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『熟柿のノスタルジア』 作者: pnp
幻想郷が冷夏につつまれた。
冷夏と言うのは、読んで字の如く、冷たい夏――例年と比べて気温の低い夏の事を言う。
以前にも日光が遮断され、冷たい夏が幻想郷に訪れた事があったが、この冷夏と過去の冷夏では、原因が違う。
今回の冷夏の原因は、幻想郷のどこかに隠れ住んでいる、雪女の仕業であった。
それも、単なる気まぐれである。
少しだけ冬を早めて、より長く活動したいと不意に思い立ったのだ。
異変として博麗の巫女に感知されないよう、少しだけ幻想郷の寒気を操り、冷夏を完成させた。
厳しい暑さを覚悟していた幻想郷の住人達は、この夏を喜んでいた。
しかし、何事も普段通りに事が進まないと、必ずどこかに綻びが現れてしまうものである。
この冷夏も例外ではなく、大きな綻びを生じさせた。
それは、低気温による農作物の不作である。
外界のように農業の技術が発達していない幻想郷では、自然災害への対処方法がほとんど確立されていない。
故に、この突然の冷夏は、幻想郷を飢饉に陥らせた。
過去に吸血鬼が起こした、人為的かつ不自然な冷夏と違い、これは雪女が起こした正真正銘の『自然災害』である。
妖怪退治を生業とする、博麗の巫女や守矢の巫女に解決できるような出来事ではない。
境界を操るスキマ妖怪は変なところに拘りを持っていて、自然の出来事に干渉する気は無いの一点張り。
頼みの綱であった歴史を喰らう人間好きな半獣も、スキマ妖怪が自然に干渉しないと言っているのなら、自分も手出しする訳にはいかないという結論を出した。
自然に抗う術などない。
これは、ある瞬間から時を止めている幻想郷でも、日々邁進していく外界でも一緒だ。
そして、都合の悪い事は何かの所為にして鬱憤を晴らしたい、と言うのも、幻想郷も外界も同一である。
外界でこれを達成する事はできない。
鬱陶しい向かい風に、夏の極暑に、冬の極寒に怒鳴り散らす愚か者など、外界にいる筈がない。
しかし、幻想郷には、凶作をある者の所為にする事ができる。
豊穣の神、秋穣子である。
*
冷夏が過ぎ去り、秋が訪れ、その秋も終わりに近づいていた。
一層冷たさを増した風がぴゅうぴゅうと音を立てて吹き付ける。
そんな風を受け、秋静葉は、思わず身を縮めた。
風には色も形も無いと言うのに、彼女は忌々しい目つきで、吹き抜けていった風を睨み付けた。
虚空を睨むその様は、第三者の目に映れば、さぞ異様に映ったであろう。
しかし今の彼女にとって、冷風――及び冷気は、何よりも忌むべき存在であった。
最愛の妹の信用を落とせるだけ落としてくれた、忌々しい冷気。
とっ捕まえて怒鳴れるようなものでもなく、結局やりようのない怒りと、近いうちに消えてしまうかもしれない妹への不安だけが静葉の胸中に芽生えた。
彼女は帰路を進む脚を速めた。妹を一人にしては可哀想だと思ったからだ。
秋姉妹の住まう住居は、森の中にある。
春は花々に囲まれ、夏は茂る木々の葉が陽光を防ぐ。
秋になると豊かな実りと紅葉でこの季節のいい部分を余す事無く味わえる。
姉の静葉も、妹の穣子も冬を好まないので、冬はどこにいても陰鬱な時でしかない。
そんな二人のお気に入りの場所も、今の気分からすれば、映えるものなど何一つとしてなかった。
「ただいま」
静葉がそっと扉を開け、妹に帰宅を知らせる。しかし、返事はない。
日が落ちかけている上に、森の中にある住居なので、家の中はとても暗かった。
明かりが点いていないのだ。そんなものは愚か、冷え込みが激しくなっているにも関わらず、暖炉には火種すら見えない。
「穣子。明かりも点けていないの?」
そう言いながら静葉は、玄関扉の付近に置いてある棚に常置している蝋燭に火を灯した。
