのだろう。
 雑多な思考を巡らせている最中、四人の妖精が霧雨の中から現れた。反射神経に自信はあるが、さすがに限界があり、一人の妖精が持っていた大きな石くれが腕を直撃した。御札を取り落とさなかったのは不幸中の幸いだ。どうにか妖精を撃退出来た。
 霧雨の所為で視界が著しく狭まっているから、戦地は自身を中心とした直径数十センチ程度の円と言っていいだろう。そこまで接近されなくては、敵の姿を捉えることが出来ない。それに御札も無尽蔵にある訳ではない。上手く戦っていかなくては、それこそこの霧雨の中で斃死と言う可能性もある。冗談では無い。
 霊夢はしばらく戦略を練った。限られた武器で、巨大な敵の幻術を掻い潜り、魔理沙の元へ到達する――この術を模索した。
 しばらく考えている内に――妖精がやって来た。音も無く飛び出して来て、とびきりの殺意を持って襲いかかって来る。本当に自然に上手く溶け込んでいると思う。そもそも自然の象徴なのだから当然と言えば当然だが。
 霊夢は戦わず、一気に駆け出した。不良な視界に警戒しつつも、全力で森を駆け抜ける。案の定、妖精は追って来た。殺すべき対象なのだから、当然の行動と言える。だが、戦わない。今は戦うべきではない。
 しばらくするとまた別の妖精の一団が襲い掛かって来た。先が尖った木の棒がちくりと左腕を穿った。激しい痛みに、堪え難い怒りが油然と沸いて来たが、どうにか抑え付けて、走り続ける。まだ戦うべきではない。
「ほらほら、どうしたのよ! 殺れるもんなら殺ってみなさいッ!」
 少し虚勢を張ってみた。
 二つの団体に追われながら、次なる団体を相手する。相手も少しずつ成長しているのか、いちいち攻撃方法がトリッキーになって来た。高さやタイミングを変化させたり、視界の外から飛び掛かってきたり、どんどん小賢しくなって行く。小賢しくなるにつれ、回避も難しくなる。傷が増えて来た。何だかもう、左腕が上手く動かない。だけど、やはりまだ戦うべきではない。
 霊夢はとかく妖精との戦闘を避けて、森を駆け抜けた。元来から森の構造など知らないので、目に入る景色が代わり映えしなくても、感じることなど無かった。きっと既に私は迷宮に囚われた、哀れな反国家勢力なのだろう。

 逃走に徹して十数分が経過した。ふと霊夢は左の袖口を見た。真っ赤に染まっている。元より白と紅の服だが、袖を染めているべったりとした紅は、衣装のものは大きく異なっている。見なけりゃよかった――激しく後悔した。
 駆けながら、霊夢はちらりと後ろを見た。霧雨で真っ白だ。何も見えない。だが、足音は聞こえる。がさがさと、大量の処刑人が自分を追って来ているのは分かる。もう何人をいなして、何人追われているか、正確な人数は分からない。だが――そろそろ頃合いだろうか?
 新たな刺客が現れた。人数は四名。一人目が放った木材の一撃を屈んで避ける。流れる様な連携攻撃を見せて来た二人目は、どこで手に入れたのか刃物を持っていた。穿ったのは地面。あと一歩進んでいたら地面に足を縫いつけられていた所だ。目の前で地面にナイフを突き立てている妖精の髪を引っ掴み、飛び掛かって来た三人目へぶつける。四人目は想定外に連携が崩れたことに驚き、速やかに撤退してくれた。
 霊夢は足を止め、くるりと後ろを振り返った。持ち合せの御札の全てを両手に携える。気配だけが感じられる霧雨に向けて、両手の御札を投げ付けまくった。爆発に次ぐ爆発。同時に木霊するのは妖精達の悲鳴。多くの仲間達と仲良く追って来てくれたのだ。密集している以上、一回の爆発に数名が巻き込まれるのは避けられないだろう。

