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『つまれる、花は 上』 作者: タダヨシ
瞼の外で煌めく光が踊っている。
「ん……ぁあ」
太陽が空に踊っている。もう目覚める時間だ。
わたしは体を覆う毛布を傍らに退かした。家の扉から外へと出る。
外に出たわたしは丁度窓の下に置いてある頑丈そうなかめに近付いた。
木目が目立つ蓋を外して中に溜まっている水を掬い、そのまま顔へと流す。
透き通った刺激が眠気を洗い流す。意識が鮮明になった私はかめに張っている水へと顔を近づける。
その水の鏡には男にも女にも見える顔、草からそのまま緑を拝借した髪、柔らかさを蓄えた触覚が写っていた。
「うん、大丈夫だ」
そうは口で言ったものの、髪が乱れていたので気になった。
野性味を帯びた髪を整える。だが、櫛は持っていなかったから手で整えた。
髪の毛が私に大人しくなった時には腹が滋養物を欲していた。
朝食を食べよう。
甘さが漂う赤の果物を齧る。今日はしゃりしゃりという歯ごたえが口の中に響いた。
わたしはもっと熟した方が好きなのだが、たまにはこの食感も面白いかもしれないと思った。林檎は腹が満たされるのに比例してどんどんその身を細くしていく。
わたしの胃が満足した時には、もう赤い林檎は茶色い芯のみとなっていた。
ごちそうさま。
わたしは朝食に感謝すると、外出の準備を始めた。
わたしは道を歩いている。
いつもと同じ道だ。だが、それでも時折季節が見慣れた日常に化粧をするので、飽きる事が無い。
暫く道を歩いた私はつい最近見つけたあの場所へと足を向かわせた。
わたしは会いに行く。林檎よりも赤い目を持つあの人がいる場所へ。
歓喜の篭った足を前に進ませると花畑が見えてくる。
向日葵が陽の恩恵を受けて微笑んでいる。しかし、今の季節は夏の終わりに近く、いくつかその黄色い頭を垂れているものもあった。
向日葵畑を進んでいくと小さな小屋が見えた。
だが、その小屋の前にはのっぽな花が壁の如く密集している。
わたしは空気を胸の中にこれでもかとばかりに詰め込んだ。
小屋に向かって顔を向ける。照準が定まったところで胸の中の気体を解放し、喉を震わせる。
「ゆーうーかーさーん!」
その声が跳ね回って少しの間が過ぎると、小屋の前に華奢な身を立てていた向日葵がもぞもぞと横に動き始めた。
最初はこの光景に自分の目を疑ったが、今ではもう日常に癒着して驚く事も無くなっていた。
向日葵が済まなそうにその姿を退かすと、そこには小屋への道が生まれた。
ちなみに毎回微妙に道の長さや曲がり具合が変わるので、何度見ても飽きることが無い。
わたしは太陽の花が造った道を歩き、小屋の前に立った。
木製のドアを叩くと、一瞬の後に開く。
「おはよう、リグル」
微笑んだ顔が見える。わたしとはまた違った草色の髪。
「おはよう、幽香さん」
彼女の挨拶の言葉に対し、わたしは赤い目を見つめて返事を返す。
「どうぞ、入って」
幽香が小屋の中に視線を向けると、わたしは太陽の花が立ち並ぶ畑から部屋に足を入れた。
彼女の部屋は質素なもので、卓と椅子、本棚、ベッド、その他の生活用品しかない。
わたしはその中の本棚から花の図鑑を取り出し、椅子に座った。
幽香もその様子を見ると、同じく椅子に座った。彼女の手にはペンと紙が握られており、卓の上で覚え書きを始めた。
わたしは花の図鑑を見ている。幽香は紙に図形や計算式、文字列を書いている。
基本的にわたしは彼女の家に入るといつもこうしている。会話はあまりしない。
するとしても図鑑に記してある花の名前が読めないので質問したり、彼女の覚え書きはどんな内容を示しているのか、程度なので話の種が芽生えて大きな花になる事は全く無い。
だから会話は早くて数秒、長くて数分だった。
でも、わたしはこの穏やかで、温かい沈黙が好きだった。
わたしは図鑑を読んでいる。今見ている花の解説は何回読んだだろうか。流石に飽きるだろうと自分でも思っている。いや、実際飽きているのだろう。
しかし、わたしは毎日彼女の家の扉を通り、この行動をしている。
わたしをここに留まらせるのは図鑑の解説や華やかな絵柄ではなかった。
窓の太陽の恩恵を受けた花が輝くと、わたしは日常から離れて何もかもを洗い落とした様な気分になる。
まるで、起きている夢を見るみたいに。
けれども、実はそれすらも飾りにしか過ぎない。
本当にわたしが求めているのは……
図鑑から視線を外して卓にちらりと目を向ける。
草色の頭が揺れ、植物の根を思わせる白い指がペンを握り、紙に文字を浮かび上がらせている。
このひとがいると安心する。
わたしは花がそのまま人の姿になった様な幽香を見て思った。
何故、このひとはこんなにも綺麗なのだろう?
