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『星海』 作者: タダヨシ
もう、二人とも眠っているだろうか?
私は寝ているふりをしていた布団から抜けて寝室を出ると、泥棒でもないのに慎重に歩く。そして、まるで綿が落ちる様に床を進む。
ここは夜の守矢神社。昼間は大勢の参拝客で賑わっているが、今は自分と諏訪子と早苗の三人しかいない。
闇に浮かぶ月は境内を飾り付け、神社を信仰の住処以上のものに変えていた。私は夜空に浮かぶ銀円を見ていつも思う。
あぁ、やはり月は綺麗だ。
自分は夜に一際転がるあの珠が大好きだ。夜空は幾つもの星を映すが、やはり自分の好みはあの銀に輝く球だけだった。これとは別に輝く太陽も好きだ。金の陽気を出し、地上の命を躍らせるから。
だが、それでも私は月が一番好きだった。
星より大きく、太陽よりも優しい輝きに惹かれたから。
ある程度、銀光を纏った床を歩くと諏訪子の寝室前で足を止める。私は諏訪子を隠している障子に手を滑らす。
諏訪子は、もう眠っているだろうか?
私は触れている指を動かして、紙と木の複合体をずらす。そこには、布団に包まって眠りに目を閉じている諏訪子の身体が見える。
と思ったのだが、指は障子を開ける前に止まった。
『すぅ……すぅ……すー』
不快さは無いが、どっしりとした寝息。
何て気持ち良さそうに寝ているのだろう。障子があっても『わたしは心地良く眠っています』と伝わってくる。きっと、この仕切りを退かしても、諏訪子は眠りに沈んでいる事だろう。
このまま障子を開けずに早苗の部屋に行った方が良いな。
私は健やかな寝息に対して唇を動かし、微かに空気を震わせる。
「失礼、良い夜を」
さて、次は早苗の所だ。
早苗の部屋は諏訪子の寝室から離れている。そんなに遠くはないが気付かれない様に歩くとなると結構な時間だ。
臆病な呼吸を幾つか繰り返した後、私は風祝の部屋前に立っていた。障子に触れる前に寝息が聞こえるかを確かめる。耳を蔽う髪を掻き上げ、早苗が眠っているかを調べる。
だが、聴覚叩くは鎮まる夜と己の心音だけ。
早苗は、大丈夫だろうか?
私は妙に心騒がされ、障子に指を触れて開けた。
そこには草色の髪に包まれ、安らかに眠りと戯れる女子の顔が在った。
私は細く深い呼吸をしながら身体を膨らませたり、縮ませたりする早苗を見て、安心の息を吹いた。
ふぅ、良かった。ただ眠っているだけだ。
きっと最近の守矢神社は重要な客人が多かったから、その対応で疲れたのだろう。
私は寝巻きの風祝を見ていると、ある事を想い起こした。
それは、外からここに移って来た後の記憶。
思えば早苗はこの幻想郷に来てから、碌に休んでいない。
いや、休んでいないと言うよりも、自分の時間を持っていないと言うべきか。
早苗も年頃の女の子だ。自分だけの秘密や楽しみを持ちたいと思う時もあるだろう。
もし、私の都合で幻想郷に守矢神社を移す事が無かったら、早苗は何事も無い平和な生活を、女の子としての幸せを味わっていた筈だ。きっと、幻想郷に入る時も何かしらの迷いや寂しさがあったに違いない。幻想郷に移りたくないという心も少なからずあった筈だ。
でも、早苗は何も言わず自分に付いてきてくれた。
正直な気持ちを語れば嬉しい。だが……
私は瞼を閉じてゆっくり息をする風祝を見る。
やはり自分はとんでもない事をしてしまったな。
燻る胸が早苗への想いで焦げ付いた。
私は暫く風祝の寝顔を見つめていたが、本来の目的を思い出して紙と木の仕切りに指を触れた。そして、自分にしか聞こえない囁きで言った。
まるで、誰かに言い訳するかの様に。
「ごめんね、早苗。あと、おやすみ」
私は愛らしい風祝に朝まで別れを告げると、障子を丁寧に動かし、元通りにした。
