咲夜さんとわんこ

　丸い部屋。
　全てが磨かれたように純白な部屋。
　全てが曲面で構成された部屋。


　――ビー玉の中に閉じこめられた――


　そんなファンシーな幻想を感じるほど
　その部屋は明るく、透き通っており
　それでいて、吐き気がするほど現実感の無い部屋。



球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。





　部屋の隅――『隅』という表現は些か可笑しいが――
　膝を抱えて座り込む人影。
　それはまるで、球体に疎外されたかのような。



　閉じこめられた。

　球体の中に
　シャボン玉の中に
　海底から立ち上がる泡のひとつに
　占い師が手をかざす水晶玉の中に
　巨大な眼球の中に
　昆虫の卵の中に
　母親の子宮の中に
　地球の中に
　陰陽図の中に

　けれどもここは安全だ
　ここには奴が来ない
　ここは安全だ
　全てから守られている
　誰も呼びに来ない
　誰も起こしに来ない




球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。球体。




　物思いがついた頃から友人がいなかった
　どいつもこいつも私を、路傍の石でも見るような目で見る
　けれど、この世界に来てから本当の友人ができた
　そして、守るべき主人――私に存在意義を与えてくれた人も
　幸せだった
　もう他に何もいらないと思った
　だから、伝えなければ
　私を脅かす存在の脅威を伝えなければ
　そうしないと、お嬢様も
　私は見るに忍びない
　お嬢様の苦しむ顔を
　運命を超えた存在に弄ばれ、翻弄される様を
　だから救わないと
　だから助けないと
　お嬢様だけは
　お嬢様だけだ
　お嬢様だけ
　お嬢様だけ
　お嬢様





　真っ白い部屋の中は、沈黙に満ちている。





　あの本を読み終えてからだった。
　奇妙な獣が、現れるようになったのは。
　そいつは太く曲がりくねって鋭く伸びた注射針のような舌で
　全身から蒼い液体を滴らせて
　閉め切った部屋でも煙のように現れ、どこまでも追いかけてきた。
　奴らは物の『角』――鋭角な場所さえあれば、どこからでもその姿を現す。



　部屋の隅から、クローゼットの中から、本棚の角から、ドアから、窓から、床から



　だから、どこにも『角』のないこの部屋を創った。
　ここにいれば、追われることはもうない。あの犬に。






　けれど――





　膝を抱えていた人影が、ゆっくりと立ち上がった。
　透明な部屋に、ざりりと不愉快な音が響く。
　透明なテーブルの上に、何枚かの真っ黒な鱗が落ちる。
　その顔は。
　その、剥き出しの腕にびっしりと張り付く、魚のような――




――呼んでいる……もう……行かないと――


ひたり。ひたり、ひたり。
ぴしゃり。ぴしゃり、ぴしゃり。


　足音はいつしか、濡れそぼった水音に変わる。


――ハスターが……私を呼んでいる………――


　発音のところどころに、ごぼりぼごりと泡を吐くような雑音が混じる。


――アルデバラン……宮殿……名伏し難き……者……が………――






　そうして、人影は、消えた。



　彼女は何を見たのだろう。
　彼女は何処に行ったというのだろう。
　けれど。
　そう遠くない未来、それを知ることができるかもしれない。
　なぜなら――