わたしがそんな事を考えていると、その視線に気付いた幽香は頭を紙から離して
「何か用でも?」
と言ったので、わたしは慌てて
「いいえ、何も!」
と返答し、視線を彼女から図鑑へと戻した。
どれ位の時間そうしていただろうか。
ふと、陽の光が目を射すのが気になった。窓の外を見ると向日葵が笑顔を撒き散らしている。その上には大きな光の源が見えた。
陽が高い。もう、昼だ。帰らないと。
そう思ったわたしは椅子から立ち、図鑑を本棚に戻して幽香に呼びかける。
「あの、幽香さん」
その声を耳に受けた彼女はこちらに顔を向けた。
「もう帰るの?」
「ええ、ちょっと用事があるので」
言葉を返したわたしは外に続く扉へと手を掛けた。だが、すぐに外へと出ようとはしなかった。
「ねぇ、リグル?」
来た、あの問題だ。
「何でしょうか?」
「花は何をされたら愛されているか知ってる?」
この問いの内容は毎日聞いている。わたしは一瞬頭を奮わせ
「太陽の光を浴びさせてもらえる事?」
と一生懸命に答えたが、やっぱり幽香に笑われた。
「答えは何です?」
もうこの言葉は何回使っただろうか。しかし彼女は微笑みを作って
「教えない」
としか答えない。
傍の卓には花の活けられていない青い花瓶がある。
いつもだったらそのまま帰るところなのだが、今日は妙にその花瓶が気になった。
「あの、すいません」
「何?」
「ずっと気になっていたのですが、その花瓶は?」
「ああ、これの事?」
幽香は卓の上にある海色の硝子に目を向けた。
「特に意味は無いわ。何となく置いているだけ」
そう言って彼女は花瓶を見つめていた。その眼は嘘をついているとは思えなかった。
卓の海色は陽を含んで、数え切れないほどの光を生み出していた。
「でも、綺麗ですね」
わたしは素直に感想を述べた。
「欲しいの?」
「あっ、いいえ! その……」
そういう意味で言ったわけでは、と言いたかったのだが、幽香の言葉がそれを遮った。
「いいわよ、どうせ使わないし」
「えっ、ええと、あの」
わたしの頭の中には軽い小火が発生していた。
まさかここまで話が進んでしまうとは。
けれども、ここで断るというのは失礼じゃないだろうか。
だったら……
「ありがとうございます! 大事にします」
「そう? 嬉しいわ」
幽香の口は軽い喜びの曲線を描いた。
もう少しわたしはこの場に留まりたかったが、さっき自分が言った言葉を思い出した。
「それじゃあ幽香さん、用事があるのでもう失礼します」
「そういえばそうだったわね、じゃあ、さようならリグル」
「さようなら、幽香さん」
別れの挨拶を交えるとわたしは扉を開けた。
外では黄色の光が微笑んでいる。
もうリグルは私の作った道を渡り終えただろうか。
幽香は椅子から腰を離し、扉を開けて外へ出た。
草色の髪をした虫の妖怪はもう見当たらなかった。
もう大丈夫だろう。
そう思った幽香はしなやかな白い手をひらりと天に掲げた。
「ご苦労様。戻っていいわよ」
手を指揮者の様に振ると、リグルの為に動いた向日葵が元の場所へと戻っていく。
しゃわしゃわという音が鳴り止むと、さっきまで道だった所が太陽の花に埋められた。
幽香は自分の作った道を渡るリグルを心に描きながら考えた。
何故、私は『あの夜』にリグルを自分の家に招いたのだろう?
