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『生きているという事は素晴らしい』 作者: nekojita
『まず、耳は信用ならない。
弾が風を切る音にはドップラー効果がかかる。自分が高速で動いてもだ。
気流、気圧差、とまではいかないちょっとした風によってさえ、弾丸の発射された方向を察知できなくなる。
耳の扱いは弾幕戦で素人が最初にぶちあたる壁だ。
しかし最も耳を信用してはならないのはやはり音が空気を伝わる速度についてだ。
例えば私の知るある種の光学兵器ならば発射音より前に着弾する。
そこまで極端な例を引かずとも高速、遠距離の弾幕戦となれば普段の通りに音を事物の予兆と捉えたのではいけないという事が想像に難くないだろう。
だからといって目視だけに頼るのでは正に死角からの予期しない攻撃には無防備となるから、聴覚世界は空間三方向に時間という要素まで加えて四次元的に捉え、日常の感覚から全く自由にこれを活用したいものである。
全く耳は信用ならない。だからこそ達人こそ自在に耳を使いこなしこれを強力な衛星武器とするのである。
そういえばこの新聞の読者には妖怪の方が多いんだったな。
今のは君が人間であればの話で、君が妖怪で有れば話は別だ。
妖怪は弾幕ごっこにおいてさえそういう制約を受けない。
妖怪とはどちらかといえば人間の認識に存在するものであるから、感覚を全面的に信頼してよいのだ。常に平常心で、朝餉を食べるような気持ちでぶちかませ。そして私にやられるがいい。
それは、私が体験した訳ではないが、妖怪としての生についても同じと思う。
弱小な人間が思い悩み苦しんで生きて行くのに対して、妖怪は勝手気ままに生きたり戦ったり驚かせたりで正解なんだから。』
――――霧雨魔理沙 弾幕ごっこの上達法を聞かれて、『文文。新聞』紙上で。
1.
物心がついた時の事を覚えているだろうか。
この質問について考える時、あなたは回想と空想の大波に飲み込まれるだろう。
それ以前世界は深く暗い大いなる闇に包まれ。母なる眠りは人を、将来人となる彼を暖かく包み込み決して離さなかった。
やがてこの意識がふと強烈な胎動を始めた筈だ。月を眺めた記憶。母と話した記憶。現実、世界が始まってからの鮮明なそれと比べて、霞がかかったような古い記憶はなんと我々を惑わせる事か。
そこに強い何かが水面に波を起こす勢いで与えられてこの場所が明るくなったのだ。彼こそが物心。嗚呼一体物心とは何だっただろうか。その本質は……。
ここに、物心のついた瞬間の事をはっきりと記憶している一本の忘れ傘が有る。
ある時幼児がふと親をわかるのと同じように、自らを人に見捨てられた哀れな傘と認識した者が有ったのだ。
最初の記憶。デザインは良くない。濃い紫色の大きな傘。嗚呼私の『これから』は果たして祝福されているのだろうか。不安と同時に心に現れるは、否、それまで澱のように積み重なってきたものを今認識したのが、この何も行動を起こせぬ無力感ともどかしさである。
訳も無く、切迫感につぐ切迫感。その激しい事はまるで何かを告げる鐘の音が絶えず頭の中をしかし遠い所をごうんごうんと共鳴し続けているような。と、―――――音が瞬間、止んだのである。
快活なふうにスキップをしながら近づいてきた少女が一人。傘立てに一本残された自分を、まるで誰も聞いてやしないのに『これは間違いなく自分の傘です』と言わんばかりの自信をあふれさせた態度でもってぎゅっと掴み、勢い良く引き抜いたのであった。
この圧倒的スピード感。圧倒的信頼。
その手つきから、その握力から伝わった言葉は果たしてこの傘の単なる希望であったのだろうか!
『もう二度とお前を離したりしないよ』
このぬくもりを、絶大な信頼と暖かさを一本の傘は生涯忘れやしないだろう!
やがて外に出てその雨傘が、雨は降っていないのにお天道様上る中天さしてばっと広げられた時。更には少女と自分が、まるで当然の事のようにそのままふうわりと宙に浮きあがり重力の束縛から逃れた時―――彼女は、自分こそがその『少女』であると理屈でなく直感によって、強く理解したのであった。
冬の盛りの事だった。
雪は無い。冷たい風が皮膚を撫でては前方から後方枯木の枝々の間へと吹き去って行った。
今傘はその感覚が自らの皮膚に由来する事を思い知り軽い感動の波を心に立たせた。
同時にこれをあまり気にしない自分にも気づく。何故だろう。いかなる生命活動についても寒さというのは最大の危機に相当しうるはずなのに。
すぐにわかった。これは『足』が、我が命無き『足』がほかならぬ命有る私の『手』に包まれたが故なのだ。
現実に起こっているのは、烈風がこの万年置き傘を運んでいるだけだというのに……。
なんという事だ。
何と懐かしくも暖かい、心を高めてくれるこれは人の温もりでは無かった。
人の温もりしか知らなかった自分は勘違いを起こしてしまったのだ。これは『今まで自分が生命で無かった』故の、通常有りえない錯誤。
これは命の暖かさであったのだ! 自分が生きている暖かさが、はじめてこの身を駆け抜けた感覚だった!