 御札を投げ切った時、妖精の気配はもう感じられなかった。はぁ――と一つ溜め息を吐く。効率的な排除の為とは言え、こんなに苦しいのは不本意だ。しかも、余り間誤付いてはいられない。妖精は死なないのだ。倒しても復活してしまう。いつ蘇生するかはよく知らないが、とにかく敵を減らした今の内に、やるべきことを片付けなくてはいけない。
 霊夢が再び駆け出してしばらくすると、徐々に霧雨が晴れて行った。霊夢は辺りを見やる。ただ暗いだけの魔法の森に戻ったのだ。妖精の妖力で施された幻術だったから、妖精の数が減って施行の維持が出来無くなったのだ。全てが計画通りだ。後は霧雨が再び立ち込める前に、魔理沙の家へ到達しなくてはいけない。もう一度、あの霧雨に包まれたら――それこそおしまいだ。
 脇目も振らず、霊夢は霧雨邸を探し求めた。森のどこの辺りにいるかも知れない今、彼女の家を見つけ出すのはかなり難儀なことだ。逃走を続けたが故の体力の消耗もある。
 何度も倒れそうになりながらも、霊夢は森の中を巡った。視界が真っ暗になったこともあった。こんなに苦しい異変解決は、後にも先にもこれっきりにして欲しいと思う。

 妖精を駆逐してから二十分が経過した頃。霊夢はふと目を凝らした。遥か彼方に薄明るい地が見える。何となく、見覚えのある明るさだ。見つけた? ――自然と走る速度が速まる。
 木を、草を、蔦を、根っこを避けて――遂に霊夢は霧雨邸到着した。小ぢんまりとした洋風の建物。訪れたのは久しぶりのことだが、記憶の中のそれと全く変わり映えしていない。
 感傷に浸っている場合じゃない――霊夢はすぐさま玄関扉を開けた。正面には扉。左手には窓と大量の本棚。右手側には散らかったテーブルと台所。魔理沙の姿は無い。
「魔理沙ッ!」
 声を上げてみた。しかし返事は無い。あのうるさい魔理沙の家とは思えない程の静寂だ。何だか嫌な予感がした。
 霊夢はずかずかと家屋に立ち入り、玄関の正面にある扉のノブに手を掛けた。鍵は掛かっておらず、すんなりと回った。乱暴に扉を開け放つ。
 風が吹き抜けた。レースのカーテンが掛けられた窓がある。窓は開かれているらしく、そよそよとカーテンが風に揺られている。
 床に一枚の大きめのタオルが落ちている。右手側はすぐ壁になっていて、何も無い。左手側には箪笥、衣装棚、小さなテーブル。そして、ベッド。ベッドの上に、女の子がいた。知っている様な、知らない様な、分からない。白色に紫色の模様を付けたブラウスと、紫色のスカート。濃紺の短髪。青い瞳。背中からは半透明の羽。じっと睨むようにこちらを見ている。
 霊夢は無言のまま女の子に歩み寄り、ぐっと胸倉を引っ掴んで持ち上げた。女の子は――妖精は、苦しそうに息を吐いた。
「魔理沙はどこ?」
 霊夢が問い質す。妖精は尚も苦悶の表情を浮かべていたが、やがておもむろに窓を指差した。
「かえりました」
「かえった、ですって?」
「はい」
 妖精は一呼吸置いて、
「魔理沙さんは、自然へと還ったのです」
 霊夢は一気に脱力した。妖精の身体がベッドへ落ちる。自然へ還ったとは。妖精の癖に、粋なことを言う。

