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『ケミカルウォッシュ地霊殿』 作者: HJ

ケミカルウォッシュ地霊殿

作品集: 8 投稿日時: 2013/08/09 16:43:38 更新日時: 2013/08/10 01:43:38 評価: 2/2 POINT: 200 Rate: 15.00
 「オーライ、オーライ、オーライ……、オッケー、ストップ!」
 
 手にした拡声器に向かって、にとりが叫んだ。声からやや遅れて、フォークリフトが動きを止める。
 眠たげな機械音を撒き散らして、フォークリフトがそろそろと前進する。フォークリフトの先には、大型のトラックに積まれたコンテナがある。
 現在の幻想郷で、この手の大型機械を動かすことが出来るのは、河童だけ、と言っても過言ではない。
 だからこそ彼女達は河童に依頼したのだろうし、多少吹っかけた値段でも、あっさりと契約がまとまったのだろう。たかだかコンテナ2個運ぶだけにしては、破格の報酬と言えた。
 依頼者は山の二柱。その二人の顔を思い浮かべ、にとりは少しだけ眉を寄せる。商売関係としてはそれなりに有力な取引先だ。
あいつらの全てが全て気に入ってる訳じゃないけど、まあちゃんと金さえ貰えるなら、あとはどうだって構いやしないさ。
 と、フォークリフトのアームがコンテナにぶち当たって、腹の底に響くような金属音を上げる。周囲の河童達の視線がフォークリフトに集中し、堪らずにとりが怒鳴り声を上げる。

 
 「こらっ、新米、馬鹿ヤロー、もっと丁寧にやれ! 給料貰えなくなってもしらないぞ! お前のせいで飯が食えなくなって、責任取れるのか!?」

 
 フォークリフトを操作しているのは、最近この仕事を始めたばかりの若い河童だ。新米と呼ばれた彼女は、すいませ〜ん、と、か細い声で返事をして、半分泣きそうな顔で機械を動かす。
 今度は慎重にアームが動き、コンテナをゆっくりと持ち上げた。甲高い間抜けな警告音を鳴らして、フォークリフトが後退する。他の河童が駆け寄り、目的の場所へと誘導する。
 
 「よし、いいぞ新米。そのままちゃんとやれよ!」
 
 やれやれとばかりに頭のヘルメットを撫でるにとり。中に何が入ってるのか知らないけど、あとから文句をつけられたくないからねぇ。フォークリフトはゆっくりと動き、コンテナを地面へと降ろす。土煙が僅かに舞い上がるが、すぐに風に紛れてどこかへと消えていく。新品のコンテナに太陽が反射して、にとりは思わず目を細めた。
 フォークリフトが再び動き出し、もう一つのコンテナへと取り掛かる。数分後、コンテナが無事に降ろされたのを確認したにとりは、胸ポケットに入れた通信機へと手を伸ばし、通話のスイッチを押す。
 

 「あー、とりあえず終わったけど、ホントにここでいいの?」
 
 「はい、それで大丈夫です。にとりさん、お疲れ様でした。皆さんお疲れでしょうし、神社にお食事なども用意したので、こちらで休まれてはどうでしょう?」

 「あ、そう? いや全然疲れてないんだけどね、それならお呼ばれしようかね。いやあ早苗は気が利くなァ、将来いいお嫁さんになれるよ。ところで――」

 「……? どうかしましたか?」

 「――いや、何でもないよ。それよりキンキンに冷えた胡瓜でも用意してくれると有難いね」

 「あはは、分かりました。それではお待ちしていますね」

 
 ぷつり。つー、つー、つー。切れた通信機を手にして、にとりは最後まで発せなかった言葉を、胸の中で反芻する。
 

 いったいこのハコの中には、何が入ってるんだ?

 
 しかしそれを聞くことは、彼女には許されていない。それが契約の条件であることは言うまでもない。勿論早苗がそれについて知っているとも限らないが……、まあ、無用な詮索をする必要はない、か。
 地底へと続く風穴。そしてその前に鎮座する、真っ赤な2つのコンテナ。
 しばし沈黙してそれを眺めた後、にとりは再び拡声器を手にし、他の河童達を呼び寄せた。
 


 
 
 河童達がその場を去ってから数十分。
 がちゃがちゃと金属同士が擦れる音。僅かな衝撃。コンテナが僅かに身動ぎしたかと思うと、その扉が重々しく開き、中から緑色の人型を吐き出す。よく見ればそれは、全身を完全に覆った、特殊なスーツであることが分かる。
 それはまっすぐもう一つのコンテナへと向かい、その鍵を開ける。鍵が開いた瞬間、そいつは僅かに口元を歪めたが、それを見た者は誰もいない。コンテナの中身を前にして、誰に向けても無しに言葉を漏らす。
 
 「まるでパンドラの箱、ですねぇ」
 
 マスク越しのくぐもった声が、コンテナの中で反響する。その声を知る者がいれば、人型の正体を推測することは容易だろう。彼女は東風谷早苗であった。何故彼女がここに? 神社でにとり達を待っているのではなかったのか?
 早苗の視線の先には、金属製の瓶とも壺ともつかない筒状の物体が、厳重に固定されて置かれていた。
 見る人が見れば、まるで爆弾のようだと感じたかもしれない。早苗は自分の背丈近くあるそれに枝垂れかかって、硬質な表面を撫でながら呟く。
 
 「こいつが壊れでもしたら、さてさて連中どうなってたんですかねぇ。あいつらはああ見えて適当なところがありますね」 

 まさしくその通り、それは爆弾と言って差し支えなかった。破裂し、炸裂し、死の衝撃と火炎を振り撒く忌むべき存在。
 しかし実際のところ、それ自身に内包されている炸薬の量自体は、物の数にも入らない。精々コンテナ一つを吹っ飛ばし、騒音で周りの動物たちを驚かせる程度だっただろう。
 だが……。それの真の脅威は他にあった。勿論河童達はそれのことなど知らない。そしてそれの力がほんの僅かでも発揮されたとき、あの場で生きていた者は誰もいなかったことも。もし知っていれば、この仕事を引き受けることもなかっただろうか。それとも私達の崇高な理念を理解した彼女らは、自ら進んで我が身を差し出し、無償で作業を引き受けてくれただろうか?
 