それにしても彼女は、例えば試験管の過酸化水素に二酸化マンガンを投入して酸素が発生したようなただ一つの『現象』として、『条件が整ったから』生まれおちたにすぎないのであろうか。
あるいは、この広い世界、この装置の中に、何か重大な役割、生きる意味を与えられていわゆる奇跡によって投入された一つのイレギュラーなのであろうか。
あたかも同じ酸素が太古の昔藻類によって生み出され、この地球全体に新しい生命進化の系譜をもたらしたように、何かの意味を持っているのだろうか。持っているとして見出すことが、その生涯のうちに、できるのだろうか。
彼女は今これを自らに問わない。空を飛び、また手足の動かし方を知るのにまだ忙しいから。
また果たして。
胸、頬、鎖骨、大腿骨、下顎骨、鼻骨、大胸筋、胸骨、上腕骨、肋骨、横隔膜、肩甲骨、前頭骨、上腕二頭筋、腹直筋―――
そういった単純な、入れ物となる無数のデバイスのみならず、全ての人間の身体を複雑な機序で動かしメンテナンスさえするフクロやイト、更には60兆もの細胞と、その中で46億年の歴史と試行錯誤を経て生み出されてきたカドヘリンスーパーファミリー、甲状腺ホルモン受容体、ミトコンドリア、ATP産生サイクルなどといった分子生物学の秩序までもが、一時のうちにこの忘れ傘にまさに『受肉』されたというのか。与えられたのだろうか。
否。
これは否だ! 彼女の人体というのは飽くまでただ個の概念の具体化、記号としてのそれに過ぎない。
心が有って体が有るのであって、しかもその体は心に認識されている範囲を決してはみ出さないのが原則。
しかし彼女自身は未だなお答えを出さない。問いを思い浮かべもしない。
更にこのヴィジョンは何だろうか。置いて行かれた傘そのものの思念こそが理想的な『持ち主』の像を選んで投射されたのか……これについても答えは、今はひとまず保留を受けねばなるまい。
自由と光と『物心』を得た! 一定の知恵を得た。意識と、自分で動かし、また自分を運べるこの肉体を彼女は得たのだ!
これを謳歌する、またこれから謳歌せんとする彼女には肉体の出自など全く知った事ではない。有る物は有る。生きているものは生きている! そのほかの疑問、存在の意味すらも彼女自身今は決して問わないだろう。
初めて感じる温かい風。先ほどの冷たい風に続いて今度は、水分を心地よい程度に含んだ、柔らかく暖かい風。その身に受けるのは初めてではないにせよ、皮膚でもってこれを『感じる』のは初めてだ。
初めて見る蝶々。今、生き物を感じた! この眼で見る事が出来た! まさに夢に見た事も無い現実が、全身の感性に強く働きかけてくる。
この傘は夢を見た事さえ無い!
そして落ちてくるリンゴを掴んだのだ。しゃくりと噛む。生まれて初めて口にする食物とは、一週間の絶食の後に食べた高級ステーキよりもなお体に満足と、黄金色に輝く活力の旋風さえ行き渡らせてくれた。
空の青さ。改めて見れば空とはこんなに遠く、また清々しくも青いものであったのか! 傘は今まで幾度も空に対面したがけして『見』てはいなかった。それが今は実体有るこの眼で見たのだ!
そして世界。はじめて感じる世界!!
ただただ、感動していた!
そして言う。晴れやかな空に向かい今、大きな声で彼女は叫んだのだ!
「生きているという事は素晴らしい!!!」
そう言った。疑いもせず。嗚呼まだ生きているという事の、百分の一だって彼女は知りやしないのに。
「生きているものは生きているのだ。どれだけ常識から考えて不可解であろうとも。ああ、私は生きているのだ。お化け傘としての生がたとえ惨めだったとてかもうものか。私は生きる。死ぬまで生きる。そうしていつの日か野垂れ死ぬまで、この生というやつを楽しむんだ! 楽しんでやるんだ!」
“What’s living is living!!!”
その忘れ傘は名前を多々良小傘といった。少なくとも物心が生まれたよりあとに名前がついた筈だが、何故その名になったかは本人も忘れてしまったという。
2.
忘れ傘は七日七晩を宙を闊歩して過ごしたのち、人間の街に降りてふうと一息ついた。
人間の街は、都会は。喫煙者の少なくなった今でも、どこかタバコ臭いような、灰色の空気を纏って立っていた。
遠く、あるいは空の上から見て奇妙なのは、その雰囲気がちっとも漏れ出ていかないことだ。
人間の街というのは妖怪が隠れるには適していないと、当の人間たちは思っている。
とんでもなく暢気な認識だ。人間の思念、構想が生む近代の街は同じ出自の妖怪や物の怪たちとは兄弟のようなものだ。光有る所に影が有ると言う。実際人はその居住空間を大きくする過程で、いつの間にか影、見たくない空間、つまりは亡霊の温床を作り上げて行く。
廃ビルや空き家、旧校舎。人間世界と人間世界を繋ぐ人ならざる者の国。ケモノミチ。
ある路地裏は侵入経路が完全に封鎖されて風も通らない。
自転車に轢かれてぺしゃんこになった野良猫が、最後の矜持の為に肉体を引きずってこの土地に至った跡が有る。もう何年も使われていないポリバケツが有る。内容物のほのかな臭気は、何に由来するものか。何の死体に由来するものか。
大事なのは人間の行動範囲より、人間以外の行動範囲は常にずうっと広いという事実だ。それは体が小さいからだ。獣たちは物理的に、そして妖怪たちはそうではない意味で……。
しかも人は『見て』いない。物をよく見ないのが彼らの性質だ。一旦日常の中に埋没してしまえばこの空に傘を持った少女がふわふわと浮きあがっていた所で人は彼女を見ない。
これが空だけとは限らない。実は都会のきっちりと区分けされた土地にさえ、誰も行動範囲に選んでいない土地は、少ないかもしれないが確実に存在する。そういう誰も見ない土地に少女は降り立っていた。
