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『その傘は』 作者: タダヨシ
一体、いつの出来事だっただろう。
わたしは主に捨てられた。
理由は分からない。
だけど、雨に悪戯されて、風に突き飛ばされて、苦しかった。
何故、こんな目に遭わなくてはいけないのか。
わたしは主を恨み、人間全てを恨んだ。
馬鹿みたいな時間、呆れる時間。
何か酷い目に遭わせてやらないと気が済まない。
そんな風に思い続けていると、いつの間にか姿が変わっていた。
主を持たぬ道具となったわたしは動き、言葉を発する事の出来る体で人間に仕返しをした。
ただ自慢の舌を指揮者の如く振り上げて、人前に出るだけでよかった。
そうすれば人間は驚いて何処かへと逃げ去ってしまう。
ざまあみろ、わたしを捨てたお返しだ。
驚いた人間の心が自分の渇きを癒し、心地良い。
しかし、年月が経てば経つ程にわたしを見て驚く人間は少なくなっていった。
だけど、それも良いと思った。
きっと、誰も驚かなくなった時がわたしの死に時なのだろう。
そうなればわたしは楽になれる。
怒る事も悲しむ事も恨む事もしなくていいのだから。
でも、今日は何てひどい日だろう。身体はぼろぼろ、心も……
『なんで化け傘相手に驚かなきゃいけないのよ』
『化け傘に驚くような人間はおらんよ』
『今更傘が飛んでいようが、そんなもんで今の人間が驚くもんですか』
非情な人間の言葉が刺さってひび割れだらけ。
いや、分かっていたけれどさ。やはり胸の奥が軋む。
それからわたしは情無き人どもに弾幕勝負を吹っ掛けた。
結果は三回とも惨敗で、三回あの人間達の勝利を見物する事になった。
そんな私は今、敗北を背負いながら綿菓子雲の間をよろり飛んでいる。
飛翔速度、通常より遅し。何故?
答え、私は無理をしすぎた。
あの時はおかしくなっていて弾幕勝負中、体を守る事を忘れていた。
茄子色の唐傘――本当の体を見る。酷いものだ。
骨が折れていたり、紙が破れて穴だらけ。
おまけに中心の竹にもいくつか亀裂。
もうお化けになる力も無くて、ただのぼろ傘だ。
まだ無事な所といえば移動に使う偽の体、つまり人の姿が消えない程度。
わたしは自分がそんな格好であるのを把握して、可笑しくなった。
ははっ、変なの。
人を恨んで、からかさお化けになったのに。
これじゃあ、まるで人間じゃない。
まぁ、空飛んでぼろ傘持ってる変人だけど。
心が空笑いすると、上に引き寄せられていく。
何だろう?
気になったのでそちらを向くと、不思議な光景が見えた。
天に大きな陸地が浮かんでいる。
ここは、何処?
疑問を作っている間にも、どんどん引き寄せられ、空に浮かぶ大地が近づく。
もうすぐ、私はあそこに触れてしまうだろう。
霞漂う意識で大きな浮島を見つめると、逆さまの草木があった。
わたしはそこまで確認して、やっとこの状態を把握した。
そうか、わたしは落ちているんだ。地面に向かって。
もう、大地の顔がすぐそこまで見える。でも、わたしはのんびりしていた。
落ちたら、痛いのかな?
体が砕けてしまったら、死ぬのかな?
自分の存在が無くなる。緊急事態だったが、どうでもよかった。
まぁ、いいか。死んじゃっても。
持ち主に捨てられて、人間を驚かせるだけのくだらない生き方だったし。
どうせなら、ここで砕けて死んでしまおう。
そうすればもう怒りも悲しみも無くて楽に……
地面に体が触れて変な音がする。
わたしの意識は、そこで闇に沈み込んだ。
畳を箒で撫で、箪笥を雑巾で研磨、降り積もった埃をはたきで逢引へ。
私がそれを行うと汚れは美化の置き土産を残していき、見慣れた生活空間は輝く。
もう掃除は必要ありませんという合図。
本来なら喜ぶべき所だが、頭を抱え苦悩した。
「どうしよう」
もう終わってしまった。
絶望が頭に垂れる。実はとてつもなく暇だったのである。
さっきまでしていた掃除は退屈しのぎだったが、それも終わってしまった。
思ったよりも完了が早かったので、次の行動に悩む。
私は愛しき掃除の友を片付けると、二つのものに視線を注いだ。
一つ目は天に輝く神々しき灯。
二つ目は家にある紙、竹、糊、油、その他色々の道具。
どちらかだけだったら退屈はしなかっただろう。
空の太陽は近頃ずっと働いていて、私は唐傘屋。
いつもなら里から定期的な発注や修理の依頼が来るのだが、先程述べた通り空は最近良い天気のまま。
唐傘屋である私は太陽によって膨大な暇を持て余していた。
家をぼんやりと見回すが、もう退屈を凌ぐ物は残っていない。
だが、疲れた草履を目にすると新たな考えが閃き、ちゃらりと鳴る黒ずんだ銭を握る。
そうだ、人里へ行こう。
藁の複合体を足に敷くと、そのまま外出する。
さて、里に着いたら何をしよう。
蕎麦屋に銭を渡して外へ出た私はにやけ顔。満腹になったから。
うん、やはりここの盛り蕎麦はいい。
蕎麦湯も残さず飲み干した。
さっきの昼食を思いながら、人里を見回す。
ここは多くの人を見かける場所で、どこを見ても必ず人がいる。
私はその光景を見て、目を回しそうになった。
ここは人が多すぎるな、本当に。
普通の里に住んでる者であれば、こんな事は思わない。しかし、私は唐傘屋という職業柄、材料の竹や糊を常に調達しなければならないので人里から隔離された場所に住んでいた。
だから日常生活で人と会うことは滅多に無く、会ったとしても発注や修理依頼に一人か二人。
そんなこんなで人里に落ち着かなかったが、暫くするとどうでも良くなった。
暇と退屈の夫婦が私を大胆にさせていたから。
人里を歩き回る。雑貨屋、食事屋、着物屋、本屋……その他色々。
でも私は盛り蕎麦以外には銭を落とさず、立ち並ぶ店々を柿突く雀みたいに冷待遇。
いや、手持ちの銭が少なかったので。
営みが密集した場所を幾らか回ると、空の陽は昼過ぎに位置していた。
天を見て少し寂しくなったら、きっと帰り時。
自分の足が家へと踊り、里の騒がしい気質から離れる。
里が見えなくなると、足裏からは雑草の反発、耳からは木々の囁き。
ここから家へ帰る時、いつも不思議に思う。
私がいる場所と人里のある場所でこんなにも環境が違ってしまうとは。
人が住んで、生きているのには変わりないのに。
ちっぽけな不思議を味わいながら家路へ進む。今は帰路の中程。
あともう少し、そんなに遠くは無い。
んっ?
私はくすぐったい感覚で横を向いた。
そこはただの草むら。野性味たっぷりの植物の会合。
なんだ、ただの草か。
私は無視しようとしたが、妙な引力があった。
「まぁ、ちょっとだけなら」
言い訳しながら伸び放題の草を掻き分け、奥を見る。
「これは……」
私は草むらに遮られたそれを見て、何と言うか困った。
一人の少女が唐傘を持って仰向けに倒れている。
これだけだったら普通だ。しかし、問題は彼女の格好であった。
水色の変な着物と、これまた水色の髪。
ただ一つ下駄だけがまともだったが、それがかえって心を不安定にさせた。
何だ、この女の子は?