 「まあ、利用し利用されるこの世界のルール。それはこっちもあっちも実際変わりませんからねぇ。お互い様ですよねぇ」
 
 唄うように独り言を並べながら、その爆弾を縛る固定具を一つ一つ外していく。一見無造作な動きであるが、マスク越しに見える早苗の表情は真剣そのものだ。額を汗が伝っても、拭うことすらしないのか、あるいはスーツに覆われていてはそれも出来ないのか。
 ようやく全ての固定を外すと、早苗は爆弾の横を通り、丁度その裏側に回る。爆弾は車輪のついたカートに乗せられていた。早苗に押されて、ゆっくりとカートが前進する。
 いくら霊力で自身を強化しているとはいえ、数百キロを超える重量が少女にとって重労働であることに変わりない。ようやくの思いでコンテナを出ると、そこで早苗は大きく息を吐いた。
 
 「……はぁ。まあ他の人間連中なんて信用できないのは分かりますが。それにしても私一人ってのは疲れますねえ。神奈子様や諏訪子様も手伝ってくれればいいのに。でもこれもまた試練なのです。未来に向かって頑張りましょう早苗。よしいけ早苗それいけ早苗」
 
 早苗は目の前の物体に取り付けられたパネルを操作する。パネルには小さなモニターとテンキーが備え付けられており、彼女はテンキーに向かって数値を素早く打ち込む。何度も何度も頭に刻み込んだ、複雑で冗長な数列。
 やがてパネルに光る『認証』『生成』『開始』の文字を目にし、早苗の口から笑い声が漏れ出す。抑えきれない興奮が、彼女から滲み出ている。世界を支配した者だけが浮かべることを許される、悪意と狂気に満ちた笑い。
 
 「ふふふ。偉大なる事業の一歩は、常に小さなモノと決まっていますが……、しかしこれは、私たちにとって大きな一歩なのですよね。……神奈子様、諏訪子様、どうか私に力をお貸しください」
 
 早苗は小さな声で呟き、金属の筒を前にして九字を切り始める。するとどういうことだろう、その物体が僅かに空中に浮かんだかと思うと、地底に続く穴へと向かって、音もなく独りでに前進し始めたではないか。精神を集中し、祝詞を一心不乱に唱え、神秘的な所業を成し遂げる。その姿はまさに奇跡を起こす巫女として相応しいと言えるかもしれない。
 

 しかし、その身を覆うのは清楚な巫女服ではなく、あらゆる外界から身を遮断する防毒服。

 
 しかし、その前にあるのは、霊験あらたかな御神石ではなく、無機質で人工的な金属の塊。

 
 そして、これから彼女が為そうとしていることは――。


 
 
 
 その爆弾には確実性を期して、三重の起爆システムが備えられていた。
 まず一つは、操者――この場合は東風谷早苗――自身の霊力操作による直接起爆。システム自体としては比較的簡易であるが、逆に言えば、多少の霊力と知識さえあれば、誰にでも操作出来てしまうということだ。爆弾のような危険物を扱うにしては、些か安全性に欠ける。そのため、特定のコードを入力しないと起爆装置が作動しないよう、安全装置を組み込ませた。
 安全装置を組み込むことは、万が一の事故の防止にも役立った。最初からそれ自体を中に詰め込むことは、やはり安全性から言って大きな問題があった。起爆装置と共に生成装置を置き、通常は二種類の混合液の状態で保持するバイナリー方式を採用することで、その問題を解決した。
 だが、まだ困難はある。目の前で操作するならともかく、今回は爆破操作を視野外の遠距離から行うことになるので、その分操作ミスが起こり易く、あるいは霊力伝達に齟齬が生じた場合、起爆に失敗してしまうケースがあるということだ。
 何度か行われた実験でそれに気づいた彼女達は、苦心の末、時限信管を組み込むことを考案した。つまり、霊力供給が一度途切れた場合、それ以上の操作がなくても、無条件で爆発するよう設定するというシステムだ。
 逆に言えば、一度起動してしまえば、もう止めることは出来なくなるということであるが……、しかし、何が何でも起爆を失敗させる訳にはいかない彼女達は、これを受け入れた。
 最後の一つ、これはある意味一番単純なシステムだが、仮に上記の全てで起爆に失敗した場合、爆弾は地表へと激突する。最悪の場合、その衝撃で起爆するようにという着発信管も備えられていた。勿論この場合、最適な効率を発揮することは出来なくなる。もっとも、全く爆発しないよりはいくらかマシ、と言えるだろう。
 
 
 後の二つが無駄となったのは、彼女達にとって喜ばしいことであった。
 
 
 
 かくして、爆弾は予定通りの高度で、早苗の霊力操作によって起爆させられた。計算通り、内蔵されていた混合液を爆発させたのだ。それは微粒子状の存在と化して、周囲へと急速に拡散していく。その量は数百リットルを軽く超えていた。雲のような煙のような物質が、まるで意思を持ったかのように、うねりながら地下を走り抜ける。
 その光景を見た者がいなかったのは幸運だった。もしいたとすれば、言うまでもなく即死していただろう。
 
 
 

 最初にそれに気づいたのは、釣瓶落としの妖怪だった。
 何かすごい音が聞こえたような。
 その瞬間、彼女は視界が暗闇に覆われたことに気が付いた。

 ぱちりとまばたきをする。

 何も見えない。

 桶でも頭に被せられたのかな……、そんな惚けた思考が彼女の最後の意識だった。次の瞬間には、彼女は自身の潜む桶の中に崩れ落ちることになる。
 地上から僅かに差し込む光が、少女――キスメの死体を照らしていた。
 

 
 黒谷ヤマメは土蜘蛛の妖怪である。その力は、病気を操る能力。故に、彼女の体内には、大抵の毒物、病原菌、ウィルスなどに対する抗体が備わっている。しかし、それの前にはやはり無力だった。
 もともとそれは、殺虫剤の生成過程で見つかった物質だった。ならばこれは、ある意味で当然と言えば当然の帰結と言えるかもしれない。

 既に終末的な症状が彼女を捉えていた。
 口から泡を吹き、涎を垂れ流し、漏れ出した尿が下着を濡らしても、身動き一つとれなかった。僅かに体を揺らしても、それは反射的な痙攣に過ぎず、意思を持った行動は、既に何一つ取ることは出来ない。
 彼女は最後に何を思ったのだろう。まさか病気を操る自分がこんな目に遭うとは、夢にも思っていなかっただろうか。それとも、自分がどんな状態にあるのかさえ、認識することが出来なかっただろうか。
 その前を鼻歌混じりの人型が通っても、最早それがヤマメの瞳に映ることは、永遠にない。
 


 
 もうお判りだろう。
 彼女の手によって投下、起爆、拡散させられたもの、それは……、

 
     F
     |
 CH3−P=O
     |
     O−CH(CH3)

