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『フランお嬢さまといぬさくや』 作者: sako
わたしはさくやがすきです
りゆうはわたしといっしょにあそんでくれたり、おいしいおかしやおいしいおちゃをよういしてくれるからです
それにわたしがこわいゆめをみたときはいっしょにねてくれます、おりょうりもおしえてくれます
ときどき、こわいときがありますが、いつもやさしくてまるでおねえちゃんかおかあさんのようです
わたしはいっつもさくやがおねえちゃんになればいいなぁとおもっています
そのことをさくやにいうとさくやは
ありがとうございます、フランおじょうさま
といってわらってくれました。
わたしはさくやがだいすきです
フランドール・スカーレット作
家庭教師の上白沢慧音に『ご家族のことについて作文しなさい』という問題についての解答。
――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――――
夕刻が終わり夜の帷が落ちた頃。
吸血鬼を主とする紅魔館においては、人でいうところの朝の時間帯。
月光を浴びるテラスに朝食が用意されていた。
「おはよう、フラン、咲夜」
「おはようございます、おねえさま。咲夜もおはよう」
「おはようございます、レミリアお嬢さま、フランお嬢さま」
席に着いているのは二人、吸血鬼の姉妹、レミリア・スカーレットとフランドール・スカーレットだ。その傍らに立ち、てきぱきと朝食の用意をしているのが従者でメイド長の十六夜咲夜。紅魔館のいつもの夜/朝の光景だった。
赤い血のようなジャムを塗ったトーストを口に運び、ゆっくりと咀嚼するレミリアの横で咲夜は今日の予定について話している。
20時より夜行性の妖怪の会議へ出席。それが終わってから22時までに吸血鬼たちのクランへの報告書をしあげてもらい、0時を回ってから使役する吸血蝙蝠たちへの謝礼と対価の支払いの儀式を、とフランにはまだ難しいことを咲夜はレミリアに説明している。レミリアは頷くことなく、ときどき、その仕事は面倒くさいから今度にして、と応えている。反論もなく咲夜は分かりましたと頷く。
「………」
その光景を砂糖をまぶしたバタートーストを食べつつ眺めるフランドール。視線は姉よりもきびきびと仕事をする咲夜に向けられていた。
と、
「あ」
よそ見をしながら食べていたせいでデザートのヨーグルトを服の上に落としてしまった。白い粘液と砂糖代わりに入れていたブルーベリーのジャムで服が汚れる。
「あらあら、フランお嬢さま、よそ見はダメですよ」
「もう、フランったら、粗相して」
フランに駆け寄り清潔な布巾でその胸元を拭く咲夜。仕方ないわねぇ、といった面持ちのレミリアだったがどうやらその昔、食事の際に口周りから前掛けまでを真っ赤に染め上げていたせいでスカーレットデビルなんて呼ばれていた自身の過去は忘れきっているようだ。
「はい、終わりました。気をつけてくださいね、フランお嬢さま」
注意を受けているのに満面の笑みでフランは頷くのだった。
そんな、紅魔館の日常風景。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝食が終わり小一時間。レミリアが会合に出掛けた頃、フランは自分の部屋に戻り、机に向かっていた。
「むぅ」
可愛らしい金糸の眉を顰めてうなるフラン。握った鉛筆をふらふらと動かし、踏ん張るように頭に力を込めている。
「さ、フランさん。計算はおわりましたか?」
後ろには上白沢慧音が立っていた。
眼鏡をかけて、紐で綴った和書を手に、肩口からフランが机の上に広げているプリントを覗き込む。
簡単な算数の問題がいくつかそこには書かれていた。問題の殆どは回答されていたが、最後の一問、七の段のかけ算を使う問題だけが未だに空白のままだった。
「こういう時は、憶えたことを暗唱するのが一番ですよ。しちいちがしち、ししにじゅうし、しちさんにじゅういち…」
と、問題の解答そのものにさしかかる前まで歌うように九九の七の段を口にする慧音。
「しちししよんじゅうく…あ、そっか!」
その続きを口にして、ああ、とフランは頷いた。ぐーの手で握った鉛筆で=マークの次に回答の数字を書き込む。
「はい、よくできました。でも、その持ち方はいけません。キチンと鉛筆は持ちましょうねフランさん」
「えー、書ければどうだっていいじゃない」
「ダメです。字は人の心を表します。字が汚いとそれだけで、汚い人と思われてしまいますよ。丁寧に書くにはキチンとした持ち方でないと」
慧音の言葉になおもえー、と声を上げるフラン。彼女はあまり手先が器用な方ではなく、字を書くようなちまちました作業は大の苦手なのだ。
「失礼します。お勉強のお時間は終わりでしょうか」
開け放たれた扉を叩く音。慧音とフランが揃って首を向けると咲夜がシルバートレイに二人分のお茶とお菓子をのせて立っていた。
わーい、と椅子から立ち上がりフランは咲夜の元へと駆け寄る。
「早かったでしょうか、慧音先生」
「いえ、丁度、この子が最後の問題を解き終えたところです。休憩して、それから答え合わせをしようと思っていたところですよ」
テーブルの上にティーセットを並べ始める咲夜。
里の寺子屋で教師の仕事をしている慧音は咲夜に頼まれてフランの教師の真似事もしているのだった。もちろん、お給料は出ている。家庭教師というやつだ。
「今日はスコーンを作ってみました」
テーブルに着いた二人に咲夜はお茶を用意する。芳しい紅茶の香りに小皿に三つずつ盛られた三色のお菓子。あまり、洋風のものを好まない慧音ではあったが、この優雅な休息の時間に茶々を入れるようなことはせず、むしろ咲夜の手慣れた動きに感心の意を払っていた。
「いただきまーす」
両手を合わせて小さく頭を下げてスコーンの一つをそのまま口に放り込むフラン。途端にその顔が綻ぶ。
「おいしい♪」
「こら、フランさん。お行儀が悪いですよ」
とはいうもののスコーンの正しい食べ方を知らない慧音ははたしてああして一口で食べきってしまうのがマナー違反なのかどうかは察しが付かなかった。傍らに控える咲夜にちらりと視線を向けるも、彼女は無言で従者としてのつとめを果たしている。
ため息をつき、小さくスコーンをかじる慧音。その顔が、嬉しい驚きに満ちる。
「あ、美味しい…」
さくりとした歯応え後に仄かな砂糖の甘みと紅茶の風味が広がってきた。囓ったあとに見える茶色い破片は紅茶の葉だろうか。風味と歯応えと甘さの完璧な調和がそこにあった。
つづいて啜ったお茶も素晴らしいものだった。適切な温度とタイミングで入れられたお茶は機械じみた完璧さで作られていながら、僅かながらの人ならではのアナログさを発揮して微細な違いによる味わいの違いを作り出していた。茶道の御筆頭と同じぐらいの完璧さを持ってこのお茶は淹れられているのだった。
これならこの子があんなに嬉しそうな顔をしてお菓子を食べてお茶を飲むのも理解できる、と慧音は思った。
「おいしいよ、咲夜」
「ありがとうございます、フランお嬢さま」
フランの言葉に事務的な表情しか浮かべていなかった咲夜も微笑み、言葉を返した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
中庭。ぽーん、と打上げられた羽が宙を舞う。
「とりや!」
見定めた位置に向かって走り、丁度、頭上に落ちてきた羽を手にしたラケットで撃ち返すフラン。けれど、勢いの割に打点が悪かったのか、撃ち返された羽は同じような山なりの軌道を描いて飛んでいった。
「えい」
それを悠然とした歩みで落下地点を予測した咲夜が軽く打ち返す。これも山なりの形に飛ぶ。けれど、打ち損じたというよりは意図的にそうしてあった風で、羽はフランが立っている位置からそう遠くない所へ落ちるような気道を描いていた。
「チャンス! とりゃぁ!!」
ジャンプし中空で落ちてきた羽を打ち落とすようにラケットを振るうフラン。鋭い打撃をうけた羽ははたして、落雷のような速度でネットを挟んで向こう側の咲夜がいる場所へと吸い込まれた。
「あっ…!」
咲夜が手を伸ばすが届かず、羽は綺麗に地面へと叩きつけられた。
「4-6! ゲームセットです! フランお嬢さまの勝ち〜」
そう告げたのはネットを支える支柱…といっても庭に生えたニレの木の幹、の側に立つ美鈴だった。左右の手の指は今告げた点数と同じだけ曲げられている。六点目は親指を立てる形で。それがこの羽打ちのスコアボード代わりだ。
「やった!」
両手を挙げてラケットを振り回し、喜びを隠せない様子でいるフラン。残念ですわ、と咲夜は小さく肩を竦める。
「へへ、これで一勝一敗だね咲夜。さ、決着をつけましょ」
ずびし、と剣のようにラケットを構え、ネットの向こうの咲夜に突きつけるフラン。けれど、咲夜は少し困ったような顔をして、頭上に浮かぶ月を見上げた。
「もうしわけ御座いませんがフランお嬢さま。そろそろお姉様を迎えに行かなければならない時間のようです。勝負は、また後日ということで」
申し訳なさそうに頭を下げる咲夜。けれど、それで楽しく遊んでいたフランが納得するはずもなくえー、と不満の声を上げるのだった。
「あと一回だけだから。ねぇ、咲夜、もっと遊んでよ」
「そう申されましても」
眉を曲げて逃げるようにフランから視線をそらす咲夜。気まずい沈黙が流れ始めた。仕事と子供の我が儘、けれど、その子供の言葉は簡単に断れるほど軽いものではなく、咲夜はほとほと困り果てていた。納得してくればと、怒り顔のフランにまた視線を向けるが強いフランの視線にたじろぐばかりだった。
「あ、あの、それなら私がお相手をしますよ、フランお嬢さま」
それを救ったのは審判役をかってでていた美鈴だった。咲夜に駆け寄りその手からラケットを取ると、片脚で立って中華拳法“鶴の構え”のような格好をとった。
「さ、メイド長はお嬢さまのお出迎えに行ってください。ここ不肖、門番の私めが」
ほあちょー、と吠える美鈴。そんな彼女に咲夜は目配せすると、すうっと音もなく飛び上がった。
「では、申し訳ありませんがフランお嬢さま。勝負はまたということで」
それだけ言い捨てると咲夜はすぐに夜の闇へと消えていった。
それを呆然とフランは見送るしかなかった。
「さ、フランお嬢さま、かかってきなさい! 私は咲夜さんのように甘くないですよ!」
道化を演じる美鈴の言葉も遠く、フランはラケットを落とすとそのまま屋敷の中へと帰って行ってしまった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「遅いわよ、咲夜」
開口一番、咲夜に告げられたのは主人の叱咤だった。
闇夜に生きる妖怪たちの会合は博霊神社の境内を借りて行われていた。夜行性の妖怪の多くは非友好的で凶暴な質。それが一同に会して平和的に話し合いを行うとなると必然的に抑止力が働けるこの場所が選ばれたのだった。
その会合に参加していた夜行性の妖怪たちの姿はもうなく、レミリアは鳥居にもたれ掛かって咲夜が来るのを待っていたのだった。
怒りがさめやらぬのも無理はない。申し訳御座いませんと真摯に、咲夜は頭を下げた。
「妹さまのお相手をしていたらこんな時間になってしまって…本当に申し訳御座いません」
「ふん…貴女は私を迎えに来ることよりもフランと遊ぶことを優先するのね」
レミリアの嫌味の言葉にはっ、と咲夜は顔を上げる。
「違います。そんなことはありません。その…妹さまがお話を聞いてくれなくて…」
弁明というよりは懇願しているような。手振りさえ交え、咲夜は遅れてきた理由をレミリアに説明する。けれど、レミリアの態度は硬く、その強い視線には未だに怒気が籠もっていた。
「そう、貴女は私の妹が悪いというのね」
「っ…違います」
ダメだ、と咲夜は心の中で膝をつく。レミリアの怒りは自分が何を語ったところで、そうそうに熱を下げるものではないだろう。ただ、時間の経過だけが冷却を及ぼすような怒りだ。
「じゃあ、悪いのは、一体誰なのかしら?」
「私です。私が悪いのです、お嬢さま」
うつむき、レミリアに視線を合わせることもせず、肩を震わせる咲夜。
「そう、そうね。まぁ、反省してくれればいいわ。以後気をつけるように」
「はい、申し訳ありませんでした、お嬢さま」
あからさまな落胆のため息を吐かれつつも、名目上だけは赦しをえられて、咲夜はやっと頭を上げることができた。
「さぁ、帰るわよ」
「はい…」
待つこともせず先を行くレミリアの後ろを咲夜はついていくしかなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
帰宅してからもレミリアの怒りをかった咲夜は失意の底にあった。見た目はいつも通りの機敏な働きを見せる彼女であったが、付き合いの長い者の目から見ればその心が沈んでいることは容易く見て取れた。
「………」
一人、咲夜は厨房で食事の用意をしていた。
まな板の上で野菜を刻む手も正確ではあるが、危うさを感じさせている。
「あ…しまったわ」
注意力も散漫のようだ。コンロにかけた鍋が中身を吹き上げて火を消してしまったところで、かけっぱなしだったということに気がつくほどに。
「………ダメね」
じゅうじゅうと湯気をたてる焦げた鍋を前にして、咲夜は何もせずぼうっと眺めているだけだった。
ややあって、やっと鍋を持ち上げた手にも力がこもっていない。この分だと次はどんな失敗を犯すか…咲夜の冷静な部分はそう考えたが、影がさした心の多くはそれを止めようという意志さえ思い起こさなかった。
「咲夜…」
と、後ろから不意にそんなためらいがちの声が投げかけられた。
「おじょ…フランお嬢さま」
振り返り、確かめた姿は厨房の入り口から身体半分だけを出しているフランのものだった。
「どうかなさったのですか、フランお嬢さま」
フランに見えないように焦げ付いた鍋をさげると咲夜は微笑を顔に貼付けて、フランに近づいた。かがみ込み、フランに目線を合わせ問いかける。
「あ、あの…お手伝い、しようと思って」
スカートの裾を強く握りつつ、恥ずかしそうに俯くフラン。えっ、と少しばかり咲夜が応えに窮すると顔をあげて、懇願するような視線を向けてきた。
「わかりました。お願いいたしますね、フランお嬢さま」
膝を伸ばして、ありがとうございますとフランの頭を撫でる咲夜。えへへ、とフランの顔が明るくなる。
「じゃあ、サラダの用意をしていただけますか」
「うん、どうすればいいの?」
ボールとレタスの玉を用意して咲夜はそれをフランに手渡す。手振りでまず、レタスの芯を捻るようにして取ってくださいと教え、後は手で食べやすい大きさまで千切ってください、と続ける。頷き、咲夜の言ったとおりレタスのサラダを作り始めるフラン。
「咲夜、次はどうするの? ドレッシングをかけるの?」
「いえ、ドレッシングは最後ですわ。じゃあ、次はお芋を洗うのを手伝ってもらえますか」
木でできた空き箱を踏み台に洗面台に転がされたジャガイモを一つ一つ丁寧に亀子束子でフランは磨いていく。綺麗になったそれを咲夜は愛用のナイフで手早く皮を剥き、 一口大のサイズに切って次々に水を張った鍋へ放り込んでいく。
「…ありがとうございますフランお嬢さま」
「? なにが?」
「いえ、何でも御座いません」
肩を並べて食事の準備をする二人。咲夜の顔にはもう失意の色は見て取れなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そうして、午前零時の昼食。
吸血鬼らしく神への冒涜と悪魔への賛辞を祈りに、食事は始まった。
朝食…夕刻の、には顔を見せなかったレミリアの友人で居候のパチュリー・ノウレッジも今回は席に着いている。上座に頭首のレミリア、下座にフラン、間にパチュリーが座り、例によって咲夜は部屋の隅に控え静かに昼食会は進む。