私は暫く倒れた彼女を見つめていたが、時間と共に状況を整理する。
とにかく、声を掛けて意識確認しないと。
私は彼女の耳元に寄って声を浴びせる。
「大丈夫ですか、何処か痛い所はありますか!」
しかし、当の本人は青い顔で瞼を閉じて息をしているだけで、何も応えなかった。私は全く反応しない彼女に戸惑った。
しかし、焦げ付いた頭でも一応最低限の働きをするらしく、新しい考えが煌めいた。
そうだ、医者。
「医者に連れて行かないと」
私は倒れた彼女に視線を送る。服に泥が付いている以外、何も異常は無い。
よかった、傷は無いみたいだ。だったら……
「里まで連れて行こう」
私は妙な彼女をおんぶで背負い、さっきの騒がしい群れへと向かった。
運んでいる途中、不思議にも少女は唐傘を持ったまま離さなかった。
消毒液、薬、道具の臭いが混ざった異次元の如き場所で男に聞く。
「先生、どうなんですかこの子は」
「まぁ、慌てずに。とりあえず診察しますから」
そう言って医療家は体を見回したり、手首に触れて血の流れを感じて彼女を診察する。
私はきりきり縮み上がる。
「駄目です、お手上げです」
「そんなっ! この子は助からないんですか?」
私は暗く明日無き言葉に動揺の声を漏らした。
まさか、そんなに重い病だったとは。
しかし、次に紡がれた声は予想の座から大きく外れていた。
「ええ、ここでは。この方は人間ではないので」
「はい?」
私はてっきり病名やら残りの寿命やらを宣告されると思っていたので、随分と穴の開いた音を鳴らした。
「うちでは妖怪は診察できません。妖怪の診療所を教えるのでそちらへ行ってください」
医者は紙と筆を持ち出して地図を描き始めた。私はそれを見ながら自分の勘違いに気付いた。
あぁ、成る程。ここは人間の診療所でこの子は妖怪。
何故、いままで自分はこの子を人間だと思い込んでいたのだろう。
格好も髪も変なのに。
「出来ました、どうぞ」
解釈の渦から巻き戻され、慌てて応える。
「はっ、はい! ありがとうございます」
私は完成したばかりの地図を受け取ると、彼女をまた背負って診療所を後に
「待ってください、まだ受け取っていません」
する筈だったのだが、医療人に肩を掴まれた。
私は診察料の事を思い出し銭を医者に渡したが、それでも満足しない様子でこちらに指を三本立てた。
「あと、地図の情報料を」
一瞬、私は速筆の地図にそんな価値が有るのかと疑問に感じたが、とにかく今は水色の彼女が大事だったので三枚の銭を男に手渡した。
「ありがとうごさいます」
その言葉を貰うと、私は人間の診療所を立ち去った。
人の医療とは違った趣の場所で彼女はまた診察を医療人にしてもらっている。
でも、今度は勘違いではなく、妖怪専門診療所。
「どうです、この子は大丈夫ですか?」
私はまたもや緊張しながら医者に聞いた。
「駄目です。酷い重症ですが、うちでは治せません」
切れる刃を思わせる声が響く。
私はここなら彼女は助かると思っていたので、無慈悲な音に反発する。
「何故ですか!」
医者はどうしようもないといった顔で返す。
「とにかく、無理なのです。ここの診療所では九十九神は治せません」
私は『ここの診療所』という言葉に反応して医療人に問うた。
「じゃあ、この子を治せる所は何処ですか、教えてください!」
若干の希望を込めて訊いたが、医者の言葉は冷たいままだった。
「幻想郷のどの診療所でも、九十九神は治せません」
私はそんな言葉では納得できないとばかりに喉を荒くして、医療の専門家に感情を投げ付ける。
「どうしてなんです! この子はこんなにも苦しんでいるのに」
私の声を受け、医者は今まで保っていたお面の顔を辛そうに歪めた。
「九十九神は様々な道具が変化して生まれる妖怪です。なので身体構造や生体活動が鬼や天狗等の種族とは違い、それぞれの個体によって全く違います。よって、治療方法が全く分からないのです」
医者は何の嘘も言っていない。
しかし、胸の中に黒く頷けない諦めが下っていくのを感じた。
「そんな……じゃあ、この子は助からないのですか?」
希望が残っていないかしつこく縋る。
「ええ、たぶん今日が限界でしょうね」
とてつもなく簡単な言葉の並び。
だが、その声は心を凍えさせ、軋ませるには充分だった。
私は揺るがぬ診断に固まっていたが、暫くして医者に賃を渡す。
「ありがとうございました。これ、診察料です」
価値を持った小さな金属盤が消えかけの命みたいに渇いた音を鳴らした。
「どうも、何も出来ないのが残念ですが」
医者は言葉通り残念に顔を歪めたが、心まで悲しそうな様子をしなかった。
きっと、そこまで心を入れていては、やっていけないからだろう。
「では、失礼します」
私は水色の少女を背負い、妖怪専門の診療所を出た。
診察を終えて外を見ると、空の灯りはもう陰りを見せていた。
いつもだったら何かしらの感想が出るのだが、今は何も出ない。
何かあるとすれば背中越しに水色の少女の温かさが伝わってくる位で。
その温度は心地良いものだった。
生きている『者』特有の温かさ。
だが、少しずつ、ゆっくりと去って行くのが分かる。
生きていない『物』になるのも時間の問題だ。
私は確実に散っていく命を考えながら歩き、人々の群れを後にした。
歩く度に人里が小さくなっていく。帰路の林に遮られて見えなくなると、今まで銭が入っていた袋に触れる。
中には何も入っていなくて、空っぽ。
今日会った医者達の事、費用対零の医療費の事、そして今も命を零している彼女の事が頭に陰気な喜劇として踊る。
そうだ、誰も悪くはないのだ。誰も、誰一人として。
だが、口はこじ開けられて暴力を纏う響きが生まれる。
「くそっ、幻想郷の医者はみんな藪医者ばかりだ!」
暮れかけの空に汚い声が飛び散り、帰路を下品なものにした。
まだ、意識がある。どうやらわたしは思ったよりもしぶといみたいだ。
しかし、どうした事だろう。瞼が開かない。どんなに力んでも光は見えない。
そこまでしてわたしは自分の様を思い出した。
そうだ、本当の体の変化は解けて、眼が無いんだった。
怪我のせいか、うっかりした性格によってか、思考が霧みたいだ。
きっと、わたしが死んでしまうのも時間の問題だ。
ふふ、でも楽しみだ。やっと辛さが無くなる。
だけど、その前に……
わたしは偽の体――人型の眼を使って辺りを確認する事にした。
この眼を使うのは嫌いだ。しかし、今は本当の体が動かないから仕方が無い。
瞼を開くと慣れない視界から光が差し込んで様々な色が生まれ、識別する形が踊る。
最初に見えたのは沢山の藁が敷き詰められた場所。
あれ?
わたしはさっきまで空がある場所にいた筈なのに。
変だな、幻でも見ているのかな。
疑問を解決する為に頭を動かすと、木の柱、土の壁、畳、箪笥が視界に触れた。
そしてまた藁が群生する場所を見る。
ああ、そうか。これは屋根の部分。じゃあ、ここは家。
でも、いったい、誰の?
わたしがちっぽけな疑問を出していると、騒がしい揺れがする。少々気だるいがそちらに顔を向ける。
そこには一つの頭があって二つの腕が生えていて、これまた二つの足が付いている生き物がいた。
なんだ、これは?