何故、私は自分をリグルに食わせたのだろう?
今まで何度も考えたが、その答えは見つからなかった。
それに、いつもリグルに言ってしまうあの問題は何だろう?
答えは私自身も知らないのに。
疑問は残っていたが、別に今の状況が悪いとは思わなかった。
幽香は近くに立っていた黄色い花にそっと手を触れた。
「ねぇ、あなたはどう思う?」
問い掛けに対して花は答えなかった。
でも、彼女はそれでも良かった。
幽香は向日葵から視線を外した。そして家の中に戻ろうと
くしゃり。
妙な音がする。何が起こったのだろう?
音がした方を見ると今まで触っていた向日葵が茎から折れていた。
「こんな事をするのは誰?」
幽香は誰かに呼び掛けた。返事は返ってこない。
だが、幽香の手は首の折れた向日葵から伸びている。
「こんな酷い事をするのは誰?」
幽香は誰かに呼び掛けた。返事は返ってこない。
だが、幽香の白い掌には折れた茎から滲んだ液がじっとりと滲みている。
「ねぇ、一体誰っ!」
幽香は誰かに呼び掛けた。返事は返ってこない。
向日葵が群れる場所には彼女しかいなかった。
わたしは太陽の花が輝く場所を後にして自分の家へと歩いている。
両手は海色の花瓶を落とすまいとがっしり持っていた。
小石が目立つ地面に注意しながら足を運ばせる。その速度はゆっくりしたものだった。
幽香には用事があると言ったが、実はあれは嘘だ。
わたしは『あの夜』の出来事によって幽香と出会った。そして、その日からわたしは彼女の家に毎日通っている。
何故かは分からないが妙に安心し、不思議とあの『飢え』も治まっていた。今日もそうだった。
でも、いくら安心できると言っても朝に尋ねて陽が沈んで、月が浮かんで空が暗くなるまで一緒にいるのは気が引けた。
だって、それは、まるで、その……
考えるだけで顔が赤くなる。
胸の中が激しく暴れる。
「何を考えてるんだ!」
わたしは一瞬でも頭に生まれた考えと感情を否定する為に歩みを早くした。
そのためか、いつもの半分の時で自分の家に帰ることになった。
早速、家の卓に青い花瓶を乗せ、椅子に座った。
青い花瓶をじぃと見つめる。
どんな風にこの海色の硝子は光ってくれるのだろう。
期待が湧き立つ。少しの時が過ぎた。
だが、光は生まれてこない。
そして、わたしは暫くしてから気付いた。
「ああ、そうか、そうだった」
うちは森の中にあるから日の光が届かないんだった。
わたしはがっくりと気持ちを落とし、光らない花瓶から視線を外した。
どうしよう、これ。
「今からだったら返しても大丈夫かな」
そうわたしは呟いたが、ある記憶が心を通り過ぎた。
『そう? 嬉しいわ』
彼女の口の楽しそうな曲線の事を思うと、返品なんて言葉は持ち出せ無かった。
「まぁ、別にこのままでもいいか」
そうわたしは自分に言い訳をすると、外の風景を見た。
まだ空の太陽は高い。何処かへ行こう。
わたしは海色の硝子を卓の上に置いたままにした。そして、当ても無く体を外出に向かわせた。
森の中を歩いていると樹木は緑の葉を羽織物の如く拡げ、陽光を欲張りに食んでいる。さらに樹が食べ損ねた木漏れ日を草が精一杯に体を広げ、受け止めていた。
ただの木と草が在るだけだったが、わたしはこのざわめきと命の匂いが好きだ。
草木の群れを進んでいくと、きらきらと大きな水の鏡が見えてきた。
湖の縁には薄い羽を背から生やした青と緑がいる。
二人は横一列に並んでしゃがみ、地面にいる小さな何かを突付いている。
わたしはその妙な動きが気になったので、青い妖精に話しかけた。
「今日は何をしてるんだい、チルノ?」
「あっ、リグル!」
わたしの姿を見た氷の妖精は、新しい遊びを見つけた様に楽しさを溢れさせた。
「ちょうどよかった、ねぇ、いっしょにやろうよ!」
「何を?」
「ささ、ここにしゃがんで!」
わたしの疑問を無視して、青い妖精は指示をする。
逆らっても良い事は無いので素直に従う。ちなみに大妖精の横にしゃがんだ。
体を縮めたわたしの目線には草に覆われた地面が見えた。
「で、どうすればいいの?」
