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『まな板のうえの衣玖』 作者: みにくいコックさん
それはまるで、絵に描いたような「平和な光景」だった。
見下ろす大地はどこまでも広い森、照らす日差しは寝床のなかにいるようにほんわかと心地よく、千切れ雲がまぶされた空はどこまでも澄み切っている。
こんな天気の良い日は、永江衣玖にとって絶好の漂流日和だった。
龍宮の使いである衣玖には、気象の様子から良からぬ兆候を察知して下界の民に伝えてまわるという使命がある。
逆に言えば、平常時には特にすることもやりたいこともないまま、こうやってのんびりと当て所もなく幻想郷の空を漂って一日を過ごしていた。
「はぁ……」
ところが何故か、衣玖の表情は晴れない。
こんなにも良い日なのに、不思議と嫌な予感がして仕方がないからだ。
されど大気にはなんの異常も感じられない。不安の種は、どこにも見あたらない。だからこそ、正体不明のもやもやとした不安が影のように心につきまとい、気持ちが悪かった。
「この不穏な気持ち、いったいどこからくるのでしょう……?」
地上に降りて大きな木の根元に腰掛け物思いに沈んでいると、鈴の音のように可愛らしい声がした。
「にゃん? おねえちゃん、おなか空いてるの?」
その声に顔をあげると、小さな女の子が心配そうに衣玖を覗き込んでいた。
大きな耳と二本の尻尾が生えている。猫の妖怪だ。その足元に、まるで子分を従えるみたいに数匹の猫を引き連れていた。
「いえいえ、お腹が空いているわけではないのですよ」
「ふーん。じゃあ、どうして元気ないの? わたしはいつも元気いっぱいだよ」
「それは良いことですね。元気がないのは、なんだか不吉な予感がするからですよ、子猫さん」
「あっ、それわたしのせいだよきっと!」
少女がそう言うので、衣玖は不思議そうな顔をした。
「わたし黒猫だからね、縁起が悪いからって『きょーちょーのねこ』なんて呼ばれたりするの。だからね、きっとその不吉な予感はわたしのことなの。おねえちゃんは、わたしとここで会うことがわかってたんじゃない?」
「そうなのかも知れません」
「すごい! おねえちゃんって占い師!?」
「どちらかといえば預言者といったところかしら」
衣玖がそう言うと、少女はおおーっと感嘆の声をあげた。
その素直なリアクションに、衣玖は思わず、くすっと笑ってしまった。
「でもね、わたしだってすごいんだよ! 見てて」
すると猫の少女は、だしぬけに衣玖が寄りかかっていた大木に駆け寄り、あっという間のはやさでその木にしがみついて登っていった。
そして見上げるほどのところまで登りつくと、突き出した枝に乗って地上の衣玖に「やっほー」と手を振った。手を振り返してやると、そのままぴょんと跳び、きりもみしながら着地した。
「わぁ、お上手ですね! ぱちぱち」
「えへへ〜。わたし、木登りは幻想郷でいちばん得意なんだよ。わたしの名前、木に登るって書いて『橙』っていうの! おねえちゃんは?」
衣玖が自分の名前を橙に告げると、橙は嬉しそうに「衣玖さんっていうんだって」と、子分の猫たちに告げた。
話によると、橙はこの猫たちに木登りを教えてやろうとこの大木のところまで遊びに来たところだったらしい。衣玖はほんのひと時、橙たちの遊びに付き合ってやり、衣玖自身が飽きてきた頃にそのまま橙たちと別れた。
その頃には、衣玖の不安な気持ちもすっかり穏やかになっていた。
少々、心配性になりすぎていたのかもしれない。
「職業病、でしょうか」
やれやれといったため息とともに、そう呟いた瞬間だった。
突然、目の前に広がった闇に、衣玖は意識とともに飲み込まれた――
◆
どすッ
――と、腹部に鈍い痛みが突き刺さった。
「ぐぇ」
お目覚めのあくびの代わりに、汚らしいおくびのようなうめき声が漏れた。
無意識のなかにいた衣玖は、文字通り、突如として何者かに叩き起こされたのだ。
「うぅ……ぁ……」
何が起こったのか理解できないまま反射的に、息苦しく痛む腹を抑えようとする。
が、思いがけず両の手首がつっぱり、その動きを妨げた。痛みに身悶えすることさえも許されずに、瞳を涙で潤ませてただ耐えることしかできない。
――!?