献立はジャガイモとトマトのパスタに川魚のムニエル、タマネギのコンソメスープ、それとレタスのシーザーサラダだった。味は言わずもがな抜群。けれど、そのおいしさを十分に知り尽くしている。三人は静かにスプーンとフォークを進めていた。
「うん。今日のサラダはいつもと違うようね咲夜」
そう口を開いたのは食事中も魔導書を読んで離さないパチュリーだった。フォークでレタスを串刺しにして口に運び、その僅かな食感の違いから普段の咲夜が作ったものではないと看破した。
「あ、はい、そのサラダは…」
「私が作ったんだよ」
咲夜の言葉を遮ってフランが声をあげた。嬉々とした顔は投げた棒きれを拾って戻ってきた飼い犬のよう。褒められるのを待っている子供の顔だ。
「そう、中々、上手ね。まぁ、咲夜には及ばないけれど」
淡々と心に思ったことをそのまま告げるパチュリー。
「えへへ。お姉さまはどう?」
「………」
急に話を振られ目を点にするレミリア。暫く満面の笑みを浮かべる自分の妹とテーブルの上のサラダを見比べて、レタスの一欠片だけをフォークで刺して自分の口へ運んだ。
「美味しいわよ、フラン」
レミリアの言葉にもやったー、と手をあげ、喜びを隠そうともしないフラン。サラダの入った小さなボールを手に取ると、フランも自分の作ったサラダを食べ始めた。
「おいしい。咲夜が作り方、教えてくれたんだよ。ありがとう咲夜」
口一杯にレタスを詰込みつつ、部屋の隅の咲夜にフランは瞳を向ける。はい、と咲夜は笑みで応えた。
「…ごちそうさま。もう、お腹いっぱいだわ」
それから暫くして、唐突にレミリアは手にしていたスプーンとフォークをテーブルへ下ろした。すぐさま咲夜が駆け寄り、レミリアの汚れた口をぬぐう。
「咲夜、クランへ出す手紙を纏めたいの。手伝ってくれるかしら」
「はい、かしこまりましたお嬢さま」
席から立つとレミリアは咲夜にそう告げ、咲夜を伴って食堂から足早に出て行ってしまった。
「………」
その背中を無言で見送るフラン。
立ち去ったレミリアの席には殆ど空になっているお皿と、僅かばかりその量を減らしたサラダのボールが残されていた。
「お姉さま、お口に合わなかったのかな…」
フランの寂しげな独白にパチュリーはさぁ、とだけ相槌を打った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「お嬢さま、ここの文面はもう少しへりくだった書き方の方がよいと思われます」
事務机に座るレミリアの後ろで咲夜は便箋に書かれた文字を読みつつ、誤字や脱字、その他、適切ではない文面について色々とレミリアに言を出していた。
「まぁ、デミトリおじ様なら大丈夫だと思ったけれど、そうね。他の奴等も読む可能性があるわけだし、極東の片田舎にいる小娘を装った方がいいわね」
「そうですね。下手に勘ぐられて視察にでもこられたた…」
咲夜に言われた個所に線を引き、レミリアは便箋に新たに文句を加える。清書は全てまとまってからでいいだろう。
手紙の先はレミリアたち吸血鬼の大半が所属しているグループの総本山宛だ。世界の文明化と共に数を減らし続けている吸血鬼たちだが、その影響力は未だに大きく、それをとりまとめているかの組織の影響力は計り知れない。かといって媚び諂いその力に割って入ろうという下世話な思惑も抱いてはいない。いっそ、放って置いてくれた方が有難い、とレミリアは考えているのだが、妙になれ合いが好きなあの連中はレミリアたちが幻想郷に来る前から定期的に手紙を寄越したり会合に参加するよう半ば強制に近い誘いをかけてきたりしている。
「………それはそうと咲夜」
ペンを走らせながら話しかけてくるレミリア。その声は少しばかり固い。
「なんでしょう、お嬢さま」
「………」
問いかけておきながら質問は無音だった。ただ、咲夜は何かしらの不穏な空気をレミリアから感じ取っていた。
「お嬢さま…?」
再度、咲夜が問いかけるとややあって、レミリアはペンを走らせる手を止めた。
「咲夜」
はたして、小さく開かれた口からは何を言うのか。咲夜は身を固くしてまち、そして、ついぞ、その先を聞くことはできなかった。タイミング良く、あるいは悪く、扉をノックする音に邪魔されて。
「咲夜、お姉さま。今、パチュリーと門番とゲームしてるの。咲夜たちもいっしょにやらない?」
扉を開けて入ってきたのはフランだった。後ろには申し訳なさそうに、フランには見えない位置で手を立てて頭を下げている美鈴の姿もある。
咲夜はその二人の姿を認めて、それとは分からぬほど小さくため息をついた。
「フランお嬢さま。申し訳御座いませんが、レミリアお嬢さまも私もお仕事の最中でして。終わったらすぐにでもお相手して差し上げますから」
表情を固く、ゲームの誘いを断ろうとする咲夜。けれど、その言葉は一緒に仕事をしている主人によって止められた。
「いいのよ咲夜。遊んでやりなさい」
「え、しかし…」
思いもよらぬ言葉に咲夜は少し動揺を見せた。けれど、それはもうレミリアの中では決定事項だったようで、再びペンは動き出していた。
「後は私一人でもできるからいってらっしゃい。フラン、私は参加しないけれど、咲夜が相手をしてくれるわ。だから、これ以上、余り我が儘をいうんじゃないのよ」
「う、うん。わかったお姉さま」
便箋から視線だけをあげて妹を見据えるレミリア。少しだけフランは怒られたことを気にしたのか、身体を退きながら応える。
「では…お嬢さま、申し訳御座いませんけれど…」
「いいのよ。フランの相手をしてあげるのも貴女の仕事なんだから」
フランに手を引かれて事務室から出て行く咲夜。それでも何度か後ろ髪を引かれるように振り返るそぶりをみせた。
その後の夕食の席に、レミリアは姿を現さなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…なんだか疲れたわね、今日は」
東の空が明るみ始めた頃、一通り、屋敷の仕事を終え、咲夜は自室に戻って床につこうとしていた。
ため息をもらしつつ今日の出来事を反芻。レミリアを迎えに行くのが遅れたことを除けば、別段普段と変わりのない一日だったが、むしろだからこそ、その一点が今日という日を疲れる日だったと認識させているのかもしれない。
こういう時は眠るに限るわ、と咲夜は人前では決して見せない欠伸をして、従者服から寝具へと着替えようとした。
その耳に、何処か遠くから子供が泣きじゃくる声が届いた。
「フランお嬢さま…?」
聞き間違いがなければその声はフランのものだった。
どうしたのかしらと言う心配と今日はまだ終わらないのね、という倦怠が同時に浮かんでくるが咲夜はすぐに後者を蹴り飛ばした。
刻を止めて足早に廊下を進み、フランの部屋の前までやってくると、時間停止を解除。コンコンとドアをノックした。
「フランお嬢さま、どうなされたのですか?」
問いかけれど返事はない。代わりに嗚咽を聞いて、咲夜は眉を顰めた。
「入りますよ」
扉を開け、ランプに火を灯す。
人形が所狭し並べられたファンシーな内装の部屋の中央。大きな天蓋が付いたベッドの上にはシルクのシーツでできた山が出来上がっていた。シーツの山は小さく震え、そこから涙声が聞こえてくる。
「フランお嬢さま」
優しく声をかけてシーツを捲る。シーツの下には涙を流しながら震えているフランの姿があった。
「さ、咲夜ぁ、あ、あそこ、あそこになにかいるよ!」
震えたまま、枕に顔を押しつけつつ窓の隅を指さすフラン。はて、侵入者はおろか油虫の一匹もこの部屋にはいないはず、と咲夜は訝しげに思ったが、フランの指さす方向へ視線を向け、ああ、成る程と頷いた。
窓が少しばかり開けられており、カーテンがその隙間から吹いてくる風でゆらゆらと揺らめいていたのだった。恐らくフランは寝ぼけて怖い夢でも見て、カーテンの動きをお化けか何かと勘違いしたのだろう。四百九十五年も生きている吸血鬼なのに、いもしないお化けが怖いなんて、と咲夜は少し微笑んだ。
えいっ、と咲夜はカーテンめがけて銀のナイフを投げ、風に揺れるその裾を壁に縫い付けると、歩み寄って窓をキチンと閉めた。
「さ、フランお嬢さま、悪いお化けはこの咲夜めが退治いたしましたから、ぐっすりとお休みください」
ベッドの脇に戻ってフランのシーツをかけ直す咲夜。その時にはもう、フランも落ち着いているようで、目頭に涙の乾き跡を残しながら、咲夜の顔をじっと見つめていた。
「それでは、お休みなさいませフランお嬢さま」
カーテンと壁は明日、治そうと頭の片隅で考えながら、咲夜はフランに向けて一礼。踵を返した。
と、そのふわりと広がったエプロンの紐をベッドから手を伸ばしたフランがつかみ取った。
「フランお嬢さま?」
「さ、咲夜…」
しっかりとエプロンの紐を掴んで離さないフラン。振り返って肩越しに見れば、俯いてフランは身体を小さくさせていた。どうかしましたか、と咲夜が声をかけるとフランはもの恥ずかしそうに視線をあげただけだった。ああ、と咲夜は心の中で頷いた。
「そうですね。私も自分の部屋へ帰ろうかと思いましたが、もしかするとまだお化けが出てくるかも知れません。今昼は私がフランお嬢さまをお守りいたしますから、私も一緒にベッドで寝てもかまいませんか?」
そう、笑顔で言う咲夜。ぱあぁ、と雲間が晴れるようにフランも笑みを浮かべた。
「では、着替えて参りますのでしばらくお待ちを…お待たせいたしました」
パチンと指を鳴らす咲夜。その音が消えた時にはもう既に咲夜は従者服から寝具代わりであるワイシャツだけの格好になっていた。
失礼します、とベッドに入り込む咲夜。ベッドは大きく、咲夜とフランが一緒に横になってもまだまだ十分な広さがあるようだった。
「えへへ、咲夜ー」
そう咲夜の身体に抱きついてくるフラン。
「フランお嬢さま、あまりひっつかれると…」
「へへへ」
咲夜は抱きついてきたフランをたしなめようとしたが、その心安らぐ笑顔を見て余計な事は言わない、と決めた。そっとフランを抱き返すとその頭を優しくなで始めた。
「あのね、あのね、咲夜」
「はい、なんでしょう」
「私ね、咲夜にお姉ちゃんになって欲しいんだ」
「まぁ。でも、フランお嬢さまにはレミリアお姉さまがいらっしゃるじゃありませんか」
「うーん、お姉さまはお姉さまだけれど、私は咲夜にお姉ちゃんになって欲しいんだ」
お姉さまとお姉ちゃん、その微妙なニュアンスの違いなのか。咲夜はピンと来ず、えっと、と言葉に困ってしまう。
「お姉さまはなんていうんだろう。たぶん、吸血鬼として私がならなきゃならないお手本みたな感じだと思うの。立派なドラキュラ・レディのね。でも、咲夜は吸血鬼じゃなくって人間だから。うん、私と一緒に遊んでくれてお料理とかお裁縫とか教えてくれて…それで、私がなにか悪いことをしたらキチンとしかってくれて、後でおやつをくれるみたいな…そういう人って“お姉ちゃん”っていうんでしょ」
フランのつたない言葉。けれど、その説明だけで咲夜は十分理解できた。
「ねぇ、お姉ちゃんになってくれるかな、咲夜」
「ありがとうございます、フランお嬢さま。こんな私でよければ、喜んで」
心から、そう心の底から咲夜はこの純真な吸血鬼のために“お姉ちゃん”になろうと思った。頷いて、もう一度強くその小さな身体を抱きしめて、それを契約書のように、咲夜は応えた。
「へへへ、咲夜お姉ちゃん」
「はい、なにかなフラン」
普段と違う呼び方で確かめ合う二人。本当の姉妹のように二人は顔を寄せ合って笑った。
「さ、もうそろそろ朝ですよ。はやく寝ましょうね」
「うん…おやすみ、お姉ちゃん」
もう、現界だったのかその言葉を最後にフランは船をこぎ始めた。吐息が規則的に浅くなり、瞼がゆっくりと閉じる。その間、咲夜はずっと妹をあやすように頭をなで続けていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、やっぱりここだったのね」
フランにつられうつらうつらとし始めた咲夜にそんな声がかけられた。
放っておけば落ちそうになる瞼を何とか持ち上げ、視線のピントを合わせると、いつの間に入ってきたのだろう。レミリアがフランのベッドに腰掛けていた。
傍らに眠るフランを起こさないように咲夜は身体を起こし主人を迎えた。
「お嬢さま、どうしてここに…?」
問いかけにレミリアは応えず、眠っている妹の頭を優しく撫でた。
「あの…何かご用時ですか。お話でしたら、妹さまはお眠りになられているので、明日の夜にでも…」
「そうね。話はいいわ。フランを起こしてしまうものね。どちらかと言えば用事があるというべきかしら」
なかなか本題に入らないようなレミリアの言葉。咲夜ははぁ、と曖昧に頷くしかなかった。
「私もね、咲夜と一緒に寝たいと思ってね」
「まぁ、このベッドでしたらお嬢さまぐらいでしたらまだ十分余裕が…」
「違うわよ、咲夜」
ぐっ、と身を乗り出して身体を寄せてくるレミリア。と、その時、咲夜はレミリアが今、どんな格好をしているのかにやっと気がついた。
薄いキャミソールの下着とローライズの紐みたいなショーツ、ただそれだけ。下着だけの、いや、下着だけだからこそ裸よりも扇情的に見える格好。身を乗り出すような格好を取っているせいでレミリアの身体とキャミソールの間に大きな隙間ができる。そこから未発達な胸とその先の桜色のぽっちまでもが咲夜には見えた。
「おじょう、さま…」
「ふふ、私の部屋にいきましょう、咲夜。ここじゃ、フランを起こしてしまうわ」
長く鋭い爪が生えた指を咲夜の顎に添えるレミリア。誘っている、蠱惑的に、性的な意味合いで。
「で、ですが…」
ちらりと寝息をたてるフランに視線を移す咲夜。ある意味、咲夜には先約があったのだ。自分の主人は確かにレミリアだが、一緒に眠る約束をしたのはフランが先だ。優先順位は咲夜の常識に照らし合わせればフランの方が上だった。
「この子なら、もう、すっかり眠っているから大丈夫よ。今日はめい一杯、フランの相手をしてあげたんだから最後ぐらいは私の相手をしなさい。ね」
「…わかり、ました」
優しげな言葉の裏に隠れた有無を言わさぬレミリアの態度。それに睡眠欲を殺す別の欲求が身体の内から沸き上がってくるのを感じて、咲夜は頷くしかなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「―――ん、おトイレ」
雀が鳴き始めた頃、フランは半分眠っているような状態でベッドから起き上がった。
何故か枕を手にしたまま、それを引き摺りつつ外に出て、ふらふらとした足取りでトイレへと向かう。
「あれ…? お姉さま、まだ起きてる…?」
その足がレミリアの部屋の前で止まった。部屋の扉が少し開き、そこから明かりが漏れているのを見つけたのである。同じく部屋の中から聞こえる声も。
「…咲夜と、一緒?」
トイレに向かう途中ということも忘れ、レミリアの部屋の方へ足を向けるフラン。途中、部屋から聞こえてくる声が姉のものだけではなく一緒にベッドに入ったはずの咲夜のものも含まれていることに気がつき、疑問符を浮かべる。
いや、疑問は咲夜がこんな時間にレミリアの部屋にいるということだけではなく、その声色がいつも聞き慣れている凛とした張りのあるものではなく、何処か苦しそうな、それでいて喜んでいるような、フランには理解しがたい感情が込められているように感じられたことからも浮かんできている。
「………」
なんだか、普段とは違う咲夜の声に何処か触れてはならないような違和感を憶えたのか、フランはノックすることも声をかけることもせず、静かに、部屋の中をのぞき見れる程度だけドアを開けた。
果たして、ランプの光りに照らされてフランが見た光景は、彼女の、浅い知識では到底及ばないような狂乱の様、だった。
「ッ、あ…おじょう、お嬢さまぁ♥」
ベッドの上で仰け反っているのは狗…?