「ふふふ、こうするのよ」
チルノは何とも甘ったるい顔をした。
どうやったらこんな楽しそうな顔になれるのか。
目先の地面に黄緑色のものが置かれた。
氷の妖精は次にそれを緑色の妖精の前に置き、わたしの真横に並んでから、自分も同じ黄緑を前に並べた。
「あたいが三まで数えた後に『ドン!』って言うから、それをつついてね」
「えっ? ああ、うん」
わたしは疑問の目線を向けたが、チルノは全く気付いていなかった。
「それじゃあいくよ!」
青い妖精はしゃがむと小さな口を大きくして喉を震わせる。
「いーち……にぃー……」
指示の合図まであと少しだ。
氷の妖精が作り出す間に、少なからず緊張した。
「さんドン!」
チルノ、その合図の間隔はおかしいよ。
心の中で密かな指摘しながら、わたしは慌てて目の前の黄緑に指を触れた。
指の腹が逆三角形の尻に触れる。
骨の硬さと肉の掴み所の無い柔らかさが心の中に奇妙を呼び起こさせた。
わたしに突付かれた黄緑は一瞬、その体にある二つの黒くて丸い目に気だるさと驚きを含んだ。それから、胴体に不釣合いな脚を長く伸ばし、地面に力を向けた。
黄緑――アマガエルは今まで体を這わせていた草地から離れ、空中を踊っていた。
わたしがその跳躍に目を向けていると、視界の端に同じ様な黄緑が泳いでいた。
きっとチルノや大妖精もわたしと同じ事をしたのだろう。
三匹のアマガエルが高さも向きも別々に跳んでいるので、妙な可笑しさを感じた。
その時、わたしはやっとチルノの考えを悟った。
ああ、成る程。これは……
カエルのジャンプ大会だったのか。
緑色の両生類の慎ましい着地音が聞こえる。
チルノは頭を上げてアマガエル達を見た。
そして、結果発表をする。
「一位はリグル! 二位は大ちゃん! そしてビリは」
チルノは自分の跳ばしたアマガエルを見た。そしてその後に自分を見た。またアマガエルを見る。また自分を見る。
「ああ、あたいかぁ……」
青い妖精は消えかけのマッチみたいに落ち込んでいた。今にも死にそうだ。
ただのアマガエルでここまで絶望するとは。
だが、わたしはある意味において凄さを感じた。
「もう駄目だぁ……」
青い妖精は地面に嘆きの言葉を吐いている。
しかし、このまま放っておくのは気分が悪い。
「大丈夫だよ! 今日はたまたまチルノのカエルの調子が悪かっただけだよ!」
わたしは希望の声をかける。
チルノは顔をこちらに向けた。
「……そうかな?」
「そうだよ!」
わたしは全く裏付けされていない自信でチルノに言った。
「うん、そうだよね! 絶対にそうだ!」
わたしの言葉が耳に入った途端、青い妖精は立ち直った。
なんて簡素で強靭な精神構造だろう。
でも、わたしは心底羨ましく思った。
「早速、別のかえるを見つけようよ!」
「え、うん?」
「今度はよく跳ぶやつをね!」
さっきまで絶望に浸かっていた妖精は目を輝くガラス玉にして、足を嬉しそうに跳ねさせた。
わたしは湖へ向かうチルノの背中を慌てて追った。
あれからどれ程の時間が進んだのだろうか。
空は明るい青から姿を変え、夕暮れの化粧をしていた。
「チルノ、もうすぐ暗くなるから帰るね」
「うん! わかった」
「さようなら、チルノ」
「ばいばい、リグル!」
氷の妖精は左腕をぶんぶんと振って別れの挨拶をした。右腕にはよく跳ぶカエルを掴んでいた。ちなみにガマガエルだ。
わたしも右腕を振ってチルノから離れた。
家への道を辿っている途中にチルノとの出来事に頭を巡らせる。
まさかカエルだけでここまで付き合わされるなんて。
どう考えても時間の無駄だった。
だが、悪いとは思わなかった。
今日チルノが溢れさせていた表情はどれもこれも大げさな位に単純だった。
冷静に考えればチルノは何も考えていないのだろう。
しかし、わたしはそれがとても素敵なことだと感じた。
うらやましいな、チルノは素直な自分をぶつけられて。
わたしはどうしても人の事を気にしてしまう。本当の自分を誰かにぶつけるなんて今まで一度もした事が無い。
じゃあ、自分もチルノと同じように単純になろうか?