小さな明かりだが、そう広くない二人の家の中を照らすには十分であった。
蝋燭の火が闇を打ち消し、そこに潜んでいた全てを照らし出す。
机。椅子が二つ。棚。花瓶。花。暖炉。
穣子は椅子に座り、目の前にある机を眺めているような体勢でいた。
「穣子」
静葉が声を掛ける。しかし、やはり返事はない。
姉が帰ってきた時点でずっとここにいたのは確かだ。それなのに彼女は、何も言わなかった。
「おかえり」の一言すら発していない。
だが静葉は、穣子が気分よく「おかえり」なんて言える精神状態ではない事は分かっていたので、それ以上何も言わなかった。
黙って暖炉に火を付け、部屋を暖める。
「今日は冷えるね」と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
「冷える」とか「寒い」とか、そんな言葉は今はご法度である。
等身大の精巧な人形と見紛うかの如く、穣子は微動だにしない。
だが、暖炉に火が灯ると、そちらにゆっくりと首を回し、机から火へと視線を移した。
何かを見ているようで、結局何も彼女の目には映っていない。
ただ、暖炉の火は暗い部屋の大きな光源となっているので、自然とそちらに目が行ってしまっただけのことだ。
静葉は夕食を作り、机に並べた。
人里に売られている、数少ない秋の味覚を使って、いかにも秋らしい夕食を作った。
知っての通り今年の秋は、作物の収穫量が少ない。
それが原因で穣子は信用を失い、こうして気落ちしているのだから。
故に、今回の夕食はかなり値が張った。だが、穣子を元気付けるのに、金銭の事など気にしていられなかった。
そんな、妹を気遣う姉が作った豪勢な夕食を目の前にしても、穣子の反応は薄い。
炊き立ての新米と、さつまいも入りの味噌汁を二人分配膳し、静葉も席に着いた。
「穣子、ご飯にしよう?」
そう静葉だ言っても、穣子の視線は床へと落ちている。
「ほら。さつまいも、好きでしょう? 沢山食べて、元気を出して」
「お姉ちゃん」
静葉の精一杯の励ましの言葉を遮り、穣子が口を開いた。
「私は、消えちゃうのかな」
信仰を失った神様は、その存在が消滅してしまう。それを恐れ、幻想郷に来た者達もいる。
今まで穣子は、豊穣の神として奉られ、強大な力を得るとまでは至れずとも、存続と言う点においては安定していた。
だが、先の不作で人々は豊穣の神に不信を抱いた。
そもそもこれまでも彼女は、豊穣の神として収穫祭などに呼ばれてはいたが、実際の所、彼女は特になにかをしている訳ではなかった。
彼女が意識せずとも、幻想郷は実り豊かであったのだ。
冷夏などの自然災害においても、これまで通りの実りを約束する。これは豊穣の神として当然持つべき力だ。しかし彼女は自然に負けた。だから信用しない。
尤もな気もするが、彼女が生きる地もまた自然の中なのだから、自然に太刀打ちできないのはごく普通の事とも言える。
鶏と卵どちらが先か、と言う話で、答えなど出てこない。
あれこれ考えても、彼女の信仰が激減した事に変化は無い。
そして今、彼女を襲っているのは、消滅と言う恐怖であった。
「もう私は誰からも信じられてない。もうおしまいなのかな」
声が震えだした。
口に出してみて改めて、その恐怖が実感となって前身を駆け巡りだしたのだろう。
静葉は席を立ち、穣子を抱きしめた。
泣きながら穣子は静葉に抱きついた。静葉の着る薄手の衣服が、涙にぬれた。
「消えたくない、消えたくない」
「大丈夫よ。大丈夫」
静葉は穣子の頭を撫でながら、囁いた。
「秋は今年だけじゃないわ。また来年がんばって、みんなに信じてもらえばいいじゃない」
「みんな信じてくれるかな」
「きっと大丈夫。何年も信じてきてくれたんだから」
静葉に励まされ、少しだけ安心したのか、穣子は更に泣いた。
全然味のしない夕食を食べた後、二人は同じ布団で眠った。
