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『生年不満百(祕封倶樂部の冐檢)』 作者: henry

生年不満百(祕封倶樂部の冐檢)

作品集: 12 投稿日時: 2015/06/20 09:41:25 更新日時: 2015/06/22 20:31:34 評価: 8/8 POINT: 720 Rate: 16.56
※この小説にはモブですがオリキャラが出ます。












 ――――古里を省みぬやうに、私達は短き髮を永遠の誓いにした。螺旋の輪に惑ふ事なく家ゑ帰りたいのなら、斯の長い髮を撫でて親しき友人を侖ひなさい。寂しい時は猫も斯うして孤独を癒やすのだから――













 祕封倶樂部の冐檢





 然うして眼を閇じて、親を見る仔鴨に如くなつて終ふだらう。タゝン、タゝンと頚筋を揺らすのは電車の胎動で、ふたりは羊水に睡る雙生兒のやうに肩を触れさせてゐた。ヒザ下のロングソックスが坐席暖房でカッカと疼いて、其片方、宇佐見蓮子は俄かに氣が付いた。京都市をチョットばかり越して間もなくと云ふ処であつた。

「メリー。メリー。ねぇ、メリーってば」

 揺り動かして、隣でスウゝゝと寢息を立てゝゐる金髮の少女に語り掛けた。宇佐見蓮子が白衿にノアールのスカアトといふシックな裝いを好むのに對し、彼女、マエリベリヰ・ヘルンは洋酒のかほりのするやうな銭葵の紫衣を頭からスッポリと冠つてゐる。ンんつ、と桃紅い脣から艷やかな聲を漏らして、マエリベリヰ、通稱メリーは長い睫毛を引き上げた。

「あ……、ごめんなさい。寝てたみたい」

 曇な夢を觀てゐたのだらう、メリーは口端に唾液を溜め滴らせて幸せ斯うな表情を浮かばせる。睡りといふものは一種の断絶であつて、現實に戻れる事の僥倖を誰よりも知つてゐる。
 是は、祕封倶樂部といふ京都に噂されるオカルトサアクルの話で或る。時は西暦二千年、今や人類の足は月に到達し、サイヱンスフイクシオンは當然のものと厭きられた未來では、却つて古臭い神話傳説民俗にこそ未開拓の神祕が廣がつてゐる。夜毎に世俗を抜け出し過去の不可思議を追ふ、いわゆる科學世紀の落とし子の怪奇幻想が彼女達ふたりで或つた。何故ならば――――

「早く降りなきゃ。もう時間だよ」



 手を引くと、雪の駅だった。息が白く霞み、慌てて彼女達はマフラーと手袋で身を包んだ。背後で扉の閉じる音が聞こえて、ゆっくりと駆動音が遠ざかっていく。辿り着いたホームに取り残されて、駅名を確認したあと、ふたりは顔を見合わせた。

「もう着いてる」

 名残惜しそうにメリーは呟いた。しんしんと降り積もる白片は京都のものよりも重く、台地を少し登ったのだと感じられた。雨除けの薄いトタン屋根が、頭上でギイギイと鳴いている。春の訪れの遅れた、三月のある休日の事だった。

「あっ、メリー。よだれよだれ」

 慌てて降車したせいか居眠りの残滓はそのままで、蓮子の指摘にハッとして手の平で拭い隠す。メリーは更にオフホワイトのハンケチーフを取り出して上品さを装うと、頬を赤らめながら眼を他所に向けてしまった。

「あ、あ――――……ああいうことしてるのに比べたらまだ恥ずかしい事じゃない……はず………………」

 語尾は小さく消えていった。遠恋なのか、人目をはばからず抱き合うアベックがつい其処で留まっていて、引き合いに出して取り繕おうと試みたが、見ている内に自分まで恥ずかしくなってしまったようだった。蓮子はメリーの様子を察してか、とん、と肘を触れさせて云った。

「行こ」

 短く会釈して、雪のよう音無く返して、歩き始める。雲海と見紛わんばかりの果てない白の中に、晴れの青と、紅いフリルの白傘が小さく丸を作った。ざくりざくりと潰れる寸前の綿菓子を砕くような足跡が、湖畔の街の古風な道を拓いていった。
 何故ならば――――この世界は、幻想にほんのちょっとだけ優しい。



 カラカラと木製の回し車を転ばせる音が、白黒二匹のモルモットによって生まれていた。天地は逆になり、吊り下げられた時計は重力に従わず、さかしまに時を刻んでいる。
 リーデンミラー時計店は、黒×商店街入口にある112年の歴史を持った黒漆塗りのモダン建築物であった。2階建ての瓦葺き屋根に倹飩の縦長窓が洒落ている町の顔であり、大雪の日でも観光客の足がマチマチと訪れる。ほとんど飾り物の時計達は、珍しいもの見たさの入館料500円で成り立っていた。

「最初に観測されたのは36年ほど前。噂でも何でもなく本当に起きたらしくて、図書館で調べた当時の新聞にも載ってたよ」

 子供ではなくなってしまった人間達は、みな展示物を見る際に首を傾げるようにして文字盤を覗き込む。それは秘封倶楽部であっても例外ではなく、蓮子とメリーは逆さ吊りにされた時計を斜に構えて見ながら話続けていた。

「女子中学生失踪事件ね。いじめられていた生徒みたいだったから良くない結末を捲し立てられていたけど、事件は誘拐や自殺とは無縁の場所にあった」
「うん。彼女は六年後、家族の前に帰ってきた。全く成長していない姿で」

 どちらがさきに言葉を出しているのか判らない風に、怪異の表面をなぞっていく。リーデンミラー時計店一階フロアは段差によって三層に分かれていて、入口から東窓側は最も低く、手のひらに収まるような洒落た色の小型の電子時計が、ヘックス状になった透明の棚に蜂の子みたく個別に入れられていた。ふたりは一段と昇り、論拠を展開させる。まずは蓮子、

「何があったか何も語らなくて、数カ月経って彼女はまた失踪してしまった。それ以降、家には戻ってないって」 次いでメリー、
「結局謎のままなのよね。ハーメルンの笛吹き男なのか、ブレーメンの音楽隊なのか。けど、それだけでは終わらなかった」

 二層中央にある巨大な支柱は時計店をまるごと支えていた。硝子で拵えられた円状のテーブルをコシカケ茸のように重ねて生やして、まるで古木のよう100年の趣きを醸し出している。イグチのフェアリーサークルを彷彿とさせるよう、柱を丸く囲むみたく陳列棚が回っていて、そのどれもに大小様々な置き時計が吊られている。市販に出回るようなプラスチックと乾電池の合わせ器械でなく、ゼンマイや木製歯車を利用した値段の桁を見間違うものばかりであった。

「うん。――これさ、どうやって台にくっついてるんだろう?」

 完全に同調した秒針の音に紛れて、蓮子は目先の疑問を優先した。人の影はまばらで、乾いたフローリングに雪の名残をつけるふたりの掠れた足跡が階上に進んでいく。単純幾何学な掛け時計の三層を越え、薄雪草の彫り細工のある二階への曲がり階段に足を乗せた。

「台座ないものね。硝子のおかげで裏が見えるけど、特に磁石がついてるとかはないみたいね……吸盤?」

 まるでドップラーシフトのよう会話と動きにはズレが生じて、大柱前で声を交わした過去をずっと引きずっている。階段通路には無数の腕時計がマイナスの字を描くよう配置されていたが、ふたりの観測位置は未だ置き時計で停止していて、台座の商品を抵抗なく手に取り、それを柱前へ戻す、そんな随分前の行為に心奪われていた。

「わ、すごい簡単に取れちゃった。あれ……どこにも逆さ固定できそうなもの付いてないよこれ」 何気なく起こした蓮子と、
「早く戻したほうがいいわ。落としちゃったら大変」 反応するメリーはつい十分前。
「うん、そうする。――何だろ、細胞接着って言葉を思い出した」
「この時計店自体がひとつの個体で、くっつくかどうかに生体的な細胞選別が行われているってこと?」
「そう。台座から外してよそへ置いておくと、いつの間にか元の場所へ収まっているみたいな……」
「ホラー描写でよく見るわね。細胞の引力……ドッペルゲンガーが互いに引かれ合うよう出来ているのはそれなのかしら?」
「そうすると人間はある個体の中のひとつの細胞ってことに」
「うーん。私達を支配するものってなんなのかしら――――……」 と云った雑談を組み絡ませたのも遠い記憶の中。事件の続きは持ち上がり、ようやくメリーは本筋に入る。

「……――――でね。消えたのはひとりじゃなかったわ」

 吹き抜けになった二階には陽の光を取り入れる窓がほとんどなく、代わりに壁際には夥しい量の柱時計が墓標のように影に紛れていた。重力に従ったそれら振り子達は下界とは異なり地に足をつけていて、心音のリズムのよう一際大きく針の音をさせている。数の限られた天窓は屋根に添って拵えられていて、明暗のコントラストによって空間は二分されていた。窓の赤色フィルターによって映し出された斜陽に浮いて、舞い上がる僅かな埃が珊瑚の産卵のようにあたりを漂っていた。

「合わせて3人居る。最初の事件から約8年後に同じく中学生の女の子が。3人目はごく最近に噂の中で上ってきたわ。彼女達全てが――――」

 こくり、と隣で蓮子が頷き呼応して、吹き抜けのアンティーク手摺りに腕をもたげたメリーに続いて時計店の空隙を見遣る。ここからは、階下の、逆さ時計達が良く見渡せる。ミニチュアのように動き続ける客達が、この上なく不自然で科学実験的な機械装置に感じられた。

「ここ、リーデンミラー時計店で消息を絶っているわ」

 ゴォンゴォン、と一斉に、十二時を告げる鐘の音が鳴り出した。階下には逆さの時計、上階には正しい重力、まるで鏡の裏側を見るみたく、時計店の中心(乃ち階層の1と2の境界)から引力が生まれているかのようだ。蓮子は考察する。

「失踪した子は全員なにかしらの霊能力を持っていて、そのせいで亜空間に囚われてしまったっていう脚色をよく聞く気がする。学校でのいじめも能力が原因だとしたら、嫌な話だね」
「要は付きあい方よ。人も力も。そんなに悲観するものでも無いのにね。もっと眉唾な話もあるわ。最初の子と、次の子が若いまんまの姿で揃って出歩いてるのを見た、というものよ」
「それ初耳。時空間のねじれみたいな?」
「もっとあるわ。二番目の子が戻ってくるとき、この時計店のあの大柱の前に、突然、出現した。しかも鶏卵を持って」
「卵? バミューダ・トライアングルなスポットの扱いなのかな」
「あの海域って本当かしらね」
「どうだろう? こないだ見た映画みたいに、世界を数字で表せるとするなら何とか関連性を見い出せないかな?」
「あの片頭痛のやつね」 メリーに呼応するように、メモ帳を出して蓮子はさらさらと数字を並べていった。

「……トライアングルが三位一体と考えると、数秘術で父と母と子のヘブライ語を数字に分解した和で216。アヴェンジャー雷撃機が失踪した日は1945年の12月5日、全ての数字を一桁で抜き出して足すと27、これを8倍すると216。二桁ずつ抜き出して足すと81、一桁の数字を足し合わせると108、これは2倍すると216。27は81の3倍で、81を3倍にしたものから27を引くと216になる。それをリーデンミラー時計店に当てはめると、失踪した日は4月17日の12時頃。1桁抜き出して掛け合わせると、336、2桁抜き出して掛け合わせると816――――……うーんこじつけられない」
「こじつけって言っちゃった」
「336から216を引くと120、816から216を引くと600、120を5倍すると600になり、120にその5を足すと125となり5の立方数となる。6の立方数が216なので、次の7の立方数は343、つまり336から7を足した数になる。8の立方数は512で、600から引くと88で8が並ぶ。816に88を足して、8と8で引くと888になる」
「時計の数でも数えてみる?」
「全部で216個。……だったら面白いよね。まあ、トライアングル=三位一体という解釈の時点ですでにオチがさ」
「結局どう数字で語ってもこの眼で見ない限りはどうしようもないものね」

「――――特にメリーは」
「うん」

 上階の時計には天文学的な値段が付けられていた。1、2、3、4……否定しておきながらも途中までは指で数えて、蓮子は欄干を歩んでいった。香りの違うポプリ瓶が壁との空隙を埋めるように所々に置かれており、歯車機構には似付かわしくない散々累々の花束に現実感は薄れていく。

