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『つまれる、花は 下』 作者: タダヨシ
「はぁ……これからどうしよう」
わたしは幽香の小屋を後にして家への道を辿っていた。
だが、何もやる事が無い。
いつもこの時間は幽香の部屋で図鑑を読んでいるのに、肝心の本人に断られてしまってはどうしようもない。
「何か気を損ねる事でもしたかなぁ……」
記憶を丹念に調べたが、特に何もしていなかった。
何かしたと言えば『あの夜』の出来事だろう。
だが、それも幽香が了承した事なのでいまさら気分を悪くするとは思えなかった。
暫く頭の中をぐるぐると回した後、わたしは新しい思考を展開した。
じぃと考えていてもしょうがない。
今日は何をするかについて考えよう。
わたしはふと、昨日の記憶を思い出した。
妖精、カエル、ジャンプ。
そうだ、チルノと大妖精に会いに行こう。
挨拶をしたら、またカエルのジャンプ大会をしよう。
この思いと同じくして、足は妖精達へと向かう。
いくつかの道を横切り、数多く木の間を抜けると、いつも通りの湖が目に入ってくる。
この大きな水たまりは空を映し、風を受けてゆらゆらと静かに踊っていた。
だが、件の青の妖精と緑の妖精は見当たらなかった。
どこか別のところに行ったのか?
わたしは少しばかりの時間、揺れる水の鏡を見つめて考えた。
ちょうど湖の真ん中をガマガエルが泳いでいる時、新たな行動計画を思い付く。
何も考えずに辺りを歩き回ろう。
新しい事が見つかるかもしれない。
わたしは早速湖を離れ、目的の無い探索へと体を弾ませた。
森の木々が呼吸するざわめき、人が足を踏み入れない獣道の荒れ具合、魔法の森の湿気と胞子、人間の里の賑やかさと珍しい道具。
今日廻った場所はどれもわたしの心に安定をもたらしてくれたが、新しい事は何一つも見つからなかった。
気付けば空は青を失って、黒い身を晒していた。
自分の体に意見を聞く。
疲れたし腹も空いたという声が返ってくる。
おまけに夕食を作る元気も無いと言う。
このまま家に帰ったら何も食べずに寝てしまうだけだろう。
だが、それは何となく体に悪そうだ。
「弱ったなぁ……」
わたしが困惑の咆哮をしているとある考えが頭を通り過ぎる。
そうだ。
あそこに行こう。
そう考えると、わたしは空腹感を抱えたまま足を急がせた。
闇に浮かぶ赤い珠と車輪の付いた小屋――屋台が見える。
わたしはその屋根の下にいる知り合いに声を掛けた。
「こんばんわ、ミスティア」
大きな翼に声を受けた彼女は、屈んだ体を伸ばして接客用の挨拶をする。
「いらっしゃい。リグル」
わたしは反射的に注文をする。
「ミスティア、いつものやつと『あれ』を」
「あいよ」
ミスティアは羽の生えた帽子を前に傾け、ヤツメウナギを焼き始めた
彼女は目の前の魚を生き物から食べ物に変える用意を始めた。
いつもだったらこの過程をまるで手品を見るかの如く楽しむ事ができただろう。
だが、今のわたしは空腹だったので、そんな上品な真似はできなかった。
火に撫でられたヤツメウナギは身をくねらせ、その身から輝く滴を落とす。
その滴を受け止めた炭が静かに、甲高く吼える。
蒸発したヤツメウナギの体液が特別な気体となって広がる。
魚が焼かれる様子がわたしの腹をひどく急かした。
幾分か短気な我慢を重ねると屋台の主人は焼いた物を皿に盛った。
「はい! ヤツメウナギの蒲焼き。あとは……」
瓶に入った茶色の液体が透き通ったコップになだれ込む。
ミスティアはわたしに安心する笑みを向け、茶色になったコップを持った。
「今日のはいいのを使ってるよ」
彼女はわたしの方に茶色のガラスを置き、その隣に蒲焼の皿を配置する。
コップを手に取り、口に液体を流す。
黒い匂いが気管に染み込む。苦い味が口の中に香る。
やっぱりコーヒーは素敵だ。
「珍しいねぇ」
屋台の主人がそう言うのでわたしは聞き返した。
「何が?」
「いや、リグル最近コーヒー飲んでなかったから」
「ああ、そうか、そうだったっけ」
思えば幽香の家を訪ねる様になってから全く頼んでいない。
「いや、実はね……」
わたしは何故か朝の出来事を話したくなった。
「実は?」
「近頃親しい間柄の人が出来てね」
「うん、それで?」
「最近はよく一緒にいたんだけれど」
「今日は断られたの?」
「うん、そうなんだ」
ミスティアはわたしの言葉を飲み込み、口を動かす。
「でも、嫌われていないんだよね?」
「うん、まぁ」
「だったら、大丈夫だと思うよ。たぶん」