穣子が家に引きこもるようになってから、数週間が経過した。
少しずつ、以前の明るさを取り戻しつつある妹を見て、静葉は安堵していた。
彼女の目から見て、穣子が消え失せてしまう兆候は見られなかった。
もう少し耐えて、再び信仰を集めることさえ出来れば、以前の姿を取り戻せる筈だと静葉は踏んでいた。
静葉は神としての勤めがあるので、いつも通り家を出た。穣子は留守番をする。
もう少ししたら外へ出てみるつもりでいた。いつまでも引き篭もってばかりいられないという、彼女なりの決意の表れだ。
家に一人残された穣子は暇を潰すため、掃除をする事に決めた。
雑巾や箒を準備し、掃除を始めようと意気込んだ、その瞬間であった。
突然、視界がグラリと揺れ、激しい頭痛が彼女を襲った。酷い眩暈と吐き気がし、足元が覚束無くなった。
どうにか洗面所へ向かおうとしたが、真っ直ぐ歩く事すら困難になっていた彼女は、床に置いた水入りのバケツにつまずいた。
そのまま、床一面にぶちまけられた水へと倒れていく。衣服が水を吸収し、穣子の体を冷やす。
しかし、体の冷えなどに構っている場合ではない事を、彼女は本能的に察した。
体験した事のない身体の変調に恐怖した。
まるで、体の内から、自分の全てがその姿形を変化させていくような感覚に捕らわれていた。
――これが消滅? これが忘れられた神の末路? これが私の終焉?
「嫌だ……まだ、まだ……消えたく……」
ぼやける視界に向かって手を伸ばしたが、その手を取ってくれる姉はいない。
ここで眠ったら最後、二度と目覚められないのではないかと言う恐怖と悲しみに打ちひしがれながら、彼女はぱたりと意識を失った。
*
「穣子!」
聞き慣れた姉の声で、穣子は覚醒した。
見慣れた天井が目に映り、馴染み深い空気の香りと、布団の感触があった。
目だけを動かして視線を移してみると、泣き顔の姉が自分の顔を覗き込んでいた。
「お姉ちゃん」
「よかった……起きた……」
静葉は穣子の手を握り、泣き崩れた。
家へ帰ってみるや否や、床に倒れている穣子が視界に飛び込んできたのだと静葉は説明した。
ただでさえ消えてしまうかもしれないと言う不安が付き纏っていると言うのに床に倒れていたのだから、心配するのも無理は無い。
「もう大丈夫なの?」
「うん。ちょっと眩暈がしただけだから、平気だよ」
「本当に?」
「本当だってば」
心配性の姉に笑ってみせる穣子。
実際、眩暈も吐き気も無いし、熱がある訳でもなく、至って正常だった。
掛け布団を退かして立ち上がり、よりその笑みを深くした。
「心配しないで。きっと、少し疲れてただけだから」
穣子はそう言ったが、静葉は不安を払拭し切れなかった。
しかし、無闇に心配しすぎるのも体に毒だろうかと思い、彼女の言葉を信じる事にした。
それから数日後。
あれから穣子に、目立った体調不良は見られなかった。
穣子自身は勿論、静葉の目にもそう映った。
今彼女らは冬を越す準備をしていた。
両者とも寒いのが苦手なので、寒さを凌ぐ為、編み物をしてみたり、なるべく外出しなくてもいいよう、薪を蓄えたりするのだ。
静葉は編み物をし、穣子は外から取ってきた薪を、家の中の所定の場所へと運ぶ仕事をしていた。
薪を取って帰ってきた穣子を見て、静葉は感嘆の声を上げた。
「沢山取ってきたね」
「まあね。ああ、前が良く見えない」
なるべく外に出たくないと、穣子は欲張って大量の薪を持って帰ってきた。
その量は、彼女の視界を遮るほどだ。
よろよろしながら、薪を置くべき場所へと向かう穣子だったが、その途中、右足の小指を棚に思い切りぶつけてしまった。
「痛っ!」
極度の痛みに耐え切れず、薪をばらばらと床に落とし、穣子は小指を抑えた。
静葉が編み物の手を止め、様子を見る。
相当痛かったようで、穣子の目には薄っすら涙まで浮かんできている。
