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『鈴仙・ジアゼパム・因幡』 作者: sako
怒号/爆音/悲鳴/銃声/雷鳴/吶喊
私は塹壕に身を伏せ、耳を塞いでいる。
爆音/悲鳴/絶命/散華/玉砕/殉死
戦友(なかま)たちが次々死んでいくのを尻目に隠れて震えている
怒号/吶喊/突撃/銃撃/制圧/爆死
先任軍曹が叫ぶ。―――貴様も走れ!
乱射/乱舞/爆撃/炸裂/後退/損耗
無理です! 私は叫び返す。
退却/焼死/爆死/惨殺/負傷/自爆
貴様、それでも軍人か! タマはついているのか! 軍曹の叫び。付いているわけがない。言い返す前に軍曹も死。
殲滅/敗北/全滅/冷徹/絶対/無理
次は自分の番。
恐怖/耳鳴/嗚咽/失禁/狂乱/自失
死ぬのはイヤだ。痛いのはイヤだ。怖いのはイヤだ。しんどいのもイヤだ。怒鳴られるのもイヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ!!!!!!
―――豊姫さま、前線部隊長がこの有様ではとても戦いになりませぬ。どうか、替わりの者を御任命ください。
―――そうはいってもねぇ。ああ、そうだわ。これを飲ませてあげなさい。
白い錠剤。
イヤだ。そんなものは飲みたくない。イヤだ。イヤだ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ!!!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「っ…」
はっ、と眠りの淵から現世へ返ってくる鈴仙。
大きく見開かれた瞳は彼女が覚醒状態にあることを示しているが、鈴仙はベッドから起き上がろうとしない。
寝ていたはずなのに激しく繰り返される呼吸。血の気が失せて土気色をした肌。ネグリジェをじっとりと濡らす多量の汗。
遅れてやってきた頭痛に顔をしかめつつ、ややあって、鈴仙は身体を起こした。
「何だろう…非道いユメを見たような…」
内容は憶えてはいない。
けれど、背中に僅かに残る悪寒、粘っこい脂汗が僅かながらに夢の内容の一端をにおわせていた。
非道い悪夢。きっと、うなされていた、と鈴仙は汗ばんだ自分の手のひらを眺めた。そこは意に反して少し震えている。血流がきちんと行き届いていないような痺れる感覚。身体も非道くだるい。いっそ、このまま興はずっと眠っていたいような。
けれど、そうはいかず鈴仙は開いていた手のひらを握った。
「…風邪でもひいたかな」
鼻をすすり、ベッドから出る。立ち上がると軽く目眩を起こした。どうやら本当に調子が悪いらしい。
のそのそと亀のような愚鈍な動きで部屋を横切ると鈴仙は隅に置かれている箪笥の前に立った。
「たしか、師匠にもらったお薬が…」
ごそごそと箪笥の中を探る。以前、それこそここ、幻想郷にやってきた当時にもらった薬だ。切れる度に補充してもらって、今では常備薬となっているような錠剤。茶色い遮光性の瓶に入れられヤゴコロ印のラベルが貼付けてある。
程なくして鈴仙は目当てのものを見つけあげた。
蓋を外して、瓶を傾ける。けれど―――
「あれ? 最後の一個? 二錠ずつ飲むように言われてたんだけど」
あの天才、永琳師匠が奇数個を瓶に入れるなんて考えられなかった。自分のミスで何処かで落としてしまったのだろうか。けれど、まぁいいか、と鈴仙はその最後の一個を口に放り込み、水差しからコップ一杯水を取って、それを流し込んだ。少しだけ気分がよくなった気がした。
「師匠に貰いに行かないと駄目ね」
空っぽになった瓶を机の上に置いて、着替えて、それをもって永琳の部屋に行く。
けれど、永琳は留守のようだった。
てゐを捕まえて聞いてみると出掛けているとのこと。
その頃にはもうすっかり鈴仙の体調は回復していた。
別段、休む必要もなかったので鈴仙も与えられた仕事に出ることにした。
鈴仙の仕事は薬商だ。
里へ下りていって薬を売ったり、永遠亭と契約している家の常備薬を補充して使用分の代金をもらったりする役目である。後は重病人がいないかどうか、妙な病気が流行っていないかどうかを訪ねて回る簡単な仕事だ。
鈴仙はその仕事をあの永夜事件が終わった後ぐらいから永琳に命じられ、行ってきた。
最初こそ、面倒くさくて何度かサボったりしていたが、最近では薬を売った相手にお礼を言ってもらえたり、ご褒美にみかんを頂いたり、如何にして効率的に家々を回るのかを突き詰めるゲームなどをしてそれなりに楽しんでいる様子。やりがい、というものを覚え始めている。
道を歩いていれば声をかけられ、今度、一緒にどう? と食事に誘われたりもする。それは断ったがこうして里に出てくれば毎日、何かしら違った出来事にあえた。
最近はそれを面白いと思えるようになった。
面白いと言えばあとは弾幕ごっこだ。
幻想郷内で物事の優劣を決めるために行われるごっこ遊び。いつぞやか妖怪たちが人間を伴ってやってきたとき、迎撃にと出たときはイヤでイヤで仕方がなかったが、最近ではその面白さも理解し始めた。
お花畑の上で打ち合ったり、最近では拳を交えての変則プレイもしたりしている。
それらをひっくるめて鈴仙は最近、楽しくて仕方がなかった。
いや、それだけではない。
むしろ、最近、毎日が楽しいのには本当の理由があった。
――― 一人、気になる人がいるのだ。
鈴仙は売り物の薬の数を確認してこれなら、と少し考えた。
薬はあと残りの集落を全て回るほどは残っていない。思ったより常備薬を使っている人が多かったからだ。かといって、一旦、永遠亭に戻って薬を補充してくるのも億劫。となるとやることは取捨選択。重要度の高いところにだけ薬を売りに行けばいいのだ。そうして、鈴仙にとって重要度の高い買い手は一人しかいない。
「白玉楼…妖夢の所へ行こうっと♪」
螺旋を描き西の空へ。あの屍桜の大木が生えるお屋敷へ鈴仙は向かった。
気になっている人がいるあの場所へ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「お薬ですか…そうですね。絆創膏と包帯と…あれ、確か幽々子さまに何か頼まれていたような…」
白玉楼の裏口。土間兼お台所になっているところ。そこに立って、鈴仙は常備薬の箱の中身を検めていた。その対面、履物を脱ぐスペースから一段、高くなっているところに白玉楼の庭師、妖夢はいた。指を折って常備薬の箱の中身以外に必要な薬用品を鈴仙に注文している。
「………」
その妖夢の様子をじっと見つめる鈴仙。
細い指を折りながら、瞼の裏にメモでも書いてあるように眉を顰めている。みぎひだり、とその瞳が動き、それにつられて眉毛の形が変わるのが面白いなぁ、と鈴仙は思う。
「? どうかしたんですか、鈴仙さん」
と、必要な薬の種類を思い出そうとしていた妖夢が自分の顔を鈴仙がまじまじと見つめているのに気がついた。
「え、いや、別に、うん、何でもないよ」
慌てて両手を振るって否定する。貴女の顔を見ていた、なんて恥ずかしくてとても言えない、と顔を赤くする。
「そう、ですか。ああ、そうだ、思い出した。胃腸のお薬ですよ。幽々子さまが欲しがっていたの」
「え、あの亡霊姫が? なんか、よく食べるから幻想郷一の健康優良児だって聞いたけれど。死人なのに」
妖夢の主人の顔を思い出す。永遠亭にはいないタイプのおっとりした人。力の強い妖怪の例に漏れず底が知れない感じの笑みをいつも浮かべている。鈴仙に対する幽々子のイメージとは口にしたこと以外はそんなところだ。そうして、それはおおむね当たっている。
「いえ、『胃薬があればもっと沢山食べれるんでしょう、妖夢』って」
主人の口まねをする妖夢。漫画的表現で言えば絶対に吹出しに幽々子の姿が浮かんでいるシーン。
「いや…胃薬にそんな効果は無いんじゃないかな…」
少し呆れつつ、否定する鈴仙。妖夢もですよねー、と相槌を打ってくれる。
「まぁ、胃薬はあるよ。食物繊維と乳酸菌配合のお通じにも効くタイプの。ちょっと待ってて、いま、出すから」
鞄の中に詰込まれている瓶や包装紙に包まれた顆粒状を引っかき回して目当てのものを探す。銀紙に包まれた胃薬を取り出して妖夢に手渡そうとした。
「あ、ごめんごめん」
と、それは妖夢の手に渡る前に土の上へと落ちた。鈴仙が手を滑らせたのだ。
慌ててかがみ込み薬を拾う鈴仙。その視界が、
「あれ?」
ぐらり、と揺れる。
「っとと、目眩が…」
慌てて踏ん張り事なきをえる。
「大丈夫ですか? 鈴仙さん」
けれど、その顔色が先ほどと比べて途端に悪く見えているのは妖夢の錯覚ではないだろう。
強い頭痛を感じて鈴仙はこめかみに指を押し当てる。大丈夫、だと応えるけれど、傍目にはとても大丈夫そうには見えない。
「あの…よかったら、上がって少し休憩していきませんか。体調が優れないようですし」
「いえ、そこまでしてもらうわけには…」
自分は薬売り。お客さんに迷惑をかけてはいけないと永琳には言われている。
しかし、いや待てよ、と妖夢の理性に内なる自分が待ったをかけてきた。