床を歩きながら目的を心に描く。
よし、二人とも眠っている。
私はまた別の部屋へと進む。
あと、必要なのは……
湖は夜月を食み、墨の姿を横たえている。
私は守矢神社から離れ、桶と手拭いを持って湖縁に立っている。
どうしても自分が『あれ』をするには湖の澄んだ水が必要だ。
別に澄んでいるという点では守矢神社の井戸水でも悪くは無い。だが、水を汲む時の音で諏訪子や早苗が起きてしまう。他にも念力や術の類で音を全く立てずに井戸水を汲むという方法もあるが、この方法は無駄に気力を消費するので非効率的だ。それに諏訪子や早苗はそういった時に放つ気配に敏感なので、音を立てなくても気付かれてしまうだろう。
という訳で現在、私はこの大きな水溜りの端に佇んでいる。
身体を地面から浮かせ、そのまま湖上を滑る様に進む。
様々な理由があって今この湖は自分にとって必要だ。
でも、一番の理由として大きいのは……
私は暫くすると湖の真ん中で止まり、湖面を見る。
やはりこの夜、この月を独り占めに出来るという事だろうか。
不定形の鏡となった湖は天月を受け止め、銀円を私の下に生み出す。
その輝きは本物の月には劣り、常にぼやけ、波打っていた。
だが、自分にはそれが月の静かな命を物語っている様で好きだった。
湖面の白くうねる光を桶で掬う。量は欲張りかつ控えめ。
私は木槽に捕らわれた黒い水を見つめる。
その液体は始め怯えた震えで慌ただしく踊っていたが、やがて冷静な時間と一緒に治まっていく。
それから、私は改めて桶の潤いに心を寄せる。
木槽の中には小さな湖。小柄な体は月を見つめ、懸命に輝いていた。
私は桶から眼を離し、数える。
「ひぃ、ふぅ……」
一つ目は巨大な湖に写る月、二つ目は夜空に転がる月。
「みぃ」
そして、三つ目は桶に踊るちっぽけな紛い月。
「ふふっ」
湖に声が広がる。特に意味は無く、時間の無駄でただ眩しいだけ。
しかし、私はこの桶中に輝く銀円が妙に可愛らしく思え、気に入っていた。
一通り夜の空気を味わうと、自分の事へと心が向く。
そうだ、『あれ』をしないと。本来やろうとしていた事を。
私は湖面に掌を向け、念じる。
その後、すぐに自分の求めていたそれは湖底から浮かび上がった。
音も無く姿を現したそれは見慣れた物。
荒々しい巨木から練り出された一つの直線――御柱だ。
だが、目の前にあるそれは日頃見る御柱やこの前紅白巫女と勝負した時に背負った御柱ではなく、遥かに大きく立派な姿。もし、この御柱を建材に使ったなら、家が数十件は楽に作れるだろう。
まあ、こんな巨木をどうにかできる大工がいればの話だが。
私はまだ水で湿っている御柱に息を吹き掛ける。すると、さっきまでこの巨木を濡らしていた水気は何処かに飛んで行き、乾燥した木肌を見せた。
「よし、これで大丈夫」
やはり神様は便利だ。濡れている物も息一つで乾かせるのだから。
私は巨木が乾いた事を指で確認すると、水入り桶と手拭いを御柱の頭に乗せた。そして、自分も同じく履物を両手に持ち、その上に乗る。
私はこの流れを終えると、大柄な一本木に仕事を頼む。
「上がって」
唇から漏れた音は響き、巨大な卓となった御柱に命を与える。
暫くすると周りの景色が沈み、その身を隠す。
ゆっくりと、だが、確実に。
湖も山も、雲でさえも。
ありとあらゆるものが、私の下へと退いていく。
もう、自分が住んでいる守矢神社は見下ろしても砂粒の程の大きさしかない。
やがて、幻想郷はその姿を消す。
だが、それでも私にはまだ見えていた。
その見えているものは……
正確に言えば景色が沈んでいる訳ではない。私が昇っていると言うべきか。
今自分が乗っている巨大な御柱は天に向かって伸びている。