 
 この化学式によって表される、人類が生み出した悪魔の毒物、化学兵器、神経ガス――、固有名で表現するならば、一般的にサリンと呼ばれる物質であった。
 サリンの働きについて述べる前に、まず生物の神経伝達について軽く触れておく。
 『筋肉を動かす』という、一種の電気パルスのような神経信号が送られて、筋肉を動かしていることは、ご存じの方も多いだろう。しかし実際に体の中では、アセチルコリンという物質が媒体となって、筋肉内部のアセチルコリン受容体を刺激し、筋肉を収縮させているというのが真相だ。
 役目を終えたアセチルコリンは通常、アセチルコリンエステナーゼという酵素によって、即座に分解、不活性化させられる。もしこの酵素が存在しなければ、アセチルコリンによって刺激し続けられた筋肉は、ひたすら収縮を続けることになり、制御不能な反応を起こしてしまう。
 そして、サリン中の有機リン系物質には、このアセチルコリンエステナーゼと強力に結びつく作用が存在する。
 ……それがもたらす結果については、これ以上言及する必要もないだろう。繰り返すが、アセチルコリンエステナーゼが即座にアセチルコリンを分解することにより、人体にとって不利益な筋肉の反応が起こらないようになっているのだ。
 アセチルコリンエステナーゼの不在により、分解されることなく、筋肉中に溢れかえったアセチルコリン。それらにより、無限に『筋肉を動かす』という指令が送られ続ければ――、待っているのは、破滅しかない。
 
 


 
 にとりはトラックの助手席に座っていた。その隣には、例の新米河童が運転席に座り、若干緊張した表情でハンドルを握っている。
 妖怪の山は河童達の努力により、ある程度は車が通れるような道が整備されている。とは言うものの、今の幻想郷で車を走らせているのは、それこそ河童達の工事用車両くらいなものだから、まさに工事のために工事をしているというのが現状なのだが。
 にとりはスカートのポケットから煙草を取り出し、備え付けのシガーライターで火を付けた。大して旨そうでもなしに一息吹かすと、横の新米が少しだけ顔を顰めたが、すぐに元の緊張した表情に戻る。

 
 「にしても今日は楽な仕事だったねえ。いつもこんな感じならいいんだけどね」

 「ハ、ハイ」

 「ぼちぼち仕事には慣れたかい。まあ遊びでやってるんじゃないからね、ちょっと厳しいことも言うけど、それも辛抱さ」

 「ハ、ハイ」

 「……今日の天気は曇り空から大雨で、ところによってはカエルが降ってくる」

 「ハ、ハイ」

 「……まあ、安全運転で、前見て運転しなよ」

 「ハ、ハイ」

 
 にとりは溜息をついて煙草をもう一度思い切り吹かすと、これも車内備え付けの灰皿に押し付ける。そのまま両腕を組んで、しばし瞑目する。車の振動に合わせてうつらうつらとしていたが、峠道に差し掛かったところでふとした違和感に気付き、顔を上げた。

 
 「おい新米、ちょっとスピード出過ぎと違うか」

 「ブ、ブレーキが」

 「何? 何だって?」

 「ブレーキが効かないんですっ!!」

 「なにィ!?」
 

  にとりは思わず大声を上げた。坂道を下るには速過ぎるスピードで、山道をトラックが駆け降りる。新米は必死の形相でブレーキペダルを蹴り続けるが、無情にも速度が落ちる様子は全くない。
  にとりは当然気づいていなかったが、後に続く車列にも同じような悲劇が待ち構えていた。頭の中を駆け巡る様々な思考――整備不良? こいつがふざけているだけ? それともただの悪い夢?――を無理矢理抑えつけ、慌てて隣の新米を問い詰める。

 
 「馬鹿っ、早く止めろ!」

 「だからブレーキが――」

 「うるさい! いいから早く止めろって!」

 「だから止まらないんですって!!」

 
 この場において、二人の言い争いは全くの無意味だった。そして車はスピードを維持したままで曲がり角へと侵入する。
 新米が必死の思いでハンドルを切るが、当然曲がり切れるはずもなく。
 外界を参考にして取り付けられたガードレールを吹っ飛ばす衝撃、僅かな浮揚感……、そして始まる自由落下。

 
 「クソっ、つかまれ!」

 
 にとりは叫びながら後悔した。ああクソっ、何が楽な仕事だ。今日は厄日だ!

 
 最後の衝撃が来るまでの数秒が、彼女達には恐ろしいまでに長く感じられた。


 
 
 
 この手の店では相変わらずとも言える喧騒。むせ返る程の酒臭い息。ところ構わず吹き上がる紫煙。ここらで適当な暖簾をくぐれば、どこでも似たような光景に出くわすことになるだろう。
 水橋パルスィは、目の前の人物に半ば強引に連れてこられたその場所で、不愉快な表情を隠そうともしなかった。
 
 「いや、ホント申し訳ない。ホントに忘れてたんだ。気がつかなかった。この星熊勇儀、一生の不覚」
 
 「……別に、気にしてないから」

 パルスィの前で頭を下げるのは、星熊勇儀。何のことはない、二人で出かける予定があったところを、勇儀が博打に熱中してつい忘れてしまったというだけの話だ。
 丁半博打に熱を上げる勇儀の後ろで、まさに嫉妬心の塊となったパルスィが腕を組んで仁王立ちしている。その様子を目にした他の博徒達が皆委縮していても、当の勇儀がそれに気づかないものだから余計にタチが悪い。
 そのおかげかどうかは分からないが、勇儀の勝ちはどんどん膨らみ、さらに賭博にのめり込むという悪循環である。
 結局勇儀がパルスィに気付いたのは、夕刻を大きく過ぎてからだった。それまでの数時間、一言も発せずにひたすら立ち尽くしていたのだから、パルスィもパルスィである。
 別にいいからと拒否するパルスィを、いやいやそれじゃ私の気が収まらないと、文字通り腕を引っ張って、勇儀がこの店に連れてきたのだ。
 
 「まああれだけ勝ったから、当分博打はやらないって。うん。きっと。たぶん」
 
 「……だから、そういう問題じゃなくて」

 「いや、ホント悪かったって思ってるからさ。頼むよパルスィ、機嫌直してくれよ」
 
 「だから、気にしてないって言ってるでしょ!」
 
 予想外の大声に、周囲の喧騒がぴたりと止み、二人の席に好奇の視線が集中する。パルスィはその瞬間、しまった、というような気まずい表情を浮かべて黙り込んでしまったが、この手の出来事には慣れっこな勇儀が、辺りに愛想笑いと片手を振れば(それでも興味津々とばかりの野次馬には刺さんばかりの視線をくれてやった)、すぐにそれまでの騒がしさが戻ってきた。勇儀はやれやれとばかりに肩をすくめ、手元の杯に残っている酒を、一息で飲み干した。
 
 「そりゃあさパルスィ。私もまったく気づかなかったのは悪いと思うよ。でもパルスィだって、一言くらい声を掛けてくれたっていいじゃないか。いや別にパルスィを責めてる訳じゃなくて、ほらお互いにミスしたり至らないところもあるからさ、互いに支え合っていきましょうってことで」
 