衣玖は、磔にされていた。
裸に剥かれて、薄暗い部屋の真ん中に設置された広い平板に手足そして首を分厚い皮のベルトで固定され、拘束されていた。
「え? え? え?」
状況が飲み込めない。
激しい痛みと混乱によってぐらつく意識のなか、衣玖は必死に状況を把握しようと周囲を見渡した。
そして、暗闇に浮かぶ何者かの影を見た。
――八雲紫?
その姿を認めた次の刹那。
すでに振りあげられていた紫愛用の日傘が、空を切って衣玖の身体に叩きおろされた。
「ひぎ……ッ」
ばしッ、と日傘の一撃が肉付きの良いふとももを打ち、衣玖は痛みに顔を歪めた。
日傘のふわふわと可愛らしい見た目に反して、その一撃はあまりにも重く、骨の芯まで陣々と痺れた。
「ぁ……ぁう……どうして……」
どうしてこんな酷いことをするのですか?
その当然の疑問を最後まで口にすることすら許されず、
「えい!」
がすッ
今度は脛を打たれた。
「あ゛ぁッッ〜〜〜〜〜〜〜!!」
急所への強打と、紫の理不尽な仕打ちに、衣玖は耳をつんざくほどの金切り声をあげた。
ところが紫はひるむどころか眉ひとつ動かさず、リズミカルに日傘を叩きつけ続けた。
「えい! えい! えい! えい!」
紫は無抵抗の衣玖を、繰り返し叩いた。
衣玖は叩かれる度に、舌を突き出して「お゛え゛っ」と嘔吐に似た濁った声をあげた。
身体のあちこちが内出血を起こし、その透き通るように白かった肌に朱がさしていく。
なんとか抵抗を試みたが無駄だった。この部屋には特殊な結界が張り巡らされているらしく、衣玖の雷撃はことごとく無効化されてしまった。
「あッ……や゛め……ぎゃッ……助けて……ひぐぇッ……!!」
「えーい」
ぐぢゃ……ッ!
右腕がついに潰れた。
「いあ゛ゃあッッッ!?」
助けて、許して、もうやめて、と惨めったらしく懇願する衣玖の声は、紫には届かない。
執拗に日傘を振り下ろし続ける紫の表情には、とりわけ憎しみがこもっているわけでも、あるいはその行為を楽しんでいる様子もなかった。ただただ衣玖を痛めつけることだけに集中していて、妙に真剣な表情をしている。
「えいっ! えいっ! えいっ! えいっ!」
衣玖は痛み以上に、感情や意図が読み取れない紫のその表情に、正気を失ってしまいそうだった。
「ぃぎ……ッ……やぁ……」
「えいっ! えいっ! えいっ! えいっ!」
「だッッ……ダレか……ぁがっ……」
「えいっ! えいっ! えいっ! えいっ!」
「だ……誰がだずげでぇ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!」
涙と鼻水と唾液で顔をぐちゃぐちゃにして、衣玖は助けを求めた。
どこの誰でもいいから、この責め苦から救い出してほしい。藁にもすがるような思いで叫び声をしぼりあげた。
その願いが天に届いたのか。
おもむろに扉が開かれ、暗い部屋に光が広がった。
「――なにをなさっているんですか、紫さま!?」
なにやら騒ぎ声を聞きつけてきたのは、紫の式の九尾狐・八雲藍だった。
藍は主の紫と、磔にされた衣玖を交互に見やり、その惨状に目を丸くした。
「あっ、藍〜。見てわからないかしら」
「わかりませんよっ!」
「お料理よ。お・りょ・う・り」
「――正気ですか?」
良かった……このひとはマトモだ。
衣玖は心の底から安堵した。ここから事態が良い方向へ向かうと信じて疑わなかった。
「……ぅぅ……た、助けてください……」
「ほら、見てみて! こんなに新鮮なお魚をつかまえたから、タタキにしようと思って叩いてたところだったのよ。美味しそうでしょう」