探した訳ではない。妖怪という存在はもとよりそういう所にしか存在できない性質なのだ。
立ち止まったのは考える為であった。
深く考える為。
いかに、生を謳歌する事に夢中になっていたとて自分の生きる意味を考える地点にいつかは帰って来ない訳にはいかない。
一個の生命として知性を得た以上それは当然の事だ。
「わちきなんかがこんな美しい世界に生きていていいのかしらん」
かわいらしくも小首を傾げ、口では謙虚、身の丈に合わぬ幸運に言い知れぬ不安を感じた本物の娘のようにふるまう。こうしているとどこにでもいる村娘だ。しかして心中ではこの幸運を手放す気など毛頭無かったのである。強い思念は小傘が妖怪であるが故に生まれた物か、あるいは、この思念を持つからこそ小傘は妖怪なのか。
はじめから与えられない筈のものであるからこそ、奪われてしかるべきものだからこそ手放すまいとあがく。抵抗せざるを得ない。そう、彼女は生を謳歌するからこそ考えるのだ。
『自分は、何故生まれてきたのだろう』と。
形有るものにいつか必ず訪れる寿命の果てを推し量るのである。そして可能なら寿命を克服したい、伸ばしたい、とも。この生の目標はなんであろうか。達成した時、寿命はそこまでなのか、あるいはエネルギーを受け取って更に伸びるものか。
まだまだ自分がやっていない事が有る。何度だってしたい事も。
朝木漏れ日の中で鳥のさえずりに耳を傾けたい。
夜街の雑踏とネオンの明かりを遥か高空から見下ろしたい。
あの美しくも人工的な眺めこそは何万回見たって飽きやしない。
とにかく生を謳歌したい! 今は思う。一分、一秒でも長く。
予定通りの人生など悪夢のようなものだが、それでも生きるには予定と計画は必要なのだ。
なによりも、『生き甲斐』を欲するのである。妖怪は存在の為に。
事ここに至ったならば、『自分は生を謳歌する為にこそ生れて来たのだ』と短絡的に思いこむ事が出来ない訳ではない。
不都合が生じる訳ではないじゃないか。確かにそうだ。
しかし。逆接。
しかしながら一個の生命が、生命の紛い物であるにせよとにかく一個の意識が生まれるのは結局何か外部に有る沢山の事象の相互作用による筈だ。
それを『自分が』この美しい生を謳歌する、余りにも自己完結性の高い目的の為に起こったとは到底考えづらいのだ。
ましてや自分が発生する前には自分はこの世界に居なかったのであるから。
それに例えば神が哀れな忘れ傘に気まぐれに与えられた『おまけの一日』であったとしても。たとい元来そうであったとしてもこの既得権益をもはや絶対に彼女は手放さない。
残酷にも、残酷な事にも彼女は考えてしまった。この命が気まぐれに与えられまたそれゆえに気まぐれに奪われ得る、風前のともしびでない証左はどこにも存在しないと。しからば、しからばこうしようと。自分が生きていてよいという意味を、『外部に』求めたい! 行動によって問いかけたい! 問いかけるのだ、と。
そしてその『行動』が『外部』にとって、どれ程の近所迷惑になろうとも、と。事実心を手に入れたばかりの彼女は、近所迷惑という概念自体をまだ持たなかった。
と、ふと。
人は誰も見ない場所ではなかったのか。
どこから迷ってきたのか暢気な一組の男女が有った。物思いに耽ると言うにはいささかただならぬ形相すぎる若い少女妖怪を眺めていた。
ふっと消えた。
今まで微動だにしていなかった物陰の少女が茄子色の傘をふっと手放したように見えた。すると消えたのだ。好奇心から覗いていた男と女。二人は何事かと五秒ほどうろたえたのち、男の腹から青い裾が付き出しているのをそろって目撃した。
男は無意識に天を仰いで、すると傘の茄子色の裏地を見た。青い髪の少女妖怪とは相合傘をするような格好になっていて、それはおととい茶髪に染めたばかりでデートもわずか三回目のうぶなその男にいささか刺激的で。
貴方がたの場合は、さしずめ繁殖、といったところか? でも。
明日同じ花を咲かせる為に
その為だけに花が咲くなら
そんなぼくらの人生ほどに
無意味な物が他に有ろうか
命のともしびが眼前で失われていくけれども、それにさしたる感慨も持たない。幼い精神は、自分が死にたくないのと同じくらいに他の生命一個体とて死にたくないのだという当たり前の道徳を考えつかなかったのか。
それともただ単に彼女の、生存を欲求する思念こそが、かわいそうなこの人間の漠然とした『長生きしたいという願望』よりも強かったというだけなのか。
今まで生きていなかった『物』は、死を背に負わない、そうそう追われない『者』よりも足が速い。当然であろう。
「わちきはあんたらに直接の恨みは無いが」
見栄を切るのはただの傘だった時にどこかで古い怪談か時代劇でも聞かされたのか。ただ自分はこういう風に決め台詞を言うものだと確信した。
「せいぜい、種の種、つぼみのつぼみに相当するその命、ひとつこのわちきの高尚なる実験的行為に」
ぎゅっとひねれば、がふっと口から血が出る。これが致命傷、という表現も正確性を欠く。
被害者の側から記述するならそうだろうが、もはや彼は物を言わぬ。今は加害者の視座に立って、私はこれを『とどめ』と言おう。
「使わせてくれや、くださりませんかね?」
ぎゃんと音がするぐらいに勢い良く左手を引き抜いた。
その時人間の女は、男の腹を見ていなかった。小傘の顔も見ていなかった。『何故』とでも問いたげに虚ろな男の目を見つめていた。どうして自分の腹から腕が突き出ているのかわからないという、目。責める光は無かった。純然たる驚き。何故。本当に何故。自分がこんな目に合わなければならないのか。一方男の身体を挟んでその女の目を見つめていたのが小傘である。
小傘はしかばねの向こうの女の、黒い瞳の瞳孔がきゅっと閉じるのを見た。比較的端正であったものがバランスの悪くなったその顔は、驚くほどに醜かったのだった。