「と、思ったけれど、ごめん。ちょっと朝から体調が優れないの。休憩させてもらってもいいかな」
いっそこれは妖夢ともっと仲良くなる為のチャンスなんじゃ、と鈴仙の内なる心はガッツポーズを取った。体調の悪さ万歳。
そんな打算的な心情を読み取られないようにするためにわざとらしく咳をして、また、ごめんなさい、と頷いた。
「ちょっと待っててくださいね。一応、幽々子さまに許可をもらってきますから」
立ち上がり、かけだしていく妖夢。その待ち時間がもどかしかった。
通された部屋はどうということのない客間だった。
壁に飾られた掛け軸。木彫りの置物。円い窓からは庭に植えられた桜の木が見える。残念ながら一ヶ月も前に桜は散ってしまって今は青々とした葉をつけているところだけれど。
「ごめん、我が儘言って…」
「気にしないでください。はい、温かいお茶を飲めばよくなりますよ」
白い湯気が立ち上る湯飲みが鈴仙の前に置かれる。ありがとう、と頭を下げて頂く。お茶は少し鈴仙の舌には苦かったが、暖かさのお陰で元気が取り戻せたようだった。
「朝から体調が悪かったと言ってましたが…風邪ですか?」
「あー、うん。多分ね。なんか目覚めも悪かったし、朝っていううか、このところずっと」
悪夢を見ていた気がする。覚えていれば酷いトラウマになるような悪夢を。けれど、それをここで話すのは気が引けたので鈴仙は黙っていることにした。
「薬屋さんが病気になると言うのも…医者の不養生ですね」
「いやー、売るだけでまだまだ師匠みたいに自分で薬を作ったりとかはとてもできないよ」
練習中なんですね、と妖夢。
そんな風に他愛のない会話が交わされる。
けれど、鈴仙の心は喜びに満ちていた。今日はなんていい日なんだろう、と。
鈴仙が喋る度に妖夢はよく表情を変えた。
変わった話には驚いたように眉尻をあげて、てゐにされた悪戯の話には同情するような反応に窮したような困った顔をして、師匠と食べたタケノコのお刺身の話には涎でも垂らしそうなほど物欲しそうな顔をして。そんな風に結構、ころころと表情を変えた。最初、出会ったときは堅苦しそうな娘だと思っていたけれど、今ではそれだけじゃないことは分かっている。そのころころ変わる表情を見ていると体調の悪さも忘れてしまった。けれど、それは鈴仙が忘れていただけで、実際は彼女の体調というものはすこぶる付きで悪かったのだ。
「ん…ちょっと、おトイレ貸してもらってもいいかな」
「厠ですか。どうぞ。廊下を出て…」
妖夢の説明を聞きつつ立ち上がる鈴仙。と、ぐらりとその身体が傅く。今度こそ、バランスをとることも、受け身も取ることもできず。
「っ鈴仙!?」
倒れ、机の角に強かに身体をぶつける鈴仙。けれど、痛がるそぶりをみせない。妖夢が慌てて駆け寄る。
「あれ…私…なんか、腕が痛い…?」
妖夢が抱きかかえると鈴仙は虚ろげな瞳をして、そう呟いた。
「倒れたこと…分からないの?」
「倒れたって…誰が…?」
「………」
倒錯している。
妖夢はすいません、と一言謝ってから鈴仙の額に自分の手のひらをあてた。
妖夢の体温は常人のそれより数度低いがそれでもはっきりと分かるほど鈴仙の身体は病的な熱を帯びていた。
「妖夢の手、冷たくて気持ちいいよ…」
的を外した鈴仙の言葉に少し困惑しつつも妖夢は腕の中のぐったりとしたその身体をたたんだ座布団を枕に横たえると、慌てた調子で部屋から出て行った。
「ゆゆ様、鈴仙さんが…!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…っ、頭痛い」
酷い頭痛がする。
視界がぐるぐる周り、天井の梁が歪んで見える。
現実味というものが途端に失われていく。
まるで、夢の中にいるよう。
金縛りにあったように身体は重く、息をするのさえ億劫。放っておけば鼓動ごと止まってしまいそう。
ふらふらと、波間に揺れているみたい。いつだったか、海に遊びに行ったときのことを思い出す。
「海…?」
おかしい。幻想郷に海なんてないはず。川と湖と。幻想郷にある水場はそれぐらい。後はお風呂。それなのにあの水平線を描くほど遙か彼方まで水面が続くあの光景を思い出すなんて。
だとしたら、それは、ここに来る以前、また月にいた頃の話。ああ、そう言えば月の裏側には大洋があった。静かな海。一切の生物が生息しない、塩分濃度の高いあの―――死海。
海。月。記憶が過去に飛ぶ。
朧気に、近代的な月の風景画甦ってくる。
顔も思い出せない月兎たちの姿。宮殿に住む賢者の血統。私はその人の一人のペットで。それで…
「ッあ…」
頭痛。頭痛。頭痛。激痛。まるで脳に生えた木の芽を引っこ抜くような、そんな酷い頭痛。思い出すことが脳の破壊に繋がっているのか。けれど、一旦、呼び水を注された記憶は放って置いても流れ出てくる。
銃声。悲鳴。怒号。土埃。瓦礫。流血。悲劇。―――戦争。
「あ―――!」
思考が過去へと飛んだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「鈴仙さん、別室にお布団を用意しましたからそこで休んで…鈴仙さん?」
主人である幽々子に指示を仰ぎ準備し、コップに水はり、風邪薬をお盆に乗せて戻ってきた妖夢。戸を開け、返事がないのを怪訝に…いや、心配に思う。これは、永琳先生を呼んできた方がいいかもしれない、そう思い鈴仙の姿を確認しようとした、刹那。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
奇っ怪な悲鳴とも雄叫びともとれるような声と共に妖夢は何物かに押し倒された。
「っ!?」
完全な不意打ちの上に両腕はお盆で塞がっていたため、何の反応もとれなかった。妖夢の手から離れたお盆は宙を舞い、水をまき散らしながら落ちていったコップはテーブルの角に当たり砕け、風邪薬はその中に沈む。振り乱した妖夢の腕に襖が当たり、溝から外れ、中程でへの字に折れる。だん、と強かに妖夢は板張りの廊下に背中を打ち付ける。
「くっ、ああっ」
痛みと衝撃で一瞬、視界がホワイトアウトする。その隙を狙われて妖夢を押し倒した何者かに上にのしかかられた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
甲高い声を上げて襲撃者は腕を伸ばしてくる。妖夢の白い首筋。太い動脈と気管が詰まっている人体の急所。ぐぇっ、と曇った悲鳴をあげて、妖夢の喉が潰される。
「ぅあ、ば、なぜ…」
首を締め付ける力は強く一瞬で息ができなくなり、脳への酸素の供給が絶たれる。視界が真っ赤に染まる。妖夢は襲撃者の腕を掴んで引き離そうとするが狂気じみた力が込められているそれは鉄筋の柱のように固くビクともしない。爪を立て襲撃者の腕を裂くがまるで意に介していないよう。次第に意識が遠くなってきた。
「こな…クソ…ッ!!」
妖夢は残った意識を総動員して腕を伸ばし、自分の上に乗りかかっている襲撃者の胸ぐらを掴んだ。そうしてそのまま思いっきり、自分の方に引き寄せようと力を込める。襲撃者は急な相手の反撃に抗おうと妖夢から身体を離す方へ力を込める。その瞬間を狙って妖夢は掴んでいた胸ぐらを離し、器用に足を折り曲げ、襲撃者の胸を蹴りとばした。一撃目でそれなりに距離が開き、二撃目でその身体を蹴りとばす。妖夢の首筋に爪による擦過傷を残しながらやっと腕は離れてくれた。
「ッ―――あ―――はぁはぁはぁ」
酸素を求めて肺が暴れ回る。堰を切って雪崩うったように血液が脳に流れてくる。ブラックアウトしかける視界を堪え、妖夢は立ち上がり身構える。もはや、不意打ちは受けないと言った剣士の面持ちで無刀の構えをとる。
視界に収めた襲撃者ははたして…
「鈴仙…さん?」
床の上で激しく痙攣する薬屋のそれだった。
「鈴仙さん、一体どうしたんですか!?」
警戒しつつも駆け寄る。その警戒も鈴仙の今の姿を見れば必要ないことが分かった。
「ひぃ…」
ガタガタと奥歯を鳴らし、非道く脅えた調子を見せる鈴仙。その顔面は病的な程までに土気色をし、大量の脂汗を流している。先ほどまで妖夢の首を絞めていた腕を今度は自分の頭に突き立てガリガリと頭皮をひっかいている。
「どうしたっていうんですか…?」
恐る恐る鈴仙に手を伸ばす妖夢。その姿を認めたのか、うぁ、と短く悲鳴をあげて鈴仙は瞳を見開いた。
伸ばされた妖夢の手を払って、ほうぼうの体で部屋の隅へ逃げ出す。その際に割れたガラスの上を張っていったがまるでお構いなしだ。腕や膝にガラス片が突き刺さり、血が流れ出す。
「鈴仙さんっ!?」
「イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…」
部屋の隅で身体をまるめガタガタと震える。狂乱の様はまるでここが何処なのか、いや、自分が誰なのかさえ分かっていない様。血の雫が髪の間から流れてきて、顎先まで伝わっていく。
「鈴仙さん、止めてくださいっ!!」
余りの悲惨な光景に我を忘れていた妖夢がやっと我を取り戻した。慌てて鈴仙に駆け寄る。
と、鈴仙が、うぷ、とうめき声を漏らした。指で口元を押さえる。顔が土気色から紫色へ変色する。そうして、