屋台の主はのんびりと顔を温かくして、損にも得にもならない言葉をわたしに向けた。
この返答が出るのは分かっていた。
しかし、この店と主人には不思議な力でもあるのか、わたしは最良の助言を得た気分になった。
「ありがとう、ミスティア」
屋台の店主の無味無毒な助言に礼を言う。
「どういたしまして。何もしてないけど」
わたしの感謝の言葉にミスティアは全く加工していない言葉を返した。
少し間の後、視界の隅に紙の束が映った。
「これは何だい?」
屋台の主人に疑問の声を向けた。その声にミスティアは嬉しそうに言った。
「趣味同然で始めたうちの店もやっと繁盛してきてね。取ったんだよ!」
「何を?」
わたしは何も分からないと言った様子で答えた。
「天狗の新聞だよ!」
そう言いながらミスティアは新聞をこちらに持ってきた。
「ちょっと読んでいいかな?」
わたしが許可の問いを述べると屋台の店主は
「どうぞどうぞ! この新聞ったらすごいんだから」
と驚くべき速さで許可の声を出した。どうやら自慢したかったらしい。
わたしは畳まれていた紙の束を広げた。小さな字と絵柄がびっしりと詰まっていた。
インクの海を思わせる紙面に眼を滑らせる。
最近の幻想郷についての出来事、健康講座、天気予報、評論、詰め将棋、広告等の情報が器用に共存していた。
「凄いね、これさえあれば幻想郷の大方の出来事が分かるね」
「でしょ! すごい便利なんだから」
わたしはミスティアの喜びを共有した。
だが、本当にその内容を全部信用していいのか? という疑問は伏せておく事にした。
新聞の内容に目を通す。紙をぱらりぱらりと捲る。
「ありがとう、もう返すよ」
わたしは広げたままの紙束を屋台の店主に返した。
「えへへ、すごかったでしょ」
ミスティアは新聞を持ったまま喜びの声を放った。
「うん、そうだね」
ふと、読まなかった部分の記事が見えた。
なんだ、これは。
それは大きな写真だった。
緑色の髪をした女性の後ろ姿と首のもげた向日葵。
間違いない、幽香さんだ。
肝心の文章には『殺されかけた』とか『破壊している』やら『恐ろしい妖怪』だの何とも不吉な文字ばかりが踊っていた。
朝に会ったばかりの女性が新聞に、しかも見るからに悪い記事に紹介されている。
何故? あんなにも優しい人なのに。
あの人がそんな事をする訳が無い!
わたしはこの新聞は大嘘吐きだと思ったが、ある記憶が心に突っ掛かった。
『今日はどうしても手放せない用事があるから……』
いや。まさか、そんな事は。
べとつく蜜のような不安が纏わり付く。
わたしはミスティアに紙幣を渡し、別れの言葉を掛けた。
「そろそろ失礼するよ!」
「あっ、ちょっとお釣り……」
ミスティアは口を開いたが
「いらないよ!」
とわたしは答えて屋台を離れた。
あの場所へ向かう為に。
あれからどれ位時間が経っただろう。
あれからいくつ壊しただろう。
空は黒く、星の模様を着飾っている。
幽香はひたすら太陽の花を壊していた。
彼女は疲れていた。だが、疲労に対する休息よりも、破壊への甘い衝動の方が遥かに強かった。
目の前の向日葵に暴力を向ける。
そうすると何とも楽しくなる。
もっと楽しくなろうと暴力を使う。
目の前の花が別の物体になる。
つまらない。
また別の向日葵を壊す。そうするとまた楽しい。そうするとそうすると……
彼女はこの過程を繰り返していた。
幽香自身もこの悲しげな循環がいつになったら終わるのか解らなかった。
いつになったらこの流れから自由になるのか?
何故、こんな事をしているのだろう?
彼女がうっすらと残った意識で考えていた時だった。
「幽香さん!」
声が聞こえる。誰だろう?
彼女が後ろに目を向かわせると、目の前には草色の髪のものが立っていた。
その頭にはしなやかな触覚が生えている。
「あなたが天狗の新聞に載ってるのを見ました」
何を言っているのか分からない。
「あの記事は、嘘ですよね?」
また訳の分からない言葉を吐いている。
高い声が聞き取りにくい。
「ねぇ、幽香さん!」
だが、いい事を思い付いた。
幽香は赤い眼でリグルの体をなぞり回した。
からだは細い。
でも、かみのけはきれいだ。
おまけにあたまにはやわらかそうなものが生えている。
「お願いだから、何か言っ……」
リグルが言葉を出し終える前に脚で腹の横を殴る。
幽香は小さな体を蹴った。
それは口から透明な飛沫とぐしゃぐしゃに潰れた声を出し、地面を転がった。
彼女は地面に転がったリグルに近づいた。
これをこわしたらどんな事が起こるのだろう。
くさいろのかみが
あたまからでているしなやかなものが
ほそいからだが
どうなるのだろう?