指を押さえる穣子の手をどけてみると――
「やだ、爪が取れてるじゃない」
「えっ? えっ、あっ、ああっ!」
知らぬが仏、とはまさにこのことだろうか。
爪が割れて取れてしまっていると言う事実を知ってしまった途端、痛みが増した気がした。
なるべく傷を見たくないのか、それとも痛くてそれどころではないのか、穣子は天井へと視線を向けてひぃひぃ唸っている。
「一応、永遠亭に行った方がいいんじゃない?」
「い、いいよ。ちゃんと消毒とかしておけば、治るよ、きっと」
『神様が棚に指をぶつけて爪が割れた』なんて間抜けな話を口外したくは無かったのだろう。
ちゃんと消毒しておくよう穣子に言いながら、床に散乱している薪を拾い集めた。
姉の言葉通り、穣子はしっかり消毒をし、包帯を巻いた。
可愛らしい裸足姿が台無しねと、静葉は苦笑いした。
その夜は、包帯をしたまま眠りについた。
穣子が目を覚ました。
包帯を巻いたままの夜は、非常に寝苦しいものであった。
異物感がどうしてもとれなくて、左足で指を摩ってみたりしていた。
しかし朝になると、痛みはあったが、どういった訳か異物感がしなくなっていた。
慣れてしまうものなのだろうかと思いながら、穣子は掛け布団を捲り、小指の状態を確認してみた。
包帯に巻かれた小さな指は、穣子の左足のすぐ横に転がっていた。
掛け布団と敷布団は、包帯による不快感から幾度も打たれた寝返りと共に布団の中を暴れまわった右足から出た出血で真っ赤になっていた。
静葉は永遠亭で、八意永琳の診断の結果を待っていた。
どうして棚にぶつけただけで、穣子の指が取れてしまったのか。
原因を知らねば、夜も眠れそうに無かった。
彼女なりに原因を模索していると、永琳が診断書のようなものを持ってやってきた。
「お待たせしました」
静葉はいきり立って永琳に掴み掛かり、叫んだ。
「何故なんです!? どうして、どうしてこんな事が!?」
「残念なのだけど、全く見当がつかないわ」
『月の頭脳』と呼ばれる永琳を持ってしても、その原因は分からなかった。
静葉は絶望に塗れながら、力なくその場に蹲ってしまった。
「異常なのは分かるけど、原因が全く分からないの」
「き、傷口から、悪い菌が入ったとか……そんなんじゃないんですか?」
「毒を操る者と共同で探ったけど、特におかしな菌はなかったわ」
「じゃあ、じゃあ、何なのです? どうして穣子の指はあんなに簡単に落ちちゃったんです!?」
静葉は絶叫するが、永琳はただただ首を横に振った。
気休め程度に薬を処方し、変化があったらまた来てくれと言う他無かった。
結局、原因が分からなかった二人は、家に帰り、沈黙の中で過ごした。
静葉は少しでも気を紛らわそうと編み物に没頭した。
穣子は椅子に座り、呆然と床に視線を落としていたが、
「……い」
暫くして、何かを呟いた。
静葉はそれが聞き取れず、顔を上げた。
「え?」
「かゆい」
そう言うと穣子は、痒いらしい左手の甲を掻きだした。
少し伸びた爪で、何度も何度も手の甲を引っ掻く。
「ああ、かゆい、かゆい」
「み、穣子……そんなに掻いちゃ、傷になっちゃうよ」
「かゆいかゆい、かゆいかゆいかゆい!!!」
「穣子!」
「かゆいかゆいかゆいかゆ」
グチュリ、と、明らかに掻き毟る音とは異なる音が、狭い家の中に響いた。
それと同時に穣子は、掻くのをピタリととめた。
激痛が、手の甲を襲ったからである。
右手で隠れている左手の甲を、恐る恐る確認してみると――
皮がべろんと剥けていた。
まるで切れ目を入れた桃の皮を引っ張ったかのような剥がれ方であった。
綺麗に剥けた外皮の向こうには、真っ赤な肉が姿を見せている。
「いやああああああ!!!!」
絶叫し、穣子は椅子から転げ落ちるように水道へ向かった。
そして意味も無く、水道から出る水で手の甲を洗い出した。