 「……」

 「……なあパルスィ、もしかして、私のこと嫌いになったとか?」

 「……別に、そんな、」
 
  でもな、パルスィ。勇儀は一つ咳払いをして、真剣な表情で、パルスィの顔を正面からじっと見つめる。まともに勇儀と視線が合ってしまい、パルスィは思わず下を向いた。
 
 「私はパルスィのこと、好きだと思ってるし、大事だと思ってる。パルスィが私のことどう思ってるかは分からないけど、それだけはきちんと伝えておく」

 「……っ。……卑怯よ、それは」
 
 勇儀の告白とでも言うべき言葉を聞いて、耳まで真っ赤になりながら、パルスィが言葉を漏らす。心臓が耳元で何度も脈打っている。なんで、いきなり、こんな、こいつは、この人は、こんな、馬鹿みたいな話を。
 パルスィにしたって、当然勇儀を嫌いになどなってはいない。ただ二人きりで遊ぶ約束の埋め合わせをするのなら、当然二人きりでどこかに行きたかったというだけの話なのだ。
 それならばそれをそのまま言えばいいのであるが、そこはパルスィの性格上、なかなか自分から言い出せないのであるから、結局話が拗れてしまう。そんな自分が嫌になりながらも、それさえもありのままとして受け止めてくれる勇儀に対して、パルスィは狂おしいまでの感情を抱いていた。勿論、パルスィはそんな素振りなど微塵も出さないのであるが。
 しばし二人の間に沈黙が流れる。不意にパルスィが席を立ち、慌てて勇儀が呼び止める。
 
 「お、おいパルスィ、どこへ行くんだ!」

 「別に。……ちょっと飲み過ぎたみたいだから、風に当たってくるだけ。すぐ戻るから心配しないで」

 立ち上がりかけた勇儀を制して、パルスィは席を立った。勇儀は中腰のままで頭を掻くと、誰にともなく呟いた。
 
 「……鬼が卑怯と言われちゃ世話ないねえ、まったく」
 
 勇儀は元の席に戻ろうとして……、店の外に出た瞬間倒れるパルスィの姿が目に入り、血相を変えて今度こそ飛び出した。
 広いとは言えない店内を一足跳びで駆ける勇儀の耳に、誰かの話し声が入ってくる。

 
 「おい、なんか焦げ臭くねぇか?」


 
  
 
 化学兵器が効力を発揮するには、直射日光が当たらず、湿度が低く、無風の状態が一番望ましい。この地下街道は化学兵器の目標として、これ以上ない環境と言えた。灼熱地獄跡から伝わる熱により、年中暖かさが保たれており、それによって湿度も比較的低くなっている。直射日光や風については言うまでもないだろう。
 かくして旧地獄街道は、文字通りの地獄絵図と化していた。
 ところ構わずぶちまけられた吐瀉物と、脱糞・失禁による異常な悪臭が立ち込めている。つい数十分前まで、隣の人物と会話するにも怒鳴り声を上げねばならない程の喧騒で溢れていたとは信じられない、今では鼠の足音さえも聞き分けられるような、気味が悪いまでの静寂が、世界を支配している。
 もっとも、この環境で生きている鼠がいれば、の話だが。
 そしてそこら中に積み重なった死体の山を、スキップしながら飛び越える人型があった。全身を緑色の防護服で覆っている。楽しくて仕方がないという様子で、鼻歌混じりで街道を進んでいる。
 東風谷早苗であった。
 街道も半ばに差し掛かったとき……、視界の端で何かが動いたような気がして、早苗は思わず走り寄った。
 
 「……る……し……」
 
 彼女にはまだ息があった。普通ならば致死量のサリンを浴びても、その強靭な生命力は、彼女を長らえさせていた。
 必死の思いで右手を伸ばそうとする。その手の先には動かなくなったパルスィがあった。だが、高濃度のサリンは、彼女の全身を既に侵しており、思うように体を動かすことが出来ない。死の痙攣が、確実に彼女を蝕んでいく。
 
 「なんて言ったんですかぁ? よく聞こえませんよぉ?」

 「……あ……うぐっ、おえぇ……っ……」
 
 勇儀の狭まった視界に、何かが割り込んでくる。何かを言おうとして……、口から吐瀉物を吐き出した。それでも視線だけは何とかそいつに向けようとする。
 早苗はその光景を眺め、ニヤついた笑みを浮かべた。目の前の人物には覚えがあった。確か、星熊勇儀とかいう、地下に住み着いた鬼――。
 
 「ああ、もしかして、『ゆるして』って言ったんですかぁ? それとも、『くるしい』って言ったんですかねえ?」

 「う……」

 「うーん、許すとか許さないとか、そういう問題じゃないんですよね。どうせあなたたちはここから立ち退く気なんてないでしょうし、最初からお話にならないんですよね。だから、これも運命なのです。諦めてくださいね」

 「……」
 
 勇儀は何かを言いたそうな視線で早苗を睨みつけようとしたが……、彼女に出来たのはそこまでだった。サリンに溢れたこの環境で、生き延びることは何者にも出来ない。例え鬼であろうと妖怪であろうと人間であろうと、生者であれば等しく死が訪れる。
 しばらくその前で屈みこんでいた早苗は、勇儀が動かなくなったのを確認すると、満足気な表情でその場を後にした。まさか生きている人が――いや、鬼か――いたなんて、驚きですねえ。もっと強い効果が出るよう、改良を命令しないとダメですねえ。路上に散らばった反吐と死体を飛び越えて、早苗は足を進める。彼女の行く先は、街道の最奥、地霊殿。
 勇儀は眼球だけを動かして、その後ろ姿を視野に収めようとするものの、やがて世界の端から黒い靄がどんどんと侵食してきて……、そのまま何も見えなくなった。
 
 
 

 
 ぼんやりと視界が回復する。いくらか瞬きして、ようやく青い空が目に入る。
 全身を襲う痛みに思わず呻き声を上げたが、不幸中の幸いと言うべきか、にとりはほとんど軽傷であった。
 付け加えるならば、彼女達が運用している車両が、我々が言うところの電気自動車であったのもまた幸運であった。燃料である軽油やガソリンの安定供給が見込めないことから、半ばその場しのぎ的に開発された物だったが――実際ディーゼル自動車やガソリン自動車よりもパワーで劣り、現場の河童達からは不満が続出していた――、事故時に燃料由来の爆発や炎上が起こりづらいという点では、優秀だった。
 
 「う……、なんでこんな……っ。……クソっ、ウソでしょ……」
 
 左右を見まわしたにとりは、思わず頭を抱えた。彼女の網膜は、茂みの向こうで大破した三台の車両を捉えていた。なんで他の連中まで事故ってるんだよ、こんなの有り得ないだろ。
 彼女はシートベルトを締めていなかったものだから、車が落下した衝撃で、フロントガラスを突き破り、そのまま崖下の森に吹っ飛ばされたのだ。しかし葉っぱが一種のクッションとなったお陰か、なんとか軽傷で済んだというところだ。
 