幽香は持っていた日傘の先をリグルに向け、それからその腕を黒い空へと掲げた。
緑の髪をしたものは何が何だかといった様子でこちらを見ている。
日傘を持つ手に力を入れる。
そのまま目の前のものに向かって振り下ろす。
このかさがあたればこわれる。
こわそう。
しゃべるものをこわすのはこれがはじめてだ。
めのまえにあるこれは何というなまえだろう?
たしか、これは
……る。
……ぐる。
……りぐる。
……リグル?
彼女は妙な感覚を覚え、振り下ろす手の力を解いた。
日傘の先はリグルの眼に刺さるか刺さらないかのところで止まっていた。
「ぁ……あ」
目前の緑髪は息に似た声を出し、瞳を大きく広げていた。
一瞬の後、目の中にじわりと泪が滲み出す。
「ごっ、ごめんなさい!」
リグルは幽香に背中を向けて走り去った。
その様子を幽香はぼんやりと眺めていた。
ああ、またこわしそこねた。
きれいだったのに。
もったいなかったな。
彼女は壊せなかった緑髪に惜しさを廻らした後、その名前について考えた。
リグル。
なぜわたしはこのなまえを知っているのだろう?
それに、どこかで会ったような気がする。
幽香の中に小さな疑問の種子が生まれたが、その後にすぐに体の中を針で掻き毟られる様な感覚が襲った。
そんなことはどうでもいい。
また会ったらこわせばいい。こわしていればとてもとてもたのしいし、なにもかんがえなくていい。
さあ、こわそう。
彼女はまた周りの花を壊し始めた。もう半分以上の向日葵が潰されていた。
日傘で花の首を薙ぎ、落ちた花に踵で穿つ。
その姿はまるで迷い子のようだった。
わたしは夜の道を走っている。胸が爆ぜるようだ。
どの位の距離あそこから離れただろうか。
息が切れぎれになってから漸くその場に止まる。
周りは木々が夜を纏って体を伸ばしていた。
その姿はまるで黒い脈打つ血管を思わせた。
冷静になったわたしは自分の状況を確認した。
「弱ったな……」
慌てて走ったから道に迷ったようだ。ここが何処なのかわからない。
そう思った時、近くの茂みから音がした。
わたしはその方向へと振り返った。
「ルーミア!」
木の陰から現れたのは飴玉の眼をした知り合いだった。
「あれ、リグル?」
いつもはちょっと抜けている知り合いだと思っていたが、この時ばかりはこの少女が果ても無く逞しく思えた。
「どうしたの? リグル」
「いや、それが……」
わたしの口は凍ったように動かなかった。
それに対してルーミアは冗談半分に言った。
「もしかして道に迷ったの?」
本当の事を言うのも気が引けたので、頷いた。
「うん、そうなんだ」
その言葉を聞いたルーミアは頬を膨らませ、声を上げた。
「ふふふ、あはははははは!」
ルーミアの笑いには厭味が無い。ただ存在している物事を純粋におかしいと思って笑っているのだ。
いつもであれば頬を赤くして抗議をする所なのだが、今のわたしの状態からすれば、この透き通った笑い声はとてもありがたかった。
暫くすると金髪の少女は笑いを納めてこちらを見た。
「それで、リグルはこれからどうするの?」
「家に帰りたいんだけど……」
わたしは辺りの暗闇を困ったように見回した。
「だったらリグルの家まで送ろうか?」
「いいの?」
「うん! 夜の道は見慣れてるから」
「それじゃあ……」
わたしはルーミアに家まで送ってもらうことになった。
自分いる位置からさほど遠くない所に見慣れた木の屋根が見える。
「ここまで来ればもう大丈夫だから」
「そう? じゃあここらへんで」
「さようなら、ルーミア」
「さよならー、リグル」
わたしは案内をしてくれた金の髪の少女と別れ、家へと歩いた。
家の中に入ると、すぐに扉をばたりと閉め、毛布のある寝台に潜り込んだ。
怖い。
怖い。
幽香さんが
怖い。
わたしは毛布の中で湿った息を吐きながら体を凍らしていた。
わたしに暴力を振るったあの幽香さんは何なのだろう。
意味が分からなかった。
今まではあんなにも優しかったのに。
温かかったのに。
さっきの幽香さんは恐ろしく冷たかった。
空っぽの赤い眼が怖い。
くつくつと鳴る喉が怖い。
歪んだ口の端が怖い。
笑いながらわたしを蹴った。横の腹が今も痛い。
どれもこれも怖かった。
だが、何よりも怖かったのが……
何をしていても綺麗だという事だ。