わたしは一瞬それが何か分からなかったが、時間の微小な経過によってやっと理解した。
人間だ。これは、人間だ。
わたしを捨てて、苦しめた奴だ。
思考は限り無く辛かったけれど、肝心の感情は怒りを伴わなくて綿菓子みたいに浮いていた。
人間はわたしに向かって喋る。しかし、自分の体が限界に近いせいで、何も聞こえない。
本物の耳も、偽の耳もいかれていた。
人間は必死にこちらへと口を響かせている。
何も聞き取らなかったが、人を恨む思考は毒々しい言葉を心に浮かべる。
うるさい、お前の話なんて聞きたくない。
わたしを捨てたくせに。
お前なんかどっか行ってしまえ。
言葉を放ち続けていた人間は口を閉じ、困った顔になった。
わたしはそれを無視して辺りを見回すと、さっきは見落としていた物が見えた。
様々な色の紙、長さや太さが違う竹の束、出来の悪い餅みたいな糊、実直で無駄の無い道具達。
なつかしい。何てなつかしいのだろう。
何故、こんな事を思ったのかは分からない。しかし、確実にわたしの心は揺れた。
この材料らしきものと道具は、きっと、目前にいる人間の物なのだろう。
ぼんやりとした、殆ど嗅覚に近い考察が巡る。
そこには人間を恨むとかそういった思考が登場する余地は無かった。
そして、思考が着いて行かないままに偽の体が動く。上半身を起こし、手に持った本当の体を人間に向ける。
瞬間、思考が行動に猛烈な異議を唱えた。
えっ、何でわたしはこんな事を?
しかし、口は迷い無く動いて……
痛んだ畳に布団を敷き、寝かせる。そして、水色の少女から離れる。
一体、私は何をしている?
結局、自分は治療出来ない彼女を身内でも何でもないのに家まで連れ帰っていた。
診療所やその他の紹介を頼れば彼女を預かってくれる場所なんて幾らでもあるだろうに。
それとも、自分は非情な医者どもとは違って情のある人間だと言い訳をしたかったのだろうか?
何も出来ないくせに。
だとしたら、自分は何て自己中心的で冷めた生き物なのだろう。
それこそ、『者』の姿をした『物』だ。
心が果て無き追い討ちを掛けていると、物音がした。
布と布が擦れる微かな騒ぎ。
慌ててそちらへ向かうと、そこには水色髪の彼女がいた。唐傘も手にしたままで様子はさっきと殆ど変わらなかった。
だが、少しだけ違う所があった。
赤い左目と水色右目の揃わぬ球体の輝き。
目だ、目を開いている。意識が戻ったのか?
私は彼女に近寄って腰を下げる。
少女はこちらを向く。今までじっくりと見なかった髪が視界にはっきり飛び込む。
ああ、ラムネだ。
これは、あの時見たラムネ菓子の色だ。
何故そう思ったかは解せない。色も似ていない。
しかし、私は彼女の髪を見て昼に人里で目にした珍しいラムネ菓子の白っぽい青を想い起こした。
そんなひと時の夢に浸かっていると赤と水色の視線を感じ、咄嗟に口を踊らせる。
「あの、大丈夫ですか! 倒れていたのでここまで運んだんですが……」
馬鹿か私は。死にかけている者に大丈夫とは。
しかし、彼女は晴れ青みたいな右目をちろりとも動かさずに見ているだけだった。
私は火の点いた独楽の様に慌てて言う。
「あっ、それとも布団が気に入りませんでしたか? もし寒かったらもっと暖かい……」
自分に呆れる。布団以外にも気にする部分はあるだろうに。
だが、太陽の様な左目は装飾品を思わせる不動のまま。
う、ううむ……どうしよう。どうしたらいいんだろう。
私は子供が作った泥団子みたいに恐慌に塗り固められた。
あえて違う部分を指摘するとすれば、泥より遥かに硬い位か。
しかし、その醜悪芸術も彼女が上半身を起こした事によって終わりを告げた。
「ちょっと! 無理はしない方が」
遅い反射で注意する。しかし、青空みたいな衣の体は何にも囚われない具合で動き、右手に持ったぼろぼろの唐傘をこちらへ向ける。
ずっと、開かなかった唇が開く。
「お願い、なおして」
渇いて荒くて、小さくて、けれども澄んだ声。
私は最初、その意味が分からなかったが、両目から送られるある種の力によってその意図を理解した。
彼女の唐傘をそっと預かり、承諾の合図。
「分かりました」
きっと、これがいずれ無くなってしまう命への私が出来る最大の敬意なのだろう。
さぁて、久しぶりに仕事をしよう。
私は修繕用の材料や道具を掻き集め始めた。
請け負ったのは良いが、これはひどい。
今、私は壊れかけの唐傘を見ている。
ちなみに依頼した彼女は漆喰の壁に上半身を凭れ掛れ、こちらを見ている。
唐傘はちゃんと直すので寝ていてくださいと言ったのに、少女は全く言う事を聞かなかった。何度横にしても起き上がるので、仕方なく壁に背中を支えさせる形となった。
件の物品に集中する。本当によくこれが唐傘だと分かったものだ。
普段、この仕事をしていなければ変なごみにしか見えないだろう。
まず、紙を支える竹が折れており、半分以上が使い物にならなくなっていた。
次に穴だらけの紙。穴が一部だけだったらそこを修繕すれば済む。しかし、今回は破れた部分が多過ぎるので、全て張り替えるしかない。
最後に全てを支える中心の太い竹にはいくつも亀裂が入っていた。割れていないのが不思議な位だ。
この様にして彼女の唐傘は本当に酷いものだった。
それこそ、一から新しい唐傘を作った方が早い程に。
しかし、それは出来ない。彼女の依頼に反するから。
散りかけの命が一生懸命訴えた依頼だから。
最初に傘の折れている骨を数える。
「一、二、三……」
口にしながら指差しで確認。これが一番簡単で確実な方法。
十四本目を数えていると、人差し指が竹の折れた部分に当たった。
「んっ」
私が息みたいな声の方を向くと、そこには若干体を縮ませた彼女。
指先が緊張してくるりと曲がっている。
「あの、何か?」
薄青い綿菓子髪の彼女に訊く。
しかし、答えは無くただ血の少ない顔でこちらをじぃと見てるだけ。
私はその様子に妙なものを感じたが、すぐに唐傘の痛み具合を調べる作業へと戻る。
「ええっと、確か十四まで数えたから」
いや、どこから数えたっけ?
彼女の縮んだ声のおかげでまた折れ骨を数え直す破目になった。だが、気を取り直してまた作業を始める。
「一、二、三……」
今度は無事に全て終わった。折れていた竹は三十二本中十九本だった。
次に唐傘の内側――唐傘を差す人が雨を凌ぐ部分に手を入れる。
これは唐傘の特徴である開閉機能が正常に作動するかどうかを確認する為だ。
途中、持ち手であり全てを支える中心竹の亀裂に触れ、背中越しにいる少女の詰まった声が聞こえた。だが、私はそれを無視する。
非情と言えば非情だ。しかし、彼女の声の度に応対していては、修理が間に合わないのは明らかだった。
残り時間は少ない。彼女の命も。
だから、一瞬でも早く自分を見ている少女に修理した唐傘を渡そう。
私は自分を誤魔化し、唐傘内部の開閉機能を確認する。
今は閉じている状態、開くだろうか?