『無意識に罪悪感でも感じているのかッ!? 自分が一緒に逝けなかった事に? 男が一人でこの不幸をおっかぶった事に?』
「心配は要らないわ」
口をぱくぱくさせている。声帯が痙攣して失語の症状が有るのだ。声なき悲鳴とはこの事。
小傘が支えるのをやめてしまえば血に塗れた男の肉体は緩やかに崩れ落ちて行く。
ばちゃ。と音を立てる。
少女らのこれをかえりみない事、崩れ落ちた体はまるでそのものが勝手に落ちたように。
体と、水しぶきは完全に地に有って。
やがて二人の女性の間に、遮る物が一つも無くなった時。
二人の距離はずっと近くなった。音も無い。耳を澄ましたら互いの心音が聞こえたかもしれない。もっとも忘れ傘のヒトガタが心音を鳴らすかは下手をすると本人にすらわからなかった―――。
女は口の中が乾くのを感じた。
声帯が乾燥して声を出そうとしても掠れるのだ。喘ぎながら女は見た。
忘れ傘の両眼はそれぞれ色が違ったのだった。だが今から死ぬ女性は、瞬間その両方が漆黒にきらめくのを確かに見た。悪意を湛えて揺らめく、激しく燃える炎のような……。
「……また逢えたら良いね」
「これだッ!!」
右手に化け傘の一本足を。
左手に木の葉形に美しい女性の左手首を持って。
いや、もはやそれは女性の左手首ではない。この物体に死体の肉以上の価値を見出すのは高名な某殺人鬼と―――。
「神様! まさに、これでいいのですね!」
これをフライドチキンか何かみたいに齧りながらへたり込むこの人食い妖怪の二名だけであろう。
―――フライドチキンとは違う。化け傘は骨ごと、発泡スチロールを割るみたいな調子でばりばりと食っていた。
月の光が雲の切れ目から燦々と降っていた。
人間を襲っている間中、えも言われぬ充足感が体に漲るのを感じた。
人間の死体を食らえば、自分の身体に必要な栄養の全てが補給されたのを確信した。
腰が抜けたのは『初めて人を殺した』とかお子様の理由ではない。一つの達成点に到達した事を確信して、嬉しくなってしまったのだ。
安心とともに腰が砕ける程に。
つまりは『殺人こそが自らの生き甲斐である』と気付いたのだ。
何故純然たる殺人が彼女の価値を高めてくれるのだろうか。
小傘の考えでは。
九十九神とは人の心が物に宿った存在。これは当たり前だ。物そのものがそれ自体、無から怨念を持つ訳がない。
だから普通大事に使われたものが、九十九年使われた道具こそが九十九神に変化する。そして人間社会には、飽くまでも持ち主の意を汲んだ上で害悪か、善良なるものをもたらす。持ち主の意思が道具の存在理由であり、持ち主の心こそが道具の神性の源泉。
さて、すると忘れ傘の九十九神とは何だろうか。誰の念がこの体のイメージを授けてくれたのか。持ち主とはだれであろうか。
ここに答えが有る。そのイメージを達成する事こそ自分の存在理由に違いない!
誰だ? 誰のイメージなのだ。
作った人間か? いや一本の傘にそこまで入れ込む傘職人など物語でしか見た事がない。
使った人間? 論外。忘れるほどだ。
わかるのは、少なくとも忘れ傘を傘化けの妖怪たらしめるのは人間の愛情の念ではない、という事。
考えると、これは恐怖に違いない。
忘れた傘を考えた時、独り傘立てに転がる傘が復讐に来るのではないか。このうらさびしい恐怖の念こそが存在の根拠。街に住む人類全体に、かすかに、かすかに潜む狂気というか、何か胸を打つ情感、恐怖。
そう考えるならば。
―――私自身の存在の為に。
私はただこの恐怖を、『達成してやらねばならない』。
ためしてみれば正解であった。
確かに殺人は己をして高い所へ持ち上げまた飢餓をも十分に満たしてくれる。
ところで小傘は自分の人間離れした身体能力に何の感慨も持たないし、誇りに思う事もしない。
他に妖怪を見た事が有るわけではないけれども妖怪とはそういう力を持っているものだと無意識のうちに思い込んでいたのだろう。
しかし今彼女が確信した事には、この力こそは『郭公の背中の窪み』に他ならないと。
他種の鳥の巣に托卵するカッコウは、その雛は、同じ巣に入った他の卵を地面に落としてしまうのを効率よく済ませる為に生まれながら背中に窪みを持つという。
この身体能力こそ『窪み』だ。私が生きて行くのに人を殺してしまいやすいよう神が与えられたのだ。
死体の食いカスを残して空に舞い上がる。舞い上がったのは傘でふうわりと浮きあがったのではない。地面を蹴って10メートルの高さにまで伸びあがったのである。
しばらくは誰も死体を見ないだろう。狭い路地に打ち捨てられた頭蓋骨や仙骨の欠片を。
見ても犬か猫だと思い、決して人とは思わないだろう。
三
それから傘は人を殺した。
毎朝歯を磨くように。大事な人からもらった鉢植えに欠かさず水をやるように。
それこそが自分の使命と信じた。
「うらめしや」
言って傘の顔面を向ける。
夜は妖怪の天下だった。
普通犠牲者は妖怪のテリトリーに何か間違って迷い込んだ人間だ。
人は近付いて、ちょっとおどかしただけで腰を抜かす。
そこを一撃、ばすっ。これにて終了。いつも手で殺す。傘は大事だ。折れたら大変。自分で自分の修理はできない。ブラックジャックじゃあるまいし。この殺人行為はアサシンクリードで物陰の衛兵を暗殺するより簡単だ。これを日常的にやったとて何の負担になろうか。事実このたびに、小傘は心身ともに充実するのを感じた。
手を腹に突っ込んで殺すのがスマートだと小傘は信じていた。腹膜周辺の内臓に痛点や感覚点は無い。痛みが生命危機のアラートとすればそのアラートすら経ずにしかし死へと直結するのが臓器への攻撃だ。
何より自分の腹から勢い良く、エイリアンみたいに細腕が突き出すのを目撃する人は常に大きく驚いた。これを見るのが小傘には痛快で楽しかった。