眼を潰されそうになった時もそうだった。
実はあの綺麗さは幽香の使う魔法か何かで、もしかして自分はそれに騙されているのではないか、と思う程だった。
とにかく、わたしは恐れで窒息しそうになっていた。
もう嫌だ。何も考えたくない。
とにかく怖い。
早く寝よう。
そして、幽香の事なんてきれいさっぱり忘れてしまおう。
わたしは目を瞑った。だが、体にまるで氷の花が咲いているようで、なかなか眠る事ができなかった。
目の前に小さな花が見える。
色は何色かは知らない。だが、きれいな色だという事は分かった。
その花は生まれた時から一つの目的を持っていた。
細くて逞しい茎。陽の光を十分に受ける葉。ありとあらゆる心を惑わす花びら。
この花はとてもきれいだ。
しかし、体を飾る美しさもその貴重な命も『それ』を得る為だけの手段に過ぎなかった。
花はただ『それ』が欲しかった。
けれども、花を見た者達は
『茎がしなやかで素晴らしい』
『葉が美しい形だ』
『花びらが心踊らせ、綺麗だ』
等と花の姿を褒めるばかりで当の目的である『それ』を与えてはくれなかった。
花は何故『それ』が手に入らないのか考えた。そして、一つの考えに辿り着いた。
そうか、まだ、私は綺麗ではないのだ。
もっと、もっと頑張ればきっと『それ』を貰えるはずだ。
そう思った時から花は様々な事を試みた。
根を地面に大きく広げる。
葉をさらに柔らかに、優しく伸ばす。
花びらを育て、より一層その魅力を育てた。
思い出に黴が生える程に遠い年月、花はこの活動を続けた。
けれども、花を見た者達は口を揃えて
『綺麗な姿』
と、同じ言葉を言うばかり。
花の心は冷たくなった。そして、気付いた。
今まで私がしてきた事は無駄だったのだ。
花は自分が深い悲しみに染まっていくのが分かった。
だが、涙は出てこない。
泣けない程に心が凍えていたから。
流す事の出来ない悲しみを抱えた花はただその場に立ち尽くした。
もう、生まれた時の目的である『それ』の事も忘れてしまっていた。
しかし、それでも花は生きる事を拒否しなかった。
心の底ではまだ幽かに『それ』を願っていたから。
それからまた花は待ち続けた。過去が朽ちていく時間。
身を裂くような悲しみを抱き、生き続けた。
だが、その努力すらも報われなかったとしたら……
きっと、この世の全てを否定したくなってしまうだろう。
そして
その綺麗な花は
「……夢?」
瞼を開いたわたしは見慣れた天井を向いていた。
窓に目を向ければ、まだ外は朝になっていない。夜が薄くなっているだけだ。
瞼は何故か跳ね上がっていた。しかし、寝台に体を寝かせる。
眠ろう。
眠れなくても。
わたしは昨日の夜――幽香との出来事を少しでも早く忘れたかった。
無くしてしまおう。
自分の中からあの人の存在を。
忘れてしまおう。
優しかったあの人の事を。
そう思った時だった。
あれは?
卓の上に光が見えた。
近づいてみると、それは幽香から貰った花の活けられていない花瓶だった。
月の細く儚い光が、森の邪魔を免れて海色の硝子に射し込んでいた。
青い花瓶は透明な光を生み出していた。
……泣いている?
わたしはその青い光に触れた。
「幽香さん……」
頭の中に優しいあの人の顔が浮かぶ。
初めて会った『あの夜』の事、わたしが花瓶の礼を言った時の嬉しそうな口の曲線。
思い出される幽香との記憶。
その中の幽香はどれも優しかった。
あの温かさは嘘だったのか?
あの優しい心も忘れていいのだろうか?
そう思いながら、わたしはその出来事を見つめていた。
そして、わたしの中に流れる心は判断を下した。
いや、駄目だ。
もし、あの優しさを否定して生きるなら……
わたしは胸に手を当てた。
きっと、この命にも意味は無いだろう。
わたしは毛布を傍らに退かし、寝台から床へ立った。
外出用のマントを羽織り、玄関の扉を開ける。
それから、何処にでもなく呼び掛けを行う。
「みんな、出番だよ」
その呼び掛けに答える声は何一つとして無かった。だが、わたしの近くには数え切れない気配が蠢いていた。
幽香は何も変わらず花畑で暴れていた。
もう随分と向日葵を壊した。
後はぽつりぽつりと立っているのを潰せばいい。
そして、全部壊したなら……
壊したなら?
一体、何をすればいいのだろう?