と自分に問い掛けた。暫くした後、わたしは肺の息を噴き出した。
ああ、駄目だ。わたしには無理だ。
とりあえず今は保留にしよう。
頭の中で思考が運動をした後、自分の家が見えてきた。
辺りは夕暮れの赤も消えて、煤けた様な黒い空が広がっていた。
家に入り、少しの時間ぼうっとするとわたしは夕食を食べ、眠る事にした。
粗末な寝台に横たわって明日へ心を向けた。
次に陽が昇る時、わたしの周りには何が起こるのだろう。
きっと平凡でくだらない事しかない。
だけど、わたしはそれが楽しみで仕方が無い。
それに、最近はくだらない事ばかりとも言えない。
今日一日働いた目に対して休暇を与える。
瞼の闇には黄金色の花畑と林檎よりも赤い眼の女性の姿が映っている。
心地の良いだるさと共にわたしの意識は解け、眠りへと沈んでいった。
朝を知らせる光が顔を撫でる。
もう朝だ、起きないと。
だが、どうした事だろう。体が妙にだるい。
幽香はベッドから体を起こし、立ち上がった。
卓の上に置いてある果物に手を触れた。
だが、何も食べる気はしなかった。
「今まで生きていてこんな事は無かったのに……どうしたのかしら?」
そんな気持ちとは反対に、窓の外は太陽の花が明るく輝いていた。
きっと今日はただ調子が悪いだけなのだろう。
そう思った幽香はペンと紙を持ち、卓に体を向け、椅子に座る。
いつもと同じ事をしていれば、また元の調子に戻るに違いない。
卓の上で覚え書きを始める。
内容は次の季節の花畑に向けての構想だ。
その内容は花の種類、開花時期、土中の栄養素、日照時間等であり、彼女以外が見ても理解できない代物だった。
幽香はまるでスケッチをするかの様に紙に字を走らせる。
白い手の動きは軽やかで、余計な力はかかっていなかった。
今、彼女は図形を描いている。花達が均等に成長する為の配置図だ。
この図を描き終えれば来季の計画は完成する。
幽香は紙に空想の花畑を映している。線は花で紙は土。
彼女が暫く手を踊らせると、紙の花園がほぼ完成の姿を現していた。
「あと描き入れていないのは……」
花の位置を示す線一本。描き入れれば終わる。
幽香は紙に花を描く為に手首を動かす。
いや、動かそうとした。
「……これは?」
ペンが紙に付いたまま何も起こらない。
もう一度線を描き入れようと腕に力を入れるが、黒インクの付いたペン先は紙の中に沈み込んでいく。
息ができない。
苦しい。
体が押し付けられているようだ。
腕が、体が動かない。
紙にペンの黒インクが滲んで広がっていく。
はいがうごかない。
しばられているのか。
じぶんはいしになった?
なっているの?
ああ、からだがしょうきじゃない。
覚え書きに滲んだ闇が大きくなり、夜色の水溜りを生み出す。
わたしはどうしたら?