持ち手部分少し上の部品に触れる。これは輪形をしており、穴に中心竹を通される形で存在している。
開閉式の唐傘だったら必ずある仕掛け。
そして、片手で持ち手を掴みながら、もう片方の手でこの仕掛けを持って上、つまり唐傘の頭にずらすと……
ばさりっ。
唐傘は、開くのだ。
ふぅ、開閉はちゃんと出来るみたいだ。
ここまで滅茶苦茶になっていたら、今日ではとても直せない所だった。
しかし、開いたとしても酷く痛んでいる可能性があるので、私は開閉機能を備えている竹に目を集中し、指を触れる。
よし、こっちも痛みは無い。ただ塗装が剥がれているだけだ。
撥水用の樹液を塗れば何とかなるだろう。
私は壊れた唐傘に起きた幸運に感謝しながら本格的な修理を心に浮かべる。
広げた唐傘の中を見たまま次の工程を思っていたが、何か違和感がする。
声がしない。あの子の声が。
何となく心配になったので彼女の方を向く。
そこにいた少女は一歩も動かずに私を見つめていたが、その表情はさっきと同じでは無かった。
ほんのりと、紅い。
命の少ない青い顔だったが、それが余計に頬の燃え立ちを大きく見せていた。
私はその表情を見ると、どうにも冷静でいられなくなってしまった。
「ええと、その……」
何故、この言葉なのか。
「ごめんなさい」
その言葉を押し付けると、逃げる様に修理の準備を始める。
ただ損傷状態を見るだけでなく、本格的な修理の準備。
竹束を手に取って細工用の小刀を使い、その中の一つを削る。
路線は違うが柿の皮を包丁で剥くのと似ている。
私が指を動かすと、鼓動の様な音を立てて材料は唐傘の骨に姿を変えていく。
形が整うと錐を手に取り、竹を穿つ。そこには、黒い円が踊る。
よし、一本目。
これを何度も行う。正直言って面倒臭いが、今はこの単調な動きの繰り返しが随分と有り難かった。
ただ、竹を削って穴を特定の部位に開けるだけで良いのだから。
小刀が思う通りに動き、錐が回転する様はいつもと変わり無く退屈だ。
だが、今は狂いなく動く指先と従順に加工される竹が何よりも貴重に感じた。
「よし」
交換する新しい骨は作り終えた。次は新しい紙だ。
私は削った竹をひとまとめにすると、張り替え用の紙群に目を寄せる。
ええっと、あの子が差していた傘の色は……
一時視線を壊れた唐傘に向ける。
紫色、いや茄子の色に近いな。
再度紙の山に意識を集中する。虹色の家族。
有るか? 茄子の色なんて。
紫なら幾らでもあるけれど……あった。
私は紙集団から需要に合った色を引き出し、その状態を確認する。
唐傘に使う紙は撥水加工、つまり油を滲みこませる必要があるので痛んでいると油を塗っても使い物にならない。
もし状態が悪ければ修理は出来ない。
さて、大丈夫だろうか?
神経が傾注した眼で茄子色の紙を見つめ回す。
私は需要の少ない紙を仕入れない自分の癖を呪った。
この、茄子色の紙は一枚しかない。これが駄目だったら……
勿論人里に買いに行ったり、他の紙を代用したりという手もある。
しかし、それでは今日中に、彼女の依頼通りに修理する事は出来ないだろう。
視界が濃い紫に染まる。暫くその世界を漂う。
うん、大丈夫だ。端は劣化が酷いけれど、真ん中を使えば問題ない。
私はちっぽけな安心感を携えて、紙を鋏で円に切る。
若干歪んでいるが、唐傘に貼れる面積があれば支障は無い。はみ出した部分は後で調節して切れば何とかなる。
大きな茄子色の丸を作り終えると、彼女を見る。
沈みかけの陽光の中で、変わらず赤と青の視線をこちらに注いでいる。
だが、その顔からは確実に血の色が去っていて、蒼い影が射していた。
急がないと。
でないと彼女は今夜中にでも……
私は修理の本格的な準備を始めた。
竹骨は削り終え、貼り付ける紙も全て切り取った。痛んだ部分を修繕する材料や道具も揃った。
あとは鍋の水が湯になれば修理を始められる。
私がお勝手にある釜戸の火を見ると、金色舌が鍋をぺろりぺろりと弄くっていた。
弾けて燃える薪は自分の心臓の様だった。
液体が泡立ち、澄んだ太鼓の音。
水が、沸騰した。
釜戸の火を消し、湯入り鍋をさっきまで作業していた場所へ運ぶ。
鍋の持ち手を着物の袖で被いながら運んだが、やはり熱かった。
畳に沸騰した鉄の容器を置く。だが、自分の間違いに気付く。
いかん、濡らした雑巾を敷くのを忘れた。
これでは火事になってしまう!
慌てて雑巾を引っ張り出して水に浸ける。そして、それを畳に敷き、さらにその上に熱い鍋を乗せる。
ふぅ、気付いて良かった。
さっきまで間違って鍋を置いていた場所を見ると、丸型の焦げが付いていた。
あぁ、危なかった。
本当に火事になる所だった。いつもはこんな失敗しないのに。
やはり、いつもと違って水色の少女が背中を見ているからだろうか?
鍋から温かい霧、湯の蒸発体、白い幽霊が立ち昇る。
よし、修理だ。
私は唐傘の頭の頑丈に縛られた紐を糸切鋏で断ち、開閉部の頂を守る黒い紙を外す作業に取り掛かる。
「んんっ……ぅ」
背中越しの声を無視する。頭の紙は無事に取れた。
これも大分古いので後で交換しないといけないな。
私は刷毛を持ち、茶毛の部分を湯に浸からせる。
それから、温もりのある湿った刷毛で壊れた唐傘の紙をなぞる。
「いっ」
刷毛が滑る度に声が響く。だが、聞こえないふりをして作業を続ける。
今の私は唐傘の紙を湿らせ、唐傘だけを見ている。
しかし、水色の少女の刻む囁きで、はっきりと分かる。
この少女は今も命を零し、苦しんでいる。
私はそれに何も出来ないのが痛ましく、悔しかった。
紙が充分に湿ったので刷毛を傍らに置き、唐傘の骨に付いている糊の様子を触れて確かめる。
指の腹にぬるぬるとした感触がする。骨に付いた糊が湯で溶けた証だ。
私は茄子色を力強く掴み、乱暴に剥がす。
「いっ! あぅっ……」
誰かの声なんて聞こえない。幻聴だ。
私はふやけた茄子色の皮を引き剥がす。
「んぅっ、ぃ、たっ!」
これは声ではないのだ。別の何かだ。
残りの茄子色はあと僅か。一気に取り除く。
「あぁ……あ、あっ、あぁぁあぁぁ……」
一瞬、声が止まったかと思うと、言葉の姿を取らない痛みが響いた。
それはまるで、綺麗な水晶を残酷に噛み潰した様だった。
もう駄目だ、我慢出来ない。
私は心配を不安で煮詰め、慌てて彼女の元へと寄った。
「どうしたんですか! 苦しいんですか!」
声を受けたラムネの頭はこちらを向く。
その顔は誰がどう見ても蒼く、死が近くなっていた。
右の青い眼には涙が輝いていて、泣いている様に見えた。
私はその視線を見てもう唐傘の修理は止めようと思ったが、一瞬後に考えを改めた。
それは、何故かというと……
左の赤い眼には意志が燃えて、必死に何かを語りかけていたから。
彼女は何も喋らなかった。だけど、確かに聞こえた。
『だいじょうぶ、つづけて』
細くて、今にも消えてしまいそうな言葉が。
『なおして、わたしのからかさ』
殆ど妄想に近い。しかし、私は確信を持って答えた。