幽香は一瞬迷った。自分の活動の終わりについて。
しかし、それも甘い痺れに押し出された。
この花畑を壊し尽くしたなら、他のところを壊そう。
壊すのは楽しい。
楽しい。
たのしい? 本当に?
つまらない?
そんなことはない、これは楽しい。
彼女が思い直すと、遠くで足音がする。
幽香は土を踏みしめる音の方を向く。
あれは?
あの、髪の色はたしか……
彼女に前に現れたのは緑髪に触覚を生やし、マントを着けた小さな姿だった。
その小さな草色の頭は幽香に大きな声を向けた。
「幽香さん、もう止めて!」
わたしは幽香の目線上に立っていた。だが、距離は大きく開いていた。
声を届かせる為、肺に空気を溜めて一気に大声に変える。
「こんな事をしても疲れるだけだから、もう終わりにしましょうよ!」
わたしの喧しい音が幽香に伝わったかと思うと、彼女はこちらを見つめた。
彼女は何も答えなかった。
かわりに赤くて何も無い瞳がわたしの体を見つめ、弄り回すのが分かる。
幽香は持っていた日傘でわたしの前の空間を薙ぐ。すると、日傘の先から大きな花の頭が
次々と生まれる。
鮮やかな色を帯びた円盤が、宙をくるりくるりと踊りながらこっちに向かってくる。
そのこの世ならぬ色彩の舞はわたしに虹を思い立たせた。
恐らく、いつもは弾幕勝負で使っているのだろう。
だが、その花の花弁がわたしと幽香の間に存在する向日葵の首を次々と刎ねていくのを見て、殺傷力を帯びているのは明らかだった。
もしうっかり触れでもしたら、わたしも向日葵と同じ事になるのは容易に想像できる。
わたしは左腕を前に伸ばした。
できれば話し合いだけで解決したかったのだけれど。
でも、仕方が無いか。
「みんな、出てきて!」
わたしが命令すると土の中、潰れた向日葵の影、空の墨色の闇、ありとあらゆる場所から無数のそれが湧き出した。
虹色に輝く甲、沢山の脚、毒針に包まれた体、無骨な節、小さな体、透き通った羽。
どれも様々な形態を取ってはいるが、わたしはその小さなもの達を蟲と呼んでいる。
「あの花に集って!」
わたしがそう言うとその小さな蟲は霞のように広がった。そして、幽香の放った花に次々と集る。
集られた花はあっという間に色が抜け、ぼとりと地面に落ちた。
よし、防ぐ事はできるみたいだ。
わたしはほんの一瞬、安堵したがそれも長くはなかった。
幽香がまた日傘から大きな花を生み出したから。
くるりくるりと回る花を見て、わたしは再度蟲に命令をする。
「みんな、あの花に集って!」
声を聞いた小さな命は美しい花にしがみ付いて、その色を奪う。
そしてまた花が落ちる。
それを見た幽香が日傘を振って花が生まれる。
わたしは蟲に命令して花を枯らす。
幽香が花を生み出す。
わたしが花を枯らす。
幽香が美しい花をわたしに贈る。
わたしは醜い蟲を向けてそれを拒む。
言葉に出来ない長い間、わたしと幽香はこの流れを繰り返した。
何ともくだらないやり取り。挨拶にもならない。
もう、いくつの花を落としただろうか?
そう思った時には、わたしも蟲も疲れていた。
ふと、幽香に目を向ける。
空っぽの赤い眼が見えた。その瞳には疲れが見えなかった。
だが、表情は苛立ちの色が浮かんでいた。
あと、もう少しだ。
そう思ったわたしは、その後も花を落とし続けた。
それに比例して彼女の顔も落ち着きを無くしていく。
わたしの蟲が数え切れない花を落とした時だろうか。
幽香は殺意の花を贈るのを止め、日傘の先をこちらへ向けた。
これだ。
今だ、今しかない。
これを逃してはいけない。
その瞬間わたしは、彼女に向かって駆け出した。
足に全体重を掛け、腕をぶんと振る。暴力的なまでに。
必死になり過ぎて脚が痛い。息も既に悲鳴を上げている。
おまけに下手をすれば死ぬかもしれない。
だが、わたしは笑っていた。
わたしは狂っているのか?