「嘘よ、嘘よこんなの!! こんなの、こんなの!!!」
狂ったように手の甲から流れる血を洗い流す。
無論、痛くない筈がないのだが、今の穣子にとって痛みなど二の次だ。
だが、洗えば洗うほど、手の甲の皮は穣子の肉体から離れて行ってしまう。
「ああっ、いや、いかないで! いや、いやあ!!」
「穣子、落ち着きなさい!」
「いやだああ! こんなのいやだあ!! いやあああああああぁぁぁぁぁああ!!」
*
遂に穣子の体が、信仰の減少によって狂いだしたのだ。
神様は、信仰を失うと、消える。これは確かだ。間違いは無い。
しかし、彼らは何かの象徴であり、何かを司る、崇高な存在だ。
それを売りにして彼らは人間に信仰され、他の生物が持ち得ない強力な力を得る。
穣子が司っているのは自然。豊穣。実り。
彼女は豊穣の象徴であり、その長とも呼べる。
柿の木に残った柿の実を見たことがあるだろうか。
収穫されずに残った柿の実をご存知だろうか。
熟柿は、どこまでもどこまでも、その実を熟させる。
固い果肉はどんどん崩れていく。
豊穣の神――穣子もまた、それと同じ運命を辿ろうとしている。
彼女は実りの象徴だ。実りそのものと言っていいかもしれない。
取られなかった実りは、ただただ、一人でに、熟していくだけだ。
*
穣子の“熟れ”は、留まる事なく、どんどん彼女の体を侵し始めた。
包帯が幾重にも巻かれた左手の外皮は、ほぼ無に等しい。
爪は全部、何もしていないのにある日突然、ぽろりと床へと落ちてしまった。
爪を失った指は変形を始めた。爪は、指をあの形に保つ、重要な役割を持っていたのだ。
指の形がおかしくなったと泣いていた穣子も、四日も経てばそんな事で泣くことはしなくなった。
熟れに熟れた指は重力に耐えれず、自然と落ちてしまったからである。
指が無くなったと泣いたのはたったの二日。手首から先が落ちたから。
左手が完全に落ちたと泣いたのは半日。右手の親指の爪が落ちたから。
両膝の外皮に妙な皺が現れ始めた。まるでふやけているかのような、奇妙な皺だ。
そもそも体が妙に柔らかくなりだした。
ゲルでも入れてあるのかと思える、異常な弾力性を持ち出したのだ。
本格的な身体の崩壊が始まって一週間が経過した。穣子はどうにか生き長らえていた。しかし、もはや見る影も無い。
左腕は肩から落ちてしまっている。落ちた左腕は、まるで水風船かなにかのように、ばちゃんと音を立てて砕け散ってしまった。
熟れても痛みはあるらしく、体のどこかが熟れて落ちていく度、穣子は耐え難い激痛に苛まれた。
今の彼女に視力は無い。どちらも、熟れによって眼筋が緩んだ所為で落ちてしまったからだ。
あまりにおぞましい見た目の為、今は包帯が巻かれている。
この包帯を取っても、彼女の眼窩には眼球が納まっておらず、暗い洞穴がぽっかりと開いているだけである。
こんな有様でも、静葉は穣子を見捨てず、懸命に看病をしていた。
「いたい……いたいよぅ……」
「どこ? どこが痛いの?」
「むね……むねが……」
言われて静葉は、慎重に穣子の衣服を捲り、胸を見た。
しかし、外傷は見られない。
「まさか、中……?」
静葉の予想は的中していた。遂に内臓まで熟しだしたのだ。
少しずつ熟れてきた心臓が、全身に血を巡らせる為のポンプ機能に伴う衝撃に耐えかねているのだ。
どうすればいいのか、静葉には分からなかった。
どうやっても、この原因不明の壊死――彼女らは熟れているとは気付けていない――を食い止める事ができない。
永遠亭に行く事はもはや不可能だ。穣子の体が、物理的にもたない。
それに永遠亭の薬でとめられるものとは、到底思えなかった。
なす術も無く、静葉が絶望していた、その時だ。
「……たい」
「?」
「きえ……たい……はやく……」
「穣子……」
じわりと、眼窩を隠すために巻いた包帯に、透明の液体による染みが出来た。
