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『早苗地獄』 作者: みにくいコックさん
われわれの世界ではありません。
もっと別の、おそらく狂人の国に違いないのです。
江戸川乱歩「鏡地獄」
◆
鮮烈に紅く染まった世界に、東風谷早苗は居た。
秋も深まり、艶やかに紅葉した森の景色はうっとりするほど美しく、それでいてどこかすこし寂しげだった。
そんな情緒溢れる日本の原風景に心を奪われていると、重い荷物を持っていたこともいつしか忘れて、すぐに目的地に到着することができた。
辿り着いたのは、妖怪の山の麓の森のなかにひっそりと佇む、小さな神社だ。
「どうぞ、お納めください」
早苗がうやうやしく供物を献上すると、秋を司る姉妹神は、それを見てぱあっと顔を明るくした。
籐編みのバスケットのなかには、栗、松茸、さつま芋、牛蒡、蓮根、茄子、柿、葡萄、etc...
幻想郷の豊かな自然から採れた秋の味覚たちだ。
「うむうむ、わざわざご苦労さま。今年も豊作ね」
「今夜は久しぶりのご馳走だね。栗ご飯、焼き茄子に、土瓶蒸し! デザートだっていっぱい!」
「ちょっとお姉ちゃん、ヨダレよだれ! 人前ではせめて神様らしくしようよー!」
「うー、いけないいけない」
妹の穣子に叱られた静葉が、慌てて口元を拭った。
早苗は背に担いだ米俵を降ろしながら、それを見てくすりと笑う。
それでも、早苗は彼女たちを畏れ敬う信仰心を失ったりしなかった。
今年も実り多い美しい秋を迎えることができたのも、秋姉妹のおかげだということを知っているからだ。
「最近では貢物もめっきり減ってきたからねぇ。早苗だけだよ、手まで合わせてくれるのは」
「あの、博麗の巫女なんて、貢ぐどころか食べ物たかりにくるんだから。まったく神をなんだと思っているのかしら」
「あはは……霊夢さんらしいですね……」
「でもいいの? 早苗んちの神様たち、嫉妬してない?」
「はい、信仰は感謝の気持ちの顕れ。感謝の心は分け隔てなく抱け、と神奈子さまも仰られていました」
嫉妬、はしていない。
とはいっても秋姉妹への貢物を準備しているときに、だいぶ渋られたことを思い出す。
曰く、「ウチのぶんもちゃんと取っておくんだよ」「あ、松茸は多めに残しといてねー」
どこの神様も、この幻想郷ではちっとも神様らしくない。実に人間的で親しみやすいのだ。
「ところで折り入って相談があるんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「あなた、うちの巫女にならない? 早苗みたいな子なら大歓迎だよ!」
「わ、わわ!? それは困ります! わたしには神奈子さまと諏訪子さまがいますのでっ!」
「その言い方、妬けちゃうわねー」
静葉にからかわれた早苗が、顔を紅葉させた。
とても純粋で良い子だった。
二柱の神様は、早苗なら本当にうちの子にしてもいいな、と密かに思った。
◆
用事を済ませたあと、香霖堂という古道具屋に立ち寄った早苗は、上機嫌で山の神社への帰路に着いていた。
そこで、外の世界の懐かしい小説本を見つけたからだ。
虚実の入り混じった作り話などなんの参考にもならない、と嘯く店主にタダ同然の値段で本を譲ってもらい、一刻も早くこの本を読み返したい早苗の足も自然と駆け足になる。
と、そんなとき、山道の端に座り込み、べそをかいている少女の姿が視界の隅に映った。
人間ではない。見知った妖怪だった。
「どうして泣いているのですか、小傘さん?」
「……早苗?」
早苗が声をかけると、化け傘妖怪の少女・多々良小傘が顔をあげた。
涙を瞳いっぱいに湛え、すっかり雨模様といった様子。
自慢の傘も畳まれていて、どこか悲しげに見えた。
「もう、いきなりすすり泣く声が聞こえたからびっくりしちゃったじゃないですか」
「……びっくりした? ほんとに?」
思いがけない言葉に、小傘の表情がすこし明るくなった。
驚きの方向性が妖怪として間違っていると思うが、早苗は黙って頷いておくことにしてあげた。