「……紫さま、つかぬ事をお伺いしますが、『タタキ』と『炒め物』の調理法の違いってわかります?」
「えっ? おんなじじゃないの?」
「貴方というヒトはどれだけ料理音痴なんですか……」
「わるかったわね〜」
自分の式に馬鹿にされて頬をふくらます紫に、すっかり呆れた表情の藍。
そして、別の意味で呆気に取られている衣玖。その表情はこわばっていた。
「紫さまはもういいですから、後はわたしが替わります」
そう言って、藍は後ろ手で扉を閉めた。
部屋はふたたび元の闇に包まれた。
◆
割烹着を身につけた藍は、品定めするようにまな板のうえの衣玖の裸体に真剣な眼差しを送った。
それは「どう調理してやろうか」考えている、料理人の目つきだった。
そして、その手には艶かしい光沢を湛えた――刃渡り五〇センチは優にあろうマグロ包丁が握られていた。
「ぃ……嫌ぁぁぁッ! 包丁はッ……刃物はシャレになりませんッッッ……!! お願いだから助けてくださいぃぃぃぃッッッ!!」
「むぅ、なかなか活きが良いですね」
「でしょう」
食材に対する同情など介在するはずもなかった。
藍は、絶望と恐怖で身を震わせている衣玖の胸に手をやり、その具合を確かめるように軽く揉んだ。豊満な乳房は、弾力をもって藍の手のひらのなかでたわわに潰れた。
「ひゃ……ぅ!?」
こんな状況に置かれていても、思わず、びくっ、とちいさく身体を仰け反らせる衣玖。
「うーん、これだけ新鮮だと切り身にしてしまうのは、ちょっと勿体ないですね」
「うふふ、マグロではみたいだしね」
「誰が上手いことを言えと。そうですね……せっかくだから、活け造りにでもしてしまいましょうか」
その言葉に、衣玖は血の気が引いていくのを感じた。
あまりにも現実感がなさすぎて、頭がクラクラした。
だが、信じられなくともこれは現実。このままだと確実に、殺されるだろう。
「嫌ァァァァああああッッッ!? おおおおおお願いですからッ! 助けてッ! なんでもしますからッッ! やっ、やめてッ……やめてくだざい゛い゛い゛い゛い゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッッッ!!」
生き延びるために衣玖ができることは、ただただ命乞いすることしかなかった。
衣玖には何の罪もない。だというのに、衣玖はひたすらに謝り続けた。赦しを乞い続けた。思い浮かぶ限りの命乞いの言葉を、涙をぼろぼろ零しながら、ひたすらに唱え続けた。
そうしながらも衣玖がガクガクと暴れるので、藍は「困りましたね」と呟いた。
「しかしこう、活きが良すぎると、かえってやりにくいですねぇ」
「わたしに任せなさいな」
そう言って、紫が閉じた扇を魔法の杖のように振ると、衣玖を拘束してたベルトがぎちぎちと音を立てて締まった。「ぐぐぐ……」首に巻かれたベルトまで締め付けられ、急に息ができなくなって目を白黒させる衣玖。
「ちょっと紫さま、殺してしまったら活け造りにできませんよ」
「うーん、加減が難しいわねぇ。……こんなもんかしら?」
「……っは……げほっ、げほっ」
おもむろに喉元の締め付けが緩み、衣玖は赤ん坊のように涎をたらしながら激しく咳き込んだ。
しかし手足のベルトは、手や足の先が紫色に変色して感覚がなくなるほど、強く締め付けられている。衣玖はとうとう身動きひとつ取れなくなってしまった。
「さて、藍。お次はあなたの腕の見せ所よ」
「お任せください」
藍は、マグロ包丁よりやや小ぶりで鋭い刺身包丁に持ち替えると、まな板に向き合った。