 「そうだ、他の連中は無事なのかな……」
 
 にとりはその光景を目の当たりにしてしばらく立ち尽くしていたが、ようやく気を取り戻して大破した車両に近寄ろうとする。と、その車両に駆け寄る白い人影を見つけて、つい近くの木陰に身を隠した。
 ……身を隠す理由など一つもないが、後になって思えば、この時反射的な行動を取っていなければと、背筋を冷たいものが走るのを感じるのだった。
 
 「……ありゃあ、白狼天狗どもじゃないか。どうしてここに」
 
 と、ここで白狼天狗の中によく見知った顔を見つけて、にとりは得心がいく。なるほど、あいつの千里眼なら事故ったこともお見通し、って訳か。地獄に仏とは、まさにこのことだ。どうやらここでは指揮する立場にあるらしい彼女の名は、犬走椛と言う。
 白狼天狗達はひしゃげたトラックのドアを無理矢理こじ開けると、中で気を失っている河童を引っ張り出す。体を揺られてか、その河童が目を覚ます。
 あ、新米、無事だったか。にとりはほっとして胸を撫で下ろす。何にせよ、誰かが死ぬってのは気分いいものじゃない。駆け寄ろうとしたにとりは次の瞬間に、今度こそ声を失うことになる。
 
 ――その白狼天狗は手にした刀を振りかざすと、そのまま河童の首を目掛けて、一息に振り下ろした。
 
 「――え?」
 
 呆気なく落ちる新米河童の首と、間欠泉のように吹き出る鮮血。新米河童の生首は、何が起こったのか理解できないという表情のまま、大地に転がった。
 白狼天狗達は一切表情を変えることなく、僅かに痙攣する死体と転がった生首を、どこからか取り出した麻袋に押し込んでいく。その間にも別の白狼天狗が車両の扉を剥ぎ取り、その中身を問答無用で引っ張りだしていく。
 そして再び、陽光を受けて白刃が煌めく。僅かな断末魔。飛び散る真紅の液体。小さな落下音。
 
 「あ……、う、うそ……、なんで、なんで……っ」
 
 あまりの理解不能な現状に、身動き一つ取れなくなってしまったにとり。思考を放棄して、とにかく逃げようとしたものの、脚ががくがくと震えて、目の前の木にすがりつかなければ立つことさえ出来ない。目を瞑れば、新米の生首がぽとりと落ちる様子が、何度も何度も瞼の裏で明滅する。だから、目を瞑ることもできない。目の前の凄惨な光景を、脳裏に焼き付けることしかない。
 白狼天狗の一人が不意にこちらに顔を向ける。彼女とまともに視線を合わせてしまったような気がして、にとりはひっ、と小さな悲鳴を上げ、尻餅をついてしまう。
 とにかく今は逃げよう。逃げなきゃ。頭の中で無理矢理結論を出しても、にとりの手足はまったく言うことを聞かない。ばたばたと出鱈目に手足を動かし、ますますパニック状態に陥るだけだ。
 にとりがやっとの思いで数十センチ程後ずさったとき、目の前の茂みをかき分けて、一人の白狼天狗が姿を現した。
 
 


 
 犬走椛にその命令を下したのは、同じ白狼天狗内の上司である。ここ最近増えてきた奇妙な――、はっきり言えば、異常な命令の一つであった。
 勿論現場の判断としていろいろな行動を起こすこともあるし、いちいちその程度で天魔様に報告していてはキリがない。ある程度の自由裁量は、当然のこととして白狼天狗達に認められている。
 しかし、流石にこれは……。命令文の内容を思い出して、椛は眉を寄せる。

 本日××時頃、△△に於いて発生する車両事故における生存者を、見つけ次第即刻処分せよ。

 まるで未来予知のような文面に椛は首を傾げたが、それよりも穏やかでないのは『処分』という言葉であった。確かに白狼天狗達は天狗社会において、いわゆるこのような「汚れ仕事」と言われる作業も請け負っている。とはいえ、半ば平和ボケした近年の幻想郷で、このような命令が下されたのは、椛の記憶の限りでは存在しない。
 処分とは、殺せ、ということですか。いかにも椛らしい、率直な物言いで、上司に尋ねる。上司は露骨に嫌な表情を浮かべると、無言のまま僅かに首を縦に振り、顎をしゃくった。それで話は終わりと言わんばかりの態度であった。
 本当にこんな事故が起こるんですか。起こるとして、何故それが分かるんですか。天魔様や、せめて大天狗様の許可を得なくてもよいのですか。そもそもなんでこんな命令が――。胸中に浮かぶいくつもの疑問を抑えつけ、椛は一礼してその場を後にした。
 果たして事故は起きた。予め起きると伝えられていれば、椛の千里眼を以ってすれば、それを目撃することは容易であった。車に詳しくない椛から見ても、どこか不自然な事故と言えた。まるで、前もって仕組まれていたかのような――。
 頭に浮かんだ妙な考えを振り払う。ゴシップ好きの烏天狗達は、何やら我々下剋上やら革命やらを企んでいるだのなんだのといつものように騒ぎ立てているが、とんでもない。我々は、ただ忠実に命令を遂行するだけだ。そう、遂行するだけ……。無表情に、無感動に、組織の歯車の一つとなって、何も考えずに行動するのみ。責任なんて知ったことじゃない。所詮我々など、末端の手足に過ぎないのだから……。
 河童の首に刀を振り下ろしたときも、椛の感情は微動だにしなかった。人間を始めとする生物の心は、同じ姿をした生き物を、何の抵抗もなく殺せるようには出来てはいない。それが出来るのは狂人か、あるいは普通の人間であるならば、何かしらの動機付けが必要だ。曰く、あらゆることから追い詰められた精神。曰く、戦争のような極限の環境。曰く、憤りによる一瞬の忘我。
 椛の場合、淡々とした義務感と忠誠心、そして何よりも命令に従うこと自体に対するプライドのようなものが、それを可能にした。
 十名程の河童を『処分』したところで、椛はようやく一息ついた。身体よりも精神に、どっと疲れが溜まっているのを感じる。いくら自己を正当化していても、無抵抗な生物を殺めることが、精神に極度の緊張と疲労を与えるには変わりはない。とはいえ河童の中に見知った顔がいなかったのは、いくらかマシな気分であった。
 命を奪っておいて人心地がつくも何もないが、手にかけるならば知り合いよりも赤の他人の方がやりやすいというものだ。……脳裏に浮かんだ不謹慎な思考を、椛は頭を振って追い払う。今日は少し疲れた。こんな日は安酒でも買いこんで、さっさと寝てしまうに限る……。
 ふと椛の視界の端で何かが動いたような気がして、茂みに顔を向ける。一瞬目と目が合って、椛は呻き声を上げそうになった。周りの白狼天狗達がそれに気づかなかったのは、僥倖と言っていい。

 おいおい、あれはにとりじゃないのか。どうしてこんなところに!?