この原則に従ったにもかかわらず殺しきれなかった時には、しばしば獲物は命乞いをするけれども耳を傾けた事は無い。人ですらない我が身に人情を訴えかける姿は滑稽ですらあった。だがこれを楽しむ気には、何故だかならない。
そんな事より人体は最初食わず嫌いだった心臓がおいしい事を知った。血をまぶせば塩味が強くなる。人間ならば血液の催吐成分ゆえにこのぬるぬるした旨味を噛みしめるどころではないのだろうが。いつも思う。人はかわいそうで、なおかつもったいない事だ。こんな料理を我が身に宿しておいて、それを食えないとは。
この行為が精神的食事と実際の食事を兼ねていたから、他の時間は遊びまわっていた。必然いつだって孤独だったけれど、この世界と対話する彼女にとってそれはあまり意味をなさなかった。
それでも人と会う事は有る。
住処の地方都市から空を漂い離れて行って、昼時にピクニックに絶好の野山に
それでも妖怪のおとずれる所にふさわしく普段は人も居ないのであるが、その日は迷った少女が居た。
泣いていた。
少女特有の端正ではないけれどもかわいいあの顔をくしゃくしゃにして。大きな心細さゆえに。
「おかあさーん。おかあさん何処ー?」
忘れ傘は高空から凄まじい勢いで彼女に近づいて行く。余りに無防備な体躯に向かって。的にも見える小さな頭部に向かって。
少女の背後でぴたっと止まった。
傘化けが具現化された様はまるで瞬間移動で彼女が現れたかのような様子だった。
いまだ気付かぬ少女の頭に青い髪の彼女はそのまま腕を伸ばして。
「よしじゃあお姉さんが一緒に探してあげようっ!」
にっこり微笑んでよしよしと撫でた。
子供は一瞬びくりとしたものの、すぐに同じような笑顔になって姉のごとき化け傘にしがみついた。
気がついたら、腰に姉の手が突き刺さっていた。
どこであろうと人と会えば殺すのだ。
心配はいらない。あなたの親だって、見つけて私が殺してあげよう!
この日、はじめて人を殺したのに伴う体力の減少を経験した。
帰り道をよろよろと歩いていると、冷たい風が自分の身体の一番深い所を貫通して横殴りにすっ飛んで行った!
その感覚で直感した。
死が命を奪いに来たのだ!
どうしてなんだ!
例えば昔のSFで有ったように、合成調味料ばかり摂取する人の身体にたまった毒が、今改めて私の中で凝縮され、何かの悪い化学反応でも起こしているのだろうか。
否、妖怪という存在はそういう害悪に対しては最も遠い物の筈。
とはいえその日から変わった。
どんどんと力が喪われていくのを感じた。
焦ったように人を多く殺し、また多く食した。毎回その最中には力の回復を確信するのだけれども、累積すれば食えば食う程力を無くしていくのだった。
総合するに人を殺すたびに力が削られていく様は、小傘の与り知らぬ感覚と概念ながら男が精を放出した時の感覚に似ていた。
以前一晩中風の向くまま空を舞ったって平気だったものを、ひざを抱えて、震えながら一人で過ごす夜が増えた。季節はむしろ暖かくなっていく筈であるのに。
寝床はテナントが入らず持ち主が破産、放棄された廃ビルの五階フロアだ。階段室は施錠されていてエレベーターも当然動いていないから、どんなに好奇心の有る人間が居た所でここには原理的に入って来られない。そのせいで同胞が犬しか居ないのは心細くはあるものの、体躯の不順がそれゆえのものではない事は明らかだった。
ふと気を抜けば、闇が自分の周りを隙間なく取り囲み、しかも侵入してこようとするのを肌が感じる。毎度それを慌てて振り払えば、大変に取り乱すのである。
馬鹿な。私が死ぬだって!?
あの『物心のつく前』、『闇』に還るだって!?
ただの傘に還るだって!?
嫌だ。ふざけるな。
命を与えておいて奪うなんて。何も達成させないで終わるなんて。
私は認めない。
嫌だ。
世界にそのせいでどんな不正を巻き起こそうとも。
善人が何人命を落とし、悪人が何人のさばるとしても。
私は生きたい。
闇になんか戻りたくないよ。
ただの傘になんかなってしまいたくないよ!
今はただひたすらにこの神性に世界の情景を染み込まさなければ。
そして神性を失いたくない。私のバッグはこれしかないんだ! 私が持てる、経験をぶち込むことのできる装置は。
闇の奥でカタンと音が鳴った。隙間から入った僅かな風か、動物が何かを倒したのだろう。
今の小傘は人に会いたくなかった。
闇を、何が潜んでいるのかわからないという理由で恐怖したのは、小傘には初めての事だった。
頭が痛い。肩がこる。鈍痛は胸の真ん中から首筋にかけて流れては抜けて行った。この激流は繰り返される。そのたびに何かが流れ出て行くのを感じた。生命の源である熱が奪われていくのを感じた。
喉がひきつり、口はこの上なく乾いている。慌てて呼吸を試みれば気管が筋肉に締め付けられる。
関節を動かすたびに音が鳴る気がする。これが痛みと共に燃えるような熱量をまとっているが、やがては末梢は熱を無くしていくだろう。
胃酸が胃そのものを穿つ特有の感覚。肺、呼吸器の不調。これらの器官は。
これらの器官は本来、というか『厳密には、』小傘には存在しない筈のものだ。ならばこの不順はきっと彼女の何かを象徴している。つまりは死だ。自分が喪われる事だ。その前に。考えるとこの不順は本質的に『飢餓感』に由来した。心の飢餓か肉体の飢餓かわかりはしないのは妖怪にとってはどちらも同じものであるから。しかしいずれであるにせよ。
小傘は少ない、肉体に走る力を使って慟哭した。
神様! 神様! どうした訳でございますか!
私はあなたのお言いつけを、しっかり守ってまいりましたのに。
与えられた役割を、しっかりこなしてまいりましたのに。
それとも神様私の命は刹那の命は、どうせ何をしようともここで尽きるような運回りであったのでしょうか!