「うぇぇぇぇぇぇぇ」
嘔吐。すえた匂いが部屋に充満した。
「ずびばぜん、じにだくないんでふ、イヤだ、ころじでやる…」
服や顔を吐瀉物で汚しながら鈴仙は呪詛の言葉を吐き続けていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「………取り敢ずは大丈夫ね」
鈴仙の腕から注射針を引き抜き、体温や脈拍などを確かめているのは永遠亭から急遽、駆けつけてくれた永琳女史だ。
鈴仙はあの豹変の後、ばったりと気を失ってしまった。
妖夢はとりもなおさず、鈴仙の服を脱がせ、できる範囲で治療を施し、用意した布団に寝かしつけると飛ぶ鳥の勢いで永遠亭へと赴いた。
必死の形相で永琳に事情を説明し、そうして連れて帰って今に至った、というわけである。
「…そうですか、ありがとうございます」
幻想郷一の医者の言うことを聞いて少しだけ胸をなで下ろす妖夢。しかし、事態は深刻だ。
「お礼を言うのはこちらの方よ妖夢さん。うちの因幡が迷惑をかけたわね」
「いえ、そんな」
てきぱきと医療道具をなおし始める永琳。妖夢は両手を振るって応える。
気を失った鈴仙は今では顔色も取り戻し、呼吸も清浄なようだ。少し熱があるためか頭には氷嚢が乗せられている。典型的な風邪の治療法、に妖夢は思えた。
けれど…
「あの…永琳先生、鈴仙さんはいったい、どうしたんですか…?」
あの凄惨たる様は風邪のそれではない。いや、妖夢が知っているいかなる病気もあんな風にはなったりしない。分厚い文献の一角に僅かながら症例が載せられているような未知の奇病なのでは、と妖夢は親友の身を案じる。
「………そうね、妖夢さんになら説明してあげたほうがいいのかも。お隣の部屋、借りてもいいかしら?」
ややあって、道具を片付け終えた永琳が応えた。その表情は固く、何処か、自嘲さえ含んでいるような怒りが見て取れた。
「どうぞ」
妖夢に出されたお茶を一口すすって、やああってから永琳は口を開いた。
「どう説明すればいいかしら…そうね。厳密に言うと鈴仙のあの病気は病原菌やヴィールスを主体とするものでも身体的疾患を理由にするものでもないの」
「えっと、それはどういう…?」
妖夢には難しい単語を並べられ、まるで理解できないと言った面持ちで問い返す。そうね、と永琳は言葉を選び直すそぶりを見せた。
「風邪や一般的に言う盲腸とは違う種類の病気、と言えば分かるかしら」
「はい、何となくですけれど…でも、そうじゃない病気って、一体、どういう種類の病気なんですか」
風邪は目に見えない小さな生き物が身体に取憑いて罹る病気だと聞いた事がある。超々小型のギョウ虫の様なものだろうか。盲腸は腸の一部の余り使われていない部分が腐ったりしてお腹が痛くなる病気、妖夢の知識にはそうある。
「まぁ、盲腸は実際の所、先天的疾患じゃなくて、そもそも人体に不可欠ではないにしろ必要な部位なのだけれど…ここでは割愛するわ。大体のイメージでいいから」
「はぁ」
難しい抗議なぞ聞かされても妖夢の頭ではてんで理解できない。幽々子の話でもたまに理解できないのに。あれは別の理由か。
「では、鈴仙のは…」
「あれは…そうね、後天的人為的に引き起こされた禁断症状。掻摘んで纏めるとそうなるわね」
「………」
またも分からない言葉。頭の言い方と話していると頭痛を覚える、と妖夢は眉を顰める。
「あの子が…昔、兵隊…月で軍隊に入っていたことは聞いているかしら」
唐突に話を変える永琳。その瞳には少しだけ懐かしさのようなものが浮かんでいる。
「はい、それとなくですけれど…」
少し前に幽々子と秘密裏に潜入してきたあの月。そこを統治する月の民の軍隊に鈴仙が所属していたことは他ならぬ鈴仙自身から聞いた事がある。ほとんど話のついでだったので詳しくは聞いていないのだが。
「その時に大きな戦争があったの。月でね。外の世界の人間が起こした侵略戦争。もちろん、月の軍人である鈴仙もそれに参加していたそうよ」
「戦争ですか」
イメージが湧かない。剣の道に生きる妖夢ではあるが、その道は一対一、多くても一対少数による争いだ。多数対多数、いや大多数対大多数の混沌とした争いなどお話の中でしか聞いた事がない。藍に借りた武芸ものの小説ぐらいでしか、そのイメージはない。
「そうよ。ごっこではすまされない弾幕が飛び交う引き算の戦い。そこに個人の技術や思惑なんてものは存在せず、ただただ、どちらの大将がどれだけ自分の軍の損害を少なくして相手の軍の数を減らせるのかを競い合うだけのつまらないゲーム。その駒の一つとして鈴仙は参加していたのよ」
無数に飛び交う銃弾。なるほど、そこでは卓越した技術も裂帛の意志も不運の名の下に撃ち落とされる。生きるか死ぬかは殆ど運による。勝ち負け自体は大将の手持ちの駒の数の多さだけで決定される。それを…ゲームと呼ぶのならなんともつまらないゲームだろう。
「でも…妖夢さんも分かっているとは思うけれど、あの子はアレで我が儘だから。そんないつ死ぬか分からない、しかも、使い捨てに近いような戦いに行くことを拒んだそうよ」
「それは…」
分からなくもない。自分も一人ならば幽々子の命令ならば喜んで戦いの渦中に行くだろうが、自分と同じような人間が他に多数いれば? しかも、相手も。そこに決闘による名誉のようなものはなく死ねば損耗、生き残れば次の戦いの備蓄として扱われる。個を徹底的に排除したやりとり。そこに死ぬかも知れないという恐怖が加われば鈴仙でなくとも出陣することを拒否する者はでてくるだろう。
「ところで妖夢さん。もし、貴女が軍隊の大将で、自軍の兵隊が戦争参加を拒否したら、貴女ならどうする?」
話が切り替わる。けれど、延長線上。少し考え妖夢は応えた。
「体罰、でしょうか。行かなければ罰を与える、という感じで」
妖夢自身も幼い頃、祖父が教える剣の訓練が嫌で押し入れに閉じこもっていたとき、引っ張り出されてお尻を何度も叩かれた記憶がある。軍隊でもお尻を叩くかどうかは知らないが、むち打ちや殴打ぐらいはありそうだ。
「そうね。まずはそれね。けれど、死ぬかも知れない、しかも、無駄に。そんなところに行くのが本当に嫌な人はただ痛いぐらいじゃ我慢するものよ。死ぬよりマシだ、って言って」
「…確かにそうですね」
背に腹は替えられない。
「その場合、余裕があるのならば軍事裁判かしら。軍隊、といっても所詮は仕事だから、査問にかける訳ね。降格や減俸、除隊といった罰を与えるの。けれど、前線、今すぐにでも兵隊を突撃させないと重要な拠点が制圧されてしまうような場所だった場合はどうする?」
「それは…無理なのでは」
むしろそういう場合の方が多そうだ。前線で重要拠点ともなればそれだけ敵の攻撃は激しく、死ぬ確立という者は上がるだろう。戦場の混乱も相まって任務拒否をする軍人も多くいそうだ、と妖夢は考えた。
「そうね。まっとうな方法なら。けれど、そこで負けてしまえば国が滅ぶような大事な戦いの場所。なりふりなんて構っていられない状況なら…人はどんな非道い方法もとれるのよ妖夢さん」
そこで一旦、言葉を切って乾いた唇を湿らせるために永琳はお茶をすすった。すっかり温くなったお茶。全て飲干すとそれを見越して妖夢がお代りを注いだ。ありがとう、と永琳は頭を下げる。
「ある種の薬物には精神活動を麻痺させ、判断能力を著しく低下させるものがある、と聞いた事はないかしら」
閑話。いや、これも延長。妖夢ははい、と頷いた。
「アルコール…お酒がわかりやすい例かしら。ほら、お酒が入ると気が大きくなる人がいるでしょ。アレのようなものよ」
「わかりますが、それが任務拒否の人たちと一体何の関係が…あ」
自分で言葉を並べていて、途中で理解でき、声を上げる妖夢。
「そうよ。脅えて泣きじゃくりイヤだと駄々をこねる兵士にそう言った薬物を投与するの。無理矢理押さえてでもいいし、栄養剤だと偽る方法もあるでしょう。或いは支給する食事の中に最初から混ぜ込んでおくという方法も」
所謂、戦闘薬と呼ばれる薬品ね、と付け加える永琳。
「それは…」
人権を無視した、人の心を操作する非道な行いではないのか。ああ、だが、けれど、非道にでもならなければどうにもならない戦場ならばそれも許されてしまうものなのか。
妖夢の顔に行き場のない憤りのようなものが浮かんでくる。
「そう言うことなのよ妖夢さん。そうして、あの子、鈴仙にもそれは施された」
幻想郷…いや、外の世界と比べても科学の進んだ月ならばその手の薬を大量にしかも丁度いい案配で配合することなぞ造作もないことなのだろう。現にここにいる元・月の賢者は幻想郷の医療事情の殆どを担えるほど大量の効果がしっかりとしている薬品を大量に作っている。化学工場なんてないにも関わらずだ。専門の研究施設があれば今すぐにでもこの医者は幻想郷から殆どの病を取り除いてしまえるだろう。
「そして、総じてその手の薬物には依存性というものがあるわ。薬の効果が切れるとまた、その薬を欲しがるようになる。薬が切れると襲ってくる不安や苛立ち、身体的なもので言えば手足の震えから逃れるためにね。そうして薬を摂取、けれど、また薬の効果が切れると…その繰り返しね。