どこまでも、限りも分からないままずっと。
私が、満足するまで。
既に妖怪の山に架かっていた雲は見えない。
ここには大地の息吹が無く、河の流れも無く、風の囁きすらも無かった。
人も妖怪も幽霊もここにはいない。
ついでに空気も無い。私が神様で良かった。普通の生き物だったら死んでいる。
加えて物質を大地に縛り付ける力も弱くなっており、御柱上の自分や桶、手拭いが微かに宙へ浮かんでいた。
もう、いいかな。
思考が休憩を伝えると、自分の立つ御柱は待ってましたとばかりにその成長を止めた。
私はその動きが止まった事を確認すると、巨大な卓になった御柱を見る。
すると、そこでは水入り桶と手拭い、さらには自分が本格的に浮き、離れていた。
あっと、いけない。
私は慌てて『念』を使い、体と桶と手拭いを御柱に引き寄せる。そして、心に粘着質の思考を走らせた。
やはり、ここは不便だ。とてつもなく。
ここでは常に『念』を使っておかないと、自分を含めありとあらゆるものが御柱から浮いて、何処かへ行ってしまう。
そう考えている間に足と二つの道具が御柱の頭にゆっくりと着地する。
桶はがちゃりと揺れ、手拭いはすたりと貼り付く。
まあ、それでも自分はここを選んだのだけど。
手に持っている履物を足元に寝かす。しかし、その姿は御柱を汚さない為、本来の置き方とは逆。
これで準備は終わった。
あとは『あれ』をするだけだ。
辺りの視界を撫でると、幻想郷が全くと言って良い程に無い。
天を見れば闇で、夜のそれとは比べ物にならない。
左右の視界を捜してみてもひたすらに黒い。
どんな墨でも表わせない位に濃く、深い。
しかし、それでも御柱の端から見下ろすと、幻想郷が見える。
でも、それは両の手で包み込んでしまえる程に小柄だった。
もう、幻想郷は私から離れてしまった。
もう、ここには私の知っている世界は存在しない。
天を見上げると、清々しい程に黒い空。
そうだ、ここには何も無い。
だが、口端は笑みを作って若干の思考訂正。
ほとんど。
墨で塗り固めた虚空によく気を払って見ると、分かる。
小さな、白い輝き。
見つめるのに慣れてくれば、光はいくつにも増える。
それは、限りなく。いつまでも無くならない。
そうだ。
海、これは海だ。
幻想郷には存在しないと思われていた海だ。
だが、幻想郷の海は外のそれとは少し変わっている。
まず、水は真っ黒。次に魚は白い星で驚く程に動かないし、食事もしない。
しかし、それすらも些細な違い。
私は黒水と白魚から目を逸らし、一番の違いを見る。
それは一際輝く銀の光。星より強く、太陽よりも優しい球体。
いつだって、どこだって私を見てくれる月だ。
やっぱり、近くで見る月はいい。
私はこれより綺麗なものを見た事が無い。
幻想郷の地上とは違った良さがある。
その顔には大小の穴が穿たれ、でこぼこで、決して完璧な珠とは言えない。
だが、私は刻まれたそれを見て、逆に月の静かで激しい心の揺らめきを感じた。
あれは、生きているのだろうか?
それとも、自分が生き始めるのをずっと待っているのだろうか?
月は何も言わない。だが、充実した無限の問いを与えてくれる。
このまま月を見ているのも良いだろう。しかし、私は当初の目的に立ち戻り、月の鑑賞を止めた。
そうだ。『あれ』をしないと。
その為に自分はここに来たんだった。
私は桶の水で手拭いを濡らす。
さて、始めよう。
様々な動きを経て、やっと私は行う事が出来る。
『あれ』をする事が。
髪飾りを外す。縄に秋の葉が付いているだけだが、お気に入り。
首から提げている鏡を取る。いつでも輝き、嘘の無い景色を見つめる。
私はこれらの装飾を足元に置く。
何故だろう?
疑問を投げ掛けながら自分を覆う戒めを解す。
どうして、こんな事を?