「はい……分かりました。続けます」
それが迷い道の標であるが如く。
私は彼女から離れて唐傘の修理へ戻る。
もう、修理が間に合わないのでは、という不安は無かった。
ただ、この子の為に直そう。
今ここにある唐傘を。
何も考えずに恐れずに。
私は骨が剥き出しになった唐傘を手に取る。
まずは分解しなくては。
唐傘のありとあらゆる部分を纏めている紐を糸切鋏で刻む。
ぷちん、ぷつりっ。
何度も何度も。
それに合わせ、彼女の声が耳に滲みこんでいく。
何度も何度も。
唐傘の繋ぎを切断し、慎重かつ乱暴に骨を取り外す。
迷う事無く。
彼女の息遣いが見える。荒く、早い。
背中を氷みたいな眼と林檎みたいな球体がただただ一途な光で見つめているのが聞こえる。
唐傘はばらばらに解体され、今ではただの部品が散らばっている。
竹の中から最も大切な部分――中心軸であり持ち手の部分を手に取る。
私はその亀裂を小刀で削り、修復しやすくする。
彼女の体は強張る。何もできない子鼠の震えで。
削った割れ目に接着液と植物の栄養剤を混ぜた液体を塗り込み、少し小さめの若く青い竹をはめ込む。更にずれたり取れたりしない様に糸で縛る。
こうする事により若い竹は根が無くても成長し、開いた割れ目を埋める。いわば、接ぎ木の要領と一緒だ。
わたしは全ての亀裂にこの処置を施すと、大きく息を吸って瞼を閉じた。
ほんの少しだけの休憩。
瞼の裏に、一人の女の子が浮かぶ。
ラムネ色の髪と細くて取れてしまいそうな手足、青い眼と赤い眼が収まっている宝物みたいな顔がこっちを見てる。
「よし」
私は眼球を明るみに出して丈夫な繊維と尖りある金属を手に取り、無事だった竹と新しく作った竹を掻き集める。
私は針の穴に糸を通す。
裁縫は苦手だ。いや、出来るが好きではないと言った方が正しいだろうか。
でも、竹と竹を糸で繋ぎ留めるのは得意で、大好きだ。
錐で穿たれた骨と骨、持ち手と骨を糸針で一つにする。
膨大な唐傘の部品。悩ましい未完成の欠片。
だが、自分にはどこがどこの部位なのか一目で分かる。
唐傘を作っているから当たり前だと言われるかもしれない。
しかし、そうだとしても不思議なのだ。
まるで、竹の部品が語りかけてくる様に分かるのだから。
私が糸付き針を骨に通し、持ち手に組み合わせると、水色の彼女は壊れた笛みたいに声を上げた。
私は糸付き針を竹に絡ませ、からくりの部分にくくりつける。
彼女の青く澄んだ右目が涙を浮かべて自分の背を弄くり廻す。
私は鋭利な刃の付いた紐で、依頼された唐傘を繋ぎ合わせる。
彼女は赤くぼんやりした眼で、こちらの指先を舐めてくる。
おかしい、どうなっているのか。
私は彼女を見ていないで唐傘の修理をしている筈なのに。
どうしても見えて、触って、感じ取ってしまう。
背後にいる少女の命を。
だが、中断する事はできない。彼女の頼み以前の問題で。
唐傘を直す指が、止まらない。
まるで、唐傘を直している傍ら自分が別の生き物に作り変えられている様に。
血が、火に触れたみたいに焼け付いて、一つの事しか考えられなくなる。
それは彼女の事、彼女の持っている唐傘の事なのかは分からない。
でも、とにかく私は『お願い、なおして』という声の響きだけを考えていた。
裸色をした唐傘の部品を糸で一つに纏めると、私は彼女の動きを嗅ぐ。
どんな花でさえもちっぽけに感じる香り。
悩ましげな唐傘に薄い樹液を滲みこませると、私は彼女の感触を見つめ回す。
如何に綺麗な虹よりも綺麗な輝き。
華奢な唐傘の骨に茄子色の紙を貼り合わせると、私は彼女の鼓動を掴んだ。
どの楽器よりも澄んだ響き。
濃紫の衣を着た唐傘を油の付いた布で撫でると、私は彼女の視線を食べる。
流れる血が蒸発しそうだ。
繊細で籠の如き唐傘の頭を黒い紙で包み、紐で解けないよう頑強に縛る。
自分は、彼女の湿り気の、ある息を舐めた。
ちろちろした、美しい、命の味だ。
私はとにかく直して直して直して直した。
その度に彼女の感触や息遣いが近くなっていく。
もう、唐傘を直しているのか、彼女を見ているのか、はっきりしない。
私が指を動かすと、唐傘と彼女が溶け合っていく。
私が唐傘を修理すると、目前の現実が歪む。
私が唐傘に触れると、少女の脈打つ泉が見える。
それはとても激しくて、儚くて、繊細な水面。
あぁ、指が勝手に踊って奏でている。
この世では決して見ることの出来ない演劇を。
もう、どれが彼女で、どれが唐傘で、どれが自分なのか分からない。
そして、私はそれに抗えず、熱い鼓動の溜まりに沈み込んで行った。
どれ位の時間が経ったのか。
家にはもう陽の恩恵は消え去っていて、闇が差し込まれていた。
私の視界はやっといつも通りの世界に戻った。
目の前には修繕されて新品同然となった唐傘。糊はまだ乾き切っていないが完成した。
私は彼女に振り向きながら依頼を終えた合図を送る。
「終わりましたよ!」
しかし、その先には壁の支えを失って、布団にうつ伏せになっている少女がいた。
「あの、出来ましたよ? 起きてください!」
私は慌てて彼女に寄って声を掛けたが、水色頭の瞼は開く様子が無い。
「起きてください! 修理は終わりましたから!」
乱暴だが抱き起こして肩を揺する。でも、彼女は返事をしないで薄い息をしてるだけだった。
黒い夜でもはっきりと分かる白い顔。
命が全く走っておらず、新鮮な死が根を伸ばし始めている。
この子は目を開きそうに無い。
もう、二度と。
「そんな……」
間に合わなかった。
あんなにも彼女が願っていた依頼に。
頭に陰気な質量が圧し掛かり、己の小ささに俯く。
結局、私はこの子に何もしてやれなかった。
最も得意な唐傘であっても。
やはり、自分はただの自己中心的で冷めた生き物だった。
私は彼女を布団に寝かせると、両の掌で視界を覆って目を閉じた。
眼よ、何も触れるな。耳よ、誰も招き入れるな。
無価値な心を守る為に頭が働き、言い訳。
自分はこの少女とは何の関係も無い。
ただ唐傘を直しただけだ。
そうだ、ただの他人だ。死んだってどうって事無い。
亡骸を葬ればいいだけだ。
ただ彼女に出会った不幸な他人として。
頭は彼女との距離を遠ざける思考をするが、反比例して胸が痛くなっていく。
もう、私は疲れた。眠ってしまおう。
そして、全て忘れ去ってしまおう。
自分勝手な思考が暴れまわるが、やはり心が軋む。
ぬるま湯の如き疲れと闇に自分を委ね、沈む意識に救いを求める。
ああ、そうだ、このまま眠ってしまえば
「……よ……で」
びくりとしてその細い声がした方を見る。
そこには布団がはだけ、左手を突き出している少女。
そうだ、彼女が死んだら全て忘れてしまおう。
でも、その前に、今だけは……
私は彼女の手を見つめた。
もう、偽の体すら動かない。腕も、脚も、瞼すらも。
もうすぐだ、もうすぐわたしは死ぬ。
これでお終い。このくだらない命は。
だけど、一つだけ疑問が残る。
何故、わたしはあの人間に自分の身体を託したのだろう?