寝間着どころか、下着も着ないで、荒々しい息をつきながら、浅ましく腰を振り続ける姿はひいき目に見ても人ではなく発情した狗みたい。
ベッドが軋むほど強く跳ね、天蓋にかけられたレースのカーテンを揺らしている。ベッドの上で遊んじゃいけませんって言ってたのに、その自分が遊んでるなんて、なんて自分勝手なんだろう。
お姉さまもだ。
先に約束したのは私なのに勝手に×××と一緒にベッドで眠っている。あれ、でも、アレは眠っているって言わないよ。酷い裏切り。自分には我が儘を言うんじゃありませんていつも口を酸っぱくして言ってるのに。
ああ、それより、×××がかわいそう。あんなに涙を流して、辛そうに激しい運動をさせられている。きっと虐められているんだ。弱い者いじめはしちゃいけないって慧音先生も言っていた。お姉さまは酷い人だ。
「なんて…子供じゃないんだから…」
扉を開けて、一歩、フランは姉の部屋へ足を踏み入れた。
「ッあ―――え、フラン…お嬢さま?」
ベッドの上で腰を振り続けていた咲夜がフランの姿を認め、動きを止める。視線を彷徨わせ、一拍おいて羞恥に顔を赤く染めると、すぐにベッドから降り立った。
ずるり、と粘液でぬめったものが咲夜の股から引き抜かれるのをフランは見逃さなかった。
「ふ、フランお嬢さま、どうなさったんですか? あ、あの…もしかして、私がベッドからかつてに出て行ったのを探して…」
手早くバスローブを纏い、フランに近づく咲夜。口から出ているのは言い訳がましい弁明。まるで、不貞の現場を見つけられた妻のよう…いや、これはそれに近い。
「う、ううん、トイレに…おトイレに行ってただけだから…」
「そう、でしたか」
少し安堵の吐息を漏らす。咲夜はフランの前までやってくると視線を合わせるようにその場にかがみ込んだ。
「じゃあ、もう、一人で行けますよね。おトイレはすぐそこですから。あの…その後は、その、私は」
「おトイレは、もういいけど…咲夜おね…咲夜、お姉さまと何を、していたの?」
「えっ」
茶番劇。咲夜は視線を泳がせる。言い訳という魚を探している。なにか、この小さな子を騙せるような、この場を丸く収める嘘という名前の魚を。
「あ、あの、レミリアお嬢さまとは…ええ、そう、ちょっとしたスポーツを…」
我ながら苦しい言い訳だと咲夜はほぞを噛んだ。相手が子供だから通じそうなでっち上げ。ああ、美鈴がよく読んでいるようなポンチ絵漫画のような展開だ。続く場面は「じゃあ、私もする!」だろうか。馬鹿馬鹿しい。
「冗談は…いいから、咲夜。私だって、知ってるよ」
その馬鹿馬鹿しさを冷笑するような抑制のない言葉がフランの口から漏れた。
「性行為…せっ、セックスでしょ。愛し合う二人がするっていう…」
「えっ、ええ…」
フランの意外な知識に驚きを隠せない咲夜。動揺を隠せず、目をぱちくりとさせる。
「でも…でも、おかしいよ」
その動揺がフランの言葉で止まった。
「おかしいよ咲夜。お姉さまも咲夜も、女の人なのに。あれって…男の人と女の人がするものでしょ。女の人同士でするなんて変だよ…おかしいよ、変わってるよ…」
「フランお嬢さま…」
かける言葉が見つからず伸ばした手が中程で止まる。フランは俯いて肩を震わせながら心にある混沌とした想いを次々口にしているだけだ。
「変だよ、おかしすぎる、そんなの間違ってる。女の人同士でなんて。あり得ない」
―――キモチ、悪いよ
最後にそんな呪詛みたいな言葉が漏れた。
続いて乾いた音。
その場にいた三人が三人とも何が起こったのかまるで理解できていなかった。
「え…?」
痛む頬を押さえるフランも、
「…咲夜、貴女」
ベッドの上でことの成り行きを見守っていたレミリアも、
「フラン、お嬢さま…」
フランの頬をひっぱたたいたままの格好で固まった咲夜も、三人が三人とも理解できないでいた。
「ち、違います、フランお嬢さま。わ、私は、いえ、私は何を…もうしわけございません、その悪気は…」
弁明、言い訳、それとも混乱。もはや、自分でも分からない感情を吐露しながら慌てふためく咲夜。そんな咲夜を見てもフランは固まったままだ。結局、一番最初に我を取り戻したのは、怒りに震えるレミリアだった。
「咲夜ァ!!」
銀糸を掴みあげるとレミリアはそのまま咲夜の頭を床にたたきつけた。不意打ちに身を守ることもできず、咲夜は強かに顔をフローリングに打ち付ける。
「かはっ…お、お嬢さま…?」
赤くなった咲夜の鼻から一筋、血が流れてくる。レミリアは強く咲夜の髪の毛を掴むと自分の口元にその耳を引き寄せ重々しく言葉を発した。
「どうして、私の妹に手をあげたの咲夜。貴女にはフランのしつけも命じてあるけれど、手をあげてまで教えこめとは言っていないわよ」
「っ、や、やめてお姉さま。い、今のは私が悪いの…! 咲夜に乱暴しないで!」
「貴女は黙ってなさい!」
一喝。窓を振るわせるような声にフランはたじろぐしかなかった。
「咲夜、フランに謝りなさい」
「っ…わかり、ました」
不意に頭を開放され体勢を崩す咲夜。なんとかバランスを取ると主人の命令に頷いた。
「申し訳…ありませんでした、フランお嬢さま」
頭を下げる咲夜。けれど、それだけでは怒りは収まらないのか、レミリアは更なる要求を咲夜に突きつけた。
「土下座よ」
咲夜の身体が震える。恥辱か。それでも咲夜はその場にしゃがみ込むと両手をついて、深々と床に額が付くほど深々と頭を下げた。
「申し訳御座いませんでしたフランお嬢さま。以後、このようなことがないように尽力します」
「………」
やめて、とはフランは言えなかった。言っても結果は同じだと、それどころかもっと酷いことになるのだと、分かっていたからだ。
「いいわ咲夜。今日はもう部屋に戻りなさい。フランも。早くトイレに行ってきなさい。また、明日ね。お休み」
早口にそれだけ告げるとレミリアはもう興味を失ったかのように踵を返し、ベッドに戻った。
「おやすみなさいませお嬢さま」
「………おやすみお姉さま」
頭を下げて二人は同時にレミリアの部屋から出て行った。けれど、自分の部屋とトイレ、向かった先は別々だった。会話は一つも交わされなかった。
あるいは、この日の朝、崩壊は始まったのかも知れない。
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
『狗に特別な感情を抱くことがあると? それは倒錯よ。ああ、でも、けれど、向こうも狂っているなら捻れ二つ分で正道なのかもね。冗談じゃ、ないけれど』
レミリア・スカーレット談
友人、パチュリー・ノウレッジとの会話にて
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
「温いわ」
次の日の夜/その日の朝。
昨日と同じように姉妹はテラスで夕食/朝食を摂っていた。献立も似たようなもの。席に着いているのも二人っきりで、従者が控えている。違う点があるとすれば雰囲気が、酷く重く荒んでいるところだけだった。
「お茶が温いわ、咲夜」
カップを口にするなりレミリアは視線を後ろに控える咲夜に向けることなくそう言い放った。そんなはずは、と狼狽える咲夜。普段ほどの機敏さが見えないのは今朝の出来事が尾を引いているせいか。無理もないだろう。あんな、出来事があった日の夕方だ。朝食はキチンと摂る、そんなスカーレット家の家訓でもなければ三人は顔を会わせなかっただろう。
「そ、そんなことないと思うけど、お姉さま」
両手でマグカップを持って中身を啜ってみせるフラン。暖かい液体が舌の上に注がれ、寝起きの身体に活力を与えてくれる。あんな事が合った後でも、あんな事が合ったからこそか、咲夜が用意した夕食は完璧なものだった。
「そう。私はフランのように猫舌じゃないから」
そうにべもなく言い捨てて、そうして、レミリアは言葉と同じくカップを無造作に傾けて、その中身を、湯気が立っているお茶をテラスのタイルの上に流して棄てた。
「っ、お姉さま!」
「温いから棄てただけよ、フラン。
咲夜、すぐに淹れなおしてきて」
フランの怒声を受け流し、空っぽにしたカップを咲夜に差し出すレミリア。
「分かりましたお嬢さま…お待たせいたしました」
ゼロ秒でお茶を淹れなおし、刻の止まった世界から戻ってきた咲夜。カップには先ほどと同じ温度のお茶が注がれている。
「ありがとう。ええ、美味しいわ」
「光栄ですわ、お嬢さま」
「………………」
そんな光景。
フランはレミリアと咲夜に一瞥すら向けず、無理矢理、トーストを頬張り、それらを熱いお茶で胃の中へ流し込むと逃げるように席から立った。
「ごちそうさま。お勉強に行ってきます」
家庭教師の慧音がやってくるまでまだ暫く時間があったが、それまでの時間、ここでこうして優雅に朝食をすませるような余裕は今のフランの中にはなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「フランさん、お手元がお留守になってますよ」
「あ…ごめんなさい慧音先生」
勉強の途中も上の空だった。昨日あんなに簡単に解けた七の段のかけ算に躓き、それどころか簡単な五の段のかけ算も間違えてしまった。
「今日は調子が悪いみたいですね、フランさん」
「………」
赤い×点が多くつけられたわら半紙をフランに返す慧音。けれど、言葉がテストの結果だけを指しているわけではないことはフランにもすぐに分かった。
そうして、考える。昨日のことを先生に、慧音先生に相談してみたらどうかな、と。
慧音先生はいろんなことを知っている。それにお昼には私以外にも沢山の子供に勉強を教えているそうだ。だったら、自分のこの心の中にある問題の解き方も、もしかすると答も教えてくれるかも。
「先生、あの…」
「ん? どうしたの、フランさん」
けれど、その問題すらいったいどういったものなのかフランには理解できず、質問は宙に消えていって行ってしまった。
その日、休憩のお茶を持ってきたのは咲夜ではなく美鈴だった。
両方とも咲夜が作ったものだったが、当の咲夜は現れなかった。どうしたの、とフランが聞くとレミリアお嬢さまと出かけてますよ、との返事だった。
その日の夕食は少し早めに、慧音をさそい、美鈴が作った珍しい大陸の料理を三人で食べた。遅れてパチュリーが食堂に姿を現したが、レミリアと咲夜は現れなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その後…
「あの、先生。帰る前に、すいません」
「ん? お勉強の時の続き?」
門の前で別れを告げようとした慧音をフランは呼び止めた。
「はい。あの、その、先生…」
言いたいことは纏まったようだがどうにもフランは踏ん切りが付かないようだ。傍らに立っている美鈴に視線こそ向けないが、注意が散らされている。
と、
「あーっ! あんな所に侵入者っぽい影が! 慧音先生、少しの間、フランお嬢さまのお相手をお願いできますか。私は紅魔館の門番としての勤めを果たしてきます!」
そう早口にまくしたてて美鈴は屋敷を囲む塀伝いに走っていった。くすり、とその背中を見て慧音が笑う。戯けているけれど、立派な人ね、と。
「さて、魂が男前な門番さんは仕事に行ってしまわれたから、その間、先生とお話ししようか」
「はい、慧音先生」
あれだけ立派なところを見せられると、自分もかくあるべしと言う気持ちが湧いてくる。後は帰って眠るだけという時間だったが、慧音は生徒と真摯に向き合うという教師の勤めを果たすべく、フランの手を引いて、紅魔館の前に広がる湖、その湖岸に作られた簡単なチェアーに腰を下ろした。
「あの、先生。お姉さまのことなんですけれど…」
暫く夜の湖面を眺めてから、そうフランは切り出した。
「レミリア・スカーレット? お姉さんと喧嘩でもしたの?」
「いいえ。喧嘩はしてないです」
よろしい、と頷く慧音。
「喧嘩はしてないけれど…その、咲夜が、昨日、お姉さまに怒られて…それで、夕方もお姉さまの機嫌が悪くて…」
フランの目にも夕方のあれはレミリアの嫌がらせに見えた。我が儘ではなく咲夜を困らせようとして意図的に行ったことだと。本当ならこの相談は今朝の出来事から離すべきだったのかも知れない。けれど、性的なことへの羞恥から、また、余りに込み入った事情を説明できる話術をフランは持ち合わせていなかったため、こうして、話の大部分を削って説明しているのだ。
けれど、まだ、言葉もつたないような児童を相手にしている慧音はとても聞き上手だった。うん、うん、と適切なタイミングで相槌を打ち、説明が不足していると思われるところについては丁寧な言葉でフランさえも意志していなかった情報を聞き出していた。
「成る程。ええ、大体事情は飲み込めましたよフランさん」
聞き終え、軽く吐息を漏らす慧音。
「先生、私はどうしたらいいの?」
回答は難しくはない。答を告げるのは簡単だ。けれど、それを真に学ばさせるのは難しい。
「そうですね。咲夜さんは私から見ても素晴らしい女性だと思います。完璧で瀟洒、二つ名に偽りはないでしょう。けれど、人間…この場合は種族としての人間じゃありませんよ、人間、誰だって失敗するものですよ。私だって間違う時があるし、レミリアさんもそうですよ」
「…私も今日、算数の問題間違ってた」
「ふふ、そうですね。でも、間違っていたら直せばいいんですよ。ただし、人の間違いというのは鉛筆で書いた間違いを消しゴムで消すように簡単にはいきません。特に、自分以外の人の場合は。レミリアさんの夕方の態度というのも…ええ、多分、その咲夜さんの間違いを正すためにやったことなのでしょう。やり方はあまり感心できませんが、彼女なりの問題の解き方を咲夜さんに教えてあげているのでしょう。だったら…」
「私が私なりに咲夜の間違いを教えてあげればいいの…?」
「ええ、そうです。でも、その方法というのは色々と難しいですからね。しっかりと自分の頭で考えて行動するんですよ」
「わかった。ありがとう、慧音先生」
すくっと立ち上がり屋敷の方へ駆けだしていくフラン。
「それじゃあ、さようなら先生〜」
「はい、さようなら、フランさん」
こうして、今日の慧音先生の受業は終わった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
走る、フラン。
いつの間にか定位置に戻ってきた美鈴に挨拶をして、屋敷の大門の脇に作られた小門を通り抜け、エントランスの階段を上り、走る。その顔は喜びに満ちていた。
慧音に話したことで回答の糸口が見つかった。いや、元からフランの中にあった回答を慧音が引き出してきたようなものだ。
昨日の23時頃…厨房で料理の準備をしていた咲夜は酷く落ち込んでいた。
理由は分からなかったがフランはそれを嫌な感じだ、と判断した。自分が好きな、大切な家族が落ち込んでいるというのは本当に嫌な状況だ。だから、フランはフランなりに咲夜を励ましてあげようと料理のお手伝いを申し出たのだ。お話をしながらお料理でもすればきっと気分が良くなる、そう思って。結果―――成功だった。あの後、咲夜はいつも通りの雰囲気に戻っていた。いつものフランがお姉ちゃんになってほしいと願った咲夜だった。
だったら―――今度も咲夜を励ましてあげればいい。なんならレミリアも。それでみんなが幸せになれるはず。
そう考え、フランは走った。屋敷の廊下を。
声が聞こえる。食堂から。レミリアと咲夜の声。丁度、二人っきりらしい。
うん、グットタイミング。フランは力強く頷いて、走る速度をあげて、食堂の扉を大きく開けはなった。
「このッ―――馬鹿が!」
え?