答えはない。しゅるりと肌から布が滑る。
気付けば、着ている物全てが下に散っている。手は鮮やかな色を拾うが、体はそれを纏おうとはしない。代わりに、指は布を丁寧に畳む。
しばらく、静かにしていて下さいとばかりに。
私は肌から落ちた布を規則正しく纏め、髪飾りと鏡の隣に預ける。そして、自分を朧げな視界で撫でた。
今、身を包むものは無く、白い肌だけ。
肢体は女性らしさを描き、月と星々の輝きがそれを支える。
私は手を首に触れさせ、そっと人差し指を泳がせる。
「……んっ」
熱い痺れが喉を流れ、血を伝って小さな声になる。
私はこの痺れを知っている。名前は分からないが、ずっと前から理解していた。
この熱は恋の種、子の始まり、快楽の予兆。
この熱が引き起こす事は、別に良くも悪くもない。
ごく自然な現象で、恥ずべき事でも憎むべき事でもない。
だが、それでも自分にとってこの痺れは邪魔だった。
『何故です? この熱は命が生きていく為に必要不可欠、絶やしてはならない』
知識は語る。揺るがぬ真実を。
でも、私は悪あがき。ちっぽけに抗う。
知ってる。そしてそれは素晴らしい事だと思う。
頭は熱の有効性を認めているが、心は拒否。
でも、私はいい。要らない。
別に激しく燃え上がり、何かを残さなくたっていい。
身を焦がす恋も、命を繋ぐ子供も、蜜の様な快楽もいらない。
私はただ大切な人を密かに想えればいい。
熱なんかに頼らずに、ごく普通に人を愛したい。
熱に操られて何かを成すのは素敵。
でも、私にはそれが悲しい虚像に見える。
だから、自分は身に宿る熱が好きになれない。
私はただ静かに、平穏に、でもそれ故に確実な愛を成したい。
だが、熱はそれを許してくれない。いつでも自分の成そうとする愛を潰しに掛かる。
無理矢理抑え込めば良いのかもしれない。
でも、私は知っていた。
この熱は血の流れと同じで、ただ抑えるだけではどうにもならない事を。
きっと、無理に抑えれば、いつか大変な事になってしまうだろう。
水を溜め込み過ぎた皮袋同様、弾けておしまい。
それに加え、愛と熱を混同しかねない。
そう、ある程度は従わないと駄目だ。食事をするのと一緒で。
でも、そうすれば熱は暫く眠ってくれる。
だから、私はこれから熱を濯ぎ落とす。
『あれ』をする事によって。
少々気に障るが、仕方がない。
さて、そろそろ始めよう。
心を切り替え、『あれ』をする為に御柱の端へ座る。
そういえば神様以外もこの行為をするらしい。その時は自分のする行為に加え、想い人や他者の魅力的な部位を想起するそうだ。
でも、私は後者のそれをする気にはなれなかった。
もしそれをしてしまえば、想起した者を間接的に汚すと思ったから。
それ故、私は熱を自分にのみ向ける。
この、誰も見ていない黒い海で。
首筋に掌をそっと当て、ゆっくりと胸へとずらす。
息が熱くなり、口は幾つもの銀糸を紡ぐ。
「あっ……」
ゆっくり、慎重に指を動かすと、血が粘付いて理性が濁り、じわじわと心地良さが滲み出す。
だが、それでも手は満足出来ない様で、上半身を触れ回る。
指が熱心に病んで踊る。
まるで、未知の自分を探り出すかの如く。
それは激しく、切ない。
体の内側が粘着質の蒸気となった様に、だるい。
「あぁっ、あ、ぁ……」
気付けば手が脆い部品を撫で回している。
しかも、その範囲は上半身に留まらず、胸を下る。
突発的に潜む熱はありとあらゆる場所へと廻り、目的へ導く。
肢体が動く度に果実が潰れ、なにかが滴る。
そして、それは体中に根を張り、蜜を振り撒きながら囁く。
『まだ、足りない。もっと、蜜を』
ください、と。
ここまで来るともう意識は意味がない。
在るのは甘い糸に引かれ、苦悩の裏返しを求める体だけ。
ただひたすらに熱と痺れを求め、己を壊す偏った演奏を続ける。
指が下り、脚の付け根に触れると、中にある凍った器が熱され、どんどん軟化する。
「んっ! きちゃ……」
何故、こう言ったのかは解せない。
その時、私は何かを思ったのかもしれない。
だが、それも効果は無く、指は更なる狡猾へと乱れていく。
今、なにかを欲しがる手は私の、女性としての源に触れていた。
左指は紅い泪の一本線を優しく下り、右指は小さな路を昇る。
激しく暴れ、それの見返りを求めている。
「んぅっ……あぁ、あ」
理性の裏には幾つもそれが凍り、群れている。
隠れた熱はそれを溶かし、自分をただ甘さに沈む物へと変えてしまう。
考える事を止め、虚ろな主に仕える体。その懸命さはいつもと変わりが無い。
だけど、どうしてだろう?