人間なんてみんな信用できないのに。
痛みが体を伝い、あの人間との治療風景が浮かぶ。
結局、あの人間はわたしを治してくれなかった。
その証拠にそこらじゅうが痛い。
ただ、自分の恥ずかしい所を見られて、ばらばらにされただけだ。
全く、わたしって馬鹿だな。
いつもなら人間への怒りが燃えるのだが、今はどうでも良くなっていた。
思えば長かった。わたしの人間への恨みは。
確か、あの頃からだっけ……
記憶が昔へ飛ぶ。まだ、からかさお化けになる前の出来事。
人間がわたしを握っている。
その温度はいつだって温かくて、自分を安心させた。
わたしの役目は大切な人間を雨粒から守る事。
落ちる水滴は冷たかったけど、持ち手を握る温もりで頑張る事が出来た。
そうだ、わたしは裏切られる事は無いんだ。
絶対にこれだけは変わらない。
だから、わたしは雨粒から守ろう。大切な人間を。
ずっと人間を雨風で濡れないように守るんだ。
あの手の温もりを守る為に。
ただの唐傘だったけど、人を信じ、愛する心はあった。
決して、揺らぐ事は無いと思っていた。
だけど、あの日だ。
あの時、あの瞬間。
わたしの体から、人間の温もりは離れた。
今でもその理由は分からない。捨てたのか忘れられたのかさえも。
でも、健気にわたしは温もりを待った。
生まれてきて一番長い時間。
きっと、空がずっと晴れているだけなのだろう。
この頃のわたしは化けていないので眼が無かった。
だから、自分のいる場所が何処か全く知らなかった。
待っていれば、きっといつか差してくれる。
しかし、わたしを包み込んでくれる人間は現れなかった。
それどころか……
ぽつりっ、ぴちゃ。
うわわ、冷たい!
でも、やっとわたしを差してくれた。
うれしいな。
はじめ、わたしは水気のある凍えに触れて、愛する人間が戻ってきたのだと思った。
しかし、どうした事か温もりが無い。
わたしを包み込むあの手が。
となると、わたしは差されていない。
どうしてだろう? 雨が体を打っているのに。
わたしが謎を紡いでいても、雨粒は体にぶつかる。
ぴちゃり、ぽちゃっ。
冷たい、つめたいって!
雨を防ぐ筈の唐傘なのに、打ち付ける雨に怯えた。
人間の温もりが無かったから。
やめて、誰か助けて!
わたしは人間に助けを求めた。だけど、冷たい水滴は止まらない。
なんで、わたしを差してくれないの?
なんで、こんなに冷たいの?
わたしは疑問を人間に投げ付けたが、誰も答えてはくれなかった。
びゅうぅ。
風が吹いて体が持ち上がり、わたしは気付いた。
ここは、家の中じゃあ無い?
それじゃあ、今までわたしはずっと外に?
つまり、ずっと前から……
捨てられていた?
裏切られた?
いや、もしそうだったとしても助けてくれる。
これは、何かの間違いだ。
人間がわたしを捨てる訳が……無い!
わたしはその事実に殴られても人間に助けを求めた。
それしか頼れるものを知らなかったから。
手も足も無いのに、とにかく想いを伸ばして人間の手を求めた。
声も出ないのに、言葉で訴えた。
『いやだよっ! 捨てないで!』
いる筈も無いのに人間を呼んだ。ただひたすらに。
でも、わたしの愛していた温もりは一向に叶わず、冷たい雨が体を打つだけだった。
人間に支えられずに受ける雨はどんな水よりも冷やかで重たかった。
まさか雨がこんなにも冷たいものだったなんて。
わたしは茄子色の紙がびしゃびしゃになってから、自身の行為が無駄だと悟った。
そして、はっきりと人間に捨てられたと実感する。
もう、わたしは誰にも差されないだろう。
捨てられたから。
それも、とても簡単に、あっさりと。
きっと、自分を支えていたあの温もりもその程度だったのだ。
その事を思うと、心の中から何かが崩れていく。
今まで満たされていた愛が、信じるに足りていたものが、溶け出していく。
流れる雨水と一緒に。
わたしは一生懸命掻き集めた。指も掌も無いのに。
だけど、そんなわたしを馬鹿にするみたいに簡単にそれは滑り落ちた。
まるで、最初から無かったみたいに。
やがて、わたしの心は空っぽになって何も無くなった。
温もりも、信じる事も、喜びさえも。
しかし、それもほんの一瞬で、今度は別のものが流れ込み、空っぽの心を埋め始めた。
わたしは流れ込んでくるものに縋った。
とにかく、この空虚を防げるなら何でも良かったから。
心は別のものが流れ込んであっという間に満杯になった。
だが、どうした事だろう。
わたしに埋め込まれたこれは。
痛く、不安定で、重苦しい。
心が、苦しい。
したくもないのに、人間に対する憎しみ。
味わいたくもないのに、自分に対する悲しみ。
辛い、つらい、ツライ。
このままでは、どうにかなってしまう。
苦しい、全てが。
心が軋んで、嫌な音がする。
このままでは、生きていられない。
じゃあ、どうすればいい?
わたしは苦しみの中で足掻く。そして、痛みを誤魔化す為に一つの案を生み出す。
それは、何ともちっぽけな提案。
わたしは恨んだ。
ただただひたすらに恨んだ。
最も愛していた人間を。
ああ、なんて寂しい生き方だろう。
でも、そうしなければ生きていられない。
裏切られてしまったのが辛くて。
わたしが人間に対する恨みを燃え上がらせると、雨粒の冷気が薄まって温もりが宿る。
その熱は人間の手みたいな安心は無くて不安定だったけど、わたしは恨みを薪にして心を燃やし続けた。
そうしないと雨の寒さが厳しかったから。
雨粒が体を打つ度にわたしは愛する人間を恨んだ。
ただひたすら、自分の心を消さないように恨みを燃え上がらせ、雨粒の凍えを凌いだ。
その日の雨は長く、まるで誰かが嘆いている様だった。
やがて、雨は止んだ。
しかし、自分を拾う者はいなかった。
わたしはその後も雨が降る度に人間を恨んだ。
生きる為に、寂しく思いながらも。
馬鹿みたいな年月繰り返した。
そしてわたしは……
からかさお化けになったんだっけ。
意識が今の状況に戻る。瞼裏の暗闇。
しかし、一つだけ疑問に思う。
何故、あの時わたしはあんなにも生きたがっていたのか?
愛する事すらも止めて、一体自分に何が残っていたのか。
人間に仕返しをする為?
いや、それもおかしい。
結局わたしはただ人間を驚かせるだけだった。
機会さえあれば、いつでも殺す事だってできた筈なのに。
少なくても、自分が受けた仕打ちを同じ様に人間にしてもいい筈なのに。
ただ、驚いた人間の顔を見つめるだけだった。
何故だろう?
今までこんな事は考えなかったのに。
わたしは暫く謎に触れていたが、どうでも良くなった。
まあ、別に分からなくてもいいか。
どうせ死んで、すぐ楽になれるから。
生きる為に恨まなくていいのだから。
自分が死に浸かっていく感覚がする。でも、不思議な事に恐れは無かった。
それどころか、わたしは次に生まれ変わった時の自分を描いていた。
次は、どんな姿をしているのだろう?
どういう生き方をするのだろう?