「ねぇ、メリー。なにか視える?」

 言葉は呼び水だった。奇妙な味を覚えて、秘封倶楽部が始動する。“ねえ、メリー”

「な〜んにも。至って普通の…………ん?」

 時計の針の裏、手摺りに彫られた鶯の瞳の向こう、ポプリの中の不自然な空洞、降り注ぐ斜陽の照らす色味の違う床、吊り下がる七色のガラス灯、ぽつんと椅子にただひとつ置かれた音の出ないラジオ、様々な隙間が存在したが、メリーのつま先が進んだのは吹き抜けから外れた梁のさきの小部屋、値段の付けられていないお飾りの装置のある空間だった。

「何か見つけた?」

 問う蓮子に答えず、魂の抜けた人形のようにメリーはふらふらと誘われていった。やや低い梁を子供みたく潜って出た先には、巨大な文字盤が歯車の軋む音を立てていた。時計塔を内部から見たような剥き出しの機構の上、進入禁止の、丁度境界になる位置に穿たれた手摺りに跨るように、四足の何者かが居る。おおよそ地球上の生物には当てはまらないような、乳白色の体長60糎ほどの毛の塊だ。メリーのつま先が木造りの床を軋ませると、それはこちらに気付いて、ぴくりと長い尻尾――触手のような捕食器官かも知れないが――を一度大きく振った。

「蓮子、これ、これもしかしてあの噂の……」
「創立当初から生きてるお猫様……? なのかな」



「生きてはないよ」



 手袋を外し欲望のまま手を翳して毛皮に触れようとするメリーに、聞き慣れない第三者の声が突き刺さる。それは亡霊のものか、やけにか細い男性の囁きで、振り返った秘封倶楽部に大人一人分の影が覆いかぶさっていた。否、幻覚の生物ではない、それは生きている人間だ。10代後半の、眼鏡を掛けた清潔感のある和服の男が、ふたりに話しかけていた。

「……えっと、どちら……様ですか?」

 怪異世界から現実へと引き戻されて、蓮子は上擦った口調で問うた。彼の服はどこかで見覚えがあったが、その顔は完全な初対面だ。メリーは蓮子の背に隠れるように動いた。

「ああごめん。僕は此処の店主だ。いきなり話を切ってごめんよ」

 その男は時計店を束ねる人間らしい。だが、訊いた二人は、安心するどころか眉根を寄せて更に警戒を強めた。

「随分と、若返りましたね……」

 そう、彼女達の記憶にあるのは、事前に調べた記述やウェブサイトにあった、人の良さそうな初老の男性だったからだ。秘封倶楽部は運悪く遭遇した事を呪った。彼が、まさか、失踪者を誑かしたハーメルンの笛吹き男なのだろうか?

「あ、じいちゃんのこと? 少し前に腰やっちゃってさ、今は僕が店番してるの。なる気はないけど、5代目だよ」

 彼はそう弁解するが、おいそれと信用はできない。一歩下がって対峙する。蓮子は唾を一飲みして追求した。

「そうだったんですね。あの、生きてはいないってどういう意味ですか?」
「あー……、こいつは十三代目なんだよ。当初からは生きてないって訳。十代目を除いては全部メスらしいから同じに見えるかもしれんね」

 猫は、ラグドールの淡い色にサイベリアンの毛並みを合わせたような印象から、足の長い犬であるアフガンハウンドの被毛の長さを足した妙な体型をしていた。要するに、毛玉、もしくは極限までサラサラになった掃除用具のモップのようである。春先には珍しく雪が降るほど冷えているとはいえ、空調の効き過ぎた店内は少し煩わしいようでぐったりと寝そべっている。
 メリーは尋ねる。

「何か括ってるんですか?」

 過去の記事にこっそり写っていた猫の姿を思い出す。それは今と同じように異様なほどの長毛だった。

「いやそういう訳でないみたいだよ。じいちゃん曰く、何故か買ってきた猫がメスで、しかもやたら毛が伸びたらしい。十代目は九代目が逝っちゃった時に偶然道で拾ったからオスだったってさ」
「ふーん」 態度には見せていないが、メリーも蓮子も納得はしていなかった。重ねて訊く。
「その十代目って、何年くらい前――――」

 言い及ばない内に、従業員用の呼び鈴らしき電子音が放送で流れ始めた。店主は肩を跳ねさせて、こちらの口を塞ぐように矢継ぎ早に云って踵を返した。

「ごめん、ちょっと呼ばれた。毛刈り前だから暑くて気が立ってるからあんまり猫に触らないようにね。ちなみに35年位前だから。じゃ」

 あっという間に彼は立ち去ってしまった。ほんの一日の一瞬の偶然を切り取るように、猫の広間には秘封倶楽部を除いて誰も居なくなる。得られた手掛かりは謎をさらに深くした。

「35年前って……最初の失踪者と同じ時期ね――」

 深刻そうな表情をして、背に居るはずのメリーに話しかけようと振り向いた蓮子が見たものは、すぐにも禁忌を破ろうとする相方の姿だった。

「――――って、ちょっと」

 メリーの指は暑がりの猫に埋もれていた。按摩するようにもふりもふりとその毛並みを上下させる。されるままの猫は如何ともし難い表情を作って、大時計器械の一点をひたすらに眺めていた。

「聴いてた? あんまり触っちゃダメだって云われたばっかりじゃない」 咎める蓮子に、
「けど……、毛刈り式って今日でしょ? 今を逃すともう触れないかもしれないのよ。ほらすっごくすっごく……気持ち良い」 脳天気に時間を見送るメリー。
「それはそうだけどさ――」
 蓮子は少し視線を外して考えて、腕組みして取捨選択して、
「――やっぱ私も触る」
 と向き直った時、

「……」

 その沈黙に答えるものは誰一人として居なかった。
 足音もなく、言葉も残さず、前兆も素振りも表出せず、メリーは姿を消していた。失踪したのだった。彼女の眼にしか映らない結界は、結局あったのかどうかわからないままだ。

「メリー? メリー……? ねえ、メリー……?」

 虚しく声だけが響いた。数秒にも満たないほんの僅かな静寂を破って、他の観光客が梁の奥へと雪崩れ込んでくる。孤独ではない人々の流れの中遺されて、蓮子は力無く立ち竦んでいた。
 これまでもメリーが突然『結界の向こう側』に移動してしまう事があった。携帯電話に着信を入れるも圏外のようで繋がらず、二階吹き抜けから見下ろすように探しても、彼女の姿形、痕跡すら見当たらなかった。一階で接客業務をしていた店主に訊ねるが結果に変化はなく、いくつかの、いくつかの時間が経ってのち、蓮子は再び猫の前へとやってきた。
 まるで時間が止まっているかのように、四足の獣はそこに居た。彼女――猫だが、事件の一部を担っているのは明白だった。蓮子は正面に立って、そのオッドアイになった赤金と青銀の瞳を覗きこんだ。ふい、と顔を逸らされて、その視線の先を追う。時計店のバイオリズムがそうさせるのか人の波が一気に引いて、再び秘封倶楽部と猫だけの貸切状態となった。巨大な伽羅倶梨時計は十二時を随分と過ぎて、また短針をひとつ隣にずらした。

「こうなっちゃったら、私、何を選べばいいんだろう?」

 ひとり呟いて、蓮子は猫の毛並みに手を這わせた。なるほど確かに気持ちの良い柔らかさだ。この接触が、メリーに何を引き起こしたのだろう。自分を慰めるために二度、三度、と撫でる手を止められなかった。

「なーう、なーう」

 人間なら誰でも想定するだろう鳴き声を真似て、蓮子は無碍に時間を浪費していった。眼前には毛の長い――――無意識の内に行われた瞬きの刹那を掻い潜るように、唐突に誰かから声を掛けられる。

「君の甘え声はいつも機能的ではない。もっと練習するべきだ」

 蓮子は当惑した。それは男女の区別の付かない声色のせいでも、人間的とは思えない返しのせいでも無い、もっとマクロな、自分の身の回りの環境変化に対してだった。

「君は一人目ではないし、私の肉球がまだ起床後の柔らかさを保っている内に仕事を終わらせたいものだ」

 言葉は続く。目の高さにその対象はおらず、状況確認に震えた多くの視点への試行が、蓮子に彼の姿を発見させた。足元。いや、まず整理しなければならない。彼を知るよりも先に、彼女の体験した光景を。

「君は死んだ訳ではない。だが人間達の羨む柔毛を持って生まれた私は、此処に訪れてしまった君を案内する義務感に駆られている。そしてそれは実行されるであろう」

 非常にシンプルな世界観だった。眼前にあったのは真っ直ぐな一本道で、時計の音など何處にもない。道を外れないようにと、左右を鳥のガーゴイルに意匠された欄干が覆っている。戸惑って二の足を踏む蓮子の足元から、石の硬く冷たい音が跳ね返ってきた。横断歩道のよう白と黒を交互に積み重ねた敷石が、世界を強制的に弱視へと塗り替える白霧によって道の向こうで途絶えていた。此処は、渡り橋である。

「……――――」
 『あ』の形に唇を広げた蓮子は、出掛かった声を迷って飲み込み、もう一度、眼をぱちくりとさせてから溜息を吐き、なおも変わらぬ環境に疑問を浮かび上がらせた。

「ここ、どこ?」
「私の、人間よりも数百倍も敏感で聡明な頭頂にある耳には、もっと質問を聞き入れる社会的な余裕が有るのだが、尋ねるのはそれだけでいいかね?」

 質問をより多くの文字数で上書きして、その生き物は自信満々にその場に座り込んだ。蓮子には現実を受け止める時間が必要で、暫くの間は苦笑いをしながらそれの緑色をした瞳を見つめるしかなかった。声の主は器用にも後ろ足を持ち上げながら、黒い艶々とした毛並みを舌で毛繕いする程の余裕で、新たに声が生まれる瞬間を待ち望んでいた。
 それは猫だ。黒く、普遍的な、だが出し抜けな――

「答えてくれるなら、腐るほど問いたいよ」
「では聞こう。ただし君の怠惰な脳味噌が堪えられる情報しか渡せないが」
「.. 」

 声なく、蓮子は大きく嘆息した。何かを諦めたようだ。

「どういうことなの?」
「それは敬虔な私が行う偉大なる仕事の事だろうか。だとすれば語るには数百文字という会話劇に適した限度を越えて、この指の先にある出し入れ可能な爪の間の歴史から述べなければきっと君には理解のしようがないだろう。または君の靴が泥で汚れていない理由かね? 君自身の矮小な悩みを如実に打ち明けるのなら、私は年上の人間のフリをしながら最高のタイミングで適当にウンウンと頷いてやろう」

 そのたった一文の中に、蓮子の百面相が隠れていた。猫の云う物事は非常に遠回りで、核心をわざと避けるような言い回しに苛立ちは積もる一方だった。結果、表情だけが転々と苦虫を噛み潰したように彷徨って、またも一拍置いた後に蓮子は問い直した。

「ここはどこで、私はどうして居るの?」
「此処は云うなれば脳に刻まれている皺と皺の隣接しているショートカット部位、君達の物理学で例えると静的カシミール効果によって得られた2つの金属板の間にある、最もスピンの大きな部分である。そして君が此処に居る理由だが、それは種族的に優位性のある私にウルタールに案内されるためだ」

 不機嫌そうに蓮子は唇を尖らせた。やはり躱される。

「カップリング(※物理学用語)が何の関係があるの? あと『私がどうやってここに来たか』を訊いてるの」 語尾は強く、しかし理解しようと努力する脳は思考回転数を上げて冷静さを強めていく。
「ほう! 君は猫と会話ができるのかね」
「するつもりはあるよ。“ウルタール”みたいな冗談をなくしてくれればさ」
「では、“わくわく毛まみれネコランド”は如何だろう? 遠大なる親切心からなる私の声帯は、君達の文化圏から最も意味的に近い語句を吐き出したつもりなので許して欲しい。呼称など浮いた水草の根に引っ掛かった小さき泡よりも無意味なのだよ」
「で?」 もはや返す発声にも余力はない。
「君はさきほどの彼女と、その前の彼女と、またその前の彼女と同じく、触れただけであるのさ。しかし、石英と黄鉄鉱を衝撃を持って擦り合わせた時にやがて燃え盛る火の元が生まれるように、ある単線上の単純で単一の反応でしか無いのだよ」

 ほぼ全ての注意を内側に向けて、蓮子は解釈を試みた。猫の言葉は、さすがに異種族とあってか難解だ。

「つまり、お猫様に触ったのがトリガーになってるって事ね」
「正しいと云える。正確なる全体像はもっと複雑で異様な一次元的な紐の絡みあった厳密なる条件に於いて分岐が発生しているがね。スシの観測用加速器は君の世界にはないだろう?」
「SUSY(超対称性)の事? それとも猫らしく生のお魚の乗ったお寿司? なーんとなくだけど、あなたの言葉が読めるわ。前にココにメリーが来たのね」

 判読したのか、蓮子はしゃがみ込んで猫と目線の高さを合わせて不敵に微笑んだ。第三者から観察すると、妙な光景であった。霧がかった石の橋に猫と人間が座り込んでいる。行先は見えない。

「これだから名詞は不便なのだ。私はね、『蓮子』。さきほどの彼女に名前を一度も尋ねては居ないのだよ。運悪く、数億万分の1の確率で起こり得る人間のように早とちりした私に遭遇したらどうするつもりだったのだ? 『ほほう、先程の女性はメリーと云うのか』と発言してしまったら、君は誰でもない、名を与えられていない私の記憶の中の霊長類ヒト科に、妄信的な自己同一性を当て嵌める処だったのだよ?」
「私、一回もあなたに名乗ってないよ」
「という事は、君は『蓮子』なのだ。さきほどの彼女に云われたよ。『あとに続く蓮子を頼む』とね。呼ばれなければ名前など――――」
「待ってよ」

 何か、得体のしれない違和感があった。嫌な引っ掛かりが蓮子の声帯を襲い、猫の台詞を上塗りさせた。『あとに続く』?