「で、いったい何があったんですか」
「あのね……」
白黒の魔法使いに本を奪われた、らしい。
いつものように『こわいほん』を読んで驚かせ方の勉強をしようとしているところに、魔法使いが飛んできてトンビが油揚げを掻っ攫うようにして本を強奪していったという。
急いで追いかけたが、スピード勝負では勝ち目はなく、結局泣き寝入り。
奪われた本が手に入れたばかりのまだページも開いていない品物だったというのも、小傘の悲しさと悔しさを一層激しいものにしていた。
「うぅぅ……うらめしや……」
「あっ、いままでで一番うらめしい感じが出てますよ!」
「えっ、本当? ほんとにうらめしかった!?」
「はい、とっても」
またしても、小傘の表情が和らぐ。
いちいち嬉しそうにするので、せっかくの迫力が台無しだ。
ふと、早苗が閃く。
「そうだ、ちょうどいま香霖堂でホラーな本を買ってきたところだったんですよ。これ、小傘さんに貸してあげます」
「えっ、いいの?」
「わたしは以前も読んだことがありますので。読み終わったら山の神社まで返しに来てください。良かったら、そのときまた別の本も借りていってください」
「ありがとう、早苗!」
ぱたぱたと傘を広げて喜ぶ小傘と笑顔を交わしつつも、早苗の内心は憤っていた。
困り者の霧雨魔理沙に対して、である。
本好きの身としては小傘の無念がよくわかるだけに、このままにしてはおけないな、と思った。
そして、早苗は魔法の森へと向かった。
◆
「魔理沙さん、いますか!」
霧雨魔法店のまえで、思い切って大声を出してみた。
それでも、扉をノックする音は控えめなところが、早苗の強引になりきれないところだ。
「ごめんくださーい!」
今度はもっと大声を出してみたけれど、返事はなく、そもそも家のなかからも人の気配は感じられない。
一応、念のため……と、裏に回りこんで窓から中を覗き込んでみる。
カーテンの間から垣間見える室内は薄暗く、いかにもといった感じの分厚い本や、小汚いすり鉢や毒々しい液体で満たされたフラスコをはじめとする怪しげな実験器具たちが、机のうえに乱雑に並べられていた。
まさに魔法使いの家といった有様だった。
「なんだ、泥棒か?」
「きゃっ!?」
突然、背後から声をかけられて飛び上がるほど驚いてしまった。
振り返ると、この家の主の魔理沙が口をへの字に結んでこちらを見据えていた。
「ごめんなさい。お留守だったみたいなもので、つい」
「だからって、乙女の部屋をあまりじろじろ覗いてくれるなよ。悪趣味だぜ」
「乙女というには悪趣味な部屋でしたけどね」
「ムッ?」
いつになく刺々しい早苗の態度に、魔理沙が眉をひそめた。
「で、何の用だ? こんな悪趣味なところにわざわざ来るぐらいだから、何か用があるんだろ?」
「ええ、実は本を返してもらいにきたのです」
「本? お前の本を盗った覚えはないのだが……」
「わたしのじゃありません。小傘さんの本ですよ」
早苗がそういうと、魔理沙は「ああ、これのことか」と一冊の本をとりだした。
革張りで装丁された分厚い古書だった。古ぼけてはいるが、それがまた一層風格をにじみ出させている。
早苗が想像していたような軽い怪談本とは、あまりにも掛け離れていた。
しかし、だからこそ魔理沙が狙った理由に合点がいった。
「たぶん、それのことです。わたしから小傘さんに返しておきますから、さぁ、寄越してください」
「いや、これはわたしの本だぜ?」
「えっ? 小傘さんから奪い盗ったんじゃないんですか」
「奪い盗ったよ。だが、これは元々わたしのものだ」
不思議そうな顔をする早苗。言っている意味がわからない。
「いいか? この本は普通じゃない。魔導書(グリモワール)なんだ。
小傘の奴はただの『こわいほん』としか思っていなかったみたいだが、魔導書の怖さはもっと別のところにある。
開いただけで悪魔が飛び出してくるかもしれないし、目にしただけで目が潰れてしまうかもしれない。
それを扱って良いのは、特別な知識を持った魔法使いだけなんだ。つまり、わたしのことだな」