声もでなかった。理解もできなかった。ただ、視界が捉えた映像だけを脳みそが受信している。
床に倒れてレミリアに蹴られうめき声を上げる咲夜/床に倒れている咲夜を蹴り飛ばしているレミリア
非道い光景だった。
「なにしてるの…二人とも」
奇しくも今朝と同じニュアンスの台詞。ある意味、状況も一緒かも知れない。フランがショックを受けているという時点で。
「愚図! 間抜け! 役立たず! 駄犬! 蛆虫!」
ありとあらゆる罵詈雑言がレミリアの口から放たれる。咲夜はそれに精神を固くして耐え、同じく、言葉と一緒に放たれる足を身体を硬くして耐える。
「もうしわけ…ございません」
涙声。それでも必死に赦しを請う咲夜。レミリアの足が脇腹や肺に刺さる度に、無理矢理、息を吐かされ、呼吸もままならないようだ。
「お許しを…お嬢さま…っ」
「!」
最後に強烈な一発を咲夜の腕に与えるとレミリアは肩を怒らせたまま食堂から出て行った。最後までやってきたフランの姿に気づくことなく。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…大丈夫、咲夜」
それから咲夜の部屋。
上半身をブラだけにしてベッドに腰掛ける咲夜にフランが優しく声をかける。
咲夜の身体は非道い有様だった。身体のあちこちに黒い痣や擦り傷ができていて、見るも痛ましい。
その上にフランは慣れない手つきながらも丁寧に湿布やガーゼを貼付けていく。
あの後、お見苦しいところをお見せしました、と謝る咲夜の手を無理矢理引いてフランは彼女を部屋まで連れてきたのだ。
救急箱を四苦八苦しながら探し当て、今、こうして咲夜の身体の手当をしている。
「ありがとうございます、フランお嬢さま…」
力ない言葉。身体同様、心も酷い傷を負っているみたいだった。
だから、フランは咲夜から見えない位置で目を瞑って心を切り替えると、
「ダメでしょ、咲夜お姉ちゃん。咲夜お姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだから」
昨日、ベッドで交わした約束事の続きを求めた。咲夜がレミリアに蹴りとばされていた理由も聞かずに。いや、そんなことどうでもいいと切り捨てて。
「ふふ、そうでしたねフラン。ええ、ありがとうフラン。咲夜お姉ちゃんに手当てしてくれて」
「うん。これぐらいの傷、大丈夫よ。私なんてギロチンで首ちょんぱされたこともあるんだから」
「それは…」
人で言うとどの程度の怪我なのだろう、と咲夜は笑った。かわいい妹の励ましの冗談に乗るために。
それから他愛のない姉妹の会話を交わしているうちに手当は終わった。
いつの間にか夜明けにほど近いような時間帯だったので、咲夜は妹にそろそろ眠るように言う。
「………」
無言で抗議するフラン。はてな、と咲夜は疑問符を浮かべる。
「昨日…」
言いだしづらそうに、それでも自分の欲求に負けて、フランは口を開いた。
「昨日、一緒に寝てくれなかったから…今日はいいでしょ、お姉ちゃん…」
伏せた瞳でフランは咲夜に訴えかけた。その申し出を咲夜は断れるはずがなく、
「ええ、一緒に寝ましょう、フラン」
静かな笑みで頷いた。
――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――――
激痛苦痛鈍痛哀痛惨痛幻視痛
快楽愉悦情欲興奮昂揚悦楽幸福感
―――――――――――――――――――――――――――――――我が内に潜む、ザッヘルの教え
古明地さとり
×××の心をよんで
※)この後、女史はPTSDを患いかける
――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――――
次の日もレミリアは咲夜を手酷く扱った。
「貴女、主人にこんな不味いものを食べさせるつもりだったの」
「もうしわけ…ございません…」
頭から血のようにソースを滴らせながら咲夜は謝る。衣服も脂やソースで汚れ、足下には割れた皿と今日のメインディッシュであった子羊のステーキが落ちている。それをレミリアは一口も食べることなく、不味そうと言い捨て咲夜に向かって投げつけたのだった。
「お姉さま、やめて!」
フランの声も遠く、レミリアの怒りは咲夜に向けられたままだった。
「すぐに作り直してきなさい」
「かしこまりました」
刻を止めて咲夜は食堂から厨房へ向かう。けれど、新しく料理を用意できるほど長くは刻を止めていられない。せいぜい、お茶を入れ直せる程度。十数分だかレミリアの前に皿が置かれていない時間が生まれる。
「お待たせいたしましたお嬢さま」
「遅いわよ!」
それで再びレミリアは激高する。汚れた服のまま料理を手に戻ってきた咲夜に開口一番そう言い放つ。咲夜は頭を下げて謝り続ける機械になるしかなかった。
「まぁ、いいわ。ふぅん、でも、今度のは美味しそうね」
それが功をせいした…訳ではないのはレミリアの瞳から加虐の光りが消えてないことですぐに分かった。
「美味しく食べられるぐらい…温かいのかしらね、これは」
「はい、そのはず…そうです」
湯気を立ち上らせているのはグラタンだった。夕食/朝食にだそうと仕込んでおいたものを咲夜は先ほど、急遽窯で焼き上げたのだった。ベシャメルソースの上に振りかけられた粉チーズが枯れ葉のように色づいていてとても美味しそうだ。
「そう、じゃあ、咲夜。指を入れて熱さを確かめてみて」
「え?」
レミリアの言葉が理解できず、咲夜は呆けた顔をする。
「聞こえなかったの。熱いかどうかを確かめてほしいっていったの。ここに、貴女の、その指を、つっこんで、ね」
一語一語を区切って、咲夜にも理解できるように、丁寧に説明してみせるレミリア。ここ、と視線で指し示したのはグラタンの皿。分厚い耐熱容器とチーズの幕に守られたグラタンの温度はゆうに火傷できるほどに熱く、冷めるまでにはまだまだ時間がかかるだろう。
「もう一回、説明しようかしらさく…」
「お姉さま! 酷いよ! グラタンは温かいに決まってるでしょ! そんな…」
レミリアの言葉に横やりを入れるフラン。そのフランの言葉も、
「大丈夫です、お嬢さま。咲夜が温度を確かめてみますから」
「咲夜…」
遮られる。
心配そうなフランの顔に一瞥を向けると、咲夜は袖を捲り、人差し指を立ててそれを熱いグラタンの中へ差し入れた。
「ッう…」
漏れそうな悲鳴を、意に反して退こうとする指を、歯を食いしばって耐える。
「一本だけで分かるのかしら?」
更なる注文。咲夜は言われたとおり、人差し指をグラタンの中に入れたまま、もう一本、中指をグラタンへ突き刺した。
「温かそうね。少しかき混ぜてみて」
「は、はいぃ、お嬢さま…」
引きつった顔で頷き、小さくグラタンの中で円を描く。固まったチーズが割れ、中に沈んでいたタマネギやウインナーが頭を覗かせる。間から湯気が立ち上ってくる。
「ふぅん、ええ、確かに温かそうね咲夜」
「ありが、とうございます」
急いで指を熱いグラタンの中から引き抜く咲夜。二本の指は赤く、人参のように染まっていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の日もレミリアは咲夜を手酷くあつかった。
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です」
言葉に出してペンを走らせる。
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。」
テーブルの上に広げられたわら半紙は既に数十枚に達している。その全てに“私は駄目な人間です。―十六夜咲夜”の文句と署名。
「まだ、終わらないの咲夜」
「すいませんお嬢さま…」
飽き飽きとした顔で机にかじりつく咲夜に視線を向けるレミリア。午後の書類整理の時間に二秒遅れた罰、反省文だ。
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。」
なんどもなんども身体に教えこませるように書き続ける。なんどもなんどもそうであると心に教えるために声に出す。タイプライター顔負けの早さで。一瞬でも遅れるとレミリアがその手の甲を長い竹尺で叩いた。叩きすぎて手の甲は腫れ上がり、真っ赤に熟れたトマトになっている。
「遅いわ」
ピシリ、また一撃。皮膚が裂けて血が流れる。けれど、手を止めてはいけない。遅れてもいけない。止めれば拳が飛んでくるのを咲夜は身をもってしったからだ。腫れ上がった頬に涙の痕。鼻からは血が流れている。ぽたりと、紙面に血が落ちた。
「何汚しているのよ!」
レミリアが咲夜を殴打する。椅子から転げ落ちる咲夜。受け身も取れず、肩を強かに打ち付ける。けれど、うめき声一つだけをあげて咲夜はすぐに立ち上がると倒れた椅子を元に戻し、また、書き始めた。
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。」
止めていいわ、とは言われていないからだ。命じられた枚数を―――100枚の便箋を使い切るまでは止めてはならないと言われたからだ。
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。」
もう、指は疲れ切っていて字面は蚯蚓が這ったよう。あまりに汚すぎるとまたレミリアが竹尺で打ち据えてくる。それで腕が更に痺れる。悪循環の見本。
それでも、歩き続ければいつか砂漠から出られるように、
「私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です。私は駄目な人間です―――終わりましたお嬢さま」
咲夜は100枚の便箋にその文句を書き終えた。
「そう。反省はしたかしら」
つまらなさそうに、レミリアは事実だけを確認する。はい、と頷く咲夜。
「そう」
レミリアはテーブルの上に散らばった便箋を全て掴んでまとめ上げると力増させにそれらを破いた。びりびりと、びりびりと、100を200に200を400へ400を沢山へ。咲夜に見せつけるように、その目の前で。千切った紙切れをパラパラと振りまいて。
「片付けておいて」
「…はい、お嬢さま」
レミリアは部屋から出る前に咲夜にそう命じた。
出口でフランとすれ違う。
抗議の視線/興味のない視線が交差する。けれど、それだけだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の日もレミリアは咲夜を手酷く扱った。
「お嬢さま…あの…」
夜明けの数時間前。咲夜はレミリアのチェスの相手をしていた。
「何? 貴女の番よ」
チェスというゲームの性質上、一概には言えないが咲夜が劣勢側だった。多くの駒を殺され、僅かに残った臣下たちだけで王を守っている。
やり始めてから数時間、もう数十ゲーム目。最初こそ咲夜は勝ち続けていたがそれは徐々に優勢から均衡、辛勝へ。そうして、ここ数回は咲夜が連続で負け続けていた。
「チェック。これで勝ち点は同点ね」
「はい。あの…お嬢さま」
ゲームの前、レミリアは咲夜に大量のアルコールを飲ませていた。けれど、酔いが回ってきたせいで集中力が発揮できず、咲夜はゲームに負け続けているのではなく、
「申し訳ありませんけれど…おトイレに…」
「ダメよ。決着をつけてからにしましょう」
羞恥に顔を赤らめる咲夜の言葉をにべもなく切って捨てるレミリア。早く駒を並べ直しなさいと命令。主人には逆らえず、咲夜は内ももを擦り合わせながら盤面に駒を再配置しなおす。
それから、数十分/数ターン。
「っううう、チェックメイトです」
「残念。読み通りね咲夜」
次の一手で王を取れる位置に駒を動かした咲夜。その駒を間髪入れず倒し、自軍の駒を咲夜の王の前に置くレミリア。逃げ道はなかった。レミリアの連勝。
「ダメ…我慢できない…」
レミリアの許しもなく椅子から咲夜は立ち上がった。けれど、その手をレミリアが強く握る。
「ダメよ。負け犬が勝手にゲームを降りるなんてこと、許されるはずがないじゃない。いいから早く次のゲームをしましょう」
「………」
一瞬、レミリアの手を振りほどこうかと力を込める咲夜。その手首をきしみをあげるほどレミリアは強く吸血鬼の力でもって締め上げる。
「っう、わ、分かりました…」
座って駒をならべなおす。指は震えている。身体も小刻みに。顔色は酷く悪く、緑がかってさえ見える。
「あ…」
その手から駒がこぼれる。同じように咲夜のグラスからも。
「咲夜、貴女…」
「すいません、すいません、お嬢さま」
幼子のように泣く咲夜。その下着とスカートはぐっしょりと濡れていた。臭気が立ち上ってくる。
「まったく。こんな所で漏らすなんて。今時、犬畜生でも決まった場所でおしっこぐらいするわよ」
犬以下ね、とレミリアは肩を竦める。
「もうしわけございません」
濡れた内ももと椅子から雫が落ちる音、臭気、情けなさに身体を震わせる咲夜。けれど、心の何処かで安堵を覚えていた。これ以上我慢することはないと。
「まぁ、いいわ。さぁ、続きを始めましょう」
「え…」
その安堵を打ち砕くレミリアの言葉。真っ直ぐ見据えてきた瞳が冗談ではないことを物語っていた。
その光景をフランは遊戯室の隅で見ていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の日も次の日も次の日もレミリアは咲夜を手酷く扱った。
咲夜の身体を痛めつけるような命令を告げ、咲夜の自尊心を破壊するような行動を強制し、咲夜の生理的な欲求を強固に管理した。
心身共に咲夜は日を追う事に傷ついていった。
身体から痣が消えたことはなく、指には常に絆創膏が巻かれ、瞳の色は失せ、勘定というものが喪われつつあった。
ああ、けれど―――
「大丈夫、咲夜―――お姉ちゃん」
「……ええ、うん、大丈夫よフラン」
姉妹が二人っきりになる時だけは別だった。
大抵、レミリアは咲夜を虐めた後、すぐに何処かに姿を消した。その後に、入れ替わるようにフランは咲夜の元へやってきた。
火傷した咲夜の指を冷やしてあげたり、床に散らばった紙片を掃除するのを手伝ったり、汚してしまった服を洗ってあげたり、そういうことをしてあげるために。慰めの言葉をかけてあげるために。
―――姉妹ごっこをする為に。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
宵闇が終わり朝の光が立ち上った頃。
吸血鬼を主とする紅魔館においては、人で言うところの深夜の時間帯。
泥のように黒い遮光カーテンの向こう、一匹の獣が身もだえしていた。
はぁーはぁーはぁーはぁっ♥
洗い吐息。押さえきれぬ情欲。滴る唾液愛液粘液。