くわえて、大抵の場合、薬の効果に身体がなれ始めて最初は一錠で十分だったものが二錠必要になり、三錠いるようになりと使用量は増えていくわ。その頃になれば薬によってかき乱された精神はもう元には決して戻らない。薬が欲しければ戦って敵を殺せ、そんな命令を聞くしかなくなってくるのよ」
「っ…」
聞くに耐えない月の軍隊の非常な現実。いや、月の軍隊だけではあるまい。そう言ったことは恐らく古今東西、どこの戦場でもなされてきたことなのだろう。この平和な幻想郷でもなかったとは言い切れない。
「じゃ、じゃあ、鈴仙はそうなる前に、そうなるのが嫌で逃げてきたと」
そう想像する。あの賢い鈴仙だ。自分の身に降りかかる非道な運命から逃れるためなら何処へだって逃げ出すだろう。いや、鈴仙でなくともだ。分かっていれば…そんなことになるならいっそ殺された方がマシだと逃げることだろう。
けれど、永琳の口から漏れた言葉はもっと非道だった。
「いえ、あの子がここに流れ着いたとき、あの子は重度の薬物依存に陥っていたわ。一体、どれだけの量を投与されたのかは私にも分からないぐらい。生きているのが不思議なぐらいだったわ」
その時の事を思い出す永琳。
雨が降りしきる中。竹藪の中に残された廃墟の影に隠れていたボロボロの月兔。焦点の合っていない瞳。不規則な呼吸。抜け落ちた歯。ボロボロに痛んだ髪。がさがさの肌。十歳に満たない子供のような知能。麻薬中毒の末期患者の姿。
永琳の顔が険しくなる。
その思い出すのも嫌な過去をかぶりを振るって消し去り、また永琳は妖夢に向き合う。
「っ…でも、今の…今の鈴仙さんは少ししんどそうですけれど、その薬物依存というのは治ったんですよね。普段の…普段の鈴仙さんは普通に生活していますよ」
永琳がそれを治す薬を与えたのかリハビリの結果かは分からないが妖夢の瞳には鈴仙は至ってまともに映っていた。永琳の話…かつては薬物に溺れ、それを得るために人を殺していたなんて話が嘘っぱちに聞こえるほどには。
「いいえ、薬物依存はどんな方法を使っても完治しないわ。元から強力な耐性でもない限りね。今もあの子は重度の薬物依存症を患っているわ」
「そんな…」
ショックを受ける。足下が瓦解する気分。まるで出来のいい機械人形の中身を見せられたような。そんな気分。顔を青ざめさせ、妖夢は身を震えさせる。
「まともに生活できているように見えるのは私が効果を薄めた戦闘薬と強力な精神安定剤を二種類以上、定期的に投与しているからよ。そういう意味ではあの子は二つの薬物の依存症でもあるわ」
「…今日のアレは、その効果が運悪く切れてしまったって言うことですか」
「いいえ。半分しか当たっていないわそれは。正確に言うと、今まで通りの投薬量だと効き目がなくなってきた、というのが正解ね。さっきも説明したけれど、あらゆる薬に身体はなれてしまうものなの。それが麻薬のような依存性の高いものでなくても、風邪薬のように人体によい影響を与えてくれるものであってもね」
「………」
思考が纏まらなくなり押し黙る妖夢。なんだ、それは。薬を飲まされるのが嫌で戦場から逃げてきた逃げた。けれどその先でも薬を飲まなくてはいけない。そんな理不尽な話があってたまるか。妖夢の顔が険しくなる。
けれど…
「それでも…飲み続けてさえいれば、鈴仙さんは大丈夫なんでしょう。その内…ご飯がお薬になってしまうかも知れませんが…それでも…」
理性を総動員して希望観測的な事を言ってみる。なに、事故で片脚が不自由になってしまったのと同じようなこと、そう妖夢は自分を納得させる。
「いいえ、無理よ妖夢さん。多量の薬物の摂取は内臓機能を破壊して脳障害を引き起こしたりする。鈴仙が月から逃げてきてもう数年。これ以上、摂取を続けようが続けまいがどうしようもないほどあの子の身体は壊れているわ」
さっき、ついでに診断してみたから、分かる、と静かに永琳は真実だけを口にした。
そんな、と妖夢は肩を落とす。
永琳はまたお茶を啜った。温くてまったく美味しくなくなってしまったお茶を。
「それでも…」
妖夢の声に湯飲みから視線をあげる永琳。
「それでも、先生なら…先生なら何とかしてくれますよね。だって…だって、先生は天才なんですから。鈴仙の身体を治すことぐらい…」
「できれば、とうにしているわ。私とて全能ではないのよ妖夢さん」
「っ!」
冷徹な言葉に怒りさえ覚える。机から身を乗り出そうと妖夢は手を着くがそこで身体は押し固まる。
「先生が作った不死の薬…蓬莱の薬を飲ませれば…」
永夜事件の時に知ったあらゆる権力者が求めた奇蹟の霊薬、それならば逃れられない死の道から鈴仙を解き放つことができる。その際、別の問題ができるかも知れないが坐して死を待つよりはいいだろう、妖夢はそう考えた。
「それは無理な話ね。第一にここではあの薬を作る設備が圧倒的に足りない。恐らく、外の世界を探しても無理でしょう。あれを作れるのは…私がもう戻れない月の研究所だけ。いえ、その研究所も恐らく今では破棄されているでしょう。設備から作っている時間なんてとてもないわ。
第二に私はあの薬を二度と作らないと固く心に決めている。たとえどれだけの金銭を積まれても、誰が死の淵に瀕していても絶対に作りはしない。
そして、第三に…これが恐らく、一番もっともな理由なのだけれど…あの薬を鈴仙に飲ませたとしてもそれは死ななくなるだけで、薬物依存から、それに身体機能の不全からは開放されない。最悪、あの子はベッドの上で死と蘇生を繰り返すだけの肉の塊に成りはてるわ。それは…とても酷い地獄じゃない」
「そんな…」
言葉に詰まる。打つ手はないというのか。非道い絶望に見舞われ、勢いづいていた妖夢はなし崩れるように脱力した。
そこへ、永琳はとどめのような言葉を投げかける。
「それに、私はもう、あの子を助ける心算は毛頭、持ち合わせていない」
「え?」
お茶を飲みきって静かに机の上に戻す永琳。
「私があの子を竹林で助けたのはあの子が使えると判断したからよ。当時の月の事情がどうなっているのかを聞き出すため、その後はあの子の能力を使って月の情勢を探るために。私はその為だけにあの子に治療を施し、リハビリさせ、精神を安定させるために薬を施してきたの」
「先生、何を言っているんですか」
なんの表情も読み取れない永琳の瞳。真っ直ぐ妖夢を見据え、事実だけを淡々と事務的に説明しているような、そんな顔。絶望の底にいた妖夢はその底が更に崩れ、下に脳髄までも凍らせる深い闇というものがあることを知った。
「でも、もうその役目も終わったわ。先の吸血鬼が月に攻め入った折りに私はもう月が現在、私に対して大した興味を抱いていないことを知ったし、これから先、絶対に私や輝夜に手を出せないよう、私のシンパが月で更なる地位を得られるように手も打った。私が予測する限り、もはや月は私と輝夜の永遠を邪魔する障害ではなくなった」
私と輝夜、その言葉を続けている永琳。そこには永琳が鈴仙の名前を呼んでいるときとは別の深い感情が込められていた。親愛、懺悔、母性、様々な感情が入り交じってはいるものの統合したそれは一つの言葉で表せる。
曰く、大切な人。
裏を返せばそれは永琳の中で鈴仙はもはや大切でも何でもない、ということを如実に表している。
「それで…それでどうしたって言うんですか、永琳さん。それと…鈴仙を助けないって言う話はどう繋がるんですか」
「理解力が低いわね、妖夢さん。あの子はもう必要ない、そう言っているのよ。理解できましたか。妖夢さん―――それに」
それに―――、それに言葉が、名前が続けられる。
「鈴仙」
「え?」
驚き、振り返る妖夢。後ろの襖が開いていた。
その隙間、ぴったり、人一人が通れるだけの隙間を前に寝間着代わりの浴衣を着せられた鈴仙が立っていた。
「し、師匠…なんですか、その話は…」
「貴女の物語よ。ああ、そう、いい機会だから貴女にはお暇を出すわ。それと師弟関係の解消も。貴女が死ぬまで教えれる事なんて、たかが知れているから」
永琳の言葉を果たして鈴仙は最後まで聞いていたかどうか。糸が切れたように、鈴仙はその場に倒れた。
「鈴仙さんッ! 永琳さん! 貴女って人は…ッ!」
倒れた鈴仙を抱きかかえ、永琳を睨み付ける妖夢。永琳はそれを涼しげな顔で受け流し、鞄から幾つか錠剤が収められた暗褐色の瓶を取り出した。それは鈴仙が今朝方飲もうと思っていた薬が入れられた瓶と同じものだった。
「半年分あるわ。これが最後の月賦。それと師匠から弟子に送る最後のプレゼントね。
それじゃあ、妖夢さん、お茶、ありがとう。うちの因幡だった者がご迷惑をおかけしたわ」
それだけを言って永琳は立ち上がり、頭を下げることなく部屋から出て行った。
「っ……………あぁぁぁぁぁぁ!!!」
忘我の鈴仙を抱きかかえ打ち震える妖夢。けれど、次第にその瞳に怒りが燃え上がってくる。理不尽に決起する衝動。友人の人生を弄んだ全ての者に対する怒り。
月の民も、戦争を引き起こした外の人間も、鈴仙に薬を与えた上官も、すべてとっちめて首を切り落としてやるッ!! けれど、その前にっ!