正常な思考が問う。わたしの心は答える。
ああ、たしかに狂ってる。
でも、幽香さんの優しさを忘れて生きていく事が正常だったなら
それは、なんと馬鹿馬鹿しい事なのだろう。
それこそ生きている価値が無い。
わたしがそう思っていると、幽香との距離が縮まってきた。
彼女の顔が見える。空っぽの赤い眼、歪んだ口。
始めて見た時は怖いと思っていた表情が、今では全く別の面を見せていた。
ああ、そうか、この人は。
泣いているんだ。
でも、涙は出ない。
きっと、辛い事があり過ぎてそれすらも叶わないんだ。
わたしは目の前の人に悲しみを寄せた。
彼女との距離を縮めていく。それは、幽香を想う心の距離でもあった。
だが、それでも日傘はこちらに殺意を向けていた。
何故かわたしはその事がとても嬉しかった。
そして、『あの夜』に自分が求めていたものが何かを悟った。
あの時わたしは『飢え』ていた訳ではなかった。
ずっと、探していたんだ。
自分の心をぶつける事のできる人を。
幽香さんの体に傷を付けたのもその為だった。
わたしは不安で、どうしても確認したかったのだ。
わたしが狂っていても受け止めてくれるかどうか。
わたしが駄目になっても最後まで見てくれるかどうか。
ただ、それだけだったのだ。
ああ、わたしはなんと愚かなのだろう。
そう思いつつも、わたしの中には喜びが満ちていた。
もう幽香は目の前だ。わたしは彼女に飛び掛かる。
自分の体が綺麗な体にぶつかる。
彼女の持っていた日傘が落ちる。
その衝撃に耐え切れなかったのか、幽香は後ろに倒れた。
地面に身を横たえた彼女と一瞬、目が合った。
赤い眼の中には何かが足りなかった。
わたしは幽香の体を押さえつけながら思った。
本当に『飢え』ているのはこの人なのだ。
だが、何に『飢え』ているのかは分からない。
わたしは考える。
まだだ、まだ、心の距離が遠すぎる。
もう少し、縮めないと。
わたしはある案を記憶から引き出した。
『あの夜』の光景。
そして、幽香の首筋に飢えてもいない口を付けた。
ごめん、幽香さん。
でも、あなたの心にもっともっと近づく為にはこれしか思い付かないんだ。
わたしは白い肌に犬歯を立てた。
その行動で何をするのか幽香は知ったらしく、わたしを殴りつけた。
何度も何度も拳が打ち付けられる。体が焼けつく様だ。
だが、そんな中でもわたしは気にしなかった。
それどころか表わし難い使命感に襲われていた。
この綺麗な人を食べなくては。
今度は自分ではなく、この人の為に。
少し躊躇いながらも、口は迷い無く動く。
わたしはその白い皮膚を食んだ。
不純な芋虫の様に。
わたしは流れ出す赤い命を啜った。
意地の悪い蝶の様に。
わたしは開いた傷口に集った。
貪欲な蝿の様に。
今、わたしは綺麗な花を貪る世にも醜い虫となった。
わたしが口の中に入れた幽香の一部は何もかもが綺麗で、満足するものだった。
一瞬、もう彼女を食べるのを止めて眠ろうかと思った程だ。
だが、わたしは心を変えずに幽香にたかる。
自分が満たされる事が目的ではなかったから。
上質の絹の肌が醜くなるのは怖かった。
彼女から漏れる命を飲むのは気が引けた。
赤い傷口に唇を這わせるのは悲しかった。
でも、わたしはそれを止めなかった。
そうでもしなければ、この人の心に触れる事は一生叶わないだろうから。
幽香の命を読み取るかの如く、自分に取り込んだ。
すると、一つの影が見えた。
夢の中で見たあの色の無い花だ。
わたしの中にその花の記憶が流れ込んでくる。
彼女はどうしても『それ』が欲しかった。
美しい姿は『それ』を手に入れる為のただの手段だった。
でも、会う者はどれもその美しい姿しか気に留めなかった。
その姿だけを褒めて、『それ』にまで心が至らないのだ。
何という逆説だろう。『それ』を手に入れる為の綺麗な姿だったのに。
『それ』――愛される事は一体いつになったら手に入るのだろう?
わたしは胸の中に冷たい風が吹くのを感じた。
そして、目の前に横たわっている美しい幽香の姿を見た。
何て、綺麗な花なのだろう。そして、わたしは思った。
今までいくつの者がこの人の姿に恋をしたのだろうか?
今までいくつの者がこの人の心を愛したのだろうか?
一つ目の問いの答えはきっと数え切れない程だろう。
二つ目の問いの答えは誰もいなかったのだろう。
幽香はずっと愛されぬ寂しさに耐えてきた。
でも、今はそれすらも辛くて暴れているのだ。
だから、自分の積み上げたもの、目の前の人、全てを否定してしまう程に暴れている。
きっと、それはとても悲しいことだろう。
わたしは泣いた。涙が零れて幽香の傷口に落ちる。
それからわたしは想った。だだひたすらに。
彼女の心を。
彼女の寂しさを。
彼女の苦しみを。
頭の中にはそれしかなかった。目の前には幽香しかいなかった。
私の心は脈打つ。彼女のためだけの鼓動。
この世の者が誰も愛さなくても、わたしは愛そう。
この人の心を。
たとえ、この綺麗な姿を否定してでも。
わたしは幽香の白い首を見た。だが、視界に段々と墨が射して行く。
あれ? 意識が……
気付けば体中が痛い。流石に無理しすぎたか。
わたしは死ぬのだろうか?