そして、まな板のうえの衣玖に真剣な眼差しを落とす。
「う゛そっ! 嘘ッッ!? そんなの死ぬッッッ! 死んぢゃいま゛すッッッ!!」
「しっ……静かに。手元が狂うわ」
「うッ……」
ここにきて、初めて声をかけられた。
そのぞっとするほど冷たい口調に、衣玖は絶句し、思わず言われるがままに口をつぐんでしまった。
衣玖の左の腋のしたに、包丁の切っ先が当てられる。心臓の、すぐ近くの場所だ。極度の緊張のあまり、鼓動が早鐘を打つように高鳴っている。
そして、
――ぷすっ
「――――――ッッッ!?」大きく目を見開く衣玖。
柔らかい肌を突き破って、身体のなかに冷たい金属の刃が進入してくる感覚があった。
もちろん痛みはあった。だが、不思議なことに、ピークは刃が挿し込まれる瞬間だけで、思っていたほどの暴力的な痛みはなかった。出血も切り口が滲む程度だ。
「……ぅ……ぅぅ……?」
乳房と肋骨のちょうど隙間に、ひんやりとした包丁の刃が挿し込まれているのを感じる。
その奇妙な感覚に、衣玖は藍の顔を見上げた。
「……?」
「この包丁はかなりの業物だ。それにわたしの腕は一流だ。安心しろ、綺麗に捌いてやる」
剣の道を極めし者の居合いは相手に痛みすら気付かせない、という逸話がある。
八雲藍の料理の腕も、もはや達人の域まで到っていた。
藍は左手で衣玖の身体をおさえ、魚を下ろすのと同様の手付きで、右手に握りこんだ包丁を腋から下わき腹にかけて一気に走らせる。
「……んんぅ!?」
ぞぞぞっ、と冷たく鋭い痛みが身体のなかを切り進んでいくのがわかる。
その動きはあまりにも精確で、衣玖は下手に動いてうっかり中身を傷つけられないよう、下唇をぎゅっとかみ締め、声をあげないように堪えた。
骨盤の辺りまで到達した刃が、すらりと抜き取られる。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
それまで呼吸を止めていた衣玖が、大きく息を吐いた。
右半身のわき腹を走った傷口に、じんわり血が滲み出し、熱い痛みがこみ上げてきた。
藍が、まな板の反対側に移る。そして先程と同様に左の腋のしたから包丁を挿し込み、刃を滑らせるようにして一気に卸した。
「ン゛ン゛〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!」
またしても衣玖は、涙で瞳を潤ませ、下唇を血が出るほどかみ締めて耐えた。
これでいま、鎖骨周辺と下腹部を残してすべての前半身の肉が、身体から削ぎ取られたことになる。それが衣玖には信じられないし、考えたくもなかった。
「どうだ。思っていたほど痛くはないだろう」
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
「そんなに身をこわばらせなくてもいいわ。刃の通りが悪くなるからな。あなたは行きつけの美容院にでもいるような気分で、リラックスしていればいい。なに、美容院ほど手間は取らせないさ」
「見事な御手並みだわ、藍。まるで食材と会話しているかのよう……!」
胸を上下させて息をしながら、もはや心のスイッチを切ったように呆然自失状態の衣玖。
今度はその前胸部に包丁の切っ先が向けられ、ぷす、と僅かに刺し込まれた後、つぅーっ、と身体の中心線を通り、臍のやや下のほうで抜かれた。
「ああッッッ……!?」
その全身が怖気立つような感覚に、衣玖は堪えきれず声をあげた。