 すぐに彼女の姿は見えなくなったものの、辺りの草木をがさがさと揺らしていては、他の白狼天狗達が気づくのも時間の問題だ。半ば無意識の内に、椛は言葉を吐き出していた。

 
 「まあ、他に生存者もいないみたいだし、そろそろ帰投するとしようか」

 「周りの森の中とかは探さなくてもいいんですか?」白狼天狗の一人が質問する。

 「……短時間でどこかに行ったとも思えないし、そもそも車から誰かが出た様子もないみたいだった。仮に誰か生きていたとしても負傷しているだろうし、遅からず野良妖怪の餌にでもなるだろう」

 「でも、万が一ということもありますし、もし誰かに見られていては……」

 「……分かった、それじゃあ私が残って、辺りを少し調べてくる。それとも、お前が残って、いるかどうかも分からない生存者を見つけ出して、そいつを始末してくれるのか?」

 「い、いえ、自分は結構であります。失礼しました」

 
 その白狼天狗はとんでもないとばかりに両手を振る。他の白狼天狗達もとばっちりを喰らっては堪らないと、黙り込んでしまう。それも当然、誰だってこんなところには、一秒たりとも長居なんてしたくない。椛は一つ頷くと、片手を上げて合図する。
 
 「よし。じゃあ、撤収するぞ」
 
 白狼天狗達は死体の詰まった麻袋を抱え上げ、順番に飛び立っていく。椛は腰に手を当ててその光景を見つめていたが、やがて最後の一人が飛翔し、その後ろ姿が見えなくなると、椛は件の茂みに向かって歩を進めた。
 草木をかき分けてすぐのところに、腰を抜かした少女が、赤く腫れた両目でこちらを見上げている。先ほど一瞬見ただけでは気づかなかったが、全身擦り傷や打ち身だらけで、非常に痛々しい。

 
 「……にとり、か」

 「……ひっぐ……、うっ……いやっ……、なんで……」

 
 にとりは首を左右に振って後ずさろうとする。その様子を目にした椛の中で、激しい自己嫌悪が湧き上がった。

  ああ、そうか。
  私は、彼女の仲間を――

  胸の中で広がる黒い何かを無視して、椛の口が無表情のまま動く。自分でも驚くほど感情の籠っていない声が、山中に漂う重い空気を震わせた。

 
 「……別に、目撃者を始末しろ、という命令は受けていない」

 「……うぅ……、ひっ……」

 「……すまない」

 
 椛は少しだけ頭を下げた。何を言っているんだ、私は。友人が事故に遭って、大丈夫か、の一言さえもかけられないのか。
 いや、普段ならばすぐにでも手を差し伸べて助け出して、怪我の治療を受けさせるなりしているだろう。しかし今は、任務の途中だ。ここで彼女を助けていては、他の天狗達に感づかれたりしてしまう。そうなっては元も子もない。
 それに……今の私にそれが許されるのか? いくら任務とはいえ、彼女の仲間を手にかけた私に、そんな資格なんてあるのだろうか?
 僅かな逡巡の後、椛は振り返ってにとりに背を向ける。その場から逃げるような勢いで、椛は地面を蹴った。
 普段ならば風を切る快感でも味わっているところだが、今日の空気からは全身にべっとりとこびりつくような嫌悪感しか出てこない。はは、と椛は苦笑したつもりだったが、うまく笑えた自信はまったく沸いてこなかった。
 違う。結局のところ、私はにとりに拒否されるのが怖かっただけなのだ。ただ任務を遂行しただけなのに、まるで何かの怪物かのように受け取られる。そんな馬鹿げた話があるだろうか?
 にとりの仲間を手にかけたのは、私であって私でない。私はただの歯車、手足、捨駒に過ぎない。刀を振るったのは私でも、それを命じた脳はもっと上の天狗達だ。人を殺しておいて、手が勝手にやった、なんてふざけた言い訳、通じるはずがない、悪いのは脳味噌だ。
 だが、それをあの場で述べたところで何になる? それこそにとりから見れば、私が他の河童達を殺したという事実だけが真実だ。私が何を言ったところで言い訳にしかならない。
 それとも――。それに気づいた瞬間、手のひらにどうしようもないくらいの不快感を覚え、咄嗟に両手を開いて、じっと見つめる。やはり、彼女達を殺したのは、私なのだろうか? 思い出してみろ。他の白狼天狗達は、一向に自分から手を下そうとしなかった。そう、だから私が、小隊長の私が仕方なく、自ら全員を手にかけたのだ。それが我々の任務、命令だったから。
 ――本当に? 本当にそれだけの理由で、何の罪もない無垢な少女十名余りの命を、躊躇なく奪うことができるのか? 否、例えいかなる理由があったとしても、その行為だけで、私の残虐性の証明になるのではないか? ……そして、もし、あの隠れていたのがにとりじゃない、まったく知らない河童だったら、私はどうしていた?
 

 思い出せ、犬走椛。お前は少女の首を刎ねる瞬間、どんな顔を――

 
 瞬間、椛は空を蹴って、更に飛翔速度を上げる。飛ぶことだけに神経を集中させ、努めて何も考えないようにする。木々の間をすり抜けながら、はは、と小さな声で呟いて、苦笑する。今度こそ、いくらかうまく笑えた気がした。
 
 
 


 全身漆黒の装束に身を包んだ少女が、地霊殿のエントランスに転がり込んでくる。どさり、と床に身を投げ出す。むしろ倒れ込んだと言う方が正しいかもしれない。
 少女の姿が突如消えた――と思いきや、一匹の黒猫がその場に倒れている。人型を維持することさえ困難になり、少女は黒猫へと姿を変えたのだ。猫は口の中に溜まった唾を吐きだす。
 
 (……つたえ、ない、と)

 壁伝いに、彼女は動き出す。地獄街道で見た凄惨な光景を、今何が起こっているのかを、己の主に伝えなくては。
 一体今、何が起こっているのか。斃れた多くの妖怪と同じく、彼女、火焔猫燐にも、何もかもが分からないままであった。とはいえ分からないにしても、主に伝えなければならない。あるいはお燐の主人であるならば、既に何か知っているのかもしれない。
 柱で体を支えながら、お燐は想起する。街道に連なる死体、死体、死体……。見知った妖怪の顔もあった。いけ好かない妖怪の顔もあった。あるいはまだ幼い妖怪の顔も……。
 多くの死体や怨霊を弄んだお燐から見ても――あるいは、そういうお燐だからこそ――異常な事態であることだけは分かった。そこら中死体だらけだから、というだけではない。お燐は咳き込みながら唾を吐き捨て、再び沸いてきた吐き気をなんとか抑え込む。