わたしはぼんやりと思った。そんな事したって意味無いのに。
何故、体は自分に逆らっているのだろう?
こんなにも、わたしの理性を無視して。
「ひゃうっ! うぅっ、ぁ……」
知性と理性、そしてわたしが千切れていく。
その隙を突いて熱は自分を操り、躍らせる。
体全体が震え、奏でていた。
ああ、奥から溢れ出てくる。
者ではなく物のわたし。
「あぁっ、んぅっ……あ、あぁ! あ、ぁ、あっ……」
それは熱に操られた命で、神でも人でも無く、一つの灯火。
良いも悪いも無く、ただそこに存在しているだけ。
『さぁ、早く聞かせて。生き物としてのわたし』
小さな囁きが消えた後、聞こえた。
誰かが歌って、透き通った声を響かせている。
その心に結われた楔を外し、体だけの存在で。
そして、その誰かは女性の中心から命の熱を振り撒き、幸せそうな顔をしていた。
何て、美しい歌だろう。もっと、聞いていたい。
でも、もう限界だ。
わたしは熱に体を掴まれ、どんどん沈んでいく。
あぁ、だめ。
わたしは白く破滅する眩暈の前に、天を見つめた。
そこには、月。
銀色の心と自分の熱を吸って、大きく輝いていた。
きれい。
わたしはもっと見つめていたかった。
だが、視界はどんどん白く、熱くなって見えなくなっていく。
体は熱くなり、鼓動する病を刻む。
粘りつく何かが、浚っていく。
わたしは黒水と白魚、そして銀の月が漂う星海で、命の熱に呑まれた。
目の前がはっきりしない。まるで滅茶苦茶な虹の様。
でもこの症状は知っている。時間が経てば治まる。
境目を無くした視界が、段々とはっきりする。
線が引かれ、色が分けられて、明確な何かが見えてくる。
水が溢れかけの桶、湿った手拭い、鏡、紅い葉が付いた縄、主の無い布、それから……
自分から遥かに離れた御柱。
『あれ』をした後は、いつもこうだ。
気が抜けて自分を御柱に括り付けるのを忘れてしまう。
私は慌てて巨木に『念』で近づく。もちろん今まで宙を漂っていた物品も含めて。
足の指が巨大な卓――御柱の頭に着くと、それに続いて自分の持ち物達もゆっくりとその上に座る。
「あぶない、あぶない。流されるところだった」
口は警告の意味を発していたが、心は微かに楽しんでいた。
「さて」
私は湿った布を手に取り、指の間に滑らせる。
『あれ』をした後自分の体は必ず汚れるので、手拭いで綺麗にする。
始めに手を拭く。指先から手首まで丁寧に。
次に手拭いを桶の水で濯いで絞る。今度は胸や腕、腹を拭く。
また布を水に浸して絞る。今回は脚の付け根から足の指までを上品に拭う。
桶水に働き者の拭いを浸ける。
あと一箇所で終わり。
私は手拭いで背に浮かんだ汗を取り除こうとした。しかし、それは今まで気付かなかった存在に邪魔された。
背中に触れる前に、さわりとする細い糸。
腰の少し上まで触れている。
私はその存在を心に入れると、下り調子の気体を出した。
「はぁ……」
やっぱり、こっちの方も解けちゃったか。
私は面倒臭さを抱えながらも背中を拭いた。
山の様な髪型は自分のお気に入り。
特に目立った美しさや魅力は無いが、神様としての威厳と重みがある。
だから、頭をこの髪型に結い上げた後は、常に乱れない様に『念』で固めている。
食事をしている時も、誰かと話している時も、寝ている時でさえも絶対に崩れない様に気を払う。
だが、今自分の髪は乱れている。いや、それどころか解けていた。
『あれ』をしたせいだ。
あの行為をすると、どうしても髪に掛けた『念』が外れる。
どんなに頑張っても、考えても解けてしまう。
ほんの一瞬、熱に身を任せただけなのに、自分の注意は取れてしまう。
だから、もう一度髪を結い上げないと。
私は屈んで足元の鏡に触れる。だが、そこに自分の顔は映っておらず、装飾の姿をした金属だけがあった。