自分の身体を恐る恐る見下ろすと、首元から真っ直ぐに紅い線が引かれていた。冷たい感覚が走った痕の赤い線が、じんわりと熱くなっていくのを感じる。
「ああ、ああっ……、なんという……」
涙を零しながら、そう呟くことしかできなかった。
そんな衣玖の様子に気をとめることもなく、藍は手際良く次の工程に移る。今度は横にスライスして、身を切り分ける作業だ。
衣玖の首元に刃が当てられ、体の中心線から鎖骨に沿って外側に向かって、すっ、と包丁が引かれた。心臓の、ほんの紙一重のところを刃が通っていくのを感じて、衣玖は鉄の味が混じった生唾を飲み込んだ。
――ああ、わたしの身体が……切り離されました。
仮にいま拘束が解かれたとしても、そのまま立ち上がりでもしようものなら、べろり、と身体の前面がめくれてしまうだろう。衣玖はもう、逃げ出すことすらできない身体になってしまった。
続けざまに包丁が入り、肋骨に沿うような軌跡を描いて冷たい痛みが走る。
すっ、すっ、すっ、と藍は精密機械のような動きで、スライスを続けた。
背筋がぞくぞくするほどの冷たい痛み、そして染みるようにゆっくり血が滲んでいく生暖かい痛みが、絶え間なく、交互にやってくる。
「ぁ……ふぅ……ぁぁ……んっ……」
衣玖はその身体に包丁が引かれる度に、視点の定まっていない上気したような表情で、変に艶っぽい声をあげるようになっていた。
異様な事態だった。
自分の身体を切り分けられているところだというのに。
これからバラバラにされるところだというのに、衣玖は――性的に感じていた。
「……ぁ」
衣玖の恥部から、黄金色の液体がちょろちょろと漏れて、まな板のうえに水溜りをつくった。
分泌された愛液と混じり、とろりとした粘り気を帯びていた。
「あらあら」
それに気付いた紫が、意味ありげに含み笑いをした。
一方、衣玖を捌きつづける藍の表情は真剣そのもので、その顔には一筋の汗が伝っていた。
衣玖は呆けたように口を半開きにして、不思議そうな表情で藍を見上げていた。
ピクッピクッ、と全身を小刻みに震わせるその姿は、まさに活け造りといった有様だった。
奇妙な儀式は、黙々と続けられた。
◆
しかし、穏やかな時は、長くは続かなかった。
胸部から腹部へかけての刺身の切り分けがすべて終わり、舟盛りにしようと専用の器を藍が持ち出したときのことだ。
「あ、しまった。ちょっとばかし広さが足りないみたいだわ」
両手に抱えた船を模した木製の器と、まな板のうえの衣玖を見比べて、困ったように呟く藍。
衣玖の全身を盛り付けるには、明らかに容量不足のように見えた。
「そんなの簡単よ」
と、事も無げに紫が言う。
「手足をチョン切っちゃえば、ちょうどすっぽり収まるじゃない?」
そんな提案を、さらっと口にした。
悪魔的な恐ろしい発想。しかし、先程から達しつづけっぱなしの衣玖の意識には、幸か不幸か、意味のある言葉として届いていなかった。
「しかし、手足の切断ともなるとそう簡単には……けっこう太さもありますし、文字通り『刃』が立ちませんね」
衣玖の白く伸びたふとももを藍が軽く撫ぜると、ビクンッ、と反応した。
それでもなお、衣玖の意識は遠くにいったまま還ってこない。
「ふふっ、そこはわたしの出番よ」
「えっ、如何なさるおつもりですか?」
「コレを使うのよっ!」
紫は得意気な笑みを浮かべると、目の前の空間にスキマを顕在させた。
ィィィィィィィィイイイイイイイイイ……
遠くから、獣が慟哭するような音が近づいてくる。
まさか! 藍が目を丸くする。
キュィィィィィィィィイイイイイイイイ……ッッッ!!