闇の中から何かが顔を出した。ごそという物音も立てずに現れたそいつに小傘は大変驚いて体を縮こまらせた。
窓から入った月明かりの下、薄汚れた黒猫が、視界をさっと横切って行った……。
四
最後の襲撃はある日の夕刻、山道にある古い神社で行われた。
雨の後らしく森はその新緑の襟を正し、山々は水分を帯びながら膝を交えて並んでいる。
桜の花は盛りを過ぎて、地に落ちて汚れてしまった沢山の花びらにはやはり風情も何にもない。
狩りの対象は観光の最中にとくに用も無く、しかし吸い寄せられるようにここにやってきた男であった。
境内。桜を見ていた男が振り返った。小傘と目を合わせる。二人の距離は歩数にして10歩。
西日の逆光で男の顔はよく見えないけれど、その分男に自分の顔が、よく見えている筈だと小傘は思った。
少し男に微笑みかけると、当惑したような表情が返ってくる。晴れた夕暮れに趣味の悪い紫の傘を差している少女だ。しかもこんな神社で。男が重度のペドフェリアでもなければ、あやしく思うに決まっている。
小傘は努めてその笑みを崩さないようにしたまま、青い右目に左手をあてがうと、自分の眼球を力任せに引き抜いた。
スムーズに抜けた目玉の向うは血管の色が透けて赤黒く、残った左目とお揃いだった。
瞼の筋肉には力が入るから、いびつな形に穴が開いて見る者が気分を悪くしそうだったがそれでも当人はニコニコとしている。
青い義眼を手の中で転がしながらやがて口を、縦に大きく開ける。それはあたかも顔面に深紅の大穴が三つ開いたようで最初のかわいい女の子の面影はどこにもなく……。
「うらめしや」
呟くようなその声に男は震え、脱兎のごとく逃げ出した。
瞬間ちょっと呆然とする。自慢、秘蔵とも言える最高の驚かし方の筈であった。
傘と目を分け合う為か、傘化けという魔の性質ゆえか、とにかく彼女は生まれついて目を一つきりしか持たない。
アルビノのように体や髪の色素は薄く、虹彩の色素も薄いので瞳は内側を通る血液の赤色を呈するのが普通である。青いもう一つは義眼であった。この特徴を生かした最高の技であった。
この精神攻撃を食らったら普通人間は卒倒するか腰を抜かす。そこを楽に狩り取れるのであって逃げられるとは想定の他であった。
やはり夜を待つべきだったか。だが真夜中に都合よくこの地を通る者が有るとも思えないし、顔を見せるのが肝なれば夜はむしろ効果が薄い筈だ。
とはいえここからが狩りの本番だ。体中に力を行き渡らせる、興奮。人間なら副腎髄質からアドレナリンが分泌されているのだろう。
追いかけっこ上等。持久戦上等。
焦ってミスって死ぬのはお前だ!
その時。
参道の石畳に毛躓いて転んだ。
鼻から大地に接吻すると、勢い良く鼻血が噴き出した。
傘は手放してしまう。地面にぶつかり衝撃を受けて閉じられた。
なんと。一番焦っていたのは自分であったのだ!
ちょっとの計画の狂いは、早く人体を獲得せねばならぬという焦燥をより致命的なものにしてしまったのだ。
顔を上げて。匍匐前進で右手に傘の柄を獲得した。
屈辱に塗れながら立ちあがった。ゆっくりと。そのまま傘を天に向けて開く。
開ききったその瞬間に、風も無いのにぐおおと舞い上がった。見れば逃げる男。もう麓の方まで行ってしまっている。
山を転がり落ちて行くが如き速さで必死に逃げた男を、人の町に辿り着くまでに追いついて始末する事はもはや到底できそうになかった。
力なく、ぺたんと膝をついた。
傘は独りでにまた閉じてしまった。気持ちを象徴するように。
「ふええん」
人間狩りが失敗したのは初めての事だった。そこまで力は失われていたのだろうか。
力なく落とされた義眼が石畳をころころと滑って行く。放心しているから、これを拾いに行く気にもならない。
今日は食事もできなかった。
死にたくない。
死にたくない。消えたくない。闇に還るのは嫌だ。きっとこのぼろ傘は物陰で誰にも見守られず傘じゃない物にクラスチェンジを遂げるのだろう。
そんなのは嫌だ! そんなのは、断じて嫌だ!
例え誰かに使ってもらえるとしても、この素晴らしい自我を永久に取り戻せないのは嫌だ。どうせ使ってもらえるかどうかなんて、道具の身にはどうだか知らないが、今や生命となった私の心にどれほどの価値が有ろう。
命にしがみつく心が駄々っ子のように彼女を泣かせるのだ。
泣いてどうにかなるっていうならいくらだって泣いてやるものを。
わかってる。泣いてもどうにもならない事は。
どうして涙なんて有るのだろう。
自分の死がよりリアルな色を持って眼前に迫りくる。体を襲う寒気が、魔物の如き大きな手で私を掴みに……。
すると今。
今突然に、自分の足元遥か何千メートルの地底から、温度有る風が吹きあがり、この身体をドン! と衝撃さえ伴って刺し貫いた。
死が私を奪いに。
死が私を奪いに。
否否私をしてぞくぞくと興奮せしめるこれは命の風に相違ないのだ!
掻き立てられた鳥肌に小傘は激しく歓喜していた。
まるで高級料理を始めて食べたときみたいな!
命の灯火が改めて灯され、これが将来、自分が間違った事をしない限りは、決して消えてしまうことが無いのだと確信した。
まさに今、間違った生き方故に積み重なってきた害悪が取り払われ、みるみるうちに善良なるものに作りかえられていく『動き』が自分の中を通って行く。
一体今まで何が悪かったのだろう。
一体今どういう機序が私の身体を救ったのであろうか!
恐怖とは!