羞恥激痛倒錯、その全てを愉悦に。
ベッドの上で獣は身もだえする。
鞭のしなる音。三角木馬が軋む音。連なる鎖の鈴の音。無様な排泄音。享楽の嗚咽。
最後に、吸血鬼はもう駄目ね、と悲しげに呟いた。
床の上には汚濁にまみれた女が転がっていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…お姉さま、入ってもいいですか」
控えめなノック。けれど、有無を言わさぬような声色でフランは姉の自室の扉を叩いた。
「………ええ、いいわよ」
暫く間があってから返事があった。失礼します、と淑女らしく丁寧に頭を下げてから扉を開ける。レミリアは大きな事務机に腰掛け、分厚い洋紙の本を読んでいた。咲夜が煎れたのだろう。机の上には湯気の立つティーカップが置かれていた。
「…?」
入って、違和感。何処かで嗅いだことのあるような匂いがする。少し安心感を憶える匂い。レミリアの匂いではない。何処で、と思考が飛びかけたところでフランは頭を振るった。今は余計な事に気を散らしている場合ではない。
「お姉さま、お話があります」
「何?」
いつになく真面目な口調のフランではあったがレミリアはまるで興味を示さない。投げやりに答、頁を追う瞳をあげようともせず、読書に没頭しているようだ。
「咲夜に…もう、非道いことをしないでください」
だから、フランは真っ直ぐに、言いたいことを言った。余計な会話を挟んでオブラートに告げるのではなく、はっきりと訴え出るように。
「………」
レミリアがやっと本から顔を上げる。鋭い視線。けれど、内心はフランの力程度ではとても読み取れない。怒りか呆れか、それとも焦り? 最後者はないだろう、とフランは握り拳に更に力を込めた。
「咲夜がかわいそうです。あんなに虐めて。前みたいに優しくしてあげてください」
ともすれば怒鳴りそうになる喉を押さえて、要約した自分の考えだけを告げる。喧嘩はダメ―――慧音先生の言葉。そして、たぶん、咲夜もレミリアとフランの喧嘩は望んでいない。
「どうして?」
まるでフランがいっていることが理解できないと言った風にレミリアは返した。かぁっ、とフランは顔が熱くなるのを感じた。マグマ、活火山の底から大地によって熱せられた灼熱の泥があふれ出してくるように、心の底から怒りが吹き出してくる。
「どうしてって…お姉さま! だって、咲夜は毎朝あんなに涙を流して、傷だらけで、辛そうな目をして…大事な家族なのに、どうして…」
「家族ねぇ…」
つまらなさそうなレミリア。開けていた頁にしおりを挟むことなく本を置いて片肘をつき、フランに視線を向ける。
「ああ、あの姉妹ごっこが?」
「―――ッ」
せり上がってくる感情。今度は氷河。怒りによって熱せられた頭が一気に冷え渡る。秘密を知られていたという驚きのせいで。
「なんんで、知ってるの…」
「あれだけ毎日、部屋でごっこ遊びをしていればみみしいでも聞こえるわ。ああ、それに咲夜に教えて貰ったから」
「咲夜…」
少なからずショックを憶えるフラン。別段、他人に秘密にしようなんていう約束事は交わさなかったが、二人っきりでいる間しか通用してなかったルールだ。フランはある種勝手に秘密の間柄だと思い込んでいたのだ。
「でも…関係ないよ。やっぱり、やっぱり、おかしいよ。どうしてあんなに非道いことを咲夜にするの、やめて…あげようよ、お姉さま」
怒りと驚愕とその他多数、諸々の感情が混ざり合って混沌とした精神状態で、けれどフランは一番、叶えてほしいことだけを何とか口にする。肩は震え、涙を堪えるために強く瞼を絞り、俯く。
「……そうね」
そこでレミリアが小さく呟いた。今までのぞんざいな口調とは違い、夏の朝の湖畔のように澄み切った声。えっ、とフランが顔を上げる。まさか、という想い。届いたのかも、という期待。ああ、けれど、
「私だってできればそうしてあげたいわ。ああ、でもね、フラン。あれは咲夜が望んで、私に頼んできたことなのよ」
「え?」
理解不能級の、先ほどとは比べものにならない驚愕。
「っうん♥」
唐突に身を震わせるレミリア。性的な意図を感じる吐息。椅子をひいて、足下へ視線を向ける。
「もういいわさくや。出てきて私の妹に挨拶しなさい」
わん、とフランは聞いた事がある聞いた事のない声を耳にした。
荒い息をつきながら、狗が事務机を回って現れる。
「さく…や…?」
裸。けれど、ヘッドドレスは外さず。新たに狗を模した髪の毛と同じ銀色の付け耳。赤い革製の首輪。それと、フランには信じられないように位置に取り付けられた尻尾。ああ、そこに穴があることぐらいトイレに行っているんだからわかるけれど、そこに、お尻の穴に尻尾みたいなものを入れるなんて信じられない。ああ、いや、それより、もっと信じられないことが。否定したい事実が。
「咲夜ぁぁぁぁぁぁ!!」
頭をかきむしり、叫ぶ。そうすれば悪夢から覚めると思って。けれど、今、この瞬間は現実で、それを教えてくれるように今日の朝、一緒に眠ってくれたお姉ちゃんと呼んだ彼女はわん、と狗のように吠えた。人の言葉を忘れて。
「いい子ねさくや」
薄い笑みを浮かべてさくや、と呼ぶ狗の頭を撫でてあげるレミリア。くぅん、と狗の仕草で咲夜は喜びを表した。レミリアの太ももに透明な雫が伝わっているのが見えた。性的な意味がとれる。机の下であの狗はレミリアの何処に何をしていたのか。
「何してるのよ!なんで、ああっ、畜生! どうして、なんで、もう、訳が分からないよ!」
腕を振り回し、涙を流し、叫ぶフラン。
「可愛らしい狗でしょ。今日から飼うことにしたのよ」
レミリアは、妹に自慢するように狗の首に手を回す。レミリアに倣うようにフランに視線を向ける狗。
「やめ…てよ、咲夜。そんな犬みたいな真似するの…おかしいよ…やっぱり、おかしいよ」
怒り、悲しみ、驚き、嫌い、混沌を越えて深淵へ至ったよう。
「どうして? 咲夜が望んだことなのに」
「嘘だッ!!」
かぶりを振るい絶叫。けれど、効果はなさない。
「ああ、そうそう。狗を飼い始めたから、貴女の付き添いになる人がいなくなったわね。まぁ、大丈夫よフラン。あれに頼むから」
ちゃりんちゃりん、と机の上に置いてあった銀のベルを鳴らすレミリア。別室の扉が開き、困惑した表情の美鈴が現れた。
「あの…お嬢さま、私、フランお嬢さまの面倒を見るようにって言われて…えっ、でも…」
「そうよ、お願いね美鈴」
レミリアと、その足下にかしずく狗に交互に視線を向ける美鈴。こちらも混沌の極み。
「でも…咲夜さんは…」
憧れの女性が狗の真似をしている。いきなり後ろから刺されたようなそんな現実味のない絶望を美鈴は味わっている。いっそ煉瓦で頭を殴りつけるか、火酒でも一気にありたくなってくる。そのどちらもこの場では許されていない。
「咲夜は私、専属になったわ。ええ、だからある意味昇進ね美鈴。お給料も弾ませてもらうわ」
口の恥を曲げて美鈴に今後の待遇を告げるレミリア。悪夢以外の何者でもない。
「さて、仕事の引き継ぎが終わったところでペットに餌でもあげましょうか」
そう言ってレミリアが部屋の隅に置かれた棚の下の段から薄汚れひびの入った皿を一枚取り出してきた。縁には大きく黒い文字で“さくや”と描かれている。次に牛乳とライ麦パンを取り出すと、適当な大きさにパンを千切りそれらを皿の上に並べ牛乳を注いだ。
「さぁ、さくや、ご飯よ」
どうぞ、と牛乳が注がれた皿を狗の前に置くレミリア。
「どうしたの? 食べなさい」
狼狽した様子で狗はレミリアを見上げる。つづいてフラン、美鈴と視線を移し、最後にまた、レミリアに戻した。そうして、
「わ、わん」
戴きますのつもりだろうか。嘶いて、直接、皿に口をつけ、ぐちゃぐちゃと汚らしい音を立てながら狗は用意された餌を食べ始めた。
「さく、や、さん…」
「やめてよ、やめてよ、咲夜ぁ!!」
飛び出し、フランは狗の顔を押さえると食事を止めさせようとした。けれど、頑なに、一心不乱に、狗は餌を食べ続けようとする。美鈴は固まったままだ。いや、誰であろうとこの状況で動けるはずがない。
「ふふふ、こら、フラン。さくやのお食事の邪魔をしちゃダメでしょ」
口に手を当て淑やかに笑うレミリア。
フランはその顔を憎悪の面持ちで睨み付けると、
「この…ッ!!」
立ち上がる勢いのまま、レミリアに殴りかかった。
「!?」
押し倒され、机の上に押しつけられるレミリア。その顔を一発、二発とフランが握り拳で殴りつける。
「っ、ふ、フランお嬢さま…おやめください!」
慌てて止めに入ったのは美鈴…ではなく、狗でもなく、咲夜だった。後ろからフランの身体を押さえつけ、暴れないように両手を掴む。
「ッ! 咲夜! どうして…!」
自分の邪魔をしたのが咲夜だと知ってフランは泣きそうに顔を崩した。
「こいつが! こいつが貴女に非道いことをしているのよ! なんで、そんな…!」
「美鈴、早速仕事よ! フランを連れてさっさと部屋から出て行きなさい!」
大きな声。口の端から垂れる血をぬぐいながらレミリアは美鈴に命令する。血は殴られた時に口を切ったせいだろう。開けた口は吸血鬼の食事の後のように赤かった。
「フランお嬢さま…すいません…今は、今は帰りましょう…!」
「離して美鈴! 私はぁ! アイツを…!!」
美鈴に引き摺られていくフラン。美鈴はそんなフランに視線を注いだまま、他に何も見ようとはしなかった。めちゃくちゃな命令をするレミリアにもその命令を忠実に狗のようにこなす咲夜にも。
「ああ、咲夜、ところで、貴女、なんで人間様の真似事をしているのかしら…?」
テーブルから降りたレミリアは二本の足で立っている咲夜にそう告げる。びくり、と咲夜は身を震わせた後、両手足を床について、わんと、吠えた。狗のように。
「咲夜ぁぁっぁ!!」
その姿を目に焼き付けながらフランは姉の部屋から連れ出されてしまった。
最後に、冬の湖畔のように何お勘定も読み取れない咲夜と一瞬だけ視線が交じあわされた。
―――――――――――――――――――――◆◇◆――――――――――――――――――――――――
理解。
あの目が訴えかけていたこと。
押し殺された表層感情。
埋もれた中間意識には絶望と諦念、消沈が。
けれど、その下、化石になりそうな心の体積物の中で、太古の琥珀に絡め取られた蚊が吸い取っていた血のように、怒りが恥ずかしさが望みが渦巻いているのを感じ取った。
『そこから絶対助け出してあげるよ、咲夜お姉ちゃん』
フランドール・スカーレット。
自室での独白。
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
次の日から、フランは咲夜を屋敷の中で殆ど見かけないようになった。同じくレミリアも。
希に見かけても大抵は二人一緒だった。
能面のような表情を貼付けて、まるで、早くこの世から消えたがっている亡霊のような調子で歩いている、二人とも。それと、咲夜は身体の怪我が多くなっていた。
目の回りに痣。ぞんざいに巻かれた乾いた血の付いた包帯。折れた指を固定するギブス。痛々しさが以前より増していた。その姿を見かける度にフランは歯ぎしりした。ある時など、怒りを抑えるために自分の親指の腹をかみ切らなければならなかったのだ。顔半分を覆う包帯を頭に巻いた咲夜を見て。
紅魔館の生活は大きく変わってしまった。
今までずっと一緒に摂ってきた三度の食事の席も今ではバラバラ。今ではフランは美鈴が作った中華料理をもっぱら三度の食事にしている。美鈴の料理の腕も中々なものなのだが、濃いめの味付けがどうにもフランの舌には合わず、残すことが多かった。慧音の家庭教師も「自分一人で自由研究をしたい」と言ってしばらく断った。慧音はそれがあの相談の延長なのだとすぐに理解し、快く承諾した。宿題だけは沢山出したが。
そうして、日々は流れていく。フランは部屋に籠もりっきりになるようになった。食事のために食堂に顔を出したり、パチュリーの図書室で調べ物をしたり、外に美鈴を伴って散歩に出ることはあったので自分の殻に籠もっているというわけではなさそうだったが、言葉数は少なくなり、いつも冬の氷が張った湖畔のような瞳をしていた。
そのフランに根気よく美鈴は付き合った。大抵は一言、命令を告げられる程度だったがそれでも毎日会話を欠かさないようにしていた。
「今日は月が綺麗ですよ」「大きな鶏が手に入ったんですよ。今晩は棒々鶏ですね」「どうです、一緒に太極拳でもしませんか」
その美鈴にフランは少し苛立ちを憶えた。いや、自分を気遣ってということはフランにも十分できた。感謝もした。けれど、その気遣いが“咲夜さんはもうレミリアお嬢さま専属なんですから”そういう諦めからきていることが分かった。まるで故人を偲んでいるよう。腹立たしい。まだ、咲夜は、咲夜お姉ちゃんは同じ屋敷にいるっていうのに。
そうして、計画が決まった。
「美鈴、買い物にいかない?」
「え、ええ、いいですけれど、何をお買いになるんですか、フランお嬢さま」
この生活に変わってから初めてフランは美鈴に自分から話しかけた。相手から話しかけられ、それに返事したことは何度かあったけれど、会話が長く続くことさえなかったのに。
その事実に少しだけ後悔―――もう少し、美鈴とも仲良くしておけば良かった、と想い、フランはほしい物の名前を口にした。
「雨合羽―――吸血鬼が雨の日に外を歩けるぐらい上等なのを」
どうしてそんな物を、と首をかしげながらも美鈴は二つ返事で了解し、二人は珍しい物を売っている古道具商、香霖堂まで飛んだ。
はたして、目当てのものは見つかった。
後は雨が降るのを待つだけだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「フラン…お嬢さま…」
「二人っきりの時は妹だって言ったじゃない、咲夜お姉ちゃん」
雄鳥が鳴くのをやめ、太陽が頂点にさしかかった頃。
吸血鬼を主とする紅魔館においては、人でいうところの夜の時間帯。
降りしきる雨の中、屋敷の裏の森を二人は走り抜けていた。
足下はぬかるみ、異形の様を晒し歪み伸びる木々は行く手を遮るように立ち並び、歪に土の下から姿を現す木々の根はリビングデットの腕のよう。ともすれば足をとるように嫌らしく地面から突き出ている。
吸血鬼の天敵である陽光は今日この日だけは無視して良かった。天蓋の様に空を覆う分厚い灰色の雲。それに醜悪な形状の葉が紫外線の全てを防いでくれていた。フランが頭からすっぽりと被っている黄色の雨合羽も鎧のように守ってくれている。けれど、
「ッ、熱い…!」
「フラン…大丈夫!?」
「うん、大丈夫だから、咲夜お姉ちゃん」