「私は、メリーみたいにひとりだけで結界を越えるなんて出来ない。お猫様に触れるなんて嘘っぱちで、あなたが任意で引きずり込んだようにしか思えないわ」
「そうとするならば、私の与えた暗示は根本から揺らぐであろうな。だが、未知の環境に陥れられた盲目なる君に、果たして疑えるかな?」

 道は、後にも先にも続くのだ。帰るべき扉もなく、飛ぶべき法則も見つけられず、放り出された霧の橋の事をなにひとつ知らない蓮子に、拒否権はなかった。だが――――

「そうね……。もしあなたの声をみな否定するのなら、私は右も左も判らなくなる。けどあなたは私に語り掛け、啓示を与えた。私は自由に、それも都合の良いように選択できるのよ」
「『多くの選択肢のある自由』が決して幸福ではない事を、君は――――いや知っているのか」

 まず足を使う動物とは大きく違う点が人間にはあった。歩みを止めるからこそ視えるものがある。

「人間は優柔不断だから、まず頭を使うのよ」

 突然高笑いが響いた。ハッハッハッ、と猫は小動物の発声器官の枠組みを超えた実にリアルな感情を露わにした。口元だけ別の生物であるかのように微笑んで犬歯を剥き出しにして、その先導者は持てる分岐点を展開した。

「君には、2つの選択肢がある。細かい話は抜きにしよう。まず、まっすぐ進めば彼女の歩んだ足跡を辿れるだろう。メリーを追うのならば諦めて橋から飛び降りるがいい。後戻りは許されんぞ。私は真実しか云わないのだからな」

 判断は一瞬だった。数百、数千の思い込みは多様な未来絵図を描いて、蓮子に重くのしかかってくる。この理屈臭い猫は『私は嘘吐きである』という自己言及のパラドックスを知っているだろう。嘘吐きならば正直者にならないように、正直者ならば嘘吐きにならないように、私は嘘吐きだ、とは嘯けない。だからこそ、『私は真実しか云わない』と誰もが云う。
 蓮子は、猫を読もうとした。1ページ、1ページと本を捲るように、回想していった。つい数分前に出会った生き物を名残惜しむかのように、記憶に遺すかのように思い返した。現実は圧倒的に自由で、前述のよう嘘と真を扱う人種が綺麗にふたつに別れているなんて寓話は何処を探しても無い。誰もが誰も、固有のタイミングで嘘と真実を散りばめて、時には騙し、時には言葉を隠そうと、時には諦めたりだってする。
 嘘が判るのは、いつだって云った自分自身だ。
 答える。

「……――私なら、霧の道の向こうに行くわ」

 聞いた猫は、露骨に顔色を変えて、蓮子を仰ぎ見てきた。願うような視線。そう、初めに蓮子が出した猫なで声を使うときの、誰かを求めている眼差しだった。

「では征こう。勇猛果敢なるヤヌスの眷属よ。君の擅断には時を超えて畏れ入ったよ」
「それなんだけど」

 踵を返して先往こうとする猫とは、90度方角が違っていた。蓮子は欄干に手を置いて、霧の奥を透かし見るようにして橋に凭れ掛かった。

「きっとメリーにも同じコト言ったよね。あなたには悪いけどさ、私はあなたの性格より、メリーの人格を信じるわ。きっとメリーなら、こんな眼に見えている、それもガイドのある道なんかに惹かれたりはしない。多分、あの白い霧の向こうに、私達の求めるものはあるのよ」

 身を乗り出して、幽かに風の流れる領域外へと鼻先を向ける。鳥類のガーゴイルに並び立つよう、昇った手摺りの上で両腕を広げて全身でその世界を受け止めた。猫は気付いて振り向いて遅れた声を飛ばす。生じた言葉は同時だった。

「彼女が居なくても、か?」
「メリーはそこに居るわ。きっと」

 ふわり、まるで空を飛んで行くように蓮子は地から靴を離した。留まった空気を裂いて引力に惹かれていく。加速度は増して、蓮子の肩甲骨ほどまでの長い髪がハタハタと靡いていた。落ちていく。落ちていく――――……



「………………これでいいのか、蓮子。古き友人よ」
 もう戻らない人間を送って、猫は愛おしそうにそう呟いた。



    :    :    :    :



 額に雫が落ちて鼻筋を流れていった。彼女は、膝を抱えてそこに座り込んでいた。恍惚と手放していた意識を取り戻すと、ようやく自分の境遇に気が付いた。水のせせらぎ、文明的な仕組みから離れて迷い込んだのは、ある川辺だった。
 熱を発しているのか、地に触れた部分から人肌並みの温かさが伝わってくる。ビスマス結晶に似た幾何学的な切り口を持った鉱石が行く手を阻むように壁を作り、唯一の道は先程からずっと流れ続けている飴色の川だった。どうやら底の石の色が透けているらしく、手で触れると冷たく透明な清水へと変化した。地下水だろうか。
 空を仰ぎ見る。真っ暗だった。鉱石は遥か頭上、視覚の追いつかない領域まで続いていた。まさかと思い、砕けて散らばっている石クズを拾い上げると、それ自体が僅かに赤白く発光していた。光源は壁面全体のようだ。もう一度川辺に顔を覗かせると、その水面に自分の顔が揺れつつも映った。金色の髪に紫の洋装――――……
 メリーは眠ったのだと思った。猫と他愛もない触れ合いをした後の記憶が曖昧だった。傍らに蓮子の居ない事実に寂しさを覚えて、自分に許された空間を見回した。偶然に自然に穿たれたほんの小さなスペースだった。川の上流は鉱石に阻まれて狭く閉ざされていて、進むとしたら段々と深くなっている流れる先を潜っていくしかないようだ。帰り道となる結界の裂け目なんて何処にもなかった。

「どうしよう」

 独り呟いて、とりあえず手持ち無沙汰から雑石を賽の河原のよう積み上げる作業をしてみる。延々と腰の高さまで載せ続けて、ふと、眼に引っかかるものが映った。つい先までは何もなかったはずの地の空白に、ちょこん、と丸いものが置かれている。四角い結晶上の鉱物に溢れた此処に似つかわしくない、若干縦に伸ばされた白い球体だ。

「こんなのあったっけ」

 手を伸ばし、ひとつ掌に収める。そのほんの一瞬の隙を突くように、またもや変化が訪れる。メリーの持つ一個とは別に、再び球体は全く同じ場所に出現していた。

「増えた?」

 石洞に反響する声が消え終わらない内に、まるで自己増殖でもするかのようにふたつ、みっつと生じていく。4、5、6、と瞬く間に数は続いてそして――――……
 ドバアアアアァァァァァァンッッ!

「――――っっ!?」

 一気に爆発した、……とメリーは思い込んだ。圧の掛かった水が内側から噴き出したような轟音が背筋に駆け昇ってくる。球体、手、壁面と迷った視点の端から、スローモーションになって水飛沫が襲いかかってきた。頬を伝う水滴の冷たさを感じて、ようやく起きた出来事が飲み込めてきた。景色や小道具には崩壊はない。訪れたのは新しい登場人物だった。

「7匹の雛鳥は何時ゝゝ孵る♪」

 それは猛烈な勢いで水面から顔を出した小型の潜水艦だった。雀色に塗装された金属製の上部ハッチが開いて、鼻唄と共に緑色の帽子がひょっこりと現れる。眼鏡を掛けた黒髪のベリーショート、12〜3歳ほどの少女だ。境界の向こうの夢の見せた幻かと疑ってメリーは目をこすってみるが、運良く彼女は真実のようだ。

「えっと、おはよう」

 言葉を失って、メリーは挨拶を掛けるしかなかった。すぐにも視線が合わさって、妙に長い間が生まれる。滞留した空気感はみるみる内に濁っていき、まるで猫の睨み合いのような重苦しい硬直に発展してしまった。どちらかが声を出さなければ、

「貴女幽霊?」
「ここはどこ?」
 ほぼ同時に牽制が決まり、
「「あー?」」

 感嘆符によって雰囲気の行く末が矯正された。乗り物から全身を脱した少女がメリーの前まで歩いてくる。身長は頭ひとつほど低い。冬服の黒いセーラー服に半透明のレインコートを着ており、彼女はそのポケットから金メッキの筒を取り出した。筒は折畳式のようで先を持って一気に引き伸ばすと、全く暴力的な、警棒の形に成り果てる。だが、少女の持ち手は反対側。細い方を手にして、メリーに突きつけてきた。

「触らせて」

 レンズの乱反射を浴びて、メリーはその物体が折畳式の望遠鏡だと理解した。未開の洞窟に住まうある程度高度な文明を持った野蛮な人間――という支離滅裂な想像は払拭されて、安心して会話を成立させるよう向かう。

「いいけど……」

 相手は子供だし良いだろう、と朦朧として思った。どう解釈すれば良いだろう、この場所は。来るべき触感に、なるべくこそばゆく思わないよう意志を目的に沈ませる。そうだ、蓮子を待たせている。メリーをまさぐる少女の手は思ったより念入りに、踝から始まって膝裏、太腿とまるで日焼け止めのオイルを塗るように確かめていって、肩まで順々に撫でてくる。背伸びをして頬肉をウニウニと遊んでのち、メリーの金色の髪に手が触れかけて、その動作は突然ピタリと止んだ。

「貴女、メリヰよね」
「えっ」 言い当てられてメリーは目を白黒させる。
「お遭い出来て光栄だわ。聴くに違はぬ良い匂ひ」
「ちょっと待って!」

 顔を近づけて犬のように体臭を確認する少女を引き離して、メリーは二歩、三歩と後ずさる。彼女は自分を知っている? にしては記憶にない。例えば人の皮をかぶった獣、化けた老猫や魂の宿った器物ならば、一方的にこちらを観測していたとしても不思議ではない。だが、メリーの眼に映っているのは人間だ。

「一寸だけ待つたぞ。では此方ゑ」

 その思案の間にも少女の時間は切れて、あっという間に手を引かれて潜水艦へと誘われる。

「やめ――――……」 まだ何も理解できていない。拘束を振りほどこうと腕を振り上げた途端、メリーの予想だにしない反応が返ってきた。相手側から、拘束は解かれた。

「あー?」

 潜水艦のわずか手前で孤立させられる。少女は仕事をやり終えた風に満足そうな表情で、件の7つの球体に駆け寄ってそれら全てを懐に入れていた。メリーは位置を移動させられただけ――意図が見えずに困惑して、何か問い掛けようにも言葉が詰まってしまう。

「……とりあえず名前だけでも教えて。私はあなたの予想通りのメリーよ」

 声が出た時には時が経ち過ぎていた。少女は球体を回収し終えて、その眼は潜水艦の開いたままのハッチへと向かっていた。メリーの横を何事もなかったかのように通り過ぎ、甲板をよじ昇って艦内に半身を潜り込ませる。そこから彼女の起こした行動は――――顔だけを出して、ただただ上から薄ら笑いを浮かべてこちらを伺うという、筆舌に尽くしがたい悪意に満ちたものだった。

「あの……何?」

 だが、答えない。
 一瞬は訝しがったメリーの感情も、瞬く間に焦燥に支配されて次の、次の問いを生み出していった。

「えと、何をしてるの?」
「潜水艦の中に入っていい? 何処へも行けなくて困ってたんだけど」
「ここは何処なのか教えて欲しいんだけど……」
「リーデンミラー時計店とか、宇佐見蓮子とか聞き覚えある? すごい大事なことなの…………」
「どうしてずっと見てるのよ………………」
「何か言ってよ……………………」

 少女の沈黙は幾つもの声を引き出した。まるで崇められる神と敬虔な信教者のような構図であった。願いは聞き届けられずに、時間だけが無情にも記憶に刻まれていく。縋るように仰ぎ見る内に、メリーはあることに気が付いた。
 少女に、見覚えがある。それも顔だけに。
 ごく、ごく最近に眼に映ったものの面影がある。それが何なのか、自分の通った大学や蓮子と共に歩んだ場所を思い返すが、明確なビジョンが浮かんでこない。誰だ?