 生き物は、あんな死に方なんてしない。

 他人に殺された死体なら、お燐は飽きるほど見たことがある。だが、自分が何によって殺されたのか、そしてどんな理由で殺されたのか、いやそもそも自分が殺されたのかさえ見当がつかないまま死んだ者が、それも何十、何百、いやひょっとしたら千人以上も――。
 怨霊という存在は、文字通り怨みを持ったまま死んだ霊だ。だが彼らは、一体何を怨めばいい? 死はいつだって理不尽な物だ。しかし、その怨みの対象さえ分からないまま悶え苦しみ死んでいった彼らは、怨霊にさえなりきれないのだ。では怨霊に非ずか、と言うと、やはり命を奪われたことには変わりなく、地獄の底で怨嗟の声を上げ続けるのだ。
 暗黒色の形無き怨念が、地獄街道に渦を巻く。それは一つの意識集合体となって、お燐の前に立ちはだかる。
 

 彼らは何を怨むのだろうか。

 死、そのものだろうか。

 生、そのものだろうか。

 
 お燐は生まれて初めて、怨霊という存在に恐怖を感じた。
 
 


 
 「猫、ですか」
 
 突如、背後から人の声。くぐもったようなおかしな声であったが、今のお燐に、それを訝しむ余裕はない。お燐自身もいくらかサリンを浴びていて、既にその症状が出始めていた。何とか振り返り、明滅する視界で、背後の人物を捉える。全身緑色の奇怪な人物であった。そいつが何事かを言いながらこちらに歩いてきても、お燐は身体を動かすことが出来ない。何を言っているのかさえ、彼女には理解できなかったかもしれない。

 
 「私、猫は好きですよお。地ベタ這いつくばってそこらじゅうにクソ撒き散らして必死で人間様に媚売って、それで自分が一番偉いと思い込んでてお高く留まっちゃって、ほんと素晴らしくどうしようもない生き物ですよねえ。ふふっ、その辺人間とも変わりませんねえ。だから、」

 
 人型の足が持ち上がっても、お燐はそれをぼんやりと眺めるだけで。
 

 「こうやって、」

 
 そいつの足が振りぬかれる。

 
 「私たちが導いてあげなければならないのですよ」

 
 腹部に強い衝撃を受け、お燐は堪らず嘔吐する。吐瀉物を撒き散らしながら、お燐は空中に放り出され――無機質な壁へと激突した。全身の骨がメキメキと音を立てて砕けるような錯覚を感じる。
 ああ、こいつが死神、って奴かねえ。急速に手足から熱が奪われていくのを感じながら、お燐は奇妙なまでに恐ろしいまでに冷静な自分がいるのを感じた。さとり様、無事かなあ。あたい、守ってあげたかったなあ。己が主人の、掴みどころのない茫とした表情が浮かんで、それっきり彼女は何も考えられなくなった。

 
 「確かに、愚かなことは罪です。犯罪です。大悪党です。しかし、己の愚かという罪を認識しないことこそ、真に一番の罪なのです。……まあ、畜生に説教したところで無駄でしたね。もし次に生まれることがあれば、今度はまともな生き物に生まれるといいですね」

 
 それきり動かなくなった黒猫に一瞥すらせず、緑の防護服に身を包んだ少女、東風谷早苗は、地霊殿の最奥へと歩を進める。彼女の目指すものは、すぐそこにある。
 
 
 
 
 「やっと見つけました。逃げても隠れても無駄ですよ」

 「……別に、逃げも隠れもしませんよ。ここは私の屋敷で、そしてここは私の部屋です。」

 「あらあら、驚かないんですねえ。……まあ、あなたは心が読めるんでしょう? だとしたら、わざわざ説明する手間が省けるんですけど」

 「……信仰心のさらなる蒐集と、その信仰心の誇示のため、ですか。集めた信仰の結晶、それ自体が更なる信仰を生み出していく。――そして、巨大なジオフロントの建設。成程、確かにここなら、あの妖怪の目も届きにくいし、うってつけと言えるでしょうね。でもそんなもののために地底の住民を皆殺しにするような狂人の心なんて、読みたくもないし、読んでも分かりませんよ」

 「そんなもの、とはひどいですねえ。ふふっ。でもそこまで分かってるなら話は早いじゃないですか。確かこんな言葉がありましたねえ。一人殺せばで罪人で、千人殺せば英雄で。しかしさてさて、私は一体何人殺したんでしょう? あるいはもしかしたら、私は一人も殺せてないのかもしれません。私はサリンをばら撒いただけ。それを吸って勝手に死んだんだから、自己責任か、自業自得とでも言うべきですかねえ」

 「とんだ詭弁もあったものですね」

 
 ぎしり、と椅子を揺らして、さとりは息を吐いた。彼女の能力を以ってすれば、目の前の人物の考えなど、既に見抜いているはずだ。そしてその人物が、ここに来るまでに行った所業をも。しかしさとりは普段と変わらぬ平静な様子で言葉を綴る。いつものように抑揚の少ない、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声で。

 
 「それで、ご用件はなにかしら。――東風谷早苗さん」

 
 くくっ、と早苗は喉の奥で笑い声をあげる。一度言ってみたかったのよねえ、この台詞。生殺与奪、すべては私の手中にあり。笑いを抑え、早苗は歌うように言葉を並べる。

 
 「降伏か、死か。好きな方を選びなさい」

 
 さとりはしばらく沈黙したまま早苗を見上げる。奇怪なマスクに覆われて、早苗の表情を伺うことは出来ない。やがてさとりがゆっくりと口を開く。
 
 「……果たして死は幸福なのか。幸福が死であるなら、何故人はあれ程にも死を畏れるのか。あるいはこの場合、降伏は死と同義と言えるかしら」

 「ふん。あなたに禅問答する時間はありませんよ。まあ、放っておけば飼い猫共と同じく、自分のゲロとクソにまみれて地獄行き――ああ、ここはとっくに地獄の地獄の三丁目でしたね――なだけですし、そうなりたいなら止めはしません」

 「そうさせたくないから、貴女はわざわざこんなところにまで来たんでしょう? ……曲がりなりにも地底の代表者である私。生かして捕えれば何かしらの役に立つ。そう二柱を説得して、わざわざ毒ガスと死体を乗り越えて、こんなところにまで来たのね」

 「……ええ、その通りよ。分かってるなら早く――」

 
 ちっ、とばかりに舌打ちし、憎々しげに早苗は吐き捨てる。さとりはふっと目を伏せると、皮肉気に口の端を吊り上げる。胸元のサードアイが、目の前に立つ早苗の姿を映している。

