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『やはり野に置け蓮華草【下】』 作者: pnp
永遠亭の一室で、霧雨魔理沙は安静を強いられていた。
森で見つけた『パッと見た感じ美味しそうなキノコ』を食べ、腹痛に苛まれていたのだ。
普段から活発である彼女は、じっとしているのが苦手らしい。
すぐ横で薬を作っている永琳に声を掛けた。
「なあ、もう大丈夫だって」
「そうはいかないわ」
永琳は作業の手は止めずに素っ気無く返した。
「もう腹痛もないしさ」
「少なくとも今晩はここにいてもらうわ」
何を言っても恐らく逃げられないだろうと察した魔理沙は、大きな溜息を付き、天井に視線を戻した。
言っても無駄なので、逃げれる機会を待つ事にしたのである。
隙を突いて即座にここを出てやろうと言うつもりでいた。
暫くして、永琳が時計を見た。
「あら。メディスンにご飯をあげなくちゃいけない時間だわ」
これを聞き魔理沙は、しめたと胸中でニヤリと笑った。
同時に永琳は、クルリと魔理沙の方を向きなおした。
「な、何だよ?」
「私が退室している間に逃げようとしたでしょ」
「まさかそんな」
「鈴仙ー」
永琳が声を上げると、バタバタと鈴仙が駆けつけてきた。
「何でしょう」
「メディスンに晩御飯をあげてきて頂戴」
「はあ。何故私が?」
「魔理沙が逃げるから」
ああなるほど、と返し鈴仙は台所へと向かっていった。
残念でした、と言った感じの笑みを魔理沙に向ける永琳。魔理沙は苦笑いでそれに応えた。
メディスンの一食分は、他者のそれより若干少なめに設定してある。
普段はほとんど永琳がやっている為、鈴仙は量をどの程度にすればいいのか、よく分からなかった。
こんなもんかな、と適当に見積もり、メディスンの元へと向かう。
長い廊下にある一室。雛が来訪するときはいつも見張り役として部屋の前に立っているので、もはや見慣れた光景であった。
「それにしてもあの厄神も、毎日毎日ご苦労なことだわ」
初めての来訪以来、一日も欠かすことなく、雛はメディスンに会いに来ていた。
よほど仲がいいのだろうと鈴仙は思った。
何せ片方は、二人の幸せの為に外界へ出ようとしたなどと言う、とんでもない事をしてのけたのだから。
一応、扉を数回叩く。
「メディスン。入るわよ」
返事は無かったが、如何わしい事などできる訳がないので、扉を開けた。
入室した瞬間、鈴仙は持っていた盆を落としそうになった。
メディスンはいた。しかし、明らかに異常であった。
横たわったまま、ピクリとも動かない。
「メ、メディスン?」
名前を呼んでみても、全く動く気配が無い。
盆を置き、鈴仙がメディスンに近づき、その体を揺する。
「ちょっと! どうしたのよ!」
鈴仙が揺すると、力なく頭がぐらぐらと揺れた。
仰向けの状態にしてメディスンを見ると、その目には全くと言っていいほど光が宿っていなかった。
目を開けたまま眠っているかのように、ただ一点をボーっと眺めているのである。
「しっかりしなさい!」
どうすればいいのか分からず、鈴仙がうろたえていると、光の無い目が、ゆっくりと動いた。
死んでいるのではないと言う事が分かり、一先ずほっと胸を撫で下ろす。
すると今度は、その口がゆっくりと動き始めた。
だが、何を言っているのか、全く聞き取る事ができない。
耳を近づけ、その声を聞き取る。
「れいせん」
名前を呼ばれていたらしく、鈴仙はそれに応えた。
「何?」
「どうしたの」
「ご飯よ、ご飯」
「いらない」
「メディスン。あなたどうしちゃったの?」
「おなかすいてない」
「どうしたのって聞いてるの」
「わからない」
このままでは埒が明かないと、鈴仙は立ち上がり、やるべきことを察した。
「一先ず、師匠を呼ばないと」
そう言い、部屋を出ようとした。
だがその足は、急になった畳が擦れる音に止められてしまった。
メディスンが手で畳を撫でているのだ。
そして、ゆっくりと首を横に振りながら、口を動かしている。
その口の動きから鈴仙は、メディスンが求めていることを察した。
「今、厄神に会っている場合じゃないでしょう!!」
それだけ言うと、鈴仙は永琳の元へと駆けていった。
「師匠!! メディスンが!!」
鈴仙が叫んだ。
彼女の報告を聞いても永琳は、あくまで『平静を装った風』を演じた。
そもそも、こうなる事が想定内の事柄であった永琳にとって、驚くべき要素など何一つなかったのである。
*
普段とほぼ同じ時間に、雛は永遠亭を訪れた。
メディスンに会いに行くのも、すっかり習慣となってしまっている。
だが、苦ではなかった。むしろこれは、日常の楽しみの一つに組み込まれている。
会える時間は至極短い。だが、短い時間しか会えないからこそ、その時間を存分に楽しまねばならないと思えた。
こうしてみるとやはり、自分達は必要以上の交流を避けるべきだったのではと思えてくる。
お互い、ささやかな楽しみとして存在し続けた方がよかったのだ。
見慣れた永遠亭の扉を開ける。
「ごめんください」
先には鈴仙が立っていた。
雛を見て、酷く驚いた様子であった。
そんな態度をとられ、雛は首をかしげた。
「どうかしたのですか?」
「ああ、雛。その、ね」
「はあ」
「実は、今日はメディスンに会えないのよ」
今度は雛が驚く番であった。
「な、何故!?」
「それは、その」
答えを出すのを渋る鈴仙。
その後ろから、永琳の声が響いた。
「鈴仙」
「はい」
「私が説明するわ。あなたは奥へ行ってて」
「分かりました」
鈴仙は言われるまま、永遠亭の奥へと消えていった。
入れ違いになる形で、永琳が雛の前に姿を現した。
「どうも、厄神さん」
「どうしてメディスンに会えないのですか?」
「正確には、会えるけど会わせられる状態じゃないのよ」
「会わせられる状態じゃない?」
「今の彼女は、ほとんど抜け殻なのよ」
「抜け殻?」
聞き返した雛に、永琳は頷いて先を続けた。
「まともに動けないし、まともに喋れない。視覚、聴覚、嗅覚、感覚なんかもろくに機能してない」
「どうして、そんな事に」
「あなたの所為じゃない?」
さらりと言ってのけた永琳。
雛が声を荒げ、それに反論する。
「どうして私が!」
「厄の影響じゃないかって言ってるのよ」
「そんな事ない! 影響がないように距離をとっていたもの!」
「しかしそんな場面、誰も見ていないのよね。あなたがここに来訪してる時、あなたとメディスンが何をしていたか、私達は誰も知らない」
「違う違う違う違う違うッ!! 私じゃない!!」
声を大きくするにつれ、その声は裏返り、悲壮感を増大させた。
だが永琳は、そんな雛の様子を見ても尚、眉根一つ動かす事はなかった。
ふっと息をつき、再び話し出した。
「それに、仮にあなたは気をつけているにしたって、多かれ少なかれその影響をメディスンは受けていたのかもしれない。何せ、ずーっと一緒にいたものね。蓄積したって可能性もあるんじゃない?」
「違う! 私は、私は……違う……私の所為じゃない」
「とにかく、保護している者としては、あなたをメディスンには会わせたくないの。二度とここへ来ないで」
呆然とする雛に背を向け、永琳も永遠亭の奥へ向かっていく。
「待って……待ってよ」
手を伸ばし、去っていく永琳を呼び止めようとした。
その手が永琳の肩に触れかけた直前、永琳が振り返り、その手を跳ね除けた。
パシンという乾いた音が、絶叫直後の薄気味悪い静けさが支配する永遠亭に響いた。
永琳は睨みつけるようにして言い放った。
「触れるな。疫病神」
花を一つ摘み、念じる。
花は見る見るうちに枯れていき、やがて死んだ。厄の影響である。
メディスンがおかしくなってしまった。
そして永琳は、それを自分の所為だと言う。
そんな筈はない、と雛は思い続けたかった。
しかし、それを立証することはできない。厄の効果範囲は、雛自身も明確には答えることができない。
長きに渡る厄との生活の中で見つけたある一定の距離を、勝手に厄の影響を与えない距離だと思っていただけだ。
それに、メディスンほど密接して過ごしていた者は、今までいなかった。全く前例がない。
「私の所為なの?」
誰に問う訳でもなく、雛は呟いてみた。
その他に何の要因もないとしたら、自分以外の原因が考えられない。
誰よりもメディスンが好きである自信があったし、誰よりもメディスンと一緒にいたいとも思っていた。