そう言いながらも、ページをぺらぺらと弄ぶ魔理沙の話は、信憑性にかけていた。
それに、最後の部分。どう考えても強引なこじ付けではないか。屁理屈にもなっていない。
この本が魔導書かどうかは知らないが、結局はレアなアイテムを見つけて自分のものにしたかった。それが本音だろう。
すくなからず霧雨魔理沙という人となりを知っている早苗は、そう思った。
「言ってる意味はわかりませんが、わたしがやるべきことはわかりました。……素直に返していただけないのなら、こらしめてでもうばいとります!」
「おっ、弾幕るか? いいぜ、わたしに勝てたらこの本はお前のモンだ」
「だから小傘さんのモンですってば!」
勇み立つ早苗に、魔理沙がノリノリで応える。
やっかいな揉め事は弾幕ごっこで解決。
それが、幻想郷に住む少女たちの流儀だった。
◆
結論から言えば、早苗は弾幕ごっこに勝利した。
しかし、このとき魔理沙は本を渡してしまうべきではなかったのだ。
結局のところ、魔理沙自身も口で言うほど、この本の恐ろしさを理解していなかったのである。
◆
早苗は、奪還した本を自宅である守矢神社に持ち帰った。
持ち主の小傘が近々早苗の本を返しにくるはずなので、そのときについでに返してあげればいいと考えたのだ。
そして、夕飯の支度やら何やらの忙しさから解放され、早苗がこの本を再び手にしたのは、寝床に着く前、日課として読書の時間と決めている時刻になってからのことだった。
パジャマ姿という、あとは寝るだけといった状態で、電気スタンドの明かりの下で百科事典のような厚みを持った本と向かい合う。
「グリモワール、ねぇ」
ページを開いてみる。
ところが、中身はラテン語か何かは定かではないが、とにかく早苗の読めない文字で書かれていて内容はまったくわからなかった。
小傘に返してあげたところで、果たして同じ結果だろう。
早苗は、ぱらぱらと所在無さげにページをめくった。
そのときだった。
思いがけず、言葉が、目に飛び込んできた。
東風谷早苗
そう、読めた。
「……えっ?」
どくん、と心臓が鳴った。
見慣れない言語の海のなかに、忽然と見覚えのある文字列が浮かんでいた。
紛う方なく、自分の名前だった。
「何……これ」
注意深く見れば、他にも読める箇所があることに気付く。
吸血鬼は十字架に磔られました。
ぞくり、とした。
「魔導書の怖さはもっと別のところにある」
昼間の魔理沙の言葉を、思い出す。
ふと見れば、ページのあちこちに断片的な言葉が散らかっていた。
早苗は、そのひとつ、ひとつを、拾い集めるように読んでいく。
「やだ」
心臓が早鐘のように鳴り、第六感が警鐘を鳴らしていた。
なにかがおかしい。
しかし、それでも早苗はページをめくる手を止めることができなかった。
「嘘! 嘘! 嘘!」
文字を追う早苗の眼球が、病的にぎょろぎょろと動いている。
ページをめくる手が、徐々に荒々しく加速していく。
単語の群れは、やがて文章になり――
文章は物語に姿を変えていき――
そして、物語は世界となって、早苗を包み込んだ。
◆
鉛を溶かし込んだような、暗い、どんよりと渦巻く空模様だった。
詰まらせてしまった台所の排水口から漂ってくるような不快な臭いが鼻をつき、周りを見渡すと、見知らぬ場所に立っていた。
乱雑に敷き詰められたゴミの大群が、どこまでも広がる大地を形成していた。
大小様々からなる産業廃棄物の山は、まるでアヴァンギャルドを気取る芸術家が作ったような醜さだった。
「ここが、あなたの墓場よ」
隣の少女が囁いた。
そして「三流悪党の台詞だわ」と、腹を抱えてきゃっきゃっと笑った。
笑い声がやたらと耳に障り、不愉快な気持ちになる。
「あなたは?」
尋ねると、少女は笑い声をあげるのを止めて、早苗と向き合った。
その表情は、伺い知れない。お面を被っているからだ。
「わたしは……この東のかたに棲む、とある一匹の妖怪よ」
「答えになってません。それに、何のまねですか、そのお面は」