恐怖とは恐怖される対象だけによって漠然と成り立つものでは決してない。
恐怖は恐怖する者が居てはじめて成立するのだ。
確かに人の死、そして下手人の存在は、動物としての人類にとって絶大な脅威となるし、タナトスとは全ての恐怖の源泉の筈だ。それなのに。
それなのに小傘の事が風の噂に広まろうとも、単純な死が畏敬をもたらさないのはこれが余りに具体的すぎるからだ。
そして超常的すぎるのだ。現代に有ってついに、人は死と隣り合わせではない。その立場から脱却した。死は警察が追う物であって普通 自らの身に降りかかるものではない。この根拠なき認識を若さと呼んだりするらしいが。事実若い人間に広まるのは『本物の死の恐怖』を伴う『人間の連続怪死、行方不明』などというものではない。もっともっと、それからしたら馬鹿らしい、『子供だましの怪談』……。 死から生まれた傘には理解の及ばない事であったかもしれない。
いずれにせよ男が今逃げおおせた! 小傘を恐怖してしかも命を落とさなかった。
力が授けられるのを感じて小傘はようやく理解したのだ。
この『人の驚愕』こそが、自分を高める、そして高めていた本当の要因であったに違いないのだ。
自分で言ったんじゃあないか。生きている事は素晴らしいと。
生きているという事は本当に素晴らしい。だから生きている人間は、妖怪の一匹くらいなら余裕を持って養うエネルギーを分けてくれるのだ。
今まで力が喪われてきたのは、心の飢餓が満たされる感覚を受けた時に、逐一その源泉たる『生きているという事』を奪っていたからに他ならない。
まるで中世の金持ちが、高級料理を食べては鵞鳥の羽で喉をくすぐって吐き出し、そしてまた別の料理を楽しんだように。私は無自覚のうちに、何一つ飲み込んではいなかった。
それらを全て悟った時。
「ははっ。なんて盛大な勘違いでしょう。私が結局一番悪いんじゃない」
多々良小傘はばたと地面に倒れ込んだ。乾いたような口調の言葉を残して。
最期に心をよぎったのは。
『例えそうなのだとしても、結局私が一番悪いのだとしても、例えそうでも、死にたくない。
生きていたい。』
しかしてその希望もむなしく彼女の意識は風に飛散して行く。
深刻なる心の飢餓は妖怪にとっては死に至る病であった。
そうと気づかず酷使した身体の損傷は相当に重大なものだ。
油を注がなかった為に壊れた機械に今さら油を注いだところで、ちょっとは動くかもしれないけれど、重大な機関部が壊れてしまっていたらどうせもう寿命は無い。前の通りに働きもしない。
きっともう、何もかも遅かったのだろう。
きっともう何もかも、全く遅かったのだろう。
しかし小傘の心はなんだか清々しかった。
自分が自分の過ちゆえにその存在を危うくしていた事に、今更気が付いたのだ。
何故死んで行くのかもわからなかった、『もう花を愛でる事ができないな』なんて、そんな事を考えていた思っていた時より、自分が悪いのだと確実にわかっているからには。
五
目が覚めると見知らぬ土地に居た。
春の様子は変わっていないけれども、周りの様子も森だけれども、こんなに空気がきれいな所は、小傘が一季節、短い時間を過ごした日本という国にはもう一か所たりとて無いような気がした。
日本では田舎の土地でさえ、その空気の美しさには取り繕ったような、一度汚れてしまったものを騙し騙し散らばらしているような、そんな感じがしたものである。
なによりずっと奇妙な事には、傘の眼だけを開いて見ると自分のヒトガタがこの眼を覗きこんでいた。自分の身体が動いているならそちらに意識が無い筈も無い。
全くもっておかしな事だ。
しかし小傘は理屈に合わないこれを、走馬燈か夢だと思ったから大して驚きもしなかった。
「ある時はトラ、ある時はヘビ、またある時は歩く人。さーて私は誰でしょう」
「……私?」
「ふん、話が通じてないようね。私は鵺。正体不明がウリの妖怪よ」
「私はどうなったの?」
「あなたはどうにもなっていない。私が正体不明なだけ」
「私は、死ぬの? 闇に還って行ってしまうの!?」
目の端に涙が有った。
正体不明の妖怪は、これをぬぐってやって、言った。
「心配いらないよ忘れ傘。この世界に来たからにはあなたは何もかも、これからなんだから」
結論から言えば、多々良小傘は忘れられて幻想入りしたのだ。
そうして幻想郷に来た。
妖怪多々良小傘を認識し、会いに来れるという事は、例え無意識にせよ小傘を知っているという事だ。
つまりは常識で普段は否定されているにせよ、忘れ傘に対する漠然とした恐怖感を持っていた人間という事だ。そういう数少ない人間を片っ端から惨殺していった結果、しかもその恐怖を、伝説として拡大させる事もできなかった結果、彼女多々良小傘は早くも人々の幻想に 身を落としたのである。
こうして多々良小傘は、幻想郷で世界を謳歌しながら人の子をおどかして回る、至って平和的な妖怪になりました、とさ。めでたしめでたし。
と、ここでもう話を終わらせてしまっても悪くはないのだけれど、ここまで舞台を持ってきたからには語らねばならない出来事が一つだけ有る。
それから幾時代も後の事だ。
小傘は人を驚かすごとに当然のように超常的な力を身につけていって……。
―――自らの本質を理解したという事は、どこまでも彼女を成長させた。
やがて弾幕のルールが制定され、それでも制定される前と同じように、あるいはそれより激しく、いくつかの異変が有って。
それはある、晴れた冬の昼間の事。奇しくも小傘の物心が開花した日に良く似ていた。
この世界の物語と小傘の物語とが交差した日。
三人の主人公たちを驚かせようと戦った日。
幻想郷の空に飛びあがった人間が三人。