だが、一緒にいればいるほど、メディスンを不幸にしてしまうのであれば、もう会うべきではないと思えた。
「ごめんなさい」
ほの暗い樹海の中、雛は切り株に座り、変わり果ててしまったらしい友人に謝り続けた。
*
邪魔者が失せただろうと、永琳は満悦であった。
メディスンがおかしくなったのは、昨日投与した薬が原因である。
あの薬は別におかしなものではない。鈴蘭の毒用に開発した、普通の解毒剤である。
しかし、メディスンはある秘密があった。
彼女の、元人形とは思えない異常なまでの精密な動きや、多彩な感情の表現は、鈴蘭の毒が影響しているらしいのだ。
これはメディスンが言っていたことだから、間違いなかった。
体内に宿る鈴蘭の毒を解毒された結果メディスンは、その機能のほとんどを失ってしまった。
おまけに鈴蘭畑にいない為、毒の補給も行えないので、そこから立ち直ることもできない。
人形師が操る人形とほぼ同程度の機能だけが、彼女に残った。
体が慣れれば一人で歩いたり、僅かだが喋ったり、感情を表現することはできるだろう。
ただし、当然の事だが、毒のある状態の精度までいくのは不可能であろう。
メディスンはいつもの部屋にいた。
まるでただの人形であるように、壁に凭れて、焦点の合わない視線を前に向けているばかりである。
「メディスン」
永琳が呼ぶと、とても緩慢な動きで、その首が動き、永琳を見た。
「えいりん」
「大変ね」
「たいへん」
「どうしてこんなことになったか、分かる?」
首を傾げた。
「おくすり」
「ん?」
「くれた、おくすり」
「あれは薬よ。こんな事になるはずない」
「そう。じゃあ、しらない」
メディスンは自分がこうなった原因を知らない。
全てが永琳の計画通りであった。
原因不明の状態で、永琳はこう言ってやるのだ。
「もしかしたら、厄の影響じゃないかしら」
「やく?」
こうすれば、彼女は厄神を恐れるのではないか、と言う永琳の計画である。
そうなれば、メディスンは雛に会いたがらなくなる。
雛だって、「自分がこうなったのは厄の所為」とメディスン本人に言われれば、もう彼女に合わせる顔などないだろう。
だが、永琳の計画は、やはり打ち砕かれた。
メディスンは、首を横に振ったのである。
「ちがう」
「……」
「ひなは、そんなひどいことしない」
「雛は意図していないかもしれないけど、厄の影響である可能性は高いわよ」
「ちがう。きっと、ちがう」
あくまでメディスンは、雛の所為ではないというところに頑なだった。
「それに」
「?」
「やくのせいでも、ひなならいい」
「雛なら、いい?」
呆然として尋ねる永琳に、メディスンはゆっくりと笑顔を作った。
そして、コクリと首を縦に振った。
「ひななら、ゆるせる。おこらない。いやじゃない」
こんなにも苛々したのは、永琳自身久しぶりのことであった。
いかなる手を尽くしてみても、メディスンから『鍵山雛』と言う存在を剥がす事ができない。
とにかく永琳は、メディスンの雛への関心を取り払ってしまう必要があった。
そうしなければ、彼女の思う未来を勝ち取る事ができない。
何をしても、どう寄り添っても、メディスンの瞳に映るのは雛であり、永琳ではない。
ただの人形同然にしても、彼女の心の中に優しい厄神の姿はあり続けた。
そして焼き付けられたその姿は、何を持ってしても変形しない。
無に等しい思考力の彼女に、一方的に厄神の恐ろしさを伝えたと言うのに。
幼さからくるものなのだろう。自分が信じたいと思ったものに、まともではない執着と固執を見せていた。
「どうすればいいの。厄神を、メディスンから取り去るには……」
時が全てを洗い流してくれるだろうか。
否。恐らくどんな時を経ても――それこそメディスンが壊れるその日まで待ったとしても、きっと彼女は厄神を想い続けるだろう。
ましてや、大した思考ができない今の状態だからこそ、単純に大好きなものばかりを求め続けてしまう可能性もある。
物理的なダメージは不信に繋がりかねないし、そんな不確かな手法は試したくない。
だから永琳は地道に、次の日も、その次の日も、ただの人形同然であるメディスンに、永琳は厄神の恐ろしさを伝えようとした。
あなたがそうなったのは厄の所為なのだ。だから厄神は恐ろしいのだと、伝え続けた。
しかしメディスンは鈍いながら、ゆっくりと笑顔を作り、ただただ首を横に振るのだ。
雛はそんな事しない。雛に悪意などない、ある筈がない、と。
鈴仙は永遠亭の入り口の扉を見た。
厄神が尋ねてこなくなって、一週間が経過していた。
「やっぱり、師匠の一言は効いちゃったのかな」
メディスンと雛の仲のよさは、雛の来訪の度に見張り役を任されていた鈴仙はよく分かっていた。
一日も欠かす事無く雛はメディスンに会いに来ていたし、一秒も余す事無く、二人は一緒にいて、話をしていた。
そんな関係を築き上げていた二人の一方に「お前の所為でお前の友人はおかしくなったのだ」と言ってしまったものなら、その関係に皹が入ってしまうことなど容易に想定できる。
きっとそれは永琳も考えていただろう、と鈴仙は思っていた。我が師は、そんな事が分からないほど愚かではないと分かっていた。
だから永琳は、それを狙って雛にあんな言葉をぶつけたのだろうと言う事も考えた。
永琳のメディスンへの執着も、鈴仙には異常な光景に映っていたからだ。
だが、永琳の最近の様子を見てみると、あまり彼女の計画通りに事は進んでいないらしかった。
あんなにも不機嫌そうな永琳を見るのは、鈴仙は初めての事であり、声も掛け辛かった。
気が狂う程の年月を生き、そしてこれからも生き続ける永琳は、もはや憎悪や憤怒とは無縁の存在だと、鈴仙は思っていた。
永き生は、そんな負の感情など、鼻で笑って交わせる程の精神力を身につけると思い込んでいた。
しかし、彼女の近況を見ると、決してそうでもない事が分かる。永琳は、ある個人への愛情で苦しみ、誰かに怒り、誰かを憎んでいる。
愛情とは、生きている限り、その生物に付き纏う最も面倒くさい感情なのかもしれないと鈴仙は思った。
そんな考えに耽っていると、廊下の奥の一室でどすんと音がした。
そこは、見慣れたメディスンを幽閉している部屋であった。
メディスンしかいない筈なのに音がするのはおかしいと思い、鈴仙はその部屋へ向かった。
半開きになっている戸からそっと中を覗くと、メディスンともう一人、ある人物がいた。
「師匠?」
鈴仙は音の正体を理解できず、じっと戸の前で、中にいる二人の様子を窺っていた。
メディスンは、畳に置かれた座布団の上にぺたんと座り込み、立っている永琳を見上げていた。
相変わらず、焦点の合っていない、虚ろな瞳を向けて。
そんなメディスンを、突然永琳が殴り飛ばしたのだ。
小さなメディスンの体は壁に叩きつけられた。しかし、毒が抜けている彼女は、すぐに動く事はできない。
横たわるメディスンに、永琳が歩み寄っていった。
さすがに止めねばまずいと、鈴仙が戸を開け、叫んだ。
「師匠!!」
永琳にその声は届いていた。しかし彼女はそんなものは無視し、無抵抗のメディスンを蹴飛ばした。
痛がっているのか、痛がっていないのか、鈴仙にすら判断しかねた。
それほど、メディスンは『動く物』と化しつつあるのだ。
まだ足りないのか、追撃を加えようとする永琳を、鈴仙は必死に押さえた。
「落ち着いていください師匠! 何をしているんですか!?」
「何をやったって、何を聞かせたって、厄神厄神厄神厄神……!」
鈴仙の拘束を受けながらも、永琳はメディスンに攻撃を加えようと暴れた。
鈴仙は近くにいるであろう兎達に助けを求め、必死に叫んだ。
メディスンはゆっくりと体を起こし、再び永琳を見上げ始めた。お供の人形はメディスンを護ろうとしているらしく、永琳とメディスンの間に割って入り、背伸びをして威嚇している。
「人形のくせに私の手を煩わせて!」
「師匠……っ!」
「あんたなんか私の求める存在じゃないわ!!」
騒ぎを聞きつけ、多くの兎と、それを率いているてゐと、月の姫である蓬莱山輝夜が一室に集結した。
兎達の助力や、輝夜の説得を受け、ようやく永琳を部屋から出す事に成功した。
静寂が舞い戻った部屋で、鈴仙はすぐさまメディスンに駆け寄った。
「大丈夫?」
メディスンはゆっくりと頷いた。
そして、何かを囁いた。
鈴仙がそっと、メディスンの口に耳を近づけた。
「ひな」
「……」
「ひなにあいたい」
*
鈴仙は早朝から永遠亭を抜け出し、竹林を出た。
彼女は、独断でメディスンの願いを叶える事にしたのだ。