それは、四季映姫・ヤマザナドゥの顔をしていた。
プラスチック製の無表情で、少女は言う。
「わたしは、裁判長の役ですからね。あなたの罪を裁きにきましたの」
「罪?」
「そう、わたしはあなたの犯したおぞましい罪を知っています。こっちにきて」
そういって、強引に手を引かれる早苗。
連れて来られたのは、産廃の山に半ば埋もれたブラウン管テレビの前だった。
「ここに、あなたの罪が映し出される」
少女の言葉に、早苗が画面を覗き込んだ。
砂嵐がチラつくなか、人影らしきものがぼんやりと見えた。
目を凝らして見れば見るほど、鮮明に映し出されていった。
そして、聞き覚えのあるすすり泣きの声。
「小傘さんっ!?」
早苗は身を乗り出してテレビ画面を凝視した。
暗がりのなか、小傘がぐったりと憔悴しきった様子で、泣いていた。
泣きながらも、赤い血溜まりにべったりと座り込んで、なにやらもぞもぞと手元を動かしていた。
ばちんッ、と乾いた音が響き、小傘が悲痛な声をあげた。
信じられない光景だった。
小傘が、自分で自分の指をニッパーで切断したのだ。
「いやぁぁぁぁぁぁッ!?」
指が弾け飛ぶ衝撃的な映像に、早苗が絶叫する。
小傘は、取り落としたニッパーペンチをふたたび手に取り、またしても自分の指に刃をあてがった。
「駄目ッ! やめてぇぇぇぇぇぇぇッッ!!」
早苗の叫びが、画面の向こうの小傘に届くはずもなかった。
がちん、と刃が噛み合う音がして、小傘の白くて細い指が血溜まりに落下した。
狂っている。小傘は狂っているのだ。
そうでなければ、こんな恐ろしいことをする説明がつかない。
「ううっ、なんなの……なんなんですか、これはッ!!」
口元をおさえて戻しそうになるのを堪えながら、早苗は怒気の混ざった声で妖怪の少女に問うた。
一方、少女は厭に落ち着いた、冷ややかな口調で答えた。
「あなたの罪、と言ったはずですよ」
そして、「ほら、御覧なさい」と画面を指差す。
『お疲れ様。やっと半分ですね』
別の人影が映し出された。
目を疑ってしまった。正気とは思えなかった。
それは、東風谷早苗――自分自身の姿だったのだ。
画面に映る見慣れない自分は、自分でもぞっとしてしまうほどの、優しげで残忍な笑みを浮かべていた。
「早苗さんは、小傘ちゃんに酷いことしたよね? 自分で自分の指を切らせるなんて」
反論しようと思っても、もう画面から目が離せなくなっていた。
画面のなかの早苗は、確かに小傘にそう命じていた。そして、小傘は黙ってそれに従っていた。
小傘が自分の指を口に咥えたところで、耐え切れずに目を逸らすと、別のテレビに別の光景が映し出されていた。
――磔になった幼い少女に、ナイフの刃を突き立てる早苗。
ナイフが足の甲を貫いて鮮血が飛び散り、思わず目を背けた。
――壁の向こうの灼熱地獄で苦しむ氷の妖精の姿に、馬鹿笑いする早苗。
目を逸らしても、別の光景が早苗を執拗に責め立てた。
――大勢の人妖たちに紛れて、銀の槍で吸血鬼の少女を串刺しにする早苗。
画面のなかの早苗は、みんな楽しそうだった。
――神である穣子を一方的に殴り続ける早苗。
心から嗜虐を楽しんでいた。
――香霖堂の店内にガスを散布して逃走する早苗。
もう、限界だった。
早苗は目をぎゅうと瞑り、両耳を塞いで一切を拒絶した。
こんなの、自分は知らない。自分はこんな酷いことをした覚えがない。できるわけがない。
「違う! こんなの、わたしじゃありません!」
不意に、脳が揺れるほどの衝撃。
早苗は「ぐぅ」と潰れた蛙のような声を漏らして、ゴミのうえに腰を強かに打ちつけた。
骨が砕けたかと思うほどの衝撃を受けて焼けるように痛む鼻に手をやると、生暖かいものが触れた。鼻血だった。
殴られた、という事実に気が付くのにしばしの時間がかかった。
拳で顔面を殴られるなんて、産まれて初めてのことだった。
そのことが、より一層早苗を混乱させた。
「え? どうして? あれっ?」
ぽろぽろと、大粒の涙が早苗の頬を伝って零れていく。
どうしてこんな目に遭わなければいけない?