もう一つの天敵、雨だけはどうしようもなかった。フランの抜き身の手に雨粒が一つ、落ちてくる。刹那、じゅうと肉が焼ける音と匂いが、白煙を伴ってフランの手の甲から上がる。流れる水―――小川だけではなく天から落ちてくる雨水でさえも、吸血鬼にとっては身を焼く強酸のようなものだ。レインコートの隙間や長靴を履いた足首から白煙を立ち上らさせ、幼い顔を苦痛に歪めつつもフランは咲夜の手を引いて走った。
これぐらい、どうってことはないわ。咲夜が―――咲夜お姉ちゃんが受けてきた痛みに比べれば…
その日の朝、吸血鬼のではなく人による時間帯にとっての正真正銘の朝。昨日の夜から雨が降ることを確信していたフランはついに計画を実行することにした。
吸血鬼が苦手とする昼の時間に天敵である雨が降りしきる中、咲夜を伴って屋敷から逃げ出すという計画を。
この計画について語ることはそれだけしかない。あと、あるとすれば前日に作戦を打ち明けていた美鈴に、もしもの時はレミリアを足止めしておくように言っておいたことぐらいだ。
お昼頃、絶対にレミリアが深い眠りについているあろう時間に、今では二人の部屋になってしまっているレミリアの部屋の扉をノックし、後は勢い任せにフランは咲夜の手を引いて屋敷から飛び出した。
「はぁはぁ…フラン、ちょっと、早いよ」
「がまんしてお姉ちゃん…」
荒々しく呼吸をつき、ともすればすぐに動きが緩慢になる咲夜の足。無理もない。雨の中、悪路を走っているから、という理由だけではなくやつれた咲夜は以前のような体力を持ち合わせていないから。
早く、何処かで休憩した方がいいかも、とフランは走りながら考える。屋敷から逃げた先のことについては考えていなかった。兎に角、あの絶望から咲夜を救い出せれば、そう考えての行動だった。
思えばそれは浅はかだったと言うほかない。はたして、体力がない人間を連れて、しかかも、潜伏先も定めていない逃走が成功するなんて、そんなのは三流の冒険小説にもなさそうな話なのだ。
だからか。フランはある意味、心の何処かで理解していたのかも知れない。この逃走劇が失敗で終わることを。
「待ちなさい、フラン、咲夜」
唐突にかけられる声。振り返るまでもない。
「お嬢…さま…」
レミリアがやってきたのだ。
咲夜だけは振り返りその姿を確認していたが、それを終わらせるよう、フランは無理矢理咲夜の手を引いた。
手を入れれば皮膚を裂くような茂みに割って入り、枝葉で視界を覆われる中を走る。
「っ、フラン―――ダメ、この先は…!」
それまで引かれるに任されるままだった咲夜が唐突にフランの腕を引っ張った。それで、フランは助かった。
「ッ!? 崖…?」
立ち止まった時に蹴飛ばした石がゴロゴロと斜面を削りながら落ちていく。ややあって水音。フランが覗き込むとその下はミルクを垂らしたコーヒーのような色をした水が大量に流れていた。もし、あのまま走り続けていたらどうなっていたのかと思うとフランはぞっと身を震わせた。
「飛び越える―――のも無理…」
吸血鬼は流れる川を渡れない、絶対のルール。
仕方なくフランは咲夜の手を引いて迂回する。川は多分、湖に流れ込んでいるはず。流れていない水の上なら飛び越えられる。そこまで行けば…と茂みをかき分けて進み、広間に出たところでフランは今度は自分の意志で自分の足を止めた。
「レミリア―――お姉さま」
「まだ、姉と呼んでくれるのね、フラン…」
ちょっとした草原になっている場所、かつては天に向かってその枝葉をのばしていたであろう、折れた大木のすぐ側にレミリアは立っていた。全身から身体を焦がす白煙を立ち上らせながら。雨合羽も身につけず、傘も差さず、吸血鬼の天敵の雨の中に。
「っ…咲夜は…! 咲夜お姉ちゃんは返さないから!」
ぎゅっと、傍らに呆然と立ち尽くす咲夜の身体に抱きつく。瞬間、レミリアの顔に怒りが浮かぶ。
「まだ、貴女はそんなことを言って…! 咲夜、言ってやりなさい、『姉妹ごっこなんて嫌だ』と『私はホントの姉じゃないの』って!」
「ッ…それは…」
「聞かなくていいから咲夜お姉ちゃん!」
狼狽える咲夜の身体を更に強くフランは抱きしめる。烈火の如く怒りの形相を浮かべるレミリアが近づいてくる。見る物全てを圧倒する視線を向け、全身から立ち上らせる白煙と火傷のような痕、それが一瞬で再生する様はまさしく悪魔のようだった。たじろぎ、一歩、逃げるように後ずさるフラン。いや、とけれど、すぐに頭を振るう。
「咲夜は…返さないからッ!!」
激高/吶喊。もはや逃げられないと悟ったのか、フランは不意打ちにレミリアに飛びかかった。まさか、妹がそんな行動にでるなんてとは露にも思わず、レミリアはフランに突き飛ばされる。もんどり打って倒れ、倒れた木に強かに背中を打ち、盛大に泥水を跳ねさせるレミリア。
「ッ、ああ、もう、まったく、聞き分けの、ない…え?」
泥に汚れた服。そこに新しく赤い色が交じる。
「お姉…さま」
「フランお嬢さま」
「なに、これ…?」
六個の瞳が一つの点に視線を注ぐ。
尖った切っ先。血肉と破けた布片がこびりついたささくれ。フランの腕ほどある杭のような形をした木の枝。それが、倒れたレミリアの胸から生えていた。
「お嬢さま!!」
最初に我を取り戻したのは咲夜だった。案山子のように立ち尽くしていたフランを突き飛ばすように脇を走り抜けレミリアに駆け寄る。
「お嬢さま! お嬢さま! しっかりしてください!」
頬を伝わっているのは雨ではない冷たい灰色の雫。
叫び、咲夜はレミリアを揺り動かすが瞬く間にレミリアの顔は死体のように黒ずんできた。身体に穴が空いた程度の傷。これぐらいならばレミリアなら瞬く間に治せる。至近距離で散弾銃に打たれても、魔術で限界まで強化された格闘家の一撃を受けても。それが木の杭―――あるいはその模造品でなければ。
「げほ、苦しいわね」
吐息と共にどす黒い血の塊を吐くレミリア。代わりに白煙がなりを潜め始めた。流水によって焼けただれるのも止まり始めた。ただし、再生はしない。レミリアが吸血鬼ではなくなりつつある証左だ。つまり、吸血鬼から死体へ―――レミリアは死のうとしていた。
「ああ、こういう気分なのね死ぬって。嫌だわ、本当に嫌だわ」
天を忌々しく見上げて呟く。レミリアの瞳から涙が流れる。もはや、身体は流れる水に何の反応も示さない。
「好きな人と大切な妹を遺して逝くなんて…最悪の気分じゃない」
そっと腕を伸ばしてレミリアは抱きついて泣きじゃくる咲夜の頭を優しく撫でた…いや、そのそぶりを見せてから髪の毛を一房、無理矢理引きちぎった。
「フラン、姉として最後に言っておくわ。私が、私の姿が規範よ。私の真似をしなさい。自分の影に気をつけながらね」
フランにはまだ理解できないことを言って、レミリアは握った咲夜の髪を差し出すように手を伸ばした。ややあって、その腕が泥の中に落ちた。フランもその場に跪いた。
美鈴がやってきた。
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
枯れた花は二度と咲きません。けれど、それは僕たちの心の中で咲き続けるんです。
クルースニクの神父
レミリア・スカーレットの葬儀にて
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
あの日と同じ、降りしきる雨の中、レミリアの葬儀は慎ましく行われた。
参列者の多くは幻想郷の外に住んでいる吸血鬼たちだった。悲しむそぶり、その裏ではスカーレット家も終わったな、という嘲笑。
「ありがとうございました」
帰宅する参列者に出入り口に作られた天幕の下で頭を下げるフランと美鈴。吸血鬼連中はおきまりの言葉だけを継げて足早に去っていく。こんな田舎には一秒だっていられないと言った風に。
「お姉さんのことは…その、残念、でしたね、フランさん」
その中にまともな、悲しみと気遣いを含んだ言葉が交じる。フランが顔を上げると喪服に身を包んだ慧音が傘を差して立っていた。
「慧音先生…ありがとうございます」
あふれ出しそうになる涙を堪えて深々と頭を下げるフラン。今日、唯一、心の底から感謝の意を表した。
「いえ…こう言ってはなんですけれど、お家の頭首として貫禄が出てきていますね」
せめてもの元気づけに、と慧音は話題を未来の方へ向けようとする。これから大変でしょうが、頑張ってください。何かあればいつでも相談に乗るから、といつぞやか、夜の湖岸で見せた人生の教師としての顔をまた見せてくれる。
「はい、ありがとうございます先生」
「…そう言えば今日はメイド長さんは? 姿が見えないようだけれど」
首を巡らし慧音の記憶の中ではまだ完璧に瀟洒だった咲夜の姿を探す。それが、失敗だったと気づいたのはフランが何も応えず震えているのを見てからだった。
「えっ…」
「咲夜なら、体調が優れないそうなので部屋で休ませてあります」
事実だけを口にして、じっと耐えるフラン。余りに悲しいその姿に慧音は掛け値なしにこの子を守ってあげなくては、と思った。
「…そうですか。お大事にと。それでは、私は先に帰らさせて戴きます」
頭を下げて去る。最後に、同じ想いである美鈴と視線を交わらせて。
「咲夜お姉ちゃん大丈夫かな…」
咲夜が体調を悪くしているというのは本当だった。無理もないだろう。体力が低下しているところを小一時間も雨の中を走り回った後なのだから。肺炎を拗らせなかっただけでも奇蹟というものだ。
けれど、今日のレミリアの式に参加していない理由は実際の所別にあった。今では咲夜の代わりにメイド長の座についている美鈴の判断だった。
咲夜の部屋の前まで来て、フランは扉をノックしようとして躊躇う。
あの時の光景が脳裏に甦ってきたからだ。
あの時、レミリアが事故で胸に杭を突き刺して亡くなったあの日。
あの惨劇には続きがあった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
打ち震え、降りしきる雨の中、慟哭する咲夜。
自らの頭に爪を突き立て、かきむしる。頭皮が裂け、血が流れ出る。限界まで見開かれた目は宇宙にあいたほの暗い孔のよう。がたがたと奥歯を打ち鳴らして喉の奥から聞くに堪えない絶叫を張り上げ続けていた。
「お嬢さま! お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さま!お嬢さまッ!!」
レミリアが死んだことが理解できないのか、理解したくないのか、冷たくなった身体を揺さぶりなが呼び続ける。返事があると盲信するように。邪教の祈りのように。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
やがて、それも決壊。咲夜の心一つに蓄えておける量の嘆きではなかった。
「おま、お前がッ…!!」
そして、それは絶望と化学反応を起こし、憎悪に置換される。
「お前が殺したんだッ!!」
爆ぜるような勢いでへたりこむフランに迫る咲夜。その速度はとてもただの人間が出せるようなものではなかった。幻想郷でも最強クラスの凶手の成せる技。狂っていても。
「うわぁぁぁぁ!!」
拳を振り上げ、フランの頬を殴りつける。いつかのリプレイ。いや、凶悪な難易度上昇番。耐えられるわけもなくフランは泥水の中に転がった。その上に咲夜は馬乗りになって拳を次々と繰り出す。
「やっと見つけた…って、何やってるんですか咲夜さん!」
遅れてやってきた美鈴が慌てて咲夜を止めに入る。屋敷から姿を消したレミリアを追って森の上空から捜索していたのだ。
「やめてください…クソ、すいません!」
けれど、咲夜の力は人間とは思えないほど強く、美鈴の力ではとても引きはがせなかった。悪態と謝罪の言葉を先に告げて美鈴は咲夜の頸椎に手刀を振り落とした。意識を落とす当て身技。あっ、という短い吐息を漏らして咲夜の身体は倒れた。その身体がフランの上ではなく、何もない水たまりの上に落ちたのは偶ザンだったのだろうか。
「畜生…一体、何が…ッ、お嬢さま…ああ、もう、クソ、ダメだ、何これ…ああ、畜生…」
すぐ近くの倒れた木に眠るように死んだ探し人、レミリアの姿を認めて美鈴は絶望と混乱に顔を崩した。
意識を失った憧れの人、絶望に目を見開いて震える今の主人、そうして、もう息もしていない頭首。全てのことが美鈴の理性の限界を超えていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それから数日。意識を取り戻した咲夜が高熱を発していたため、美鈴は咲夜を部屋で寝かしつけ面会謝絶にした。いまやスカーレット家頭首となった、なってしまったフランもそれに同意した。むしろ、今はとても顔を会わせられないと安堵したほどだ。
その後、咲夜はパチュリーが作った薬で回復に向かっていたが、精神の方はそうも行かなかった。美鈴が身の回りの世話をしていたが、その瞳は死んだように虚で、話しかけても愛想のない一言三言が返ってきただけ。誰よりも、レミリアの死に嘆きを憶えているのは咲夜だとその姿を見て誰もが思った。
「………………」
躊躇いは中々に収まらない。扉をノックしようとするポーズのままフランは固まって動かない。
痛みが甦ってくる。頬骨を打ち据えてきた咲夜の握り拳。その衝撃。打撃の向こう、曇天を背景に垣間見た憎悪に満ちた顔。あんな顔をするなんて。
自分の所為だった、あれは。言い訳なんてできない。
姉殺し…咎められていないのは事故だったからなどという温い話ではなく、吸血鬼という血族が相続と殺奪を同義に考えるというルールがあるからというだけだ。
それはフランに言わせればキモチの悪いルールだった。吐き気がしてくる。罪の呵責に。
けれど…
「入るよ、咲夜お姉ちゃん」
だったら、せめて、せめてものの罪滅ぼしをすべきだとフランは考えた。せめて、咲夜の顔に笑顔を…あの、姉の部屋をノックしたその前の夜に最後に見た笑顔を、もう一度見るために、あの時と同じように、決意を込めた面持ちでノックした。
ぎぃぎぃと、窓枠に首をつった咲夜の身体が揺れていた。
―――――――――――――――――――――◆◇◆――――――――――――――――――――――――
カタストロフ
或いは献花
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」
「お嬢さま、落ち着いて、畜生! パチュリー様! パチュリー様! 咲夜さんが!!」
「ッ!!! こあ、早く蘇生術の準備を! 地下二階の霊場にありったけのエリクシルを用意して!」
―――――――――――――――――――――◆◇◆――――――――――――――――――――――――
「あの…パチュリー様、考え直してもらえませんか」
肌寒い風が吹き、色あせた枯れ葉が流されていく。
紅魔館の玄関にてパチュリー・ノウレッジと紅美鈴は向かい合っていた。