一瞬、そんな考えが通り過ぎた。でも、そんな事はどうでもよかった。
だが、このまま幽香の顔を見ないで死ぬのは惜しいと思った。
わたしは彼女から口を離し、その顔を見た。
きっと、幽香の顔は痛みに苦しんでいるだろう。
しかし、わたしの見た顔は想像とは全く別のものだった。
これは……何でだろう?
草色の髪に縁取られた表情は穏やかなものだった。
安心に閉じられた瞳、落ち着いた曲線を描く口、温かい頬の色。
わたしは目の前の光景に疑問を感じたが、すぐに考えを変えた。
よかった。幽香さんが幸せそうで。
心に幸せを感じると、わたしの意識はたちまちに崩れて、闇の中に沈んでいった。
ああ、温かい。自分の上に太陽が乗っているかのようだ。
それにこの大きな鼓動。
私の上には一体何が乗っているのだろう?
自分に触れているものに興味を持ち、瞼を開いた。
私の首元には草色の髪が見えた。
「リグル?」
その服には血やら泥で模様が出来ていた。
周りには辛うじて向日葵と分かるものが散らばっていた。
「ねぇ、リグル! 起きて!」
私は呼び掛けたが、リグルは答えなかった。
だが、意識が無いだけで、呼吸はしっかりとしていた。
私は現在の状況と幽かに残っている記憶を辿った。
私は家具を壊し、向日葵を潰し、そして……
リグルの体に付いている泥は掌や拳の形をしている。
この人を傷つけた。
幽香は残された事実を拒んだ。しかし、その証拠は確かに目の前にあった。
私は何と言う人でなしだろう。
絶対に傷つけたくない人まで傷つけてしまうなんて。
もう、悲しみすらも湧かなかった。ただ、重たく無関心な失望だけだった。
私は自分を責めたが、このままリグルを放っておく訳にもいかない。
たしか、家の中に救急用の医療品があったはずだ。
私は目の前の小さな体を抱き抱えた。
その体重は思ったよりも軽く、簡単に家まで運ぶことが出来た。
家の中に入ると、辛うじて残っていたベッドにリグルを乗せた。
部屋の隅にある医薬品の箱をベッドの傍に寄せる。
このまま手当てをするわけにはいかないか。
そう思った私はリグルの服を脱がした。
白い胸と平らな腹が見えた。
正面からは大して怪我をしている様には見えなかった。
横から見ても同じだった。
これで、背中も何も無かったら良いのだが。
そんな事は無いと知りつつ、リグルの体を反対向きにする。
ああ、やっぱり。これは、ひどいものだ。
眼球から見えた背中には、紫色の痛々しいしみが広がっていた。
私は一瞬戸惑った後、打撲用の薬をリグルの背中に塗った。刺激しないようにそっと。
痣に薬を与えている途中、細い手足が目に入り
私はこんな小さな命すらも傷つけたのか。
と、改めて失望に襲われた。
薬を塗り終え、私はリグルに服を着せて仰向けにした。
ふと、首元に痛みを感じる。手を触れると乾いた血が付いた。
消毒をしよう。
私は回復力の強い妖怪なので、滅多にそれをする事が無かったが、今はそれしかやる事が無かった。
医療品の箱から消毒液を取り出し、残っていた椅子に座る。
ちなみにリグルには背中を向けて。
私は首に消毒薬を塗る。
液体の滲み込んだ綿を傷に対し、三回ぽんと叩くだけで良かったが、わたしはそれを何度も繰り返した。
傷口を叩く度、何度も痛みが再生された。
私はどうしようもない不安と恐れに捕らわれていた。
もう半分以上分かっているけれども。
リグルが目覚めた時、私に対してどんな反応を示すのか。
きっと、恐れの視線と拒否の声だろう。
ここまで明確に分かっていたが、それでも実際に起こるのは辛かった。
私はリグルを傷つけた。
この思いがじっと私を縛り付けていた。もう何回消毒薬を塗っただろうか?
「幽香さん……」
細くて小さな声が聞こえてくる。私はそちらへ振り向く。
「こっちに」
そうリグルが声を出したので、ベッドの傍へと向かう。
私はベッドに横になった細い肢を見た。
その体も表情も、何とも苦しそうだった。
リグルが口を動かすのが見える。私はその言葉に身構えた。
「やっと解りました……花は何をされたら愛されているか」
えっ?