永琳がどう歩み寄っても、もうメディスンの気を引く事など不可能だ。
永琳の一方的な愛を受けさせ続けるのは、見ていて不憫であった。
だから彼女は、雛を探し出し、メディスンに会わせてやる事にした。
これによって、永琳が何を思うか、自分をどう見るか、何となく察しは着いた。
だが、何を思われても、どんな目で見られても、彼女はある一つの結論に達していた。
今の永琳に、メディスンを愛する資格などない、と言う事だ。
雛を探すとは思ってみたものの、どこにいるか彼女には皆目見当がつかなかった。
幻想郷中の厄を集めて回っているのなら、幻想郷内のどこにでもいる事になる。
つまりどこででも会える可能性があるが、逆に言えば一箇所に留まる事が少ないとも言える。
一先ず、同じようにどこへでも動き回っていそうな人物に話を聞いてみることにし、彼女は魔法の森の霧雨邸を訪れた。
ドンドンと玄関のドアをノックすると、眠そうな目をした魔理沙が現れた。
寝不足を物語る目元の隈、寝癖だらけの髪。上は肌蹴たブラウスを着ているが、ブラをしていないようで、小さめの胸がチラリと見える。
そして下はドロワーズのみと言う、泣けてくるほど見っとも無い姿でのお出迎えであった。
が、本人はそんな格好を全く気にしていないようであった。
「なんだ、鈴仙か。おはよう」
「おはよう、じゃない。何よその格好」
「何って、寝巻き」
「巻いてないじゃない」
「魔法研究してる間に寝ちゃったんだよ。で、何の用だ」
そんなあられもない格好で毎日魔法の研究をしているのか、と言う言葉を飲み込み、さっさと用件を伝えた。
「厄神がどこにいるか知らない?」
「厄神? 雛か。さあな。落ち着きの無いやつだからな、あいつ」
「あんたに言われちゃおしまいだわ。まあいいや。ありがとう」
何か魔理沙は反論していたが、鈴仙は無視してその場を去った。
その後、神としての繋がりがあるかもしれないと山の上の神社を訪ねてみたり、その山に住む妖怪に話を聞いたりしてみたが、結局有力な情報は得られなかった。
いよいよ当てもなくなってきた頃に、博麗神社に向かった。
結界を統治する程重要な役柄の霊夢なら、おおよその見当はつくのでは、と思ったのである。
実の所、この考えは最初から浮かんでいたものであったが、どうせ早朝から訪ねても霊夢は起床していない可能性が高いと踏み、最後に回していた。
あのぐうたらな巫女が、早朝から活動を開始しているとは、鈴仙にはとても思えなかったのだ。
だいぶ陽が昇ってきた頃であったが、博麗神社の境内に人影は無かった。
守矢神社は、背の高い神が朝から散歩していたと言うのに。
無理に叩き起こしても罪悪感も無い時間帯だったから、問答無用で鈴仙は霊夢を起こしに掛かった。
すると、魔理沙同様、とても眠たそうな霊夢が姿を現した。しかし、魔理沙ほどだらしの無い姿ではない。
「何」
来客を見るや否や、不機嫌そうに一言。
「魔理沙よりはまともなのね。やっぱり」
「え?」
「ところで、厄神がどこにいるか知らない?」
「厄神? 樹海にでもいるんじゃないの」
「樹海」
樹海は妖怪の山へ向かう最中に通った道にあった。遠ざかってしまっていたらしかった。
「そう。ありがとう」
「ちょっと待ちなさい。あんた、雛に何の用があるの?」
早々に立ち去ろうとしたが、霊夢にそう呼び止められ、鈴仙は怪訝そうな表情を見せた。
振り返って問うた。
「何か問題でも?」
「メディスンはあんたの所に閉じ込めてるから。変な事起こされちゃ面倒なのよ」
「ああ、その点は大丈夫。そもそも、今のメディスンに大事を引き起こす力なんて残っちゃいないわ」
「そうなの? 何で」
「師匠にもはっきりした事が分からないみたい。だから、私にも分からない」
ふーんと、大して興味のなさそうな返事をし、霊夢はじゃあお勤め頑張ってと言い残し、戻っていった。
鈴仙は樹海へ急いだ。
霊夢の言った通り、雛は樹海にいて、大きな切り株に座っていた。
じっと一点ばかりを見つめているので、その視線の先に何かあるのかと鈴仙もそちらを見たが、特に何も無かった。
一先ず声を掛ける。
「雛」
呼ばれたのに気付いた雛が、驚いて鈴仙の方を見る。
そして慌てた様子で切り株から立ち上がった。
「ああ、ごめんなさい。何だか考え事してて。厄ですか?」
「いいえ、厄じゃないの」
「では何か?」
「メディスンに会ってあげてほしいの」
メディスン、と言う単語を出しただけで、雛は大きく目を見開いた。
そして、一歩だけ後ろへ下がり、俯いて答えた。
「それは、嫌です」
「メディスンはあなたに会いたがっているの。会ってあげて」
「永琳さんから、事情は窺っています」
「そう」
「メディスンがおかしくなったらしくて、それの原因は、私にあるかもしれないと」
「けど、それは推測でしかない。はっきりした事は何も分かっていない。あなたばかりが負い目を感じる必要なんてないわ」
これだけ言っても、雛は答えを出し渋った。すっかり臆病になってしまっている。
「メディスンは、あなたを疑っていない。そしてもしもあなたが原因でも気にしないと言っている。ろくな思考力も無い今の状態でね」
「……」
「それでもしきりに、あなたに会いたいって言っている。会ってあげないのこそ、彼女の不幸だと思わない?」
「それは、本当ですか」
躊躇いがちに雛が問うた。
鈴仙は軽い溜息を付き、答えた。
「嘘をつく必要がないでしょう」
*
雛にとって、久しぶりの永遠亭であった。
彼女のスカートには、博麗神社で購入した厄払いの札が貼ってある。
これさえあれば、彼女はメディスンにどれだけ近づこうとも、厄の脅威を彼女に与えてしまう事はなくなる。
「師匠が文句を言うと面倒だから」と言う鈴仙の助言を受けて購入したものであった。
幸い、永遠亭に入ってからも、長い廊下を歩いている最中も、永琳と出会う事はなかった。
通い慣れた一室の前で、鈴仙はさあどうぞ、と雛を招いた。
雛はそっと戸を開き、中へ入る。
「――!」
中にいたのは、すっかり表情を失ってしまっているメディスン・メランコリー。
こうなってしまったのが、自分の所為だと言うのか――
一生を掛けても払拭しきれないような罪悪感が、雛の中に渦巻き始めた。
戸が開いた音を聞き取ったメディスンのお供の人形が、スカートを引っ張って来客を知らせた。
メディスンの聴覚は著しい能力低下に苛まれているらしい。
来客を知ったメディスンは、まるで棒に嵌め込まれた錆び付いた鉄の輪を回すような、ギリギリとしたぎこちない動きで首を動かした。
呆然としている雛と目が合った。するとその表情が一変した。
さっきのような緩慢なものではない。無論、普通の人間、妖怪と比べれば遅いのだが、おかしくなってからの彼女の中では速い方であった。
笑みを作ったメディスンが、よたよたと立ち上がり、その名を呼んだ。
「ひなっ」
戸の外にいる、鈴仙にも僅かに聞こえる程の声で、確かにメディスンはそう言った。
近づきすぎると厄の影響があると言う事もすっかり忘れているらしく、鈍重ながら確実に、雛との距離を一歩一歩詰め始めた。
堪えきれなくなった雛は、自分からメディスンへ駆け寄り、その小さな体を抱き寄せた。
「メディスン!」
「おはよう、ひな」
「ええ。おはよう。おはよう」
変わり果ててしまった友人への罪悪感と、そんな状態で尚自分を待ち続けてくれていた喜びから、雛は何も言えなくなってしまった。
ただひたすらメディスンの体を抱きしめ、自分でも訳の分からない言葉を繰り返し続けた。
「メディスン、ごめんね。本当に、本当に」
「きょうはなんのおはなし?」
「こんな状態にさせてしまって、本当に」
「このびょうきは、ひなじゃないよ」
「メディ……」
「おくすりのせい」
不可解な単語を、メディスンは呟いた。
「薬?」
「えいりんにもらった、おくすり」
「永琳に……」
「えいりん」
「それを使ってから、こうなったの?」
「おくすり」
こんな状態になってしまった所為で、記憶を違えているのだろうかと雛は思った。
だが、一週間以上会わなかった自分を覚えているのだから、記憶はまだ残っている筈である。
人形に効く薬など、この世に存在するのだろうか。
いろんな可能性を考える中で、雛はある事実を思い出した。
それは、永琳が思い出し、利用したメディスンの特性と同じものであった。
「メディスン。毒は出せる?」
「どく?」
「そう。どんなでもいいわ」
「だせない」
「それも、薬を使った後?」