穣子は、泣いているのだ。
「きえたい……きえたい……よぉ……」
穣子は、生に絶望している。
消えたくないと泣いていた穣子が、消えることを切望しだした。
耐え切れなくなって静葉は立ち上がった。
やはり永遠亭に見せるべきだと思ったのだ。
「穣子、ちょっと待ってて。医者を呼んでくるから」
そう言い静葉は家を出ようとした。
しかし穣子は、行こうとする姉を呼び止める。
「待って、待ってよおねえちゃん。ひとりにしないでよぉ」
静葉は振り返り、言った。
「お願い、少しだけ待ってて。すぐに帰ってくるから」
「いや、いやだ、いや、いや」
穣子は残ったもう片方の腕を使って立ち上がり、姉を止めようとした。
しかし、早い段階から熟しだしていた右腕は、穣子の体重を支えきれず、いとも簡単に折れた。
二の腕から折れると言う、常識外れの壊れ方をした右腕から、夥しい量の血が流れ出した。
「いああああぁぁぁああ!!!」
激痛と恐怖の入り混じった絶叫が木霊する。
腕が無くなっても尚、穣子は姉に縋り付こうと、懸命に這って動き出した。
しかし、一度前進するたび、床には絵の具を伸ばしたかのような赤色の汚れが付着していく。
床に擦るだけで皮膚が破れてしまっているのだ。
何かに引っかかった拍子に、足が千切れた。
どうしても消えない激しい痛みに耐えながら、穣子は最愛の姉の所へ少しずつ這って進んでいく。
静葉は完全に混乱していた。妹と玄関扉を見比べる。
妹に駆け寄っても彼女にできる事などない。しかし妹は痛がっている。
「どうすれば、どうすればいいのよ……」
静葉の目から涙が零れた。
玄関扉に縋る様にしながら座り込み、嗚咽を漏らした。
そうこうしている内に、どうにか穣子は静葉の元へ辿り着いていた。
「おねえっ、ちゃん。おねえちゃん」
「穣子……」
「はやくきえたい。だから、おいしゃなんていらない」
両手の無い穣子はまるで猫の様に、静葉の足に顔を摺り寄せる。
変わり果てた妹の姿を、静葉は見ていることができなくなった。
そして思った。
遂にこの哀れな妹は、姉にも見放されてしまったんだと。
この可哀想な神の姉は、妹を見放してしまったんだと。
「ごめんなさい……穣子」
自嘲めいた笑みを浮かべつつ、静葉は穣子を抱き上げた。
とても生物とは思えないぶよぶよとした感触が、ただひたすら気色悪かった。
――これは、柿だ。
静葉はそう思った。
熟柿だった。木に残された、真っ赤な、柿の実だった。
静葉が穣子を抱きしめる。
強く強く。
熟柿の脆さなどまるで気にしないで。
「おねえちゃん、痛――」
静葉の指が、穣子のわき腹を穿った。
「うぎぃっ!?」
異常なほど柔らかい肉に沈み込んだ静葉の指と、その指が開けた穴の隙間から、じわりと血が滲み出てきた。
留まる事なくそれは外界へ飛び出し、雫となって床へと滑り落ちていく。
指だけでは飽き足らず、静葉は穣子を自分の体に寄せ、腕まで回して、更に強く抱きしめる。
これは、抱擁ではない。
熟れすぎた柿を手で握りつぶすようなものだ。
「ああ、い、あああが、あう、お、ああっ、えぁ、ぇああ」
静葉は、穣子の苦しげな声など全て無視した。
ミシミシと、脆い穣子の体に圧力をかけていく。
力を込めようと力んだ所為で、体に刺さっていた指が、わき腹の肉を抉るように削り取ってしまった。
もはや機能していない肋骨と、臓物が露になった。
「いたい、いたいおねえちゃん、いたい」
「もういいの、穣子」
静葉は囁いた。
「早く逝きなさい」
静葉が前に体重をかけた。
ぐらりと二人の体が倒れ、床へと向かう。
床と静葉に挟まれた穣子の体は、熟柿を地面へ叩きつけたかのように、崩れ、飛び散った。
静葉が抱いていた筈の妹の体は、何だか訳の分からない、液体と固体の中間に位置するようなものとなっていた。
残ったのは、その訳の分からないものと、血と、臓物特有の生臭さだけである。