裏返せば、自分の顔を見て髪を結い上げる事が出来る。
だが、手と心は中々それをしようとはしない。
それをしなければ、始まらないのに。
「よし!」
私は心を固めて鏡を裏返す。
ごりん、という音と一緒にその円は光り出し、辺りの景色を反射する。
奮える心を携えながら鏡を見つめる。
輝く銀円に映るそれは、その顔は。
「あっ……」
頬が急速に燃え上がっていく。私は急いで視界を両手で覆う。
「恥ずかしい……」
鏡に映った自分をほんの一瞬見ただけ。だが、私にとってはその事が何とも言えない程に痒かった。
この時ばかりは自分の前にある輝く反射板を恨む。
正直過ぎる。もう少し、嘘を吐いてくれれば良いのに。
そう、鏡に映った飾り気の無い私は、何とも酷いものだった。
ほんの一時、眼に焼き付いたそれを巻き戻す。
小さな生き物に収まっていそうな、よく輝く鳶色の瞳。
仄かな色を持つ唇。これは柔らかで優しい表情。
解けた髪。乱れながらも真っ直ぐに下を向き、憂い青を纏っている。
これらの部位を一つ一つ見ても、別に問題は無い。
だが、これらが集まって一つの顔になったなら……
私は視界から手を退かし、また鏡を見る。
「あぁっ、もう……」
でも、やっぱり恥ずかしくてまた顔を隠してしまう。
「こんなの、誰にも見せられない……」
幼かった。
鏡に映った私の顔は。
早苗や諏訪子よりも遥かに。
これじゃあまるで、ただの少女だ。
威厳も重みも無い。
とにかく、これは神様の顔じゃない。
あぁ、恥ずかしい。
私はどうにも頬の熱さを抑え切れなくなり、天を見つめた。
そこには星海が幾つも身を横たえていた。
何処までも拡がり、終わりが無く、常に光輝いている。
私はその綺麗な姿を見ていると、自分の顔も少しは愛せる様な気がした。
まあ、他人に見せられるかどうかは別として。
視界の端に銀月が見える。その球体は優しい光でただこちらをずっと見ている。
私は意味も無く銀色に問い掛けた。
「ねぇ、あなたには私がどう見えてる? やっぱり、神様には見えない?」
月は何も答えなかった。しかし、私は微笑んだ。
その答えが無いという事が、答え以上の答えに思えたから。
私は暫く情緒深い月を見つめていた。だが、しっかり者の意識はかちかちと従順に知らせてくる。
『幻想郷の夜はそんなに長くありません。今すぐお帰りの支度をするのが良いかと』
私はそれに虚ろな返事をする。
知ってる、今すぐ準備をするから待っていて。
丁度、頬の熱も退いた所だし、まずは髪を結い上げよう。
私は鏡に視線を向ける。
そこには、目も当てられない程に頼りない神様の顔。
鏡の私はいつもの私へと戻ろうとしていた。
髪は普段の威厳と重みがある山型。
今、鏡の自分は口や目を指で吊り上げたり、引っ張ったりしている。
『あれ』をして解けてしまうのは『念』だけではない。
私が普段抱えている神様としての緊張感も解けて、いつも心掛けている硬い表情が柔らかい表情へと変わってしまう。
柔らかい表情の方が本来の私。しかし、この顔で神様を語るとなると、威厳も重みも無い。きっと、誰も信仰してはくれないだろう。
だから今の私は鏡を見つめながら、顔を威厳と重みのある神様へ調整している。
両の人差し指で眉を吊り上げ、同じく両の親指で口の曲線を改変。
仕上げにおでこから下唇までをきぃと強張らせ、自分に教育する。
これが、いつもの私であり、神様として在るべき顔ですよ、と。
「うん、顔は大丈夫」
こうして、鏡の自分はいつもの自分になった。
もう、幼い少女の顔ではない。
折り畳んであった布を手に取り、身に纏う。本来、この行為をするのは髪を結い上げる前だ。しかし、自分の場合はこれで正解であった。
着る物を全て纏った私は鏡に映った己を見る。