「八意永琳ッ!!」
最も身近にいる主犯に妖夢の怒りの矛先は向けられた。剣を手に帰ろうと出て行った永琳の後を追いかける。
飛び出したろうかの先に永琳の姿を見つけた。無防備に、逃げることなく背中を晒している。
「殺してやるッ!!」
明確に殺意を露わに、剣を抜き、大上段に構えて廊下を走り抜ける。どたどたどた。永琳は振り返ろうともしない。足音と怒鳴り声で絶対に気がついているはずなのに。甘んじて刃の元に伏そうとしているかのように。けれど、違ったのかも知れない。
「止めなさい妖夢」
流星のように振り下ろされた刃は刹那、甲高い音を立て、永琳の身体を背中から袈裟に切り落とす前に止められる事となった。
永琳と妖夢の間に割って入った白玉楼の主、西行寺幽々子が手にした扇子の骨で妖夢の一刀を止めたからだ。
「幽々子さまッ! 退いてください! そいつは斬らなければ…!」
刃を戻そうとする妖夢。けれど、扇子の骨の中程まで食い込んだ切っ先は何故か抜ける気配はない。幾ら力を込めようともぴくりとも動かない。
「止めなさいと言っているでしょう。廊下を汚す気?」
幽々子の言葉。珍しく鋭い視線を妖夢にむけ、叱咤の言葉を口にしている。
「ご明察ね、亡霊姫。その子の剣じゃ私は殺せないわ。仮に、その子に鈴仙に代わって私を罰する資格があったとしてもね」
「だからって、実践して教えるのはどうかと思うわ月の賢者様」
そんな会話だけを交わして立ち止まっていた永琳は再び歩き始めた。小さくなっていく背中に妖夢は慌てて剣を手放し、追いかけようとして幽々子の脇をすり抜ける。
瞬間、腹部に痛烈が走る。
「あっ…!」
「止めなさいって言ってるでしょう。どうしようも…ないのよ」
幽々子の少し悲しげな口調。それを聞いて妖夢は膝を折って崩れ落ちそうになる。その小さな身体を幽々子は支える。先ほど、妖夢の鳩尾に押し当てた腕で、そのまま。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
暗い部屋。カーテンを閉め切り、明かりもつけていない、独房のような部屋。鍵はかかってはいない。もとより、典型的な日本家屋である白玉楼に鍵がかかる部屋なんて納屋ぐらいなもの。
それでもそこは独房じみた陰湿さを持っていた。
暗いから、人が近寄らないから、その理由は正しそうで正しくない。
一人、陰鬱な人間がそこにいるからだ。
「鈴仙さん、入りますよ」
一応、一声かけて妖夢は襖を開く。返事がないのはいつものこと。無礼は承知の上だ。
すえた匂い。また、吐いたのか。お掃除が大変だ、と妖夢は思う。それ以外にも同じ人間がずっと一個所でじっとしていたときにできる汗や垢の匂いが部屋には籠もっていた。
換気すればいいのに、と思うけれど、その力もそれを思い浮かべる発想すらでてこないのだろう。
果たして、部屋の隅には布団を頭から被って震えている鈴仙の姿が合った。
「お食事、持ってきましたよ。今日は食べてくださいね」
あれから…鈴仙は白玉楼の一室を借りてやっかいになっている。いや、妖夢が無理矢理、行き場のない鈴仙を引き取ったといった方が正しい。
けれど、世の中はそんなに簡単に事が運ぶわけではない。家が変わった。今日からこっちで頑張ろう、なんて話で澄むわけがない。
鈴仙は貸し与えた部屋に籠もりきり一歩も外に出ようとしなかった。
いや、それどころか大抵はこのように布団に丸まり、外界との接触を拒否して自分の殻に閉じこもり、彫刻もかくやといった体で延々とじぃっとしている。活動的になるのは発作のように暴れ泣きわめき嘔吐する時だけで、その度に屋敷で働く者を脅えさせるような大声を上げるのだ。その度に妖夢はおうあらわでやってきて必死に宥めるのだが落ち着いた試しはない。最後は結局、鳴け叫び疲れて泥のように眠ってしまうか酸欠で気を失うのかのどちらか。後者の方が圧倒的に頻度は高い。
「…薬、今日も飲んでないんですね」
枕元には水差しと乾いたコップとあの日、永琳が置いていった薬が置かれている。その並び方は昨日の夜、妖夢が見たときと一ミリもずれてはいない。触ってもいない証拠だ。
「今日は大根が入ったお粥さんと柴漬けですよ。一杯食べて元気になってください」
お盆の上には美味しそうな食事がのせられている。
前日も前々日もそのような感じで妖夢はこの部屋に食事を運んできた。
けれど、鈴仙が手をつけたことは一度もない。
栄養失調と極度の心労で鈴仙は日に日にやせ細っていってしまっている。この分だと薬にやられた内臓機能の不全より先に栄養失調で死んでしまうのでは、そういう危険が妖夢の脳裏に浮かんだ。今日こそは少しでもご飯を食べてもらわないと…
「はい、食べさせてあげますから…あーん、してください。あーん」
箸でお粥をつまみ上げ、口を開ける仕草をする妖夢。顔はできるだけ警戒心を解かせるために笑顔を浮かべている。けれど、布団の隙間から僅かに見える鈴仙の顔は俯いたままだ。兔特有の長い耳は外に出ているので聞こえていないわけはないんだが。
「ほら、美味しいですよ〜。お大根は嫌いじゃなかったですよね。前に、おでん一緒に食べに行きましたから」
昔の話を混ぜて少しでも場を盛り上げようと妖夢は努力する。反応は…返ってこない。
「………お願いですから、鈴仙さん。このままだと…死んじゃい、ますよ」
目頭に涙が浮かんでくる。それを必死に堪えて妖夢は食べてください、と鼻声で続ける。どうぞ、と箸を差し出す。
「………!」
その手が払いのけられる。
妖夢の手から離れた箸は転がり、お粥が畳を汚す。
「もう…ダメじゃないですか。ほら、きちんと食べないと…」
「うあぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声。布団を被ったまま鈴仙は妖夢に飛びかかってきた。血走った瞳は明らかに錯乱している。妖夢を戦場で出会った敵と誤認しているのだろう。
「っ!? 鈴仙さん、やめ…熱っ!?」
押し倒される妖夢。幸い、この手のことは鈴仙が白玉楼に居候し始めてからも何度かあったのである程度の対応はできた。自分の首めがけて伸びてくる腕を捕まえ、がっちりと固定する。けれど、迫る勢いは殺しきれず、妖夢は自分が持ってきたお粥の上に倒れることになった。
「っ、く、鈴仙さん…止めてください…っ痛」
服越しに背中に伝わる熱。出来たてのお粥は火から外されたとはいえまだまだ火傷するように熱い。汁が服に吸われているために余計だ。更に割れたお椀の欠片が背中に突き刺さる。しかし、それを堪えながら妖夢は襲いかかってくる鈴仙を正気に戻そうと必死に声をかける。
「うらあぁぁあっっああぁっあああぁぁぁぁぁ!!!!」
「落ち着いて…落ち着いてください…ここは、ここは安全ですから…っ!!」
力負けして鈴仙の腕が妖夢の肩口に食い込む。首よりはマシ。けれど、背中の火傷と裂傷に匹敵する痛みが走る。
「ぁぁぁぁぁ殺してやる! 殺してやるッ!!」
「くっ、いい加減に…」
流石の妖夢もとさかにきた。激しい痛みと苦しさで理性的な判断ができなくなる。頭突きで相手をひるませてから引きはがそうと考えたところで…肩にかかる痛みがなくなっているのに気がついた。
「ごめん、ごめん、ごめんなさいようむ…ごめん、ごめん、ごめんよ…」
泣きじゃくる声。ぽたりぽたりと服の上に涙の雫が落ちてくる。嗚咽を漏らし、ごめんなさいと繰り返す鈴仙。少なくともその様子は妖夢を敵と間違えるほどには混乱していなかった。
「…大丈夫、ですから」
泣く子をあやす優しさで妖夢は鈴仙の頭を抱きかかえる。
「大丈夫ですから。安心してください鈴仙さん」
なおも、ごめんなさいと言葉を続ける鈴仙を抱きかかえたまま身体を起こす。背中に刺さった陶器の破片がこぼれ落ちたとき、鈍い痛みに顔をしかめたが、妖夢はそれを無視して鈴仙の頭を撫でてあげた。
それから暫くの間、妖夢はそうして鈴仙をあやし続けた。
「お粥、ダメになっちゃいましたね。新しいのとそれと…布巾を持ってきますから、ちょっと待っていてください」
暫く経って鈴仙が落ち着いたと判断。妖夢は鈴仙を引き離して、立ち上がった。
背中の治療もしないとまずい。鈍い痛みはまだ妖夢を蝕んでいる。
「すぐに戻ってきますから…いい子にしていてくださいね、なんて」
軽く冗談を言って妖夢は襖を閉めた。鈴仙独りを残して。
「っ…痛いです、幽々子さま」
「我慢しなさい。破片が残っていたらそこから腐り始めてゾンビになっちゃうのよ」
配膳室。そこで妖夢は幽々子に背中の治療をしてもらっていた。火傷に軟膏を塗って、背中に突き刺さった破片を取ってもらっている。楊枝の先で傷口を抉り、破片を取り出しているが、流石に痛いのか、上半身裸の妖夢は顔を赤くして握り拳を作って必死に耐えている。
「けれど…あの子も中々よくならないわねぇ、妖夢」