「私に何か、試してたりする?」

 心を励起させて、メリーは行動を選んだ。甲板に足をかけて、同じ舞台に上り立つ。スッと背を伸ばして二本の足で身体を支え、逆に少女を見下ろした。

「目的は知らないけれど、一人芝居はもうゴメンだわ。あなたには喋ってもらう。力ずくでも」
「力なぞ加えずとも喋つてあげるわ」

 一体引き金は何だったのだろう。唐突に彼女との会話は成立する。怒りや暴力を畏れているような仕草は全くなく仏頂面で、まるで表情を必要としない水棲生物を彷彿とさせる冷たさがあった。艦内に降りていった少女は手首をひらひらと出して、メリーを奥の空間へと誘ってくる。
 どうやら目覚めがやがて来るような夢の世界でなく、自ら糸口を縒っていかなければならない境遇らしい。まるで居眠りによって乗り過ごした遠い駅――――
 戸惑いがほんの数秒メリーの靴を重くしたが、決断は早かった。鉄製のはしごを降りて行って、続く不条理に心を構えてつつも新天地につま先を下ろした。鉄臭のする設備とは打って変わって、そこには自然が溢れていた。想像したよりも遥か狭い。

「緑化活動?」 ぽつり呟いたメリーに、
「御名答。殺風景だつたから毎年一種類ずつ殖やしていつたの」

 たった一本道の足の踏み場を残して、植木鉢と箱型プランターがまるでパズルのように敷き詰められていた。艦内上部からも植物が吊り下げられている。少し蒸し暑い。菜の花に向日葵に菊、南瓜にアサガオ、薔薇の巻きついた艦内パイプ、何故か花をつけている淡赤の紫陽花と全く統一性がない。虫の一匹も付かない様は正に人工物だが、指で触れてみると生命の柔らかさがあった。多種多様の花の香りに頭がクラクラとする。

「そろそろ答えを貰ってもいい? あなたが味方かどうか」

 コックピットとは地繋がりになって障壁はなく、楕円になった超小型の、まるで回転遊具のような形の船である事が知れた。先端には各航行装置らしきスイッチ&レバー群と、操舵者用の黒紫色の立派なシートがひとつ、あとは作業乗組員用の簡素な椅子がふたつ後ろに連なるように備え付けられていた。先頭に腰掛ける少女に案内されて、クッションの少ない客席にメリーは腰を下ろした。どうも、メリーの中にある潜水艇の知識とは随分と様式が異なっていた。

「貴女が私の知り得てゐるメリーなのならば、最も味方に近しい内ひとりとなるでせう」

 発光石によってやや赤黒く沈む水中を映した前面ガラスに、船のものと思われる強力なサーチライトが灯り、メリーは目を見張った。水底はまるで宝石で出来た珊瑚礁であった。少女は緑の帽子を被り直し、顔だけこちらに向き直った。

「自動操縦よ。“向こう側”に辿り着くまでの猶予は短い。貴女が忘れてゐなければ、答えを解凍していくけれど如何?」

 どこか余所余所しい口調だった。彼女とメリー、双方人間の形はしてはいるが、確かに埋まりきらない精神的な溝がこの僅か数十センチの距離にはあった。何かが、違っている。

「じゃあ、どうしてさっきは私を無視したのよ」

 その『何か』を分解しないまま、メリーは声の駒を進めた。夢でない、ここはもう幻想の中だ。

「明白な理由を思ひ付いたのならば、寧ろ私に教えてをくれ。欲望が突き動かして動けなかつたのよ」
「なにそれ。あなたは一体どうしてあなたなのよ」
「実に戯曲的な質問ね。私は見てゐたり、聴いてゐたりしたいの。現に貴女から質問を引き出したぢやない?」
「つまり悪戯心? 魔が差したの?」
「貴女が納得するならばそうでせう」
「私じゃない。アナタ自身はどうなの」 メリーには少女の意図がどうしても気になった。口振りから察するに、自分に関係する誰かと繋がりがあるはずだ。まずは知る。それからだった。

「同じ事を二度も云わせたい気持ちは判るわ。私の目的は変わらず見てゐたり聴いてゐたり……」

「何か」 気味の悪さを感じた。手段と目的の逆転。つまり少女はメリーに対して観察を行っていた訳だ。名前や体臭を知れるほどの時間やデータを共有する何者かと共に、まるでケージ内のアルビノラットを覗くように――「ごめんね。私が悪かったわ。名前も訊かずに」 言葉には嘘だってある。
「名前が無いと不便でせうか?」
「どうやって呼び合うのよ」
「あれこれと」

「…………あー……」 皮膚に刺さる鈍痛にやがて慣れるように、メリーの中に冷静さが生まれていった。一方的な無視によって抑えつけられた反動なのか、感情的に会話を進めていた事に気付いて今一度口を噤んだ。

「質問の形を変えるわ。あなたが私に教えられそうなものは何があるの?」 多くの時間を経て次の一歩を踏み出す。
「私の関心の向かふ所に依ると、卵なのでする」

 未だ名前さえ持たない少女は先程採取した7つの球体を取り出し、機体の窓外の虚空に顔を向けて答えた。

「生じはすれど生まるる事は無いの。けれどひとつゝゝゝに固有の色が与えられて、それはゝゝゝカラフルな目玉焼きに。赤黄緑青白黒……」

「あのさ」 そう容易に真実に辿り着かせてたまるものか、とでも云いたげだ。メリーは遮って囀った。「話を切ってごめんなさい。私はリーデンミラー時計店から来たの。猫と戯れたあと何も思い出せなくて、気付いたらココに居たのよ。何かの洞窟みたいだけどココは何処なの? 私はどうしてココに来たの? 宇佐見蓮子っていう大事な友達を待たせてるの。どうやってココから帰るの?」

「でわ答えませう」 負荷によって力は返ってくる。「此処は何處かと彼処の隙間」 続ける。「貴女はお猫様に触れたでせう? 普通で在れば問題は無いのだけれど、私や貴女やあのひとは――――」

 と、不自然にも言葉を切ってしまう。思わせぶるばかりで、まるで答えになど至っておらぬのだと語るかのようだった。前面ガラスの外にお猫様に似た毛玉が一匹ふわふわと泳いでいた。瓶詰めにされた手紙がひとつ、ふたつと漂い、まるで彼女達を訪ねるように窓をコンコンと叩き、妙な雰囲気を醸し出す。

「私やあなたやあの人は、なに? そのさきはどうなってるの?」
「ほんのわずか前、貴女は私に一寸待たせた。ならば今より其の一寸の時間、待つて貰えると有難い」

 ガタン。背後から大量の植木鉢達が跳ねる音が上がってきた。コックピットの窓外にゆっくりと上昇していく水の泡が、途中でピタリと止まった。潜水艇が急上昇しているのにメリーが気付いた時には、その腰が自らの意志とは関係なく浮き上がっていた。跳躍の頂点でベクトルが変わる瞬間に訪れる一瞬の無重力、その感覚が長く、延々と続く。

「えっ? ええっ!?」

 例えるなら夢の中――――メリーは浮遊していた。いや彼女だけではなく、艇内で固定されていないもの、多くの植物たちや操舵する少女も同じくフワフワと重力より開放されていた。

「ちょっと待ったわよ。説明して!」
「では此方ゑ」

 しかし自由が効かない。重い蓋をもたげるように慣性は壁にぶち当たり、次々と勢いの余ったまま天井に衝突していく植物群と同じく、メリーも加速度に引っ張られて腰を強打してしまった。なおも空中遊泳は止まらず、赤ん坊のよう浮きながら膝を抱えて痛みに悶絶する。

「シートベルトは締めませう」 何処からともなく同乗者が云う。

 意識を外に向けた時には、少女は操舵席には居なかった。前面窓には眩いほどの昼光色が溢れて、薄布のよう波打つ水面が間近で踊っていた。緑化活動の花達は互いに複雑な軌道を描きながら緩衝し合って、やがてメリーの前まで流れてくる。目を開き、ぎこちないながらも五体を伸ばして身体を安定させる。壁を蹴って移動することを覚え、天地逆にして着地したメリーは大声を張り上げて語りかけた。

「ちょっと待ちなさい! もうっ!」

 返事はなかった。もはや脱出してしまったのだろうか。密林のよう重なりあった草花を腕で掻き分け、メリーは唯一の出入り口に向かった。ハッチに繋がる梯子に手を掛けて一漕ぎ。みるみる内に到達点の光は広がった。正に冒険だった。
 世界には『引力』が無かった。一気に飛び出したメリーは空間に眼を見張る。まるで扉のように床面が四角く切り取られて水域となっており、そこから潜水艇は顔を出していた。川底から繋がる場所とは思えない。人工的な光があった。

「………………」 言葉を失ってしまう。

 病的にまで白いホテルルームだった。中世ヨーロッパを切り取ったようなバロック様式の洋館装飾が、約六メートル四方の部屋を構築している。メリーを囲む壁には二つずつ線対称になるようにインテリアが飾られており、各方角に一種類ずつ、古書の載った大理石のハーフテーブルに大衆と丘の描かれた絵、篝火を掲げたローマ彫刻、等身大の姿見鏡が意味深に存在していた。四隅を埋めるようにロココ調の豪華な椅子が置いてあり、それは何故か部屋の中央に向けられていた。床は曇りガラスで敷き詰められており、その内奥から電気的な光が漏れている。内部で最も目を引くのは、非対称の、中心にただひとつだけあるベッドと温かい食事の用意された円卓であった。
 スプリングの強そうな極厚の白いシーツのベッドの上に、人間が二人座っている。片方が先程までの潜水艇の子。もうひとりは同じくらいの年頃の黒髪短髪――――消防服のような光沢のある橙色のワンピースを着ている。それは身体の中心線に添うようにしてジッパーが取り付けられており、ガラス球で拵えられたフードが随分と特徴的に見えた。彼女は木製のハノイの塔(※遊具。下面が板繋ぎになった三本の杭と大きさの異なる複数の円盤から成るパズル)を熱心に解決に導いていた。
 まるで真空管の中のように静かだ。件の新しい登場人物は頭を使って――つまり修行僧のように頭頂で逆立ちしてベッド上に腰掛けている。異常なことでは無い。無重力であるがために、天地逆さでも構わないのであった。

「待つてゝね。すぐにも卵焼きを作るから」
「ん。」

 七つの球体を胸に抱いた少女は、メリーに答えなんて告げずに部屋の奥へと扉を通って飛んで行ってしまった。まず去来したのは、疎外や不満感と云うような情動ではなく、残されたもうひとりの娘への、疑問だった。

「えっと、こんばんは」

 見た事がある。潜水艇の彼女の時よりも強いデジャヴだった。同じように声を掛けて、メリーは宙をふわふわと進んでいく。

「ヤア。やうこそメリヰ。」

 手元にある塔を空に放り出して、少女は向き直った。逆さのまま立ち上がる動作を再生して、四肢を伸ばす。さながら彼女は投影された映像であった。

「何から話せば良いのかな? 教えて欲しい事があるの」

 もはや咎める気も失せていた。浮遊に順応するように、メリーはすぐにも本題を持ち出した。対する彼女もすでに声を用意していたようでいとも容易く述べてみせる。

「聴いてをるよ。此処の事だらう?」

 ス、と掌をベッドシーツに当てた少女は、そのまま自分を投げるように腕を振って直立のまま部屋内を泳いでいった。まず手に取ったのが壁際にある古書だ。彼女は表紙をこちらに向けて語り始める。