このまましぬの?
あれっ? なんだろうこれは。
からだがあつい。
あたまがはぜてしまいそうだ。
不思議と腕に力が入る。ペンを離す意味ではなく。
ペンで紙を引っ掻く。
何度も何度も何度も。
黒い線が数え切れない程引かれ、悲しみが漂う。
彼女はそれでもペンで空想の花園を踏み荒らした。
もう夜色は紙を離脱して卓の上にも伸びている。覚え書きは黒一色で破れ、闇色の破片となっていた。
幽香は持っていたペンを卓上に突き立てた。机は簡単に彼女が寄越したそれを取り込んだ。
本来、描く為にのみ存在するペンが闇色の卓に垂直に存在している。
幽香は一瞬その様子を見て、心の中にあるまぼろしを見た。
ガラスのコップのなかにはとがったいし。
コップをゆらすといしがあばれる。
もっとゆらすともっとあばれる。
もっともっとゆらすと……
彼女は卓を蹴り上げた。
足の乱暴を受けた木製の家具は驚きと泣き声を思わせる軋みをあげて倒れた。
その声に対して幽香は何の遠慮もせずに足をぶつけた。
爪先で抉るように。
足全体でで千切るように。
踵で穿つように。
さっきまで卓だった物はもうその姿を崩し、砕けた木の塊になりかけていた。
辛うじて脚だけはその形を留めていた。しかし……
「駄目よ、そんな格好じゃ」
みしゃり。
幽香は卓の全てを破片に変えると、目を閉じた。
ああ、やっとわれた。
われたわれた。
ガラスのコップがわれた。
なんだろう。
この、からだががっきみたいになるこれは。
幽香が瞼を開くとそこには卓だった物と真っ黒な覚え書きが床に落ちている。
「これは……」
彼女は今まで自分がした事が嘘であるかのように、恐れの声を鳴らした。
だが、どうした事だろう。
息もできるし、体も軽い。
朝起きた時に沸き起こった体の粘りつくような感覚は無くなっていた。
「体が、楽になっている?」
幽香は自分に対して問いを向けたが、答えを返す者は誰もいなかった。
だが、このままにしておくわけにもいかない。
彼女は下に転がっている無残な木片と墨色の覚え書きを片付けることにした。
「ひどいわね……どの部分も粉々なんて」
幽香は自分の行った事に対して素直な感想を漏らした。
「再利用できないじゃない」
こんな状況になっても彼女は冷静に状況を判断していた。
幾分か時間が過ぎると幽香はやっとの事で破片を一箇所に集めた。
彼女は出来上がった木の屑山を見つめる。
「さて、これをどこに」
幽香の視線の端に卓とは別の家具が見える。
「……捨て」
彼女は口から出た言葉を千切って本棚へと向かった。
立派な木の収納箱には花の図鑑、植物の図鑑、園芸の本がそれぞれ隙間を開けながら身を立てていた。
今度の幽香は意識がはっきりとしていた。自分を抑える事も可能だっただろう。
しかし、今さっき行ったことに声にできない魅力を感じていた。
この本棚も壊してしまえば、また体が楽器みたいになるのだろうか。
そんな事は無い。あってはならない。
幽香は自分の考えを半ば無理やりに捨て去った。
本を収納している木に手を触れる。
「壊せば体が楽器の様になるなんてそんな事は……」
決してあるはずが無い。
指先から木目の粗い感触が伝わってくる。
彼女は体の内側から数千もの針で突付かれている様な感覚を覚えた。
決して? 本当にそうだろうか?
幽香がそう思った時、一瞬にして自制や理屈が解け、意味の無い紐になった。
気付けば腕が本棚の側面に当たっていた。
木が拳の形にめり込んで、動揺にも悲鳴にも似た音を出した。
何故、なぜ、ナゼ?
彼女は自分の動きに戸惑った。だが、体は全く迷ってはいなかった。
今度は脚が仕事だとばかりに本棚の下部を殴る。
本を収納するはずの物が今ではただ荒い音を出すのみの存在となっている。
止めて!
お願いだから
止まって。
本当に!