けたたましい叫び声をあげながら、スキマから『ソレ』が正体をのぞかせた。
まるでマジックショーの大道具の如く、わざとらしいほどに巨大な回転ノコギリ。
紫はこの極悪な道具を、
――『肉体分断器』
そう、呼んでいた。
名が示すとおり、肉体をブッ断つためだけの道具だ。もちろん、とてもじゃないが調理に使えたような代物ではない。
「だだだダメですよ紫さまっ! こんなの使ったら、せっかくの魚が死んでしまいます! なんのために苦労して生きたまま捌いたと思ってるんですか!」
「あらあら、ま〜た料理音痴って馬鹿にするつもり? わたしにだって、ちゃんと考えがあるわ。うっかり殺しちゃわないように……生と死の境界を固定します」
「……なんというご都合主義」
紫さまは無敵なのだ。なんだってできちゃう。
すっかり放心状態だった衣玖も、目と鼻の先で回転するノコギリの爆音に、意識を取り戻さざるを得なかった。
「――えっ?」
そして気が付いたときにはすでに、高速回転する鋭利な刃が、衣玖の両足をまとめて切り落とそうと、ゆっくりと降りてきているところだった。
「えっ? えっ? えっ? ななななななにこれなにこれなにこれなにこれなにイ゛ヤ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッッッ!?」
ギギュゥッッッガガッガガガッガッリガリッッッガガガッッッ!!
肉体分断器が骨を断つ音が、薄暗い部屋に激しく響き渡った。
蒼白い顔をした衣玖は、白目を剥いて、舌を突き出し顎が外れるほどに開いた口から、その音に負けないくらいの絶叫をあげた。
聞くものが聞けばそれだけで発狂しそうなふたつの爆音は、共鳴し合って部屋全体をビリビリと震わせた。
「わぁ、凄い声ね……! トラウマになったらどうしましょう」
紫は楽しそうに言いながら、操る肉体分断器の刃を上げた。
衣玖の切断された両足が、ごろん、と転がった。切断面からは大量の血が噴出し続け、見る見る間に床が水浸しになっていく。もわっとした血の臭いが、鼻をついた。
「あ゛ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃあぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃッッぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぁぁぁぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃッッッ!?」
そんな状態になっても、紫によって細工された衣玖は意識を失っていなかった。
死ぬことも、気絶することさえも許されず、馬鹿みたいな奇声をあげてこの世の終わりのような痛みを味わされていた。
「う゛びゃびゃびゃッッッあああギあびゃばやびゃああ゛あ゛ッッぎゃひゃひゃばばばばばッッッゥゥイイイイィィッッや゛ばッばばばばばばびゃッッッ!?!?」
衣玖を捌くことになんの躊躇いもしなかった藍でさえ、その光景は見ていて愉快なものではなかった。にもかかわらず、衣玖の叫び声はなんだか笑っているようにも聞こえて、藍は妙な気分になった。
「さて、と。次は……腕に取り掛かるわよ」
張り切る紫の声は、叫び声にかき消されて宙に舞った。
◆
――そろそろおなかが空いてきたなぁ。
今日も一日中元気いっぱいに野山を遊びまわった化け猫の少女――橙は、おねだりするように鳴り続けるお腹を抑えた。
もうすぐ、日も暮れる頃だ。
今夜は紫さまと藍さまの家に、夕飯をお呼ばれしている。
「たのしみだなー。藍さまの作ってくださるご飯って、とってもおいしいんだもの!」
橙が嬉しそうにそう言うのを聞いて、足元の猫たちが「にゃあ」と相槌を打った。
深い森を往き、橙は八雲家に辿り着いた。あの博麗神社の巫女も知らない秘密の場所。知っているのは、家族の証だ。
「こんばんわー」
その声を聞きつけて、すぐに藍が玄関へすっ飛んできた。