「我らは此処を利用してをるのだ。乃ち私が稀代の魔女であり、霊異なる秘術に依つて空間の隙間を拡張した、なんてお伽話は嘯けない。始めから在つたのだ。洞窟も潜水艇も部屋も、我らはあとから来たのだよ。」

「?? あなたの云いたい事が解らない……。だって、私が知りたいのはココと元の世界への移動の方法で――――」
「お猫様が原因なのはメリヰも知つてをるはずだらう? 見るがよい。此の古書を。霍香知識庫との署名が入つてをる。先住者が何処より持ち込んだものであらう。理解は出来ぬがヰラストを読むかぎり遥か未来的な科学書なのであらう。」
「未来的な古書……?」

 彼女は本を置くと天井に爪先をつけて、ゆっくりと逆さ歩いてきた。分解されたハノイの塔は周囲にその部品の「輪」を浮かべて、さながら虚空に漂う銀河のようになっていた。云う。

「未来なぞ、無いのです。」 ニコリ、と笑う。

 ついに、メリーの脳髄にある回想が閃いた。それは見覚えのある少女たちの顔についてだった。全く年老いていないその面影は、写真、蓮子と共に調べた――――

「思い出した! 36年前よ!」

 リーデンミラー時計店の失踪者の笑顔だった。

「私の事を知つてをるやうだね。ならば話は早い。望み通り君の髪を短くしてあげやう。」
「待って! 私そんなこと――――」 言っていない。

 噂が真実になった瞬間であった。途端、奥の扉からカラフルな厚焼きをラップに包んだ皿に盛りつけた潜水艇少女が帰還する。記憶は芋蔓式に刺激されて、彼女の顔が二人目の失踪者だと判明した。どちらも全く歳を重ねていない。子供のままの姿だ。

「ヤア。美味しさうなものが出来たな。聴いてをくれ、メリヰが髪を切るのを決心したさうだ。」
「嗚呼。其れは目出度い」
「待ってったら! 私はヒトコトも髪を切るなんて言ってない!」

 まるで挑発するように話を掻き交ぜる二人に、メリーはついに声を荒らげた。徐々に蓄積していった苛立ちは最高潮に達し、耳鳴りがするほどに空間に反響して輪郭を振動させる。質量の関係しない部屋内では思う存分に物理が跳ね回り、やがて計算の及び付かないミクロな変化が生じ始める。それは、妙な集束、バラバラに飛散した玩具の塔の輪が、あらぬ因縁で元の少女の掌へと集まっていく超確率の偶然だった。

「すまない。私の早とちりだつたやうだ。」
「なーんだ。さうならば蓮子が喜ぶのになァ」
「幻惑するのはやめて! 私は帰りたいのよ! あなた達の云う蓮子じゃなくて、私の蓮子の場所まで!」

 あれから、猫に触れた時からどれだけの時間を隔てただろうか。否。気苦労によって嵩増しされた道程が、分厚い上り坂に見えるだけなのだろう。

「しかし蓮子の云ふメリヰは望んで訪れたはずなのだが……、」
「あなたに蓮子の何が判るのよ! 何者なのよ!」

 二人の子供は、メリーとは上下逆さになってお互い顔を見合わせた。まるで鏡や掌を眺めるが如く首を傾げて、暫く考えるように唇を結んで、ようやく外側に視線を向けた時には、初めて感情らしき声色が宿っていた。

「だうやら私の勘違いだったやうだ。」
「遺された蓮子の心配もしてやつてね。彼女は貴女も含めた私達のやうに生まれつきでは無いのだから」
「どういう意味よ……。解かんないわ」 噴出する。
「私の名前は、」 硝子球フードの娘は手元に収まったハノイの塔をチラと一瞥して「“塔”とでも呼んでください。」 そして潜水艇の少女に目配せすると、件の彼女は少し戸惑いの表情をして皿上の厚焼きを見下ろして、「でわ私は、……“卵”とでも」 今更な呼び名を唱える。

 塔は間髪を入れずに続ける。

「メリヰの御存知の通り、我らは昔ゝに失踪した。紹介しやう。我らは超常能力を手にしてをるのだ。」 台座に差し込まれた様々な大きさの輪が、ひとりでに左右交互に回転していく。「我らのやうな生き物が毛の長い時期のお猫様に触れると、この世界に墜ちてしまふやうなのだ。」
「ちなみに理由なんて無いのよ。多分、さういうものなの」

 嘘か誠かは無重力の霧に隠されて、言葉だけが積み重ねられていく。

「何故だか長く毛が伸びる猫といふ不思議は、恐らくは人間の思慮の及びもつかない幻想のリンクにあるのであらう。現に、毛の長い内はお猫様は此の世界にも度々訪れる。再び撫でてしまへばメリヰは帰れるのだらう。」
「本当……? 信じていいの…………?」
「君次第だ。運の悪い事に私が囚われた時、お猫様は十代目に代替わりしてしまつた。だうやら雌で無ければ帰れぬやうで……帰宅した頃には精神の故郷なぞなかつたよ。ほんの、たつたの六年しか隔ててゐないのに。」
「此処は永遠なのでせう。塔も卵も老いる事はなかつたのよ」
「最早生き辛くなつてね。クリアする度に此の玩具の輪を年々と増やしながら、64個に達するまで繰り返すのさ。今を。」
「因みに私は自分の意志で不老不死を望んだわ」

 情報の洪水に溺れてしまいそうで、メリーは宙空で足をばたつかせた。俄には信用できない。猫、長い毛、雌、時空の歪み、撫でる、超能力の子供、あらゆるものが理不尽だ。――――雌である必要は処女性を重要視するシャーマニズムで、猫は多産や家の守護者を象徴し…………考察するも共通点が見えない。咽頭が震え、言語にならない呻きが漏れた。無重力に酔い、背筋から舌先にかけて軽い吐き気に支配された。

「何か、変よ。あなた達…………最初っからそう」
「我らはさうなる運命にあつたのだらう。何ゆえに他人と違つて生まれたのか。如何にして爪弾きにあつたのか。」
「勿体無いぢゃないの。折角の個性ですのよ?」
「此の世界が魔的な先住者に依って廃棄されをる事も、我らが猫の毛並みに選ばるる事も、蓮子とメリヰが此処に入寂して来る事も、織り込み済みであつたのだよ。何なら探してみるかね? 未だにお猫様は何處かを泳いでをるはずだ。触れられれば戻れるるやもしれぬ。しかし君は従うだらう。」

 強調するように一旦言葉を切って、
「君の靴より伸びる、ひとつの命運に。」 と人差し指で嘯いた。

 何処からか、コツ、コツと足音が近付いてくる。誰一人重力に従って足を降ろしていないにも関わらず、まるで亡霊が騒ぎ立てているように音は迫り来る。無機質な床面の光が、消え入る寸前のフィラメントに似た激しい点滅を起こした。歪になったメリーの影が、天井に黒く丸い眼球のような不気味な塊を形作った。沸き立つ不安を振り切るように首を振って、ふたつの脅威に相対する。が、

「…………私の足はいま浮いているわ。無重力下では必ずしも脚を使って進む訳じゃない。あなたの例えは不適切だわ。運命はひとつじゃな――――――」

 扉が、開いた。先程まで卵が調理を行っていたらしき奥の空間より、第三者、件の二人よりも遥かに背の高い人影が現れる。それは女性で、強く記憶に焼きついた顔で、しかし、遥かに大人びて――

「――――――――蓮子!」

 叫ぶように強く名前を呼び掛けた。親しき友人、彼女は、姿は若干変わりつつあるものの、手の触れられる距離に訪れた。

「……メリイ? メリイ!」

 秘封倶楽部がお互いを瞳の中に捉えた。眼前に起きている現実を信じられないように、一度目をこする。目蓋を上げても残像は消えない。蓮子はドアを蹴って一気にメリーへと飛び込んだ。

「会いたかつた! ずつと、ずつと待つてた!」
「蓮子、ごめんね。待たせちゃって……」

 手と手を取り合い、まるで回るように宙を飛び交った。

「ほをら。言つたでせう? 蓮子は此処にをるし、我ら二人は嘘は言わぬのだよ。」 茶々を入れる塔を、
「さ、蓮子。帰りましょう! こんなところにずっと居られないわ。お猫様を探しに行きましょう」 そっちのけでメリーは提案した。
「え、え? 話が見えないのだけれども……」 狼狽える蓮子。
「お猫様を撫でて時計店に帰るのよ! 毛の長い内に!」
「?? どう云う事? え、ええ?」

 手を引っ張ってメリーは潜水艇へと向かい始めた。止める腕はなく、間もなく蓮子は誘われるがまま部屋の川辺に辿り着く。

「この潜水艇に乗って。あとで説明するわ」
「えと、とりあえずわかつたわ」

 メリーを突き動かしているのは憶測と直感であった。思えば、不可思議を探求する行為は、科学的追求と同義であった時代もかつて存在したのだ。観察と累積によって生じた『幻想の法則』という曖昧なものを暗に覚えてしまったのかもしれない。卵より潜水艇を奪って、塔より逃げ出す。
「良い旅を。」 彼女達は常に動かなかった。

 飄々と笑顔を形作る二人に対して、ハッチより顔だけ出して蓮子は手を振って返した。



 ――――――――――――…………
 秘封倶楽部が去ったあと、相も変わらず電気的な明るさを見せる部屋に、僅かな会話が咲いた。

「そろゝゝ時間でないかね。」
「ぢやあ予備に乗つて、もう片側に向かうよ」

 潜水艇はひとつではなく、時は少しばかり流れて、また、来客もひとつではなかった。メリーと同じように困惑した表情をして、予備用潜水艇から先程と全く差異のない光景が再生された。
 卵は厚焼きを作りに行き、未だ料理は温かいまま、塔は訪れた人間にこう告げる。

「ヤア。やうこそ。君を待つてゐた。順番待ちですまないね。」

 親しい友人に話しかけるよう、潸々と。

「君に伝えて置きたいことがある――――……」



    :    :    :    :



 光は灯り、ずぶずぶと水底に沈んでいく。低重力に潜り込んだ泡沫はビー玉のよう割れず浮かばず、操舵席より眺めた世界観は散りばめられた星空と化していた。帰り道となる猫を捜して、沈んで、沈んで――――……

「蓮子、知ってたの?」

旅路の中央、操縦桿を握ったのは蓮子であった。傍立ってメリーは、その肩にもたれ掛かるように行方を見守っていた。

「此処に来て長いから。動かし方を覚えちやつた」
「…………ごめんね」

 一体どれだけの時間を、幾何学的な賽の河原で過ごしたのだろうか。身を寄せ合い、布越しに微かな体温を感じるほど密着しているのにも関わらず、確実な隔たりが二人にはあった。違和感を覚えてメリーが再び見遣ると、記憶の中の蓮子と彼女は何処か、いや、外見で判断できるほど大きな変化が、部屋から飛び出した咄嗟には気付けなかったが、ある。
 髪が、短い。

「蓮子、髪、切ったの?」
「うん。変だつた?」
「ううん。似合ってる」 他愛無い、ずっと求めていた会話だった。
「良かつた。此処は時間の流れが無いから、髪、伸びないの」
「そうなんだ」 蓮子の大人びた印象は髪型に起因していた――少なくともメリーはそう思った。だが、致命的な誤りがそこには隠されていた。座っているからこそ気付けない身長の差、落ち着き払った感情の受け取り方。

 深くなるに従って、船体がカタカタと俄かに振動し始めた。夢の時間は終わりを告げ、人が空を飛べる瞬間は遠のいた。塔と卵の部屋から離れていって、ゆっくりと重力が蘇る。自分自身を構成する肉を意識した時、背後で植木鉢がゴトゴトと音を立てて転がった。酔いはまだ回っていて、ふらふらとした足取りでメリーは蓮子にしがみついた。ガラス窓には再びコツンと手紙の入った瓶詰めが当たり、重い領域に入ったことを知らせる。