途切れる事の無い想像と理想は不定形で、すぐに姿を変える。
でも、一つだけ姿を変えないものがあった。
それは、絶対に外せない願い。
もう、二度と捨てられたくないな。
裏切られることも。
もう冷たい雨に打たれて恨むのはごめんだ。
苦しくて、つまらないし。
できれば、もう人間の温かさには触れたくないや。
あの温かさのせいで、わたしは悲しんだのだから。
わたしは消えかけの命で人間を否定した。しかし、すぐ後に素直な言葉。
でも、あの手は温かくて安心したなぁ。
薄れる意識の中であの温度を思い浮かべる。
ほかほかして、心の奥が熱くなる。
でも、すぐに馬鹿馬鹿しくなって、頭から追い出す。
だって、今更どう思ったって意味が無いから。
わたしは思考から温もりを消した。
しかし、熱さは無くならない。
わたしは心から温もりを取り払う。
でも、あの温度は消えない。
わたしは命から人間の優しさを振るい落とす。
だけど、そこにあった。
何故、何で無くならないの?
わたしは消えない熱さに謎を覚えた。
まるで、誰かが自分に温もりを与えているみたいだ。
特に、偽の体にある左手が熱い。
なにが、起きているの?
わたしは残りの命を勿体無く使って瞼を開く。
でも、ぱっちりとは開かなくってほんの少し視界が現れるだけ。
眼を左腕へと動かして見る。
そこにいたのは……
人間?
わたしを治そうとした人間が自分の手を握っている。
何故、人間が?
わたしは疑問を抱いたが、すぐ左手の温もりに嫌悪の考えを示した。
放せっ!
手なんて握られたくない!
捨てられた過去を燃え上がらせ、目前の人間を恨む。
わたしはこの温かさのせいで……
手を握った人間に対する敵対の念はそこで止まった。
ぽたりっ。
何で? 嫌いなのに……
もう、おさらばできると思っていたのに。
わたしの眼から、雨粒が零れ落ちた。
何故、わたしは泣いているの?
どうして、握られた手が熱いの?
人間は一心にわたしの手を握り、祈る様に目を閉じていた。
なんで、今更わたしに優しくするの?
遅いよ……こんな事になるまで何もしてくれないなんて。
思考は悪口を並べ立てるが、心と瞼の隙間から落ちる輝きはその逆だった。
不思議だ、今までこんな事は無かったのに。
こうやって泣いたのは初めてだ。
心が熱く震え、今まで溜め込んでいた何かが溢れ出した。
焼け付く涙が、止まらない。
まるでこうしているのが最も正しいかの様に。
わたしと人間を繋いでいる部分が温かい。
もう、とっくの昔に諦めた筈の温もりなのに。
……ああ、そうか。
その熱で、やっとわたしは自分が生き続けてきた理由を知った。
この温もりの為だったんだ。
わたしが人間を恨んでまで生き延びたのは。
驚かせるのはただ人間に近づく手段だった。
結局、わたしはどこまで人間を恨んでも、想っていた。
愛されたかったのだ。
捨てられ、どんなに裏切りの雨に殴られても忘れる事が出来なかった。
あの温もりを。
そこまで分かると、心が何にも囚われない幸せに笑う。
ふふ、変なの。愛される為に恨むだなんて。
とんだ、捻くれ者だ。
でも……
左手から人間の温度が伝わり、心に刺し込まれた痛みを押し出していく。
すごいな、今までずっと苦しんでいたのに。
まるで、ただの冗談だったみたいに消えていく。
わたしの心は、ずっと求めていたものに満たされた。
人間の愛に。
だが、どんなに人間の掌が温かくても、流石に体の痛みは無くならないらしい。
いたた、もう、駄目か。
意識がどんどんぼやけていく。不思議と恐れは無く、穏やかだった。
温もりに包まれて瞼を下ろす直前、思った。
あぁ、やっぱり、まだ死にたくないや。
もっと、この愛に……
ほんの一瞬の、最大の我儘。
優しい歌に包まれて、わたしは眠った。
誰かが私の肩を叩いている。
うるさい、今は仕事の後で疲れているんだ。
「起きて、もう朝だよ!」
聞き覚えのある声。随分と体が重たいが瞼を開き、その方向を見る。
「えへへ、おはよう!」
朝陽を纏って挨拶する水色の少女。その顔には元気な色が広がっていた。
私はそんな様子の彼女を見て嬉しい心になったが、すぐに涙の心になった。
だってこの子が生きている筈なんて無かったから。
きっと、今見ている彼女は悲しい夢なのだろう。
わたしがそんな想いで見ていると、少女は赤い眼を輝かせて言った。
「ねぇ、わたしの唐傘は?」
反射的に口を踊らせて、依頼品の状態を告げる。
「ええ、直し終えましたよ。今、持ってきますね」
そうだ、せめて夢の中だけでも彼女の頼みを果たそう。
わたしは昨日修理した場所へ向かい、少女の願いを手に取った。
そして、水色の彼女に手渡す。
「どうでしょうか? 唐傘の具合は」
赤と青の視線は畳まれた茄子色の雨具を真剣に見つめている。
「もう、開いていいの?」
まだ完全に乾燥していないが、開閉するのには問題無い。
「ええ、どうぞ。まだ、糊が完全に乾いてませんけど」
その意味を耳にした彼女は慎重さを表立たせて答えた。
「そう? じゃあ」
少女は唐傘を下に向け、左手で持ち手を握り、開閉する部分に右手を触れて頭の方へとずらす。
そうすると……
ばしゅり。
唐傘は開くのだ。まだ糊が乾き切っていないので湿った音。
下向きに開いた茄子色の円は持ち上げられて、彼女の上に舞った。
よし、この子はちゃんと開閉の仕方を分かっているみたいだ。
下向きに開閉しないと唐傘の骨が痛むからね。
わたしはこんな夢の中であっても客の唐傘の扱いに注意を注いでいた。
開いた雨具の内側に彼女はじぃと視線を貼り付けている。
もしかして、私の仕事が気に入らなかったのか?
わたしは不安混じりの声を送る。
「あの、大丈夫でしょうか? 何か、気に入らない所でも……」
その声に気付いたのか、水色の少女は唐傘を閉じて、こちらを向いた。
「いいや、何も問題無しだよ。完璧!」
私はその響いた声音を受け入れて、安心した。
「そうですか、それは良かった」
口は良かったと言っていたが、心は凍えたままだった。
だって、もう彼女はいないのだから。
でも、そんな自分の心も気にせずに彼女はこちらを見つめる。
少女は暫く視線を合わせたり合わせなかったりの繰り返しをした後、ふよふよと浮かぶ綿の様に口を開いた。
「えっと、あの、その……」
一瞬、声が詰まったように止まると
「ありがとう!」
感謝の言葉。
顔に収まった赤と青の視線が輝いてこちらへ届く。
笑顔を作った頬に僅かな陽の色。
正直、私は嬉しかった。
とてつもない程に。
だが、ある認識が自分を幸せにしなかった。
彼女は、もういない。
これは、ただの夢だ。
美しい世界を絶望の国へと変えるにはこれだけで充分だった。
そう、今どんなに輝いていても彼女は。
現実では……
「君は、幽霊かい?」
私は訊いた。美しい夢を解き解して、現実に同調させる為に。
「いいえ、妖怪ですけど?」
ある意味正解。しかし、私の質問には不正解のようだった。
「そうですか、失礼しました」
彼女は自分の声に何がなんだかといった顔をする。
私はそれを見てよく出来た夢だと思った。
これが、現実だったらいいのに。
目が覚めてしまえば、もう元気な彼女に会う事は叶わないのだろう。
だったら、その前に……
私は彼女の右手に触れた。
「えっ?」
温かく、どんな衣よりも柔らかい肌をしていた。
でも、自分の欲張りな手はそれだけでは満足できなくて。
「なな、なに?」
掌、手首、腕、肩、そして……
「わっ!」
彼女の体を抱きしめていた。
どうせなら、夢と一緒に消えてしまうなら。
感じ取ろう、彼女の全てを。
水色の髪は透き通った雲の香りをしていて、ほんわかと心地良かった。
彼女の鼓動は小さくて静かだったけど、綺麗で確かな音色だった。
私は眼を閉じて水色の少女を感じ取っていたが、体が彼女に押されているのに気付いて抱きしめるのを止めた。
「う、ううぅ……」
彼女の頬がさっきと比べものにならない程に赤い。
火が点いた様になって震えている。
何と、愛らしいのだろう。
そして、右の握り拳を私の左掌に乗せて、言葉を放った。
「あ、あぁあぁのっ! こ、これ」
その声と同じくして私の手に軽い重量感の銭が落ちる。
「ちりうひです!」
小さな暴れ花火の如き声。しかし、私はそれに疑問に思った。
治療費? 修理代の事じゃなくて?