「どく、ぬけちゃったの」
「いつ?」
「おくすり」
雛は確信した。
このメディスンの異変は、八意永琳にあると踏んだのだ。
メディスンが毒のお陰であの精度を保っていた事を知り、その毒を解毒し、メディスンの機能を低下させたのだと。
どうしてこんな事をしたのか、雛には見当がつかない。
だが、そうとしか考えられなかった。永琳が主犯であるとしか思えなかった。
あるいは雛は、そうだと信じ込みたかったのかもしれない。厄の所為などではなかったのだと思いたかったのだろう。
雛はメディスンを抱きかかえ、一室を飛び出した。
あまりに不意な事であったので、鈴仙はそれを静止する事ができなかった。
叫ぶ鈴仙を無視し、雛は永遠亭を出ようと全速力で廊下を進んだ。
――こんな所にメディスンを置いておく訳にはいかない。このままでは、メディスンはメディスンでなくなってしまう。
メディスンを助けよう。その一心で、長い廊下を飛ぶ。
抱きかかえられたメディスンは自身のおかれた状況をよく理解していなかったが、必死に雛にしがみ付いていた。
おぼろげな意識の中で彼女は、とてつもなく幸せで、同時に全てを狂わせた原因でもあった、あの宴会の一夜を思い出していた。
「ひなぁ」
間延びしたメディスンの声。
「あのよる、いらいね」
雛はそれが聞こえていたが、返事をせずに出口を目指した。
「ずっとこうしたいって、ずっとおもってたのよ」
「ええ」
どうにか、こう返した。あまり会話に気をとられていてはいけない。
メディスンは独り言を呟くように先を続けた。
「そしてこれからも、ずっとこうしてたいって、ずっとおもうわ、きっと」
「……ええ」
「だから、ひな。いっしょに」
その先を聞く前に、雛は右肩に生じた突然の激痛でバランスを崩し、床に落ちた。
超高速で飛びながら前へ進んでいた雛は、その惰性でゴロゴロと床を転がり、数メートル先でようやく静止した。
メディスンも同じように惰性で進んだ。ほぼ無防備な彼女であったが、大きな損壊はないようであった。
メディスンにくっ付いていたお供の人形が駆け寄り、心配している意を身振り手振りで表現している。
激痛の原因を探ろうと右肩を見てみると、大きな矢が刺さっていた。
刺さり方からして、前方から放たれたものだと推測できる。そんな矢すら避けれなかったと言う事は、先程の雛は相当注意力が散漫していたと言う事だろう。
矢を放った犯人である八意永琳が歩み寄ってきた。手には巨大な弓が握られている。
「メディスンをどこへ連れて行くつもりよ」
「鈴蘭畑よ」
「外出は禁止されているわ。勝手な真似しないで頂戴」
「メディスンから毒を奪ったでしょう。だからあの子は、あんな状態になってしまっている!」
メディスンの告げ口かと、永琳は悪態をついた。
だが、見つかってしまった事を隠蔽しようとはしなかった。
「仕方がなかったのよ。あなたと会って何を話しているか分からない。もしかしたら逃亡の計画を企てているかもしれない。私は幽閉を任されてる身だからね。ああやって、逃亡を防いだまでよ」
「黙れ!! お前の様な奴の所に、あの子を置かしてはおけない! メディスンは私が預かるわ!」
雛はそう言うと、スペルカードを数枚取り出し、構えた。
永琳もそれに応える様に、同様の枚数のカードを取り出す。
「盗っ人への制裁、でいいのかしら。懲りたら二度とここへは来ないことね」
「血も涙も無い人間め……!」
ようやく二人の所に追いついた鈴仙は、傍に落ちているメディスンを拾い上げ、すぐに距離をとった。
同時に、雛と永琳の激しい弾幕勝負が開始された。
轟音と怒声と共に、床が、壁が、天井が爆ぜた。
立ち込める埃と殺気。狭い廊下を飛び交う木片と弾幕。
二人の激戦は、廊下の一角をあっと言う間に廃墟と化してしまった。
メディスンを抱えて逃げた鈴仙は、轟音が遠ざかったのを確認し、後ろを振り返った。
立ち込める埃で、二人の姿はほとんど見えない。
永琳に雛が敵う筈が無いと、鈴仙は思った。
これで雛が負けてしまったら、彼女はもうメディスンとの面会すらままならなくなる。
と言うより、永琳はもう雛をこの建物に近づけないつもりだろうから、会うことなどできなくなるだろう。
これから彼女が迎えるであろう未来に立ち込めている暗雲に、鈴仙は胸を痛めた。
すると、抱きかかえていたメディスンが、ゆっくりと動き出した。
何事かと観察していると、しきりに手を伸ばしているのが分かる。
「メディスン、どうしたの」
「ひなぁ」
本人は叫んでいるつもりなのであろう。聞こえていないのを不思議がるように、小首を傾げ、再び名前を呼び始めた。
止める様子がないので、鈴仙が囁いた。
「聞こえないわよ」
「こっちきて、ひな」
「来れないわ。今雛は戦ってるから」
遠巻きに二人の戦いを眺める鈴仙。
次第に、戦いの結果が表れ始めてきた。
誰がどう見ても、雛の劣勢であった。
頭に付けてある赤と黒のリボンは中途半端な長さに切れている。衣服には細かい傷が目立つし、疲労からか表情も苦しげだ。
もうどうする事もできないのか――
只の傍観者を装ってみたものの、鈴仙の良心はそれとなく痛んだ。
倒れても、吹き飛ばされても立ち上がる雛を見守っていた、その時であった。
「しね」
腕の中の人形が、そう呟いた。
驚いて鈴仙がそちらを見ると、メディスンが無表情のまま、呪詛を吐いていた。
何よりも大切な、命を賭してまで一緒にいたいと思えた者を甚振る憎き人間に向かって。
「メディスン。止めなさい、そんな言葉」
「きらい。えいりんなんてだいきらい」
目の前で繰り広げられている不愉快な光景への率直な感想なのだろう。
毒が抜けて単純化した彼女の思考なら仕方の無いことなのかもしれない。他者への配慮に欠けているのだ。
「しね。しね。しんでしまえ」
光の無い瞳でそう呟き続けるメディスン。
無論、今の彼女に殺傷能力などないし、そもそも永琳が死ぬことはない。
だが、彼女の素の感情を知った鈴仙は、この薄気味悪さに恐怖した。
そもそもメディスンのこの感情が、果たして毒が抜けたことによるものか、鈴仙には判断しかねた。
轟音と、人形の吐く呪いの言葉をBGMに、鈴仙は二人の戦いを見守り続けた。
暫くすると、埃が晴れてきた。
完全に埃が晴れたその場には、余裕綽々といった感じの永琳がいて、床に倒れる雛を見下していた。
雛にはまだ戦意があるらしく、どうにか起き上がろうとしていたが、体力の限界が訪れているらしく、起き上がる事は叶わなかった。
「ここまでね。私の勝ち。約束通り、二度とここへ近づかないで」
それだけ言うと永琳は雛に背を向け、鈴仙のいる方へ歩き出した。
「ま、待ちなさい」
搾り出すようにして声を出し、雛が永琳を制止しようとした。
声を聞いた永琳は振り返り、その際に雛を蹴り飛ばした。
もはや身を守ることもできなくなっている雛は、永琳に蹴り飛ばされ、壁にぶつかって止まった。
壁に凭れて、ゆっくりと顔を上げてみると、永琳が追撃を食らわしてきた。
所持していた弓で雛の顔を殴った。
「うぐぅっ」
「とっても腹立たしいのよ、あなた」
ぐったりと項垂れる雛の髪を引っ掴み、顔を上げさせた。
抵抗する力など愚か、意識すら途絶えかけている雛に、永琳は憎々しげに話を始めた。
「ずーっと想い、慕ってきた子を、どこの馬の骨かも分からない奴に奪われる。これがいかに腹立たしいことか」
「そんな事、知った事じゃない。それに」
「それに、何?」
「誰を好きになるかは、メディスンの意志よ。あなたは、その点で私に勝れなかっただけじゃない」
厄神風情に劣等感を与えられた永琳は、無言のまま雛の頬を引っ叩いた。
雛はうめく事もせず、永琳を睨み付ける。
その眼には、侮蔑と憤怒の意がありありと表れていた。
「そうか。それであなたは、そのメディスンの意志を無理矢理捻じ曲げようとしたのね」
「黙りなさい」
「そんなことをするからメディスンはあなたを――いや、人間が嫌いなままなのよ」
「黙りなさい!」
「自分の都合のいいようにすべてが操れると思ったら大間違いよ。人形に心が無いと思うな! 彼女らは、ただの物じゃないんだ!」
そう言いきった直後、頭に加えられた強い衝撃と共に、雛の意識は完全に途絶えた。
永琳は倒れた雛を放置し、鈴仙に歩み寄った。
「あれを外に出しておいて」
「分かりました」
恐怖しているのを悟られないよう、鈴仙は平静を装いつつ返事をした。
去り際、永琳はメディスンをちらりと見た。