 袖の裏に残されていた最後の御札を持って、妖精の矮躯を撃ち砕いた。



*



 河城にとりは悄然たる思いで魔法の森を歩んでいた。前に見た様な、薄気味悪い妖精達は一人としていない。それでも、魔法の森で起こった一連の騒動を聞いた身としては、こんな所を歩むのはあまりいい気分はしないし、恐ろしくもある。
 にとりは、博麗霊夢に聞いた、“霧雨の国の異変”の話を思い返しながら歩いていた。余りに衝撃的だったから、彼女の声が容易に想起出来る。頭の中に霊夢が住み付いて語っているかの様に、言葉が頭の中を流れて行く。
 ――幼い妖精達の過剰な『魔理沙信仰』が生んだ異変だったのだと思うの。魔理沙を大切に思う余り、あの森から動かしたくないと言う気持ちが働いた。あの森は妖精が暮らすにはもってこいの場所だったしね。だから魔理沙を森に閉じ込める意味で、迷いの幻術が施された。……だけど、所詮は妖精と言った所ね。魔理沙が普通に死ぬことを想定していなかった。魔理沙は死んだわ。森から逃げようとして野たれ死んだか、餓死でもしたのか知らないけれど。あっと言う間に魔法の森の養分にされたんでしょうね。……
 魔理沙を糧にして育った森を歩いている。こんな風に考えると増々薄気味悪い。
 にとりは歩調を速めた。それから程無くして、霧雨邸へ辿り着いた。主を失くして、この家も寂しがっている様に見える。空はからりと晴れていて、この邸宅もいつに無く陽光に照らされているのに、まるで爽やかさを感じられない。
 目尻に浮かんだ涙を拭くと、霧雨邸に立ち入った。内装も前と何ら変わっていない。名を呼べば、魔理沙がやって来てくれそうだ。そんなことはもう無いのだろうけど。
 にとりはきょろきょろと辺りを見回した。散らかったテーブルが目に入ったので、そこへ近付き、物色したが、工具は見つからなかった。魔理沙には悪いが、やはりあれは必要なものだから、こうして取りに来たのだ。まさか台所には無いだろうから残るは寝室か。
 寝室の扉を開けた。
 たなびくレースのカーテン。
 その元に、女の子がいた。
 床まで届く程長い、やや癖のある金の髪。黒くて大きな瞳。漆黒の薄手のワンピースを纏った身体。その背からは半透明の羽が生えている。身の丈はおよそ一メートル二十センチと言った所か。ぺたりと鳶座りをして、じっとこちらを見ている。
「魔理沙?」
 にとりは思わずこう聞いていた。女の子は首を傾げて見せた。魔理沙じゃないのか。しかし――そっくりだ。
 にとりはよろよろと女の子に近付き、目前で跪いた。目線の高さを合わせる。視線がぶつかった。女の子はじっとこちらを見やっている。微動だにしない。近くで見つめると、増々魔理沙に似ている気がする。
 そっとにとりは両手を伸ばした。その手が、女の子に触れた。
 次の瞬間。
 レースのカーテンがばさばさと怪しく揺れた。あまりに急なことだったから、驚いて身を引く。女の子が笑った。にんまりと。邪悪な笑顔を浮かべた。
 はためくカーテン。その先の窓が――見る見る内に白色に染まって行く。
 あれは――霧雨か?
 にとりは愕然として窓を見やっていた。実際ににとりはそれを見たことがあった訳ではないが――聞く所によると、『霧雨の国異変』も、あんなふうに、魔法の森が真っ白な霧雨に覆われたと言うではないか。
 真っ白な窓の下で、女の子が笑っている。けらけらと、いかにも女の子然とした快活な笑い。しかしその中に、何か邪なものが隠見される。
 にとりは狼狽え、その場に棒立ちになっていたのだが――ややあって、背後からばたばたと大勢の足音が聞こえて来た。誰か来たのだろうか。
 振り返ってみると、大量の妖精が立っていた。どいつもこいつも、いちいち薄気味悪い双眸をこちらに向けて来ている。何だこいつらは。どこからやって来たんだ。

 にとりは再び、金髪の女の子を見る。
 背中の羽が嬉しそうに蠢いている。女の子は、おもむろに私を右手の人差し指で指し示した。
「殺してしまえ」


 なんとなく分かった気がする。
 ここは国なのだ。そして、眼前の少女は王なのだ。この国の支配者。遍く妖精達に慕われ、奉られ、信仰される、絶対的存在なのだ。
 そしてこれは、霧雨魔理沙が望んだ未来であり、結末なのだろう。
 こんばんは。ポップンが行き詰っているpnpです。