人と会う事が少ない幽香にとって本棚を始めとする家具は家族そのもの。
その家族を今、自分の手で殺しているのだ。
今は二人目を殺しかけている。
だから彼女は驚きを通り越して理屈ではない怒りと悲しみを感じていた。
蹴りの振動で本棚が揺れ、本がばたりばたりと床に落ちた。
幽香はそれに眼を向け、本棚を殺すのを止めた。
彼女の正常な意思は予感した。良くない考え。
まさか……そこまで。
今まで家具を殺した脚は本に向かった。
いつもは丁寧に扱われているはずの本は至極乱暴な扱いを受けた。
蹴る、潰す、裂く、破く。
本が乱暴を受けているだけだ。しかし、幽香にとっては今まで大切にしてきた自分の一部だったので、まるで自分で自分を否定している様であった。
本が暴力を受けると表紙が歪んだり、頁がくしゃりと折れて悲鳴を上げた。
その度に幽香は、氷が体の中から芽生えて自分を裂いていく感覚を覚えた。
自分の大切なものが己の手によって殺されるのは、目を逸らしたい程に辛いものだったが、彼女は避けなかった。いや、体の自由が利かなくて避けられなかった。
一体何冊の本が屑になったのか。幽香は床を見回して哀れな自分の一部に目を向けた。
鮮やかな花の絵の切れ端が見えた。
昨日、リグルが読んでいた図鑑。
いつも、大切に、丁寧に見ていたお気に入り。
私に最も親しい人が読んでいた本。
幽香は悲しみの篭った視線をその図鑑に向けた。
「……ごめんなさい」
その謝罪は殺された図鑑になのかリグルになのかはっきりとしなかった。
しかし、彼女はある変化に気付いた。
体が楽器の様になって揺れている。
幽香は自分をまるで未知の存在であるかの如く触った。
自分の体を脚から登るように調べていく。胸の辺りまではいつもの自分だった。
ところが喉に掌を当てるとクツクツと鳴っているのが判った。
さらに手を上げると顔に触れる。
口の両端がまるで糸に引き上げられているみたいに歪んでいた。
その時になってやっと幽香は自分が楽器になった訳を知った。
ああ、私は笑っていたんだ。
楽しんでいた。
だからあんなにも震えて、鳴った。
でも、私は大切なものを殺して笑った。
そうだ
きっと
わたしは
狂っ……
彼女が自分に結論を出そうとしていたその時だった。
「ゆーうーかーさーん!」
聞き覚えのある声。もうリグルが来る時間になったのか。
こんな時に来るなんて。
と幽香は思ったが、無視する訳にもいかないので手を上に向け、向日葵に命令した。
太陽の花が家への道を作ると、土を踏みしめる音が聞こえてくる。
暫くすると家の前で足音が止まった。
扉を叩く音。
幽香は自分がリグルに暴力を振るわない事を祈りながら開ける。
半分開いた扉からは触覚の目立つ草色の髪が見えた。
動揺と緊張の入った声で挨拶をする。
「おはよう、リグル」
その声に対しリグルは
「おはよう、幽香さん」
と返した。ごく普通のいつも通りのやり取りだった。
リグルが家に脚を踏み入れる前に幽香は言葉を投げ掛けた。
「ごめんなさい、リグル」
「はい、何でしょうか?」
「今日はどうしても手放せない用事があるから……」
「入れないんですか?」
「ええ、そうよ」
「そうですか……」
リグルは見るからに残念として体を来た道へと向けた。
「さようなら、リグル」
触角の生えた頭は幽香を向く。
「さようなら、幽香さん」
寂しそうに離れていくリグルを見て、幽香は声を飛ばした。
「ごめんなさい、今の、この状況じゃ駄目なの」
擦れた、小さな言葉だった。
幽香は後ろ手で扉を閉め、どしゃりと床に崩れた。
リグルが離れていく足音が聞こえる。
早く離れて。
私の目が届かないところまで。
お願いだから。
本当に。
床に膝をつけた幽香は体を抑えて俯いていた。
まるで自分の体から暴力が溢れ出すのを防ぐみたいに。