彼女の視線の先には、倒れた雛がいた。そして、雛しか映っていなかった。
自室に篭もり、永琳は尚もメディスンと過ごせる方法を模索し続けた。
しかし実際は、思考し続けているようで、何も考える事ができていなかった。
あれこれと実のない妄想を繰り返すばかりなのである。
――月の頭脳である自分に叶えられぬ事など無い筈だ。常人が聞けばまるで理解できないであろう時を生きてきた自分に、達成できない事など無い筈だ。
そんな、長い長い時の中で形成された自信は、今やあっと言う間に崩れそうなほどに疵だらけであった。
だが、どれほど考えようとも、もうメディスンを自分に振り向かせる事などできそうもなかった。
ほとんど『物』である状態のメディスン・メランコリーにさえ、自分は愛してもらえていないのだから。
ならばいっそ『物』にして、一方的な愛を注いでやろうか、とも考えた。
しかし身勝手な愛情を振りまくと言うのは、メディスンが嫌っている人間の典型だ。
それに、物言わぬ人形に恋をするならば、もはや相手はメディスンでなくてもよくなってしまう。
自分はメディスンが好きなのだ。メディスンと過ごしたいのだ。誰の邪魔もされず、誰の阻害も受けず、メディスンと――
自身がいずれこの世を去る身であれば諦めがつく。だが永琳は不死の身だ。
永久にこの鬱陶しい感情を持って生きるのは、あまりにも辛いものがある。
――もはや、詰みなのだろうか。
力任せに、机に拳を振り下ろした。ドンと言う音がし、ペン立てが倒れ、中にあったペンや物差しが机上に転がった。
翌日の朝のことである。
輝夜が部屋から出てきて、いそいそと外出の準備を始めた。
珍しい事もあるものだと心ひそかに思いながら、永琳は問うた。
「どこかへ行くのですか?」
輝夜は頷いた。
「河童が巨大な機械を作るのに成功したと言うのよ。一見しておこうと思って」
「巨大な機械」
永琳も輝夜に同行し、その機械を見に行った。
それは確かに巨大であるが、間欠泉から吹き出る蒸気で動く程度の簡素なものであった。
そんなものでも、幻想郷の住民には目新しく写るようで、迫力のある巨大な機械に皆心を奪われていた。
輝夜もそれを見上げ、感心したように声を漏らした。
「これは見事ね」
「そうでしょうか」
「これ単体では確かに実用性がないけど、これを起点にいろんな技術が栄えていくのよ。うまくいけば」
蒸気で動く程度のものだから、きっと内部の構造もそう難しいものではないのだろうと思った。
輝夜はこれを見上げながら、呟いた。
「こんな大きなもの付喪神になったらとんでもない事になるでしょうね」
「付喪神?」
永琳が聞き返した。
「物に神が宿り、心が芽生えて独りでに動き出す事と。ほら、メディスンと同じようなものよ。長い間壊れずにあり続けた物は、最後は神が宿って動き出すの」
「長い時……」
「って、こんな事説明しなくても分かっていると思うけど」
この時、永琳の中に、ある一つの策略が生まれた。
――これなら、メディスンを自分のものにできるかもしれない。
その後も輝夜は、暫く機械を見ていたが、永琳は一秒でも早く帰りたかった。
思いついたその策略を実行する為に。
*
姫と外出した日の夕刻、永琳は永遠亭を後にし、ある者の元へ向かった。
永琳が会いたがっているその者は、どこにでも現れるが、普段はどこにいるのかはっきりしないと言う、とても面倒くさい相手であった。
故に、その目当ての人物がどこにいるのか皆目見当が付かないので、仕方なく彼女は博麗神社へ向かっていた。
彼女が知る上では、そこにいる率が一番高いし、いなくても居場所が分かるような気がしたからだ。
博麗神社には、巫女である霊夢と、その友人である魔理沙がいた。
二人は談笑の最中であったが、永琳の姿を見るとそれを中断した。
そして、二人とも、この来客に少しばかり驚いているようであった。
「永琳。どうしたんだ」
魔理沙が問うた。
「紫に会いに来たの」
「会いに来たのって、ここはあいつの家じゃないんだけど」
「あなたなら居場所が分かるかと思ったんだけど」
「大間違いよ」
「大正解だぜ」
霊夢と魔理沙が同時に言い、二人で顔を見合わせていた。
すると、まるで三人の会話を聞いていたかのように、紫が何もない空間から現れた。
「魔理沙が正解よ」
「やったぜ。賞品とか出ないのか?」
「そうね。神聖な神社を掃除する権利を与えるわ」
「貰っとくぜ。使わないけど」
紫が地面に降り立ち、永琳に歩み寄る。
「それで、私に何か用?」
「要望があるのよ」
「要望? 何の」
「メディスンの幽閉についての要望」
この一言に、霊夢は魔理沙との会話を中断し、顔を上げた。
急に改まった様子を見せた霊夢に魔理沙は少し驚いたが、紫と永琳が何か重要な話をしていると言うのを察し、そちらに顔を向けた。
「何か不具合でも起こったの?」
霊夢が紫の後ろから問うた。
永琳は頷き、近況の説明を始めた。
「まず、今のメディスンは極めて人形に近い状態にしてあるの。体内の毒を消して」
「なんでそんなことを」
「仕方が無かったのよ。四六時中、厄神の事ばかり考えていて、しかも毎日厄神が面会に来ていたのだから。逃亡を企ててる可能性だって考えられる」
実際は、メディスンの気を厄神から遠ざけようと言う永琳の欲望から行われた処置であったが、無論そこは隠した。
「それでも、僅かに残った意識の中で、メディスンは厄神の事を想い続けているわ」
「なかなか根性のある人形なんだな」
魔理沙が感心したように呟いた。
「それで? そのメディスンをどうしたいの」
「結論を言ってしまえば」
永琳はそこで一度区切り、紫の目を見据えて言い放った。
「彼女を普通の人形に戻すべきだと思うの」
「普通の人形に戻す……」
意味深な事をいう、とでも言いたそうに、霊夢が反芻した。
魔理沙はこめかみの部分をポリポリと掻きながら永琳に聞いた。
「えっと、つまり、メディスンを更正不可能と判断したから殺してくれって事か?」
「それは違うんじゃないかしら」
魔理沙の疑問に答えたのは、紫であった。
「何が違うんだ」
魔理沙が口を尖らせた。
「妖怪メディスン・メランコリーを『人形に戻す』と『殺す』。大きな差異があるわ」
「だから何が」
「殺せば、そこでメディスンは終わる。魂は冥界へ行き、三途の川を渡って、現世での行いから判断して、然るべき場所へと行き着くわ」
「あの閻魔に裁かれちゃうんだな」
花の異変の際の説教を思い出した魔理沙が苦笑いした。
「で、人形になったら?」
「いずれ、再び付喪神として復活する可能性がある」
ここは永琳が説明した。
「つまり、生まれ変わるのよ。それで新しいメディスンになれば解決って訳」
「でも、メディスンは殺さない、って約束なんだろ。約束破っちゃダメだろ」
「さっきも言ったけど、殺してはいないのよ。長い時を用いた更正よ」
「まあ、そりゃそうなんだけど」
腑に落ちないのか、魔理沙は顔をしかめていた。
「大体言いたいことは分かった」
霊夢が湯飲みの中のお茶を飲み干し、言葉を続けた。
「でも、厄神が黙っていないと思うけど」
「ああ、ついでにその事も言っておくわ」
「?」
「厄神の記憶から、メディスンは消し去るべきよ」
*
暗い樹海の切り株に腰掛けている雛は、腕を押さえてじっとしていた。
人里での一件で、少しばかり信仰が弱まってしまったのかもしれないと感じた。
傷の癒えが、普段よりも明らかに遅いのだ。
傷と言っても、血や体液が出る訳ではない。彼女の傷とは、人形としての“欠陥”に当たるものだ。
『疵』と表した方が適切であるかもしれない。
服の綻び、体表のキズ、各関節の機動性の低下――
だが何より、このキズは、彼女の心情に大きく影響していた。
もう自分に、メディスンに寄り添う権利は全くなくなってしまったのだ。その証が、このキズである。
キズだらけの自分を思うと、どうしようもなく、自分が惨めに感じた。
こんな状態でも彼女は、メディスンが気掛かりであった。
近いうちに、博麗の巫女に談判しに行く事も考えた。封印などをしない、と言う約束であった筈だと。
今のメディスンは生きているとは言えない。今の彼女は、動いているだけだ。
治癒に集中していると、背後でかさかさと音が鳴った。
こんな樹海に何の用かと、雛は後ろを振り向いた。
そこには、三名の人物がいた。
霊夢、紫、そして永琳。
「こんにちは、厄神」
「どうしたのです」
「永琳から事情を聞いて、紫と話し合ったの」
事情、話し合い――
何の事か理解できず、雛は首を傾げた。