自分は、なにも悪いことはしていないのに。
「己の罪を認めなさい」
見上げると、お面の穴から覗く瞳が、射抜くような視線で見下ろしていた。
その背後のテレビに映るのは、こともあろうに家族同然の――いや、それ以上の存在である二柱の神々を、
――包丁で滅多刺しにする早苗の姿だった。
もはや血みどろの肉布団と化した神奈子に、これでもかと言わんばかりに執拗に刃を突きたて続ける。
その傍らに転がる諏訪子がうめき声をあげたのが気に障ったのか、早苗は言葉として成り立っていない怒声を喚きながら諏訪子を踏みなじると、その脳天に包丁をブチ込んだ。
断末魔とともに血飛沫があがり、早苗が手をたたいて狂喜した。
「嫌ッ!!」
目を閉じても、まぶたの裏に悪夢が貼り付いていた。
神奈子や諏訪子の悲惨な姿以上に、自分の顔が浮かんで消えない。
「目を閉ざすな」
「知らない! 知らない! こんなの嘘!!」
「罪と向き合いなさい!」
前髪を乱暴に掴まれ、押し倒された。
そのまま馬乗りにされると、頑なに閉じた目を強引に抉じ開けられる。
必死に抵抗するが、同じような体格とは思えないほどの力で抑えつけられた。
間近に見える、無機質な四季映姫の顔。
その、もう片方の手に握られていたのは、あまりにも場違いな――手芸鋏。
「……えっ?」
思考が凍りつく。
「真実を遮るその邪魔なまぶたを、切り取ります」
対になった刃の切っ先が、ゆっくりと、早苗の左目に迫ってくる。
ようやく、自分が何をされようとしているのか理解し、全身を悪寒が疾った。
鋏が握られた腕を死に物狂いで掴むが、まるで機械のように強い力押し返されて、びくともしない。
「いやぁぁぁぁぁッッッ!!」
捲りあげられたまぶたの裏に、鋭利な鋏が入れられた。
眼球が圧迫される、冷たい異物感。
あと、ほんの僅かな動作で大出血は免れない状態だ。
「ひッ!? 嘘ッ! やめてッ! ゆるぢでぇッ!!」
助かろうと、早苗は必死だった。
「助けッ……やりました! わたしがやりましたッッ!!」
そして――とうとう、被ってしまった。
あの、おぞましい罪の数々を。
「やっと、認めましたね……」
お面の下で、少女が安堵のため息を吐いた。
その一瞬、早苗の気も緩んだ。
しかし、赦してはもらえなかった。
――ぷつん
まぶたを、切断された。
「イ゛ヤ゛ァァァぁあ゛あ゛ぁぁぁぁぁッッッ!?」
早苗は、金切り声をあげながら、左目を押さえてじたばたと悶え苦しんだ。
顔の左半分がまるごと切られたような強烈な痛みだった。
目に当てた手のひらが、血と涙で濡れていく。
「んっ、まだ終わってませんよ」
無理矢理に覆う手をどかされて、切れて出血し続けるまぶたに手をかけられる。
今度は、鋏を使われなかった。
血に滑るまぶたを乱暴に指で摘まれて、
そのまま、
一気に、
引き千切られた。
「ンァ゛ア゛ア゛ッァァァァァッッッ!?」
叫ぶ早苗の身体が、びくんっ、と激しく反りかえる。
頭のなかは、もはや真っ白になっていた。
左まぶたを完全に失い、悲痛な声をあげながら苦しむ早苗。
それを見下ろす少女が、引き裂いたまぶたの睫毛を弄びながら、呟いた。
「うーいけない。これでは結局、血で目が潰れちゃいますね。失敗、失敗」
断罪者は、こつん、と頭を叩いて己の過ちを罰した。
◆
風祝は十字架に磔られました。
早苗が意識の混濁から我に返ったときにはすでに、全裸で手足を縛り付けられて、晒し者のような姿にされていた。
ゴミの海の真ん中に立てられたそれは、少女の若い肉体が見せる美と相まって、一種のモニュメントに見えないこともなかった。
それは、忌まわしき罪悪の象徴。
いつの間にか何処からともなく押し寄せた大勢の見物人が、口々に罵声をあびせかけていた。
「死ね! このクズ!」
「悪魔め! 殺す、殺してやる!」
「蛆虫が!」
「赦さない……赦さない……赦さない……」
誰もが、あの忌まわしい映像のなかで早苗に嬲られた者たちを模した面を被っており、彼女たちの無念を代弁するかのように恨み言を唱えていた。
皆、早苗がよく知る、幻想郷の愛すべき隣人たちの顔で責めたててきた。
全員がいまにも襲い掛かってきそうなその緊迫した空気に、早苗は身震いをした。