「これ、どうなってるの……?」
「うーん。私が実験した限りでは、どうやら質量と引力の法則がほぼ真逆に作用してるみたいなんだ」
「重いものほど軽い?」
「ん。違う違う。質量の多いものほど、『ひとつの重力に対しての、斥力が生まれてる』の」 (※ 磁石で例えると、引力は引き合い、斥力はその逆に反発する事)
「??? ひとつの重力……って、私達の世界だと重力って引力しかないはずよね。斥力の要素が加わってるってこと?」
「そういう感じ。どうやら超巨大な一個の、重力を齎す何者かが下の下のずうつと下の方に居るみたいなのよ。そしてそれ以外の全ての質量を持つものは、その重さに比例して重力より開放される――……」
「んー……それって、重いものほど軽いで合ってるんじゃない?」
「そうかな。何ていうか、『場』を作り出すのよ。斥力――と表現するのはあんまり適切ぢやなくて、物事は重いほどに大地への縛り付けを無効化できる……――力は最後に0、無で止まるのよ。拮抗するの。有り余つた質量は、浮遊圏を展開する」
「えっと、えっと………………、つまりあの部屋は重すぎるから、周りにあるこの水場も浮かしていられる、って事なのね」
「うん」
「――という事は、私達もちょっぴりだけ周りにあるものの『重力』を軽減できてるってわけなのね」
「そうかもしれない」

 多くの手紙の中に、黒い瓶詰めが混ざっていた。目を凝らすとそれは細かく、かつ艷やかであった。人間の髪だ。誰かの長い髪の痕跡が、まるで記録を遺すように瓶の中に保存されていた。

「……………………大体解らないという事が大体分かったわ」

 猫を捜して右往左往。まるで探偵のようだった。手探りで煌めく鉱石の底をつついて、また踵を返す。流れの見えない水溜まりを真っ直ぐ照らして、やがて底へ、僅かに渦が巻いていて、誘われるように重力の元へと降りていく。

「……“ねぇ、蓮子”」

 瞳の、像を屈折させるためにある水晶体に彼女のぼやけた姿が映った。彼女の名前は蓮子。メリーと同じく秘封倶楽部に所属しており、親しい友人である――――云う。メリーは云う。

「私、何年間あなたを待たせたの?」

 例えば、当時中学生であった“塔”と“卵”が30年経っても変わらない姿で居ること。何故だか蓮子が、老いて見えること。この世界と現世を行き来しながら、何年も何年も失踪した友人の姿を探し続けていたとしたら? 二人の失踪者がメリーを知っていたり、意味深な台詞を投げかけたのも…………

「気にしなくていいの。猫を信じた私がダメなの」 …………?

「猫?」

 語られた経緯は驚くほどに現実味がないものであった。

「選んだのよ。道を。――見たこともない国に出たわ。あの頃に戻れないか捜して幾つも旅をして…………ごめんね。こんなおばさんになつちやつた」

 照れ笑いのように表情を綻ばせた蓮子の声は、小さく、砂山に飲み込まれていく一滴の水のよう消え入ってしまった。

「……どういうこと? 見たこともない国って」
「向こうでも、此処でもないどこかよ。路銀を稼ぐために働いたり、あの猫と暮らしたりしたつけ。時間遡行薬とか、銀の鍵を探した事もあつたかな」
「…………ごめんね」 もっと早く気が付いていれば。
「ううん。いいの。何か幻想世界に行けるメリイになつた気分でさ。あんまり悪いものでもなかつたわ。それに」

 目を瞑って、次いで瞬きをして、まるで結界を探り当てるように蓮子はメリーを透かして見るように眺めた。

「私も少しだけだけど、メリイと同じものが見えるようになつたの…………もしかしたら先祖が超能力者だつたりしたのかも」
「本当!? すごいじゃない!」
「ええ。これからずつと一緒にいられる」
「――――あっ!」

 そして訪れるのは、息もせずに元気に水底を泳いでゆく毛玉猫であった。あらゆるものが順調で、収束へと向かっていた。舵を取り、猫の足取りを追い始める。捩れる空間のような渦の先を光で照らして、やがてある岸辺に辿り着く。潜水艇より仰いだ水面は子供達の居た部屋に比べて、随分と暗い。水流に慣らされた結晶石はなるべくして滑らかに、海洋生物の銀鱗のプリズムそのものの輝きであった。まるで影の中に見える太陽の残像のよう、距離も、形状も、ましてや温度すら感じない。倒れきった植木鉢の暗緑を踏み越えて、秘封倶楽部は艇内ハッチを昇っていった。忘却の川より一歩、そこに閉鎖は無かった。水に濡れた肉球のある足跡が一本の道になっていた。足を進める。



 ――足を、止めた。
 黒い霧のようなものが辺りを包み、手を伸ばすと指先がじわりと滲んだ。継ぎ目の一切ない単色の、灰色の絵の具を零したかのような底面が四方、闇に消えるよう展開していた。メリーは、今にも留まろうとする蓮子の手を引っ張って足跡を追っていた。空は暗く、星も陽も雲も電球さえも判別できない空白が漂っている。

「メリイ、どうして猫を追うの?」

 互いに前を走る者に追いつこうと必死で、息を切らしていた。メリーはすぐに答えを出せず、闇雲に地面を蹴って言葉を探す。いつしか終端が現れて、地平線のよう大地は完全に分断された。振り返り、云う。

「毛刈りの前にお猫様に追いついて、元の世界に帰らなきゃ。…………もしかして、猫のこと、知らない?」
「いえ、知つてるわ。けど、どうして向こうに行くの? 私達が帰る場所はあの部屋よ」 ――足を止めた。

 闇の中にぽつりと、降りる螺旋階段と猫の痕跡があった。秘封倶楽部は寸前で立ち止まり、向こうと、此方側で相対した。

「こんな時に冗談云ってる場合じゃないわ。お猫様が行っちゃう」
「メリイこそ猫と遊んでないで帰ろうよ」

 話が通じない。決定的に何かが違う。それが何か、気付くまでに時間は必要なかった。声は二人分しかない。他の誰も、闇の中には居ない。足音も失って、会話しか遺されていない。

「蓮子。あなた変よ。旅してる内に何かあったの? あなたの考えを壊すような、何か――――」
「メリイ。本当気付いてないの? あのね……」
 未だ繋いだままの手には、蓮子の温かい感触がある。
「メリイは、死んだのよ」

 この手を、彼女はどう感じているのだろう?

「嘘よ………………だって、」 私は洞窟内で少し眠っただけで、けど蓮子は年を取ってて、言葉は食い違い、世界は変わってて、
「私は、生きてて、」 言葉には嘘もある。
「事故だつたのよ。あれからずつと探したの。メリイに会える方法を」
「……嘘よ」

 力尽きて、腕をだらんと下げてメリーは俯いた。声は震え、自分の足が地面と繋がっている事が不自然に思えてくる。蓮子は近寄り、その離された掌を握り直して囁いた。

「私は嘘吐きでもいいの。メリイと一緒に居られれば」

 指の腹で感触を確かめるよう押して、やがて手を繋ぐ。嗚咽をこらえて何も話そうとしなくなったメリーを引き寄せ、彼女は踵を返した。

「さ。帰ろう。メリイ。私達の永遠へ」

 薄暗く、夢の終わりのような色の閉塞が蔓延する世界を、ひとつ、またひとつと足跡を潰しながら戻っていく。誰も止めるものはおらず、時を違ってしまった二人は約束された完結を迎えた。終わりが来る――――――

「“ねぇ、メリー”!」

 言葉は呼び水であった。聞こえるはずのない声が響き、幾重にも連なった黒い靄を揺らした。失望して、しかし何処かに記憶が蘇って、好奇心と不可思議を繰り返した秘封倶楽部の日常が、メリーの眼を真っ直ぐ正面に向けさせた。
 幻だった。自分の影を水靄に映し出したような鏡像だった。それは声を発する。

「“良かった。やっと会えた”」

 幻想は云い、一歩近寄る。まるでかつてあったような蓮子の姿は、安堵した表情で霧の中から脱した。重力の狂った無音世界に、生きた息遣いが届いていた。無理をして走ってきたのか、彼女は顔を紅潮させてこちらを凝視する。

「………………!」  “あなたは誰”という言葉をメリーは飲み込んだ。何故なら、眼前にある人の形は、実体を持っていたからだ。
「「もう一人の私……」?」 蓮子の声は同時だった。

 緩慢に流れていた時空に楔が打ち込まれた。人は戸惑い、霧の漂う中で、もうひとりの蓮子の息が次第に落ち着いていくさまが唯一の光景だった。対峙し、手は離れ、秘封倶楽部は三角形の頂点同士になる。数字遊びをしていた頃ならば、三位一体がどうとか216を絡めたりして笑いあったのだろう。今や笑顔なく、表情の変化もなく、時は凍りついてしまった。
 起きないことが起こる。不可思議の一側面だった。蓮子とメリーは思案を巡らせた。ドッペルゲンガーか、夢幻か、はたまた何者かの差し金か。合理的に考えれば、必ず理由が隠されて――――――

「……多分、どちらかが偽物なのよ」

 もっとも初めに動いたのは、年長の蓮子であった。時に突き刺さった楔が抜かれ、秘封倶楽部の『辺』に落とされた。

「どちらか……って、言い出した人か両方共偽物ってパターンの言葉じゃないそれ」 同年代の彼女がすぐさまに返した。
「けど私とあなたは意識を共有していない」
「一緒じゃないのは判るわ。あなたは誰なの?」 メリーの声を代弁したのは小さい蓮子だった。

「私は宇佐見蓮子。京都市内の大学に通つていたメリイの友達よ」
「私もそうよ! …………もしかして未来の私とか?」
「ならあなたは過去の私? 触れてもタイムパラドクスで対消滅とかはしないみたいね」 二の腕を掴んで、顔を見合わせる。
「嘘吐いてない?」
「嘘がそうだと判るのは、いつも自分自身だけ」
「私にはあなたが本当の事を云っているかどうか、解らない」
「私には解る。蓮子、あなたは正直者よ」
「とりあえずそこをどいて。メリーと猫を探しに行かなきゃ」
「どうして? メリイは私と一緒に帰るのよ」
「帰るために猫を探すのよ!」
「家路に帰るのに猫は必要ないわ。足さえあれば行けるのよ」
「毛刈り式に間に合わなくなっちゃう。毛の長い内にお猫様に――」
「それで帰れる、と謂うの? 向こう側に帰る場所なんてない」
「この世界に故郷なんてない!」
「あるわ。幻想の、――――」
「あなたの幻想は足があっても浮いてしまうじゃない!」

 もはやどちらが喋った言葉かも判別がつかなくなり、進むべく猫の足跡も乾こうとしている。張り上げる声は露と消え、やがてある岐路に立たされる。それは猫の示した橋の問いのような、真っ二つに別れた行末だった。

「“ねぇ、メリー”」
「“ねぇ、メリイ”」
「“私と一緒に行きましょう!”」
「“私と一緒に行きましよう!”」

 メリーは声を呪った。全く同じにしか聴こえない。
 メリーは姿を呪った。全く同じようにしか見えない。二人の間に入り込み、両方の手を握った。メリーはその温度を祝福した。同じく、暖かく、柔らかい。もうひとり、大人の自分が居れば、どれだけ良かっただろう。
 死んでしまった自分の心音を目を瞑って思い返す。瞼の裏で繋がっているふたつの手が恒星のよう光を発して、迷いの中にあるのにも関わらず満ち足りていく。“帰る場所にしか彼女は居ない”当たり前だが、メリーは幻想世界に行けるからこそ――――

「私は、」 選ぼうとした。好奇心、友人、
 考え始めたところで、意識が白く霧がかってしまった。誰を信じて、誰を慕うのか。生きているのか、死んでいるのか、子供達の永遠の夢か、猫の向こうにある現実か。足跡は乾こうとしていた。歳を取らず、髪は短いままの世界。しかし、この螺旋階段前では水が蒸発してしまうのであった。蓮子の云っていた『重力を齎す何者か』が近いのだろうか。永遠と須臾の狭間に霧はあった。時間は限られていた。心臓が音を刻む度に、猫を追う蓮子が遠くなっていく…………

「私は、」 何も言えなかった。結界の境目が見える程度の能力は、二人の幻想を見抜くことは出来なかった。

「私には、……――――選べないわ」 震えて、理性に溢れた声を失ってしまう。昂った感情は堰を切ったように喉を越えて、ぽつり、ぽつりと滴る水滴のように流れ出していった。