「無理よ。第一、私はレミィの友人としてここに居候させてもらっていたから。そのレミィが死んだ以上、私がここに残れる道理はないわ」
「けれど…」
冷たい言葉を美鈴に告げるパチュリー。その手には大きなトランク。玄関前に止まる馬車には沢山の荷物が載せられている。パチュリーの傍らに控える小悪魔も両手に旅行鞄を抱えている。引越し―――パチュリーは居候していた紅魔館から出てこうとしていたのだった。
「でしたら…私や、いえ、お嬢さまのために残っては戴けませんか。フランドール様はレミリア様の妹です。そうする義理ぐらいは…」
「ないわ」
むべに切って棄てるパチュリー。苦虫を噛みつぶしたような顔をしてそれを受け止める美鈴。
非道い、とは言えなかった。何故なら自分もできることならそうしたかったからだ。もはや、一秒たりともこの屋敷にはいたくなかった。
余りに辛いことが多く、そうして、現在もそれが続いている屋敷。呪われているとさえ思い切ってしまえるような。
「踏ん切りが付かないなら…私が貴女を再雇用するけれど」
甘い言葉。パチュリーも美鈴のことを心配してそう言ったのだ。もう、誰も喪いたくないと。哀れな者を切り捨ててでも。
けれど―――
「いえ、自分は残ります。お嬢さまに―――レミリアお嬢さまにフランお嬢さまの面倒を観るように、言われましたから」
瞳から涙が溢れそうになるのを堪えて、パチュリーの申し出を断る。自分が、自分だけがこの呪いを終わらせられる、終わらせるんだという決意を込めて。
そう、と寂しげに、それに何処か申し訳なさそうに、パチュリーは呟き、踵を返して馬車に乗り込んだ。
走り出す馬車。その姿が見えなくなるまで美鈴は門の前で立ち続けた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
地下。かつてフランが閉じ込められていた部屋。
ここ暫くはまったく使われていなかった部屋に破砕音が響いた。
「きゃっ!?」
短い悲鳴。窓さえない薄暗い部屋の床にフランが倒れる。コップに入った水や皿にのせられていた料理が同じようにぶちまけられる。
「い、痛いなぁ、咲夜お姉ちゃん」
強かに打ち付けた肩を押さえながらフランは身体を起こした。顔には作り物の笑み。痛み、肉体と精神の両方を堪え、目尻に浮かびそうになる涙を堪えながら笑ってみせる。
「もう、せっかく私と美鈴で作った料理が台無しじゃない…」
自分の周りを見渡す。割れた皿に崩れた料理。服にソースがべったりとこびりついてしまっている。
そのなか、幸運にも割れず、中身もブチ撒けずに済んだ小鉢を見つけてそれを拾い上げる。
「ほら、お姉ちゃんに教えて貰ったサラダだよ。前よりもっと上手くなったんだから…一緒に食べようよ、ね?」
返事の代わりに部屋の隅に蟠った闇の中から強烈な一撃が繰り出されてきた。
「ッ!?」
強かに手の甲を打ち付けられる。小鉢が手から離れ、床に落ちて甲高い音を立てる。砕けて中身がこぼれる。幸運が終わってしまった。
「…ごめん。お姉ちゃんの好きなものじゃなかったのね。また、作りなおしてくるよ」
そう言ってフランは肩を落としたまま部屋から出て行った。部屋の外では美鈴が血が流れ出るほど強く拳を握りしめていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なんで前みたいにしてくれないんですか」
フランの入れ替わりに部屋に入る美鈴。拳は震えている。ともすれば殴りかかろうとするのを堪えるために。ぎりち、ぎちりと筋肉が悲鳴をあげるがかまいやしない。美鈴は今、この衝動をずっと止めてけるのなら命だって差し出す覚悟があった。
「五月蠅い…黙りなさい、美鈴」
闇の中から声が返ってくる。激しい怒りに満ちた声。何日も不衛生なところで暮らしてきたような病人がたてる声。
「ッ…どうして、私の時は普通に対応してくれるんですか。どうして、せめて、あの子の前でそれをしてくれないんですか!」
涙を流しながら美鈴は闇に向かって懇願する。そう、闇の向こうの相手は怒り狂ってとてもまともな話ができる状態ではないのだが、それでもこれはマシな方なのだ。
「どうして…そんなに非道いことをするんですか、咲夜さん…」
ランタンをかかげて部屋の隅を照らす。ぼうっと闇の中から浮かび上がってきたのはボロボロの従者服を着た咲夜の姿だった。
瞼にできた大きなくま。やつれた頬。かすれた肌。ぼさぼさの髪。かつて瀟洒だったなりは完全に影を潜め、部屋の隅で人形を抱いて怒りに肩を震わせている姿は狂犬病に罹った狗も当然だった。
「五月蠅いって言ってるでしょう美鈴。お嬢さまが―――レミリアお嬢さまがお休みになられているのよ」
そう言って狂気に輝く瞳で、手の中の人形の頭を撫でる咲夜。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あの後、首をつった咲夜はかろうじて一命を取り留めた。
フランの悲鳴を聞いて駆けつけた美鈴が咲夜の身体を下ろしたのが早かったのか、その後の人工呼吸がデッドラインを越えさせないための重しになったのか、パチュリーの魔術による蘇生措置が功をせいしたのか、理由は分からなかったが、兎に角、咲夜は死ななかった。精神を除いて―――
一命を取り留め、見舞いに来た全員、美鈴、パチュリー、それにフランに咲夜は飢えた狗のように襲いかかった。パチュリーがほうぼうの体で逃げ出し、美鈴が必死に暴れる咲夜を無理矢理、押さえつける中、フランだけが涙を流しながら必死に懇願していた。しっかりして、落ち着いて、咲夜お姉ちゃん、と。
それから、パチュリーの提案で咲夜を地下の部屋に移すことにした。頑丈な部屋。暴れ回っても誰も傷つかないような洋風の座敷牢。フランがそれだけだと、咲夜お姉ちゃんが暴れた時に危ないから、と全面を柔らかい布張りにするように命令した。それは正解だった。その後も、何度か咲夜は自殺を図ったからだ。
その後、三人の献身的な介護が続けられる。
永遠亭から医者を呼んだりもした。守矢神社にお祓いもしてもらった。
けれど、咲夜は一向に回復する気配を見せなかった。
大抵は部屋の隅でうずくまって震える日々を過ごす咲夜。誰かが近づけば、出来の悪い番犬のように吠えたて、暴れ回った。
最初にパチュリーが諦めた。
『この子は魔界より暗い闇に捕らわれているわ。私には、私たちにはどうすることもできない』
そうして屋敷を去った。
美鈴がレミリアの部屋から持ち出してきた人形をあてがった時は少しだけ落ち着いた様子を見せた。けれど、咲夜がその人形に向かってまるでかつてレミリアにそうしていたかのように接しているところを見かけて美鈴は激高した。なんで、そんな幻を見るのだと。騒がしいわよ、美鈴、と昔のような返答があった。
少しばかり問題はあるかもしれないけれど、回復の兆しが見えたと美鈴は心の底から喜んだ。そして、その事を今の主人であるフランに告げた。また、一緒に寝てくれるかな、と少女は薄く笑みを浮かべた。
久しぶりの対面だから、二人っきりで会わせて、という話を呑んで美鈴はフランに面会を許可した。
地下室からフランの悲鳴が上がったのはすぐだった。
何度か、試した結果…咲夜は美鈴の前だけで多少、理性を取り戻すようだった。その事実が更に美鈴の怒りに油を注いだ。
それでも、なおもけなげに、いつかは自分と一緒に笑ってくれるようになるとフランは毎日、咲夜の所へお見舞いに行った。
その姿が余りに哀れでかわいそうで、
「畜生…どうして、どうして、咲夜さん」
「何? 私はこれからお嬢さまと会合に行かなきゃ…」
「レミリアお嬢さまはもう死んだって言ってるだろ!!」
地下室に響き渡る美鈴の怒声。いや、一撃。もはや、耐えきれなかった。美鈴は咲夜を押さえつけるとその腕から人形を、咲夜がレミリアだと思い込んでいる人形を奪い取った。
「こいつは小汚いただの人形だ! レミリアお嬢さまじゃない! 忘れられないのはわかる! 私だってあの事故は無かったことだって思いたい! でも、でも、しょうがない! もう、過ぎたことなんだ! それより、あんたにずっと振り向いてほしくて、笑ってほしくて、頑張ってるあの子に声をかけてあげてよ…お願いだから…お願い、ですから、咲夜さん…」
咲夜の胸ぐらを掴んだまま心の蟠りをすべて吐露する美鈴。目からは止めどなく涙が溢れ、咲夜の服や自分の手の甲を濡らす。もう、耐えきれなかった。これ以上は。
だって言うのに、
「あああああああああああああああああ!!!!!!! おじょう、おーじょう、おじょうさま! お嬢さまぁぁぁぁぁ!!」
美鈴の手の中の咲夜は震えたかと思うと奇っ怪な声で泣き始めた。耳障りな声に美鈴の顔が歪む。頭を振り乱して暴れる咲夜。
「っ、クソ! 咲夜さん、落ち着いて…」
「うわぁぁあぁ、お嬢さま! お嬢さま! お嬢さまが殺された! 殺されたんだ! アイツに! フランドールに! こ、殺してやる! 殺してやるッ!!」
「―――」
その感情の変化を美鈴は冷静にみとっていた。ああ、人間、怒りすぎると逆に冷静になるって、こういうことなんだなぁ、と。自分の後ろにもう一人の自分がいて、自分を観察している気分。だから、納得もできた、理解もできた。今、咲夜に自分が明確な殺意を抱いていると言うことに。
いや、予感はあった。なぜならナイフをいつの間にか持ち歩くようにしていたからだ。以前、咲夜が使っていた銀のナイフだ。これを見せれば咲夜さんは正気を取り戻すかも、そんな風に考えていたなんて嘘だ。これはこの害悪を殺すために持ち出してきたもの。呪いを断ち切る神聖な剣だ。その剣の元の持ち主が呪いの元凶であることに気がついて美鈴は笑った。乾いた笑みだった。
「すいません、咲夜さん―――」
そう昔のように暴れる彼女を押さえつけて美鈴はナイフを振りかぶった。けほ、と軽い咳をして、血の塊を吐いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「あれ…?」
視界から色が消え失せる。どうして、という思考も消え失せる。ナイフを持ち上げる力も消え失せる。糸の切れた人形のように身体がかしずき、倒れる。強かに床に頭を打ち付けたとき見えたのは、赤く脈動する塊を手にしたフランの姿だった。フランがその能力―――あらゆるものを破壊する程度の力、をもってして美鈴の心臓をえぐり取り、彼女を壊したのだ。握りつぶされる自分の心臓をみて美鈴の魂は深いところへ沈んでいった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「何でよ…どうして、もう…嫌…私も…死にたい」
汚れるのも構わず血まみれの手で顔を覆うフラン。血と涙が混じり合って頬を伝わるが、それは床へと落ちていかない。泥のように顎先に張り付いている。
美鈴と咲夜が言い争う声を聞いて急いで戻ってきたフランは信じられないものを目にした。いや、或いは予想していたものを目にした。かつてのリプレイ/ブラックレーベル。そう、あの時、咲夜を連れだして逃げ出す計画の裏には確かにレミリアの殺害も摂り得る手段としてあがっていた。自分では意識していなかったが心の奥底では悪魔みたいな声がそういう解決策があると囁き続けていた。
その結果が、あれだったのかも知れない。無意識のうちに、姉の胸に杭を打ち込むように突き飛ばした。そうかもしれなかった。
今ではどうでもいい。あの時の自分と同じようなことをしようとしていた美鈴をこの手にかけたのだから。もし、あの時、美鈴が間に合っていれば。混乱する自分を止めてくれていれば、そう願わずにはいられなかった。もう遅い。もう、何もかも、終わって―――
「美鈴! 美鈴! ああ、なんて…なんてこと…どうして…」
好きだった人の声。顔を上げて、瞼を覆う乾いた血を砕いて瞳を向ける。美鈴の亡骸を抱いて、血に汚れるのも厭わず咲夜が涙を流していた。
「……………」
悲哀と絶望と怨嗟。咲夜は心の底から美鈴が死んだことを悲しんでいた。心の底から絶望していた。心の底からこの運命を呪っていた。
殺したフランを無視して。
「咲夜…お姉ちゃん…」
声をかける。どうして、そうしたかは分からない。これだけ多くのものが喪われたんだ、もうゴールしてもいいよね、といった風に。けれど、まだ終わっていなかった。
「………」
フランに向けられた咲夜の瞳は虚無を向いていた。何処も見ず何処も見えない。まっくろい、孔のように。フランを無視していた。
「…なんで」
ついにフランの感情がそちらの方向へ流れた。
壊れた咲夜を助けるため、愛情、その方向へフランは心の全てを集めていた。絶望も諦めも、何もかも放りだして、ただただ、咲夜のために心の全てを愛情というダムへため込んでいた。
それが決壊した。愛情というダムに蓄えられていた心という名の水は勢いのままに精神の地図の上を蹂躙していった。嘆きという平原を浚い、絶望という街を押し流し、諦めの丘を真っ平らにして。そうして、たどり着いてしまった。怒りという名前の大海原に。愛情の真逆の方向にあるその感情の場所に。
「ッああぁぁぁぁぁ!!!」
叫んで殴り飛ばした。顴骨を強かに打ち据える。手の甲が裂ける。痛みが迸る。その痛みさえ今では怒りに彩りを添えるスパイスだ。倒れそうになる咲夜の胸ぐらを掴みあげると続けて二度三度とフランは拳を振るった。
「クソッ! 畜生! 畜生! おしまいだ! ぜんぶ! ぜんぶ! 畜生!」
嗚咽を漏らし、涙を散らし、うなり声を吐き、血を流しながら咲夜の顔を、身体を、その全身を殴り続ける。投げ飛ばし、床に転がった身体を蹴りとばす。投げ出された指を踏みつぶす。腕を踏み抜く。顔を掴んで頭を何度も何度も何度も床へたたきつける。
「咲夜! 咲夜! 咲夜…お姉ちゃん」
虚な瞳が合った。未だに何の感情も示さない瞳が。
「―――」
怒りの海を越えて、心がそこにたどり着いてしまった。
美鈴もたどり着いてしまった/かつて自分の姉の場合にその航路を見いだした場所、殺意へ。
静かに咲夜の細くて白い首筋に手を添える。やせ細った首はフランの小さな手でも容易く収まるほどだった。
慧音の受業で教えて貰った人体の構造について思い出す。気道、大動脈。その二つを押さえれば脳への酸素の供給と、肺呼吸は止められる。つまり、簡単に
「―――死ぬ」
大切なものを手のひらに収めるように咲夜の喉に力を込める。虚だった咲夜の目が見開かれる。口も顎が裂けるほど大きく開かれている。赤黒く変色した舌が地底に住む蛭のようにのたうつ。フランの手を引きはがそうと咲夜は指に爪を立てるが片腕だけでどうにかなるものではない。咲夜の爪に裂かれてはすぐに治っていく自分の腕を見ながらフランは咲夜の最後を看取ろうと思った。
―――――――――――――――――――――◆◇◆――――――――――――――――――――――――