「おおっ、待っていたぞ、橙。ちょうどいま、夕食の準備ができたところだ。今夜はごちそうだぞー」
「ごちそう!? ヤッター!」
「でも、橙も夕食前に準備することがあるよね?」
「ハイ! おそとから帰ったら必ずうがいと手洗いをすること、ですっ!」
「よろしい!」
元気いっぱいに返事をする橙に、藍は目を細めながら頷いてみせた。
ふたりして洗面所に行くと、そこには紫がいた。流水で手を洗う紫の手は、べっとりと血糊のようなものがついていて、洗面台を赤く染めていた。
「あら〜、橙じゃないの。いらっしゃい」
「にゃにゃあっ!? ゆ、紫さま!? どっ、どうなされたのですかその手! どこかお怪我でもされたんですか!? すすすす、すごい血が出てますよっ!!」
「うふふ。心配いらないわ、橙。さっきまで藍といっしょに魚を捌いてたから、それで汚れちゃっただけよ」
わたわたと慌てふためく橙の様子が、あまりにも可愛かったので、紫と藍は顔を見合わせて笑った。
それを見た橙は、ちょっぴり馬鹿にされたように思えて、ぷく〜っと頬を膨らませた。
「にゃ〜、ほんとうにビックリしたんですからねっ!」
「あはは、拗ねるな拗ねるな。それにしても橙は優しい子だなぁ」
「そしてそそっかしい子でもあるわね」
「ぶみゃ〜」
「んもぅ、紫さまは余計なこと言わないでくださいよぅ〜」
八雲一家、和気藹々としながら夕食の『待つ』座敷に向かう。
そして襖の前で、ふと、紫と藍が立ち止まった。そして、意味ありげな様子の笑顔のふたり。
「?」
「開けてごらんなさい、橙」
「……? はい」
紫に言われるがままに、怪訝な表情の橙は襖に手をかけ、ゆっくりと開いた。
そして、その向こう側にある光景を見た橙は、もともと大きな瞳をもっと丸くして驚いてしまった。
――襖の向こうには、目を疑ってしまうような光景が広がっていたからだ。
宴会用の座卓のうえに、所狭しと並べられたたくさんの料理。
焼き物、天ぷら、サラダ、吸い物、etcetc……ご飯だって白飯ではなく丼物にしてあるといった豪勢っぷりだ。
しかし、そんな食卓のうえで一際目を引く異様な物体があった。
「…………えっ?」
今夜のメインディッシュといわんばかりに、卓上の真ん中にどんと置かれた大きな舟盛り。
そこには、手足を切断されてだるまになった女の妖怪が、まるでバスケットに寝かされた赤ん坊のようにすっぽりと収まっていた。その首から下が、刺身のように薄切りにされて盛り付けられていた。
驚くべきは、そんな姿にされてもなお、ぴくぴくと動き続けていることだ。
おまけに、かすかに何事かをうわ言のように呟く声も聞こえた。
それを見た橙は、眼と口を大きく開けてより一層の驚きの表情をしたまま、凍りついたかのように硬直した。
「驚いたでしょう、橙? これぜーんぶ、藍とふたりで作ったのよ。美味しそうでしょう。橙の大好きな魚づくしフルコースよ!」
「覚えているかい? 今日はね、橙がわたしの式になってからちょうど○○周年の日なんだよ。言わば、お前の誕生日だ。実はお前がお友だちの誕生パーティを羨ましがっていたのが気になっていて、紫さまとふたりで密かに計画していたんだよ」
「…………」
「あら、感動のあまり言葉も出ないのかしら。って、泣いてるわよこの子!?」
「おい、なにも泣くことはないだろう。ほら、何でも好きなものからお食べ」
「ぁ……ぁぁ……」
予想もしなかった出来事に思わず固まってしまった橙は、肩を震わせて涙をぽろぽろと零していた。
そして、おもむろに涙を乱暴に拭うと、大きな声で叫んだ。
「――ありがとうっ! 紫さまっ! 藍さまっ!」
満面の笑顔だった。
それを見た紫と藍も、嬉しそうに微笑んだ。
そんなアットホームな雰囲気とは裏腹に、食卓からは不気味なうめき声が漏れ聞こえていた。
◆
橙が「そのこと」に気付いたのは、席に着いて、いただきますをしてからのことだった。
舟盛りの器に収まった妖怪、どこかで見覚えがあった。「うーん」と記憶を辿ってみると、昼間会った『衣玖』というお姉さんだということにようやく思い至った。