「私の眼には、どっちも本物にしか見えない。蓮子は蓮子よ。誰でもない、蓮子。私には選べない、蓮子はここにいるもの。此処に……」 メリーは考えてしまった。蓮子は居るのは確かで、では、自分自身は何処にいるのだろう、と。
「メリー……」 ひとりの蓮子はぎゅっと手を握り返した。

 それが彼女の最後の感触であった。いつの間にか手はひとつになっていて、眼を向けるとそこには数歩引いて後ろ手に回した蓮子が優しそうに笑っていた。

「嘘吐きは私。メリイ、ごめんね」

 彼女は、未来の蓮子だった。自ら指を離して、秘封倶楽部から距離を取ったその笑顔は、何故だか物悲しげに映った。メリーが今も手を繋いでいる隣を見ると、そこにはいつものように、同年代の蓮子が立っていた。遺されたのは、ふたり。

「安心したわ。それが聞きたかったの」 名残惜しそうに彼女は呟いた。「メリイが死んでいるなんて大嘘よ。出会えたのが嬉しくて、いぢわるしちやつた」

 蓮子の言う通り、始めに言い出した彼女が偽物ならば――

「蓮子、あなたは一体、何者なの……?」 メリーは問うた。

「私は、」 口を開こうとして蓮子は言い直す。「…………――私達は、名前を変えていつも必ずあなたの傍で見守つているわ」 一拍置いて、空を仰ぐように眼を黒靄に移してまるで言い聞かせるみたいに彼女は続けた。「……時には答えが遅くなるかもしれない。意味なく話を逸らしたり、先走つて置いていく事も、勘違いだつて多いと思う。自分の欲望のためにあなたを誘導してしまう時さえあるはず。けれど信じて。決して、決してあなたを忘れたりはしない」

 メリーは結局、彼女の真実に辿り着く事は出来なかった。足は地につき、意識を持っていくつも呼吸をして、早まる心音を胸に抱えて、歩みを止めている。言葉を待たずに蓮子は今一度、彼女達二人、秘封倶楽部に向き合った。短く声を吸って、懐かしむように柔和な笑みを再び浮かべて、そして伝えた。

「ほら、ぼーっとしてないで早く行つて! 時間は限られてるんだから、猫が居なくなつちやうよ!」

 小走りで近寄って、まるで保護者のように二人の背中をそっと押した。秘封倶楽部は顔を見合わせて、「行こう」 「うん」 と小さく頷き合った。猫の足跡を追い、ゆっくりと、離れていく。

 ふと振り向いたメリーの眼に、ひとり遺された蓮子がふらふらと手を振っている光景が焼き付いた。やがて黒靄に隠されて、…………――――――――



「メリー。先、行ってて。……私、少しだけ話してくる」

 螺旋階段の直前でそう決意したのは蓮子だった。いつか、近い内に蒸発してしまうその足跡を横目に、彼女達は一旦別れる。

「蓮子、……………………絶対戻ってきてね」

 ふたりとも理由を詮索しなかった。蓮子がどうして彼女を気に掛けたのか、メリーが何故ともに行こうと提案しなかったのか、ごく短い時間に秘封倶楽部にしか解らない不可思議な意思の疎通があった。

 ――――例えば、戻りゆく蓮子はみな幻想であって、メリーは結局のところ孤独に囚われてしまうのか。
 ――――例えば、真実を告げられていないメリーはすでに死体で、これより独りで死出の旅路に就くのか。
 ――――例えば、秘封倶楽部という瑣末な演劇を、幻想中にある何者かが指で繰って遊んでいるのか。
 ――――例えば、願いだけがあって、嘘なんて何ひとつも……………………蓮子の声は“彼女”に届いた。

「待って!」

 暗闇の雲に消えつつある姿に追いついた。送り出したはずの幻影に出会ってしまったもう一人の彼女は眼を丸くして、苦笑いを持って蓮子を迎えた。息を呑み、以前より一層語気を強くして言葉を返してみせる。

「帰りなさい」 すぐにも踵を回転させて、蓮子から逃れるように目を逸らす。しかし回りこまれて、
「あなたに訊きたいことがあるの!」 退路を失う。

「私はいつまでも待つてみせるわ……けど、メリイを待たせちゃダメよ。早く帰りなさい」

 冷たくあしらう振りをして、肩を違えようと歪めた歩はあっさりと塞がれてしまった。

「猫は言ってたわ。『まっすぐ進めば彼女の歩んだ足跡を辿れるだろう』って。この“彼女”ってあなたの事でしょ」

 蓮子の問い掛けはいつだって核心をついていた。詰められた彼女は目を合わせようともせず、歯を食いしばって黙秘を選んだ。

「『あとに続く蓮子を頼む』って、どうして私が来るのが解っていたの!? 答えて!」

 必死に縋り付く子供のようなその剣幕に押されて、一歩、下がってしまう。蓮子は、蓮子にぽつり、こう囁いた。

「…………………なんで判つたの。私の言葉だつて」
「自分自身の事よ。私には、わかる」

 ハァ、と大きく溜め息を吐いて、観念したように彼女は動きをやめた。表情は深海の底のよう堕ちきって、まるで闇の中に映る一本の街燈を眺めるみたく虚ろだ。口を開いた。

「その言葉。返すわ。あなたが“猫の境界”に来るのを知つていたのは、私自身の事だから」
「ならどうして、私にヒントを遺したのよ! 私さえ迷えば、あなたはメリーと一緒にいられたはずなのに…………」
「メリイは、死んだのよ」 声は枯れていた。
「メリーは生きてる! 手を握ったでしょ!? それはあなたが一番知っ――――」
「私のメリイは死んだのよ。何年も前に」

 それはひとつの可能性だった。靄に囲まれ、僅かな光で、空などなく、黒く滲んだ行末の中にぽつりと佇む。彼女はかすれた自分の足跡を語り始めた。

「メリイはね。6年間だけ失踪したの。歳を取らずに……丁度あのふたりのよう永遠に囚われてさ。その間私はずつと探したよ。帰つてきてくれた時もすごく嬉しかつた。けど、時間の隔たりは彼女には安寧を与えてくれなかつたわ」

 蓮子に背を向けて空隙を覗き見る。

「大学や就職の問題があつてさ。会う時間も少なくなつて――6年間のブランクは決して温いものじゃなかつたわ。現にメリイもすごい頑張つて…………秘封倶楽部という繋がりがあつたからこそ私達は立ち向かえた。けど。けどそれが逆に枷になつてたみたい。窮屈になる現実に反比例するみたいに、彼女の夢は広大さを増していつた」

 パン、と泡沫が割れるよう手を叩いて、振り返った。諦観の宿った笑みが張り付いて、今にも砕けそうな音を紡いでいる。

「あるとき、メリイは突然居なくなつたわ。彼女の力か、意志なのかは解らない。私は探したよ。ずつとずーつと、人生を棒に振るくらい……彼女と同じ視点になれるよう力に目覚めて、以前メリイが失踪した場所から“猫の境界”に入り込んで――――」

 蓮子は気付いてしまった。リーデンミラー時計店の失踪者の――――噂の中だけに居る3人目。現実では失踪した人間は居ないはずなのに、話に登場する彼女の姿は、

「此処であの二人に会い、旅する内に私は知つた。世界はひとつではない事を。そして、あなたの世界を見つけた。生きているメリイを見てとても嬉しかつたわ。…………同時に寂しかつた。彼女はやがて此処に来てしまうだろう。だから私は、能力なんて何ひとつない貴女にも来られるように、あらかじめ仕掛けをしておいたの」
「なおさらどうして! 私なんて見捨てて、直接会えばよかったじゃない! 手段も回りくどくて……――――」
「変質してしまつたのよ。永遠に居る内に、心が。…………あなたのメリーは、私のメリイじゃない。けれど、秘封倶楽部なのよ。だから――――」

 えへへ、と照れ臭そうに微笑んで、彼女は言い切った。

「悪戯したの。猫に言伝を頼んで、二人にメリーを誘導してもらつて、あなた達が何を選んで、どう進んでいくか――――あわよくばメリイを貰つてしまおうなんて、さ。まるで神になつた気分で…………けど本当にメリイに触れたら、どうでも良くなつちゃつた。この一瞬の為に生きてたんだな、とか感じて……あはは。何云えばいいか、判らなくなつてきちゃつた」

「蓮子…………」

「生きてたらいいな、ってそう思い込んで、メリイに嘘吐いちゃつた…………謝りたいけど、うん。蓮子、私だけの秘密に、して。私は、メリーの蓮子じゃないから…………幻想だから」

 猫の足跡に、新しい水が落ちて加わった。蓮子の頬には雨粒のような感情が滴って、とめどなく流れていく。
 彼女の指を握り、詰まってしまった言葉の代わりに震えを伝えた。蓮子には、彼女にしてやれる事が他に何も考えつかなかった。眼底の奥が熱く、ただ何も出来ず触れていた。

「蓮子、……私と一緒に泣かないで。あなたは笑つて彼女を迎えに行つて。私は、きつと捜し出してみせるわ。居なくなつたメリイを――――時間は、永遠にあるのだから」

 母親のよう頭を撫でて、蓮子は自分自身を抱き締めた。それは、未来の温かさだった。ひとつの可能性は潰えて、

「私は貴女の行末を見守つているわ。だから忘れないで、私は、此処に居る」 蓮子は、その胸の真ん中を強くぎゅっと押された。

 彼女の足は地より離れた。



    :    :    :    :



 メリーはずっと待っていた。その道の果て。螺旋階段の最下層、二重の鎖が切れる終わりの地で、猫の坐る前にひとり居た。
 これまで蓮子にどれだけ待たせたのだろう。今にも消えてしまいそうな蝋燭を前にするように、気が逸った。迷いは次々に生まれて、蓮子の実像が揺らいでいく。誰が本物で、誰が本当か。時間は、たったの数分でも感情の火を揺らしてしまう。大きな風が吹けばすぐさま記憶を失って、足取りは不確かに奈落の底に倒れこんでしまいそうな今がある。

 “時には答えが遅くなってしまう時だってある” 答えはいつまで待っていれば訪れるのだろうか?
 メリーは“卵”や“塔”から受けた道程を思い返していた。答えは遠く、先を行かれてしまった。手で温かい炎を囲むよう、光を意識に浮かべる。例え眼の前の火が吹き消えたとしても、その光を絶やさないよう、ひたすらに思う。蓮子は、きっと来る。

 きっと――――――――

 叶わない願いも、実現する出会いも、今はその意志それ自身が世界の事象の全てであった。彼女達二人、走り、進み、悩み、待って、急いで、………………やがて

「“ねえ、メリー”」





 ――――――あるひとつの時計の針が止まり、何もかもがこの時点で終わってしまって、二人の冒険は次の観測まで長い日常を挟む事になる。と、当たり前のような未来を夢想していた。
 手から、するりと抜けた。

「蓮子、おかえり」
「いこっか」
「うん」

 言葉は必要なかった。何があって何を感じたか、問うまでもなく眼で見るだけで感情を共有した。帰り道となる毛の長い猫は終端でウトウトと睡り、迷いなく二人の手は伸ばされた。ふわり、触れて、いざ撫でて、しかし手からするりと抜けてしまった。
 まるで雲を掴むように、猫は目覚めに襲われて、蓮子とメリーが反射的に身を傾けた時すでに、足は空を切っていた。階段の崩れたその一歩先に猫は踏み出し、あっという間に遠のいていく。

「あっ!」

 声は浮かばず、すぐにも大きな重力の渦に囚われてしまった。二人は眼で見合わせて、世界の成り立ちを思い返した。起きてしまった事、そしてこれからの事を決断しなければならない。
 時間は、残されては居なかった。

「どうしよう」 メリーが尋ねると
「追いつけるかな」 蓮子は答え
「私は蓮子を信じるわ」 絡めた指の感触は確かに
「私もメリーを信じる」 躊躇なく、決断は行われた。

 重力を忘れて、地より二人は離れた。長い髪を覆っていた帽子を空いた片手に避けさせて、真っ逆さまに落ちていく。頬に風を感じる。虚無に限りなく近い黒い闇の中は胎児のまどろみのようで、一点だけある白い毛並みに誕生を願った。螺旋階段より遥か隔たって、幻想の遠出は際限なくスピードを増していった。何もない宙空の靄は、やがて幻日のよう不自然に輝くようになる。