傷つけたくない。
あなたは。
絶対に。
幽香は目を瞑りながら震えていた。
リグルは足が早い方であったが、彼女にはリグルが家を離れるまでの時間が気の遠くなる程の年月に思えた。
漸く足音が聞こえなくなると幽香は外に出て周囲の様子を確認した。
辺りには土と植物しか見当たらなかった。
よかった。もうどこにもいない。
彼女は素直に思ったが、それが気の緩みへと繋がったのだろう。
幽香の体は自然に家へと向かい、お気に入りの日傘を手に取った。
再び外に出ると自分が大切に育てた太陽の花が見える。
まさか。
日傘を持った手が細い緑色の茎を薙ぐ。
陽気を体現した姿が折れて、千切れる。
黄色い頭が宙をくるりくるりと踊っている。
ぽとりと音がして土の上に落ちた。
黄色い花弁に縁取られた茶色の顔が見える。
その緑色の真っ直ぐな首は千切られて痛々しかった。
欠けた茎から見える緑は傷口を思わせた。
ああ、また、壊してしまった。
でも
幽香の正常な意識はもはや崩れていた。
たのしい。
なんてたのしいんだろう。
目の前にあるものがこわれるだけでこんなに楽しいなんて。
自分の手でみにくくしたものを見るのが
とても
すてきなことだと思う。
幽香は切り落とした向日葵の頭に日傘を突き刺した。
茶色の顔が穴だらけになり、ばらばらになるまで何度でも。
太陽の花が区別のつかない物体になった時、ふと幽香は空を見上げた。
銀の雲を背景にして黒いものが飛んでいる。
影を思わせるそれを見て、彼女は思った。
そうだ、次は、あれをこわそう。
幽香は日傘の先を黒に向け、魔力を一点に集中する。
これを使うのは随分と久しぶりだ。
最近だと、白黒の魔法使いがこれと似たような術を使っていたっけ。
と、彼女はぼんやり思いながら、集中した魔力を一気に解放する。
日傘から巨大な蒼い光が生まれる。
その魔力の塊はそのまま真っ直ぐに黒いものへと進んでいく。
彼女は日傘から伸びる蒼い光の束を見て、喉をくっくっと鳴らせた。
よくて黒こげ、わるくてなにも残らない。
一瞬、光の帯が空を覆い、目の中が真っ白になる。
視界から白が消え失せると、幽香は辺りを見回した。
地面には何も落ちていない。
空にも穴が開いた雲があるだけで、何も見当たらない。
出力が強すぎて、全部焼け落ちてしまったのか?
そう彼女が考えた時だった
カシャリ。
何かの音がした。その方向へと振り返る。
さっきの黒いものが背中を向け、ここから逃げ出していくのが見えた。
ああ、ざんねん。
幼い子供が足りないものをねだるかの様に、幽香は顔を不機嫌にした。
しかし、思い直したのか、近くの向日葵に暴力を向けた。
でも、また会ってこわせばいい。
だから、いまはきれいな花をぜんぶ壊してしまおう。
林檎よりも赤い眼は太陽の花を睨む。
しなやかな白い手は日傘を持ち、真っ直ぐな茎を殴る。
私は狂っているのだろうか?
私は正常ではないのか?
黄色い花を潰している間、彼女は幽かに思った。
だが、その考えすらも甘い痺れに掻き消された。
そんな事はどうでもいい。
ああ、たのしい。
壊すのが楽しい。
幽香は空っぽな赤い瞳で辺りを舐め回し、口の両端を喜びに歪めた。
彼女は世にも美しい花畑で狂い、暴れていた。
まるで、今まで生きてきた自分を否定するかの様に。
コメント欄よりご指摘を戴きましたので、二つにまとめました。
タダヨシ
- 作品情報
- 作品集:
- 2
- 投稿日時:
- 2009/07/13 11:29:57
- 更新日時:
- 2010/04/26 17:47:02
- 分類
- ※たかる、虫は
- (作品集1)の続編
- 幽香
- リグル
- キャラ色々
- 微グロ?
- 暴力
文章がうまくて羨ましいです。
続きも読みに行かねば