私はリグルの口から出た言葉が理解できなかった。
しかし、それでも言葉は続く。
「摘み取られる程に想われて、枯れて朽ち果てるまで心に留めてもらう事、ですよね?」
私はその答えに返答することは出来なかった。
だが、拒否する気にはなれなかった。
リグルは私の言葉が聞こえなくても口を止めなかった。
「問題の答え、あなたの心は解りましたから! だから……」
華奢な手は私の腕を掴み、その白くて薄い胸に私の掌を押し当てた。
小さな胸から熱を帯びた鼓動が伝わった。
「幽香さんを愛せるようにするから! 努力しますから」
リグルは自分が最も言いたいことを搾り出した。
「もう、こんな悲しい事はしないでください!」
目の前に横たわっている小さな体は荒い息を吐いた。
私にはリグルの言った言葉は理解できなかった。
しかし、自分の中に何か熱いものが流れ込んで来るのを感じた。
「わかったわ。でも……」
私は理性も本能でさえも外れた心で答えた。
「その証、見せてほしいわね」
理由なんて無かった。ただ、勝手にそうなっただけなのだ。
「むぐっ?」
リグルは濁った疑問を口から漏らした。
無理もない。だって私の唇がリグルの唇に合わさっているのだから。
私の口の赤くて太い根はうねり、自分の口を外れてリグルの口の中に滑り込んだ。
まず私の根は硬くてすべすべしたものに当たった。それから私の口を出たそれはリグルの口の中を触り回った。
私のやっている事が何なのか気付いた目前の顔には、赤が差していた。
私はそれがとても嬉しくて、更に自分の根を遊ばせる。
リグルの口の中で最も硬くて尖った部分に自分の根を意地悪く押し付ける。
ぷつりっ。
私は自分の根を傷つけ、それをわざとらしくリグルの根に絡ませる。
リグルの根は始めこそびくりと怯えていたが、やがて自分から私の根に擦り寄ってきた。
私の傷ついた根から滲み出す命をリグルの根が受け取り、細い体に取り込まれていく。
なんと馬鹿馬鹿しいやり取りだろう。
しかし、私はリグルの根の味、リグルと根を組む時の粘り、湿った息が混ざることがとてつもなく甘く思えた。
私は視線を目の前の顔に向けた。
もう赤は差していなかった。だが、代わりにリグルの目にはただ私に応えようとする光が見えた。
私はそれが何とも貴重なことに感じた。そして、沈んでいく様に瞼を下ろす。
もう、互いの根を絡ませる音とリグルの味しか分からなかった。
しかし、少し時が過ぎるとそれすらも薄れていく。
私のいる世界が崩れていく。私の体がぱらりぱらりと落ちていく。
そして、余計なものは何一つ残さず消え去った。
残ったのは私の心とリグルの心だけだった。
何からも邪魔の入らない中、私とリグルは触れ合った。
私とリグルが溶け込む。
私の中にリグルが流れ込んで、リグルの中に私が流れ込む。
何も考えず、何も欲せず、何も拒まない。
ただ、それだけの事だった。
でも、私とリグルは確かに満ちていた。
もう、抑えられない。
壊れたみたいに。
優しい愛が病の様だ。
二人は恋が呆れる位に互いの根を交わしていたが、やっと唇を離した。
幽香とリグルの口の間に粘つく赤い銀糸が伸びたが、二人の距離が大きくなると、真ん中からぷつりと切れて幽香とリグルの唇へ戻っていった。
二人は数刻、見つめ合った。まるで起きている夢を見ているみたいに。
そして、幽香が先に口を開く。
「ねえ、リグル」
「何でしょうか?」
リグルはそう答え、幽香の赤い眼を見た。
「ありがとう」
その言葉を聞いて、リグルは恥ずかしそうに赤く輝く眼球から視線を逸らす。
「いいえ、お互い様ですから」
その声の後、二人はまた見つめ合った。
そして、互いに可笑しい人がいるという具合に笑い合った。
どちらも静かで、優しく、温かい微笑みだった。
その日は何ともひどい日だった。最悪と言ってもよかった。
まず二人ともぼろぼろだったし、家具もめちゃくちゃ。
それに家の外の向日葵はほとんど潰れていた。
しかし、それでも……
花と虫は満たされて幸せだった。
頭の中に続きが浮かんだので、書いてみた。
タダヨシ
- 作品情報
- 作品集:
- 2
- 投稿日時:
- 2009/07/13 11:35:39
- 更新日時:
- 2010/08/06 22:03:51
- 分類
- ※たかる、虫は(作品集1)の続編
- 幽香
- リグル
- キャラ色々
- 微グロ?
- 暴力
美しいとしか言いようがねぇよ・・・
ふつくしい
お互いの心の弱さを支えあう感じが、なんとも良かったです。妖怪って、精神的に脆いイメージがあるんで。
ここは・・・産廃なのか?
花と虫、堪能させてもらったぜ