何故、自分はこんなにも大勢から蔑み罵られなければいけないのか。
あまりにもの不条理さに、涙が零れる。
まぶたを切り取られて、剥き出しにされた左目がひりひりと痛んだ。
「静粛に」
騒ぎ立てる場の空気を、一喝する声。
件の、四季映姫だった。
「これから、あなたには苦しみで以ってその罪を贖ってもらいます」
「ちょっ……ちょ、ちょっとッ!? 待ってくださいっ!!」
贖う? 自分は何もやってない。贖う罪なんて、ない。
「だってあなたは、認めたじゃないですか」
「違う! だって、あれは、で、出まかせですッ! そのっ、わたし、必死でッ、つい!」
「この期に及んで罪を免れようとは、何とあさましい! 神妙にしなさい」
「イヤァァァァッ!! 違う違う違う違う違ウちがウちガウチガウチがウチガウ……ッッッ!!」
呪文のように同じ言葉を繰り返す早苗。しかし、魔法のような奇跡なんて起きない。
ひとり大騒ぎする早苗の訴えは受け入れられることなく、しめやかに、断罪が始まった。
「一人目、前へ」
徐に人ごみのなかから歩み出たのは、多々良小傘の顔をした少女だった。
「怨めしや……」
その囁くような声に、早苗は背筋が冷たくなる。
ゆっくりと歩み寄ってくる少女のその手には、ついぞ最近見覚えのある道具が握られていた。
血溜まりに落下する指の映像が、脳裏にフラッシュバックする。
そう、ペンチだった。
「――あ、いけない」
だしぬけに、小傘の面を被った少女が素っ頓狂な声をあげる。
キャラクターを維持できないところまで、本人にそっくりだった。
そこが、不気味だった。
「これ、ニッパーじゃなくて、やっとこだわ。これじゃあ、指を切れないわ」
「じゃあ、潰せば良いじゃないですか」
傍らの四季映姫が、事も無げに提案した。
それを耳にした早苗が、わなわなと打ち震えた。
「ふ……ふざける゛な゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッッッ!!」
怒りが爆発した。取り乱し、自分でも驚いてしまうほどの口汚い言葉で騒ぎ立てた。
半狂乱の早苗を見て、ギャラリーがどっと沸く。
四季映姫はやれやれといった様子で肩をすくめた。
「やかましいですねぇ。早くやってしまいなさい、後がつかえてますよ」
「はーい」
急かされた小傘が、縛り付けられた早苗の小指を、やっとこで甘噛みをするようにして挟んだ。
あのときと同じように、まずは左手から。
か細い指の白さと、厳つい鉄のどす黒さが、ひどくアンバランスだった。
「やめろやめろやめろやめろやめろ!!」
「そんなに怖がらなくても、いいじゃない。自分でやるよりマシでしょう?」
「やめろやめろやめろやめろやめろやめ」
「……えいっ」
ぐっと力が込められる。
――ぼりっ
肉が押し潰されて、骨が砕けた。
「痛ァァァァァァイィィッッッ!?」
耐え難い激痛に、白目を剥いて絶叫する早苗。
小傘がやっとこの歯を開くと、折れた小指が、枯れた花のように力なくしおれた。
早苗は顎が砕けるくらい強く歯を食いしばり、狂ったように頭を振り乱していた。
何度も何度も、後頭部を磔にされた十字架に打ちつけて、痛みを紛らわせようとしていた。
これでもまだ、指一本目だ。
だが、しかし二本目がはじまることはなかった。
小傘のお面を被った少女は、涙と涎と小便を垂れ流して苦しむ早苗を、沈黙したまま観察していた。
「ハァ……ハァ……」
やがて、顔を真っ赤にした早苗が落ち着きを取り戻す。
身体全体で息をしながら、すっかり衰弱しきった様子だった。
ここにきて、ふたたび早苗の薬指に、やっとこの歯が噛み付いた。
「……え゛ッ!?」
「それじゃあ、二本目いくよぉ〜」
早苗の顔が、恐怖に歪む。
小傘の顔をした悪魔は、早苗が意識を取り戻すのを今か今かと待ち構えていたのだ。
そう、最も効果的に、苦しませることができるように。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
小指よりもちょっぴり太い薬指は、潰される、というよりも折られるようにして失われた。
獣じみた早苗の叫びが、辺り一面に響く。