気の毒そうな表情をしていた霊夢が、チラリと紫を見た。
それが合図であったように、紫が歩み、雛に近づく。
囁く程度の声が聞こえる距離まで近づいた時、紫が口を開いた。
「今からあなたの記憶から、メディスンに関する全ての事柄を取り除くわ」
「え?」
「メディスンはこの後、普通の人形に戻る。戻って、また長い時間をかけて、再び付喪神として復活させる事にした」
「ちょっと待って! どうしてそんな事を!?」
「今の記憶がある内は、メディスンに更正は不可能だと判断したのよ」
永琳が囁いた。
雛は切り株から立ち上がって怒鳴り散らした。
「ふざけるな!! そんなの、そんな事!!」
「諦めなさい」
永琳の言い分は、雛もまた、メディスンを外界に逃がす可能性がある。
メディスンの記憶が初期化されたことを知ったら、彼女は何をしでかすか分からない、と言うものであった。
何せ彼女は、幻想郷そのものを盾にしてメディスンを護ろうとした、『極めて危険な思想の持ち主』なのだから。
だからメディスンに関する記憶を消し、暴徒化を防ぐべきだ――
永琳はこう二人に告げ、二人もこれを承諾したのだ。
「どうしてよ!! どうして、どうして私達ばかり!!」
雛が厄を放出し、三人を遠ざけようとした。
しかし、霊夢の放った厄払いの札がそれを妨害した。
その隙に紫が雛に近づき、境界を操る能力で記憶を操作する。
「ごめんなさいね」
「嫌! いやぁ! 忘れたくない!! 私の、私の、わた……!」
頭の中に、何か生暖かいものが入ってきたような、不可解な感覚に襲われた。
雛の意識が薄れていく。
視界が霞み、音が聞こえなくなった。
「メディ……」
雛が落ち葉の上に倒れこんだ。
紫がふぅと息を漏らし、踵を返した。
「終わったわ」
「雛はどうなったの?」
「ちょっと眠ってるだけ。起きた時、もう彼女にメディスンの記憶は無いわ」
「そう」
それっきり無言のまま、三人はその場を後にした。
その後、永遠亭で、当然の様にメディスンは、紫の手によって『普通の人形』に戻された。
大きな目は全く動く事はなくなり、じっと一点だけを見据えるようになった。
動かない。喋らない。食べない。お供の人形も同じように動かなくなった。
「ありがとう」
永琳がお礼を言った。
紫は軽く会釈をした。
霊夢は、相変わらず気の毒そうな顔をしていた。
その日の夜、永琳は人形を愛でた。
リボンのズレを直し、服に付いた塵を取り払い、髪を梳かした。
そしてそっと口づけをした。
「十年、百年、いや、もっとかもしれないわね」
そっと、人形を棚に置き、囁く。
「あなたが起きた時。その時は、ずっと一緒よ」
*
その日、博麗神社では宴会が催され、普段通り大いに盛り上がっていた。
人間も妖怪も一緒になって酒を飲み交わすそれは、ある意味特異な光景と言える。
幻想郷に住まうほとんどが、この宴会を楽しみにしていた。しかし、別に楽しみでも何でもない者も、確かに幻想郷には存在していた。
酒が飲めない者は、宴会の席にいても楽しくない場合が多いだろうし、こういう賑やかな雰囲気を好まない者もいる。
「いろんな住民と楽しく酒を飲む」というところまで考える事ができない、低級な妖怪や妖精にとってもどうでもいい日である。
そして、個々の理由があって「参加する事ができない」者にとっても、至極どうでもいい日であった。
更に、「宴会以上の楽しみがある」者も、宴会になど興味が湧かなかった。
八意永琳は永遠亭にいた。
今、永遠亭には彼女以外誰もいない。
月の姫である蓬莱山輝夜は、鈴仙・宇曇華院・因幡と共に博麗神社の宴会に参加している。
化け兎である因幡てゐも、沢山の兎達と共に宴会へ向かった。
彼女は永遠亭を離れられない理由があった。
何年も何年も前、棚に飾られた一体の人形――
それが付喪神となって目覚める日を、彼女は何よりも、誰よりも楽しみにしているのである。
永遠の命を持つ彼女にとって、人形一体が付喪神として復活するまでの時間なんてほんの一瞬だと思っていた。
しかし、この時間が、彼女は異常なほど長く感じていた。
今日か、明日か、明後日か、明々後日か、来週か、再来週か、来月か、再来月か、来年か、再来年か――
誰の目にも、彼女は異常に映っていた。
それでも彼女は、辛抱強く待ち続けていた。
もうこんな事をして何年目であるか。それは、彼女だけが覚えていた。
静かな永遠亭で、彼女は独り、薬を作っていた。
すり鉢に独特の香りがする草や根を入れ、粉末状にし、適量を調合する。
ゴリゴリと言う音だけが、永遠亭に響き渡っていた。
その時。
背後でゴトン、と音がした。
永琳はピタリと動きを止め、椅子から立ち上がった。
「もしや……!」
“彼女”は頭から地面へと落ちていた。
少し痛む頭を摩りつつ、棚を掴んでよろよろと立ち上がったが、すぐに転んだ。
まるで立つのに慣れていないと言ったような仕草である。
大きな目があちこちを向く。
口をぱくぱくと動かしている。喋ろうとしているのだ。
「……あぁ……ぃぁー」
赤子の言葉よりも幾分か不気味な声を出し、自身の存在を誰かに知らせた。
それにいち早く気づいたのは、永琳であった。
「メディスン!!」
床に座り込む人形を抱き寄せ、永琳は声を上げた。
人形はぎゅっと永琳の服を掴んだ。掴んで離そうとしない。
強く人形を抱きしめ、永琳は頬を摺り寄せた。
「この日を、この日をずーっと待っていたの」
焦る気持ちを抑え、永琳は薬を作っていた部屋へ戻り、小瓶を取り出した。
中には、大量の鈴蘭の毒が入っていた。
この毒を入れ、鈴蘭畑で過ごさせれば、きっとメディスンは以前の風体を取り戻す筈だ。
あの頃のように自分で喋り、動く人形へと舞い戻る。
前のメディスンがそうやってあの精度を手に入れていたように。
そう確信し、永琳は、ゆっくりと人形に毒を入れた。
生を持つ人形が、ぶるりと震えた。
まるで、足りない何かが補われていくのを、その身で感じ取っているかのようであった。
小瓶の中の毒が全て人形に入れられた。
人形は、自身の内を毒が駆け巡っているのを感じていた。
口から入れられたそれは、あっと言う間につま先にまで到達した。
毒自身も彼女の体を知っているかのように、急速にその体に馴染んでいった。
はぁ、はぁ、と少しだけ荒い息を上げる人形。
そして目の前にいる人物と目が合うと、こう問うた。
「ここは?」
「ここは永遠亭。私は八意永琳」
「えいえんてい。えいりん」
固有名詞だけを反芻する。記憶に刻み付けているように、永琳は感じた。
くるくると目を動かし、次にこう問うた。
「じゃあ私は?」
「あなたは、メディスン・メランコリー」
「メディスン」
そう言ってから、もう一度呟いた。
「私は、メディスン」
*
新生したメディスンは、永遠亭に幽閉されていた。
永琳が外出を許そうとしなかったのだ。
外の世界は恐ろしい所なのだと、永琳はメディスンに教え込んだ。
メディスンは二つ返事でそれに従っていた。
数日もすれば、メディスンは以前の様な精度を蘇らせていた。
強力な自我と、多感な感情。食欲。機動力。思考力。言語力。毒を操る能力まで復活した。
違うのは、以前よりもおとなしい性格だと言う点である。
そして、永琳にくっ付いて生きていた。
全てが永琳の思い通りに進んでいた。
メディスンは永琳だけを慕った。永琳と起床し、永琳と食事し、永琳と遊び、永琳の仕事を手伝い、永琳と入浴し、永琳と眠るのだ。
鈴仙にもてゐにも輝夜にも懐こうとしなかった。客が来ても絶対に姿を現そうとしなかった。
故に彼女は、巷ではいるかいないのかはっきりしない不可思議な存在――都市伝説的な存在となっていた。
永琳はそれが嬉しかった。
何年も待ち続け、夢見続けていた生活が、ようやく始まったのだから。
だが、いくらメディスンが動いているとは言え、メディスンは人形であり、人間で言えば幼女だ。
そんな彼女に欲情している永琳は、周囲からあまりよく見られなかった。
元々永琳はメディスンに対して、母性的な愛情を抱いていた筈であったが、いつの間にかそれは変形していっていた。
今ではどちらかと言えば愛人関係的な、母子と言う枠を踏み外した関係を保っている。
その裏づけとして二人は、寝る前の布団の中で、密かにまぐわっているからである。
全てが永琳の指示で、訳の分からないメディスンはそれに従っているだけである。
口付けをし、乳房を舐め、秘部を撫で、そして擦り合わせる。