「フラン…」
―――――――――――――――――――――◆◇◆――――――――――――――――――――――――
「え?」
大きく開け放たれた口からそんな声にならない声を聞いて、フランの手から少しだけ力が抜け落ちた。
その腕を優しく撫でる指先―――咲夜の。
見開かれていた瞳には光り。あの以前のような光が見える。
「フラン…」
もう一度、名前を呼ばれてフランは逃げるように咲夜から離れた。
「何…どういうことなの…?」
今まで自分に何の反応も示してこなかった咲夜が急に自分の名前を呼んでくれた。もう、何が何だか訳が分からなかった。誰かに答を聞きたかった。教えてくれる人は目の前にいた。
「げほっえほっ、げっ…うぇっ…おぇっ…はぁはぁはぁ…フラン、フラン…」
咳き込み嗚咽を漏らし盛大に胃の中のものを吐き出し、震える咲夜。その顔には恍惚としたものが浮かんでいた。嬉しそうな義理の姉の顔と褒美を与えられた狗の顔。嬉しそうに折れた自分の指を眺め、身体を震わせている。内ももをすりあわせているのは言うまでもなく性的快感を覚えているからだろう。
それを仔細に眺め、自分では到底理解できない感情が咲夜の中で渦巻いているということを理解した。
パチュリーが残していった図書館の書物から、その断片をうかがい知ることができた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「さぁ、咲夜、ご飯よ」
わん、と元気に吠えたてる狗の前に小汚い皿に盛った餌を置いてあげた。昨日の残り物の食材に自分の排泄物を混ぜ込んだとても料理とは呼べない残飯。悪臭はなつそれに狗―――咲夜は喜んでむしゃぶりついた。
はふはふと口を鳴らしながら、顔を残飯に埋め、咀嚼する無様な姿。
頭には狗を模した模造品の耳が、頭皮に直接、縫い付けてある。本来の耳は狗には必要なさそうなので切り落とした。
四肢の腱も断ち切ってある。今の咲夜は立ち上がることすらできず、何か重いものを持つこともできず、もっぱら四つん這いの格好で生活している。
身につけている衣服も必要最低限だ。むき出しのままの尻を振り、菊座に太いディルドをくわえ込み、そこから生えている狗のそれを模した尻尾が嬉しそうに揺れている。
菊座の前、女陰は水に浸したガーゼのように濡れそぼっていた。はしたなく大陰口は花開き、ひくつく内肉を見せつけている。その淵に金属の輪が連なるように幾つも取り付けられている。陰口の肉を挟んでいるのではなく貫いている。いきりたった乳首にもそれが。咲夜が唯一身につけているエプロンに隠れ見えないが、その下で踊っていることだろう。
完膚無きまでに雌犬然とした格好だった。
あれから―――フランが咲夜の心のあり方を理解した時から少しずつ、時間をかけて彼女の望むようにその身体を改造していった結果がこれだった。
発情しっぱなしの身体。各所に刻まれた非人間的な手術。奴隷もかくやという待遇。けれど、どれもこれも咲夜が心の奥底で望んでいることだった。
マゾヒズム―――被虐的嗜好。酷い目にあわされたりつらい状況に陥ることをむしろ望む人間の心理。咲夜は心にその素質を持ち合わせていた。
どうしてそんな一般的に見て特殊な機構を咲夜が持ち合わせていたのかは想像することすらできない。生来のものか、育ってきた環境によるものなのか、あるいは鍛錬の賜物なのか。しかし、或いはフランは知らなかったがそれがあるからこそ根っからの我が儘で精神的支配者階級に属しているレミリアの元へ咲夜は就いたのではないか。既にまっとうな人の心を失った咲夜に訪ねることはできないが。
兎に角、咲夜の心にはその機構があった。苦痛を快楽に置換させ、精神の安定を図る精神装置。ある意味、従者には必須の能力。それが十全に、自分からより多くを求めないでいれば。反射機構としてだけ動作してさえいれば。
発端も予想するしかないが、フランはあの日、明け方にトイレに行く途中、レミリアとの痴態を見てしまったことが咲夜の心の機能が壊れてしまった理由だと考える。
あの日、過剰に怒ったレミリアの陰湿な罰が引き金だったのか、それともフランの言動にショックを憶えたのか、或いは自分の心の与り知らぬ所で怒りにまかせ腕を振り上げたのが原因だったのか、恐らくそれら全部が原因となって咲夜の心の機構の一分が壊れてしまった。より、苦痛を、快楽を求めるために苦痛を望むようになってしまったのだ。
咲夜は悪い病気に罹ってしまったのだと言えばそれまでなのだが、精神の病など治す方法がないここ幻想郷ではそう言って切って捨てるにはあまりに悲しい。
その病に気がついたレミリアは、同時に主従の垣根を越えて仲良くなり始めている咲夜とフランに不安を覚えた。
進む先は身分の違いなどという簡単なものではない。愛する人を喜ばせるために傷つけねばならないという絶望じみた状況。
妹にそんな茨の道を歩ませまいとしてレミリアは咲夜を手酷く扱い、そして、その情欲を自分に向けようとしていたのだ。
そこに咲夜を独り占めしたいというレミリアらしい我が儘が含まれていなかったとは言い切れないが、レミリアは少なくとも妹のためにあえて憎まれ役をかってでていたのだ。
けれど、それが返って逆効果になってしまった。
フランは虐められる咲夜を哀れみ、そうして、なお、強い感情を彼女に向けるようになった。雨に濡れた子犬を助けようとする愛情。考える葦が持つもっとも清らかな想い。その結果があの惨劇であり、更なる悲劇の引き金になった。唯一状況を理解するものはなく、愛する主人を喪った咲夜の心は完膚無きほどまでに壊れ、自らの死を望んだ。
その咲夜の心を完全崩壊からかろうじて救いだしたのは献身的な態度で介護を続けるフランではなく、皮肉にも先に見切りをつけた美鈴の方だった。
レミリアほどではないにせよ、怒りによってある意味真に咲夜を手酷く扱った美鈴。むしろそれが壊れかけたマゾヒズム機構を作動させ、咲夜の心の平温を守ることになろうとは、これを悪魔の奸計と呼ばずしてなんと呼ぼう。
かくして献身的な態度をするフランは見捨てられ、その事に憤りを憶え怒りをぶつけてくる美鈴の前だけで咲夜は心を僅かながらも取り戻していたのだ。
そうして、最後の惨劇。怒りの余りレミリアや美鈴と同じ轍の上を歩くことになったフランはこうしてついに―――最悪の形で咲夜の気を引くことができたのだ。
理由さえ分かればあとは簡単だった。道具はレミリアの部屋から、知識や技術は図書館から、もはや、咲夜と同じように壊れてしまったフランは彼女の心の平温のために彼女の身体を壊すことに何の厭わいを憶えることはなかった。
全ては咲夜の微笑みのため、フランは咲夜を虐めぬいた。
指に何十本も針を刺し、どの指の針を弄っているのかを当てさせるゲームをした。
壁にくくりつけ一晩中、キャンドルになっているよう命じた。
自分の持ち物やレミリア、美鈴の遺品を壊させた。お気に入りだった服に火を放ち、レミリアのアンティークティーセットをハンマーで粉々にさせ美鈴の写真の上に排泄させた。
自らの爪を一本一本引き抜かせた。苦痛を実況させながら。その後、その指を熱湯につけさせ、それで紅茶を淹れて二人で呑んだ。
四つん這いの格好をさせた咲夜を椅子代わりにお月見をした。ヴァギナにウイスキーの小瓶を入れさせ、自分が命じれば小瓶を傾けグラスを満たすように命令した。少しでも溢せば鞭で罰を与えた。
裏の山から連れてきた何十匹ものの獣とまぐわらさせた。
人間便器に仕立て上げた。
思いつく限りの苦痛と恥辱を与えた。
それがマンネリ化し始めると今度は再生不能なほど咲夜の身体を壊し始めた。
手足の腱を切った。片方の視力が失われるほど何度も殴打した。体中にピアスを取り付けた。敏感な部分に入れ墨を施した。活栓筋が千切れた。尿道も壊した。今の咲夜は排泄を止めることはできない。両方の耳を切り落とした。頭に変わりの狗の耳を縫い付けた。
次は硫酸で喉を焼くかもしくは全ての歯を抜歯しようかとフランは考える。手足を切り落とすのも悪くない。
「けど…取り敢ずは…」
食事に夢中になっている咲夜を尻目にフランは衣服を全て脱ぎ捨てると道具棚から一つ凶悪な突起物が伸びているバンドを取り出した。正面から見ればT字の形をしているそれは形状通り、下着と同じように身につけるためのもの。女性に男性器の模造品を取り付けるための、俗にペニバンと呼ばれる衣装だ。もっとも股間部分から伸びる府卵黄でほどもある張り型…しかも各所から鋭い金属のビスを浮き上がらせているものを男性器と呼べればだが。あからさまに快楽と言うよりは拷問のために作られた一品だった。けれど、今の咲夜には苦痛こそが極上の快楽なのである。
「ひんっ♥ フランお嬢さま…食事中なのに…♥」
下比た声色。口調こそ避難しているようだが、フランに無理矢理、お皿の中に押しつけられた顔には恍惚とした笑みが浮かんでいる。これから訪れる快楽に期待を膨らませる雌犬の顔つき。その様を見てサディスティックに笑うと、予備動作もなく股間の凶悪な張り型を咲夜の裂所に突き刺した。入れた、出はなく、完全に突き刺したという表現が正しい荒々しい動作と狂気。ただの一往復で咲夜が滴らせる粘液に朱が混じる。
「ひぎぃ♥ イタイ、イタイ、イタイ、キモチイイ、キモチイタイよぉ♥」
「あははは、気持ちいいのか痛いのか、ねぇ、どっちなの咲夜!」
「りょ、両方ですフランお嬢さま♥ ッ、あ、そこ、そこにとげが刺さるのがイタイ、キモチいいんです♥」
激しく腰を振るフラン。あわせて自らも腰を振り貪欲に苦痛/快楽を求める咲夜。
部屋の中には淫臭が充満し、肉が打ち付けられあう音と、二人の荒い息だけが響き渡る。
「はっ♥ はっ♥ はっ♥ はっ♥ はっ♥ はぁぁぁ♥」
目を見開いて喘ぐ咲夜。フランも孤月に口端を歪めて一心不乱に腰を突き出している。
「かかっ、そう、じゃあ、もっと痛くしてあげるわ…ッ!」
ぶん、とフランは何かを咲夜の背中に振り下ろす。銀のナイフ。咲夜の持ち物だった、美鈴が刺そうとした、あのナイフ。その柄尻を咲夜の背中に叩きつけた。より強い苦痛を求めるために高く上げていた咲夜の腰が折れる。
「ッひぃぃぃ♥」
「あははは、本当、咲夜って変態ね。殴られて喜ぶんだもの」
「は、はいそうです、さ、咲夜は虐められて喜ぶ変態なんです♥」
「狗畜生ね」
「狗畜生です」
「人間以下ね」
「人間以下です」
「無様ね」
「無様です」
「じゃあ、その事を身体に刻んであげるわ」
「えっ…きゃっ♥」
肩を掴むとフランは力任せに咲夜の身体を振り向かした。回転で膣孔に更に傷が刻まれる。愉悦の声が咲夜の口から漏れる。ぎらりと、室内光にナイフの切っ先が煌めく。
「はっはっ♥ フランお嬢さま」
「このナイフでね、貴女にふさわしい名前をその身体に刻んであげる」
咲夜が唯一身につけていたエプロンを破いて棄てるとフランは切っ先を咲夜の胸の上に向けた。腰は動き続けている。ナイフを器用に扱い皮と肉に切り込みを入れていく。
「ッあ、あ、あ…フランお嬢さま…フランお嬢さま♥」
『狗畜生』『マゾ女』『人畜』『インラン』『変態』『性奴隷』
思いつくまま、指なりにナイフを走らせる。咲夜の身体の震えが小刻みなものになっているのにフランは気がついた。絶頂に達しそうなのだろう。だったら、と腰を更に強く打ち込む。
「ほら、イキなさい咲夜ぁ! 無様に、狗みたいな声をあげて! さぁ!」
狂気の笑み。自分も咲夜の愉悦に飲み込まれているのを確信しながら声を張り上げ、負けじと腰を振るう。
「あははは、ああ、名前を書いてあげるのを忘れてた。さぁ、次はなんて書いて…」
「フラン…お姉ちゃんは今、幸せだよ」
「え?」
咲夜は絶頂に達すると同時にそんなことを呟いた。
優しげな瞳。口元に浮かぶ微笑。そこに狂気の姿は欠片も見えず、咲夜はいつぞやかフランのベッドで見せてくれたのと同じ表情を浮かべていた。
「なんで…どうして…」
獣欲も加虐の心も一瞬で形を潜め、フランは力なく項垂れた。その目が咲夜の血だらけの胸に刻まれた語句を読み取る。厭らしい既知外じみた狂気の言葉。咲夜にふさわしいと刻み込んだ呪言。
ああ、けれど…その中に、一番、相応しいものが、そうであってほしかった名前が無いことに気がついた。いや、違う。こんな…こんな非道い言葉と並べてはダメだ。だって言うのに…
「どうして…こんな事になっちゃったの…私は…咲夜と仲良くできれば、咲夜がお姉ちゃんになってくれれば、それで…良かったのに…」
涙が一つ、ぽろりと咲夜の上に落ちた。
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
大きな木に取り付けられたブランコにフランは咲夜と一緒にのっていた。
きいきいと揺れるブランコ。風きるのが心地いい。飛んでいる時とはまた別の浮遊感。そして、背中に感じる確かなぬくもり。
向こうのベンチではレミリアとパチュリーが楽しげに会話を交わし、遠くでは美鈴と小悪魔がバトミントンをしている。そんなたわいもない光景。
「大好きだよ、咲夜お姉ちゃん」
夢
あるいは喪われたもの、求めていたもの
――――――――――――――――――――――◆◇◆―――――――――――――――――――――――
END
なんか思い立って
更に神主リスペクトで空きっ腹にコーヒー、梅酒のお湯割、リポD、ブラッディマリー、ブラッディマリー(ハバネロソース入り)、マティーニ、ジンバックを呑みながらなんとか書き上げました。5日ぐらいで。
ちと長すぎたか…
sako
作品情報
作品集:
14
投稿日時:
2010/04/23 17:20:20
更新日時:
2010/04/24 02:20:20
分類
フラン
咲夜
レミリア
美鈴
パチュリー
慧音
ショート・ショート?
タイトル詐欺
哀しい話ですね……性癖の壁を献身的な愛では、超えることは出来なかった。
しかし、貴方は空きっ腹に何ということをwww
紅魔館の住人みんながみんな理想のようなキャラクター像で素晴らしい
フランと咲夜さんの姉妹ごっこにきゅんとしました
そしてめっさ男前やった。
お願い美鈴!僕を娶って!
零は息絶えた…
携帯からじゃ容量オーバーでみれなくてこのSS見るためにPc買ったw
誰も救われない話
いや、もしかしたら咲夜さんだけが幸せなのかもしれない話
しかし、マゾヒストだったか。仕方が無いか。
もうどうしようもないなこれ・・・
そして各作品ごとにキャラの人格が変わる作家さんも多い中で、貴方の書くキャラはぶれがない。
「洗脳妄執〜」で紅魔館メンバーがだいたい俺好みなキャラである事はわかっていたから、「多少の救いがある悲劇がよみたいなぁ」とか思ってこの作品を読み始めたら地獄を見たw
でも擦れ違う紅魔館もいいよね!