 
 「いいえ、違いますね。そんなことは建前に過ぎない。心の表層に映った虚像に過ぎない。口が勝手に吐き捨てた戯言に過ぎない。本当の理由は別にあるのでしょう?」

 「ふふ、ふふふ。ええ、まさにまさしく、全く以ってその通り! 流石は覚り妖怪、話が早いですねえ。わざわざ隠し立てする必要もないので言ってあげますがねえ、私はあなたみたいな、可愛らしい女の子が大好きなんですよ! 
 可愛い少女が何百年、何千年もその姿を保ち続ける、それがどんなに素晴らしく――そしてどんなに異常なことか、あなたみたいな妖怪には想像も出来ないでしょう!? 私だって、あと10年もしない内に化粧水が手放せなくなって、皺の数を数えて一喜一憂、お腹はたるんで服も入らず、白髪が無いかチェックする毎日。そんなことに耐えられますか? ええ、どうせあなたには理解できないでしょうね。ま、私もそんなこととは無縁の生活を送る予定ですし、別に理解する必要もないんですけれどね。
 まあ、あなたがどうしても拒否するのなら、仕方ありません。残念ですがここで死んでもらうことにしましょう。その代わり――」

 
 今まで平静を装っていたさとりの表情が、始めてぴくりと動く。さとりの内側から憤怒とでも言うべき感情が湧き上がり、唇を噛んで早苗を睨みつける。これ以上ないという満足げな表情を浮かべて、早苗は三つの視線を受け止める。

 
 「――っ。貴女という人は……!」

 「ふふふ。流石。心が読めるって便利ですねえ。そう、あなたの大事な妹さん、彼女をあなたの代わりにするだけですよお。他の地底人を皆殺しにしても全然驚かなかったのに、やっぱり妹のことになると人が変わりますねえ。妖怪にも肉親の情って奴はあるんですかねえ。
 無意識だかなんだか知りませんが、神は無意識さえも支配するのですよ。既にあの子は私の手の内にあります。ウソだと思いますか? そんなこと、心を読めばわかりますよねえ。ああ、安心してください、『まだ』彼女には手をだしていませんよ。もっとも、これからどうなるか――ふふっ。まあ、死人に口なしとはよく言ったものですからねえ、もうすぐ死ぬあなたには関係ありませんよねえ」

 
 奥歯を強く噛みしめて、さとりは目の前の人型を睨みつけていたが、やがて僅かに溜息を吐いて、表情を元に戻す。
 どうやら彼女の言うことは、概ね真実らしい。加えて、このままでは自分の命も危ないらしいということも。
 地底住人を皆殺しにしたとは到底信じられなかったが、心を読む限りそれも本当のようだ。どうしてだろうか、そのことに対する感情は、不思議と沸いてこなかった。まだ現実味が感じられていないからかもしれない。あるいはさとり自身、あまり地底の住人に対して良い感情を持っていなかったからかもしれない。
 今は彼女に従っておいて、いずれ機を見て何かしら行動を打てばいい。素早く結論付けたさとりは、両手を小さく上げて立ち上がる。

 
 「……人付き合いについて、あの子にもっと教えておくべきだったかしら」

 「これから教えてあげればいいだけですよ。時間はたっぷりあるんですから。ああ、言い忘れてましたが、ここで私を襲えば妹さんがどうなるか、当然分かってますよね? というか、むしろ感謝してもらいたいくらいですよ。私が他の信者連中の手から守ってあげてるんですから」

 「……」

 
 この後に古明地姉妹が受ける凌辱については、今ここに語るべきではない。
 

 
 
 二つの人影が、昏い地霊殿を歩いて行く。
 外界から完全に遮断される防護服を身に着けた彼女達は、猛毒で溢れたこの空間を我が物顔で行進する。それが無ければ、この場所では何人たりとも生存を許されない。例え呼吸をしていなくとも、サリンは皮膚からも浸透し、体を侵す。その意味では、死者さえもサリンに汚染されていると言えたかもしれない。
 
 あるいは、その魂までも――。
 
 
 「――どうかしましたか?」
 

 突然歩みを止めた一人に、もう一つの人影が話しかける。

 
 「……」

 
 しばらく無言で立ち止まった彼女は、古明地さとりと言った。恐ろしいまでの静けさに、今になってようやく、早苗の行為を理解したのだ。もし普段の地霊殿を知る者がいれば、確かに多少静かであるとは感じたかもしれない。だがさとりの場合、その能力の関係上、常に自身の飼うペット達の声に囲まれて生活していたのだ。
 その動物達の声が、今や何一つ聞こえない。助けを求める声さえ聞こえない。怨嗟の声さえ聞こえない。マスクを外せば、強烈な死臭が鼻を突いたことだろう。動くものは一つもなく、生きるものも一つもなく。死の静寂が、地霊殿を支配している。
 さとりはぽつりと呟く。小さな小さな声であったが、全く無音となった世界で、それははっきりと、早苗の耳にまで届いたのだった。

 
 「ただでは、すみませんよ」

 「勿論。ただですませる気はありませんよ」

 
 二つの人影が、再び動き出す。ステンドグラスから漏れる光が二人を淡く照らし出し、薄い影法師を引いていた。
産廃例大祭用にホモ書こうとしたら挫折したのでなんか書こうとしたらめっちゃぐだってこんな時期になりました
なんかもういろいろあれですがいろいろあれなのでみなさんコミケがんばってください˘˘ω
環境によっては化学式が正しく表示されない場合があります。

某wikipediaと某宗教団体と某仮想戦記に多大なる感謝を…
HJ
https://twitter.com/HJ_devanosto
作品情報
作品集:
8
投稿日時:
2013/08/09 16:43:38
更新日時:
2013/08/10 01:43:38
評価:
2/2
POINT:
200
Rate:
15.00
分類
早苗
にとり
勇パル
地組
魔法少女サリンちゃん
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1. 100 NutsIn先任曹長 ■2013/08/10 03:15:12
狂人の考える事はよく分からん。
分かりたくもない。

始終防護服を着ているところからして胡散臭い。
下らん理由で虐殺を行う所が非道だ。
穴だらけの計画、口封じの不徹底で、こいつに破滅が訪れることが確定しているのが、何ともはや……。
ピカレスクだね〜。
2. 100 ゲス野郎 ■2013/08/10 23:55:21
毒殺、無差別殺戮、良心の呵責、宗教絡み、好みのシチュが目白押しでとても楽しめました。
住民の喧騒の消えた旧都跡はきっと、幻想的な風景が広がっているのでしょう。
すぐに諏訪子様が守矢地底帝国へと改築してしまうのでしょうが。
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