「……はい。でも、きっとよくなりますよ」
「それは奇蹟が起きてあの子の身体が本当に元に戻るってことかしら? それとも、せめて、心だけでも、という意味かしら…?」
辛い質問を背中の方から投げかけられ、妖夢は顔を険しくした。応えるまでもなく、答は決まっている。決められている。
「あの医者の判断はある意味で正しいわ妖夢。使えない道具を後生大事に無理矢理手元に残しておくというのもそれはそれで酷な話なのよ。いっそ、一思いに棄てるのも…慈悲よ」
「………それは…そうかもしれません。けれど、だからって、そんな」
―――ゴミのように棄ててしまうのは余りに悲しいじゃないですか。
涙を流しながら妖夢は切に応えた。
「そうね。物は丁寧に扱わないと付喪神になって化けてでてくるからね」
笑って、妖夢の背中の傷がないところをぺしっ、と軽くはたく幽々子。先ほどの非道い言葉は妖夢の決心を固めるためにあえて口にしたようだ。
「まぁ、でも、化けて出てくれた方がいいのかしら妖夢的には。例えば夜に、寝室にでも」
おほほ、と笑う幽々子。なんですか、それは、とサラシを巻きながら妖夢は問い返す。
「いえ、だって、あの子、前は妖夢のことがお気に入りだったみたいだから。妖夢もこんなに頑張ってるし…そろそろ妖夢かあのこの部屋に枕返しが現れる頃じゃ…」
「そっ、そんな分けないでしょう幽々子さま!」
枕返しが何の暗喩か理解して、顔を赤くして妖夢は反論した。うふふ、と扇子で口元を隠して笑う幽々子。その体勢のまま、邪魔者はただ消え去るが定め〜何て歌いながら幽々子は消えていった。うう、とうなり声をあげて妖夢は困った顔をする。
「ま、まぁ、鈴仙さんは大切な友人ですからね。面倒を見るのは当たり前です。さ、今度こそご飯を食べてもらいましょう」
そう、誰かに言い訳するように独り言して妖夢は作っておいたお粥を温め直す作業に入った。
程なくして出来たての暖かさに戻ったお粥を新しいお椀に掬い、今度は小さな杓をつけてお盆に乗せた。
「鈴仙さん、お代りですよ。さ、食べてく・だ・さ・い・ね…え?」
元気よく、満面の笑顔で襖を開ける妖夢。
その視界に収められた物は…布団の上で白目を剥いて激しく痙攣する鈴仙の姿だった。
手元には薬を入れ立った瓶が転がっている。
中身は殆どない。
全部飲み込んだのか。
水差しが倒れて中身を散らしていた。
どんな薬も大量に飲めば毒になる。副作用のない薬なんて薬じゃない。いつか聞いた言葉が思い出される。ましてや…あれの中身の半分は麻薬だ。大量摂取は本当に命に関わる…!
「鈴仙さんッ!!」
お盆を投げ捨てて、妖夢は鈴仙に駆け寄った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これ以上生きていたくない。絶望した。裏切られた。身体が辛い。逃げ出したい。大切な人を傷つけてしまった。暗い。怖い。恐ろしい。イヤだ。イヤだ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ!!!!!!
目の前にお薬が置いてあった。
ああ、そう言えば…辛くなったらこれを飲むように師匠に言われてたんだ。
でも、師匠って誰?
大切な人って?
何も思い出せないけれど、薬が非道く欲しいことは分かった。
蓋を開けてざらざらざらざら、お砂糖のように喉に流し込む。
むせる。水があったのでそれを飲む。ごっくん、おいしい。おいしくない。
ああ、でも―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――これで死ねる。
「死なないでくださいッ!!」
否定しないで。
私はもうこれ以上、生きていたくないんだ。
「ダメです! あとちょっとしか生きられなくても…絶望しても、自分から命を絶つなんて…一番しちゃ行けないことです!!」
五月蠅いなぁ。
放っておいてよ。イヤなことからは逃げ出したいんだ。
「これ以上、逃げる所なんてないですよ! 逃げて逃げて逃げた先がここじゃないですか! これ以上何処へ逃げようって言うんですか!」
何処へ?
それは分からないけれど、死ねば次の場所まで逃げられる。少なくともこんなにしんどい事からは開放されるんだ。それで十分。
「十分な分けないです! きっと死んで地獄に堕ちてもそれでも辛い目にあって逃げるしかないようなことになるのは分かりきってますよ」
地獄なのに。
ああ、でも、そうか。あそこは非道い場所だって聞いた事がある。
じゃあ、その次に逃げてしまえば。
「何処へ逃げたって一緒です! 何処かで…耐えないと…! 絶対に何処かで耐えないとそれは結局、自分の身に返ってくるものなんですよ…! だから…ここで…!!」
耐えてください、と私の大切な人は言いました。
一緒に頑張りましょう、と。泣きながら。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「妖夢、非道い顔をしてる」
鈴仙が目を開けるとそこには涙で顔を腫らした妖夢の顔が写った。
服は吐瀉物で非道く汚れている。口の周りも。呼吸が止まっていた鈴仙に人工呼吸した結果だろう。けれど、妖夢はそれを名誉の負傷のように誇っていた。
「鈴仙さんが…死にそうだったから…非道い顔も…しますよ…」
ひぐっ、えぐっ、と大粒の涙を流しながら妖夢は応える。
「そうか、そうだよね、うん。ありがとう、妖夢。多分、私も非道い顔をしてるんでしょうね」
「ええ、非道い顔ですよ。肌は荒れてるし、髪の毛もぼさぼさ。涎とか目やにとかついたままですよ」
それは非道い、と鈴仙は笑った。つられて妖夢も笑う。
いつぞやかの関係に戻ったみたいに。
そうして、笑う相手を見て自分ももっと笑い、つられて相手も笑う。
そんな風に白玉楼では久しく聞いていなかった笑い声を二人はあげあっていた。
「あー、うん、そうだ、妖夢」
ややあって、やっと笑うのを止めた鈴仙が口を開いた。
目頭を擦り、引きつったお腹を押さえながら妖夢がなんですか、と応える。
「好きです。愛してます」
「えっ…」
そうして、唐突な告白。一瞬、妖夢は冗談の続きかと我が耳を疑ったが、自分の膝を枕に寝かせてある鈴仙の瞳は真摯で、まっすぐに、それこそ一度のずれもないぐらいまっすぐに妖夢の顔を見据えていた。
「ごめんなさい。今の内に言っておかないと死んじゃいそうだったから」
「馬鹿っ、びっくりしたじゃないですか…っ」
真っ赤な顔をくしゃくしゃにする妖夢。愛おしくって鈴仙は笑ってしまう。
「あー、うん、でも、これで心置きなく死ねるかな」
「そんな非道いこと言わないでください…!」
飄々とした調子の鈴仙の重苦しい言葉に怒りを露わにする妖夢。この人はこんなキャラクターだっけ、と眉を少し顰める。鈴仙も、鈴仙なみに告白して気分が高ぶっているのだ。
「でも、事実だし。ああ、そうそう」
「なんですか…もう」
また変なことを言うんじゃないかと、妖夢はあきれ顔で返す。けれど、内心では妖夢も舞い上がっている様子で、鈴仙の口から出てきた言葉は至極真面目な言葉に
「返事は…どうなのかな。やっぱり、すぐ死んじゃう女の子と付き合うのは…イヤかな…」
「…イヤじゃないですよ」
自分の物を重ねるという行為で自分の返答の正当性を証明してみせた。
「初めてのキス…」
「二回目ですよ、もう」
「人工呼吸はノーカウントだと思うよ」
その日から二人のお付き合いは始まった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
最初の一ヶ月で鈴仙は立ち上がれなくなってしまった。
次の二ヶ月目で鈴仙は布団から出れなくなってしまった。
けれど、三ヶ月目に入っても四ヶ月目でも鈴仙はまだ生きていた。
もう、相当身体にガタが来ていたところに、自傷するように食事も摂らないまともに睡眠も取らない発作を起こす、そんな最悪な生活とも呼べないようなことをしていたのだ。それがとどめになったのは否めないだろう。
けれど、それでも鈴仙は健気に、一日でも長く生きていようと奮闘した。
食事をキチンと摂り、できる限り運動して、心体共に負担をかけないような生活を心がけた。その身体は日に日に衰えはしていくものの、笑顔が絶えることはなかった。
偏にそれは…鈴仙の傍らにいつも妖夢の姿があったからだろう。
献身的な態度で鈴仙の面倒を見る妖夢は誰の目にも活力を与えるほど生き生きとしていた。まるで、一日でも多くこの日を楽しめるように、楽しい物にするために努力していた。
そんな二人の様子を幽々子は慈しむような面持ちで眺めていた。
もう、そろそろ終わりだとさとりながらも、決してそれを口にすることなく。せめて、明日一日だけでも、あの二人が一緒似られる時間を作ってくださいと神に祈りながら。
「今日もいい天気ですね」