「もう少し、もう少しで手が届きそう……」
「あと、ちょっと」

 もはや目前だった。しかし叶わない。ほんの指先にあるはずの光のような塊は、まるで水面で屈折するかの如く実像を揺らしている。届かない。物理的に有り得る最高速に達したのか、平行線が取り払われる瞬間はついぞ来なかった。そして、音。

「あっ!」
「待って!」

 臨界点を越えた時計の針は、猫の儀式を知らせる。次々と長毛は刈られていって、姿はおぼろげに霞んでいく――――

「っ――…………」 別世界の蓮子とは異なり、お猫様とこの猫は、きっと元はひとつなのだろう。どちらかが変われば、また片方も大きな影響を受ける分身。今こそついに、長毛を失って幻想の猫は数ヶ月の間、喪われてしまったのだ。次に訪れるのは、また長い空白のあと。二人は幻想のまま。
 叫びにならず息を呑んで、瞬く間に沈黙が雪崩れ込んできた。落ちる。落ちる――――……
 消灯前の走馬灯。二人の無意識には鮮やかな鉱石の虹色が思い浮かんだ。ローカル線の電車に乗り、白昼夢を見ながら雪の町へ。幾何学図形の時計店で、霧に包まれた猫の橋で、球体と石の川辺で、緑化と迷走と永遠の部屋で、蓮子と、蓮子と、メリー。未来に過去。繋ぎ合わせた手からは確かな力と温かさが昇ってきて、未だ眼を開けている事に気がついた。

「メリー、どうしよう」

 幾億の時を刻むよう、落下は永遠の軌跡を辿っていた。だがその実、残酷にも“何者か”に近づきつつある。強大な重力、黒体輻射によって僅かに紫に染まる、ひとつの暗点が遥か向こうに存在していた。例えれば、様々な選択肢が生きていたのだろう。猫を諦めて別の方法を幻想の三人と共に見い出したり、逃げないよう先に猫を胸に抱いていたり、たった数ヶ月を我慢して猫を待ち続けたり、まず猫の分身は一匹だけじゃないかもしれない…………どうして、自分達はそう行動してしまったのか。環境、教育、遺伝子、サークル――――間違えていたもの、偽物だったもの、頭をもたげた後悔は、寿命の半ばだというのにも関わらず、彼女達の道程を影の墨で塗り潰していく。
 落ちていくばかりで、何もない。きっと、刹那を踏み越えた未来は、

「蓮子、くっつきましょう」
「あ……うん」 より質量のあるものほど、浮力が生まれる。メリーの提案に、二人は近く、寄り添った。帽子の手を腰に回して、少しでも時の早さが軽減されるよう、祈る。
「怖いね、メリー」
「うん。もっとぎゅっとすれば、落ちるスピードが減るかな?」

 体温を共有して、地に足のつく恐怖に耐えようとする。きっと、この加速度のまま自分達以外のものに衝突したら、何もかもバラバラに砕けてしまう。しかし顔を赤くして蓮子、メリーも同じよう束の間の安心に身を委ねていた。

「色んな事があったね。メリー」
「蓮子。短かったけど楽しかったわ」
「ええ。長くて、すぐだった」
「……――私達、帰れるのかしら?」

 思い返すのはかつて同じ道筋を持っていた蓮子の事だった。世界が多重に折り畳まれていて、いくつもの可能性があるのなら、違う世界で違う秘封倶楽部が、今頃蓮台野でも観光しているのだろうか。妖怪と人間が暮らす場所があったり、魔法と科学が融合したり、サボテンがエネルギーになっていたり――――

「きっと帰れるよ。蓮子が、此処で見守ってくれてる」

 その触れた胸に、違和感を覚えた。

「……蓮子、どうしたの?」 異変に気がついて、驚いた表情を見せた彼女に尋ねてみせた。帽子の手でメリーを支え、もう片方は――――上着のポケットにある一枚の手紙を見つけたのだった。

「これは…………」 蓮子がこっそりと忍ばせたものに違いなかった。見覚えのある、自分の筆跡。遺されたものは折り畳まれておらず、よく不思議を探索するときに使っていた、いつものメモの切れ端であった。懐かしさすら感じた。

「もしかして、貰ったの?」
「そうみたい。読むよ」
「うん」

 まるで詩のようだった。川底に無造作に打ち捨てられていた、あの瓶詰めの手紙なのかもしれない。忘却の流れに逆らうよう、幾つも幾つもの呼び声を発して、いつかの時を夢見ている。誰かが、誰かに宛てた願い、導き。水流の先がどこか、別世界に繋がっていると祈って。

『貴女はきっといつか此処に来るのだと思う。私達は多分、貴女を怖がらせたり、苛立たせたりしてしまうだろう。
 故郷に帰らないように、私達は短い髪を永遠の誓いとした。螺旋の輪に飲まれることなく家へ戻りたいのなら、その長い髪を撫でて親しい友人を思いなさい。寂しい時は猫もそうして孤独を癒やすのだから。
 もし、縁があって出会ったのなら、どうかたまには思い出して欲しい。答えが遅くなったり、勘違いしたり、先走ったり、自分勝手だった私達を。きっと貴女ならば笑って回想できるでしょうから。
                         親しかった私より』

 あの彼岸で待ちぼうけを食らった時、もし流れ着いた手紙を読んでいたのなら――――どうしただろう。

「ねぇ、蓮子」 意図をほどくのは簡単だった。
「メリー。多分、同じ事考えてる」 結ばれた言葉が分かたれて、秘封倶楽部は怪異を語り合う。

「多分、猫は偶然の産物なんだと思う」 噂の中で一度、永遠を選んだ“卵”が帰ったのは何故だろう。お猫様に触れてしまったのか、もしくは別の――――
「うん。お猫様に触れるって条件は結果的に組み込まれてただけで、もっと根本的な法則があるのよ」
「十代目の雄猫が法則に当て嵌まらなかったり、私達みな同じ性別であることはきっと種族を超えて関係ある」
「あと、“塔”と“卵”や私みたいな幻想能力の有無」
「怪異の『点』の生じる時計店に住み続けているからこそ、雌のお猫様だけがまるでなるべくように長毛になってるとしたら?」
「猫の長毛の代わりがある? 此処と、向こうの時計店は、重なり合った次元のほんの折り目のひとつで、永住を決意したみな短い髪なのは――――」
「扉も鍵も、最初から私達が持っていたのよ」
「きっと、帰れるはず」 彼女達の髪は猫よりも長い。

 ゆっくりと、手を翳した。帽子を脱いで風に暴れる長い髪をすっと正しく櫛って、猫の長い毛並みに行うように撫で下ろしていく。重力より真っ逆さまの身体が浮遊しているみたく熱くなって、指先から喉奥まで満ち足りていく。幼き日の光景が蘇って、決して花開くこと無い止まった時空の中で笑顔が咲いた。

「子供の頃に、良くこういう事したね」
「――私も同じ事考えてた」

 触れる事はひたむきな興味だった。帰り道は二人がそう想っているだけの儚かな希望で、しかし胸に抱くものは一緒で、いずれ朽ち果ててしまう泡沫に瓶詰めの手紙を流して、信じながら飛び降りて行先で捜して、出会い、

「“ねぇ、メリー”」
「蓮子、どうしたの?」
「呼んでみたかっただけ」

 微笑んでこつん、と額を合わせた。



    :    :    :    :



 桃花馬上、少年の時、笑ひて銀鞍に拠りて柳枝を拂ふ。緑水今に至るも迢逓として去り、月明來りて照らす鬢絲の如くを。
 斯くして鳥は羽撃きて、浮ひて塔と卵とある女子は、曾て踏み入れた彼女らの足跡に自ら重ねて存分に遊んでゐた。重力無き空虚にトンゝゝとスキップして、思ひ出に浸り轉げる。

「結局、斯の話は終わるのかね。蓮子。」
「私も気になりませう。二人は軈て何處に向かふのか?」

 新しく手紙をしたゝめて、透明な空き壜に詰めてコルク栓で封をする。誰に届くかも知らぬ綴は又流れ、忘卻の螺旋の水底に沈んでいつて何時かの日まで漂ふのだ。記憶のひとペエジには名前は未だなく、何處で生まれたか、トンと見当が付かぬ。

「帰るのよ。嘗て人が神のために建てたような、大柱の前に」
「恥づかしい事であろうか?」
「それはもう。何しろ出現は時計店の大柱前よ」
「何ゆえに想うのでせう」

 みづからの事であるからか、蓮子には終に地に足を降ろした彼女達のどよめきが間近で聴こえるやうであつた。祕封倶樂部は變質せず、かつ同じ距離、行為さえも引き續き向こうに辿り着くのだらう。蓋し斯くあるやうに。

「きつと蓮子とメリーは……ええ。衆目の渦中へ」

 降りた電車先で出会う遠恋のやうな――――ほんの前の二人を懷かしみ、蓮子は今頃顔を眞ツ赤にして慌てゝゐる自分を想像して、フフ、と微笑んだ――――――霧の橋の猫は讀み終えた書生の本を閉じ〆て、肉球で面紙に紅いスタンプを押した。






                                    〆
生年百に滿たず 常に懷ふ 千歳の憂ひを
晝短くして夜の長きを苦み 何ぞ燭を秉りて遊ばざる
樂を爲すこと當に時に及ぶべし 何ぞ能く來茲を待たんや
愚者は費えを愛惜し 但だ後世の嗤はるると爲るのみ
仙人王子喬 期を等しくするを與にすること難かる可し









執筆中お世話になった音楽
 幺樂団の歴史4
 fromadistance : 生年不満百(東方オリエンタルアレンジ)
 schwalzwald : Wayfarer(東方エレクトロニカ/アンビエントアレンジ)
 凋叶棕 : 望(東方ボーカルアレンジ)
 夢中夢 : 夢中夢/イリヤ(ポストロック)
 Q flavor & clock music : 展望盤のメリィ(エレクトロニカ)
 moonsorrow : V Hävitetty(フォークメタル)



何かの縁か、投稿しにきたら締切ギリギリで企画に気付きました

※6/22 非常に読みにくかったので改行を追加しました
henry
作品情報
作品集:
12
投稿日時:
2015/06/20 09:41:25
更新日時:
2015/06/22 20:31:34
評価:
8/8
POINT:
720
Rate:
16.56
分類
産廃創想話例大祭C
秘封倶楽部
メリー
蓮子
蓮子
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POINT
1. 100 ■2015/06/23 21:32:26
心地良い余韻に浸っています。結末を知った後にもう一度読み返しました。誇張じゃなく、涙が溢れて止まりません。二回、三回と繰り返し読んでもその感動が色褪せないどころか、更に高まります。こういう話を書ける貴方様を、月並みですが尊敬します。
自らが幻想となることを選んだ蓮子。彼女が身を引いたのは自分の為でしょうか、はたまた蓮子とメリー、あるいはメリイの為でしょうか。蓮子はここにいる。思い焦がれたメリーの温もりを感じながら受けたその言葉は、彼女にどれだけの感情の奔流をもたらしたのか、考えると視界が滲みます。
言い尽くせない程の、素晴らしい物語でした。長文ですみません
2. 60 名無し ■2015/06/24 14:16:12
何が書いてあるのかさっぱりわからないけど、きちんと考えた上でこうなっているのだろうなとも思う。
秘封モノって特にこういう独特で奇妙な作品が多いよね。
3. 100 名無し ■2015/06/28 03:40:23
ああ、これはルイス・キャロルだw
独特で良かったです
4. 100 名無し ■2015/07/10 03:43:25
全部読んで、タグでなるほど、まさに彼女たちの物語
素敵な余韻のあるお話でした
5. 90 んh ■2015/07/13 21:17:51
タイトル見てfromadistance思い出したら、BGMリストに載っていたという。

風景描写が見事で読み応えがありました。徹底して鏡をイメージさせる世界観とその描写力が素晴らしいと思います。
一方でシンプルな動作まで修飾的にする必要はなかったかなとも感じました。ここらへんは好き好きでしょうけれど
6. 100 名無し ■2015/07/18 13:49:53
一目見てこれは凄そうだと思って読みきったらやっぱり凄かった
7. 80 NutsIn先任曹長 ■2015/07/18 14:02:22
連メリは、遠きにありて思ふもの。
新旧文体が入り乱れた幻想のセカイ。
これ、一回読んだだけでは理解できませんね。
8. 90 名無し ■2015/07/18 16:10:04
猫が不思議で良かったです
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