 余裕です、手袋エロ可愛いとは何だったのか。

 久しぶりにまともにSSを書いた気がしています。

 ありがとうございました。

++++++++++
 7/24 コメント、誤字報告等ありがとうございました。
pnp
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作品情報
作品集:
8
投稿日時:
2013/07/07 13:17:16
更新日時:
2013/07/24 13:10:19
評価:
12/15
POINT:
1260
Rate:
16.06
分類
産廃創想話例大祭A
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1. 100 NutsIn先任曹長 ■2013/07/07 23:01:42
取るに足らない存在に助力した少女は慕われた。
単なる自然に名を与えた少女は崇拝された。
崇拝された少女は茨の城の王となり、自分の名を冠した神へと転生を遂げた。

神のおわす『王国』は、博麗の巫女をしても力押ししかなす術の無い外地(アウェイ)であった。



なんだか、『地獄の黙示録』を思い浮かべました……。
2. 100 名無し ■2013/07/08 14:37:18
不法侵入ですね
3. 100 名無し ■2013/07/10 00:47:19
還りましたか、自然と信仰がかくも恐ろしくなりますな。
妖精ちゃん達可愛いprpr。

それそれで誤字報告?
本能的がこの妖精を恐れている→本能が?本能的に?
また扉g叩かれた→扉が叩かれた?
5. 90 まいん ■2013/07/11 21:18:41
霊夢が魔理沙の助けに向かう時の緊迫感が良かったです。汗を掻きながら目で追ってました。
魔理沙が彼女とどの様なやり取りがあって還っていったか気になります。
6. 100 名無し ■2013/07/14 16:39:23
どうぶつの国みたいな話かと思って夜中に風呂の中で読んだのですが…すごく怖かったです。
怖いからこそ面白かったです。
7. 100 あぶぶ ■2013/07/14 23:33:19
森という非日常性が感じられて新鮮な気分になりました。
遭難は怖いけどキャンプに行きたい
9. 90 んh ■2013/07/21 02:17:19
森の恐ろしさに大変惹かれました。特ににとりが森を出ていく場面は非常に臨場感があって素晴らしかったです。
魔理沙の無力感は序盤に書かれてあったのですが、ラストでにとりを殺すほどの怨みを抱くまでの心情の経過をもっと掘り下げて読んでみたかったです。ミルクとソラがが何を考えていたのかについても読みたかったなと思いました。
あと、たまに一人称が交ざる部分があり、慣れれば気にならなかったのですが、最初出てきた時は少しだけ引っかかりました。

最後に、誤字は気にしないのですが、一点だけ。アリスが博麗神社を訪れるシーンの冒頭、

>三名の妖精を従えて家を出た。上を見上げると、切り開かれた森の一角から、曇りがちな空が見えた。しかし雨の気配は無いので、アリスは宙へと浮遊した。

ここの妖精は人形でしょうか。少し意味が取れず悩んでしまったので。もし私が意味を取り違えているのならば、お気になさらないで下さい。
10. 100 名無し ■2013/07/28 21:03:30
何の変哲も無い日常からスルリと理不尽な世界へと突き落とされるのが堪らないですねー
11. 100 ゲス野郎 ■2013/07/29 23:38:46
『霧雨の国』、メルヘンチックなようでいて不気味さの漂うタイトルだと思って読み進めると、案の定おどろおどろしいホラーでした。
西洋の童話のような、深い森に潜むおぞましさと纏わり付くような湿り気を帯びた冷気を肌で感じる描写力は、やはり圧巻の一言です。
自分の国で女王となる代償に人間の心を捨てた魔理沙の姿が、なんとも儚げで切なさを覚えました。
12. 100 汁馬 ■2013/07/30 17:18:17
ちょっとした変な森から妖精たちの王国ができてしまった・・・
妖精の純粋さは可愛らしいですけど恐ろしくもあるのですね
13. 100 県警巡査長 ■2013/07/30 23:24:36
この妖精たちは、魔法の森を拠点にいつしか幻想郷をのっとる魂胆なのか。
魔理沙は彼女たちにしてやられたな…。
14. 100 零雨 ■2013/07/31 21:01:23
王国っていいな……
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