何億と言う時を生きてきた人間と、僅か数日の時を歩んだばかりの人形が愛し合うと言う、異様な光景であった。
しかし、永琳に恥じらいなど一寸たりともなかった。
その日の夜も、二人はいつも通りの夜を過ごした。
基本的に永琳が絶頂に到達してしまうと、そこでおしまいだ。
事後、二人ともぼんやりと天井を見上げていた。
そんな中、メディスンが問うた。
「永琳、今幸せ?」
「ええ。とっても」
「そう」
「メディスンは?」
「今は何とも言えない。けど、その内幸せになれる筈」
「そう」
それだけ言うと、二人は黙ってしまった。
そして暫くして、メディスンは穏やかな寝息を立て始めた。
眠るメディスンの髪を撫で、おやすみなさいと耳元で囁いた。
メディスンが動き出して、一月が経った。
すっかり生活に慣れたメディスンは、以前よりも活発になった。
てゐと喧嘩した時は、激情に任せて毒を撒き散らした事さえあった。
永琳と過ごす夜も、もはや慣れっこだった。
永琳が一番喜ぶ箇所を熟知していた。
大体果てるまでの時間も理解しだした為、焦らして遊ぶ事さえあった。
だが、ある日の事だ。
どうしてもやり終えねばならない仕事ができた為、永琳はその日、久しぶりに夜の時間を断った。
今日は何もできないから、寝ておくように指示し、薬を調合していた。
作業中、後ろに小さな気配を感じ、振り向いてみると、メディスンが立っていた。
「どうしたの?」
永琳が問うた。
メディスンは真っ直ぐ永琳の目を見据えながら、口を開いた。
「ねえ、永琳」
「何?」
「雛はどこにいるの?」
脈動しているだけの永琳の心臓が、大きく跳ねた。
そのまま口から出てくるか、胸を突き破って外界へ飛び出してくるかと思えるほど、大きな衝撃だった。
メディスンは確かに、「雛はどこにいるの」と尋ねてきたからだ。
メディスンを外界に出した事など一度もない。
睡眠中も兎達に厳重な警備をさせて外出を妨害してきた。
外の世界の事などほとんど知らせずに過ごしてきた。
それなのにメディスンは、あの忌々しい厄神の名を取り上げてきた。
恐る恐る、永琳は聞き返した。
「メディ、それを、どこで?」
メディスンは答えず、とことこと永琳に近づいてきた。
そして、突然永琳に口づけをした。妙に甘い香りがした。
口を離すと、メディスンは笑んだ。
「何でもないのよ。おやすみなさい」
そう言って彼女は寝室へ向かって歩いていった。
彼女が去った後、永琳は動揺していた。
どこに不備があったのだろうか。
どこでメディスンは雛の存在を知覚したのだろうか。
そもそも彼女は雛にあった事などないはずだ。
おかしいおかしいおかしい。記憶は初期化されたんじゃなかったのか。
現に彼女はここの名前も自分の名前も私も姫も鈴仙もてゐも外の事も覚えていなかったじゃないか。
どうしてメディスンが雛を求めている? どうして、どうして、どうして――
薬の調合どころではなくなってしまった。
脳髄に激しい痛みが走る。
まるで脳に刻まれた皺を、細い針でなぞっているかのような、ピリピリとした痛みであった。
永琳はまるで取り憑かれたように、そこで思考を続けていた。
真夜中の鈴蘭畑に、メディスンは立っていた。
そこで大きくてを上げ、鈴蘭の毒を体内へと入れていく。
そして、体内に貯蓄してきたありったけの毒の霧を放出した。毒が足りなくなって眩暈がするほどに。
発生した毒の霧は、幻想郷中に広がって行った。
*
翌日、永琳は鈴仙の怒号で目を覚ました。
「師匠、大変です!」
鈴仙に呼ばれて永遠亭の待合室へ行ってみると、何人もの人間や妖怪が呻きながら永遠亭に集まっていた。
あまりの騒々しさにメディスンまで起きだしていた。
これはどういう事だと、永琳が問うた。
しかし、鈴仙は首を横に振った。
「分からないんです。朝方から、何人もここへ。新しい病気でしょうか」
考えていても始まらない。
「原因を突き止めるから、血を採らせて頂ける?」
「血を?」
「中にある成分を調べて、薬を調合するの」
そう言われ、人間代表として人里の人間一人と、妖怪代表としててゐが奥の部屋に運び込まれた。
メディスンも興味深そうにそちらへ向かった。
二人を椅子に座らせ、永琳は採決の準備を始めた。
「ちょっと待ってて」
様々な道具が入った箱を開け、永琳は思案し始めた。
血を採る。採って薬を作る。
血を採るには血を体外へ出さなくてはいけない。
血を出すには血管を切る必要があって、血管に到達するには外皮や肉を突き通さなくてはいけない。
ならば鋭利な何かが必要だ。血管まで到達できる何か。
針。メス。包丁。鉈。ナイフ。ノコギリ。剣。槍。斧。
いや斬ったり刺したりしなくても血はでるか。拳。銃。
どれが必要で、何かいらないのだろう。
一先ず血を出さなくては。
いや注射を使えば血を出す必要なんてないか。
しかし血が足りなかったら困る。
兎に角血を出さなくてはいけない。血を、血を――
「お待たせ」
永琳が戻ってきた。
そして人間に、掌を上へ向けて机の上に乗せるよう指示した。
言われるがままに、人間はそうした。
永琳はその掌に向かってナイフを突き立てた。
ドン、と言う音が鳴った。
ナイフは掌を穿ち、骨を砕き、手の甲の外皮を突き破り、机に刺さった。
人間の絶叫があがった。
てゐは悲鳴を上げながら椅子から転げ落ちた。
急に声が上がったのを聞いた鈴仙が慌てて永琳の元を訪れた。
そして、人間の手にナイフが刺さっているのを見て、叫んだ。
「師匠!! 何をしているんです!?」
「何って、血を採ってるのよ」
「な、何を訳の分からない事を!!」
「訳が分からないって何が? ほら、てゐも」
地面に座ったまま腰を抜かしているてゐの耳を引っ掴み、永琳はメスを手に取った。
そしてそのメスを、彼女はてゐの首にピタリと当てた。
「やめてください、師匠!」
堪えきれず鈴仙が、永琳の頭目掛けて弾幕を放った。
殺意の篭もったそれは、永琳の頭をまるでトマトか何かであるかのように容易く吹き飛ばした。
肉片と血潮が飛び散り、近くにいたてゐを真っ赤に染め上げた。
てゐは失禁しながらも、どうにか鈴仙の元まで這って進んだ。
頭を失ったが、永琳は不老不死だ。
見る見る内に頭が再生していく。
「何をするのよ」
メスを握り締める永琳が鈴仙に歩み寄る。
「し、師匠! どうしたんですか?」
「どうもしないわよ。私は薬を作ろうとしているだけなのに」
「これ以上近づかないで下さい!」
二度目の射撃をしようとした鈴仙。
しかし、永琳は手に持っていたメスを鈴仙に投げつけた。
それは鈴仙の片目を貫いた。
激痛に身を屈ませた鈴仙を、てゐごと弾幕で吹き飛ばした。
夥しい量の血が採れ、永琳は嬉しそうであった。
「さて。薬、薬」
作業に戻った永琳の後ろで、メディスンは黙ってその背を見つめていた。
そして、クスッと笑った。
「じゃあね、永琳」
身を翻し、彼女は部屋を後にした。
「もう私達の邪魔をしないでね」
*
永琳には二つの誤算があった。
一つ目は、メディスンが付喪神として再び復活すれば、記憶が初期化できるものだと思い込んでいたものだった。
実際は違った。メディスンは生前の――人形に戻る前の記憶を保持していた。
永琳の薬で自分がおかしくなった事。最愛の厄神を叩きのめした事。そして勿論、雛の事。
物にはそもそも心が宿っている。
何かを作る時、「心を込める」とかいう言い回しがあるように、万物には心が宿っている。
普通の人形に戻るという事は、彼女に憑依していた神が離れ、心が眠ってしまうだけの事であった。
結果、何年経っても、彼女は全て覚えていて、全てを憎んでいた。
永琳が何千、何億、それこそ何兆年生きようとも、人形でない彼女が絶対に体験する事ができない、付喪神としての再生。
その再生のルールなど、彼女らは知る由も無かったし、どうやったって知りえない。永琳の推測は外れてしまったのだ。
二つ目は、自身に毒が効かない、と言うものであった。
永琳は『どんな毒も効かない』と言っていた。
しかしメディスンは『どんな毒も操れる』と豪語していた。
メディスンには『永琳すら侵せる毒を操る可能性』が秘められていたのだ。
どちらかが嘘つきであるこの状況で、嘘つきは永琳であった。
昨晩の口付けの際、彼女は毒を注がれ、正気を失ってしまった。
結果がこの凶行である。
永琳が無力化した中、メディスンは幻想郷全土に毒をばら撒いた。
解毒が出来なければ、きっと幻想郷の不老不死の存在以外全てが死に絶えるだろう。