同様にして、早苗の指は一本一本丁寧に長い時間をかけて、ゆっくりと潰されていった。
左の親指が爪ごと砕かれたとき、見るに見かねた四季映姫がストップをかけた。
「いくらなんでも時間をかけ過ぎです!」
「でも、こういうのは時間をたっぷりかけなきゃ。さでずむ、だっけ?」
「目的を取り違えてはいけません。我々の目的は、あくまでも断罪です」
我々、と言った。
後がつかえてる、とも言った。
信じがたいことだが、小傘はまだ一人目なのだ。
虚ろな表情をした早苗が小傘に弄ばれた左手を見ると、まるで大男の手のように浅黒く、ぱんぱんに腫れ上がっていた。
このようなことがまだまだ続くのだ。意識が、遠のく。
「つぎの者、前へ」
そんな早苗の目を覚ますかのように、いきなり、顔面に熱湯を浴びせかけられた。
「あ゛ぢゅあああああァァァァァァァッッ!?」
顔の皮が焼けただれてしまうかと思うほどの熱さだった。
乱れる視界に映るのは、空になったティーカップを手にした十六夜咲夜の顔。
「これは、紅茶を浴びせられたいつぞの仕返しです」
紅魔館のメイド長のお面を被った少女がティーカップを投げ捨てると、汚らしい地面に落下したそれは、ぱりん、と繊細な音をたてて砕けた。
そして、次に取り出したのは、ティーカップなんて比較にならないほどの熱湯が満たされた、大鍋だった。
濛々と湯気立つ鍋の中身は、まるで間欠泉のようにぐつぐつと煮立っていた。
こんなものをどうしようというのか。
答えは決まっていた。
「そしてこれは、日光で照り焼きにされたお嬢様と妹様のぶんですッ!!」
肌がむき出しになった裸体に、直に熱湯をぶっかけられた。
まさに、焼かれるような痛みだった。
「ひィギャャャャャァァァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!」
喉が潰れてしまうほどの大声をあげる早苗。
一瞬にして真っ赤に茹で上がった身体から、蒸気が立ちのぼる。
全身の毛穴が沸騰して粟立つ感覚。
普通なら、ショック死してもおかしくないほどの高熱だった。
「つぎ!」
せっかく生き延びたというのに、息もつかせず、つぎの罰に処せられた。
神奈子と諏訪子の顔をした処刑人の手には、それぞれ包丁が握り締められている。
両の太ももに、一本ずつもらった。
それを引き抜かれるときが、一番痛かった。
「つぎ!」
秋姉妹のお面を被った二人組に、リンチされた。
あばらが折れているのが、自分でもわかる。
まだ生きてる? 生きている限り罰は続くのだろうか。
「つぎ!」
香霖堂の主人の顔を借りた少女に、催涙ガスを吹きかけられた。
高濃度のガスが傷口に染みて、脳が萎縮してしまうほど痛んだ。
こんな苦しみを味わい続けるのならば、いっそ死んだほうがましかもしれない、と思った。
「つぎ!」
まだ、誰かが自分の身体を玩具にして遊んでいる。
暴力に弄ばれ、苦痛を感じながらも、早苗は冷ややかに考えていた。
精神はもはや肉体と乖離して、別の場所で思考していた。
そうしている間にも、磔になった早苗の歯が一本一本引き抜かれていく。
「つぎ!」
よしんば、あの映像の凶行がすべて実際に早苗自身の罪だとしても。
ナゼ、こいつらに裁かれなければいけないのか。そんな権限が、彼女たちにあるのか?
右脚取ったどー! 誰かが嬉しそうに叫んでいた。
「つぎ!」
この狂ったサディストどもは、いったい誰なのか。
誰もかれもが、ふざけたお面を被って被害者に成りすまし、正体を隠している。
両耳を切り落とされが、もはや他人事のようだった。
「つぎ!」
穴だけになった耳孔に届く声、どこかで聞いた覚えがある。
早苗の知っている誰かなのだろうか。その誰かに、自分はこれほどまでに恨まれていたのだろうか。
乳房を噛み千切られた。
「つぎ!」
四季映姫を騙る少女は、自らを『この東のかたに棲む、とある一匹の妖怪』と呼んだ。
どうして、そんな不自然な言い回しをした?
そこに、ヒントが――彼女たちの正体が隠されているのだろうか。
腸を引きずり出された。
「つぎ!」
とある一匹の東方の妖怪? ひがしのようかい? 東の一匹の怪物? イースタン・モンスター??