見た目は熟れた柿が飛び散っているように見えるのに、異常に生臭く、静葉は吐き気に襲われた。
――妹が死んだ。殺したといった方がいいかもしれない。
まるで実感が無かった。
この散乱しているものの、どこの部分が穣子なのだろうか。
「ああ、そうか」
静葉はようやく気付いた。
彼女は、消えたのだ。
信仰を失った神としての最期を迎えたのだ、と。
呆然としている静葉の後ろで、コンコンと音が鳴った。
玄関扉を、誰かが叩いているのだ。
静葉が返事をする前に、扉が開かれた。厄神が姿を現した。
「ごめんください。最近をお姿を見ないのですが、大丈夫で――」
開け切った扉の向こうに広がる光景に、厄神は唖然とした。
血肉で彩られた秋の女神の家は、真っ赤に染まっていた。
まるで、季節外れの紅葉を迎えたかのように、赤く、赤く。
脆くなった体が崩れていくと言うコンセプトや、割とグロい内容、かっこよさげ(笑)な題名、秋姉妹。
いろいろ達成できて嬉しく思います。
実際の所、柿の木に残っている実は忘れられた訳でなく、冬に鳥たちが困らないようにわざと残しているとか。
しかし我が家の台所を探っていたら、完璧に忘れられてる柿を発見。
それを見た時、柿の木に残っている柿や、アスファルトに落ちて車に轢かれてる熟れた柿などを思い出しました。
そして秋と言えば柿だと思うので、穣子様に柿っぽく散って頂きました。
まあ、私は柿が苦手ですが。
ご観覧ありがとうございました。
++++++++++++++++++++
>>1
イメージだとそんな感じです。あくまで私の妄想でしかありませんが。
>>2
もっとおどろおどろしい見た目になっていく様を描いた方がよかったかもしれませんね。
>>3
お褒めの言葉、ありがとうございます。体が滅んでいくのは怖いです。
>>4
ありがとうございます。
レティさんは恐らく私のSSで大きな被害を受ける事はないです。
>>5
最近「人間って汚い」みたいな雰囲気の作品が続いている気がしてなりません。意識している訳ではないんですが。
ところで、神様って信仰増えると蘇生するものなんですか?
>>6
どちらかと言えば「デュクシ」のイメージが強いです。
>>7
記憶が残ってたとして、今回の失敗談とか死に際の事とか思い出して、無駄に頑張っちゃうみのりん。
毎日が全力投球過ぎて体壊しちゃうんですねきっと。可愛いですね。
>>8
静葉さんが消える時にはそうなるでしょう。これまた嫌な死に方ですね。
>>9
グロ綺麗だなんて、そんな。ありがとうございます。
>>10
どうぞ、してあげてください。私も秋姉妹好きです。
>>11
やめられないとまらない。
>>12
誤字報告、ありがとうございます。
>>13
私は自宅の庭にありました。いつの間にかなくなってました。
>>14
強いんだか弱いんだかはっきりしない人間。強くて弱いんですね、きっと。
>>15
どういった理由で泣いて頂けたのか気になります。崩れていく恐怖か、可哀想な最期を迎えた穣子への同情か。
pnp
- 作品情報
- 作品集:
- 11
- 投稿日時:
- 2010/02/08 00:41:00
- 更新日時:
- 2010/02/17 20:30:15
- 分類
- 秋姉妹
- グロ
- 2/17コメント返し(二回目)
そんな妹をお姉ちゃんは愛せるのだろうか。
喉と舌が腐ってすきま風のような声を出す妹を想像するとなかなか怖い
こういうのはぞくぞくしますね
しかしこの描写は勉強になります。素晴らしいですね。
次回は冷夏を引き起こしたレティの出番ですね?
現金な人間次第だが
ジュクシ!(パンチをしながら)
ガチで
>進行の減少によって狂いだしたのだ
信仰ですかね
多神教なんぞより顕著ですし。
あれだ、「人間最強」
秋姉妹好きだけどww