毒の影響を受ける事のない人形である、自分と雛を除いた全てが。
そうすれば、自分と雛の二人だけの世界が完成する。
メディスンは雛を信じ続け、その存在を存続させ続ける。
鈴蘭畑に身を潜め、彼女は雛の事を考えていた。
雛はこの行動に、怒るだろうか。それとも、喜んでくれるだろうか。
どちらなのかは分からない。
でも、もし怒られたとしても、メディスンは悔いが無い気がした。
どうせ雛以外、何にも彼女は好きではなかったからだ。
彼女は端から、永琳の事など、これっぽちも愛していなかったのだから。
*
厄神は、幻想郷の惨状を見て、その原因を探っていた。
空から眺めている内に、ある事に気付いた。
広大な鈴蘭畑に近い場所ほど、その症状が重たいという法則を見つけたのだ。
ならば原因はそこにある筈だと、厄神――鍵山雛はそこへ向かった。
鈴蘭畑に付くと、白と緑の世界の中に、小さな影を見つけた。
紫色の毒々しい服を着た妖怪だ。
「……っ!」
雛は拳を握り締めた。
「生ける災厄め。絶対に許さない!!」
彼女に、メディスンの記憶などなかった。
*
きっとメディスンは、何かを愛するべきではなかった。
幼稚で、我が儘な彼女は、何かを愛してしまうとそれしか目に入らなくなってしまう。それでいて彼女は、全てを死に至らしめる、危険な能力を持っていたのだから。
きっとメディスンは、何かに愛されるべきではなかった。
好きなものは受け入れ、嫌いなものは徹底的に排除しようとする彼女を愛すのは、極めて難儀な事であったのだから。
きっとメディスンは、鈴蘭畑を出るべきではなかった。
ずっと孤独に、全てを呪いながら過ごすべきであった。そうすれば、彼女以外誰も不幸にならずに済んだ。彼女の最愛の存在が見つかる事もなかったし、その者の不幸をしる事もなかった。
一緒にいたいのに、それが叶わないと厄神が嘆く事もなかった。
百年もの間、不老不死の人間がいじらしい時間を過ごさなければならなくなる事もなかった。
鈴蘭畑に一瞬のざわめきが起こり、すぐに止んだ。
静寂に包まれたそこには、小さな人形の残骸が転がっていた。
長らくありがとうございました。
これにて『やはり野に置け蓮華草』は完結いたしました。
今回は所々、私なりの見解が含まれているというか、オリジナル設定とも言えそうな独自解釈が含まれています。(特に永琳の誤算二つ)
しかし、そんなに強引でもないんじゃないかなぁと思っています。
そもそも推理物でもありませんので、特に問題は無いでしょう。
終わり方は絶対にバッドエンド。これは最初から決めていた事でした。
まあこの雰囲気では、どう足掻いてもハッピーエンドには持って行きづらいでしょう。
全部で69597文字、143KBの作品となりました。70000文字いきたかったですけど、500文字増やすのはもう無理です。
次回の投稿は、恐らく年中には無理です。
が、いろいろあって割と暇なので、一月初旬には次回作が投稿できるかもしれません。
因みに次回はグロいもん書きます。お楽しみに。
長い間、ご観覧ありがとうございました。
2010年もどうぞよろしくお願いいたします。
++++++++++++++++++++
>>1
ありがとうございます。この諺を見つけれてよかったです。
>>2
雛とメディだけ生き残ってちゅっちゅなエンドがいいかと思った時期が私にもありました。
が、こっちの方がここらしくて素敵に思えて、結局こうなりました。
>>3
ありがとうございます。
何か月人死なずに狂っちゃう展開は以前も書いたような気がしますが、気にしない事にします。
>>4
ですよね。バッドエンドは至高ですよね。
アフターストーリーは皆さんお気づきの様に一応全員逝去ですが、
チートなゆかりんがえーりんを救う→救われたえーりんが解毒剤作る→幻想郷救われる。
と言う展開もありかなぁと思いました。こうすると、メディの健闘は全く無意味であった事になりますが^^
>>5
面白かったですか。よかったです。
雛も信仰失せて消えてしまうのでしょうね。
>>6
幸せは簡単に壊れるって竜宮さんが言ってた。
幸福があるからこそ不幸が輝くのです。でも、終始不幸と言うのも救いが無くていいですね。
>>7
何か不具合があったのかと思ってビビっ(ry
以前も長文のコメントをお寄せ下さっていましたね。光栄です。
悲劇的作品を見た後の胸に停滞する何かは、自分も時々あります。(同じものかは分かりませんけど)
いつか投稿された、紅魚群氏の「約束」を読んだ後は結構辛かったです。
最後の台詞はSO2に出てきたメッセージと同じだった筈ですが、何か別の元ネタがあるのですかね、やはり。
スピキュール強いよスピキュール。
>>8
そうですね。欲深いですから、皆さん。
それが悪い事とは言い切れませんが。
>>9
我慢するのはとても辛いことです。
どんな生物でも辛い事だと思いますよ。叶う願望すら叶わないなんて。
>>10
そう。何も知らなければよかったのです。知らぬが仏。
だからやはり野に置け蓮華草なのです。伝わっていれば幸いです。
>>11
あ、やはりSO2でしたか。
スピキュールは辛かったです。ルビーなんて持ってないですわ^^;
長文でも全然問題ありませんよー。むしろ私は嬉しいくらいです。
>>12
誤字報告感謝です。
輝夜は悲しいでしょうが、どうこうする力などある筈もなく。
正体不明な薬を作って「できたできた」と喜ぶ永琳を、毒に侵され苦しみながら見守るしかないのです。死にませんから。
毒が効かないのって、蓬莱人だからじゃないですよね……?
>>13
上でもコメントしましたが、ゆかりん大活躍ルートと言うのも考えていました。
そもそも現実的に考えればそれが一番しっくりくるとも言えそうなんですけども。
しかしやはり、全員死亡か独りだけ生存が私は好きです。
>>14
おかしくなりながらメディスンを求める様はさぞおぞましいでしょうね。
人でなくなっても人らしい感情や動作がしっかり残る。
その不気味さを知らしめてくれたのが、私の中ではあの偉大なるSIRENなのです。
>>15
その情報は、どこかで見た覚えがあります。
私は風流だとばかり思い込んでいましたが、果たして。
pnp
作品情報
作品集:
9
投稿日時:
2009/12/22 22:13:49
更新日時:
2010/01/01 17:22:06
分類
メディスン
雛
永琳
微グロ
1/1第三回コメント返しに成功。
手にとるな やはり野に置け 蓮華草
驚くほどの酷い終わり方に全俺が泣いた(良い意味で)
永琳の手回しが良かったおかげ(雛の記憶を消しておく件)で何とか幻想郷は救われた!
しかしメディスンに狂わされた永琳はどうすべきか・・・狂った不老不死とか困るわー
素晴らしいお話でした
チートな月人(不老不死)が狂うとか実に困るw
この後雛は孤独に生きていくだけなのかー
しかし狂ったえーりんによる二次災害が気になる…
下手すりゃ毒よりやばいことになるんじゃね?
皆死んで信仰無くなるから雛も死ぬんじゃね
めっちゃ面白かった、乙
この作品も含めて悲劇のまま終わる作品はそれら自分の願望を粉砕しているのだけれど……
余韻と言うか、こう、胸をいつまでも滞留するものがあります。ハッピーエンドとは違う何かが
暫くの間、唯呆然と彼女達の毒と厄で出来たお風呂に浸かっていられそうです。ああ、心地いい
しかし幻想郷という場所は、紫や靈夢やその他管理者までもが住人には幻想郷の歯車たることを求めるのか
妖怪と人間が共存する楽園、外から弾かれた者が流れ着く場所なのに危険だから排除の原則は変わらない
『はたして、進化をやめた生物に生きる価値はあるのだろうか…?』
それでも置いとけないのが人情なんだよなぁ
人間が最も持ち合わせていないことの一つですよね
蓬莱人も付喪神も同じですか
仰るとおりSO2エンディングです。元々ネタは私も有るかわかりません^^;
みかちゃんに剣士2人でボッコしてると回復キャラが石化してる!不思議!
素晴らしい作品を書いてくださった作者殿に何か自分の気持ちを伝えたくてもごもご書いていると長文になってしまいます……
まあこんなの関係なしに素晴らしかった!
気狂いえーりんみて輝夜はどうするんだろ?
どうもしないでずっと放置かな。
こういうのは、いつも「この後どうなるんだ」と考えてしまう。
元々狂気じみた愛だったが
遊女を野に咲く蓮華草に例えるのは、風流なのか冷淡なのか。
所詮他人事だったんだろうな・・・