頭のなかで無闇矢鱈に言葉を、組み換え、言い換え、ひっくり返し、隠された意味を探る。
そんな早苗の脳天を、誰かが鈍器で思いっきり殴りつけた。
――視界に、銀粉が舞った。
そして、早苗は天啓に打たれたかのように、奇跡的な閃きを見た。
An East Yokai
言葉はバラバラに砕け散ると、ふたたび組み合わさって、ひとつの意味を成した。
Kotiya Sanae
それは、東風谷早苗――自身を指し示す言葉だった。
その突拍子もない考えに、虚ろに閉じられていた瞳を見開き、息が詰まりそうなほど驚く。
「その様子だと、ようやく気付いたみたいですね。……まぁ、自分の考えだし。わかって当然か」
顔をあげると、四季映姫のお面を被った少女がおかしそうに笑っていた。
聞きなれた、自分と同じ声で笑っていた。
馬鹿な。錯乱した頭に浮かんだくだらない妄想だ。
早苗は、必死に自分の思いつきを否定した。
「そう、わたしたちは、東風谷早苗」
仮面の裏側から、無数の瞳たちが、早苗を見つめていた。
「わたしの犯した罪は、ひとりの人間が背負うにはすこし辛すぎるのです。
だから、これからも、心安らかな人生を送るために、
早苗(わたし)の犯した罪は、早苗(あなた)に償ってもらいます」
狂人の妄言だ。早苗は拒絶する。
断罪者たちが、一斉に仮面に手をかけた。
そして、早苗は見た。
どこまでも見渡す限りに並ぶ、自分の顔を。
この顔の数だけ、これからも自分は罪を擦り付けられて、嗜虐され続けるのだ。
途中では死ねないだろう。死では、彼女たちの罪を償うには、あまりにも安すぎる。
ふと、思いだす。
むかし読んだ小説に、内側に鏡を張り巡らせた球体のなかに閉じ込められた男の話があった。
その男が見た悪夢は、きっとこんな光景だったのかもしれないな、と思った。
誰かが、しゅーしゅーと笑っていた。
右に左に見回してみるも、そんな気味の悪い笑い方をしている早苗はいなかった。
そこでようやく、自分自身の笑い声だということに気付いた。
肉体を損壊されて歪な姿になった早苗が、空気の漏れるような薄気味の悪い笑い声をあげている。
いよいよ化け物みたいだな、と早苗は思った。
だがこれで、気兼ねなく罰を与えることができるというものだ。
仮面を剥いだ早苗は、磔になった肉塊とは同じ生き物とは思えないほど、美しく残忍な笑みを浮かべた。
「つぎ!」
自己嫌悪の夜は、永遠に続くだろう。
◆
ぱたん、と早苗は分厚い本の背表紙を閉じた。
東の窓のカーテンの隙間から、日が射し込んでいる。
ちちちと鳥たちがさえずる声が聞こえる。
どうやら、もう朝のようだ。
「ふぁ……」
徹夜をするなんて、随分と久しぶりのことだ。
早苗は大きく伸びをしながら、掛け時計をちらりと見やった。
いまから寝床に着くには、あまりにも遅い時間だ。
早苗はふらふらと立ち上がると、いつものように朝食の支度をした。
神奈子と、諏訪子も一緒だ。
食事を済ませて腹が膨れた早苗が、寝なおそうかと迷っていると、来客があった。
「おはようございまーす」
間延びした可愛らしい声。
多々良小傘だった。
玄関に駆けつけた早苗の姿を見るや否や、小傘は借りた本について鼻息も荒く、夢中で語りだした。
そのせいで小傘は、おかしなことに気がつくのが、すこし遅れてしまった。
気付いたときには、もう手遅れだった。
◆
鮮烈に紅く染まった世界に、東風谷早苗は居た。
その世界で迷子になってしまった可哀相な早苗は、もう、戻ってくることはできない。
(了)
他の方たちが書かれた元気な早苗さんたちを見て、我慢できなくなって書きました。
勝手に参考にさせて頂いた檸檬さん、紅魚群さん、ウナルさん、ガンギマリさんに心からの敬意とお詫びを込めた言葉を送りたいと思います。
おまえらマジキチ
みにくいコックさん
- 作品情報
- 作品集:
- 3
- 投稿日時:
- 2009/09/22 15:24:42
- 更新日時:
- 2009/09/23 00:24:42
- 分類
- 東風谷早苗
- 産廃創想話
しかし早苗はMMRが好きなのか
屁ぐらい許してやれ……
そしてここの早苗を引きずり込んだ他の早苗許すまじ
せっかく真面目なこと書こうと思ったのにwwwww
全部台無しだよコンチクショーwwwwww
でも嗜虐心はとまらない
だってそれが愛だからー!!
でもマンチー白亜紀編を入れるのはどうかと思う、笑っちゃうじゃん!
>>2
よくもあんなキチガイssを!…っていうか元凶はお前じゃねぇかwww
早苗さんはとてつもない外道か、とてつもなく不幸かの二者択一ですね、この世界においては。
Kotiya Sanae
すげえwww
笑う悪人と苦しむ善人。ある種の真理を見た気がする。
話かぶりでレベル負けとかねw
哀れ早苗ちゃん…。でもこれも仕方ないね!
あと香霖堂にガスを散布する話なんてあったっけ?と思ったらガンギマリさんのかw
いやはやお見事と言わざるを得ません。
ちくしょー、S苗やウザい早苗が受け入れられない己の視野の狭さが嫌になる……
もう一年も経つのに(ノД<。)
これだけ分からん。
そしてアナグラム気付けなかったああ!
すごく面白かったです