しかし、橙がすぐに気付けなかったのも無理はない。
昼間会ったときの衣玖の大人びた雰囲気はすっかり失われており、いま橙の瞳に映る衣玖は、ぼんやりとした虚ろな表情で、半開きになった口から涎を垂らしながら言葉になっていない言葉を呟く幼児のような有様だったからだ。
「衣玖さん。橙のこと、わかる?」
「ぁぅ……ぅぅ……あ゛ー……」
橙が問いかけてみても、衣玖はきょとん、とした表情で何もわかっていない様子だった。
「なんだ? 橙の知り合いだったのか」
「はい、衣玖さんっていうんだって。昼間にいっしょに遊んでもらったんです」
「ふふふ、実はこの食卓にならんでいるもの、ぜーんぶこの子を使って作ったのよ」
切断した衣玖の手足は、もちろん棄ててしまうようなことはしなかった。
腕は焼き物にしたり、ほぐしてネギトロ丼のようにした。たっぷり身のついた足は天ぷらやから揚げにしたし、アラだって吸い物の具になって良いダシが出ていた。
「さすが藍さま! にゃー、どれから食べようか迷っちゃいそうです」
「あら、わたしだってちょっとは手伝ったんだから。この舟盛りだってわたしが盛り付けたのよ。ほら、とっても新鮮よ。食べてごらんなさい」
「はい、いただきます!」
橙は箸をのばして衣玖の胸部の肉を一枚剥がすと、刺身醤油をすこしだけ漬けてそっと口に運んだ。
口に入れた瞬間、脂身の旨味がとろけるように広がり、それでいてしつこさのないさっぱりとした味がした。噛むと、柔らかくも適度な歯ごたえがあった。
「わぁ、おいしー!」
ほっぺが落ちそうにならないように片手で押さえながら、橙は幸せそうに目を細めた。
そして、次から次へと衣玖の身体に箸をのばした。見る見るうちに、衣玖の『中身』があらわになっていく。
「そんなに大急ぎで食べたら、わたしたちのぶんがなくなっちゃうわよ〜」
「あっ、ごめんなさい。わたしったら、つい……」
「まあまあ、良いじゃないですか。今日の主役は橙なんですから」
「……そうだ!」
つい夢中になって独り占めしてしまっていたことを反省した橙は、なにやら良いことを思いついたようだった。
またしても一枚に箸を伸ばし、醤油に漬けると、そのまま『彼女』の口元に運んでやった。
「……だぁー?」
「ほら、おいしいよ。衣玖さん、あーんして」
「ぁぁ……う゛ー……んぁ……」
衣玖は、それが自分の身体の一部だということもわからないまま、橙の言われるがままに、ただ本能に従ってそれを口に入れた。
そしてそのまま、牛が草を食べるようにゆっくりと咀嚼をする。
「……ぁむ……ん……ま……」
あむあむあむ、と力の入らない顎で懸命に自分の身体の一部だったものを噛み続ける衣玖。
その様子を、橙は慈しむような眼差しで見守っていた。
「どう、おいしい?」
「……んぁー」
問いかけに対して、今度は明らかに反応があった。
「おいしい」と言っているのだ。
あどけなく笑う衣玖を見て、橙はぽかぽかと暖かい気持ちになった。
「橙は優しい子ですね」
「そうね、きっとわたしに似たのね」
「……自分で言いますか、フツー」
八雲一家の食卓に、明るい笑い声がはじけた。
それはまるで、絵に描いたような「平和な光景」だった。
(了)
魚つながりで、打倒『崖の上のポニョ』を目指してみました。
なぁに、こっちには紫さまと藍さまがいる。負ける気はせんよ。
みにくいコックさん
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投稿日時:
2009/07/19 18:07:04
更新日時:
2009/07/20 03:07:04
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ウギャァァァァァッッッイクサーン
ごちそうさまでした。
ていうか橙がめっちゃ怖いww
ウギャァァァァァッッッイクサーン
お勘定いくらだい?
僕の中の京極さんも泣いてます。
おなかすいてきた
これだから産廃はあなどれん。