普通であれば髪は乱れ、もう一度結い上げねばならない。しかし、輝く銀円に映る私の髪型は一切崩れておらず、山型のままだった。
「よし、髪も完璧」
これは結い上げた後に髪を『念』で固めているおかげだ。少々、乱暴に動いてもこの髪型は乱れない。頭を整えてから着る物を手に取ったのも、この『念』がしっかり働いているかを試す為であった。
紅い葉の髪飾りで頭を彩り、最後に正直者の鏡を首から提げる。
これにて身だしなみ、終了。
あとは、帰るだけ。
私は足元の巨大な卓に掌を触れさせ、声を向ける。
「あともう一仕事お願い。降りて」
御柱は愉快な軋みを鳴らし、その身を大地へと縮ませる。
辺りの景色が昇っていく。
黒い水が、白い魚が、そして銀の月が遠ざかる。
私はほんの一瞬だけ寂しくなり、別れを告げた。
「さようなら」
星海はどんどんその存在を小さくしていく。彼方にある星は隠れて、お別れの瞬き。
「また、会いましょう」
もう、空よりも幻想郷の方が大きい。
風の囁きと山の華奢な小言が始まる。
ここまで来て、やっと心は実感する。
私は帰ってきた。この愛すべき場所へ。
別にちょっと遠出をしただけなのに、妙に懐かしく、嬉しい。
「ただいま、私の好きな幻想郷」
私が挨拶すると、眼下には湖と守矢神社が見える。
これで道具と御柱を片付ければ、全て終わり。
あとは布団の中で朝を待つだけ。
夜の濁り無き空気が、肺を撫でる。
「それにしても、良い夜ね」
体に絡む熱も濯ぎ落としたし、今夜は心地良く眠れそうだ。
今日は目覚めが良い。
睡眠時間を削ったにも係わらず、体が軽くて心も澄んでいる。それに加え早苗が作ってくれた朝食はいつも通りの美味しさで、私の朝を豊かにしてくれた。いや、いつも通り美味しいという事は日々料理が上達しているのだろう。素晴らしい事だ。
そんな風祝の素晴らしい料理を平らげた自分は今、食卓に座を付けている。
一緒に食事を終えた早苗と諏訪子はもう、ここにはいない。
風祝は朝食の皿を洗いにお勝手へと向かい、目玉帽子の神様は朝の散歩。
水が流れ、それと一緒にかちゃかちゃという音。
早苗が朝の滋養物を乗せていた台を洗っている。だが、それも暫くすると、柔らかい物が陶器を撫でる音へと変わった。
私は食卓を立ち、お勝手へと向かう。何回か足裏で床を叩くと、皿を布巾で拭っている割烹着の早苗が見えた。
もう、そろそろ終わるかな。
緑の巫女は皿を食器棚に納め、仕事完了の息を吐く。
私は細くてご苦労な背中に声を掛ける。
「ねぇ、早苗?」
その音に括り付けられた頭はこちらを向く。
「はい、何でしょうか? 神奈子様」
私は彼女に歩み寄り、実に真剣な表情を作った。
「どうしてもやって貰いたい事がある」
「なっ、何ですか?」
若い風祝はその年精一杯に切実な表情。
「これを」
私は懐から硬貨と紙幣を取り出し、早苗の手に握らせる。
「……おつかい?」
「そう、おつかい」
私は風祝に明確な仕事内容を伝える。
「でも、一体何を?」
うん、流石真面目な早苗。買う物を言う前に聞いてくる。
私も誠意をもって答えねばなるまい。
「好きな物を買いなさい」
「えっ?」
依頼主に依存しないおつかいに風祝は戸惑っている。
だが、私は変わらずそのぼやけた頼み事を送り出す。
「早苗が『自分で欲しい』と思った物を買いなさい」
今まで聞いた事の無いそれに、早苗は緑髪を不可思議に揺らしながら答えた。
「でっ、でもわたし、欲しい物なんて何も……」
「いいから! いいから!」
私は早苗の割烹着を無理矢理引き剥がし、その両肩を掴む。
「えっ? ちょっ! 神奈子さまっ?」
早苗が変な声を出すのも無理は無い。
だって私に背中を押されているのだから。
ふふ、たのし。
ああ楽し。
今日の自分は、ちょっぴり不良の神様。