「冥界はずっといい天気だけだと思うけど。雲の上にあるんだし」
窓から差し込む陽光に目を細める。それを感じているのは左の瞳だけだが、鈴仙は妖夢には伝えていない。眩しさを抑える為に翳した左腕も先端が震えている。感覚も反応も薄い。
けれど、心地よい初夏の風に乗ってやってくる愛おしい人の匂いはまだ感じられる。
すぅ、と目を細めて鈴仙は妖夢の横顔を眺めた。
「どうしたんですか、鈴仙」
鈴仙さん、とはもう呼ばない。他人行儀だから止めましょう、と妖夢の方から言い出したのだ。けれど、結局なれるまで何度も妖夢は前と同じ呼び方で鈴仙を呼んでいた。その度に鈴仙が茶化したのだが、今ではそういう事はない。
「別に、何でもないわ。妖夢の顔を見てただけよ」
「見てただけって…」
ぽっ、と妖夢の顔が桜色に染まる。何照れてるのよー、と鈴仙は妖夢の足をこづいた。
「ああ、でも、本当にいい天気みたい。死ぬにはいい日ね」
またそんなことを言って、と妖夢は肩を落とした。ことある事に鈴仙は自分が死ぬのだと、言っていた。或いはそれは常に真実なのかも知れないが。
「妖夢、あのお薬ちょうだい。師匠にもらったの。まだ…棄ててないでしょ」
と、窓を開けて空気の入れ換えをしていた妖夢に鈴仙はそんな話をしてきた。棄ててないですけど、と答に窮しながら妖夢は返す。
「あれは私の身体を傷つけてきた薬だって言うのは分かる。でも、同時に元気をくれる薬だって事も。なんだか今日は元気になりたいの」
そう、日の光を浴びながら鈴仙は微笑んだ。少し怪訝に思いながらも妖夢はどうして元気になりたいのか、その理由も聞かずに少し待っててとだけ告げて薬を取りに行った。
薬はあれ以来補充していない常備薬の箱の中へ一緒くたにいれてあった。
どれぐらい必要なのか分からないので瓶ごと水差しとコップと一緒に鈴仙の所まで持って行った。
「はい」
「ありがとう、妖夢」
身体をゆっくりと起こして鈴仙は受け取った瓶からやや考えてから二錠だけ薬を取りだし、それを口の中に放り込んだ。妖夢に注いでもらった水をもらい、それで胃まで流し込む。
「後はいらないから棄てちゃって」
「分かったけど…どうして、今日になって薬が欲しいって言い出したの?」
あの無理矢理、大量に薬を飲んだ日以来、鈴仙は薬を飲まないようにしてきた。過去のフラッシュバックはもう起こらないと思っていたし、身体の方も薬を飲もうが飲まなかろうが大して変わりがないことも分かりきっていたからだ。それが今日になって、妖夢が疑問に思うのも無理はない。
「ちょっと、したいことがあってね」
「したいことですか? お手伝いできるならなんでも手伝わせて頂きますけど」
「そう、じゃあ、さっそく、こっちに来て」
手招きされ、妖夢は鈴仙の布団の側までやってくる。両膝を畳につけてしゃがもうとしたところで、不意に顔を寄せられ、頬に口づけされた。
「れれれ、鈴仙…っ!?」
「もう、妖夢ってば、初心なんだから。もう、何回もしてるでしょ」
「それは…そうですけれど…」
気分が乗ってくればそういう事も二人はしてきた。殆どの場合、鈴仙が妖夢を誘う形だったが希に妖夢の方からも、唇を合わせることはあった。
「でも…今日はもうちょっと恋人らしいこともしようと思って」
顔を赤らめて唇を尖らせている妖夢に鈴仙は少し気恥ずかしそうに告げる。
「こ、恋人らしいって…」
想像が脳裏にいたって慌てる妖夢。顔を赤くして瞳をぐるぐる回している。ああ、もぅ、可愛いわね、と鈴仙は笑った。
「ほら…ここ…」
そう言って顔を赤くした鈴仙は妖夢の手を取り、それを自分の下半身の方へと引っ張っていった。
布団へ潜り込ませ、寝間着に着ている浴衣の隙間へ差し入れる。
「濡れてるでしょ…妖夢を…欲しがってるの」
熱く熟れていた。汗ではないことは引き抜いた指に糸が張られていたことで分かる。
「あの…でも…お体の方は…ああいうのって、激しい運動にもなるんでしょ」
俯いて顔を赤くする妖夢。それは言い訳というより、本当に心底、鈴仙の身体を心配しての言葉だった。
「うん。だからね、お薬、飲んだのよ妖夢。これで元気出るから」
大丈夫、という言葉は飲み込まれた。
それより先に妖夢が鈴仙を押し倒し、自分の唇を重ねていたからだ。
「わ、私も鈴仙としたかったんですっ! でも、鈴仙はこんなんだから無理なのかなって…だから、今まで自分で…その慰めてたんですけど…」
「そう。ごめんなさい妖夢。寂しい思いさせちゃって」
恋人失格ね、と鈴仙は寂しそうに笑った。そんなことないです、今から、その分を取り戻せるぐらい一杯しましょう、そう妖夢は応えて、どちらからともなく二人は唇を合わせた。
「ドキドキしてるよ、妖夢のここ」
「鈴仙のも…」
もどかしげに浴衣を脱がせ、自分も服を脱ぎ二人は生まれたままの姿になっていた。
一緒の布団に入り、向き合うような形で互いの胸に自分の手のひらを押し当てている。
鼓動がそこから伝わってくる。相手の自分を愛おしいと思ってくれている心も。
「妖夢っ♥」
鈴仙の方から口づけしてきた。
今までしてきたような軽いものではなく舌先を相手の口へ入れるような激しいキス。妖夢も押し返すように自分の舌を伸ばす。絡み合う二つの赤い肉。池須で戯れる錦鯉のよう。はぁはぁ、と荒い息を立てて二人は唾液を交換し合う。
「鈴仙…♥」
妖夢が腕を伸ばし、たわわな鈴仙の胸に自分の指を埋める。マシュマロのような柔らかな触り心地を手のひら一杯に感じる。鈴仙も習うように妖夢のふくらみかけの胸へ手を伸ばす。桜色の可愛らしいぽっちを優しくつまみ上げ、人差し指の腹で軽く押しつぶす。
それだけでは距離遠いのか、二人は指を絡ませあって身体を寄せた。ちゅっちゅと蜜を吸う蜂鳥のような動きでついては離れを繰り返す二人の唇。鈴仙の放漫な胸が妖夢の胸板に押しつぶされ形を変える。互いに頂の上のぽっちを合わせあい、追いかけっこをするようにぐるぐると周り合う。
鈴仙の腕が伸びて妖夢のお尻のスリットをなで上げる。汗が指先に絡みつく。そのまま指は背骨をなぞり、上へ。うなじをなぞり、妖夢の耳の穴の中へ差し入れられる。
「ひやっ、れ、鈴仙。そんなところに挿入れないで…」
「台詞違うでしょ」
はむっ、と自分が指を入れた妖夢の耳を甘噛みする鈴仙。ひやぁぁぁぁっぁあ、と妖夢は間の抜けた嬌声を上げる。
「耳、弱いみたいねってふわぁぁぁあ♥」
「お返しですっ」
鈴仙の長い兔耳を掴んで野菜を洗うような手つきでごしごしとすりあげる妖夢。甘い声が鈴仙の口から漏れる。
「…これからこうやってお互いの気持ちいいところを探していきましょうよ、鈴仙」
「うん、そうだね、妖夢」
口づけ。鈴仙は体勢を立て直して自分の足を妖夢の股の間に入れる。太腿に感じる熱い粘液。妖夢のそこは鈴仙の所と同じように濡れてひくついていた。刺激を与えるために鈴仙は足を繰り返し上下させる。
「ああっ、キモチいいです鈴仙」
「私のも…して」
妖夢の手を取り、自分の秘所に押し当てる。熱帯雨林のように茂った底の奥深く、口を開いた膣孔に妖夢は指を差し入れた。ぬるり、とした暖かな感覚。大事な人の大切な部分。優しく、労るようにそっと指を動かす。
「もっと、強くしていいから」
「はいっ…♥」
鈴仙の足の動きが激しくなる。合わせて妖夢も腰を上下させる。指の動きがそれに呼応し乱雑に動き回る。人差し指と薬指を広げ、中指と小指で膣壁を軽くひっかく。お尻を形が歪むほど強く押さえ秘裂を太腿に押しつけ、大陰口を押し広げさせる。ふわぁあ、と甘い吐息が漏れる。どちらの声か何てもう関係がない。快楽と愛を求めるために二人はもっと激しく身体を重ね合わせる。
「鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙っ♥」
「妖夢♥ 妖夢♥ 妖夢っ♥」
名前を呼びあい口づけを交わして、相手の蕾を開花させ、首筋に吸い付き、赤く染まったぽっちに噛み付き、お尻の割れ目をなで上げ、足を絡ませあい、うなじの匂いを嗅いで、唾液を交換して、流れる涙を味わって、そうして、二人は愛を交わしていく。
「鈴仙…そろそろ…」
「うん。上に…のって…」
荒い息をつく二人。お互いの位置をずらして妖夢が鈴仙の上に跨る形になる。
「いくよ、鈴仙…っ♥」
「きて、きて、妖夢っ♥」
お互いの秘所を口づけでもするように合わせ、本当の唇も重ねて、二人は一つになった。
「はぁはぁ、キモチいい…っ♥」
「ああっ、動いて、動いて…♥」
ずちゅりずちゅり。水音たてて平行移動する柔肉。歪むように形を変え、孔からあふれ出す愛液を潤滑油に滑らかに前後運動を繰り返す。そそり立った少女の小豆も互いに身を絡ませ合うように触れ合っている。会合。輪舞を踊るように円弧を描き、口づけを交わすように頭を触れ合わせ、愛を確かめるように互いに押しつぶしあう。