頬を真っ赤にさせた少女は言葉を続ける。
「も、ももも、もう帰りますっ! さよならっ!」
彼女は喋り終えるとそのまま玄関へと走り、私が揃えた下駄を履いてそのまま外へと出て行ってしまった。
「あっ、ちょっと!」
私はその後を追ったが、彼女の背が米粒みたいに小さくなるのが見えただけだった。
でも、安心した。
よかった、元気そうで。
だけど、この夢が覚めれば彼女は……
瞼が開く、そこは家の中。
気付いていたが、やはり夢だった。
きっと、私は唐傘を修理した後すぐに眠っていたのだろう。
自分はもう元気な彼女がいた夢の囲いからは追い出されてしまった。
楽しい想像の後には黒く濃い現実が待っているのみ。
彼女は、もう生きていないのだ。
まだ、見てはいないけれど冷たい体で。
誰にも、施しも温もりも与えられずに。
この世の非情に挟まれて、死んだ。
私も、その非情の一つだ。
塞ぎ込んで、自分の感覚を遮る。
ずっと辛い現実に縛られて止まっているのも良かった。
しかし、まだ彼女の亡骸の件が残っている。
わたしは立ち上がってあの少女の布団を見る。
その瞬間はおかしな事に、長かった。
もう、彼女が死んだという結果が分かっているのに。
眼球の先には死が射し込んで白くなった彼女の顔があった。
あれっ?
これは、どういう?
いや、違った。彼女が寝ていた布団は空っぽで何も無かった。
彼女は一体何処に?
予想していない事態に自分の心は大いに戸惑った。
「と、とりあえず何処に行ったのか確かめないと」
私はなんとも変な話だが家中を捜し回った。
しかし、彼女どころか直した唐傘すらも見つからなかった。
どうなっている?
あの子は死んで何処にも行かない筈なのに。
私は生まれてから最大の謎に直面していたが、左手に妙な違和感を感じた。
何故、自分は握り拳なんかしているのだろう?
疑問を解く為に曲がった指達を広げる。
ちゃりい。
何かが音を立てて畳に落ちた。
「何だ、これ?」
私は掌から零れたそれを屈んで見つめた。
最初、それが何か分からなかった。だが、時間が経ってそれが何かを理解する。
私は笑った。
馬鹿みたいな大声上げて。
畳の上に落ちたのは銭だったのだ。
それも、蒼い錆が湧いて使い物にならない程に古い銭。
「これじゃあ、修理代にも『ちりうひ』にもなりゃあしない!」
夢ではなかったのだ。あれは。
彼女を抱きしめた事も。彼女が私に銭をくれた事も。
そして、彼女が生きているという事も。
何故、彼女が元気になったのか、自分には全く分からない。
しかし、私は散らばった銭を掻き集め、涙を零しながら語り掛けた。
「でも、よかった、本当に。生きてて」
その声を受けた銭山は錆びだらけで金としては無意味だった。
でも、持ち主の確かな感謝で鈍く光っていた。
思いっきり走った。後ろを向くと、もうあの人間の家は見えない。
ふぅ、びっくりした。
いきなり抱きついてくるんだもの。
「まさか、こっちが驚かされちゃうなんて……」
わたしはあの人間、いや、あの人に触られた部分を指で静かになぞる。
でも、あの手は、あの温もりは。
「温かかったな」
まだ、熱くなったままだ。
もう、かなりの時間が過ぎたのに。
もしかしたら、ずっと続くのだろうか?
以前のわたしだったら嫌だと思っていただろう。
しかし、今のわたしはその事がとても嬉しかった。
やっぱり、わたしは人を愛していた。
捨てられ、裏切られてもあの優しさを諦め切れなかった。
わたしは自分の心を真っ直ぐに見つめ、何処にでもなく問い掛けた。
「ねぇ、これから何をする?」
その問いには即答。今まで通り。でも、今までとは違った明確な認識。
そんなの決まってる!
わたしは今日も恨もう。
自分勝手で冷めた憎たらしい人間を。
わたしは今日も愛そう。
悪戯に心を熱くする優しい人を。
わたしは縮まっていた唐傘――本当の体を開き、からからお化けに変化する。
ぎょろり一つ目、真っ赤な大舌。
「ようし、準備完了! 頑張ろっと!」
わたしは偽の体の下駄足で地面を蹴り、宙に舞う。
そして、そのまま青い空へと陽気に飛ぶ。
「さぁて、驚かそう! 今日は誰にしようかな?」
わたしは弾む心を抱えながらラムネ色の空を進む。
その心は不思議と生きる源に満ちていた。
表情をころころと変える大空に茄子色の傘一つ。
この傘は普通の傘ではなかった。
その傘には心があり、変な目と舌が付いている。
おまけに人間を恨んでおり、とんだ捻くれ傘。
だが、その傘は輝いていた。
愛しい人への絶えぬ愛で。
唐傘を直す描写は実際とは色々違います。ファンタジーです。
だから、排水口の中に唐傘職人の方がいたとしても生温かい視線で見守ってね!
タダヨシ
- 作品情報
- 作品集:
- 10
- 投稿日時:
- 2010/01/17 12:36:17
- 更新日時:
- 2010/04/24 21:09:29
- 分類
- 小傘
- エロは無い筈
- グロは無い筈
- 長いのでお時間のある方向け
という冗談は置いといて…いやぁ、いい話でした
作者に感謝と敬意を。
幻想郷があって良かった。
こういう素晴らしいクオリティの話がたまに投下されるから産廃はやめられないんだよ
ありがとう作者
ここまで流れが綺麗だと、まるで何かの音楽を聴いてるかのようにリズム良く読めますね
小傘の様々な要素が凝縮されていて面白かったです
相変わらずタダヨシさんのファンはやめられません、これからも頑張ってください
あれ?世界まで滲んでるじゃねーか、どうなってんだよ全く・・・
その後、小傘のエロ同人誌を読んでオナニーをしよう。
きっと爽やかな気分になれる。
イイハナシダナー
過言ではありませんw 傘を直してくれたことよりも、きっと人間が小傘のことを一生懸命に
想ってくれたことが彼女の命を繋いだんじゃないかなと信じてる。
これ同人のシナリオとしても最高レベルですよタダヨシさん!
すてきなコメントありがとう!
でも、他の欝グロSSを燃料がわりに読んでるというのはだめだよ!
産廃創想話に書いてるお話はみんな素敵で立派だよ!