どう見ても普通ではない。
でもたまには変わった奴もおどかしてやろう。
変わった味がするかもしれない。
と、一人目、博麗霊夢の前に彼女は立ちはだかったのだった。
「理不尽だわあの二人。忘れ傘の夜行列車を具現化しても驚くそぶりすら見せないなんて。結構疲れるのよ」
ベテラン二人は小傘は何をしようがほとんど事も無げに通り過ぎて行った。
小傘は思う。
あと一人通る様子だけれどはっきり言って勝ち目はないのではないか。
もういい加減にしろと思う。
生涯決して思い出さないだろうあんなどうでもいい事はと思っていたあの『最初に殺した人間のカップル』が想起された。
同じ人間が、こちらではなんと骨太なのが居る事だろう。
驚かすだけで一苦労。大変な事だ。
そりゃあ大変なんてもんじゃあない。
『一般人2人』なんかとゆめゆめ比較する事なかれ。比較する事自体失礼であろう。
幻想郷の人間の、『上から2人』を連戦で相手にしたのだから。
とはいえその分小傘が成長していたのも事実ではあるが。
この分じゃあもう一人だって強いのだろうな。しかし途中で投げてしまうのもなんだか、信条に反する。
ふーっ、人間の小娘がもう一人。いいや、わちきが責任を持って驚かせてあげましょうかね。
傘は風に吹かれて飛んで、その風祝が居る高度まで舞い戻ったのだった。
「ちょっと待ってよ〜」
「はい、何でしょう」
「うらめしやー」
「……人間は妖怪になめられていると言う事かしら」
結論から言って東風谷早苗は。
妖怪退治、異変解決。そのわずか第二戦目で、幻想郷最高クラスの九十九神と戦うにはいささか役者が不足過ぎた。
「うらめしや?」
「はいはい。表は蕎麦屋」
「……私を見て驚かないの?」
「今は、部屋の中で小さなヘリコプターを飛ばせる時代。今更傘が飛んでいようが、そんなもんで今の人間が驚くもんですか」
東風谷早苗は。
舐め過ぎた。カワイイ外見と間の抜けた言動をそのままに受け取った。また自分の力を過信した。こんな妖怪程度簡単に退けられる―――!
「なんと、わちきが時代遅れともうすか」
「そのキャラ作ってるでしょ? まぁ作ってなくても化け傘は時代遅れですけど。大体、その傘何なのよ。茄子みたいな色してさぁ」
「しくしく。頑張って妖怪らしくしようとしてるのにねぇ。ちょっとデザインが悪かったからって捨てられて……頑張って捨てた人間に見返してやろうと妖怪にまでなって……」
「あ、あの、もし?何か気に障るような事を言いましたか?」
東風谷早苗は。
最期の瞬間、その忘れ傘の強力極まる猛攻以上に、彼女の右ではない左、赤い方の瞳の奥底冷え切った漆黒の部分に確実な自分の死を見たという。
「いいのよ。こうして妖怪は寂しく消えていくの」
「あ、ああ、そんな意味で言ったんじゃなくて……。ただ、私が友達からそんな傘を渡されたら、断って雨に濡れて帰るかな〜なんて」
「道具(ようかい)の気持ちが判らない人間なんて、酸性雨にうたれて溶けてしまえ!」
「私は東風谷早苗。人であり神である現人神です! 妖怪には負けませんよ」
東風谷早苗は。
東風谷早苗は驚かなかった。何の事はない。驚く前に死んでしまった!
「なあんだ人間じゃない。しかも歯ごたえが無い。味じゃなくて勝負の話よ。それともアラビトガミってのは、人間と同じ味かしら」
小傘にとって肉体の飢餓は心の飢餓と同等に深刻になり得る。
驚かした人間を時には食べてしまう事こそ、幻想郷に来てから小傘が身に付けた生きていく術の一つだった。
抜き取った心臓を、傘と一緒に右手で持って、齧りながらぼやくことには、まあ問題ない。驚かない人間ならば死んだとて構うものか、と。
まずは腹ごしらえをしながら、ゆっくりとあの手強い2人の人間をおどかす算段を練ろう。
やっぱり舞台は夜の方が良いし、必要なら鵺にも協力してもらおう!
一方胸と腹とに一か所ずつ大きな風穴を開けた緑の巫女は、血まみれの左手で吊られて水色の空にゆらゆらと揺れていた。
風穴の向うにも青い空が見えた。
今頃血の通わない脳髄は、過去の自分の大胆さを悔いているのだろうか。
それとも奇跡がこんな風になってしまった体でも復活させてくれるはずだと、本気で信じているのだろうか。
そのどちらでもない事を小傘はよく知っていた。
ただのシカバネは振り子時計の振子。
心が喪われてしまえば。飛散してしまえば。
何を考え妄想して楽しむ事さえ決してできなくなると知っていた。そしてだからこそ。
だからこそ、『こうはなりたくないものだ』と小傘は思った。今までそう心がけて生きてきたし、これからもそう心がけて生きていくだろう。
死が隣に有ってこそ生は光り輝く。
この生命に関する感覚は小傘の生まれ持ったもので、また本質だ。決して変わることは無いだろう。
多々良小傘はきっと、もっとずっと長い間世界を生きていくのだろう。そして結局、人を殺すのだろう。
今少女が獲物の心臓を全て腹に収めてしまうと、傘の角度が変わって、こちらからヒトガタの全身と、憐れな少女の屍とを隠した。
舌の生えた奇妙な傘が、傘だけがくるくると回って、風に乗って飛んで行ってしまったならば、後にはもう何も残らなかった。
ただ水色の空が、どこまでも果て無く、きりも無く広がっているだけで。
作品情報
作品集:
13
投稿日時:
2010/03/14 16:42:23
更新日時:
2010/03/19 01:00:55
分類
多々良小傘
35KBくらい
素晴らしい
ちょっと改行多すぎていつもより読みにくかったかもね
何より小傘がかわいい
この調子で文SSも頑張って
この小傘はかっこかわいい
好きです。
こんな小傘に憧れる
作者が今も文を書いてるといいな