この偉大なる暴走行為は緑の風祝を玄関まで誘導すると、その軌跡を止めた。
「かっ、神奈子様! 本当にわたし、何も……」
聞こえない、きこえない。神様に都合の悪い事は聞こえない。
私は早苗の足に履物を着させると、その体を玄関外に押し出す。
「神奈子さまっ!」
早苗はまだ状況が飲み込めていない様で、こちらに懸命に声を掛けている。
何としつこい風祝、はっきり言わないと駄目らしい。
私は目の前の緑髪に指差し、条件付追放宣言。
「うるさい、拒否権は無し! 自分の欲しい物を充分買うまで帰ってこない!」
その声は見事命中。暴虐香る音を受けた早苗は急に張り詰めた糸になって口を開く。
「はっ、はい! 行ってきます!」
そう言うと緑の風祝は慌てて後ろを向き、振り返らずに何処かへ走って行った。
うん、よし。行った。
私はある種の達成感と共に玄関の戸を閉めて、思った。
あぁ、私は何て悪い神様なのだろう。
でも、口は悪戯に素直な笑みを作っていた。
ぷっ、くすくすくすっ。
背中から弾けの吐息が聞こえる。私はその響きに振り返り、口を開く。
「どうしたの諏訪子?」
まだ笑い病が治まっていない目玉帽子の神は言った。
「いやぁ、素直じゃないなと思ってね」
「うん、そうね。素直じゃない」
私は諏訪子の言葉に異論無く頷いた。
「素直に『遊びにいきなさい』って言えばよかったのに」
私はまたも頷いたが、言い訳をする。
「確かにね。でもあの子、早苗は真面目で頑固な所があるから、直接私の口で『遊びにいきなさい』って言っても、遠慮して本当の意味では遊ばないと思うの」
その詭弁を耳にした金髪の神は笑いの表情を冷めさせ、口を開く。
「うん、それもそうだね。ある意味正しいよ」
そうやって諏訪子は肯定の言葉を添えると、視線をちょっぴり恥ずかし気にして口を開いた。
「ねぇ、ずっと前から思ってたけど……神奈子ってさ」
私は帽子の神が次に紡ぐ言葉が分からなくて、思わず声を上げた。
「何?」
金髪に縁取られた顔が心地良い温さを帯びて、音を汲み上げる。
「優しいよね」
私はその滅多に聞かない甘さを飲み込むと、唇を気紛れに鳴らす。
「さて? どうだろうね」
ちょっぴり、恥ずかし気に。
私と諏訪子の間に意味の無い沈黙が流れる。
それは、仄かな香りがした。
暫くして諏訪子は玄関の戸に指を触れた。
「私はこれから外に出かけるよ。良い天気だから」
「そう? じゃあお気をつけて」
妙な帽子の神は玄関からとぼとぼと出て行った。
やがて、頭部の大きな目玉も景色に隠れ、見えなくなった。
私は開いたままの戸に手を触れる。
玄関から漏れる外の色は眩しく、ありとあらゆる存在が輝いていた。
確かに『良い天気』だ。
全ての者や物が太陽の陽気によって踊っている。
何と、美しいのだろう。
きっと、この光は全ての命を明るくさせるだろう。
でも、自分の心は別の輝きを好いていた。
戸を閉め、瞼を下ろして思う。
そう、私の一番、私の好きな輝きは……
眼を暗闇で覆っていても、はっきりと見える。
星海に浮かぶ、銀の円。
それは、星より大きく、太陽よりも優しい輝き。
神奈子様が『あれ』をする時はその、何と言ったらいいのか……
とにかく凄いんだ。
タダヨシ
- 作品情報
- 作品集:
- 13
- 投稿日時:
- 2010/03/24 13:37:24
- 更新日時:
- 2010/04/03 21:15:30
- 分類
- 八坂神奈子
- 東風谷早苗
- 洩矢諏訪子
- 神様だってするさ
髪が解けて鏡を見る辺りのくだりがもう最高だわ。
これだから排水口もやめられん。
ありがとう、とても感動した。
これからもいっぱい書いてくれ
こんなきれいでかわいい神奈子、初めて見たよ
二次元の少女に恋をするってことがどんな気持ちかを思い出した。ブラボー