「妖夢…貴女に会えて、本当によかった。心の底から、そう思うわ。この四ヶ月、本当に私は幸せだった。幻想郷で、ううん、世界中で、月も含めて全部の世界で一番幸せだったわ」
「…鈴仙?」
満面の笑みでとても言葉にはできない感謝の心をなんとか拙いながらも言葉に変えて伝える鈴仙。
けれど、妖夢はその表情に一抹の不安を覚えて…
「だから、もっと、もっと強く、激しく、私を犯して…♥」
忘れるように、盛りを迎えたような激しさで腰を鈴仙に打ち付けた。
「鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙♥ 好きです、愛しています、これからも、ずっとずっと一緒にいたいです」
「私もよ。明日も、明後日も、明明後日も、来年も、再来年も、ずっとずっと愛し合ってましょ。妖夢♥ 妖夢♥ 妖夢♥ 妖夢♥ 妖夢♥」
両方の指を絡ませ合って、お互いに顔を見つめ合ったまままぐわいあう。
愛の一つの正しい形。回答ともいえるものがここにはあった。
「鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙♥ 鈴仙っ♥ イきます、もう、イってしまいます♥」
「きて、妖夢♥ 私も…イクから…一緒に…イきましょう…ようむ…♥」
「ああっー♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥」
一際強く腰を打ち付け二人は同時に絶頂に達した。
あふれ出した愛液が布団を汚すけれどお構いなし。
脱力し、上に乗っかっていた妖夢はそのまま鈴仙の身体へともたれ掛かった。
「愛してますよ鈴仙…」
告白してその頬に口づけをする。
「…? 鈴仙?」
けれど、反応はない。
余韻に浸っているのかと思ったけれどどうやら違うようだ。
鈴仙のもう開くことのない瞳からひとしずく、涙が流れ落ちる。
「……………………鈴仙」
鈴仙は妖夢の腕の中で事切れていた。
もう、心臓は止まってしまっていたのだ。
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永遠亭。ガラス越しに降りしきる雨を眺めながら妖夢は出されたお茶には手をつけず、訪問相手が来るのを待っていた。
五分ほど待って失礼します、と障子の向こうから声がかけられた。どうぞ、と応えると音もなく障子が開き、永琳が現れた。傍らには永遠亭に仕える因幡、てゐの姿もある。
「お待たせしまって申し訳ありません。急患の方が来られていたもので」
いえ、お構いなく、と永琳の言葉に視線すら投げかけず妖夢は応えた。
その服装はいつもの庭師の格好ではなく、黒い色はしているものの何処かの誰かが着ているようなブレザーだった。ネクタイも黒い色をしている。喪に、服す色。
そんな格好の妖夢を見ても永琳もてゐも何の反応も返さなかった。
無感動、というわけではない。いつかこの日が来るとずっと心構えをしていた、その結果だ。
二人して妖夢の対面に座り、真っ直ぐ視線を妖夢に向ける。
「――― 昨日、鈴仙が亡くなりました」
十秒ほど、間を作ってから妖夢はここに来た理由、その用件を簡素に伝えた。
「そう」
応えたのは永琳だけだった。
てゐは俯いて、鈴ちゃん、とみるみる間に目頭に涙を溜め始めた。
「貴女の予想より一ヶ月ほど、早かったみたいですね」
「いえ、予想より二ヶ月ももったわ。渡した薬は私の予想の倍だったのよ」
そうですか、と妖夢は応えた。今まで手をつけていなかったお茶を一口、含んだ。
「予備よ。あのことの事だから、無理に摂取しようとする可能性もあると踏んだの。実際のところどうだったの?」
「はい。確かに鈴仙は一度、あの瓶の中身殆どを一度で飲もうとした事がありました。その時は私が無理矢理吐かせたので大丈夫でしたけれど」
「ふぅん、あの子も尺定規な行動ばかりね、少しは型破りな事をしてくれればいいのに」
「では、鈴仙が貴女に言いたかった事があったとすればどうします」
「言いたい事…?」
そこで能面のように無表情を貼り付けていた永琳の顔が少しだけ崩れた。眉を顰め、唇を歪ませ、何のこと、と問い返す。
「ああ、いえ、言わなくてもわかるわ。どうせ、恨み言でしょう。まぁ、その気持ちは、わかるわ」
「いえ、『いろいろな事を教えてくれて本当に感謝してます』と『師匠は、本当に私の人生の教師でした』と」
説明的な口調。飲み干した湯飲みがテーブルの上に戻される。
「…あの子が? まさか」
「嘘が下手ですね、永琳先生。そこに伝説の嘘吐きがいるのに。いえ、嘘吐きでも騙せなかった、ということでしょうか」
「………何のことかしら。話が読めないんだけれど」
「永琳さま、もう、止めましょうよ」
それまで黙っていたてゐが鼻声で永琳に異を唱えてきた。
「妖夢ちゃんもすいません。あの…あの、玲ちゃんや貴女に永琳さまが説明した言葉は…私と永琳さまで考えた嘘、なんです」
ぽろぽろと涙を零しながら説明するてゐ。妖夢は静かに頭を振るって、知ってますよ、と答えた。
「鈴仙が言ってました。『師匠は本当にあんな事を言う人じゃないって。きっとてゐ辺りに相談してでっち上げた話に決まってる』って」
「っう、違うんです、妖夢さん。あの話は本当なんです。私はあの子を、鈴仙を自分の為に利用するためだけに助けたんです。そして、薬漬けにして自分の元からは離れられないように仕向けたんです。お遊びみたいな仕手関係もそのため。あの子は用済みになったから…貴女の所へ置いて…帰ったんです」
俯き、震えながら弁明めいた言葉を口にする永琳。てゐがなだめるように腕に触れるが、それを手荒い動作で払いのける。
「そうでないと…あの子が、あの子の人生が無意味になってしまうじゃないですか…っ」
涙を零さなかったのは何が理由か。切に、歯を食いしばり魂を削るような調子で永琳は訴える。けれど、妖夢は微笑を浮かべて言葉を返した。
「先生は嘘がへたくそですね。いえ、多分、嘘にある程度、真実を混ぜるという手法は守っておられると思いますよ。恐らく、昔、鈴仙をかくまった理由も命を助けた理由も先生の言葉どおりなんでしょう。けれど、先生、肝心の嘘の部分を私なんかに見破られてちゃ駄目じゃないですか。『あの子は用済みだった』なんて、私にもばれる嘘ですよ。本当は、先生、鈴仙を心置きなく、けがねなく、私のところへやる為にあんな酷い事を言ったのでは…?」
「違うっ、違うわっ、本当に…あの子は必要なくって…だって、私でも救えない患者なんて…そんなの…せめて…」
嗚咽交じりに否定の言葉を並べ立てる永琳。けれど、そこに説得力というものは皆無だ。あるいは自分を騙すために永琳は言葉を続けているのかもしれない。
「鈴仙が亡くなったのは先生の所為じゃありませんよ。運命、そう、強いて言うなら運命だったんですよ。彼女を助けれなかった事で先生が何か気にやむ必要はありません」
慈愛に満ちた表情で永琳に言葉を投げかける妖夢。てゐも永琳の肩に慈しむ様に優しく手を触れている。
「先生、鈴仙からの最後の言伝です」
『助けてくれて、ほんとうにありがとうございます』
その言葉は本当に鈴仙の口から言われた言葉のように永琳には聞こえた。
堰を切って涙を流す永琳。つられててゐも大声を上げて泣く。
「ごめんなさい、それにありがとう鈴仙…貴女は私の弟子の中で一番、心優しい弟子だったわ」
永琳の独白を聞いて、妖夢はそれではと、声をかけ静かに立ち上がった。もう、伝えるべき事も、やるべきことも果たした。あとは帰るだけだ。
「あの…妖夢さん」
障子を開けた妖夢を呼び止める声。振り返ることなく妖夢は足を止める。
「あの子の…お墓参りにいってもよろしいでしょうか…? あの子が好きだった羊羹をもって行きたいの…」
「はい、どうぞ。鈴仙も…喜ぶと思いますから」
目頭にたまった涙をぬぐって永琳は帰る妖夢の背中を見送った。
こうして、一人の月兎の人生が終わった。
END
全てはこの話が為の複線よ!
いえ、お話的につながりはないですけれどね。
コーヒー飲んだり、マスカットキャンディのを舐めたり、ブラッディマリィを呑んだりして書き上げました。
永琳の立ち位置を決めるために河川敷を二時間も走った甲斐があった…っ
sako
作品情報
作品集:
15
投稿日時:
2010/05/05 16:53:46
更新日時:
2010/05/06 01:53:46
分類
鈴仙
妖夢
永琳
てゐ
PTSD
薬物依存
戦争後遺症
嘘
長いのにすらすら読めて素晴らしかったです。
鈴仙・・・
鈴仙は薬中が良く似合いますね。
ハッピーエンド…ではありませんが、報われて良かった…
こんな面白い話があるから、ここは辞められないね。
私は穢れ過ぎてるのか
悲しい、悲しいけど素晴らしい話でした
皆優しい人ばかりだ……
>タマはついているのか! 付いているわけがない
不覚にも吹きました